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 「ツナミ」という国際語ができてから五〇年になるが、環太平洋で三陸沖の津波活動はきわめて活発である。三陸の浦々には防潮堤が築かれており、初めて現地を訪れた人々は、陸中国立公園の美しい景観とは対照的に巨大な構造物に目をみはるであろう。
 一八九六(明治二九)年と一九三三(昭和八)年の三陸津波は、それぞれ二万二○○○人と三○○○人の水死者を記録した。三陸沿岸の寺院や道路脇に、津波の犠牲者を葬った供養碑が建ち(写真1)、また「地震があったら津波の用心」といった標語を刻んだ記念碑がある。しかし、地震の前ぶれもなく、太平洋をはるばる伝ってきた一九六○年のチリ津波は太平洋沿岸全域を襲い、とくに三陸沿岸に甚大な被害をもたらした。
 三陸沿岸は大小さまざまな湾が入り組み、津波の受け入れやすいリアス式海岸であることはよく知られている。加えて、三陸沿岸は南米から伝播する津波に対して直角に向いており、またカムチャッカ・南千島の津波は海溝ぞいに伝播し、関東から島弧が東西方向に折れ曲がる西日本よりも、津波が効果的に入射する地理的条件のもとにある。
ここでは三陸地域を対象に津波の一般的なことを紹介し、最近の現地調査をふまえて津波災害の特性を示そう。

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写真 写真1 田老の常運寺境内にある津波供養碑(左:1896<明治29>年津波、右:1933<昭和8>年津波)

津波の規模

 津波の規模(マグニチュード、m)は、波高の大きさと影響範囲によりm=4から−1の六階級に区分され、理科年表に表示されている。たとえば沿岸の波高が一〇メートル級で、三〇〇キロにわたり顕著な被害を与えた一九三三年の三陸津波がm=3である。
また貞観・慶長・明治の三陸津波はm=4とみなされる(1)。津波の規模が一ランク上がると、エネルギーは五倍(波高にして二・二四倍)になり、最大級の津波のエネルギーは10^23エルグのオーダである。
 津波の大きさは、地震のマグニチュード(M)にほぼ対応する。目安として、Mが七程度の地震では沿岸で五〇センチの津波が観測され、M七・五ぐらいで二~三メートル、M八をこえる巨大地震では五メートルの津波が広範囲に伝わり、局地的に二〇メートルの波高に達する。
 津波の規模は、その発生源である地震断層の長さと海底の垂直変動量に左右される。津波を伴う地震では、断層のすべり面の角度が二〇度ぐらいの低角の逆断層の場合が多い。しかし、地震の長周期波の記録解析から、一九三三年の三陸地震は断層のすべり面が四五度の正断層であった。また、一八九六年の地震では、沿岸の震度が二~三程度の弱震で、マグニチュードが過小評価されたが、長周期波の振幅はきわめて大きかった(2)。この二大津波は、例外的な地震の断層運動によって起こされたのである。津波予報に際し、初期の地震記録から、これが大津波を伴う地震であるのか、発震機構の判定が予報精度を左右する。

波源域の分布

 津波の伝播速度は水深のみに依存し、重力の加速度と水深との積の平方根で表せる。したがって、沿岸各地の検潮器で津波が観測されると、発震時から津波の初動までに要した伝播時間をもとに、海図上に逆伝播図を作図し、最終波面を結んで波源域が推定される。このような方法で各地の観測データをもとに、明治中期から現在に至る八七年の間に、日本近海で起こった津波の波源域が解析されてきた(3)。解析の結果を整理して、図1に三陸から関東に至る海域における波源域の分布を示す。
 この八七年間に、三陸沖では大小各種の津波が折り重なるように起こされた。マグニチュード七以上の浅い地震に、例外なく津波が検潮器に観測された。沿岸に被害を与えた津波の波源域は海溝付近に横たわり、小津波のものは水深二〇〇〇メートル以浅の浅海域に多く分布している。プレートテクトニックスの立場でいえば、太平洋プレートが海溝付近で沈みこみ、その上盤のアジアプレートが大きくはね上がり、陸側に向かって地震が深くなって海底の変動量が小さくなる。
 波源域の大きさは、地震のマグニチュードとよく対応する。その長さは、M八程度の巨大地震では二○○~三○○キロ、M七・五の地震では一○○キロ、M七・○程度の地震では五○キロぐらいである。また、波源域の広がりは余震域とほぼ合致し、震源域(地殻の破壊域)とみなせる。震源断層モデルの解析には、地震記録とあわせて津波の観測データが有用な情報を提供している。

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図1 最近87年間(1896~1982年)に起こった津波の波源域分布

津波の周期特性

 津波の周期は、十数秒の風浪と異なり、一〇~六〇分の長周期波であることが特徴である。したがって、沖合が大きくシケても波一つたたない湾奥の港内に、波が減衰することなく侵入し、海底を洗掘し、市街地に遡上する。
 明治・昭和の三陸津波は周期一〇~一五分の波が卓越し、綾里・吉浜では一五~二〇メートルをこえる波高に達した。津波被害が小型のV字型湾奥に集中したのである。その反面、大船渡・宮古湾など固有周期が四〇~四五分の大型湾では、湾口で七~八メートルの波高が湾奥で二・五~三・五メートルになり、湾形とその大きさが津波災害の明暗を分けた。
 ところが、周期五〇~六〇分の波が卓越したチリ津波では、三陸沿岸の被害分布が逆転した。かつて大災害を受けた綾里・吉浜などでは、津波被害はきわめて軽微であったが、大船渡・志津川湾などの大型湾では、湾口から湾奥にすすむにつれて波高が増幅し、五メートルに達した。まさに、チリ津波は港湾の周期特性を見直す津波であったのである。
 一九五二年のカムチャツカ津波においても、チリ津波の場合と同様に、近地津波と異なる周期特性を示したことが、記録を見直してわかった。図2に、縦軸に波高の二乗値をとり、横軸に各湾の固有周期をとって示すと、固有周期が四三分付近に大きなピークがみられ、ついで二○分付近に小さなピークなっている。カムチャツカ津波は、三陸沿岸で平均海面上二~三メートルの波高を記録し、二メートルの波高のところで床下浸水をだした。そのほか漁船の流失や沿岸の水産施設を破損するなど、チリ津波に先がけて災害をもたらした遠地津波であった。
 明治・昭和の三陸津波ではこれとは逆に、固有周期が一○~一五分の港湾に波高のピークがみられた。このように、三陸沿岸では津波に対して安全といえる港湾はない。いまやV字型の湾が津波の危険域であると、強調する研究者はいないだろう。
 そのほかに、波の屈折・回折によって波高が増幅され、岬付近は波高が大きくなる。たとえば、牡鹿半島沿岸ではチリ・カムチャツカ津波で大きな被害を受けた。また、一九六八年の十勝沖津波のときも、周辺の地域より二倍ちかい五メートルの波高が測定された。北海道のえりも岬や銚子付近も大きな波高を記録した例があり、岬付近は屈折効果で波高の増大する要注意域なのである。
 アラスカ地震や新潟地震において、地震前後の海底の測深から、地殻の垂直変動は大きいところで四~五メートルと報告された。このような変動の測地例は少ないが、最近津波の数値実験で、沿岸各地点の観測波形から波源の垂直変動量と、変動パターンが計算できる。その数値解析によれば、明治・昭和の三陸津波ほどの大津波でも、海底の垂直変動量は二~三メートルと見積もられている。波源から伝播する津波は、沿岸で五~六倍に波高が増幅される。

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図2 1952年カムチャツカ津波における港湾の固有周期と波高の二乗値との関係

陸上での津波挙動

 陸上に遡上した津波は、「海の壁」のようだった、海鳴りがして強風が吹き出し、家が地震のようにゆれた、と三陸津波を体験した田老町の古老たちはいう。波高が一〇メートルぐらいになると、流速は毎秒五メートルをこえるらしく、陸上に上がった津波をみてからでは逃げきれない。しかし、波高が四~五メートル程度の被災地を調査すると、通常の潮汐を早めたように「潮がジワジワ盛り上がってきた」、という状況を聞くことの方が多い。
 一九三三年の三陸津波の調査によれば、津波の高さと家屋の被害との関係は次のように報告されている。(一)地上二メートルの浸水で木造家屋は倒壊し、二階建は階下が倒壊して平屋のようになる。(二)一~一・五メートルの浸水で多くの家は半壊する。(三)山ぎわの家屋は二・五メートルぐらいの浸水でも倒壊を免れ、河川流域では一・五メートルの浸水で流失したとある。建物自体の強度や、船舶・流木の衝突などもあって破壊現象は複雑であるが、家屋の被害はかなり地形条件に左右されることを示している。
 一九四四年東南海・一九四六年南海道津波において、津波の高さが平均海面上三メートル以下の場合では、家屋の破壊率(全壊・半壊・浸水家屋を合わせた津波の被害総戸数と、全半壊戸数との比率)は、二〇%以下であった。しかし、津波の高さが四メートルをこえると、破壊率は急激に上昇している。
 最近、市街地に遡上する津波の数値実験の手法が開発された。
その解析結果を立証する遡上データが少なく、この種の現地調査資料が要望されていたが、ごく最近、我々は数個所において市街地の浸水高の分布を詳しく測量してきた。次に岩手県大船渡市における調査例を紹介しよう。
 前に述べたように、細長い湾奥に位置する大船渡では一九三三年の三陸津波において一人の犠牲者もなく、周辺に比べて被害が軽微ですみ、津波に対して安全な地域と思われていた。ところがチリ津波では五二人にのぼる水死者をだし、家屋の破壊率が七〇%をこえ岩手県下で最大の被害に見舞われた。その時の最高浸水面を示す標識が市街の二十数個所にとりつけられ(写真2)、市民の防災意識にアピールしている。
 港に面した魚の加工工場・倉庫内には黒々とした重油が一線につき、浸水域内の家々の壁に潮のシミが残り、二三年を経過した現在でも、チリ津波の浸水痕跡は生々しく各所に残っている。これを手掛かりに、精度ある浸水高の測量ができたのである。図3に大船渡の市街地と、盛川を挟んだ対岸の赤崎における津波の高さの分布を示す。なお津波の高さは、東京湾中等潮位面(平均海水面とほぼ同じ)を基準に示してある。大船渡では、地盤高が五メートル以内の地域に浸水した。
 チリ津波は、五〇~六〇分というきわめて周期の長い波が卓越したのであるが、浸水高は各地点でかなりバラつき、津波が一様に市街地に盗れたのではない。崖の根元では局地的に五メートルに達したが、その付近の流失家屋は少なく、津波の高さが四・五メートルであった築港付近に被害が集中した。遡上の数値実験によれば(4)、築港付近の流速は毎秒一~二メートルであるが、崖の根付近の流速はきわめて小さく、定常波のようにふるまった。また盛川の河川敷では、毎秒四メートルに及ぶ大きな流速が示された。
 家屋の破壊は、地上からの浸水高と流速の二乗値の積で表す水流圧力に左右されると考えられる。先に示した遡上の数値実験をすすめ、大船渡市街の水流圧力と家屋の破壊率との分布を対比すると、きわめて高い相関を示した。破壊率が六○%をこえた海岸から一○○メートルの範囲の市街地では、水流圧力は三・○~八・○m^3/sec^2になったことがわかった。

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写真 写真2 大船渡におけるチリ津波の浸水潮位置を示す標識
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図3 大船渡・赤崎におけるチリ津波の高さの分布(平均海水面上、単位m)

むすび

Array チリ津波後、各地の防潮堤は延長・整備され、港に通じるゲートは観音びらきの鉄門があり、最近のものは女性でも手動できるレールにのった横開きに改良されている。また、綾里港では橋が半回転して水門に早変わりするタイプのものもあり、町々の防災施設は多様である。
 一九六八年の十勝沖津波では、防潮堤が効果を発揮した。加えて建物自体も昔のものより強度を増し、土台がボールトで結合されているから、四メートルの波高のところも家屋の流失はみられなくなった。しかし、多数の漁船が流失・破損し、湾内一面に広げられた養殖水産施設の被害はきわめて大きかった。
 三陸沿岸では住民の津波に対する意識が高く、避難訓練もしばしぼ行われ、行政から防災の本も出版されている(5)。その反面、津波を無視した新築の家が港付近に建ちはじめた。三陸津波の体験者も年ごとに少なくなり、一○メートル級の津波はこの五○年間にないこともあって、悲惨な災害記録は風化しつつある。当時の集落が高台に移転したり、また家が建て替えられて、古い家はほとんどなくなり、津波の痕跡を探すのが難しい。現地調査にあたって、三陸津波は歴史津波になった感がある。
 近年、三陸沿岸では都市化がすすみ、港内に石油タンク・貯木場ができ、船舶も著しく増加してきた。津波によってこれらの施設が破壊し、船舶が市街地に遡上すれば、津波災害は昔の比でないであろう。防潮堤は一〇メートル級の津波の試練を受けていない。また、港湾海域に養殖水産の投資も大きく、二~三メートルの津波でも影響を受けやすい環境になっており、津波が多様にふるまうことを忘れてはならない。現地の巡検にあたって、各種の防潮施設、浸水面を示す標識をはじめ、津波来襲時の状況や被害記録を細々と刻んだ浦々の津波碑をみて欲しい。     (東京大学地震研究所)

〔参考文献〕
(1)羽鳥徳太郎(一九七七)歴史津波—その挙動を探る—イルカぶっくす 一○ 海洋出版
(2)Kanamori,H.(1972)Mechanism of tsunami earthquakes.Phys.Earth Planet.Interiors,6,346-359.
(3)Hatori,T.(1969)Dimension and geographic distribu-tion of tsunami sources nearJapan.Bull.Earthq.Res.Inst.,47,185-214.
(4)相田 勇・羽鳥徳太郎(一九八三)大船渡に遡上した津波の数値実験 地震研究所彙報 第五八号(印刷中)
(5)たとえば田老町教育委員会(一九七一)防災の町 一一九ページ

地理 第28巻 第4号 抜刷
1983年4月