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緒言

 昭和八年三月三日の津浪襲来は三陸沿岸地方の津浪に襲われ勝な地方たるを愈々確認せしめ、全般的に聚落移動が叫ばれた。然し人類の居住、聚落の立地には地理的・経済的・民俗的・歴史的種類の要因があるので一朝して聚落を移動するが如きは容易な事ではない。
 著者は此等の聚落移動様式の分類、考察を主として地理学的に研究せんとして齋藤報恩會の補助を得、昭和十年十二月以降、南は牡鹿半島より北は尻屋崎に到ること四回、総日数約五〇日に亘る實地調査を試みた。その一部は既に発表したが、こゝに全部を纏めて公表することゝした。然し資料は主として著者の一人山口が職務の傍ら七、八月及び十二、一月の休暇を利用して南より北へ徒歩で断片的に聞き歩いたノートに依るものが多いので遺漏も多かるべく、考究も盡していない点が多い。たゞ従来襲はれ勝の地なるが故に将來津浪の襲来あるを豫想し、その際直接、間接の別こそあれこれに依り一人たりとも危難を免るゝを得、且は聚落移動の研究上に何等か資する点があれば著者の満足之れに過ぎるはない。
 稿成るに際して齋藤報恩會の援助に對し、こゝに深謝の意を表する。

第一編 聚落移動資料

一、維新前の移動

一、岩手縣上閉伊郡船越村山ノ内
 小役角(1)が一日陸中の國船越ノ浦に現われ、里人を集めて数々の不思議を示し、後戒めて言ふには『卿等の村は向ふの丘の上に建てよ、決して此の海濱に建てゝはならない。若し此の戒を守らなかつたら、災害立どころに至るであらう』と。行者の奇蹟に魅せられた村人は能く其の教は守り、爾来一、二〇〇年間敢て之に背く者はなかつた。役ノ小角は又役ノ行者ともいい、この役小角の伝説は處々に残されてゐるから必ずしも信憑するに足らぬ。文武天皇の頃の人である。著者の踏査の際古老の談に依れば多分今の山ノ内聚落ならんいふ。此の聚落は明治二十九年にも昭和八年にも被害はない。
二、青森縣下北郡東通村尻屋
 古老(2)の話に據れば今より三○○年前は七戸であつて、先住地は現住地を距る十余町東北の濱邊であつたといふ。先住地を濱尻屋と称し、家宅の敷石と井戸の遺跡がある。濱尻屋の後方は一帯の檜林で、今原野の各所に切株が遺されてゐる。尻屋に於て最も古い家の住吉家の過去帳より調査すれば一六、七代となるという。一代を三十年と算すれば五○○年前となる。この移動主因が津浪であつたかは確かでない。易國間(3)のアイヌに追われたのだとも言ふ。
三、青森縣下北郡東通村尻勞
 古い位置(4)(5)は西南低地の大岩附近で、当時大岩の上に八幡神社が鎮座し、嵐の時に祠が飛ばぬ様綱をかけたと伝へてゐる。今もその附近に爐の跡が残り、屋敷跡と呼ばれる。約三○○年前と言うから寛永七年頃であろう。津浪の爲め流失し、當時丘上にあつた堀・館の二戸のみが天災を免かれたと言う。現在の位置は焼山と呼ばれ、海面上約一〇米の丘地にある。其の際に全戸は丘上に移動した。明治二十九年、昭和八年共に被害はない。
四、青森縣下北郡東通村猿ケ森
 現在の猿ケ森(6)の北方一里の地に千軒平と言う地がある。此處は「千軒」の地名に依つて偲ばれる如く、曾ては人口稠密な部落であつたが、天正七年六月と慶長十六年十一月の兩度の海嘯に洗われ人家の潰滅夥しく、其後更に寛永七年五月及び同十二年八月の海嘯に依り、一部落荒涼たる平原と化し、今日其地を流れる小川の底には三〇〇年前の埋れ木發見される。現在の猿ケ森(7)は其の際千軒平より移動したものと言はれるが、猿ケ森(7)で最も古い杉本家には樹齢約八百年と称する屋敷樹の「おんこの木」があり、千軒平にも移動後若干聚落が近年まで残つてゐたものと思ふ。海嘯の年代は猿ケ森の古老は不明と言ひ、著者には資料の發見が出来なかつた。
五、青森縣下北郡東通村小田野澤
村北(8)を流れる「かまの前川」の北側に古く數戸あり、津浪の爲め流失、川南の現位置へ移つたと傳へてゐるが年代は明らかでない。
六、宮城縣本吉郡大谷村大谷
 慶長年間(?)(9)に海嘯あり、当時は現大谷西南に當り沼尻と言ふ不動川に沿ふ宿驛があつたが、噴潮の為め決潰して大沼となつた。依つて新に川を掘つて南方川窪に向つて注ぎ、漸次宿驛を今の地に移し、其の沼を埋めて田野を開き、現今僅かに沼形と沼尻の名のみ残してゐる。明治二十九年の津浪の方向も復た同一方向より來り惨害を受けた。
七、宮城縣本吉郡十三濱大指
安政三年七月二十三日(10)海嘯あり、大指では此の海嘯後居を山際に移したものがある。
(1)今村明恒 地震漫談 宮城縣昭和震嘯誌 昭和十年三月 宮城縣
 明治二十九年の大津浪後予(今村博士)は度々夫の地を調査したが、船越で右の傳説を聞き、是こそ津浪の害を防止する最良の手段と感じたのであつた。
(2)田村浩 農漁村共産體の研究 昭和六年十二月
(3)山口彌一郎 尻屋の夜話 旅と傳説 昭和十二年四月
(4)田中舘秀三・山口彌一郎 陸奥尻屋崎尻労部落の共産制と漁業権問題 社会政策時報昭和十二年六月
(5)山口彌一郎 本州最北端尻崎附近の聚落 地理學 昭和十二年八月
(6)小野武夫 近代村落の研究 第二編共産村落の研究 第一 陸奥の共産村落 昭和九年九月
(7)前掲 尻屋の夜話
(8)前掲 本州最北端尻屋崎附近の聚落
(9)宮城縣 宮城縣海嘯誌 明治三十六年六月古老の口碑として載せてある
(10)前掲 宮城縣海嘯誌 十三濱村地震兩三回ありて海嘯起れり、然れども其勢弱くして浸水するに至らず

二、明治二十九年の移動

一、青森縣上北郡三澤村天森、砂森、塩釜、織笠、六川目、細谷、淋代、五川目、四川目、鹿中、三川目所謂川目(1)聚落で主に地曳綱を曳く漁民が南方より移動し、用水の便から川目に占居したのである。明治二十九年の津浪に依り背後に續く五—十五米の丘地に各自分散移動したものが多い。細谷(2)は海邊近くにあつたのが風の運び來る砂の爲め、家屋次第に埋れて岡の方へ移轉したとも言つてゐるが、移動の主因は津浪であつた。
二、青森県上北郡百石村二川目、一川目、深澤、川ロ
 川目聚落で流失した一部は何れも背後の丘地へ各白分散移動した。二川目(3)の中央標木は二十九年津浪の遭難紀念碑で當時の聚落の中心地である。殆んど全滅し官有地の交附を受けて高地に移轉し、昭和八年の被害は極めて僅少であつた。
三、岩手県九戸郡種市村八木、川尻高地に分散移動し、一部は其の後原地へ復歸した。
四、岩手縣九戸宇部村久喜
 すかばた(4)の屋號が須賀端になく奥にあるのは二十九年の移動に依る。海岸の數戸が高地へ分散移動したが、不便に耐え兼ね原地へ復歸したのもある。
五、岩手縣上閉伊郡船越村船越、田ノ濱
 船越、田ノ濱共に全滅したので、此(5)の機会に二村を合併し、略ゝ中央の山麓に集團移動地域設定の意見が出たが合はず、各別個に地域決定、船越は区長佐々木輿七氏が中心となり一二〇戸分の移動は完成したが、田ノ濱は新地区地均しの計画も時日の経過と村民の濱を離れるのを好まぬ爲め漸次假小屋は本建築となり移動は失敗した。昭和八年船越は被害なく、田ノ濱は再び全滅に歸した。
六、岩手縣上閉伊郡織笠村織笠
 一部高地へ分散移動した。八年には四一戸浸水したが流失、倒壊はない。
七、岩手縣上閉伊郡大槌町吉里吉里、浪板
 流失(6)の約半数五〇戸程高地へ分散移動した。内一○戸は元屋敷へ戻り、八年再び被害があつた。浪板も分散移動した。八年には被害はない。
八、岩手縣下閉伊郡大澤村大澤
二〇戸程各自高地へ分散したが約一○年間に低地が漸次復興するに伴ひ原地に復歸し、最後まで高地へ止まつたのは八戸に過ぎない。八年には再び被害があつた。
九、岩手縣下閉伊郡崎山村女遊戸
 復興(7)に當り部落民擧つて約一、○○○米後方の緩傾斜地をなす澤に各自力移轉した。八年には一戸の浸水にとゞまる。
一〇、岩手縣下閉伊郡鵜住居村箱崎
 被害家屋(8)の内その大部分は自發的各個に後方高地に移動した爲め、八年には被害が少なく、之れは危険区域に復興せるものに止まつた。
一一、岩手縣気仙郡唐丹村本郷、小白濱、片岸、花露邊
 本郷(9)の山澤鶴松氏が自己所有の畑地を集團移動地に當て自ら本宅を建築、村人に移動を勧めたが四戸移つたに過ぎず、漸次原地へ復歸して山澤氏も遂に原地に戻つた。八年には全減した。小白濱(10)(11)は災害義絹金を以て畑地を買収し、一戸平均五〇坪の地割をし、道路に沿つて商店街を造り、海岸より約二〇〇米の距離の高地に移動した。然し海岸との連絡道路、其他の施設を完備するに至らず、漁業を生業とする人々の日常の不便から新に分家したり、他より移住した人が先づ濱に占居した。又高地の本宅はその儘にして濱の原宅地に家を建築するものもあり、漸次原地復歸を促した。大正二年四月一日五葉山麓より発した山火事で山麓高地に集團移動した聚落を併せて二七〇戸殆んど全焼、山火事に恐れて山腹に約一〇戸を残して他は海岸低地の納屋、製造場の焼け跡の原宅地に下りて住した。八年には又大被害を受けてゐる。花露邊部落(12)約一○戸、片岸部落(13)約五戸も各自力で高地移動を行ひ八年には何等被害はない。
一二、岩手縣気仙郡吉濱村本郷
 當時(14)の村長新沼武左衛門氏等が山麓の高地へ移動する計画をたて、低地にあつた道路を先ず山腹へ變更し、それに沿うて分散移動した。尚ほ(15)防潮堤の築造に依り一層被害を減少せしめてゐる。
一三、岩手縣気仙郡越喜來村浦濱、下甫嶺、崎濱
 浦濱(16)、沖田、杉ノ下は殆んど全滅し、杉ノ下は五戸山麓に分散移動したが、内一戸は七、八年後生業の関係上現地に復歸、四戸は八年に被害がなかつた。下甫嶺(17)も敷戸山麓へ移つたが二年程で原地に復歸し、八年に被害があつた。崎濱(18)は部落民協力して原地に市区改正を行つたが津浪防護施設を完備せしめず八年再び被害があつた。
一四、岩手縣気仙郡綾里村小石濱
 数戸高地(19)へ移動したが、數年後現地に復歸、八年再び被害があつた。
一五、岩手縣気仙郡小友村唯出
 六戸(20)は背後の高地へ移動したが、大正七、八年の鮫の豊漁が續き、漁岸の假宅を本宅になほし、内五戸は原地へ復歸した。
一六、岩手縣気仙郡廣田村泊
 佐々木代三郎氏(21)が高地の畑を買収、集團移動を計画したが、実際移動したものは三戸に過ぎなかつた。
一七、宮城縣本吉郡階上村波路上、杉ノ下
 高地移動(22)を完了し、旧明石には一戸も残つてゐない。八年には被害は少なかつた。
一八、宮城縣本吉郡大谷村大谷
 村営事業(23)(24)(25)(26)として敷地を造成し、高地に集團移動を行つた。防潮林として黒松を海岸に移植したのも災害予防に役立ち、八年には被害は少ない。
一九、宮城縣本吉郡唐桑村大澤、只越、鮪立
 大澤(27)は組合組織で敷地を造成し集團移動を行ひ、後數戸原地に復歸し、八年再び災害に遭つたものがある。只越(28)は部落に接する北方臺地へ敷地造成工事に着手し、途中岩盤に遭遇して挫折し、只一本の幅員約三尺の避難道路を新設し、海(29)(30)より五○間奥に五—一〇尺地盛して現地へ集團復興した。八年には施設不徹底の爲め被害は相當大であつた。鮪立も一部分散移動した。
二〇、宮城縣本吉郡志津川町志津川
 沖の須賀埋地(31)(32)では若干移動した。
二一、宮城縣本吉郡戸倉村浪傳谷
 集團移動(33)した。
二二、宮城縣牡鹿郡大原村谷川
 石森氏(34)が一戸移り、他にも計画者があつたが時期を失して、移動しなかつた。
二三、宮城縣桃生郡十五濱村雄勝、荒
 四尺(35)(36)の地盛りをして移つたが不徹底で、八年再び災害を受けた。荒も二戸だけ高地に移動し、それは八年に被害無く、他は大災害を受けた。
(1)綿貫勇彦 聚落地理學 昭和八年四月 二四九頁
(2)青森測候所 昭和八年三月三日地震津浪調査報告(其の二) 験震時報 昭和八年八月
(3)青森側候所 昭和八年三月三日地震津浪調査報告(其の一) 験震時報 昭和八年八月
(4)山口彌一郎 屋號に依る聚落の一考察 地理學評論 昭和十二年六月
(5)田中舘秀三・山口彌一郎 三陸地方に於ける津浪に依る聚落移動 地理と経済 昭和十一年四、五、六月船越の吉田源二郡氏と田ノ濱の由崎忠三氏との意見が合はなかつた。船越の区長佐々木興七氏等は各自所有畑地を一反四十圓位で村民に分ち、低地の道路を山腹に上げ、其の兩側に集團した。飲料水は充分でないが、先の低地も井戸水が不充分であつたから、さまで苦痛ではなかつた。田ノ濱は八百圓位で新地区の地均しを計量したが失敗した。
(6)前掲 三陸地方に於ける津浪に依る聚落移動、原地復歸の主因は生業の関係・飲料水の不便、借金等で、津浪當時は濱地は地価低下するが、鰯干場、作業場としては勿論重要で、借金に困つた時は移動地の屋敷を手放して原屋敷へ復歸する。
(7)内務大臣官房都市計画課 三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告書 昭和九年三月 組織的復興計画でないから各戸点在したが、八年には二三戸中一戸のみ些少の浸水を被つたのみである。
(8)前掲(7)に同じ、明治二十九年の津浪の浪高八、五米、宅地の流失、浸水面積六、四一一坪、當時の部落の大部分を壊滅せしめた。八年の浪高四、四米の津浪に際しては家屋の流失、倒壊面積一、三五〇坪に過ぎず、高地移轉が充分の効果を發揮せるを知り得る。
(9)前掲 三陸地方に於ける津浪に依る聚落移動、二十九年には三〇〇戸程の聚落であつたが庵寺一を残して全部流失、出漁中の者、石巻へ出稼中の者一五六人が生存したのみであつた。山澤氏は庵寺に居て助かつた。高地移動を勧めた時、津浪は再々來るものでないとの口實の下に、元の宅地を離れ難さに原地に落着いた。そして津浪襲来の年より三、四年間鳥賊の豊漁が続いて景気が回復し、原地復興を促進した。明治三十五年頃までに略ゝ原地復興を遂げると高地移動の者も戻つた。大正二年五葉山麓より發した野火で六戸を残して焼き払はれたが、再び原地に復興した。
(10)前掲(9)に同じ、二十九年には當時村役場収入役山崎善造氏、区長小野富十郎、磯崎富衛門氏等が相謀り、工費は義捐金全額にて三、○○○圓を當てた。
(11)(12)(13)前掲(7)に同じ小白濱にては五○○—六○○人死亡、一二○—一三〇戸流失、倒壊面積二四、八○○坪に及び全滅した。八年の波高は一一、六米、低地の聚落は完全に壊滅した。今仮りに一旦移動した高地に定住したとすれば、八年の津浪に於ては家屋の被害は皆無であつたらうとは地形上より見て、明らかである。
(14)前掲(9)に同じ、二十九年四七戸流失、二三○人死亡、全滅家族三〇戸に及ぶ大被害を受けた。八年には其の後發展した低地の一〇戸と、移動位置の悪かつた二戸が被害を受けたに過ぎない。
(15)前掲(7)に同じ、二十九年の浪高二六、二米、海岸に延長五二三米、高さ八、二米の防潮堤を築造した。その構造前面法を扣四五糎の割石を以て法三分に積立て、裏法二割として土羽打芝張を廻らし、天場幅員三、六米、裏堤脚に接し一○米の幅の防潮林を植栽す。八年波高一四、三米の津浪の襲來に際して、防潮堤中央部より欠壊、全延長を流失したるも、同村小字上野部落の災害を免れたるは上記防潮堤に依る所大なりと思料せられる。
(16)(17)前掲(9)に同じ 下甫嶺では当時八八歳の老婆の物語りに、その三歳の時微弱な津浪に會つた後二十九年の津浪を経験した故、津浪は時折襲來するものでないと言うのを信じた爲めと濱に出る不便から原地へ復歸したと言ふ。
(18)前掲(7)に同じ、二十九年の浪高一一、六米、宅地流失面積八、一七○坪、部落の殆んど壊滅せしめたものと想像せられる。市区改正に依り三陸沿岸部落としては稀に見る整つた街衢を構成したが、八年の浪高七、八米、市区改正の大部分を破壊、流失した。例えば防浪堤の如き工作物を海岸に設置するか、若しくは北方丘陵地に部落地の移轉を図つたならば、八年の災害は完全に防止し得られたであらう。
(19)前掲(9)に同じ
(20)前掲(9)に同じ、二十九年五六戸中五二戸流失、二〇〇余名死亡した。移動地は飲料水不足し、濱に出るに不便で、大正七年頃原地に復歸した。
(21)前掲(9)に同じ、二十九年の被害があつて当時六〇歳の佐々木氏が高地移動を計画したが一般に濱を離れるを嫌つて再現しなかつた。
(22)震災豫防調査会報告 第三四號 明治二十九年六月十五日三陸大津浪の際宮城縣本吉郡唐桑村外五ケ村に於ける水害区域並に宅地移轉計画に関する図面。
(23)前掲(22)に同じ。
(24)前掲(7)に同じ。
(25)農林省水産局、三陸地方津浪災害豫防調査報告書 昭和九年三月 部落の南端を俗に沼尻と称する。海岸に二十九年以後村及び村民が防潮林として黒松を植栽し、相當に繁茂せる箇所があり、附近の耕地へ只海水の浸入せるに止まり大なる被害が無かつた。
(26)石川高見 昭和八年三月三日三陸沖強震及津浪踏査報告 験震時報 昭和八年八月 半島の南側にあつた當時の住家八〇余戸が殆んど全滅し、後住家は高所に建てた。其後漁労等の不便の爲に海沿に再び移つた家もあり、其の爲に今回も杉ノ下で三戸の流失を出した。
(27)(28)前掲(7)に同じ、只越は当時の技術上岩磐掘削の困難な事情にあつたとは言へ、若し之の工事を完成するか、又は他に住宅適地を選定し、高地移轉を遂行したならば八年の浪災を免れ得たのは明らかである。當時新設せられた避難道路は八年の津浪に對し、幅員狭少であつた爲所期の目的を達成し得なかつた。之れ不徹底な施設は行はないに勝るを物語つてゐる。
(29)前掲(9)に同じ、二十九年には約六〇戸中二戸程半潰で他は全部流失し、約三〇〇人死んだ。應急の假小屋は二間に二間のものであつた。移動地には一戸分五間に二〇間の屋敷を区劃し、建物は問口四間に奥行随意とし街区を整理した。
(30)亀谷孝治郎 三遷せる唐桑村只越部落 宮城縣昭和震嘯誌 宮城縣 昭和十年三月。
(31)前掲(二二)に同じ。
(32)(25)宮城縣海嘯誌 宮城縣 明治三十六年六月 二九二頁被害部落中共同移轉を促したるは戸倉村の内浪傳谷、志津川町の内沖の須賀埋地、大谷村の内大谷、階上村の内明戸、唐桑村の内只越及び大澤とす。
(34)(35)山口彌一郎 三陸地方南部に於ける津浪に依る聚落移動 齋藤報恩會時報 昭和十二年六月。
(36)前掲(7)に同じ。八年の津浪は地盛の四尺よりも更に四尺高かつた。

三、昭和八年の移動

一、青森縣上北郡三澤村五川目四川目、三川目
 三澤村沿岸の諸聚落は多く海岸低地の砂濱に発達したが二十九年に流失、背後の丘地に移動し、八年には一般に被害は少ない。然し漁業を生業とする者、殊に津浪の経験の無い移入者は〆粕製造等をする関係で二十九年の被害地に占居した者があり、又別家して濱に下つた者もあり、八年には四川目(1)。三川目に相當被害があつた。四川目は海濱に並行する丘地の上に道路に沿い一〇戸、六戸と二個所に集團移動した。新占居地は官地を拂下げたもので一戸一段二畝宛、旧屋敷も多くは移入者の官地に居續けたもので、個人の所有地は買上げ、共に防潮林を造成してゐる。三川目は各自所有地に分散移動したもの五戸、他は官地を払下げ村北の丘地に集團移動した。一戸分一段二畝—一段四畝位で、家の間口は随意である。低地の旧屋敷は防潮林造成地域とした。五川目(2)も若干被害があり丘地へ移動した。
二、同百石村二川目、一川目、川口
 被害は海岸低地の一部に限られ、夫々高地へ分散移動した。
三、岩手縣九戸郡種市村川尻、八木、大濱
 共に二十九年に分散移動してゐるが原地復興が多かつた。川尻では漁夫の家は比較的下りないが、魚の仲買人は濱を離れて商売にならぬから下りた。こゝでは魚市場が無いから濱に居て、船が着いた時競争して買取つてゐる。これ等は再び高地へ分散移動した。八木は殊に近年漁業者の移入多く、低地に住み流失、移動戸數二〇戸(3)、造成敷地は之を一〇戸宛二個所に設定した。其の合計面積一、一七四坪、計画高は何れも二十九年の波高一一、六四米以上とした。然し北の移動地には三戸、南には五戸集團移動してゐるのみである。これは濱との距離が何れも一—一、五町あり、被害当時二、三ケ月上つていて下りた者もある。原地へ納屋を建てゝ下りた家屋四戸あり、夜は住まないが、昼のみ商店を原地に出して通つてゐる酒屋と古着屋が各一戸ある。大濱は移動戸數九、敷地造成面積六六三坪、計画高六、五米以上とし、二十九年の波高一二米、八年七米に比し高度低いが、海岸に面する鐵道線路築堤に依り防護される。造成敷地を縦貫して縣道を付け替えた。
四、同野田村港、泉澤、三日市場
 港は四戸流失、北部高地へ分散移動、港の浦濱の納屋、住宅流失、野田の町内に五戸入り込んだ。泉澤へ三戸、三日市場へ三戸夫々海岸の低地より移動した。
五、同下閉伊郡普代村太田名部
 二十九年(4)の波高一八、一二米、八年一三米、移動造成敷地高は一一米以上とし、一部浸水位以下にあるが、前面に防波堤を築く。造成敷地は相當の勾配を有する細長い谷を選定し、面積三、五五九坪、中央に幅員五、五米の縦貫路を設け五四—八〇戸を集團移動せしめる。
六、同田野畑村平井賀、島ノ越
 平井賀(5)(6)は二十九年波高一五、八米、八年一〇米、住宅適地は二ケ所とし、一は旧部落北方斜面を切り均し一七戸を収容し、他は旧部落西方約三五〇米を隔てた山間平地の部落共有地を選定し三〇戸を移動せしめる。共に主として漁業関係者で移動を要する総戸数六四戸中他の一〇數戸は奥地の商店街住宅地に収容する予定である。たゞ後者は地磐の高度比較的低い爲め、二十先年程度の大津浪には浸水をまぬがれないから之を避ける為め防波堤を築造する。兩者の総面積三、七七九坪、地均工事は道路工事と関聯して村営を地元でなした。島ノ越(7)は二ケ所に集團移動、一は海岸山よりの距離三〇〇米で、一三戸を収容し、他は二〇戸を海岸に近く設け、村営工事とし、併せて一、六〇〇坪を岩盤利用して比較的安価に防波堤を設け、尚ほ第二段として在來の護岸で住宅地を防護してゐる。
七、同小本村小本
 二十九年(8)(9)波高一一、六米、八年八、六米、部落東南方縣道に沿ひ、一三米以上に盛土し、三、三一四—四、三〇〇坪の敷地を造成し、七一—九〇戸を収容するが海岸との距離は旧聚落の二〇〇米に對し一、○○○米に達する。
八、同田老村田老、乙部
 二十九年(10)山麓に土盛りをして地区を改正移動しようとして失敗し、八年(11)波高七、六米、再び全滅に歸した。高地移轉(13)を計画したが五〇〇戸以上を収容し、市街地を構成せしめ得る如き高地を選定し得ず現地復興とし、市街地を可及的山地に近接せしめ、耕地整理法を適用して区画整理(13)し、敷地を造成した。然し造成敷地は二十九年、八年の水位よりも低位にあり、市街地を圍繞して現地盤上一二米、満潮位上一四米の防波堤を設けた。堤は津浪の抵抗の強くない方向に築設し、旧市街の東側を流れる小川を堤外に付け替へ、西南方田老川筋と併せて緩衝地帯とした。田老川筋は常に移動するから、市街地側に護岸を設け、津浪の勢力減殺に備へた。各宅地は殆んど原位置に取つたが総宅地地域が以前より狭隘な為平均二割を減じた。
九、同大澤村大澤
 二十九年に移動して一部原地に復歸し、八年に再び五八戸流失し、柳澤に二〇戸分、寺ケ澤へ三〇戸分の集團移動を設定したが、未だ完全に移動していない。都市的海濱聚落(14)であるから完全に移動せしめ得るかは疑問である。
一○、同船越村田ノ濱、前須賀
 田ノ濱(15)(16)は二十九年罹災後移動に失敗したのに鑑み、全聚落の移動を敢行した。即ち被害戸數一三六戸に對し移動戸數二四〇戸、新聚落地は海岸より約三〇〇米隔てた高臺で、地形に順應して面積一二、一九七坪の扇形市街地を展開せしめ、三條の連絡道路に依り海岸との交通を便にした。二十九年波高一一、○米、八年九、○米、造成敷地高は一四、七米である。前須賀は二十九年船越移動後原地に主として移入者に依り造られた聚落で再び被害あり、山ノ内附近の高地に分散移動した。
一一、上閉伊郡大槌町小枕、惣川、安渡、吉里吉里
 大槌(17)は流失戸數一九三に及び大須賀方面の純漁村地域の被害が大であつたが町の中心部は浸水に止まつたものが多い。本地方(18)に於ける一の経済中枢をなす本市街地は現地復興の外ない。大須賀方面の一部は小枕に約四〇戸分、惣川に約二〇戸分集団移動地域を設定移動した。安渡は二一八戸中九八戸流失、北山腹に三ケ所に集團移動地を設定した。一戸平均四○坪、第一は四二戸分、第二は二〇戸分、第三は一四戸分であるが、何れ(20)も未だ數戸移動したのみである。又一部は山腹に分散移動した。吉里吉里(21)は二十九年移動者の原地復歸者及び其の後の津浪未経験者が生業との位置的関係を重視して原地居住をなした者が被害があつた。二七二戸中一〇五戸流失、二十九年(22)波高八、五米、八年四、二米、造成敷地は部落後方地盤の高さ一一、八米以上の緩傾斜地を選び、一戸平均五〇坪、総面積四、九三二坪に一〇〇戸を移動せしめた。現在(23)(24)は新漁村の理想部落の建設に務めてゐる。
一二、同鵜住居村室ノ濱、片岸、箱崎、桑ノ濱、兩石
 室ノ濱(25)の要移動戸數は約二一戸で山地に一ケ所集團移動した外若干は畑地緩傾斜地へ各自分散移動した。片岸(26)は一九戸分の高地住宅地を造成したが各自分散移動した。箱崎(27)も約一○戸分散移動し、桑ノ濱(28)は五戸分散移動した。兩石(30)(31)(32)は二十九年大被害があつたが現地に居住して再び災害を受けた。縣道の左右高地四ケ所に二十九年の波高六、七米以上の高さに敷地を造成し、約九〇戸集団移動した。造成敷地と縣道とには連絡道路を設けた。
一三、同釜石市臺村、狐崎、坊主山、嬉石
 鉱山(33)(34)と三陸漁業の中心都市として経済的活動は港灣の機能と分離し得ないから現地復興、街路組織の整理拡充、流失地域の街路復旧等をなした。然し東部仲町の海岸に接するを要しない住宅は後方臺村を中心として、澤村、門前附近の三つの谷に四ケ所に夫々分散移動した。港灣地帯は防浪建築を築造し、海岸埋立地と旧市街地域との連絡は幅九米の高架道路に依る事とし、灣の直面する地帯は高い地盤並びに高架道路構築に依り津浪を防ぎ、旧市街部分は防浪建築に依り後方家屋の被害を減少せしめ得る。狐崎、坊主山は夫々一一戸、一三戸宛集團移動した。嬉石は二十九年の波高以上の高地へ分散移動した。
一四、同気仙郡唐丹村本郷、小白濱、片岸、花露邊
 本郷(35)は二十九年波高一四、五米、一部高地移動したが原地に復歸し、八年波高九、三米全村一○一戸全滅し、谷奥の一戸が流失を免れた。人口六一三人中死者三二六人、縣道を二十九年浸水線以上に付け替へ、之に沿う南面の山腹に階段式敷地を造成、全村一〇一戸を収容する。既に(36)八四戸は移動を了した。小田濱は二十九年の波高一四、六米、八年九、六米で一三米以上の高地に縣道を付け替へ、二ケ所に計四、一六八坪の敷地を造成し、八五戸移動する。海岸の旧聚落地域には共同作業場を、新旧の住宅地は之を囲む高地に配置せしめる事とした。既(37)に造成工事は八年九月着工、同十一年竣功したが訴訟事件が起り家屋の建築の差し控えられてゐるものがある。片岸(38)は三ケ所に分けて集團移動した。総面積二、七六二坪、収容戸數六〇戸、何れも縣道に沿ひ、高さ一○米、八年程度の津浪には安全であるが、二十九年程度の大津浪には一部に於て多少の浸水を免れないであらう。飲料水(39)は片岸川の伏流水を揚水して小白濱、片岸一般に配水する。花露邊は部落後方に接する高地を切り、地均し一、四二五坪の敷地を造成、二十九年(40)の波高一三、八米より高く二五米以上とし、二○戸を移轉せしめる。本聚落と縣道とは従來道路を欠いたから幅員二米、平均勾配八分の一の連絡道路を設けた。
一五、同吉濱村本郷
 二十九年の移動に依り、八年は被害は少なかつた。其の後の低地に發達した者、二十九年の移動位置の不適當であるもの、及び縣道を更に高地に移した爲郵便局を始め民家八戸も道路の北側に移つた。この高さ(41)(42)は一七米以上であるが二十九年の二六、一三米程度の大津浪には浸水を免れない爲め、海岸防波堤を拡張して延長し、津浪に對する被害の軽減を計つてゐる。
一六、同越喜來村浦濱、下甫嶺、崎濱、泊
 浦濱は二十九年に若干移動し一部は原地に復歸してゐる。八年の流矢家屋は四九戸で、三七戸分の集團移動地域を設定したが、海岸との距離約六〇〇米で、一一戸だけ移つたが、他は原地に居住して移らうとしない。移動地の中央には道路を通じ、山麓より樋を以て飲料水を補給する等の準備はしたが、現在では余り濱に遠く、且つ海濱に沿ふ主要道路を避けてゐるので、こゝ(43)に居ては生計を立てて行けぬと言つてゐる。浸水高は二十九年九、二八米、八年六、七二米であつた。造成敷地の高さは一一米、面積三、四九四坪である。下甫嶺も二十九年に移り原地に復歸した者がある。八年には九四戸中濱の方の二一戸が流失、最初集團移動(44)が計画されたが移動地を得難く一部分散移動したのみで、他は未だ被害地域の假小屋を建てゝ居住してゐる。崎濱は八年の波高七、八米、一六五戸中二六戸流失、倒壊二三戸、集團移動(45)を計画されたが、若干分散移動したにとどまつた。泊は五七戸中一六戸流失最初より集團移動地は計画されず、多くは谷の山腹に夫々分散移動し、流失地域には製造場及び納屋のみを建てゝゐる。
一七、同綾里村湊、石濱、田ノ濱、白濱、小石濱
 湊(46)は一一七戸中一一五戸流失、最初高地へ分散移動する議が出たが、濱に密居生活して來た聚落を分散する困難を思ひ、西側山麓を切り崩して一戸平均約五〇坪、一四六戸分七、二八七坪の集團移動地を造成した。敷地(47)は二十九年の浸水線以上の高さで、縣道盛・綾里線を付け替へて中央を通し、水道を設備し、海岸との連絡道路を數條設け、海岸には防浪護岸、旧聚落地は共同作業場とし、綾里川沿い一帯の低地を防浪緩衝地帯とした。建築費(48)は國庫より産業組合が借りて個人に貸し付けたのであるが、返済の豫想の無い者は手控へて居る爲、住宅地域は完成したが未だ低地の假小屋に住む者が多い。石濱は二十九年三〇余戸中流失を免れたもの三戸に過きず、一五四人の死亡者を出したに拘らず移動は計画されなかつた。八年四六戸中二九戸流失、縣道を西北高地に上げ、それに沿うて二〇戸分一、○○○坪の住宅地を設定し飲料水引用の設備をもなした。然し未だ數戸移つたに止まり他は低地の假小屋に住んでゐる。田ノ濱も二十九年六〇余戸中二戸と観音堂が残り、死者三四九名を出したが現地に復興した。八年五一戸中三五戸流失し、二〇戸分一、○○○坪を東南山麓斜面に階段状に設定、既に數戸は移動した。然し低地の假小屋居住者か未だ相当多い。飲料水の設備は完成してゐる。此の外尚ほ各自山腹に分散移動してゐるのも數戸見える。白濱は約一〇米の高地に占居していたに拘らず、二十九年全部三〇余戸流失、一七五人の死者を出したが現地に復興した。八年は四二戸中一五戸流失、六三人死亡した。一時北と南の山腹に假小屋を建てたが将來は北の山腹に一一戸分の集団移動地を設定、簡易水道を引く事になつてゐる。然し既に北と西の二谷合いに於て各自所有畑地に本建築の家を完成させたのみである。流失地域には一戸も残つてゐない。小石濱は一部二十九年に移動したが原地に復歸し、八年二九戸中一三戸流失、将來被害地域には居住させない事にして夫々支谷、山腹に分散移動した。原地に尚ほ假小屋が二、三見えるが、高地の畑には宅地を建設中である。
一八、同赤崎村宿
 移轉(49)を必要とする戸數三三戸中集團移動二〇戸、縣道改修線と其の北方高地とに挟まれた帯状地を二十九年の波高二、七米以上盛土し、面積一、三一三坪の敷地を造成した。
一九、同末崎村泊里、細浦
 泊里(50)は要移轉戸數四二戸、集團移動戸數一九戸、住宅適地の高さは六米、二十九年浸水位と大体同じ程度とし聚落臺地後方を理想地として一、三六〇坪の造成計画を立てたが、用地関係で直ちに實施の不可能なる爲め計画を変更、他に敷地造成を選定したが未だ移動は完全に行はれない。細浦(51)は港町で八年波高三、○米、相當な災害はあつたが、現地に於てのみ其の経済的活動を継續し得可き本聚落の如きは、一部住宅を除く外高地移動を行ひ得ない。現地復興の外途がない。それで街路復旧工事其他の工事に依り街衢を整理して、日常の活動と非常時の避難に備へ、海岸は埋立を行い、護岸を築造し、波力の減殺に努めてゐる。然し罹災家屋の内海岸危険区域に在るを要しないものは之れを高地に移動せしめる爲、聚落後方高臺を利用し、二十九年の波高五米より尚ほ四米以上の高さに一、八六三坪を造成、三五戸を移動せしめる。最初(52)この北部に計画せられたが移動を望む者が少なかつた爲め縮少されたと言ふ。一戸分は六間に八間、四八坪(53)とし、幅二間の道路を挟んで八戸毎に一集團をなし、全体が矩形の集村となつた。飲料水は計画地の北部に少量の湧水があるのでこれを充てた。
二〇、同大船渡町
 被害(54)の大部分は浸水程度で、市街地の故に移動は困難で、築港、護岸の整理等に依り現地に於て復興事業遂げんとしてゐる。然し(55)沿岸沿ひの下船渡、茶屋前の漁業者は一〇〇—三〇〇米海岸より離し、下船渡六〇戸、茶屋前四二戸の移動計画を立て、一部は既に移動した。
二一、同小友村三日市、兩替、唯出
 三日市(56)、兩替は共に波風が弱く浸水の程度であつたが、後方に約一○戸分散移動した。唯出(57)は二十九年一部高地移動、其の後原地に復歸した。要移轉戸數は三五戸に達するが、内一九戸分の敷地一、一一三坪を造成、高さは二十九年の波高九、二米、八年七、七米より高く一四米以上の丘陵地に地均し、総べて分散移動を完了し、濱の宅地は納屋、製造場に当てゝゐる。
二二、同廣田村六ケ浦、泊、中澤濱
 六ケ浦(58)は二九年の波高満潮面上九米、敷地計画は高さ一○米とした。要移轉戸數三〇戸であるが内一五戸は自力移轉で他の一五戸の造成敷地を海岸に接し、旧聚落に東隣する高臺に選んだ。泊、中澤濱は二十九年波高六米、八年四米で二十九年若干移動したのみで八年には一二五戸流失、二ケ所に集團移動を計画、その一には郵便局外一、二戸移つたのみである。泊(59)の要移動戸數は五〇戸で内四五戸を集團移動せしめる爲二、七三五坪の敷地を、明治二十九年の津浪浸水位以上に設定したが、都市化せる濱の漁村なる爲め完全な移動は困難である。一部は各自適地を借地するか、畑地を宅地として山腹に分散移動してゐる。
二三、同気仙町長部
 二十九年(60)満潮面上波高四、九五米、流失三七戸、死亡四二人を出したが何等防波対策をなさなかつた。八年流失倒壊一〇二戸、死傷五二人全聚落流失した。然し岩手縣南部としては大船渡港に次ぐ良港で漁港と密接な関係があり移動が不可能である。依つて現地復興の方針を定め、現地盤より高さ二米余盛土し、其の前面及び側面は高さ六、三米の防波堤を築き、その間の低地には納屋、製造工場のみで住宅を建築せしめない。津浪緩衝地帯は今泉川筋とした。敷地造成面積五、三六四坪、収容戸數八六戸、流失地域をその儘地盛りしたので、屋敷割はせず現屋敷を夫々當てた。約五戸は各角山麓高地に移動した。
二四、宮城縣本吉郡唐桑村大澤、只越、石濱、高石濱、鮪立、宿浦、中、中井、小鯖
 大澤は二十九年集團移動してゐるが一部原地復歸、八年八六戸被害あり、低地には絶對に住宅建築を許可しないが假小屋と称するものが納屋、製造場に接して残り、一部のみ山腹に各自移動してゐる。北部の海岸には防波堤が建設された。只越(61)は二十九年集團復興地域を造成したが、八年再び三六戸流失、最初六〇戸程の集團移動地を縣當局の幹旋で造る予定であつたが、土地買収困難で各谷奥に各自分散移動した。石濱、高石濱は移動戸數五戸、敷地七五〇坪で各自分散移動した。鮪立は二十九年一部分散移動し、八年には二戸の移動が行はれた。宿浦は要移轉戸數二三戸で、内一六戸が集團移動を計画、一、二九〇坪の敷地を現地盤より最大二、四米に地均し、二十九年の津浪面上一、一米以上、八年の面上二、三米以上とした。中、中井は七戸が分散したのみである。小鯖は三八戸の集團移動の為め三、七五四坪の敷地を造成移動した。
二五、同鹿折村三ノ濱
 二戸分散移動した。
二六、同大島村横沼、中山、浅根、廻館、大初平、磯草、浦ノ濱、長崎
 横沼、中山は各三戸、長崎は四戸、他は何れも一戸夫々各自分散移動した。
二七、同大谷村大谷
 二十九年に高地移動、八年に六戸を海岸より二〇〇米以上離し、最も低い住宅も海面上六米とし、縣道に近く各戸分散移動した。
二八、同階上村波路上、杉ノ下、長磯濱
 波路上、杉ノ下は二十九年に移動、八年には六戸が海岸に近接した高地に各自分散移動した。長磯濱は一戸移動した。
二九、同小泉村二十一濱、今朝磯、歌生、蔵内、泉
 二十一濱は八戸は高地に分散移動し、六戸は今朝磯部落へ移動した。二十一川(62)に沿ひ長さ五二五米、高さ二米の護岸あり、之れは破壊されたが浪勢は減殺され、被害は軽減された。今朝磯九戸、歌生七戸、蔵内六戸、泉二戸は各自夫々移動した。
三〇、同志津川町細浦、清水、阿曾、西田、蛇主
 志津川町は二十九年海岸に四米の石垣を築き、其の後盛土して堅固な防波堤を築いた爲め八年は被害が減殺された。細浦、清水は海岸より六〇〇米離し、満潮位上六米の高地に三戸移動した。阿曾は二戸、西田一戸、蛇主二戸も夫々各自分散移動した。
三一、同戸倉村波傳谷、藤濱、長清水、寺濱
 波傳谷四戸、藤濱八戸、長清水四戸、寺濱四戸が夫々各自分散移動した。
三二、同歌津村港、田ノ浦、名足、石濱、馬場、中山、泊、寄木、伊里前
 港は六戸各自移動した。田ノ浦は移轉戸數二八戸、非集團であるが、移動地は山腹に比較的まとまつて点在しその造成敷地面積は二、六一〇坪である。名足は一一戸移動、石濱は二十九年の波高平均満潮位上一〇、五米、八年一〇、一米で、七戸分散移動したが造成敷地は旧聚落の西北方畑地を選定し、比較的集團してゐる。馬場は七戸、中山七戸、泊一戸、寄木二戸、伊里前二戸が夫々分散移動した。
三三、同十三濱村長塩谷、月濱、小指、大指、小泊、相川、相川田ノ入
 長塩谷、月瀬は各一戸移動、小指は七戸が海岸より三〇〇米離れて三〇—七〇米の高地に分散移動した。大指の移動戸數は六戸、小指は五戸である。相川(63)は二十九年の波高平均満潮位上五、八米、流失倒壊四二戸、死傷一九四人を出したが復興防浪の施設の見るべきものが無かつた。八年は波高四、一米、流失倒壊四〇戸に達してゐる。移動戸數は二三戸で、部落北方約五〇〇米の距離に約二、三一三坪の敷地を満潮、面上三一米に造成した。堤防及び盛土等協議したが意見は一致をみなかつた。相川田ノ入は二九戸が集團移動してゐる。
三四、同桃生郡十五濱村荒、船越、船渡、雄勝、名振
 荒は総戸數二七戸中一一戸流失、死者五九を出した。二十九年一部分散移動したが、波高は二十九年よりも稍ゝ高かつた。最初集團移動の議が起つたが適當な敷地を得られず、一七戸が各自山麓畑地に分散移動を完了し、被害地域には納屋、〆粕製造工場等の非住家屋があるに過ぎない。船越(64)は二八戸の集團移動地を谷奥の海岸を隔てる六〇〇米に一部山腹切り崩して建設したが未だ移動は行はれず、三戸が各自他に分散移動したにとゞまつてゐる。船渡は三四戸の集團移動をなした。雄勝(65)は二十九年に満潮面上三、六米、流失倒壊一一三戸、死傷二二六人を出し約四尺を地盛し県道を挟み細長い帯状街衢をなして發達したが、八年再び波高三、八五米、流失倒壊三六一棟、浸水二〇六棟、死亡九人を出した。移動を要する戸數二二六戸、適當な移動地なく、旧宅地を地盛りし、湾頭の波高、衝撃力が大であるから八年の波高と同高、原地面より最大三米の地盤とし、盛土法面は総べて石積とした。其の敷地面積一五、五二〇坪、内道路、水路面積は一、一二五坪を占める。土地狭隘の爲山麓側にのみ二階建の商店街が並び、海濱の低地は工場地帯として、特産(66)の石盤、硯製造、及び漁獲物製造工場地に當ててゐる。名振も集團移動地を建設し一一戸分の割當ては済んでゐるが移動したのは二戸のみで、他の一戸は他に移動した。
三五、同牡鹿郡女川町石濱、塚濱、小家取
 石濱は二○戸、塚濱、小家取は四戸夫々集團移動してゐる。
三六、同大原村谷川、鮫ノ浦、泊、小淵、大谷川、小網倉
 谷川(67)(68)は集團移動戸數一九戸、部落後方の傾斜地に岡を隔てゝ二ケ所に敷地を選定し、他の一部は分散移動した。造成敷地面積三、九二五坪、計画高は二十九年津浪面上五、四米、八年の津浪面上三、八米とした。原地には納屋の類が残つてゐるに過ぎない。鮫ノ浦は三六人死亡、二六戸中流失一一戸、其の他九戸が被害があつた。六戸は北部山麓の高地へ集團移動し、他の七戸は西部山麓に夫々移動した。敷地建設の土木工事は昭和八年十一月より始め、九年四月完成、家屋建築も一〇年には完成、移動を完了した。泊、小淵は九戸分散移動、大谷川は浸水一二戸に及んだが流失の被害はなく、大防波堤を造成して村を包み、二戸のみ移動した。小網倉は海岸より三〇〇米離れ、四米の高さに一三戸が移動した。
三七、同鮎川村鮎川濱、金華山
 一戸のみ移動した。
(1)東京帝國大學地震研究所、昭和八年三月三日三陸地方津浪に関する論文及報告 昭和九年三月、津浪被害及状況調査報告四〇頁に四川目、三川目各戸の被害分布図あり。
(2)農林省水産局 三陸地方津浪災害豫防調査報告書 昭和九年三月 九五六頁、被害者は既に高地安全地帯に移轉せるを以て之等被害者の再び危険地帯に降るを防ぎ、漁業者の便を図りて共同處理場を海岸に設くる必要あり。
(3)内務大臣官房都市計画課、三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告書 昭和九年三月 飛行写眞に説明あり。
(4)前掲(3)に同じ。
(5)前掲(3)に同じ。
(6)(7)前掲(2)に同じ。
(8)前掲(3)に同じ。
(9)前掲(2)に同じ。
(10)田中舘秀三、山口彌一郎 三陸地方に於ける津浪に依る聚落移動、地理と経済、昭和一一年四、五、六月、明治二九年の津浪に田老、乙部の二八五戸は全部流失し、死者一、八〇八名を出した。其の復興に當つて当時の假村長扇田榮吉氏等が主唱し、山麓に六尺程土盛りして地区を改正移動しようとし、一時義捐金の分配を差し控え、先づ三、○○○圓を投じて道路を変更した。而して已に五、六戸は之れに沿うて移動したが到底義捐金のみにては完成の見込立たず、従つて最初の土盛り計画は實現されず、漸やく一尺五、六寸の高さに止まつた。時日の経過と共に目前の避難者の困窮救助の義捐金を街区改正に使用するの可否、及び些少の土盛りが将來の被害を防止し得るかに對する疑問等意見を異にする者が出で遂に此の街区改正は不成立に終り、無防備の儘原地居住となつた。
(11)前掲(3)に同じ、八年の波高七、六米罹災戸数五一三、人口二、九五〇人中流失倒壊五○三戸、死亡、不明八八九人負傷一二二人、計一、〇一一人、中心市街全滅した。田老湾は直接太平洋に開港せるU字形湾で、聚落は湾奥に位する爲め充分な防浪對策を施さなければ常に全滅に漂される。
(12)田老小学校 田老村津浪誌 昭和九年九月諸學者は同聲に「高地移轉」の意見を述べられたが、約五〇〇戸の家屋の移轉するの難事と適當なる高地が附近に見當らぬ事から、防波堤を築造して市街をこの内に造る事とし、縣道及び之に並行する路線(自一號線、至七號線)數本を幹線とする市街をつくり、可成多数の避難道路を設ける事とした。昭和八年十月十五目岩手縣復興事務局及び支庁耕地整理課の指示の下に「耕地整理組合」組織に着手し、十二月五日認可申請、同十三日認可、同十六日創立総会を開催して定款を決定の上地主全部の賛同を得て成立した。組合事業の主要なものは住宅地の区割、割當、耕地の土砂取除、道路の掘■切換等で、工費三二、○○○圓は之を起債一五、○○○、縣補助金一七、○○○圓による事とした。
(13)辻芳彦 三陸沖強震津浪報告 験震時報 昭和八年八月 一八六頁 非常時に際し避難すべき山地の遠き事、其山路の険悪にして登行容易ならざる事、本村より山手への道路少なく不便多き事等惨害を大ならしめたる所以にあらざるやと推考す。
(14)前掲(10)に同じ。
(15)前掲(3)に同じ。
(16)前掲(10)に同じ。
(17)前掲(10)に同じ、大槌は移住地域の不足、地方都市としての生業の関係上現地に復興、防波堤、防潮林の計画及び鐵道線路の地上げ工事が完了、将來防浪の重要な役割をなし、完全に津浪の害を救い得ると信ぜられる。
(18)前掲(3)に同じ。
(20)前掲(10)に同じ、現今は海濱被害地域に居住する者が多い。就中商店の移動は困難であるし、漁夫は海濱に落着き易い。それ故町では原地海岸居住者の爲護岸工事を進めてゐる。
(21)前掲(10)に同じ、津浪以前に宅地として坪五—一○圓で売買された畑地は坪二圓で強制的に買収された。その代り地主の宅地は六〇坪として希望に依り自分の土地を占居し得る優先権を興へ、他は抽選にした。街を二通とし、間日五間に奥行一〇間、宅地が狭い爲二階建が多くなつた。飲料水の不便から以前には原地復歸者があつたので、此度は四、○○○圓で水道を設備し、浴場まで浩り、産業組合が経営してゐる。一方海岸には住宅、耕地保護の爲防浪堤を建設、尚避難道路二線を造り高地避難に便とした。
(22)(23)前掲(3)に同じ、四六頁に建設計画概要あり。
(24)吉里吉里小學校 新漁村建設計画要項。
(25)(26)(27)(28)(29)鵜住居小學校 郷土資料海嘯誌。
(30)前掲(25)に同じ、要移動戸數約九〇戸、造成敷地約四、五〇〇坪、畑及び山麓傾斜地に縣が設計し、買収費は該住宅敷地へ居構する者の負擔とし、買収には五名の委員が推擧され、買収地評価は委員会を開き畑地坪當り一円、山林其の他は坪當り○、三〇圓とした。住宅適地造成及び雑費に要する二三、四〇〇圓は大蔵省預金部より低利資金を借入した。各造成地の戸數は、第一住宅適地一一戸、第二適地三五戸、第二適地二三戸、第四適地二四戸。
(31)前掲(10)に同じ、二九年には一四四戸中一四一戸流失、全人口九五八人中死亡者八二四人を出したが、聚落移動は叫ばれなかつた。一「兩石は他所者の集りだ」と言われた程、旅人や、稼ぎに来て入婿となり家を復興させた者が多いらしい。縣では應急に間目一○間、奥行二間半、一棟五戸建として八○戸分の暇小屋を建てた。新造成敷地一戸分は平均五○坪とした。
(32)前掲(3)に同じ。
(33)前掲(3)に同じ。
(34)釜石町役場 昭和八年三月三日 大海嘯火災の被害並びに其の後の状況 昭和九年五月
(35)前掲(3)に同じ。敷地面積五、六三七坪、海岸と二條の連絡道路で海岸と連絡する。
(36)前掲(10)に同じ。集團移動工費一七、五〇〇圓、昭和八年九月着工、十一月竣功、住宅は九年十月迄に八四戸移動を了し、被害地域には納屋、製造工場以外の復興を許さない。一戸平均宅地五〇坪で簡易水道を設備し、谷底の原聚落を通過した道路を北の山麓聚落前に改修、既に數戸の店舗が見えてゐる。
(37)前掲(10)に同じ、八年には一六〇戸中一〇五戸が被害をうけた。二九年の移動地域には主要道路の通らなかつた事が原地復歸を促した原因と見られたので、縣道を高地に移し、簡易水道も計画中である。寺院前の集團移動地に於ては地主が土地代未回収の爲其の土地を抵當として借金し、共の借金を村當局に負担せしめようと言う訴訟事件が起つた。
(38)前掲(3)に同じ。
(39)前掲(2)に同じ。
(40)(41)前掲(3)に同じ。
(42)前掲(10)に同じ。
(43)浦濱の某氏(六三歳)談『日雇や借家人は何處へでも移れるが道路に沿つて大資本を下し商店を開いてゐる者は、假令被害地域に居ても勝手の悪い集團地に移つては生きて行けぬ。其の當時は補助をくれるからと言うし、津浪に會つた當時は気も動いたかも知れぬが、段々うやむやになつて原地に落着く者が多いであらう。』
(44)前掲(10)に同じ。被害者は主として純漁夫であつて土地の所有者や有力者には無い。これに反して附近は相當耕地が廣く農業者が多い。此の津浪被害の少い農業者の中に有力者が多く、又移動計画地の地主が多い。農業者は移動に熱心でなく、其の地主等は畑を担保に借金し、それを移動者に負はせ様としたので遂に移動計画は失敗に歸した。
(45)前掲(3)に同じ。流失倒壊四九戸を高地に移動せしめ、跡地を共同作業場とする計画は再び罹災しない爲是非必要であるが、未だ高地移動の決行を見ないのは遺憾である。移動地は現聚落の東北に接する高臺斜面を理想とする。
(46)前掲(10)に同じ。
(47)前掲(3)に同じ。
(48)縣では最初高地分散移動を計画した。敷地造成約七、○○○坪で五七、○○○圓、一四六戸分の建築費約四二、○○○圓は産業組合が借りて個人に貸付け年利三分二厘、敷地造成費の利子は縣の補助に依る。宅地は一二等級に分け一級坪當り四、三圓、一級○、二圓下りとし各戸に選定させた。工事を始めたのは認可が後れて昭和九年二月頃、水道は十年七月完成、昭和十年来まで約一○戸移動したのみであつた。
(49)(50)(51)前掲(3)に同じ。
(52)米倉ニ郎 三陸海嘯罹災地方に於ける聚落の移轉—岩手縣気仙郡末崎村に就いて、地球 昭和九年一月移動計画地は現在民有であるが、之を當局が買収し、宅地を設定し、交附する。地価及び建設費は五ケ年据置き、一五ケ年賦で返還する、(但し未定案)。日射は西北斜面で不適當であるが、土地の廣さ、風向時を顧慮したのであろうか。密集制は漁村としてよい。
(53)東大農學部農政學研究室編、漁村経済の研究 山形縣西田川郡豊浦村堅苔澤の例では、漁家七○戸の平均宅地面積は四七、三坪であつて、相匹敵してゐる。
(54)前掲(3)に同じ。天然の良港を控え、港湾の修築、大船渡線の鉄道開通に依り海陸交通の要衝となつてゐる。八年の津浪は護岸及び工事中の繋船岸壁に依り其の勢を減殺されたが、市街地なる為相當の被害があつた。新驛と海岸とを連絡する道路を幅員一一米とし、築港を経て縣道に連る道路の幅員は五、五米—一二、○米とし、街路復旧事業として拡張新設した。
(55)前掲(2)に同じ。移動豫定地は下船渡は背面鐵道線路裏高地、茶屋前は大船渡駅背面で、共に二十九年の浸水線以上であり、井戸を用い得る。
(56)前掲(2)に同じ。
(57)(58)(59)(60)前掲(3)に同じ。
(61)前掲(10)に同じ。最初の移動豫定地は海岸より一○○間も離れてゐた。これは不足勝な耕地を減ずるので反對が起り失敗に歸した。奥の谷に約二〇戸行き、北の山腹にはニケ所に夫々四戸、五戸と移動し、南の山腹にも二戸移つてゐる。流失地域は危険区域として住宅の建築を許さないから、移動後には生々しい空屋敷が其の儘になつてゐた。
(62)前掲(2)に同じ。
(63)前掲(3)に同じ。
(64)船越は流失四戸全潰七戸に達したが、時日遷延と、死傷者なく被害が比較的少なく、生業の関係上海岸を遠く離れるを望まず、集團移動に熱意を欠き、未だ一戸も移動せず、屋敷割當も出来ずに居る。この原因は種々あるらしいが、漁業者の濱を離れる不便が最大である。最初の村當局の移動豫定地はもつと近い畑地の一被害者の所有地であつたが『土地を一旦買収され、復興地建設後配當を受けるよりは自分で勝手に移動した方がよい』と地主に主張され先づ土地買収に失敗し、現在の復興地建設となつた。時日の遷延と共に、建設資金の返済を苦慮する等、『食はずに死ぬより津浪で死んだ方がいゝ』と極論するものさへ出來て、事實上集團移動は失敗と見られる。津浪前は砂浜に過ぎず、現在既に防浪堤は出來てゐる。むしろ移動地建設費用を防浪堤築造に當てた方がよかつたと言つてゐる村人もある。
(65)前掲(3)に同じ。
(66)十五濱村 昭和八年三月三日 震嘯災害並に復旧復興概況。
(67)前掲(3)に同じ。
(68)山口彌一郎 三陸地方南部に於ける津浪に依る聚落移動 齋藤報恩會時報 昭和十二年六月。

第二編 聚落移動の様式

一、原地居住

 a、被害の僅少
 津浪の襲來を受けた聚落も被害の僅少なものは移動の必要なく原地に居住してゐる。防浪堤、護岸工事等を完成させれば一層原地居住性が強くなる。
 b、港湾(1)(2)(3)を持つ地方都市
 都市の経済機能が港湾にある釜石市の如きは移動は不可能である。この場合は直接に海濱に居住を要しない住宅街を山腹移動し、港湾には防浪堤、防浪岸壁及び防浪建築を築造せしめ、即ち津浪に對する武装都市として原地居住する。山田町、大槌町大槌、大船渡町、志津川町、八ノ戸市等は被害の大小は夫々異なるが都市の主要部は移動してゐない。
 c、生業の関係
 漁業を主なる生業とする三陸海岸の諸聚落は海岸を離れる事は困難である。近距離に適當な移動地の得られる場合も海浜を去る事を好まないし、餘り遠く離れると日々の通ひ、船の見張、漁獲物の處理に困難となり、生活を脅かす。この声は直接各地で聞く。越喜來村浦濱は約六○○m離れて集團移動地を設定したが若干移動したのみ、十五濱村船越は移動しない移動地が尚ほ山腹にさらしてある。これは後述する移動の失敗であるが、その主因が生業に依る。
 d、敷地狭隘
 三陸沿岸の如きリアス式湾頭に占居した聚落が相當の大きさに達すると、他に移動の適地を求め得ない場合が多い。これは一層地方都市の移動をも困難する。田老、乙部は、最初集團移動の議もあつたが敷地狭隘で市区改正に依る原地居住となり、気仙町長部も原地居住となつたが、防波堤に依る武装を施すか、盛土に依り、事實上被害當時より垂直距離を高めてゐる。
 e、移動計画の失敗
 失敗の原因には前述の諸項を含む場合が多いが、特に集團移動の計画地を求め、適地を得られるに拘らず、地主の不承諾、農業者と漁業者の感情上の問題から買収が不能になつた場合がある。越喜來村下甫嶺には斯の如き問題が起り、一部は分散移動したが、他は原地危険区域に居往してゐる。移動問題が容易に決せず時日の遅延が遂に原地居住を促した場合がある。前述十五濱村船越、片岸等にもその傾向が見える。殊に二十九年に移動計画、市区改正計画等を立てゝ失敗したものに大原村谷川の一部、田老等がある。唐丹村小白濱の一部等にも村當局と地主間の問題未解決の爲移動地建設に拘らず移動を了しないものがある。

二、集團移動

 a、漁村の集團的機構 三陸沿岸は漁業を主とし、農業は副に過ぎない。殊に津浪襲来地域の居住者は漁業を主するものが多い。砂濱海岸の地曳網を主とする九十九里濱(4)の漁村も家屋密度は一般に大である。殊にリアス式湾頭に一つの漁港を中心として發達する漁村は集村で、漁業自身又共同的作業多く、又農村の如く耕地の便より分散する如き必要は無い。聚落移動の形態を先づ集團に置き(5)密居制としたのは適當であらう。内務省(6)にても全部落高地移轉をなすものは、部落構成の中心を造成敷地に移し、町村役場、警察署、學校、社寺等公共的施設は之を造成敷地の最高所に位置せしめ、敷地の中心には部落民交歓の用に供すべき小廣場を設け、これに接して集會所、共同浴場等を設くるのが適當であると示してゐる。この理想部落(7)(8)に近く復興をみたのは大槌町吉里吉里の新漁村である。
 b、復興資金貸附の主體、共同復興。
 復興資金貸附の主體は町、村か産業組合である場合が多く、岩手縣(9)にては住宅組合往宅復旧事業、産業組合建物復旧事業の資金借受主體は産業組合と定められてゐる。即ち産業組合組織(10)に依る往宅購買利用組合を設立せしめ、協同の力に依つて漁民集團部落の復旧を計り、尚ほこれを一轉機として漁村部落の改善を期さうとした爲集團移動を方針とした。その敷地造成、水道、道路の設備、家屋の建築共に共同復興として経済的でもある、岩手縣はこの統制下にあつた爲殆んど全てが集團移動となつた。然し土地狭隘で全村一ケ所に集團移動不可能な場合は數ケ所に分離して集團移動を遂げた。鵜住居村兩石の如きは四ケ所に分割集團移動し、唐丹村小白濱等も二ケ所に集團移動してゐる。此の集團移動は町村等が敷地選定、造成の主體になる爲、部落民の希望に稍ゝ遠ざかる場合もある。部落民は目前の生活が主であり、海濱を離れるを望まないが縣當局の指示、或は町村の主眼とするのは今後の被害の減少絶無であるから、適地を得られず海濱との距離が大に失する場合もある。越喜來村下甫嶺、十五濱村船越等にその傾向が窺はれる。
 c、被害甚大
 被害甚大な聚落は全村擧げて移動する場合が多く、村の旧習、機構を破壊しない爲に集團移動の共同復興を遂げるのが多い。唐丹村本郷、鵜住居村兩石、船越村田ノ濱、綾里村湊、石濱、田ノ濱の如きは一人の異論者もなく、集團移動を決議し、既に移動復興を完成してゐるものが多い。
 d、先覚者の指導
 八年には縣當局、内務省その他が主として集團移動を勧め、この實施されたものが多いが、二十九年には救済方面の活動は相當あつたが移動を積極的に計画するものは無く、一、二の先覚者に依つて指導されたものに限つていゐる。唐丹村本郷の山澤鶴松氏、同小白濱の山崎善造、小野富十郎、磯島富衛門の三氏、吉濱村本郷の新沼武左衛門氏、船越村船越の佐々木與七氏、廣田村泊港の佐々木代三郎氏等何れも私財を投じ、自己所有の畑地を當てる等主として集團移動を主張、指導し、一部には移動完成、八年に被害を甚だ減少せしめたものがある。然し當時としては一般民の良く理解する所とならず、特に移動した者も亦原地に復歸する等、八年の被害を大ならしめた原因をなしたものすらある。

三、分散移動

 a、集團移動失敗
 最初理想的集團移動地を求めて適當(11)な地域を得られない場合、或は餘りに時日が遷延する場合は各自が、自己所有地か、土地買収、交換等に依り山麓高地等に分散移動したのが多い。この失敗の原因には種々ある。単に地形の関係上適地が得られなかつた場合、適地はあるが所有主が敷地として譲渡しない場合、これは耕地の少ない三陸沿岸には相當あり、又被害者は漁民で、土地所有者は主に農民でその生活の基礎観念の相異が、惹いては感情上の問題になつて縺れる場合がある。適地の選定が移動部落民に好まれない場合、縣、村當局と部落民の意見の相違より起り、殊に法令等を盾に對面問題等を主とする場合は特に適地が造成されても部落民は移動しない場合がある。次は経済問題である。仮令低利資金の借入であつても、資力に乏しく、殊に被害當時の漁民には将來返済の目算の立たない借財を好まず、工事を或る期間に限られても、経済上復興の見込の無い者は安價に随意山腹等に移動し、最初は其處が假の住地であつて、将來は集團移動地に移る豫定であるにせよ、遂に定著するに至る。時日遷延の爲め、集團移動地完成を待ち切れずに各自分散したものもある。これは移動地の土地買収に種々の問題がからまる場合が多い。越喜來村下甫嶺は集團移動が失敗し一部原地居住、他の一部が分散移動してゐる。綾里村白濱、福田村泊港、十五濱村船越等は集團移動地を完成しても時日の遷延等の爲め各自分散した。十五濱村荒、唐桑村只越等は適地を求め得ない爲め分散移動した。
 b、被害僅少
 被害が聚落の一部に過ぎない場合は全村の集團移動の必要なく、被害者の若干が高地へ分散する場合が多い。宮城縣沿岸の被害の僅少な聚落、殊に小戸數の聚落に各戸随意に分散したのが目立つ。
 c、部落の不統制
 部落の不統制から最初より集團移動の議が提出されず、各自随意に移動したものがある。殊に前項の被害僅少の場合が多い。
 d、二十九年移動の爲被害僅少
 二十九年移動した爲八年には其の後の移入者、原地復歸者等の一部が被害あり、各自分散移動したものがある。吉濱村本郷、船越村船越、唐桑村大澤の如きはその適例である。
 e、一部集團、一部分散移動。
 これは集團移動と分散移動の中間型のものであるが、案外にこの形式のものが多い。部落の大部分が集團移動した場合の分散は個人的事情に依るが、部落全部の集團移動適地の得られない場合は敷地狭隘に依る集團移動の失敗とみられる。村の不統一、感情問題等が一部を分散せしめる事も多い。地方都市が占居位置等の関係で原地に土盛等を施し、地区を改正居住する場合、生業の関係上改正地域に必ずしも居住する要の無い者が一部分散して行く事もある。経済上の関係で移動造成地に建築する資力及び低利資金等の返済の見込の立たぬ程貧窮な者、豊に自己所有の山麓畑地等に適地を求め得る者が造成組合に加入せず分散して行く場合もある。これは旧聚落の一部解體を意味する場合もあり、農業者と漁業者の分離を來す場合もある。

四、移動様式の分類

 維新前の津浪の記録(12)は相當豊富に報告されてゐるが、その被害を避ける爲の聚落移動記録は殆んど得られず、口碑等に依り約七個の例を蒐集し得たに過ぎない。この中には果して津浪に依るか否か疑問のものもある。然しその村の古老に直接聞いた話を綜合してみれば、青森縣下北郡東通村の一部分散移動した例以外は総べて集團移動であるらしい。この四つの例は下北の近年(13)まで部落共産制の遺制のあつた聚落で、部落共同體の統制があつた事を思はせる。他に一部の分散移動があつたかも知れぬと思はせるものもあるが確實な資料は掴めない。二十九年に移動の行われたものは四三の多きに達し相當移動の考慮された事が知れる。内集團移動の形式をとつたものは七に過ぎず、移動総聚落の一六%に當る。其被害が著大であつたに拘らず集團移動の比較的行はれなかつたのは部落共同體の統制既に衰え、而も未だ縣、村當局の積極的な移動の指導が行はれなかつた爲とも考えられる。即ち主に部落内の先覚、指導者に依り叫びあげられたものが主で、而も聚落の一部が移動したに過ぎないものが多い。
 昭和八年に於ける移動は一〇九聚落に達する。二十九年の被害の生々しい際であり、移動聚落の災害を免れ得た事實、斯の如き津浪襲來の常習地は聚落の移動以外施す術を知らなかつた内務省、縣、村當局の積極的指導、或は強制に依り聚落移動が断行された。被害の最も甚だしかつた岩手縣に於ては集團移動を方針にとつた爲め、土地の買収、敷地造成、地区改正等総べて村當局或は組合等の手で完成、家屋の建築にも種々の統制が施され、一箇所或は數ケ所に集團密居制をとつた。岩手縣に於ては移動聚落四三中集團移動は約六〇%の二六に及び、他にも集團移動として敷地造成、事實に於ては種々の事情に依り現在分散してゐるものがある。宮城縣にては移動聚落の數は相当多いが、被害比較的少なく、聚落の一部の少戸數が移動してゐるのが多い。縣當局は縣令で災害地へ復興する事を禁じ、移動を強制した爲其の数が多く六〇に達し岩手縣の數を超過してゐる。内集團移動は二〇%の一二に過ぎない。青森縣を含み集團移動は約三八%の四一で、残る六八は分散移動である。概して被害程度の大な三陸の中部、即ち岩手縣沿岸に集團移動が多い。

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表:移動一覧表
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地図 図:昭和八年に於ける聚楽移動の分類と維新前及び明治二十九年に於ける聚楽移動

五、移動前後の聚落の形態、構造

 a、津浪防護對策(14)としての諸施設
 八年の災害に依り講ぜられた對策の主なるものは、(一)部落の高地移動で、聚落の水平移動として一般に海濱を遠ざかり、垂直移動として、二十九年及八年の津浪襲來水面を限度として高地に移動し、危険区域は法令に依る住宅禁止区域等を設定した宮城縣の如きもある。この結果は海濱旧聚落地域は共同作業場、倉庫、事務所等の非住家屋及び納屋等の占居地となり、住宅地と作業場の分離を來した。大都市に於ける住宅区と商、工業区の分離せる如き観を呈し、岩手縣八木にては被害地域に古着屋、魚取引店等を復興、高地に移動した住宅より毎日通勤してゐるのを見た。共同作業場と、移動地とは連絡道路が新設され、漁夫は濱に通勤する如き状態を呈するに至つてゐる。(二)敷地の地上げで、原地に居住してゐる気仙村長部の如きがある。(三)防浪堤の築設、(四)防浪建築、此等に依り津浪に對し武装された聚落の構造と変つた。(五)街路の整備、之れは自然に發達膨張した都市の系統乱雑なものを整備するもので、避難、防水の爲めの街路の整備、街路幅員の拡張等を行う。釜石市は爲めに面目を新にした。(六)埋立及び護岸、被害軽減の爲めのもので、山田町の一部、末崎村細浦の埋立地の如きものである。(七)避難道路、聚落より附近高地へ導く避難用道路で、殊に神社、小學校、役場等の公共の建物を高地に設け、相當の街路幅員を保たしめる。(八)防潮林、(九)防浪堤、(一○)津浪豫報装置が考慮實施され、人爲的に理想的漁村の形態施設を持つ様になつたものが相當多い。
 b、原地居住の地区改正。
 田老は田老港に沿うて宮古より小本へ通ずる道路の兩側へ街村型をなす聚落であつたが、耕地整理法に依る地区改正に依り、役場背後の高地を中心とした稍ゝ半車輪型に似た格子型の道路割をしそ、の中軸を宮古・小本間の道路に當て、新らたに屋敷割をなし、旧態は全く見られない。長部も亦原地居住で一・五m内外の土盛りを施したが、稍ゝ道路を直交せしめた程度で、屋敷割は可及的原屋敷の所有主に割り當てたが、旧態には比すべくもなく、整備された近代聚落化した。
 c、集團移動
 綾里は大船渡町より越喜來方面へ通ずる道路が石濱より綾里湊湾に沿ひ湾頭の低地を深く北へ通ずる兩側に發達してゐたが、海岸より約一〇〇m—二〇〇m離れた両側山麓を切り崩し一二m—二〇mの高度とし、最初縣の方針としては六〇戸分の敷地を計画したが、旧聚落が道路に沿うて集團生活をしてゐたのを分離するを村民が嫌い、一四六戸分の大移動地建設となつた。縣當局は一屋敷四〇坪平均としたが、村當局は五〇坪を標準とした。屋敷割をしても適、不適があるので十二等級に分け、各戸の希望地を分割した。水道は完成し、旧聚落地域は納屋、作業場のみで、濱との交通路を數本設け、低地の本道は造成地の中央を通ぜしめて標式的集團移動の村の構成振りを示した。唐丹村本郷も二十九年の被害も著大であり、八年再び全減し、海岸より二〇〇m海面上の高さ一五mに、一○一戸分の敷地七、○○○坪を造成した。敷地は山麓斜面地を階段状にし、低地の旧聚落を走つた主要交通路を敷地の前面山麓に上げ、その片側より北方へ順次階段歌に略ゝ三角形に集團移動し、その頂点に貯水池を置き水道配給をしてゐる。低地は納屋のみで、旧道路との間に連絡路を數本設けてゐる。大槌町吉里吉里は最も理想的統制ある聚落構成を遂げ、屋敷割は旧地主に優先権を與へ他を移動者に割り當てた。
 一般に旧聚落の海濱、或は交通路に沿うて自然的に發達したものが、集團移動に依り屋敷の大いさに制限され敷地造成に支配されて、一層集團密居制となり、長さよりも幅を増した、区割の整理された新式人為的聚落に変つてゐる。
 d、分散移動
 集團移動が聚落を一層密居制にするに反し分散移動は粗にする。十五濱村荒は幅二〇〇m内外の谷の湾頭に集村をなしてゐたが支谷及び谷奥の四方向の山麓に散居した爲め聚落の幅は約四〇〇m、長さは約六〇〇mに拡がり、中央谷底の平地を空虚にして周縁に二五戸が分散した。大原村鮫ノ浦の湾頭も密居制の一部は解かれて旧聚落の直径約一五〇mは約五〇〇mに拡げられた。同村大谷も約三〇〇m直径の旧聚落は倍加して六〇〇mの直径村と変わつた。
 e、造成敷地の宅地建坪
 山形縣西田川郡豊浦村堅苔澤漁家七〇戸の平均宅地面積は四七・三坪であつたが三陸沿岸の移動地域の宅地も五〇坪を基準とされたものが多い。宮城縣一五ケ町村六〇部落(16)に就いてみれば、移動戸數八〇一に對し敷地造成面積は六四、六七八坪で一戸平均八七・五となる。これは分散移動の多い事にも原因し、造成適地の地形及び、縣、村當局者の指導の影響もあるものと思ふ。これに反し岩手縣十八ケ町村三八部落に於ては移動戸數二、一九九の敷地造成面積は八七、五八〇坪で一戸平均は三九・九坪に過ぎず、宮城縣の半ばに足りぬ状態である。これは標式的リアス湾頭の聚落で敷地の狭隘なると、集團移動を主とした爲めが主因とみられるが、海岸平野(17)の廣さと聚落には関係があり、大きな平野のある處では建坪數が大きい。これは又漁夫の経済其の他の原因も多く含まれるものとみられる。総計は三、○○○戸に對し一五二、二五八坪となり、平均は一戸五○・八坪となる。この結果殊に岩手縣下に於ては家の間取りにも変化を來し、二階造りの建築を増加せしめ、漁村としては稀有の建築様式を示すに至つてゐる。この例は大槌町吉里吉里、鵜住居村兩石等に明らかに観取し得る。
f、村の統制
 敷地造成、家屋の建築等が既に村當局、産業組合等の手にて完成し、簡易水道、共同浴場、共同作業場、診療所其の他の共同施設が増加し、「焼け太り」でなく、津浪の被害に依り復興大いに努め、聚落の面目が一新され、統制の緊密に行はれる様になつたものが多い。殊にこれは集團移動聚落にみられる。これに反し分散移動の爲め、殊に集團移動が種々の村の感情、経済関係にて失敗し、一部原地居住、一部分散移動を行つた如き聚落も多い。然し適地がなく、最初より計画的に分散移動した十五濱荒の如きは共同作業場等に依り、村の統制の機関たらしめてゐるのもある。概して大災害を受け村の統制、團結は一般にきょう固になつた如く看取される。
(1)田中館秀三・山口彌一郎 三陸地方の津浪に依る聚落移動類型に對する若干の考察、地理と経済 昭和一一年九月
(2)田中館秀三・山口彌一郎 三陸地方に於ける津浪に依る聚落移動、日本地理學会第一二年総会講演、要旨 地理學評論 昭和一一年六月
(3)内務大臣官房都市計画課 三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告書 昭和九年三月P.42.都市的聚落は釜石、山田、大槌、大船渡等の都市的機構を有する市街地で、沿岸地方に於ける交通、経済、教育等社會生活の中枢をなす地方的中心市街地たるものである。
 1.敷地 之等の市街地は、その位置が現在並に将來の繁榮に對して、絶對に必要なる要素たる場合が多い。且又従來港湾其他の設備の爲めに多大の資本が投下されて居るが故に、仮に斯の如き市街が津浪或は其の他の災害に依り全滅に瀕せる場合ありとするも、其の敷地が危険区域に在るの故を以て、直に附近安全地帯に市街地を移轉するは不可能である。以上の理由に依り都市的聚落はその原敷地に復興するを本則とし、その敷地内に就き土地の利用を工夫し海邊に接するを絶對的要件とする運送業、倉庫、その他の建築物を除き、住宅は後方安全なる高地に敷地を造成し移轉せしめる。
 2、道路 市街地を中心とし、附近聚落地との連絡を緊密ならしむ可き路線を選定し、此等幹線路を基準として、市街地並に市街地たる可き土地に就き道路組織を整備する。其幅員は非常時に於て避難域は防火の用に備へる最小限を保たせる必要がある。後方高地に於ける集団移動敷地と市街地、並に海岸とは移轉者が日常の往復に不便を感ぜさる程度の連絡道路を設ける必要がある。高台の安全地帯に部落移轉を行い得ざる場合は現在部落より後方高台地に達する避難道路を設くる必要がある。
 3、防浪施設 浪高大ならず、家屋の流失倒壊区域大ならざる場合には、津浪の浸水を逃れる得る程度に市街地の地上げを行ふ。之の場合、盛土法面は練石積とし尚盛土天端に防浪壁を設くるを可とす。臨港区域に於て、直接水面を利用する必要ある場合には、護岸の嵩上、補強を行ひ、遠浅の海面は之を埋立て、後方地帯に於ける浪高並に衝撃力の減殺に資す。更に港湾に直接する建築物は耐震、耐浪の構造たらしめ、後続木造建築物の保護に備ふ。港湾施設として堅固なる防浪堤を築造するの要あるは勿論なり。
(4)青野壽郎 九十九里濱海岸平野の地誌學的研究—漁村に於ける二、三の地理學的現象 地理學評論 昭和七年九、一○月、家屋密度の大なのは漁業者居住の習慣で、一の根底は農家の如く経済的に豊かならず、宅地が狭い。
(5)米倉二郎 三陸海嘯罹災地方に於ける聚落の移轉 地球 昭和九年一月。
(6)(7)前掲(3)に同じ。
(8)吉里吉里小學校 新漁村建設計画要項 簡易水道の共同浴場等を産業組合が経営し、各戸に浴場を設置せず、部落中央に共同浴場を設けた。診療所、消防屯所、託児所、青年道場等を設け、二七二戸、約一、八〇〇人が集團生活してゐる。
(9)岩手縣知事官房 岩手縣昭和震災誌 昭和九年一〇月P.729、岩手縣震災復旧資金貸付規程、第二條七、住宅組合住宅復旧事業、住宅ノ新築、住宅組合住宅復旧事業資金ノ借受主體ハ町村トス 同九、産業組合建物復旧事業住宅ノ新築、共同設備(公會堂、浴場、水道、作業場、製造業、倉庫、家具、什器等)産業組合建物復旧事業資金ノ借受主體ハ産業組合トス。
(10)前掲(9)に同じ、P.871、単に住宅の復旧に止まらず、浴場、作業場、倉庫、集會場、託児所、冠婚葬祭具の共同設備をも建設し、産業経営に生活改善に協同力を發揚に努めしむべく、二八部落(産業組合経営主體二四組合)漁民住家一、九六五棟の復興復旧を図ると共に之に伴ふ共同設備を施設し、眞に隣保相助の業を擧げ得べき理想的新漁村の建設を企図した。
(11)前場(3)に同じ P.43、敷地の選定要項として、一、海濱に近きこと、二、既住の津浪に於ける最高浸水線以上に位すること、三、海を望み見得ること、南面の高地なること、飲料水の取得に容易なること等が列擧してある。
(12)今村明恒 三陸沿岸に於ける過去の津浪に就て 東京帝國大学地震研究所彙報別冊第一號 昭和九年三月
(13)田中館秀三・山口彌一郎 陸奥尻屋崎尻労部落の共産制と漁業権問題 社會政策時報 昭和十二年六月
(14)前掲(3)に同じ、P.40~P.42、防浪建築、沿岸聚落地が現在港湾に接して海運を主要目的とする経済活動をなせる場合は、高地移動をなし得ざるは勿論、防浪堤をも築造し得ざるを以て、港湾地帯に接する一側の建築物をして、對震對浪の構造ならしめ、以て防浪の目的を達せんとするものである。昭和八年津浪による災害の跡を見るに家屋の流失区域に於て木造家屋の大部分は流失、倒壊せるに拘らず、石造、鐵筋コンクリート造等の建築物、建造物は完全に残存せる外、木造家屋と雖も、基礎の固定せるものゝ残存せるものあり。而も之等残存家屋の後方に在る家屋はその被害比較的少かりし事實あり。
(15)漁村経済の研究 東大農學部農政學研究室編
(16)前掲(3)に同じ、これは敷地造成計画及び一部實施の統計で、完成せるもの及び著者の調査せるものとは稍ゝ異なる。
(17)大塚彌五郎 昭和八年三月三日の津波被害と三陸海岸の地形 地震研究所彙報別冊第一號 昭和九年三月

第三編 移動に関する考察

一、湾形の分類と津浪の被害程度

 震災豫防評議會(1)で分類した湾形は四類八種になつてゐる。そして津浪は平常の水準面上二〇—三〇mの高さに達する事があるから、さらに各々の場合に相當する高さを修正して考えるを要する。従て平常の水準ではV字形でないものも、水準を若干高めると其の形式に近づくものがある。三陸沿岸に普通見る如き港湾では湾口の深さ甲、乙類では概して三〇—四〇m乃至七〇—八〇mである。
『甲類 直接外洋へ向へる湾
 第一 湾形V字をなせる場合 津浪は湾奥に於て一〇m乃至三〇mの高さに達し、汀線に於ては一層勢を増して浪を更に高所に打上ぐるを通常とす。綾里湾、吉濱湾。姉吉、集、十五濱村荒等此部類に属す。
 第二 湾形U字をなせる場合 津浪は前者に比して稍ゝ軽きも高さ一五mに達する事あり。田老、久慈、小本大谷等此部類に属す。綾里湊は其湾形と見るを得べし。
 第三 海岸に凸凹少き場合 津浪は其の高さ前記第二に近くして稍ゝ低く一二mに達することあり。吉濱村千歳、赤崎村長崎、十五濱村大須等此部類に属す。
乙類 大湾の内に在る港湾
 第四 港湾V字形をなして大湾に開く場合 津浪は第一の形式を取るも浪高稍ゝ低く一五mに達することあり。船越山田の兩湾に連なれる船越、兩石湾に開ける兩石湾、十五濱村相川等此部類に属す。
 第五 港湾U字形をなして大湾に開く場合 津浪は第四に比較して一層低く、浪高七—八mに達することあり廣田湾に開ける泊、釜石湾に連なれる大槌湾、追浪湾に開ける船越湾等此部類に属す。
 第六 海岸線凸凹少き場合 津浪は第五に比して一層低く四—五mに達することあり、又破浪することなく単に水の増減を繰り返すに過ぎざる場合多し。山田湾内に於ける山田港、大船渡港等此部類に属す。
丙類
 第七 湾細長く且つ比較的に浅き場合 津浪は概して低く、浪高漸く二—三mに達す。気仙沼湾此部類に属し、女川湾之に近し。
丁類
 第八 九十九里濱型砂浜 海岸直線に近く海底の傾斜比較的に緩にして、津浪は其の高さ四—五mに達することあり。青森縣東海岸、宮城縣亘理郡沿岸等此部類に属す。
 此等の特殊なる湾形は三陸沿岸の特色であるが、田山氏(2)は地形図、地質図を大観して閉伊川、小泉川線を以て北、中、南の三区に区分され、又海岸線發達(3)の状態より『一、鮫—侍濱海岸、直線海岸であり、海岸に近く小島点在し、磯の發達を見、又新鮮なる數段の海岸段丘の存在を見る。二、久慈—田老海岸、前者に劣るも同様な直線的海岸である。僅かに二、三奥行の浅い湾入を見る。三、宮古—綾里海岸、大規模な湾入が半島と交互に配列する。山麓が直ちに海岸に臨み海浪のため急崖を造る。段丘の發達最も悪く僅かに断片として存在するに止まる。四、大船渡—金華山海岸、大規模な湾入に加ふるに更に小規模の湾入あり最も複雑なる海岸を呈する。低位段丘の發達も見る。』
 今明治二十九年の津浪(4)の實況を参酌し、主として震災豫防評議会の海岸線の形状分類に依り、北、青森縣尻屋岬より南、宮城縣牡鹿半島南端に至る三陸沿岸に夫々湾形を記入し分類するに四区分を得た。第一区尻屋より馬淵川口八戸市に至る九十九里濱型砂濱で、二五の湾形を選んで分類し、第八型が二一、第三型四となつた。第二区はそれに続く閉伊川口、宮古までで、田山氏の北区に相當し、六○の湾型を分類したるに第三型が五一%の三八、第二型が四九%の二二を占めた。第三区は盛川口、大船渡町に至るもので、それに續く第四区牡鹿半島に至るまで湾形の特質と明らかな差異はない。第三区七四の湾形の分類は第五型が最も多く三一%の二三、次は第六型の二二%一六、第二型一五、第四型一三で、第一型、第三型は夫々三に過ぎない。第四区六三の分類は第五型が最も多く四三%を占めて二七、次は第六型二一%の一三となり、他は第二、第四型が夫々八、第一型が六となり、第三区に比して第五型が稍ゝ著しく大で、第六型の割合は略ゝ似てゐるが、第二、第四型は第四区より稍ゝ少ない。さらに第四区を田山氏の中区、南区の境界なる小泉川を界してa、bに分類すれば、小泉川以北aの三七湾は第五型一五、第六型一一、第四型六、第二型四、第一型一となるに對し、以南bは二六は、第五型が四六%の一二を占め、地は第二型四、第二、第六型夫々二、第七型一となる。即ち第三区は直接外洋に向へる第二型に於て特色を有し、第四区は大湾の内に在る港湾の第五型が四三%を占め、著しい特色を有することになる。
 次に被害の部落別に得られたものに就いて湾形との関係を考察する。被害の最大なものは死者であるが、こゝでは比較的被害の絶對的値をみる爲めに家屋の流失、倒壊、浸水家屋を當てる。然しこれは湾頭に位置する聚落の大小に依る事が多く、例えば丙類第七に属する女川町は死者は一人であるが被害戸數は四八三に達し一部落平均は最大となるが、被害聚落は女川町一のみで考察する資料としては不適當である。被害部落數の最も大なのは乙類第五に属する四七でU字形をなして大湾に開き、港湾に適する爲漁港として利用され、海濱近く密集聚落を造る場合が多く、従つて被害も多く四、六五一戸に及び、一聚落平均被害は九八、九戸に達する。この聚落は約五〇%の二三は移動し、内一五は集團移動してゐる。次は同じく乙類の第六で、特色は第五に類する点多く、二二聚落、一、二七九の被害があり一聚落當りは五八・一に達する。最も少ないのは丁類第八で被害聚落一五、戸數一四三で平均九・五に過ぎない。
 就中被害の大なるものとして五〇戸以上の家屋被害聚落に就いてみるに、最も多いのはやはり乙類第五で二二聚落、四、三七〇戸に及び、平均一聚落當りは一九八・七達し、内一一聚落は集團移動、三聚落が分散移動し、地区改正その他防浪施設等に依り原地居住が八となる。次位は乙類第六の五聚落九七六戸、一聚落當り一九五・二戸の被害で、二は分散移動し、他の三は現地居住第三位は甲類第二の六聚落、八三四戸で一聚落當り一三九〇戸、二は集團移動、一は分散移動で、三が原地居住となつてゐる。乙類第四は四聚落四○四戸で、一聚落當り一〇四戸、集團、分散移動各一で二が原地居住、甲類第三に属するのは二聚落一四二戸、甲類第一に属するのは一聚落六〇戸の被害となつてゐる。この関係は特に五〇戸以上の大被害地をとつても、一般被害聚落をとつても相似的で、種々の事情が相関してゐるとは言へ、乙類第五、第六は聚落占居にも適當であるし、又津浪の被害も大である事を示してゐる。
(1)震災豫防評議会 津浪災害豫防に関する注意書 第二章 海岸線の形状及び海底の深浅と津浪の加害状況
(2)田山利三郎 北上山地の地形學的研究 其三 北上・阿武隈兩山地の開析度 昭和十年八月 齋藤報恩會學術研究報告二〇 北上の北区は海岸の単調なることゝ、海岸段丘の広く發達してゐる点が特長、中区、南区は共にリアス海岸を示し、北区と著しい對照を示してゐる。唯その湾入の方向に於いて異なり、中区にあつては放射状をなし、南区にあつては略ゝ束西の方向をとる。
(3)田山利三郎 北上・阿武隈兩山地及びその四近の地形學的考察 日本地理大系奥羽篇 P.289,昭和五年十一月
(4)伊木常誠 三陸地方津浪實況取調報告 震災豫防調査会報告 第一一号 明治三十年十月

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地図 図:湾形の分類
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表:湾形の分類と被害、聚楽移動
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表:湾形と被害居住

二、聚落の位置の高度及び海岸との距離

 農林省水産局(1)で實地踏査せる四区約一三〇聚落中約半數の六四内外には旧聚落位置と移動聚落位置の海岸との距離及び海抜高度が報告されてゐる。その資料を整理して考察を試みる。
 旧聚落五六の海岸との距離は平均一〇二・九mとなり、移動せる聚落五〇の距離は平均三〇七・二mとなり、其の差は二〇四・三mとなる。新旧同一聚落の資料を得られる三八に就いて比較すれば平均二二九・一m、海岸と遠ざかつた事になる。これを前項の湾形より区分した八ノ戸市以外北を第一区、宮古以北を第二区、大船渡町以北を第三区、小泉村以北を第四区a、以南を第四区b と区分せるものに就てみれば、第一区は全く資料を欠き、第二区の旧聚落の海岸との距離は平均三三六・七m、第三区五八・七m、第四区a二八・二m、第四区b三・五mとなり、第二区のみ著しく大で、順次南部に至つて低く、海岸との近距離に占居する事実が明らかになる。これは海岸の地形的特色と聚落占居との関係に外ならない。移動聚落の距離は第二区六二〇・○m、第三区三七七・三m第四区a二二〇・○m、第四区b一九八・五mと移動適地も北部は海岸と遠ざからねば得られない事が知れる。同一聚落のみに就いて得られた資料に就き移動を比較すれば、第二区は平均二一一・七m遠ざかり、第三区三五四・七m、第四区a一五四・二m、第四区b一四四・○mと南部に來るに従つて移動距離は少ない。事實南半に於ては直接海濱に接續する聚落も多い。
 次ぎに津浪の災害と最も密接な関係のある聚落占居地の海抜高地は旧聚落五四の平均が二・九mに過ぎず、津浪常習地の三陸沿岸として如何に危険の多いかが頷れる。これを各区に就いてみれば第二区が五・四、第三区二・五m、第四区a二・○m、第四区b一・一mとなり第二区は海岸段丘の發達よく一般に高く、南端に近くなる程聚落高度は著しく低くなる。移動聚落は二十九年及び八年の津浪襲來の水面を基準とした爲平均一〇・八mその差は七・九m新旧同一聚落の比較のみの資料に依るも七・五mとなり。聚落の高地移動が明瞭に示される。地域的にみれば第二区は六・一m、第三区は一三・八m、第四区a八・七m、第四区b一二・○となり、新旧同一聚落の資料より得た垂直移動差は第二区三・一m、第三区一○・六m、第四区a七・六m、第四区b七・〇mとなり、第二区は旧聚落の占居位置が既に高く、移動差は最低である。移動は勿論海岸と遠ざかり、高度を増すにあり、逆移動としては廣田村六ケ浦の移動聚落が海岸と一○m近接して、高度を七m増した特例があるのみである。
 単に津浪の災害を避ける爲めには、海岸と離れ、垂直高度を増す、即ち聚落移動が考慮されるが、聚落は人の生活地であり、其處(2)(3)(4)に占居する爲めには過去に於て幾多の移動も行はれ、困難も打開して來たであらうから、移動の可否、移動するならばその距離、高度に就いて詳細な考慮を必要とする。特に漁撈、海運業に従事する人々はその生活の主體たる海と往居を離し得ないので、移動を實施しても再び危険区域に復歸する現象を生じ、又、『日常生活の不便を忍ばんより、十數年乃至數十年に一回の全滅を選ばん』(5)と極言する者すらあり、移動地は建設されたが事實上移動の行はれない例は相當數へ得る。著者の踏査に際しても海を離れ得ない悩みを屡ゝ聞いた。生業の種類に依つては絶對に移動の不可能なものもあるらしいが、一般漁村が移動する場合、海に接し、日夜海を眺めて暮す愛惜の情的方面は別として果して、如何程の距離、高度を増して日常生活に左程苦痛を與へないか。その限度を知り、又豫知する事は必要である。
 先づ三陸沿岸(5)に襲來した標式的津浪は慶長十六年(西暦)一六一一年以後昭和八年まで三二二年間で一四回に達し、平均二三年に一回襲うたことになる。其の各津浪間の年數は次の如くになる。
  一 慶長十六年(西暦一六一一)
  二 元和二年( 一六一六)前の津浪よりの年數 五年
  三 寛永十七年( 一六四〇) 〃 二四年
  四 延寳五年( 一六七七) 〃 三七年
  五 元禄二年( 一六八九) 〃 一二年
  六 寳暦十二年( 一七六三) 〃 七四年
  七 寛政五年( 一七九五) 〃 三〇年
  八 天保六年(西暦一八三五)前の津浪よりの年數 四二年
  九 天保十四年( 一八四三)〃 八年
  一○ 安政三年( 一八五六)〃 一三年
  一一 明治廿七年( 一八九四)〃 三八年
  一二 明治廿九年( 一八九六)〃 二年
  一三 明治三十年( 一八九七)〃 一年
  一四 昭和八年( 一九三三)〃 三六年
 之れに依れば三陸沿岸の人は一生中には一回乃至數回の津浪に襲はれる事になり、その防備は絶對必要になる今移動平均距離二三〇mを一日一回往復、二三年間には三八六一・七kmとなる。罹災部落人口宮城縣六一、一八四人、岩手縣一四六、六二四人が毎日これを繰り返すと其の総距離は實に八〇二、四二九、一五三・六kmとなる。若し一日四○kmを歩く仕事を継續するとすれば二三年間には三三五、八〇〇kmとなり、前述の移動した爲めに歩かねばならぬ総距離を除して、二、三八九を得る。即ち二三年間歩いてのみ暮す人口となり、これは昭和八年宮城、岩手兩縣下の死者一、八二〇人を遙かに超過する事になる。勿論これは児戯に等しい算定の一試みに過ぎないが、沿岸の漁村を平均二三〇mも移動させる事に稍ゝ考慮の余地あるかを思はせる。この移動距離の幾何が適當であるかの研究は容易でない。高低差もみねばならず、又一方距離に関係なく漁民の心理から海を常に見渡し得る位置も必要になる。交通機関に依るを得ない漁民は往宅と職場である海とを歩行せねばならず、距離の爲めに移動が失敗し、乃至は原地に復歸した諸例を比較考慮し、恐らくは諸聚落の占居した平均距離一〇二・九m以上海岸より去らしめる事は困難ではないかを思はせる。
(1)農林省水産局 三陸地方津浪災害豫防詞査報告書 昭和九年三月、聚落の海岸との距離及び海抜高度調査の要項はあるが實際記入されてゐるのは六四に過ぎず、八ノ戸市以北には一つも記入されて居ない。これは調査者の資料の重要なもののみを採つた爲めと思ふ。殊に移動聚落に就いては豫定、未決定等あつて統一を欠くは止むを得ない。資料はこれに著者の踏査資料や、図上測量等に依るものを加へる事も考慮したが、総ベてを網羅する事は結局困難なので、多數の責任ある調査者の取捨を尊重してそれのみに依る考察に止めた。爲めに統計の合計、比較等の不統一を免れ得ない。
(2)山口彌一郎 屋号に依る聚落の一考察 —岩手縣九戸郡字部村久喜— 地理學評論 昭和十二年六月
(3)田中舘秀三、山口彌一郎 陸奥尻屋崎尻労部落の共産制と漁業権問題 社會政策時報 昭和十二年六月
(4)山口彌一郎 本州最北端尻屋崎附近の聚落 地理學 昭和十二年八月・九月
(5)今村明恒 三陸沿岸に於ける過去の津浪に就て、東京帝國大學地震研究所彙報別冊 第一號 昭和八年三月三日三陸地方津浪に関する論文報告 昭和九年三月

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表:移動聚楽の海岸からの距離と高度
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表:移動聚楽の海岸からの移動距離と高度の平均

三、漁業人口と農業人口、及び都市的人口

 下北半島の北端東通村より牡鹿半島の南端鮎川村に至る三陸沿岸の六十六市町村に就いて、昭和五年の國勢調査統計をみれば農業人口より漁業人口の多いものは一三ある。この中には漁港をもつ地方都市で、農業人ロの極度に少ない宮古、山田、氣仙沼、大槌、八ノ戸等をも含み、漁業人口の割合が過大視されるものもあるが一般に純漁村と見做されるものが多い。今漁業人口が農業人口の五○%以上をもつものを漁業を主とする聚落を含む町村と見做して其の分布を見れば主要地域は二となる。一は大澤村より大船渡町に至る最も標式的なリアス式海岸をもつ地域で、津浪の被害の最も大なる地域と一致する。こゝでは聚落の移動も種々考慮實施されてゐるが、漁業を主とするので濱を離れる事が困難であり、他方地形の関係より適當移動地域を得るのが困難な事情にある。
 次は十五濱村以南牡鹿半島の先端に至る地域で三陸沿岸で地域的には前者に次ぐ津浪被害の大なる處である。八年には津浪の發源地が牡鹿半島の沖よりは稍ゝ北に偏して被害は余程減じられてゐると思はれるが標式的リアス式海岸であり、聚落の占居位置が海濱に近く、而も高度も低く、農業者よりも漁業者の多い町村は五に達し、純漁村地域とも見做される。こゝにも聚落移動の困難な問題があり、内若干は移動地域建設にも拘らず、既に移動失敗と見做される。其の他はまとまつた地域はなく、八ノ戸市、宮古町、氣仙沼町の漁港をもつ都市の外には北部に東通村、三澤村あり、東通村は古く聚落移動が行われ、近年砂濱海岸では一般に漁業振はず、一部は納屋の既に廃されたものもある。三澤村は二十九年低地占居の聚落は殆んど移動し、八年若干再び移動、砂濱海岸で被害が少ないのと、手近に丘地の移動地を得られる便がある。宇部村は二十九年、八年共に海岸低地の若干が移動したが、深い湾入をもたぬ海岸で傾斜地に聚落は占居し、被害は比較的少ない。他の一村唐桑村は九七%の漁業者をもち、二十九年、八年共に被害の大きな村であつた。地形は高峻とか、標式的リアス式と言ふものではないが、小湾入があり、海洋に面し局部的に被害の大な村である。
 農業人口が多く、漁業人口皆無の村は三で、漁業人口が農業人口の一○%以下の町村は二一の多きに達する。この沿海の純農村の分布を地域的に区分すれば一は八ノ戸市と宇部村を除く市川村より野田村に至る地域で、海岸段丘の最も發達した聚落位置が海岸と離れ、且つ高度大で、津浪の被害も少ない。他の一は十五濱村の北に續き、松岩村より稲井村に至る地域である。斯く宮城縣沿岸には純漁村と純農村が接續して明らかな特色を示してゐる。之等は主として海岸の地形より來るので、被害の程度、移動の可否、移動適地を得られるや否やの特異性の主因となる。
 然し以上は市・町・村を単位としての考察で、一町村中にも純農、純漁村を含むものが多い。農林省水産局の調査せる若干の各部落別調査に就いてみれば、三澤村、百石村にては沿岸の漁村と、丘地の農村とが明らかに区別され、五川目、四川目、三川目、二川目、一川目、川口は総戸數が專業であるか、兼業であるかで漁業に関係してゐる。綾里村は村の人口に於ては漁業者が農業者の六四%であるが、野々前、白濱聚落にては九五戸中八八戸が漁業者であり、港に於ても総戸數二八八中一八四は漁業者である。唐桑村は総戸數の六五%が漁業者であり、内、只越は七八戸中五〇戸、大澤は一一六戸中七三戸、小鯖一一〇戸中六九戸、石濱八六戸中四六戸が漁業者で占め、十五濱村に於ても総戸數一、三〇五戸中五三%の六九五戸が漁業者であるが、船越にては一三〇戸中九三戸、荒は二五戸中二一戸、名振一一〇戸中八四戸、熊澤二八戸中二三戸が漁業者である等、町村内に於ても、漁業者は海濱聚落に偏在するから、町、村営にて聚落移動を計画或は實施する場合、聚落別に種々な意味をも含めて熱心の時と然らざる場合とがある。
 次に一農業者當りの耕地面積をみるに、東北地方(1)に於ては農業者一人當り耕地面積の分布と総人口一人當り耕地面積の分布とは稱ゝ相似的で下閉伊、気仙、本吉、牡鹿の各郡は何れも一農業者當り三、三段以下で、斯の如き地域は南會津及び、福島、宮城、山形三縣交界地域の四郡に求め得るに過ぎない。上、下兩閉伊及び気仙郡の平均は三、六段で、三陸沿海諸村中四二町村即ち約六四%は平均以下である。之れを全国平均一農業者當り四、二段に比すれば尚ほ八町村を増し、約七六%の町村が平均以下となる。東北地方の平均は四、六段で、岩手縣の平均は四、四段であるに比すれば一層耕地の少ない事が明瞭になる。
 これを三陸沿岸の地域別にみれば、その第一は六ケ所村より階上村に至る青森縣の東海岸で、開拓の比較的新しい、冷涼の気候で段當りの収穫の最も少ない地域に相當する。耕地が豊富で移動適地の得易い事が、二九年既に殆んど聚落移動を完了せしめた一因として數へ得るであらう。次は山田町より唐丹村に至る標式的リアス湾頭に於けるものであるが、耕地総面積は左程大でないが漁業者が主であり、農業者一人當りの耕地は大となる。その他南部大川村より石巻市に至る地域で比較的耕地多く、農業の盛んな地域に相當する。耕地の少ない地域は下閉伊、気仙、本吉諸郡の諸村で、下閉伊の若干を除いては津浪被害の大なるものが多く、漁業人口の多い事と関聨し、聚落移動の困難な事情をも含む事になる。
 今農業者、漁業者は地方的に散在し、主に直接生産的生業に従事し、其の他の人口は地方都市に集團して、都市的生業に従事し、農漁業者に依り直接間接支持されて生活するものと見做し、都市的人口として其の分布状態を概観してみる。これに依り地理的区分(2)(3)を行う方法は既に試みられてゐる。三陸沿岸の都市は漁港を兼ねるものが多く、都市人口の比率は他地方に比し稍ゝ低く、最高の宮古にて九一%である。七五%以上を比率の順に並ぶれば宮古の次は高田の八九%、次は石巻、八ノ戸、気仙、渡波、釜石、久慈、山田、十五濱、大槌、志津川、女川の一三市町村となり全町村の約二〇%を占める。市、町制施行のものでこれに含まれないのは、百石町の七一%、大船渡町の七〇%のみである。これ等は占居が既に地理的、経済的に決定され、移動すれば機能を失ふから被害は大でも移動は困難で、種々の防浪設備に依り、原地居住の外ない。此等の都市は地方的核心をなすので商圏に依り散在し、略ゝ一六km—二四kmの距離にあり、稍ゝ等距離性をもつてゐる。この稍ゝ集結してゐる地域は南部の十五濱村雄勝、女川、石巻を含むものと、中部にて山田、大槌、釜石を含むものとがあるのみである。
 都市人口の最も少ない、純農、漁村と見做されるものは東通村の四八%で、五六%以下の村は一一村、総べてが中部以北に偏在してゐる。而かも八ノ戸を中心とせる下苗代村、階上村。久慈町を中心とせる中野、侍濱、夏井、宇部。宮古町を中心とする崎山村。山田、大槌兩町を中心とする織笠、船越等は何れも五六%以下で都市的人口を吸引された爲めとみられる。然し北半に偏在するのは純農村で地形的に港湾にもめぐまれず、陸上交通も不便で一般に人口密度も粗、文化度の低い事が主因であらう。
 是等を総合するに、先に区分せる四区五区分は大體こゝでも當嵌まる、第一区の八ノ戸以北は漁業者は地曳網が主で、漁業者は下長苗代村を除いては相當多く、農業者一〇〇に対して三五—七九に相當し、而も耕地も多く、東通材の三、九段最も低く他は何れも全國平均の四、二段以上であり、都市的人口も少なく、純農、漁村地帯と言ひ得る。こゝでは津浪被害も少なく、又聚落移動も容易であるが、納屋聚落の海濱進出を阻止する事は困難である。第二区は漁業者少なく、而も一農業者當り耕地面積は最少くて、一人當り二、九段以下の村は七以上を占める。農、漁村と言ふよりは、若干を除いては山村の特色を有する地帯である。こゝでは北端の八ノ戸、南端の宮古間約一○○km、略ゝ中央に久慈町を除く以外都市はない。田老、八木の如く局部的津浪被害の大な地域はあつたが一般に聚落は濱と関係がなく、高度も大で、被害は他に比して少ない。然しこの地域に於ける海濱聚落の移動は地形的に困難なものがあり、移動距離、高度共に大に失する傾が多い。第三区は標式的リアス式海岸で漁業者多く、一般に生業が海に向いてゐる爲め、農業者當りの耕地面積も多いが、一面地形的に極度に少ない村も交錯し、農、漁業者の對立が稍ゞ強い。都市的人口も比較的多く、機能上移動の困難な聚落もある。然しこゝでは移動は最も考慮され、殊に八年の津浪に際しては被害が大であつただけ集團移動の見事に完成したものもある。その反面若干は地形的に適地を得られず、又、農、漁業者の對立上移動失敗、又は集團移動が分散移動になるものがあるのは注意すべきである。
 第四区のA、Bの区分は明瞭でなく、むしろ北端三区に接する地域は三区に似、南部牡鹿半島は漁業人口多く都市的人口の多い地域をなし、その中部地域に純農漁村とも言ふべき地域が横たはる。然しこゝでは都市的人口は低くなく、稍ゝ活動性をもつ、複雑した地域である。津浪の被害は局部的に相當大なる處があり、宮城縣は強制移動の方法を建て、移動を敢行せしめてゐるが、聚落位置は海濱に最も近く、且つ高度は低いに拘らず、移動は相當困難で、八年の被害の軽微であつた聚落では農村の對立、牡鹿半島(4)の表裏の對立、或は漁業者の濱を離れる不便の爲め移動失敗のものも若干ある。これ等の関係は主として統計的概観で、局部的論及ではないが、聚落移動の主因をなす根本問題で考究する必要はあると思ふ。
 (1)山口彌一郎、鈴木倉次 東北地方に於ける農業者及非農業者の人口比較(豫察) 齋藤報恩會時報 昭和十年六月
 (2)佐々木彦一郎 職業人口構成より見たる地理区分 地理學評論 昭和五年九月
 (3)佐々木彦一郎 職業人口構成より見たる茨城縣の地理区 地理學評論 昭和五年十二月
 (4)山口彌一郎 三陸地方南部に於ける津浪に依る聚落移動 齋藤報恩會時報 昭和十二年六月

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表:各村の農業人口と漁業人口
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地図 図:農業者100に對する漁業者の割合
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図:都市的人口の市・町・村別階級
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図:農業者100に對する漁業者
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図:1農業者當り耕地面積
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地図 図:1農業者當り耕地面積
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地図 図:都市的人口の分布

四、漁業及び漁獲物の種類

Array 漁業と津浪に関する調査は農林省水産局の詳細な報告書(1)がある。尻屋崎より牡鹿半島に至る漁業の種類を大別すると、(a)八ノ戸市外北は九十九里濱式砂濱で地曳網を主とする。船も小さく、港湾を持たない。季節的納屋聚落より發達した漁村で初期に於ては海濱に近く、高度も低く津浪の災害も大であつたが、機械船の出現に依り漸次衰退の傾向を辿り、半漁半農の形式を帯び、高地移動の比較的容易であつたものもある。この外三陸沿岸には野田村及び磯鶏、津軽石村附近に若干地曳網が行はれてゐるに過ぎない。打瀬網の分布も稍ゝ似て、現在は主に北部三澤村附近で行われてゐる。(b)海苔養殖は湾内を利用し、津浪の勢力を減殺して湾頭の漁村の被害を減少せしめるのに若干の効力はある。これは磯鶏村金濱以南約一七漁村にて現在行はれ、北部の地曳網と對照するが主因は地曳網は地形であり、海苔養殖は地形と水温である。(c)貝藻採取は殆んど三陸全沿岸に古くから幼稚な漁法に依つて行はれて來たが、昆布採取を主とした尻屋附近は北海道駒ケ岳が昭和四年六月に噴火し、夥しい軽石流を推し出してから、それが海底に堆積、採取はされなくなつた。現在は主に久慈以南で行われてゐる。
(d)定置漁業も久慈以南が主であるが、南部の戸倉、十三濱、十五濱、女川等の諸町村は少ない。(e)鰹釣は海流の関係が密接で、港湾の関係上宮古には鰹釣漁船があるが、主としては大船渡以南に行はれ、殊に十五濱村以南が盛である。概して(2)(3)海岸より三〇浬沿岸は鱈、鰈、鮃等の漁場となり、三浬より五〇浬附近は旗魚漁場、五〇浬より一○○浬附近は秋刀魚漁場、一○○浬より一五〇浬附近は鰹の漁場となつてゐる。其の漁法及び漁期は大略次の如くになる。

  種類    漁船の大さ    漁具・漁法     漁期
  鰈鮃漁業  二噸—二〇噸   延縄、刺網、底曳網 週年
  鱈漁業   五噸—二〇噸   延縄、底曳網、   十二月—四月
  鮫漁業   五噸—二〇噸   延縄、刺網、底曳網 九月—二月
  旗魚漁業  一〇噸—一五噸  突棒        六月—十月
  目抜魚漁業 五噸—二〇噸   延縄、底曳網    二月—六月
  秋刀魚漁業 一五噸—五〇噸  流網        九月—十一月

 我が内地の沿岸漁業は漸次衰退の傾向にあるが(4)三陸沿岸は未だ沿岸漁業が主でその割合は八:二に過ぎない。
昭和六年度下閉伊郡全町村の漁獲高を下閉伊郡水産會調査(5)に依り掲ぐれば次の如くになる。

  種類別       割合   総価額       内主要なる漁獲物       漁業種別
  遠洋漁業      ○・二〇 約三〇〇、○○○円 鰹、鱶、鮪、梶木       機船施網、機船延縄等
  沿岸漁業中定置漁業 ○・三七 六五四、五五七   鮭、鰤、鮪、■        大謀網、地曳、角網等
  定置漁業外沿岸漁業 ○・四三 七四〇、五四七   鯣、鰯、海苔、鮭、若布、細布 延縄等採捕

 津浪と最も緊密な関係をもつは漁港の設備及び漁村の位置であるが、前者は遠洋漁業、沿岸漁業、或は製造工の何れを主とするかに依り、船の大さ、防浪堤の築設、船溜場の造成、護岸埋立等に直接影響を及ぼすは勿論である。三陸沿岸は前述の如く專ら沿岸漁業を而も小規模な、幼稚な方法でなして來たものが多く、津浪襲來に依り全く壊滅に歸したものがあつたが、漸次整備され、之等設備工作物に依つて津浪の破壊力も可及的に減殺、軽減せられる事であらう。
 (1)農林省水産局 三陸地方津浪災害豫防調査報告書 昭和九年三月
 (2)岩手縣水産業概要 岩手縣 昭和八年一月
 (3)宮城縣水産業大勢 宮城縣 昭和八年
 (4)水産経済地理 今田清二 昭和十一年五月
 (5)前掲に(1)同じ

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表:各村の漁業種別

五、聚落の發生と分散、納屋聚落と定住

a、北端尻屋崎附近の聚落
 表日本及び裏日本の北進の接触点は下北半島の大畑附近と見做される。三陸地方の北端は尻屋崎で附近に岩屋尻屋、尻労の三聚落がある。尻屋(1)(2)(3)は共産聚落として既に知られ、岩屋(4)(5)(6)、尻労又略ゝ同様の制度を近年まで持續し來つた特異の聚落である。
 岩屋は津軽海峡に面した街村で南崖には高さ約二〇mの見事な海岸段丘が發達し、この上が古い村の位置と言はれ、現在若宮神宮及び小學校、天狗林と称する其時代の屋敷跡、若干の「くら」がある。田村氏(7)は『岩屋部落の丘上には「エゾノアナ」と称するところがあつて、頭蓋骨、土器、貝殻の多くが發見されてゐる。七〇余年前エゾが一戸遣されていたが、其の後山より下りて行方は明かでないと言ふ』と言つてゐる。これは村人の所謂「アナ」であらうと思はれるが、一説には「ケカチ」(饑饉)で死んだ者の頭蓋骨であらうとも言はれる。飲料水は石灰岩よりなる段丘下の伏流水か、附近の開析された谷水を用ひるので、天狗林附近は谷水を掬み上げるのに便利な位置にあり、又沖を見渡すのによく、防御、警戒に適してゐるので最初段丘上に聚落が發達したものと思はれる。何故に下方に移つたかは不明であるが、火災の爲めと言ひ、又聚落が發達するにつれ飲料水、交通等の不便に耐へ兼ね漁業を主生業とする関係からと考へられてゐる。又段丘上、下でアイヌ族と日本民族とが占居地を異にして居り、互に争闘を續けた結果日本民族の聚落が段丘下に落着いたとも言つてゐる。津軽海峡沿岸は明治二十九年、昭和八年共に津浪の被害は極く軽微であつた事から、古く津浪の災害を避けて段丘上住み、海濱に納屋聚落が發達して漸次段丘を下りたと考へる事は行き過ぎた臆説かも知れない。
 尻屋の古い位置が現位置の東北方二km余りにあつた事は今も其の地を濱尻屋(はましら)、或は上尻屋、俗に「しら」と言ひ、古屋敷、井戸等の遺跡があるので察せられる。この移動の原因も明らかでないが、火災の爲めと言ひ、アイヌの争闘からとも言つてゐる。この移動も津浪と関係づける事には無理がある。然し尻労、猿ケ森の移動は略ゝ津浪に依るものと信ぜられる。これ等の聚落が何時頃發生したかも不明であるが、下北地方に「プイタス」こと言ふ言葉が草分けの意味で存してゐると田村氏は(山本健吉氏談として)掲げて居る(8)。これはアイヌ語でプイ草を掘り取るの意であると言ふ。又古い家にあると言ふ『おしらさま』に就いてみるに、尻屋には住吉小一郎氏と濱道孫助氏の最も古い家二戸にあるのみで、この二戸を中心としたおしらさま信仰の関係から村が二分されてゐる。住吉組一四戸、濱道組一六戸が夫々血縁的にも近いらしく、旧正月十六日の祭には夫々二戸へわかれてゆく。而も経済的には共産制で戸數の制限、部落婚が行はれてゐる。恐らく此等の聚落は、文化と隔絶され、自然に恵まれない環境にあつて、単一或は數家族の團体が來住、創成され、主として血族に依つて結合されて來たものと考へられる。
 次に此等の聚落が分散、發達する一形式として納屋と其の定住に就いて考察してみる。東通村沿海には納屋と名の附く地名が相當多い。二〇萬分の一帝國図に依れば大利納屋、石持納屋、猿ケ森納屋、下田代納屋、荒沼納屋等が見えるが、約二〇年前まで鰯の豊漁があり、納屋で〆粕製造を行つてゐたが、現在は殆んど行はず、荒沼納屋は現在は一戸もない。近年津軽海峡に面して母衣部(ほろべ)納屋が發達してゐるが内一三戸は尻労の納屋で、六戸は母衣部のものである。大利は純農村で漁業権は隣の関根に貸し、納屋は関根の所有である。 納屋と本村との距離の最大は尻労より母衣部納屋に至る六kmで、母衣部は二km猿ケ森も二km余りある。納屋と本村の近接してゐるのは岩屋、尻屋、尻労、小田野澤、老部、白糠で、納屋地域と本村との境界の不明瞭なのもある。
 納屋に居住する期間は大抵六月より九月迄で、母衣部では殆んど全村擧げて移り、若干の老人が留守に残る位で、子供は學校へ納屋より通ひ、女の畑仕事も納屋より通ふ様になり、全戸総べて納屋居往の形式となる。男は二月より五月までの出稼より歸ると納屋住ひとなる。現在は主に烏賊漁であるが、東海岸の下田代納屋等は昆布が主で、北海道駒ケ嶽噴火後殆んど採れず、永く寝泊りする事のなくなつて來たものもある。
 納屋で最も注意せられるのはこれが定住聚落に發達しないかである。一般に納屋は海濱に無雑作に建てられるものであるから津浪の被害を受け易い。東通村の納屋聚落は本村と遠距離にある母衣部、猿ケ森、下田代納屋等には未だ定住はしていない。岩屋は納屋が段丘下の本村に近接してゐるので既に二〇戸が別家で充されてゐる。本戸の二二戸は村の中央部を占め、板屋根に石を上げたものが多いが、村端は茅葺の納屋居住が目立つのは聚落の發達景観を示してゐる。尻労の現在の納屋の集團地は『そがま』で定住者はないが、南の村端低地にある數戸の納屋には別家が二、三住んでゐる。この人々は丘上に本戸を建築すれば引き移ると語つてゐるが津浪に遭遇せし者ではなく、且つ経済関係が主であるから定住するのではないかと思ふ。
b、上北三澤村の三目聚落
 三澤村沿海は九十九里浜式砂濱で、聚落は臺地を刻む小谷の出ロ即ち川目に位置してゐる。臺地の岡三澤及び三澤(旧名濱三澤)は發達が古く、川目聚落は新しい。岡三澤には殆んど山本、野々宮、根岸の三姓に限られてゐるが、野々宮、根岸の祖は何れも山伏として來住、野々宮家を現在も禰宜殿と呼んでゐる。山本家は最も古いらしいが、其の祖は最初稲荷神社前の窪地に居を構へてゐたと言ふ。三澤は岡三澤に對し、濱を見渡し得る位置に在り濱三澤と称したが、漁業には関係がなく、開祖小比類巻氏は野馬の野守を命ぜられ、藩の放牧馬の監視をしていたと言ふ。これ等の聚落は岡村又は野平(9)と呼んでゐる。
 これ等に對し川目聚落は徳川末期より明治初年に南部より季節的に來住した地曳網漁業の納屋聚落より發達したものが多い。天森には六ケ所村の五平納屋があり、維新前より漁期に來住者があつた。砂ケ森は明治十年頃に五ノ戸町の立花氏が網主になつて納屋を建てたのに起る。塩釜は慶應の初年製塩業の爲め塩釜、織笠兩聚落の中央に居住したのが起原で、其の後稍ゝ北へ移り、野邊地の人が納屋を持つてゐた。織笠は慶應の初年八ノ戸市の石橋、大久保の兩氏が春より秋にかけて漁業に従事した納屋聚落に始まり、明治初年には六戸に過ぎなかつた。六川目は五ノ戸町江渡氏の納屋が主で、明治初年一二戸に過ぎなかつた。納屋には八ノ戸市の米川氏の納屋があり、明治初年三、四戸に過ぎず、淋代にも八ノ戸の二網主が納屋をもつてゐた。五川目は古くは木戸内と呼び、五ノ戸町の人が約一〇〇年前漁場を開いたのに依ると言ふ。四川目は岡三澤、濱三澤の間にある釜穴の湧水の川目にあり、谷間には古く田圃の開墾されたものもあつたが、納屋が發達して鰯の〆粕製造等を始めたのは約九〇年前に過ぎないと言ふ。鹿中は約六〇年前大久保氏が納屋を設けて漁業を始めたのに依る。三川目は明治維新前は市川村に属し、南部藩主令嬢成姫の化粧料漁場であつたと言ふ。やはり季節的納屋があるに過ぎなかつたが、天明年間に市川本村より権四郎なる者家族を引き連れて居を構へたのが永住者の起原と言はれる。此等の網主は九十九里濱(10)に於ける岡聚落の豪農ではなく、多くは南部の三ノ戸、上北地方、特に八ノ戸市の人が多く、漁夫も主に南部の方より出稼に來、岡聚落との関係は薄かつた。此等の川目聚落は季節的納屋聚落より發達した爲め、用水の関係上川目を選んだが、岡の上には占居せず、明治二十九年の津浪の被害は大であつた。然し手近かに移動地が得られる関係上、高地移動が比較的容易に實施された。そしてこれ等は地曳網漁業の不振と共に岡地を開墾して農業に移つた事は注意すべきである。所謂既に半農半漁の聚落と変わつてゐる。然し未だ低地への發展が止んでゐる理ではなく、漁業者は低地の納屋を中心とした地帯に居住し、昭和八年再び災害を受けてゐる。
c、連鎖状街村型都市八戸市(11)
 八戸市は昭和四年五月の市制施行に際し八戸町、小中野町、湊町、鮫村の三町一ケ村を併合して形成された。八戸町は南方是川村が石器時代遣物の豊富な収蔵所として知られてゐる事等に依り、既に先住民の占居した地たるは確かであらう。現在の八戸は寛文四年(西一六六四)南部直房が二萬石を賜つて三八城を築き、其の城下町としては都市計画をなしたらしい。小中野町は馬淵川、新井田川口の漁港として起り、本町より河岸に沿うて北横町の方に強く發達してゐる。左比内附近は港町の遊興地帯であつたが大正十四年火災後の市区改正に依つて南裏に引き込められた。湊町は湊橋、新湊橋に依つて小中野町と對向都市の関係が密接であるが、小中野が漁港なるに對し、湊町は寧ろ近海賃物船の船着場としての特色を有してゐた。白銀は湊町の一部であるが、外濱の段丘下の洲賀に連る街村である。段丘上は飲料水が不充分で段丘下に多量湧出する三島川、清水川等の泉水が聚落發生の因となつたらしく、船着場としては鮫港より古いらしい。例へば三島川上の福昌寺が湊をも配下として居る如きはこれである。ここは純漁村として独自の發展をし、後に段丘下の交通路に依り結ばれて湊町の一部となつたものであらう。納屋、鰯〆粕製造等の作業場の多い地帯である。三島川附近より分れた段丘上の本通りは現在の洲賀通りよりは古く、津浪の苦い経験に依り發生した古い通りであるが、現在洲賀通りに進出したので将來の不安さを思はしめるものがある。鮫村の最初の船着場は蕪島の裏で、僅かに一、二艘を泊し得るに過ぎなかつたが、明治初年浦山太吉氏が修築を高唱して以來、明治十四年佛人工師の派遣となり、明治四十年武田知事時代の調査、大正八年川村知事時代に始めて農林省より補助を得て漁港修築工事を起工した新しい港である。近年商港としても著しく發達し、旧鮫村に一核心市街部を造りつつあるが、新興都市の爲め段丘上には白銀町の本町の如く占居せず、段丘下の主要通路に沿つてのみ店舖が増加してゐる。
 河口の小中野、湊の兩町は津浪に對する警戒を余り必要としないが、外濱の白銀、鮫は古くから津浪と関係があつたらしい。段丘下は幾回となく津浪の被害があり、遂に段丘上に上つたと言ひ、清水川附近は明治初年の津浪で流失、明治二十九年にも流失浸水家屋が相當あつた。昭和八年は浸水の程度であつたが、現在の發展は全く濱通りの低地で、津浪未経験の移入者に依りなされてゐる。
d、海女漁村宇部村久喜(12)
 久喜は岩手縣の東北隅に近く、背後に山地を負い、附近の小袖と共に東北には稀有の海女をもつ純漁村である。野田とは約四kmを隔てるに過ぎないが、道路の改修前は殆んど他聚落と隔絶し、戸數は明治初年頃まで永らく約五〇戸に制限されてゐたと言ふ。これは現在も尚ほ海女が七月—九月に採取する昆布、わかめ、つのまた、かせ等に對し、共同採取、平等分配等を行つてゐる点より、漁獲物の分配を受ける戸數、人口に對する制限であつたかと思ふ。隔絶された農、漁村によく見られる如く現在も尚ほ部落婚が行はれてゐる。制限が漸次解かれて明治中頃より急激に増加し既に大正十四年で倍加してゐる。この發達の状態を知る爲め各戸の屋号を調査するに、別家には総べて『かまど』を附し、澤に沿うた大道路筋に本家が最も多く、古い家と称せられるものの多いのが知れる。漸次西及び南の高地に延びたが土地狭隘の爲め山腹に階段状に家が密集してゐる。こゝで注意せられるのは、『すかばた』の屋號が最も奥の家にある事で、これは洲賀端の意の如く、澤の北側海岸にあり、明治二十九年の津浪に流失、高地へ移動、約一〇年を経て高地の不便に耐へ兼ねて旧屋敷に戻つた。昭和八年再び流失、二十九年の移動地へ歸つたのに依る。洲賀端の意昧は完全に失せてゐるが、これ等の屋號に依つて村の發達経路、家屋の移動等を知る事が出來る。
e、漁港を兼ねる鉱業都市釜石市
 古くは矢の浦と称した人煙稀な瀕海の一聚落に過ぎなかつたと言ふ。元禄末頃(西一七〇〇頃)から釜石村となつて町屋作りとなつたとあるから都市としては新しい。急激な發展をしたのは釜石鐵山の發見された文政六年(西一八二三)以後で嘉永二年(西一八四九)大橋に吹床を設けて製鐵を始め、現在の釜石製鐵所の生産額は銑鐵二五五、○○○トン、鋼材二八七、○○○トンに達する。これに関する輸出入合計は九、八〇六、二八三圓で、昭和九年一月以來開港場となつた。一方漁港としての發達も著しく、約三、六四六、○○〇圓の水産額がある。今や人口四〇、○○○人全く都市の景観を具へてゐる。斯の如き水陸の緊密な関係を有する爲ににU字形の湾頭大渡川の三角洲を埋立てゝ低地へ發達し、明治二十九年六一五戸流失、五、○○○人の死者があり、昭和八年火災被害を併せて一、六二三戸三七人の死者を出したが移動は不可能で武装された港市として發展を續ける外ない。
f、牡鹿半島の大原村(13)
 牡鹿半島の表裏に跨がる大原村は表濱(内湾)は総人口が少いのに農、漁業を除く商工業其の他の都市的職業とみられる戸數は遙かに多い。これは裏濱(外洋)の漁業、農業等の生産的人口の多いのに對し、内湾は都市的知識的階級者の多い事を示すものである。されば裏は生産を主とし、表は全村の指導的立場にあり、村役場、高等小學校は表に置かれる。この表裏の観念は種々感情問題にもわだかまりを生じ、村長が表より出れば助役は裏より、次期はその反對、嘗て表濱に置いた村医を今度は裏濱に置く様になつた。
 津浪の災害は裏が著しく大で、表は殆んどなかつた。裏濱の谷川は漁業を主とするが若干農業戸數があり、一戸當り三—五段の耕地を宝物の様に大切にしてをり、これを宅地に換へる事は容易でなく、耕地売却等は殆んど行はれてゐない。漁業者が濱の第一線にあり、農業者が第二線に耕地を護つてゐるので、漁業者の第二線への移動には容易に賛成しないし、表濱の指導的位置の人々も比較的被害が少ないので移動問題にも熱意が足りない。『不便さへ忍べば未だ、奥地に宅地が得られるではないか』と漁業者を農業者の背後に運ぶ矛盾を平気で言つてゐる。集團移動とは言へ分散移動の状態となり、聚落は著しく分散拡大してゐる。
g、發生と分散、納屋と定住
 三陸沿岸には先住民の遺跡、遺物が多數あり、地名等にも明らかにアイヌ語に起因すると解されるものがある。それ等の遺跡地と現在の聚落との関係は不明であるが、位置の近似してゐるものゝ多いのが注意される。内地の山村と沿海の漁村とは全然發生を異にするものが多く、殊に發生の明確に知られる青森縣三澤村の漁村の如きは殆んど南部沿海よりの季節的出稼納屋より發達してゐる。これは九十九里濱の納屋聚落が岡聚落→新田聚落→納屋聚落の發生過程を経てはゐるが(14)地曳網の曳子は関西系統、特に紀伊半島方面よりの來住者が多く(15)、徳川の初期までは海岸砂丘上に納屋を建て漁期のみ來住したのが漸次定住聚落に發達したのに似てをり、常陸鹿島地方も亦納屋聚落は主として漁業出身者であり(16)、砂丘の新田聚落は農村出身者であるのに相似してゐる。三澤村の納屋聚落の發生は九十九里濱の徳川初期に對し、徳川末期より明治初年と後れてをり、本州最北端尻屋崎附近の納屋には未だ定住聚落とならないものが多い。これは南より北への文化の漸移、納屋定住の経過を示すものと察せられる。人口の増加、聚落の發達は納屋聚落を遂に定住聚落たらしめるものと察せられる。津浪に依る聚落移動の結果、定住聚落と非定住の納屋及び製造加工場の分離されたものが多いが、今後の發展に依り納屋の定住を促すものと察せられ、こゝに取り上げて注意し度い。
 次に移動に依る聚落の分散である。全村壊滅して集團移動した唐丹村本郷の如き一層集團度を強めたものもあるが、集團移動と雖も適地を得られず數ケ所に分れた鵜住居村兩石の如き、又聚落の一部に被害があり集團移動して原聚落と分離した如きもあり、他の分散移動に至つては全く一聚落の離散した如きもある。これが一生活體としての村の生活、将來の影響に及ぼす諸点を考慮せねばならない。農、山村には散村をなすものもあるが、漁村は生業の関係上集團的のものが多い。綾里村湊には最初分散移動の議があつたが、集團的生活を続けて來た聚落の解體の困難なるを叫ぶ人があつて集團移動と決した。これがやがて村の不統制、生活の窮乏となり、聚落の原地復歸の誘因ともなる。岩手縣は凡て集團移動の方針をとり、移動敷地造成費の節減、漁村集團生活の破壊を防いだが、一方地形的に適地の得難い等の困難もともなつた。大槌町吉里吉里の如き成功したものゝ一である。
 (1)田村宏 農村共産體の研究 昭和六年十二月
 (2)小野武夫 近代村落の研究 昭和九年九月
 (3)堀経夫、萩山健吉、横山武夫 青森縣尻屋部落経済制度一般 齋藤報恩會學術研究報告第一四
 (4)田中舘秀三、山口彌一郎 陸奥尻屋崎尻労部落の共産制と漁業権問題 社會政策時報 昭和十二年六月
 (5)山口彌一郎 本州最北端尻屋崎附近の聚落地理學 昭和十二年八月・九月
 (6)山口彌一郎 尻屋の夜話—民族的資料を中心として— 族と傳説 昭和十二年四月
 (7)(8)前掲(1)に同じ。
 (9)綿貫勇彦 聚落地理學 昭和八年四月
 (10)青野壽郎 九十九里濱海岸平野に於ける聚落の移動 地理學評論 昭和六年一月
 (11)山口彌一郎 連鎖状街村型地方都市八戸市の家屋密度 地學雑誌 昭和十一年一月
 (12)山口彌一郎 屋號に依る聚落の一考察—岩手縣九戸郡宇部村久喜— 地理學評論 昭和十二年六月
 (13)山口彌一郎 三陸地方南部に於ける津浪に依る聚落移動 齋藤報恩會時報 昭和十二年六月
 (14)前掲(10)に同じ。
 (15)青野壽郎 九十九里濱海岸平野の地誌的研究其の二…漁村に於ける二、三の地理學的現象 地理學評論 昭和七年九月、十月
 (16)西田正夫 常陸鹿島地方の文化地理學的研究…聚落の發生と移動を論ず 地理學評論 昭和九年三月・四月

六、移動後の原地復歸と其の主因

 明治二十九年折角高地移動を行つた聚落の一部は其の後原地に復歸し、昭和八年再び災害を受けたものがある。其の主因の(一)は漁業を生業とする者の海濱との距離を大ならしめた爲め不便に耐えられぬ事である。これは原地に復歸した聚落の何れもに含まれる原因で、大槌町吉里吉里、唐丹村本郷、大澤村大澤、唐桑村大澤、越喜來村下甫嶺等何れも之れに類する。之れには海面或は船着場を眺め得る聚落の位置、毎日濱に通い漁獲物、漁具等を運搬する不便に耐へられぬ事、漁獲物の仲買人等で漁獲物の水上げ場に居住しなければ他に先んじられて生活に困難である等との別があるが、漁村として、納屋聚落よりの発達或は湾頭に占居した地理的位置の根強さが窺はれる。次は(二)高地に移動した爲め飲料水が不足し、低地より汲み上げ、渓谷の水を運び、又は不足勝な井戸を利用しても尚ほ不足に悩むものがある。これは移動適地の選定、設備に不充分であつた点もあつたが、事實三陸沿岸には適地を得難いから避難を第一として當時は不便を耐え得ても、漸次平時に馴れると耐え得なくなる。これに對しては八年の移動には充分考慮し、設備されたものが多い。単に(二)のみに依る原地復歸ではなくとも、小友村唯出、先述の吉里吉里の一部にはそれが明らかに窺はれる。(三)は交通路に遠ざかる不便で、これは純漁村でなく商業的関係のものに多い。八木には現在被害原地に非居住の商店があり、毎日移動地より通つてゐるが、これが避村で續く筈のないのは確かである。これは移動を困難ならしめてもゐるので吉濱村本郷では二十九年既に考慮され、八年再び一部の道路を高地に更へた。(四)聚落の一部有志家が移動を敢行しても、大部が原地に居住する場合は、主聚落と離れて生活する不便、部落心理よりも漸次引き戻される場合がある。唐桑村本郷等は其の著しい例で、八年再び全減の災に會つてゐる。(五)先祖傳來の原屋敷に對する民俗心理的執着心も決して見逃し得ない明治十七年占守島に居住して居た千島アイヌを保護の目的で政府は色古丹島に全部移動せしめたが、彼等アイヌは原往地に對する愛着心から、丸木舟に乗つて北洋の波に漂いつゝ幾一○日を費やして、直距離七〇○kmを北上し、屡ゝ見捨てられたる彼等の廃跡を訪れたとの事である。(六)津浪襲來の頻度が関係する事も確かである。二十九年後津浪はなく、約一○年を経る頃から原地に復歸した者が目立つ。これには(七)大漁の好景気等が動機となる事が多い。小友村唯出は大正七、八年頃鮫網の季節に大漁で景気がよかつた爲め多く海岸の假屋を本宅になほし、高地移動者も、原地に復歸してゐる。(八)或は火災等が動機となる事もある。唐丹村小白濱は大正二年四月五葉山麓よりの山火事に依る全焼が、『津浪は何時來るかわからぬが、山麓に居ては山火事が恐ろしい』と殆んど海岸低地の原地に歸つた。(九)納屋聚落の漸次的定住発展及び(一〇)津浪未経験者の移入居住等は厳密な意味では原地復歸ではないが、被害原地の復興であり、聚落發生に好適な条件を種々具備してゐる場合があり注意すべき事である。

結論

 津浪の災害防御の爲めの聚落移動の実例は古くより在り、殊に明治二十九年には相當多數が夫々實施されて居り、昭和八年には可成積極的な移動が行はれた。これは聚落移動が一部に於ては可能性の存するを示すものである。移動の様式は原地に居住して高度を増大せしめるもの、集團移動、分散移動等に分類し得るが都市は殆んど移動が不可能である。
 津浪の浪高は湾形に依るものが多く、それに依り三陸沿岸は四区五分する事が出來、被害は其の聚落の占居位置即ち海岸との距離、高度が相関し、波高の最も高い湾形をもつのは第三区、第四区で、其処が又聚落の位置が海岸との距離及び高度が最も低い。
 聚落の移動とは海岸との距離、高度を増大せしめる事で、第三区は平均三五四、七m距り、高度一〇、六m増し、最も大なる移動量を示した。然し港湾を生活の相手とする地方都市は移動が不可能であり、漁業者を海と遠ざける事は困難である。これは聚落の発生が純漁業者として納屋聚落に起原するものがあり、農村の發生とは全然異なり、又二十九年一旦移動した者が原地に復歸したものゝ多いのに依つても窺はれる。
 最も安全なる方法は聚落の移動であり、これは不可能ではなく、殊に津浪直後には可能性が大で、縣村當局、その他が中心となつて實施したものがある。然しそれには聚落の地理的、経済的立地性、将來の發展方向、漁村の特性を熟知して、村人自身が適地を選定し、納得するでなければ完全には實施されず、外部的に単なる事務的移動を行つたのでは失敗乃至原地復歸を促す。完全なる防浪施設が行はれるならば最もいゝが津浪を充分に防ぎ得る築堤の経済的、工學的困難がある上に、この修理の持續が困難である。當時は堅固に築造しても津浪の再來には數一○年の期間のあるあり、防浪施設乃至その修理に不熱心な虚を衝かれ易い。
 それで三陸沿岸にては将來津浪の災害を完全に防ぎ得る方法は困難であると言ふ悲観論に達せざるを得ない。これを軽減する爲めの各種の方法、例えば津浪に関する常識養成、襲來の際の避難方法、防浪施設等を行ひ、又津浪の災害保険等を設定してその一部の生命財産を保護、助成する外はない。而かもこれ等は各聚落に依り夫々条件を異にするから充分な調査研究を行ひ、各聚落の人々は共力して災害に屈せず進まねばならない。(完)