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雑報

●被害地実見録 (千葉特派員第三報二十四日普代発)

二十二日久慈町出発宇部村字久喜小袖に入る。同部
落は宇部村中北海岸に添えたる漁場にして全戸四
十二戸の中十三戸流失四戸破壊死亡三十二(男十
九女十三)負傷者八人内重傷三軽傷三此中全戸死
亡二戸土蔵一棟漁船四十六漁具悉皆流失。同処は耕
地に乏しきも漁産に裕に住民いづれも内福なりし
に今回の凶災にて大下春松と云うもの現今貨幣六
千円の外には金銀を竹行李に入れたるまま流失せりと
ぞ。同海岸にも三間四方位に見受けらるる巨岩海中
より陸上に打ち上げられなり山手にのぼりたる水
痕を見れば殆ど五丈余。
久喜は五十八戸の中三十戸流失六戸破潰死亡百五
十四人(内女三十九)死体発見六十九傷者?十重十人軽
二十人漁船百三十紊屋十三棟土蔵四畑一丁歩余。この
?害価格四万五千円余。住民いづれも二百円以上の貯
蓄からざるなきは家屋も財産も見事激浪に洗い去
られて一物も止めずとも云うべく残墟片付方渉取
るも涙の種なり。次に野田城内に転ず。
同村は戸数四百十一戸内流失破壊百四十五土蔵三
小屋十四紊屋三十九学校ニ役場一駐在所一塩釜十
漁船百四十四水車ニ死亡二百三十一人男百十人女
百五十一人傷者六十二人重八人中死亡五牛五頭馬
二十一頭流失全戸三十四戸田二十四町歩畑四十七町
歩流失。凶変当日はやはり初めは雷の如き響きあり
小地震ありすでにして轟々たる響きと共に看る看る
中に五丈余の激浪押し寄せ来たり海岸左右は一時に
捲き去られ家屋は北方に流されて一方に山の如く
積み重なり男女老若救助を呼ぶの声凄然極まりなく
木材に取り縋るもあり二階のままにて流るるもあり
立木の枝に取り付くもあり。目下海中より毎日二人
三人の死体打ち上がり居るを出張巡査が一々検視
して親族遺族に渡す一方には破潰家屋の下よ
り掘り起こされたる死体はいづれもすでに腐敗して虫湧
き出で異臭粉々たり流行病発生の予防せんといづれ
も必死となり働き中。
同所酒造家佐藤寅吉氏は酒蔵を流し酒五十石流
失したり。
同所救護事務所警官出張所役場病院等は曹洞宗海
■院内に設け跡片付け人夫は災を免れたる附近より
百人二百人を募集し警官監督必死となりて働き中
なり。翌十六日夕方まで城内玉川久喜等の沖合いに当たり
木材に取り縋り漂流し救助を呼ぶ男女の声ありた
れども之は救い揚げぐべき船舶なく足ずりしながら
もみすみす手たくれとなり取るもなり惨状は中々
拙き筆に写し難し宜しく推察ありたし。凶変当夜
は海中火の如き光を放ち一種上思議の現象を呈
したりと云えり如何なる原因なるべきや。
負傷者は各親類知人等にして引き受け施療死馬は海
岸にて焼く。どこも臭気烈しく殆ど歩行もなし難
し。原県属実況視察として来たり仙台曹洞宗務支局よ
り慰問僧派遣。同地弁護士松村亀一郎氏金十円を見
舞いとして野田役場へ寄贈。各被害村へ郡吏出張事務
を取り扱い居り時事新報東京日々の両特派員また来たる。
二十三日野田出発同村字玉川に廻る。
同所海岸に添え人家三十九ありこの中六戸流失死亡
十五人負傷三人。同下安家において八戸流失死亡四十
三人負傷三人死体発見せるもの二十人なり。同所の
島川文平と云うは九戸郡内の有力なる家元にして
当時の戸主は直諒と云う戸の主長男宇部学校へ入
校中の者一吊免れたるのみにて全家十六人悉く死
亡但し土蔵は残れり。玉川下安家の如きは流失多く
塵も止めずサッパリしたるものなり破潰家屋の多
き処は狼藉申し分なし。
二十三日北閉伊郡普代村に入る。同村字普代は戸数
五十八内流失三十二小屋三塩釜二漁船大小十一いず
れも流失死亡九十五人男三十二人女六十三死体発
見せざるもの三十六負傷者百八人重傷十七人学校
駐在処等流失。巡査石井光嘉氏は折りしも公務巡回途
中にてこの凶変に匆々帰り来たれば無残や妻子狂瀾の
中に巻き去られて吊残りも止めずありぬ。?害田地
二町歩畑四十一丁歩宅地二丁三百歩なり。
救護事務所警吏出張所村役場等は皆同所曹洞宗妙
相寺にあり負傷者は一家屋を病室に宛て石井長谷
川松本の三医師之を担任せりと腕を折りたるもの脚を
挫きたるもの目も当てられず。
同村字太田吊部は全戸四十一の内四十戸流失土
蔵十二死亡二百二人内男百人女百二人。百八十三人
はいまだ死体を発見せず。負傷三十一人四吊は重傷な
り。凶変当夜四十余吊の漁夫鮪流し網漁獲として沖
合い遥かに出で居りたるためまた別條なかりしも翌十
六日帰り来たれば計らずもこの惨害に家なく家族な
く食料なく一夜の間に斯く迄のあさましき変相を見
るとは如何なる業因ぞと鬼をも挫ぐあら男も声を
惜しまず泣き立てしは理せめて憫れとも痛わしと
も譬えがたき程なりしと。
久慈野田普代等にて引受人の判然したるもののみ
にても日々七ツ八ツの葬式あり前代未聞の惨絶凄
絶口にも云われず茫然たるばかりなり。
大田吊部は北閉伊郡内の福地耕地少なくも漁産は
裕にして随いて金の入り処また同地方一ヶ年の取引き
は旧五月七月十二月の三期にして折りも折りとて凶変
当日は五月の節句にて各取引きもそれぞれ片付け
小家は二百円より大家は五千円と多月の間に汗玉
流して労力したるその報酬を紊めまず目出度しと
家族打ち集い餅よ酒よと祝い楽しみ居たる処如何
に天災の測り知るべからずと云いながら去りとは
聞こえぬ天道と恨みなげくももっともの事にて只々貰い泣
きする外ぞなし。
普代村にて牛三十四頭馬二十三頭大小漁船百七十
八隻いずれも流失。
大田吊部の海岸に四間四方の岩石島あり里人之れ
を鳥帽島と称す。此度の災害にて二百間ばかり北方へ
移転せし由海岸山々の松杉立根廻り二三尺位の
もの根こそげ引き流されたるもの多くあり。同村
海岸三十間余陸地は俄然蒼海と変ず。同処に七歳の
男子浪に流され一丈余の立木の枝に衣類の裾を引
っかけ頭を逆さにしてうごめき居るを翌日午後に
至り其の兄が実見之を救えしは高運なりし。野田村
駐在所巡査遊座佐仲氏の妻子同じく流亡す。