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房総災害史目次

序……………………………………………………………………千葉県知事 沼田 武 4
郷土研叢書第四集の刊行について………………………………運営委員長 立石四郎 6
元禄地震の全体像…………………………………………………………………宇佐美龍夫 8
古記録に見える元禄地震と九十九里浦…………………………………………古川 力 39
元禄の大津波と九十九里浜—犠牲者と供養碑に関する考察—………………伊藤一男 68
旧一ツ松郷における津波被害一考—本興寺大位牌にみる人的被害—………古山 豊 94
用水溝出入についての一考察—元禄大地震に関連して—……………………井上準之助 106
江戸時代における房総の震災と地震絵…………………………………………樋口誠太郎 119
江戸の地震余聞……………………………………………………………………久保木 良 136
安政地震を地方文書にみる—二、三の事例を通じて—………………………川村 優 142
館山を中心とする地震災害について……………………………………………君塚文雄 166
房総半島南部の元禄地震史料集…………………………………………………吉村光敏 181
あとがき……………………………………………………………………………川村 優 306
『郷土研叢書』刊行のことば…………………………………………………………………309
著者略歴…………………………………………………………………………………………310

 今から六十一年前に起った関東大地震は、東京を主として死者、行方不明者十四万余人、負傷者十万余人という恐るべき被害を出しました。
 戦後においては、昭和三十五年五月のチリ津波により、本県の一部も被害を受けました。
 最近では昭和五十三年宮城県沖地震が起り、昨年五月の日本海中部地震による津波では、予期せぬ災害により百人もの尊い生命が失われましたことも記憶に新しいところであります。また、房総沖に震源をもつマグニチュード8クラスの直下型地震発生の可能性が地震予知連絡会等で示唆されているところであり、本県としても防災対策上の基本的な問題として認識し、その対応策の検討を始めたところであります。
 本県では予想される大地震に備えて、防災行政無線の整備拡充、防災訓練の実施、中央防災センターの設置などを提進しておりますが、一方昨年開催された六都県市首脳会議で、東京湾直下型地震については首都圏の共通問題として取扱うこととし、その具体的対応策に取り組んでいるところであります。そして過般は、学識経験者を中心とした千葉県地震対策会議を設置し、ひろく県民の生命と財産を守るための震災対策の立案とその実行に全力を傾注しているところであります。
 このような重大な時期にあたり、本県における研究文化団体であります千葉県郷土史研究連絡協議会が「郷土研叢書」第四集として『房総災害史—元禄の大地震と津波を中心に—』を発刊されましたことは、まことに時宜を得たものといえましょう。
 本書には東京大学地震研究所教授宇佐美龍夫博士の特別寄稿をはじめ、九編におよぶ会員を主とした古地震の実証分析の成果が収められています。本書を拝読しますと、元禄大津波による九十九里地域の水死者が、われわれの今までの予想をはるかに上回っていることにも大いに驚かされます。
 いうまでもなく、今後の防災対策の樹立とその実行にあたっては、過去における地震及び津波による被害の実態を十二分に研究し、その上に立脚した防災対策を確立することが必要であります。
 ここに、本書の刊行を心からおよろこび申し上げますとともに、防災対策関係者はもちろん、県民の皆様におかれましても本書を熟読活用され、今後の災害防止のための基礎資料とされますよう切に念願してやみません。
  昭和五十九年四月
    千葉県知事 沼田 武

郷土研叢書第四集の刊行について

 郷土研(千葉県郷土史研究連絡協議会)は、発足以来十余年を経過いたしました。その間、常に財政面での悪条件を運営委員各位の献身的奉仕によって補って運営し、機関誌、「房総の郷土史」は既に十一冊をかぞえ、また会員を主とした研究成果の発表をする「郷土研叢書」は、
 第一集 千葉氏研究の諸問題。
 第二集 日蓮
    —房総における宗派と文化—
 第三集 房総漁村史の研究
を刊行し、このたび
 第四集 房総災害史
    —元禄の大地震と津波を中心に—
を刊行することにしました。
 最近、地震に関する関心は非常に深刻なものであります。過去に発生した古地震の実態と老人のなまなましい体験を正しく理解し、今後の災害防止に対処することは必要不可欠なものでありましょう。この機にのぞみ、『房総災害史』を世に出すことを企画いたしました。
 幸いに、この道の最高権威者である東京大学地震研究所教授字佐美龍夫博士が、運営委員川村優氏の懇望を快諾されて、画期的なご労作をご提供いただき、お蔭で本書はまた一段と精彩をはなち権威を高めることになりました。先生のご厚意に厚くお礼を申上げる次第です。
 そして、本書が県民の皆様に広く愛読され、生命を守る防災対策上の基礎的文献となることを希求する次第です。
 おわりに執筆老各位の労を謝し、またまたこの書を世に出すことを快諾された千秋社及び多田屋書店にお礼を申し上げます。
  昭和五十九年四月
    千葉県郷土史研究連絡協議会
       運営委員長 立石四郎

元禄地震の全体像     宇佐美龍夫

Array 本書では、元禄地震の房総における状況が詳しく記述されることと思われるので、ここでは、元禄地震の全体像を簡単に紹介することとする。
 元禄地震は元禄一六年一一月二三日丑の刻(午前二時ころ)に発生した。震央は『理科年表』によると、東経一三九・八度、北緯三四・七度で、規模(マグニチュード)は八・二となっている。この震源は、野島崎南方沖合約三〇キロメートルの所に当っている。この値は、南関東大地震六九年周期説を提唱した河角広のきめたものである。
 さて、元禄地震は南関東一円の大地震であった。房総のみの地震ではない。小田原でも表1に示すような大被害があったのである。
 この地震についての史料には次のものがある。
 a『増訂大日本地震史料第二巻』昭和五〇年三月三一日 文部省震災予防評議会編 復刻版 鳴鳳社
 b『房総半島南部の元禄地震史料』昭和五二年三月、関東地区災害科学資料センター(非売品、在庫なし)
 c『新収日本地震史料第二巻別巻』昭和五七年三月二〇日 東京大学地震研究所(非売品、在庫あり)
以上は印刷刊行されているもので、購入あるいは、図書館で閲覧可能のものである。この他にも多くの史料が各地方にあるに違いない。房総の津波供養碑だけでも相当数に達する。上記のうち、cは筆者が主になってとりまとめたものである。しかし、刊行後二年の月日が経ち、その後集められた史料もかなりの量に達している。
 bは、昭和五一年正月、館山市の安房博物館で地震展を開催したときに、展示された文書を中心にまとめられたもので、地元の郷土史家の方々の努力の結集であり、地震学的にも価値の高いものである。
 cには多数の文書が含まれているが、『楽只堂年録』を以て最良とする。
 『楽只堂年録』は柳沢吉保の実録である。この年録は四種が現存している。そのうちの三つは、奈良県大和郡山市にある財団法人、郡山城史跡柳沢文庫保存会、が所蔵している。漢文、青表紙本和漢混淆文、茶表紙本和漢混淆文の三種である。このほか、東京大学史料編さん所には柳沢保恵氏蔵本の騰写本がある。これは柳沢文庫所蔵の三本のいずれとも合致しない。柳沢文庫の茶表紙本は青表紙本の写本とみられる。cに掲載したものは青表紙和漢混淆文による。この年録には、元禄地震(元禄一六年一一月二三日)と宝永地震(宝永四年一〇月四日)の両地震のときの、各藩主、旗本、代官などから幕府への被害届がまとめられている。この資料は両地震を大局的にみるには最良のものである。被害をうけた地方のすべての大名、旗本、代官からの報告が揃っているということは断言できないが、本年録に収められていない地方の被害はなかったか、あっても小さかったとみることができるであろう。現代的にいえば、警察庁の被害調査に相当するものということができる。
 そこで、この『楽只堂年録』による被害の一覧表を表1にのせる。これには江戸の被害は記されていないが、江戸以外の地における被害の全貌を知ることができる。
 表だけでは見当がつかないと思うので、『楽只堂年録』の一部を以下に示す。さて、この表や本文の一部をみると、被害の実数はよく報告されているが、石高の不明な村、あるいは人口・戸数の不明な村が多い。また合給の村があったりして、支配関係がわからない。地震の調査には、被害の実数も大切であるが、被害率の方がもっと大切な量である。そのためには、人口・戸数を知る必要がある。また知行地数ヶ村と記されているときには、その村々がどこであるかを知らなければならない。こういう基礎的な仕事は、郷土史の方々の御援助なしには成し得ないものである。したがって、以下にのべる震度分布図は、不明な所は除いて、わかる所についてのものである。郷土の方々が『楽只堂年録』などの史料をつかって、村ごとの被害率・震度をもとめ、房総における詳しい震度分布図を作られることを望んで止まない。
 阿部志摩守知行所地震浦方津浪ニ而損亡  高三百拾五石余
  上総国夷隅郡之内            同若山村之内
 高五百三拾九石余           一潰家五軒、本家添家共
  中滝郷郡田村             高六百四拾石余
 一潰家拾六軒、本家添家共         同釈迦谷村
  高二百石              一潰家七軒、本家添家共
   同大福原村             高七百五石余
 一潰家六軒、本家添家共          御宿郷高山田村
  高百石               一潰家拾三軒、本家添家共
   同小福原村             高二百六拾二石余
 一潰家四軒、本家添家共          同須賀村
  高千百七拾六石余          一流家九拾八軒津浪二而流失、本家添家共
   同洞カ井村             高二十四石余
 一潰家五十六軒、本家添家共        同久保村之内六軒町
  高六百八拾九石余          一流家拾五軒右同断
   内野郷新田村            高三百四拾四石余
 一潰家拾軒、本家添家共          下布施郷硯村
 一潰家拾軒、本家添家共              伊南領浜方
  合家数二百四拾軒、死人六人           一潰家二百七軒、流家四百廿九軒、破損家千三百七拾軒
                           溺死七拾九人、男 三十九人 女 四十人
  松平弾正忠知行上総国大多喜地震高浪ニ而損亡    損牛馬拾壱疋、馬 六疋 牛 五疋
 一城内三丸■城外町屋田畑之内所々口二三尺程宛地割 一破船百二拾六艘、流失船三百廿艘、猟師網百二張流失
 一二丸之内長屋二拾軒余潰             一田畑六拾五町六反歩余 潮入砂押山崩川欠
 一城下潰家三百廿軒但シ 寺社町屋 百姓之家共   植村大学知行所安房上総浜辺地震高浪損亡
 一破損家五百三拾七軒               一流家三百八拾軒、社二ケ所流、潰家八拾九軒、寺三
 一山崩川欠三町壱反歩余               ヶ寺、男女五十四人死ス、牛馬廿七疋流死

 さて、上記の各史料および、その他の新史料をもとにして作った震度分布図は、図1のようになる。三枚で一組である。図中にS、E、eと記してあるのは、文書に、強地震、大地震、地震と書かれていることを示す。このように文書の筆者の感じで書かれた記述からは、震度をきめることはできない。震度は、被害の様子とか、あるいは、立って歩けなかったとかいうような具体的な記述から求められる。Eとeの境が震度IVとIIIの境だと考えておけば無難であろう。図中に震度記号の説明がついている。たとえば、名古屋にはe、S、口の記号がある。これは、強地震と書いた文書もあれば、ただ地震と記した文書もあること、および震度をIVと推定できるような、その他の記述もあることを意味している。京都の(I~II)は、震度がI~IIと推定されることを示している。津波については文書に記されている沿岸にのみ印をつけてある。海はつながっているのであるから、津波が八丈島にきて、その手前の三宅島や新島にこない筈はない。幸に新島には、津波が襲来し、死者一名を出した文書が見つかったので、津波の記号をつけたが、三宅島では、まだ見つかっていないので、記号をつけていない。そういう眼でみると、津波は、少くとも福島県~紀伊半島の沿岸各地に襲来したことは間違いない。また、震度分布図で震度を示す記号に大小があるが、記号の大きさには意味がない。九十九里で震度がきめられていないのは、古文書に津波のことは記されているが、地面の震動の強弱や、地震動でどのくらい被害があったかが不明だからである。また房総南部では+、−の記号がついている。これは古文書の記録から、そこの土地が隆起あるいは沈降したことが明らかな場所を示したもので、房総の南端は隆起しているが、その北の元名と磯を結ぶ線では沈降していることがはっきりした。
 さて、この震度分布図で震度V以上およびVI以上の所をかこってみるとよくわかるが、そのかこいの形と位置は、図2の関東地震のときのV以上およびVI以上のかこいと、驚くほどよく一致する。しかしよく見ると、関東地震では伊豆半島が震度VIだが、元禄地震ではVか、それ以下であった。同じように、震度Vの区域も、関東地震の方が、元禄地震より西にのびている。また、関東地震では九十九里には目立つような津波はなかった。こういうことから、元禄地震と関東地震が似ていること、および、元禄地震の方が関東地震より東の方に起きたことがわかる。現在では、両地震とも、小田原沖から南東にのびる相模トラフ上に震源があり、しかも、元禄地震は関東地震の東隣りにあると考えられている。つまり、両地震はお隣り同志の兄弟なのである。
 このことは、両地震のときの南関東の土地隆起をみてもわかる。図3は元禄地震のときの隆起量から、その後の沈降量をひいたもので、つまり、今に残る元禄地震の跡である。単位はメートルで、図4は関東地震のときの地盤昇降図である。この両者を比べると、関東地震では、小田原附近に一メートル以上隆起した所がある。また房総では、元禄地震の隆起量の方が大きい。実際に、元禄地震では、図4の数字よりも隆起量は大きかったわけである。この事実からも、元禄地震は関東地震より東にあったことがわかってくる。
 図5は参考のために、関東地震の被害などを示したものである。これによると、房総では木造家屋全壊率1%以上の所は南西部に限られている。元禄地震では、どうなるのであろうか。それがハッキリすれば、元禄地震の研究が一歩前進することは間違いないが、この仕事は郷土史家の方々にお願いすべきものであろう。
 さて、以上で元禄地震の大凡の様子は理解していただけたものと思う。各地の様子を詳しく述べる余裕はないので、代表として江戸での様子をやや詳しく述べることとする。この部分は主として拙著『東京地震地図』(昭和五八年七月新潮社)によることを、お断りしておく。
 まず、江戸の様子を、よく伝えるものとして、新井白石『折たく柴の記』の一部を引用する。
 「我初湯島に住みし比、元禄十六癸未のとし、十一月廿二日の夜半過る程に、地おびただしく震ひ始て、目さめぬれば、腰の物どもとりて起出るに、こゝかしこの戸障子皆倒れぬ、妻子どもの臥したる所に行てみるに、皆々起出たり。屋の後の方は高き岸の下に近ければ、皆々引ぐして、東の大庭に出づ。地裂る事もこそあれとて、倒れし戸ども出し並べて、其上に居らしめ、やがて新しき衣にあらため、裏打たる上下の上に道服きて、我は殿に参るなり、召供の者二三人ばかり来れ、其余は家に留れと云て馳出づ。道にて息きるゝ事もあらめと思ひしかば、家は小船の大きなる浪に動くが如くなるうちに入て、薬器たづね出して傍に置つゝ、衣改め着し程に、彼薬の事をばうち忘れて馳出しこそ、恥かしき事に覚ゆれ。かくて馳する程に、神田の明神の東門の下に及びし比に、地亦おびただしく震ふ。こゝらの商人の家は皆々打あけて、多くの人の小路に集り居しが、家のうちに燈の見えしかば、家倒れなば火こそ出べけれ、燈打ち消すべきものをこそと、よばゝりて行く……」
 これからもわかるように、白石の居宅は倒れなかった。実際に当時の史料をみても、江戸で倒壊が甚だしかったというような記録は見出せない。むしろ、それ程ではなかったのではないかとさえ思われる。しかし、安政二年の江戸地震のときのような、市中の状況を詳しく書いた史料が見出せないので断定はできないが、震度は、せいぜいV~VIであったと考えられる。
 さて、江戸城中、幕府の屋敷の被害については、その有無を含めて、はっきりした事はわかっていない。しかし江戸城の所々の櫓・多門については被害の様子がわかっている。出典により多少の差はあるが、次の門で番所崩れ・壁落・塀崩れ・石垣崩れ、櫓・門の破損などの被害があった。
  雉子橋御門・小石川御門・牛込御門・市谷御門・四谷御門・筋違橋御門・浅草橋御門・常盤橋御門・呉服橋御門・竹橋御門・清水御門・一ツ橋御門・神田橋御門・和田倉御門・馬場先御門・鍛冶橋御門・数寄屋橋御門・山下御門・半蔵御門・赤坂御門・田安御門・外桜田御門・内桜田御門・虎ノ御門・幸橋御門・日比谷御門・吹上御門・内竹橋口・北の丸口・平川口御門・追手御門・坂下御門・紅葉山下・梅林坂・西丸下
 このうち雉子橋御門では番所が潰れ死者三人、和田倉御門で番所つぶれ死者七人、傷者一二人、馬場先御門でも番所つぶれ死者一(?)、傷者一人、日比谷御門でも番所つぶれ傷者八人、紅葉山下で番所潰れ死者二人となっている。
 しかし、御門・櫓そのものが潰れたという記録はない。どの程度かは、はっきりしないが少損というのはある。それは次の通りである。壁落ちは除いた。
  常盤橋御門 少々損
  呉服橋御門 少々損
  竹橋御門  ひずむ
  四谷御門  渡櫓ひずむ
 これから丈夫な建物には被害が少なかったといえそうである。この点をもっと詳しくみるために、大名旗本などの屋敷の被害をみてみょう。
 南部藩では上中下の三屋敷で釣鴨居等が落ちたが破損と申ほどの事はなかった。屋敷の天井通り柄折れなく、大書院居間通軒口一尺東の方へ曲った。
 熊本藩では目黒長屋、御物見之平長屋、御米蔵之小脇之平長屋、上谷之長屋向塀などが破損した。
 津軽藩では橘屋惣兵衛方にあった土蔵が潰れ、岡崎佐左衛門浜手御屋敷落合又は跡長屋、ひさし倒れかかる。また上野寛永寺津梁院の廟所・仏殿には何の変りもなかったが御玉垣は不残崩れた。屋敷については少しずつ破損という。大きな損害はなかったのであろう。
 具体的な被害のわかるのは会津藩である。『家世実記』によると、
 「尤上御屋敷(神田橋)之義、四十三間之御長屋弐尺余内之方へ倒掛り、腰板之義、東ハ北之境、南ハ辻番之後、西ハ土塀際迄破損、三田御屋敷は北通り塀下石垣三十五間程はらみ、内十五間ハ崩れ、西通之塀八十五間内之方へ曲り、揚場御門之石垣はらみ、崩候処も有之、東通も石垣崩れ、或ハはらみ塩■御蔵腰瓦惣壁并屋上之瓦迄落、御米蔵割場蔵も同様ニ而曲り、内御長屋井塀等惣壁棟瓦落、大ニ破損致し、芝御屋敷も内外御長屋其外所々、品々之御蔵井塀御門等、惣壁棟瓦腰瓦等落、或ハ曲り、戸之明立難成所々有之、或は禿或ハ石垣はらみ崩れ、石端敷石めりこミ砕、御座向長局等大破、山穴御蔵地形石ニ而畳候処不残ゆり上、石之さすはたかり、水道之升形不残ゆり上、水不足ニ相成、掘抜之井戸も水減、尤濁り、惣而御屋敷内十之物八つハ破損、如此大成地震ニ候処……」
と記してある。
 小倉藩の記録によると、下谷屋敷・長者町屋敷・紺屋町屋敷・市ヶ谷屋敷皆大破し、とくに下谷屋敷では長屋壁惣構への土塀悉崩れ、土蔵の屋壁みなゆり落し素立となる、という。とくにと断って下谷屋敷を特筆したのであれば、それ以外の屋敷の被害は、もっと軽かったであろう。大破とはいっても現代人の考える大破ではないと思われる。
 青山播磨守(尼崎)の屋敷では内屋敷が不残潰れたという。これが屋敷向の被害ではっきりしているものでは、もっともひどいものだろう。
 さて、江戸の町方の被害については、表2の『災変温古録』の記録しかない。これが江戸市中のすべての町方の被害を記したものであるかどうかは不明であるが、地名をみると江戸市中各地の地名が出てきている。これがすべてであるとすると、市中の被害は案外少いこととなる。元禄地震のときの江戸の状況については、もっと多くの史料が発見されなければ、結論を下せないと思われる。
 さて、この地震について特徴的な光り物について、史料に出ている所を示す。このように地震後数日にわたって光り物がみえたという例は珍らしい。

 『甘露叢』によると次の通りである。
 二十三日 地震直後、辰巳(南東)の方雷光の如く 折々光有之、七ッ半(午前五時ころ)光物東より西に飛ぶ。今夜に至り、辰巳の方電光のごとく、夜ふけても不止
 二十四日 申の下刻(午後五時ころ)より辰巳の方電の如く 夜更て不止
 二十五日 暮六(午後六時ころ)少過光物東南の間より西に至る 辰巳の方電の如くなる光前々の如し
 二十六日 夜ニ入辰巳の光 前の如し
 二十七日 申の下刻より辰巳の光 前の如し
 二十八日 申の下刻より辰巳の光り 前の如し
 二十九日 (中略)同刻(夜六時半)光物 東より西に至る辰巳の方光前の如く 今夜は別して強し
  十二月
 二十一日 夜に入曇 辰巳の方電の如し 戌の刻より晴トラの刻月のあたり雲赤き事甚にして 丸さ九尺計也
右の雲むらむらといたし 月の近くは色うすく そとのまはり程赤く 姻の如し 常の月かさとはちがいたる様に見えたり
また、『基熈公記』には次のように記してある。
 廿二日大地震以前より 折々ひかり物 白気夜半に相見え申候所に廿二日の夜 月の色かわり ひかり物相見へ星ながれ候事繁く 其以後毎夜東西雲なくして 稲光のごとくひかり有之候 右之いなびかりのごとくに光候事大地震より廿日ばかりの中にてやみ申候 ひかりものならびに星ながれ候事は まだ時々有之候……
以上、断片的な記述で申し訳ないが、元禄地震の大体がわかっていただければ幸である。
この地震の特徴的なことをまとめると次のようになるだろう。
(イ)福島県小名浜で津波のため大宝切通しが崩れた。大宝切通しについては未調査であるが、津波の高さは一メートルくらいに達したのではなかろうか。
(ロ)甲府では城中の石垣崩れ一二坪、城及び町在で潰家一三四、半潰一六六、破損七六、堤破損三一六〇間という被害があった。また郡内では死者八三名、潰家二一一、半潰一一五、山崩れ合計一〇万坪という被害があった。
(ハ)信州松代は震源から三〇〇キロも離れているが、侍屋敷・町屋などが小破し、屋敷二軒がつぶれている。関東地震のときには、信州諏訪で潰家があったことと考え合せると、相模トラフから甲州をへて信州に至る「地震みち」があるようにみえる。
(ニ)房総半島南端は隆起したが、その北で沈降した所もあった。
(ホ)利根川流域で、液状化現象によると思われる被害があった。
(ヘ)神奈川県中部から、武蔵多摩郡にかけての被害もかなりのものであったらしい。
 元禄地震の全貌は、関東地震と比べることによって、一層はっきりすると思われるので、既に記した事も含めて、両地震の比較を表3にとりまとめて、この小文をしめくくる。

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表1:「楽只堂年録二十八」による元禄地震(1703・12・31)の被害一覧表
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表:1—2
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表:1—3
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表:1—4
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表:1—5
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地図 図:1—1 元禄地震(1703.12.31)の震度分布(1)
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地図 図:1—2 元禄地震(1703.12.31)の震度分布(2)
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地図 図:1−3 元禄地震(1703.12.31)の震度分布図(3)
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地図 図2:関東地方の震度分布図
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地図 図3:元禄地震の隆起量からその後の沈降量を引いたもの(単位:m)〔松田・安藤による、1973〕
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地図 図4:陸地の地盤昇降(単位:cm)
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地図 図5:木造家屋全潰率および地盤隆起沈降
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表2:『災変温古録』(東北大・狩野文庫蔵)による町中の被害
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表3:関東地震と元禄地震の比較

古記録に見える元禄地震と九十九里浦                            古川力

Array  まえがき

 千葉政経懇話会の八月例会(昭五八・八・二四)で、千葉大学助教授川崎逸郎氏の「房総の地質と地震対策」をテーマにした講演があった。このなかで川崎氏は「大地震がいつ起るのか、その予測はできないが、房総の地殻変動からみて、十年以内に大地震が起るという予測は研究者の一致した意見」と衝撃的な発言を行なった。そこで大事なことは、地表の変動は地盤の種別によって次のように異ると要約された。
 下総台地は砂の層を基盤として、その上に関東ロームの火山灰層がのっている所で、地震がくると共振性が非常に高い。その両側の東京湾の内側、九十九里地域は砂と粘土で更に共振性が高くなるという。
 そこで地震災害について考えてみると、東京湾の内側、市川から木更津にかけての地域では、亀裂、地すべり、局部隆起といった災害が予測され、関東大震災クラスの地震を想定すると、非常に大きなダメージを受ける可能性が大きい。
 下総台地一帯は、水田のへりの谷の斜面が崩落する危険性が高い。
 九十九里浜一帯は東京湾の内側に似た災害の起る可能性が強い。こうして見ると房総半島で無傷といわれる場所はどこにもない。と、川崎氏は警告し、十年以内に房総大地震を予測している。—昭和五八・八・二五『千葉日報』掲載——
 (1)九十九里浦の元禄津波の古記録
 東京大学地震研究所編『日本地震史料第二巻』元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)
『楽只堂年録』百三十四頁
     片貝村
一、流家 八拾八軒 死人男女八拾壱人 損馬三疋
一、田畑潮入荒
  松平豊前守知行所上総国之内地震津浪ニ而損亡
  高二百九拾六石余
   長柄郡中里村之内
一、死人弐百六人内男九十七人女百九人旅猟師八人 損馬五十疋
  流家五拾九軒 浜納屋流六軒
  高百九拾石余
   山辺郡片貝村之内
一、死人拾九人内男拾人女九人 流家八軒 浜納屋流五軒
   武射郡新井堀村之内
一、死人七人内男四人女三人
  浜納屋流六軒
  右三ヶ村ニ而
  死人弐百三拾二人男百拾壱人女百廿壱人
  損馬五拾疋 流家六拾七軒
  浜納屋流拾七軒
 中山勘解由知行所上総国武射郡内 地震津浪ニ而損亡
   本須賀村之内
一、流死人拾人内四人旅之猟師
一、人家浪ニ而打潰候ヘ共数不相知
  仙石右近知行所同国同郡之内高潮ニ而損亡
  高五百三拾石
   井之内村
一、流家三拾壱軒 流死六拾八人内男四十壱人女廿七人 損馬六疋
  飯田惣左衛門知行所上総国一松村地震津浪ニ而損亡
  高二百石
   一松村之内
一、百姓家流失 死人七拾壱人 損馬九疋
一、田畑不残砂押入荒ル
  松下刑部知行所上総国長柄郡津浪ニ而
  高三百四拾五石余
   古所村
一流家七拾七軒 死人二百四拾人但水呑百姓商人共 損牛馬拾二疋馬拾壱疋牛壱疋
一、田畑拾八町余砂押
  保田越前守与力知行所上総国山辺郡之内 津浪ニ而損亡
   山辺郡東士川領
  不動堂村 貝塚村 西之村 藤野下村 宿村 田中荒生村(註江戸南町奉組与力給知)
  右六ケ村高合千拾四石六斗八合之内
一、野銭場三拾四町壱反余波打上ケ砂地ニ成
一、新田家二拾六軒津浪ニ而流失
一、納屋四拾壱軒 右同断
一、死人百拾壱人内男七十五人女三拾六人
一、猟船三拾四艘津浪ニ而破船

 林土佐守与力知行上総国山辺郡内津波ニ而損亡
   山辺郡
  粟生村 宿村 納(細か)屋敷村 薄嶋村 北片貝村 小関村 八川村 大榎村(註江戸北町奉行組与力給知)
  右八ケ村高合千百九拾壱石三斗六升壱合内
一、野銭場弐拾九町九畝七歩波打上ケ砂地ニ成ル
一、新田家四拾軒流失
一、納屋四拾七軒流失
一、死人百五人男六十三人女四十弐人
一、損馬三疋 猟舟四拾艘津浪ニ而破船
 この山辺郡東士川領及江戸北町奉行組与力給知関係の地図は次の通りである。
 以上南北両町奉行組与力給知で、
○新田家六十六軒流失
○納屋八十八軒流失
○破船七十四艘
○死人二百十六人
となる。
(2)文鳳堂雑纂 災変部五十五 国立公文書館によれば
一、安房・上総御領御代官清野与右衛門・比企長左衛門・樋口又兵衛・雨宮勘兵衛・河原清兵衛支配所 地震井津浪ニ而損亡之分
○家数二千八百四拾四軒 〇男女死亡四百六拾五人
○■馬(しば)六十四疋 ■(しば)牛廿三疋 船三百六十一艘
一、上総国夷隅郡御宿郷辺村々地震、津浪にて民屋潰或ハ流失 尤津浪之所ハ家財・穀物船・網トモに流失、村々田畑砂押入・川欠山崩等所々に有之候よし、津浪者廿七年以前の浪より二丈余高し(註六メートル)となり

 更に高橋家(九十九里町藤下納屋)の古記録によれば、元禄十六年霜月(旧十一月)二十二日夜丑の刻より(註午前二時)関東に大地震が起り、大小六十四回にわたって震い続き、二十三日は辰の刻より九十九里浜から房州海岸一帯に「大山海水揚る、海水の死者山をなす」と。そのときの死者の数千百五十余人、「山辺郡片貝村本隆寺処管同村北之下海辺白砂に葬る。御門村妙善寺処管、粟生村海辺白砂に葬る。北今泉村等覚寺処管男女小供六十三人」、とある。(『九十九里町誌』より)。又本納(茂原市)蓮福寺過去帳には次の如く見える。
「東浦(註九十九里浜のこと)で人馬二十万余が死す」と書かれているほど、しかし浜全体で二十万もの人やウマがいたかどうか、この数字はいささかオーバーくさいような気もする。
 それにしても「元禄津波」の犠牲者を葬った千人塚や供養塔が九十九里一帯に数知れず点在しているのも事実である。
 千葉県防災課編の『元禄地震』の中で「九十九里浜における元禄十六年(一七〇三)津波の供養碑の分布図が示されている。
 そのひとつ、長生郡長生村一松の本興寺にある供養塚には、「三百八十四人を合葬」とあるほか、数ある塚の全てが「数百人」単位で葬ってあるので、いかに多くの人が津浪にやられたか。昔から、
「地震が起きてすぐ逃げれば、イザリ(両足の不自由な人)でも助かる」
といわれている。早く高台などに避難すれば助かる余裕は十分あるというのだ。『万覚書(よろずおぼえがき)』にも、
「延宝(一六七三)の津波でこりた釣村の人たちが、「避難体制」を整えていて、後の元禄津波のときは、いち早く避難したので、他の土地から出かせぎにきて、納屋などに残っていた十四、五人が死んだだけ」
 と被害を最少限度に食い止めたことが記録されている。
 さて、ここで『九十九里町誌』各論編上巻九五九頁からの「地震による津浪の被害」を紹介しょう。
 第一編で詳しく述べられているとおり、汀線の前進と地曳網漁業の発達とに伴ない、集落も、古村から新田へ、さらに納屋集落へと生活の場が海辺近くに移動していった。
「資料集」の中の諸記録と先学の諸研究とを総合的に検討整理した古川力説では、元禄汀線を現在の県道飯岡—一宮線、さらに天保汀線を産業道路の位置と推定している(註この推定汀線は前頁の図を参照されたい)。
 この説から考えると、現在の九十九里町で最も人ロの集中している海岸諸部落の地域は、江戸時代中期以後には海辺の白砂地であり、網干場、干鰯場や番屋の並んだ場所であったといえよう。
 こうした地理的条件のもとで、地震発生に伴なう津浪の被害を考える必要がある。
「さて江戸時代を通じて何等かの被害を及ぼしたと思われる地震をあげると次の表「江戸時代の千葉県下の既住地震とその概要」のように十七件が確認されている。中でも被害の規模からいって最も有名なものが、元禄の地震であろう。前表では発生月日を太陽暦に直してあるが、一七〇三年(元禄十六)十一月二十二日夜であった。
 次に年代不詳であるが「飯高家文書」がその状況をリアルに伝えていると思われるので紹介したい。
「元禄十六末十一月二十二日夜子ノ刻(○~二時)ヨリ、俄ニ大震ニテユリカエシユリカエシ表ニテ大タイコ打候如クナリヒビク、同丑ノ刻(註二時~四時)ニ大山ノ如クナル津浪ニ、三ノ浪続イテ入来ル、別テニノ浪ツヨクシテ、家口木共ニ押流サレ、大木ハ土手共ニ、二三丁程モ流、逃人々之ウチニテモ浪ニ追イツカレ水ニ溺レ死スモノ脇村ハ格別、当所ニテ百人余也、牛馬鶏犬マテ水ニ溺レ死ス、又、水ヲワケ出テモ、寒気ニ綴(ママ)レテ死スモノ多シ、暁天ニ潮汐引退、哀ナルカナ、骸ハ道路ニ累々トス、住人コヽヲ去リカネタリ、□来如斯ナル事、態々心得テ、家財ヲ捨迯去ルベシ、右年口二十七年以前ニモ大成地震(51頁表の延宝五年の房総沖と思われるもの)有リテ凌、津浪入口□前モ廿七年以前ニ入ル、五十壱年以前ニモ入タルヨシ伝聞(51頁表6の明暦元年の房総沖地震の誤伝か)度々之津浪ノ如クナル中半以前ヨリ伝エナ□□□昔足利の御代康安□年中四国雪之湊津浪入タル後初ナルベシトカ」
 この記録によれば、旧暦十一月二十二日深夜〔太陽暦では十二月三十一日(大晦日)に当たるわけだが)○時すぎ大地震に見まわれたようである。この厳冬の夜更けのこと故ほとんどの者が就寝中であったと想像される。
 まさに「寝耳に水」であったわけである。その震動を大太鼓の音にたとえているが、地鳴りの音のすごさがうかがわれる。
 その後の津浪の襲来に、第一、二、三波あって、第二波が最も激しかったと記している。大木、家屋、人、家畜などをすべて押し流す津浪の恐しさが手にとるようである。「死者当所ニテ百余也」とあるのは、粟生村の死者と見られる。
 ここで再び、古川力の説を借りれば、元禄地震の際に起った津浪の先端は、汀線(註県道一宮—飯岡線)より一三五〇メートル(直距離にして)入った海抜三メートルの準県道の線まで達したと見ている。したがって、海岸からこの線までの区域、現在の九十九里町の半ば以上の地域が、この時津浪に洗われたことになる。すなわち、旧豊海町では「新田」「不動下」「粟生下」旧片貝町の「下タ谷、下モ谷、南・北新田」や豊漁期に急増した「宿新田下、西ノ下、北之下」等にあった納屋は一呑にされてしまった。
 さて、この津波の引いた跡には、汀線最後の微高地である二・五メートルの等高線上の各所に、死体の山が築かれたと思われる。その場所に津浪仏(溺死者の供養塔)が建てられたということがわかる、と結んでいる。
(3)飯高家文書(山武郡九十九里町粟生九三〇現当主 飯高利彦氏)の元禄津浪の地誌的考察
 この飯高家文書については前述の通りである。この内容について二三検討して見たい。
 元禄十六年(一七〇三)の津浪を考える基準になる当時の汀線の位置は現在のどの辺であるか推定すると、飯高家
文書安永五申年(一七七六)の御検地書上帳によれば、
「御料新田下より浪打際迄東西百三十間」
とある。又小川家文書(山武郡九十九里町片貝川間現当主 小川まさ子氏)天明六年(一七八六)三月浜屋鋪下芝内見帳によれば、
「新生境より新右衛門納屋脇道迄南北百十七間東西六十間浪打際迄百四十四間」
 又、同家天保十三年(一八四二)の御用留片貝村海岸持場絵図によれば、
 「村方民家より浪打際迄凡二九十間(五二二メートル)」
 とある。
 関係図面前頁の通りである。
 又、長生郡白子町内山家の古地図、及び横浜国大、太田陽子氏の学説等を総合するに、元禄汀線更に降って天保汀線は次の図に示すよう推定できる、
 元禄汀線は現在の一宮飯岡県道、天保汀線は現九十九里センターと漁港を結ぶ産業道路でその間隔は二七五メートルで、元禄期と天保期(一七〇三~一八四三)百四十年間の海退現象で年間平均して二メートル前後の海退になる。
 さて再び飯高家古文書にかえって考えるに文中粟生村飯高家の付近まで津浪の襲来を物語っているので(A点は飯高家)大山のような津浪は前図B線付近まで押し寄せたことを物語る。この付近は海抜高度3メートルの等高線が走っている現在の一宮~蛇園間の県道で俗にいう貝殻道又は準県道とよんでいる。
 この付近は元禄汀線より直距離で一三五○メートルである。従って旧豊海町の「新田」「不動堂下」「粟生下」旧片貝町の「下谷」「南新田」「北新田」等は津浪によって洗われてしまった地域である。
 こうした地域は、元禄の豊漁期に急増した、宿新田下、西ノ下、北ノ下等にあった納屋は一掃されてしまったのである。この津浪の引き去った跡には汀線よりの最後の微高地即ち二・五メートルの等高線(C線)上のあちこちに死人の山を築いたのであろう。この二・五メートルの等高線が最後の堤防線になったにちがいない。
 今九十九里浦にある死者の供養塔(つなみ仏)がこの二・五メートルの砂堆上に分布しているのも暗に地形的な成因を物語っているわけだ。
(4)一宮町 児安惣次左衛門家文書
 東京大学地震研究所編『日本地震史料』二百頁の児安家文書によれば、
 享保四年(一七一九)万覚書写を紹介したい。
 「元禄十六年(一七〇三)未ノ十一月廿三日夜四つ時分より大地震三度夥クゆり出し少し間有て辰己沖より海夥ク鳴り夜八つ半時分津波打上り申候毎度巳ノ年ノ津浪より浪の高さ四尺余も高ク来リ申候□□度前々下通り屋敷へ出候家共あと形もなく打潰レ 此節又々□□会所江上り 居住仕候浪揚候通りせき内の道を所々口口三十間計水上り申し候岩切(一宮町岩切)下 行屋下きし上河はし上迄口口きおし上申候 此節ハ先年の津浪覚にて下 通ニ居住の者大地(ママ)震大地震故早ク皆々迯上り候故人死は多無之はま網なやに置候者心なくにけ上り不申候者共拾四五人死申候 東浪見浦に織網(ママ) 地網共六程有之候 此節皆々舟網諸道具不残打破流し亡失ニ成り候手前も毎度より五、六年も織網半程引諸道具御座候処に此節舟網諸道具不残打流し金子百両計損失有之候 此節の津浪一ノ宮町下やぶきしまて打揚申候 一ノ宮下通に居住の者 其外はまなやに居候者共己上五拾人余も死申事に候 川通り(一宮川か)ハ茂原下まて水押あけ申事ニ候 舟頭給(一宮町船頭給)より北の方段々浪高ク打揚一松領(現長生村一松)三千石の内家も大分に打潰レ 人も千弐三百人も死ス牛馬も大分死失申候 九十九里
いよか(飯岡)まで舟人壱万千余も死失申候浦方漁舟も左のことく亡失ニ成リ候
南ハ上総房州まて段々浪高ク打揚人も大分に死亡申候房州前原浦(現鴨川市前原)一村にて家居も千軒余りの家不残打流し人も千三百人余死亡申候牛馬も死失口口(大方カ)に有之候此節の地震夥き大地震にておか方ニテも□□家寺々共大分家ともゆりたおし所々にて人も沢山に□□□打連 或ハ気を失死人も大分に有之候 房州海辺は海陸に成り候飯又有之おか地海に成り候所普多(ふた)所出来申候其外地志んにて所々替り候事共沢山に有之候一、宝永二年(一七〇五)(宝永四か)酉ノ十月四日昼日中に大地震ゆるき此節も下浦浪柴きわまて打あけ申候此節上方道中小田原の町不残津浪其上火事にて打潰レ 同大久保加賀守様御城も焼失申候 紀州なとも大分津浪上り 浦辺にて人三万人余も死亡申候由四国の内も大分の津浪にて死人も何程と数にも不過死亡申候由

 乍恐以書付御訴訟申上候
一、高弐千四百六拾弐石壱斗八升八合七夕
 本郷一ノ宮村(現一ノ宮町一ノ宮)高辻
 内 三百四拾弐石壱斗八升八合七夕
   未ノ改出高
 此反別弐百拾町八反弐畝弐拾七歩
 内 田方百拾壱町弐反九畝弐拾三歩
 内 拾八町六反七畝弐拾弐歩 砂埋亡所
 畑方 九拾九町五反三畝四歩
 内 拾七町三反弐畝弐拾八歩 砂埋亡所 是ハ申ノ春より夏秋迄百姓男女共不残罷出砂さらへ普請仕申ノ麦毛
 仕付申候間酉ノ年より御年貢上納可仕候
一、七拾六町三反七畝弐拾八歩 新田畑反別
 内 田方弐拾五町七反五畝拾壱歩
 内 拾四町九反四畝弐歩 新田砂埋亡所
 畑方 五拾町六反弐畝拾七歩
 内 弐拾壱町八反五畝拾弐歩 新田砂埋亡所
 〆五拾五町四反七畝六歩 本田畑新田畑砂埋亡所
一、百姓家百六拾六軒 津浪流失
 此者共屋舗無御座候故陸江上り一門縁者或百姓傍輩之屋敷ノ内をせはめ候而小屋かけ仕干今罷有候
一、本郷村(現一宮町)新笈村川除潮留堤千弐百五拾間余前方より押流田畑大分押欠申候故未ノ七月十七日風雨荒之節節(ママ)も村東五拾町余田地江潮差入御年貢ニ上納可仕米一切無御座候付金納ニ而御年貢皆済仕候 依之同年之九月御代官様御検見ニ御廻り被遊候節御見分ニ入川除潮留堤之御普請奉願候得ハ御聞届御普請可被 仰付様ニ被仰候其以後津浪ニ而大破罷成難儀仕候
一、高弐百四拾七石 新笈村高辻
 内 八拾壱石六斗八升七合九夕弐才 川欠無地高 此反別拾弐町七反五畝八歩
 内田方 七町弐反弐拾五歩
 内 壱町八反七畝拾壱歩 本田砂埋亡所
 畑方五町七反弐畝拾三歩 本畑砂埋亡所
 是ハ申ノ夏秋百姓男罷出砂さらへ普請仕麦毛仕付申候得ハ酉ノ年より御年貢上納可仕候
 右は未十一月廿二日之夜大地震津浪ニ而田畑砂埋亡所ニ罷成候 右之内本畑拾七町三反弐畝弐拾八歩去申ノ春秋百姓自力ニ而砂掃普請仕候 残而五拾五町四反七畝六歩ハ百姓自力ニ而普請不罷成候ニ付其砌より度々奉願候得共被仰付無御座何とも迷惑仕候 依之去秋御検見ニ御廻り右砂埋亡所御見分被遊候節も御普請之儀奉願候ヘハ百姓自力ニ而随分精出シ普請仕候様ニと被仰付候得土ハ困窮之百姓ニ御座候ヘハ自力ニ而普請不罷成迷惑仕候 御慈悲ニ亡所川除潮留堤 御公儀様御入用を以御普請被為仰付被下候は渇命をも津なき百姓相続仕難有可奉存候以上
     上総国長柄郡本郷一ノ宮村 名主 十郎左衛門
               同 太兵衛
               同 太郎左衛門
               同 平四郎
               組頭 重兵衛
               組長 新兵衛
               同 角 右衛門
               同 平次左衛門
               同 清兵衛
               同 源次郎
               同 藤 右衛門
               同 惣百姓
             同国同郡新笈村
               名主 市 左衛門
               組頭 三 左衛門
              (後一葉を欠く)
(5)乍恐以書付御訴訟申上候
     上総国長柄(註・現一宮町)郡一宮本郷村
     訴訟人 惣百姓
一、去末(一七〇三)十一月廿二日之夜大地震之節津浪入田畑亡所大分出来仕 百姓自力ニ普請難相叶迷惑仕候以御慈悲御普請被為仰付被下候は難有可奉存候 亡所之儀委細書付去暮差上置申候事
一、本郷村之渡シ船(一宮地元の一宮川の渡し船か)之儀先規御地頭様方より破損次第修覆被 仰付被下候 然共今般殊外破損仕候是又御慈悲を以御修覆被為 仰付被下候は難有可奉存候 尤郷中ニ不限往還之渡船ニ而御座候事
一、郷中之小橋殊外破損仕候 是も先規御地頭様方より段々御修覆被 仰付被下候間此度も御慈悲を以御修覆被為仰付被下候は難有可奉存候事
一、猪鹿等罷出田畑荒シ申候節は累年御地頭様より鉄炮借用仕 玉なしに驚シ申候今度も猪鹿罷出難儀仕候間鉄炮四梃拝借被為仰付被下候は玉那しに驚シ申度奉存候事
 右之趣惣百姓奉願候以御慈悲被為仰付被下候は難有可奉存候以上
     上総国長柄郡一ノ宮本郷村
          名主 十郎左衛門
 宝永元年(一七〇四)申七月
               同 太兵衛
               同 平四郎
               同 太郎左衛門
               組頭 藤 右衛門
               同 源次郎
               同 平次左衛門
               同 角 右衛門
              同 重兵衛
              同 新兵衛
     御代官様
 『元禄関東地震(一七〇三)の地学的研究』(松田時彦 太田陽子 安藤雅孝 未倉伸之)によれば、元禄十六年十一月二十三日(一七〇三年十二月三十一日)、南関東を襲った大地震は元禄地震とよばれ、『理科年表』によると、その震央は房総半島南方北緯三四・七度 東径一三九・八度、マグニチュード八・二である。この元禄地震は大正十二年の関東地震(大正地震)と似ている。相模湾沿岸地域から房総半島南部に多大の被害を与え、両者の震害分布が大略似ている。津波についてはその被害範囲が大正地震に比してはるかに広く、震源より南方の外洋にあったと推定されている。津波の波高は外房沿岸では元禄地震の方が三倍も大きかったと推定される。
 又東大地震研の資料によれば、九十九里浜は津波来り死者多数。推定津波の高さ四メートルとしている。
 この大津波は、かなりの人的物的被害を与えたことは間違いなく、茂原市鷲山寺の供養碑正面に溺死者の数を列記してあり、すなわち、この供養碑には溺死者都合二千百五十人とある。
 前掲にあげた一宮本郷村の被害を見るに、
 流出家屋百六十六軒 砂埋亡所は
 田三十五町四反九畝 畑四十四町九反 計八十町三反九畝
家を流された老は、一門縁者を頼って、その者の屋敷をせばめて小屋がけの生活をしながら、男女残らず出動して今までに十七町三反歩の砂掃をしたが、困窮して復旧が出来ないから、御公儀様御入用をもって御普請を願いたいと願い出ている。
 この訴えをみると人家と田畑の被害はわかるが、人畜の被害が出てこない。そこで寺の過去帳を調べてみたら、当時の記録の残っている寺は次の二ケ寺で、他の寺には記録がなく全貌を知ることができない。
 東栄寺過去帳 死者七人 伝吉 半左衛門 同妻 作次郎 同妻 同居者 庄右衛門弟
 真光寺過去帳 死者三人 五郎右衛門の子勘四郎 三郎右衛門 金十郎
          (千葉県総務部消防防災課『元禄地震』二十頁報告より)
 更に、同報告書には前掲の児安惣次左衛門の萬覚書について次のように論及している。
 夜四ツ時分(亥の刻午後十時頃)より大地震三度夥しくゆれ出し、少し間あって辰己沖より海夥しく鳴り、夜八ツ半時分(丑の刻、午前二時半)津波上り申候。巳の年(延宝五年)の津浪より波の高さ四尺余りも高く、前の下通り屋敷へ出た家は形もなく打潰され比節又々右之会所へ上り、せきの内の道二十間、三十間水上り、岩切下新屋下きし上、河はし上迄波上り申候、此の節は先年の津浪覚にて下通りに居住の者、大地震、大地震故早く皆々逃上り候故、死人は多くなく浜細納屋に置候者心なくにげ上り申さず者共十四~五人死申候、とある。また権現前に津浪犠牲者の合葬した所があるが、その数は不明。
(6)『日本地震史料』第二巻p203「池上誠家文書」の「一代記 付り津波ノ古文」によれば
 元禄津波に遭遇し、あやうく一命をとりとめた同家の先代が、その時の生々しい経験をもとにして貴重な見聞、体験をのべている。次にその記載を見よう(原文のまま)
 「元禄十六癸未年夏旱抜シテ冬寒強星ノ気色(ケシキ)何トナク列ナラズ霜月廿二日ノ夜子ノ刻ニ俄ニ大地震シテ無止時山ハ崩レテ谷ヲ埋大地裂ケ水涌ル石壁崩レ家倒ル坤軸折レテ世界金輪在へ堕入カト怪ムカ、ル時津浪入事アリトテ早ク逃去者ハ助ル津浪入トキハ井ノ水ヒルヨシ申伝ルニヨリ井戸ヲ見レハ水常ノ如クアリ海辺ハ潮大ニ旱ルサテ丑ノ刻ハカリニ大山ノ如クナル潮上総九十九里ノ浜ニ打カクル海ギワヨリ岡江一里計打カケ潮流ユク事ハ一里半ハカリ数千軒ノ家壊流数万人ノ僧俗男女牛馬鶏犬マテ尽ク流溺死ス或ハ木竹ニ取付助ル者モ冷コヾへ死ス某モ流レテ五位村(現白子町五井)十三人塚ノ杉ノ木ニ取付既ニ冷テ死ス夜明テ情アル者共藁火ヲ焼テ暖ルニヨツテイキイツル希有ニシテ命計免(マヌカレ)タリ家財皆流失ス明石原上人塚(現白子町五井高の上人塚か?)ノ上ニテ多ノ人助ル遠クニゲントテ市場(現白子町市場)ノ橋五位(現白子町五井)の印塔ニテ死スル者多シ某ハソレヨリ向原(現白子町向原)与次右衛門所ニユキ一両日居テ又市場(前出)善左衛門所ニ十日ハカリ居テ観音堂(現白子町観音堂)長右衛門所二十日ハカリ居テ同所新平衛ノ長屋ヲカリ同年極月十四日ニ遷テ同酉ノ夏迄住ス酉ノ六月十三日古所村(現白子町古所)九兵衛所ニ草庵ヲ結ヒ居住ス妻ハ観音堂(前出)ニテ約諾シテ同十七日引取ル九月十七日女子出生スサテ又津浪入テヨリ日々ニ大地ウコイテヤマス一日ニ五度三度ユル事ハ酉ノ年(一七〇五)マデ不止其砌二ヶ月三ヶ月ノ間ハ津浪又来トテ迯去事度々ナリキ末ノ年ヨリ廿七年(延宝五年(一六七七)カ)以前延宝四已巳(丙辰力)年十月十日ノ夜戌ノ刻津浪入前ニ大成地震一ツユル此時波ハ六丁計打入十丁ナイハカリ流渡ル由謂伝ル其前巳ノ年ヨリ五十一年以前巳ノ年ノ如ク入ル由語リ伝ル今度未ノ年入タル如クナル事開關ヨリ以来此浜ニ不云云南ハ一ノ宮(現一宮町一宮)ヨリ南サホド強カラズ北ハ片貝(現九十九里町片貝)ヨリ北強カラズ後来ノ人大成ル地震力ヘシテユル時必大津浪ト心得テ捨家財早ク岡江迯去ベシ近辺ナリトモ高キ所ハ助ル古所村印塔ノ大ナル塚ノ上ニテ助ル者アリ(椿台ト云)家ノ上ニ登ル者多家潰レテモ助ル如此ヨク々可得心 同戌ノ霜月惣左衛門地ヲ借リ十三日移従(ママ)ス同年号(宝永四年・一七〇七)亥ノ十月四日暖ナル事五月ノ如シ天晴雲一点モナシ風不吹シテ髪ノ毛モウゴカズ午ノ下刻ニ地震大ニユル三年コノカタニ不覚ツヨクユル堀ノ水溢ル未ノ中刻俄ニ浪高クナリ二三十間打掛引力ヘシ四度打掛ケ次第ニツヨク打カケ二丁計打上ケナイヤノ上マデ浪来ル此日鰯大ニヨリ引アグル数百人ノ者共鰯ニカヽリアヒアヤウキメニ逢者数多アリ作田(片貝作田川)松がエ(成東町木戸川)ガ土ノ川ニテ十四人死スル者アリ此時モ二三日ノ間地シン度々ニユル皆人夜ニ岡土ニゲ上ル同年霜月廿三日午ノ刻雷鳴空ノケシキ焼ホコリフスボル如クシテ砂石降ル俄ニ闇ト成人ノ面ミヘズ初ハカル石ノクダケタルモノ降後ハ黒キ砂フル皆人前後ヲ忘却シテ動転スル斗也申ノ刻雪降リ天晴皆人安諸ノ思ヲナス又夜ニ入黒砂降極深闇ト成昼ナレバ則闇(クラ)ヤミ也此砂石フル事同十二月八日迄也富士山ニ大成穴出大地ノ底ヨリ火出山土焼飛来也此後風ヲ引煩事無限も風引ぬ者ハナシ
同子ノ年九月四日男子誕生ス此日天気好未ノ刻大成震動ス入日赤キ事半天ニ過テ朱ノ色ノ如シ人皆怪ム夜大雨降リ水出ル
 この文書は体験談として貴重なものである。県防災課では次のようにまとめている。
 「元禄の大津波は海際より岡へ一里ばかり押し寄せ、潮の流れは一里半にも及んだとしている。この筆者は五井村の十三人塚の杉の木にとりついたが、冷えてすでに仮死状態になったところを、なさけある人が藁火で暖めてくれて一命を免れたといっている。特に市場の橋や五井の印塔で死んだ者多く、明石原の上人塚の上では多くの人が助かったとのべている。この記載は、大津波目撃者であり体験者(被害者)がしるしたものであるところに大きな特徴があるが、郷土における被害状況を参考にするとともに、かつ地震があった節にこのころの人々が津波がおこる場合、井戸の水が干上るという経験的な勘を心得ていたことがわかる。特に津浪の際の教訓として、
 『後来ノ人大成ル地震押カヘシテユル時必大津波ト心得テ、捨家財早ク岡江逃去ベシ近辺ナリトモ高キ所ハ助ル(中略)家ノ上ニ登ル者多家潰シテモ助ル如此ヨク々可得心』とのべており津波の際の心得事項が大いに参考となるであろう。」と結んでいる。
 さて再びこの「一代記 付(つけた)リ津波ノ■(こと)」を五万分の一の地形図の上で再検討して見たい。文中に「上総九十九里ノ浜ニ打カクル海ギワヨリ岡江一里計打カケ潮流ユク事ハ一里半ハカリ」とあるので、地形図の上で再現して見ると、元禄十六年(一七〇三)当時の浪打際(汀線)は前述でも触れたように、現在の一宮銚子間の県道である。図中に……線で示した道路である。白子町古所納屋のこの線状A点から直距離で五井まで一五〇〇メートル、更に市場までは二五〇〇メートル、この辺の等高線は三メートルである。更に岡部落に入ると一面の水田地帯即ちバックマーシー(後背低湿地)になる。「岡江一里計」というと南日当~山中~北高根を通る五メートルの等高線より更に岡へ入ることになる。前述のように元禄津浪の高さが四メートル位であったとすると、この五メートルの等高線の縁辺部まで押し寄せたのではないか。文中に「潮流ユク事ハ一里半ハカリ」とあるは等高線八メートル前後まで岡へのぼることになるので一寸判断に苦しむ。
 この文中に「上総九十九里ノ浜」という事柄があるが、筆老の知る範囲では「九十九里」の地名がでてくるのは、山武郡九十九里町真亀中村太郎右衛家文書、明和八年(一七七一)の文書に「我等九十九里海辺通」という語が最古と考えられていたが、この元禄十六年(一七〇三)の「上総九十九里」がそれ以前で、九十九里の地名は元禄期より使用されていたと解していい。今を去る二八〇年前ということになる。
 むすび
 九十九里浦の元禄地震及津浪に関する古記録は非常に多い。関東地区災害科学資料センターの『房総半島南部の元禄地震史料』、千葉県消防防災課の『元禄地震—九十九里浜大津波の記録』、東京大学『日本地震史料』第二巻等に詳細に記されているので、今更検討しなければならない古記録をあげるまでもないが、九十九里浜旧片貝町(現九十九里町)を境として北東部、即ち匝瑳郡、海上郡、八日市場市、旭市方面は、その被害は南西部より少なかった。九十九里浜南部沿岸における元禄津浪の高さは、その被害を考えると恐らく五~六メートルに達したと推定できる。
 そのほか、房総先端から御宿に至る外房沿岸では、地震史料から判断して五~八メートルの津波の高さで、御宿付近が最高であったらしい、と県防災課の元禄地震で報告されている。又御宿町の津波碑によると、溺死者八百余人と記されていると報ぜられている。多くの被害者があったのも夜であり、その上寒気のはげしい季節で、こごえ死した人が多かったにちがいない。このような災害は何時発生するか予測はできない。そのための防災を充分研究しておき、再び同じ災禍をくり返さぬためにも元禄地震を解明し、今後の対策に資したいことを念願する一人である。

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地図 図:旧片貝村近傍図
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地図 図:元禄地震津波供養塚所在地(県防災課『元禄地震』より)
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地図 図:九十九里浦旧九汀線図(古川原図)
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表:江戸時代の千葉県下の既往地震とその概要
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写真 写真:九十九里町不動堂岡津波供養碑
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図:上総国山辺郡片貝村海岸持場絵図 小川家文書御用留1842(天保13)
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地図 図:旧栗生村近傍元禄津波関係図
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表:町村別溺死者数
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地図 図:池上家元禄津波関係文書別添図

元禄の大津波と九十九里浜—犠牲者と供養碑に関する考察—                            伊藤一男

Array   はじめに

 近い将来、東海大地震が発生する—との予測が出されて以来、巨大地震への対策が国民的関心事になりつつある。
 日本では、毎年、九月一日が近づくと、新聞・テレビ・ラジオなどで、地震への関心を高めるキャンペーンが展開される。大正十二年(一九三二)九月一日、関東南部を襲った巨大地震は、京浜地方を中心に潰滅的な被害を与えた。瞬時に、死者九万九〇〇〇人、行方不明四万三〇〇〇人、倒壊家屋一二万八〇〇〇戸という未曾有の大被害をもたらしたのである。この悪夢のような記憶は、世代が交替しても、九月一日は「震災記念日」(防災の日)として受け継がれている。
 現代の日本は、戦後の大復興を経て、世界一の経済成長をとげ、とりわけ東京湾岸の都市に人口が集中して、京葉コンビナートなど大工業地帯が形成されている。そこが巨大地震の直撃を受けた経験がないだけに、現在、関東大震災と同じ規模の地震が東京湾周辺で再び発生した場合、その被害は甚大を極めるものと考えられる。特にガス・ガソリン・化学薬品の大量集積など、地震災害への危険性は急速に高まってきている。そのために、未来の関東地震の予知と対策に、各方面で多大の努力が続けられつつある。
 昭和四十九年九月、地震予知連絡会では、長年にわたる観測成果を公表した。その結果、房総半島の南東沖一帯には著しい地震エネルギーの蓄積が認められ、近い将来、巨大地震発生の可能性があると警告している。この房総沖地震の発生を予知し、その被害を最少限に止めるためにも、歴史学の分野でも多くの調査・研究を積み上げる必要がある。
 房総沖を震源域とする巨大地震としては、慶長九年(一六〇五)・延宝五年(一六七七)・元禄十六年(一七〇三)の地震があげられ、世に「房総三大地震」とよばれる。いずれも相模トラフの線上付近で発生、強い地震動とともに、下総東端の銚子から上総・安房の沿岸の村々に大きな津波被害を与えている。とりわけ元禄十六年の地震は、旧暦十一月二十三日の夜間に発生、マグニチュード8・2の巨大地震で江戸・小田原に大きな被害をもたらし、倒壊家屋二万余戸、死者五〇〇〇余人といわれる。また地震による大津波は、特に九十九里海岸地帯、夷隅・長柄・山辺・武射の四郡を襲い、家畜を斃し、家屋を押し潰して、多数の溺死者が出たと伝えられる。
 当時の犠牲者を供養して建てられた碑は、俗に「津波塚」とよばれ、九十九里浜の場合、成東町の木戸川を北限として、一宮川流域までの間に一八か所の「塚」が認められる。中でも茂原市の鷲山寺門前にある供養碑には、村々の死者二一五四人と記され、南白亀川流域の被害の甚大さを伝えている。とかく忘れ去られ、伝説のかなたに埋もれてゆこうとする房総の巨大地震の中で、この元禄の「津波塚」は、当時の被害状況を私たちに伝えてくれる。
 この数年来、筆者も及ばずながら千葉県の地震災害史、とりわけ地震による津波の被害に深い関心を示してきた。たまたま一九八二年十一月中旬、千葉県郷土史研究連絡協議会の第一〇回研究発表大会において、「元禄地震と大津波」(1)と題して調査の一部を報告する機会に恵まれた。その後、多くの方々から質問が寄せられ、それらの疑問に回答を続ける中で、仮説の具体的展開に迫まられ拙著『房総沖巨大地震』(2)を短い期間に上梓することとなった。本稿は、これに連なる仮説具体化へのアプローチの一端であるが、九十九里浜に点在する「津波塚」を素材として、元禄大津波の実態、とりわけ沿岸村々における津波犠牲者の問題を試論的に述べてみたい。

  1 砂丘の村の「津波塚」
 房総半島の東側、太平洋に面して、白砂縹渺たる九十九里浜がある。外洋に接する海岸線は非常に長く、北の刑部岬から太東岬まで約六〇キロに及び、その海岸線に沿って黒潮が北上している。古来、九十九里地方は気候温暖で、自然の地の利に恵まれた土地であった。近世初頭、関西漁民の進出によって地曳網漁業の基礎が形成され、干鰯(ほしか)など魚肥の生産は内陸部の農業経営を大きく発展させ、沼沢低湿地が拓かれ多くの「新田村」が誕生していった。ところが、元禄地震による大津波の襲来によって、九十九里の浦々では数千名の人々が溺死し、海況は大きく変化して、耕地や用水路は砂に埋もれたのである。この不漁と凶作に加えて、治安は大いに乱れ、約一○年間は産業・経済が不振で、復興はなかなか見られなかったと伝えられる。
 元禄の大津波による犠牲者の霊は、里人たちによって手厚く葬むられ、やがて埋葬地には供養碑が建立され、今日に至るまで仏果菩提が弔われている。各地に建てられた碑は、俗に「津波塚」とよばれ、九十九里浜の場合、成東町の「松ケ谷千人塚」を北限として、一宮川流域までの間に、伝承地も含めて合計一八か所の合葬塚が認められる(第1表参照)。これら津波塚の中には、九十九里町の真亀津波塚(3)のように「妙法津波精霊」と簡素な銘文をもつものや、史料中の「流水の死者山をなす、山辺郡片貝村本隆寺処管、同村北之下海辺白砂に葬る。御門村妙善寺処管、粟生村海辺白砂に葬る。北今泉村等覚寺処管、男女子供六拾参人(3)」のごとき現在地の確定できない伝承地も含まれている(図1参照)。以下、犠牲者の埋葬地が確定でき、さらに供養碑の現存するものに限って、刻まれている銘文を紹介してみたい。
 1 松ケ谷千人塚(成東町)
 (地蔵尊台座)経白、地蔵菩薩以大慈悲芳口名号口口、時元禄十六年未之霜月廿三日、大地震津波而溺死当村諸精霊等十七回忌□□□増進仏果誌為乃至自他法界平等利益、松谷村惣念仏講中(以下欠)。

 2 本須賀百人塚(成東町)
 (五輪塔台座)上総国本須賀郷大水溺死精霊九拾六人、元禄十六癸未年十一月二十二日、導師蔵音寺。

 7 牛込供養碑(白子町)
 (笠塔婆正面)南無妙法蓮華経、東海激浪溺死五十七人巳来五人精霊、元禄十六歳舎癸未十一月廿有三日。(側面)寛政十一□□□□施主牛込村男女、世話人同村信者中。

 10 古所供養碑(白子町)
 (笠塔婆正面)南無妙法蓮華経、諸法従本来常自寂減相、仏子行□(欠)来世得作仏、津波諸精霊老若男女二百七十余名遷為、元禄十六年未十一月二十三日(正徳五年建立)。

14 幸治供養碑(白子町)
(石塔)銘文欠損
(脇塔)元禄十六年癸未年霜月弐拾参日津波精霊(大正十年建立)。

15 一ツ松供養碑(長生村)
(石塔正面)南無妙法蓮華経水死霊(右側)是人於仏道決定無有疑
(裏面)元禄十六年癸未夭十一月廿三日、施主一ツ松村惣郷中。
(脇塔)元禄十六年大津波本村死者八百四十五人、二百五十年忌供養塔、昭和廿七年十一月廿三日営之、一松廿八題目講中。

18 鷲山寺供養碑(茂原市)
(石塔正面)南無妙法蓮華経、日進書(花押)(右側)元禄十六癸未歳十一月廿三日夜丑刻大震東海激浪、溺死都合二千百五拾余人死亡允癸酉五拾一年忌営之(左側)天下和順日月晴明、開山日弁聖人、長圀山鷲山寺、施主門中男女(裏面)維持宝暦三癸酉十一月廿三日(台座正面)八百四拾五人一松郷中、三百四人幸治村、二百二拾九人中里村・七拾人八斗村・八人五井村・二百七拾二人古処(ママ)村、四拾八人剃金村、七拾三人牛込村、五拾五人浜宿村、二百五拾人四天寄(ママ)村。
 これら一群の供養碑は、すでに明治二十年代(一八八七~九六)小沢治郎右衛門らによって注目され、その著書『上総町村誌(4)』に紹介されているので、参考上、その記載を掲げよう。
 元禄十六年癸未十一月二十二日本州ノ地大ニ震ス。夜東海嘯キ洪濤陸ニ浸入シ、夷隅・長柄・山邊・武射四郡沿海ノ村落其害ヲ被リ家畜ヲ斃シ、家屋ヲ奪去セラレ溺死スル者幾千人為ルヲ算フ可カラズ。其死屍ヲ集収シ各所ニ埋葬ス、最著シキモノ六墳タリ。夷隅郡久保村ノ東方沙漠中二千人塚アリ、当時溺死者ヲ葬ル其数詳ニ伝ハラスト雖モ、千人塚ノ名称ニ因レル者ナラン今墳上碑アリ。長柄郡一ツ松村本興寺境内供養塚アリ(15)、死屍三百八十四ヲ合葬ス、本寺位牌ノ背後ニ維元禄十有六年癸未十一月二十二日之夜、於当国一松大地震尋揚大波、鳴呼天乎是時民屋流、牛馬斃、死亡人不知幾万矣、今也当寺有録死者千名簿、勒回向於後世者也ト記ス。幸治村ニ無縁塚アリ(14)、死者三百六十余ヲ合葬スト、今墳上松樹蒼々タリ。牛込村ノ南方字古屋敷墓所中ニ津波精霊ト稱スル一墳アリ(7)、死者百三ヲ合葬スト、享保十一年丙午年十一月経文ヲ貝殻ニ書シ、追福ノ為メ之ヲ埋メ塔ヲ建立シ、亡霊ヲ弔フ。山邊郡四天木村ノ中央要行寺境内ニ津波溺死霊魂碑ト書セシ木塔在リ(6)、死者二百四十五ヲ合葬スト。武射郡松ケ谷村字地蔵堂二千人塚アリ(1)、死者ノ数詳ナラズ、蓋名稱ニ因レル者ナラン、今墳上石地蔵ヲ置ク。其他自己ノ埋葬スル者學ケテ算フヘカラスト謂フ云々。」(供養碑の番号は筆者注記)
 長文の引用とはなったが、九十九里浜における津波塚を知る上で、得難い貴重な文献資料である。事実、後世に公刊された『長生郷土漫録』(林天然著)・『長生郡誌』などの地誌類は、ほとんど町村誌の記述を引用している。また最近では、東京大学地震研究所の羽鳥徳太郎氏(5)によって、四天木(6)・幸治(14)・一ツ松(15)・鷲山寺(18)・久保(御宿町)の供養碑が紹介されている。
 これらの供養碑は、十三回忌・十七回忌など、犠牲者の追善のために造立されたものであり、「大水溺死精霊九拾六人」(本須賀)・「東海激溺死五十七人」(牛込)・「津波精霊老若男女二百七十余名」(古所)などと刻まれている。この犠牲者の記載は、元禄の大津波による被害の実態を復元する上で、極めて重要な基礎資料である。特に注目したいのは、宝暦三年(一七五三)に造立された茂原市鷲山寺の合同供養碑(18)で、碑面には一ツ松郷一六村以下、現在の白子町・大網白里町・長生村にあたる村々の合計二一五四名もの犠牲者が記されている。この合同供養碑は、後項において分析の対象とするが、とりわけ南白亀川流域の村々における津波被害の惨状を伝えている(図1のA点付近)。

  2 元禄大津波と村々の被害
 武射郡松ケ谷村  成東町松ケ谷の南方、篠笹と樹木に囲まれた共同墓地の中に、一体の地蔵尊があって、俗に「千人塚」とよぼれている(図2参照)。元禄大津波の十七回忌にあたる享保五年(一七二〇)に造立されたもので、高さ三尺許りの地蔵尊の台座には、前述のごとく松ケ谷村惣念仏講中によって、追善供養の法会が営まれた旨の銘文が記されている(図3参照)。多くの津波塚は伝承のみであるが、この千人塚の場合、造立の由来を記した古文書が残されている。
 『見聞紙説(6)』によれば「爰ニ其昔元禄十六年関東大地震、同年十一月廿三日ノ夜九十九里大津波、其頃則栗山川ト木戸川一ツニテ其川シモ宿之下ニ至ル、津波ノ為川中へ波ニ打込レ死亡人川下へ漂着ス、現今宿之下地蔵堂此所へ無縁ノ死亡人埋ムル、四百人ト云フ、百人ト云フ、八十四人ト云フカ実ナルカ、供養ノ為今有地蔵尊ヲ安座スルナリト云フ、其供養ノタメ七月廿三日大セカキト云フテ今ニ施行スト云々」と記されている。これらの記録によると、当時、松ヶ谷村の周辺は海岸に沿って南流する栗山川と東流する木戸川とが合流し、宿之下付近で大きく南に蛇行して海に注ぐ河口となっていたものと推測される。そのために、津波が去った後、夥しい死骸が漂着、その数は四〇〇人とも一〇〇人とも、あるいは八四人とも伝えられる。これらの人々は、松ケ谷村の芝地に無縁仏として葬られ、十七回忌の供養に地蔵尊が造立されて、その後、毎年七月二十三日に「大施餓鬼」の法会が催されたといわれる。
 また、『見聞雑誌』には「十一月廿三日ノ夜、此沖合ニ大宝丸ト云フ大船一艘、風待ヲシテ休泊有シニ、船頭大ニ廿三夜ノ月ヲ信仰アリ、夕暮レテ波静ニナギテ、月船ノ水先ニ出タレハ、早速船頭船ノヘサキへ出テ月ヲ拝セントスルトキ、月凡三ヒロモ上リシト思フ内ニ、浪ノ為ニ月隠レ、船頭大ニ驚キ是レハ大波ナルベシト、早々錠綱ヲ延シタルナレバ、船波ニツキ埋リ皆亡命スルヲ免レタリト云、是即神仏信心ノ奇得ナルベシト云々」とも記されている。これは「月待信仰」の神徳伝承の一種であるが、当時この地方には「御三夜様」といって、浜辺に出て、月光を拝する民間信仰があった。津波による大波のために、「二十三夜の月」が波間に隠れたのを見て、咄嵯に錨の綱をのばして船の顛覆を免がれた。まさに、経験豊かな海上労働者ならではのエピソードである。
 武射郡本須賀村  すでに紹介したが、松ケ谷の千人塚から西方一・五キロメートル、成東町本須賀の畑中に一基の五輪塔がある。これも元禄大津波の犠牲者を葬ったもので、古来、土地の人々は「百人塚」と呼んで、現在でも香華をそなえ仏果菩提が弔われている。『百人塚由来記(7)』によれば、当時の状況を次のように記録している。
 元禄十六癸未年、十一月廿二日ノ夜、晴天ニシテ雲無、三更ノ比ニ大地ノ頻ニ震動シテ、諸人天地モ倒ルカト思ヘリ、故家ノ忽チ破レ、山ハ崩レテ、池ハ平地ト成ル、衆人大ヒニ周章ス、迯去ラント欲スレドモ遁レル足ヲ留メルベキ地無シ、爰ニ災難尚ヲ難ヲ累ヌ、海瀕ノ庶子等、海水ノ動波津ニ揚ルトハ努思ハズ、処々ニ群集リテ唯地震ヲ歎ク耳、夜鶏鳴ク平旦ノ比、直ニ揚ル■箭勢自リ速シ(中略)磯辺ニ艫ヲ並ベル漁船、浦辺ニ棟ヲ列ス漁師等、件ノ津波ニ打被破、落花微塵ト成リテ畢、之ニ依リテ、死人田畑堀江ニ満チ、畦畝ニ枕ヲ並ベル、時ニ及デ運命強キ者、漸ク命ヲ全ス、九十九里ノ溺死者都テ幾千万力知レズ、當浦ノ溺死者九拾六人、終ニ是ヲ墓所ニ葬リテ、百人塚ト名ス云々。
 この記録によると、地震の発生は旧暦十一月二十三日の三更(子刻・午前零時~二時)で、津波の襲来は平旦(丑刻・午前二時~四時)といわれる。突然、大地が震動して天地が覆えるかと思われ、人は逃げるに足が地に着かず、やがて夜明け近く、大山のごとく押し寄せた津波は、矢のような勢いで、民家や漁船を流し去ったのである。田畠の畦や堀江(用水溝)には、溺死した人々が横たわり、本須賀の浦では九六名もの犠牲者があって、これを合葬したのが百人塚であると記している。
 一方、『本須賀郷御年代記(8)』によれば、「元禄十六癸未年十一月廿三日之夜、大地震、月出頃ヨリ房総三ケ國大津波死人数知ラズ、當村ニ於テ波打上ル■小向之前田道■打上ル、今ニ於テ百人塚有之、其頃蔵音寺ハ當村一本寺ナリ、故ニ蔵音寺過去帳ニ巨細ニ死タル者共名前捺印至スナリ、其外ニ死骸知レ難キ者多シ、今南京塚里ト云下ニ沼アリ、此沼へ流レ死スル者共有リ、其魂魄ノコリ風雨之夜ハ鬼哭ヲ聞ク■物凄シ、村中挙テ払へ念仏供養セントテ里ノ傍ニ御經功徳塚ヲ築ク、真言三昧供養ヲ致シ夫ヨリ絶ヘタリ、附近今ニ御經経塚卜云フ、即チ其名ヲ取リテ今両京塚之名ヲ附ル也、俗ニ夕割沼ト云フハ往古幽霊ト云フ、名ヲ改メ略シテ夕之字ヲ附ル也云々」と記している。やや史料批判を必要とする内容ではあるが、現在の本須賀通堀橋の一帯には砂丘列間の沼沢・低湿地が展開しており、ここに流入した津波によって溺死する者も多かったこと、その菩提を弔らうために経塚(字京塚付近)が築かれたことなどを知ることができる。さらに、里人の中には津波に流されて、「死骸知れ難き者共」も相当数あったとも記している。
 山辺郡粟生村  前引の『高橋家文書』中には、「御門村妙善寺処管、粟生村海辺白砂に葬る」との記述があって、九十九里町粟生にも津波塚が存在したことが知られる。次に年代不詳ではあるが、『飯高家文書(9)』が粟生村の被害状況をリアルに描写しているので、以下、紹介してみたい。
 元禄十六未年十一月廿二日夜、子ノ刻ヨリ、俄ニ大地震揺リ返シ揺リ返シ表ニテ大タイコ打候如クニ鳴リヒビク、同丑ノ刻ニ大山ノ如クナル津波二三ノ浪続イテ入来ル、別テニノ波ツヨクシテ、家棟木共ニ押流サレ、大木ハ土手ト共ニ二三丁程モ流、逃人々之内ニテモ浪ニ追ツカレ、水ニ溺レ死スモノ脇村ハ格別、当所ニテ百人余也、牛馬鶏犬マデ水ニ溺レ死ス、又、水ヲワケ出テモ寒気ニ綴レテ死ス者多シ、暁天ニ潮汐引退、哀ナルカナ骸ハ道ニ累々トス、以来如斯ナル事、能々心得テ、家財ヲ捨迯去ルベシ。
この記録によれば、旧暦十一月二十二日の深夜、子の刻すぎに大地震が発生、厳冬の夜更けのことなので多くの人々は就寝中で、その混乱ぶりは想像に難くない。その震動を「表にて大太鼓を打ち候ごとくに」と表現しており、地鳴りの音のすごさがうかがわれる。その後、丑の刻に大山のような津波も押し寄せて、第二波が最も激しかったと記している。瞬時に、家屋・大木・家畜が押し流され、岡方へ避難する人々も波にのみこまれ、粟生村では一〇〇名余の溺死者が出た。たまたま、津波を避けて陸にあがった人があったとしても、その多くは寒さのために凍死したと記されている。津波の引いた跡には、死体の山が累々として、まさに地獄絵のような状態であった。
 長柄郡一ツ松郷  すでに紹介したように、一ツ松郷十六村では合計八四五人もの犠牲者があったとされ、本興寺の位牌裏にも惨状の一端が刻まれている。『牧野家文書(10)』には「船頭給より北の方、段々浪高ク打揚、一ツ松領三千石の家も大分に打潰し、人も千貳三百人も死ス、牛馬も大分死失申候」と記されている。他方、旧八積村元台家文書の『先祖伝来過去帳(11)』には「元禄十六癸未年十一月廿二日夜、房総大津波、宮之下溜池迄水上ル、夜の九ツ時より大地震ゆり、三尺戸自然と明く海辺ハ大地一二尺割れ、波より先達て水せき出る、依之土中に足ふみ込、逃候も埒明不申、波にお付かれ水死仕もの凡七万人斗、水死之者有之其年極月迄、不絶地震ゆりき。」との記載が認められる。これらの史料によると、一宮町の船頭給より北の方で大きな高波が押し寄せ、一ツ松領では多くの家屋が破壊され、一三〇〇名もの人々と牛馬多数が犠牲になったことが知られる。ここで注目したいのは、地震発生とともに海岸付近で三〇~六〇センチの地割れができ、さらに噴水現象があった点である。このため、人々は土中に足を踏み込んでしまい、思うように避難できず、背後から襲いかかる津波のために溺死したとある。明らかに土壌の液状化を示すものであり、臨海の低地においては、警戒すべき現象の一つであろうと考えられる。
 匝瑳郡堀河村  従来、九十九里地方に分布する津波塚は、成東町松ケ谷の千人塚を北限とするのが定説であった。最近、『野栄町史』関係の古文書を整理中、津波の被害と供養塚の存在を示す記事が認められたので、ここに九十九里浜最北の史料として紹介してみたい。以下、大木広家所蔵の享和三年(一八〇三)『養元覚書控』からの抄出である。
 一、元禄十六癸未年十一月廿二日の夜九ツ時頃大津浪、昼七ツ時頃■納屋の井戸水底干ニて少も無之、堀河之浜辺ニてハ大ニ怪しみ不思儀なり迚騒き居る中、海の浪高まり候ニ付、岡ニ縁故ある者は迯去り候、故ニ堀河村ニてハ水死人百人斗り之由ニ候へとも、此時津浪の為水死人数千人ニて、木戸方■吉崎辺■ニて水死人凡貳千人余も有之候由ニて、所々ニ貳百人又ハ参百人宛の水死者之供養之塔或ハ埋葬之塚有之候、此時の津浪ハ飯倉の道祖神(墨抹脇書・砂子山)迄大浪押上ケ候由ニて、古来稀なる大津浪ニ有之候為心得見聞之段書記シ申候(以下略)
 この史料によると、栗山川以北の匝瑳郡の浦々でも津波の被害があって、木戸浜(光町)から吉崎浜(八日市場市)の間にかけて約二〇〇〇名の犠牲者があったとされる。堀河村の海岸では、昼の七ツ時頃から急に浜納屋の井戸水が枯れたので、人々は津波を恐れて岡方の親類を頼って避難した。そのために、堀河村での犠牲者は約一○○名にとどまったとされ、大津波の際の素早い対応の大切さを記している。この「古来稀なる大津浪」は、飯倉(八日市場市)の道祖神まで押しあげたと記されており、河川から侵入した津波が平野内の低湿地に流れ込んだものと推定される。一方、史料中には「所々に二〇〇人または三〇〇人宛の水死者の供養塔・埋葬塚」があったと記され、未確認ながら栗山川以北にも津波塚が存在する可能性を示している。
 以上、限られた史料に基づいて、松ケ谷・本須賀・粟生・一ツ松・堀河など、九十九里浜における津波被害の実態について紹介してみた。この五例によって、元禄十六年(一七〇三)十二月、九十九里浜を襲った大津波は、沿岸の村々に甚大な被害をもたらした。大山のごとく押し寄せた津波は、矢のような勢いで幾百余の人々をのみこみ、民家や漁船を流し去ったのである。このように、九十九里浜の南部地域は、犠牲者の数、浸水域の広さともに千葉県で最大であり、元禄地震被害全体の中でも特筆に価する。

 3 南白亀川流域の津波犠牲者
 九十九里浜・南房総を襲った元禄の大津波は、沿岸の村々に甚大な被害をもたらした。自然の猛威のまえに、為すすべもなく非業の死をとげた人々の冥福を祈る気持は、いま九十九里浜の各地に、津波塚として現存している。すでに紹介したように、成東町の木戸川を北限として、一宮川流域までの間に一八か所あまりの供養碑・伝承地が認められる。これらの碑面には犠牲者の人数が刻まれており、大津波による被害の実態を復元する上で、極めて重要な基礎資料である。さらに、当時の被害を記した古文書から抄出した死者を加えると、房総全体では津波による死者は約五二〇〇名を数え、従来、伝えられていた犠牲者よりもはるかに多いことが判明する。(12)
 九十九里浜の場合、北限の武射郡松ケ谷浦から長柄郡東浪見浦の間にかけて、約二三八七名の水死者が確認され、一ツ松郷三八四名・幸治村三六〇名・古所村二七〇名・四天木村二四五名・中里村二二九名などが注目される(第2表参照)。茂原市鷲山寺の合同供養碑に記された犠牲者は合計二一五四名で、一ツ松郷十六村以下、南白亀川流域の村々における被害の惨状を伝えている。この付近一帯は、いわゆる「上総七里法華」に代表される日蓮宗の集団的信仰圏で合同碑は宝暦三年(一七五三)鷲山寺の末流寺院、あるいは講集団によって造立されたものと考えられる。
 つぎに、極めて試論的であるが、鷲山寺の合同供養碑を素材として、南白亀川流域の村々における全人口に占める津波犠牲者の比率について推計してみたい。当時の村落状況は不明であるが、寛政五年(一七九三)の『上総国村高帳(13)』に記載される戸数を基礎として、元禄年間の人口をある程度復元することが可能である。あくまでも仮説にすぎないが、第3表の欄外注に示したような数式を用いて、各村落の推定人口を算出してみた。すなわち、寛政五年当時の平均家族数を一戸当り七名(祖父母・父母・子供三名)とし、一七〇三年から一七九三年までの人口増加率を約二〇パーセントとして計算した。この推定人口を基礎に、各村落における犠牲者の全村民に占める比率をみると、平均で三二・二〇パーセント、中でも幸治村は七二・三八パーセントと高く、まさに一村全滅に近い惨状が想定される。さらに、古所村は六〇・〇四パーセント、中里村は五九・三二パーセントと続くが、いずれも南白亀川流域の低地に位置する村々であった。
 九十九里浜の海は遠浅さで、海岸線もほぼ直線にちかく、比高約五メートルの砂丘が長々と連なっているので、このために津波による被害を受けにくい。これまで津波被害については、海岸線に近いほど津波が激しく押し寄せ、海岸線から遠いところは被害が軽かったとされていた。しかし、地震史料を詳細に検討してみると、大河川の水系に沿って内陸深くまで津波が進入し、周辺の低地村落へも浸水していた事実が認められる。その具体例について、池上安闊筆録の『一代記付津波之■(14)』によって紹介してみたい。
 元禄十六癸未年、夏旱抜シテ冬寒強星ノ気色何トナク列ナラズ、霜月廿二日ノ夜子ノ刻ニ俄ニ大地震シテ無止時、山ハ崩レテ谷ヲ埋大地裂ケ水涌出ル、石壁崩レ家倒ル、坤軸折レテ世界金輪在へ堕入カト怪ム、カカル時津浪入■アリトテ早ク迯去者ハ助ル、津浪入トキハ井ノ水ヒルヨシ申伝ルニヨリ井戸ヲ見レハ水常ノ如クアリ海辺ハ潮大ニ旱ル、サテ丑ノ刻ハカリニ大山ノ如クナル潮上総九十九里ノ浜ニ打カクル、海ギワヨリ岡江一里計打カケ潮流ユク■ハ一里半ハカリ、数千軒ノ家壊流数万人ノ僧俗男女鶏犬マテ尽ク流溺死ス、或ハ木竹ニ取付助ル者モ冷コゴへ死ス、某モ流レテ五位村十三塚ノ杉ノ木ニ取付既ニ冷テ死ス、夜明テ情アル者共藁火ヲ焼テ暖ルニヨツテイキイツル、希有ニシテ命計免タリ家財皆流失ス、明石原上人塚ノ上ニテ多ノ人助ル、遠クニゲントテ市場ノ橋五位の印塔ニテ死スル者多シ、某ハソレヨリ向原与次右衛門所ニユキ一両日居テ、又市場善左衛門所ニ十日ハカリ居テ、観音堂長右衛門所ニ十日ハカリ居テ、同所新兵衛所ノ長家ヲカリ同年極月十四日ニ遷テ同酉ノ夏迄住ス、酉ノ六月十三日古所村九兵衛所ニ草庵ヲ結ヒ居住ス、妻ハ観音堂ニテ約諾シテ同十七日引取ル同年九月十七日女子出生ス、サテ又津波入テヨリ日々ニ大地ウコイテヤマズ一日二五度三度ユル■ハ酉ノ年マテ不止、其砌二ケ月三ケ月ノ間ハ津波又来トテ迯去■度々ナリキ、未ノ年ヨリ廿七年以前延宝四年己巳年十月十日ノ夜、戌ノ刻津波入前ニ大成地震一ツユル、此時波六丁計打入十丁ハカリ流渡ル由請伝ル、其前巳ノ年ヨリ五十一年以前巳ノ年如ク入ル由語リ伝ル、今度未ノ年入タル如クナル■開闢ヨリ以来此浜ニ不云伝、南ハ一ノ宮ヨリ南ハホド強カラズ北ハ片貝ヨリ北強カラズ、後来ノ人大成ル地震押カヘシテユル時大津浪ト心得テ捨家財早ク岡江迯去ベシ、近辺ナリトモ高キ所ハ助ル、古所村印塔ノ大ナル塚ノ上(椿台ト云)テテ者アリ、家ノ上ニ登ル者多家潰レテモ助ル、如此ヨク々可得心(中略)同年号亥ノ十月四日暖ナル■五月ノ如シ、天晴雲一点モナシ風不吹シテ鬢ノ毛モウゴカズ午ノ下刻ニ地震大ニユル、三年コノカタニ不覚、ツヨクユル堀ノ水溢ル、未ノ中刻俄ニ浪高クナリ二三十間打掛引カエシ四度打掛ケ次第ニツヨク打カケ二丁計打上ケナイヤノ上マデ浪来ル、此日鰯大ニヨリ引アグル数百人ノ者共、鰯ニカゝリアヒアヤウキメニ逢者数多アリ、作田松ガエノ川ニテ十四人死スル者アリ、此時モ二三日ノ間地震度々ニユル皆人夜ニ岡江迯上ル(以下略)。
 かなり長文の引用となったが、この史料は単なる伝聞ではなく、まさに元禄大津波の体験者が記した「覚書」である。筆者である池上安闊は長柄郡小母佐村(白子町)の医師で「某も流されて五位村十三人塚の杉の木に取りつき、すでに冷えて死す。夜明けて情ある者ども、藁火を焼きて暖めるによって生き出づる。希有にして命免がれたり、家財皆流失す。」と記している。すなわち、大きな潮に流され、ほとんど生死の間をさまよった筆者は、大杉の梢にとりついて、奇跡的に一命を免がれたのである。この史料は二〇年程後の享保十年(一七二五)に書かれたものであるが、命がけの体験をもつ人の記録なので、元禄大津波の実態を正確に伝えているものと考えられる。
 これによると、元禄の大津波は「さて丑の刻ばかりに、大山の如くなる潮、上総九十九里の浜に打ちかかる。海際より岡へ一里ばかり打ちかけ、潮流れゆくこと一里半ばかり。」とある。この記載によって、古所村の河口から南白亀川に侵入した大津波は、五井・剃金・小母佐の村々にあふれながら遡上し、市場地先の屈曲部、内谷川との合流部において氾濫したものと想定される(図4参照)。南白亀川の下流部は、昭和初期、改修工事が実施されるまでは蛇々屈曲し、両岸の砂洲には葭茅・雑木が密生して流水を妨げ、一朝、豪雨到れば悪水は沿岸耕地に氾濫して被害甚大であったと伝えられる。現在、白子町役場がある観音堂付近は、やや微高地となって「北ノ台」と通称されるが、この砂堆によって分断された津波は剃金・牛込の村々へと東流したものと考えられる。この大津波は「南は一ノ宮より南さほど強からず、北は片海より北強からず」といった状況で、九十九里浜の南部、とりわけ長柄・山辺二郡に津波が集中したことが記されている。長柄郡の場合、延宝五年(一六七七)にも津波被害があって「十月十日の夜、戍の刻津波入るまえに大なる地震一つゆる、この時に波六丁ばかり打入、十丁ばかり流れ渡ると謂伝え」られ、それ以前の寛永三年(一六二六)の津波でも同規模の遡上距離であった。これら両度の津波に比較して、元禄の大津波は「今度未ノ年入タル如クナル■開闢以来此浜ニ不云伝」と述べている。
 この大津波の結果、「数千軒の家壊れ流れて、数万人の僧俗男女、牛馬鶏犬まで尽く流れ溺死す、或は竹木に取りつき助かる者も冷えこごへ死す」との惨状が展開される。すでに紹介したように、南白亀川の流域では、幸治・中里・八斗・五井・古所・剃金・牛込・浜宿の村々において、合計一〇五九名もの犠牲者を出している。自然の猛威のまえに、為すすべもなく非業の死をとげた人々の冥福を祈る「津波塚」は、牛込村の南入地墓地・下村竜宮台、古所・幸治・中里・八斗高の無縁塚、五井高の上人塚など、伝承地も含めて約七か所も存在する(図中の1・2・3を参照)。
 ここで注目したいのは、「明石原上人塚の上にて多くの人助かる、遠くに迯んとて市場の橋、五位の印塔にて死する者多し」あるいは「古所村印塔の大なる塚(椿台と云)の上にて助かる者あり、家の上に登る者多し、家潰れても助かる」との記載である。これによると、遠くへ避難しようとして市場橋や五井の印塔付近で多くの犠牲者があったが、低地中の微高地である明石原上人塚(五井高)・古所村印塔塚(椿台)などでは多くの人々が助かったとある。この体験によって、筆者の池上安闊は「後来の人、大なる地震押しかえして揺る時、必ず津波と心得て、家財を捨て早く岡へ迯げ去るべし、近辺なりとも高き所は助かる。」と記している。大地震が押し返して揺れ続ける場合、必ず大きな津波を警戒し、家財を捨てて台地に逃げさるのが得策——と避難の心得を説いている。また、あまり遠くに逃げないで近くの微高地に避難することの必要性も説いており、現代にも通じる貴重な教訓である。海辺の地震——それは何よりも明白な津波警報である。このことを池上家の記録は教えている。

 結語——災害社会史への視点
 元禄地震以来、すでに二八〇年余を経過した現在、房総沖の海底には、再び相当量の地震エネルギーが蓄積されているのではないかと考える学者も数多い。そのためか、近年、この元禄地震が研究者の注目を集めて、各種の調査(15)が実施されている。すなわち、元禄の地震と大津波が、房総沖の相模トラフ線上において、近い将来、発生が予想される海洋性巨大地震の代表的タイプとみられているからである。
 未来の巨大地震の発生を予知し、その被害を最小限に止めるために、歴史学の分野でも多くの調査.研究が積み上げられなければならない。未来の地震災害を想定する上で、われわれが知りたいことは、過去に房総地方でおこった被害地震の正確な歴史である。すでに拙著『房総沖巨大地震』で検討したごとく、元禄地震は詳しい歴史資料の残された唯一の地震であり、①地震によって発生した土地の隆起・沈降現象、②津波による甚大な被害などが、著しい特徴点である。本稿でも紹介したように、津波被害による浜方人口の減少、海況変化による漁民の生活窮乏、土砂埋没による港の移転など、多くの社会的な現象をひきおこしている。このように、元禄地震は房総半島、とりわけ九十九里の浦々における地方史の展開を考える場合、単なる一過性の自然災害としてだけ位置づけられる地震ではないのである。
 最近、古文書研究の充実とともに、「歴史地震学」あるいは「史料地震学」ともいうべき学問分野が開拓されてきた(16)。これは地震学・地質学と歴史学の方法論を結合させたまさに学際的な科学研究の分野である。すなわち、過去におこった被害地震の歴史を調査・分析する作業の中から、その地方特有の地震災害の傾向について整理し、未来の巨大地震への可能性を予測する。これが歴史地震学の方法論であり、例えば房総半島に発生する巨大地震は、どのくらいの時代間隔でおこるのか、その震源域はどの辺なのか、さらに震動・津波・崩壊・犠牲者など、どの程度の被害があったのかを正確な歴史資料に基づいて復元する手法である。すなわち、古い時代の地震について知るためには、史書・古記録・古文書など、人間によって書き残された地震の記事を根気よく探し出す以外に道はないのである。
 最近では、房総地方における近世文書の調査もすすみ、地震史料の採録・研究への努力もみられ、先年、東京大学地震研究所の宇佐美龍夫教授などによって『房総半島南部の元禄地震史料(17)』が集大成されている。さらに、上総博物館の吉村光敏学芸員は安房・上総南部の地震史料の採録に努力され、それらの成果は「千葉県大規模地震被害想定調査事業」(県消防防災課・一九八一~八四)の基礎資料として活用されている。この数年来、筆者も及ばずながら千葉県の地震災害史、とりわけ九十九里浜における元禄大津波の被害に深い関心を示してきた。すでに数編の仮説的論稿を提出してきたが、本稿はこれらに連なるアプローチの一端であり、諸先学の業績を体系的に学びつつ、可能な限り新史料の発掘・採録に努めるとともに、何よりも現地調査に基づく実感の中から元禄大津波の全体像を構築することに努力した心算である。
 しかし、内容的にみて、津波被害の表層的な復元作業が中心であって、自然現象を超えた人間的現象の掘り起こしの欠落など、史料の不足からくる内容の偏重は否めない。地震とは、地殻の深部に生じる変動であることはいうまでもないが、それが人間社会にもたらす災害の悲惨さは、同時にまた、「人間の深層にひそんでいる潜在的意識をも、理性の地表に浮上させる」のではないか。このことが、本稿を執筆中、常に筆者の念頭を離れなかった。そんな意味において、脱稿後に接した北原糸子氏の高著『安政地震と民衆(18)』は、視点・方法論ともに啓発されるところ多大であった。「地震の社会史」と副題された北原氏の著書は、安政二年(一八五五)十月、江戸を襲った巨大地震と、その直後の民衆の動向に注目されて、第一部「災害と情報」と第二部「災害と救済」について論及されておられる。ここで注目したいのは第一部で、北原氏は安政地震の具体的な被害の状況を、瓦版・体験筆記・地誌類など膨大な歴史資料の精査・分析によって復元され、災害に明らかに地域差があったこと、すなわち、被害の階層性について強調されておられる。
 さらに、災害への反応が武士と町人、下層庶民の間ではかなり差異があることを明らかにされている。
 とりわけ『鯰絵』の解読作業を通して、「震災の惨状は、ただひたすら暗いのではなく、庶民層の間では不思議に明るかった」とされ、民衆の理性を超えた世直的状況への待望の心理を読みとっておられる。みずから「災害社会史」とよぶ学問分野への新しい視点と方法論を示唆するに十分な重厚さがある。かなり長文の結語とはなったが、北原氏の研究視点への共感を述べつつ、農閑余技の筆をおきたい。

註1 伊藤一男「元禄地震と津波」(『房総の郷土史』第11号・昭58)。
註2 伊藤一男『房総沖巨大地震—元禄地震と大津波—』(崙書房・昭58)。
註3 九十九里町藤下納屋・高橋家文書。
註4 小沢治郎右衛門編・石岡吾老校訂『上総町村誌』全七巻九編(出版地東京明20)
註5 羽鳥徳太郎「九十九里浜における元禄十六年(一七〇三年)津波の供養碑」(『地震』第二輯第二十八号・昭50)。
註6 『見聞雑誌・全』(年代未詳)成東町松ケ谷・小杉秀政家文書。
註7 『百人塚由来記』(年代未詳)成東町本須賀・旧蔵音寺文書(小川梅吉所管)。
註8 今関源右衛門著『本須賀年代記』(嘉永三年)成東町本須賀・今関家文書。
註9 『九十九里町誌』各論編上巻(昭55)第二章第四節九五九~九六二頁所収。
註10 子安惣次左衛門筆録『万覚書』(享保四年)長生郡一宮町・牧野家所管。
註11 『先祖伝来過去帳』(年代未詳)長生郡長生村・現所管地不明。
註12 現在まで確認された金石文・古文書に記された元禄大津波による犠犠者を集計すると、保田浦から御宿浦に至る南房総で合計二八一四名(内圧死三六名)、東浪見浦から松ケ谷浦に至る九十九里浜で合計二三八七名となる(拙著『房総沖巨大地震』八〇~八三頁参照のこと)。
註13 『上総国村高帳』(寛政五年)・改訂房総叢書第五輯所収。
註14 池上安闊筆録『一代記付津波之■』(享保十年)白子町小母佐・池上家所蔵文書。
註15 例えば、羽鳥徳太郎「南関東周辺における地震津波」(『関東大地震五十周年論文集』東京大学地震研究所・昭48)、松田時彦・太田陽子外「元禄関東地震の地学的研究」(垣美俊弘外編『関東地方の地震と地殻変動』スティス刊・昭49)、萩原尊礼「明治27年東京地震・安政3年江戸地震・元禄16年関東地震の震度分布」(『地震予知連絡会々報』第七号・昭47)など。
註16 例えば、宇佐美龍夫『歴史地震—古記録は語る—』(海洋出版・昭51)、羽鳥徳太郎『歴史津波—その挙動をさぐる』(海洋出版・昭51)萩原尊礼外『古地震—歴史資料と活断層からさぐる—』(東京大学出版会・昭57)など。
註17 宇佐美龍夫外『房総半島南部の元禄地震史料』(関東地区災害科学資料センター・昭52)、宇佐美龍夫外「新史料による元禄地震の調査(房総南部)」(『自然災害資料解析』第四号・昭52)、吉村光敏「房総半島南部の元禄地震史料集」(『千葉県博物館協会研究紀要・MUSEUMちば』13・昭57)など。
註18 北原糸子『安政大地震と民衆—地震の社会史—』(三一書房・昭58)。

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写真 写真:本須賀百人塚(成東町)
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表:(第1表)供養碑の分布と伝承地
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地図 図1:九十九里地方の津波図
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写真 写真:幸治供養碑(白子町)
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地図 図2:成東地方の津波塚
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図3:松ケ谷千人塚銘文拓影
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写真 写真:松ケ岳千人塚遠望(成東町)
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表:(第2表)九十九里地方の水死者
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写真 写真:鷲山寺供養碑(茂原市)
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表:(第3表)水死者の推定比率
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地図 図4:南白亀川沿岸の津波塚と浸水域1
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地図 図4:南白亀川沿岸の津波塚と浸水域2
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写真 写真:古所供養碑(白子町)

旧一ツ松郷における津波被害一考 —本興寺大位碑にみる人的被害—                            古山豊

Array  はじめに

 元禄十六年(一七〇三年)癸未十一月二十三日真夜中、突如、発生した地震により、十五年と六ヶ月続いた「元禄時代」が終止符を打たれた。
 元禄地震は、元禄を滅ぼした巨大地震であったばかりか、小田原並びに千葉県下各地に多大な被害をおよぼした。特に、南房総から九十九里海岸沿いでは、潰家のみならず、多数の死者を巻添えにし、その被害たるや惨憺たるものとなった。県下総じて四三九九人以上の死者を出した(1)。死者の大半が第二次災害としての津波によるものであったことがこの地震の大きな特色をなしている。
 県下を通じ人的被害が大きかった地域の二、三を揚げるならば、白子町を筆頭に長生村(旧一ツ松村)、一村の殆んどを呑まれた鴨川市の順となる。紙面の都合により、本稿は長生郡長生村の一ツ松にある本興寺の大位牌を中心に、人的被害状況を考察してみたものである。

(1)
 長生村で確認出来る、元禄地震史料は都合二七点にも達する。内(2)、石碑二二点、古文書(含、位牌・過去帳)五点となっている。その所在は、教応寺七点、深照(じんしよう)寺八点、本興寺七点、その他の寺・家五点で、これら史料は、二百八十年の星霜を経た今日でも、当時の爪痕をリアルに伝えている。
 本興寺(永正十五年—一五一八年開基)は、茂原市鷲巣にある鷲山(じゆせん)寺(建治三年—一二七七年日辮聖人開基)の一派、勝劣派(法華宗)に属している。勝劣派は、さらに八品、一品、二半一品に分かれるが、鷲山寺は、八品派の大本山で・檀家は、茂原市内より海岸方面に多い。海岸、特に、長生村の旧一ツ松郷での中本山の役割を担っていたのが本興寺であった。大本山鷲山寺本堂の前には、元禄地震によって死去した人々の供養碑がある。地震発生五十回忌に建立されたものである。この碑には、一ツ松郷中(八四五人)、幸治村(三〇四人)、中里村(二二九人)、八斗村(七〇人)、五井村(八人)、古所村(二七二人)、剃金村(四八人)、牛込村(七三人)、浜宿村(五五人)、四天木村(二五〇人)が台座に刻字されている(3)(写真参照)。県下を通じて碑の大きさ、碑文の内容、保存等の点で、最もすぐれている石碑である。
 また、本興寺山門向って左側には二基の石碑が建立されている。内一基は古く、左面に「元禄十六年癸未十一月廿三日」と記されているが、建立年月日などはわからない。もう一基は、「昭和二十七年十一月二十三日営之」とある。そして、正面には、「元禄十六年大津浪本村死者八四五人二百五十年忌供養塔」と記されている。鷲山寺供養碑、並びに本興寺の新しい一基には、共に一ツ松村津波死者は八四五人と記録している。ところが、『上総町村誌(抄)』(明治二十二年七月刊行、小沢治郎右衛門著)によると、「長柄郡一ツ松村本興寺境内供養塚在り、死屍三百八十四を合葬す。本寺位牌の背後に維元禄十有六年癸未十一月二十二日之夜、当国一松大地震」となっている。また、『長生郷土漫録』(昭和二十八年刊行、林天然著)には、一ツ松供養塔「一松村本興寺境内にあり死者三百八十四人を合葬し」と出ている。これは小沢説と一致する。
 本興寺には、前述の昭和二十七年(一九五二年)建立の供養碑以外には、八四五人、三八四人という数字を記した史料は全く発見されていない。当寺境内には、ただ三八四人の死者が合葬されたという伝承があるのみである。二百五十年忌の供養碑は、本山鷲山寺の台座の数に合わせたものであるといえよう。何れの数字が正しいものか今日勿論知る由もないが、一寒村の死者数が三八四人と八四五人では差がありすぎる。また、筆者の調査で、一ツ松村九〇八人余りという死者数が算出されるので(後述)この一件の鍵を握っている当寺大位牌を通して探ってみたいと思う。

 (2)
 本興寺位牌は、地震展が開催されると必ず引合いに出される程有名にして、かつ貴重な大位牌である。現在、三枚重ねの状態で本堂須弥壇に立て掛け安置されている。この三枚の内、保存状態の一番良いものが、日蓮の題目「南無妙法蓮華経」を刻した最前部にある位牌で、左右には各二列に戒名が刻字されている。真中にある位牌は、上部四四センチが切断されてしまっていて、惜しくも六〇人(後述)余り記されていた戒名が全くわからない。虫喰いは進んでいるが、残されている五分の四は幸い判読が可能である。傷みのひどいのが残りの一枚で、中央部約七〇×二〇センチほどの面積が虫喰と腐朽によりスポンジ状と化し、木質部は抹られ、触れただけでも剥がれるほど朽ちた状態となっている。他の部分はどうにか読むことが出来る。
 三枚重ねの位牌は、筆者の調査の結果、三枚がつなぎ合わされた一枚板であったことが判明した。図1の復元位牌のごとく、A位牌・B位牌・C位牌(仮称)の各々内側に留められてあった腐食釘の跡と位置がぴったりと一致したことによるものである。さらに、三枚の釘跡の位置の一致は、位牌表面に引かれた縦幅四センチ、横幅二センチの朱線とも一致したばかりか、位牌上部に施された装飾片とその跡等によっても立証される。復元した位牌は、縦一八九・七センチ、横九七センチという一畳を上回るもので、正しく大位牌であった。何時の頃三枚に分断されたものか伝承は定かでないが、三箇所の内釘での腐朽で分解し、その後修復されることがないまま今日の状態で保存されるようになった。そのB位碑に日隆がいう「当寺有縁死者千名」と。その概数が実は最も古く、実態に近い。各々の位牌に刻字された戒名、その他の記載は以下の通りである。

A位牌
道脱 口 口 口 円長 哲清 生緑 妙讃 宗智 妙善 口 口 口 口 口 口
口 口 口 口 口 口 口泉 妙智 常信 妙了 法伝
宗有 妙讃 口 秀善 覚法 口 体円 法仙 妙口 口 口 口 口 口 口
口 口 口 口 口 口 道現 妙法 定堤 大澄
法春 妙源 道春 妙有 道後 妙静 宗信 法隆 宗心 妙玄 口 口 口 口 口 
口 口 口 口 口 口 口 口隆 妙現 妙源 清玄 香寿
妙源 円通 法善 妙相 源立 妙貞 立玄 貞信 妙持 妙有 妙口 口 口 口 口 口
口 口 口 口 口 口 口 妙現 妙詮 妙口 円隆 梅相
玄智院日崇 妙春 妙生 道帰 妙渡 道立 月信 妙幻 妙蓮 浄口 口 口 口 口 口
口 口 口 口 口 口 口 妙衆 妙持 宗讃 妙常 清円
導喜院日如 妙乗 妙全 妙久 妙光 加心 道善 妙智 清雲 妙口 口 口 口 口 口
口 口 口 口 妙子 宗玄 宗久 妙作 妙達 宗泉 妙感 妙幻
善理院日普 円立 道仙 妙源 妙乗 妙林 常心 妙受 妙清 妙見 口 口 口 口 口
口 口 口 口 妙口 妙用 妙久 宗禅 妙了 妙蓮 妙浄 妙入
久本院妙啓 妙秀 妙社 宗秀 妙常 集因 道保 法信 妙仙 宗口 口 口 口 口 口
口 口 口 妙林 妙念 妙清 妙経 円長 浄円 清円 宗仙 宗円
法信院日相 妙清 妙全 道本 妙秀 同伯 妙運 常清 妙悟 妙栄 口 口 口 口 口
妙成 妙喜 妙忍 妙言 妙教 妙貞 道讃 妙月 道本 玄円 円信 宗仁
善理院日志 玄性 妙久 妙真 妙泉 秀哲 妙自 妙蓮 妙円 道満
口 道口 道口 口言 法円 妙了 法受 法禅 妙弁 妙泉 妙信 法久
観理院学法日儀妙隆 妙円 妙林 宗運 道本 道生 妙善 円意 弁本 口 口 口 口
□妙浄 妙要 口 浄信 浄清 妙集 妙立 妙仙 宗仙 円智 休本

B位牌
空了院妙智 浄忠 法禅 源真 浄真 真信 妙意 道意 妙意 妙運 妙観 妙寛 道知 清感 妙泉
妙光 宗長 妙当 妙隆 妙円 了仙 道仙 円了 妙遠 宗林
寿量院日寛 妙観 妙相 宗開 妙信 法信 妙喜 妙信 清閑 妙相 妙順 清完 妙要 清閑 成祐
妙有 妙雲 道証 妙花 妙純 妙全 妙円 円教 妙空 法行 常蓮
     南無妙法蓮華経 本興寺当住 幽玄院日隆 花押
維元禄十有六年癸未
十一月二十二日夜於当國
一松大地震尋陽大波鳴
呼天乎是時民屋流牛馬
斃死亡人不知幾千萬矣
今也記当寺有縁死者千
名簿勧回向於後世者也
其列名如左 本興寺当住
常照院日義霊  妙詮 妙蓮 善性 常照 妙久 妙念 妙解 緑通 妙玄 妙有 定安 妙修
妙法 宗円 宗権 妙権 法蓮 妙円 妙詮 蓮照 妙貞 妙徳 妙道 妙祐
蓮花院隆善亦 得 妙立 妙久 妙与 妙正 善久 法蓮 寿念 妙誠 入玄 妙頂 定有 蓮光 妙了
妙光 仲玄 高円 宗意 法円 妙空 道讃 法立 妙円 蓮光 妙伝 法長 休覚

C位牌
源埋 妙相 妙諦 妙普 妙至 妙伝 秀伝 妙由 法月 休梅 口意 法伝 久清 妙行 秀夢 妙好
休本 要観 妙玄 妙宗 道受
源通 妙覚 妙量 妙用 丁宣 妙見 妙幸 宗円 祐円 妙清 妙安 妙伝 宗清 法円 妙讃 道助
法伝 法観 宗善 道仙 妙円
妙通 妙常 道善 由念 重源 妙進 妙言 僧立 妙記 妙忠 妙本 善心 妙要 法清 妙観 玄智
一入 要幻 妙相 法閑 妙覚
妙利 全性 妙長 妙緑 智源 受正 妙法 随生 妙祐 蓮中 妙慶 心夢 幻意 法因 秀林 妙自
妙尊 宗栄 妙感 妙閑 妙是
深説 了善 伝久 道緑 妙林 受貞 妙林 妙感 宗感 妙入 道円 夢安 夕可 妙千 妙秀 妙信
宗体 法幻 宗意 妙善 妙信
妙心 妙三 随幻 妙持 妙興 妙普 妙慶 従幻 妙可 妙照 妙道 宗久 妙貞 妙光 秀円 妙因
妙要 道円 宗久 法善 妙覚
妙義 円通 妙恵 妙甚 妙要 妙念 妙貞 陽口 妙口 光入 法吟(カ) 忠玄 妙満 妙仙 法林 常清
体要 妙弁 道久 法寿 受覚
妙住 妙徳 連浄 妙経 清観 浄心 妙讃 寿口 口口 妙(カ)蓮 妙見 妙玄 妙体 法信 妙林 妙長
妙空 休冬 道信 妙寿 法照
妙体 妙用 妙浄 妙達 忠加 妙斯 妙集 妙口 妙口 道久 妙道 法有 休松 妙信 妙厳
妙廻 休玄 妙当 妙清 妙透 道長 
八本 妙源 妙通 妙聴 妙従 妙賢 浄貞 妙法 長円(カ) 妙観 道(カ)円 宗泉 道久 妙意 道厳
妙実 妙等 浄円 宗三 妙賀 妙悟
義円 妙円 妙随 聴善 妙在 妙善 妙三 玄観(カ) 妙口 法円 法吟 善入 妙延 妙埋 清円 妙智
妙正 玄貞 妙観 法泉 妙三

 A位牌に伏字が多いのは、前述のごとく、腐朽面積の広さを物語る。位牌面に引かれた縦横等間隔の線により、戒名がない部分でも、数字は確実に掌握出来る。この方法で、戒名数二九八人が確定した。B位牌は難がなく、中央部に日蓮の題目、その両側には、各二列に計一〇四人の戒名が刻字されている。日隆の千人説は、明らかに大位牌の授戒者数ではない。しかし、「白髪三千丈」級の誇張であろうか。それと、本興寺に「有縁」とは、本山・末寺・その他のいづれを示すのであろうか。考察をすすめよう。
 C位牌については、復元位牌に見るごとく、上部が四四センチほど切断されている。切断部分は、残された五分の四の位脾を調査する限りは、特に腐食がひどいという理由もなさそうなので、何故切り取られてしまったのか残念至極に思われる。ともあれ、現存残部の戒名を合計すると、二三一人となる。切断空白部分の戒名数がわかれば、鷲山寺の供養碑台座の一ツ松郷中八四五人の死者数と、『上総町村誌(抄)』等の記述三八四人の信憑性を問うことも、出来るわけである。
 そこでA位牌、B位牌との相関関係から探ってみると、幸いにも消失部分の再現も可能である。というのも、B位牌横線がそのままC位牌に延長されているため、そこには六段の朱線が引かれていたことになり、位牌は縦一一行、横六段なので合計六六人の戒名が記されていたことになる。これは単純計算に基づく数字で、A・B位牌に見られるごとく、上段二・三段にまたがる戒名もあり、桝目一つに一戒名と断定することは出来ない。ゆえに、C位牌空白部を、類似のA位牌上部六段と同様のごとく記されていたと仮定して計算すると、五八人が記されていたことになる。
 よって、A位牌二九八人、B位牌一〇四人、C位牌二三一人と切断部五八人となり、合計六九一人という数字が得られる。桝目に整理されている戒名だけに、ここで得た数字に数人の幅をもたせるとしても、最少限六八八人余りといえる。
 資料とするこの位牌で得た数字は、鷲山寺の碑文八四五人より、一五七人程少ないが、日隆説には遠い。また、『上総町村誌(抄)』、『長生郷土漫録』、と両説をとる長生村教育委員会による本興寺津波供養碑・大位牌の説明文(「一ツ松では津波による死者三八四名全員の戒名を大位牌三枚に刻み、本興寺において盛大な法要を営んだ」)と、それぞれに紹介されている一ツ松村の死者数三八四人は、位牌に刻字された数よりも三〇四人少ないことになる。
 本興寺に残存する新旧史料七点の中に、『津浪水死諸霊蟹道 新屋敷 溝代 大坪』の過去帳に六九人の戒名・俗名が記されている程度で、三八四人を確認することの出来る記録類はない。

 (3)
 一ツ松郷の人的被害は、実際どの程度におよんだのであろうか。地震発生後二百八十年経過している今日、正確なところは知る術もない。しかし確認した史料によれば(4)、一ツ松北部驚大村の深照寺(5)過去帳『当山記録津浪諸精霊』には、二〇六人の戒名・俗名が掲げられている。他にも、別種過去帳と本堂側墓地に六基の墓碑があるが、これは二〇六名の中に含めた。深照寺の近くに教応寺がある。本寺には七基(九人)の個人墓碑が現存している。さらに、本従寺墓碑に四人、宝運寺墓碑一人が確認出来る。本興寺には津波碑三基、田中・大橋家墓誌、前掲位牌、過去帳等々があり、これらを合計すると九〇八人余りの死者を数えることが出来る。この数字は、鷲山寺の数字より多い。
 前述のごとく、本興寺は茂原鷲山寺の一ツ松郷における中本山として存在した。江戸初期の一ツ松郷は、初崎・江尻・久手・高塚・新地・貝塚・新笈・中里・畑中および、北部城の内・新屋敷・驚大村・驚北野村・大坪・蟹道・入山津を加えた一六か村をもって構成していた。その後、寛永元年(一六二四年)前里・兵庫内・溝代・原・中島・船頭給の六か村が加わって、合計二二か村をもって一ツ松郷となった(右地図参照)。二二か村より構成された一ツ松郷において、末寺八か寺を抱えた当寺が最も栄えたのは徳川時代であり大名の待遇をうけていたという(6)。
 このことから推察されることは、本興寺所管の壇家死者が三八四人であったとすることも考えられるが、末寺八か寺も、それぞれ壇家を抱えていたわけで、中本山としての信徒九〇〇人余りの死者が確認されても、必ずしも多い数字であるとはいえない。事実、隣接白子町における元禄地震の人的被災は、県内市町村を通じて最大である(7)。理由は、地盤の低さと町中央を流れる南白亀川を逆流した津波被害等によるもので、観音堂(市場附近—地図イ地点)周辺では、溢れた水で多数の死者を出していることを池上家文書(8)によって知ることが出来る。
 一ツ松郷においても、条件は白子町と類似している点が多い。前掲『当山記録津浪水死諸霊』に出てくる驚・蟹道・大坪・新屋敷・溝代は共に白子寄りにある地域である。ところが、一宮川流域や、南部の船頭給・新地・宮之台・中瀬・龍宮台・向原・大根等では、具体的な被害を伝える古記録、石碑類は全くといってよいほど発見されていない。この小論で、一ツ松郷の被害実態を明らかにしたかったが、死者数を中心とした論稿になったのも、当村史料二七点のほとんどが当時の様相を伝えるものではなく、戒名・俗名を記す史料類であるということにも起因する。これが逆に幸いして、件の碑、牌類の信憑性を実証できたと思う。
 最後に、井桁家文書(元台田家文書)『先祖伝来過去帳』の存在は貴重である。同文書によると、「大津波宮城(成)ノ下溜池迄水上ル」(地図ロ参照)とあり、隣町一之宮町東浪見の牧野家文書『萬覚書写(9)』によると、「川通りは茂原下まで水押あげ申事ニ候、舟頭給より北の方段々浪高く打揚、一松領三千石の内、家も大分に打潰れ、人も千弐三百人も死ス」と記されている。
 両文書から、津波は県道一二八号線沿いまで達したものと推定される。以上、諸々の要因を総合してみた時に、一ツ松郷における津波犠牲老は九〇〇人、あるいはそれ以上(牧野家文書参照)に達したものと思われるばかりか、発掘史料の乏しい物的被害も相当なものであったことが推察される。

<註>
(1)『千葉県の歴史』第二十七号 拙稿「房総における元禄地震」昭和五十九年二月
(2)拙著『第二集元禄地震史料および分析』昭和五十八年十二月、『山武・長生郡における元禄地震調査』昭和五十七年九月
(3)同右(2)拙著『山武・長生郡における元禄地震調査』 二二頁
(4)同右(2)二二—三頁、および『房総史学』第二十三号 千葉県高等学校教育研究会歴史部会編
(5)現在の深照寺住所は、一ツ松戊五七一番地で、田中庸雄氏が住職として教応寺をも兼ねている。
(6)長生村史編さん委員会編『長生村史』昭和三十五年 一一八・一九一—三頁
(7)同右(1)に同じ
(8)池上誠家文書 享保十年頃「一代記付リ津浪の■」
(9)牧野春江家文書 享保四年

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写真 写真:鷲山寺津波供養碑台座
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図1:本興寺復元位碑
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地図 図:旧一ツ松郷および白子町の南白亀川流域(明治36年測量地図)

用水溝出入についての一考察 —元禄大地震に関連して—                            井上準之助

Array  はじめに

 小論は元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日のいわゆる元禄大地震による山崩れが大きな原因となって、その二十一年後の享保九年(一七二四)に起きた争論について、史料紹介を中心に若干の素描を試みたものである。すなわち、下総国香取郡小座村と同郡粟野村(いずれも現千葉県香取郡東庄町)との間の用水溝争論一件—江戸の奉行所(勘定奉行所であろう)にその争いが持ちこまれた—を述べたものである。だから、元禄大地震そのものについての記述ではない。しかし、この享保期の用水溝争論一件をみることによって、元禄大地震の影響の一端をうかがうことができるものと思う。
 むろん、小論は史料紹介を主としたものなので不十分な点が多い。これらの点は後日改稿をするなどしてその責を補ないたい。

  一
 新井白石はその自叙伝ともいうべき『折たく柴の記』で、元禄八年の金銀の改鋳について次のように述べている。
「前代の御時、歳ごとに其出る所の入る所に培増して、国財すでにつまづきしを以て、元禄八年の九月より金銀の製を改造らる。これより此かた、歳々に収められし所の公利、総計金凡ソ五百万両、これを以てつねにその足らざる所を補ひしに、同き十六年の冬、大地震によりて傾き壊れし所所を修治せらるゝに至て彼歳々に収められし所の公利も忽につきぬ。そののち、又国財たらざる事もとのごとくになれば(1)(以下略)」
 すなわち、幕府は、元禄八年九月から始まる金貨(小判)・銀貨の改鋳(悪鋳)によって、金五〇〇万両の利益をえたことがわかる。しかし、元禄十六年の大地震、いわゆる元禄大地震によって傾いたり、壊れたりしたところの修理(あるいは回復)のために、それらの利益はたちまちのうちに使われてしまったという。これによって元禄大地震の大きさと、それが幕府に与えた打撃の大きさがわかるであろう。
 次はその内容からみて、他にも同一のものが存在している可能性がつよいが、この用水溝争論の村々からそう離れていない場所に保存されている史料である。これは、下総国椿海新田の夏目村の最初(正徳五年)の名主家として知られる掛巣市郎右衛門家(千葉県香取郡東庄町夏目)の「下総国新田油(由)来之覚」の最終部分の裏書きとして記されてあったものである(2)。執筆年代は不明であるが、九十九里地方の地震と津波のすさまじさを物語っている。さらに江戸城と小田原城の大破損、小田原城の城下町の火事にも言及している。そして、翌年の元禄十七年二月の大地震の余震ぶりや、米価の値上りなども伝えている貴重な史料である。
一、元禄十六年未ノ霜月、大地震、夜八ツゆり出シ、半時程ゆりやます、それより毎日毎夜、三拾度、弐拾度、ゆらさる事なし、十七日之間ハ人馬通路仕かたし、方々浦々へつなみあけ、中ニ茂長井、飯岡、平松之浜へ大浪ニて、家壱軒も不残流、人百人余死ス、江戸御城大分之御破損ニて、松杉、くり、丸太、竹等、百姓へ被仰付、百姓迷惑ス、屋敷方町長屋、土蔵、皆そんし、大土われ、ごミわき出、石掛(垣)、御堀くすれ、平地ニなり、小田原御城大破損、町火事ニて家不残やけ、人壱万人余死す
一、元禄拾七年申ノ二月廿四日、又大地震也、岸表くすれ、右両年内ハ一日五度、三度、或ハ五日、七日ニ一壱度ツ、弐年ハ間ゆりやます、申ノ作等ハ大躰、米壱分ニ弐斗より弐斗一升迄九月十七日より大漁事有、世の中よし、同四月より宝永と年号替ル
 最近、伊藤一男氏の労作『房総沖巨大地震—元禄地震と大津波—』を見ることができた。そのなかに千葉県山武郡九十九里町の「飯高家文書」の次のような一文が記載されている。この史料の書かれた年代は不明であるという。
 「元禄十六未年十一月二十二日夜、子ノ刻ヨリ、俄ニ大地震ニテ揺リ返シ揺リ返シ表ニテ大タイコ打候如クニ鳴リヒビク、同丑ノ刻ニ大山ノ如ナル津波二三ノ浪続イテ入来ル、別テ二ノ波ツヨクシテ、家棟木共ニ押流サレ、大木ハ土手共ニ二三丁程モ流、逃人々之内ニテモ浪ニ追ツカレ、水ニ溺レ死スモノ脇村ハ格別、当所ニテ百人余也、牛馬鶏犬マデ水ニ溺レ死ス、又、水ヲワケ出テモ寒気ニ綴レテ死ス者多シ、暁天ニ潮汐引退、哀ナルカナ骸(むくろ)ハ道路ニ累々トス、以来如斯ナル事、能々心得テ、家財ヲ捨、にげ迯去ルベシ(後略)(3)」
 伊藤氏によれば、右のうち溺死者の「当所ニテ百人余也」とは、粟生(あお)村の溺死者一〇〇人余のことであるという。これは既述の掛巣家文書の「家壱軒も不残流、人百人余死ス」の部分と似ている。しかし、ともかくも右の記述は、元禄大地震とそれにつづく大津波のすさまじさを物語るものであろう。
(1)小高敏郎・松村明校注『戴恩記・折たく柴の記・蘭東事始』(日本文学大系95、岩波書店版)二三三頁。
(2)この史料(掛巣市郎右衛門家文書)はすでに昭和二十六年(一九五一)発行の関東地方史研究会『平山家史料集I』(孔版)に「下総国椿新田覚書」として収録されている。しかし、この裏書部分(既述の元禄大地震の記述)は記されていないし、また全体の記述の中にはかなりの脱落部分がある。これは大森金五郎氏の写とあり、そして『歴史地理』第二巻、五、六号よりの転写とある。参考までに記しておく。
 小論で引用の掛巣家文書は千葉県香取郡東庄町史編さん委員会(同県同郡東庄町役場、総務課総務係内、東庄町史編さん室)が撮影、整理したものである。
(3)伊藤一男『房総沖巨大地震—元禄地震と大津波—』(崙書房)一一六頁以下。小論を執筆中に同書を見ることができた。同書の末尾に「引用参考文献」が掲載されていて大変参考になる。今回はそれらにあたることはできなかったが、今後それらを整理・分析することが重要であろう。

  二
 さて、小論の主題である用水溝争論一件に入ろう。この一件は、既述したように元禄十六年の大地震から二十一年後の享保九年(一七二四)から同十年にかけて争われている。まず、享保九年八月に香取郡小座村(村高二一一石九升九合)が江戸の奉行所に隣村の粟野村(四三九石五斗八升八合)を訴えている。小座村は代官領(一一石三斗余)と旗本領(二〇〇石)の二給支配であり、粟野村は旗本領三給支配である。この一件は享保十年二月に両村で決着がついている。次の二つの史料(1)を見られたい。
史料<A>
 乍恐以書付御訴訟申上候御事
一、下総国香取郡     野田三郎左衛門支配所
              小座村訴訟人
              名主
               源兵衛
      小笠原久左衛門知行所
       同村訴訟人
              名主
               藤兵衛
              組頭
               権兵衛
 用水路溝往還出人
一、同国同郡粟野村御三給
      青木吉之丞様御知行所
            粟野村
              名主
              相手 八十右衛門
      中川勘三郎様御知行所
            同村
              名主
              相手 治兵衛
      杉田八之丞様御知行所
            同村
              名主
              相手 五郎左衛門
一、粟野村御田地之内ニ出水御座候て、古来より粟野村、小座村両村ニて引来、田地仕付相続仕候儀は小座村往還道添ニ用水溝御座候て両村ニて先規より用水引来申処ニ弐拾弐年(元禄十六年)以前未之年、地震ニて溝往還江山崩、土落、道高ニ罷成、普請難成、殊ニ 御公儀様往来道せはまり申候ニ付、拾八年以前、(宝永四年)亥之二月中、以相談、右之溝より少々引下ケ、小座村田地之内江代溝を立、両村ニて引来り申候所ニ当三月廿一日、粟野村御三給名主、組頭、小座村江参候て申候は右用水揚場地下りニ候間、上江揚申度由申候間、其許勝手次第と申候得は水揚場上ニ立、少々新溝を構、小座村ニ唯今迄有来溝江写(移?)、両村ニて用申候御事
一、当六月中、中根内膳様御知行所大友村と我々用水出入御座候儀も粟野村之水故ニ御座候、依之、中根内膳様御役人拙者共、地頭役人御立合、御見分被成候処ニ、隣郷宮本村、小南村、青馬村、右三ケ村扱ニ罷出、用水之儀は粟野村地内より出水ニ御座候間、粟野村と相談仕合不申候ては分水も難成候間、三ケ村預り置、重て埒明可申候と申、両御役人御立合之上、双方和談之願仕、和談相済し、両御役人七月五日ニ御帰被成候御事
一、右申上候往還代溝共、毎年小座村ニて普請相続仕候、依之、御地頭様より人足扶持方、年々被下候、然処ニ粟野村より如何様之存寄御座候哉、当七月五日早朝、以使、申来り候は、拾八年以来捨り申候溝を堀可申と申候間、拙者共、返答仕候は、先規より小座村ニて普請仕来り候場所、其上、当分水入用ニも無之時分ニ罷成候間、来春中ニ相談可仕と返事仕候処二同六日、大勢人足を以、我儘ニ新溝ニ堀ちらし往来をせバめ、牛馬之出入不罷成様ニ仕候、小座村を掠、扱之村々をも蔑ニ仕、殊更収納時分ニ罷成、往還を被損、難儀仕候表以 御慈悲、只今堀散シ申候溝を埋、往来自由仕有来候用水溝、只今迄之通、粟野村、小座村両村之用水引申候様ニ被仰付被下候は難有可奉存候、委細之儀は御尋之上、乍恐口上ニて可申上候、以上
 享保九年辰八月
       訴訟人
        藤兵衛印
        権兵衛印
        源兵衛印
       相手
        八十右衛門
        治兵衛
        五郎左衛門
 御奉行所様

史料<B>
 取替証文之事
一、下総国香取郡小座村訴上候は、同国粟野村出水有之、先規は当村地内往還道添之井筋より小座、粟野両村江用水引来候処、弐拾三年以前未ノ年(元禄十六年)、地震ニて山崩、右井筋埋候得土共、浚候ては土上場無之、往還道ニ差置候間往還之障りニ成候故、浚難仕ニ付、十九年(宝永四年)以前、両村相談之上、小座村分田地之内江代溝を掘、用水引之候間、御地頭より人足扶持米被下之、当村ニて道溝普請仕来候処、此度粟野村より我儘ニ道添之古溝を掘散シ往還道へ土ヲ上(揚)候ニ付、道中高ニ成、幅狭ク牛馬之通行差支候間、只今迄之ことく、代溝より用水引之、往還無滞様ニ仕度旨申上之候
一、粟野村答候は、右用水之儀は先規より当村計之用水ニて候処、小座村より往還道普請事寄(ことよせ)、新溝を掘、用水可引取巧仕候ニ付、有来古溝、此度浚普請仕候、小座村ニハ観音滝狸谷入弐ケ所之出水、其外、下之清水も小座村用水堀江落込候付、水不足無之候、当村井筋之儀、長千五百間程之処江引送り候故、分水仕候ニてハ水届兼候付、前々より小座村江分水仕来候儀無之処江偽り申之候、且往還道之儀、先規より道幅半分宛、両村支配仕来候処、不残、小座分之由申掠候、右古溝凌井道普請之儀、跡々之通り仕度旨申上之候

右出入御吟味被遊候処、双方無証拠てニ立会、図面ニハ道地形并用水筋、難相決ニ付、河原清兵衛様、池田喜八郎様御手代御両人被差遣、地所御改被成候処、小座村申上候ハ先年、地震にて道添之用水溝埋り候ニ付、両村相談ヲ以テ小座村地内江代溝を掘り、粟野出水両村江引来由候得は粟野は右出水計ニて外ニ用水無之、殊ニ粟野村方、地形高ク候故、先規之溝を用、本堰より水引移シ不申候てハ用水届兼、仕付難成、其上、小座村分之用水ハ観音滝并本堰下之清水之余水、小座村用水堀落込候得は水不足とハ不相聞江候、尤本堰より小座村江分水致候由申上候得共、何ニても証拠無之候、且又往還道并古溝鋪共ニ小座地内ニて地頭より人足扶持請取之、普請仕来候由、免状以申立候得共、書面ニ人足扶持と申儀無之候条、証拠ニ御取用難被成旨被仰聞、御尤ニ奉存候、粟野村より申上候、道添古溝用水不通候てハ水懸指支候田場有之儀無相違候、道之儀ハ懸直シ、往還并小座一筋之作場道ニて候条、古溝之土、浚上候てハ道中高ニ成、牛馬之通行滞成候由、小座村申上候ニ付、御吟味被成候処、此段何分ニも往来不指支様可仕旨、粟野申上候、依之、被仰渡候は粟野山際往還道添之古溝、古来之溝幅之通、壱尺弐三寸余迄掘之、其余ハ決て広ク不仕、尤道鋪不欠様ニ凌、古来之通、用水、粟野田地江可引取之、勿論粟野山際ニ有之、小座村飛地右京持分弐拾八歩之田場江は、古来之通、用水溝可附之、且又小座村より右之外ニも分水仕来由申といへとも無証拠ニ付、不被及御沙汰候、往還道鋪之儀、自今道幅半分宛支配いたし、溝浚并道普請之儀、双方立会、地高ニて道幅狭キ所は地を低、又ハ地広之所江地形引、平均、往来、又ハ牛馬之通行、障不成様ニ可仕旨、被 仰渡、双方奉畏候、扨又両村境、字塙台やけなべと申所之芝地三畝歩程之処、小座村地内ニて物干場馬捨場等致来候由申之、粟野村ハ粟野地元候得共、空地有小座村より馬捨場ニ致候得共不差構旨申之、いつ連之地所と申証拠一切無之候上ハ向後双方可為入会旨、被 仰渡、是又承知仕、一々奉畏候、若相背候ハ、何分之曲事ニも可被 仰付候、為後証、取替証文傍如件
 享保十年巳二月四日
       野田三郎左衛門御代官所
        下総国香取郡小座村
              名主
               源兵衛
      小笠原久左衛門知行同村
              名主
               藤兵衛
              組頭
               権兵衛
              同
               治郎右衛門
              百姓代
               安右衛門
     杉田九郎兵衛知行
      同国同郡粟野村
              名主
               五郎左衛門
              相手
              組頭
               太郎兵衛
             百姓代
               利右衛門
      中川勘三郎知行
            同村名主
               平右衛門
              組頭
               四郎兵衛
      同断(相手)
             百姓代
               利兵衛
      青木吉之丞知行
            同村名主
               八十右衛門
              組頭
               儀左衛門
              同
               弥市郎
              百姓代
               豊右衛門
   御評定所
 (史料<A>・<B>とも助詞の一部を平仮名に変えるなどの補正をした)
 史料<A>は享保九年八月の小座村の訴状であり、史料<B>は幕府裁定にもとづく享保十年二月の両村間の取替証文である。史料<B>によって、史料<A>の小座村の訴えに対する粟野村の反論があったこと、そしてその内容のおおよそをつかむことができる。
 史料<A>、史料<B>によってその大要を要約してみよう。
 小座村の訴えは次のようである。粟野村田地のうちから出水(湧水)個所があり、粟野村、小座村両村でそれを利用してきた。ところが元禄十六年(一七〇三)の地震で山崩れがあり、右の井筋が埋ってしまった。それ浚えばその土が小座村の往還道の邪魔なるので宝永四年(一七〇七)、両村で相談のうえ、小座村の田地のうちへ「代溝」を掘って用水を引いてきた。ところが、このたび粟野村が勝手に道添の古溝を掘り散らし、往還道へ土を揚げたので、通行に差支え、大変困る。今迄のように代溝から用水を引くようにしてほしい。
 粟野村が答えるは次のようである。右用水は先規より粟野村のみの用水であったところ、小座村が往還道普請を理由に新溝から用水を引くたくらみをしたので、従来の古溝を浚普請したのである。小座村には二か所の出水があり、そのほか「下之清水」も小座村用水堀へ落ち込んでいるので水不足はない。粟野村の井筋は長さ一五〇〇間程の所へ引送っているので分水すると水は届かないのである。だから小座村へ分水しているというの偽りである。そして、往還道は半分ずつ両村が支配しているのであって、それがすべて小座村分であるというのは間違いである。右の古溝浚と道普請については前々の通りにしておくつもりである。
 この出入りについて幕府側が吟味したが、両村側共、無証拠で立会ったため、図面だけでは道の地形、用水筋を決め難いので、手代二人を差し遣して地所改めをした。小座村は、先年の地震(元禄大地震)で道添の用水溝が埋ったので、両村相談のうえ、小座村地内へ代溝を掘り、粟野村の水を両村へ引いてきたと主張する。一方、粟野村は、この水しか用水なく、地形も高いので、先規の溝(古溝)を使って、本堰から水を移さないと用水に不足するという(中略)。粟野村が、道添の古溝の用水を通さなければ差支える田場があると言うのは事実である。古溝の土を浚って積みあげられては、牛馬の通行に差支えると小座村は言い、粟野村はそのようにならないようにすると言っている。以上によって大要、次のように裁決する。粟野村は、争論の原因となった古溝を古来の溝幅のように掘ってよい。しかし道敷が欠けないようにせよ(中略)。往還道鋪については今後、両村が半分ずつ支配し、溝逡い・道普請のさいは双方が立会い、土地の高いところは低くするなどして平均になるようにし、人の往来、牛馬の通行の差障りにならないようにせよ。(後略)

 以上から元禄十六年の大地震の山崩れによって、小座村と粟野村の利用する用水溝が埋ったことが大きな原因となって、両村間で争いの生じたことがわかるであろう。事実、この大地震による山崩れがかなり大きかったことは、当時この用水溝を復活するのが非常に困難であったことなどから、推定できる。だから、大地震の五年後、代りの溝を別に作る必要が生じたのである(五年後という点は今後の検討の課題の一つであろう)。
 ところで、右の一件は水論の立場からも将来、検討される必要があるのではないかということを付け加えておく。
(1)高森千代松家文書(千葉県香取郡東庄町小座)。東庄町史編さん委員会撮影のフィルムによる。

  おわりに
 以上、元禄大地震による山崩れが原因で後年、争論になった用水溝一件について史料紹介を中心に述べた。不十分なものではあるが、元禄大地震の一端を示す一つのデータとして発表する次第である。多くの方々からご批判をいただければ幸いである。
(付記)種々お世話になった千葉県香取郡東庄町史編さん委員会に厚くお礼申しあげます。

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地図 図:下総図(千葉県)

  江戸時代における房総の震災と地震絵                    樋口誠太郎

Array  一、江戸時代における房総の地震
 天正十八年(一五九〇)から明治元年(一八六八)までの二七八年間に、房総に住んだ人々になんらかの被害をもたらした地震は約一六回発生した(『千葉県気象災害史』・銚子測候所刊・昭和三一年度)ことがわかる。無論このほかに人々が驚く程度の小型地震は、かぞえあげたら際限がないことであろう。
 ここでは主として、房総の地域住民に甚大な被害をもたらしたもののみを中心にとりあげてみることにする。
 このような視点からみて、特記すべきものとしては、天正十八年(一五九〇)三月三十一日(『関八州古戦録』では二月十六日と記されている)夜の地震と津波・慶長九年(一六〇四)二月三日に西は九州から中国、四国、京畿、東海、関東の広範囲にわたり表日本の海岸部を大地震と津波がおそっている。一説には、慶長六年十二月六日とあり、その外たとえば、『増訂武江年表』(斉藤月岑著・東洋文庫版)には、「慶長六年(一六〇一)十月(十二月の誤りか)十六日、大地震、房総の山を崩し、海を埋め丘と成し、又海上俄に潮引く事、三十余町干潟と成る。十七日潮大山の如く巻上げ流死夥(おびただ)し。」と記されているが、『千葉県気象災害史』では、『大日本地震史料』により訂正され前記慶長九年二月のこととしている。『徳川実紀』等には関連の記述は見当らず『武江年表』の記述は、その災害の様子を生々しく伝えている。しかし、これも嘉永元年の著作物であるので検討すべき余地があろう。『史料綜覧』(東大史料編纂所刊行)巻十三、十四の慶長年間の項目をみると、慶長六年十二月十六日に安房上総地方に大地震のあったことを記し、慶長九年二月の項に、それらしきものは見当らないが、これは『史料綜覧』が『武江年表』と『房総治乱記』をもとにしているためでもある。このことに関し、いずれが正しいかということは、本項の主題ではないので、こうしたことがあるということを記すのみに止める。また元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日夜半に武蔵・相模・安房・上総に大地震があり、津波による大きな被害がもたらされた。
 『徳川実紀』(常憲院殿御実紀・巻四十八)元禄十六年十一月廿二日条に次のように記されている。「(前略)—この夜大地震にて、郭内石垣所々くずれ櫓多門あまたたおれ、諸大名はじめ士庶の家数をつくし転倒す、また相模・安房・上総のあたりは、海水わきあがり、人家頽崩し、火もえ出て、人畜命を亡ふ者数ふるにいとまあらず。誠に慶安二年このかたの地震なりとぞ。(後略)」
 この地震による津波は、房総各地に甚大な被害をもたらし、本書の主題もこれにあるが、たとえば館山市神戸、西岬地区にまたがる平砂浦の砂は、この津波のもたらしたもので、当地に住む人々がこの砂のため如何に苦しんだかは、当地の御詠歌に「老いの身に苦しき砂の藤原や、遠き歩みを後の世のため」とうたわれ続け、昭和三十年代に至る三百年近くの間人々がその後遺症で苦しんだことをみれば、およその見当がつくというものであろう。
 また安政元年(一八五四)十一月は関東に大地震があり常陸、安房に津波が襲った。翌安政二年(一八五五)十月二日夜半に江戸を中心に房総一帯に地震があり人家が倒潰し大きな被害を受けた。
 こうしたいくつかの代表的事例をとりあげてみると、江戸時代の地震は十分とはいえないが次第に記録が正確になり、その実態がある程度まで把握できる様になり、特に各地に存在する資料を集約することによりかなり具体的に判ってくるのである。これまでとりあげた事例をみても、大地震の発生が夜半にあること、地震の二次災害とでもいうべき津波の被害も「暗闇」という特別な事情から甚大となる傾向が見られるものである。
 さらに、地震は広大な範囲に被害を及ぼすもの—慶長九年の地震や元禄十六年の地震—などのほかに、ごく一部分に強い地震のおこるもの—安政二年の地震—があることは既に知られている。
 地震が、いかにおそろしいものであるかということは、「地震・カミナリ・火事・親父」ということばの中にみられるように、地震が第一にあげられていることからも推察されることで、大地震のときの地鳴り、大地が引き裂かれる現況を目のあたりにしたら、どんなに勇気のある人でも平気ではいられないであろう。また地震はそれだけにとどまらず、海岸地域では津波をもたらすので、一層おそろしいものとなるのである。科学的知識にとぼしい昔の人々はこのような天変地異を「天譴」とみなし、社会不安が増大した。こうした見解はかつて関東大震災(大正十二年九月一日)の時に至ってもなお残っていた。
 こうした、人々を恐怖のどん底におとしいれる地震の被害が、具体的に如何なるものであって、人々がどう対処したかを示すものは、後に描かれる絵画資料であろう。たとえば、江戸時代も後半期には「かわら版」と称する一種の報道資料がさかんに出まわった。これらに目をとおすと、当時の地震の被害、人々のその後のくらしぶり、あるいは地震そのものをどうみていたかなどがわかる。また古い時代のものでは絵巻物などの一部にその災害の様子が見うけられる。
 例をあげれば『日蓮聖人註画讃』の中に前頁のような地震と津波の災害の様子が描かれている。無論これが日蓮聖人存命中の鎌倉期のものということではなく、おそらくこの絵巻が描かれた時期(慶長初年と推定)の地震の惨状をとり入れたものであろうと考える。また江戸時代後半期の地震の絵には「鯰」が登場してくる(資料2)。これは、当時の人々が地震に対する科学的知識もないのに、地震がおこる原因は地下にあるらしいことと、「鯰」に託して、何か力の存在(エネルギー)に気付いていたのかということも推察される。だれが、いつ、どこでいったのか判然としないけれど、当時の人々が経験のなかからさぐり出したことがらとして、案外、的を射た表現ともいえよう。
 本稿では、こうした「諷刺画」を中心にし房総もその被害圏に含まれた地震に関したものをとりあげてみた。表題にある『地震絵』という分類があるわけではないが、地震とそれに伴う火災、津波などの様子をとりあげた報道画に一応の名称をつけてまとめたものである。
 地震に関しては、文献などでの研究はかなり存在するし、記録にも(多少の誤記はあるが)いろいろあらわれているが、絵画となると一番目につきやすいものであるにもかかわらず、案外まとまっていないということを、本稿を書きあげる過程で再認識した。

   二、地震の災害と地震絵
 『地震絵』という区分をつくり、これをまとめてみると、まずその地震の被害を大変リアルに描き出している。地震の後で火災が発生するのは通例のことであるか、その火災の様子を描き、それに説明を付けたもの(資料3)、地震後の津波の様子を描いたもの、またこれらを総合して被害範囲の分布を地図(略図)に記入したもの、地震のために家屋がつぶれ、戸障子をたてたバラックに人々が生活をしている実情を描いたもの、地震の原因に関する当時の人々の対応や考え方を面白おかしく、諷刺画的に表現したものなとに大別できるであろう。
 江戸時代になると、現代とは比較すべくもないが、マスメディアがそれ以前よりはかなり発達し、描画の技術、木版の技術も高度になり、質的にはずっと高度なものがみられる。したがって、地震の発生からさまさまな二次災害が派生する様子をより具体的にとらえることができる。そのため地震のようにかなり広範囲にわたり同時に被害をうけるような災害の場合には、その近接地域にみられた被害状況がわかると、大体の様子は推察できる。
 また絵ではないか、「絵地図」的に地震の被災範囲を描いたものもある。これは江戸初期から見られるもので、房総では小湊誕生寺に関する水没範囲が、いい伝えと実際が異なっていた例として、すでに知られているものがある。此処では(資料5)、江戸末期の安政元年十一月の地震の被災範囲を示したものをとりあげてみた。こういう事例は他にもいくつもみられ珍らしいものではない。しかし時代の古いものより、新しいものの方がニュース性を重視したためか、すぐに作成されているので正確であることが特色といえよう。
 地震が発生すると、その地震がどうしておこったか、面白おかしく描いて(当時はまじめに考えたのかも知れないが)売りだされた刷り物類がある。これらも間接的ではあるが「地震絵」の仲間に入れておく必要があろう。現代からみれば非科学的ではあるが、江戸時代後半にこのようなものが多く作られた背景には、地震が多かったという見方もあろうが、当時の人々の探究心、知的好奇心が向上したこともあろうかと考える。これらは主として、地震の原因に関してふれているものが多い。そのいくつかを次に紹介しておくことにする。
 地震原因説のひとつとして「風」の所作とする考え方がある。千葉県香取郡干潟町松沢(現在・清和地区)の名主宮負定雄が記した『地震用心考』という本にも「風」の所作とする考えが示され、江戸で刷られた版画にも(資料6)風神が描かれている。『地震学事始』(橋本万平著・朝日選書237)によれば、江戸時代のこのような「風」の所作とする説は、歴史が古く、アリストテレスの説であり、安土桃山時代以来キリスト教とともに日本にもたらされたものとしている。『乾坤弁説』(向井玄松編著・明暦年間刊)の中に「えいさらさん」というエネルギー(実際には何であるか不明)のようなものが「風」をおこし、これが地震の原因となるというものもある。
 また房総の近辺では「鹿島の要石」の伝承があり、これをよんだ歌に「ゆるくともよもやぬけしのかなめ石、かしまの神のあらんかきりは。」とあり、日本をとりまいている大きな生物が動くと地震がおこるから、動かないように頭と尾が重なっている鹿島の地に、鹿島の神様が一本の石釘(要石)を打ってとめている。その釘の頭部が地上にわずかにあらわれているのが、鹿島神宮の神域にある要石であるというもので、宮負定雄もこのことにふれているし、この生物は鯰であるという説が多い。
 地震の原因が鯰であるという説は、かなり古くからあるにはあったようであるが、『地震絵』の中に特に目立って描かれるのは、江戸時代後期の安政大地震前後のころからである。しかし江戸時代前半期でも芭蕪の俳諧の中に「大地震つづいて竜やのぼるらん」似春、「長さ十丈の鯰なりけり」とあり当時、地震の原因を鯰とみたてることがあったと考えられる。けれども前記の如く人々が地震は鯰が元凶であるとして、それに関係した刷り物(資料8)が各種出まわるのは、安政地震からのことである。
 現時点からみると全くバカバカしいことのように思われるが、これは当時の一般の人々の間に流布されていた俗説ともみられるもので、当時でも知識のある人は、このようなことに疑問をもち反論を試みている人もいる。特に江戸時代は、儒教の影響下に「文字文化」が普及し、人々の知的好奇心もたかまっているので、地震の発生する度にこれらに関する丹念な記録や絵が描かれたりしたため、地震がおこるときには、どのような不思議(主として景観や自然現象)があらわれるかが記録され、地震余知(前兆を知る)の上では後世に至っても参考になる部分が多い。したがって『地震絵』の中にも一笑に付すようなマンガ的なものもあるが、参考になる内容をもつものも決して少なくないのである。特に地震が発生した後の津波のこと、海岸部の土地の陥没、隆起のこと、地震後の社会の混乱と的確な処置の実例など、現代においても参考にすべきことを多く含んでいて、江戸時代のものだから古くさいとか、現代に適応しないと考えるのは、内容を知らない人の言であろう。

  三、記録と地震絵
 どんな恐ろしい災害にあっても、時の推移は人々の脳裏からそれを忘却せしめ、親から子へ代が変われば、もはやそれは過去のことになってしまい、経験をしないものに実感は存在しない。たとえば、大正十二年九月の関東大震災のことでも、私など十歳ぐらいまでは周囲の大人が震災のときには…………、ということを良く話していた記憶があるが、現在はそうした話し方をする人にはほとんど行きあわない。多くの人命を奪う大地震は、歴史的にみても必ずくり返し発生するものであるから、前の大地震を経験した人々が少なくなり、話題にのぼらなくなったこと自体、逆に危険が迫っているという見方ができる。一時期は、明日にでも大地震が来るかのように錯覚され、人々は緊張して避難訓練などに精を出したが、いつくるか判らないという事実の前に、次第にこの緊張もゆるみがちである。
 過去に発生した地震の記録や絵画をみると、むかしの人々も同様であったように思われる。
 安政元年(一八五四)十一月、安政二年(一八五五)十月の地震のように、連続して発生した場合はむしろ例外で大地震といわれるものは、かなりの年月を経た後に発生することはすでにひろく知られている。
 江戸時代約二七〇年の幕府治政下において、房総に関する地震の記録をたどってみると、前半期と後半期に大別できる。
 前半期の大地震の第一にあげられるのは、慶長六年(『大日本地震史料』では慶長九年)十二月に発生した大地震で、その状況は、『房総治乱記』、『房総軍記』に記されている。この地震は、房総三国全域を襲い、特に海岸部の各地域四十五ヵ所を津波が襲い、多くの人命を奪った。この頃にはまだ地震の惨状を描いたものは出ていない。さらに、元禄十六年(一七〇三)に大地震が発生した。この内容に関しては別に記されているので省略するが、一例をあげてみると、現在の夷隅郡大原町に照願寺という寺があり、この寺の縁起は、親鷺聖人が常陸へ来て専修念仏を広めたときの二十四人の弟子中十七番目の弟子念信房、高沢式部大輔氏信が開基で、この後貞享年間(一六八四~一六八七)から元禄初年の間に、大原の地に常陸から移って来たらしく、元禄二年の過去帳が存在している。この照願寺の檀家中三〇余名が、元禄の大津波でさらわれてしまったことが記録として寺にのこされている。
 こうした関係のものは、はじめの部分に記した神戸村(現在館山市)藤原の御詠歌や、平砂浦一帯の飛砂など、房総各地にさまざまな形でのこされているし、それだけ被害も甚大であったことが推察できる。
 江戸時代後半期に入ると、安永四年(一七七五)に地震があり、安房・相模・伊豆の海岸を津波が襲って、多くの死者が出ている。この後に、幕末の安政元年(一八五四)と安政二年(一八五五)の地震で、安政元年の地震は、かなり広範囲に被害が及び、安房郡の海岸部は津波に襲われている。しかし、後の安政二年の地震は、津波はおこらなかったようで、『地震絵』に津波は描かれていない。この他にも人々を驚かすような地震は度々発生していることが、『千葉県気象災害史』(銚子測候所刊行)の中に集録されている。
 安政地震のことに関しては、江戸を中心にして、さまざまな刊行物が出されている。しかし、多くは幕政への影響を考えて絶版にさせられた。このきびしい目をくぐり抜け、現在残っている資料をみると、地震の悲惨さよりもおかしさが出てくるのは、日本人の国民性を反映しているためではないであろうか。
 しかし、地震に関するものが、全て面白おかしく人々のあわてふためく様子を描いているのではない。房総の人で、この安政地震の様子を記録した人物のひとりとして、香取郡干潟町の人で、宮負定雄がいる。彼は安政元年(一八五四)十一月四日に伊勢参宮の目的と、紀伊国和歌山に住む参沢宗哲、島田幸安を訪問すべく郷里を出立した。記録によれば、四つどきというから十時頃に地震がおこったのであるから、彼は家を出て間もなくこの大地震にあったことになるが、そのまゝ旅を続け、道中で見聞したことを『地震道中記』にまとめている。地震の様子は、序文の中に次のようにくわしく記されている。
 地震道中記   宮負定雄
地震道中記序
 安政元年甲寅霜月四日の大地震ハ、関東国々東海道筋五畿内四国九州中国迄、凡五拾四ケ国ゆりしいふ説にて、海辺ハ津波押上け地震ゆり潰て火災となり水火の為に人民の死亡数ふるに暇あらず、前代未聞の大変なり、予(宮負定雄) 伊勢参宮の志有りて霜月四日ハ一陽来復の吉日に付て旅立したるに、其日途中にて地震に逢ひたり、されハ人家の倒るゝ程の事にもあらて江戸を越して、東海道も相州小田原迄ハ人家の破れも無く、筥根(箱根)より破れ始まり諸国の破損は辞(ことば)に尽(つく)し難し、其が中に神の霊験に因りて人の助りたる事多く有りて真に有難尊き事なり、予其事実を聞糺し書集めて、子弟にも読ミ聞かせまほしくおもひて、地震道中記と号けぬ。安政二年といふとしの三月
   下総国
     弓道人識
 このあと本文は、箱根関所からはじまり、伊豆山中、三島宿、下田の津波のこと、沼津原宿・吉原宿と東海道筋の被害を記し、四日市から伊勢・紀州の様子その他の土地のことを記している。最後に宮負定雄は「右者予旅行見聞のあらましを記すのミ、諸国神明の霊験に因て人民の助りたる事右に記すが如し、仏菩薩の霊験といふ事更になし、然るに世の人多くハ神明を蔑し、仏を信するもののミ也、故にかかる大変の災害降りて数万人の死亡豈恐れざるへけんや。安政二年三月 弓道人書。」としている。この最後の部分をみると、平田国学に傾倒した宮負定雄の基本的姿勢がはっきりし、地震を「天譴」とする考え方が比処にもみられるといってよいであろう。
 また宮負定雄は、自分の経験をもとにして、『地震用心考』と『地震用心録』を著わしている。これは前掲の『地震道中記』の姉妹編とでもいうべきもので、『地震用心考』と『地震用心録』は、中は「用心考」という同一名であり、本来は同名で上・下巻の関係にあるものかとも考えられる。内容に関しては、当時いろいろと言われていた地震原因説をあつめ、それに自分の見聞をくわえて、地震の用心として伊勢太神宮の霊験をとき、敬神の念をたかめようとしたものであろう。
 たとえば『地震用心録』の序文の中に、「輿地之円也。如鶏卵。有地中水火之坑穴而如蜂■。(以下略)」と記されている。この大要は輿地—万物をのせている大地は、まるくて、にわとりの卵のようなものである。その地中には水、火の穴が丁度蜂の巣のように存在している、というのである。この説は江戸時代の中国の地震説を紹介した『天経或問(てんけいわくもん)』の中にみられるもので、中国古来の陰陽説によって地震のことを説明したものである。前述の水火の二気が激突すると地震がおこるのだという理論であって、地震の原因を鯰とするよりは、多少質的には高度な見解ということもできるであろう。現在では通用しない説であるが、下総国の農村の名主である宮負定雄が、『天経或問』そのものをみたかどうかは判らないけれど、彼の学究的態度は大いに評価されてよいものであろう。
 安政二年の地震に関しては、『安政見聞誌』上・中・下巻があり、これは記録とさし絵をとり交ぜて内容の豊富な著作物である。しかし安政二年(一八五五)十月二日におこったこの地震は、江戸を中心にした直下型の地震であったため、主として被害にあったのは江戸で、地震そのものの被害よりも、人家が過密であった当時の江戸の町は、火災などの二次的災害で大きな被害を受けた。その様子を細部にわたり具体的に記録したものが本書である。
 江戸時代後半期(主として幕末期)におこった地震とそれに関する「カワラ版」その他の刷り物をまとめ一帖としたものに、東大史料編纂所所蔵の『地震及世態漫画集』という『地震絵』があり、これはすでに本稿で引用しているものもあるが、内容が豊富で参考になるものが多い。
 このほか国立国会図書館所蔵の『地震錦絵』、『地震雑纂』、『地震津波末代噺の種』都立旧日比谷図書館所蔵の『元禄十六年地震記録』・『地震心得草』、静嘉堂文庫の『元禄大地震大火之覚』など地震の記録及び『地震絵』の参考資料として引用できるものが多々あるが、これらに関しては紙面の関係もあり省略する。

   四、今後の課題
 私たちの住む房総半島は、長大な海岸線をもち、半島の南端部、九十九里浜から上総安房の太平洋岸は、大地震の発生する度にさまざまな被害をうけていることが、記録をみるとよくわかるのであるが、それではこの被害が各地域で、どこに、どんなものが残っているか、いざ調査してみると良くわからない。今回の『郷土研叢書』が刊行されることにより、多少なりともこうしたことが判ってくるのではないかと私は期待している。
 大地震が発生すれば、大きな被害を受けることは判っているのであるが、「予知」に関する問題が多く存在し、人々はついつい油断をして、悲惨な結果を招くのである。こうしたことは、私が本稿でとりあげた『地震絵』の中に、かなり具体的に描かれていて、現代の「地震学」が参考にすべき点も多いといわれている。しかし、「房総」という一地域に区切って検討すると、おそらく存在したとしても表面に出ないのであろうが、その所在すらはっきりしないのが現状である。『地震絵』というものが独自に存在するのではなく、大部分の場合、記録と共にあるのであるが、郷土資料関係の目録をたどっても、あまり見出すことはできない。最近は、各市町村で市町村史刊行がさかんになっているが、既刊のものに目をとおしてみると、ひでりや洪水のことはかなりくわしく、その関連資料や所蔵者に関す記述まで出ている場合も多いが、地震関係になるとかなりの被害がありながら、関係資料が出ていないのは残念である。本稿は絵巻物を中心に絵画関係資料をたずねあるく過程で、たまたま収集してあったものを中心にして整理したものであるが、記録類でも前項に記した宮負定雄のように安政の地震のことを書いている人物があるのであるから、目的をもってさがしまわれば、まだまだ発見できる余地は十分あると考えている。
 こうしたものを収集整理することは、ひとつには来たるべき大地震にそなえ、少しでも被害を少なくするための参考資料として、利用できればよいと考える。事実江戸時代には、地震が発生した時の心得を示した『地震後教』という著書がある。内容は不まじめな部分もあるが、たとえば「家高きが故に貴からず、平家を以て貴しと為す—」二階建ては危険ということであろう。「火是一生の災、火消さざれば共に焼(やけ)る。」—地震が発生したらすぐ火を消せというのである。先人の経験が、後世の人の間でいきて働くということは価値あることであろう。
 また別の面では、こうした災害の事実の記録、絵画などを通して、当時の人々の精神文化生活の一面をとらえていくことができると私は考えている。
 巻末ではあるが、本稿の作成にあたり東大史料編纂所では貴重書の『地震及世態漫画集』の参照を許可され、宮負克巳氏には、宮負定雄関係の『地震道中記』、『地震用心考』などを提供していただいたことを特記し、感謝の意を表する次第である。
  参考文献
 地震学事始 橋本万平著 朝日新聞社
 地震と情報 宇佐美龍夫  岩波書店
 徳川実紀 国史大系本 吉川弘文館
 千葉県気象災害史 銚子測候所
 地震及世態漫画集 東大史料編さん所蔵
 地震道中記、地震用心考、地震用心録 千葉県香取郡干潟町清和 宮負克己氏

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図:資料1 地震と津波の災害の様子「日蓮聖人註画賛」より(鴨川市鏡忍寺所蔵)
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図:資料2 安政地震のことを告げる版画「地震及世態漫画集」(東大史料)
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図:資料3 安政地震の火災の様子(『安政見聞誌』)
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図:資料4 地震のあとの人々の生活「地震及世態漫画集」(東大史料)
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図:資料5 絵地図的に描かれた地震の被災範囲図「震災及世態漫画集」
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図:資料5の2 安政元年関東大地震の地図(むかって左手に房総の各地名あり:東大史料編纂所)
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図:資料6 風神の登場する地震絵
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写真 写真:資料7 鹿島神宮の要石
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図:資料8 地震と鯰の関係を描く地震絵「地震及世態漫画集」
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図:資料9 地震と火災の様子「地震及世態漫画集」
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図:資料10 地震と風俗「地震及世態漫画集」
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図:資料11 鹿島と鯰の関係(上同)

江戸の地震余聞                            久保木 良

Array   はじめに

 我が家の古い書院の縁側の棚の、多くの岩石標本箱の中に、小さいガラスビンが納められていた。今そのガラスビンを手に取って貼付された用紙を見るに、次のように記されている。
 大正十一年三月十二日前夜
 降リシモノナリ
 時ノ新聞ニ何処ノ噴
 火トモアラザリキ
 (火山灰)浅間山ニヤアラン

 その後に異筆で
  後 浅間山ナリ
 とあって、父澄雄が旧制佐原中学校の学生時代に、現在の佐原市津宮四九七番地の自宅の庭に降り積った火山灰を、ビン詰にして保存したものであることを父から語られ、現在はこのガラスビンを手元に保存している。地震の記録もさることながら、火山灰の保存は他に例を聞かない。時代は大正とはいえ、千葉県下に降りそそいだこの火山灰のことは、記録したものもなく、話として伝えられてはいるが、今日になると貴重な記録といえる。
 大正十二年九月一日は、関東大地震が起こるが、この時の現状が安房郡三芳村本織字稲荷森に、延命寺断層として昭和四十七年七月一日付けで、三芳村の指定文化財に指定されている。この地域には滝川断層、宇戸(国府)断層と三か所に生じている。大きい落差はニメートル程もあり、最大規模のものが延命寺断層である。これは地震による地変を起こした所である。

   浅井忠と磐梯山の噴火
 近代日本の洋画家の巨匠とされる旧佐倉藩士の子として生まれた浅井忠が、磐梯山の噴火の後訪れ何枚かのスケッチを残している。そのうちの二枚が今、千葉県立美術館に所蔵されている。一枚は、「磐梯山麓の岩」と呼ばれるもので、落下した大岩を画面一ぱいに描き、その岩の上に数名の人物を配している。もう一枚は、鉛筆で描いた大岩を中心にした風景に、淡彩を施している。画面右上隅に、次のように記している。
   磐梯山麓
   峯村
   落下セル大石
   明治廿一年 八月 写

 たまたま、この磐梯山の噴火は幾英筆の三枚続きの木版画として、明治二十一年七月十八日印刷(明治二十一年七月 日出版)、印刷兼発行者、京橋区尾張町二丁目壱番地 佐々木豊吉の元から発売された。画題は、「岩代囲 磐梯山噴火の図」とし、第一枚目と二枚目に噴火、うず巻く磐梯山を描き、降りそそぐ岩石、にげまどう里人、くずれゆく民家を描いている。アララギ峠、シホ川、猪苗代湖水、猫魔山、檜原ノ鉱山、沼尻、温泉場、横向、川上、コガイ村などの地名が入れられている。第三枚目上段には、次のような文をおさめている。
 福島県下岩代国耶麻郡磐梯山一名会津富士と言い、海面より高さ三千六十尺絶頂に雪断ず南の麓一里半程に猪苗代の湖水あり、噴火山なる事明なれと本年七月十五日午前七時三十分ごろ突然噴火して害を被りし家屋百九十五戸、二丈余の下に埋没せし戸数四十四戸、潰家四十三戸、半潰十二戸、死亡せし者、凡五百名余、死体発顕の者四百七十名余、負傷して目下治療中の者三十七名余。斃馬発顕の類四十五頭余ハ明瞭ならす。
 同山噴火せし事、物に見えず今より三百年前、慶長十六年に此地方大地震あり、山崩れ、川溢れたりといへど、詳細を知らず此山脈ハ西に延て、猫魔山北に連りて、アララギ峠若松近きに塩川夫より西に大塩と言所有て、井塩を出す檜原と云鉱山有、コガイ村ハ硫黄を出す山の西南の廻りに沼尻、横向、川上なんと四所の温泉あり、里程ハ若松より六里本宮停車場より八里なり。
 噴火模様ハ午前七時三十分ごろ轟然たる音響けり、此響雷鳴ならんと云或は山鳴にて地震の前兆ならんと云合いしところ西北の山間より鋭き青黒き雲現れ暫時の間に雲先放れ其形次第に円く笠の如く薄黒き雲となり跡の雲ハ拡かるに随ひ灰白色となり芥子粒の如き物降りしかハ、同八時ごろ其大きさ一寸四方一個位の割石なり、留りたる跡ハ粉末状のもの頻り降、草木の葉ハ恰も積雪の如く本宮より北に降らず、南に多く安積郡田村郡へも次第にふる笠の如き形せし雪ハ消て全く降り止みしハ、同十時ころなりと山の麓ハ如何なりけん、噴出せん土砂の為に川流止り檜原ハ沼となり噴火震動今に止まず該山二里四方ハ噴火灰燼の為に草木枯死長瀬川流滞して二里四方に溢れ因て直ちに防禦に力を尽せる人民の惨状目を当られぬ有様なり。
       東京京橋区西紺屋町秀英舎印行

 このように記され、火山の噴火による明治時代のようすをうかがい知ることが出来る。手元に残る噴火の三枚続きの版画と、千葉県ゆかりの明治の洋画家が現地を訪れてスケッチしていることは、千葉県民にとっても興味をわかせることではないだろうか。

   伊能忠敬と宝永山
 世界的地理学者として千葉県が誇る伊能忠敬の家には、祖先から代々引きつがれた博物資料が数多くある。一種類ずつ和紙の袋に採集地と採集年月日を記録して保存されている。
 いくつかを紹介してみると、紀州宮原川の川原で宝永五年子五月十日採集した、白青石。佐渡国山神採集の矢の根石(石鏃)は、宝永三年戌十月であり、蜷貝の化石は阿波国さかせ川で正徳六年申五月八日採集したものである。紀伊みなみ峠で宝永五年五月九日採集の子安貝。同じ時那智で採集の那智黒石は十個ある。羽州湯殿山で元禄十七年申七月採集のものは、寒水石で一個。正徳六年四月八日、淡路の千光寺で採集したのは白丸石。伊豆は熱海で採集した蘇鉄の実が三個ある。宝永五年十月佐渡国関村で採集した木葉化石である木葉石、などなどである。この中に、富士山が噴火し、宝永山となった、その宝永山の噴火の時の火山灰がある。袋に次のような墨書銘がある。

  宝永四年亥霜月廿三日 始テ当村渡候富士焼灰。

 その他、富士山噴火の時降ったひも状のものの袋入りのものなどがある。富士山の噴火後、干葉県民が富士山を訪ね、土産として噴火によって得たものをはるぽる持ち帰っていることは、おどろきといえる。
 これらは伊能忠敬宅に永く什物として保存されて来たものであり、私の家にも伊能忠敬が各地から購入して来た社寺や名所旧跡の木版刷の案内地図などが伝えられていて、現在国立歴史民俗博物館の近世部門の展示室に展示されているのも、学者としての研究心から収集したものである。

   おわりに
 ただただ、川村優先生のお手紙によって江戸の地震余聞と題して記したが、江戸時代の地震と津波を考えるテーマ
にはいささかはずれたものであるが、地震を考える上で何かの資料となることを念じつつ雑文を記したまでである。

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図:磐梯山の図
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図:磐梯山麓の岩
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写真 写真:伊能忠敬先祖代々の収集品である博物資料
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写真 写真:宝永山噴火の火山灰

安政地震を地方(じかた)文書にみる —二、三の事例を通じて—                            川村 優

Array   はじめに

 わたくし自身、県史編さん事務等にかかわってきた一人として、いままでかなり頻繁に地方(じかた)(村方)文書の調査に旧名主宅などを訪問した。その経験からみると、今にしておもえば拝見させてもらった地方文書のなかに、大なり小なりあるいは断片をふくめて自然の災害、特に地震に関連する記載史料が決して多いとはいえないが、保存されている実態をこの目でみてきた。
 ところで、わたくしがそのような史料をつよい問題意識をもって筆写、活字化などに努力してきたかどうかということになると、むしろ慚愧と後悔の念をつよくもっているのが偽りない心情である。
 そして、このことをいつも頭に思いうかべる時、失礼ながらいつも宇佐美龍夫博士のまさしく情熱的な歴史地震史料の収集とその分析に深い敬意を表するのが、及ぼずながら最近におけるわたくしなりの調査研究上の一つの慣習と自戒ともなっている。
 宇佐美博士は、わたくしが今更いうまでもないことであるが、まさしくわが国における地震学の第一人者であり、しかも博士は古地震、歴史地震の収集と解明のため、あらゆる御努力を払われ、しかも先駆的な業績を果されてきた。
 本稿は、右のごとく歴史地震の実証的科学的分析により、現代地震学の難問に大きな研究開拓を進めてきた宇佐美博士の御提言を紹介し、それにあやかりながら、二、三の両総地域における歴史地震の具体的史料を掲げて御批判をいただくこととした。切に御批正をお願いする次第である。

  一、地震史料の重要性—宇佐美博士のユニークな提案—
 宇佐美龍夫博士によれば、地震予知研究の推進には古史料の収集と整理・出版が基本であるという(1)。すなわち古地震の史料は、過去の大地震の地震学的調査に役立つことはいうまでもないが、災害予測にも有効であることを強調(2)されておられる。
 しかし古地震の調査研究は、まだ古地震学と名づけるほどになっていない。しかし、古い地震の多方面からの見直しが、現代生活にまで深くかかわることのあるのも事実である。また古地震の研究は、地震学とその関連科学である建築学・土木工学などの他にも、国史学とのかかわりもあり、学際的なものである。特に自然科学と人文科学にまたがる数少ない分野である。さらに古地震による地変のあとを尋ねたり、埋没されているものを発掘したりして、古地震の存在を文字以外から確認することも必要で、そのためには、地質学や考古学とも深くかかわっている(3)とされ、ユニークな指摘をされていることが注目される。
 つぎに、今少しく宇佐美博士の指摘をみることにしよう。前述のごとく博士の主張によれば、古地震の史料は過去の大地震の地震学的調査に役立つことはいうまでもなく、災害予測にも有効であると指摘している。その内容をさらにこまかにみるとつぎのとおりである。現在、災害予測というと、(1)過去の例などから予想される地震の位置・深さ・規模・地震のおこり方(断層の方向・すべりの方向・その量など)を推定する。(2)この予想地震にもとづいて、各地の地面の加速度を計算する。通常は基盤加速度といって地下数十米の基盤の加速度を求める。(3)その土地土地の地盤の良否を考慮して、地表面の加速度を計算する。(4)地上の構造物の強度・構造・新旧などを加味して、地上の構造物に対する影響を推定する。勿論震度も推定する。こうして被害を予測するのであるが、この計算は大変時間がかかるし、たとえば個人の家一軒ごとに予測を立てるということはとうていできない。地域ごとの予測をたてるということになる。実はこうして求めた推定震度を過去に似た地震があれば、それと比較する。そうして両者に差があれば、通常は過去の事例の方を正しいとする。勿論、災害予測の手法が進歩し、各地の予測震度が正しく求められるようになれば、古地震の史料を参考にする必要はなくなるのだが、それには、まだまだかなりの時日を要するであろう。こういう状況であるから古史料を収集し、土地の事情に詳しい郷土史家が分析すれば、それは計算で求めた予測よりは正しいものと思われる。以上が博士の主張論点(4)である。
 ところで、しばしば宇佐美博士の御主張の論点を引用させていただいたが、博士は今後の打開策として、つぎのような意欲的な研究構想(5)をおもちになっておられる。すなわち、今後の古地震研究の第一歩は、新史料の収集とその公開にあるとされる。従来集められた史料は、どちらかというと幕府・藩主など支配者側のものが多い。これらの史料は公文書的な性格をもち、全体を簡潔にまとめてあるが、被災地の実情を知るには十分ではない。いわゆる地方史料の多くは埋もれたままになっている。地方史料は、その土地土地での実際の経験や実地踏査に基づくものが多く、地震学にとっての根本史料となるものである。こういう史料は、じつに多い。急速に発掘しなければならない。発掘された史料は、読解の上、みやすい形で公開されなければ意味がない。出版といっても、商業ベースには乗らない性格のものである。せめて、関係者が自由にみられるようなライブラリーの開設が必要である。それにも多くの人的・経費的困難がつきまとう。現状はどうか。著者が一人で手あたりばったりに史料の収集を行なっているに過ぎない。しかも、時代の流れを考えると、一方では貴重な史料が、どこかで失われつつあるかも知れないのである。気はあせっても、仕事は進まないというところである。また地震学的には、大地震の記録ばかりでなく、日記のなかに、「××日地しん」としるされているだけのものでも大いに有益なのである。そういうものを、全国的に整理することによって、他地方の地震と関連がつけられるようになってくるとして、地元の研究家の奮起をつよく要望している。
 そして、現代の古地震研究に最も欠けているのは研究者の不足と、原典である古史料の科学的吟味であろう、としている。その上で謙虚に博士は「歴史に疎縁な地震学者が、ほとんど、古文書の内容を吟味することなしに、そこに記されていることは事実であるとして、整理をしているともいえる状態にある。そういう無批判な基本態度は、古史料のうち、不都合のものは捨て、都合のよいものは、想像を加えるという姿勢に通ずるものがある。専門家による吟味が望ましいことであるが、せめて科学的合理精神に基づいて解釈を行ない、古史料にあることのうち、不自然でないものは事実として認め、記されてないことは不明であるという態度で臨むべきであると考える。古地震の調査は、基礎的なデータという性格をもっている以上、その基本に忠実であってこそ、将来の発展の礎になるものと考える(6)。
 そして、史料地震学—こう名づけられる学問分野があるとして—は基礎的作業に時間のかかるものなので徐々にしか発展しないであろう。しかし、よい史料に支えられれば着実に発展するものと思う。著者(宇佐美博士)は、最近、安政二年の江戸地震の新史料を多数収集したが、その整理を通じて、東京付近の直下型地震の震源の位置や深さを考えている。こういう事例に励まされながら、古地震の調査・研究が市民権を得る日の近いことを祈っている」と指摘(7)している。
 以上は、第一線のすぐれた地震学者であり、しかも古地震史料の収集と分析において第一人者である宇佐美博士のなみなみならない御活躍と、それにもとづいた今後のユニークな基本構想—史料地震学—への一端をあくまでも紹介させていただいたに過ぎない。わたくし自身、博士のなみなみならない御業績と御構想に無条件に頭を下げるとともに、たとえ断片的な記載であっても地震史料の一つ一つがいかに重要であるかを今更ながら肝に銘じ、今後及ばずながら古地震史料への関心と科学的な分析の足場固め、すなわち正確な解読と史料の公開に寄与したいと強く誓ったような次第である。
 註(1)宇佐美龍夫『大地震』(そしえて文庫34、一九七八・八月発行)二一八頁。宇佐美龍夫「地震の被害—過去の地震に学ぶ」(東京大学公開講座24『地震』三~四〇頁、一九七六・十一月東京大学出版会発行)。
(2)前掲書『大地震』一二頁。
(3)前掲書『大地震』二一七~八頁。
(4)前掲書『大地震』一二~一三頁。
(5)宇佐美龍夫『歴史地震』—古記録は語る—(イルカぶっくす8、一九七六・十二月発行)一二二~三頁。
(6)・(7)前掲『歴史地震』一ニ四~五頁。

   二、安政江戸地震について
 安政二年十月二日(一八五五年十一月十百)の夜、江戸で起った地震をわれわれは普通、安政地震といっている。これに対して宇佐美龍夫博士のような第一線の地震学者はこれを「安政江戸地震」と称している(1)。この地震いわゆる「直下型地震」で、その震源は江戸直下にあったと推定されている。すなわち宇佐美龍夫博士によればこの地震「安政二年十月二日(十一月十一日)の夜四ツころ(午後十時ころ)発生した。市中の死者一万人余と考えられている。潰れた家は町方で一万四三四六軒、一七二七棟を数える。地震後、市中の三〇余ヵ所から出火したが、大事にいたらず翌日の午前一〇時ころには鎮火した。焼失面積の合計は二.二平方キロメートルに達した。これは、関東大震災のときの東京の焼失面積の約二〇分の一に当たる。現在の江戸川区では、『新潟地震』のときのような『流砂現象』があった。また、神奈川・千葉両県の東京湾にそった地方でも強くゆれ、川崎・鶴見・神奈川・品川・三河島・松戸・木更津・佐倉などでかなりの被害があった。津波はなかったというが、深川蛤町や木更津あたりで海水動揺がみられたという(2)」と述べておられる。
 さて、安政地震の被害の著しかったのは江戸とその東隣の地に限られ、直径約五、六里で範囲は極めて狭かったが、江戸市中における被害は極端にひどかった。市中の被害は深川・本所・下谷・浅草が最もひどく、同じ下町でも日本橋・京橋・新橋付近はそれほどでもなかった。山の手の被害は比較的軽かったが、小石川の水戸藩邸では藤田東湖・戸田蓬軒らが圧死している。地震後に起った火災では、約十四町(約一・五キロ)四方に相当する面積が焼失した。江戸町奉行支配下の死者は三千八百九十五人、武家に関する分を合わせて市内の震死者の総数は約七千人~一万人であろうという(武者金吉推定)。潰家は一万四千三百四十六戸に及んだ。『理科年表』によれば、この地震のマグニチュードは六・九であった(3)。
 さらに宇佐美博士によると「私どもは安政江戸地震の新しい史料を集めている。とにかく幕府のおひざ元江戸の大事件であるので、各藩では国元に詳細な報告を送ったに違いない。そういう報告が各地の藩旧蔵の文書のなかから発見され、従来よくわからなかった武家関係の被害が次第に明らかになりつつある。各藩の史料をすべて収集することは大変であるが、既に集めたものからみても、江戸の武家方の被害はかなり大きいようである。その他、江戸近在の史料も集めつつある(4)」と指摘している。ここで宇佐美博士があげている具体史料をあげておこう。すなわち、木更津の「重田氏所蔵文書」によると、木更津の十ニケ町で家全半潰十三、土蔵全半潰二百二十七、死二名という被害があった。土蔵の被害が家屋のそれを上まわっているということが、地震学上の大きな問題である。土蔵は家屋より丈夫である。それがこわれるということは、地震の波に短周期波が多く含まれていることを意味する。それはまた、震源地からそう遠くないことを暗示する。つまり木更津の史料は、震源地の推定の鍵になる重要な要素を含んでいたのである、としている。また宇佐美博士は『佐倉市史』によって、佐倉領内でも百姓家潰破損二百八十五軒があったこと、また『千葉県東葛飾郡誌』により、松戸付近の村々でかなりの被害があったが、全く被害のない村々もあった、ことを指摘(5)している。
 こうして、宇佐美博士は南関東各地の新しい史料をつかい、震度分布図と、各地の被害の状況、特に木更津の史料や、葛飾の地変などを考慮して震源地を考えている。その結果、震源地は荒川河口付近か、それより少し南の東京湾内になるのではなかろうかと推定を出しておられる(6)。そして震源地の深さを推定するのは難しいが、現代の地震の規模・深さ・被害程度の関係を調査し、それを応用すると、江戸地震の被害程度からその深さは二十キロメートル以下となる。これは古史料が現代地震学に貢献している一例(7)である、として注目すべき重要な学問上の御提言を行なっている。
註(1)・(2)たとえば宇佐美龍夫「安政年間の地震」(『国史大辞典』第一巻、付録「史窓余話」所収、一九七九・二月刊行、吉川弘文館発行)
 (3)たとえば荒川秀俊「安政の地震」(前掲『国史大辞典』第「巻三八四~五頁。荒川秀俊「災害の歴史」(『日本歴史新書』)。東京都編『安政江戸地震災害誌』等参照。
 (4)・(5)・(6)・(7)前掲、宇佐美博士論文。宇佐美龍夫「地震の被害—過去の地震に学ぶ」(東京大学公開講座24『地震』たとえば五~二二頁)参照。ならびに宇佐美龍夫「新史料による安政江戸地震の調査」(東京大学地震研究所彙報51号、所収)、宇佐美龍夫「江戸被害地震被害史」(前掲、彙報51号、所収)参照。また関連的に宇佐美龍夫『資料・日本被害地震総覧』(東大出版会)、萩原尊禮編『古地震—歴史資料と活断層からさぐる』(東大出版会)参照。

   三、安政地震を地方文書にみる

事例I
  上総国武射郡木原村
   小川保次家文書(1)
   (現、千葉県山武郡山武町木原)
  (表紙)
   「安政二年夘四月吉日
        日記ひかい帳」
(前略)
(筆者註、安政二年)
十月朔日 男共山へ行、かやかり申候、女共いねこき、長治郎ニ馬かし、坊内へ塩もとしニ参、
 二日 うすくもり 日ニ二十六、七ひゆり
    天気 大ししん夜四ツ半時、男共半日すりうつひき、金谷石原印荷印参、家内居の者地震ニて添(そ)とへ出、諸ほう(方)の者見まひ(舞)ニ参、諸ほうへふしんとき申候、
    朝御日上りきハ火の丸扇のことく其後ひとろニ相成申候、
 三日 天気
    ししんゆり五、六たび、男共長谷ぞとふしん(普請)いたし、土をかつき、為蔵米いたし
 四日 天気 地しんゆり
    四、五たひゆり
    男共門こしらゐ、かへし馬二ッて行、和田役人のに付て参り、能日馬あてニ遣ス、女共いねこき、
 五日 うすくもり
    天気
    男共門こしらひ、女共半日すりうすひき、半日和(綿)田とり申候、梅病気ニテ休、東金御伯父さん参り、大あミからししん見舞、おかう姉さん向ニ参り、其日トまり、喜太郎、いね入、晩方留之介、平治郎、成東へ行、
 六日 よほと大きししんゆり六、七たび
    天気
     男共くらもちうない、三之介馬ニて大あミへ姉さん御送り参、梅いしよニこしあてへ産いたしニ行、喜太郎昼たべて、坊内竹松内へやねやてすらひ(屋根屋手伝)ニ行、
七日 地震夜四ツ時大ししん
   天気
    男共くらもちはたけうなひ、麦まき、それ■竹のこしまき、三吉、重治郎入り、大谷佐右衛門殿参、三之介大あミ■昼後かへり、それ■米つき三つ、磯八なくなりニてきよ参、かへり、晩山中扇子屋番頭参り、とまり、能日帰り、
(中略)
廿壱日 ししんゆり
    天気
     男共ハたバたけうなゐ、女共いねこき、きよ本わたきぬき、竹かへ村慎つけ入、
廿二日 うすくもり、少々ふり、ししんゆり
    天気
    男共坊内はたけうなひ、麦まき、男四人、女三人行、馬壱ッ古やとへかし、晩をそくかへり、大あミ■使まいり、つ(す)くニ帰り、金ケ谷御伯父さん朝かへり、はし米出、与兵衛馬、
(後略)

事例II
   下総国香取郡宮本村
      東大神文書(2)
   (現、千葉県香取郡東庄町宮本)
   (表紙)
    「神私實事」
(前略)
       (筆者註、安政二年)
         同十月小
同朔日卒卯前夜雨、今日晴、村内与左衛門、重兵衛、長門父右京、右三人之者共■被相願、御社広庭江壱間四方之茶見世立、今日普請出来申候、    大工岡飯田村惣右衛門
    諸雑用合
 但商人共義是迄数度、軒下等ニ而商売いたし居候間、甚見苦敷、殊ニ雨天之節抔ハ難渋之由ニ而願出候間、右之通取斗申候、店賃等ハ追而相定候事、
同二日前夜■雨、時々休止、同夜四ツ時大地震、凡近来大地震茂時々ニ有之候得共、可比様無之、誠ニ未曾有之大震有之申候、

同三日晴、今日晴候得共日蔭黄色ニ而物すこし、八ッ時■日色常之如し、

同十日晴陰 去ルニ日夜大地震之儀当所辺ハ石塔類被倒、或ハ土蔵ニ痛出来候も有之候上ニ而、別而破損無之候処、江戸表之儀大半被打倒、土蔵壁ハ不残振おとし、所々出火有之、別而吉原、千住、本所辺、柴辺等別而夥敷、大方焼亡いたし候由、御府内ニ而死人怪我人不数知、或ハ三十万人餘死人餘有之由、其後引続昼夜数度地震ニ而、猶近日以前ニ倍し候大震可有之由博士申之由ニ而、江戸表之義生心地無之由風聞甚敷候ニ付、自然田舎迄恐怖いたし候ニ付、今日大禰宜、大郎禰宜物部森部等召集、当日■十六日迄一七日之間、国土安全産子長久之御祈始之、但此方并大禰宜義ハ延方伯母中陰今日迄相懸候間、大郎禰宜外弐人ニ而御祈祷始為仕申候、
  (中略)
同十六日晴 今日御祈祷満尾
  (後略)

事例 III
   上総国山辺郡清名幸谷村
      大原家文書(3)
   (現、千葉県山武郡大網白里町清名幸谷)
○ 安政二卯年十一月廿一日御組頭へ差出候書付之控
地震ニ付住居向及大破候書付
        高五百石  御書院番
                  一柳播磨守組
                  杉田鉄太郎
               宿所表二番町法眼坂
一此度地震ニ付、私屋敷門長屋之内、少々ツ、破所出来仕候迄ニ而、別条無御座候、
一玄関座敷向別条無御座候、住居所向者瓦崩落、所々破損所出来仕候得共、取繕住居罷在候、
一土蔵壱ケ所及大破申候、
右此段申上候、以上、
      卯(筆者註、安政二年)十一月
              杉田鉄太郎
○  書下之覚
 一金六両弐分也
右者乙卯年(筆者註、安政二年)十月稀成大地震ニ付、御普請所多分ニ出来之所、兄在府勤中賄居、今般御普請為御手伝書面之金子被相
納、奇特之儀二厚被  思召候、依之御書下ケ被下置候、以上、
  安政四丁巳年三月
       地頭
        杉田用所印
       上総国山辺郡
        清名幸谷村
       兄在府勤役中賄
       名主又三郎方
○ 乍恐以書付奉申上候
去々卯(筆者註、安政二年十月)十月稀成大地震ニ付、御土蔵大破、尚又去辰(筆者註、安政三年八月)八月廿五日大風、右ニ付大奥御住居向、諸御建物とも大破ニ付、御知行所村々一同小前ニ至迄御出役之上、割合上納金被 仰付則拙村分
 一金五両也 地しんニ付被 仰付候、
 一金五両弐分也 大風ニ付被 仰付候、
右者村方百姓御申渡之趣厚相心得、割合奉上納候左ニ、
 一金四両弐分也  五郎右衛門印
 一金同断     吉左衛門印
 一金壱分也    六兵衛印
 一金同断     仁兵衛印
 一金壱両也    五兵衛
        不納ニ付五郎右衛門納申候、
 一        六右衛門
        後家ニ付相除申候、
右之通り奉上納候処相違無御座候、依之御申渡之通り名前書奉差上候、以上、
  安政四巳年正月
       御知行所
        上総国武射郡
         小松村
          名主
           五郎右衛門印
   御地頭所様
     御役場
       大原與重郎様

事例 IV
 上総国山辺郡布田村
    猪野俊之助家文書(4)
     (現、千葉県東金市布田)
(表紙)
 「 安政二年
  十月二日夜四ツ時大地震ニ而御屋敷御長家其外
            諸□□三ケ国上納金并雑用割合帳
     卯ノ十一月廿八日    」
    覚
一金五拾七両弐朱ト     地震ニ付奥御長屋向
      永弐拾文    破損ニ付三ケ国ニ而百両
              上納金割、
一同四両三分      御上并御用人様方
            へ御見舞金
一同弐分弐朱      山本次郎左衛門
            出府路用
一同三両        猪野口左衛門
            同七郎左衛門
            出府路用
〆金六拾五両弐分ト
      永廿文
 (中略)
一金三両壱分卜
    六百九拾文   酒蔵村
一同三両弐分ト
    三百四文    三ケ尻村
一同四両弐分ト
    四拾七文    雨坪村
一同四両三分ト     
    百八拾七文   下極楽寺村
一同四両三分弐朱ト
    四百八拾文   下布田村
一同五両弐朱ト
    八百四文    上布田村
一同五両弐分弐朱ト
    六百八拾弐文  上極楽寺村
一同弐両弐分ト     
    三百六拾四文  板川村
一同弐両壱分ト 
    四百八拾九文  中野村
一同九両弐分ト
    五百四拾八文  長谷村 
一同八両弐分ト
    五百八拾壱文  小林村
一同三両壱分ト
    弐百廿三文   幸次村
一同七両ト
    六百八拾弐文  富田村
  内
金弐拾弐両壱分弐朱ト
     三百八拾七文
 右金孫左衛門殿取立ニ而十一月十二日御同人■受取、

  (後略)

 右に掲げたのは、いくつかの安政地震の動向を伝える地方史料の一端である。以下順次その記載内容の概略についてふれることにしよう。
 事例Iはいわば農事日誌ともいうべき日記帳で、貴重な記載が注目される。ここでは、あくまでも安政地震の記載に限定してみることにしよう。いうまでもなく地震の初発は安政二年十月二日である。この日記によると、十月二日は天気はうすぐもりで「大ししん(地震)夜四ツ半時」とあるごとく、地震は夜四ツ半時におこり「二十六、七たひゆり」とあり二十六、七回ゆれたとあり、右の記載に「大ししん」とあり大地震といううけとめかたをしていることがわかる。そして「家内居の者地震ニて添(そ)とへ出、諸ほう(方)の者見まひニ参」とあるから、家の者はそとへとび出し、諸方の者が見舞にみえたとあるから、地震の規模としてはまさに大地震であったこと、しかもこのことは二十六、七回の震動があったとしるされていることにも端的にしめされている。ついで翌三日の記載にうつってみよう。天気は「朝御日上りき(際)ハ火の丸扇のこと(如)く、其後ひとろニ相成申候」とある。「ししん(地震)ゆり五、六たび」とあり、翌三日にも、五、六回の地震が発生していることがわかる。
 つぎに四日の動向をみると、天気はうすぐもりで、地震は四、五回ゆれるとある。さて地震はその後もつづいていることがわかる。すなわち、六日になると「よほと(余程)大きししん(地震)ゆり、六、七たび」とあり、六日の地震はかなり規模が大きかった経過をしるしているものとみなされる。しかも次の七日も地震が起っており「夜四ツ時大ししん(地震)」とある。しかもその後も十月廿一日の記載に「ししんゆり」、廿二日には「うすくもり、少々ふり、ししんゆり」とあるように、安政二年の十月中は十月二日夜のいわゆる安政大地震のほか、そのあとにもかなり頻繁に地震が発生していることがわかる。殊に右の記載によると、十月二日の安政大地震の直後にも、十月六日と七日にも大規模な地震が起っていることが注目される。
 以上の記載は、現在の千葉県山武郡山武町に属する上総国武射郡木原村における安政地震の動向を示す記載として重要であろう。殊に地震の起った十月二日は、二十六、七回の震動をかぞえること、その直後の天候の記載と相まって、その直後、群発的に十月中はかなり頻繁に地震が発生していることがわかる。ともかく右の記載によると、十月二日の地震の発生による具体的な人的、物的の被害の記載はなく「家内居の者地震ニて添(そ)とへ出、諸ほうの者見ま(舞)ひニ参」とあるごとく、家の中の者が地震の発生とともに外へとび出したこと、地震見舞として人々の往来があったという記載が、その状況を端的に示しているといえよう。なお、門外の老が言及するのはさしひかえるが、十月二日夜の地震と右の記載にみえる群発的な地震(特に十月六日と同七日の地震は、大地震としるされている)とは震源において同一系統の地震であったろうか。いずれ宇佐美博士の御指導をいただく所存である。
 次に事例IIの史料にうつろう。これは下総地区でも有名な東大神(現、千葉県香取郡東庄町宮本)の弘化四年(一八四七)五月から安政七年(一八六〇)九月にいたる「神私實事」という表題の日記の記載である。この日記の記すところによると、安政地震の起った安政二年十月二日は、前夜より雨で時々雨止みの天候で、同夜四ツ時は大地震が起り「凡近来大地震茂度々ニ有之候得共」今回の地震は比べようのない未曾有の大地震であるといっている。翌日の三日については、天候は晴であるが、「日蔭黄色ニ而物すこし」として、八ツ時(筆者註、今の午後二時)よりは日色は平常にもどったとしている。
 さて、つぎの十日の記載をみてみると、去る二日の大地震は当所辺では石塔類が倒れ、あるいは土蔵に痛みが「出来候も有之候」と被害状況をしるして、特別に目のつく破損は無いとしており重要な記載である。さらにこの記載には江戸表の被害状況の風聞として「江戸表之儀大半被打倒、土蔵壁ハ不残振おとし」として所々に出火があり、特に吉原、千住、本所辺、柴(芝)辺がひどく、大方は焼けてしまい、御府内の死人、怪我人数知れずという有様である。そして死人の数は「或ハ三十万人余死人有之由、其後引続昼夜数度地震ニ而、猶近日以前ニ倍し候大震可有之由」という情況で、「江戸表の義は生きた心地の無い有様という風聞にみちみちて、田舎でも恐怖している」とある。そこで東大神では十日から十六日の十七日間、急ぎ国土安全、産子長久の祈願をはじめていることも注目される。
 右の記載をみれば、明らかなごとく田舎(東大神の位置する利根川下流地域)への被害の風聞は、江戸の吉原、千住、本所辺、柴辺は焼け野原となったという、さらに江戸の死人はあるいは三十万人余に及ぶというように、実際の被害から、極度に誇張された被害状況となっている。右の記載をみれば、今更ながら今でも昔でも、一種のパニック情況下の流言蜚語のおそろしさをまざまざと味わうことができるであろう。殊に東大神では、急遽二週間にわたる安穏のための御祈祷を行なっていることも大いに注目されるであろう。
 事例IIIの記載は、書院番一柳播磨守組、五〇〇石旗本杉田鉄太郎(5)が、自己の所属する書院番組頭に宛てた安政地震の被害報告書である。これによると、杉田の宿所は「表二番町法眼坂」であることがわかる。さて被害報告は三項目からなり、一は「私屋敷門長屋之内、少々ツヽ破所出来候迄ニ而。別条無御座候」。二は玄関座敷向は異常はない。「住居所向者瓦崩落、所々破損所出来仕候得共、取繕住居罷在候」と述べている。三は土蔵壱ヶ所は大破に及んだとしている。
 右の記載は江戸市中における安政地震の被害度を確認する上からも重要な指摘といえるだろう。ところで旗本杉田氏の知行所は、本史料に示されるごとく上総国山辺郡清名幸谷村(現、千葉県山武郡大網白里町清名幸谷)、同国武射郡小松村(現、千葉県山武郡成東町小松)等にあった。周知のごとく、下級旗本のみならず旗本は、財政的には窮乏が一般的であったので、とかくことあるごとに、自己の知行村に対して財政的な転嫁を行なうことが一般的であったのである。
 右の「書下之覚」は、旗本杉田氏の江戸屋敷の用所から、知行村たる清名幸谷村の名主に宛てたものである。これによると「乙卯(筆者註:安政二年)年十月稀成大地震ニ付、御普請多分ニ出来之所」として、たまたま村方名主が杉田氏の江戸屋敷に出府勤役中、当該旗本の普請御手伝金として六両二分を納金したことに対する領収証に相当する「書下ケ」である。しかも文面にもあるとおり、名主が個人で六両二分の普請御手伝金を納金するということは、なみなみならない負担であり「奇特之儀ニ厚被 思召候」と文面にもみえる。さて、杉田知行所清名幸谷村の場合、惣百姓は地震被害にともなう普請御手伝金の負担はなかったかどうかは明らかではない。ともあれ、たまたま旗本杉田氏の家政の財政的な賄手伝として、出府中の当該名主が、かなりの高額の普請御手伝金を負担している実態が明らかであろう。
 今一つ掲げた史料は、まさしく右の旗本杉田氏の知行所たる上総国武射郡小松村名主五郎右衛門が安政四年(一八五七)正月、杉田氏の江戸屋敷家中大原與重郎に宛てた上申書である。これによると、明らかなごとく、安政地震の普請上納金賦課の小松村負担金はあわせて金十両二分であったことが知られる。すなわち、右の文面によると「去々卯十月稀成大地震ニ付、御土蔵大破、尚又去辰(筆者註:安政三年)八月廿五日大風、右ニ付大奥御住居向、諸御建物とも大破ニ付、御知行所村々一同小前ニ至迄御出役之上、割合上納金被 仰付、則拙村分」とあるごとく、知行所たる小松村に対しては、安政二年の大地震、ついで翌三年八月の大風被害をあわせて、いわゆる普請御手伝金をあわせて命じており、その額は十両二分で、その内訳は五両が地震被害、五両二分が大風被害の普請の手伝金で、むしろ大風被害金の方が多くなっている。
 では、小松村ではこの十両二分の負担金をいかなる分担で納金したのであろうか。右の上申書によると、「右者村方百姓御申渡之趣厚相心得、割合奉上納候左ニ」として名主五郎右衛門四両二分、吉左衛門四両二分、六兵衛一分、仁兵衛一分、五兵衛一両(但し不納につき五郎右衛門納申候とある。)それと六右衛門とあり「後家ニ付相除申候」とある。結局のところ名主の五郎右衛門が、五兵衛不納分一両をふくめてあわせて五両二分を負担し、吉左衛門が四両二分、六兵衛・仁兵衛が各金一分で、名主をはじめとして四人で十両二分の負担金を納入していることがわかる。普通は持高割なりで、名主をはじめ惣百姓が負担する例が多いが、右の小松村の場合は知行村方のまさしく有力農民で負担したものと思われる。もっとも惣百姓割にしなかったのはいかなる具体的理由によるのか必ずしも明らかではない。かくして、この上申書は当該旗本の指示にもとずく大地震・大風にともなう普請御手伝金の負担納金者名を明記して、名主から旗本杉田氏家中の大原與重郎にあてたものであることがわかる。
 次に、いま一つ東金市上布田猪野家文書によると、同村知行の旗本土屋富三郎(6)(山城守)の江戸屋敷は、安政大地震による「奥御長家向破損」にあたって、知行村全体に対して百両の上納金を命じていることがわかる。本帳によると、上総国山辺郡布田村(現、千葉県東金市)のみならず、東上総の他の知行村の上納金の負担状況がわかる。
 旗本土屋氏は土屋民部少輔忠直の三男の之直が祖である。ついで朝直、秀直、応直、業直と家督をついだ。知行所は之直の時代相模国大住郡・愛甲郡の内、上総国長柄郡の内にあった。ついで朝直(山城守)の時に上野国の内で二千石をたまい知行高三千石で、元禄十三年上野国の采地を割いて上総国山辺郡内に移されている。ついで秀直の時、元文三年九月上総国長柄郡下の知行村の一部を割いて上総国武射郡と下総国千葉郡の内にあてがわれている。以上のごとく旗本土屋氏の知行所は元文年間以降上総国、相模国、下野国の内に分散しており、幕末にいたるまで知行高は三千石であった。
 さて、右の引用史料によると、安政大地震の被害普請手伝金として右にみたように三ケ国の知行村に合計百両の上納金を賦課していることがわかる。この内、上総国村々の負担金はあわせて五七両二朱ト永二十文で、他の下総、相模国内知行村にくらべると、全負担金百両の内半分以上は上総国の村々で負担したことが判明する。しかも右の負担金の外、「御上并御用人様方へ御見舞金」として四両三分、それに江戸屋敷への往来路用などを入れると負担額は、上総国内武射郡、山辺郡、長柄郡内の土屋氏知行村の負担総額は、あわせて金六拾五両二分ト永二十文である。
 ところで、もっとも多いのは長柄郡長谷村で九両二分ト五百四拾八文となっている。もっとも少ない知行村でも、山辺郡中野村の二両一分ト四百八拾九文である。これらの知行村の負担金割合は、知行高を基準とした賦課であることも知られる。ともかく、安政大地震による旗本領の村々の御普請御手伝上納金は、予想以上にたかいことがわかる。もっともこの額は、当該旗本の江戸屋敷における建物の被害度合によるものであろうが、おしなべて負担額は大きいことがわかる。以上のごとく、大地震による江戸の旗本屋敷の被害は、とりもなおさず、知行村方に上納金が賦課され、村方の大きな重圧となった。そのことが、村方におしよせるもろもろの疲弊に、一層拍車をかけることになったことは何としても無視できないことであろう。
 以上は二、三の例に過ぎないが、在地、ならびに江戸における被害状況の記載に焦点をあててみる時、右の史料のなかにも食い足りない記載もみられるが、概括的な記載であっても、これらの史料をできるかぎり収集して分析すれば、地震の被害度合の究明にも寄与できる内容を摘出できるかも知れない。ともあれ江戸市中の地震被害が、当時の封建社会の支配システムのなかで、地方(じかた)の村々に思わぬ次元のことなる負担の苦のうとして、転稼されるという実態も、社会史(7)的に忘れてはならないであろう。
註(1) 山武町史編さん室提供。なお、本日記帳の全部の記載は近く三月初旬に発行される『山武町史 史料編』に所収される予定である。
(2) 東庄町史編さん室提供。
(3) 大網白里町史編さん室提供。
(4) 東金市史編さん室提供。
(5) 旗本杉田氏については『新訂寛政重修諸家譜』第十五巻一一四~五頁参照。旗本杉田氏の祖は直昌、ついで忠察の時、元禄十年七月廩米をあらためられ、
上総国埴生・長柄・山辺・武射、下総国香取郡のうちで五百石をあたえられた。宝永七年には長柄郡の采地を夷隅郡に移されている。
(6) 旗本土屋氏については『新訂寛政重修諸家譜』第二巻、一九三~四頁参照。
(7) 最近、北原糸子氏は災害社会史の観点から、『安政大地震と民衆』(A5判総頁二六四頁、一九八三・九月刊行、三一書房発行)なる大著を
ものにされた。ここでは紹介するスペースをもたないで大変失礼であるが、大方の御一読を切に念願してやまない。

   おわりに
 宇佐美博士は「地震は同一地点に数百年の間をおいて発生するから、実例は少ない。過去に遡ることは、他の科学分野における実験と同様の重要性をもっている。また、同じ古地震の史料でも、地震学が進んでくれば、異なった解釈が可能になる。とにかく、東海地震に関連して、古地震の調査の重要性が再認識されたことは、古地震の調査に携わる著者にとっては、望外の喜びでもある」(宇佐美博士『歴史地震—古記録は語る—』<一九七六・十二月、海洋出版KK>)と述懐されておられるように、第一線の権威ある地震学者として、しかも歴史地震の解明に異常な御熱意とユニークな御成果をあげられてきた博士の右の指摘は、地方を本拠とするわれわれ歴史研究者にとって、まさに驚異とともに、つよい自戒のなにものでもない。
 本稿は、宇佐美博士のユニークな御成果の軌跡の一端を失礼ながら紹介するとともに、在地の歴史研究者である自分自身の、今までに歴史地震に関する基本史料に対する熱意のあまさを大いに自戒自責し、博士の先駆的な歴史地震史料の収集と分析にあやかりながら、安政大地震に関する若干の基本史料について、ここに紹介することとした。その内容は勿論宇佐美博士の広大なる史料の収集と分析に比すれば、まさに粟粒の一つに過ぎないものである。
 すなわち、ここに掲げた地方文書の一部は、江戸の周辺の或る特定地点(現、千葉県山武郡山武町、同香取郡東庄町)における安政地震の動向に言及した史料の実例を掲げた。他の二つの事例は、周辺地域の動向というよりも、上総周辺を知行していた旗本が、自己の知行村に対して、被害をうけた長屋門などの修復のための手伝金を知行村方に指示上納させているケースについて言及した。後者の史料は当該旗本の江戸屋敷における被害の概況に関する記載がないわけではないが、きわめて抽象的な表現で、知行村々に対して御手伝金の上納を指示している。すなわち後者の二点の史料は、直接地震にともなう被害状況については、具体的な表示は必ずしもとっていない。
 しかしながら、このような後者二点にかかわるような基本史料でも、集中的な調査が可能であれば、江戸市中における何らかの被害状況の市中別復元に寄与できると思われる。社会史的にみれば、江戸の周辺村落における農民は、直接地震にょる建造物倒壊等はなかったものの、次元を超えた立場において領主たる旗本の指令によって、比較的大きな普請手伝金を上納している具体的事実を知ることができよう。つまり、自然的災害ならぬ人為的な金子負担の苦のうを味わっている現実を理解することができたであろう。かかる重圧も、次元を異にした大きな災害の舞いおりとみることもできないことはない。
 ところで、本稿のめざす本質的な第一の目標はいうまでもなく、江戸の周辺をとりまく特定地点における、より濃密な被害状況を伝える史料の把握調査とその分析に主体があろう。そのことは、冒頭にしるした宇佐美博士のすぐれた御実績と御提言をみれば、きわめて明らかなことであろう。
 今後とも、及ばずながら事例I・IIに直接かかわる大小の断片史料の収集と読解に、全力を傾注したい決心である。宇佐美博士の今後のきびしい御叱正をいただくとともに、大方の御批正を切に懇願する次第である。
 〔後記〕
 本稿をなすにあたっては、宇佐美博士の数々の御学恩と、緊急に史料の提供に御尽力下さった山武町史編さん室の関嘉和氏、大網白里町史編さん室の江口寿氏、東金市史編さん室の富永芳道氏、東庄町史編さん室(昨五十八年に解散)の寳理定失氏に対して厚く謝意を表したい。特に宇佐美博士の御指導と、右の四氏の積極的な応援がなかったならば、本稿も不発に終っていたであろう。かさねがさね謝意を表する次第である。

 館山を中心とする地震災害について                            君塚文雄

Array  一、緒言
 通俗的に世界には三つの大きな地震帯があるといわれる。これは火山帯とも一致するものであって、一般的に「地中海ヒマラヤ地震帯(火山帯)」・「大西洋S字形地震帯(火山帯)」・「環太平洋地震帯(火山帯)」と呼ぼれるものである。
 このうち日本が含まれている環太平洋地震帯は、南米の南端からすれば、チリーの太平洋岸から北上して中央アメリカ、北アメリカの太平洋岸、カナダ、アラスカ、アリューシャン列島から千島列島、日本列島、南西諸島を経て、台湾、フィリピン諸島からマライ諸島、スンダ列島、ニューギニア、ソロモン諸島に達し、更にメラネシアの小諸島を経てニュージーランドに至るものであって東太平洋上に浮かぶハワイ諸島を含めたこの広域は、常に活発な火山活動と地震(地殻中の変動で大地が振動する現象)に見舞われ、世界の地震の八〇パーセント以上がこの地震帯で発生しているといわれている。
 日本はこの環太平洋地震帯の中にあってアジア大陸の東縁に位置し、東方に世界最深のラマポ海淵(海深一〇六八〇メートル)をもつ小笠原海溝、北に日本海溝、南に琉球海溝などを控え、小松左京氏の『日本沈没』ではないが、感覚的にいかにも不安定な所にある。
 最新の科学の発達は、従来不可知と思われていた地震の仕組みと周期性とを「プレートテクトニクス理論」で一応説明できるようになった。この理論はドイツの地学者ウェゲナーが一九一二年に唱導した「大陸漂移説」に基づくものであるが、簡単にいうとウェゲナーは、地殻は比較的軽い物質であるシァルから成り、中心はこれより重いシマから成るというジェースの所論に根拠を置いて大陸の漂移を説いたのであった。
 現代ではこの理論を更に修正発展させて、地球の表面(地殻)は厚さ約一〇〇キロメートルのプレート(岩盤)と呼ぼれるもので構成され、各プレートはマントルの上に載っているが、この地球内部のマントルの対流によって、ゆるやかに移動を続けている。
 日本近海では、東太平洋海嶺の底からマントル対流によって西方へ移動するプレートは、年間約四センチのスピードで日本列島の方へ押し寄せ、日本海溝、小笠原海溝などの不整合面から列島の下部へもぐり込む。その結果、そこに生ずる歪みがある限度を越えると、一気に反転して復元しようとする。この復元作用に伴って、大きな地殻変動が引き起こされ、大地震の発生となる。同時に海底の変動は海水を盛り上げ、陸地に押し寄せると津波となると説明している。河角廣博士は、関東地方ではその周囲が六十九年プラスマイナス十三年であるとされた。
 房総では、房総半島沖の日本海溝付近の地殻変動による地震と、日本海溝から分岐して相模灘方面に延びる相模トラフ線上に発生した地震とが、大きな被害をもたらしている。

 二、資料・ロ碑などに見られる房総半島南部の大地震
(1)江戸時代以前の南房総の大地震
 地震がわが国の史書に記載されているのは、『日本書紀』巻第十三の第十九代允恭天皇五年七月十四日の記事で「地震(なゐふる)。云々」と記されているが、詳しい記述はない。
 南房総の地震が初めて史書に出ているのは、寛平四年(八九二)菅原道真によって編纂されたとされる『類聚国史』である。それによると平安時代の第五十二代嵯峨天皇の弘仁九年(八一八)七月、「相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野等諸国地大に震い、山崩谷埋り、百姓死するもの算うべからず」と記され、大きな被害があったことが知られる。この中に安房はないが、当然含まれていたものと考えられよう。この地震の震源地は相模湾で、規模はマグニチュード(以下Mと略記)七・九と推定されている(『理科年表』)。
 『三代実録』などによると、第五十七代陽成天皇の元慶二年(八七八)九月二十九日に関東諸国に大地震があった。中にも相模・武総は強烈で、公私の屋舎顛倒し、道路は陥没して不通となり、圧死した百姓の数は算えることができない程であったと記しているが、詳細は不明である。
 続いて『扶桑略記』によれば、第五十九代宇多天皇の「仁和三年(八八七)七月三十日、安房国地震」と記されている。震源地は南海道沖で、規模はM八・六と推定され、『稿本房総文化史年表』(以下『文化史年表』と略記)にも安房・上総・下総方面にかなり強度の地震があったと記しているが、被害状況は明らかでない。この地震は津波を伴い、安房の海岸にも到達したと伝えられる。
 鎌倉時代になると、『吾妻鏡』には元暦二年(一一八五)七月十九日の地震など数多くの地震の記事が見られる。房総関係では建長四年(一二五二)七月二十三日、夜に入って房総一帯に豪雨があり、寅の刻(午前四時)大地震起り被害甚大であったと『文化史年表』は記しているが、詳細は明らかでない。
 『吾妻鏡』の正嘉元年(一二五七)八月二十三日の項には「乙己晴、戌刻(午後八時)大地震音あり、神社仏閣一宇として全きはなし。山岳頽崩し、人屋顛倒し、築地皆悉く破損し、所々地裂けて水湧き出ず。中にも下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より炎燃え出でて色青し。云々」と記され(原文は漢文体)、鎌倉の被害が甚大であったことを記している。この地震の震源地は房総半島の東方沖で、M七・○とされている。
 それからも九月にかけて小震は止まず、十一月八日には再び大地震があった。その後も大暴風雨、早魃、疫病流行等の天変地異が続いたので、日蓮上人はこの原因は法華経を貶(へん)下した邪宗横行のためとし、正元二年(一二六〇)『守護国家論』を著わして、法華経の正法宣揚を説いたのであった。
 永仁元年(一二九三)四月十二(三)日にも南関東に大地震があり、特に鎌倉の被害が甚大であったとしているが、房総の記録には見られない。『帝王編年記』には「四月十三日大地震。鎌倉中谷々山々崩之時、舎屋顛倒、死者二万三千二十四人也。二十二日建長寺焼失。」と記され、『北条九代記』にもほぼ同様の記事が見られる。
 『文化史年表』によると、元弘元年(一三三一)の項に「関東に大地震あり。」と記されているが、地域や規模については詳らかでない。
 『君津郡誌』には「永享四年(一四三二)三月十二日夜大地震あり。同五年九月十六日地大に震ふ。夜の内三十余度其後二十日余、地震やまず。同六年正月十六日地大いに震ふ。」と記し、永享四年から五年、六年と地震が続いたことを記している。このうち五年九月の地震が一番大きく、震源地は相模灘で規模はM七・一とされている。利根川が逆流したと伝えられるのもこの時である。
 また同書には「明応元年(一四九二)五月二十六日、地大いに震ふ。」と記し、続いて「明応四年(一四九五)八月十五日大地震洪水あり。鎌倉にては由比浜の海水千度檀に到り、水勢大仏殿に入り堂舎を破る。溺死人二百余あり。」と記しているが、この地震の震源地、規模等は明らかでない。鎌倉大仏はこの災害以来露座となったと伝えられている。
 次に同書は「明応七年(一四九八)八月二十五日、近畿・関東諸国大地震あり、房総被害多し、殊に安房長狭郡の沿岸大海嘯(満潮の時、特に三角状に開いた河口の所に起る高い波を海嘯というが、一般に津波のこともいう)起り、地盤陥落して人畜共に没し、小湊誕生寺掃蕩せらる。」としているが、日時は『文化史年表』では、二十三日と記している。当時、誕生寺は現在の蓮華潭の所にあったが、津波で掃蕩されたので、妙ノ浦の海岸に移転したと伝えられている。震源地は遠州灘(一説には房州沖)、規模は、M八・六と推定される大地震であった。
 この大地震で房州の寺社が多く倒壊又は破損したので、時の領主房総里見氏二代成義は文亀三年(一五〇三)安房神社を修造し、永正五年(一五〇八)九月二十五日には三代義通が鶴ヶ谷八幡宮を修営して棟札を遺し、同七年(一五一〇)には今宮山王宮(旧竹原村)を、続いて同九年には旧大井村の手力雄神社を修造したものと考えられる(各『社記』)。
 その後大永五年(一五二五)八月には鎌倉に大地震があった。『八幡宮長帳』に「二十三日、日本大地震、別して鎌倉大地震、由比浜の川・入江・沼皆震ひ埋まりて平地となる。二十七日まで昼夜地震あり。」と記しているが、房総のことは不明である。
 更に『君津郡誌』によると「天正十八年(一五九〇)二月十六日の夜、関東諸国地大いに震動す。房総及常陸の被害最も甚しく家屋の転覆せざるもの殆ど稀なり。暁に至り海水俄に退くこと三千余町、十八日に至り海上鳴動し怒濤俄に襲来し、数十丈の山腹に達す。人畜の死傷、家屋の破損挙げて算うべからず。」と大地震、大津波の惨害を記しているが、『文化史年表』には「二月十六日夜、諸国大地震、房総の被害最も甚し。」とだけ簡単に記している。この地震の震源地、規模は明らかでないが、相当大きな地震、津波だったと推定される。
  (2)江戸時代以後の南房総の大地震
 江戸時代に入ると、地震の記録が更に多く見られるようになる。
 『文化史年表』によると『慶長六年(一六〇一)十二月十六日、房総大地震、十七日海嘯あり、死者多し。」と記され、『君津郡誌』には『慶長六年十月十六日、房総の地大に震ひ、海潮俄に退くこと里許、翌十七日夜半海嘯起り、山崩れ海埋り、家流失し人畜死傷す。」と大災害があったことを記している。
 『房総軍記』にも「慶長六年辛丑冬十月十六日、俄に大地震動し、深山万壑鳴動すること夥し。堂舎仏閣は揺り倒され、磐石崩れて海を埋め、安房上総の海は須叟に潮三十余町干潟して、平砂となること二日一夜、諸人驚き騒いで、足も空なり、『さながら天地転覆するか』と眩暈す。『是は稀代の珍事かな』と肝を冷し、魂を消す処に、同十七日子の刻(真夜中)に方々夥しく鳴動し、其の響大山の崩るるよりも凄じ。程こそあれ、逆浪漲り溢れて、潮水巻き上り、民屋を流し、大木を倒し、堤壊れ、岸砕け、『山林草木海底にあるか』と怪まれ、農民は家財雑具を押し流し、早く逃げし者は助かり、遅く逃ぐる者は溺死せり。」と当時の惨状を詳細に記しているのが注目される。
 この地震の震源地は房総の東方沖で、規模はM七・九と推定され、房総三大地震の一つに数えられている。
 館山市八幡の鶴ヶ谷八幡宮も破損したと見え、里見九代義康が、慶長七年(一六〇二)一月二十一日、八幡宮を修造した棟札が遺っている。
 『安房志』によると「寛永四年(一六二七)丁卯年八月五日、地震海嘯あり。」と記し、『千葉県誌』には「寛永十九年(一六四二)八月、安房国地震及び海嘯あり。」と記し、更に明暦元年(一六五五)四月の項に「上総の東部大に地震す。其の余震五十余日に亙る。」と記しているが、これ等の震源地や規模、災害等は明らかでない。『君津郡誌』に「寛永二十年八月、安房国に地震海嘯あり。」としているのは十九年八月のことと思われる。同書は明暦元年四月の地震についても「東上総の地大に震ふ。」と記し、『文化史年表』も明暦元年の条に「四月、東上総に強地震あり。」と記している。
 『安房震災誌』にょると、慶安二年(一六四九)六月二十一日に武蔵国を中心とする大地震があって、江戸城の城壁や日比谷御門が崩れ、諸大名の邸宅以下民家の倒壊、破損が多く、上野寛永寺の大仏の首が落ちたと記しているが、房総方面の記録は見られない。同書は、この地震を江戸の三大地震の一つといわれると記している。
 延宝五年(一六七七)十一月四日に房総半島沖に起ったとされる大地震については、房総の古文書類には記載が見られないが、『君津郡誌』には「延宝五年上総国沿海に海嘯あり。」とだけ記され、『千葉県誌』にも「延宝五年、上総沿海海嘯あり。」とあるだけであるが、羽島徳太郎氏の研究によると、この地震の震源地は房総沖で、規模はM七・四とされている。『安房震災誌』では、この津波は陸奥国の地震によるものとしている。
 元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日には、有名な元禄大地震が起っている。この大地震の震源地は、房州の西南沖で野島崎の南方約二十五キロ、規模はM八・二、津波の高さは二・五メートルという巨大なものであった。『文化史年表』には「十一月二十三日、関東地方に大地震あり。安房地方に被害大きく、那古観音の堂宇、寺塔悉く海中に転落。」と記し、三芳村の宝珠院由緒書には「元禄十六年巳未十一月二十二日大地震之時、諸堂破壊、旧記等埋没仕候」と記されている。口碑によると、那古寺観音はそれまで那古山(式部山)の中腹にあったが、この大地震で寺塔悉く海中に転落したので、五十余年を経た宝暦九年(一七五九)から同十一年にかけて更に下の現在の地に再建されたとしている。
 『千葉県誌』や『君津郡誌』によると、「元禄十六年十一月二十一日、関東諸国地大に震ひ海嘯あり、房総の沿海殊に甚しく、民舎倒壊し溺死するもの算なく、或は地形を変ぜし所あり。安房小湊海岸の道路海中に没するに至れり。」と記している。室町時代の明応七年(一四九八)の大地震で蓮華潭から妙ノ浦に移転した誕生寺が再び大津波に逡(さら)われ、現在地に再移転したと伝えられている。しかし誕生寺の元禄十三年(一七〇〇)の古地図には現在地に既に寺が記入されているので、この口碑は疑問とする説もある。この大地震に伴う大津波の被害は、九十九里浜から内湾海岸まで、ほとんど全海岸に及び、至る所に津波犠牲者の供養碑や塚が見られるのである。これ等の供養碑や塚については、伊藤一男氏の『房総沖巨大地震—元禄地震と大津波』に詳しいが、南房総の供養碑や塚を列挙すると、鋸南町の吉浜浦の万灯塚、勝山浦の千人塚、富山町高崎の石塚、館山市船形大福寺の供養碑、相浜蓮寿院の供養碑、和田町真浦威徳院の津波碑などが知られている。ところで、元禄大地震に関する相浜蓮寿院の供養碑の碑文を掲げると次のとおりである。
 碑の中心に「南無阿弥陀仏」  祐天上人筆
 碑文「元禄十六年癸未十一月廿三日因津波於当所死亡男女老若八十六人之者今年正徳五乙未天十一月廿三日当十三回忌改為彼亡者此名号建石塔弔忌者也
       施主 武劦江戸尾張町 浅田六兵衛
          房劦安房郡   相浜村立之」
 この元禄の大地震について、『安房震災誌』は、「元禄十六年十一月二十二日(子の刻夜半)の地震は江戸時代に於ける三大地震の一で、武蔵・相模・安房・上総の諸国を中心としたものである。此の地震に、房総半島は東海岸の被害夥だしく、安房の長狭・朝夷、上総の夷隅三郡は海嘯の惨害特に甚だしきものがあった。朝夷郡千倉一帯の海浜は、地震前よりも八、九町乃至一里ほども干潟となったと伝へる。」と記している。
 この大地震で隆起した海岸段丘がいわゆる元禄段丘で、白浜から七浦、千倉、千歳、和田、江見、太海海岸と広い段丘面が見られる。特に白浜町では野島が陸続きとなって野島崎となったのである。内湾でも鏡ヶ浦海岸一帯が隆起して砂浜が広くなり、その砂浜を更に隆起した館山城址北方の北下(ぼつけ)台の土砂を運んで埋立てて新田を作ったのが、時の北条藩主屋代越中守忠位の家老川井藤左衛門で、今にその新田が北川井、南川井と呼ぼれているが、その工事などに農民を酷使したことが正徳元年(一七一一)の万石騒動の一因ともされている。
 更に同誌によると、宝永四年(一七〇七)十月二十八日、土佐沖を震源地とするM八・四の巨大地震があり、沿海諸国には海嘯の難があった。又、この年十一月、富士山が噴火して宝永山が出来、火山地震があったが、「近国灰降り積ること雪の如し」と記している。
 天明二年(一七八二)七月十四日、南関東に大地震があり、翌朝にかけて震動十五、六回、民家が多く倒壊し、特に小田原周辺が甚だしく、箱根山中も所々崩壊したと同誌は記している。震源地は相模湾で、規模はM七・三とされているが、房総の史料には記載が見られない。
 幕末に関東地方でよく知られている地震には、安政の大地震がある。
 『千葉県誌』には「安政元年十一月三日、関東大震地あり。房総の地も亦被害少からず。安房に海嘯起りて多く人畜を害ふ。」と記し、『君津郡誌』には「安政二年十月二日、関東大地震あり、房総の地も亦民家倒潰し、人畜の死傷少からず。」と記している。これは年月が異っているように、二つの地震があったのである。
 『安房震災誌』では「安政元年(一八五四)十一月四、五日、畿内・東海・南海・西海・山陽・山陰の諸道地震ふ。東北地方を除き、震域の広大なること蓋し未曾有で、沿海の地方何れも海嘯が起ってその被害は実に多大なものであった。時に伊豆の下田港に碇泊中の露艦も、高潮のために大破した。この大津波は十二時間を経て北米西海岸に達し、沿岸の検潮儀に記録をとどめている。」と記している。
 更に同誌によると、翌二年(一八五五)十月二日夜四ツ(午後十時)過ぎ、今度は江戸に直下形の地震が発生した。震源地は江戸の下町の東部とされ、規模は不明であるが、死者は各町名主からの届出によると、深川の八六八名、本所の三八五名、下谷の三七二名、浅草の五六六名などと記されている。山手の地盤の堅硬な所は被害は比較的軽少であった。津波は無かったが、江戸湾の海水が動揺し、木更津海岸などには津波に類似した高波もあったと伝えている。この地震で、藤田東湖(五十五歳)、戸田淡窓(五十二歳)などの名士が圧死したのである。
 明治時代に入ると、房総半島南部には大被害をもたらした大地震はあまり見られない。
 全国的に有名なのは明治二十四年(一八九一)十月二十八日の濃尾地震である。死者七二七三名、負傷者一万七一七五人、家屋全壊一四万二一七七戸、同半壊八万〇三二四戸という大被害を生じた。震源地は根尾谷断層付近で規模はM八・〇と推定されている。
 大正時代には、房総南部では十一年(一九二二)四月二十六日の地震がやや大きいものであった。震源地は浦賀水道、規模はM六・九とされている。筆者も小学生の遠足の途次、那古町藤ノ木(館山市那古)通りでこの地震に遭遇し、驚いて逃げまどった記憶が生々しい。当時の北条町(館山市北条)では煉瓦造りの煙突が折れ、県下全体で全壊家屋八戸、破損七七一戸の被害があったといわれる。
 続いて翌大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災があった。この地震の震源地は相模湾の小田原付近、規模はM七・九で、相模湾沿岸や房州の洲ノ崎、布良などに津波が襲来して、更に被害を大きくした。東京・横浜など京浜地区、特に東京は火災による被害が大きく、焼失戸数約四十万戸、死者約十万と記されている。千葉県全体では、死者二三三五人、負傷者三四二六人、全壊家屋三万一一八六戸、半壊一万四九一九戸であった。
 関東大地震による房州の津波の被害は、震源地の相模灘に面する富崎村(館山市布良・相浜)に甚大であった。地震による同村の全壊戸数は住家、非住家を合わせて三二戸、半壊は同一八戸であるに対して、津波による流失戸数は同八七戸、半流失は同一〇戸に達したのであった。
 房総南部の被害は、いわゆる鏡ケ浦地溝帯と呼ばれる地域(館山市、三芳村)に多く、中でも三芳村は房州断層(俗に延命寺断層)を生じ、大被害があった。

  三、大正十二年の関東大地震と房州断層
 (1)概言
 大正十二年(一九二三)の関東大地震は房州に非常な災害をもたらした。中でも、北は船形山、那古山の線を東西に結ぶ山脚と、南は西岬から千倉へかけての山々を結ぶ山脚との間にある鏡ヶ浦(館山)地溝帯と呼ぼれる地域の災害は激甚で、上治寅次郎氏によると、安房郡役所の調査に係る全住家に対する全壊、半壊住家の百分比は、旧国府村九四%、旧稲都村八一%、旧九重村九三%、旧館野村九六%、旧健田村九五%、旧那古町九八%、旧船形町九三%、旧北条町九六%、旧館山町九九%にも達していた。
 この地溝帯に生じた断層、亀裂、陥没、崩壊、地辷り等は無数であるが、中でも著しいものが、延命寺断層と国府断層及び稲都断層(陥没地)で、この三者を総称して山崎直方博士は「房州断層」と呼ばれた。この房州断層は東西 約四キロ、落差二メートルに近く、水平の喰違い一メートル以上に及ぶ所もあって、同時に出来た対岸の三浦半島下北浦村(三浦市)の断層よりも更に大規模なもので、相模湾内に生じた大地変には比すべくもないが、関東大地震によって生じた陸上の断層、亀裂中最も顕著なものと考えられている。
 明治二十四年(一八九一)の濃尾大地震の根尾谷断層は、垂直差五メートル以上、西北は福井県内から東南は愛知県の犬山まで延長約八〇キロに及び、自然天災記念物として指定され、世人に地震に対する警戒心を忘れさせないでいる。なお、世界最大の地震断層は北米のカリフォルニア州にあり、延長約四五〇キロにも及んでいる。
 次に、三芳村に存在する房州断層とその現状について略述する。
 (2)延命寺断層
 延命寺断層は房州断層の中の最も顕著なものであって、三芳村の中央を南北に走る標高五〇メートル内外の延命寺丘陵を横断して生じたので、かく命名されたのである。
 この断層は安房の国府があったとされる府中集落の宝珠院の北約三〇〇メートルの辺から起り、東方の砂丘上にある番場集落を横切り、東の水田地帯を経、延命寺丘陵を横断して、山名川から江田(館山市)の水田を通り、旧稲都村中区の丘陵を東へ大沼に至る延長約四キロの断層である(地図参照)。
 この断層線の現状は次の通りである。
  (ア)番場集落以西
 この地域は、当時から西より東に向う窪みを示すのみであまり顕著でなく、現在は農業構造改善のため全く痕跡を止めていない。
  (イ)番場集落と延命寺までの水田地域
 大地震で集落の東に亀裂の巾南北二〇メートル、階段状に中央に向って陥落した断層を生じ、最深部は集落の東端の水田で、約五メートル四方の池沼を生じた。この地域は修復し水田化された後も地震田と呼ぼれた。この近くの神作氏宅の庭は地割れが甚だしく、新嫁が落込んで救出に大騒ぎした由である。この水田地域の断層線(A)は、北側に比高約一メートルの美事な断層が延命寺集落の西端まで続き、その間に約五個の小池沼を生じた。現在は大規模な農業構造改善工事により、その痕跡は全く見られない。
  (ウ)延命寺丘陵
 房総里見氏の菩提寺として知られる延命寺門前入口から南に続く小道を横断して、東の丘陵に向って断層による亀裂が現在でも割合明瞭に残っている。その現場は西のすみれ美容室(宇山氏)と東の元鍛冶屋屋敷との間である。この地割れの延長上に断層線があるのであるが、頂上には現在某別荘と地震観測のための観測装置が設けられ、地形改造が行われていて、断層線ははっきりとはわからない。この断層線は航空写真などの観測によると、更に大きな地溝帯の中に生じたものといわれる。当初は亀裂の巾三メートル内外、南側への低下○・七五—一・九メートル、深さ二メートルで、水平の喰違い○・九—一・ニメートルに達していたという。丘陵の東斜面にも、地割れの跡が二、三残っている。
  (エ)山名川以東の水田地域
 延命寺丘陵の東麓を南北に流れる山名川から、旧稲都村中区(三芳村中区)及び旧九重村江田区(館山市江田)の丘陵に至る約六五〇メートルの水田地域は、当時から顕著な地変は認められなかったといわれる。
  (オ)旧稲都村中区の丘陵地域
 この丘陵は延命寺丘陵と同じく、主として新生代第三紀の凝灰岩質頁岩及び細粒砂岩から成り、高さ六〇メートル内外の丘陵である。当初、断層は丘陵の西端にがけ崩れを起して現れ、がけ下の道路及び水田にも亀裂が見られた。ここから東は、山地では北に湾曲し、谷地では南に湾曲して、ジグザグの形を描きながら、山背の北側を東へ大沼まで約一・一キロ続き、常に南方低下○・五—一・五メートルの形を示していた。この地域は山林である所が多いので、比較的断層の形状を残し、現在でも所々に巾二—三メートル、長さ三〇—四〇メートル位の溝状の窪地となって残っている。
  (3)国府断層(B)
 延命寺断層の南約五四〇メートルの旧国府村本織の宇戸集落の東南に起り、北七〇度東に約二二〇メートルの間、一直線に水田を横断して延命寺丘陵の南に及ぶもので、延命寺断層に比して小規模で、巾三—四メートル、その特色は延命寺断層の陥没を主としたものであるに対して、この方は一・五メートル内外もち上ったもち上り断層であったことである。現在、水田地帯での痕跡は全く認め難いが、延命寺丘陵を横断する部分の雑木林や笹やぶから成る丘頂付近では地溝が認められる。この地溝も航空写真等では延命寺断層に見られたように、より大規模な地溝帯の鞍部の比較的北よりの部分に生じたものと考えられている。
  (4)稲都陥没地
 旧稲都村の池之内区から御庄区にかけて、大小無数の陥没地を生じた。その総面積は約一二ヘクタールに及んだという。池之内の田山英世氏屋敷付近や御庄の深井地区は特に著しかったが、現在深田となっているほか、外見上は痕跡を止めていない。
  (5)結語
 以上は大正十二年(一九二三)の関東大地震に、三芳村を中心として発生した房州断層とその現状について略述したのであるが、この房州断層の活動は地殻構造線の活動性を示すものであって、その活動は今後においても予想し得る所である。
 将来、房州付近のどこかに地震が発生することがあるとすれば、この構造線も又必ず活動する可能性を秘めていると考えられるので、十二分に注意する必要があろう。
 三芳村では昭和四十七年(一九七二)に、延命寺断層の痕跡を村の天然災害記念物として指定し、自然遣跡として残すことにしたのは、「災害は忘れた頃にやって来る。」という先賢の戒めの言葉を生かすためにほかならないのである。

 (参考文献)
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 千葉県 千葉県誌(一九一九・大正八年)
 千葉県君津郡教育会 君津郡誌(一九二七・昭和二年)
 安房郡役所 安房震災誌(一九二六・大正十五年)
 山崎直方 関東地震の地形学的考察(一九二五・大正十四年)
 上治寅次郎 千葉県安房郡稲都村・国府村の断層(一九二四・大正十三年)
 金子史朗 房総半島の地震断層について(一九六八・昭和四十三年)
 伊藤一男 房総沖巨大地震—元禄地震と大津波—(一九八三・昭和五十八年)

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地図 図:房州断層

房総半島南部の元禄地震史料集                            吉村光敏

Array   はじめに

 大正十二年(一九二三)の関東大地震は、関東地方に潰滅的な被害をあたえた。この規模の地震が再び関東周辺で発生した場合、その被害は甚大をきわめるものと考えられ、未来の関東地震の予知とその対策に多大な努力がはらわれていることは周知のことである。
 未来の関東地震の発生を予知し、その被害を最少限に止めるために、学問の分野でも多くの調査研究が積みあげられねばならない。その一つの分野に、関東大地震以前の古い地震の歴史をしらべ、関東地方で発生する地震の特徴を知る調査があり、特に地震の長期的な予報をたてる上で不可欠である。
 この調査には、地形・地質にあらわれた古地震の痕跡を解読する手法と、歴史時代の古記録・古文書にあらわれた古地震の記録を解読する手法とがある。
 前者の手法では、大地震による土地隆起現象を手がかりとして、房総半島の土地隆起から古地震の様相を推測しようとする方向をもった研究が、房総半島南部に分布する完新世の海成段丘(沼段丘など)を対象として行なわれている。………今村(一九二八)、吉川・斉藤(一九五四)、杉村・成瀬(一九五四・五五)、仲川(一九七七)、横田(一九七八)、杉原・吉村他(一九七八)、中田・木庭他(一九八〇)、松田・太田他(一九七四)等。
 後者の手法では、人間の残した文書記録をもとにするため、調査できる古地震は、前者の手法にくらべて新しいものにかぎられる。しかし、一方では、地震の発生時期、地震の規模、震度、津波の規模や範囲、崩壊現象、人間の側の地震への対応行動等について、詳細な情報を得る可能性がある。たとえば、地震隆起についても、今村(一九二五)は、館山市相浜の元禄地震(一七〇三)前の古絵図をもとにして、地形・地質学的手法のみにては年代決定できない元禄地震による相浜附近の土地隆起現象を証明した。
 この歴史資料による手法が、地形・地質資料による手法と補い合い、助け合って、地域の古地震の来歴が明らかになっていくのである。
 さて、その研究にあたっては、第一に古地震に関する良質の数多くの史料の収集が必要であることは自明のことである。このため、古地震史料の収集が日本全土を対象として行なわれ、武者金吉(一九四一~四三)『増訂大日本地震史料』等の史料集が編さんされ、多大の成果をもたらした。
 房総半島に被害をあたえた地震・津波についても、『大日本地震史料』の史料を直接・間接に利用した研究は多い。しかし、『大日本地震史料』は、その出典の多くが、中央(江戸・京都)に集積されていた史料であり、当時古文書の調査がすすんでいなかった房総各地のいわゆる地方史料はほとんど採録されていなかった。そのため、史料の不足により房総の地震被害の状況はその一端しか明らかになっていなかった。
 近年、房総の近世文書の研究もすすみ、古地震史料の採録も行なおれるようになり、安政江戸地震(一八五五)については宇佐美(一九七六)、元禄地震(一七〇三)の津波については、千葉県総務部消防防災課(一九七五)、羽鳥(一九七五・七六)等の成果も発表されているが、いまだに史料の空白が埋められたとはいいがたい。
 筆者は従来ほとんど空白であった房総南部の元禄地震史料の採録を、安房地方の完新世段丘地形の調査の一環としてすすめてきた。
 この元禄地震は、元禄十六年十一月二十三日(一七〇三年一二月三一日)の深夜発生した地震で、震源地は白浜南方の房総沖海底(東経一三九・八度、北緯三四・七度)、規模は、マグニチュード八・二と推定されている(宇佐美・一九七五)。房総をおそった歴史上最大規模の地震であり、かつ大正十二年の関東大地震の発生した相模トラフで生じた地震である。
 この地震の発生と被害の様相を復元することには、二つの意味が考えられる。
 まず、相模トラフで発生した地震としては、関東大地震の前の大地震であり、かつ関東大地震と同じく房総半島南部に大規模な土地隆起を発生させた唯一の歴史地震であることがあげられる。すなわち関東大地震と似たタイプの地震で、精しい史料の残された唯一の地震である。
 次に、元禄地震により生じた、土地隆起・沈降現象、津波の甚大な被害等は、その後の房総南部の新田開発、港の移転、漁民の窮乏等の多くの社会的な現象をひきおこした。特に房総南部の地方史を考える上で、単なる一過性の災害としてだけ位置づけられる地震ではない。たとえば、館山や千倉の市街地が立地している段丘面が元禄地震により隆起した元禄段丘であることや、砂との闘いが最近まで続いていた館山市平砂浦の砂丘が、元禄地震による隆起を機に、拡大をはじめたこと等をみれば明らかである。
 この元禄地震の史料は、従来ほとんど報告されていなかったが、一九七六年の県立安房博物館特別展「地震展」の際、それまでに採録した史料と展覧会の為の調査で発見した史料をまとめ、展示することができた。その後、新史料を加えて、宇佐美龍夫・内野美三夫・吉村光敏(一九七七)「房総半島南部の元禄地震史料」『関東地区災害科学資料センター資料 その九』(六二頁)として刊行することができた。しかし、発行部数も少く、千葉県内の方々にはほとんど配布することができなかった。今回、機会をあたえられたので、その後採録した新たな史料を加えて御報告し、広く県民の皆様の御批判を賜わりたいと考えている。
 末尾ながら、貴重な史料を閲覧させてくださった史料所蔵者各位に、厚く御礼もうし上げたい。
<凡例>
1、史料は所在市町村別に配列し、末尾に史料解釈上必要と思われる解説を附した。
2、記載順序は、史料名(文書名、碑文名)、年号、記載されている災害の内容、所蔵者、所在地、文書の書き下し文、注である。
3、長文にわたる史料では、直接地震に関係する部分にサイドラインを附した。
4、書き下し文は、読者の便のため変体仮名を平仮名にあらため、句読点、返り点を附した。
<注>
1、筆者はもともと古文書の読解に関しては一アマチュアにすぎず、誤読、誤解等も多いと思うが、御指摘いただければ幸いである。
 なお、この資料集の、史料八までの部分は、千葉県博物館協会発行『MUSEUMちば』第一三号に、「房総半島南部の元禄地震史料集(その一)」として掲載させていただいたものである。編集部のお許しをえて、転載させていただいた。深く感謝の意を表したい。
2、安房地方の各市町村については、採録史料以外の史料、いい伝え等について、まとめて注記した。
 夷隅地方、九十九里沿岸地方の史料は、現地調査を行なっておらず、調査研究論文も多数出ているので、特に著名な古文書若干を注をつけずに採録した。
 これら夷隅郡以北の地域の史料、いい伝えについては、羽鳥(一九七五、a、b、c、一九七六)、千葉県(一九七六)、伊藤(一九八三)等に多数採録されているので参照されたい。
3、史料集としての性格上、注記はその古文書の解読、解釈に必要なことのみに限定した。元禄地震・津波の概要、各地の被害等について、わかりやすく書かれた本としては、伊藤一男(一九八三)『房総沖巨大地震—元禄地震と大津波』(崙書房一七六頁)をおすすめしたい。
<参考文献>
羽鳥徳太郎(一九七五a)「房総沖における津波の波源—延宝(一六七七年)、元禄(一七〇三年)、一九五三年房総沖津波の規模と波源域の推定」『地震研彙報五〇号』八三~九一頁
同    (一九七五b)「九十九里浜における元禄一六年(一七〇三年)津波の供養碑」『地震2、二八号』九八~一〇一頁
同    (一九七五c)「元禄・大正関東地震津波の各地の石碑・言い伝え」『地震研彙報五〇号』三八五~三九五号
同    (一九七六)「南房総における元禄十六年(一七〇三年)津波の供養碑—元禄津波の推定波高と大正地震津波との比較—」『地震研彙報五一号』六三~八一頁
千葉県総務部消防防災課編(一九七六)『元禄地震—九十九里浜大津波の記録』七五頁
松田時彦・太田陽子・安藤雅孝・米倉伸之(一九七四)「元禄関東地震(一七〇三年)の地学的研究」『関東地方の地震と地殻運動』(ラティス社)一七五~一九一頁

史料と解説

 〔市原市〕
●史料一 上総国市原郡市東庄仲野村萬覚書
(年代) 宝永七年(一七一〇)
(内容) 震動の状況、他地域の被害概況
(所有者・所在地) 大室 晃、市原市瀬又一九九一
(史料書き下し)……()内は筆者注(以下同様)
—前略—、元禄十六年十一月二十三日ョ(夜)ノ八ツ時分(二時)ヨリ、同十二月十二日マテ大じしん。付リ、日本国中ツナミ入ル。ウラ々々ニテシニン(死人)のカツ、御公儀様御帳面ニ人数御改メ、二十一万人トアラタマル。同ジしんニテ、小田原火シ(火事)ニテ町中ヤクル。—後略—。

(注) 上総国仲野村(現市原市中野)の旧名主、中村家に伝わる文書で、当時の名主が村政の覚えとして書き残したもの。元禄十六年(一七〇三)より享保八年(一七一八)の間の記録が書かれている。
 元禄地震については、村内の被害は多くなかったらしく、特に記述がない。余震が十二月十二日まで続いたことを示す。なお、宝永四年の頃に富士宝永山の噴火と降灰記事、宝永五年の頃に、関東七ヵ国への災害救済の賦課金の記事がある。
 市原・袖ヶ浦・木更津・君津の上総西部地域では、安政二年(一八五五)の安政江戸地震の記録はしばしばみられるが、元禄地震についての記録は少なく、史料の発見がまたれる。

 ●参考資料(文化九年の地震)
 元禄地震ではないが、従来千葉県で被害記録のあまり知られていない地震記録があったので報告する。
(史料名)證誠寺過去牒(第二)
(年代)文化九年十一月四日(一八一二年十二月七日)
(所有者所在地)隆 克朗、木更津市富士見二—九—三〇 證誠寺
(史料書き下し)
 —前略—、同月(文化九年十一月)四日未ノ中刻大地震。當山本堂廊下一時ニ摧破。仏具本堂微塵ニ破損。錐然奇哉。御本尊四幅御影土中ニ没ルコト一日余り。九重ノ御台坐ハ悉ク摧破。蓮坐ヨリ御身御光少モ不損。四幅之御影一向破ナシ。自他同行拝之悲喜ノ涙ヲ拭フ、実ニ難有、言モ恐アル也。東都御坊所エ早速此ノ旨ヲ達ス。諸具片付、同行マタ町内有縁ノ門葉前後七日。数十人而大略ヲ成ス。同日十一月四日、貞善尼葬式アリ。諷経ノ寺院七ケ寺、有縁ノ老若群集。式終リ法衣ヲトリテ坐ニツクト地震也。今暫ク早クバ、幾百人ノ怪我モアルベシ。誠ニ命カ運カ。南無阿弥陀仏。—後略—。
 (注)宇佐美龍夫(一九七五)『資料日本被害地震総覧』(東京大学出版会)によれば、震源は、東経一三九・六五度、北緯三五・四五度(東京湾口)、M=六・六の地震で、神奈川、保土ヶ谷、品川辺がとくにひどく、「家潰れ死多し、……」とある。
 木更津、袖ヶ浦地区で他にも被害があったと予想されるが、今のところ、他に記録例は発見されていないようである。
 證誠寺は、著名な木更津市の浄土真宗寺院。仏事が終った直後、地震が発生し、からくも死傷者なしですんだが、本堂は倒壊したことになる。この本堂は、寛政九年(一七九七)瓦をふきかえたとあり、過去帳の記載よりみて、おそらく寛文期(一六六〇年代)に建てられた建築物とみられる。

  〔富津市〕
●史料二(売津村年貢割付状)断簡
(年代)宝永二年(一七〇五)
(内容)河岸の崩壊による畑被害
(所有者・所在地)売津区有文書、富津市売津
(史料書き下し)
—前欠—。此取米壱斗六升八合、壱反三斗五升取
田方反別 壱町七反六畝廿三歩 米 小以四石六斗八升上畑 五反弐畝廿歩有反 此取永七百三拾七文 壱反百四拾文取
中畑 八反五畝廿七歩 内 壱畝拾歩 末(一七一〇)年地震川欠、申(一七〇四年)より永引。
   残ハ反四畝拾七歩 有反 此取永壱貫五拾五文 壱反百弐拾
文取
下畑 弐町九畝壱歩 内 壱反三畝廿八歩末地震川欠申より永引。
   残壱町九反五畝三歩 有反 此取永壱貫九百五拾壱文 壱反百文取
下々畑 三反壱畝廿六歩 有反 此取永弐百五拾五文 壱反八拾文取
切畑 壱反壱畝拾七歩 有反 此取永五拾八文 壱反五拾文取
屋敷 弐反歩 有反 —後欠—
(注)この文書は、前葉、後葉を欠き、年代は文中から確かめられないが、最近まで後葉が存在していたらしく、明治ごろと推定される朱筆で、宝永二年(一七〇四)の年貢割付状である旨が注記してある。
 売津村(現富津市売津区)の村域は、湊川下流の沖積平野と山地を占める(図1参照)。文中の未の年の地震(元禄地震)による河岸崩壊は、おそらく湊川河岸で生じたと思われるが、いい伝え等はなく場所は不明である。
 富津市域では、元禄地震・津波に関する史料はまだあるらしいが、確認していないので省略する。なお、元禄地震前の寛文四年(一六六四)の「安房国元名村・保田村と上総国金谷村境論の事・絵図」という文書が富津市金谷の鈴木志朗氏宅に保管されている。

  〔鋸南町〕
●史料三 房洲平郡市井原村酉御成ケ可納割付之事
(年代)宝永二年(一七〇五)
(内容)崩壊による水田被害
(所有者・所在地)市井原区(保管、銀南町教育委員会)
(史料書き下し)
「房州平郡市井原村酉御成ケ可納割付之事」
一、高、弐百拾八石三斗四合 田畑屋敷共
   内 八斗壱升 小物成高入
  此反別、弐拾町六反七畝廿八歩
   此わけ
 上田 八反五畝拾七歩
   内 弐畝八歩 前々川欠永引 廿弐歩巳(一七〇一)より川欠永引 拾七歩川欠、酉(一七〇五)より永引 弐反弐畝四歩 當水押付荒引
   残 五反九畝六歩 有反 此取米弐石七斗弐升三合 壱反四升六合取
 中田 壱町弐反三畝拾壱歩
   内 四畝廿七歩 前々川欠永引。廿四歩 巳より川欠永引 拾四歩 川欠酉より永引 弐反八畝四歩廿七歩 當水押砂押引
残 八反八畝九歩 有反 此取米三石 五斗三升弐合 壱反四斗取  
下田 六町弐反四畝拾壱歩
  内 弐反三畝拾壱歩 前々川欠永引 弐畝廿三歩 巳より川欠永引 弐畝拾八歩 地震川欠山崩酉より永引。
  壱町九反五畝廿三歩 當砂押付荒引。
  残 三町九反九畝拾八歩 有反 此取米拾三石五斗八升六合 壱反三斗四升取
下々田、壱反四畝七歩
  内 七畝壱歩 當時荒引
  残 七畝六歩 有反 此取米弐斗弐合 壱反弐斗八升取
田方反別 八町四反七畝拾六歩
米 小以 弐拾石四升三合
上畑 壱町九畝弐歩
  内 壱畝廿歩 山崩當引
  残 壱町七畝拾弐歩 有反 此取永壱貫四百弐拾八文 壱反百三拾文取
中畑 八反四畝九歩 有反 此取永九百八拾六文 壱反百拾七文取
下畑 弐町拾壱歩
  内 壱畝廿三歩 山崩當引
  残 壱町九反八畝拾八歩 有反 此取永弐貫六文 壱反四壱文取
山畑 七町三反三畝四歩
  内 壱町壱反四畝八歩 前々山崩永引六畝廿六歩 山崩當引
  残 六町壱反弐畝歩 有反 此取永四貫七百拾弐文 壱反七拾七文取
  屋敷 九反三畝拾六歩 有反 此取永壱貫弐百六拾三文 壱反百三拾五文取
  高 八斗壱升
一、永九拾文 山役高入
 畑方反別拾弐町弐反拾弐歩
 永 小以 拾貫四百九拾弐文
 米納合 弐拾石四升三合
 永小以 拾貫四百九拾弐文
 右の通、大小百姓不残立合、無高下様割合、来ル極月十日前可致皆済候。若令遅滞は急度可申付者也
  宝永二年(一七〇五)酉十一月
                樋 又兵衛印
               右の村 名主百姓
(注)市井原村(現鋸南町市井原)は、保田川上流の山村で、水田は狭小な谷底平野ないしは地辷地形上に立地する。文中の下田の項に、「弐畝拾八歩、地震川欠山崩、酉(一七〇五)より永引」とある。「地震の川岸、山崩れによって午の年(一七〇二)より酉の年(一七〇五)の四年間に荒地となった下田が二畝十八歩ある」と解釈できよう。とすると、文中に「地震」とあるのは未の年(一七〇三)の元禄地震にあたると考えられる。なお、被害を受けた水田の所在は未調査のため不詳である。

●史料四 房洲平郡元名村申御成ケ可納割付之事
(年代)宝永元年(一七〇四)
(内容)崩壊・津波による田畑被害
(所蔵者・所在地)岩崎淳一(保管、川崎芳郎、鋸南町保田九九)
 (書き下し)
  「房州平郡元名村申御成ケ可納割付之事」
一、高 三百六拾弐石壱斗六升九合、田畑屋敷共。四斗弐升 前々小物成高入
   内 五拾壱石九升六合 前々無地高入
   此反別 三拾九町六反九畝八歩
   此わけ
 上田 四町九畝拾弐歩
   内 壱畝拾五歩 前々永引 八反壱畝拾八歩 付荒風津浪荒當引
   残 三畝弐反六畝九歩 有反 此取米拾四石六斗八升四合 壱反四斗五升取
 中田 四町七反五畝四歩
   内 七歩 前々川欠永引 壱町四反歩 付荒風損津浪荒當引
   残 三町三反四畝廿七歩 有反 此取米拾三石六升壱合 壱反三斗九升取
 下田 拾町歩
   内 三反三畝廿六歩前々川欠永引 四畝廿七歩 巳川欠永引 三町三反八畝拾弐歩 付荒風損津浪荒當引
   残 六町弐反弐畝廿五歩 有反 内、六町壱反六畝六歩 此取米弐拾石三斗三升五合 壱反三斗三升取
     六畝拾九歩 地震山崩申(一七〇四)より畑成ル 此取米六升六合 壱反壱斗取
 下々田 五畝廿壱歩
   内 三畝歩 付荒風損津浪荒當引
   残 弐畝廿壱歩 有反 此取米七升三合壱反弐斗七升取
 田方反別 拾八町九反七歩
 米 惣 四拾八石弐斗壱升九合
 上畑 三反四畝歩 有反 此取永四百拾四文 壱反百弐拾壱文取
 中畑 弐町七反三畝九歩
   内 弐反四畝拾五歩 前々山崩永引。
   残 弐町四反八畝廿四歩 有反 此取永弐貫六百拾弐文 壱反百五文取
 下畑 六町九反弐畝歩
   内 壱反五畝拾七歩 前々山崩永引
   残 六町七反六畝拾三歩 有反 此取永六貫拾弐文 壱反八拾九文取
 山畑 九町九反九畝廿四歩
   内 弐町壱反八畝拾歩 前々山崩永引 三畝九歩 酉より山崩引 九畝拾歩 地震山崩申(一七〇四)より永引 六反三畝廿壱歩 地震當不作引
   残 七町五畝四歩、有反 此取永四貫五百八拾三文 壱反六拾五文取
 屋敷 七反七畝廿壱歩 有反 此取永壱貫七拾六文 壱反百三拾五文取
 高 四斗弐升
一、永 五拾壱文 山役高入
 畑方反別 弐拾町七反九畝壱歩
 永 小以 拾四貫七百五拾六文
  外
一、新屋敷 壱反五畝拾六歩 見取 此取永七拾八文 壱反五拾文取
一、新畑 弐反七畝五歩 見取 此取永六拾八文 壱反弐拾文取
 永 小以 百四拾六文
 米納合 四拾八石弐斗壱升九合
 永納合 拾四貫九百弐文
 右の通 大小百姓不残立合、無高下様割合、来ル極月十日前可致皆済候。若令遅滞一は急度可申付者也
 宝永元年(一七〇四)申十一月
            樋又兵衛印
          右の村名主百姓
(注)元名村(現鋸南町元名区)は、鋸山の南斜面と東京湾にはさまれた村である。村の耕地は山地及び段丘を刻む小開析谷の谷底の水田と山地緩斜面、海岸段丘上の畑とからなる。
 この文書は、元禄地震の翌年(一七〇四)の年貢割付状で、津波や山崩による田畑の被害状況をよく示している。すなわち、「付荒風損津波荒当引」とされた水田がみられるが、この水田は、当年(一七〇四)に、荒地化した水田と解釈される。計算してみると、元禄地震前の一七〇三年には、約十八町五反あった水田のうち、地震後の一七〇四年には約五町六反が荒地化している。これには津波の被害が考えられる。また、崩壊により水田六畝十九歩が畑に転作され、山畑では九畝十歩が耕作不能となり、山畑の面積の三分の二にあたる六反三畝二十一歩が、一七〇四年には耕作されなかった。

●史料五 乍恐口上書を以御願申上候
(年代)延享四年(一七四七)
(内容)安房地方南部の土地隆起と新田開発。鋸南町沿岸の沈降と海岸侵食による土地の減少。
(所蔵者)岩崎淳一(保管、川崎芳郎、鋸南町保田九九)
房総半島南部の元禄地震史料集
(書き下し)
 「乍恐口上書を以御願申上候」
一、安房国本名村(現鋸南町元名)田地、浪欠海中ニ相成候場所、沖の方え何程有之哉と、御尋被為遊候え共、数年来欠入候儀殊海上ニ御座候えは町歩難相積り奉存候。只今、本名村より三里南方那古村(現館山市那古)より七浦(千倉町沿岸)辺、干潟出来仕、凡五六町海水引、新田并家居と相成、古来の湊岡と成、新湊出来候場所も有之候処ニ、本名村并近村共ニ変地、土地下り年々水増、古絵図の地所相違仕、塩風除の柴地并土手松林等浪ニて打崩シ(ママ)。當時田地大分欠入候場所、乍恐御見分不被下候ては、明白ニは難相分チ候間、何卒御慈悲ニ御検分の上、委細申上度奉願上候。以上。
 延享四年(一七四七)卯五月
              安房郡平郡本名村
              神谷記内知行所
                   名主  勘兵衛
                   与頭  九兵衛
                   同断  藤右衛門
                   百姓代 松兵衛
 御奉行所様
(注)同じく元名村の文書で、元禄地震後四十四年にして書かれた。
 元名村の海岸一帯で近年海食が進行し、塩風よけの柴地や、堤の松林も崩れ、田畑も大分削られてしまったので、減少した土地の面積測定のため支配所より検分にきてほしいという願書である。文中で、那古村より七浦あたりまでの房州南部の沿岸の隆起と、元名村ならびに近村の現在の鋸南町の沿岸の沈降とが対比されている。
 原因は文中に述べられていないが、この両地域の他の文書、いい伝え等からみて、この現象が元禄地震を機に生じたことは確実である。
 当時の人々が、地震による海岸線の大幅な後退を認めたのは、房州南部の七浦(千倉町)から那古(館山平野北端)までであること、鋸南町沿岸では逆に沈降し、かつ「年々水増」のように、「地震の後も、沈降が続いている」ようにも読める(「年々海食によって海岸線が前進した」と解釈することも可能ではあるが)所があることなどが注目される。
 元禄地震による隆起現象の範囲については、松田・太田他(一九七四)は、安房地方北部においても隆起したとしているが、その元禄汀線の認定については史料からみた再検討が必要であろう。
 また、同じ元名村の元禄地震後の文書と併せて考えると、古文書に示される田畑等の被害については、①地震の際の津波による荒廃地、②地震の際の沈降による荒廃地、③地震後の海食又は沈降による荒廃地、の三種に分けて解釈する必要があろう。

●史料六 別願院津波慰霊碑碑文および墓碑
(年代)大正十二年(一九二三)、享保四年(一七一九)
(内容)津波による死者
(所蔵者)別願院、鋸南町保田一二七
(書き下し)
 〔慰霊碑〕
元禄海嘯菩堤地蔵尊二百二十一年大祭碑
 元禄十六年霜月二十三日 海嘯罹災 三百十一人口口
 大正十二年四月一日
 ■魂重修
   施主 別願在住 法住院善誉口光道口大居士
  〔墓碑〕
吉山道林居士 元禄十六年未十一月二十三日
■■希蘊居士 享保四年亥五月四日
(注)この史料のある別願院は、保田の海岸近くにあり、浮世絵師菱川師宣の墓所としても知られている。鋸南町史によれば、元禄津波前は堂はもっと西方にあったといわれ、寺堂及び師宣の墓も津波で流失したと伝える。ただ、師宣が元禄七年寄進した梵鐘が戦時中まで残っていた。
 この碑は、別願院墓地にあり、保田浦での元禄地震津波の水死者三一一人をまつった津波地蔵尊(碑の前に現存)の二一一年大祭の際に建立されたものである。
 同じ墓地に、享保四年(一七一九)死去の人と連名の、死去年月日が元禄地震の発生年月日と同じ人の立派な墓碑がある。この人は、津波でなくなった保田浦の名主といわれる。

●史料七 乍恐返答書を以申上候
(年代)延享二年(一七四五)
(内容)鋸南町大六海岸の地震後の海食
(所有老)網代源二 鋸南町大六
(書き下し)
 「乍恐返答書を以中上候」
一、安房国平郡大六村(現鋸南町大六)名主両人組頭両人百姓代両人、御訴訟申上候。同国吉浜村(現鋸南町吉浜)龍島村(現鋸南町竜島)名主組頭惣百姓、右両村海岸境論ニ付、右の者共此度御願申上、大六村御田地え検地打絵
 図可仕由申候所、相滞候趣、乍恐左ニ申上候御事。
一、大六村磯辺分間相障り候訳。大六村土地下海境を無沙汰ニ論合候義、吉浜の者不埓の致方ニ奉存候。大六村を押椋メ、龍嶋村と境論仕候は、及越の様ニ奉存候。大六村の儀は、海辺通、去ル元禄十六未年大地震津浪より御田地海え欠込、惣百姓難義仕候。右場所の儀は、委細御尋の上、先年仕立候絵図奉入、御□度候。
一、大六村の内、金塚山峯見通シ水流境と、吉浜村訴状ニ書上候義、理不尽の様奉存候。大六村土地下海辺通、十六七町余吉浜境迄御座候。殊ニ吉浜居村迄は三拾町余も御座候所、差越口境論ニ奉存候。
一、当村土地下海、明浦ニ御座候。右の訳の儀は、近村々同御代官所本郷村大帷子村(現鋸南町保田、大帷子)、何れも土地下海の御運上御料御私領え相納り候中。當村の儀は、御料えも私領えも土地下海の御運上相納不申候えは、明浦ニ紛無御座候。
一、去ル三拾六年以前卯ノ年、吉浜村大六村取替証文御座候。吉浜村の者共漁猟仕候節、大六村御田地の内にて漁猟并岡打一切仕間敷と証文相定候処、大六村土地内にて番等を仕、漁猟岡打致シ、御田地踏荒シ年々難義仕候。
一、大六村高弐百三拾七石三斗八合御座候所、御料私領浪欠、無地高并皆永荒永引、壱町四反七畝拾七分の永荒、海中ニ御座候。其外、當浪欠の儀ハ日々ニ欠入候場所え、脇村より検地被入候ては迷惑仕候。
一、大六村の儀は迫田ニ御座候故、根付海雲付の漁猟仕、□ニ致度、当日飢候百姓は小釣致、経営送り申度奉存候。何とそ御慈悲ニ此度吉浜龍嶋分間検地仕候儀御差留メ被遊、大六村海面ニ欠入候無地永荒永引海石ニ立返シ、御年貢御上納仕、其上御運上の儀、従御公儀様被仰付次第差上申度、奉願上候。然上は、大六村著大の御救ニ被成候間、右の段々被為聞召分、大六村惣百姓相立候様、被仰付被下置候ハ、難有可奉存候。以上
               安房国平郡堀江清次郎御代官所
 延享二年寅八月十二日
                           大六村名主 庄五郎
                              組頭 清兵衛
                              百姓代口口口
—後欠—
(注)大六村(鋸南町大六区)は、北は吉浜村、南は龍嶋村につづく、海沿いの村である。
 この文書は、最後尾を欠いているが、文書の大部分は残っており文意をとることができる。大六村は海沿いの村であるが、漁業権がなく、隣村吉浜と龍嶋の漁場境論に際し、大六地先海岸がその舞台となった。その争論に際し、大六の地先海岸は、元禄地震以後海食により一町四反余の土地が海中に没しているので、その土地の分の地租を海運上に変えて上納し、地先海岸の漁業権をあたえてほしいとの願書である。
 地震後、大六村でも海食が進行していたことがわかる。

●史料八 妙本寺海岸絵図(地震前後)三部
(年代)年代不詳(元禄地震前の図は、年代不明。地震後の図は一七七六年以後と推定)
(内容)沈降と海岸侵食
(所有者)絵図1(妙本寺絵図………地震前)、妙本寺、鋸南町吉浜(絵は省略)
     絵図2(地震前)、絵図3AB(地震前後)、笹生卓義、鋸南町保田二四〇
(注)この絵図は、鋸南町吉浜所在の妙本寺地先海岸の絵図である。
 絵図1は、当時広大な寺領をもち、幕府からも朱印地を受けていた妙本寺の堂塔図で、地先海岸も描かれている。絵図3A3Bは、絵図1の失なわれた原図より、海岸部のみを転写した図であろう。
 元禄地震以前は、地先海岸に「仏崎」といわれた小さな岬があった(絵図2、3A参照)。地震後、海岸線の変化は著るしく、この岬は消滅してしまった(絵図3B)。
 しかし、絵図3Bの道路は現存しており、それをもとに、絵図3Aや2の地形を現在の地形で復元してみると、その後の海食や関東地震の隆起、海岸の埋め立て(旧仏崎の北半部以北は埋め立てられている)、海岸沿いの道路の海岸への増幅(国道一二九号線となっている)等の変化を受けてはいるが、過去の地形を大体復元することができる。特に仏崎は満潮時にのみ水没する岩礁地となっていて、容易に指摘することができる。
 なお、絵図1は、原図は地震前のものであるが「寛政五年(一七九三)写」とあり、後世の写図である。
また、図の仏崎の部分に「此石塔、安永五年(一七七六)申秋、波荒より万灯塚へ引也」の注記がある。石塔とは、図3Aの仏崎の七墓の石塔を指し、万灯塚とは、図3Bの北端の石塔の描かれた所を指す。
 この「万灯塚」は、鋸南町史によれば、元禄津波のため吉浜浦で水死した人々を葬った所といわれる(死亡人数は不詳)。国道拡幅工事の際、削られて脇に寄せられ、石塔も多くは妙本寺境内の墓地に移されている。
 絵図2には『元禄未ノ津浪海欠ニ罷成候間御朱印ノ所故相記置者也、房州平郡吉浜村妙本寺』とあり、絵図2が(及びこれと同じ、絵図3Aが)元禄地震前の様相を描いたものであることを示す。
 絵図3A・3Bは、二枚を重ねあわせると海岸線の変化が読みとれるようにくふうして作成されている。この図は鋸南町史に「元禄地震前後の図」として紹介されていて、一般には、地震時の津波と沈下のため急に海岸が変化したと受けとられている。しかし、図に注記や年代があるわけではなく、図3Bが地震直後の図とするのには問題がある。次に紹介する史料から、図3Bは、寛政二年(一七九〇)または、寛政三年(一七九一)以後の状態を描いたものと考える方が妥当である。
 以上の考察及び、元禄地震による土地の沈下量、水没面積、その後四十五~九十年間の海食による海進等の考察については、史料九の注を参照されたい。

●史料九 寛延二巳八月(一七四九)改、取立名寄帳
(年代)寛政三年(一七七一)以降
(内容)史料八の地域の津波による田畑被害
(所蔵者所在地)渡辺拓美 鋸南町吉浜四六五
(書き下し)
 〔寛延二巳八月改 取立名寄帳〕
  大門松下(絵図3A・3B参照)(現鋸町南町吉浜)
                  治右衛門
一、上田四畝廿三歩 分米六斗壱升九合六勺
  大帷子岩崎(現鋸町南町大帷子)
一、上田弐拾八歩 分米壱斗弐升壱合三勺
 佐久間深沢(現鋸南町中佐久間深沢)
一、中田七畝歩 分米七斗七升 内壱畝拾五歩 川欠ニ引
 苗代町(絵図3A・3B参照)(現鋸南町吉浜)
一、中田壱畝拾九歩 分米壱斗七升九合壱勺 是ハ不残浪欠
 佐久間宮前
一、下田壱反壱歩 分米九斗三合 内六畝壱歩 川欠ニ引 是ハ延宝年(一六七三—一七四九)中より寛延二年迄ニ引
 亀ケ崎(現鋸南町大六亀ヶ崎)
一、下田壱畝五歩 分米壱斗四合五勺八才
 同所
一、下田四畝九歩 分米三斗八升七合 内三畝九歩 川欠ニ引 是ハ延宝年(一六七三—一七四九)中より寛延二年迄ニ引
 大帷子岩崎
一、下田壱反拾七歩 分米九斗五升
 佐久間松木田
一、上田三畝拾壱歩 分米四斗三升七合三勺 不残 川欠ニ引延宝より寛延二年迄ニ引
  上田 合九畝弐歩 分米 壱石壱斗七升八合五勺
  中田 合八畝九歩 分米 九斗五升九合七勺
  下田 合弐反六畝弐歩 分米 弐石三斗四升六合
  反歩合四反三畝廿三歩 分米合四石四斗八升四合弐勺
 佐久間宮前             勘左衛門
一、上田六畝拾歩 分米八斗弐升三合三勺
 同所
一、上田五畝拾八歩 分米七斗弐升八合
 同村松木田
一、中田九畝拾七歩 分米壱石五升弐合三勺
 大帷子岩崎
一、上田七畝歩 分米九斗壱升
 田中(絵図3A・3B参照)
一、中田五畝十壱歩 分米五斗九升三勺
 苗代町
一、中田弐畝拾六歩 寛政三(一七九一)亥年海欠 分米弐斗七升八合七勺
 上田 合壱反八畝廿八歩 分米 弐石四斗六升一合三勺
 中田 合壱反七畝拾四歩 分米 壱石九斗二升一合三勺
 反歩合三反六畝拾弐歩 分米 合四石三斗八升二合六勺
 佐久間山下(現鋸南町中佐久間山ノ下)長右衛門
一、上田六畝拾四歩 分米八斗四升六勺
 せどぐち(現鋸南町中佐久間瀬戸口)
一、上田五畝拾八歩 未ノ地震(一七〇三)ニ不残川欠 分米七
斗弐升八合
 大門松下
一、上田四畝廿七歩 分米六斗三升七合
 佐久間山下
一、中田壱畝廿七歩 分米弐斗九合
 苗代町
一、中田弐畝七歩 未ノ津浪ニ不残海欠 分米弐斗四升五合七勺
 佐久間松木田
一、中田壱反拾七歩 分米壱石壱斗六升弐合
 同村山下
一、下田弐畝廿四歩 分米弐斗五升弐合
 同所
一、下田拾四歩 分米四升弐合
 同所
一、下田壱畝拾六歩 分米 壱斗三升八合
  上田 合壱反六畝廿九歩 分米 弐石二斗五合六勺
  中田 合壱反四畝廿一歩 分米 壱石六斗壱升七合
  下田 合四畝弐拾四歩 分米 四斗三升弐合
  反歩三反六畝拾四歩 分米合四石弐斗五升四合六夕
 大門                 久兵衛
一、上田四畝歩 分米五斗弐升
 佐久間永井(現鋸南町中佐久間長井)
一、上田壱反廿六歩 分米壱石四斗壱升弐合六勺同所
一、上田壱反廿六歩 分米壱石四斗壱升弐合六勺
 佐久間永井
一、上田四畝歩 分米五斗弐升
 佐久間宮前
一、中田四畝歩 分米四斗四升
 苗代町
一、中田壱畝拾三歩 寛政三亥年海欠 分米壱斗五升七合七勺
 同所
一、中田壱畝三歩 元禄未津浪ニ海欠 分米壱斗弐升壱合
 仏崎(絵図3A・3B参照、石塔のある岬の部分)(現鋸南町吉浜)
一、下田四畝廿四歩 元禄未津浪ニ不残海欠 分米四斗三升弐合
  上田合弐反五畝廿二歩 分米 三石三斗四升五合二勺
  中田合六畝拾六歩 分米 七斗壱升八合七勺
  下田合四畝廿四歩 分米 四斗三升弐合
  反歩合三反七畝弐歩 分米 合四石四斗九升五合九勺
 佐久間永井             喜右衛門
一、上田壱反廿六歩 分米壱石四斗壱升弐合六勺
 佐久間山下
一、上田弐畝五歩 分米弐斗八升壱合六勺
 同村松木田
一、上田三畝拾壱歩 内弐畝廿一歩元禄より寛延迄川欠ニ引 亦五歩明和七(一七七〇)寅春川欠見分之節引
  分米四斗三升七合六勺
 苗代町
一、中田弐畝歩 元禄未津浪ニ不残海欠 分米弐斗五升六合六勺
 田中
一、中田三畝拾六歩 分米三斗八升八合七勺
 佐久間宮前
一、中田三畝歩 内拾五歩崩ニ引 分米三斗三升
 同村山下
一、中田壱畝廿六歩 分米弐斗五合三勺
塔中下(現鋸南町吉浜塔中下)
一、中田六畝歩 分米六斗六升
 大帷子岩崎
一、中田四畝歩 分米四斗四升
 佐久間石塚(現鋸南町上佐久間石塚)
一、中田三畝廿五歩 分米四斗弐升壱合七勺
 同村山下
一、下田七歩 分米弐升壱合
 同所
一、下田拾三歩 分米三升九合
  上田合壱反六畝拾弐歩 分米 弐石壱斗三升壱合八勺
  中田合弐反四畝拾五歩 分米 弐石七斗弐合三勺
  下田合弐拾歩 分米 六升
  反歩合四反壱畝拾七歩 分米 四石八斗九升四合壱勺
 佐久間永井             清右衛門
一、上田壱反廿六歩 分米壱石四斗壱升弐合六勺
 佐久間石塚
一、上田四畝三歩 内拾五歩川欠ニ引 分米五斗三升三合
 大門松下
一、上田四畝廿八歩 分米六斗四升壱合三勺
 塔中下
一、上田六畝拾六歩 分米八斗四升九合三勺
 大帷子高畑(現鋸南町大帷子高畑)
一、上田八畝拾歩 内弐畝歩川欠ニ引 分米壱石八升三合三勺
 苗代町
一、中田弐畝拾四歩 元禄(一七〇三—一七四九)未ノ津浪より寛延巳迄不残海欠 分米弐斗七升壱合三勺
 大帷子高畑
一、中田三畝拾五歩 分米三斗八升五合
  上田合三反四畝廿三歩 分米四石五斗壱升九合五夕
  中田合五畝廿九歩 分米六斗五升六合三勺
  反歩合四反弐拾歩分米合五石壱斗七升五合八勺
 佐久間永井             藤右衛門
一、上田壱反壱畝廿六歩 分米壱石五斗四升二合六勺
 佐久間石塚
一、上田七畝廿八歩 分米壱石三升壱合三勺 内壱畝六歩川欠二引
 大門松下
一、上田四畝廿二歩 分米六斗壱升五合三勺
 佐久間石塚
一、中田弐畝歩 分米弐斗弐升
 苗代町
一、中田壱畝拾八歩 分米壱斗七升六合 寛政三(一七九一)亥
海欠
 佐久間三四田
一、下田五畝五歩 分米四斗六升五合
 塔中下
一、下田五畝拾歩 分米四斗八升
 佐久間石塚
一、上田七歩 分米三斗三勺 不残川欠引
  上田合弐反四畝廿三歩 分米 三石弐斗壱升九合五勺
  中田合三畝拾八歩 分米 三斗九升六合
  下田合壱反拾五歩 分米 九斗四升五合
  反歩合三反八畝廿六歩 分米 四石五斗六升五勺
 佐久間宮前              平兵衛
一、上田八畝拾三歩 分米壱石九升六合三勺
 同村石塚
一、上田七畝廿七歩 分米壱石弐斗七合
 同所
一、中田弐畝歩 分米弐斗弐升
 同所
一、中田弐畝拾六歩 分米弐斗七升八合七勺
 苗代町
一、中田壱畝拾弐歩 分米壱斗五升四合
 田中
一、中田五畝八歩 分米五斗七升九合三勺
 佐久間三四田
一、下田五畝六歩 内拾五歩山崩ニ引 分米四斗六升八合
 吉浜谷山(現鋸南町吉浜谷山)
一、下田九畝廿五歩 内五畝廿五歩川欠ニ引 分米八斗八升五合
  上田合壱反六畝拾歩 分米 弐石壱斗二升三合三勺
  中田合壱反弐畝六歩 分米 壱石三斗五升三合
  反歩合四反弐畝拾七歩 分米 四石七斗八合三勺
 佐久間宮前             吉左衛門
一、上田壱反七歩 分米壱石三斗三升三勺
 同瀬戸口
一、上田五畝拾八歩 分米七斗弐升八合 元禄未年不残川欠
 大門
一、上田四畝歩 分米五斗弐升
 塔中下
一、中田六畝拾六歩 分米七斗壱升八合七勺 内拾六歩山崩引
 苗代町
一、中田弐畝七歩 分米弐斗四升五合六勺 元禄未津浪より寛延迄ニ浪欠ニ引
 塔中下
一、中田三歩分 米壱升壱合
 佐久間三四田
一、下田壱反壱畝廿一歩 分米壱石五升三合
 亀ヶ崎
一、下田弐拾歩 分米六升
  上田合壱反九斗廿五歩 分米 弐石五斗七升八合三勺
  中田合八畝弐拾六歩 分米 九斗七升五合三勺
  下田合壱反弐畝拾壱歩 分米 壱石壱斗壱升三合
  反歩合四反壱畝弐歩 分米 四石六斗六升六合六勺
 大門松下               治兵衛
一、上田四畝廿三歩 分米六斗壱升九合七勺
 佐久間松木田
一、中田九畝拾七歩 分米壱石五升弐合三勺
 苗代町
一、中田弐畝七歩 分米弐斗四升五合七勺
 佐久間三四田
一、下田壱反拾壱歩 分米九斗三升三合
 同村山下
一、下田弐畝廿三歩 分米弐斗四升九合 内廿三歩年々川欠二引
 大帷子そり田
一、下田五畝廿七歩 分米五斗三升壱合
 河らひ
一、下田弐畝四歩 分米壱斗九升弐合
  上田合四畝廿三歩 分米 六斗一升九合七勺
  中田合壱反壱畝廿四歩 分米 壱石弐斗九升八合
  下田合弐反壱畝五歩 分米 壱石九斗五合
  反歩合三反七畝廿二歩 分米 合 三石八斗二升二合七勺
 大帷子岩崎               清介
一、中田四畝歩 分米四斗四升
 田中下
一、中田四畝廿六歩 分米五斗三升五合三勺
 苗代町
一、中田弐畝拾四歩 分米弐斗七升壱合四勺
  元禄未津浪より寛延弐年迄ニ不残海欠
 吉浜谷山
一、下田五畝壱歩 分米四斗五升三合 内壱畝歩永引
 同所
一、下田七畝五歩 分米六斗四升五合
 佐久間宮前
一、下田三畝歩 分米弐斗七升
 同所深沢
一、下田八畝三歩 分米七斗弐升九合
  中田合壱反壱畝拾歩 分米 壱石二斗四升六合七勺
  下田合弐反三畝九歩 分米 弐石九升七合
  反歩合三反四畝拾九歩 分米 合 三石三斗四升三合七勺
 佐久間北ケ谷              傳介
一、上田壱反壱畝廿壱歩 分米壱石五斗二升壱合
 大帷子高畑
一、上田八畝九歩 分米壱石七升九合 内弐畝拾五歩川欠ニ引
 佐久間石塚
一、上田四畝三歩 分米五斗三升三合 内拾五歩芝間ニ引
 大門松下
一、上田拾四歩 分米六升七勺
 大帷子高畑
一、中田三畝拾五歩 分米三斗八升五合 内壱畝歩引
 苗代町
一、中田拾八歩 分米六升六合
 大門松下
一、上田四畝八歩 分米五斗五升四合七勺
 同所
一、中田壱畝拾弐歩 分米壱斗五升四合 未ノ津浪ニ不残海欠
 大帷子大坂
一、下田壱反三畝廿壱歩 分米壱石弐斗三升三合
  上田合弐反八畝廿五歩 分米 三石七斗四升八合四勺
  中田合五畝拾五歩 分米 六斗五合
  下田合壱反三畝廿一歩 分米 壱石弐斗三升三合
  反歩合四反八畝壱歩 分米 合 五石五斗八升六合四勺
      惣 寄
 上田合弐町壱反六畝拾弐歩
  分米合弐拾八石壱斗三升壱合 内弐反弐畝拾四歩 海欠川欠 此分米弐石九斗弐升六勺
 中田合壱町三反三歩
  分米合拾四石三斗二升八合三勺 内壱反八畝廿六歩 海川欠 此分米弐石七升五合三勺
 下田合壱町三反弐畝拾弐歩
  分米合拾壱石九斗壱升六合 内弐反壱畝七歩海川欠 此分米壱石九斗壱升壱合
 惣反歩合四町七反八畝廿七歩
  分米合五拾四石三斗七升五合三勺 内六反三畝拾七歩 海川荒引 此分米六石九斗六合九勺
 残而
  反歩 四町壱反五畝拾歩 有反
  分米 四拾七石四斗六升八合四勺
右名寄寛永(一六二四—)年中之以帳面
寛延二(一七四九)年巳八月写改者也
(注) この文書は現在の鋸南町各所に散在していた妙本寺寺領の寺領の明細である。
 文中の地名につけた脚注は鋸南町史記載の小字名及び絵図3A・3Bに記された小字名で文中の地名に該当すると思われるものを記した。
 文書は「寛延二年(一七四九)改」とあるが、文中に明和七年(一七七〇)、寛政三年(一七九一)の注記があることから一七九一年以降に一部加筆した写本であろう。この写本成立時期は不明である。
 絵図3A・3Bの範囲に含まれる小字は、仏崎、苗代町、大門松下で、この各小字はすべて妙本寺の寺領であったと推定されるので、この文書の示す海欠(うみかけ)による耕地の減少面積は、実際の耕地減少面積にあたると仮定する。
この三字の耕地減少は、
①「元禄未(一七〇三)津波ニ不残海欠」の分、一反一畝十六歩、
②「元禄未(一七〇三)ノ津波より寛延巳(一七四九)迄不残海欠」の分、七畝五歩、
③「寛政三亥年(一七九一)海欠」の分 五畝十七歩、
④「浪欠(時期不明)」の分、一畝十九歩、
であり、①が元禄地震時の津波による(おそらくは沈下の影響も含む)耕地減少で、減少分の半数を占め②③④はその後の海食によるものである。
 字ごとにみると、仏崎は地積の四畝二十四歩の全てが元禄津波で海欠、苗代町は地積二反二畝十歩の内、元禄津波で五畝十歩が海欠し、後の海食で一反三畝十一歩が海欠し、残った耕地は三畝十九歩であった。
 絵図3A・絵図3Bの海岸線変化は、仏崎と苗代町の変化を示しているのであるから、絵図3A・3Bの年代を推定するために、3A・3B間の水田の減少面積を概算し、文書の水田海欠面積と比較した。(対象となる水田は絵図3Aの「寺領田」と注記される部分で、岬の北方のものが仏崎の地積、岬と道路の南側が苗代町の地積と推定される。測定の基準尺度としては、「字大門松ノ下」という注記の南北の道路が現存しているので、道路間の間隔の概測値、約五十五メートルを利用した)。
 比較結果(表1)をみると、絵図3A・3B間の水田減少面積約三反は、①の元禄津波による減少面積の三倍、③の寛政三年より前の減少面積累計の二倍弱であり、④又は⑥の寛政三年以降の減少面積累計に近い。
 一般に文書の示す面積の数値は縄延びのため実際の面積よりも小さく出るし、畔道等の面積も加味されるが、それでも①・③の値は小さすぎ、④又は⑥の時期の面積にあたるとして不合理ではない。
 なお傍証として絵図3Aに仏崎にも水田があることが示されている(面積は約三〇〇平方メートルで、文書の示す面積四畝二十四歩より小さい)。
 以上より絵図3Aは元禄(一七〇三)地震前、絵図3Bは史料九の作成時期との前後関係は確定できないが寛政三(一七九一)年以後の状態を示している図であろう。
 なお瀬戸口(現鋸南町中佐久間瀬戸口、図2参照)では水田合計一反一畝六歩が川欠によって失われたが、おそらく佐久間川の河岸に生じた崩壊と思われる。
未調査のため崩壊場所は不明である。

 ●史料十 覚書を以申上候事
 (年代)延享四年(一七四七)
 (内容)房州南部の沿岸各地の地盤隆起・沈降
 (所有者・所在地)史料五に同じ
 (書き下し)
 覚書を以申上候事
 酒井内膳様御知行所相浜村(現館山市相浜)ニて都合八ケ村
 前海支配仕来段本郷村(現鋸南町保田)書付ニて申上候村々
一、高弐百八拾壱石三斗四升六合  酒井雅楽守知行所
   犬石村(現館山市犬石)名主理兵衛
  当村古来漁猟仕候 大神宮村(現館山市大神宮)境川湊有之両村舟通行仕候 舟寄場論合御戴許御証文頂戴仕罷有候 四拾五年(一七〇三年)以前津浪ニて干潟ニ相成川湊無之浪高舟通行難成漁猟相止申候 尤破船寄物等其外浦役相勤申候以来漁猟湊出来次第仕事付由ニ御座候
一、高四百五拾三石九斗弐升六合
               酒井雅楽守御知行所
               川野藤右衛門御知行所
   大神宮村(現館山市大神宮) 名主 浅右衛門
                    幸右衛門
  当村古来漁猟仕候 犬石村(現館山市犬石)堺川湊ニて舟通行仕候
  古来漁猟仕候節舟寄場論御戴許頂戴仕候 当村浪高海辺遠川湊干潟ニて無之漁猟不仕候 村方ニて破船寄物等惣て浦支配当村ニて相勤申候
一、高百弐拾八石八斗六升八合 酒井内膳御知行所
   藤原村(現館山市藤原) 名主 清兵衛
  当村古来漁猟仕候処ニ 津浪以後凡弐拾丁余干潟ニ相成当時舟寄場無之 漁猟相止申候 此上漁猟望次第相成候 尤破船寄物浦役等当村ニて相勤申候
一、高百七拾四石九斗四升四合 小笠原岩見守御知行所
               尾村清右衛門御知行所
   佐野村(現館山市佐野) 名主 庄右衛門
  当村居村より海辺迄壱里余遠く浪高湊無之舟通行難成 漁猟不仕候 尤浦役其外破船寄物等当村ニて相勤申候 〆四ケ村 此外四ケ村の儀も様子可有御座候て共承り不申候
  白子村(現千倉町白子)ニて四ケ村前海支配仕候段本郷村(現鋸南町保田)申上候
一、高九百五拾石七斗弐升三合 酒井雅楽守御知行所
               松平織部御知行所
               大久保藤次郎御知行所
  瀬戸村(現千倉村瀬戸) 名主 喜右衛門
         権兵衛
  当村明暦年中白子村(現千倉村白子)と出入ニて御検分被成下則御見分先ニて隣郷扱ニて相済候 こやし猟は白子村前海迄無運ニて致之当村前海は両村入相ニ相成候
  尤破船寄物等当村ニて相勤候
一、高四百五十弐石八斗三升 水野壱岐守御知行所
   下三原村(現和田町下三原) 名主 助右衛門
  当村前海荒浪ニて岸通リ舟通行難成漁猟不仕候
  尤浦方諸役破船寄物等当村ニて相勤申候
   〆三ケ浦
  和田村ニて三ケ村前海支配仕候段本郷村申上候
一、高失念              真浦村(現和田町真浦)
  当村漁猟和田白渚海発(現和田町和田・白渚・海発)四ケ村前海入会漁猟仕来申候古来舟寄場無之当時干潟ニ相成舟寄場出来新規ニ
  漁猟仕候
一、高五十三石九斗六升   大久保藤次郎御知行所
   白渚村(現和田町白渚)名主 権左衛門
  当村浪荒舟寄場無之漁猟不仕候 尤浦役破船寄物等此先切ニ支配仕来申候 尤塩焼申候
一、高四百四石八斗七升七合 大久保藤次郎御知行所
   海発村(現和田町海発)名主 久左衛門
  当村浪荒岸通舟寄場無之漁猟仕候 尤浦役破船寄物等当村ニて支配仕候
  江見村(現鴨川市江見)ニて四ケ村支配仕候段本郷村申上候
一、高三百三拾石        水野壱岐守知行所
                大嶋口平知行所
   江見村(現鴨川市江見) 名主 内蔵助
                  吉左衛門
一、高百七拾五石四斗八升弐合  本田弥八郎知行所
   仁我浦村(現和田町仁我浦)名主 喜兵衛
一、高弐百五拾弐石五斗九升 同領
   芝村(現和田町柴) 名主 與五兵衛
一、高三百五拾石壱斗弐升 同領
   花園村(現和田町花園) 名主 藤次郎
右四ケ村江見村の枝郷ニ御座候 尤前浦荒浪高 舟通行難成江見村迄遠方故漁猟不仕候 尤破船寄物等地下切支配仕候 右村々え干鰯ロ銭等取来申候
右の通り本郷村申上候ニ付荒増承り口書付差上申候御引合御覧奉願候 以上
 延享四年(一七四七)         本名村(現鋸南町元名村)
     卯        名主 勘兵衛
  十一月六日       組頭 藤右衛門
              百姓代 勘次郎
 田中八兵衛様御手代
  清水房右衛門殿
 上倉彦左衛門様御手代
  山本佐七殿
(注) 元名村と隣村本郷村(現鋸南町保田)との前海支配をめぐる紛争の際に出された文書で、館山から千倉にかけての沿岸各村々への本郷村の問合わせに対する各村の回答が述べられている。
 初めにでてくる、犬石、大神宮、藤原、佐野の各村は、館山市平砂浦東部にある(図9、二五五項参照)・犬石村、大神宮村の項に述べられている「川湊」は現在の巴川下流にあった港で、当時宮前橋まで舟が出入したという文書〔『平砂浦砂防史』(二五五頁参照)〕が残っている。
 なお広大な干潟(砂地の浜と解すべきであろう)が生じたことが書かれているが、この旧汀線は今村明恒(一九二五)が相浜の古図より指摘した旧汀線の続きで、房総フラワーラインの東方に並行して位置するが、現在は元禄期以後の砂丘に埋積されて地形としては残っていない(図8参照)。後段の瀬戸村以下の各村は外房の千倉町北部より鴨川市にいたる沿岸の村であるが、人間生活に大きく影響するような大規模な隆起現象は認められなかったようである。
 以上より松田・太田ら(一九七四年)の示した元禄段丘・元禄汀線の高度分布については一部再検討の必要があろう。
松田時彦、太田陽子、安藤雅孝、米倉伸之(一九七四)「元禄関東地震(一七〇三年)の地学的研究」、『関東地方の地震と地殻運動』(ラティス社)一七五~一九一頁。

 ●史料十一 乍恐御尋ニ付書付奉差上候
 (年代)文化三年(一八〇六)
 (内容)津波・家屋破害
 (所有老)平井勇、館山市北条一、六七五
 (書き下し)
 乍恐御尋ニ付書付奉差上候
一、私先祖又右衛門義、出生大坂ニて、下総国ニ住居仕節、御領主堀田加賀守様え御用相達勤労有之候ニ付、独札被仰付、其後寛永年中御領主堀田加賀守様房州え領替御遷之節、浄土宗僧圓知井祖又右衛門、右両人之者被 召連、同国勝山村ニ住居被 仰付、右圓知儀ハ一寺建立被 仰付則只今之最誓寺ニ御座候、祖又右衛門儀、先規之通御用相勤罷在候、其節御領内酒屋数多ニて、農業等之障リニ相成リ候由被 聞召候て、祖又右衛門ニ酒商売并請元被為 仰付、御書付等被下置候、右御領主上野介様迄御二代ニて、御領替被遊、其後御料所御代官八木治郎右衛門様、其後御領主酒井修理太夫様右御領主代々御代リ被為遊候節、御糺之上、先規之通酒商売元請被為 仰付、猶又御書付等被下置候処、元禄十六癸未年十一月廿二日夜房州満水之節ニ流失仕候、其後御当家様ニ至リ候ても、御糺被遊候上、前々之通リ酒商売元請被為 仰付、御書付等被下置、難有仕合奉存候、右此度御尋二付、
以御書付奉申上候、以上、
               御領内酒商売元請
                  勝山村 又右衛門
 文化三寅十月

   御役所様
 右之由緒書仕候て可差上段被仰付候間、出府在中ニ差上候、尤右由緒書之外ニ先年正徳三年己(巳)三月差上候処之書付御引合之為御尋ニ付、先年差上候通リ相写、又候此度差上申候、則左ニ記ス、且又正徳年中 御当家様より御糺之上先規之通 御領内酒商売元請之御免許書御引合之ため、御尋ニ付相写奉差上候、是又左ニ記ス、
(注)『千葉県史料近世篇』安房国(上)、七四~七五頁「勝山村又右衛門言上書」より引用。
 勝山村(鋸南町勝山)の酒商又右衛門家が津波で流失した事を示す。又右衛門家の位置は図2、二一三頁参照。

 ●鋸南町の史料・補足
 鋸南町の被害は『鋸南町史』に詳しい。被害を抜粋すると以下の通りである(本書に採録したものを除く)。
 ①津波による死者、保田浦のみで三一九人と伝え別願院(図2参照)に葬り、吉浜浦では万灯塚(図2参照)、勝山浦では千人塚〔天王塚(図2参照)にあったという〕に葬る。
 ②土地流失、大帷子通称「ノメラのハナ」を中心として吉浜・大帷子・本郷(保田)各村を通じ宅地を含めて約三町歩余の芝地畑地が流失、元名根本海岸では一町余の耕地が欠壊流失。勝山では浮島の岩角崩壊、陥没あり。
 ③神社の移転、勝山村加知神社(天王塚にあった)は元禄の大津波以後潮が近くなり移転。
 ④津波で流失したと伝えられる寺社、(図2参照)。
  保田附近、神明社(吉浜三三七番地)、別願院。
  勝山附近 妙典寺(勝山三一六番地)、浄蓮寺(勝山三一五)、大智庵(勝山四〇七)、正宗寺(廃寺、稲松別館東の船引場)、観音堂法福寺(勝山四〇九)
 我々の聞き取りによれば(a)、妙本寺地先の海底、保田地先の海底には墓石が多数沈んでいるといわれ、また神明社(図2参照)には、地先の海底に沈んでいたのを引き揚げた(引き揚げた人存命)石の鳥居があるという。保田の海岸に最近海底から波に打ち上げられたという墓石が一基あったが、年代は明和年間(元禄地震後)のものであった。
(b)図2の13、貴布弥(きぶね)神社の下の保田川に昔、大津波で船が三隻流されてきて引掛ったという。『鋸南町史』にも、同様の伝承が採録され、「船が流されてきたので木船という」とある。神社の縁起伝承(貴布弥→木船)が混っているため事実かどうかは疑問である。

  〔富山町〕
 ●史料十二 元禄十六年高崎浦津波記録
 (年代)不詳
 (内容)津波・地震による家屋、人畜、漁具被害
 (所有者)永井正二、富山町高崎、一、四四六
 (書き下し)
   元禄十六年高崎浦津波記録
 比しも元禄拾六年癸未新玉の春も目出度立行て、夏ハ旱魃に、秋ハ最中に風もなく、冬気に成て霜月ノ下旬廿二日ハ天赫日空も晴、吉クなぎて海上も波浪静に日も暮て夜の九ツ時分俄に地震ゆるぎ立、皆家ごとに寝しづまり、起揚らんとすれ共起てハころびころび漸ク立上リ、部屋の戸を明ケ後(ウシロ)え出也、内方も三人の子共を引つれ、後の壁弐間後え打返リ、其より後え出也、親子皆無事にて門口へ廻ル、台所にハ下人数多寝居也、家伏セ共はりのあいに成ておされず、後の小路へ出ル中にも危事も有、部屋の天井南の方廻りふちはなれ片はな落ルに、入口の仕切の内戸壱本内えはづれ、天井のつかに成ル、音たて下え落付バ、皆をしに可シ成、家を戌の年作り、拾八年目也、板天井にすゝ厚サ三四寸もたまりて重(オモク)落に戸壱本はづれてつかに成ルハ不思議の仕合也、惣別寝間の上にハこもにてもはるべし、板天井いらぬ物也、弐ツの倉も伏ス、馬屋も伏ス、され共牛馬はやく飛出して長屋の前に居なり、とおりも伏ス、厨(カハヤ)も伏ス、され共居家ハ不伏、石すへならハ柱を太クすべし、柱細キハ此節皆つぶれる也、貫目いたミわれ伏なり、さすハ太ク、はリハ細ク、しきけたかけ四方縄しめに心を付、釘ハ便リにすべからす、横広ク足元つよく大ねだ木十文字に可入、古昔皆此通なり、此台にて助(タスカリ)不伏家ハ杢兵衛居屋、又兵衛居や、彌惣右衛門居屋、門四郎家、市十良家也、牛頭天王様社中え波打越せ共、御宮不流何事もなし、薬師堂も香坊も何事もなし、其外ハ皆伏ス、寝閑りにて家伏ス故、人損ず、古より人申ハ、大地震有には必ス津波寄と申事思ひ出し、皆はやく家を出よとよばハリ、長屋の前へ出レハ磯際の方清水の田へさあさらと波押て追付故み、ミやう堂え逃ゲル、浜台の老若男女皆円正寺山の西のひらへあがりて小松に取付居也、寝閑リの事なれハ、あハて、着物も帯もわすれ、真はだかにて出ル男女も有に杢兵衛ハ家へ戻リ見れバ、庭の内へ波打込、腰たけになり、前の井けた少出ル、なにもかも海になり、おそろ敷ゆへ家へ早ク入、御祓を取持行也、又寺山へ登ル、地震常のゆりやうとハちがひこまかにびくびくびくびくとゆる也、心悪敷故、とかく食物を専一と思ひ、宿へ人を遣リ、米を四五升取寄人にもとらせたれハ、夜明ル迄皆打かゝリく居ルなリ、夜明ケても無間もびくびくゆるゝ故波おそろ敷テ無心許、山よりすぐに光泉寺をのぼりに子共をおい抱キ、昼時分に寿楽寺へ行也、岡浜の男女寺の上の畑へ小屋をかけ居ル、廿三日夜通小屋にて火をたき明し、廿四日ハ又岡へ房リ、名主弥兵衛殿庭に小屋をかけ居ルに、皆人申にハ、又津波参べしと申により、宿へ不帰、医者金木玄貞老内室も大勢居ル也、然に皆申に、北口より盗賊参由申触し人々苦労にいたし用心するに、安(案)に相違して偽なり爰にても間もなく地震ゆるぎ心悪敷、十二月一日迄岡の庭に居る、其日七ツ比に成、浜の宿へ帰リ見れバ扨あハれ成事にハ、親ハ子を失ひ、子ハおやにおくれ、夫ハ妻に離れ、幼稚者共もあまた波にとられ、親兄弟なげきかなしむ有様実に生者必滅会者定離、中々目も不被当、心言もきへはてゝ、人ハはかなき事共なリ、或人の云、寿命ハ如し蜉蝣ノ朝に生れて夕に死ス、身躰ハ如し芭蕉ノ、随テ風ニ易シ壊レと書れしハ、おもひ当リて理リなリ、死たる人ハ、
 一、濱金左衛門妹長命  一、同所 八兵衛  一、同所庄作が妹いぬ  一、坂本五兵衛内方  一、川向ノ勘兵衛  一、塚原傳兵衛下女
   濱吉兵衛所ニて
 一、下リ松利古右衛門下女親子
   是迄八人ハ家におされ死ス、
 一、濱三十郎子息  一、濱お吉子息  一、同所久五郎子息  一、同人の娘  一、同長左衛門女房
 一、濱勘左衛門ばあ  一、同六三郎女房  一、同人子息いせ  一、同人 娘ひめ  一、濱惣左衛門女房
 一、同人 娘ミの  一、同人 田町の孫  一、川向の半四良女房  一、同人の子息  一、同所市良左衛門女房  一、同人の娘  一、同人孫  一、同人の子息  一、同所勘兵衛女房  一、石小浦湯入弐人
  濱半左衛門所にて
 一、上須加喜平次下女松  一、川間甚五兵衛女房
  船形村にて
 一、同所庄次郎子息  一、同人 守子
  東浦にて
 一、同人娘まさ
   是迄弐拾七人波に心取死スル也、
 〆三拾五人此通御地頭え申上ル、
其外けがする者多し、夜中時分の事なれハ、あわてさハき思ひよらさる事ゆへ、方角ちがひ、とかく謂間もなく家伏し、家人共に沖へ引被出、或ハ出ても川へ落死も有リ、老少不定と云ふなから、十日十五日の内ハ浜磯へ死人数多海からより昼夜犬共かふべ手足くひちぎり、門戸口迄もくわへあるき、おそろ敷て浜へも不被出、中々見るも思ひ也、はた辺の分ハ引波に四壁竹木崩損し、野はらのことくに成リたり、哀無常の次第也、波三ツ打、弐ツ目と三ツ目沖より山のことくに打来リ、谷口小丹が屋倉下迄波打なり、依之、木倉六三郎子共弐人共に種井戸の上、又兵衛田に波ニて押上ケ、死て有リ、木倉十右衛門屋敷の松弐尺四五寸も廻ルを根こみにし、南の三郎右衛門門ロへ波にて押付ル、杢兵衛外屋敷田ふちハ昔より竹藪なるをとをして松を弐通植置、壱尺余廻ル松を皆不残しやうがをはかいたやうに、杢兵衛の門口へ波にて押付ル、廿三日四日外屋敷にて磯うを大めばりゑびなよし、いろいろの魚共弐三十程ひろひ、寺家台の小屋へ遣ル、外屋敷畑半分南ハ作物に風あたリ、実入悪敷し風筋也、竹藪にして置ケバ風よけにもなり、津波よけにもよし、自今以後ハ昔のやうに必竹くねにして可シ置、或人云ク、本をわすれて末執ると謂れたり惣別昔より有来ルくねをバとおさぬものと申伝る也、清水より押来ル波にて表の蔵のけたを吉郎兵衛の屋敷に流有リ、木くら惣左衛門長太郎杯椀かくを杢兵衛坪の向隣の藪に有リ、半左衛門後の川より入波先山本の杢兵衛田六畝四歩の橋のきわ迄行、杢兵衛上くぼた道切リ浜の真木を波にて押上ル、清水(シミツ)の波ハ又兵衛田迄両方の波のあい杢兵衛の宮田孫兵衛田三郎右衛門前の田斗也、依之、此台ハ、高崎の内嶋の様ニ成也、浜に置網ハ大幟を流ス、船共多ク損ス、杢兵衛網船、八郎兵衛網船、吉郎兵衛網船其外浦請ケないや(納屋)にても網舟諸道具皆損ス、杢兵衛ハ浜の木倉に大分山を買真木下シ入置、皆波に流ス、上須加のたなも伏損ス、何角都合弐百両の損金致ス、同十二月六日に御地頭酒井隼人正様此旨御心に被達せて、相(騒)動を御見分に御家中千賀彌平次殿御代官に菅野三右衛門殿御両人御越、高崎の有様御覧被成ルなり、濱吉兵衛どての御宮流ル、盛者必衰不遁(ノガレ)、是ハ元禄拾壱年寅ノ六月廿二日の夜の五ツ過に濱権兵衛どての際へ大キ成亀上リ居所を堀ル、浜の老人集リて酒を呑(ノバ)すれハ、渚(ナキサ)へ下リ海へ行也、とかく祝ひてよしとて同月廿四日に圓正寺宥専法印申請住吉大明神に被祭、其年中に御宮建立成、同年七月十七日にひらう中くろ鯛嶋へ鯨弐本、前のがる嶋の内へ鯨壱本以上三本はね上ル、是ハ村の吉事なりと皆よろこぶ也、式文に善(ゼン)を修(ジユ)すれハ福(フク)を蒙(カウムル)と云へり、向の姥神御宮何事もなし、是ハ元禄拾六年未ノ五月十五日杢兵衛御宮建立仕ル、宥専法印御せんくう也、十二月中夜昼幾度も不止にゆるぎ、年明ケても正月中ゆるき、二月中旬にゆるぎ止ム也、去霜月末より皆人ごとに昼夜不怠万歳万歳世直し世直しといふ也、
                     長井杢兵衛(印)
 営所上須賀町金木玄貞老此書を見被中添書に一首
  長井氏為後記筆作ス、之某見之寿命は如し蜉蝣ノ、身躰は如し芭蕉ノ、と古人ノ語ヲ書入有リ
 讃之日、
 身命は八拾年、意は是万代に残し置、子孫繁栄ニ腰折レの
  一 句
 あだな身に智恵を包て浮世成リ たのミ落てもすゑのたね哉
     金木氏より
 長井氏丈
 (注)『千葉県史料近世篇』安房国(上)、一四三~一四八頁より引用。原本は焼失。
  文中傍線の地名等は図3を参照されたい。
  元禄津波の体験記である。この文書および他の伝承を基に羽鳥(一九七五)が浸水分布図を描いている。羽鳥の採録した伝承以外では、図中の13(小柴氏宅)で、川をさかのぼってきた津波によって牛馬と子供二名が水死したと伝える。
 なお、羽鳥の採録した伝承の内、11地点は近くにある石塚(津波で浜から打上げられた石を集めたといわれるもの)は、基盤の風化した露頭のもようである。
 この文書中の地名や人家跡を調査したがその結果によりみると津波は二波に分れて侵入し、一つは7地点と12附近を通りAで示す浜台といわれる砂堆の東方で、岩井川沿いに侵入してきたもう一つの津波と合流して3地点へ向かったようである。この際、Aの砂堆は浸水を免れたようである。

 ●富山町の史料・補足
 富山町では現在のところ、史料十二以外の資料はみつかっていない。津波についてのいい伝えは平野北部の久枝区にも伝えられていたようだが採録できなかった。宝永年中の多数の久枝区有文書には年貢割付等にも津波被害の例はないようで羽鳥(一九七五)の描いた浸水域から予想されるような被害記録は今のところみつかっていない。なお元禄地震直後の裁許絵図(宝永七年)が富山町高崎の吉野久代氏宅に現存している。
 この絵図からみると岩井平野の海岸では鋸南町沿岸、館山平野のような大規模な海岸侵食や海退現象は生じなかった可能性が強い。

  〔富浦町〕
 ●史料十三 常光寺薬師堂棟札銘文
(年代)宝永元年(一七〇四)
(内容)地震による家屋被害
(所有者・所在地)常光寺 安西亮識、富浦町深名四
         三四
1、伏(梵字)天下泰平 国土安全 萬民豊楽
       当村繁昌 諸人快楽 如意祈所
2、此堂者先住法印頼残寛文十一(一六七一)年建立之云云干時元禄十六年(一七〇三)」未霜月廿二日之夜大地震破壊半滅也依之中尾川大般寺両村之」衆中悲其消竭童女興行歌念仏勧近隣之人家替地形」此再営令成就者也
3、            当村名主 生稲甚五右門(ママ)
                年寄 羽山市郎右門(ママ)
4、干時宝永元(一七〇四)甲申歳十二月八日 別当常光寺法印宥光
5、不明(寄進者名らしいが損耗のため判読不能)
6、             嘉兵衛娘  おたま
               金右門娘(ママ)  おひめ
               庄右門娘  おなつ
 念仏言           太右門娘  おいわ
               太郎兵衛娘 おせうぶ
               作兵衛娘  おちやう
               清兵衛娘  おひめ
                其外郷中肝煎
                 念仏師匠
                 欠損
(注)この棟札は常光寺(図4参照)境内の薬師堂にあったもので、銘文の2の如く、寺の境内にあった建造後三十余年の薬師堂が地震により半壊したので、中尾川、大般寺(現在は大半津と書く)両村が銘文6の童女たちによる、歌念仏を興行し再建した事を示す。地震前の薬師堂の規模・位置は伝わらないが、現在の薬師堂は二間四方の建物であることから、ほぼそれに匹敵する規模の建物であったと思われる。なお寺域の地盤は沼段丘面(海成)と山地との境界部にあたり、海成沖積層はなく、波蝕台又は山地斜面をなす第三系の基盤上に砕屑物を薄く乗せているらしい。

〔館山市〕
●史料十四大福寺(崖の観音)津波被災者供養塔碑文
(年代)元禄十六年(一七〇三)
(内容)津波による人命被害
(所在地)大福寺、館山市船形八三五
(書き下し)
大福寺(崖の観音)津波被災者供養塔碑文
[正面]
 元禄十六歳 生国 摂州西宮住
南無阿弥陀仏 浄心信士 不退
 未十一月廿三日 俗名 中村佐平治
〔台座〕
施主 網山丸
[左側面]
元禄十六年
(梵字)道■(ママ)信士 生国 房州立嶋村(現鋸南町竜島か) 助七
(梵字)秀源信士 生国 上総小久保村(現富津市小久保か) 惣吉
(梵字)了全信士 勘三
    未十一月廿三日
[右側面]
元禄十六年
(梵字)正西信士 生国 摂州西宮住 俗名 六郎兵衛
(梵字)玄了口士 同国 西宮住   俗名 善重郎
(梵字)西溺信士 同  西宮    俗名 万(?)五郎
    未十一月廿三日
(注)いい伝えによると、津波来襲当時、船形浦の海上で船に仮泊していて難にあった漁船乗組員の供養塔という。(図5参照)

 ●史料十五 覚
(年代)宝永元年(一七〇四)
(内容)地震による家屋被害
(所有者)那古寺、館山市那古一、一二五
(書き下し)
  覚
一、那古寺脇坊八箇寺
一、恵日坊 住持御座候 地震ニつふれ小屋掛仕罷有候
一、西之坊 右同断
一、源養坊 住持御座候 地震ニつふれ其上焼失小屋掛仕罷有候
一、入之坊 地震つふれ焼失仕候 住持義は当二日相果申候
一、岩室坊 右同断 住持御座候 那古寺ニ差置為相勤申候
一、普門坊 先住代たゝミ置申候住持は那古寺ニ差置為相勤申候
一、承禅院 那古寺隠居所ニ御座候 那古寺の中致地替候ニ付大門ニ当候故たゝミ申候
一、上之坊 往古ハ御座候由申伝候得共、只今坊跡も 無御座候
   右の通ニ御座候 此度御吟味の上漸々御取立住持仕附、御祈祷可相勤旨被仰付奉畏候以上
    宝永元年(一七〇四)申九月 九月房州平郡那古村
                  那古寺印
 四箇寺
   御役者中
(注) 那古寺(館山市那古)のある山麓近傍に散在していた、那古寺の脇寺の被害である。
 八箇坊の内に地震当時は六坊が存在し、承禅院をのぞいていずれも倒壊した。
内、恵日坊、西之坊は再建され最近まで続いていたが、他の四坊は廃寺となったようである。恵日坊、西之坊はいずれも那古寺の脚下の海成波食台をなす沖積段丘面上の砂堆列上にある。他の坊の所在位置は不明である(図5参照)。
 なお那古寺の堂宇は元禄地震の際全壊したとされる(『館山市史』による)。

 ●史料十六 房州安房郡八幡社社人方
(年代)元禄十六年(一七〇三)
(内容)地震による家屋、人命損害
(所有老)史料十五に同じ
(書き下し)
 房州安房郡八幡社社人方
   覚
一、鶴谷八幡御宮本社并ニ幣殿拝殿 若宮末社共ニ大破損仕候
一、家不残つふれ申候       神主 酒井志摩印
一、家不残つふれ申候          命  婦印
一、家不残つふれ申候     称宜 内  記印
一、家不残つふれ申候     社人 民  部印
一、家不残つふれ申候     社人 惣右衛門印
一、家不残つふれ申候     社人 元右衛門印
一、家不残つふれ申候     社人 八郎兵衛印
一、家破損          社人 茂左衛門印
一、家破損          社人 市兵衛印
  右之通今月廿三日の夜大地震仕候得共 男女共ニ壱人もけが無御座候 以上
   元禄拾六年(一七〇三)未ノ十一月
 (注)鶴ケ谷八幡神社、(図5参照)の社殿及び神官等の家屋の被害状況である。鶴ケ谷八幡神社は元禄汀線に沿って分布する砂堆上に立地するが、砂堆はかなり厚い海成の泥層上に乗っているものと考えられる。
  なお、社殿は享保四年(一七一九)再建された(『館山市史』による)。前記の十五と合わせて、当時の汀線真近にあった堂社の被害である。

 ●史料十七 奉指上候書付之事
(年代)天保五年(一八三四)
(内容)元禄段丘上の新田開発(一七〇四年開発)
(所有者、所在地)正木太四郎、館山市船形二九〇
(書き下し)
奉指上候書付之事
一、古河新田の儀宝永年中開発石山切割河通右石山横弐間竪行弐拾二間余深サ三間半堀切 上之堀切高サ五尺幅弐間長サ五間余 北ノ方河行土手横四間竪行六拾三間余築立 普請開発仕御見分の上旱損水損ニ不相構御年貢反に弐斗三升御定免御定被下永々可作の御書付致頂戴 年々無滞上納仕候処 此度増年貢御上納可仕旨被仰渡候得共右田の儀塵芥等押込悪田故虫難年々有之 又は大西風吹塩水打揚腐候時切も有之 三ケ年に壱反も無難ニ熟シ候義も無御座候 右ニ付増御年貢の儀上納致兼候間 此段御高免奉願上候処 上納相成不申候て書付差出し候様被仰付奉畏入候 前文奉申上候通 悪田ニて年々虫難ニて三年ニ壱反も無難ニ出来不申 増年貢の儀差上兼候間則書付奉指上候右田地之儀外新田平場の開発普請と違ひ格別金子も掛り 不用地御田地ニいたし乍恐御殿様御益ニも相成候儀ニ御座候えは 此段御堅察被下度御免状の通御年貢被仰付可被下候様奉願上候 依て書付差上申候 以上
   天保五午(一八三四)年八月
                 舟形村(現館山市船形)
                 川名村(現館山市川名) 大作百姓
                             九右衛門印
 石川六左衛門様御内
  御出役衆中
(注) 元禄地震の翌年、宝永元年(一七〇四)に、隆起した古川の入江跡を開拓造成して作られた古河新田(図5参照)の存在を示す資料である。
 元禄地震により隆起した旧干潟(元禄段丘)の開拓が最も早く行なわれた例であり、逆に、元禄段丘とされている地形の陸化時期を間接的に示す資料でもある。なお、文中には「宝永年中開発」とあるが、今回省略した宝永元年の文書により開発時期は確定されている。

 ●史料十八 相渡申井掘証文の事
 (年代)元文三年(一七三八)
 (内容)地震による地形変形
 (所有者、所在地)湊区(区長保管)、館山市湊
 (書き下し)
 相渡申井堀証文之事
一、元禄十六年(一七〇三)三拾六年以前未の年大地震ニて 難御村方□(之カ)御神領地(鶴ケ谷八幡神社社領)窪ニ罷成 満水の節田地仕付難成御難儀ニ付 当村(湊村)地内え悪水落の井堀御願ニ付其節年切の約束にて井堀相立為堀代と米六俵四升宛毎年切ニ取米申候 然所ニ当村(現館山市湊区)道筋等及破損 難儀の趣相達し止申候事
一、此度亦候其御方より段々御願ニ付 当村川田大道岸よりぐゝ田坪岸迄 横幅九尺堅行百八拾五間四尺七寸 為畝歩九畝九歩為其地代と文字金弐拾弐両慥ニ請取永々売渡申所実正也 但御年貢諸公済等の儀は御社領の井堀ニ御座候ニ付此方地主共方ニて相勤可申候 右此方地主并惣百姓相談の上ニて其御村方御役人并惣百姓中此末永々井堀普請随分ニ無油断被致候筈ニ相究申候 右相定申候横堅間数の外田畑ニ欠込不申候様ニ被入念普請可被成候 且亦其元御村方より相認被遣候買証文ニ少も無相違候ハ、永ゝ悪水通し申筈ニ両村相互ニ得心の上相定申候 為後一札如件
一、井堀の辺満水の節損出来候ハ、 証文の通其元御村方ニて早速人足被成御出 随分ニ被人念ニ普請罷成候上ハ一切相違無御座候 万一大雨ニテ上新田大土手破レ横堆木仕候而 此方田畑ニ破損御座候ハ、右両村(湊村・八幡村)立合ニて見分の上ニて如何様共御相談仕候筈ニ相定申候 以上
    元文三(一七三八)年午四月
                          安房郡湊村
                           名主 甚右衛門印
                           組頭 佐右衛門印
     千燈院様                 百姓代 茂左衛門印
     酒井山城様                 地主 徳蔵院 印
     伊達伊賀様                 同断 長右衛門印
     武内伊勢様                 同断 八兵衛 印
     名主(八幡村名主)久右衛門殿        同断 門  助印
     組頭宇兵衛殿                同断 甚右衛門印
     百姓代金右衛門殿
(注)湊村と八幡村(現館山市湊区、八幡区、図5参照)との間の排水路に関する係争文書の一つである、この排水路は、文頭にある如く、八幡村の百姓領、および八幡神社領の水田が地震による地表の変形で排水不良になったため、元禄地震の翌年(宝永元年)に作られ、その時の両村の文書も残っている(『湊区有文書』一号、「相渡申一札之事」宝永元年)。
 八幡村領は館山平野の沿岸部ほぼ中央にあり、厚い沖積層上の砂堆および堤間低地上に立地していた。大正地震の際も地割れ、地表の微少な隆起沈降等の地表変形がみられたが、元禄地震に際してもそのような変形が発生したのであろう。
 この変形については、未調査のためその規模や位置等については未詳である。

●史料十九 乍恐返答書奉申上候
(年代)明和五年(一七六八)
 (内容)土地隆起、港の廃絶
 (所有者、所在地)史料十八に同じ
 (書き下し)
  乍恐以返答書奉申上候
一、房州平郡正木村(現館山市正木区)名主組頭百姓共奉申上候 同国安房郡湊村(現館山市湊区)名主政右衛門 高井村(現館山市高井)名主治郎兵衛方より古来無之処新規境杭相立候趣御訴訟申上 御裏御判頂載相附候ニ付驚奉拝見則罷出左ニ御答奉申上候
一、右訴訟人共奉申上候は 古来より無之処え大勢相催し 新規境杭相立 殊ニ往古入江ニて元船近相繋候湊ニ御座候処 元禄年中大地震ニて右場所潮退キ候後川原ニ罷成 当時砂間・芝間ニて往古より湊附の村方故湊村と申右場所ハ字湊村と申候湊村附の場所ニ相心得候由悉タ相違の訴状相認奉差上候此段右場所の義は正木川と申 去九ケ年以前辰年従御公儀様国役御普請被仰候節地頭所より右川中央川際村々立会相改置候様被申付候間 早速湊村高井村えも申遣候ハ 此度正木川筋川除御普請被成下候由ニ候間立会 川境相改申度候間立会候様申遣候処 其節湊村名主政右衛門組頭五郎兵衛高井村名主次郎兵衛同儀左衛門口組頭傳兵衛同長三郎右の者共立会正木村川端通三拾四町の間并湊村高井村両村地内双方内見仕得心の上今般論所の場所川中央の境杭立置申候所 無間も御見分御役人様猪俣要右衛門様湯川加兵衛様被御出御吟味の上湊村高井村の者共被召出 双方得心の上右川中ニ立置杭木相違無之哉と御尋御座候処 双方共此度相改杭木立置所境ニ相違無御座候段御答申上御見分相済 其後御普請為御改和田清助様被成御出又候双方立会被仰付御吟味御座候所右杭木相立候場所境ニ相違無之段申上候ニ付 双方より其趣口書被御取極御普請成就仕候年来の儀ニ御座候間 右杭木段々と出水度ニ石砂押上埋リ候ニ付 此度添杭相立申度候間立会候様右両村え度々申遣候処 彼是申立会不申候間猶又先達て御見分の節御改被下置境杭ニ御座候えハ何分立会候様再往申遣候得共 否の儀も不申越 却て水流境ニて右川は湊川と申我等勝手次第杯ニ無跡形も申越難渋仕立会不申候然処右境杭の義砂利中え強打込最初水の上潮壱尺七八寸程も出居候所 年数相立候義ニ御座候間 最早□石砂押重リ埋リ相見不申候様罷成候ニ付 此上出水御座候て流失仕候ハ川境も取失候様罷成候間 其段両村の老共え相届候上 古来の古杭ニ相並添杭相立申候えは決て無之場所ニ新杭打候と申儀ニては少も無御座候所此度右杭木年々相埋リ見へ不申候を見込 新規ニ杭木相立候杯と偽リ成義御願申上候ハ 全巧を以正木村地内川原等可奪取存心と奉存候間 何分御吟味奉願上候 殊ニ右古杭の義今以砂利中ニ埋リ居候えは御見分被成下候得は明白ニ分リ申候御事
一、訴訟方の者共正木川の儀湊川の由申上候は甚口成儀ニ御座候
   此段湊川と申候儀ハ宇戸川と申候て 古来は分川ニ御座候て此川筋高井村地内より湊村薬師堂脇え水流来候故湊川と申候処 先年御公儀様為御普請桑原郷と申候所ニ高井村秣場御座候処 右場所を正木川え新川堀切被仰付 右川筋御田地ニ開発仕其場所字今ニ古川新田と唱候えは 右川の外湊川と申候筋無御座候処彼是謀計を以口違等仕殊ニ正木川と瀬筋正木村ニ相附候を見込 先年立会の上御見分被下置候境目相潰正木川原可奪取巧ニて新規杯と偽の義申上候義と奉存候間何分御吟味被成下候様奉願上候御事
一、九ケ年以前辰年御普請相済候後 則和田清助様村方役人共え被仰渡候ハロ此度御慈悲を以川除御普請被為仰付候上ハ此後毎年破損不致候様村方ニて出精致可申旨被仰渡奉畏候所 翌年巳年出水ニて少々欠所出来仕候間 当村ニて普請仕候所 又候未年破損仕候ニ付其段地頭所え訴出候所 為修復料金三拾両被下置則致普請夫より年年少々宛川欠取結候義ハ右両方境杭川中ニ有之候を目当ニ致来リ候所 若湊村高井村申上候通ニ川中央ニ杭木無之候えは欠ケ次第ニ相成 一向結等も難成 元より境目相糺シ候事も罷不成候得は 出入可及□□ニても御座候間此段御吟味奉願上候御事
  右の通少も相違不申上候 湊村 高井村の共者平生如何□訳ニ御座候哉 権威我儘ニて三給の当村を苗代ニ仕 立会の儀等当村より度々人遣し候ても取合不申 剰法外□言の返事仕候義及度々候え共 彼是申争候義ハ却て村方困窮の基と差出様罷在候儀ニ御座候 此度の義ハ全以正木村地内段々可掠取 巧を以出訴仕候儀と奉存候間何分御吟味の上御見分被為仰付被下置候ハゝ村一同ニ案堵仕難有仕合ニ奉存候以上
 明和五子(一七六八)年九月             嶋田新三郎知行所
                       房州平郡正木村
                        名主 三右衛門
                        組頭 與左衛門
                       百姓代 長三郎
                     浅野源三郎知行所
                        名主 平  内
                        組頭 甚左衛門
                       百姓代 藤三郎
                     白須甲斐守知行所
                        名主 藤  助
                        組頭 五右衛門
                           吉左衛門代
                       百姓代 善  八
御奉行所様
(注)平久里川をはさんで、南側の湊村・高井村と北側の正木村(現館山市湊区、高井区、正木区)との村境争いの文書である。この文書は訴えられた正木村側の反論書を原告側の湊村が写したものであろう。湊、高井両村の訴状も残っている(『湊区有文書』「乍恐以書付御訴訟奉申上候」明和五年)。
 村境争いの対象となった土地は、図5に?を附した現在の平久里川河口部で、文中にある如く「往古入江にて……湊に御座候所……元禄年中大地震右場所潮退き候後川原ニ罷成、当時砂間、芝間にて……後略」という状態になったものである。
 この陸化して廃港となった港は、景行天皇の渡ったという「淡水門(あわのみなと)」、また平久里川中流の府中にあった安房国府の国府津と想定されている港〔千田稔(一九七四)『埋れた港』九四~九七頁、学生社による〕にあたるものである。
 現在の平久里川河口部は明治以降の人工的改変が大きく、古絵図等(史料二十三)からも「元禄地震前の入江」を地形のみから復元することは難しい。

 ●史料二十 覚
 (年代)享保十三年(一七二八)
 (内容)土地隆起、塩田廃絶
 (所有者)円蔵院、高木寛道 千倉町瀬戸二、二九三
 (書き下し)
  覚
一、北条村(現館山市北条)五石領の百姓当夏訴證申上儀ハ古より潮来り塩御年貢屋敷分ニ納来り候り候、地震此方塩上げ申儀不罷成殊ニ田畑日損場処故御年貢遅滞ニ及難儀計ニ候 塩年貢御免訴被下壱両二歩を田畑かけ御納所申度由 達て訴来リ候 寺領納処分減少ニ付各々え相談申 干潟田地ニ罷成候様世間存知の上ニ候間免許可申願と存候 皆々尤の様ニ御座候ハゝ左分印形被致当住職私ニ不申後代申訳ニ候
依而談合状 如斯候
  享保十三(一七二八)戊申年
  圓蔵院(千倉町円蔵院)住職 日盛
  十一月日
    小 松 寺印
    金 仙 寺印
    徳 蔵 院印
    金 剛 院印
    薬 王 院印
        名主 権右衛門
(注)北条村(汐入川の北岸にあり、館山の市街地をなす、渚、南町、六軒町、三軒町、神明町、鶴ケ谷等を含む)に所領を持っていた円蔵院(千倉町所在)が、北条村の所領のところでは、干潟が隆起して田地になったため、干潟を利用して塩上げにより製造していた塩がとれなくなったので、塩年貢を田畑年貢に変更した際の文書である。
 汐入川沿岸では盛んに製塩が行なわれ、「塩場」「新塩場等」の地名が元禄汀線附近に残っている(図7参照)。

 ●史料二十一 未十一月廿二日之夜地震ニテ潰家并死人改帳
 (年代)元禄十六年(一七〇三)
 (内容)地震、津波による家屋、人命被害
 (所有者)嶋田駿司、館山市館山、一、一二五
  未(一七〇三年)十一月廿二日之夜地震ニ而潰家并死人改帳
             新井浦(現館山市館山新井浦)
             名主 佐五左衛門印
 (本文)
   潰家之覚
一、家 壱 軒            佐五左衛門
一、同 壱 軒            久左衛門
一、同 壱 軒            市郎兵衛
一、同 壱 軒            山 九 郎
一、同 壱 軒            長 三 郎
一、同 壱 軒            庄   八
一、同 壱 軒            八郎右衛門
一、同 壱 軒            八 三 郎
一、同 壱 軒            門 九 郎
一、同 壱 軒            久 兵 衛
一、同 壱 軒            七郎兵衛
一、同 壱 軒            久 兵 衛
一、同 壱 軒            吉 兵 衛
一、同 壱 軒            庄 次 郎
一、同 壱 軒            権   七
一、同 壱 軒            市 三 郎
一、同 壱 軒            惣 十 郎
一、同 壱 軒 但門共ニ       三 福 寺(図6参照)
一、瓦蔵弐軒             八郎右衛門
   半潰家之覚
一、家 壱 軒            佐五左衛門
一、同 壱 軒            八郎右衛門
一、同 壱 軒            三   七
一、同 壱 軒            新 三 郎
一、同 壱 軒            善   吉
一、同 壱 軒            九 兵 衛 
一、同 壱 軒            徳 兵 衛
一、同 壱 軒            惣   七
一、同 壱 軒            次右衛門
一、同 壱 軒            権 四 郎
一、同 壱 軒            三 福 寺
   死人之覚
                   門 三 郎
                   清   七
                   長 三 郎
                   茂右衛門
右之者共稼ニ来津波ニ被取相果申し候
   右 之 合
  家数合弐拾壱軒          潰   家
  家数合拾壱軒           半 潰 家
  死人四人
  右之通相改書付差上ケ申候 以上
  元禄十六年未十一月五日

                  新井浦
               名主 佐五左衛門印
               組頭 善 兵 衛印
               同  惣右衛門印
   柳井彦衛門様
(注)嶋田駿司(一九七三)『房州館山と漁村新井浦』一〇六頁より引用。(『千葉県史料近世篇』安房国上、にも採録されている。)
 新井浦(現館山市館山、新井区)の被害報告書である。嶋田(前掲)によれば、元禄十四年の新井浦居屋敷数は八四軒程度であるとのことで、内三十二軒が全半潰したことになる。
 当時の人家は元禄汀線近くの砂堆上に立地していたと思われるが、当該地域の沖積層厚の分布図を田崎稔(一九七二)が作成しており、それによると、層厚は場所により変化が大きいが、新井浦附近に深度の大きな埋没谷が認められる。
 田崎 稔(一九七二)「館山湾沿岸沖積層について」『房総地理』、四七~五六頁。

 ●史料二十二 指上ケ申手形之■
 (年代)元禄十六年(一七〇三)
 (内容)津波による船舶被害
 (所有者、所在地)史料二十一に同じ
 (書き下し)
  指上ケ申手形之■
一、房州長狭郡(現鴨川市)浜御林御公儀様御用御薪江戸廻し被仰付御座候ニて 当月十九日ニ磯村(現鴨川市磯村)ニて 泉州海上寺村長四郎船ニ 雑木御薪三千六百拾七束積立出船仕 同廿二日暮方ニ 当浦高野嶋(館山市鷹ノ島…図6参照)へ入船仕掛リ罷有候処ニ 同夜八つ時分ニ大地震津波ニて 右の御薪船破船仕候ニ付 船頭相断申候故 拙者(現館山市新井浦の名主)并ニ近村より人足大勢出し 御薪随分無油断取揚申候処ニ雑木御薪千三百三十四束取揚申候 殊当村(新井浦)御役人中も早速破舟場え罷出 諸事御指図被成尋拙者共立合相改 右の束高少しも相違無御座候 然上ハ御薪船積無御座候内ハ 随分大切ニ仕紛失不仕候様ニ相守可申候 勿論破舟の分ケ并ニ御定浮荷物廿分の一の代ハ当村御地頭地方御役人中へ指上ヶ申候浦証文の内ニ委細書付指上ケ申候 為後日手形依如件
 元禄十六(一七〇三)歳未ノ十一月廿八日
(注)前出、嶋田駿司『房州館山と漁村新井浦』に掲載されている。
 津波の六日後、被災した船方より、新井浦の地頭及村役人宛に出した証文である。

 ●史料二十三 館山浦絵図—元禄地震前
 (年代)享保六年写
 (内容)元禄地震前の海岸線を示す
 (所有者、所在地)史料二十一に同じ
 (書き下し)…絵図の注記
一、双方相談の上立合古絵図敷写シニ仕候、絵図の面少も相違無御座候 以上、
享保六年七月五日
                     新井浦
                     名主 三郎兵衛
                     楠見浦
                     名主 仁右衛門
                     浜上須賀浦
                     名主 与次右衛門
               かつら地引請負人 利 兵 衛
                     同断 吉 兵 衛
               相手    波佐間村
                     名主 半右衛門
                     組頭 半左衛門
                     同断 六右衛門
                     絵師 源 四 郎
                     同断 佐 兵 衛
 (注)史料二十四の注参照。

●史料二十四 柏崎浦絵図—元禄地震後
(年代)年代不詳
(内容)元禄地震前後の海岸線を示す。元禄段丘面の開拓
(所有者)竹中敬郎、東京都国分寺市東元町一の一九の二二
(注)史料二十三は大房岬から州崎に至る館山湾全域、史料二十四は館山市柏崎附近(図6参照)を示したものである。
 絵図の作成年代は、史料二十三は注記の通り元禄地震後に作成されたものだが、「古絵図面」を写したものとある。史料二十四は年代不詳であるが宝暦ごろと推定され、元禄地震により隆起した土地の開発状況を示している。
 史料二十四に注目すると「ナミウチキワ」と注記された境界線があることが分る、この線より海側はすべて「新屋敷」「新畑」「干鰯場」等である。絵図に示された道路、国司大明神(現在の国司神社、図6参照)、北下台(図6参照)、等はすべて現存しているので、現地で「ナミウチキワ」の線を踏査してみたところ、館山平野沿岸沿いの最下位の段丘面(大正段丘の上位)の背後の段丘崖下部に一致した。
 さらに史料二十三で、史料二十四の図の示す地域の汀線の平面形と史料二十四の「ナミウチキワ」と記された旧汀線を比較してみると、一致することは明らかである。
 以上より、史料二十三の示す汀線及び史料二十四の「ナミウチキワ」は、現在は陸化している旧汀線であり、史料七、十七、二十四、十九、二十等の示す事実より元禄地震により隆起した汀線(元禄汀線)を示し、史料二十四のナミウチキワより海側の陸地が「元禄段丘面」である。
 史料二十三に注記のある、那古寺、鶴ケ谷八幡神社、北下台(図5・6参照)等との位置関係及び段丘地形から復元した元禄汀線を図5・6に示す。
 この元禄地震前の汀線分布は、①千葉燿胤(一九六三)が伝承等を土台にして描いた里見氏館山在城時の海岸線や塩場の分布(図7参照)、②北下台、那古寺観音堂の下まで昔は波がきていたという各書に採録されている伝承、③元禄段丘面上に新田が多く、古河新田(一七〇四)を最古として浜新田、川井新田、小原新田等(図5.6参照)が宝永期以後開発されたこと、④元禄段丘上には、元禄十六年より古い遺跡、寺社等は一つも存在しないことなどの傍証を上げることができる。
 図5・6に示した汀線は、松田・太田ら(一九七五)が館山平野について示した元禄汀線とよく一致する。
 なお、史料二十三の汀線のうち、州崎方面の描写は汀線決定の精度の面からみて不十分なため、元禄汀線の認定にこの図を使用するのはかなり困難であろう。
 千葉燿胤(一九六三)『館山城祉』日本城郭協会発行。
 松田時彦、太田陽子、安藤雅孝、米倉伸之(]九七四)「元禄関東地震(一七〇三)の地学的研究」、『関東地方の地震と地殻変動』ラティス社、一七五~二〇二頁。

●史料二十五 干潟出入之覚
(年代)正徳二年(一七一二)
(内容)土地隆起
(所有者)上真倉区有文書、館山市上真倉
(書き下し)
  (表紙)
 正徳二年(一七一二)卯之七月より北下干潟(図6参照)出入覚書 辰正月
  (本文)
   —前略—
一、絵図相手望之通書立、卯八月七日ニ御当地へ参着仕候、国元ニて申合候ハ、十日ニ江戸宿へ立合、張紙仕筈ニ申合候ニ付、十日ニ相手江戸宿飯田町長右衛門方へ参候御約束相違仕、張紙不為仕候、依之大隅守様御屋敷へ張紙難渋仕候訳御届ケ申上、十三日之御評定ニ御訴訟帳ニ附、御訴訟申上候ハ理不尽ニ源三郎知行所へ墨引なと仕候え共、先達て之御意重ク奉存、書セ候え共、私共ニハ張紙も不為仕、我か儘仕、迷惑仕候由、申上候えハ、双方共罷出、御前ニて申上候様ニと被仰付候、北条村之ものハ公事帳ニ附候ニ付、公事ニ双方罷出、絵図御披見ニ入、北条村重左衛門申上候ハ、六石台越中守知行所、此干潟砂浜六石台之砂浜と村地引揚と申上候、私共申上候ハ、重左衛門申上候通六石台ハ越中守様御知行所ニて御座候、此六石台(図6の北下台)ハ川口源三郎知行所真倉村(図6参照)より六石分ケ郷ニて御座候、地引揚ハ小あいと申所ニて入会ニ引番申候小あい此所ニ其外砂浜ハ川口源三郎知行所北下(北下台の下)と申所ニて干鰯場二て御座候、干鰯場ハ営地頭へ物成詰ニて相渡り候間、少々成共大切ニ仕候、然所ニ岩石取ニ参候ニ付、おさへ申候と申上候、
 御奉行様重左衛門方へ御尋被候ハ、此家ハ何方より建候と御尋被成候、重左衛門申上候ハ、相手之者我か儘ニ建申候と申上候、なせ我か儘ニ建させ候と御申、何年已前ニ建候と御尋被成候、重左衛門申上候ハ、去年時分と申上候、私共申上候ハ此家々ハ何年已前ニ建候て、此方干鰯場ニ紛無御座候と申上候、御奉行様被仰付候ハ、此通ニてハ難見え候まゝ、館山町並書載、勿論北条村書之参様ニと被仰付候、重左衛門難渋仕、御しかり被成候、私共難有と申上、罷立候、
一、絵図之義被仰付候通、館山町並北条村不残相認出来仕、双方絵師相手共ニ、絵図之表少も相違無御座候と銘々印形仕封判いたし、江戸宿ニて相互ニ張紙仕約束ニて罷越、北条村ハ卯九月九日之朝戌頃参着、私共卯九月十日之朝五ツ時御当地へ参着仕候、早速相手方へ権兵衛参候処ニ、御屋敷へ参留守ニて面談不仕罷帰候、十一日ニ相手宿へ参候て約束之通張紙可仕と申候えハ、尤と申絵図之封印切り、此絵図之義相違之所有之候て、此方地頭役人ニしかり得、迷惑仕候、相互ニ相談ニて、御日延御訴訟申上、絵図書直シ可申と申掛ケ候、尤ニ候間、此方ニてハ不違と存候え共、其方より違と被申掛、不埓明義ニ候間、先絵図ニ封印致候様ニと申候えハ、彼是申封印不仕候、尤と申候ても封印不仕候ニ付、其元も御屋敷御指図ニ候ハゝ、此方も屋敷へ窺、菟角絵図仕直し可申候間、それ迄大切之絵図ニ候間、此風呂敷包之上へ封印いたし候様ニと申掛候えハ、合点いたし封印仕、左候ハ、其元宿へ人添可申と申、壱人指添遣シ申候、先より参候もの方ヘハ、此方屋敷ニてハ、此出入かまい候義ニても、又ハ不構義ニも無之候、絵図之義ハ其方共立合仕候義ニ候間、了簡次第菟角百姓出入引取指図難成と被申候、然上ハ相違も無之絵図判形迄相済候上ハ、仕直シ申義難成と申、風呂敷包封印ニて取置、大隅守様御屋敷へ御訴申上候えハ長口上ニて有之候間、口上書を以御訴訟申上候様ニと被仰付候、北条村ハ絵図ニ相違有之候間、仕直シ罷出度旨申上候、私共ハ絵図之表少も相違無御座と申、判形双方絵図師相手共ニ仕候上ニ、相違と申上義難心得趣ニて罷出候えハ、大隅守様御前へ御召出シ、御意被成候ハ、相互ニ判形いたし候上ハ、仕直と申事難成候、菟角検使之間違候所ヘハ違と申張紙いたし、罷出候様ニと被仰付候、私共方へも張紙なとニ難渋いたし、とやかく度々申上候えハ、手錠などニ成可致迷惑候間、彼是申間敷旨被仰付候、私共申上候ハ、毎度より相手へ申候通、絵図ニ其所ニ無之墨なとハ不罷成、張紙ハ何分ニも仕候様ニと申候、此上相手も張紙存分、私共ニも張紙為致申様ニ被仰付被下候ハゝ、難有可奉存旨申上候えハ、双方共ニ心まゝニ張紙いたし、明十三日御評定へ罷出候様ニと被仰付候、検使之義、連判之上からハ指図ニてハ無之と之御意ニ御座候、双方共ニ罷立、大隅守様御門前ニて、是より其元へ参、張紙可仕と申候えハ、重左衛門申候ハ、此方ハ公事ニ可致も、絵図書直シ之御訴訟ニ可罷出も、心儘ニ難成候と申ニ付、左様ニ不定義ニてハ、明日之御評定無心元候問、菟角承届候て、若公事ニ不致候ハ、大隅守様へも御訴訟可申上と申候えハ、少々之間相待、後刻参様ニと申ニ付、罷帰追付北条村之もの共宿へ参、いかゝ公事ニ可致哉と承候えハ、成程張紙いたし公事ニ可罷出と申ニ付、双方より張紙いたし、九月十三日之御評定ニ罷出、絵図御披見ニ入、重左衛門申上候ハ六石台越中守殿御知行所六石下之ひかた越中守知行所地引揚と申上候、私共申上候ハ、六石台ハ真倉村分ケ郷ニて越中守様御知行所ニ御座候、ひかた之義ハ此方地頭之干鰯場ニて地震已後運上取立来申候、地引之義小あいと申所ニて入会ニ引来、地震(元禄地震)前ハ小あいより外ハ岩間ニて、地引難成、ひかたニ罷成候ても、六石台より砂浜ヘハ、所ニより壱丈より壱丈四五尺下ニて御座候、ひかた砂浜、此方干鰯場ニて、一切地引不仕候、此段ハ地引請負人ニ御尋被下候様ニと申上候、干鰯為仕運上取立候義ハ、干鰯商人ニ御尋被下候えハ、相知レ申候義ニ御座候、干鰯帳面共御披見ニ入申度と差上ケ申候、其外ケ様二北下嶋と申上候義、六石台(図6参照)ハ上須か六石台と申則越中守様御免状も是ニ御座候と申、差上ケ、此方之義ハ北下と申名所、御免状ニのり申候と申上、免状差上ケ申候、右書物共御覧無之海ハ其方之かと御尋御座候、成程高入ニて御座候と申上候、海高入ニても、名所有之哉と御尋被遊候、成程北下と申名所御免状ニ御座候と申上候、重左衛門申上候ハ、此ひかた運上金四両弐分、六石台名主ニ預ケ置申候えハ、あの方へ取候、此段ハ追て御訴訟可申上と申上候、私共申上候ハ此方ヘハ地震已後干鰯運上金取来候、大切之運上金其元へと取不申、可預ケ訳無御座候と申上候、御奉行大隅守様被仰付候ハ、検使ニ罷成間、霜月十三日ニ罷出候様ニと被仰付御帳場へ廻リ封紙被下、絵図大切ニ可仕旨ニて、包紙のり共ニ被下封候て、双方相封ニて、預リ置申候、
  —後略—
 (注)『千葉県史料近世篇安房国(上)』三八四~三九四頁より引用、長文なので、一部のみ抜粋。
  北下台(図6・7参照)の下に地震後できた干潟に関する訴訟の覚え書である。

●史料二十四 元禄十六年今度山ゆりくずれ、田畑荒帳
(年代)元禄十六年(一七〇三)
(内容)地震による被害、家屋道路等被害
(所有者、所在地)山川作一、館山市畑四九
(書き下し)
  (表紙)
 元禄十六年(一七〇三)
    今度地震ニ山ゆりくすれ
             田畑荒帳
未ノ十二月日           畑 村(現館山市畑区)
 (表紙裏)
   山崩田畑損毛
 なべくら七畝十歩内 下田弐畝十歩     訴
(本 文)
  なべくら
 下田 七畝十歩 内二畝十歩 山くミ
  同所
 下田 五畝六歩 内拾歩 山くミ
  同所
 下田 五畝拾二歩 内廿歩 山くミ
  同所
 下田 五畝拾一歩 内十五歩 山くミ
  なべくら
 下田 五畝拾一歩 内十五歩 山くミ
  同所
 下田 五畝十一歩 内五歩 山くミ
  川田
 中田 二反拾六歩 内二畝歩 山くミ
  越地原
 中田 壱反七畝廿七歩 内三歩 山くミ
  とうけ
 下田 七畝拾四歩 内一畝十五歩 山くミ
  同所
 下田 廿歩 内三歩 山くミ
  石が尾
 下田 壱畝歩 内五歩 山くミ
  むなこ
 下田 三畝拾五歩 内廿四歩 山くミ
  壱郷
 下田 壱反六畝五歩 内四畝五歩 山くミ
  へびが尾
 一下田 五畝三歩 内壱畝歩 山くミ
  さかい田
 一下田 九畝歩 内廿歩 山くミ
  まりはたけ
 下田 三畝廿部(ママ) 内二畝廿歩 山くミ
  麦久田
 下田 廿畝廿八歩 内廿歩 山くミ
  同所
 下田 壱畝四歩 内三歩 山くミ
  吉野
 上田 壱反四畝四歩 内四畝歩 山くミ
  立石
 中田 壱反弐畝廿七歩 内五歩 山くミ
  清水
 上田 三畝廿三歩 内四歩 山くミ
  怒田
 中田 弐畝十一歩 山くミ
  渡度
 下田 三畝十四歩 内一畝歩 山くミ
  ほそ尾
 中田 六畝拾歩 内廿五歩 山くミ
  ふる屋と
 中田 九畝廿四歩 内五歩山 くミ
  吉野
 上田 九畝拾八歩 内十歩 山くミ
  北沢
 下田 弐畝十二歩 内一歩 山くミ
  ほり切
 下田 五畝十歩 内三歩 山くミ
  ほり切
 中田 八畝十三歩 内長サ廿七間川へゆりわり申し候
  同所
 下田 三畝八歩 内長サ廿間川へゆりわり申し候
  むかい山
 下田 壱畝拾五歩 山くミ
  西川
 下田 拾五歩 川くミ
一、惣太郎屋敷弐畝十二歩 内壱畝歩川くミ四尺廻リの松壱本ゆりくすれ
一、勘右衛門屋敷前道 六間川へくミ申候間道とまり屋敷の内道二仕候
一、瑞龍院(図8参照)六石弐斗御朱印地内 内五畝廿八歩山くミ 同寺つふれ寺中二つニわれ申し候
一、なへくら山 高さ十五間 横十間山くミ
一、川田山 高サ五十間 横廿五間山くミ川つゝまり道とまり申し候
一、大さ川へ 高サ三十間 横廿間 川へ山くミ水つゝまり道とまり申し候
一、ほらの川道 川へくミ道とまり申し候
一、西川道 高サ十間 横廿間川へくミ道とまり申し候
一、へびが尾 高サ五十間 横百間山ゆりくずれ申し候
一、吉野山 高サ六間 横廿三間山川へくミ道とまり申し候
一、とりがふね山 高サ十五間 横廿間川へくミ道とまり申し候
一、むかい山 高サ十五間 横廿間川へくミ 川つゝまり道とまり申し候
一、大せき川水一すいも無御座候此水後迄も無御座候えは田地大分つぶれ申候口口(別而力)なわしろ場ニテ御座候
一、村中ニ水向井戸水一円無御座候
一、ひわくび山よりいゝもりつかまて九百間ほとゆりわれ申し候
一、たて(館)山へ道方々ゆりくすれゆりわれ大分御座候
  其外五間拾間の小ひわく共数百も御座候 田畑つふれの儀も其外御座候 御見衆(分脱カ)様御出之時分御案内可仕候
              房州畑村 作兵衛印
   元禄十六(一七〇三)年未ノ十二月日
     野崎文右衛門様
     柳井彦右衛門様
(注)畑村(現館山市畑区図8参照)における多数の激しい崩壊の被害報告書である。畑区は、長尾川の上流の山村で、集落、水田は長尾川沿いの侵食岩石段丘面や崖錐上に立地する。
 詳細な報告なので、小字名、伝承を精査すれば、被害の復元が可能と思われるが、未踏査のため不詳である。
 文中に、多出する山くミは「山崩」の意味。

●史料二十七 神余地蔵畑の地蔵尊碑文
 (年代)年代不詳
 (内容)地震による岩室の崩壊
 (所有者、所在地)自性院、館山市神余四の六一二。所在地は、神余地蔵畑(図8参照)
 (書き下し)
  〔地蔵尊の背に碑文あり〕
 神余村地蔵畑往古ヨリノ本尊ハ元禄十六(一七〇三)癸未十一月廿二日之夜大地震ニテ岩屋崩。木像故別当自性院ヱ奉遷。則石地蔵尊令建立畢。
 (注)史料二十六と共に、館山市畑地区の被害を示す史料である。
 碑文によると地蔵畑には木像の本尊が祭られた岩屋があったが、地震により岩屋が崩れたので、木像を自性院に移し、かわりに現在の石地蔵を建てたと解される。
 なお、『館山市史』によれば、自性院という寺は、かつて地蔵畑にあり、一四二四年堂宇建立と伝えるが、元禄地震の際倒壊したので、館山市神余四、六一二番地へ移転したという。
 自性院旧跡の位置は伝承されている位置では第三系の山稜線直下の山地斜面だったようである。

 ●史料二十八 蓮寿院津波供養碑碑文
 (年代)正徳五年(一七一五)
 (内容)津波による人命被害
 (所有者、所在地)蓮寿院、館山市相浜七二
 (書き下し)
   [正面碑文]
    南無阿弥陀仏(梵字)
     元禄十六(一七〇三)癸未十一月廿三日因津浪於当所
     死亡男女老若八十六人也
     考今年正徳乙未(一七一五)天十一月廿三日当十三回忌故
     為彼亡者此名号建石塔弔忌者也
   [左面碑文]
    房刕安房郡相浜村(現館山市相浜区)立之
   [右面碑文]
    施主 武刕江戸尾張町 浅田六兵衛
   [裏面碑文上段]
    経日遇斯光者三拓消滅及至善心生焉
    若在三塗勤苦之処見此光明皆得休息
    又云其仏本願力聞名欲往生
    皆悉致彼国自致不退転
   [裏面碑文下段]
    一切含霊 有衆両縁 及至法界 平等普益

●史料二十九 『平砂浦砂防史』
 (年代)昭和三十六年、千葉県発行
 (内容)平砂浦における士地隆起、隆起した砂浜の飛砂による砂丘の拡大
 (史料)
   『平砂浦砂防史』(昭和三六年、千葉県発行)の第二章。原文のまま引用。(未調査のため史料所在不詳—線の地名は(図9の2・3)参照。全体に伝承資料による推論が多いので注意を要する。史料十も参照のこと。

    平砂浦砂防沿革
  第一節 昭和以前の砂防(旧神戸地区本稿は区長代々引続古書による)
 元禄十六年癸未年十一月二十三日大地震あり同時に大海嘯襲来し死者老若男女八十六名を算す。陸地の大隆起あり地表に亀烈を生じ隆起は十尺余と推測せらる。(当時巴川の流域宮前橋迄舟の出入あり之により推測する)稗田浦(現平砂浦)は一面の砂原と化し飛砂激しく季節風により年々歳々農耕地を砂に埋没せられその被害極めて甚しく遠く三、○キロメートルの地点にまで飛砂の移動あり村人は飛砂防止作業に苦辛すること貮百年(現在五〇~六〇歳位の方より四代前)と伝われその労苦並々ならぬものありたり、飛砂防止の方法として海岸線に小竹を立て柵を作りて飛砂を防ぐと雖も砂丘は年々後方に移動して耕地を埋没する状態にして後方移動の砂丘は水力を利用して砂を流し風雨をいとわず言語に絶する労苦を重ね之を繰返すこと久しくその艱難辛苦は筆舌に画し難く、天保年間藤原の先覚者安西吉兵衛砂防林造成事業を計画し村人を激励し遂に安政年間二町歩余の砂防林の植栽を完成しその努力に報いられ後方の土地十三町歩の官有地払下に成功せり。
 安政二年十月二日大地震あり亦も土地の隆起により益々その被害甚しく佐野村にては毎年水田を砂に埋没せらるるあり、水路を変更してその水の利用により飛砂を流し或は松苗を植栽して造林しその効果を挙げつつありと雖もややもすれば一部不完全なる箇所を砂に埋没せらるるあり、明治の初年に至り洲宮村にて小部分の砂防施設をなす。(之施工に当り指導者の不明なるを遺憾とする)。
 明治四年犬石村戸長島田忠右衛門は当村の南を流るる巴川を堰止め水路を堀鑿し之の引水により飛砂を流してこれを防がんとし村人の協力を得て当時館山、県より若干の金額を借入れて施工せるも測量設計等に誤差あり加えて工費の莫大にして疲弊せる農村はその負担に苦しみ遂に工を中止するのやむなきに至りその目的を達するに至らざりき。
 超えて明治二十五年忠右ェ門の息島田伊勢松当時熱心なる役員の協力を得て上部水田の余水を以て飛砂を流さんとし水路を堀鑿しとんねるを穿ちて引水に成功し水路の前方に竹柵を作り後方にて飛砂を流し、毎年人力を加えて辛じて防ぐと雖もややもすれば水路を埋没せらるるおそれあり、荒地の開墾には到達せず空しく十数年を経過せり。
 明治三十五年吉兵衛の孫安西国司祖父の志を嗣ぎ寺田亀太郎等と相計り一部の砂防林を造成し荒地開墾に貢献する所多く効果を挙げたるも全面的に造成するに到らず苦難を続けたり。
 大正十年犬石区長小栗卯之助は完全なる砂防施設をなし後方の荒地を開墾せんと志し区長代理島田万吉の援けを得て県費半額補助により時の千葉県農務課県技手たる千葉源太郎の指導により砂防林の造成に着手し海岸沿いに毎年竹篝を立て砂丘を作り工事を推進せるも自然の偉力は度々施工地を破壊し言語に絶する苦労を重ねたり、村人の中には只古来より且て試みざりし移動砂丘に植林不可能なりしとその無謀を嘲笑する者多しと雖も両人の志は堅く苦心惨澹部落民を督励し五ヵ年計画の工事は遂に実を結び松の植栽等を終り字縄原四町八反九畝の官有地下開墾と共に成功し砂丘は松の緑したたる丘と化したり。
 村人は今更ながらこの事業に驚異の眼を見張り偉大なる学問の力と技術の向上に感嘆せり、小栗卯之助は忠右ェ門の妹孫にして島田万吉は忠右ェ門の外孫なり、かくして父祖三代に亘りその志を嗣ぎ砂防事業に苦心尽すいせり。(本村に於ける砂防事業はこの一事より見るも一朝にして完成するものにあらざることを痛感する。永年に亘り熱心なる人々の志を嗣ぎ亦一般の人々もよく協力し一致団結して事業に精心した賜であることを如実に物語っておる)
 大正十二年九月一日関東地方に大地震あり同時に海嘯襲来す、房総半島の南部被害特に甚し当神戸村は被害最も甚しく陸地は亦々大隆起をし実に七尺に及ぶ井戸水は枯渇し海岸線は一面の白砂地帯と化し飛砂愈々激しく茲において小栗卯之助、島田万吉の両人は新に計画を樹て字平砂浦に第一線砂防林を造成し後の巴原五町歩の荒地開墾を企図し着々準備を進めつつありしも奥沢福太郎の国有地払下予約開墾により雄図空しく破れたり、奥沢は藤原地先に住家を建設し十数名の移民を導入し開墾に着手したるも土地の事情に通ぜず且完全なる砂防施設をせず一部に黒松を植栽せるも殆んど枯死し加えて移民は除々に離散し帰郷せる者続出し実績挙がらず小部分の開墾をせるのみにて一の利権屋に過ぎざる感あり。(奥沢は昭和十一年着手し昭和十五年に海軍用地に買収せらる)。
 大正の頃藤原人井月亀吉は砂防事業に熱心にして飛砂を防ぐには植林にあるとなし諸所の海岸を視察し適性樹木を選びて植栽し或はすぎ等を植えて砂防事業に尽力せるも他の協力を求めず個人の力では及ぼずその苦心も効果を挙げるに至らざりしもその犠牲的精神とたゆまざる努力は推奨するに余りあり。
 藤原部落(井月亀吉老七七歳より聞きとりによる)
村人達は昔より伝えられる。
 ご詠歌「老いの身に苦しき砂の藤原や、遠き歩みを後の世の為」。
 この部落にも確たる記録なく当時の代官並に戸長の子孫もなく部落四老人の記憶を綴るものとする。
 明治四年の頃安政四年生れの(一〇二年前)母より良くきかされたのであるが想像するに今の砂防植栽地の大砂丘附近は海中にして之より上方(部落寄)約四〇〇米位の地点に東は佐野部落に又西は洲宮部落に連る大砂丘あり高さを測定するになかなか良案なく若者達により長竹を何本もつなぎ高さを測つたとの事で当時六尺棒十五位あつたとの事で之の大砂丘の為耕地に対する被害は実にひどく村人達は日夜その砂を除くのに並大低の苦労ではなかつたとの事、村人幾度か評議を開いたが良案なく又之を放置しておけば田畑は勿論自分達の家まで砂に埋もれるは明かの為、時の人安西徳兵エ、寺田安蔵の両氏村人と議評の結果砂を流すこととなりたるも良案なく之の時村人の一人(氏名不詳)の発案にて竹籠を編み筒にして流れを利用し砂を流すことに決定し早速大籠を作り之を段々埋めて隧道を作りたるも村人達は籠の中を水が流れるか否かに不審を抱き評議中の処に田辺主城(後の戸長)少年(十三歳)来りて籠の中を通つて見るとの事で村人達の止めるもきかず籠に入り無事に抜けて出て来たので村人達も之に力を得て砂流しを続け事業の見透しもつき砂流しは引続き行われ明治三十九年に工事を終り之の後引続いて整理に着手し同四十三年全く竣功し造成田畑四町七反五畝歩を完成せりと然るに大正五—六年頃より飛砂甚しく又々埋没し始め耕地は年々減つて行つた。
 大正十二年の大地震以後雨で砂流し事業初まり功中ばにして軍の買上となり以来苦心の結晶たる耕地も荒廃の一途を辿りつつありたり。
 布 沼 部 落
 元禄十六年の大地震による隆起により土地の形相一変し享保年間建立せられたる弁天様も陸続となりたる有様にて砂浜広がり之が為耕地は年々狭められつつあり、天保年間時の人細田新左エ門吉沢八エ門相計りて村人を督励し竹笹を立て年々砂止事業を実施したり。安政年間に入り又々大地震襲来し隆起と共に益々砂の被害増大し村人の困窮益々度を加えつつあり細田、吉沢の両氏の苦労は村人の説得に日夜苦心せり、村人も両氏の熱意に協力し西原新田に約十町歩程度の開墾完成し同地を官より払下げを受け部落の為大なる功績をあげたり。
 明治四年布沼村戸長菊井金平時代再び細田新左エ門、吉沢八エ門両氏田作りを決意し西原川の流れを利用し砂流しを初め村人も之に協力して数年の後三町の耕地を造成せり。
 明治二十五年早川鍋五郎区長となり砂止めの工事を起し村人に計りて毎年一戸当竹笹六〇束—一二〇束程度を各戸の能力に応じ供出せしめ耕地周囲に砂止柵を作りたりと云われ砂に対しての恐怖は常に村人の脳中より忘れ去られた事がないと云われていた。
 大正十二年の大地震には又々大隆起あり村人の記憶では一丈余は隆起せるものと推定せられ為に砂浜よりの飛砂は一層激しくなり砂止めの仕事は年二回行事として行われるようになりたるも耕地は遂次埋没せられ年々後退していつた。
 昭和十五年村人の苦心せる地積も軍の買上げとなり演習場と化したる次第なり。
 洲 宮 部 落
 布沼部落に隣接する部落にして之の地積も他部落と同様砂の為永年苦労せしことは同様であるも之についての記録殆んどなく特記すべき事項発見されざるも一部古文書綴り合せ漸く苦心の片りんを発見せり。
 之によると今よりおよそ二百年前飯田九平(現義男八代目)と云う人あり砂防、砂流しに村人より当時狂人とまで云われた程で砂流しに十年辛苦若き一生を捧げられたと云われている。当時十三人組と称して村人を督励し砂防、砂流しを専心実行し他の村人からはとても成功しないと笑草にされたるも遂次事業は成功せる為村人も事業の進渉に驚き且つ感心し同調を申出づるもの多く村人殆んど加入し遂に二十九人組となり二町三反余の耕地を完成せり。之の後安政大正の大地震による隆起あり耕地の被害日々に加わり村人は日夜砂流しに没頭せり。
 昭和十五年他部落と同様軍用地となり終戦迄五年之の間殆んど何等砂防に対する施設をなさなかつた為耕地は殆んど埋没せられ今回の砂防開始後遂次耕地に復旧しつつあり。

  (注)平砂浦の砂丘形成について、
 前掲の『平砂浦砂防史』に元禄地震によって隆起した広大な砂浜を給源とする砂丘が成長したと述べられているが、平砂浦の巴川より西部では元禄汀線上には巨大な砂丘が成長し旧汀線地形を覆い隠している(図9参照)。
 この砂丘は元禄以後年々拡大をつづけ陸軍による明治十六年測量の2万分の一地形図「柏崎」によれば、図9に示した範囲を覆っていた。(現在は戦後行なわれた植林事業で砂丘は林地及び耕地となっている)。平砂浦の内陸、図9の4では、これら新しい砂丘砂に覆われた波食台地形があり、波食面上の埋没黒色腐植土より土師器を産する。(……森谷ひろみ(一九七二)「安房国式内社に関する歴史地理学的研究—第五報后神天比理乃咩命神社について—」、『千葉大学教養部研究報告A—1号』六一~一二五頁。
 隆起については、史料十の犬石、大神宮、藤原村の名主書き上げを参照。また、今村明恒(一九二五)の示した元禄汀線も、平砂浦南部を対象地域としている。

 ●館山市の史料補足
 前掲以外の史料・伝承は次の通り。
  (a)津波について、
 ●金台寺の津波供養塔
 金台寺(館山市北条一、〇四二)(図6参照)に津波供養碑と伝えられる石塔がある。碑文年代は寛文二年(一六六二)。津波の供養塔とする証拠は斉藤夏之助著『安房志』に採録された伝承によるのみで、津波供養塔であるかどうかは不明である(『館山市史』七九二~七九三頁参照)。
 ●三福寺(図6参照、史料21参照)にて仏像三体流失、堂宇流失。明治期の由緒書による。
 この資料が、事実とすると、館山平野における津波の陸上遡上位置を示す唯一の例となる。しかし、史料二十一に示すごとく、三福寺流失の事実はなく、後世の火災による寺の古記録の焼失を誤り伝承した可能性が強い。
 ●館山市北条六軒町のサイカチの木に数人の人が登り、難をさけた(図6参照)という。
 この伝承は、関東大震災のさい、津波が来るといって登った人があることからの伝承の変形の可能性が強い。
 史料十五、十六、二十一等から建造物被害の内、流失がなく、またその建造物の位置から津波の陸地への侵入は小規模であったろうと考えられる。
 以上の二つの伝承を用いた羽鳥(一九七六)の館山に於ける津波浸水域、津波の波高は過大であろうと思われる。
  *羽鳥徳太郎(一九七六)(「南房総における元禄16年(一七〇三年)津波の供養碑」、『地震研彙報51巻2号』、六三~八一頁参照)
  (b)隆起について、
  ●旧根岸家(八幡村名主)文書(所有者、市川市、加島安太郎氏)の要約が『館山市史』二九五頁にある。
「(元禄十六年の)地震の結果……中略……八幡村(注、図9参照)では、東西二十六間、南北五十三間、総坪数千三百七十八坪という干潟地ができる有様であった。この土地は、悪地であったため屋敷地などに使われた。」
 この要約によると干潟地(陸地)の増加分が東西二十六間と非常に小さくなる。この要約のもとの古文書を大分探したが、残念なことに破損して失われてしまっているらしく発見できなかった。他の史料よりみて、この要約の数値には疑問が強い。
  ●承応三年の古絵図(相浜~平砂浦)
 今村明恒(一九二五)(「房総半島に於ける土地の隆起」、『震災予防調査会報告百号乙』)、に引用された有名な古絵図であるが、これまた、所在不明になってしまった。
  (C)その他、
  ●宝珠院古記
   「元禄十六年癸未十一月二十三日、関東諸国地震ひ海鳴る、安房又甚だし、堂塔民家一時に転倒す『増訂大日本地震資料』六二頁)
 宝珠院は、三芳村府中にある真言宗の古刹である。この文書は、宝珠院ではみつからなかったが、伝来の「宝珠院列祖伝」に、上記文書と同趣旨の文章があり、また、「過去帳」に、宝珠院住職二十五世錂亮法師「元禄十六年十一月廿三日寂」とあり、宝珠院も破損したのかもしれない。

  〔白浜町〕
 白浜、千倉、丸山、和田、鴨川等の外房地域では、元禄地震によって生じたであろう、地変、津波被害に対して、現在のところ、甚だ少量の記録しか発見されていない。一つには、古文書一般の調査がまだ不十分なためとも思われるので、今後の調査に期待したい。特に、白浜、千倉両町の元禄汀線を歴史資料の上で確定することが必要であろう。
 白浜町では、現在のところ、白浜灯台のある、野島岬が、元禄地震により陸続きとなったという伝承が残されているのみである。

  〔千倉町〕
 ●史料三十、相渡申海境證文の事
 (年代)元禄十七年(一七〇四)
 (内容)土地隆起
 (所有者、所在地)(管理人)山口勝治、千倉町平磯七一一
 (書き下し)
  相度申海境證文之事
一、去未(一七〇三)霜月十二日夜大地震以後海上潮早(旱)ニ付、平磯千田海境先規之場所へ両村立合ニて相改候所に両郷兼て覚置候境相違仕、既ニ論所と罷成、内々ニて難遂吟味、不及是悲(非)ニ、両御役所様方迄申上候所ニ、組合之村々川口(現千倉町)、忽戸、平館、南朝夷、北朝夷、右五ケ村名主組頭衆御取扱可被下由ニて両御役所様方より被申下彼御扱之衆中、海境御見分被成候え共、双方存寄各別相違仕由ニて、何れとも御了簡御極難被ノ成、然上ニハ計之松両村覚相違仕候、以其中分達て御扱被成候ニ付、無據任其意、則御扱之衆中御立合ニて、境之分木陸ニ壱本、夫より八拾間行黒嶋分木目壱ツ(注二十八をみよ)、又弐拾六間行潮早(旱)之場所ニ分木壱本、是より湊際ニ分木壱本、右三本之分木ニて、湊沖ノ嶋波打際ニ大穴壱ツ、是ヲ目当テ海上大灘迄見渡シ、千田、平磯海境と相立テ、潮早(旱)ノ場所ハ猶更水底根続去ニ見当次第と永々相極置候上ハ、海上何ニても、向後出入ケ間敷儀仕出シ申間鋪候、為其御扱之衆中以連判証文、相互ニ取引相済申候、為後日一札仍如件、
  元禄拾七甲申年
    三月十一日
 平 磯 村
   團   六殿
   七郎右衛門殿
   安右衛門殿
   徳右衛門殿
 千 田 村
  名主 平次左衛門印
  組頭 清右衛門印
   同 九郎左衛門印
 惣百性代 七右衛門印
 扱人南朝夷村
     庄 兵 衛印
     金右衛門印
 北 朝 夷 村
     勘 解 由印
     庄左衛門印
 平 館 村
     喜左衛門印
     権 之 助印
 忽 戸 村
     善左衛門印
     源   助印
 川 口 村
     小 兵 衛印
     清右衛門印
 (注)引用、『千葉県史料近世篇 安房国(下)』(三八八~三九〇頁)による。
  地震により千田(千倉町千田)、平磯(千倉町平磯)両村地先の海岸が隆起し、広く陸化したため両村の海境を再確認した証文である。文中の分木(杭)、黒嶋(豊嶋(としま)か)、波打際に大穴のある湊沖ノ嶋等については、その所在地点を調査したが確認できなかった。但し「渡嶋(としま)」という岩礁は現在の千田・平磯の海境にあり、文中の豊嶋は現在の渡嶋であろう。

 ●千倉町の史料・補足
 千倉町沿岸では、松田、太田ら(一九七四)の元禄汀線について歴史史料から検討すると元禄地震前の絵図が未発見であり、歴史史料からだけでは元禄汀線の位置は厳密には決定できない。
 しかし、元禄地震の隆起に伴うと思われる船着場の変化や、集落の形成等のいい伝え資料があり、千倉町川口地区では松田・太田らの元禄段丘上に新畑の開発が行なわれている等の傍証は多い。なお『大日本地震史料』には慶長六年の地震により「三十町余干潟となる」(『房総治乱記』)という記事があるが、隆起の存在を示す歴史資料はみつからなかった。その他、元禄津波による被害の伝承としては、千倉町寺庭にあった円蔵院が津波で破損し、現在地に移転したといわれる。

  〔丸山町・和田町〕
 ●史料三十一、房州沓見村大地震ニ付破損ノ品々
 (年代)元禄十六年(一七〇三)
 (内容)地震にまる家屋、田畑、溜池、牛馬被害、津波被害
 (所有者、所在地)行縄 寛、丸山町沓見一、一三八
 (書き下し)
  房州沓見村(現丸山町沓見区)大地震ニ付破損ノ品々
一、堂社合 八ケ所 但大神宮 八幡宮 山王堂 釈迦堂 彌陀堂 薬師堂 観音堂 虚空蔵堂
一、家数合 六十八軒 内 藤兵衛家一軒別儀無御座候 其外六十七軒ハツブレ申候
一、御蔵 ツブレ申候ニ付小屋懸仕昼夜共番人置申候
一、馬十九疋 内七疋死申候
一、牛二十五疋 内八疋死申候
一、田方之内 一町八反五畝余 当荒
一、畑方之内 二町七畝余 当荒
一、池数合 六ケ所 堤ワレ申候
一、納米 二十一俵二斗三升二合 御蔵ニ有
一、浜出シ置候薪五六束程帰リ申候由船主方ヨリ申来候
一、百姓中之諸道具不残損申候
 右ハ十一月二十二日ノ夜大地震ニ付破損仕リ候御見分奉願候処ニ早速御両人御越被成下我々モ立合村中御吟味之上如斯御座候以上
  元禄十六年(一七〇三)未極月十一日
                                         沓見村名主 権右衛門
                                            年寄 吉右衛門
                                            同  惣兵衛
                                            同  小兵衛
    六嶋与兵衛殿
    田山織右衛門殿
 (注)この文書は丸山町行縄寛家に伝わってかたものであるが、原文書は最近焼失して存在しない。しかし明治末~大正初期に書かれた著者不明の『豊田村誌』(豊田村は現丸山町の一部)が同家に保存されており、その文中二二二頁に引用されていたものである。『豊田村誌』の当該部分は以下の通りである。
 「▲元禄ノ地震 元禄十六年ノ地震ハ意外ノ災厄ニシテ沓見村三給ノ一タル上組ノミニテモ其損害ノ少ナカラザルコト次ノ如シ 全村ノ損害推シテ知シベキノミ 今本村沓見行縄鎌太郎所蔵ノ古文書原文ノ儘ヲ左ニ掲グ、—以下前掲文書—、案ズルニ六嶋岡山ノ両人ハ領主能勢日向守内ノ人ニシテ災害後二十日ニ江戸ヨリ出張シタルナルベシ 書中薪五六束帰リ由候ノ帰リハ覆ヘリノ意ナラン、」
 沓見村は丸山川右岸の沖積平野と第三系の丘陵とよりなる内陸の村である。集落は厚い沖積層上に立地し、関東大地震の際も大被害を受けた。
 文中の堂社の内、「大神宮」は沓見莫越山神社、『弥陀堂」は真勝寺、「観音堂」は円鏡寺、「虚空蔵堂」は慈眼寺ではないかと思われる。「浜方ニ置候薪……」は津波による被害を示すと思われる。

 ●史料三十二、浅間社句碑碑文
 (年代)明治二十八年(一八九五)
 (内容)崩壊による家屋人命被害
 (所在地)和田町白渚、旧道分岐点
 (書き下し)
  浅間社句碑碑文
 (石碑表面、歌)
  浅間山神のくしひに生るひと家のさかえはつくる世口口口   清  隆
  こころあるひとはあはなむ千代かけて浅間の神の高きめぐみを 七平 秋水
 (裏面)
 元禄十六稔癸未十一月廿三日夜過半時有強震本村
 西白渚浅間山崩壊自南方亘西方其面積八町余歩 埋滅戸数五点
 人員廿八身今尚唱峯台是也、東白渚中塚又罹災埋没家数四戸人員廿余体
 距今實百九十三年也聊録而為後証
  明治二十八年十二月
    加藤七平識     (以下に寄進者名あり、略す)
(注) 隆起海岸段丘上に立地する白渚(しらすか)部落の背後の海食崖起源の急斜面二ケ所に発生した崩壊の記録である。位
置図10参照。「峯台」の崩壊位置は未確認である。
 史料三十五に述べられている西白須賀村の崩壊(山の名は不二山になっている)と、被害者が同じなので、同一の崩壊を示しているのであろう。

●史料三十三 東堂大地震津波供養碑碑文
(年代)元禄十六年
(内容)死亡者供養碑
(所在地)和田町白渚東堂
(書き下し)
 梵字
元禄十六未天
大地震津波聖霊
十一月廿三日
覚泡信士
覚妙信女
妙霜信女
岩清信女
香達信女
香意童子
香木童女
覚円信士
施主 白渚村 三重艮
(注)東堂(図10参照)の堂前にある供養碑で、8名の死亡者を記す。この碑に向い合って、史料の八名を含む三十七名の供養碑《天保十五年建立。羽鳥(一九七六)に「津波碑」と記されている》がある。これは碑文に「元禄十六年未年より」とあるので、元禄十六年以降天保十五年までの死亡者の供養碑ですべてが津波による死者ではない。なお、真浦威徳院の「過去帳」(元禄後のもの)の余白にも、この八名の死者の戒名が書かれていた。
 なお、東堂の近くの「安遊堂」(図10参照)にも、供養碑(明治三十一年)がある。

  ●史料三十四 威徳院津波到達地点碑
  (年代)年代不詳
  (内容)津波到達地点を示す(伝承)
  (所有者、所在地)威徳院、根本日清、和田町真浦一三七
  (書き下し)
   元禄十六未十一月廿二日夜
   口口口津波口口口口
 「碑に関する伝承」、この碑文の彫り込んである石段の上から3段目まで津波が達したという。また、矢部鴨北著『千葉県郷土志』(一九二九年発行)の五八頁に「……『石階に銘していふ元禄十六年十一月廿二日夜(以下磨滅不詳)』とあるこれ当時の震災にして海嘯の此処まで来りしを記念すべく刻せるもの……」と記している。
 (注)威徳院の位置は(図10参照)。この史料を用いた津波の波高復元については羽鳥(一九七六)を参照されたい。

  ●史料三十五、威徳院津波地震供養碑
  (年代)天保二年(一八三一)
  (内容)津波、崩壊による人命被害
  (所在地)史料三十四に同じ
  (書き下し)
   (石塔部分の碑文)
    [正 面]
      伝聞昔慶長八癸卯(一六〇三)十一月廿三日応天赦之日所津波騒動其後一百年而元禄十六(一七〇三)年癸未十一月廿三日亦天赦之日也夜半過大地震而津波至当山階下村(現和田町真浦区)中溺死八十余人西白
    [左側面]
      須賀不二(現白渚区)山東表自山八分崩落人家宇人数廿八人也其地今之地蔵堂辺也右為諸聖霊同證讃仏果雖石塔一基立之
     歳月綿■石碑傾■正而爰今歳五十遠回故重興厥廃而令供養者也
       宝暦二壬申(一七五二)年十一月廿三日
    [裏 面]
     天元禄之後宝暦二年雖再建積歳月而既及磨滅依而亦復造立之則是右為聖霊並水陸横死之諸霊魂乃至一切聖霊成三菩提也旦写古碑而為令知後生記之童男童女勿生疑而己
    [右側面] (梵字)
      天保二辛卯(一八三一)年七月二十一日
   (墓座の碑文)
    [正 面]
     名主 平右衛門
     組頭 市兵衛
     同  半右衛門
     石工 四郎兵衛
    当住 廿一世法印口口
   [裏 面]
    速證信士
    海印信士
   [右側面]
    村中(横書き)
 (注)威徳院附近の村(真浦村か)、の津波による死者八十余人、史料三十四にも記されている崩壊による死者二十八名と述べている石碑である。

 ●丸山町、和田町の史料、補足
 丸山町、和田町の被害については調査不十分であるが多くの資料が眠っていると思われる。土地の隆起については、五の文書に丸山川河口の海発等について述べられている。松田、太田ら(一九七四)は、海発付近で元禄汀線を五・三八メートルと見積り最大級の隆起量をあたえているが、そのような大きな隆起があった場合十の文書の性格上、当然記載されるべきであるが、文書十には大規模な汀線後退に関連する事象は記載されていない。
 また新田開発等の隆起に伴ういい伝え等も確認できなかった。『大日本地震史料』にも「千倉ト申ス浦辺より、平郡安房郡浦方……甘露叢」と大きな隆起地域の分布を限定し、丸山川下流より北部での隆起の有無に触れていない。以上より、松田らの元禄汀線高度の値は、当該地域については歴史資料からは過大の可能性もある。
 津波被害については、採録した史料の他に矢部鴨北著『千葉県郷土志』五八頁によれば「和田町竜ケ崎の岬上に京塚碑あり。明治廿九年道路工事の際人骨累々其数を知らず慶長元禄の震災に圧死若しくは溺死者を一部人が埋葬せるもの当時此和田村民全滅のさま判然たるものありおもふに此都人といふは此地取引の漁商なるべく現在の石碑は工事発見の際改めて建立せしもの其当時の惨禍思うべきである……」とある。この石碑については未調査である。

   〔鴨川市〕
 ●史料三十六、堀田文左衛門他二名書状、平野吉兵衛宛
 (年代)元禄十六年(一七〇三)
 (内容)津波による家屋、人命被害
 (所有者、所在地)平野仁右衛門 鴨川市太海浜四四五
 去ル廿六日(元禄十六年十二月二十六日)の飛脚今廿九日昼時分参、急書状被見申候、然は去ル廿三日の明方其元大地震高浪ニて波太前原(現鴨川市波太・前原)家財不残浪ニ取ラレ被申候由、驚入存候。殊ニ前原ニテハ仁右衛門(平野仁右衛門)御手前子家来(平野吉兵衛子供)已上十人(以上)相果被申候由笑止千万ニ存候、則申上候処無便ニ被思召候、嶋(仁右衛門島)ニテハ無何事山へ退被申候由、飛脚の者委細申聞を此上の仕合存候、波太の儀、無心元左右承度存候所、入念飛脚の差越し勝浦へも申遣、加藤伴右衛門其元へ参致見分之所ニ被仰付候間、定て今程改可申と存候。
一、此度津浪ニ家財流候由御聞無便ニ思召依之米十俵被下候間有難頂戴可被申候、代官は右之通此度申遣し候間、此書状早々相届、右米受取可被申候、取込候間早々申入候、委細飛脚の者口上ニ可申候、恐々謹言
 十一月廿九日
                                     堀田文左衛門(花押)
                                     小野寺友右衛門(花押)
                                     堀十郎左右衛門(花押)
  平野吉兵衛殿
(この手紙は巻物になっている、その注記以下の通り)
 「元禄十六年十一月廿三日大津浪に付幕府よりの見舞状なり御上ハ徳川綱吉公也、吉兵衛とハ当主仁右衛門の弟なり、後襲名して仁右衛門となる」
 (注)鴨川市波太の仁右衛門島の島主、平野仁右衛門の弟、吉兵衛宛の幕府役人の書状である。津波により、波太、前原(現鴨川市波太浜の一部、前原、図11参照)の家屋が残らず流失し、特に前原にて仁右衛門、吉兵衛の子(史料三十七によれば二名)、仁右衛門の家来等計十名が死亡し、仁右衛門島(文中の「嶋」)では、住民は島の高所に避難したが、仁右衛門の家は流失したことがわかる。
 平野仁右衛門氏によれば、死亡した仁右衛門は当日十夜講に参加するため前原の親戚の家(図11参照)に行き、遭難したという。また現在の仁右衛門家の家財には、津波で破壊した旧宅の材木が使用されているといい、旧宅の跡地も残っている。
 津波の浸水高度については、羽鳥(一九七六)を参照のこと。

 ●史料三十七、仁右衛門島弁財天津波犠牲者供養塔および地蔵尊
 (年代)元禄十六年(一七〇三)
 (内容)津波による人命被害
 (所有者、所在地)平野仁右衛門 鴨川市太海浜四四五(仁右衛門島)
 (書き下し)
  「供養塔」
    (表 面)
        元禄十六年癸未
       妙法清流院日浄霊
   「  十一月廿三日  」
  (右側面)
     [ 妙 玄 童 女 ]
  (左側面)
     [ 露 幻 童 子 ]
 「地蔵尊」
     [銘] 露 幻
        妙 玄
 (注)仁右衛門島の弁財天(図11参照)にある墓碑で史料三十六に示す、平野家の津波による死者、三名の墓である。平野仁右衛門氏所蔵の過去帳にもこの三名の記載がある。

  ●史料三十八、日枝神社津波避難丘および墓碑
  (年代)不詳
  (内容)津波の避難丘
  (所有者)鴨川市前原区、鴨川市前原一七六
   [日枝神社津波避難丘](位置図11参照)
 前原地区が立地する鴨川平野南部の砂堆上にある。ほぼ円形の平面形をもち、断面概略は図のごとくである。伝承によれば、「慶長津波で前原浦は大被害を受けたので、盛土して塚を作った。元禄津波来襲時には、この塚に逃げのぼったものは助かったが、他のものは水死した。元禄津波後、次の津波に備えてさらに盛土をした。最近まで多数の元禄津波の犠牲者の墓碑が塚の回りに立っていたが、石垣に使われたり、持ち去られたりして数が少なくなってしまった」(前原区相木吉之助氏談)という。踏査してみると、地表面は盛土よりなる塚で下段の石垣は周囲の道路を限るため最近築造されたものらしく、上段の石垣は、比較的古い築造になるものである。
 元禄津波犠牲者墓碑は五点発見したが、二点が下段の石垣の石に使用されていた。他に元禄四年、元禄十三年の墓碑が各一点つつ、磨耗のため年代不詳のものが二、三点ある。元禄地震前の墓碑があることから、塚の作成時期は伝承通り元禄地震前にさかのぼるであろう。また元禄津波犠牲者の墓が全体の半数を占め、それ以後の墓がないことや、附近に類似する高地はなく、わざわざ盛土を行ない、上部を石垣で固める等の工事がなされている事など単なる墓地ではなく、伝承の通り津波避難所として建設されたものであろう。
   [墓碑]①~③は塚の西側斜面にあり、④・⑤は南側の下段石垣用材に使用されている。
 (注)羽鳥(一九七六)の写真(16)の最下段の墓碑が①に、最上段の二つが②・③にあたる。写真の中段のものは元禄四年の墓碑。
 前原浦の津波被害については、前掲史料三十六の外に、史料四十七に、
 「房州前原浦一村にて 家居も千軒余り家不残打流し、人も千三百人余死亡申候」とある。

●史料三十九の一、房州長狭郡横須賀村之内前原と同郡泉村山論之事 許裁状裏絵図
(年代)元禄三年(一六九〇)
(内容)元禄地震前鴨川平野南部の絵図
(所有者、所在地)前原区、保管者相木吉之助 鴨川市前原一九三

 ●史料三十九の二、安房国横須賀村と同国磯村と網引場論之事 裏絵図
 (年代)明暦元年(一六五五)
 (内容)三十九の一に同じ
 (所有者、所在地)三十九の一に同じ
 (注) 三十九の一、三十九の二ともに元禄地震前の鴨川平野南部の絵図である。史料三十九の一には、加茂川、待崎川河口部、現鴨川市前原附近の道路、及び池、訪諏神社(図11参照)が記入されている。
 現在それらの所在は現地で確認できるが、旧汀線は不明瞭で、かつ図の縮尺も正確とはいえないため、元禄地震前汀線の位置決定はかなり困難のようである。但し、当時の汀線と現在の汀線との平面的な差は小さく、隆起量は大きくなかったことは確実である。

 ●史料四十、房州嶺岡山野馬立場見分帳
 (年代)享保六年(一七二一)
 (内容)崩壊による馬の死亡
 (所有者、所在地)千葉県立中央図書館(郷土資料 No.6491)
 (書き下し)
    覚
一、峯岡山御野馬数の儀、元禄十六未ノ年百拾五疋御座候、処ニ同年大地震の節岩崩落懸り数多損シ申候、其節御代官樋口又兵衛様え委細御訴申上其上狼発向仕年々当歳(幼馬)老馬被喰申候、此段も御支配の御代官様え委細申上候
   —中略—
   享保六年巳ノ十二月
                                       安房国平郡山田村牧士
                                         名主 与右衛門印
                                       平久里中村牧士
                                         名主 忠 兵 衛印
                                       荒川村牧士
                                         名主 利右衛門印
                                       吉井村牧士
                                         名主 久 兵 衛印
  綿貫藤右衛門殿
 (注)鴨川市、丸山町、富山町にまたがる嶺岡山系にあった、幕府の軍馬生産用の牧場(嶺岡牧)に関する記録の一つである。
 この「覚」は、表題の「野馬立場見分帳」中の諸文書の一つで、見分帳は当時衰微していた嶺岡牧を再興するため、調査、企画のために派遣された幕府役人の綿貫藤右衛門の報告書である。
 この覚書は、嶺岡牧の牧士四名が、嶺岡牧の馬(放牧していたので、野馬といっている)が減少した理由を述べたもので、主意は、狼の害により減少が甚だしいので鉄砲を借り、狼を駆除しなければ野馬の増加は望めない旨を述べているが、文中元禄地震により岩が崩れて多くの馬が死亡した旨も述べている。嶺岡牧の被害、および代官樋口又兵衛管下の馬の死亡については、『増訂大日本地震資料』に「甘露叢」によるとして以下の史料が採録されている。
一、房州御領 御代官樋口又兵衛
  長狭郡平塚村(鴨川市平塚)ノ内、大山ト申不動山、御朱印地 地震ニテ不動堂ノ西ノ方□五六尺程ユリ割、杉ノ立木ユリ込候由。
  峯岡山ト申ス野馬場、長三里余、峯ツヅキノ所、峯ノ内所々、ロ三四尺或五六尺ヅツ、ユリワルノ由。朝夷郡千倉ト申ス浦辺ヨリ、平郡安房郡浦方、地震津浪以後、潮差引無之、常々潮差引所ヨリハ九町、或ハ半里一里ホドモ、ヒ潟ニナリ、当分潮サシ不申候由。
 右ノ外民屋破損、人并牛馬ノ死亡有之由、細ニ知レズ。
一、安房・上総御領、地震并津浪ニテ損亡ノ分。
      御代官 清野与右衛門
          比企長左衛門
          樋口又兵衛
          雨宮勘兵衛
          河原清兵衛
    家数   二千八百四十四軒
    男女死亡 四百六十五人
    殞馬   六十四疋
    船    三百六十一艘
      以 上
 「甘露叢」の記事からは、大山不動および嶺岡山の地割れは、地震動がきっかけとなって、嶺岡山系に多い地滑りが活動したことを示すと思われるが、覚の通り、放牧されている自然状態の馬が多数死亡するというのは、大規模な急激な地変を暗示しているようである。

 ●鴨川市の史料補足
 今回採録した資料以外に、多くの伝承があり、地元の久根崎周太郎氏により採録されている。久根崎氏の結果を含めて羽鳥(一九七六)が当地域の津波被害を述べている。
   *久根崎周太郎(一九七〇~七五)「漁民の移動」『鴨川(十二~十七号〉』鴨川図書館発行。
 また、前原浦の津波被害については、史料四十九の一宮町東浪見、牧野春江氏所蔵の「児安惣次左衛門萬覚書」(享保四年)に記録があり以下の通りである。
   —(前略)—房州前原浦一村にて、家居も千軒余りの家不残打流し、人も千三百人余死亡申候。牛馬も死失大分に有之候。—(後略)—
 なお、『増訂大日本地震史料』には、安房国関係の次の史料が採録されている。
① 「甘露叢」
 一、京極対馬守領分、房州長狭郡、朝夷郡内二千石ノ内十一ケ村、地震并津浪ニテ
   死亡 四十二人 内二十八人、浪ニトラレ。
   死馬 二十七疋
   潰家 六百八十七軒
   高  百四十石余 永荒
       以 上
② 『元禄宝永珍話』抜粋(元禄十六年未年十一月廿二日の項)
   —(前略)—八つ時過津波ありて安房上総の人馬多く死す、—(中略)—死亡のもの—房総一万人—(後略)
  一、十一月廿二日夜、安房国酒井隼人領分、夥(おびただしく)敷地震に付、浜続方は津波にて、家損失怪我仕候。山崩れ田畑損亡有之由。
一、松平弾正在所上総国大多喜領にて、民家多損候由。
〔天津小湊町の史料〕

●史料四十一、房州長狭郡内浦之内市川村と小湊村諍論之事 裁許状裏絵図
 (注)元禄地震前の誕生寺、市川村附近の海岸絵図である。
 この地域の津波被害については、『増訂大日本地震史料』の『安房郡誌』の項に「誕生寺明応七年八月二十三日地震海嘯のため土地陥没精舎も亦尽く没す。朱印も共に失ふ。乃ち之を妙の浦の岡に移す。……中略……元禄十六年十一月二十三日再び海嘯の災害に罹り現地に転ぜり」とあるが、絵図から誕生寺堂宇は元禄津波前に現在の位置にあったことがわかる。故に元禄津波で被害を受けた誕生寺寺域は、ほぼ現在の所在地に一致するものと考えられる。津波波高については羽鳥(一九七六)を参照されたい。
 なお、この絵図を再調査し、『安房郡誌』の誤まりを証明した論考が、萩原尊礼編著(一九八二)『古地震—歴史資料と活断層からさぐる』(東京大学出版会、五一~五五頁に、山本武夫氏による「二次史料でも有効なもの」の章にある)。
 さらに、誕生寺に、宝永元年の供養曼茶羅が保存され、元禄地震津波による死没者数がわかるとのことである。
 なお、『増訂大日本地震史料』の「甘露叢」の項に、次の記事がある。
 一、房州小湊誕生寺大地震、殊ニ大浪ニテ小湊村在家二百七十軒程市川村在家三百軒程
右之通相見ヘズ。門前ノ人、百人程死亡、相残人(あいのこるひと)モ渇命ニ及ビ候。寺中六坊浪ニ取ラル。末寺妙蓮寺ハ、堂、客殿計(ばかり)相残。其外ハ皆不見候

 ●史料四十ニ、先祖六右衛門より申伝事
 (年代)文政八年(一八二五)
 (内容)津波被害、その後の海岸侵食
 (所有者、所在地)善覚寺、天津小湊町天津一、五六八
 (書き下し)
  先祖六右衛門より申伝事
 —(前略)— 明暦元年右七人者共御呼出シニテ二間浦干イワシ場七人者共へ下シ被置御墨付迄頂戴仕御褒美書其上七人者共五節句御見舞仰付ニテ麻上下ニテ東条御屋敷表御玄関ニテ御礼相済夫ヨリ御次へ相廻リ御奉行様ヨリ御酒被下其比御免ニテ唐木綿三幅ニテ西宮干鰯中間ト書大文字ニ書二間浦一番ノ下へ立テ五月晦日ヨリ六月七日迄龍神祭リト申仲間内寄諸人へ神酒ヲススメ年久敷相続右大ノボリハ小西市郎右衛門方へ預ケ置候得共御墨付ハ大切ノ品ユへ辰庄兵衛方へ預ケ置候処元禄十六(一七〇三)年十一月廿三日大津浪為ニ庄兵衛家蔵家財不残流サレ右御墨付モ其節流失仕候急 モ早足東条(現鴨川市東条)御屋敷迄申上候処御奉行後日ニ願可出由仰被下候処何レノ 合御座候哉西郷様御屋敷御取払ニ相成甚残多存候西郷様御繁昌内二間谷龍尾ニ住居致シ候百姓衆本場上通芝原ノ処居屋敷ニ願出早速御聞届被成御見分上其時ノ百姓持高ニ順シ夫々御割渡シ被下今芝龍屋敷六反一畝廿六歩是也右居屋敷割初ハ須田太衛門申者今以相続罷在候元来居屋敷ノ願手蔓ハ太左衛門ト申人モ始御領守様御小姓ヲ相勤此女中ヨリ内々御内意ニテ御聞済故割初ハ太左衛門ヨリ段々割渡シ橋重屋浦迄割渡シ夫ヨリ東之方西宮七人納屋場ユへ先達テ本場附ニテ御免ノ屋敷ニ付御手入無之候夫ヨリ七軒ノ納屋場辰ノ大井戸近所上通ハ納屋場中通ハ干イワシ俵積場下通ハ西宮ノ者船引場ニテ小仲間平九郎納屋ヨリ東井戸尻マデハ西宮者十分ニ商売場ニテ其比芝ノ水流ハ辰大井戸キワ迄流津波後段々納屋場カケ只今ハ小中間平九郎持今寿ハラヤ三郎兵衛へ相渡其次四位六右衛門夫ヨリ小西市右衛門納屋場ニテ残ハ形モ無之候然共其比ノ形ハエビヤ市右衛門ヨリ辰庄兵衛大井戸迄両家十分住屋致シ津波後年増日増ニ海近ク相成右屋敷ハ干カ場納屋ニ致我等モ当所引越候初メヨリ山本庄五郎屋鋪今波打キワ迄出張候屋敷広ク住居仕候得共津波後ヨリ年々屋敷カケ宝暦元年ヨリ町方へ引キ越シ只今通り細々先祖ノ家名ヲ立罷在候此外種々細々敷事トモ御座候へ共右古書物多分虫喰り相成訳リ兼候間アラアラ未々孫共為心得書残シ置キ候拙者祖先ヨリ当国ニ住宅仕候事元和年中ヨリ酉年迄凡二百五十年程代々長命致候ユエ拙者マデ五代ニ相成拙者モ五十八歳ヨリ当酉年正月迄廿二年村役相勤メ候得共文政ハ三十年 飛申候最早八十一歳老年ニ及ビ候間文政八年酉正月後退役仕候—(後略)—
 (注)文政八年(一八二五)に書かれた記録である。地震後百年間にわたる文中の海岸侵食の記載は、鋸南町所在の資料が示す、沈降に伴なう海岸侵食現象との類似を思わせるが、現地未調査のため後考に待ちたい。
  岸上鎌吉編(一九一四)『安房郡水産沿革史』(安房郡水産組合)の一一六、一二八頁より引用。
  引用本では、文中「四宮六右衛門」となっていたが原典は「四位六右衛門」である旨、長谷川茂(一九八三)「天津の善覚寺の近世文書について」(『鴨川』二十二・二十三合併号、二二~二四頁)にて指摘を受けた。謝意を表したい。

 〔勝浦市の史料〕
 ●史料四十三、高照寺過去帳
 (年代)元禄十六年(一七〇三)他
 (内容)津波による被害(寛永、延宝、元禄)
 (所有者、所在地)高照寺、佐々木寛是、勝浦市勝浦四九
 (書き下し)
 元禄十六癸未(一七〇三)十一月廿二日ノ夜九ッ子の時 前代未聞之大地震大地彩敷破レ 倒屋不知数 同八ッ半刻津波出水神明(現勝浦市出水神明神社)ノ先壱丁死人又ハ肴ヲ拾フ 内宿(灯台行きの耕地附近)サツダ坂下(川津トンネル下の坂)迄家ヲ流ス 安房上総之内ニ而死人都テ一万人余 諸国ノ死人不知数 同月二十六日之暮六ッ時大地震惣〆日本国之死人三十万六千人余 地震五月迄
 寛永四亥(い)十一月廿三日大震動昼申ノ刻(午后四—六時)石フル 同夜八丑刻(午前二時ごろ)砂フル 十二月十一日迄不止 積事五寸 同十一月廿四日ノ日中如闇 往来燈行ヲトボス
  *地名の注は引田引蔵著『私説勝浦史』による。

 ●史料四十四、香取神社棟裏肘木銘文
 (年代)宝永六年(一七〇九)
 (内容)津波被害(寛永、延宝、元禄)
 (所有者)吉野 豪、勝浦市植野
 (書き下し)『私説勝浦史』より引用。
  (香取神社棟裏肘木銘文)
 元禄「不明」大地震大津波上総下総安房相模四ケ国ニ入リ、海辺房州洲ノ崎ヨリ九十九里まで男女「不明」牛馬不知数房州七浦二十町程陸地ニ成ル鮑ナド大分上ル大ナル材木ニテ造リ家寺社共不残禿ル、其時江戸モ大地震大火事男女二十万人死ス。此年マデ先年ノ津波七十三年ニ成ル(注、寛政五年の津波か)中興ノ津波二十七年ニナル(註、延宝五年の津波を指す)其後宝永四(一七〇七)年亥十月四日京大阪其外四国ヨリ海辺豆州ヨリ大地震大津波入、京大阪大火事、禁中マデ焼ル。同年十一月二十三日富士山焼ル、其砂武州相州安房上総下総五ケ国ニ降ル、三日ノ内昼夜ノ差別ナシ。桃燈灯ニテ往来ス。翌年(一七〇八)子年石砂除金トシテ高百石ニ付二両ヅツ日本国中ニ掛ル、富士山近山ハ一丈積ル、其外五尺三尺マデ積ル、其時ニ子富士トテ山ヲ出現ス、富士山近所ハ火ノ雨降ルナリ、宝永六(一七〇九)年正月十一日公房御他界、四月朔日甲府様御本丸ニ御入、同年五月廿八日書之 領主 松平刑部内植野郷町 吉野佐五右衛門久勝(花押)

 〔御宿町〕
 ●史料四十五、妙音寺過去帳
 (年代)元禄十六年(一七〇三)他
 (内容)津波による被害(寛永、延宝、元禄)
 (所有者、所在地)妙音寺、浅野高海、御宿町浜五七二の一
 (書き下し)
 寛永五(一六二八)年戊辰十二日十六日戌時ニ津波入リ 御宿(現御宿町御宿)江ニ 大小男女共ニ五拾余人死ス 此時新御堂七間之家ヲ波ニ破サル 仏頂院六拾弐歳時也其時隣郷ニ家移リ造ル(以下水流人十三名の法名)
 干時 延宝五歳丁巳(一六七七)十月九日夜 亥時津波入御宿郷ニテ 男女三十八人余死ス 当院中興開山幸順法印三十二歳之時 妙音寺住職スル時分也(以下水流人十名の法名)
 干時 元禄十六歳癸未(一七〇三)霜月廿二日ノ夜四ッ時分ヨリ九ッ時分ニテ大地震 男女死スル者其数余多也 夜ノ九ッ過キヨリ夜明ニ至ルマデ津波三ヶ度ニテ入 地旅ノ人十五人余水流ニテ死ス 当寺中興開基竪者法印幸順五拾七歳ノ時分也(以下水流人三名の法名)
 宝永四丁(一七〇七)亥暦西国大地震津波入テ死人不知其数ヲ 前代未タ聞当国ニハ霜月廿三日夜半ヨリ沙右降ル事経月不止
 積事二寸ニ余リ十二月二日ヨリ三日迄白キ毛降ル 長サ一寸二寸余リ 富士山焼ル事 月経テ不消
 (注)死者多く、津波が夜明までに三度来襲し、地縁の人十五人以上溺死。この他、寛永五年十二月十六日の津波(地震記事なし)延宝五年十月九日の津波の記録もある。

 ●史料四十六、元禄二年己ノ十二月廿五日御宿浦方割合之帳(末尾書き込み)
 (年代)享保十六年(一七三一)
 (内容)津波被害
 (所有者)鶴岡佐太郎、御宿町浜
 (書き下し)
  元禄弐(一六八九)年已ノ年十二月廿五日 御宿(現御宿町御宿)浦方割合之帳(末尾書き込み)
  浜の権利を記した帳簿であるが、末尾に「右帳面未ノ(一七〇三)十一月廿三日夕、津浪しおくさりに成候故、享保拾六年辛亥年五月直し置候」とある。(『千葉県史料近世編上総国(上)』千葉県発行による)

 ●御宿町の史料・補足
(1)千人塚、御宿町新町の共同墓地にある。『上総国町村誌』『夷隅郡誌』等に記載あり。
 『夷隅郡誌』三六三頁によれば「御宿町袴山の麓に古墳あり、伝えいう元禄十六年十一月二十二日、地大いに震へ、翌日大海嘯おこり、溺死するもの算なし、即ち、死屍を集めて此処に葬ると、名付けて千人塚という。或は謂う、慶長九年十二月海嘯起り、正保年中に塔を建つと」
   *元禄津波の塚かどうかは、後考を待ちたい
(2)『増訂大日本地震資料』、「甘露叢」
一、上総国夷隅郡御宿郷村々、地震津浪ニテ民家潰、或ハ流失。尤(もつとも)津浪ノ所ハ、家財穀物舟網トモニ流失。村々田畑砂押シ入リ、川欠山崩等、所々ニ有之候由。津浪ハ二十七年以前ノ浪(延宝五年の津波をさす)ヨリ、二丈余高シトナリ。
 潰家 四百四十軒
 死亡 二十余人
 殞牛馬 各一疋    以上
(3)十王堂縁起
  御宿町六軒町の十王堂の「十王堂縁起」にも、元禄津波の記述あり(』夷隅風土記』による)
(4)最明寺の寺伝
  『上総国誌稿』『夷隅郡誌』四三八頁によると、
  「御宿町須賀大字盛松にあり……往古は堂塔状大華麗なりしも、寛仁、元禄両度の海嘯のため部落の流失と共に当寺もその害を蒙り、旧記悉く流失せりと」

 〔岬町の史料〕
 ●史料四十七、村方模様書、上総国長柄郡和泉村(現岬町和泉)
 (年代)不詳
 (内容)津波被害
 (所有者)大高 肇、岬町椎木
 (書き下し)
 文中に「右は貞享三寅(一六八六)年天羽七右衛門様御代官之節、田畑御地請有之御水帳所持仕候処元禄十六未(一七〇三)年村方は海岸附にて大浪打入、家財被引取、其節御水帳流失仕候」とあり。

 ●史料四十八、享和二年戌正月改(和泉村)村方様子明細帳
 (年代)享和二年(一八〇二)
 (内容)津波被害
 (所有者)吉野満寿次、岬町和泉
 文中に「元禄十六未(一七〇三)年津浪ニテ検地水帳竹垣三右衛門御代官所流失仕候」とあり。
  *史料四十七、四十八のいずれも、『千葉県史料近世編上総国(上)』、千葉県発行)より引用。

 ●岬町の史料、補足
(1)飯縄寺
 岬町和泉にある。
 『大日本寺院総覧』によれば、「……元禄十六年十一月廿三日の海嘯に、本堂を除くの外、僧坊宝庫、流失し、諸記録宝物悉く流れ、境内地形一変せり……」とある。『夷隅風土記』四〇八頁にも、「元禄の大津波でも本堂だけは残った」とある。
(2)「江場土」の地名
 江場土区は、始めは「江波戸郷」(のち、江波戸村)といったが、元禄十五年(一七〇二)の津波で、全村ことごとく流失の被害を受けたので、「波」の字を嫌って、現名「江場土」に改めたという(『夷隅風土記』三七三頁)。

 〔一宮町・長生村〕
 ●史料四十九、児安惣次左衛門萬覚書
 (年代)享保四年(一七一九)
 (内容)一宮町附近の延宝、元禄、宝永の津波被害、浸水範囲、房総沿岸の津波被害、隆起沈降
 (所有者)牧野春江、一宮町東浪見二、七三一
 (書き下し)(文中」は原典の行がえを示す)
 (表紙)
  享保四年亥ノ(巳か?)
  (一七一九)
   萬 覚 書 写
    三月吉日                                児安惣次左衛門
(本文)
—前略—
一、同(一六七七)年十月九日に夜の五つ時分 少々之地志ん仕候て 良(ヤヤ)過候て」辰沖より海夥ク鳴来り津浪入 釣村より一ノ宮境めまで下通に」居住仕候家数五拾二軒打潰し 男女子共百卅七人死ス 牛」馬廿六疋死ス 其節のかれ申者共 身打痛候者拾四五人も」二、三拾日の中に死去 以上百五拾人よ死人御座候 本田地内」かやかり道より川田不作、新ほり上・小麦尻まで 下通りの」田とも不残砂はまのことくに砂押上無田に成り 三・四年の内に」前々砂はき取田地に成り候下通新田十五年程にて漸々」開発仕候 然共田畑ともに毎度よりも悪地に成り候
一、高方田地延宝六(一六七八)年午ノ十月 御代官稲野兵右衛門様御」手代衆縄入 田地御改被成候 其節本田畑」計御改新田畑の分御改不被成候 新田畑 延宝年中初に検地改り申候
一、我等田地延宝七(一六七九)年未ノ八月 御代官稲野半十郎様御手代」衆 芳賀甚左衛門殿と申仁御出被成 検地縄入田畑御改被成候 其」口分新田畑共本田高に被成ニ付 新田高無之候三郎兵衛にて」口口口下屋敷に居住仕候へ共 津浪の節家も打潰レ 屋敷茂」口口に成り候故 高方庄右衛門新畑 三郎兵衛本畑 午房塚を」換地に渡し庄右衛門新畑に居住仕候 津浪も十郎兵衛屋敷へは」浪もいれ不申候
一、津浪水押揚候通り 権現前(現一宮町権現前)根きしまて 大道下せき内道」通り下の田道下通りまて浪上り申候道より上ハ所々少し水上ケ申候」つり六左衛門屋敷よりゑび塚九郎兵衛まての家共ハ あと形も」なく打流れ申候 其外の家共形少々残り申候 地引網 地あみ」七程有之候所 舟網諸道道具打破レ流地引網不残きへ申候」 其以後年を経て地網四程仕出し こやし網に引申候 其節はまに」置申候諸道具皆々打流レ亡失ニ成り候 打揚られ候者共皆々釣村より」北原境迄 中通会所に居住申候 其より年遍て本の下通江」出候て、家共作り居住申候
一、元禄十六(一七〇三)年未ノ十一月廿三日夜四つ時分より 大地震三度夥ク」ゆり出し 少し間有て辰巳沖より海夥ク鳴リ夜八つ半時分津浪打」上り申候 毎度巳ノ年ノ津浪より浪の高さ四尺余も高ク来り申候」口口度前々下通り屋敷へ出候家共あと形もなく打潰レ 此節又々」口口会所江上り 居住仕候浪揚候通り せき内の道を所々」口口三十間計水上り申し候 岩切下(一宮町石切) 行屋下きし上河はし上迄」□□きおし上申候 此節ハ先年の津浪覚にて 下通ニ居住」の者大地震大地震(ママ)故早ク皆々迯上り候故 人死ハ多無之 はま」網なやに置候者 心なくにけ上り不申候者共拾四五人死申候」 東浪見浦に織網(ママ) 地網共六程有之候 此節皆々舟網諸道具」不残打破流レ亡失ニ成リ候手前も毎度より五・六年も織網半程引 諸道具御座候処に 此節舟網諸道具不残打流し 金子百」両計損失有之候 此節の津浪一ノ宮町下やぶきしまて」打揚申候 一ノ宮下通に居住の者 其外はまなやに居候者共 已上五拾人余も死申事に候 川(一宮川か?)通リハ茂原下まて水押あけ」申事ニ候舟頭給(一宮町船頭給)より北の方段々浪高ク打揚 一松(現長生村一松)領三千石の内」家も大分に打潰レ 人も千弐三百人も死ス 牛馬も大分死失」申候 九十九里いよか(飯岡)まで 舟人壱万千余も死失申候 浦方」漁舟も左のことく亡失ニ成り候 南ハ上総房州まて段々浪高ク」打揚 人も大分に死亡申候 房州前原(現鴨川市前原)浦一村にて 家居も千軒余りの家不残打流し 人も千三百人余死亡申候 牛馬も死失」口口(大分力)に有之候 此節の地震夥き大地震にて おか方ニテも口口家寺々共 大分家ともゆりたおし 所々にて人も沢山に」口口口打れ 或ハ気を失 死人も大分に有之候 房州海辺は」海陸に成り候所有之又 おか地海に成り候所 普多(ふた)所出来申候」其外地志んにて所々替り候事共 沢山に有之候
一、宝永二(一七〇五)(宝永四年か?)年酉ノ十月四日昼日中に大地震ゆるき 此節も下」浦浪柴きわまて打あけ申候 此節上方道中小田原の町」不残津浪其上火事にて打潰レ 同大久保加賀守様御城も」焼失申候 紀州なとも大分津浪上り 浦辺にて人三万人余も」死亡申候由 四国の内も大分の津浪にて 死人も何程と数にも」不過死亡申候由
  —後略—

 ●史料五十、乍恐以書付御訴訟申上候
 (年代)宝永元年(一七〇四)
 (内容)津波による田畑埋没被害
 (所有者)中村正紀、一宮町一宮三、一八一
 (書き下し)
  乍恐以書付御訴訟申上候
一、高弐千四百六拾弐石壱斗八升八合七勺本郷一ノ宮村(現一宮町一ノ宮)高辻」
  内 三百四拾弐石壱斗八升八合七勺 未ノ改出高」
  此反別弐百拾町八反弐畝弐拾七歩
  内 田方百拾壱町弐反九畝弐拾三歩
  内 拾八町六反七畝弐拾弐歩 砂埋亡所
  畑方九拾九町五反三畝四歩
  内 蛉七町三反弐畝弐拾八歩砂埋亡所
   是ハ申ノ春(一七○四)より夏秋迄百姓男女共不残罷出砂さらへ」普請仕申ノ麦毛仕付申候問酉ノ年(一七〇五)より御年貢上納可仕候
一、七拾六町三反七畝弐拾八歩 新田畑反別
  内 田方弐拾五町七反五畝拾壱歩
  内 拾四町九反四畝弐歩 新田砂埋亡所
  畑方五拾町六反弐畝拾七歩
  内 弐拾壱町八反五畝拾弐歩 新畑砂埋亡所」
  〆五拾五町四反七畝六歩 本田畑新田畑砂埋亡所
一、百姓家百六拾六軒   津浪流失
   此老共屋舗無御座候故陸江上り 一門縁者或百姓傍輩之」屋敷ノ内をせはめ候而小屋かけ仕干今罷有候
一、本郷村(現一宮町)新笈村川除潮留堤千弐百五拾間余」前方より押流 田畑大分押欠申候故未ノ七月十七日」風雨荒之節も村東五拾町余田地江潮差込」御年貢ニ上納可仕米一切無御座候付金納ニ而御」年貢皆済仕候 依之同年之」九月御代官様御検見ニ御廻リ被遊候節御見分ニ入川除潮留堤之御普請奉願候得ハ御聞届御普請可被」仰付様ニ被仰候其以後津浪ニ而大破ニ罷成難儀仕候
一、高弐百四拾七石 新笈村高辻
 内 八拾壱石六斗八升七合九勺弐才 川欠無地高 此反別拾弐町七反五畝八歩」
 内 田方七町弐反弐拾五歩
 内 壱町八反七畝拾壱歩 本田砂埋亡所
 畑方五町七反弐畝拾三歩 本畑砂埋亡所
  是ハ申ノ夏秋百姓男罷出砂さらへ普請仕麦毛」仕付申候得は酉ノ年より御年貢上納可仕候
  右は未(一七〇三)十一月廿二日之夜大地震津浪ニ而田畑砂埋」亡所ニ罷成候 右之内本畑拾七町三反弐畝弐拾八歩去」申(一七○四)ノ春秋百姓自力ニ而砂掃普請仕候 残而五拾」五町四反七畝六歩ハ百姓自力ニ而普請不罷成候ニ付」 其砌より度々奉願候得共被仰付無御座何とも」迷惑仕候 依之去秋御検見ニ御廻り右砂埋亡所」御見分被遊候節も御普請之儀奉願候ヘハ百姓」自力ニ而随分精出シ普請仕候様ニと被仰付候得共」困窮之百姓ニ御座候へは自力ニ而普請不罷成迷惑」仕候 御慈悲ニ亡所川除潮留堤 御公儀様」御入用を以御普請被為仰付被下候は渇命」をもつなき百姓相続仕難有可奉存候以上」
宝永弐(一七〇五)年酉二月
               上総国長柄郡本郷一ノ宮村
                   名主 十郎左衛門
                   同  太 兵 衛
                   同  太郎左衛門
                   同  平 四 郎
                   組頭 重 兵 衛
                   組長 新 兵 衛
                   同  角右衛門
                   同  平次左衛門
                   同  清 兵 衛
                   同  源 次 郎
                   同  藤右衛門
                      惣 百 姓
                 同国同郡新笈村
                   名主 市左衛門
                   組頭 三左衛門
              (後一葉を欠く)

 ●史料五十一、乍恐以書付御訴訟申上候
 (年代)宝永元年(一七〇四)
 (内容)津浪による田畑、渡し船、橋の被害
 (所有者)史料五十に同じ
 (書き下し)
  乍恐以書付御訴訟申上候
               上総国長柄郡一宮(現一宮町一宮)本郷村
                 訴訟人 惣百姓
一、去未(一七〇三)十一月廿二日之夜大地震之節津浪入田畑亡所」大分出来仕 百姓自力ニ普請難相叶迷惑仕候 以」御慈悲御普請被為仰付被下候は 難有可奉存候」 亡所之儀委細付去暮上申候事
一、本郷村之渡シ船(一宮地先の一宮川の渡し船か?)之儀 先規御地頭様方より破損次第」修覆被仰付被下候 然共今般殊外破損仕候是又」御慈悲を以御修覆被為 仰付被下候は難有可奉存候」 尤郷中ニ不限往還之渡船ニ而御座候事
一、郷中之小橋殊外破損仕候 是も先規御地頭様方より」 段々御修覆被仰付被下候間 此度も御慈悲を以」御修覆被為仰付被下候者難有可奉存候事
一、猪鹿等罷出田畑荒シ申候節は 累年御地頭様より」鉄炮借用仕 玉なしに驚シ申候今度も猪鹿罷出」難儀仕候間 鉄炮四挺拝借被為仰付被下候者」玉なしに驚シ申度奉存候事
 右之趣惣百姓奉願候 以御慈悲被為仰付」被下候は難有可奉存候以上
   宝永元(一七〇四)年申七月
               上総国長柄郡一ノ宮本郷村
                   名主 十郎左衛門
                   同  太 兵 衛
                   同  平 四 郎
                   同  太郎左衛門
                   組頭 藤右衛門
                   同  源 次 郎
                   同  源右衛門
                   同  平次左衛門
                   同  角右衛門
                   同  重 兵 衛
                   同  新 兵 衛
   御代官様

 ●史料五十二、先祖伝来過去帳
 (年代)不明
 (内容)長生村八積の元禄津波の状況
 (所有者)長生村八積、元台田家文書
  先祖伝来過去帳      八積村(現長生村)元台田家文書
 慶長六辛丑年十月十六日 大地震山崩 海埋て潮の引事凡三十町余 十七日子刻ニ沖ノ方数度鳴 大波立 村々山里ニ波打揚ケ 安房小湊 和田 白古内浦 天津 辺原 新河 勝浦 岩和田 御宿 矢指戸 小浜 日在 和泉東浪見 一宮 一松 幸治 中里 五井 古所 刺金 浜宿 四天木 今泉粟生 片貝迄 凡四十五村 水死之者二万人程有
 元禄十六癸未年十一月廿二日夜 房総大津波 宮成ノ下溜池迄 水上ル 夜の九ッ時より大地震ゆり 三尺戸自然と明く海辺ハ大地一二尺割れ 波より先達て水せき出る 依之土中に足ふみ込み 逃候も埒明不申 波にお付られ水死仕もの凡七万人斗 水死之者有之其年極月迄 不絶地震ゆりき
 (注)菊地利夫(一九七六)(「近世九十九里浜の不漁に対する領主と漁民の行動」、歴史地理学会編、『災害の歴史地理』、古今書院、八三~一〇〇頁)より引用。

  〔茂原市〕
 「鷲山寺津波供養碑」が著名であるが、他に、『茂原市史』(三二六頁)の、「長谷村 宝永元年(一七〇四)年貢割付状」によると下畑十四町八反歩余のうち、「去ル未の地震川欠ニ引ク」として一反八畝十六歩が引かれている旨の記述あり。

  〔白子町〕
●史料五十二、一代記付リ津波ノ■
(年代)享保十年(一七二五)
(内容)津波による被害(元禄、延宝、宝永津波)
(所有者)池上誠、白子町関四、一三三
(書き下し)」字は、原典の行がえを示す
 一代記付リ津浪ノ■
  幼名 池上吉三郎
  其後 池上半弥
   又 池上軍七郎安闊 又 山内新右衛門安闊 又 春日諳松軒了安伯闊
一、本国信濃国山高遠生所」江戸芝源助橋祖父池上」久五郎安信保科肥後守殿」普代ノ侍知行三百石取役儀」大番相勤ム主人御知行加増」ニテ奥州会津若松ノ城主」トシテ所替有之祖母ハ」同主人春日次左衛門娘」父ハ池上八郎兵衛信安同」主人に相勤ム母ハ藤堂」和泉守殿内山内藤五郎」知行五百石取相勤ム則」娘也右ノ藤五郎其後」保科肥後守殿江七百石ニテ」相勤御息女ノ家老トシテ」上杦播(ママ)广守殿江罷越ス其」後御息女御死去ニテ又」肥後守殿江罷反り勝者(ママ)」相務ム兄池上久五郎安信」父跡式相続ス二男是モ」兄池上武八郎大筒鉄炮ノ」上手ニテ芸者組トテ同相勤」姉向山藤兵衛妻同主人ニ」相勤ム其外兄弟雖多」皆幼少ニシテ死ス父八郎兵衛江戸」芝屋舗ニ相勤時某シ出生シ」八歳ノ時会津二行川本」八右衛門十九歳ノ時弟子トシテ居合兵法」一流唯授一人ノ所迄相伝ヲ」受又浦野又八郎掘尾」権太夫両角平助土屋久太夫」四人ニ相伝ス若輩ニシテ剣術ノ」妙ヲ得タル■諸人驚レス目」是武ノ家ニ生レテ予本望」不過之一巻ノ書ヲ四人ニ」伝タレハ其名未来永々」ニアリ九歳ニシテ母ニヲクレ」叔父藤五郎家ニ十五歳ニテ」養レ音曲ノ遊専ニス学文」森田了庵弟子トシテ普ク学」医道ヲ習フ廿一歳ノ時」同主人矢嶋七兵衛所江聟」ナカラ養子ニ行不会心ニシテ」廿二歳ノ時江城ニ到下谷」母ノ叔父八十嶋弥六トテ」御持筒与力山崎四郎左衛門殿」御組ニテ弐百石被下相勤ム」此所二来テ一両年嘗(ナメ)鹹苦ヲ」廿四歳ノ時村上三右衛殿ニ相勤ム」翌年主人遠行ニテ廿六歳ノ時浪人ス又下谷ニ来リテ此ノ」度ハ大家ニ可勤ト心ザス然ル」所ニ元禄辛巳年極月我身ニ」更ニ無罪不計大成難儀出」来テ極月廿四五日此既ニ死ニ」赴カントスル■度々誠ニ危キ」命薄氷ヲフム如クナリキ」廿七日其難ヲ遁レ浅草」三十三間堂足袋屋作助所ニ」二三日逗■(ママ)ス晦日ニ村上」鍋之助殿屋舗ニ行越年シテ」正月下旬ニ宮城越前守殿江」罷出同年九月長崎江則」主人ノ供ニテ罷越申ノ極月」江戸ニ来ル長崎ニテ阿蘭」陀流ノ外科相伝シテ来長崎ニテ」異国人共ニ出合其外珍舗」■カギリナシ京大阪又ハ山陽道ノ湊々名所多見物ス」長崎ニテ多ノ金銀ヲ使捨」江戸ニ来リテ三年ノ内困窮ス」漸ク色ヲナヲス所ニ子ノ年」主人遠行ニテ家中ニ尽ク」浪人ス然共予ハ御子息」三左衛門殿ニ相勤トイヱトモ」只医ヲ第一トハゲミ翌年」丑ノ年暇ヲ取小石川」柳丁ニ住シテ医ヲ勤ム其後」角田伊左衛門ト云仁度々」異見ヲ云テ田舎江行ベキ」由ススメニヨツテ同年」四月十三日上総国四天寄村ニ(現大網白里町四天木)」来リ五月江戸ニ帰リテ又同月四天寄ニ来ル同極月」草庵ヲムスビテ居住ス又」関村古所村江(現白子町関・古所)通ヒ行テ半歳ヲ」暮ラス幼童ニ文学ヲヲシへ」テ亦文道ノ名ヲ残サント」ヲモヘリ同巳ノ年七月」廿一日大風吹大木ヲ吹タヲシ」家ヲ吹ツブス大雨フリテ又」洪水旅人ノ道ヲフサグ」五穀尽ク吹散シテ実更ニ」ナシ可食ス物曾テ乏キニヨツテ」翌年午ノ春朝三暮四ノ」助ケ更ニナシ人民皆尽ク及」飢諸ノ草ヲ取リ食ス餓死スル」者多シ幼児ヲ広瀬ノ川ニ」捨ル者不知数ヲ同年号」元禄十六(一七〇三)癸未年夏旱抜シテ」冬寒強星ノ気色(ケシモ)何トナク」列ナラズ霜月廿二日ノ夜子ノ」刻ニ俄ニ大地震シテ無止時」山ハ崩レテ谷ヲ埋大地裂ケ」水涌出ル石壁崩レ家倒ル」坤軸折レテ世界金輪在へ」堕入カト怪ムカヽル時津浪入」■アリトテ早ク逃去者ハ助ル」津浪入トキハ井ノ水ヒルヨシ申」伝ルニヨリ井戸ヲ見レハ水常ノ」如クアリ海辺ハ潮大二旱ルサテ」丑ノ刻ハカリニ大山ノ如クナル潮」上総九十九里ノ浜ニ打カクル海ギワ」ヨリ岡江一里計打カケ潮流ユク」■ハ一里半ハカリ数千軒ノ家」壊流数万人ノ僧俗男女」牛馬鶏犬マテ尽ク流溺死ス」或ハ木竹ニ取付助ル者モ冷コゞへ」死ス某モ流レテ五位村(現白子町五井)十三人塚ノ」杉ノ木ニ取付既ニ冷テ死ス夜明テ」情アル者共藁木ヲ焼テ暖ルニヨツテ」イキイツル希有ニシテ命計免(マヌカレ)タリ」家財皆流失ス明石原上人塚ノ(現白子町五井高の上人塚か?)」上ニテ多ノ人助ル遠クニゲントテ」市場(現白子町市場)ノ橋五位(現白子町五井)の印塔ニテ死スル者」多シ某ハソレヨリ向原(現白子町向原)与次右衛門」所ニユキ一両日居テ又市場(前出)善左」衛門所ニ十日ハカリ居テ観音(現白子町観音堂)堂長右衛門所二十日ハカリ居テ同所」新兵衛所ノ長屋ヲカリ同年」極月十四日ニ遷テ同酉ノ夏迄住ス」酉ノ六月十三日古所村(現白子町古所)九兵衛所ニ」草庵ヲ結ヒ居住ス妻ハ観音堂(前出)」ニテ約諾シテ同十七日引取ル同年」九月十七日女子出生スサテ又」津浪入テヨリ日々ニ大地ウコイテ」ヤマズ一日ニ五度三度ユル■ハ酉ノ(一七〇五)」年マデ不止其切二ケ月三ケ月」ノ間ハ津波又来トテ迯去■」度々ナリキ未ノ年ヨリ廿七(延宝五年・一六七七力)」年以前延宝四己巳(丙辰力)年十月十」日ノ夜戍(戌)ノ刻津波入前二大成地震」一ッユル此時波六丁計打入十丁」ハカリ流渡ル由謂伝ル其前巳ノ」年ヨリ五十一年以前(安永三年)巳ノ年ノ」如ク入ル由語り伝ル今度未ノ」年入タル如クナル■開闢ヨリ」以来此浜ニ不云伝南ハ一ノ宮(現一宮町一宮)」ヨリ南サホド強カラズ北ハ片貝(現九十九里町片貝)」ヨリ北強カラズ後来ノ人大成ル」地震押カヘシテユル時必大津浪」ト心得テ捨家財ヲ早ク岡江迯」去ベシ近辺ナリトモ高キ所ハ助ル」古所村印塔ノ大ナル塚ノ上ニテ助ル」(椿台ト云)者アリ家ノ上ニ登ル者多家」潰レテモ助ル如此ヨク々可得」心
 同戍ノ霜月惣左衛門地ヲ借リ」十三日移従(ママ)ス」同年号(宝永四年・一七〇七)亥ノ十月四日暖ナル■五月ノ如シ」天晴雲一点モナシ風不吹シテ」髪ノ毛モウゴカズ午ノ下刻ニ」地震大ニユル三年コノカタニ不覚」ツヨクユル堀ノ水溢ル未ノ中刻俄ニ」浪高クナリ二三十間打掛引カヘシ」四度打掛引カヘシ」四度打掛ケ次第ニツヨク打カケニ丁」計打上ケナイヤノ上マデ浪来ル」此日鰯大ニヨリ引アグル数百人ノ」者共鰯ニカヽリアヒアヤウキメニ」逢者数多アリ作田松ガエノ川(片貝町作田川か?)」ニテ十四人死スル者アリ此時モ二三日」ノ間地シン度々ニユル皆人夜ニ岡エニゲ」上ル同年霜月廿三日午ノ刻雷鳴空」ノケシキ焼ホコリフスボル如クシテ砂石」降ル俄ニ闇ト成人ノ面ミヘズ」初ハカル石ノクダケタルモノ降後ハ黒キ砂」フル皆人前後ヲ忘却シテ動転(転)スル斗也」申ノ刻雪降リ天晴皆人安諸ノ思」ヲナス又夜ニ入黒砂降極深闇」ト成昼ナレバ則闇(クラ)ヤミ也此砂石」フル■同十二月八日迄也」富士山ニ大成穴出大地ノ底ヨリ火出」山土焼飛来也此後風ヲ引煩事」無限一人も風引ぬ者ハナシ」同子ノ年九月四日男子誕生ス」此日天気好未ノ刻大成震動ス」入日赤キ事半天ニ過テ朱ノ色」ノ如シ人皆怪ム夜大雨降リ」水出ル
卯ノ年三月廿五日江戸江」行十五年ブリニテ八十嶋重蔵」朝比奈直右衛門殿深戸右衛門宿所江尋対面ス小石川伊左衛門」トテ少キ売人アリコヽエモ行宿」日本橋石井治左衛門所ニ渡ス」四月四日上総江戻ル
正徳四年午ノ十月十九日関村」神主岡沢大和守所エ越庵ヲ」ムスビ居住ス
享保二年酉ノ正月廿八日ノ七時」男子誕生天気好暖也
同年ノ極月屋敷買取ル」
同戌ノ霜月家作新屋敷江」移ル
同子ノ霜月廿八日娘中里村江」遣ス
同辰八月五日江戸江行青物丁」イセヤ利右衛門所ニ旅宿ス同十日ニ」上総江戻ル
同年十月卜七日世伜(ママ)江戸」紺屋丁太田道寿老江弟子ニ遣ス」公儀御知行御医者千百石
同巳三月朔日江戸着紐屋丁」御屋鋪江行小網丁二丁目上総ヤ喜衛門旅宿ス」

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地図 図1 売津村村域図
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地図 図:絵図2 元禄地震前
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地図 図:絵図3A 元禄地震前……年代不詳
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地図 図:絵図3B 元禄地震後……1776年以後(推定)
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表:表1 仏崎、苗代町の時期別の水田減少面積
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地図 図:図2 鋸南町沿岸
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地図 図:図3 富山町沿岸
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図:墨書銘配置
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地図 図:図4 富浦町
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地図 図:図5 館山平野北部
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地図 図:図6 館山平野南部
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地図 図:図7 館山城趾附近図
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地図 図:館山浦絵図(元禄地震前)
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地図 図:柏崎浦絵図(元禄地震後)
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地図 図:図8 長尾川上流
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地図 図:図9 平砂浦
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地図 図:図10 和田町
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地図 図:図11 鴨川市
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図:津波の避難丘の断面概略
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図:墓碑
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地図 図:横須賀村前原と泉村の山輪許裁状 裏絵図
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地図 図:横須賀村と磯村の網引場論 裏絵図
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地図 図:小湊村と市川村諍論裁許状 裏絵図

あとがき

 去る昭和四十九年(一九七四)九月、国の予知連絡会は長期にわたる調査結果を公表した。それによると、房総南東沖一帯はこのところ地震の発生が少なく、それだけ地震のエネルギーが蓄積されているので、大地震の発生する可能性がたかいという内容のものであった。周知のごとく、房総史の上で規模、被害の両面でわたしたちの予想推測をはるかに上回る大規模な被害をもたらした古地震として、元禄地震をあげることに異論はなかろう。この地震は元禄十六年(一七〇三)に起った地震で、今から二八一年前にあたるが、歴史はくりかえすといおうか房総沖には再び相当量の地殻のヒズミが認められている。したがって多くの学者が、ここ十年以内に房総地方に巨大地震の発生が予想されると警告している事実を、わたしたちは決して忘れてはならない。
 ところで、元禄地震について宇佐美博士はつぎのように指摘している。「元禄一六年一一月二三日、西暦では一七〇三年の十二月三十一日、つまり大晦日(おおみそか)の朝といっても丑(うし)の刻というから午前二時ころのことである。突如として南関東一帯に大地震が襲ってきた。とくに武蔵・相模・上総・安房の国々で強くゆれた。これを『元禄地震』と呼んでいる。震源は房総半島の南方約三十キロメートル沖の北緯三四・七度、東経一三九・八度の地点、規模は八・二と推定されている」。さらに博士は「この農は海底生じた巨大地震なので、当然のことながら、津波が犬吠岬から下田に至る関東沿岸を直撃した。(中略)千葉県は震源地にも近いので大津波があった。むろん地震動も強かったにちがいないが、それを証拠づける史料は思いのほか少ない。房総の南端近くの峯岡山で尾根つづきに長さ三里余(約一二キロメートル)にわたって、所々に幅三~六尺(一~二メートル)の割れ目ができたという記録があるだけで、この割れ目は断層なのかも知れない。このことから、峯岡山近くの震度はVIの大きい方と推定されているが、これが房総半島で推定できる唯一の震度であった。」(宇佐美龍夫『大地震』(そしえて文庫34、一九七八年八月刊)。
 さらに博士はつづけて「しかし、昭和五一年(一九七六)一~三月に館山の千葉県立安房博物館で『地震展』が開かれたときに、元禄地震に関する多くの新史料が紹介された。この史料によると、たとえば現在の南房総丸山町に属する沓見村では家が六八軒のうち六七軒が潰れ、堂社八ケ所破損し、池の堤われ六件、田畑の荒れ三町九反(三・九ヘクタール)余ということがわかった。こういう事例から房総南端では震度がVIIに達したのではないかと推定される。そのほかにも、この『地震展』における新史料は津波や地盤隆起を伝えて地震学上有益なものが多い。こういう史料などによって房総半島のようすをみてみよう。まず津波であるが、東は九十九里浜から、内房の富津付近まで津波に襲われたという記録が残っている。この津波は房総では、とくに大きいものだったらしく、各地に死者の霊を弔う供養塔が残り、よい史料となっている。九十九里では計約ニ一〇〇人の人々が津波て亡くなった。小湊の誕生寺は日蓮上人ゆかりの地として有名だが、ここは、明応七年八月二五日(一四九八年九月二十日)の地震と津波で、土地が陥没し、建物もすべて没したので、これを鯛の浦の岡に移した。その後、ふたたび元禄地震に遭ったので現在地に移した、といわれる。しかし、今回発見された元禄地震以前の地図と比べると、地震以前から誕生寺は現在地にあることがわかった。この誕生寺近くでは小湊村で二七〇軒、市川村で三〇〇軒の家が波にとられて見えなくなり、一〇〇人ほどが死亡、寺の中六坊が波にとられ、末寺妙運寺は堂と客殿だけが残った。その近くの御宿村では、潰四四〇軒、死二〇余人を出した」(宇佐美博士、前掲書)。
 右の宇佐美博士の指摘によると明らかなごとく、元禄地震の被害がいかに大きかったかを理解することができよう。さらに加えて宇佐美博士は「房総の地は、田畑の耕作と同時に漁業や製塩もおこなっていた。津波や地震動で、田畑が土砂に埋まったり、海水に洗われたり、海岸が隆起して塩がとれなくなったり、海底の情況が変化して漁獲量に影響があったり、村の境界が不明になって隣村との間に争いがおきたりした。とくに田畑の問題は年貢に関わるので、生活上重要な問題であった。したがって地震の爪あとは、年貢関係などの文書に数多く残されている。しかも、記載が詳しいので、現地を調査することによって当時の被害をかなり正確に再現することもできるのである。また、当時の絵図も被害調査に有効である。こういう研究は目下進行中なので、近いうちに房総半島の被災状況が明らかになるであろう」(宇佐美博士、前掲書、なお、羽鳥徳太郎博士『歴史津波—その挙動を探る—』(一九七七年刊、イルカぶっくす10、関連参照)として、より調査の深化によって当該地方の実態の究明が必要であることを主張されておられる。
 右に掲げた宇佐美博士のユニークな御指摘の数々、さらにはここ十年以内に房総大地震発生の可能性という衝撃的な多くの学者の指摘に刺激され、わたしたちの郷土研(千葉県郷土史研究連絡協議会の略称)においても、元禄の地震と津波を中心とした房総の災害史に関する実証研究をまとめようという雰囲気が序々に醸成されていった。特に運営委員会においては、早くから渡辺太助看員より災害史刊行の必要性についての、熱烈な御提案があった。
 こうした雰囲気のなかで、本会においては去る昭和五十八年四月にいたり、可及的すみやかにという目標を設定し、郷土研叢書第四集として『房総災害史—元禄の大地震と津波を中心にー』を刊行することを正式に決定した。かくて原稿執筆、印刷とほぼ一か年を要して、ここに本書の誕生をみるにいたったのである。会員ともどもに本書の刊行をこころからよろこびたい。
 さて、本書の刊行にあたり明記したいことは、何をさておいても、宇佐美博士の御懇情あふれる御指導をたまわったこである。しかも、博士の献身的な御配慮により画期的な論史をたまわり、本書の巻頭論文に収めさせていただくことができた。ここに紙面をかりて宇佐美博士に対して、厚く感謝の意を表する次第である。さらに九名にのぼる執筆者各位も、繁忙のなかを会のため、それぞれ実証研究、あるいは資料収集の成果をお寄せいただいた。あわせて厚く謝意を表してやまない。
 願わくは、本書がひろく県民の方々の愛読書となり、来るべき災害の襲来にそなえて、望ましい災害防止のためのよりどころとなるならば、本会会員ひとりひとりの望外のよろこびにほかならない。最後に、本書の編集にあたっては愚生の不行届から、かなりの刊行遅延がみられたにもかかわらず、終始熱意をもって本書の刊行をおひきうけ下さった千秋社に対して、深甚の謝意を表する次第である。(川村 優記)

『郷土研叢書』刊行のことば

 千葉県郷土史研究連絡協議会(略称、郷土研)は、房総を足場とした新しい郷土史の研究をめざす人々を網羅した、ユニークな文化的集団である。会員には、地道に新しい分野を開拓する晴耕雨読の一農民もあり、家業のかたわら地域の再発見に汗を流す自営商人もあり、まさしく多士済々というべきであろう。
 本会会員の問題意識は、研究発表会などの討論にも明白に示されるように、多岐、多領域にわたっている。しかもきわめて客観的な分析の視点を忘れず、地域の歴史の再構築、あるいは地域の新しい意義づけに日夜努力している。なかには日本全域のなかでの房総の歴史的役割論といった、スケールの大きい問題設定も決してまれではない。
 郷土研叢書は、このような多彩な会員の研究の成果をすみやかに吸収して、それを公刊することにより、より一層の研究の進化を目的とするものである。
 本会のひとつの力の結集である郷土研叢書が、大方のきびしいご批判を得て、たゆみなく成長し冊を重ねて、房総史のより総合的な構築と房総文化の進展に貢献できるようになることをこころから期している。そのことを通じてひろく日本歴史との相互関連の動態、なかんずく新しい日本文化論の前進にも寄与できるならば、本会のよろこびはこれに過ぎるものはない。
          千葉県郷土史研究連絡協議会

執筆者紹介

Array宇佐美龍夫(うさみたつお) 大正十三年生 東京大学教授
著作論文 『資料日本被害地震総覧』・『東京地震地図』他
現住所 東京都文京区本郷四—二〇—二—一〇三
    電〇三(八一二)九八一五

古川 力(ふるかわつとむ) 明治四十一年生 九十九里町誌編集委員長・九十九里町文化財審議会長
著作論文 『九十九里浦と伊能忠敬』・『房総漁村史の研究』(共著)他
現住所 千葉県山武郡九十九里町片貝四七六六
    電〇四七五七六—四二〇二

伊藤 一男(いとうかずお) 昭和二十一年生 九十九里総合文化研究所研究員
著作論文 『房総農民運動史』・「房総巨大地震』他
現住所 千葉県山武郡横芝町屋形八三三
    電〇四七九八(二)一五一〇

古山 豊(こやまゆたか) 昭和二十二年生 千葉県立茂原高等学校教諭
著作論文 「山武・長生郡における元禄地震調査」・「第二集元禄地震史料および分布」(編著)他
現住所 千葉県山武郡大網白里町細草一四一一—九
    電〇四七五七(七)四三七四

井上準之助(いのうえじゅんのすけ) 昭和六年生 国際商科大学教授・茨城県史編さん専門委員
著作論文 『近世農村産業史論』・『近世関東の被差別部落』(共著)他
現住所 千葉市宮野木町一七五五—一四〇
    電〇四七二(五九)〇七八三

樋ロ誠太郎(ひぐちせいたろう) 昭和十年生 千葉県立教員養成所講師
著作論文 『絵はがきにみる男総の今昔』・「ぼくらの千葉県』他
現住所 千葉市若松町四一一—四四
    電〇四七二(三二)一三三八

久保木 良(くぼき よし) 昭和十三年生 成田市立東小学校教頭・四街道市文化財審議会長
著作論文 「千葉県における日蓮関係文化財と日蓮宗寺院」(論文)
現住所 成田市十余三二七—三
    電〇四七六(三二)〇一八一(東小学校)

川村 優(かわむら まさる) 昭和十五年生 千葉敬愛短大講師・九十九里総合文化研究所主宰
著作論文 『論集房総誌研究』(編著)・『近世農政資料集三』(共編)他
現住所 千葉県長生郡白子町八斗十六—一
    電〇四七五三三—五五八二

君塚 文雄(きみづかふみお) 大正一年生 三芳村史編さん委員長、館山市・三芳村文化財審議委員
著作論文 『新日本史跡案内記(安房)』・『ふるさとの思い出写真集・館山』他
現住所 千葉県安房郡三芳村一三一九
    電〇四七〇(三六)二九〇一

吉村 光敏(よしむらみつとし) 昭和十九年生 県教育庁文化課博物館準備室
著作論文 『木更津市史富來田編』(共著)・「近世の村絵図の景観復元図に変換する技法について—郷土史における一つの技術—」他
現住所 木更津市清見台東二—一六、教住二—二〇四
    電〇四三八(九八)四七五三

郷土研叢書既刊のご案内
I 千葉氏研究の諸問題
      A5判上製404頁
       定価3,700円
II 日蓮房総における宗派と文化
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III 房総漁村史の研究
      A5判上製240頁
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郷土研叢書IV
房総災害史
  —元禄の大地震と津波を中心に—
印刷 昭和59年6月10日
発行 昭和59年6月15日
千葉県郷土史研究連絡協議会編
   (略称、郷土研)
   〒280 千葉市市場町11—1
   千葉県立中央図書館内
   電話0472(22)0116
発行者 能勢 潔
発行所 (株)千秋社
    〒101 東京都千代田区西神田3—9—14
    電話03(264)6718(代)
定価3,800円
  ISBN4—88477—077—3 C3021 ¥3800E
落丁・乱丁の際はお取替えいたします