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地 震 と 津 浪 を 究 明

わが國地震学界の權威である京大敎授地球物理学敎
室の西村英一理学博士は十一日以來縣下の震災地を
觀察中であるが十九日午後縣に山本土木部長を訪れ
て部長室でつぎのやうに語り「再び大地震がくる」
などのデマは科学的には全く根據なきものであるこ
とを言明するとともに津浪にさいしての統計上から
みた敎訓などにつき多大の示唆を與へた
地震學界權威者 西村英一博士

地震について わが國
の地震研究は地震國であるだけ
に世界各國の絶對追随をゆるさ
ないものであるがこれを歴史的
にみると承平十六年に大地震が
あり、それから百三十七年たつ
た明應七年、さらに百七年たつ
て慶長九年十二月十六日、また
百七年隔てゝ寳永四年の十月四
日駿河、信濃、四國、九州、房
總半島へかけての大地震があり
富士山に寳永山ができるほどの
大地震もあり、このときには土
佐には八丈の大津浪があつた、
それから百四十七年たつたのが
安政元年十一月四日の安政大地
震でそれから九十年たつたのが
今回の遠州灘を震源地とする大
地震である
それ以來關東の大震災も被害
は大きかつたが地震としては
今回の地震とは比べものにな
らず、先般の鳥取などは大地
震とはいへない、したがつて
統計上からはまづ大たい百年
内外で大地震が起るといふこ
ともいへないが、しかし安政
の大地震が十一月四日の午前
東海道一帶にかけて死者六百
倒壞數万の犠牲を出した明く
る日の午後 震源地を 異にす
る地震が紀伊、南海地方に起
つて 死者三千、倒壞 數万と
いふ犠牲を出したといふ事実
があり

〝再び地震來る〟は
科學的に根據なし
これをみるときは百年間隔説は
必ずしも妥當ではないわけで地
球の實體が何であるかといふこ
とは未だに究明することのでき
ない問題である以上結局現在の
地震學は何故地震が起るかとい
ふことも究明し得ないしまた地
震を豫知することもできないが
たヾ震源地といふものは點的な
存在ではないことについては認
識を新たにする必要がある、ま
た地震の強弱は震幅の大小のみ
にはよらず、時間との關係によ
つて強弱がきまるわけで今回の
地震も京都では震幅二十センチ
となつたが縣下の北牟婁郡尾鷲
町では五センチであり、震幅の
みならば京都の方が大きいわけ
だが急速にやつてきた尾鷲町の
方が遙かに大きな地震になつた
わけである
津浪について 津浪は
全世界の統計からみるとき必
ず三十分以内に生起してをり
今回の地震による津浪も決し
てその例に洩れてゐない、結
局津浪の危險を避けるために
はすぐに避難をすることが肝
腎で三十分以上一時間も經過
して津浪の來ないときはまづ
ないものといつてもよいこと
が統計上からは云へるわけで
ある
津浪の高さは沖にあつては殆ど
判らないが安政の大地震のさい
は米國のサンフランシスコで十
二時間後に五寸程水位が高かつ
たといふ記録がある、しかし津
浪の被害は必ず狹灣に限られて
ゐるものであつて例へば伊勢灣
といつた大きな灣に對して津浪
は生起するものではない、狹灣
に水が押されてくるとき水位が
高まつて津浪となるのであつて
結局津浪の生起する地域といふ
のはある條件をもつ土地に限ら
れるのであつて今回の罹災地に
もある古老が建てたといふ津浪
止の石なども信用するに足るも
のであることがわかるであらう

怖 ろ し き デ マ 敵國の謀略に乘るな 吉田特高課長 縣民に要望

震災や敵機の頻襲によつて
飛んでもない流言を飛ばし延い
ては被災地の復興努力に墟隙を
つくりしらずしらずの間に敵の
謀略戰術に陷つて戰爭完遂への
一億結束の足並を紊すやうなこ
とがあつてはならないとデマの
完封を要望して吉田縣特高課長
は縣民に自重を要望してつぎの
とほり語つた
◇…震災や空襲の被害よりも怖
ろしいものは姿なきデマであ
る、それは聲であるだけに傳
播も早くしらずしらずの間に
恐ろしい害毒を流すからであ
り、ひいては敗戰思想をはび
こらせることになる、さらに
惡いことは敵米英の神經戰に
乘せられることによつて日本
人自身が日本を敗戰に追ひや
るといふ利敵行爲となるので
ある
◇…過般の震災によつて罹災地
方では天の試煉を克服して撃敵
復興に全力を傾注し涙ぐましい
ほどの力強い歩みを顯現してゐ
るが「再び大地震が來る」 「ま
た大津波がやつてくる」などの
根も葉もない流言を飛ばし、と
くに南勢、中勢地方の比較的災
害のすくないところに傳播され
た事實があり、すでに一部は處
斷をみたものもあるがこれらは
大切な生産、復興努力に間隙を
つくらんとするものであつてた
とひ惡意をもたないにもせよゆ
るし難い行爲である
◇…縣としては地震、津浪の
のちにくるであらう流言の止
指導については至嚴な取締を
行つてをり、もしこのやうな
流言にまどはされて自己の持
塲を離れ結局敵の思ふ壺に陷
るやうなことがあるとすれば
前線で身命を賭して戰つてを
られる將兵に對して全く恥し
い次第であり、この際飽迄も
冷靜な態度で百二十万縣民各
自がデマを粉碎する氣持ちに
なり切つてわき目もふらぬ聖
戰完遂へ突進していたヾきた

流 言 に 惑 ふ な 津市翼壯が團員に要望

敵機の頻襲と災害によつて民心
に動揺があつては大變である、
歳末から新春にかけていよいよ
決戰に對處する市民の心構へを
かため簡素強力な必勝生活を實
踐しようと津市翼賛壯年團では
團員を通じて次のやうに呼びか
けた
◇…敵機の來襲による被害に對
し針小棒大の作爲言動をつゝし
みあくまでも貧小の信念を堅持
し當局の指針に信賴すること
◇…地震、津浪に對する流言蜚
語をつゝしむこと
◇…警報發令の頻度になれて敵
■輕視の態度および神經衰弱的
行動をつゝしむこと
◇…軍需生産の增強は一刻もゆ
るがせにすることが出來ない
工員援護の活動を活にする
こと
◇…食糧對策は現下の國内士氣
に多大な關係がある、あらゆる
障害を克服して麥增産に努力を
傾注すること
◇…國内保有物資の戰力化をは
かるため回収、供出など全幅
的に協力その成果を向上せし
めること
◇…特攻隊抑募、生産增強突撃
隊を■抑して鬱然たる國民的士
氣による神風捲起をはかること
◇…年末年始の行動をつゝしみ
敵に乘ずる隙を與へないこと

津市の常會

廿三日午
前十時より開き災害復興對策の
件その他について協議ののち災
害情況、必勝常会實施状などに
關し聽取、一月の常会徹底事項
の下達、疎開援護運動の強化、
貯蓄增強等について協力を要望
する

尊い先人の努力

安政の津浪の古記に見る
北牟婁郡地誌(野地義智編)
に尾鷲浦の安政度の海嘯に關
する古記があり當時の庄屋が
如何に率先して罹災者の救護
に當つたかを窺ふことが出來

當時の大庄屋土井八郎兵衛
より直使を馳せ舊藩の役所
へ事情申立られたれば銀十
貫七百九十一匁五分と錢三
百八十貫二百匁、家木料と
して尾鷲組十四ケ在へ御救
助下され又大庄屋役土井八
郎兵衛より米三十石と荒布
六百貫目余を救助したれば
一時糊口を凌ぎしなり、而
して當時の大庄屋を始め庄
司肝煎組頭の者四ケ月間許
りも日々巡回して取締をな
し追々假住居をして職業を
操る事を得、遂には家屋を
建並べて現今姿とはなれり
とあり、また万延元庚申年の
不況生活難澁の時も土井八郎
兵衞氏より米二十三石、土井
忠兵衞氏、土井藤右衞門氏等
役頭が自家米を難民救濟にあ
てた事蹟あり、復興四ケ月巡
視取締の先人の功績を記して
ゐるのも今回の震災につぐ海
嘯と對照して非常に示唆され
るものがある

寒 鰤 の 回 游 に 紀北の漁塲活氣づく

震災被害で危まれた紀北の鰤ど
ころも漸く復興とともに漁塲の
敷設が可能とされ、地方民の歡
喜はこの上もなく、魚浦の人々
は家事を捨て打網準備に全力を
あげる、早くも九木浦二■、桂
城村島勝浦が張り込みを終り、
來るべき寒の大群■游泳に一擧
にして凱歌を奏せんと手ぐすね
を引いてゐる
その他の漁塲も順次張り込み
を開始する見込みで大過一掃
後の紀北漁民の增産熱意が賴
母しく發揮されてゐる

殉職警官の榮譽 加藤吉津署長と堀江巡査 全國初の二階級特進

警察官として全國にその前例の
ない二階級特進が今回の震災に
際し警察官魂の權化となつて尊
くもその職に殉した前吉津警察
署長加藤六一警部補と前南牟婁
郡新鹿村駐在堀江武雄巡査の兩
氏のうへに■いた、加藤警部補
は既報のとほり去る七日強震と
ともに襲來した大津浪の災害に
對し管内罹災避難民の救濟など
應急活動に陣頭署員を督勵中再
び襲ひ來つた津浪のため倒壞し
た廳舎の下敷となり頭部と胸部
に重傷を負ひながら指揮にあた
るうち十日夜つひに殉職したも
のであるが、この功績に對して
内務省では十日付をもつて異例
にも二階級を進め地方警視に任
じ、また村民の避難救護に務め
るうち津浪のため妻子四名とと
もに職に殉じた堀江巡査の功績
に對し縣では殉職當日の七日付
をもつて同じく二階級を特進警
部補に任命することとなりいづ
れもこの旨二十日發表した
縣ではさらに兩氏に對し警察
官最高の榮譽である警察功勞
賞の下付を申請中である、な
ほ、葬儀は持永知事喪主、後
藤警察部長葬儀委員長となつ
て各本籍地で嚴粛な警察葬を
執行する

兩警官の事績

二階級
特進の榮に輝いた兩警察官の事
績はつぎのとほりである
【故加藤警視】 一志郡大三
村字二本木の出身、大正十三
年七月本縣巡査を拜命、四日
市署を振出しに松阪、宇治山
田署を經て縣情報課勤務とな
り十四年八月警部補に昇進、
十八年五月吉津署長を命ぜら
れ今回の地震に際し身に重傷
を負ひ昏醉状態となるもなほ
署員、罹災民の上を思ひ入院
を拒否して病床から指揮にあ
たりつひに十日午後八時五十
分附近民家の二階で殉職した
ものである、享年四十一
【故堀江巡査】 飯南郡花岡
町字■部田の出身、大正十五
年二月本縣巡査を拜命以來津
渡切、天ヶ瀬、三瀬谷、の各
署を經て十九年三月木本署勤
務、新鹿村兼荒阪村駐在所勤
務を命ぜられ今日にいたつた
もので津浪襲來を察知し家事
一切を妻女に委し部落民に避
難を連呼しつゝある路上にお
いて激浪にさらはれ一家四名
とともに悲壯な殉職を遂げた
ものである、享年四十八
泗市參事會 四日市市
では二十日掉尾の市參事會をひ
らき物資需給諸費、時局對策應
急施設費など戰時特別費二千七
百円ほか九千六百六十一円の第
十一回追加豫算を決定した、こ
れで一般会計の豫算累計額は三
百六十二万五千二百九十六円と
なつた

衣類一萬二千枚 第一次分 尾鷲町へ發送

本社らの提唱にかゝる震災罹災
者への寄贈衣類は鈴鹿市がトツ
プを切つて一戸平均一枚で一万
二千百三十二點の取纏めを終つ
たので縣災害復興本部から發起
人側へはかつて十九日まづ北牟
婁郡尾鷲町へ發送の手つヾきを
とつた、鈴鹿市の分は
男物千五百三十三點、女物二
千二百八十七點、子供用五千
二百十五點、その他三千九十
七點
で相當立派な衣類もまじつてを
り隣人愛の美心が遺憾なく發揮
されて以る、その他の分につい
ても逐次取纏めの終つた分から
配給してゆくが目標は二十四万
點を集める計畫で罹災者には一
人につき津浪による流失あるひ
は全壞には七點、半壞、浸水家
屋などへは三點ぐらゐづゝ當る
はづである

罹災地に縣營住宅 縣が急速に建設

今回の震災罹災者にたいする住
宅の提供は緊急を要するので縣
震災復興本部では廿日軍事厚生
課の平田、長井兩事務官を班長
とし勞政、林務各課の關係職員
をもつてする調査班二班を派遣
度会、南北牟婁の關係各町村へ
赴いて町村長、地方事務所長、
警察署長ら立会の下に現地で即
決で縣營住宅の建設方針を決定
し縣緊急工作隊を直接指揮して
數日中に相當數の住宅を建て罹
災者に一日も早く便宜を與へる
こととなつた、この縣營住宅は
急速バラツク建ではあるが世帶
別に建築することとなつてゐる

紀北の復興 順調に進捗

紀北地方の津浪に
よる流失跡の復興状况はきわめ
て順調に進捗、町内会隣組の勤
勞奉仕隊を編成、罹災者も自か
ら奉仕隊員として參加挺身して
町復興本部の指揮配置により倒
壞家屋の取り除き、流失物の選
別奉仕や罹災者に對する万腔の
隣人愛を示し全町一體となつて
連日流汗して麗しい建設の歩を
進めてゐる

鄕 土 短 信

神 罹災者に世帶道具寄
贈 中島町永田庄三郎
都 さんは金五十円、火鉢
三、どんぶり三十個、建具二十
八本、古タンス三本、古クギ一
貫その他十余點を災害者へと十
九日市役所へ寄託

北 長島町からも義捐ぞ
牟 くぞく 紀伊長島町に
婁 寄せた震災義捐金は既
に一万余円に達してゐるがその
中には自家の被害を顧みず率先
五百円を出した旅館業中村熊次
郎氏、三千円を出した町会議員
小久保春生氏などの篤志も含ま
れてゐる

度 罹災敎職員に見舞金
都敎育会では申合せに
會 より震災地の吉津、島
津兩村各國民学校の罹災敎職員
に見舞金を贈呈することになり
郡内各國民学校敎員から一円五
十錢宛醵出する、なほ右のほか
に各校学童は草履をつくつて贈
ることになつた

震災義捐金寄附者芳名 二十日正午現在

一万円 津市川喜多久太夫
一千円 津市三宅勝吉▼五千円
津市川喜多四郎兵衛▼一千円縣
製麺業統制組合理事長林杢兵衛
▼三百円 (一人分)

累計金
十九万三千三百七十六円五十錢

震 災 罹 災 者 へ 寄 贈 衣 類 募 る

去る七日本縣を襲つた震災は相當な被害があ
り罹災者の窮状洵に同情に堪へないものがあ
ります、これが救助の一端に資するため縣民

實施期間 十二月三十一日迄

の義心に愬へ寄贈衣類を募ることになりまし
た、婦人會と靑少年團が頂きにまゐりますか
ら縣民各位の切なる御同情をお願ひします
主催 縣 市 長 會、縣 町 村 長 會
翼賛會縣支部、伊勢新聞社