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御料材御貸下か  大金侍従の帰京伏奏を待ち   聖旨を体して詮議

(東電)今回の三陸地方大震災畏き辺りでは罹災者御救恤の思召を以て御下賜金の御沙汰あり更に大金侍従を御 差遣災害地の事情を視察調査せしめられているが同侍従は目下単に災害地の情況を視察するばかりでなく復興情況並びに復興に必要なる諸施設についても詳細調査中にて従来の御差遣とは趣を異にしている由である。即ち宮内省では同侍従の帰京伏奏を待って更に畏き辺りの聖旨を休し災害地 主として漁村であるためその復興に必要なる物品御下賜の詮議を進める事になって居るが目下宮内省で考慮しているのは生活を営むために必要欠くべからざる船舶を失っている点から災害罹災民に対し船舶建造費を低率にて貸与し更に場合によっては船舶建造の材料を極めて低廉にて供給せられるとの議もあるその場合には秋田、青森両県下にある御料林の御料材がこれに充てらるべく考慮されているが何れ近い中に宮内省ではこれらにつき罹災民復興に関し御内意を拝する模様である。

罹災漁民の救助に  小漁船急造に決定   本月中に第一回分千隻竣成    県資金十万円貸付

罹災地漁民にまず漁船を与えることが急務であるとし県では十日出県の沢田東両県議をも加え応急の復旧策を協議した結果差当り小舟の建造を急ぎ二回に亘り資金を県債に仰ぎ五千隻を建造するに決定第一回分は一千隻で本月中に竣成せしむべくこれに要する資金十万円は県から一隻百円宛罹災町村六十一漁組合に貸付することとし漁
業組合は建造主体となった第二回分の四千隻は四月より十月に至る七ヶ月間に建造を了する見込で小舟応急建造費総額は五十万円である。用材は函舘市から取敢ず三千石購入し之に青森秋田より積出しの交渉を開始することとし船大工は約一千余名を必要とするので県内から五百余名を狩出し一方千葉県等から所要人員を求めることとなりその人員も約五百名で水産組合の発動機船建造にも使用する船具其他部品等は県物産販売所を利用する予定である。尚漁具の復旧は新年度に入って実施する。

災害地方の  離村者続出   恐怖心から

(釜石電話)災害の甚だしかった鵜住居村両石唐丹本郷の各部落等では殆んど週期的に襲来する海嘯に恐れをなし地方に移住せんとする者続出し村当局では狼狽して喰い止めに狂奔して居る。明治廿九年の海嘯に襲われた罹災民達は被害に恐れて一時は山から山へと逃げて山の上に家屋を建てるものが多かったが十年廿年と経過して何時の間にか津波の恐ろしさを忘れた人々は茲数年来海岸近くに進出しつつあり中にはわざわざ山から海岸に下って住居を移したものも多数あり今回の海嘯に襲われたので度々の海嘯に恐怖心を抱いた町民は山に住宅地を求めて居り中には海に遠い地方に落ち延びんとして居るものも多数ある。

被害現在調べ  ゆうべ八時半発表

十日午後四時被害現在調べは八時半発表したが死亡千五百三十六名負傷七百二十四名行方不明千二十五名家屋の損害は流失二千九百五十三戸全倒壊七百十一戸半壊四百二十二戸焼失二百十六戸浸水床上二千七十三戸床下二百三戸である。

八木港一帯の  災地を視察   大金侍従一行青森へ

(久慈電話)大金侍従は十日午前十時半九戸郡長内村海岸に於て罹災者に対し聖旨を伝達後十一時半久慈町久慈湊小学校に参集の罹災民にも同じく聖旨を伝え之に対し三船久慈町長より謹んで御礼を言上した。侍従の一行は午後零時四十三分陸中夏井駅発車途中侍浜中野両駅に於て駅頭に出迎えの罹災民村民等に厚い慰問の言葉を述べ九戸郡下に於て最も惨害をみた。種市村八木駅に下車、駅に出迎えた和井内種市村長及び罹災民に対し聖旨を伝え、それより八木港一帯の災害の跡及び中野村小子内浜に臨み午後四時二十六分出迎えの多久青森県知事、神田八戸市長、矢野青森県学務部長其他と共に八木駅発青森県鮫港に向った。

聖旨を伝達

陸中八木港に於ける大金侍従は大要左の如き聖旨を伝達した。
 私この度聖旨を奉体いたし当地方災害視察をかね皆様に御見舞を申し上げるに参ったものであります天皇皇后両陛下におかせられましては今回の災害を痛く御■念あらせられまして日夜皆様の身の上安かれと念じ給うていらせられます。三陸各地の災害地を視察致しまするに其惨状甚だしくまことにお気の毒に堪えません。希くば村民協力一致速かに復興の途を講ぜられる様祈り上げる次第であります。

今夕六時帰京

十日本県の災害状況視察を終った大金侍従一行は青森県八戸市に一泊、同県下の状況視察し十一日午後六時十七分盛岡駅着常磐線上り急行にて通過帰京する筈。

第一生命の慰問

第一生命保険相互会社では震災地被保険者慰問遭難者保険金支払のため内田仙台支部長村野同社支払い課員同行九日より県下罹災地釜石大槌山田宮古田老その他各地の歴訪を開始した。

望潮楼が必要  国富技師帰京談

(東電)中央気象台の国富技師は三陸地方の震災及び津波について調査のため同地方に出張中の所九日夜帰京したが調査結果につき十日午後四時左の如く発表した。
 三陸地方に惨たる津波を起した地震の震源地は詳細調査の結果先に発表したる個所より少し沖合で東経一四四、六北緯三九、二即ち金華山の東北東約二五〇キロ釜石の東方二三〇キロの地点である事を確かめ得た。
     ○
  その余震の回数は三月四日午前九時までの三十一時間に亘って有感覚二十三回無感覚四百三十五回であって地震の大きさから云うと関東大地震と略々同様のものであるが然し地震の被害は殆どないと云って良いが津波の被害は実に惨たんたるもので宮城県地方では明治二十九年の大津波より波の高い所があった。
     ○
記録によって見ると貞観十一年五月二十六日(西暦八六九)に同地方に地震がありその後今回で十二回目である慶長からは丁度三十年に一回宛津波に襲われている訳である。
     ○
三陸海岸に津波が多く起る理由は
1、海岸一帯に外側地震帯があって一ヶ年間に平均一千回以上の地震がありその内に相当強い地震がある事
2、鮫岬から牡鹿半島まで海岸が所謂アス式海岸であって沢山の■がある即ち相当大きな湾だけでも宮城十三、岩手十一ある而もその湾が何れもその湾口が非常に傾斜のヒドイ海岸となっている事
3、地形が紡する状となっている事
而して今回の津波は岩手県下では概して明治二十九年の時に比し波が低かったのは事実だ。
     ○
津波の対策決定のためには海岸一帯に於ける湾の構造から深さ等を徹底的に調査しなければ出来ない差し当り望潮楼を作れば人命だけは救う事が出来ると思う。即ち津波は海底面の表面に起った地震に限られるもので波の速力は海の深い所では一秒間に百五十米位の速さであるが段々浅くなるに従って一秒間に十米位になるから波を望見してから海岸まで来るのは五分か十分あるから裏山へでも逃れ得ると思う。

精神復興座談
 釜石町内巡回
(釜石電話)災害の各地に色々のデマがみだれ飛び人心動揺悪化の傾向があるので釜石町では町が主催となって十日から災害地各地罹災民を集め復興相談会を開催精神的方面の復興に当る事になったリーダーには神官、僧侶、小学校長、製氷会社、青年団、町役場、漁業組合等で日割は次の通り。
 ▲第一回十日午後五時(場所尾崎神社)▲第二回十一日午前十時(只越愛宕神社)▲第三回十一日午後五時(仲町太洋製氷会社)▲第四回十二日午前十時(鵜住居太洋製氷会社)

高農生救援

盛岡高農生徒十五名は三陸震災救護復旧のため試験休みを利用して労力奉仕すべく十日県に申し出た。

輝かし初の出船  釜石のトロール八艘が出漁

(釜石電話)災害地の釜石から十日あhじめて漁船八艘が初漁に出た此の漁船は同町久喜商店所有の熊野丸一号栄賓丸、二号■賓丸、幸神丸、欣喜丸、豊臣丸、栄福丸、稲荷丸等何れもトロール船である。十日夕刻鮫■等を満載帰港した。尚釜石市場では十日から開場し先ず三日の未払いとなっている代金百円を払い出し営業を開始した。

宮城県議の醜怪  死体をステッキで突く獣行   夜は夜で大尽遊び

仙台電話)陸地方沿岸震災に対し宮城県会では慰問を兼ね実地調査のため伊丹県会議長以下県議八名が過般宮城県本吉郡下の罹災地に赴いたが右県議一行の振舞いは全くの傍若無人振りを発揮し某村では一行中の一議員は女の死体にかけた筵をはぎ取り死体の○○部をステッキでつつき人倫に反しまるで獣畜の如き。あたかも支那匪賊の如き振舞いを為し夜は夜とてことさらに被害の少ない町に至りドンチャン騒ぎを演ずる等罹災民を憤激せしめている旨十日宮城県庁に報告があった。本吉郡下は県議一行に先だつ事一日畏き辺りより大金侍従が御差遣に相成り罹災民家族を一々懇に慰問し庶民感泣して居った所だけに県議一行の醜怪なる行為は一層地方民のひん蹙を買い県当局は全く狼狽の極度にある。

貧しき女人や  無名少女など   県下より集まる救援     ×

九日午前九時半頃水沢署の窓口に年齢二十五歳位のみすぼらしい女性が一人の子供を背負って訪ずれ三陸の震災に困って居る人達に十足ばかりではなんにもなりませんが送って下さいと足袋を届出た調べるとこの女性は水沢町袋町林みよ(二五)さんとて畳四枚の処に暮らしをなしている事が判明した。
    ×
十日午前八時頃黒沢尻小学校の五六年位の女児童が黒沢尻支局を訪れマスク十八個を出してこれを三陸地方の罹災者に上げて下さいと云って名も告げずに立去ったので早速支局では本社へ送附手続を執った。
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一関青年団槻山団長外十四名は三陸沿岸罹災救援第二班として十一日午前五時二十分発大船渡線で盛署に出発するが出動団員左の如し
 北村颯、高橋長蔵、小野寺栄一熊谷清、菅原芳一、野村三郎、村井鉄三、岩淵祥三、巌井末男小野寺喜之助、日野利二、黒沢住雄、茂庭秋男、石川明

災害線を行く(A)

 田老 焦土に満ち満つ復興
 三陸沿岸でいちばん多くの犠牲者を出した田老村は宮古町から五六里北方の外洋に直面した一漁村で宮古鍬ヶ崎の次が崎山村その隣村が田老村になって居る蛸、アワビ、スルメなどの天■的漁場を控えて居て可なりの富裕な村だったらしい、村長の前県会議長関口松太郎翁が今度は町制を布くのだと言って居た矢先だった、私は田老村に次ぐ気仙郡唐丹村の惨害地を振出しに沿岸の釜石、大槌、山田、宮古の各罹災地を廻って順次北上し七日田老村を訪ねた。この日午前鍬ヶ崎の漁業組合販売所前船着き場に行ってみると今しも一隻の貨物発動機船が■を解く処だった。この船は長岡盛岡市議の令息文蔵さんの所有船で罹災地救援の為め動員されて居た。船に乗ると慰問使の中村盛岡市長、上飯坂社会主事、県の大森事務官、仏教会慰問使十舘全■師それから接骨奉仕の村久市議船越五郎氏等盛岡人の類が乗合せて居る。
船は沿岸に沿って約一時間半北上した。途中崎山村の風光は常ならばどんなに美しくも感じたろう。海抜約百五六十尺の断崖が外洋に面して毅然と聳えて居る。奇巌怪石は旅行く人の心を捕えずにおかぬところだ、然し今は海嘯の猛威に感嘆の舌を捲くばかりだ、岩石の処々に木材、板片が山と打揚げられて居る、よくもアレほど高い処まで海の漂流物をノシ上げたものだ。海面にも家財道具だの柱だの棟木などの木片が漂流して居る船のヘサキに何か引っかかって急に速力がおちた。死体ではないかと船長の文蔵さんが船員にどなる揚げてみるとソレは無残に足をもぎ取られた裁縫の裁ち板だった。この辺に船幽霊が出て漁船を海底に引きずり込むといわれる場所がある。船幽霊が出た時には船人達は底を抜いた柄杓か酒樽をボーンと船へ捨てる之は底のない柄杓ならば何べん汲んでも船に水が入って来ないから沈没しないというのなそうだ。
    ○
 田老村は外洋からみると丁度この百何十丈の断崖の歯が一枚欠けおちた様になっている処で一面の砂丘だ。村の方が海面よりも寧ろ低いと言われている。発動機船から一隻の破れ伝馬船で陸についた、慰問救援の品々が船毎に運び上げられ田老村の消防半天を着た今度の災害の避難者や、各地から応援の人々がドッコイショと山ノ手近い役場の方へ担いで行く、まだ死体があちこちに転げているのに村には復興の気が満ち満ちている。威勢よく木材を担ぎ上げて行く姿を見ると頼母しい(写真参照)浜辺から約半里行くと漸く高台の役場だ、寺の後手の高い丘に石碑が並んでいる。この前の三陸海嘯の犠牲者の墓が自分達の子供や孫達の罹災の有様を物も言わずに見下ろして居る様だ。
烏の群が豚の死骸をつついている打ち倒れた家の屋根、木の枝にからみついた布キレ、血痕のついた血まみれのガラス窓、すべてはきのうの惨禍を物語るこの世の地獄の跡。凄愴の気が流れて春の陽は徒らに侘しい、生き残った人達はまだこの地に住む未練があるのだろうか。私が唐丹村を訪ねた時この儘で家屋を建てるならば自分はもうこの土地を去るより道がないと言って私達の前に男泣きに泣いた老爺があったのを思い出した。
    ○
 田老村は海嘯だけの惨禍だけが知られているが海嘯後火事が起きて約四五十軒の家屋を焼いた死者はみんな手をふんばったり足を伸ばしたり形相物凄く死んでいる、眼は開いている、六七歳の男の子が靴下を着けゴム靴を穿き羽織の紐までキチンと結んで顔から血を流して死んでいる姿には涙を催した。中に赤ん坊を抱いたまま黒く焼け焦げて死んでいる母の姿は慰問の人々を泣かせた。(松本生)

岩手の災害は 想像以上  谷少将仙台着

(仙台電話)陸軍大臣代理として三陸沿岸の震害地を視察した。陸軍省軍事調査委員長谷壽夫少将は九日夜帰京の途中来仙したが十日第二師団司令部で左の如く語る。
 大臣には震災地の出身兵士家族の安否を非常に気づかわれているが岩手県の被害は東京に於て想像する以上のものがあった。軍事関係者の罹災者も相当多数に上ると聞いたが救護或いは整理など軍■や在郷軍人が幾分なりとも役だったかと思うと■しい同地の一日も早く更生に至らんことを祈っている。

美談二訓導

今回の災害は幾多の美談を生んでいるが大槌小学校訓導菊池忠義(三五)同校三浦きん(二七)の両先生の家屋は流失し或は浸水したが自家をふり向きもせず三日来不眠不休で罹災民の救護に活躍して地方民に賞讃されている。