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安房震災誌

Array     詔書
朕神聖ナル祖宗ノ洪範ヲ紹キ光輝アル國史ノ成跡ニ鑑ミ皇考中興ノ宏謨ヲ継承シテ肯テ愆ラサラムコトヲ庶幾シ夙夜競業トシテ治ヲ図リ幸ニ祖宗ノ神祐ト國民ノ協力トニ頼リ世界空前ノ大戦ニ處シ尚克ク小康ヲ保ツヲ得タリ
奚ソ図ラム九月一日ノ激震ハ事咄嗟ニ起リ其ノ震動極メテ峻烈ニシテ家屋ノ潰倒男女ノ惨死幾萬ナルヲ知ラス剰ヘ火災四万ニ起リテ炎焔天ニ沖リ京濱其ノ他ノ市邑一夜ニシテ焦土ト化ス此ノ間交通機関杜絶シ為ニ流言蜚語盛ニ傳ハリ人心洶々トシテ倍其ノ惨害ヲ大ナラシム之ヲ安政當時ノ震災ニ較フレハ寧ロ凄愴ナルヲ想知セシム
朕深ク自ラ戒慎シテ己マサルモ惟フニ天災地変ハ人力ヲ以テ豫防シ難ク只速ニ人事ヲ尽クシテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ非常ノ果断ナカルヘカラス若シ夫レ平時ノ條規ニ膠柱シテ活用スルコト
ヲ悟ラス緩急其ノ宜ヲ失シテ前後ヲ誤リ或ハ個人若ハ一会社ノ利益保障ノ爲ニ多衆災民ノ安固ヲ脅スカ如キアラハ人心動揺シテ抵止スル所ヲ知ラス
朕深ク之ヲ憂惕シ既ニ在朝有司ニ命シ臨機救濟ノ道ヲ講セシメ先ツ焦眉ノ急ヲ拯ウテ以テ恵撫慈養ノ實ヲ擧ケムト欲ス
抑モ東京ハ帝國ノ首都ニシテ政治経濟ノ枢軸トナリ國民文化ノ源泉トナリテ民衆一般ノ瞻仰スル所ナリ一朝不慮ノ災害ニ罹リテ今ヤ其ノ旧形ヲ留メスト雖依然トシテ我國都タルノ地位ヲ失ハス是ヲ以テ其ノ善後策ハ独リ旧態ヲ回復スルニ止マラス進ンテ將來ノ發展ヲ図リ以テ巷衢ノ面目ヲ新ニセサルへカラス惟フニ我忠良ナル國民ハ義勇奉公朕ト共ニ其ノ慶ニ頼ラムコトヲ切望スヘシ之ヲ慮リテ朕ハ宰臣ニ命シ速ニ特殊ノ機關ヲ設定シテ帝都復興ノ事ヲ審議調査セシメ其ノ成案ハ或ハ之ヲ至高顧問ノ府ニ諮ヒ或ハ之ヲ立法ノ府ニ謀リ籌画経営萬遺算ナキヲ期セムトス
在朝有司能ク朕カ心ヲ心トシ迅ニ災民ノ救護ニ從事シ厳ニ流言ヲ禁遏シ民心ヲ安定シ一般國民亦能ク政府ノ施設ヲ翼ケテ奉公ノ誠梱ヲ致シ以テ興國ノ基ヲ固ムヘシ朕前古無比ノ天殃ニ際會シテ恤民ノ心愈切ニ寝食爲ニ安カラス爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
   御名御璽
     攝政名
       大正十二年九月十二日


天地何心(毛筆画像)

安房震災誌を読みて

 大正十二年九月一日の大震災は昔安政の大震と明暦の大火とを同時にしたやうで、其の惨憺たる被害の状況は實に筆舌の能く尽すことの出來ぬ酸鼻の極みであつた。我が房総の地亦震源地に近く強震に次ぐに強震を以てし、家屋の倒壊人畜の死傷算なく、単に震災のみの被害を以てせぱ東京横濱及横須賀より、より以上甚大であつた。此の日午の刻轟然たる大音響と共に屋宇倒壊濛塵晦瞑人畜逃避に遑なく、一瞬時にして死者千二百餘人傷者三千餘人を出し、家屋の倒潰三萬千餘戸其の範囲北條館山那古船形を中心として四十三ケ町村の廣きに及び、阿鼻叫喚凄絶惨絶の修羅場を呈せるに、加ふるに流言蜚語盛に行はれ、海嘯來ると称し、鮮人の襲撃至ると傳へらる。幸にして死傷を免れたる者も戦々競々狼狽狂奔殆ど爲す處を知らず、喰ふに食なく着るに衣なく僅に地上に茵蓆を設けて死傷者を護り辛ふじて夜を徹するの有様であつたと聞く。實に人生悲惨事の極致と謂はなければならぬ。安房郡民は此の古今未曾有の大震災を後世に傳ふべく震災誌の編纂を企て稿成り予に序を求められた。就いて閲するに記事正確又凄絶、加ふるに文章亦精錬當時の光景紙背に徹し同情の念湧出讀了に堪へぬものがある。予舊史を讀む毎に常に感激措く能はざるものは不慮の天災地變に際して我歴代の皇室が賑恤救護の天恩の優渥なことである。今次の震災に當ても詔書を下し畏くも「恤民の心愈切に寝食爲めに安からず」「朕深く自ら戒愼して已まず」と仰せさせ給はる。特に我が震災地には侍從を差遣はさせられ親しく災民の實状を尋ねさせられ、山階宮殿下亦親しく罹災民御慰問を給はれた。寔に感激恐懼措く能はざるものである。深く郡民の心肝に牢記して永久に聖恩の渥きに奉答せねばならぬ。今や震災後茲に四ケ年郡民の励精努力によりて復興の緒漸く就り今後勤儉力行積むに歳月を以てせば將來の發展期して俟つべきものがある。轉禍爲福は昔よりの教訓である。冀くば安房郡民たる者は大正十二年を生活の一變轉期として將來愈發奮一番新時代を招徠して以て聖恩の渥きに奉答するを得ば震災は寧ろ感謝すべきである。禍福の極致には人事と天事との差別はない。今や陽春三月萬物生を出すの時である。安房郡民の前途に多幸ならむことを祝福して已まぬ、一言所感を舒へて序にかゆ。
     大正十五年三月 千葉縣内務部長 山下謙一

 天災地殃は、從來吾人の知了し得ざる運命の一つと看做されてゐたが、科學の進歩は、或る程度までは、之れを豫知し之れを豫防することが出來るやうになつて來た。中にも地震は、學理によつて之れを豫知し得るものと断定さるゝやうになつた。然し、未だ完全な調査機關が之れに伴はないのは遺憾である。大正十二年九月の關東大震災も、地震研究者の説によれば、一兩年前より土地の隆起に既にその前兆を示してゐたと傳へられる。若し當時相當の調査機關が備はつて居たならば、斯くも戦慄すべき災禍は、或る程度まで之れを豫防し得たことであつたらう。
 我邦が、世界文明國中に於て、有名な地震國であることは人の知るところである欧洲に於て、我邦に比肩すべきものは、ひとり伊太利あるのみであるが、その災害は中部以南に偏在して、全國的ではない。又北米合衆國も、災害は殆んど西部地方に限られてゐるに反して、我邦に於ては、地震帯が全國に擴つてゐる。從て今次の大地震によつて一難は過ぎ去つたとしても。後難重ねて來らずとは断言することが出來ない。地震史料が、地震の調査研究に關して大切なることは喋説するまでもない。我が安房郡に起つた今次の地震を各種の方面から記録して、之れを後日に傳ふることは、少なくとも地震の災禍を今後に輕減するの一助となるであらう加之ならず、斯うした史料の研究によつて、間接に過去時代に於ける地震に對する伝統的な運命観を、その誤謬より一新することともなるであらう。震災誌の成るひとり有形的記録として大切なるのみならず、無形な效果の更らに大なるものあるべきをうたがはない。予職を安房郡に奉じ前郡長新川氏の後を承け震後復興の事に當り、切に之れを思ふ。記して之れを序に代へる。
   一九二六年三月
          安房郡役所に於て
             安房郡長 齋藤助昇

安房震災誌の初めに

 私が安房郡に赴任したのは、大正九年十二月のことで、まだ郡制時代のことであつた。大正十二年九月の關東大震災は、それから丁度四年目のことである。
 今次の震災は、いはゆる前古無比で、その被害が極端に惨烈であつた。私などは一命が助かつたのが、眞に奇蹟ともいふべきで、郡内の多くの死傷者に對しては申しやうもないのである。だが、一命が助かつた。それは無上の幸福であると共に又大なる責任でもある。私が當時郡役所の内外に向て、生命の無事なるものは、それを感謝して、救護の途に萬斛の同情を尽せと叫んだのは、それが生き残つたものゝ責任であることを痛感したからであつた。然し、私の菲才淺學に加ふるに、當時救護材料は、大欠乏で、食物さへもなかつたので、救護の業は、生命がけでやつても、それは頗る至難事であつた。即ち生けるものゝ責任を心の儘に尽すことが出來なかった。だが、幸に大過なく善後の處置を遂げ得たことは、郡内諸先輩の協同のカと、郡吏員諸氏の熱誠と、縣は勿論、大震災善後會等の同情の賜ものであつたことは私の終生忘れがたいところである。尚ほ一の特記して置くべきは、斯る未曾有の大天災に際して安房郡民の態度が如何にも立派で、少しも常規を失はなかつたことである。
 震災誌編纂の計画は、此等縣の内外の同情者の誠悃を紀念すると同時に、震災の跡を後日に傳へて、聊か今後の計に資するところあらんとの微意に外ならない。震後復興の事は、當時大綱を建てゝ之れを國縣の施設に俟つと共に、又町村の進んで取るべき大方針をも定めたのであつた。が、本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが主眼で、資料も亦た其處に一段落を劃したのである。そして編纂の事は、吏員劇忙の最中であつたので、擧げて之れを白鳥健氏に囑して、その完成をはかることにしたのであつた。今、編纂成りて當時を追憶すれば、身は尚ほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。聊か本書編纂の大要を記して、之れを序辞に代へる。
   大正十五年三月
        前安房郡長 大橋高四郎

再版の序

 大正十二年九月一日の關東大震災は、實に文字通りの振古未曾有のそれであつた。我が安房郡の如きは、震源地に接近してゐだだけに、その震動は極めて峻烈であつた。本書に記する全郡の各種の被害は、實にその激震の状を物語るものである。殊に海面は一帯に大海嘯襲來の變兆を現じたので、淘々たる人心は更らに一段狼狽したのであつた。今にして之れを追憶するさへ尚ほ肌に粟を生するを禁じ得ないのである。
 安房郡役所は、此の前古無比の大震災を記念すべく曩に「安房震災誌」を編述して、之れを官公署、學校等に頒ちたるも、發行部數僅少にして、廣く一般の希望に應ずることが出來なかつたのでそれを遺憾としてゐたのであつたが、編纂の局に當られた白鳥健氏は、此の程當局と交渉の上、多少増補を加へ、之れを再版に付して、汎く一般の需要に應じ本書編述の趣旨を貫徹せんとてその後援を予に求められた。予亦た素より感を同うするもの、直ちに白鳥氏の擧を賛し且つ頒布その他の勞をも吝しまざるべきことを誓つたのである。
 蓋し震後既に四閲年、復興の業半を過ぐると共に、人心漸く遅緩の状あり。幾多の困苦と欠乏とを甞めた當時の貴き體験は、次弟に減退せんとしてゐる今日に於て、本書を一般各家庭に頒つは啻に温古知新の資料たるのみならず、罹災當時の体験を永く今後の生活に生かす上に於て、更らに大なる補益あるべきことを信じてうたがはないのである。今、再版成るに當つて、所感の一端を記して之れをその序と爲す。
   大正十五年八月
         安房郡町村長會長
         千倉町長勲八等 岩瀬久治郎

凡例

 本書は大正十二年九月の大震災によつて、千葉縣安房郡の被つた災害と、之れに對して安房郡役所を始め全郡の官民が執つた應急善後施設の概略を記録したものである。
 本書は記述の興味よりは、事實の正確を期したので、第一編に掲げたる諸材料の如きは、文章も、諸表の様式も、敢て統一の形式をとらず、當時各町村が災害の現状そのものに就て作成した儘をなるべく保存することに注意した。
 第二編の記事は、那衙に於て、地震の即時から随時筆録した「震災日誌」と、その他の材料によつたものである。
 巻頭の寫眞は、災害當時余震の頻々たる中に、危険を冒して紀念の爲めに撮影したものである。從て鮮明を欠くものが尠なくないのは遺憾とするところである。
 元田千葉縣知事より巻頭の題字を、又山下本縣内務部長、齋藤安房郡長、大橋前安房郡長の三氏より各序文を賜はり、本書の爲めに光彩を添ふることを得たるは深く感謝するところである。
 本書の編纂に關して、安房郡役所の佐久間郡視學、中川前郡視學、武田技師、鈴木郡社會主事、吉井郡書記、小谷郡書記及び大坪第一課長、門前第一課長諸氏の熱心なる尽力に對して、茲に特筆して感謝の意を表する。
 終に私が安房郡役所の囑託によつて、本書の編纂に干與したのは、震災の翌年のことであつたが、當時は各町村とも、震災の跡始末に忙殺されてゐたので、調査報告の取りまとめに可なりの月日を費した。そして此の間、上記諸氏と各方面の關係者には、多大な手數を煩はした。若し此の小さき一編の記録が、我が地震史料の何かの役に立つことがあれば、それは悉く諸氏の賜ものである。
   大正十五年三月
     白鳥健 識す

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写真 写真:御差遣アラセラレタル山縣侍從
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写真 写真:大震災前後會々長以下ノ御慰問 中央 會長徳川公爵 右 副會長粕谷衆議院議長
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写真 写真:家屋倒壊潰ノ状況(其一)北條町南町通リ
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写真 写真:家屋倒潰ノ状況(其ニ)北條町停車場通リ
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写真 写真:家屋倒潰ノ状況(其三)館山町西ノ濱通リ
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写真 写真:家屋倒潰ノ状況(其四)那古町寺町通リ
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写真 写真:鐵道線路被害ノ状況
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写真 写真:鐵橋(九重千倉間)被害ノ状況
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写真 写真:道路亀裂ノ状況(其一)北條町地内
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写真 写真:道路亀裂ノ状況(其ニ)北條町地内
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写真 写真:野島崎燈臺(白濱村)崩壊ノ状況
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写真 写真:銚子測候所館山出張所陥没ノ状況
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写真 写真:震火災被害ノ状況(其一)船形町
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写真 写真:震火災被害ノ状況(其ニ)館山町三福寺附近
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写真 写真:軍人團其他道路整理ノ状況
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写真 写真:青年團其他死體発掘ノ状況
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写真 写真:食糧配給ノ状況
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写真 写真:慰問品整理ノ状況
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写真 写真:小學校児童露天教授ノ状況
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写真 写真:倒潰セル郡役所
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写真 写真:倒潰セル警察署
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写真 写真:郡役所及警察署ノ仮事務所(附)郡長告諭ノ要旨
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写真 写真:救護事務ニ従事セル郡役所職員
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写真 写真:千倉町平館ノ惨状
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写真 写真:千倉町川尻橋附近ノ惨状

目次

Array第一編 地震と其の被害
  第一章 総説…………………………一
  第二章 過去の地震と安房…………九
  第三章 地形の變動…………………六〇
  第四章 人の被害……………………九〇
  第五章 家屋其の他の被害…………一〇五
  第六章 産業上の被害………………一三一
  第七章 教育上の被害………………一五二
  第八章 交通上の被害………………一八八
  第九章 海嘯及び火災………………二〇四

第二編 慰問と救護
  第一章 総説…………………………………二一九
  第二章 勅使御差遣其の他…………………二二四
   一、勅使と御聖旨…………………………二二四
   二、山階宮殿下の御慰問…………………二二六
   三、徳川大震災善後會長の視察其の他…二三〇
  第三章 郡吏員の活動其の他………………二三二
   一、御眞影の奉遷…………………………二三二
   二、縣へ報告の急使………………………二三四
   三、各地への急使…………………………二三六
   四、倒潰跡の郡衙…………………………二三九
   五、負傷者應急手當………………………二四二
   六、焚出其の他の給與……………………二四六
   七、牛乳の施與……………………………二五六
   八、鏡丸最初の活動………………………二五七
   九、米の欠乏と罹災民の窮状……………二五八
   十、小屋掛と材料の欠乏…………………二六一
   十一、通信と輸送…………………………二七四
   十二、臨時町村長會議……………………二七六
   十三、震災状況調査………………………二七八
   十四、救護事務の分擔……………………二七九
  第四章 青年團の活動其の他………………二八三
  第五章 恩賜金其の他………………………二九三
  第六章 御下賜品及び慰問品………………二九七
  第七章 震災死者の追悼會…………………三一一
  第八章 震後の感想…………………………三一二

第三編 復興計画と善行美談
  第一章 復興計画…………………三二五
  第二章 安房郡震災復興會………三二六
  第三章 善行表彰…………………三三九
   安房震災誌

第一編 地震と其の被害

第一章 総説

 昔は地震を「なゐ」又は「なゐふる」といつた。「なゐ」は鳴居の意で、「なゐふる]は鳴動の義である。地震が科學的に研究される様になつたのは最近のことで、地震に對する思想は、幾たびか變遷してゐる。王朝時代人の地震に對する思想は、天譴の思想であつた。主としてその時代の詔勅に現はれてゐる。次は陰陽道の思想に基くものである。平安朝中期以後の地震に對する思想は、それである。次は崇の思想である。崇の思想は、前の陰陽道の思想の一部分であるかも知れないが、學者は普通之を第三期に數へてゐる。平安朝の末期以後に高潮された思想である。要するに地震を地震(なゐ)の神の處作と做し大地の震動を以て、神の働きに歸したことは蓋し近世に至るまでの思想であらう。江戸時代に於て、安政の大震災が比較的徹底的に救護されてゐるなどは、人間相憐の思想の外に、爲政者の自責の思想が加味されてゐることに基くことは看過すべからざる大事實である。

 今回の大震災は、銚子測候所の報告によれば、大正十二年九月一日午前十一時五十八分五十七秒が、發震の正確なる時刻である。そして、震源地點は、安房州の崎の西方にして、大島の北方なる相模灘の海底である。震動の回数は初發より九月二十五日までに八百五十回を算した。
 震災當時の氣象に就て、館山氣象観測所の報ずるところによれば、九月一日午前一時十分より微雨降り初め、同三時五十分より普通の降雨となり、同四時五分少雨同五時二十分歇む。同七時三十四分より少雨、同八時二分より普通の降雨となり八時七分強雨となり、八時十四分再び少雨となり、九時十分より強雨、九時十七分より普通の雨となり、九時三十分に至りて歇む。正午以後は、大震の爲め破壊を被り観測不能となつた。
 又同観測所の示すところによると、九月一日午前六時の氣壓は七五四粍三、風向は南東。同十時には七五三粍、風向は南々西。正午不明。午後二時氣圧不明、風向南々西。同六時氣圧不明、風向南西。同十時総て不明である。序でに地震の前日即ち八月三十一日の氣象を略記すれば、此の日は天氣晴朗で、炎熱甚だしく、宛然盛夏のやうであつた。氣圧は、午前六時七五九粍、風向不明。同十時七五九粍四、風向南東。正午七五九粍、風向南。午後二時七五八粍、風向東南東。午後六時七五七粍六、風向南々東。同十時七五七粍五、風向不明であつた。

 次に地震襲來の状況を記せば、上記正午二分前、南西より北東に向て水平震動起り、續いて激烈なる上下動を伴ひ、震動は次第に猛烈となり、別表に示すが如く、鏡浦沿ひの激震地方は、大地の亀裂、隆起、陥没、随所に起り、家屋その他の建築物又一としてその影をとどめざるまでに粉碎され、人畜の死傷限りなき一大修羅場と化した
 續いて大小の余震間断なく襲ひ、大地の震動止む時なく、折柄南西の方向に恰も落雷の如き鳴動起り、余震毎に必ず此の鳴動を伴つた。人心爲めに恟々、全く生きた心地がなかつた。
 然し、發震時が丁度正午であつたので、住民の分布状態は下記の通りである。—重もに激震地帯に就ていふ—
(1)漁民は二百十日(九月二日が二百十日)を氣遣ひ出漁するものが少なかつた
(2)農民は昼餉の爲めに田畑からの歸宅の途中又は家人一同打集ひて食事中のものが多かつた。
(3)町の商店では昼食中のものが多かつた。爲めに箸や茶碗を持つた儘飛び出したものが多かつた。
(4)小學児童は、夏季休暇後の始業式を濟まして、歸宅したばかりか、又は歸宅の途中のものが多かつた。學校の倒潰数の多きに比例して、児童の死傷者が比較的少なかつたのは此處に原因してゐる。

第二編 慰問と救護

第一章 総説

 前編に於ては、地震の惨害を事實の儘に叙述するがその目的であつたが、本編はその惨害を如何に處理救護したか。即ち自然力に對する人間力の對抗的状態を詳記するが目的である。
 勿論、突如たる天災で、其處に何等の用意も準備もあらう筈がない。殊に今回の大地震は、「前古無比の天殃」と詔書に仰せられた程で、實に人間想像の外であつた。
從て、平時の條規によつて事を處するなどは、迚ても出來得べきことでなかった。総てが事實必然の要求に從て、救護の途を講ずるより外はなかつた。中にも震災と殆ど同時に大々的必要を感じたのは、(1)医藥、食料、小屋掛材料の欠乏と(2)人心安定の方法であつた。北條、館山だけでも三千戸以上も潰れ、死傷者一千百余人も出したほどの大地震である。つい一瞬前まで泰平な天地は、震動一過、忽ち修羅の巷と化して了つたのである。人心の恐怖と不安と失望とは當然の歸結である。此際郡當局の最も苦心したのは、斯うした人心を平静に導くの方法であつた。もとより物資の欠乏も重大事であることは勿論だが、此の上人心が一たび自暴自棄に陥つたならば、その波及するところは豫め、測定することが出來ないのである。そこで、郡長は、聲を大にして「此際家屋の潰れたのは人並である。死んだ人のことを思へ、重傷者の苦痛を思へ。身體の無事であつたのが此の上もない仕合せだ。カを尽して不幸な人々に同情せよ。死んだ人々に對して相濟まないではないか。」といつて、郡民を導き、且つ励ましたのである。そして此の叫びは實際に於て、多大な効を奏した。萬事此の態度で救護に當つたのである。
 九月三日の晩であつた、北條の彼方此方で警鐘が乱打された、聞けば船形から食料掠奪に來るといふ話である。田内北條署長及び警官十數名は、之を鎭静すべく那古方面へ向て出發したが、掠奪隊の來るべき様子もなかつた。思ふに是れは人心が不安に襲はれて、神経過敏に陥つた爲めに、何かの聞き誤りが基となつたのであらう。すると、郡長は「食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ」といふ意味の掲示をした。可なり放膽な掲示ではあるが、將に騒擾に傾かんとする刹那の人心には、此の掲示が多大に効果があつたのである。果して掠奪さわぎはそれで沮止された。
 又是れと同じ問題は、鮮人騒ぎにも見たのである。安房郡は館山港をひかへてゐるので、震災直後東京の鮮人騒ぎが、汽船の來往によつて傳はつて來た。果然人心穏やかならぬ情勢である。郡では此の不穏の噂を打消す爲めにも亦た大なる苦心をした。丁度滞在中であつた大審院検事落合芳藏氏も鮮人問題には少からず心を痛め、東京から館山港に入港した某水雷艇を訪ひ、艇長に鮮人問題の事を聞いて見ると、同艇長は東京の鮮人騒ぎを一切否定したといふことであつた。そしてそれを郡長に物語つた。物語つたばかりではない、人心安定の爲めに自分の名を以て艇長の談を發表しても差支なしとのことであつた。之を聞いた郡長は、大に喜び直ちにさうした意昧を記載して、北條、館山、那古、船形に十余箇所の掲示をして、人心の指導に努めた。而かも落合氏の言ふ如く大審院検事落合芳蔵の名を以てしたのであつた。此の掲示は初めは大に効果があつたのであるが、東京の騒擾が實際大きかつたので、後ちに東京から來る船舶が、東京騒擾の事實を傳へるので最早疑を容るるの余地がなかつた。そこで、一旦掲げた掲示を撒去しやうかとの議もあつた。然し、郡長は艇長の談として事實である。それを掲示したとて偽りではない。而かも、之れが爲めに幾分なりとも、人心安定の効果ある以上、之れを取去るは宜しからずと主張して、遂に其の儘にしておいた。兎角するうつちに郡衙を去ること遠き旧長狭地方に鮮人防衛の夜警を始めた土地があつた。爲めに青年團が震災應援の業に事欠かんとする虞れがあつた。加之ならず、人心に大なる不安を與へることを看取した。其處で田内北條署長と共に、「此際鮮人を恐るゝは房州人の恥辱である。鮮人襲來など決してあるべき筈でない」といつた意味の掲示を要所々々に出した。加之ならず、「若し鮮人が郡内に居らば、定めし恐怖してゐるに相違ない、宜しく十分の保護を加へらるべきである」とのことも掲示して、鮮人に就ての人心の指導を絶叫した。要するに、斯うした苦心は刹那の情勢が雲散すると共に、形跡を留めざることであるが、一朝騒擾を惹起したらんには、地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。郡長が細心の用意は實に此處にあつたのである。蓋し安房に忌まはしき「鮮人事件」の一つも起らなかつたのは、此の用意のあつた爲めであらう。

 突如たる大天災で、而かもその災害区域の廣大であつた爲めに、医藥、食料、小屋掛材料の欠乏には、郡當局は非常に困難を感じた。要するに救護材料の総てが、震災の爲めに破壊されたり、輸出したりすることが絶對に不能に陥ゐつて了つたのである。そして死者負傷者は曾て人の経験したことのない多數に上り、家屋は殆ど総て倒潰して、住むに家なきもののみであつたのである。即ち地震の爲めに必要欠くことの出來ないものは、同じ地震の爲めに破壊されて供給することの出來ないものになつて了つたのである。郡當局の苦心と労力とは實にいふべからざるものがある。是れより章に分ちて、救護の内容を物語らう。

第三編 復興計画と善行美談

第一章 復興計画

 震災と同時に起つた應急救護のことは、前編に記するが如くにして、一段の局を結んだのであるが、之れと同時に又恒久的な施設を欠くことが出來ない。勿論、斯うした種類のものにあつては、國又は縣の施設に待たねばならないことが多きに居るが、それとても郡當局は初に於て之れが計画を充分建てねばならない。そして、地方は又地方だけの復興を着々實現せねばならない。何よりも事實の要求がそれを許さない。例へば學校、公共営造物、道路、橋梁、河川、漁港、舟曳場、耕地、溜池、避病舎、産業復興の準備などのやうな種類のもので、一日もその儘にしておくことの出來ないものが尠なくない。即ち當局は先づ此等復旧の途を建てたのである。
 然し、本書の主たる目的は、惨たる地震の記録と、その之れが救護同情の記録であるのみならず、編纂の資料は震災直後の調査に成るので、文字通りの眞の復興施設は未だ十分その時期に達してゐなかつたのである。だが、官民の合同に成る安房郡復興會は震災直後に於ける単なる計画對策の機關たるに止まらずして、その對策の實行機關ともなつて幾多の活動をしたのである。次章に之れを掲げる。即ちその多種の決議實行の細目は、此の時期に於ける必然の要求が生んだ事實そのものである。そして各町村の復興計画は此處から出發したのである。

第二章 安房郡震災復興會

 震後の復興は官民の双肩にかかる大なる事業である。眼前の應急對策を講ずると共に、亘久の復興を策せねばならない。それには有力なる郡全體を一つにした大團體を起すの必要がある。殊に當時にあつては、縣と安房郡震災地との意思の疎通融合を圖る上に於ても、斯うした官民一致の團體は欠くべからざるの必要があつた。先づ郡長大橋氏は此處に着眼して之れを郡内の重もなる有志に謀つた。すると有志も亦た之を郡長と相謀り、互に議を重ねて、次に掲ぐる「設立趣旨」によつて、先づ九月二十一日にその發起人會を、郡役所の假事務所に開催した。そして假會則十一條を議定した。
     安房郡震災復興會設立趣旨
 今回の震災は千古未曾有の惨事にして、人畜の死傷家屋の倒潰等殆ど算なく、其の被害全郡に洽く交通通信等の機關は杜絶し、郡民生活の基礎をして根本より破壊せられたり。畏くも
 聖上皇后兩陛下は痛く宸襟を悩ませられ嚢には多額の御下賜金の恩命を拝し更らに九月十一日山縣侍從を本郡に御差遣あり詳密に被害の状況を視察せしめられ、且難有御諚を辱うす聖恩の優渥なる寔に感泣の外なし加之内外人の同情は殆ど其の極に達し資を醵するもの幾萬なるを知らず殊に官憲は全力を擧げ之が救濟と復興とに尽力せられ其の活動實に目醒ましきものあるは大に吾人の意を強うするに足るべきものあり雖然非常なる時に際し単に官憲のカにのみ倚頼し拱手傍観するは本郡の爲め甚だ憂慮に堪へざる所なり宜しく此際官民協心戮力以て本郡の復興を圖り將來郡民生活の基礎を培ふは目下焦眉の急務にして亦以て郡民の一大義務たらずんばあらず若し夫れ一時を糊塗し他日噬臍の悔を招き徒に無辜の民をして路傍に泣號せしむることあらんか本郡の不幸之より大なるはなし茲に於てか吾人等損埃の至誠を捧げ安房郡震災復興會を設立し郡民の嚮ふ所を定め官憲の莫大なる援助と郡民諸士の熱烈なる翼賛とを得て其の目的の貫徹をカめ本郡永遠の利益を樹立せんとする所以なり
 此の日の出席者は
   萬里小路通房   檜垣直右   大橋高四郎
   小原金治     古田敬三   長谷川三郎
   川名博夫     島田榮治   笹子藤太
   武津爲世
の諸氏であつた。
 それから九月二十七日、郡長大橋氏は、被害激甚地の町村長を招集して、各町村復興會から代表者一名づつ、安房郡復興會の會員として選定すべき事を議定した。そして、二十九日に安房郡震災復興會の総會を北條税務署内に開會した。出席者は、下記の諸氏であつた。
 (發起人)  萬里小路通房   檜垣直右   大橋高四郎
 小原金治   吉田敬三     島田榮治   川名博夫
 辰野安五郎  明石重平     長谷川三郎  平野由太郎
 笹子藤太   宮崎徳造     武津爲世   満井武彦
 尾澤健一郎  竹澤太一     押元才司
 (町村復興會代表者) 館山町 内田松五郎  神戸村 錦織庄之助
 豊房村 川名房五郎  館野村 小原健夫   九重村 和田孫三郎
 稻都村 杉田戸一   那古町 渡邊富之助  船形町 小澤榮三郎
 富浦村 川名正吉郎  岩井村 鈴木亀太郎  國府村 松本梅吉
 千倉町 岩瀬久治郎  健田村 和田松五郎  千歳村 座間助治郎
 豊田村 加瀬喜三郎  南三原村 鈴木龍蔵
 開會に先て郡長大橋氏は、座長に小原金治氏を推擧せんことを諮つた。満場異議なく之に決した。座長小原氏は、會則を議せんことを提議した。すると満場一致で原案を可決した。會長、副會長その他の役員は郡長大橋氏の推擧に一任するに決し下記の諸氏が就任した。
 會長      小原金治   副會長  川名博夫
 農業部(委員長)笹子藤太 (副委員長)宮崎徳造
    (委員)平野由太郎 (委員)尾澤健一郎
 漁業部(委員長)武津爲世 (副委員長)満井武彦
    (委員)辰野安五郎  (委員)押元才司
 商業部(委員長)吉田敬三 (副委員長)島田榮治
    (委員)明石重平  (委員)長谷川三郎
會長小原金治氏の提議で、満場一致を以て、左の諸氏を顧問に推薦して、その承諾を得た。
顧問(常任)  安房郡長 大橋高四郎
同           萬里小路通房
同           檜垣直右
同           竹澤太一
 斯うした順序で、安房震災復興會は、その目的とする復興の爲めの根本組織が出來上つたのである。そして小原金治、門郡書記、光田鹿太郎の三氏は、先づ住宅用亜鉛板購入に關して、縣に出頭して、知事に交渉するところがあつた。その結果、縣は農工銀行、川崎銀行の兩行から、低利で金十五萬圓を安房銀行に貸出し、安房銀行は同一利率で郡長指揮の團體に之を貸付け、住宅復興の資に供することゝした。次で小原氏は、上記兩銀行の當局と會見して、その貸借を決定したのである。

Array 次に第一回総會に於て、復興會が、先づその事業の手始めとして、議定した題案は下の十三項であつた。
 一、農具破損の修繕は目下の急務なれば本會に於て職工を傭入れ共同使用の條件にて無代修繕を爲さしむること。
 二、農具破損の爲め新農具の必要上購入の希望者あるときは町村復興會はその種類個數を本會に申出で之が資金借入の便宜を本會に請求すること。
 三、農業倉庫の必要なる町村はその建設すべき場所倉庫一棟の坪數を調査し假倉庫建設を本會に請求すること。
 四、焼失又は流失の漁具にして應急補足の必要上資金を要するときは漁業組合に於て調査し、その資金借入の便宜を本會に申出づること。
 五、漁船出入の港灣にして震災により地層隆起し多少の工事施設の爲め資金必要なるときは該資金借入の便宜を本會に申出づること。
 六、町営貸家建設資金請求の件。
 七、住宅組合に於て建家資金請求の件。
 八、小學校舎建築資金借入の件。
 九、建築材料供給援助に關する件。
 一〇、大工職工供給の件。
 一一、人夫仲介所を北條、船形、千倉の三ケ所に設置する件。
 一二、公課諸税減免請願の件。
 一三、町村教育費特別補助請願の件。
総會に於て、委員を擧げて審議した結果、上記第一項は速行の手配を爲すこと、第二項乃至第五項は町村復興會の調査を俟て實行すること、その他の事項は、便宜當局に陳情して、その目的の達成を期することに決定した。
 十月三日、千葉縣震災復興會設立の通知があつた。會長小原氏會を代表して出席、郡内被害の實況を報告し、その協議會に臨席した。
 同十四日、小原會長は、大橋郡長と共に、白上内務部長の郡内視察に同行して、その善後策に就て陳情するところがあつた。そして翌十五日は、本會委員會を郡役所内に開き、震災復興方針に就き、白上内務部長と意見を交換し結局白上氏より左の言明を得た。即ち
 一、安房郡震災復興會を公認すること。
 二、本會の事務費は懸の交附金を以てすること。
 三、本會の事務所は安房郡役所内の一部を充當すること。
 四、本會は安房郡震災に關する全般の事務を處理すること。
 同二十三日、又総會を北條税務署内に開き、下記の諸項を協議決定した。
 一、小學校児童収容所建築に關する件。
 二、農具倉庫建築に關する件。
 三、農具購入費補助の件。
 四、大工職工傭入に關する件。
 五、小學校建築費借替に關する件。
 六、建築材料に官林を拂下げ廉價を以て罹災者に拂下の件。
 七、共同販賣所建築に關する件。
 八、共同倉庫建築に關する件。
 九、小學校舎附属室建築資金貸付に關する件。
 一〇、水産業復興に關する件。
 一一、児童用机腰掛製作費に關する件。
以上十一項目は、各部會の審議を経て其筋に陳情することに決し、陳情委員を左の三氏に依頼することに決した。
   小原曾長   笹子農業部委員長   武津漁業部委員長
 十二月十九日、小原會長縣の通知により出縣、翌二十日、本縣知事より本會に對し左の命令があつた。
 一、大工職工賃金補給資金として金一萬圓を安房郡復興會に交付す。
 一、豫て募集せる大工職工五十名本日青森市出發明日安房郡に到着の筈に付き適宜配置使用せしむべし。
 一、青森市大工職工一日の賃金三圓五十銭外に賄費として若干支給のこと。
 一、尚ほ五十名至急募集の手配をなし纒り次第發向せしむべし。
越えて二十一日、小原會長は、北條倶樂部に交渉して、大工職工宿泊給與辧當付賄料を一日八十五銭と契約した。そして直ちに之を縣へ報告した。當地方の大工賃金は一日二圓九十銭である。一人一日六十銭を補給するとして、賄料合算一人一日一圓四十五銭の補給金を給することゝした。
 そして翌十三年四月二十五日、縣は大工職工雇入賃金補給額を追加して、金一千五百圓の追加補給をされた。