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東海岸大津波後報 無気味な釜石町に  不安の一夜を送る   惨たる焼け跡、鼻をつく臭い    釜石にて 松本特派員発

 (釜石電話)三日夜の釜石町は妙に静まり返って居る、無気味な■だ。何んでも今夜十時頃また大海嘯が押寄せて来ると町民は不安に駆られている。その筋では浜辺の汐があまりに引いているので今夜九時前後までは警戒を要すると警報を発したので町民の緊張が未だゆるまず今夜は町方では恐らく何処でも徹宵して警戒することになっているようだ。全町五千戸の内一千戸は津波と火事で失った町の灯は心細いようにまたたいている。時々鉱山の鉱石運搬機の音が鉱山町に馴れない記者の耳にゴーッゴーッと響いて来る記者と中村写真班は社命を帯び三日払暁本社を出発して来たのだ。
記者達の自動車は丁度盛岡電燈の下山、竹林技師以下電気工夫の人々約三十名の自動車の後につづいて大槌町を通過し雪の深い峠を越えて遠野町に出た。途中自動車のタイヤは屡々雪にとられて空転し一同は前に立った盛電の人々の車が達曾部村で田甫に墜落し大騒ぎをした。遠野町でも三陸沿岸の災害がひどい評判になっていた。遠野で聞くと自動車で笛吹峠を越えて釜石町に入る線に途中鵜住居村の両石で断層が出来自動車が不通だとの報に自動車を捨てて遠野から軽鉄に乗り換る。駅毎に釜石に向う人々が続々集って車内は身動きも出来ず無蓋車まで利用した所謂非常時だとあって軽鉄及び釜石鉱山軌道ではこの日乗車貨半額に勉強して一般の便宜を図っていた。記者達と一緒に仙人峠越えをしたのは約五百人からの人だった実に見事なものである。中には赤ん坊をおんぶし草履ばきで難関仙人峠を突破した二人の婦人が人目をひいた。峠の頂上から遥か釜石の海が展開していた。青々とした海今朝ほどの津波をケロッと忘れたような憎いほど美くしい海洋だ。釜石に着いたら、海軍の水上飛行機が町の上空を飛んでいた。大渡橋上流付近の大渡川には無残に破壊された漁船がゴロゴロと船腹をさらしている。町に入ってゆくと只越、場所前あたりの目貫の通りから海岸通りにはガラガラと無数の家屋が倒潰している。長靴が沈むほどの泥の中を更に進むと今度は濛々たる火災の焼跡だ何んともいえない異臭が鼻を突く死者の臭いだろう残火の中に第七部の火の見櫓が聳えたっているのが皮肉に見えた若い女の人たちが泣き乍ら後片づけをしている。通りのまん中に何処から流れてきたのか二軒、三軒の家屋がゴッソリとおいてある。恐ろしい津波の威力だ。嬉石方面では五六十軒ほども押流された家屋が六七戸もあり山腹に倒壊した家屋が折り重なっていたという、災害の跡を一周したら日が暮れて、夜に入ったら気仙郡唐丹村では約四百名の死者があるとのニュースが入った。記者はこれから直ちに支局の菊池君と共に約三里の夜道を同現場に強行軍することになった(三日夜九時半釜石にて)

青い光の不思議  目撃者本社田村営業次長の談

 本社田村営業次長は折柄社務を帯びて釜石に出張中であったが大津波突発の写真を携行三日午後六時急遽帰社した。以下其談である。
 地震があったので津波でもあるんじゃないかと皆んな戸外に飛び出した浜は総出で警戒した人々は不思議な地震だとて皆んな一様に不安な予感があった。然し今の処津波が来そうにも見えなかったがそうして居る間に三時頃突然波の山が盛り上って其山から物凄い青い光を発し凄惨を極めた・・・・・・と見る間に津波だ!津波だ!逃げろ逃げろと云う声が起こり我れ先にと山手をめがけて逃げ出し子供は親を呼び親は子を呼んで阿鼻叫喚を文字通り見た裏山は急坂且つ赤土の為這って登らねばならんので後から来たものは先のものの手足にすがりつくので少し上れば又下まで引ッ張り下ろされ引ッ張って呉れ助けて呉れなどとわめきながら山をめがけて逃げ出した。そうして居る間に須賀海岸に発火の原因がわからないが火を発し警鐘がけたたましく鳴り出した。一方場所前にも火災が起り、火事だ火事だと叫んでも津波を恐れて逃げる人達は火を顧みず焼けるに任せて安全地帯を目がけて急坂をよじ登った。水は津波の為に道路に溢れて家財道具は悉く流出し非難する人達は火事処の騒ぎではないと云って命からがら裏山へ裏山へと逃げた消防も流出した。家財道具其他の手の施し様もなく燃えるにまかするより外に術はなかった津波は二三十分置き位に四五回続けて押し寄せ其度毎に避難の人達はドヨめき夜明け迄不安にかられて漸く五時半頃からボツボツ我家の安否を気づかいながら山を下りた消防は此頃から漸く専心に消火に努力したが其うちに後の場所前から只越の方に火が移り更に後ろの山に飛火し遂に山火事を起した津波の為町内に流れ出した品物は大変なもので身動きも出来ん程で信用組合の金庫は行方不明になった浜辺には死体累々目もあてられぬ惨状である。

二丈余の津波に  総ては滅茶苦茶に   家屋の下敷きとなった家族を    探し回る血眼の人々

(高田町にて佐々木特派員)気仙郡気仙町長部港は全滅の惨状で家屋という家屋は殆んど見る影もなく倒壊し茅葺きの屋根や屋上一ぱいに石を乗せた屋根が地べたに■っている。二丈余の津波で何もかも滅茶苦茶に破壊された。整理するにも手の下しようもない程で顔を泣きはらした人々が恐らく圧死したであろう所の兄弟や家族を捜しているのか。
 涙をそそる。二十一名の死者を出したが未だ七名の死体が発見されぬ。惨死者のうちには一家四名揃って即死した櫻井禎■三(二二)妻センヨ(一九)母コマチ(五〇)祖母トヲ(七〇)及び熊谷ガン(六五)同キン(三)■(六)キノ(八九)の二家族があった。高田松原では浩養舘の福田キヨ(四〇)リヨ(一七)の一家三名が波にさらわれて未だリヨの
 死体が発見されぬ。隣村の米崎村では全壊十戸、半壊六戸を出し菅原定右衛門一家では祖母ユリ(六〇)妻ウメノ(三六)長男定喜(一二)長女タマ(七ツ)次男正夫下男小松勇の六名が家屋の下敷となって惨死し定右衛門のみは倒潰した家屋の梁の下となり約三時間も身動きも出来ずうめいていたのを村民が救い出した。尚同村の
 菅原久之丞の祖母スセ(八〇)庄平長男菅原敬喜(三ツ)等の死体も発見された。高田、気仙両町の町方には少しも被害がなかったので各種団体が総出動で善後処理救済等に徹宵努めた。

命拾いした二人  悲惨な避難を語る

◇(高田町にて佐々木特派員)大船渡線蛸の浦に出張して大難に遭った気仙沼町海産物商伊藤幸右衛門氏は高田町で語る。
 私の泊ったうちでは一家四名惨死した私が津波だというので戸外に飛び出した時は既に波が押寄せて来ていて私は水面から頸だけ出して一生懸命落着いて居るうちに山根に打揚げられ幸い助かった商用で取立てた三千円も無事身について居たし全く夢かとばかりに喜んで居ます。
◇(高田町にて佐々木特派員)気仙郡広田村は被害少なからず倒潰戸数百五十戸を越え之等は全部木葉微塵に打ちひしがれ死者四十六名を出だした命からがら広田村から高田町に避難して来た宮古町鍬ヶ崎魚商本田政之助氏は其の夜の惨状を語る。
 私は橋本旅舘の二階に泊っていたが昨夜二時半頃凄い地震に驚いて起きた然し地震が静まってから又床についた所三十分も経つか経たない所に津波だと云うので飛出して助かった惨死した人々の中には随分金をとりに帰って金を抱いた儘死んだものが多かったと云う銀行の破綻から金を家に置いたのでこれ等の災難を招いたのだとも云われている逃げる途中私の足下に赤子の泣き声がするのでよく見ると十六七歳の溺死した女が二つ位の子供を背負って倒れていた。

尾崎神社  発火す   間もなく焼尽す

(釜石電話)三日午後八時二十分頃一部焼け残りの釜石町尾崎神社から火を発し焔々と燃え上ったので大騒ぎとなったが間もなく焼け尽くしてしまった。

防寒藁  附近から徴発

沿岸罹災地方面では食糧に不足を告げているが是にもまして三月の寒さと東風にこごえている罹災民に対しては全力をあげて衣食品の配給に当っているが到底罹災民に均■した寝具の救護をなすことが出来ぬので先ずこれに代用するものとして藁を使用することが緊急であるとし附近災害をあまりこうむっておらぬ町村から藁の徴発をなしこれを救護支部の手を通じて各罹災村民に配給することとなり四日午前零時五十分各救護支部に通知した。

不安は去る  福井測候所長の談

福井盛岡測候所長は三日午後六時今後の観測に就いて左の如く語る。
 大激震後二三分おきに絶えず余震が続いたが其の後次第に鎮静して今は二三十分くらいに極軽微なものが地震計に響いて来る位で次第に終息しているから心配することはないと思う。津波も地震が起らない限り危険はないと思われる。唯一二回身体に感ずる程の余震はあるかも知れないが別に不安を感ずることはない。目下震源地並に原因を調査中だが一両日中に判明する筈。

魚粕乾燥の三少女  哀れ死体となって   判明した宮古地方

(宮古電話)その後判明した宮古町の被害状況左の如し。
光岸地通り豊島きえ(三四)は死体となり藤原海岸に漂着し同町小林三次郎妻女某は流材の下敷となり足部骨折となり宮古病院に入院手当て中同町平井文助は流材の下敷となり足部負傷の高浜海岸に魚粕乾燥の為め出張宿泊中の高浜長五郎(二八)佐々木つや(一七)伊藤りさ(一九)砂子はな(一五)は何れも死体となって発見された。宮子町徳井安太郎氏はじめ粕五百表流失同蔦幸商店でしめ粕六百俵流失、鍬ヶ崎物産倉庫会社では魚油千三百貫流失、貫洞義朗氏所有漁具置き倉庫流失、被害者中の内で同町の慈善家染谷大助氏は製板工場全部を焼失され非常に同情されてる。

悲惨な県北

(久慈電話)九戸郡種市村海嘯の惨状は九戸沿岸中最も甚だしく流失家屋五十三戸倒潰九戸浸水四十一戸に上って居る死亡者は九十九名に上り中二十八名の死体は発見されたが其他は倒潰家屋の下敷となったり流されたりして目下捜索中である一家全滅の不幸をみた家族は五戸あり舘市岩次郎一家五名川原木清次郎家族五名、山陽寅蔵一家七名、新田三五、一家七名、橘セン母子二名等で舘市方に下宿して居た一戸小学校田村次郎小原寅太郎の両訓導も一家と運命を共にした。
(同上)八木港工営所に出張宿泊し泊り合せた県土木課渡辺幸太郎技手、和賀小平太の両氏も行方不明であるが恐らく溺死したものとみられて居る、種市村役場では八木駅前工藤旅舘に救護事務所を設け救済に当って居るが救助を要する罹災者は百九十名である、尚漁船の流失は二百余艘倉庫百二十棟余損害も大きい見込みである。
 八木港港営所の書類は全部流失し今後の事業復興に支障をみるものと非常に憂慮されて居るが県土木課渡辺幸三郎技師は目下久慈町に出張であるが偶々同姓の渡辺幸太郎技手が種市村■港に主張し行方不明になった所から誤伝がある模様である。

駆逐艦到着

午後九時半久慈よりの情報によれば駆逐艦二隻は沖合に到着しているが波浪高く危険なため陸地に近づく事が出来ない。

沿岸吹雪す  水上機の報告

霞ヶ浦航空隊では乙式水上偵察機二機を沿岸地方に急派し三日正午には釜石方面を偵察し塩釜に帰還し四日は更に宮古方面を午前中空中より視察することとなっているが三日は午後から沿岸災害地方は強烈な吹雪となり海岸には激浪おしよせている旨盛岡連隊区司令部に通知をした。

宮古の惨状 染谷工場の倒潰 上空より視察  内務省の飛機帰還

内務省石井、増田両事務官は三日朝羽田飛行場を出発午後零時七分仙台に到着石井事務官は列車で罹災に赴いたが増田事務官はそのまま飛行機で上空から釜石方面の罹災状況を視察し即日飛行機で東京へ帰還した。

朝日機不時着  機体損傷なし

釜石電話)三陸地方海嘯惨状写真撮影のため特派された東京朝日新聞社飛行機一機は三日午後一時十五分頃釜石町中妻河原に不時着した機体及び乗員には損傷なし原因はラヂエーターの水が切れた為である同所は狭いため飛行機は使用する事が出来ぬ。

金剛講義金修行

盛岡金剛講では三日夜から三日間海嘯義金修行をする。

弘前留守隊の  出身兵帰郷   家族の衣食を携えて

三日午後五時半弘前第八師団留守令部から県に
留守司令官の思召により在弘部隊被害地出身兵全部を帰郷せしむ(午後八時出発の予定)
入電ありその際帰郷兵に家族の食糧三、四日分と毛布三枚を携行せしめ又石黒知事より依頼の防寒衣として外套シャツ四千人分毛布四千人分を発想したる旨電報あった。

第二師団より  工兵派遣要請   輸送機関に手が足りずと    更に陸軍自動車も

盛岡衛戍司令官は県震災応急救護本部の要請により先ず救済の第一は輸送機関の完備にあるとしているが盛岡工兵隊留守隊では手が足りないので第二師団宛災害の状況を委細報告した後第二師団工兵一中隊を災害地、道路、橋梁復旧のため急派せられたしと要請の電報を四日午後零時四十五分に打った。

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救護本部では四日午前零時頃各救護支部からの情報を基礎にしてその救済方法を協議しているが第二師団工兵隊一中隊の派遣が実現され道路が復旧すれば陸軍省に衛戍司令官の手を通じて五十台をもって編成される陸軍自動車隊の派遣を要請し輸送に遺憾の点なからしめる計画である。

警備に付く

三日正午出発した盛岡衛戍司令部罹災救恤隊より三日午後十時半衛戍司令部宛左の如き報告あった。
 (井口中尉発於盛町)午後六時到着直ちに携行品の配給に着手す将来兵力増加の必要を認めず目下不足し在る物資は寝具、食料品、この附近公衆電話全く不通大船渡附近に位置して警備に任ず
 (梅崎中尉発於遠野)午後六時到着、釜石、鵜住居方面大なる動揺あるものの如し、糧食は困らざるも防寒具、寝具布団に請求相成たし、なお携行物資は当地において殆ど配給しつくしたり
(加藤中尉報告)三日正午災害救護に向った騎二十四の加藤中尉は三日夜宮古につき直ちにその状況を救護本部に報告して来たそれによれば宮古以南は物資割合に豊富のため同方面に向けた救護品は配給を要せずと認め田老方面の配給は緊急を要すると同大尉の携行品はカンヅメ、毛布、外套等である

将校以下派遣

盛岡衛戍司令部にては左記の通り被害地に将校以下を派遣して出征軍人家庭の救恤状況監督に任じ且つ毎日特に軍人家庭の詳細を報告せしめ救恤に万全を期する。
 ▲中村中佐 高田町、盛町、越喜来村、吉浜、唐丹各村
 ▲小松大尉 釜石町、大槌町
 ▲江口大尉 山田町、宮古町
 ▲俵 大尉 小本村
 ▲高橋大尉 久慈町

本社の救援自動車  今暁宮古方面へ   白米、衣類其他食料品を満載して    各地に第一回配給

東海岸大海嘯の惨禍は予想以上に達しているので本社では率先県民各位の同情心に訴え逸早く義捐金品の募集に着手した所寄贈金品は陸続我が社宛寄託され一刻も速かに罹災者救助を希望しつつあるので県物資配給機関と密接なる連絡を図り協力一致の実を挙げ救援機関としての一方面を担いその責を果すべく三日深更準備を整え四日白米三十俵、衣類五百余点、ナショナル電気ランプ百個、醤油等食料品、下駄百五十足等の慰問品を高橋佐太郎氏の厚意による同氏所有自動車二台に満載し宮古方面に向った。尚この第一回救援物資の配給は全滅の悲運に陥っている田老村を始め宮古、山田、大槌、鵜住居各町村に県配給機関の指示を受けて行うことになった。

三陸災害義捐金{三日本社扱}

金五円日影門ライト写真館 二十四銭内丸岩手女師附属五年生一■ 学用品同 三円市内大通関連■洋服店 一円上田小路澤田由松毛布その他北山光台寺 五十円新馬町東北■■会社 三円鍛冶町長澤屋本店 四円七十銭内丸公会堂多賀一同 衣類その他荻窪省三 五円川原小路杉立義郎 綿入三十枚単衣十五枚紺屋町斎藤旅舘 五十円仙北町浜藤酒造店 一円仁王■町山崎善一 五円紺屋町菊池きよこ 五十円紺屋町浜藤支店■口市兵衛 五円馬町関口喜兵衛 十円八十銭鉈屋町浜藤支店従業員店員一同 ■本材木町宮田書店 一円二十銭同同店員一同 衣類その他毘沙門通七賓屋吉田亀吉、同吉田金次郎、仁王小路吉田■蔵、金一円 市内上田小路澤田由松

釜石救護状況 釜石署午後九時発罹災者救護状況

一、罹災者人員 三万一千二百八十四人
二、収客の状況 罹災者は各町村共小学校寺院に収容明日よりバラック建に取りかかる見込み
三、負傷者の手当状況 負傷者に対しては釜石町は鉱山病院、釜石町立病院、水野医院、三郡共立病院、赤十字救護班の五ヶ所に収容手当中
四、死亡者の処置 消防組自警団遺族らと協力死体の捜査に努め発見次第検見の上遺族に(遺族不明の場合町村役場)に引渡している
五、救護品要数 味噌五百貫目明四日中に配給せられたし

日赤救護班

赤十字支部では救護班第一斑を急派後更に第二班を送り又山田及び小本方面にも一斑を送り九戸八木方面にも五名の救護班を急行せしめた。

臨時列車運転  涌き返える  盛岡駅

三日早朝東海岸大震災の報伝わるや同地方に親戚縁辺を持つ当市の人々や鉄道沿線の県民はリュックサックに甲斐甲斐しく武装を固め見舞いと救助のため山田線岩手軽鉄等を利用して続々罹災地方に赴くがこれがため花巻駅並びに盛岡駅は非常時的大混雑を極めているが就中盛岡駅は県当局の救恤物資発送、罹災地出動の衛戍各隊の出発等のため物凄い混雑を呈しているがこれ等主として救恤物資の輸送は一刻も早く罹災民に配布の絶対的必要あり従って一刻の滞貨も許さぬ状況につき盛運にては三日午後六時十五分盛岡駅発臨時列車を山田線に特発して物資輸送に任じ罹災者救恤に便宜をはかった。

旅費欠乏

(東電)岩手県財政逼迫のため救護班、警官の旅費欠乏し活動意の如くならず内務省に請訓あり内務省では即時承認四千円三日午後郵送

郵貯非常払い

盛岡郵便局では沿岸大災害の報に依り直ちに仙台逓信局と連絡をとり沿岸各地の被害局の復興を図り通信機関の回復をなすべく各係官を急派して善後処置を講じた尚釜石、釜石鉱山、泊浜、田老、綾里平井賀、盛、野田の各局に対し三日午後郵便貯金の非常払い保険金の非常貸出断行すべく命令した。

救護に努力

釜石電話)県庁から釜石町に急派された救護班は忠実に奔走しているが差当り四日朝白米五十五俵、布団五百三十五組、毛布九百枚を盛岡、花巻その他各地から急送して釜石、大槌、鵜住居、唐丹各地の罹災民に配給し更にドシドシ救恤品を集め救済に万全を期することになり三日夜徹夜で準備進めた。
釜石電話)梅津花巻町長三鬼軽鉄社長福地前釜石署長諸氏は三日救済のため来釜した。

各署別罹災状況午後七時現在

Array署別    家 屋
     流失    倒壊    浸水      計       焼失    死亡   負傷    行方不明
釜石   八五九   四七七   四、〇〇〇   五、三三六  一七一    四一七   五四     三二
宮古   八四四    四一     二五八   一、一四三   四〇    六〇六  一三二     一四
久慈   二一五    二六      五一     二九二   —      四五    三     九三
岩泉   二八二    一三      九六     三九一   —      九七   四三    三一九
盛    二五三   四一四     六三九   一、三〇六   —     二一五   四四    二三八
計  二、四五三   九七一   五、〇四四   八、四六八  二一一  一、三八〇  二七六    六九六