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 宝永・安政東海南海道津波の史料をもとに、静岡から高知県に至る沿岸各地をまわり、津波の高さ、浸水域の広がりなどを調査した。これら歴史津波の挙動を1944年東南海・1946年南海道津波と対比して、その特性を述べる。

1.はじめに

 宝永(1707年)・安政(1854年)津波における東海・南海道各地の記録は、日本地震史料(武者1951)にかなり収録されているが、紀伊・四国地域に比べて、静岡・三重県沿岸の記録は比較的少なく、東海地域のこれら歴史津波の挙動はごく最近まではっきりしなかった。これまで、熊野灘から御前崎までに至る遠州灘の区間と考えられていた震源域が、明治26年静岡県の安政地震の手書きの報告書が発見されて、駿河湾奥にまで伸びていた可能性が認識されるにいたった(羽鳥1976)。そして、東海地震の再発が社会問題にまで発展したことは周知の通りである。
 これを契機に、静岡・愛知県自治体をはじめ、大学などの研究者によって宝永・安政地震津波の古記録が勢力的に収集整理されてきた(例えば都司1979;飯田1979)。これらの記録のなかには、津波の高さの手掛かりになる具体的な記述や、地震史料・地方誌に集録されたことのない新たに発掘された史料も多く含まれている。
 これらの史料をもとに、筆者(羽鳥1977)は、まず静岡県沿岸各地の津波の高さ、浸水域の広がりなどを数回調査してまわった。その後、三重・和歌山県、四国地域と碩次現地調査をすすめ(羽鳥1978a,b1980)。各地の市町教育委員会から提供された新たな史料を加え、宝永・安政津波の検討を行なってきた。
 戦前、和歌山・高知県下の主な地域について、宝永・安政津波の調査があり、このとき広・浦戸などの地点で10mをこえる波高が報告された(和歌山県土木課、1938;今村1938a,b)。しかし、これらの記録を1946年の南海道津波の挙動と比べると、かなり過大に評価された疑いをもつ。以下に各地から収集した記録を整理し、現地調査をふまえて宝永・安政津波の特徴的な挙動を述べてみたい。

2.津波碑・波高の調査

 津波調査の基礎となったものは、日本地震史料や地方誌に収録された各地の津波記録であるが、そのほか近年発掘された未印欄の古文書がある。今回の調査で、三重・和歌山県下の各市町教育委員会から、古文書・地方誌などの多数の津波史料が提供された。これら文書類の記録のほかに、現在、各地の浦々に被災当時に建てられた津波碑が多く残っている。第1図は、筆者が現地で実在を確認した津波碑の分布を示す。これが、最近5年の間に、数回、区域を分けて現地調査した範囲である。
 津波碑の多くは寺院の境内にあり、犠牲者を葬った供養碑であるが、人目につかない道端の片隅にひっそりと建つものがあって、激しい津波に襲われたことを偲ばせている。また、津波の来襲状況、避難の心得をこまごまと刻んだ町の文化財に指定された記念碑、津波の浸水潮位を示す標石もある。そのタイプ・大きさはいろいろで、碑文は地震史料に収録ずみのものも多いが、今回の調査で見出した津波碑もある。つぎに、その2~3を紹介しよう。
 第2図は、徳島県靹浦(ともうら海部町)にある慶長9年(1605年)と宝永4年(1707年)の津波碑を示す。大岩の中央には慶長津波、その右側に宝永津波の碑文が刻まれている。慶長津波は房総・東海・南海道の広域に大被害を与えた記録があり、二つの巨大地震で起こされたとみなされている。一つの波源は房総沖か東海沖かはっきりしないが、もう一つの波源は1946年の南海道津波の挙動とよく似ていることから(羽鳥1975)、南海道沖であったことに間違いない。大きな自然石に刻まれた慶長津波の碑文は、かなり磨耗しているが、「高さ十丈、大きな波7回、100余人が海底に沈む」、と読みとれる。第3図は、伊豆下田の稲田寺にある安政東海津波の石碑を示す。「つなみ塚」と記され、120数人にもおよぶ水死者の供養に、被災直後建てられたものである。
 津波の高さを正確に理解するのには、津波がどこまで漬ったか、という具体的に記述された記録が望ましいが、これには、よく寺院や神社の石段何段目まで潮が上ったという記録が各地に残っている。多くの人の目につきやすかったからであろう。第4図は、1例として徳島県浅川(海南町)の観音山の石段に、「津浪襲来地点」と刻まれた石杭を示す。下段の杭Bは1946年津波の潮位面を示し、これより2.3m上段に安政津波の杭Aが建っている。浅川では1946年津波の高さは4.5~4.9mと測定されており、安政津波の高さは7mちかくに上がったことになる。
 そのほか、浸水域の広がりを近年の津波と比べて、津波の高さが推定できる。第5図は、伊豆下田における3回の津波の浸水域を示す。1944年東南海津波では、稲生沢川の流域にわずかに溢れ、津波の高さは1.6mと測定された。1923年の関東地震による津波では、それより広範囲に溢れ、津波の高さは2.3~3m
であった。安政東海津波の波先は山の根に達し、市内全域が浸水した。山の手の数個所の寺院には浸水痕跡をのこし、市内20個所の商家の土蔵などに浸水高1丈何尺といった記録があって、その場所も最近の調査で大部分がつきとめられた。そして、これらの記録から浸水高が測量され、稲生沢川の流域では津波の高さは平均海面上4m、山ぎわでは6m(地上から3m)にも達し、市街地内の波高の分布がわかってきた。被害状況は、河川流域で多くの家が流され、山ぎわの寺院・神社は大きな波高にもかかわらず流失を免かれた。河川流域の津波の流速は速く、流木や船舶などの漂流物が猛威をふるい、山の手では津波は定常波性の振る舞いをしたことを考えさせる。
 以上、各地の調査から、宝永・安政津波の高さを推定したものと、被災直後に地震研究所・気象庁・水路部によって調査された1944年東南海・1946年南海道津波の実測値(平均海面上)をまとめて、第1表に示す。

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地図 第1図 東海・南海道津波の供養碑・記念碑の分布
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写真 第2図 徳島県鞆浦にある慶長・宝永南海道津波の供養碑
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写真 第3図 伊豆下田の稲田寺にある安政東海津波の供養碑
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写真 第4図 徳島県浅川の津波浸水潮位を示す石杭、A:安政津波、B:1946年南海道津波
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第5図 伊豆下田を襲った津波の浸水域

3.波高測定の基準と信頼度

 近年の津波では、波高を測定する対象物は、陸上に溢れた津波によって泥・油などが家屋・構造物に付着した痕跡である。この浸水面を手掛かりに、ハソド・レベル、巻尺を用いて東京湾中等潮位(または平均海水面)を基準に津波の高さが測定されている。また,津波が護岸に達しなかったところでは、住民から最大潮位面をききこんで測定が行われてきた。痕跡の明瞭度や、測定点が海岸から遠く離れていたり、静水面のつかみにくい砂浜では誤差がともないやすい。したがって、測定値の精度もいろいろで、よい条件のもとでも10cm程度の誤差は免れない。最近の津波では、測定値の信頼度をA,B,Cの3段階ぐらいに区分して報告されている。
 各機関で行った1944年東南海・1946年南海道津波の調査では、波高測定の基準面は統一されてなく、満潮面からの測定値の報告があった。第1表には、平均海水面を基準に補正を加えた津波の高さが示してある。
 なお、おなじ高さの波をとっても、その状況や測定点の地形、たとえば河口とか崖に面したところでは、波の性質は大幅に変り(進行波,重:複波,段波など)、津波の高さや流速に差異が生ずる。一般に河口付近の津波の高さは、周辺のものに比べてエネルギーが発散して小さく、山のつけ根では波が斜面をかけ上がり、反射波が重なって大きな値になる。
 さて、歴史津波における各地の史料は、主に被害状況を中心に記録され、浸水潮位の手掛かりになる具体性ある記録は比較的少ない。しかし前にも述べたように、寺院の石段何段目まで浸水したとか、どの地点では潮が漬らなかったという記録もある。このような場所では、現在の平均海水面を基準に、ハンド・レベルで津波の高さを測定した。そのほかに、浸水域の広がりや被害の状況を近年の津波と比べ、波高推定値もデータに加えた。これには、明治24年ごろ発行された2万5,000分の1の地形図が、むかしの海岸地形を理解するうえで、きわめて有効であった。
 安政の東海・南海道両津波の記録は、比較的多く残っており、浸水潮位の手掛かりになる具体的な記述も多い。しかしながら、宝永津波では記録数は限られ、推定波高値の精度が安政津波のものより劣るのはやむえないことである。宝永津波の史料のなかには、たとえば和歌山県の新庄、高知県下の種崎・久礼のように、津波が海面から10m以上の峠を越えて隣りの湾に流れ出たとか、神社は流失を免れたという記録がある。そして、従前には10m、あるいは20mをこえる波高が推定されてきた。しかし、このような場所の地形を現地で調査し、近年の津波と比べたり、しかも近隣の地点でそれほど広域に潮が上がっていないなどから、特定の地点が数倍も上回る波高は、長周期波の津波であるので考えにくい。また、「浪高何丈」といった記事のみで、具体性を欠く記録は、その浪高の値をそのまま鵜のみにしないで、被害の程度や周辺の状況から推定した波高値を示した。
 宝永・安政津波の挙動を近年の津波と比べると、個々の集落では大局的に、被害の傾向や波高分布のパターンが似ている。しかし、大阪湾沿岸における宝永・安政津波の挙動は、1946年の南海道津波と比べて著しい差異がみられた。これは後章でさらに解説してみたい。

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第1表 各地の東海・南海道津波の高さ(単位 m)

4.東海津波の波高分布

 静岡県沿岸各地の安政東海津波の記録をもとに、津波の高さの測量値(羽鳥1977)をまとめると、波高分布は第6図のようになる。駿河湾東西両岸では、津波の高さは4~5mのところが多いが、湾奥東部の内浦湾沿岸の波高は異常に高く、6~7mに達したことが認められた。重須・多比の集落(現沼津市)はこの津波で大半が流失したが、山ぎわに安政当時の家がいまも2~3現存している。津波の最高潮位はこれらの家のカモイにある神棚に上がったことが記録され(家が山ぎわにあって、流失を免れた)。信頼性のある測定値が得られたのである。
 一方、湾奥西部の清水方面では、三保半島の先端付近の砂洲が津波で欠潰し、集落内に津波が流れこんだ。ふるい地形図を参照すると、津波の高さは5~6mに推定される。しかし清水市内では、巴川流域の地盤高3mほどにある数個所の寺院に住民が避難したことから、波高は平均海面上2.5~3であったと思われる。遠州灘沿岸の集落には、河川から津波が侵入し、大浜町で腰たけぐらい潮位が上がった記録がある。津波は砂丘をのり越えることはなかったようであり、波高は4~6mに推定される。
 調査の結果、静岡県沿岸では1部の地域をのぞくと、波高はかなり一様に分布したことがわかった。また、遠州灘沿岸では「波は誠に平穏にして、油を流したる如し」といった記録があることから、安政津波は長周期波が卓越したとみなせよう。1944年の東南海地震では、静岡県下は激しい地震動に見舞れ、太田川・菊川流域で大被害を受けたが、津波は1.2~2mの波高にとどまり、たいしたことはなかった。
 このように波高分布は顕著に相異し、駿河湾西岸域で1~1.5mも地盤が隆起したことから、安政東海津波の波源域に熊野灘から駿河湾奥にまで伸びた見方が、一層明白になったのである。なお、宝永東海津波の記録は、静岡沿岸地域でその後、新たに発掘された史料は少なく、確度ある波高の比較はむずかしいが、安政津波の場合と大差なかったようである。清水付近では安政地震のときのような地盤隆起はなく、むしろ港付近は地震で護岸が欠潰し、しばらくの間、風浪の大きいとき潮が陸上に溢れたという。遠州横須賀・御前崎で1mほどの隆起があったことから、宝永津波の波源域の東端は、駿河湾口どまりを考えさせる。
 一方、三重県沿岸における各津波の状況はどうであろうか。現地調査の結果を整理すると、波高分布は第7図のようになる。熊野灘沿岸は湾のいりくんだリアス式海岸で、波高が増幅されやすく、新鹿付近ではその都度、局地的に10mの波高に達し、大きな被害が繰り返えされてきた。波高分布のパターンもそれぞれ、よく似ている。ここで注目すべきことは、伊勢・志摩沿岸の状況である。1944年東南海津波では、この地域で2m程度の波高にとどまったのに対し、宝永・安政津波では6~8mにも達した。両津波は各集落奥にまで侵入した記録をのこし、いまもこの地域に多数現存する安政津波碑が、この事実を物語る。
 1944年東南海津波の波源域は、各地の検潮記録から解析された結果、熊野灘から浜名湖沖にかけた南海トラフぞいに推定されているが、宝永・安政津波ではさらに遠州灘を北東方向に伸び、伊勢・志摩沿岸に津波エネルギーが集中したのである。駿河湾奥にまで伸びた安政地震の震源断層モデルを想定した津波の数値実験(相田1979)は、本調査で得た沿岸波高をうまく説明できることを立証した。

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第6図 静岡県沿岸における安政東海津波の高さ(単位m)
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第7図 三重県沿岸における宝永・安政東海津波と1944年東南海津波の波高分布の比較

5.南海道津波の波高分布

 1946年南海道津波のとき、大阪では船舶・木材が流されるなどの被害はあったが、波高は1m程度にとどまった。しかし、宝永・安政津波は比較にならないほど猛威をふるった。両津波は安治・木津川河口から遡上して、船などの漂流物で20数個所の橋を破壊し(第8図)、数100人にものぼる死者を記録した。港口の天保山付近では床下浸水があり、土佐堀・道頓堀など堀割から潮が路上に溢れ、地震による家屋の倒壊とも重なって、市中を大混乱におとしいれた。被害・浸水状況を近年最大の1934年室戸台風による高潮と対比すると、大阪港付近の潮位は平均海面上2.5~3mに上がった、と推定される。両津波は、大阪ばかりでなく、大阪湾沿岸一帯に大きな爪跡をのこした。安政津波直後、木津川の大正橋のたもとと、堺の大浜公園内に津波避難の心得を記した記念碑が建てられ、その惨事をいまに伝えている。
 現地調査の結果、紀伊半島西部沿岸における各津波の推定波高の分布は第9図のようになる。和歌山県沿岸の平均波高は、1946年津波で4.2m、安政津波4.8m、宝永津波では5mと推定され、波高分布のパターンはそれぞれよく似ている。
 有田郡広(現広川町)では、津波の都度大きな被害を繰り返してきた。ことに宝永津波による被害は大きく、10mをこえる波高が推定されてた。しかし、現地の地形をみて、1946年津波の記録と比べると、津波の高さは5~6mと訂正した方がよさそうである。海岸に面した町並みはやや地盤が高く、町の裏手は水田の低地(現在、町が発展して新興住宅地になりつつある)で、その奥に蜜柑山の台地になり、町をはさんだ両側に河川のある地形である。宝永・安政津波は両河川を遡上して低地に溢れ、避難路をたち切り、周辺より目立つ犠牲者を出した。安政津波の直後、「稲むらの火」で有名な浜口梧陵が築いた防潮堤で、1946年津波のとき町への直撃を防いだが、やはり河川から流入した津波で22人の犠牲者がでた。
 和歌山県沿岸では、それぞれの津波の波高分布のパターンはよく似ているが、大阪湾沿岸では宝永・安政津波の場合は1946年津波の波高より3倍ちかく上回ったことは、注目すべき事実である。これは、宝永・安政津波の周期が1946年津波のものより、長周期波が卓越したことを暗示する。
 一方、四国沿岸における調査結果を整理して、各津波の波高分布を第10図に示す。宝永・安政津波の波高が1946年津波のものより上回ったことは疑いなく、ことに高知県沿岸の久礼~安芸問では津波は集落の奥まで溢れ、波高が1m以上も高い。例えば、宇佐(土佐市)では1946年津波の浸水線より300mも山の手に、安政津波の波先を示す地点に石碑が建っている。また、浦戸では「人家座上より五尺上る」とあり、そのほか安政津波と1946年津波との浸水潮位差を比較できる記録が各所にのこっている。
 宝永津波において、浦戸湾口の種崎や久礼などの地域で20mをこえた波高が推定されてきたが、これは1946年津波の浸水状況や周辺の記録から総合判断すれば、かなり過大に評価された、といえよう。これらの記録を伝える神社は地盤高3mぐらいのところにあって、流失を免かれているからである。局地的に、山の根まで侵入したところでは、あるいは8mちかくに達したであろうが、10mを越える波高は考えにくい。宝永と安政津波との波高値の差は、確度ある比較はむずかしいが、高知県沿岸では50cmぐらい宝永津波の波高が安政津波より上回った、と推定される。

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第8図 大阪市内の安政南海道津波によって破壊した橋の分布(大森房吉による)
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第9図 大阪・和歌山沿岸における宝永・安政津波と1946年南海道津波の波高分布の比較
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第10図 紀伊・四国沿岸における宝永・安政津波と1946年南海道津波の波高分布の比較

6.むすび

Array 安政東海・南海道津波における各地の波高は、ごく最近新たに発掘された史料を加え、また近年の津波を参照して、かなり確度のある推定ができるようになった。しかし、これより一つ前の宝永津波は、限られた記録から推定せざるを得なかった。なかには波が峠をこえて隣りの湾に流れこんだという言い伝えや、浪高何丈何尺といった簡単な記述しか残っていない地域もある。しかし、これらの記録を1946年や安政津波と比べ、地形をふまえて津波挙動を検討すると、津波の高さの上限または下限値の推定が可能であり、誇張された記録であるかの判断もできる。もちろん、精度ある津波挙動を再現するのには、さらに隠れた史料の発掘をはじめ、今後も現地調査をすすめる必要があり。ことに高知県南西部・愛媛県沿岸の調査はまだ不十分である。ここでは、現在入手した記録をもとに、主な地域の現地調査の結果を整理して各地の波高を示した。なお、波源付近の沿岸地域では、第1表に示す地点以外も調査しており、詳細は文献に示す筆者の調査報告を参照されたい。
 東海・南海道地震は100~150年の間隔で繰り返されてきたが、それに伴った津波を細かく対比すると、その挙動はかならずしも同じパターソの繰り返しとはいい難い。これは、波源域の大きさや位置の変化だけに起因するだけでなく、断層運動の継続時間の差異なども考えさせる。また一方において、近年防潮堤など海岸保全施設が整備され、埋立がすすみ、海岸地形が著しく変貌してきた。したがって港湾の海水振動特性のレスポンスも変り、単純にむかしの津波との比較ができなくなってきた。将来の津波に対して、歴史津波と同様の挙動を繰り返す保証はない。津波対策には、発生機構をはじめ、港湾の振動特性をふまえた多角的な検討が必要であろう。
 現在、東海地域の防災対策は勢力的にすすめられているが、南海道地域にペアーで地震が続発したことも歴史的な事実である。紀伊・四国沿岸に多数分布する津波碑は、あるものは町の文化財に指定され、地域住民の防災意識にアピールしているが、近くに住む人も気付かない小道の片隅に、ひっそりと風化した碑もある。これら津波の犠牲者を葬った供養碑は、災害を繰り返してはならないと訴えているように、現地調査から帰った筆者の脳裏に焼きついている。
 本調査にあたって、各地の教育委員会から史料を多数提供賜り、また地元郷土史家からお教えていただいたり、住民からも多大の協力を得た。ここに記して、厚く御礼を申し述べる。

参考文献
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