文字サイズサイズ小サイズ中サイズ大

大海嘯見聞記  後藤生

(一)長部と米崎
 慰問使八角中将と同行で本県沿岸津波の跡を四日間に亘ってあるいて見ました。特派員、支局の記事と重複する処もあろうかと思います。その辺は御免を蒙って、気仙郡から始めましょう。実は七日午後三時半自動車で中将と私は遠野経由で気仙に向いました。宮守の山中で、私達は自動車のアト押しをさせられましたよ。気仙町の山平旅舘に着いたのは午後十一時半でした。佐々木高 署長が夜遅くまで我々のために説明をしてくれた。
    ×
 八日午前八時に、長部の災害地を訪いました。中将は二十九年の津波の時は中学三年生で、津浪見物に盛から釜石大槌とあるいた人です。よくよく津浪とは縁があるのですが私は生れて始めての津浪です。成るほど、行って見ると、大変な事です。火事の跡のようでもあり、洪水の跡のようでもあり地震の跡のようでもあります。一二軒家が横になって残って居るのもあり、家屋だけ残って居るのもある。家財道具という道具は一品もありません。土台石まで洗ってもって行っている。地震鳴神火事親父というが、津浪を入れなかった昔の人はのんきです。津浪は恐ろしきものの大統領である事を、皆サンに判ってもらいたいと思う中将は懇に、災難の見舞を云って、さて今後の事について手帳を出して書き取るのだった。自分も代議士たる以上、県に行って政府に行って、大いに皆サンの為めに力の限りを働きましょうと約束してくれます。村の人が『昨日も侍従サマ石黒長官がお出でになってこの惨状をみて下さいました。あり難い事です』と目には涙を催すのでした。この部落の流失家屋は五十三戸で死者三十七人という事でした。全く丸焼の火事と大水と、葬いに行ったようなものです。ナンと慰問をしていいのやら向うもいはず、こっちもあまり云わずに惨害のまん中に立って感慨無量であった。村の人達は、防波堤が出来たので津浪が来ても大丈夫だろうというので安心していたらしいたった十分で、生命と財産とをもってゆくのです。こんな残酷な事が世にありましょうか。
    ×
 若夫婦が一人づつ親の手を引いて家を逃げ出したが最後、手をとったままここから五六町の谷間の方におし流されて死んでいたそうです。哀れな話じゃありませんか
    ×
 気仙町から青年団、消防組、郷軍その他町の人達がやってきて、取片付けに忙しいのでした。
    ×
 高田町は、松原のお蔭で被害の跡は更に見えませんが、ただ表の上では死者二、傷二、行方不明一倒潰四戸、損害高三五〇〇円という事になっています。
    ×
 米崎村に入ります。沼田部落を訪ねると、旧知の菅原村長さんがいつもより元気がないようだと思っていると、村長さんも災害の一人であった。家こそ流れないが浸水もし、土蔵も腰あたり迄浪に洗われているのでした。地震直後村長サンが津浪が来るだろうというので家の人達に、足袋まではかせて支度をさせ、二階にあがったらいいだろうといってる中に浪がやってきた。二度目の浪がきてから二番目の子供さんが見えないのに気がついた。やられたんじゃないかと心配してると夜があけてから元気で帰って来た。山に逃げていたのだった。海岸から程遠からぬ処に小学校の住宅がある。先生が命からがらで逃げたとの事だった四十ばかりのおカミさんが、四つばかりの女の子をつれて、家のあった処をうろついていた。おろおろ声で何うして助かったか判りません、と恐ろしかった夜の事を私供に話してくれました。その際その家では親父サンが一人助かってアトは全部死んでしまった。その親父サンも、屋根の下になって死んでしまう処を高田署長が生きてる人もあろうから早く、家を片つけてくれと消防にいいつけて見たらその親父サンが半死半生でいるのでした。それで高田病院にかつぎ込み四五日で退院となったが署長も、家の人達はみんな死んだよとはよくいい得なかったそうだ尤もの事です。今でもその親父サンが大きな声をあげて泣いて居るという事でした。
 波が来たので、子供の手を引っぱりながら二階にあがって行ったが父サンと一声いったきり子供は波に浚われてしまった。
と繰り返しては号泣している。哀れな話じゃありませんか。子供を背負いながら逃げ出したが逃げ切れず、観念したのでしょう、子供を胸に抱いて、死んで居た親があります。弟をつれて逃げたが浪に追っつかれて果てた青年もあります米崎村は死者八、傷七で倒潰は柱家四納屋四四、半潰は住家六、納屋六、浸水は住家四二、納屋二五損害二万円である。まだ使用せぬ網を流されたとて村長がつかりして居た。ゼヒ農林省から補助をもらって復旧せにゃならないと決心を語っていた。
   (写真は長部々落の惨状)

知事の復興案に対する  各方面の意見

本県震水火災復興に関する県及び代議士の協議会は十二日朝上京した石黒知事の着京を待って同日午後二時半から日比谷陶々亭に開催した出席者は本県側
 石黒知事、森部警察部長、佐々木県会議長、高瀬、平井、高橋(栄)中村(佐)、村上(順)、佐々木(銀)新田、瀬川、中村(四)三浦沢田、東、柴田の各県議佐々技師 代議士(政友会)熊谷、田子広■、小野寺の四氏 民政側瀬川上院議員、武田源助の両氏
かくて石黒知事より復興案についての大体の説明があり政府との交渉日程(昨報)等に関し打合せをなし各自意見の交換に移ったがこの場合区々たる異論に捉われえず協力一致三陸沿岸の復興に努力することを申合せ一同晩餐を共にして午後六時散会した。石黒知事の復興案に対する諸氏の意見は左の如くである。

復興予算は  通常議会を通過す   熊谷代議士談

今回の震災で一番惨害の酷かったのは下閉伊郡である、而も大部分が漁村であるから一日も早く罹災者に漁具漁船をあたえ生業に就かしめたいと思って政府と大いに折渉を重ねている訳だ。復興施設はいうまでもなく国庫の全額負担を以て、是非着工して貰うよう奔走している。次に漁業組合、水産利用販売を組織し低資の融通を仰いで漁船漁具を仕入れることも結構だが漁船漁具の仕入れに関しても半額位の国庫負担を希望しこの旨後藤農相へ交渉して置いた次第である。尚十一日、民政党の幹部にも会って三陸震災の復興費は追加予算案として政府から本議会へ提出された場合、速かに協賛をあたえるよう交渉してあるので復興予算は間違いなく今後議会を通過するものと確信している。

知事案に賛成  国庫金額補助を望む   田子代議士談

きょう石黒知事から復興策につきいろいろと話されたが自分としては知事の腹案に対し賛意を表するものである。即ち今回の被害地は漁村であり応急策としては漁船漁具をあたえ住宅資金の潤滑を期し一日も早く安固として生業に就かしむべきで恒久策としては防波堤の設定住宅地の移転建設水道計画等詳細な問題もあったがこれはいずれも必要なことであり復興に関する補助の如きも出来るなら金額補助がのぞましく凶作銀行破綻等の岩手に対しては前例を破って低利資金は無利子で貸付けるよう取り計って貰いたいものである。

本県百年の  大計を樹立せよ   広瀬代議士談

わしも大体に於て知事案に賛成だ兎に角復興計画だけは区々たる小論に捉われず一刻も早く最善の努力を以てグングン進めて貰いたいものである。津波は殆んど定期的に来襲するので永久策は当然やって欲しい勿論沿岸に防波堤をつくるとすれば巨額の金も要るだろうが本県百年の大計を樹立するのは恐らく今日だろうと思う。釜石港の修築は昭和八年度から着工することになっているがこれなぞも昭和九年度には倍額に拡張子名実共に大釜石港とし津波の惨害を二度繰り返さぬよう致したいと思う。

永久施設は 其地土に応じ  佐々木県会  議長談

きょう石黒知事の説明によると大体盛岡で打合せた計画案であり大いに賛意を表している次第だ。今後は各位の御助力と政府の援助により一刻も早く復興させたいと思う。防波堤其他の永久施設はその土地々々によって適宜に対策を考究することが必要で住宅地の移転設置は石黒知事と全く同感である。

盛岡から釜石へ  逆に魚を送る   盛岡は北海道其他から入荷

東海岸震災に依り罹災地方は漁船なく世界三大漁場の三陸沖を控え全く挙手傍観の悲惨に直面している結果生魚類の大不足を告げるに至り非常に困窮している模様であるが十三日釜石町魚市場から逆に盛岡食品市場に『生魚送れ』の注文が発せられるので取り敢ず目抜きにしん、ぶり等トラック三台に積み込んで送ったが盛岡魚市場始まって以来の事である。尚盛岡へは北海道、福島、青森、小田原、静岡下関等各方面から入荷され目下の所魚類が豊富で値上がり等はないと