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はしがき

 戦後40年間の防災対策は、既往の災害実績を後追いする形で、防災構造物の建造に力が注がれてきたのが実状である。この結果、ハードウェアの持つ防災ポテンシャルに関する限り、わが国は世界的にみても、高水準に達している。これに加え、この20年間は襲来外力が稍や小さかった事もあって、国民生活に壊滅的な被害をもたらすような大災害は、目に見えて激減した。しかしながら、災害発生が非日常化するにつれ、次第に住民の防災意識は希薄となりつつあるのも、又一方の現実である。急速に都市化が進んでいるため、過去には例を見ない新しい形態の災害が生ずる可能性が憂慮される事とともなっている。更に、構造物のみに頼る防災対策では、経済的、社会生活的に限界があることが認識され、これを補う何かが求められるようになった。特に、ごく稀に来襲するであろう超過外力に対しては、ハードウエアとしての構造物が全く無力であるやも知れず、曾に時の対処方法が種々論議されるようになった。その中で、「災害文化」が新たに注目を浴び、期待されるようになってきている。かって災害が頻繁に発生していた時代には、地域に共通な知識があり、受動的ではあるものの災害対策の一部を構成していたのである。本研究では、災害文化を掘り起こし、自然科学や社会科学の立場から見直し、防災対策の一助とする方法を探ることを主眼として行なわれた。当面、対象とする災害を、地震、高潮・津波、洪水、地質災害とし、1)災害文化の収集2)災害文化の地域性・歴史性の抽出3)災害文化の変貌と限界の明確化4)災害文化の定量的評価法の検討を目指し、工学、理学、社会学、歴史学など、諸種の研究者が集まって実施したものである。 従来、災害文化の研究は関心は持たれてはいたものの、広範かつ系統的には為されていなかった。様々な視点を持つ研究者が意見を交換する場は皆無であった。こうした場を作り、多様な討論・検討が行えるようにすることも、間接的ながら本研究の目的の一つであった。研究開始当初、異分野の研究者間に、研究姿勢・方法などに関して、違和感が存在した。工学者である研究代表者にとって、一部の人の研究態度は迂遠なものと思えた。その逆に、工学者の研究態度は、余りにも限定的で現世利益を追求しすぎると感じられた事であろう。同じ言葉が異なった意味に取られているのではないかとの不安を感じた事もしばしばであった。3年間の研究中に行なった数度の会合・討論を通じて、こうした不安は解消し、相互理解が進んだと感じている。 この報告書では、災害文化の収集から、その解釈や秤量をへて、社会への応用に至る一つの道筋らしきものを示したいと努力したが、完成したものと云う積もりはない。不均衡で整理のつかない形のまま、問題提起の段階にとどまっているものが多くあることは認めざるを得ない。しかしながら、とにかく手探りで来た3年間の努力が、曖昧な言葉で雰囲気として語られることの多かった災害文化について、客観的・定量的に見つめて行く方法を示唆する事は出来たと考えている。本研究が今後の災害文化研究の出発点として貢献することを期待する。この研究は次に示す分担者および協力者によって行なわれた。分担者     所属・職名・(専門)五十嵐之雄  東北学院大学(社会学)教授泉 拓良   奈良大学文学部(考古学)助教授河田恵昭   京都大学防災研究所(海岸工学)助教授(初年度のみ) 北原糸子   東洋大学(社会史)講師笹本正治   信州大学人文学部(国史学)助教授首藤伸夫   東北大学工学部(水工学)教授都司嘉宣   東京大学地震研究所(津波学)助教授原田憲一   山形大学理学部(資源科学)助教授広井 脩   東京大学新聞研究所(社会心理学)教授(初年度のみ) 宮村 忠   関東学院大学工学部(河川工学)教授虫明功臣   東京大学生産技術研究所(河川工学)教授山本 賢   和歌山県南部町 (協力者)

序章 災害文化研究の意義 首藤伸夫

 大きな自然外力が頻繁に襲うからといって、その場所が災害多発地帯であることにはならない。災害とは、自然の営みと人間活動との関わりにおいて発生するものであり、人間の対応如何によって、その発現形態を変えるからである。 住居する土地に結びついた生産を生活の根拠としている人々は、自然との無理の無い付き合い方を身で学び、言伝えて、記憶している。災害の原因となる自然も、暴威を振う時以外は、住民にとって必要な、恵みの基なのである。


 自然の近くで生活している人々は、常に自然と向き合っている。説明が出来なくとも、不自然な現象に対する恐れをおろそかにしない。日常経験しないことへの素朴な警戒を忘れず、時としてタブーと云う形をとって存続する。チリ津波で潮が突然引いた時、ニュージーランドの地元の信仰深い人は浜に入らなかった。原因は判らないものの、それは不自然な出来事であったからである。これに反してヨーロッパ系の住民は、座礁した船を面白がって見に行き遭難した。この経験は、罰があったのだとして、タブーの強化につながった(原田憲一)。


 災害経験の積み重ねは、被災を避け得る知識となる。日本では神社は地震に強い土地に立っている。縄文の昔以来、地震の度毎に被害の無いところが聖地化されて、そこに立てられるようになったのではないかと考えられる(都司嘉宣)。地滑り地帯の住民は、本来土地は滑るものだと認識している(笹本正治)。輪中にあっては、「水屋へ避難」が自然との付き合い方であった。中国地方江の川峡谷では、最近まで水防という言葉すら知らなかった。そこでは、上に住まいする方が安価であったため、下にさがって堤防を作る必要性を認めず、避難する事が有効な対策であった(宮村忠)。


 自然と付き合って行く上での智恵の一部として存在していたのが、災害文化の原形であった。住み着くことによって作り出され、受け継がれてきた、日常的な生活の文化である。自然に向かって能動的に働きかけていくというよりは、それが猛威を発揮する際に受動的に対処する態度が根底にあった。この態度を共有する集団は大きくなく、個人とそれが日常生活で交流する地域コミュニテイの範囲である。したがって、空間的時間的な限定がきわめて強く、「下位文化」の段階にとどまっている。


果して、地域性や歴史性を抜け出し、より普遍的で一般性のある「災害文化」となりうるであろうか。そのためには、何が必要とされるのであろうか。まず、経験量知識量の多いことがあげられねばならない。一般性と特異性の見極めには、多量の資料の支えが不可欠である。次に、発生から経験則へと結実する過程と条件を解析認識し、集積された経験則について価値判断することが必要となる。こうした経過を経て、初めて「災害文化」となり得るものと考える。


 空間的時間的な限定は、なぜ存在するのであろうか。一言で表現するならば、自然に対する人間の姿勢の差によると云って差し支えあるまい。 風土の違いは、人間の態度の差の根源である。時代の違いは、人間の所有する手段の差に現れ、自然観を変化させる。これらの制限を越えて、共通性を持たせ得るであろうか。時代を越えて、過去の災害文化の中から、現代に役立つものを引き出すことが可能であろうか。


 人間活動の枠は自然力の法則やその再現のサイクルに抗しながら広がってきた。利便や減災を目的とする人工的営為がなされると、新しい環境が出来上り、自然観や災害文化は従来のままではなく、変化して行く。こうした変化をくぐりながら成立してきた災害文化に、時間を越えた、どの様な存在価値を認め得るのであろうか。


 二つの相反する立場がある。 一つは、河田恵昭の示す例題である。地域や時間が異なっても、同じパターンで発生するなら、過去の経験は通用する。50年前の大阪と現在の上海の地盤沈下が、その好例である。両者に共通の重要原因が地下水の汲み上げであることは明白であり、原因と結果の対応が何の疑問もなく決定できるからである。さらに、現象が異なっても比較対照の可能な例として、河田は疫病と災害とをあげる。西洋でのペスト対応策としての下水道と、日本における洪水氾濫に対する堤防とは、同じ発想、同じ対応と考えられる。両者を翻訳して繋ぐためには、どの様な基準軸を見つけるかが問題であり、例えば人口圧力、平均寿命等がその役を果たすのではないかというのが彼の考えである。 一方、上の例題でも明かであるように、発生様式を異にすれば従来の経験は当てはめられない。また、未だ経験していない社会形態を取るであろう未来への適用はできない。 結局、因果律の決まっている場合には、引き写しが可能だということになる。その他の場合にも、基準軸がきまれば、可能となろう。この時、基準軸の発見の成否が全てを支配するのである。しかし、未来への適用では基準軸の発見が難しく、殆ど絶望的であると云わざるを得ない。


 災害文化の限界性を論ずるにしても、その一般化を図るとしても、現在の我々の手元には、余りにも貧弱な知識しかない。当面我々の為すべき事は、固定した観念で災害文化を眺めることではない。まして、役に立つか否かで選別することではない。個別問題への適用に繋げようとする価値判断とは無関係に、災害文化を種々の観点から虚心に探り、集積し、将来の研究の展開の為の資料とする努力を続けることが何より必要である。


 それにしても、昨今の社会の変化、自然観の変化の速度は速い。災害文化の忘れられる速度も、これに対応しているのではないかと不安を抱かせられる。構造物で代表されるハードな防災対策の限界を補?するものとして、災害文化の応用に期待が寄せられるようになりつつあるものの、災害文化それ自体が消失の危機に瀕しているという感がある。


 災害文化継承の危機の原因を探ってみよう。 まず、被災地からの逃避があげられる。このため、経験は蓄積されず、災害文化として住民に受け継がれて行くことにならない。アメリカ・セントヘレンズ火山の爆発では、災害復興は行なわれなかった。日本では、災害が直接の契機ではないにしても住民の都市への流出があり、更に大家族の崩壊が、同種の効果をもたらし始めているのではないかとの指摘がある(北原糸子)。 次に、新来者の増加による地方共同体の変化があげられる。新来者は災害の歴史を積極的に学ぼうとはしない。身近に経験者の居ないかぎり、災害文化には関心が無い。日常性という点で、新来者にとって災害文化は縁が薄いのである。そればかりか、時たまの防災訓練にさえ、参加率が悪い。これでは、災害文化の伝えられる条件は満たされない。 第三に、旧住民にとってさえ、災害文化の日常性が薄れつつあるという現状がある。共同体としての連帯感の希薄化、防災施設の充実、災害発生の小頻度化などが原因となって、「行政」と「住民」とへの分離、「防災訓練」と「日常生活」とへの分離が進行し、災害文化を育て、守り、継承する力は弱くなりつつある。


 「行政」との分離による危機には、見逃すことのできないものがある。その三つの例をあげよう。 第一に、現住民は知っているにもかかわらず、公式記録から脱落する可能性である。周参見町史における安政南海津波(河田恵昭)、中部地方における天保年間の山抜けの記録(笹本正治)が例として挙げられる。現在は覚えられていても、そのうち消失する危険を含んでいる。単なる記録にしてこの有様であるから、災害文化の中には全く顧みられないものがあったと考えざるを得ない。 第二に、行政による普遍化、あるいは標準化の過程において、誤りの入り込む事である。原田憲一は、ニュージーランドのマオリの場合をあげる。政府が小学校を避難場所に指定したのであったが、現地の人はそこを危険と考え、ハリケーン襲来時には彼ら独自の集会場に避難して助かったという。これに類似したことがわが国で起らないとは言えない。津波避難所まで、わざわざ海の方へ近づかねばならないところもあるのである。 第三に、抽象化された結果では表現できない、重要な何かを見逃す事である。住民は、行政が何かをしてくれることを望み、行政は明確な結果の提示を成果と見なす。こうして出来上がる成果の一つに、ハザードマップがある。それは住民が満幅の信頼を置けるものであろうか。東京の震災・空襲の体験者は、行政当局の決定した避難地を知ってはいても、そこへは避難せず、何処へ逃げるかは自分で考えるという(宮村忠)。当時の状況についての知識に加へ、その後の変化をも考慮して判断するものらしい。零か百かの選択ではなく、助かる可能性を少しづつ高めていく事を選ぶ。観念が固定化していない者ほど生き残れると考えているのである。ここには、抽象化され資料としてまとめられた災害文化と、住民が肌で感ずる災害文化との亀裂がある。


 以上の事柄を振り返りながら、いま災害文化の研究において求められることをまとめると、日常の生活の中から成立してきた災害文化を採集して消滅から守り、その成立の条件・基盤・適用性を明らかにし、ついでまた日常性の中へと戻して行くことに尽きるであろう。それによってこそ、「無駄なことでは死なない」という精神を生かし、「災害を最小にする技術」に貢献する災害文化の価値が蘇ることとなる。

第1章 社会技術としてみた災害文化 原田 憲一

1.1 序

 生態学の教科書にはよく、自然界の生態学的な平衡作用の例として、ある地域に住むウサギとオオヤマネコの数の周期的な変化があげられている(例えばオダム1975、254頁)。すなわち、ある年なんらかの理由で草が繁殖すると、それを食べるウサギの頭数が増加する。それにつれてウサギを餌とするオオヤマネコの頭数も少しずれて増加するので、ウサギの増加には歯止めがかかる。一方、草の生育が平年なみを下回ると、ウサギは餌不足に陥り多くが餓死するので頭数が激減する。しばらくするとオオヤマネコも餌不足になり、やはり頭数が劇的に減少することになる。すると捕食者が減少した分だけウサギは繁殖しやすくなって、翌年からウサギの頭数が増え、遅れてオオヤマネコが増えるという周期が始まる。こうした周期的な個体数の増減を繰り返しながらも総体的には地域の生産力にみあった値に納まる。実際には、もっと複雑な喰いつ喰われつの関係が草食動物と捕食動物の間に成り立っているので、地域内の動植物の全体量の変化幅はさらに小さな範囲に納まっている。 ところが人間の場合、ある地域内で人口が増加しても、滅多に餓死は起こらない。それどころか、三百万年前に人類が出現して以来、世界人口は一貫して増大してきた。石器や骨格器、木器など簡単な道具類を巧みに用いることによって土地がもつ潜在的な生産力を引き出すことに成功したからである。とりわけ一万年前に農業革命が成立してからは、人間は積極的に農地を開墾したり、農場の灌漑設備を整えたり、あるいは品種を改良するなどして、農作物の収量を飛躍的に増加していった。また漁村では、漁具や漁法などを改良して水産高を増大した。 こうした食糧生産技術の発展により、食糧に余剰が生じて、直接農耕や漁労に従事しなくてもよい人間(社会余剰)が出現した。彼等はもっぱら日用品や道具類の製作に専念したので、手工業品の品質は向上し、機能の改良も促された。農業(漁業)と手工業の分業体制が確立すると、社会生活も全体的に効率化するので、食糧生産はますます増大し、それがまた地域の人口を増加させることに繋がった。その結果、約5,500年前にメソポタミア地方で初めて都市が成立したのである(伊東1985,51頁)。 このように、増加した人口が社旗発展の制約となるのではなく、かえって社会を発展させる一種の資源と化す点で、人間は本質的に他の生物と異なっていると言えよう。ここでいう社会資源(新資源論研究委員会1988)を構成する要素としては、ある一つの社会が抱える人口と人口密度、構成員間の言語の統一性、構成員が共有する知識の量などが挙げられる(原田1993a)。従って、社会資源の賦存量は、基本的には社会の発展(生産力の増大)とともに増加することになる。 そうした社旗資源を有効に活用して社会生活を効率化させるものが社旗技術である。例えば、首都圏におけるコインシャワーや書類宅配システムなどのいわゆる各種の「隙間産業」は、都心部へのヒト・カネ・モノの集中を利用した社会技術だと言える。また、地方都市は、大都市に比べれば狭い居住圏と相対的に小さな人口を抱えるが、農村に比べれば人口が多く、人口密度も高い。そうした地方都市で、バスとタクシーに代わる交通手段として急速に普及してきた運転代行業も、社旗技術の例である。一方、いわゆる過疎地域では、若年人口の流失と構成員の老齢化によって社会資源が消耗し、祭や寄合などの従来の社会技術が利用できなくなって社会機能が著しく低下し、そのためにますます社会資源が涸渇するという悪循環に陥っている、とみなすことができよう。 しかし歴史的に見た場合、最も端的な社会技術の例は、歴史的に宗教や習俗・習慣などと呼ばれてきたものであろう。例えば、環境意識の高まりから日本の各地で自然保護の気運が高まっているが、地域住民間でも開発に対する利害が対立して、環境保護に有効な対策が立てられない場合が多い。ところが、一昔前なら、住民の大多数が開発するのは不適だと考える場所には注連(しめ)縄が張られた。するとそこはたちどころに聖地と化して、開発のための立ち入りは禁じられた。注連縄は非常に有効な社会技術だとみなせる。 以上のことを図式化すれば(図ー1.1)、人間社会は、天然資源を利用する生産技術(農林水産技術と工鉱業技術)と社会資源を利用する社会技術から成り立っているといえる。そして、生産技術は具体的な道具や装置をともなうのに対して、社会技術は社会的な約束ごとでなりたっている場合が多い。すなわち、コンピュータに譬えれば、生産技術はハードウェアであり、社会技術はハードウェアを動かすソフトウェアに対応するものだとみなすことができる。だが、従来は生産技術と天然資源の関係から社会の在りかたが論じられることはあっても、社会資源と社会技術という観点から社会の発展が論じられることはなかった。 本稿では、この図式に従って、まず地域社会における工業的な生産技術の発達を制約する要因は、気候や植生、土壌などのいわゆる風土条件ではなく、地質環境であることを説明する。すなわち、長崎県対馬において石屋根倉庫と朝鮮式山城を調査した結果を基にして、建築技術の発展を制約をするものは、地域的に賦存する資源の質と量、資源輸送を阻害する大地形、および地盤の性質であることを実証する。 ついで、長崎県北松浦郡の地滑り地帯の調査にもとづいて、いわゆる地質災害(地震・地滑り・火山噴火・洪水・津波など)と呼ばれる現象は、日本列島のような圧縮変動帯に特有な物質移動の形態であり、基本的には生物生産力を高める働きをもつことを説明する。 そして最後に、ニュージーランドのマオリ文化の調査結果を踏まえて、災害文化とは、一見突発的に見えても、統計的にはある種の法則性をもつ物質移動の利点を社会的に最大限に活かし、人的被害を最小限に抑えるために編み出された社会技術の一種であることを論じる。

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図-1.1 文明を支える生産技術と社会技術

1.2 資源と技術

 日本では、名著と呼ばれる和辻哲郎の『風土』(岩波文庫)や梅棹忠夫の『文明の生態史観』(中公文庫)などの影響で、文化発展に与えるいわゆる風土条件の重要性が指摘されてきた。確かに、日本列島の複雑な海岸地形と水系ならびに里山を覆う照葉樹林は、漁労・狩猟・採集を生業とした縄文文化の発展を規定したであろう。また、梅雨をもたらすモンスーン気候は水稲農業で支えられた弥生文化の発展にとって不可欠な要素であることは明らかである。 しかし、先に述べたように、農耕技術が進んで社会余剰が生じるようになると、手工業生産が増大する。そうした手工業技術には石材や鉱石、粘土などの地下資源が必要になり、入手できる地下資源の質によって技術の発達が影響されることになる。従って、手工業が本格的に発達し始めた都市革命から後の文化発展は、食糧生産を規定する風土条件だけでなく、地下資源の特徴を決める地質条件によって規制されることになる(原田1990、283頁、1992b)。 このことを典型的に示すものが、以下に述べる対馬における石材資源の賦存状況と建築技術の発達の関係である。

1.2.1 石屋根倉庫

 「対馬名物とんびに鳥、またも名物女の馬乗り石の屋根………」と陽気節に唄われているように、対馬では石屋根をもつ倉庫が名物になっているが、長崎県が有形文化財(建造物)に指定した下県郡厳原町椎根の石屋根倉庫(写真1)に関して、厳原町教育委員会は以下のように説明している。


 石屋根倉庫は、古来穀物を中心とする食糧や日常生活用品を保管するために使われてきた。現在もその機能は変わっていない。その起源は明らかではないが、古い伝統をもつといわれている。島内に算する格好の板石を用い、屋根を葺くという技法は冬季の強い北西の季節風や雨露から大切な食糧などを守るために、人々が自然発生的に考え出した技法であったに違いない。火事による損害を防ぐため民家から隔離して建てるという配慮も体験的智恵によるものであろう。柱は椎材、周囲の壁・床・天井は松材を用いている。以前は全島的に石屋根倉庫が作られていたが、近年わずかに厳原町の西海岸に残っているに過ぎない。当倉庫は「島山石」を用い、模式的にその様式を伝えている。


 また、城田(1983)は、より詳しく石屋根倉庫の由来を説明している(67頁)。 村々の家はすべて萱葺きで、たとえ金があっても瓦葺きの家は許されなかった。対馬の家々が瓦葺きになったのは明治以降である。 一度火事が発生すると、村中類焼することが多かった。火災の類焼から免れるために、住居より離れた所、特に川の近くの小高い所に、食糧や衣料、その他大事な什器類などを納めておく小屋(倉庫)を建てるようになった。小屋も萱葺きであれば、たとえ離れていても類焼に遭うことがある。さいわい対馬には水成粘板岩の薄い板石が多く産するので、その板石で屋根を葺くと重くどっしりとして火災よりの類焼を免れるという発想が生まれたのである。 三,四百年ぐらい前から、百姓庶民の智恵として豊富な薄い板石で屋根を葺くという石屋根文化を生み出したのである。 対馬は風が強く吹き荒れる土地である。石の重みでがっしり立っている小屋は風に強いのである。どんな暴風雨にも耐えることができる。石屋根の小屋は、大切な食糧、衣料、什器等の財産を守ってくれる対馬庶民の城である。火災と風雨を防ぐ一石二鳥の石屋根文化を生みだしたといえるのである。 石屋根の石は、大体全島的に産するが、現在はっきり知られているのは、厳原町豆酘(つつ)の仲五郎石場が一番有名である。仲五郎石場の板石は豆酘村一円から南部の各村々に供給されていた。畳二帖敷の広さの板石を神社入口一の鳥居の下の敷石に使っているのを豆酘の多久頭魂神社や内院の奈伊良神社その他にもよく見かける。これらはみな仲五郎石場の石である。(中略)  小屋(石屋根倉庫)の構造は、椎の木の幅広い柱で建てられ、高床式で風通しがよく、中は二つ又は三つの部屋に区切られている。一つの部屋には米麦をはじめホーシ(切りぼし藷、カンコロともいう)、センダンゴ、そばなど救荒食物といわれるような物を貯蔵し、他の部屋には衣類、客用布団、什器などを納めるようにした。 一旦村に火災が発生して仮に本屋が焼けても困らないようにしたのである。鍵は四角な細長い鉄の棒の先をちょっと曲げた簡単なものであるが、一戸一戸寸法が違うので、他人の鍵では絶対に開かないのである。 雨露や湿気を防ぎ、ねずみも入らないように建ててあるので、食糧、衣料等を保存するのに実に合理的な石屋根である。


 椎根の石屋根倉庫に類似した倉庫は、対馬南部(下島)の西海岸に沿って分布している。すなわち、下県郡の美津島町の加志・今里、厳原町の阿連・小茂田・茶屋・椎根・久根田舎・久根浜・佐須瀬木・豆酘瀬・豆酘、および瀬川の鮎戻し附近の内山などの集落で確認することができた。 屋根を葺く石板の材質は、中粒から租粒の砂岩で、表面に漣痕をもつものもある。その厚さは3〜14cm、幅は30〜80cm、長さは50〜200cmである。重量のある屋根を支えるために、太い椎の内柱に加えて、庇を支える側柱があるのが小屋の特徴である。新しい小屋(恐らく明治以降のもの)は瓦葺きであるが、庇を支える側柱を有している点では同じである。 椎根と豆酘における聞き込み調査によれば、椎根の石屋根の石材は浅茅湾(浅海)奥にある島山島の採石場から採取されたもの(島山石)らしい。実際、島山島には昔の石切り場の跡が残されているが、ここで切り出された石材がどのように輸送されていたかについては不明である。一方、豆酘の石材は豆酘海岸付近の仲五郎石場から採取したもので、自動車道ができる以前には石材を他地域に搬出したり、あるいは厳原の赤石(赤石砂岩)を搬入したことはなかったとのことである。 下県郡(下島)の西海岸沿いに露出する対州層群は砂泥互層が卓越し、層厚2〜20cmの砂岩層と層厚1〜10cmの泥岩層が規則正しく交互に積み重なっている。砂泥互層のなかの軟らかい泥岩層が選択的に風化されて、固い砂岩層が板状に残ったところが採石場となったのであろう。現在、美津島町の玉調付近で板状砂岩を石材として機械を用いて大規模に切り出している採石場が一ケ所あった。 これに対して、上島(対馬北部)の南部の西海岸沿いの鹿見・田ノ浜、恵古および東海岸に面した船志では、薄くて不定形の石板(厚さ2〜8cm、長径40〜80cm)を瓦状に葺いた石屋根倉庫(写真2)が、ほんの数軒見掛けられた。この小屋の建てかたは下島のものと違って庇を支える側柱はなく、L字型の曲がり屋のように小屋の端に出っ張りがあるのが特徴である。瓦状の石葺き屋根と小屋の形は、写真に見られる李朝朝鮮の時代の火田民の石屋根小屋と酷似している。鹿追でのききこみによると、城田(1983)の説明とは違って、そうした石屋根倉庫は鼠がはいりやすく、古くなると雨漏りがするので、十年以上も前に瓦に葺き直したということである。また、恵古で聞いたところでは、戦後は石葺きは貧しさの象徴だという思いがあったので、高度成長期にきそって瓦に葺き直したということである。 この地域の海岸には、下島で観察されるのと類似の砂岩泥岩互層が卓越した岩相が発達しているが、地層は褶曲している。そのため、厚い砂岩層には多数の節理が発達する。厚さ2〜3cmの薄い砂岩層には節理が発達しにくいが、大きな板状の石材は切り出しにくい。従って、比較的大きな不定形の石状を掘り出して利用したものと考えられる。 一方、下島の東海岸(厳原町の尾浦・久田・厳原・曲・根緒・高浜など)と上島のほぼ全域(上県町の女連・伊奈・湊・西津屋、上対馬町の鰐浦・比田勝・浜玖須・琴・芦見・一重・小鹿など)にある倉庫群(写真3)には石屋根は認められない。そのうち少数の倉庫はトタン屋根であるが、残りは全て瓦葺きの屋根である。鰐浦では瓦の上に円礫が重しとして置いてある屋根が多く見られた。倉庫周辺にも板石は認められず、地元の人に話をきいても、倉庫の屋根に石板を用いたことはなかったとのことであった。このことは倉庫の建築様式からも窺うことができる。すなわち、庇は短くて側柱はなく、柱は比較的細い杉材でできていて、倉庫の端に出っ張りはないからである。 上島北部では砂岩泥岩互層は発達せず、塊状の砂岩層または層理面の発達した厚い泥岩が分布している。こうした岩相では石板が切り出せないので、倉庫は最初から樹皮で葺いた軽い屋根をもっていたと考えられる。実際、比田勝の山間にある採石場(現在休業中)は塊状砂岩を切り出し、骨材として利用していた。対馬の住民は石材資源が全島的に賦存するものだと了解しているようだが、実際には分布域は限定されているのである。 対州層群の岩相分布と3種類の倉庫の分布、および聞きこみ調査でえた情報を総合すると、倉庫の伝搬は以下のように推察できる。すなわち、恐らく最初は浅茅湾周辺に朝鮮式住居が伝わり城田(1963)が説明するように、食糧や日常生活用品を保管するための倉庫として使われた。その際、朝鮮方式を真似て、付近で採れる不定型の板状石材を用いて屋根に葺いた。しかし、その方式では屋根の気密性が悪く、石板もずり落ち易すかったために、明治維新以後、屋根に瓦を葺いてもよいことになると、次々に瓦葺きに変えられていった。ところが、下島の西海岸では良好な石材が入手できたために、様式美をそなえた石屋根倉庫が建てられた。この場合は屋根の気密性も高く、石板のずり落ちも少ないので、明治維新後も屋根は改変されず、現在まで手厚く保存された。一方、下島の東海岸や上島のその他の地域では全く石材が入手できないので、最初から樹皮で屋根を葺いた。その結果、柱の細い簡易型の倉庫が発達したのであろう(原田1992c、原田ほか1991)。

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写真 写真1.下県郡厳原町小茂田の石屋根倉庫。整形された大きな石材と、軒にせりだした庇を支える側柱が特徴である。
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写真 写真2.上県郡上県町田ノ浜の石屋根倉庫。典型的な倉庫ではないが、不定型の石坂で屋根が葺かれていることと、庇を支える側柱がないことに注意。
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写真 写真3.上県郡上対馬町鰐浦にある倉庫群の一部。瓦葺きで柱は杉材で細い。側柱がないので、様式美にかける。かつては樹疲で屋根を葺いて置石をしたものを思われる。
1.2.2 藻小屋

 先に述べたように、上島の西海岸には砂岩泥岩互層は発達しているが、褶曲のために砂岩には節理が発達している。このため海岸には偏平な礫や立方状の礫が無尽蔵に転がっている。そうした偏平な箱状の自然石を選んで、野面積みにして高さ2mほどの石壁を作り、それに屋根を掛けた間口2間、奥行き4間ほどの大きさの小屋が藻小屋である(写真4)。 峰町木坂の海岸に保存されている藻小屋の脇に立てられた説明板には以下のように記されている。


 対馬の海付の村々では晩春の頃、船を繰って「藻きり」をしたり、海岸に漂着した寄藻を乾して、麦の肥料としたもので、この藻を貯える納屋を「藻小屋」と呼んだ。 西面の海岸に多く見られ、別名「船屋」とも称したのは、船を使わない時はこれに格納したからである。 法面保護を目的とした石垣は日本全国いたるところで見られるが、野面石の石積みで造った構造はきわめて稀である。藻小屋の存在が確認できたのは、木坂の他には、峰町の青海・津柳および上県町の久原のみで、下島と上島北部の西海岸および東海岸には認められなかった(原田ほか1992)。

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写真 写真4.上県群峰町木坂の海岸に保存されている藻小屋。側壁は扁平な立方状の砂岩の野面石で組まれている。瓦屋根はごく最近葺きかえられたもの。

第2章 災害文化としての伝説 ——長野県南木曽町の蛇抜災害を中心に—— 笹本正治

2.1 はじめに

 長野県木曽地方は頻繁に蛇抜災害に見舞われた。蛇抜というのは、「南木曽地方の土石流災害」で、既にその原因などについても科学のメスが入れられている(注1)。『日本国語大辞典』には、蛇抜が方言として「大雨などで土砂のくずれること」と説明され、山梨県、長野県東筑摩郡、岐阜県恵那郡で使われているとある(注2)。 蛇抜は表ー2.1のように度々被害をもたらしたが、そのなかでも最も多くの犠牲者を出したのは、天保15年(弘化元年=1844)5月25日、信濃国木戸郡与川(現、長野県木曽郡南木曽町)で尾張藩のために木を切っていた、杣や日用95人(114人、106人とも言う)もが巻き込まれて死んだものだろう。ちなみに『西筑摩郡誌』は与川の中野沢山岳が潰れ崩れ死者300人に及ぶとしている(注3)。この事実は地元の『南木曽町誌』にも取り上げられておらず、長野県でもあまり知られていないが、徳川林政史研究所に所蔵されている『木曽与川山抜石地蔵』に、災害の後に尾張藩が死者を弔うために約40両の金をかけて石地蔵を建て、その供養に30両を費やしたとある。この蛇抜に関係すると思われる伝説がいくつか地元に残り、現在も残る石地蔵とともに、この時の蛇抜を今に伝えている。 災害の事実が伝承され、記憶されている背景には、単に悲酸な事実の存在を伝えるのみならず、積極的に再び起こるかもしれない災害の警鐘としての側面もあろう。そこで本稿では災害に関係する伝説を、災害の事実を口承文芸という手段で、災害を警告する災害地帯独特の文化の一面としてとらえ、伝説の背後にある人々の意識を探りたい。そのため与川の蛇抜の伝説を素材として検討する。

2.2 与川の蛇抜伝説と石地蔵

 約100人もが亡くなった天保15年の与川の蛇抜に関しては、どのような伝説が伝わっているのであろうか。まずそれを確認しておきたい。A 蛇抜けの話(長野県木曽郡南木曽町妻篭)  南木曽町に与川という川が流れています。その川をさかのぼった山では、貴族の家を建てるために大ぜいの木こりが集められ、役人のもとでたくさんの木が切られてしまいました。その木こりの中に、正直者の与平という男がいました。 ある雨の激しい夜、与平は「トン、トン」と小屋をたたく音に目をさましました。恐る恐る戸を開けると、白い着物を着た女の人が悲しげに立っていました。そして女の人は「これ以上木を切り倒すと、必ず悪い事が起こるでしょう。」と言い残して雨の中にスーッと消えてしまいました。 あくる日、与平はこのことを仲間に話しました。木こりたちはこのことばを恐れて、仕事を続けることを拒みましたが、役人は聞き入れません。こわさのあまり、とうとう与平は「はらが痛い。」と嘘をついて仕事を休んでしまいました。 その夜、いつかの女の人が現われて、「あした雨が降り始めたら、山の頂へ必ず逃げて下さい。」と言い残して、夕闇の中へ消えていきました。 次の日、女の人の言った通り、大雨が降り土砂くずれが起きました。このため、里の家々は後かたもなくつぶされて、中山道もくずれ去ってしまいました。この時与平は、土砂に流されていく白へびを見ました。実はあの女の人は白蛇の仮の姿だったのです。 このことが起きてから、与平は木こりをやめて、馬方になり尾張の国から食物を運んだということです。 こういうわけで南木曽町には、水難を防ぐ石碑や地蔵様が多くたてられています(注4)。B 中野沢の蛇抜けの話(長野県木曽郡南木曽町与川)  天保15年に尾張様が下山の中野沢というところでね。御用材を伐ってどえらい蛇伐け(水害による土砂崩れ)がしたそうだ。そいで人夫がもうべったり(沢山)流されたって、その供養の為に与川渡に地蔵さんが建ったてわけよね(注5)。C 中野沢の蛇抜けの話(長野県木曽郡南木曽町与川)  昔、うそかほんとか知らんけども、中野沢の奥で高い(身分の高い)女の人が糸をひいておったって、そいでその女の人が川が抜けるで逃げれっていっても、みんな逃げずにおった。逃げれっていうのに逃げなんだもんで、みんな流れていっつまった(注6)。D 与川の伝説(木曽郡南木曽町与川)  与川が木曽川に流れ込む所に、地蔵様がまつってある。 江戸時代に尾張藩では、与川から材木を伐って毎年出していた。ところがあるとき、人夫が山におったら毎晩、「お前たち、早く行かんことには大水が出るぞ」と声が聞こえてきたが、それをばかにしてかかっていたら、本当に大水が出て大勢死んだ。これは、イケジキってとこに沼があった。そこの蛇がそこから抜け出すために、大水害を起こしたんだと。その水害のために300人くらい死んだという。それがために地蔵様をまつったのだという(注7)。 Aには年号が入っていない。与川で貴族の家を建てるため役人の元で材木が伐られていた。ある夜、与平の枕元に白い着物を着た女の人が現われ、これ以上伐採するなと忠告したので、仲間とともに仕事を続けることを拒んだが、役人は聞き入れない。再度女が現われ、明日雨が降ったら山の中に逃げろという。翌日大雨が降り、土砂崩れが起き、里の家々が流され、中山道も崩れ去った。このとき白い蛇も流されたが、与平に忠告した女はこの白い蛇だった。このことを前提にして南木曽町には水難を防ぐ石碑や地蔵様が多く建てられているという。 Bでは天保15年に中野沢で尾張藩が御用材を伐ったため蛇抜があり、多くの人間が流され、その供養のために与川渡に地蔵さんが建てられたと、時代までが指定されている。 Cでは同じ中野沢で女の人が糸を引いていて、川が抜けるので逃げろと告げたが、皆が逃げなかったので、流されてしまったとする。ちなみに女が糸を引いていたというのは、水音を機織の音に結びつけたもので、水の神と棚機女との関連は折口信夫の説くところであり(注8)、天竜川にも関係する伝説が多い(注9)。 Dでは、江戸時代に尾張藩が与川から材木を伐って出していた。人夫が山で、早くここを去らねば大水が出るぞという声を聞いたが、馬鹿にしていたら本当に大水が出て大勢が死んだ。大水は沼から蛇が抜け出そうとして起こしたものであった。その供養に地蔵様を祀った。 以上の伝説の内容の特徴を分析すると次のようになる。1 洪水の原因は御用材を伐ったため。ーA、(B)    貴族の家を建てるため、役人が主導。ーA   尾張様(藩)の御用材。ーB、(D)    蛇が沼を抜け出したため。ーD2 犠牲者のために地蔵さんが建立された。ーA、B、C、3 蛇抜(洪水)の予言がある。ーA、C、D   白い蛇の化身の女。ーA   糸を引いていた女の人。ーC   不明。ーD4 洪水と蛇とが関係する。ーA、D これらの伝説はきわめて共通性が多く、おそらく同じ根から出たと推察される。そして伝説の背景に、先に触れた天保15年の蛇抜があったことは疑いない。すなわち1は、B、Dに明示されているように、この地域が尾張藩の直轄する留め山で、尾張藩が直営で材木を伐り、藩の財源となっていたことに関連する(注10)。 2は尾張藩が建てた石地蔵を指す。天保9年(1838)の江戸城西の丸焼失後、再建の材木を木曽山に求めた折、様々な怪異があったため、普請御用として木曽になった来た川路聖謨が自費10両を投じて石地蔵を1体建立した。天保15年の与川の蛇抜に際して、尾張藩が藩費を投じて石地蔵を建てたのは、怪異の一つに天保10年に藩主などが亡くなったことを思い起こし、藩主などに異変が起きないことを願って、川路聖謨の行為に倣ったと考えられる(注11)。石地蔵は犠牲者の慰霊によって、藩の安寧をはかろうと建立されたのである。 表ー2.1でも明らかなように、与川の地は木曽谷でも最も頻繁に蛇抜に見舞われ、大きな被害を受けている。それなのにこの蛇抜の伝説を、天保15年の事件にだけ解消してしまってよいのか、あるいは蛇抜の伝説はこの地域のほかにはないのであろうか。特定地域の災害伝説を文化として考えるためには、他地域との比較が必要になる。

2.3 長野県の蛇抜に関する伝説

 先に出した疑問に答えるため、とりあえず長野県内の蛇抜にかかわると思われる伝説を探すことから始めたい(以下の伝説は要点のみ)。1 かじかと大蛇のけんか(長野県木曽郡)  昔、駒ヶ岳の麓の濃が池に大蛇が住んでいた。向い側の山にはかじか岩があり、そこには白かじかが住んでいた。ある時その大蛇とかじかが喧嘩をし、かじかは「お前にどれ程力はあるか知らないが、池をここまで押してくることはできまい」と大蛇に言った。怒った大蛇は池をぐんぐん押し出した。池の水はあっという間に山々を崩し、かじか岩に向かったが、結局は水は岩までは届かなかった。これによって「原野」ができた(注12)。2 蛇ぬけ(長野県木曽郡)  木祖村と奈川村の境の境峠に「新池」と呼ばれる小さな池がある。そこから数分奥の方に歩いて行くと、周りを木々に囲まれた湿地帯につく。この辺一帯は昔大きな池で村人は「古池」と呼んでいた。池には主として夫婦の蛇が棲んでいた。ある年、武者修行中の武士がここを通り、池の中に小柄を落してしまった。何年もの後、小柄の銅がさびて大蛇は体が腐りはじめた。そこで、この夫婦はこの池を抜けて海に出ようと決心した。ある年の夏、一ヶ月も大雨が続いて村中の川が氾濫し、泥土が押し流された夜、夫婦は決心を実行に移した。夫は北の土手を、妻は南の土手を一挙にくだり、海に向かった。二頭の大蛇の目はランランと輝き、村中に響きわたるうなり声をあげて通り抜けた(注13)。3 濃が池(木曽郡日義村)  昔、周囲が一里もある大きな池が、日義の村里離れたところにあった。池に流れる水はあるが、出る水はなかった。村にお濃という女の人がいた。ある日お濃はこの岸に立ち、あっというまに龍神になって水に入っていった。龍神は池の主で、どこの池にも龍が住んでいる。ある日、集中豪雨があった。その雨はものすごく、日義村をおおい高い岩の松の所まで水がついた。その時この池も流されてしまった。池が流れていく時、光も一緒に流れていったが、それはまるで龍の目玉のようだった(注14)。4 蛇抜け(木曽郡大桑村)  伊那川田光に発電所工事のために従事していた人々の飯場が、大水で押し流された事がある。この前の晩に、この飯場に白い蛇が出た。飯場の人々は、その蛇をつかまえて夕食に食べた。その翌日、大水害で40人もの者が水に流されて死んだ。これは白蛇の祟りだと、残った飯場の人たちは思った。ここには地蔵像が立てられて、村人が花をあげたり、お供物をしたりして、大切に祀っている(注15)。5 かじかの念仏(木曽郡開田村)  昔、西野で幾日も雨が降り続いて、西野川が増水し、神田の村が水害を受けそうな危険な状態になった。村の人達がある一軒の家へ集って一晩中対策を相談した。夜明け前、東が白む少し前に村中の人が集っている家へ、白装束をした子供のように小さい人が突然おとずれて、「川も水が出て大変だが、それよりも、オリコシ(神田の東方の山の地名)が山崩れして、神田は埋め潰されてしまうから、早くあそこへ行って念仏をあげて、安全の祈りをしなさい」と告げて、そのまま姿を消した。「これは何かのお告げかも知れないから、早速念仏をあげよう」ということになり、村人はどしゃ降りの雨の中を蓑も笠もつけず、山裾からオリコシまで上って念仏をした。その時その手前の山の窪みにいた白かじかが稲光のように輝いて、山の上の方へかけ上がると、地ひびきのような山鳴りがし、同時にどしゃ降りの雨がやんで、山崩れの危険がなくなった。その後幾日かして把之沢の山で蛇抜があり、そこを「蛇のくぼ」と呼ぶようになった。白装束の小人に危険を知らされ、山崩れをのがれた神田の人達は、輝いて山をのぼった白かじかが危険を知らせてくれたにちがいないとして、かじかの碑をたてて毎年田植上りには、オリコシへ上って、白かじかの供養の念仏をすることにした(注16)。6 十人塚(木曽郡開田村)  半太夫屋敷の近くに石を積んだ塚がある。昔、よその土地から来た杣達が小野原の奥で仕事をしていた。あるとき三日三晩も大雨が降り続いて、月夜沢に蛇抜があり、杣達の山小屋を押し潰して流した。村の人達は気の毒に思って、ここに石を積んで、十人の霊をなぐさめた(注17)。7 蛇抜の池(長野県木曽郡木曽福島町黒川)  まだ焼棚山に山姥が住んでいたころ焼棚山の尾根に池があり、たいそう大きな蛇が住んでいた。しかしいつの日か誰も知らないうちに蛇がこの池からいなくなった。それ以来この池のことを『蛇抜の池』と呼ぶようになった(注18)。8 蛇抜にまつわる伝承(長野県木曽郡南木曽町三留野)  龍が天に昇る時に、煙の様なものが光り、舞い上がっていた。その日には必ず白い雨が降り、ドーンという音がして大地を動き、川の水面を埋めつくすように流れ、後は泥沼のようになった(注19)。9 沢底の蛇の池(長野県上伊那郡辰野町朝日沢底)  沢底の山寺に堂平という所があり、お寺もあったが、いつの頃からか廃寺になった。この堂平に蛇の池と呼ぶ小さいが底無しの池がある。昔、この池に大蛇が住んでいたが、大雷雨で山抜けした時、一緒に流れて行方がわからなくなった。池から7、8間離れたところに蛇ヌケといって、蛇の抜け出した跡だというところがある。この池を掻きまわすと雨が降ると言って、誰も昔から手を出した者がいない(注20)。 10 沢底の蛇の池(長野県上伊那郡辰野町朝日沢底)  沢底の山寺に堂平という所に蛇の池と呼ぶ小さいが底無しの池がある。昔、この池に大蛇が住んでいたが、大雷雨で山抜した時、一緒に流れて行方がわからなくなった。池から7、8間離れたところに蛇ヌケといって、蛇の抜け出した跡がある(注21)。 11 辰野と樋口(長野県上伊那郡辰野町)  昔朝日村の荒神山が伊那の東西両山脈の間をつないでいたために、諏訪湖はここまでいっぱいに水をたたえていた。その中に主の大蛇が住んでいた。ある年大洪水の折、荒神山の途中が切れ、湖水の水は一時に天竜川へ流れ出し、その跡が次第にかれて、平地になった。主の蛇は居所を失くして死んでしまった。辰野という名前はそのために出来た。荒神山が崩れて水が流れ出した所が今の樋口である(注22)。 12 熱田神社と大蛇の骨(長野県上伊那郡長谷村)  昔日本武尊が三峰川の上流にすむ大蛇を退治した。そこは大蛇の血が河原を真赤に染めたため今赤河原と呼んでいる。百姓達はそこに尾張の熱田神社を勧請してお宮を建てた。その時境内の欅の大樹の下から大蛇の白骨が現われた(注23)。 13 座頭なぎ(長野県上伊那郡中川村片桐)  昔、座頭数人が京へのぼる途中、なぎ崩れに出あって悲惨な死をとげた。村人はその祟りを恐れて碑を建て、その霊を慰めたが、山の木を伐ることがなぎ崩れの原因だとして、今後再びこのような惨事の起こらないことを願った(注24)。 14 大蛇が天竜川を流れて行った話(長野県飯田市下久堅)  今から700年前の元仁2年(1225)6月2日はひどい大雨であった。天竜川の水もひどく濁流が渦巻き、2丈(5、6メートル)もある大蛇も流れて行った(注25)。 15 池口の大蛇(長野県下伊那郡南信濃村)  遠山郷の池口は、およそ二、三千年前まで池の主として大蛇が住んでいた。下の方の地盤の弱い所が大地震か何かのはずみで崩れ池が一挙に押出した。大島、漆平島、屋の島、松島七島はその時できた。大蛇はその折諏訪湖に上った。池の底に大蛇の隠れ場が有ったので、諏訪明神として底の所に明神様の社を造り、現在も祭り続けている(注26)。 16 先途のお池の主(長野県下伊那郡天竜村坂部)  むかし先途は、三軒あって場の平らないい所だった。そこに池があり娘が毎朝その池を鏡にして髪の毛をすいていた。それを池の主が見て、この娘をどうしても嫁にしたいと思った。お池の主は蛇の体を人間の格好に変えて、この娘と愛し合うようになった。ところがある時、二人は仲が悪くなった。池の主は怒って娘を池に引っぱりこんだ。池は荒れたくって、一面にナギ(地すべり)になり、池はなくなってしまった。その時には、ナギの石が蜂山を越えて、富山の大谷まで落ちた。虫川もそれまではずっと浅かったが、それからは深くなって、今ではずうっと下を水が通っている。先途に三軒あった家も、ナギで流されて、一軒きりになってしまった(注27)。 17 三度がえり(長野県塩尻市宗賀洗馬)  昔、すさまじく大雨が降った時、奈良井川の支流の尾沢川は大変増水し、山を崩し、谷を削って押し出した。その時、尾沢山も主の大蛇も怒って、大あばれにあばれて濁流に乗り、奔流に躍りつつ里の方に下ってきた。そこで牧野の滝の神社の神さまが、里の人に害があってはならないと、激しく大蛇をしかりつけたので、大蛇は三度めに神さまのいうことを聞いて山へ帰っていったという(注28)。 昔、すさまじく豪雨の降った年があった。その時、尾沢川は非常な増水で山を崩し、谷を削ってどっと押し出した。尾沢山も主の大蛇も大あばれにあばれて濁流に乗り、奔流に躍りつつ里の方に下ってきたが、牧野の滝神社に食いとめられて再び上に戻って行った。それで今でもその辺を「二度帰り」と呼んでいる(注29)。 18 観音様のお怒り(長野県松本市入山辺千手)  観音様のご利益があらたかだったので、信者の参詣は絶えることなく毎日大変に賑い、遠くから来る信者のために宿屋や茶店までができた。参道も立派になって、西の参道から上って東の参道へ下りるようになった。その頃、観音堂から火が出てお堂はもちろん、近所の家まで焼けた。そこで、村の人たちが相談して参詣に都合のいいようにと、観音堂をずっと村の下の方に建てた。それから、どうしたことか村には天災地変が続いて起こった。大雨が降り続いて村の裏山が蛇抜して、古い観音様の両参道が深い堀のようになって下の沢に流れ落ちた。村の人たちは驚いて「こりゃきっと観音様を下の村におろしたせいだ」と、また元のところへお堂を建てて観音様に帰ってもらった(注30)。 19 田溝池の大蛇(長野県松本市井深)  六郎池の上の方には、中池と大池というため池がある。一番上の池が大池で田溝池とも呼ぶが、ここに大蛇が出た。昔、松岡の人が草刈りに来てその大蛇を見た。昼間人に姿を見られたので大蛇が怒って、土手を切って逃げた。このため、田溝池と中池の水が出て、死者が出、家が流され、町の方まで水がついた。その沢はジャヌケと呼ばれている。大蛇を見たという人は、その後一家全員が死んでしまった。このことは、この奥にある慶弘寺の過去帳にも書いてあるという(注31)。 20 蛇の宮(長野県東筑摩郡波田町)  鍋割の部落の東方の押出原に、蛇の宮(押出権現ともよぶ)というお宮があった。そこには、大蛇の骨を祀ってあると言い伝えられてきた。亨保年間(1716〜36)という説もあるが、もっと昔のことのようである。ある年、幾日か大雨が降り続き、土地がすっかりゆるんでいた。そこへ、荒倉山から唐沢山にかけて山崩れがあり、夫婦堤が切れ中沢が氾濫した。中・下波田方面の台地は大きく東方へ向かって傾斜しているが、同時に北へ向かっても次第に低く傾いている。この大地を横ぎって、中波田の部落を通り、梓川の段丘に向かって、土石流が押し出してきた。それが、さらに今の波田駅のある東方の段丘の辺を乗り越えて、鍋割の頭部を通り、押出部落の南の押出原まで達した。そのすさまじさは想像以上だった。人家を飲み畑を崩して恐ろしい勢いで押し出した。村人たちは余りの恐ろしさに、驚きおののいた。押し出しの跡を見ると何か白い骨のようなものがあった。「これは、蛇の骨に相違ない」と、それをご神体に「蛇の宮」としておまつりした。昔の人はこうした現象を「蛇ぬけ」とよび、恐ろしい大蛇の仕業と考えた。そして、そのような大災害が二度と起こらないように、神様を祀って祈願した。押し出しのあった段丘の続きは、なだらかな道路(国道158号線)になっていて、昔そんな災害があったなどとは、思われない。けれど、中下原・中、下波田方面の台地は、傾斜地になっているから、大雨が降れば災害を起こしやすい地形である(注32)。 21 宮下大権現(長野県東筑摩郡明科町)  会田北山の東に女郎屋敷という所がある。文禄2年(1593)3月18日夜に大雨が降った時、山崩れが起こり川を堰き止めた堤ができた。ここに女郎という山姥(大蛇)が住みついたが、彼女の頭は石臼をのせたようになってい16の角があった。通る人は山姥に持物を取られたり命まても奪われたので、怖がって誰一人近づく者がいなかった。何とかしてこの山姥を退治したいとお上へ訴えたところ、花見の宮下勘左衛門という鉄砲の名人に申しつけられた。名人は神仏に祈って、17の別火を立て大きな玉をこめて、池から顔を出そうとしていた山姥(大蛇)へ向けて引き金を引いた。玉は山姥の左胸に当り、血が池に溢れ、暴れてのたうちまわるうちに、堤の土手が崩れて一夜のうちに犀川へ押し出した。その後17日間この血の流れは続いた。宮下勘左衛門はお上より褒美をもらい、その手柄をほめられた。人々はこの功績をたたえ、花見に宮下大権現として祀った(注33)。 22 蛇石(長野県南佐久郡小海町)  馬流の裏山に蛇石という石がある。1間半に1間、高さ3尺ばかりで、ちょうど蛇が土中から頭だけ出したような形をしている。この石が暖まってポタリポタリしずくが落ちると、きっと雨が降る。干天続きで雨でも欲しい時には、村の人は「蛇石のぐあいはどうだろう」などといって見て通る。昔、岳(八ヶ岳)に棲んでいた大蛇が山崩れでここまで押されて来て石になったのだという(注34)。 23 笠石(長野県小諸市)  笠石は、小諸市蛇堀川の東岸にある大きな石で、差し渡し七間余(約12メートル)もある。永禄年中(1558〜70)の洪水に、大蛇が頭に石を載せて流れてきた。熊野堂社のそばに押し上がったが、社の方にある大石に突き当たって、再びまた雨の水筋にはいって、ここまできて止まったと言い伝えられている。この辺の字を笠石といい、また川を蛇堀川といっている(注35)。 24 霧窪の伝説(長野県小諸市押出し)  ここは今でも沢の中のじめじめした所であるが、昔は大きな池で、その主は大きな蛇体であった。この主は、七年に一度ずつ娘を犠牲として捧げさせるのが例になっていた。ある年、白羽の矢がその付近一番の金持ちの長者の一人娘に当たった。最も嘆いたのは娘の許嫁であった。彼は勇ましく立ち上がり池の主と戦った。風雨が激しい中の戦いはいつ果てるとも知れなかったが、ついに力尽きてともども死んでしまった。しかし戦いの最中の暴風雨で、大池の主も若者も一緒に押し流されて、今の場所に移った(注36)。 25 大蛇と大水(長野県小県郡長門町)  村の猟師二人が本沢にやって来て大蛇を打った。大蛇は淵の中に飛び込んだ。その日から大粒の雨が三日も降り続き、なお雨は止まずに降り四日目からはついに大豪雨となり、大門をはじめ長久保や古町、立岩の村々で、数十軒の家が流され、数十名の人たちが亡くなった。この水害はいまだかつて村の人々が経験したことのない大洪水で、五日目にようやく空が晴れた。村人の中には、濁流とともに大きな蛇がかま首を持ちあげながら流れ下る姿を見た人が何人か現われた(注37)。 26 池の平(長野県埴科郡坂城町) =1= 御堂川に沿って林道を登って行くと湯沢に出る。これから50メートル程登ると「池の平」という。広くて平な所に着く。ここはかつてはうっそうたる原始林があって、その中に大きな池があり主が住んでいた。あるとき近くの赤岩を中心に大雷雨があって、もの凄い山津波が起き、あっという間に土砂が流出してきて、さしものこの大池も埋まってしまった。このために池の主は、ここに住んでいられなくなり、北西の山の峰伝いに坂城の方の池に移って行ってた。池の主の通っていた道を「乗り上げの横手」といっている。坂城の「池の平」も昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風のとき土砂流出によって埋まり、一隅に水神宮の祠だけが当時を物語っている(注38)。 =2= 池の平にはうっそうたる原始林があって中に大きな池があり、池の主が住んでいた。あるとき近くの赤岩を中心に大雷雨があって、もの凄い山津波が起きて、あっというまに土砂が流出して、この大池も埋まってしまった。このために池の主は、ここに住んでいられなくなって、北西の山の峰伝いに坂城の方の池に移って行ってしまった(注39)。 27 龍潭山明徳寺(長野県長野市松代町)  大昔、明徳寺は関屋の新谷の沢の入口に建てられ、付近には20戸位の家があった。新谷の沢は日向で温かく北風が無く住み良い所である。関屋氏の時代戌年の大洪水の時、新谷の沢の一部が山ぬけし、土砂の下敷になったり大災害を被った。新谷の沢に住んでいた人達は再度の災害を恐れて関屋川の西側に移り住んだ。この時明徳寺も被害を受けたので時の和尚様と相談したところ、和尚さんは{この大雨は天災ばかりではない。菖蒲沢の瓢箪池に龍が住んでいて霧下り山に雲を呼び大雨を降らすのだ。瓢箪池の辺りに寺を建て龍を鎮めて二度と大雨を降らせないようにしたい」と言った。関屋氏は和尚さんのいう通り菖蒲沢の瓢箪池の側に寺を建て、菖蒲沢の山里全部を朱印地として明徳寺に賜った。龍潭山明徳寺の寺号は瓢箪池の底深く龍が鎮まっているためである。また寺名は明徳元年(1390年)に建立されたので、明徳寺というと伝えられている(注40)。 28 浜津ヶ池の大蛇(長野県中野市)  昔、浜津ヶ池に大蛇がいた。大蛇には浜津ヶ池が小さくて棲みにくかったので、大蛇は大雨が降った夜に浜津ヶ池をとび出して、千曲川に渡ってどこかへ行ってしまった。それは、雨が幾日も続いていた夜だった。突然起こったゴウ、ゴウという音に村人たちは眠りを起こされた。朝になって見ると、浜津ヶ池から牧山を通って千曲川まで、畑や田んぼが巾30メートルにもわたって引裂かれていた。これは大蛇の通った跡とされた。浜津ヶ池の近くにある蛇越えという所は、浜津ヶ池にいた大蛇が千曲川に渡る時に通った場所という(注41)。 29 お諏訪さんの大蛇退治(長野県中野市赤岩)  昔、高社山の大蛇が、赤岩の村に土砂を押し流して、田畑を荒らして、家を壊しては村人を困らせていた。困り果てた村人は、産土神のお諏訪様に大蛇征伐をお願いし、やって来る大蛇を待ち構えて、ようやくにして討ち取った。お諏訪さんが大蛇と戦った場所に、神社を建てて祀った。大蛇の死がいを埋めた場所を「蛇河原」と呼ぶようになったともいわれる(注42)。


 全体で見ると、木曽と伊那地方が伝説の半分を占め、この地域に蛇抜が多かったことが知られる。これは両地域が赤石山脈と木曽山脈、さらに飛騨山脈に囲まれており、高い山から最も低い木曽川や天竜川を目がけて周囲の山に降った雨が流れ込み、洪水になりやすかったからである。しかもこれらの山々の多くは花崗岩質で保水性に乏しく、水の出が急だった。それに花崗岩の風化したものは崩れやすく、土石流が起きた。材木を伐採するとこの性格がさらに強まった。 ところで、以上の伝説を先に見た与川の伝説と比較してみよう。 1 洪水の原因として木を伐ったことが挙げられるもの。ーなし。    ただし、6では杣が出てくる。 2 犠牲者のために地蔵さんを建立。—4     犠牲者のための石碑などを建立。—5、6、13     洪水の原因となった大蛇などを祀る。—15、20、27、29     大蛇などを退治した人物を祀る。—12、21  3 蛇抜(洪水)の予言がある。—5     白かじか。—5(1もこれに関係するか)  4 洪水と蛇、龍が関係する。—1、2、3、4、7、8、10、11、12、14、15、16、17、19、21、22、23、24、25、26、27、28、29     蛇や龍が他所に移る。—2、7、8、9、10、15、19、22、28     蛇などが住む池が流れたり埋まる。—3、11、26     蛇などの祟り。—4、25  こうしてみると、与川の伝説がかなり具体的で、伐採をするなといった主張など、他所の蛇抜災害とは異なる特徴をもっていることが浮き彫りになる。それと同時に、蛇抜の伝説は長野県内だけでも数多くあり、かなりの広がりをもちそうである。

2.4 蛇抜につながる各地の伝説

 『日本国語大辞典』は、蛇抜という言葉で土石流を呼ぶ地域として、長野県の他に岐阜県と山梨県を挙げている。続いてこの両県の伝説も確認しよう。ア 大古井の大蛇(岐阜県大野郡高根村)  大古井の千本桂の奥山に大蛇が住み、時々大嵐を呼んで大川へ出るので、そこを蛇抜と呼んだ。千本桂の附近から流れ落ちる谷水は豊富で水質もよく、住民の飲料水となった。この大蛇は集落近くにも姿を現わし、千本桂に七巻半巻きついているのを見たという話もある。根本に古い祠が残っている。千本桂の根本から、泉が湧き出ているので、集落の人々はこの木と泉を山の神・水の神の霊木、霊泉として敬っていたが、ある時村の不心得者がこれに不浄なことをしたので、神が怒り大蛇になって大荒れした。それからこの辺一帶を「蛇ヌケ」と言うようになった(注43)。イ 龍神を封じ込めた話(岐阜県大野郡高根村)  集落の中央部に自然に水が沸き出している湿地帯がある。普段でも霧が舞いやすく、長雨の降る時などは特に濃く立ち込める。昔この辺りに龍神の化身と言われる白蛇が住みついて、山伏塚のへんまで遊びに来た。大雨の時この辺一帶が土抜けして大騒ぎになった。次の大雨の時、集落の修行を積んだ行者が、雨の中で祈?して「千年も万年も抜けるな」と叫んで逆杭を打ったところ、豪雨にたえて無事であった。難を除かれた集落の人々は一層その行者を崇敬するようになった。逆杭を打つことは呪いを込める時とか、不吉を招くような時に行われるものだそうだが、この場合は行者の神通力が、自然界の不吉に打ち勝ったのではなかろうか。そのためか、20年余り前に大豪雨で集落内の所々で被害があったが、この場所は安全であった(注44)。ウ 三分一(山梨県北巨摩郡長坂町)  昔、八ヶ岳は随分山崩れがあった。小泉村小荒間村地方では、この八ヶ岳の山崩れをおんだし(押出し)という。昔、天保(1830〜44)のころ八ヶ岳に恐ろしいおんだしがあった。今の三分一の泉の辺りが中心となり、山のような濁流が押し出した。濁流に乗って一匹の白蛇が山から下り、三分一の辺りのどこかへ消えた。以来、三分一の主は白い蛇であるという。三分一の湧出口を破壊したり、裏山の木を伐ったりすると、白蛇の怒りに触れるといわれている(注45)。エ 瀧本院のこと(山梨県塩山市)  中萩原と下萩原の境いに程近い黒川街道沿いに瀧本院という真言宗の寺がある。この寺は弘法大師兄弟が中萩原に来て真言宗を広め、弟の方が残り布教に努めたのが初まりだという。この寺の奥は滝の沢という深い山沢で大きな滝があった。その滝が大雨にあい、一夜のうちに山崩れになり、押し流されて滝が無くなった時、大蛇が流されてきた。その大蛇を捕えて頭、胴、尾と三つに切り頭を沢下の桧林、胴をお寺の近く、尾を寺より下の方の畑の中に葬り、それぞれ小さい祠を立てて供養した(注46)。 アでは、大蛇が大川へ出る時に蛇抜が起こるという。イによると白蛇が遊びに行く折に蛇抜になるらしいが、蛇抜をさせないために逆杭を行者が打ったところ効果があった。ウでは蛇抜の原因として白蛇が意識されているようである。エでも滝がなくなって押し流された(蛇抜)ことと、大蛇が関連付けられている。 このように、少ないけれども長野県の場合とよく似た伝説が両県にも残っている。これも蛇抜という災害が、与川のような特定の地域のみで起こるものでないことを示す。そして、蛇抜伝説の背後には日本人の災害観や、日本人の龍や蛇に対する意識(注47)が存在しているようである。そこで最後にもう少し広い視野から蛇抜の伝説を考えたい。【海に出る龍】 蛇抜は多くの場合、大蛇が移動するに際に起きるとされる。それでは何故に大蛇は移動するのであろうか。長野県の29の例のように、蛇が大きくなり住む場所が狭くなったために移動することが考えられる。もう一つ注目されるのは8で、龍が天に上る時、大きな音とともに蛇抜が起きるという。これに関係して次のような伝説がある。 I 桂の木と大蛇(北海道渡島支庁松前郡松前町)  福山徳山大神宮の本殿横に、何百年も経った大きな桂の木がある。昔、この宮に別当白鳥某という人がいた。ある夜、この人の枕元に一人の白髪の翁が現われ、「私はこのバッコ沢の奥に住んでいる大蛇です。この沢を出て大海にのり出し、やがては天に昇り、龍になりたいと思っているが、この桂の木が大きく枝が邪魔となって、海に出ることができない。どうかこの木を伐ってください」と言った。しかし、大蛇が大海に出る時は、雲を呼び大雨を降らし大洪水とし、その波に乗って出るというので、別当は望み通り大蛇を大海に出してやりたいとは思うが、そのために松前の街が大洪水に流されては困ると木を伐らなかった。木は今も伐られず大きな枝を伸ばしている。木の周りにはしめ繩が張られ、御神木となっており、手を広げてつなぐと六、七人も並べる。また、このしめ縄は、昔、大島噴火の時、津波が押し寄せ、松前の街も海の水をかぶったが、その波がこのしめ繩の辺りまできたしるしだという人もあった。バッコ沢に住んだ大蛇もこの機会に、その波に乗り大海に行き今では天に昇り、龍になり、望みが叶えられたのかもしれない(注48)。 II 桂の木と大蛇(北海道檜山上ノ国町)  桂岡愛宕の岡の麓に桂の巨木がある。昔、沢の奥に棲む大蛇が村人の夢枕に立ち、「この沼にいて修行すること既に千年、この上は海に出て、さらに千年の行を積み龍となって天に上りたい。しかしトガフの桂があるので海に下ることができない。どうかあの木を伐り倒して私の願いを叶えてもらいたい」と言った。村寄合の結果、「大蛇は大洪水に乗って海に出るというが、あの桂の木が邪魔になるほどの洪水といえば怖るべき大洪水だ。トガフは愚か、上ノ国全体が濁流に呑まれてしまうのであろう。これは、どんなことがあっても伐れない」と決まった。それからこの桂に斧を入れる者はなく、桂岡の守り、天ノ川流域の村々の守りとして、今も神さびた偉容を誇っている(注49)。 この二つの伝説では、大蛇は大海に至り、天に上りやがて龍になる。大蛇が海に出る時に雲を呼び大雨を降らして、大洪水にしてその波に乗って海に出るという。そしてこの場合には、桂の木が大蛇のそうした行為を阻止する要因になっている。この桂の木はアにもつながる。 よく似た伝説は他にもある。 III 笠谷の七軒家(兵庫県養父郡大屋町筏) =1= 笠谷の山の斜面のくぼんだ所に棲む大蛇が、大水の出た時海に流れ出たかったので、村の人の夢に現れ「水の出た時に大海に出たい。出してくれたら湯の町を立派な繁盛する町にしてやる。出させんというなら、この村は現在よりは絶対増やさんぞ」と言った。蛇が出たらこの辺の田圃も家も押し潰されてしまうと考えた村人は、あたりの梨の木を全部使って枕をこしらえて、山から大川にいたるまで打ち込んだ。蛇は梨の木に触れると体が腐るのでとうとう出なかった。そのため今でも家が七軒しかない(注50)。 =2= 笠谷の庄屋の枕元に美人が現れて、「この奥に住む蛇体だが、千年の功を積んだので大雨を降らせて、大川に流れ出るつもりだが、村の端の橋が邪魔なので、一日だけ撤去してくれ」と頼んだ。ところが、村人は沢山の梨の木を集め杭を作って、龍が潜んでいると言われている場所の周囲に打ち回した。数日後に、村の主だった者の枕元に、かの美人が現れ、お前たちの命は三年を待たずに貰い受けて、末代までも笠谷は七軒以上はふやさないと言って去った。それ以来、千軒あった家は七軒になった(注51)。 大蛇は龍になるため海に出るという。長野県の松本平では白龍太郎あるいは泉子太郎の伝説がある。この地方は昔湖だったが、母の犀龍が白龍太郎をのせて蛇体となって風雲を呼び、猛烈な勢いで千山万岳を一挙に蹴破り、湖の水を日本海に出した。そのため松本平ができたというものである(注52)。この伝説もこれにかかわるかもしれない。【龍を止める手段】 それでは、龍の邪魔になる桂の木を伐るなどのほかに、どのようにしたら、龍が海に下ることを防げるのであろうか。それを伝える伝説が以下である。 IV 大蛇の池(兵庫県養父郡八鹿町)  岩崎村の奥の山の上に大雨の時は池になる大きな窪地があり、大蛇が住んでいた。この大蛇が村の老人の夢枕に立ち、「この池から出たい」と言った。人々は気味悪がり、池の出口に蛇杭を打つことにした。大蛇は再び老人の夢に現われ蛇杭を打たぬよう頼んだが、村の人々は池の出口に蛇杭をぎっしり打ち込んだ。大蛇は大へん怒り、雨や風を呼び池から出ようとした。このため岩崎の谷は夜一晩中ゴウゴウと鳴り、雨は滝のように家々や田畑に襲い掛った。夜半過ぎ谷の奥の方に起こった、にぶい地鳴りの音が、戸障子をゆるがせて走り去った。翌朝みると家々の下の谷筋が一面の泥の海で、大きな岩がごろごろと転がっていた。ようやく穂の出そろった稻はその下に埋もれていた。大蛇の池は跡形もない。大蛇は大水の勢いに乗って池の囲いを破り、谷を下っていった。村人たちは恨みをはらすために、旧暦の8月1日に、太さは子供の胴ぐらい、長さは50メートルもある縄をない、大蛇にみたてて村中の人がひき合ってひきちぎる行事を行なうことにした。首尾良く綱がちぎれたら、大蛇を退治したことになる(注53)。【山崩れと竜】 既に龍と山崩れとが深い関係にある伝説を挙げたが、もう少し付け加えておこう。 V 鍛冶ヶ野由来(高知県幡多郡西土佐村)  鍛冶ヶ野という山奥に昔、鍛冶屋があった。そこに猟師がおって、何十貫もある大きな猪を獲ったが、自分一人でもって来ることができないため、蛇がいるという蛇淵の水の際に置いておいて、人を二、三人雇いに村に戻った。帰ってみると、その蛇淵から大きな蛇が出て来て、猪を半分ぐらい飲み込んでいた。猟師は怒ってかたきを打ってやるぞと、蛇の嫌いな鉄屑をふご二はい、鍛冶屋から拾って来て鉄屑を蛇淵にまいた。そうしたら、下から湧き上るように淵がうねり返って、にわかに天が曇って雷がゴロンゴロン鳴った。雨がザアザア打つように降って、一刻、二時間ぐらいで、どこもかしこもゴンゴン大水になって湧き返り、山崩れが起き、家も流れて、猟師の部落は野になってしまった。鍛冶屋が野にしたようなものだということで、今に鍛冶ヶ野という土地の名になっている(注54)。 VI 蛇淵の毒流し(高知県安芸市栃ノ木)  昔、韮生の久保という所に大八という金持の羽振者がおった。村の人を誘って蛇淵の毒流しをすることにしたが、一人のうすのろの男のみ従わなかった。毒流しの準備をしていると、大八の家では自在鉤に茸が生えたり、鉄の釜に茸が生えたりの不思議がある。また大八の枕元に女が立ち、蛇淵の蛇だが、今は身重なので毒流しを延ばしてくれと泣いた。大八はかまわず蛇淵に赴いて毒流しをすると、「大八行くぞ」と叫んだかと思うと、大蛇が現れ七畝七谷のたうち回り、大きな音を立てて山は崩れ、韮生の村はなくなって、毒流しに従わなかった男の家一軒のみとなった(注55)。 こうした龍・大蛇と水との深い関係は、高木敏夫が早くに伝説を分類した際、水界神話的伝説の最初に「竜蛇伝説」を置いていることでも明らかなように、広く社会の一般認識である(注56)。また柳田国男も「竜王と水の神」(注57)で両者の関係を論じている。私も天竜川の災害における龍や大蛇と関係する伝説をまとめた(注58)。【災害を告げる】 これまで見てきたように、へ部抜の伝説においては予言が大きな意味を持っているが、災害の予言に関係する伝説も各地にある。 VII 揚原の山崩れ(福井県鯖江市戸口)  昔は今の下戸口を揚原といった。ある夜、白い衣を着た神が揚原で一番の財産家に、「今夜この村の横にある山が崩れるから村人は皆逃げよ」と夢の御告をした。その人は非常に喜びかつ驚いて早速村人に知らせたが、村人は「そんなことがあるものか、あの奴少し気が狂ったぞ」と言って笑った。けれども中には信じて逃げた者もあった。こうしている中に、山頂からゴーと物凄い岩雪崩がやってきた。残っていた人はあわてて逃げ惑い、岩石や木の株、土の下になった。神のお告げを信じて逃げた人は、大喜びで方々に分かれて各家を作った。今の上戸ノ口、中戸ノ口、下戸ノ口の三区がこれである。山の崩れた所を今は「がら」といっている。がらがらと岩石が転がっているからである(注59)。 VIII 山の神の知らせ(高知県室戸市佐喜浜)  根丸の草分ともいうべき小字の一つに「はけのもと」がある。谷が今のように荒谷になっていない昔、山の麓に二、三軒の家があり田畑を耕し山仕事をして暮していた。ところが山がだんだん荒れてきて、田畑も流されるようになったので、一軒去り二軒去って、残るは一軒だけになった。怖いからお前さんも引越さないかと勧められたが、主人は頑固に拒んでいっこうに引き移る気配もなかった。その年の暮、正月の用意の餅つきも終り、主人が囲炉裏に火を焚いてあたっていると、見知らぬ者が囲炉裏の横座に坐っている。髪が真白の赤ら顔した男で「餅を食わしてくれ」と言う。妙な奴だと思ったが黙って一つ取ってやると、食い終るや煙抜きの天窓から去った。あくる晩もやって来て、「餅を食わせ」と言うので分けてやった。三日目の大晦日に来た時には、昼のうちに用意してあった丸い白石を餅の代りに渡した。「もう餅はいらん。わしはお前に告げに来たが、とても聞き入れそうにないので二晩三晩とやって来た。近いうちに、この山には山潮が起って大はけが来る。谷も埋まり、家も田畑も流されるので、早く立去れ。わしは山の神じゃ。さらばじゃ」と告げ終ると、山の神は天窓を伝って闇の中へ消え失せた。正月の三ヶ日後、一家は家財道具をまとめて子まるの方へ引き移った。七草も済むか済まぬ頃に、子まるの人にも聞えるぐらいの大きな音がして山崩れがあり、はけの谷は埋まった。根丸の山本家は今だに通称をはけという。山本家の発祥の地ははけの谷であると言われている。その後、山の神は浜宮の後ろの山に移されて祀られている(注60)。 IX 山の神の知らせ(高知県室戸市佐喜浜)  ある日、一軒の百姓家に美しい娘が訪ねて来て、手桶二つを借りた。親父さんが蝦ヶ池に行ってみると、淵の中では二人の娘が懸命に手桶で水を掻いていた。そのありさまがあまりにすさまじいので、親父さんはわが家に逃げ戻った。やがて、先の娘が手桶を返しに来て、「二、三年のうちに天と地が引っくり返ることがおこるから、ここを立ち退いた方がよい」と言って去った。皆は今の段の池に移った。その二年後、予告通り加奈木の山がふくれ上がって大きな山崩れが起き、元の在所は変わり果てた(注61)。 淵の水を掻き回すことは伝説9につながろう。


 以上の伝説で、洪水を知らせたものを整理すると、次のようになる。  神ーVII、IX、(D)    白い衣を着た神(男)ーVII、髪の真っ白な赤ら顔の男の神ーIX、(D)   大蛇が夢枕ーI、II、III、IV    大蛇が白髪の翁となってーI、男ーIII=1=、白い着物を着た女ーA、美人ーIII=2=、女の蛇ーVI女ーC(これはAとの関係からして、蛇の可能性が高い)、IX   白いかじかが白装束の子供となってー5 つまり、蛇抜を起こす神とは別な神が知らせる場合と、蛇抜を起こす主体である大蛇や龍が知らせる場合と二つがある。そして、知らせる神や大蛇などの象徴として、白い蛇のA、4、イ、ウ、白いかじかの骨の20、白いかじかの5と、白という色がある。いずれにしろ、この世の住人でない神仏や大蛇のもつ力は絶大だと意識されている。 次に問題になるのは、いかに蛇抜に対処するかである。一つの方法は、蛇抜などを起こした大蛇や龍を神として祀るもので、15,20,ア、エに見られる。また神や神社の力によって蛇抜などを鎮めようという意識は12,17,18,21,23,26,29に出ている。27では寺がそうした役割を負っている。この神の力を頼むという方法が、最も普遍的かつ古くから見られると推察される(注62)。土石流に蛇抜という名称が付けられたのも、そのメカニズムがわからない時代に、大蛇(龍)という不可思議な水の神がこれを起こしたのだという理解があったからと考えられる。 12,21では大蛇と戦う男が出てくるが、戦った者は神として祀られており、男が特別な人間にされている。しかしながら、人間が大蛇と戦うというモチーフは従来神とされてきた大蛇や、これによって代表される大自然に、人間が戦いを挑むことを象徴的に示していよう。このことは大蛇を弱らせる手段として、文明の象徴ともいえる銅がある2,鉄のVの伝説とも関わる。 大蛇に消極的に対抗する手段として、大蛇が海に向かうとき邪魔になる木を伐らないことであり、I、IIの伝説にそれが見られる。 蛇伐に積極的に対処するのが自然に手を加える杭を打つという行為で、イでは逆杭、IIIでは梨の木の杭、IVでは蛇杭が打たれている。これらの杭は堤防構築をイメージさせ、人間の自然や神への挑戦といえよう。例えば鎌倉時代の末に描かれた「一遍上人絵伝」には信濃の犀川などの川岸に乱杭を打ち並べて氾濫に備えている状況が見られる(注63)。中世までの人々にとって、杭を打つことが洪水への手立ての一つだったのである。なお、堤防の構築が大きく進むのは戦国時代であるが、その背後には自然も人間が統御できるという、自然や神々に対する挑戦の意識の進展があった(注64)。 これに対して本稿の主題をなす与川のA、B伝説の場合、材木の伐採を止めることによって蛇抜が防止されると意識している点に特徴がある。これは13やウにも通ずる。杭を打つことが自然への挑戦だとしたら、この場合には蛇抜が材木の伐採を引き金にして起こるという自然のメカニズムを認識したうえで、自然保護の積極的主張ということができるであろう。VIの川に毒を流すなという主張も、これにつながる。現在の自然保護運動に近い考え方である。 与川の蛇抜の伝説は、天保15年の事件を契機に作られている。つまりこの場合の山の木を切るべきではないというお告げは、蛇抜災害の原因を自然メカニズム全体のなかで認識したうえでの主張であり、伐採が引き金になって蛇抜が起こるという人為的な蛇抜を自覚した、近世末における最新の考え方を前提にしている。そしてその背後には尾張藩により木曽の材木伐採の事実があり、それに対する地元民の危機感が存在した。それだけに、地域と事件とが結び付いた独特の伝説担っているのである。

第3章 災害文化の成立——地震と鹿島信仰—— 都司嘉宣・山本賢

3.1 日本の神々

 唯一絶対の神を軸とするキリスト教やイスラム教の社会に住む人々と、仏教やヒンドゥー教、あるいはギリシャ神話の世界、日本の神道のような多神教の中の人々の描く「神」とでは、同じ神という言葉を用いていても意味するものは大きな隔たりがある。一神教の神は世界そのもの、人間を超越した絶対の救世主とされる。つまり人の宇宙観、世界観全体を根底から支配して、疑われることを拒否する全智全能の神とされるのである。 これに対して、日本の神道のような多神教の神は、恋いもすれば嫉妬もする。泣き笑いもし、ときにはだまされるというひどく人間くさい性格をもっている。個性ある個々の人間社会をそのまま正直に投影した神々の世界が語られる。ギリシャ神話はこの段階の神であり、日本の「古事記」に登場する神々もまたそうである。このままではまだ宗教の形態をなしているのではなく、人間の現実の歴史と未分化な「神話」の世界である。アイヌの「ユーカラ」や、沖縄の「おもろそうし」、韓国の「檀君降臨」の神話もそうである。この段階の神は「いまのわれわれの先祖」という形で、祖先崇拝とさほど変わらぬ形で崇拝されるのである。「神」は登場しても、まだ完全な形の宗教とはいえまい。 このような素朴な「神話」が宗教的な方向に発展すると、「神」たちは「人間」にはできない「超能力」を持ち始める。さらに「今」生きている人々に干渉をしはじめる。個々の神が自然現象と結び付いて、「その現象を支配する神」と語られるようになる。さらにはその神を信仰することによって、その現象にかんする現実の利益がもたらされるという信仰形態が現れる。そのもっとも良い例が菅原道真であろう。現実に12世紀に実在した菅原道真が、「天神さま」となって学問の神となり、神社が作られ受験生の信仰の対象となっている。この宗教的発展をわれわれはたどることができる。和歌がうまくなるという人麿神社もその例であろう。しかし、菅原道真や柿本人麿は実在の歴史上の人物として明白に特定できるまれな例である。大部分の神は、その元となった人は分からないのが普通である。たとえば、水神さまというのは、どこのどなた様が神になったものであろうか。 日本にも中国にもこのような現世御利益誘導型の神が数多くいる。世界中にもたくさんいるであろう。御利益誘導型の神は、もっともドライ・直線的に、人間の欲望と神とが打算的に露骨に結び付いて生み出された産物といえるであろう。世界の宗教家からどんなに嘲笑を受けようと、日本人に好まれる神とは現世御利益誘導型の神なのである。日本人にとって「神」とは、薬屋の棚にズラリと並んだ薬のような、「なにかに効く神」なのである。したがって、仏教やキリスト教が伝わってきても、御利益(ごりやく)の「神」の座は揺るぎもしない。「せんぶり」や「ゲンノショウコ」のはいった薬箱のなかに「アスピリン」が加わったようなものだ。日本人には、新しく持ち込まれた仏教、キリスト教の神に対してまで日本風にアレンジして現世御利益の神にしたてあげる癖すらある。 なんとなく「宗教に対して精神的に低級な日本人」の面を強調しすぎたが、いっぽう、日本には神仏の霊験、神仏罰、易占、霊魂・来世の存在、妖怪、など超自然的な物の存在を理性的に拒否・否定する、迷信打破の冷静な論調のあったことも記して置かないと、公平を欠くであろう。江戸時代の大阪の豪商経営の実力者として腕をふるった、山片蟠桃(やまがたばんとう、1748ー1821)はその代表者であり、易占の効果は有り得ないものと喝破する上岡龍太郎氏もこの伝統のうえに立つ人であろう。ほんとうは多くの日本人は、易は当たるとも思ってはいないし、神様の御利益などというものは実際にあるとは思ってはいないのだ。神を「冷やかしている」、あるいは「ペット化している」というのも表現がまずく、適当な言葉が見あたらないが、とにかく日本人は「神を深刻には考えてはいない」面もたしかにある。 これとは別に、仏教を主とする宗教の宗派の教祖自身が、宗教の役割と限界を理性的にわきまえ、現世御利益の誘導を宗教に求めることを排斥した例もいくつかみられることも知って置くべきであろう。

3.2 自然災害の神

 日本の神が現世御利益と結び付くなら、神は、五穀豊穣の神、類縁結びの神、商売繁盛の神、和歌製作能力増進の神、などのようなプラスの利益をもたらしてくれる神と、病気、火災などのマイナスを経験してくれる神の二種類に分類される。そして後者のなかに、もろもろの自然災害を経験してくれる神がいる。たとえば、洪水にしばしば悩まされる木曽川下流地域に「水神」と記した倉庫が見られる。三河国の秋葉山信仰は火災避けの要素をもっている。 では地震、津波避けの神は日本列島上に存在するだろうか?筆者らは多くの神社寺院の由来を記した文章を読んでみたが、意外なことに日本列島には体系だって存在する地震の神は1種類しかいなかった。それが「鹿島の神」である。 現在日本列島に実際に存在する鹿島の神のいくつかは、地震や津浪の災害を軽減する霊験があるということをキャッチフレーズにしている。そして神社内には「要石(かなめいし)」と称する、地中に深く根を張った石があり、この石のおかげで地中の鯰(なまず)が鎮められ、地震の被害が生じないのである、と信じられている。 後に述べるように、全国に散らばる大部分の鹿島神社の一番根元は常陸国(茨城県)鹿島郡鹿島町の鹿島神社であるとみられる。つまりここが本家本元の鹿島の神である。この神社を訪れた人は、参道の両脇に地震なまずの置物や文鎮の土産を売る店がずらりと並んでおり、また境内に要石という、地上からは野球のベースほどの大きさにしか見えない石があることに気付くであろう。また社務所で売っている神社案内にも、ここが全国の鹿島の総元締めであるとともに、地震の神の性格をも持っていると説明がある。ここから分祠、孫分祠された各地の鹿島神社が、ほとんどすべて地震神の性格を持っているのであればきわめてことは明瞭なようにみえる。つまり鹿島の神の発生の元からして地震神であったわけだ。 しかし実際に調べてみると、どうもそう単純ではないらしい。というのは、地震の霊験をキャッチフレーズにしない鹿島神社も、日本列島には相当広く分布するからである。なかには、常陸の鹿島から分祠された後に、地震に霊験があることが忘れ去られたケースもあろう。しかし、本当に元から地震の霊験を説かれたことが一度もなかったと考えられる一群の鹿島信仰がたしかに存在するのである。 全国、ほとんど全ての鹿島神社の祭神は武甕槌(タケミカヅチ)の神である。そして副次的に経津主神(フツヌシノカミ)が共に祭られていることもある。 本稿では、鹿島の神がどこで生まれ、どういう機縁で地震の神となって行き、現在どこでどういう信仰の形態をとっているかを述べ、さらに現代の災害科学から鹿島神社の意味を考察してみることにする。

3.3 全国の鹿島の神の分布

 日本列島上で鹿島の神を祭られている神社をさがしだすのは決して難しいことではない。神社の名の中でポピュラーなものをあげれば八幡神社、稲荷神社、諏訪神社、住吉神社、白山神社、天満宮神社、熊野神社、八坂神社、等となって、これらはいわば「どこにでもある神社」ということになろう。鹿島神社はこれほどはありふれてはいないが、頻度の第2グループには確実に入っている神社名である。全国どこでも市街地図帳をたんねんに捜せば、鹿島神社は相当数見つかるはずである。 しかし、全国の街角のどこにでもあるような、ありふれた名前の小さな神社というのは、多くの場合小さな人間集団の移動にともなって中近世のいずれかの時期にどこからか分祠されてきたものが多く、その神とその場所とが根元的な必然性をもって結び付いている例はきわめて少ない。その神にとって根元的な意味あいを担う神社は、やはりそれなりの由緒伝説と、近世初頭からの確かな存在証明、そして現在の氏子数と神社規模がある程度以上大きいこと、などの要件を備えていなくてはならないであろう。 このようなことから、われわれは、鹿島の神の素性をしらべるさいに、「鹿島」という名前のついた全部の神社を市街地図・住宅地図などからしらみつぶしに調べる、ということはしなかった。各地方の代表的な神社リストのなかから鹿島神社を捜し出すことで研究の材料としたのである。鹿島の神の追跡には、これでまず十分であろう。 「神社名鑑」や各府県ごとに刊行された神社のリスト、さらに白水社から全13巻のシリーズとして刊行されている、「日本の神々ー神社と聖地」(1984ー1986)によって各地方の代表的な神社はほぼ網羅されるものと考えられる。「日本の神々」には各神社の由来、伝承の記載が詳しく載っている。さらに、各地の町村誌、とくに地名「鹿島」のつく町村の町村誌を調べてみた。 これらの資料によって得た、全国の鹿島の分布を図ー3.1に示す。☆と★は鹿島神社があり、要石もあって、地震や津浪の霊験を説く神社の所在を表している。ことに黒で塗りつぶした後者の記号は、過去の地震のさい本当に鹿島神社周辺が地震や津浪の被害を受けなかった実績をあげているものを示している。このような例は茨城県鹿島神社のほかに、山梨市、静岡県清水市、三重県青山町、さらに九州熊本県の竜北町にそれぞれ存在する。ことに清水市と青山町の例では、実際に過去の地震のさい、その場所だけ地震被害が小さかったという「実績」が気付かれている。 ○と●は鹿島神社はなく、要石のある例で、千葉県佐原市の香取神社、静岡県沼津市原の要石神社、の2例が知られている。沼津市の原は安政元年(1854)の安政東海地震のとき、西隣の吉原と東隣の沼津の宿場が大きな地震被害に遭ったのに、原の宿場はほぼ無傷で助かったという実績がある。 □と■は、鹿島神社があり、地震や津浪の霊験を説くもので、ただ要石のないものである。静岡県榛原町、和歌山県南部町、徳島県海南町に例が知られている。南部町の鹿島神社は、この海岸地方が宝永4年(1707)、安政元年(1854)、および昭和21年(1946)の3度、津波を伴うの大地震を経験していながら、3度とも被害に遭わなかったという「霊験実績」を誇っている。 △は、鹿島神社はあるが、地震や津浪の霊験を伝えないもので、東北地方、ことに福島・仙台方面にやや濃密に分布する。東北地方は、鹿島の地名もあり、鹿島神社も多く存在するにもかかわらず、地震の神とされるものは一つも見つかっていない。▽は、地名のみ鹿島で、鹿島神社のない場所である。細かい調査をすれば△はふえるであろうが、普段神主もいないような余り小さな神社は由来伝承自体が伝わっていない場合が多く、いまの研究にあまり役に立たない。

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図-3.1 鹿島神社の分布
3.4地震の霊験を説く鹿島神社と要石

 地震よけの神としての鹿島の神の性格を表すものに「なまず絵」がある。(図ー3,2参照)鹿島の神が要石によって地下のなまずたちを押さえつける図柄である。少なくとも江戸時代の末期には、明らかに鹿島の神は一般的に地震の神と認識されていたことを証明している。 鹿島の神と要石は地震封じに霊験ありという伝承をもつ神社は現在までに9ヶ所見つかっている。この9ヶ所の神社をひとつひとつ見て置くことにしよう。 (1)茨城県鹿島郡鹿島町の鹿島神宮(図ー3,3参照)  この神社はすでに8世紀始めに編輯された「常陸国風土記」に記載され、しかもその当時すでにこの神社の分祠が常陸国内に2ヶ所(後述)存在していた。この鹿島神社だけは、鹿島として全国ただ一つの「神宮」である。いくら大きくても建物が立派でも無闇に神宮とは呼ばれることはなく、次に述べる香取神宮をはじめ、熱田神宮、平安神宮、霧島神宮、伊勢神宮、そして明治神宮など、一定の格式を備えた限られた神社だけが「神宮」とよばれる資格を持っているのだそうである。また全国に散らばる多くの「鹿島神社」は、この茨城の鹿島神社の分祠であると伝えていることからも、この「鹿島神社」が鹿島の本家本元であることは疑えない。 JR鹿島線の終点鹿島神宮駅の駅前下りるとすぐ参道が始まり、鹿島台地と呼ばれる丘陵地の上に、見上げるばかりの大鳥居と、寛永11年(1634)水戸徳川氏寄贈の大楼門を備えた、南北約1km東西約800mの境内地を有する大きな神社が現れる。さすがに全国の鹿島の本家本元である。祭神は武甕槌(たけみかづち)の大神とされる。利根川を挟んで対岸にある香取神宮の神である経津主大神と一対をなしている。 地震を押さえる要石は、神社本殿前から参道を奥に300mほど直進して右に小道を折れたところにある。見たところ地上にでているのは約40cm四方の野球のベースほどの石の面で、中央にゆびの先ほどの小さなくぼみがある。どうと言うこともないタダの石にみえるが、掘ってみると底が知れないほど根をはっているといい、地震のときにも、このあたりは揺れることがないと伝える。鹿島の七不思議の一つに数えられている。 この神宮での要石と鹿島神、地震霊験との結び付きの古さを知る手がかりとして、建久二年(1198)年の「伊勢暦」に載せられた、読み人知らずのつぎの和歌が伝えられている事実がある。 ゆるぐとも よもやぬけじの 要石 鹿島の神の あらんかぎりは この和歌の存在によってわれわれは知る。鹿島の神と要石が地震に霊験ある神であるという信仰は、本家本元の常陸鹿島神宮では、鎌倉時代(1192ー1333)の初頭にはすでに存在したことを。 (2)千葉県佐原市香取神宮(図ー3,4参照)  古代利根川の河口付近は大きな入り江をなしていて、今の丘陵地の麓まで海が迫っていた。「常陸国風土記」によると、その入り江は水運による重要な交通路となっていた。香取神宮は、鹿島神宮とともにこの水路の両岸を守護する位置にあった。この神宮にも要石があり、やはり地震を起こすなまずをうえから押さえていると伝えている。香取神宮の祭神は経津主(ふつぬし)の神とされる。 (3)山梨県山梨市石の森山梨岡神社内鹿島祠 山梨市石の森にある山梨岡神社の境内地は、地名の通り大きな岩が地上にごろごろと散乱した地域で、石ごとに「ヤマトタケルの腰掛け石」とか「太鼓石」とかの名前が付けられている。明治20年(1887)刊行の「山梨郡加納岩村誌」によると、これらの石群のなかに「要石」という石があり、鹿島の神が祭られている。地上に出た大きさはわずか「高さ2尺〈60cm〉径2尺5寸〈75cm〉というたいして大きくもない石である。しかし、石の根は「地中に入りてはかりがたし」と表現去れているように、茨城鹿島神宮の要石同様の石であることから、この石も要石とよばれ、それにちなんで「鹿島祠」がまつられたものであろう。この石が鹿島信仰と結び付けられた年代については伝記は何も述べてはいない。この鹿島祠の場合は、自然石としての要石が先にあって、あとでそれにちなんだ鹿島の神が「添え置かれた」ケースであろう。山梨岡神社は延喜式内の社であるので、成立は平安時代にさかのぼるが、鹿島祠が作られたのはそう古い時代のことではあるまい。 (4)静岡県沼津市原要石神社 沼津市原は東海道53次の宿場の一つであって、吉原宿と沼津宿との間にあった。 「駿東郡誌」による説明を載せる。 「要石。原町一本松にあり。傍の要石神社は寛永年中勧請する所なり。この石の根は社殿下大橋家屋敷の井戸まで達しおり、ために大地震といえども揺らぐ憂いなく、安政元年大地震のごときもこの地のみその災を免れたりと社記にのせたり。」 寛永年中というのは、西暦1624年から1644年までのころであって、まだ江戸幕府による五街道の制度が確立してからまだそれほどときがたっていない。原が宿場として繁栄し始めたころ、いちはやく要石神社が祭られたことになろう。このときすでにこの石が地中に広く深く根を張った石であることに気付かれており、地震にもゆれが少ないことが予測されていた。あるいはこの土地が先験的に地震のときに揺れが少ないことが知られていたためであろうか。ともかく神社勧請の当初からこの神社は地震の神として祭られていた。それだけではない。「駿国雑誌」には次のように書かれている。「原町一本松新田の浜辺に要石と称するあり。傍らに石の祠あり。高潮あぐる時ありとも、この石より上、陸に来ることなし」 つまり、この石は地震だけではなく津波からも守ってくれる霊験を備えているというのである。 この地震と津浪という2種類の霊験がともに正しかったことは、安政元年(1854)11月4日の安政東海地震のときに証明された。すなわち、両隣の沼津、吉原の両宿とも地震と火事のためほとんどの家屋が被災し、静岡県平野部全体が震度VIからVIIの木造家屋全壊が数10%にも達していたというみぞうの大地震のさなかにあって、原だけは「無事、宿泊可能」ときされているのである。また宿場は海に面していながら津波の浸水を受けることがなかった。 「駿国雑誌」の刊行年は天保14年(1843)であって、もちろん安政地震より古い。また、宝永地震(1707)は由比より東では東海道筋全体で被害を生じなかった。ただ宝永地震の本震(旧暦10月4日の翌日に富士川中流域におきた余震によって、富士宮とその周辺に被害を生じたのみである。慶長9年の地震は東海地方に震源のある地震ではなかったので、けっきょく駿河湾奥部に被害をもたらした地震は江戸時代の始め、17世紀初頭以降はなかったことになる。 原の要石神社を寛永年間(1624ー1644)に創建したとき「原は地震も津浪も被害を受けない場所である」という知識を、かれらはどうやって知ったのであろう?また安政東海地震のさいにどうして的中させることができたのであろう。この問いに現在のわれわれは答えることができないのである。 ここは「要石神社」であって、「鹿島神社」ではなく鹿島の神は直接にはでてこない。 (5)静岡県清水市袖師の鹿島神社 静岡県清水市袖師にある鹿島神社は「西久保の鹿島神社」と呼ばれ、御神体は背後の山腹に先端を現した大臼大の神石である。「要石、根底深く図り知れず」とあり、昔からどんな天災地変にも微動だにしないと伝えられている。(3)の山梨岡神社の鹿島祠と同じく、ここも先に要石があって、あとから鹿島神社が祭られたものであろう。 安政東海地震のとき清水港は、江尻宿とともに地震、津波、そして火災のため大きな被害を生じている。地震の12日後の安政元年11月16日にこの地を東行した伊勢神宮の御師(神官)安田賎勝はこの附近の地震被害について次のように記している。 「江尻(清水市中心街)までの村三分過ぎも潰れ居たり。江尻駅は出火もあり、(被害程度は)府中(静岡)に倍せり。(略)横須賀村より清見寺前まではさしたることなし。」 この文によると、横須賀(横砂)から興津の清見前まではほとんど無事であったことになるであろう。そして横砂は袖師村の一部分である。鹿島神社を含む袖師も、安政東海地震の震源地域の直上にあってしかも大きな被害を免れた数少ない地域の一つであった。 (6)静岡県榛原町下庄内鹿島の鹿島神社 ここの鹿島神社の御神体は石であって、往古津波のために打ち上げられたものである。明治三陸津波(1896)によって岩手県田野畑村羅賀の畑に打ち上げられた二個の津波石は有名であるが、駿河湾に面した静岡県榛原郡にも津波石があった。この神社はこの津波石を御神体にしたものである。この地方の豪族・勝間田氏による応安2年(1369)年の供養記録がある。また藤波家の系図に、先祖の藤波一政が正和年中(1312ー1317)神主となったとの記録がある。少なくとも鎌倉時代の終わりの頃にはすでに、この鹿島神社はあったことになる。 ここには要石はないが、津波の記念物を神格化して鹿島を祭る行為には、すでにそのとき、鹿島が地震や津浪の神であるという普遍的な認識があったことを物語っている。 ところでこの神社の伝承にでてくる「津波石を運び揚げた大津波」は、いつの津波であるのか、いまのわれわれには特定することができない。未知の津波の一端をさぐりあてたものであろうか?それとも嘉保三年(1096)十一月24日の嘉保東海地震による津波であろうか。注;嘉保東海地震。「後二条通記」に「駿河国解云去月二十四日大地震。仏神舎屋百姓四百余流失」とある。 (7)三重県青山町阿保字上川原大村神社 三重県青山町阿保は伊賀国の東部、伊賀上野盆地の東南端に当たっており、江戸時代は伊勢参宮の初瀬街道の宿場町で、いまは近鉄大阪線が通じている。 「三代実録」貞観5年(863)の上にすでに「伊賀国政六位上大村神」とみえ、「延喜式」にも記されていることから、すでに平安時代の初頭から存在した神社であることは確かである。嘉吉元年(1441)の「興福寺官務牒疎」に「大村神二座、伊賀郡阿保郷」として、「春日同神、神護慶雲元年(767)、神常州より三笠山に遷座のとき、しばらく御休座の地なり」という割注が付されている。さらに貞亨四年(1684)成立の「伊水温故」には「武甕槌の神、神護慶雲元年六月二十一日常陸国鹿島を出、(途中経路略)それより当社大村社にとどまる」と書かれている。どういうわけか、遙か神代の時代の神が、歴史時代に旅をしている。こういうのはあまり深く追求してはいけないことになっているのであろうか?冗談はともかく、これらの記載が分祠の記事として正しいのならば、奈良時代の767年に、常陸国の鹿島から分祠された神であることになる。この伝承の時代の真偽はともかく、この神社が、鹿島神宮の分祠とされてきたことは事実であろう。 さらに、この神社には「要石」がある。 「拝殿の横手に「要石」と称する石があり、地震の守霊石とされる。じつは安政大地震(安政元年の安政伊賀地震〈1854年〉、同年の安政東海地震の5ヶ月前に起きた)以後重視されるようになった石であり、鹿島神宮の要石信仰と同じ系列の信仰対象である」と、「日本の神々」は記す。 本家常陸鹿島から100kmをへだてて、鹿島の神、要石、地震霊験、常陸からの分祠伝承、そして安政伊賀地震の実績と、五つの要素の完全にそろった実例をここにみることができる。 要石、地震神の要素は、767年に分祠されたときから伝わっていたものではなく、後世になって伝わってきたものであろう。 (8)和歌山県南部(みなべ)町鹿島神社(図ー3,5参照)  紀伊半島南西海岸沖の海域は、沖合いから北上して来るフィリピン海プレートが南海トラフのところで日本列島を載せるアジアプレートの下に沈みこむところである。沈む側のフィリピン海プレートの上面でのこすれにともなう巨大地震が、100年余りの周期で起きている。南海地震系列の巨大地震である。 この系列の巨大地震は有史以来すくなくとも9回起きたことが記録として残っている。江戸時代の初頭以降では、宝永4年(1707)、安政元年(1854)、そして昭和21年(1946)の各南海地震が起きており、それぞれ記録が詳しく残されている。そのたびごとに、南部の東隣の田辺市、西隣の印南町や御坊市は大きな被害が生じた。しかし、鹿島神社のある南部町南部だけは、地震の揺れによっても津波によってもほとんど被害を生じなかった。 じつは南部の町の沖合いには「鹿島」という小さい島がある。津波は島があるとこれにエネルギーが集中する傾向がある。その結果、南部の海岸にはこの島に津波のエネルギーを吸収してもらうことになり、背後の海岸では津波のエネルギーは相当緩和される。しかも南部の居住区域の地盤の高さは6mもあって、もともと、少々の津波では海水は浸水しないようになっているのである。 現代の津波の知識でもってすれば、南部でなぜ津波被害が小さかったかは、解釈が可能であるけれども、南部に住んだ人たちは歴代の地震津波のとき、両隣の町の大きな被害を聞き、しかも我が里だけが無事であるのを眼前にして、住民たちは鹿島の神の霊験をいよいよ確信したにちがいあるまい。 地震(なゐ)ゆれど 高波よせぬ この里は かしま神の ませばなりけり 安政東海地震の直後、かしまの神社をたたえるこのような和歌が残っている。 鹿島神社は今は町のなかにあるが、ほんらいは沖の島である「鹿島」が本体であったらしい。 天保年間(1830ー1844)に記された「紀伊国続風土記」には、「鹿島明神社、島の中にあり、祀神は常陸鹿島と同じく武甕槌命なりといへり」とあるからである。 ここには「常陸鹿島と同じく」という句はあるが、この鹿島が常陸からの分祠である、とは書かれていない。またこの神社が発行している由緒書きをみても常陸からの分祠であるとは伝えられてはいない。「鹿島とあればいつでも常陸鹿島からの分祠に決まっている」と速断するのは危険である。島の名前が鹿島である以上、ここには常陸とは原初の由来を異にする別個の鹿島の神社があったとみられる。かえって逆に、常陸の鹿島より古い可能性もあろう。この点あとでもう一度論じることにしよう。要石はこの南部の鹿島にはない。 (9)熊本県八代郡竜王町の鹿島神社 常陸鹿島からはるばる西へ1,300km離れた九州熊本県に、地震霊験を説く鹿島の神があった。やはり武甕槌の神と経津主の神が祭神である。そして境内には要石まである。この神社について竜北町の教育委員会から丁寧な次のようなお手紙を頂いた。 「要石はある。鹿島明神はなまずを踏みつけてござるから地震災害は起きないという言伝えがある。また一説には鹿島神社の要石は、常陸の鹿島神宮から分霊して鹿島に創建する際、力持ちの巨体の若者が持ってきたものである。当地から力士が出たときには、しこ名は必ず要石でなくてはならない」 ここには鹿島の神の要件である、要石と地震信仰がそろっている。そのうえ力士の命名の要素までつけ加わっている。さらに、ここの鹿島の神が常陸国から分祠されてきた年が明白に伝承されている。 「常陸からの分祠は人皇77代後白河天皇(在位、1155ー1158)のよきで、保元2年(1157)11月15日に社殿落成した」という。鹿島の地名は天文12年(1543)の文書に現れるので、中世以降から存在した地名であることは傍証される。


 以上、日本列島に9ヶ所、地震信仰をともなう鹿島・要石の所在が確認された。その所在は常陸鹿島から西方1,300kmへだてた九州熊本平野に及ぶ。しかしながらその分布は、常陸鹿島からみて西方にのみ延びて、北方と日本海岸にはひとつも存在しない。また以上9ヶ所、一つ一つおのおの個性な特徴をもっている。地震神鹿島はいつ生じ、どう伝わって行ったのかを推定するには、以上に述べた特徴を無理なく説明できなくてはならないだろう。 その考察をするのには、じつは以上のデータだけを見ていたのでは重大な片手落ちがある。というのは、日本列島には、地震信仰を持たざる一群の鹿島もまた厳然と存在するからである。注記:徳島県由岐町木岐の小坂元日堂の「地震次第」(新収・日本地震史料・第5巻別巻5ー2、1850頁)の末尾に、鹿島と要石の和歌が載っている。 ゆるぐのに 四方や浮き地の 要石 鹿島の神の あらぬ限りは ゆるぐのに なぜにおさえぬ 要石 かしまの神は 留守か寝たのか これらの和歌は安政東海地震によって大きな被害を受けた海岸の被災記事の直後にでてくる。大きな地震の被害にあって、鹿島の神、要石の効果がなかったことを「留守か寝たのか」と罵倒・叱責している。 この研究の当初、木岐附近に要石(と鹿島神社)が実在して、その霊験効果のなかったのをなじった和歌であると解釈していた。15kmほど西の海南町浅川には「加島」があり、あるいはこれをなじったものかとも考えてみた。しかし、木岐を含む由岐町全体にも要石や加島神社はなく、浅川のものは陸係島の「鹿島」という名の島であって、神社ではない。けっきょく、この海岸地方に実在する要石をなじったものではないと考えられる。この和歌の鹿島とは、常陸鹿島を元とする一般信仰としての鹿島なのであろう。江戸時代には、地震神としての鹿島の神は広く一般の常識となっていたのである。

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図-3.2 要石でなまずを鎮めている鹿島の神
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地図 図-3.3 常陸鹿島神宮の地図 境内に要石がある
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地図 図-3.4 千葉県佐原市の香取神宮の地図 境内に要石がある
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地図 図-3.5 和歌山県南部の鹿島神社と鹿島

第4章 津波災害文化の有効性と限界性 五十嵐之雄

4.1 序

 本章では、東北地方三陸沿岸の地域社会における津波災害を機に発生し、それとかかわりあいながら存続している災害文化に関するフィールドワークの結果から導き出されたいくつかの知見を報告している。 東北地方の三陸海岸では、歴史的に明らかな限りで千年近くの年月の間に10回以上もの死者を出す大津波が発生している。ここ百年間を取ってみても、明治29年の明治三陸大津波、昭和8年の昭和三陸大津波、昭和35年のチリ地震大津波、昭和43年の十勝沖地震津波などの大津波が記録されている。これらの津波よりも小規模の津波の数はかなり多く、例えば岩手県下閉伊郡田老町の津波年表では、過去三百六十年に24回も津波が襲来したと記録されているほどである。 三陸地方ではよく津波周期説が流布しているが、田老町のように三百六十年の間に歴史的津波ともいうべき大津波が九回も来襲すると、単純平均で四十年間隔で津波が来襲していることになり津波襲来四十年周期説が成り立つのはこのへんの事情からであろうと推察される。 とにかく、三陸海岸の地域社会の居住民にしてみると、一生涯に一度は必ず津波を経験し、それによって手痛い被害を受けるだけでなく、不運なことに、二度ないし三度の津波経験をする場合も生じてくる。現にわれわれの調査でも、明治29年、昭和8年、昭和35年(この間64年間)の三度の津波経験者が、少数であるが必ず対象者に含まれており、昭和8年と昭和35年(この間27年間)の二度の大津波の経験者はかなり含まれていたのである。津波の経験者ではなく、そこに住む地域社会には、複数人の複合的な津波経験や知識また情報が集積され堆積される。そしてそれは家族を媒介としてより若い世代に伝えられることになる。 われわれは以上のような津波災害頻発地に発生し、世代を通して伝承される津波災害に対する考え方、態度や行動の様式など主として行動文化を津波災害文化と呼ぶ。本来ならより正確には、津波災害を極小化するために世代から世代へまた集団から集団へ伝達していく知識、スキル、情報などであるから、むしろ津波防災文化と呼んだ方がよいのかもしれない。 いずれにしてもこの種の文化には今あげた側面だけが含まれるのではない。文化一般がそうであるように、技術的分野、精神的分野そして行動的分野の三分野それぞれと三分野の重複分野全般を含めてわれわれは津波災害文化あるいは津波防災分野とよばなければならない。 津波現象についての技術的分野は防波堤・防潮堤あるいは河川岸壁ないしは防災情報設備などの計画や設置に関する分野であり、直接津波現象の防災設備に関する技術とかスキルである。地震の予知体制とか津波予測システム形成とか、被害地独自の避難し易い市街地づくりなどもこの分野に入れてよいだろう。 第二の精神的あるいは観念的津波災害文化の分野にわれわれは、そもそも災害とは何であり、それをどうとらえるかなどについての観念形態を指すものと想定してよいだろう。 自然現象はわれわれの意思や観念とはまったく独立して生起するものであるが、それが発生して人間個人、集団、地域社会などに影響を及ぼす以上、人間がわが事にその災害を引きよせて物事を考えるのは当然である。一例として関東大震災の後の「天譴説」をあげておこう。清水幾太郎(注1)はその風潮を分析しているが、自然災害が天のとがめであるーしかし、本来天譴は、天の支配者への天罰であって、被支配者へのとがめではなかったーという観念は、その災害の発生した社会状況を背景としたひとつの精神文化であると想定される。 以上の二つの文化概念に対して、行動文化としての文化概念がある。すなわち、日常的なわれわれの行動様式一般を文化としてとうえる考え方である。われわれの災害文化論は主として第三番目の内容の行動文化的側面を扱う。津波が頻発し、時として肉親や親戚、友人、隣人、などの死者や負傷者を出し、家財や生産財を流失し、また家屋浸水とか家屋の流失・倒壊・半壊などの被害が頻発すると、その地域では他地域には見られない、津波防災の独自の態度・行動様式が形成され、かつ継承されていくことになる。また、技術的な分野についての地域住民の防災体制への評価意識とか、町の中長期の防災体制に対する住民要望のあり方なども、長年の津波災害によって形成された行動文化の一側面といってよいだろう。更に、津波災害に関する一般住民のための「防災のための教育」(注2)の内容とかその改善の方法なども広義では災害文化の行動文化の一環をなすものであろう。このような行動文化は地域住民の防災行動を拘束し、それに従うことを要求する。 われわれのフィールドワークは主として津波災害に対して現出するこのような一連の態度とか行動様式を中心にして把握しようとしている。従って、取り扱われている大半は津波現象に直面してとられた行動そのものではない。そうゆう行動をとるかもしれないという地域住民の態度ないしは、オリエンテーションが問題となっているのである。具体的な行動として顕在化するには、現実的な諸条件が加わってくる。そして必ずしも意図通りの顕在的行動を結果としてうまないことがありうる。現実的には、意図された通りの行動にならないところに、津波災害時の現実行動と意図のズレが生じる。現地で防災対策を担う各防災対策会議が、防災体制の整備を行うに当たって苦慮していることの一つはこの地域住民の防災に対する意識あるいは態度とありうる現実行動のズレなのである。さて、このように災害文化の定義を施した場合に、この災害文化を規定するいろいろな条件が問題となってくる。津波災害文化といっても、津波の襲来する沿岸部の地形的・地勢的・地層的・地理的条件とか防災条件などによって津波の及ぼす影響は大きく異なってくるのである。三陸地方一つ一つをとっても海岸線が200kmもあり湾の刻み具合でそれぞれ津波災害のあり方が異なるのだから、三陸沿岸と日本海岸とではさらに津波災害の現れ方が異なってくる。従って、そこで発生し育成される災害(防災)文化も異なった様相をしめしてくるのである。これが東北三陸地方と紀伊半島地方ということになれば、さらに災害(防災)文化の様態は違ってくるはずなのである。その意味で、本章ではとにかく三陸地方に発生し、そこで伝達されてきた津波災害(防災)文化に着目することにしたいのである。

4.2 津波災害文化とは何か

 初めに、災害とは何かについて定義をしておこう。災害という現象はいろいろな局面を持っているから、これを定義するとなると、多様な側面からの定義が可能となる。そこで、われわれとしてはそのうちのひとつを、B.ラフアエルから引用して使用したい。 「専門用語としての『災害』は、個人や社会の対応能力を超えた不可抗力的な出来事や状況、さらに少なくとも一時的には、個人や社会の機能に重大な崩壊状態をもたらすものという意味で使われている。」(注3)このような災害は色々な視角から分類されるが、B.ラフアエルは、「災害が人間の経験の中にどのように取り込まれるのか」という観点から、疫病災害、自然災害、人為災害などを分類しているが、災害がこのうちのどれかに分類されるだけでなく、複合的な災害もある。 これら災害は個々の人間や地域社会的な規模での影響を及ぼすか、かかる災害の頻発発生によって災害サブカルチャーが成立する。災害サブカルチャーとは「災害の脅威と衝撃の繰り返しに反応して生まれた目的観、価値観、規範、組織、技術などの複合的集合体」と定義されるが、われわれが、災害文化と呼ぶものとB.ラフアエルの災害サブカルチュアとは同じ内容をさしていると思われる。B.ラフアエルは、さらに、「災害サブカルチャーには、災害への対応の仕方、災害死の在り方と原因、将来への備え方などについて、その集団の精神的傾向が強く現れ、(中略)、将来起こりうる災害に対する社会と個人の意識と対応の在り方に影響を与えるという点で重要である。ある種の災害を過去に経験していると、それが将来への適切な備えに役立つし、過去の災害に有効だったことが、恒常的なシステムに組み込まれることもあろう。また特定の災害にだけ望ましい対応ができるというのではなく、ほかの災害にも通用する一般的な準備態勢を助長することにもなりうる。」(注4)  はたして、津波災害文化というサブカルチャーの考察が「ほかの災害にも通用する一般的な準備態勢」を助長することになりうるかどうかは疑わしい。先ずは津波災害一般に通用する準備態勢を助長することになればかなり有用な検討であるといってよいのではなかろうか。 本章はフィールドワークの結果をふまえていると述べたが、これまで実施してきたフィールドワークの調査地点とそこで実施された実査の調査内容を簡単に紹介しておくことにする。 調査地は、岩手県下閉伊郡田老町、岩手県大船渡市、宮城県本吉郡志津川町、唐桑町である。太平洋側南三陸を中心に昭和60年から平成4年にかけて実査した。 実査内容としては、主として、災害文化についての住民意識項目であったが、詳しくは1)地域社会に伝承されている津波前兆現象についての伝聞度とそれに対する信頼度、2)津波情報伝達についての諸側面、3)まちの津波防災の個別設備に対する評価、4)まちの津波防災体制の全般的評価、5)津波観、津波イメージ、6)防災情報ネットワーク、7)津波災害をめぐる住民のコミュニケーション状況、8)防災教育、ーー家庭教育、社会教育、学校教育、などであった。これらの内容の調査を一地区ですべて網羅的に全て実施したわけではない。 しかし、志津川町では三度調査したのでほとんどすべての項目をカバーしえた。なお以上の三陸地方での実査結果と比較対照するために、日本海中部地震津波の経験地である秋田県男鹿市の三地点でも平成二年に実査を行った。(注5)  今回は主として、三陸沿岸の津波災害(防災)文化を中心に、実査結果を報告するにとどめたい。

4.3 災害文化のコミュニケーション機能

 行動文化の特徴として、通常、伝達可能性、学習可能性そして分有可能性があげられる。すなわち、たった一人だけの災害対応経験だけでは、われわれは災害「文化」とはよばないのである。文化内容が集団から集団へ、また、世代から世代へと伝達されること、また、その成員がそれを学習して、共通に分けもつことが可能であることが必要なのである。そしてその文化が個人に内在化することによって個人の行動にある程度の制約・高速を与える結果が生ずるのである。このことは文化のコミュニケーション的側面にかかわることであり、災害文化は従ってそのコミュニケーション的側面からアプローチされることが必要なのである。そこでわれわれは、津波災害のコミュニケーション的側面のいくつかについて調査結果を検討することにしたい。 1)災害項目の伝承をめぐって 社会的コミュニケーションにはいくつかの機能がある。そのコミュニケーションが作動することによって、ある地域社会なりそこに居住する個人の生活体系の安定性が維持され、さらなる展開が保証されるという結果がもたらされるのである。 津波災害文化にもそういう側面がある。何百年という年月の中で度重なる痛烈な被害をうけることで地域と地域住民は津波災害についてそれなりの知恵を深め、それを後代に伝承してその地域社会と住民の生活の安定や活動に貢献する結果をもたらすのである。 われわれの調査では、各地で、津波災害にまつわる伝承について地域住民がそのことを聞いたことがあるかという質問とあなたはそれを信じるかという質問を尋ねてみた。前者を伝聞度、後者を信頼度として示すと、それは表ー4.1のようである。 云い伝えの類は表ー4.1に示してある項目につきるわけではない。例えば、「青葉の頃津波はない」、「津波は節句の時に来る」、「寒い時には津波は来ない」、「晴れた日には津波は来ない」などの項目も曽っては流布していたが現在ではあまり聞かれなくなったし、それを信じる者もいなくなった。 表ー4.1から明らかなように、男鹿の場合を除いて、三陸海岸での伝聞度が85%以上、そして信頼度60%以上と伝聞度、信頼度ともに比率の高いのが、大きな地震と津波襲来の関係を示す云い伝えである。これは三陸沿岸には一般的に流布しているようだが、津波襲来前の地震の様態を表現する修飾語はさまざまである。われわれのこれまでの聴き取り調査とか質問票の自由解答欄では「あまり大きくなかったが長かった」、「一日中小さい地震があった」、「大きな地震」、「強い地震」、「地震強くて立てず、棚から物が落ちた」、「地震でバイクが倒れた」、「初めて経験する大きな地震」、「一回目の地震より二回目のゆり返しが大きかった」、「長くモクモクと揺れた」、「震度は強く感じなかったが、何回も地震があった」「立ち揺れの地震」、「大きな地震、立ちゆれがあった」、「震源地の近い地震は上下運動で揺れる」、「津波は一回目の地震では来ない。必ずゆり返しがあってから来る、」などである。東北大学の中村左衛門太郎教授(注6)は、地震がゆるやかでも長い時は津波と知れと指摘されているまた、花輪莞爾は「たとえば三陸海岸に三十メートルもの、史上最大級の大津波をもたらした明治二十九年の地震、「稻むらの火」の地震も、めまいのようなゆんわりした揺れだったという」(注7)と記述している。そして地震の揺れの激しさと津波の大きさが必ずしも比例しないと指摘している。花輪氏は日本海中部地震津波や青森県十三湖で生起した津波現象を扱った短編を書いている作家だが、津波災害地でのフィールドワークを積み重ねている点で説得力のある文章を書いている。(注8)  その様態はどのようであれ、地震があれば津波を用心せよというのが三陸沿岸に一般的に流布している云い伝えである。これに対して男鹿地方の場合には、必ずしも大きな地震と津波とが関連してとらえられていない。ただ、ここ何年か津波が襲来しなかったと云うだけで、地震ー津波のセットを地域住民が信頼する度合いが低かったのは、やはり津波災害文化を持つ地域と持たない地域の差がそこにあらわれたのかもしれない。しかも男鹿市の場合には、昭和58年(1983)の災害経験から10年たらずの時点での調査であるので、地震ー津波のセットは1983年以前より高くなっているはずなのに、三陸地方のどの調査地よりも伝聞度も信頼度も低いのである。従って日本海中部地震津波災害を経験する以前であれば、このセットの伝聞度また信頼度はさらに低率であったろうと推察されるのである。 さて、三陸地方ではいずれにしても一般的に地震ー津波のセットは広く流布しかつ信じられていたが、昭和35年のチリ地震津波災害はその図式を完全に打ち砕いてしまった。それで、その頃から、三陸沿岸では、「地震がなくとも津波は来る」という云い伝えが成立したのである。地震がなかったわけではなく、チリ地震と云う遠地地震であり、近地地震のように有感でなかったので、地域住民には、無地震ー津波のセットがつけ加えられることになったのである。災害文化としてのコミュニケーション的云い伝え項目はこのようにして、たえず削除、補正、追加がなされつつ継承されるのである。 地震以外に、潮流の変化、特に異常引き潮現象は津波の有力な前兆現象とみなされている。表ー4.1では三陸地方のみならず男鹿でも回答者の半数以上がその情報を伝い聞いており、田老町ではちょっと低いがそれ以外の地では約半数がそれを信じている。われわれの質問では割合に漠然と「潮の流れの変化」というワーデングで尋ね、その結果が表ー4.1のようであったのだが、唐桑調査の場合のように、「異常引き潮の時」と特定化すると、伝聞度81.0%、信頼度72%と一般的質問よりは高率化している。三陸沿岸では前述のように地震ー津波の図式よりはむしろ地震ー異常引き潮ー津波の図式を信じているようで、従って、文化項目の(4)地震になったら海岸の方に避難せよ」という言い伝えはまず流布する基盤がない。 しかし、男鹿市ではこの項目は伝聞度30.7%に達しており、また、信頼度も13.4%と2ケタに達している。これは、われわれの調査でもそうであったが花輪も述べているように男鹿の場合には、「地震ときけばまず山崩れを調べろとしか教わっていないとの、証言もしてくれた。」という文化的背景があったからである。 このような文化項目についての相反する信頼性の傾向は、第一に、津波災害文化に地域的ヴァリエィションのあることを示唆しており、第二に、津波災害文化という際に、言い伝えの重要性と同時に、その地域における地質や地層、地形などについてのより科学的研究も重要であることが示唆されている。何故なら、津波の襲来による災害は危険であるが、同時に避難した先の裏山の山崩れもまた致命的な打撃を与えることがあるからである。この事情は三陸沿岸でも同じで、避難場所に避難する際に山崩れに出会ったという事例が報告されている(注9)。伝承も、この意味では、一方の災害にかかわる側面だけでなく、科学的知識を加えてその地域におけるトータルな情報を提供するものでなければならないことが考慮されるのである。 地震・異常引き潮のほかに、井戸水野汚濁化・低下現象とか河川の急流化などいろいろな前兆的自然現象が上げられるが、三陸沿岸と男鹿地方の伝聞度また信頼の決定的な違いは男鹿地方では各項目、例えば地震関係とか異常引き潮などの場合でも、ポジティブな比率が低いだけでなく、ネガティブな比率が高いという点にある。すなわち、地震が津波の前兆という云い伝えを聞いたことがないとか異常引き潮が津波の前兆現象だという云い伝えを聞いたことがない。また、信じないというネガティブな方向での回答率が割合に高いのである。これは津波災害文化としてのコミュニケーション内容項目が成立していないのか、あるいは伝承主体が確立していないのか、その両方なのか、少なくとも三陸地方とは異なる災害文化形態をとっているとしかいいようがないのである。津波災害文化を考えるには、その文化内容、ーどの単位でそれをとりあげるかが問題だがーの伝達の主体と、分有主体、その間の伝達可能性、学習可能性、分有可能性が問題だが、同時に文化伝達の方法、伝達の場などが問われてくる。 少なくとも三陸地方では伝達可能で分有可能な行動文化内容があり、それがコミュニケーションによって授受されており、その結果何らかの津波災害対応行動が実行されている。と見ることができる。その点、日本海側では三陸地方における防災文化をめぐるシステムが同じようには作られていないと考えられるのである。 なお、余談であるが、通常われわれの知らない海底が引き潮によってその全貌を現わす時、それがいかにグロテスクな姿をしているかについては花輪莞爾「海が呑む」と村松友視の「海が消えた」の記述が圧巻である。 津波の前兆現象ー特に事前の地震と異常引き潮ーを経験して地域住民がどのような対応姿勢をとるかについては、4.2のように示される。それを契機にして直ちに避難行動をする住民はそんなに多くない。せいぜい、避難行動の準備作業にとりかかる程度で、実際には、行政の避難行動の指示勧告を受けた後に避難行動を開始するのである。この意味では、津波の事前現象は、地域住民に防災体制をとらせる面では間接的規制を与えているに過ぎないが、避難行動についての云い伝えの方は、直接的に地域住民の態度や行動・考えにも影響を与え、機制を与えているということができる。その意味では避難行動についての文化項目により多く災害文化の文化的性格が含まれるものがある。ただ、その避難行動規制の項目自体に矛盾がみられるものがあり、必ずしも地域一帯で一義的なものとはなっていない。例えば、「10)地震があったら海を見よ(海岸に出よ)」は、6)の異常引き潮の後には津波が(きわめて急速な速度で)海岸に向けて押し寄せてくるから危険である、という項目と相反する行動を勧めているし、「11)津波の時には他人にかまわずに逃げよ」という項目は、避難訓練時には集団単位とか集落単位で、あるいは組織単位で避難せよと教示されており、これと矛盾する。昭和35年のチリ地震津波の時の避難者の記録では、きょうだい単位とかひとりで避難している事例が多いのである。それで避難先で孤独感と不安感を持ったり、避難途中で家族メンバーが見当たらなかったり、きょうだいのだれかが不在なので、あわてて家に引き返しそのまま返し波にさらわれてしまう事例が報告されているのである。避難単位をどのようにすべきか、統一的に何らかの集団単位にするように指導すべきか、あるいは、実践の場を想定して、最小単位(一人だけ)の避難行動を指導すべきかの検討をする必要があろう。私見では、最小単位で避難行動をするように指導した方がよいと提言したい。「12)津波時は何も持たずに逃げよ」という項目はある程度効用性を持っているようだが、平成4年7月の第三回志津川町調査では、過去の津波災害において、約半数の回答者が「大事なもの」を流失した経験をしていることが知られた。 その大事なものとしては、具体的には現金、通帳、書類など、通常避難時に直ちに携帯できるように整理準備しておくべきものが含まれていた。ここにも現実と意識のギャップが見られるのかもしれない。 また、「13)避難は高台にせよ」の項目はきわめて妥当な避難に必要な注意事項であるが、これも災害時の現実行動を導くのに必ずしも有効でない。というのは、前述のチリ地震津波の状況を見ると、周知のように津波が志津川町に襲来したのは気象庁の津波警報発令前であった。昭和三陸大津波でもここまで津波は来なかったから今回の大丈夫と高を括ったり、地震もなかったしと勝手な判断から殆どの住民は寝込みを襲われ、幼い子どもをも準備されていた避難場所に最初から避難させたものは少なかったのである。記録では、彼らはまず最初に二階にのぼり、次に、天井板を破って屋根に登っている。そして、少し水が引いた後でやや高層の建築物に移り、そして最終的に高台の避難場所へと避難しているのである。その意味では、最終的避難場所の確保はもちろん必要なことだが、現実的には、住宅街、あるいは町の中の高層ビルディングを中間的避難場所とする方策が避難にはより一層有意義だと考えられるのである。町の建築基準とか景観の問題があるだろうが、津波多発地帯の街なみ形成にとっては、いくつかの高層ビルディングが津波の破壊力を軽減し住民の避難作業に有意義である。 避難時の心得とか行動の注意の項目の数はもっと多い方がいいだろう。例えば津波という周囲全体が水、水、水、のなかで、意外と飲み水が欠乏するので、「避難する時には飲み水を持て」とか、「いったん水が退いても避難場所を直ちに離れるな」などは追加されるべき項目といってよいだろう。身一つで避難せよと訓練時には教えているわけだから、前述のように重要あるいは貴重なものを家に置いてくる可能性は高い。だから、「財布を忘れ家へ戻った人が屏の間にはさまって亡くなった」、「地震が来て避難したが、津波が来ないので家に大事なものをとりに帰って津波に巻き込まれ犠牲者が増えた」、「地震と津波の間の時間があまりにも長く(このような感想はほかの何人かからも聞かれた)、避難しても一時家に物を取りに戻って、被害にあった人が多い」、「忘れた物を家に取りに行き、そして津波に流された人が相当いると聞いている」(いずれも志津川調査)などの事例が報告されるわけである。平成4年調査では、表ー4.3の示すように貴重品を自宅に忘れた時に「大丈夫だと思えば」とか「波の引くのを見計らって」という条件づきで、いったんわが家に帰ろうという態度を持っている回答者が回答者の約4分の1に達しているのである。 かくの如くして、三陸沿岸の場合でも避難行動に一定の枠組を与える行動文化の面では、地域差があったり、また、基準軸に多少の揺れがある。しかし、前述の前兆自然現象それ自体の云い伝えとは異なり、行動文化の項目はそれに従わない場合には結果として一命を失うという個人にとって逆機能が生じる。あるいは地域社会とか家族集団などの崩壊の結果もないわけではない。それだけに行動文化項目には地域住民の行動に規制を与え、逆脱行動を許さぬほどの拘束的側面がある。 この拘束的行動文化の側面にも今後追加されるべきものが現れるだろう。 指し当たり、車社会における避難行動の面が問題になる。平成4年の志津川調査の結果をちょっと検討してみよう。 平成4年の調査では回答者の80%が自家用車所有の世帯である。それで避難時には自家用車を利用することになるのではないかと懸念されることになる。現在の避難路も町の街路も整備されておらず、専ら人間が避難するために用いられているのに、そこを車を利用して避難するとなるとおそらく街路は大混乱状態になるし、二次、三次の災害が生じることは間違いないのである。そこで、地域住民に、車社会での避難様式を尋ねてみると、表ー4.4のようである。このような様式に従って考えると避難通路についても整備のありかたが問題となり、表ー4.5のような要求の分布が生じて来るのである。今後車社会が地域にも拡大することは必然であるから、津波災害文化のハードの面ではこのような街路形成についての配慮が必要である。そうすれば、それに対する適応文化がフォローするのである。 2)津波災害文化の担い手とその伝達の場 前項で、われわれは、伝承的津波災害文化の項目を津波の前兆現象と避難行動に分けて検討した。前兆現象は避難行動に直結するものではないが、避難行動の項目は直接的に地域住民の避難行動を統制あるいは規制する、または避難行動を促進する内容を含んでおり、それがまた後代に伝承されることを期待される文化内容である。どちらの内容項目も津波災害頻発地で発生し、そこで伝承されたものであるが、前者はそれ自体で地域住民に避難行動の準備体制を取らせるものの、その項目の知識によって、住民が必ずしも避難行動をとるわけではない。すなわち事前現象への接触が即行動の触発を促したりその行動の制約条件となるのではない。ところが、行動文化項目への接触あるいはその認知は直接的に住民の避難行動の様態に影響を与える。例えば、ヴァリエーションはあるものの、「高台へ逃げよ」という項目は、住民をして、その文化項目を社会化(socialization)させに内存化させることによって、津波襲来のさいには低地とか海岸側に逃げることなく、出来るだけ高台あるいは高層建築に避難するように避難行動をオリエントするのである。 そこで本稿では、次に、津波災害文化の内容項目が伝承されていくに当たって、その社会化過程の担い手あるいはそれが行われる場はどこか、また、社会化される内容は主として何かという問題に着目することにしたい。端的にいえば津波災害文化の伝承主体と伝承の場また伝承内容を問題としたい。 この問題は、次の点から見て重要な意味を持つ。 1.現在は、昭和35年の大津波襲来後まだ30数年に過ぎないから、その当時の津波経験が存命していて、その経験の風化にある程度歯止めをかけているものの、地域社会では世代交代が進んでいて、曽っての経験の風化の現象が進んできている。平成4年志津川調査の結果をみても、大津波経験者と非経験者では、津波防災の意識に差があり、何らかの形で、津波経験にかわる機能の提供が必要とされている。 2.津波災害文化の担い手あるいは授受の場の特定化また社会化内容の確定化と複数担い手の機能分化は、津波災害文化を進化させ持続化させるに必要な問題である。 =1=先ず初めに、津波災害文化の社会化の担い主と社会化の行われる場を特定化しておこう。 前述のような云い伝え文化内容はどこで、誰によって伝承されるか、換言すれば、その云い伝え文化内容の担い手がだれがどこでそれを伝え社会化させていくのかを確かめておくことが必要である。 これまでの調査では、表ー4.6の示すように、津波災害のコミュニケションの交わされるのは、主として家庭の場である。それに次ぐのは、近隣の地域集団である。いわゆる血縁・地縁のゲマインシヤフトが、津波災害文化の社会化の行われる場であるということができる。平成4年志津川調査では、チリ地震津波の話題を三つの集団でどう取りあげてきたかを問うてみた、がこの調査でも家庭で津波災害コミュニケーションが授受されていることが明らかである。 家庭の場で、だれがコミュニケーターになるかといえば、表ー4.7の示すように、父母、祖父母、そして、恐らくおじやおばなどの目上の近親者である。平成4年の調査をみると、調査対象世帯には津波災害経験者が少なくとも一人はおり、しかも家族メンバーのうちで年齢が高いメンバーほど、いろいろな被害経験をしていることが知られている。このような事情は明治29年の明治三陸大津波と昭和8年の昭和三陸大津波災害を被った田老町の場合も同じであった。目上の近親者は幼い子供の添い寝をして、自分たちの恐ろしい津波体験を物語り、また、諸注意を注入したのである。 このようなプロセスで家庭の場で主として津波災害経験者がエイジエントとなって、幼い子供たちに津波災害文化を内存化していくというのが津波災害文化継承のメカニズムである。その意味で津波災害文化はすぐれて家庭文化あるいは家族文化の色彩が濃いということができるのである。 家庭あるいは家族以外の者にも、津波災害文化のエイジエントはいる。例えば平成4年調査で、学校教育と社会教育と家庭教育の三分野に分けて地震・津波に関する教育をどこで受けたかを尋ねてみた。表ー4.8の示すように、回答者の年齢によって多少の差はみられるものの、どの年齢階層をとっても家庭で父母を初めとする近親者から教わったという比率が高いことが一目瞭然である。しかし、回答者の中でも年齢の若い層ほど、学校教育で教わったという回答比率が高いことも事実である。また、恐らく回答者の頭の中では、学校で教わったのか、家庭内で近親者から教わったのか漠然としているものもあって、何をどこで教わったのかもはや識別ができない状態となっているものもあろう。 次に、津波災害文化として何が伝達されるのか、という文化内容の吟味をしてみよう。われわれの調査ではこの内容の問題については、プリコードによって文言を設定し、そこから選ばせる方式はとらなかった。自発的な自由回答方式をとったので、きわめて、多種多様な回答項目を手に入れることができた。それを唐桑調査、男鹿調査そして平成4年志津川調査の結果を基礎にして総括的に大きく分類してみると次のような項目群になる。 1.津波の前兆現象について、特に地震についての言表が多い。 1)男鹿調査の場合……  =1=日本海側には地震があっても津波はない。 =2=日本海では津波が起こらないので浜に逃げろ。 =3=海水が異常に引く。 =4=地震がある。 =5=地震は津波の前兆だから気をつけること。 2)唐桑調査の場合……  =1=大きな地震があったら、津波が来ると思って用心すること。 =2=大きい音「どん」となると必ず地震と津波が来る。 =3=地震があった時とか、海鳴りがした時は津波の来る前兆とする。 =4=ねずみやからすがいつもより騒いだ。 =5=地震があり、十分後に沖の方で大音がする。 3)志津川調査……  =1=地震がなくても津波が来ることがある。 =2=地震がなく、すごく潮が引いて津波が来た。 =3=海岸で異常な海水の動きに気づいたら津波を注意する。 =4=干潮の時でなく、潮が引いたら津波と思え。地震がなくとも潮が引いたら津波と思え。 =5=潮の満干とは関係なく、川の水や海水が引きはじめたら津波が来る。 2.津波襲来状況 1)男鹿調査……  =1=能代港で、潜水作業をしていた際に実際に目で見た津波の大きさ。 =2=思ったより早いペースで海水が高くなる。 =3=地震がおさまってすぐ後にものすごい音と共に石けんの泡のような波が押し寄せた。 =4=一回目と二回目の水位が一番高いようだ。その次からは低くなる。 =5=船で仕事をしていてもう少し大丈夫だろうと思っている間に波が来てもう少しで波にのまれそうになった。 =6=津波にはテトラポットを動かすほどの力がある。 2)唐桑調査 =1=潮が引く時、大風が吹く音が聞こえる。 =2=地震の震源地に向かいあう港湾に、水位が高く押し寄せる気がする。 =3=地震後、5分で津波がきた。 =4=津波は昼間より夜間に来るようだ。 =5=潮が引き海底が見え、今度は山のような津波が来た。 3)志津川調査……  =1=私たちの予想以上に波の来るのが速く、川を中心に被害が広がる。 =2=カラカラと音をたてて川の水が引き湾内に水がなくなり、底が見えていた時は恐ろしかった。 =3=海の水がなくなったので、歩いて海底の魚を篭一杯に捕らえた。そのうちの人達の中で波にのまれた人がいた。 =4=寄せてくる波より引き潮の方がスピードがある。 =5=津波のスピードの速いこと、波の大きいこと、また、津波の波のこと。津波は海の色のようにきれいにみえるが、実際にはまるでヘドロのように黒くてドロドロしている。(注9) 3.津波被害状況 1)男鹿調査……  =1=日本海中部地震津波で、遠足に来た合川小学校の生徒が津波で死んでいったこと。 =2=男鹿の水族館の駐車場でスイス人が津波にのまれたこと。 =3=車や子供たちが波に飲みこまれた。車は友達のもので買ったばかり。 =4=能代で死亡者が出たこと。 =5=戸賀その他の浜で津波による死者が出たこと。 2)唐桑調査……  =1=家を流された時、屋根にすがっていて助けられた人がいた。 =2=海岸においてあった船が、一隻残らず流されたとのこと。 =3=母の生家が津波にあい、家の中で魚が泳いでいた。家の人はみな助かったが馬一頭が流された。 =4=三陸大津波で親類とか助けようとした人に死者が出たこと、また、沢山の船に被害を受けたこと。 =5=鶴が浦の被害が一番ひどかったこととか、陸前高田市の松原から約800メートル位離れた高校に、多くの人が流れ着いたこと。また力全高田市広田町から唐桑町大沢港に、タンスや着物が流れついたということ。 3)志津川調査……  =1=家が流され住む所がなかったり、食べる物が出回らなくて不自由になったこと。 =2=小学校がランドセルを背負ったまま逃げて溺れて亡くなった。 =3=逃げ遅れて、浮き上がった畳の上に乗り、屋根裏を破って屋根の上にのぼったこと。 =4=流されたギターを取ろうとして流された人のこと。 =5=実家の親戚の海苔だなが津波で流されて全滅した。 4.避難行動の様態と避難の心構え 1)男鹿調査……  =1=近所の人たちが皆集まって避難した。 =2=火を止めて水を汲んでおくこと。 =3=食料品を持って高台に逃げよ。 =4=日本海側には津波は起こらないので浜に逃げろ。 =5=日本海側には地震があっても津波はない。地震がきたら山崩れに注意せよ。 2)唐桑調査……  =1=夜明けのまだ周りの暗い時、ドドーンと大きな音と共に大地震となり、屋根、瓦などが落ちる音といっしょに「津波がくるぞ、山に逃げろ」(注10)という大声が聞こえ家族で逃げた。 =2=テレビやラジオなどを常に聞いた。 =3=津波の時は他人の誘導を待たず、自分で行動して出来るだけ高い所に避難する。 =4=海の上で津波が来たら、必ず沖に出る様にと亡くなった父から教わった。 =5=道路事情の悪い地方では車は役に立たない、道路が狭いので車が止まったら(立往生したら)みんな身動きできなくなってしまうから車を利用の避難はしない方がよい。 3)志津川調査……  =1=避難訓練の時にされた話の内容。 =2=食べ物や水が不足する。 =3=家族が皆いっしょにいる時はよいが、それぞれ学校や仕事場に行っている時の避難の仕方や連絡の仕方、落ち合う場所をどこにするかなどを話しあう。 =4=昔、ばあちゃんは何も持たず、着の身着の侭で逃げて助かったこと。 =5=避難する時は決して戻ったりしては駄目なこと。戻って亡くなった人がいること。


 以上のような四つの大項目以外にも、色々と語り継がれているコミュニケーション内容は沢山ある。しかも、表ー4.9のように教育の場、チャンスが違うとコミュニケーションも異なり、また、語り継がれる内容も微妙に異なってくるものと想定される。 学校教育の場では、第一に科学的根拠に立って系統的に地震や津波などの発生原因やメカニズムが教えられ、知識としての地震・津波の教育が第一義的に行なわれる。そして、それと平行して、津波災害地であれば郷土史を副読本としながら地域の防災の重要性を教えていく。例えば、岩手県下閉伊郡田老町の場合では、町が「津波と防災ー語り継ぐ体験ー」という副読本をつくって、「本町の津波の記録と防災計画を長く後世に残し、必ず来るであろう水魔の惨禍から免れよう」という意図から田老町の津波災害史や防災体制を教育している。この副読本は教育現場のみならず社会教育の場でも利用されるもので、これによって地域社会の津波災害の実態とかそれに対する行政・財政的施策の側面などについて理解は可能になる。しかし家庭教育は学校教育とか社会教育の場合と違って、極めて具体的・個人的なスキルを授受するのである。花輪の表現をかりれば、災害について基本となる知恵ーいかに上手に恐れるべきかーをたたきこむか、また、「この風土に生まれついた者が、無事に生きてゆける知恵をおそわる場」(注11)こそは家庭の場である。そして、その教育のエイジェントが家庭を含む近親者なのである。

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表-4.1 津波の前兆現象と避難行動についての伝聞度と信頼度(五地区比較)
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表-4.2 前兆現象認知と避難意識
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表-4.3 貴重品を自宅に忘れた場合の避難観
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表-4.4 自家用車による避難について(MA)
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表-4.5 避難通路のあり方
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表-4.6 災害コミュニケーションの行われる場あるいはチャンス
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表-4.7 コミュニケーションの伝達者
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表-4.8 年齢別にみた地震・津波についての教育(複数回答)
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表-4.9 避難訓練・避難教育の有効性
4.4 津波災害文化の有効性

 さて、以上に述べてきた行動文化は、地域社会に住む個人に対し、また、当の地域社会のシステムの維持とか存続のために貢献する結果をもつだろうか。あるいはむしろ、それはシステム維持とか存続に対して寄与しない結果をもつだろうか。この二つの枠組み、すなわち社会学的な機能性と逆機能性とをもって、われわれは、津波災害文化の有効性と限界性とを示すものと解したい。 1)津波災害経験の有効性意識初めに、平成4年調査の結果に基づいて、志津川町の住民が「チリ地震津波災害の経験が有効であると考えているかどうか」、を検討してみると、「役に立たないと思う」という意思はきわめて低率であり、条件抜きと条件つきの有効性(役に立つ)の合計は圧倒的に高率であった。つまり一般論の見地からみれば、地域住民には災害文化のうち行動文化は津波の際には地域住民の個人的身体を守るためにも、家族生活を維持するためにも、また、地域社会の体系を存続させるためにも十分に役立つものと認識されているのである。事実、地震ー異常な引き潮ー津波ー避難行動あるいは避難の準備行動という図式は、多数の地域住民の命を救い、また地域社会の安定性を確保してきたのである。また、そのように機能性をもつと信じられてきたが故に、地域住民は津波災害経験者である故老の言葉を尊重し、事あるごとに故老を招いては災害体験談を聞きそれに耳を傾けてきたのである。しかし、地域住民はチリ地震津波災害を機に故老の言葉に対する信頼威を減少させていることも事実である。例えば、地域住民の一人は、それを「大自然の掟と世間の掟」(注12)の差としてとらえている。 「自然の掟には前例も何もありません。その時に生じた現象の違いは考えず、ただ昔から浸水しないというその言葉だけを信じた私たち大人の考え方に誤りがあったのです。我等は常に自然現象に対して余りにも昔からの古老の言い伝えを信じ過ぎたのではなかったのでしょうか。殊に水戸辺の場合は、昔から、どんな大きい津波でも上つたことがないという原則めいたこと誰もが信じていましたから。」 これはチリ地震津波で大きな被害をうけた志津川町戸倉地区の一婦人のスティトメントである。このように行動面の規則に関する文化内容は、恒常的なものではなく、たえずそれに修正が加えられ追加項目が必要なのである。削除しなければならない項目もある。第一に〔地震ー異常引き潮ー津波ー避難行動あるいは避難の準備行動〕の伝統的図式があまりにも通常化している故にみられる、この図式の対極にある図式、すなわち、〔無地震ー無津波〕に依拠する避難行動の不必要性の強調という項目は完全に削除しなければならない。 〔無地震ー無津波〕の図式に基づく非避難行動が地域住民を悲劇に導く事例を花輪莞爾は次のように描写している。 「だめだよう、爺っつあん、津波だよ、逃げねばだめだあ!」明子が叫んだ。「なにい、津波だあ、でえじょうぶ、そんなもん」「本当なんだよお逃げねばだめだでばあ!」「なに、でえじょぶ」なぜか知らぬが、老人はそのままけそりとして便所に入った。おそらくこの老人には、地震なしの津波はないという知識がかえって邪魔したのだろう。明子がなおも屋根づたいに行くと、便所に入ったはずのその老人が、フンドシ一つで軒すれすれに先を流されて行く。見知らぬ人と力をあわせて屋根にひきあげたときにはもう、老人は完全にわがねぇことになっていた。」(注13)  次に、第二、削除さるべき文化内容の項目は、日本海側における「地震になったら海岸側に逃げろ」というものである。また、同じく、「日本海側に地震はあるが津波は来ない」という言い伝え(もしあるとすれば)も否定されなければならない。 以上のような云い伝えのほかに、ここではもう一つの避難行動訓練と避難教育の果たす有効性についてとりあげる。表ー4.9は調査三地区における避難訓練・避難教育の有効性意識の比較を示している。どの地区の場合でも、避難訓練への参加度は積極的にみて高いわけではないが(表ー4.10)、これらが役に立つと認識されているのである。 ここで避難訓練への参加が現実訓練の場合に有効であると想定されているとして、避難訓練への参加・不参加の意思決定に影響を与えている要因の一つは過去の津波災害の経験の有無ではないかと推察される(表ー4.11を参照)。 第三に目を技術文化に転じてみよう。昭和35年のチリ地震津波は三陸海岸に大きな被害を与え、行政はその被害を基準として生じうる津波災害に対する設備の整備を行ってきた。その設備施設が技術的にいかに有効なのか、すなわち、襲来する津波を防いだり、その力を減退させるだけの能力があったかについては、われわれはここで問題とはしない。 本項では、むしろ、行政がチリ地震津波災害の経験を生かして、次に襲来するかも知れない大津波に対応できるだけの能力のある設備施設を予想するかどうか、また、地域住民もそのような能力の設備施設を作ろうという意識を持つかどうかのみを検証しておくことにとどめたい。チリ地震津波災害の経験は有効に機能するかどうか、行政と地域住民はチリ地震津波災害から次の災害を縮小し減少するべく意図的に堤防、門扉、河川壁、防災情報手段などの設備や設置を整備するかどうかを検討しておこうと思うのである。つまりは防災意識の向上にプラス効果をもったどうかを点検しておくことにしたいのである。 行政の津波防災対策は二つの側面から評価されうる。第一に、前述のよう防波堤、防潮堤などの堤防施設、河川対策、避難路、避難場所、防災情報手段、さらに流材・流般対策、避難誘導体制、夜間照明、街並み整備などの津波災害に対する個別対策に対する評価がある。本来防災対策はこの個別対策の総和からなるが、あえて区別すると、第二にこれを底辺で支える行政の津波災害対策なり中長期的対策展望と個別対策を含む対策全般に対する行政の姿勢が評価の対象となる。 周知のように、各地域社会では、その地の防災会議によって地域防災計画が策定されており、防災体制はそれにそって実施されている。しかし防災計画ではあまり詳細で具体的な防災のための施設や設備のあり方までは規定していない。そこで、地域住民の間からは、色々な評価がでてくる。例えば平成4年志津川調査では、表ー4.12で示すように、避難場所関係の夜間照明、掲示板・指示板などいわば小道具的な資材対策が不足していることが指摘されたり、また、流材・流船対策に対する評価が低い。町としては製材会社を高台に移すことによってチリ地震津波当時に生じたような第二次災害を防ぐ流材対策を実施したが(現実的には製材会社の高台移転策)、それでもなお地域住民には対策が徹底しているとは評価されていないのである。流船対策に関しては住民の中に「どうしようもない」という諦めの声が聞かれるほどである。 チリ地震津波当時に流材や流船が街路を流れ下りそれが家屋などにぶつかり、大きなダメージを与えたことは事実である(注14)、そのような災害をもたらした個人的なトラウマ(注15)を軽減する結果をもつならば、そのような対策は文化的効果があったというべきであろう。 表ー4.12の示すように、海岸の堤防に対する評価と河川壁に対する評価には少し差がみられる。志津川町の場合には街の中を走る何本かの川沿いに津波が来襲し、かつまちに氾濫する。それだけに地域住民は河川管理にきわめて敏感である。河川に架けられている木橋が永久橋になることによって生じうる思わざる結果にまで住民は懸念を示しているのである。それに最近の都市景観の観点が加わると、景観を構わない防災対策のあり方が問題になる。こうなると景観とは何ぞやというその地域独自の観念が新たに問われることとなり、ここに災害文化とかかわる精神文化の効用性の視角が導入されざるをえなくなる。 以上のような行政の防災の為の個別対策の評価のほかに、防災対策の総合評価がある。志津川街の場合には、90%ほどが設備されていると合格点の評価であり、従って、かりに33年前のチリ地震と同程度の津波が襲来があっても、その被害が前回を上回ると想定する地域住民は少なく、半数近くは前回を下回ると判断しているのである、(表ー4.13参照)。地域住民がこう判断しているだけでなく、チリ地震津波の被害をうけた陸沿岸16自治体への同趣旨の問い合わせに対して自治体全てが「30年前のチリ地震津波の時より被害は少い」との回答を返している。被害が少なくなるだろうと判断する根拠となっていたのは、防波堤・防潮等の堤防の整備、情報伝達・指示命令機構の整備、地域住民の防災意識の向上、避難訓練の徹底化などをあげている。なお、地域住民はこのような行政の見解に、チリ地震津波当時と比較して家屋構造が堅固になったこと、街路の拡幅化、河川改善、「チリ地震津波の経験」をあげている。これらはわれわれの表現を用いれば、まさに、津波災害文化が果たす効果性ということができるだろう。チリ地震津波災害の経験とその継承は、市町村の津波対策のあり方に影響を与えるのである。さらに、地域住民は表ー4.14ノように、行政に対しては今後の防災対策を求めている。

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表-4.10 津波避難の訓練参加の状況
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表-4.11 津波被害経験者有無別(MA) 避難訓練への参加度(SA)
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表-4.12 防災施設の整備状況の評価(志津川町)(%)
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表-4.13 チリ地震規模津波襲来時の被害想定
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表-4.14 防災対策を考える基準

第5章 洪水に関する災害文化の地域性と普遍性 宮村忠・虫明功臣

5.1 洪水に関する災害文化の成立要因

 洪水に関する災害(水害)文化は「洪水」と「水害」の緊張関係を基礎とし、その緊張関係は自然的要素と社会的要素に立脚している。 我が国河川の洪水は、次の事項が卓越している。 1.洪水氾濫による沖積作用が活発である。 2.洪水頻度が高く、洪水は繰り返し現象となっている。 我が国の土地利用は、河川と洪水氾濫と密接に関連して形成された沖積平野を中心に展開してきた。水田稲作は、その代表例である。従って、水田農耕文化が土着した時から、すでに洪水氾濫を自然条件として許容し、水害問題を当初から内包してきた。そうした条件を前提にして、生産基盤・生活基盤が形成され、それらを深化発展させる方向で夫々の時代の自然与件が造りだされてきた。従って、沖積平野に展開してきた稲作農業技術の導入と普及によって、洪水に関する災害文化の成立が促されてきた。洪水が繰り返し現象であることは、経験を容易にし、土地利用の変化に対する応答(洪水と水害の関係)は、世代交代を待つことなく経験することが可能である。このことは、水害の特殊な現象を表す。即ち、古い生産基盤・生活基盤は、新しい生産基盤・生活基盤に比して被災程度が顕著に軽微となるか、全く被災しない。経験によって自然的要素への知識と知恵の集積が行なわれ、その集積をもとに社会的要素が決定される。したがって、古い集落、古い家にこそ、洪水に関する災害文化が培われていることになる。 稲作農業を生産基盤とするためには、洪水に対応することの他、用水の確保が不可欠である。用水の確保は「みためし」(用水の安定取水方法と使用水量の決定を経験的に把握する方法で、近世から「みためし3年」、「みためし5年」などの採用を実施してきた)を1事例に、経験則をもとに地域圏を形成してきた。こうして、洪水に対応する一面と、水利用をもとにした他面とが合致する形で、強固な水共同体が成立し、河川との関わりは洪水期も渇水期も高密な関心を顕在させることとなった。洪水への対応と水利用の展開は個別的ではなく、むしろ有機的な関係を有してきた。災害文化の高度化は利水の進展を促し、また利水の進展は、災害文化の高度化をも要請してきた。それだけに、強固な水共同体は、地縁的、地域的な性格を提示し、排他的な諸相を備えてもいる。 洪水への対応と水利用の展開は、法体系の中にも顕われている。地域の自主的な洪水への対応を法制化した水防法は、明治23年制定の水利組合条例から出発している。水利組合条件によって水害予防組合が設置され、自主的防災組織が初めて法制化された。水利組合条例は明治24年に水利組合法と改正され、昭和24年の土地改良法の成立によって水害予防組合法が区分された。このことは、洪水への対応と水利用との有機的な関係を表現している。こうした水共同体を背景に洪水に関する災害文化は、洪水だけを区分して成立してきたのではなく、河川全体への理解をもとに成立してきたと言えよう。従って、洪水に関する災害文化の内容は、洪水に限定されるのではなく、日常的に、また多岐に渡っている。 そこで、洪水に関する災害文化の追求は、水害の軽減に役する目的と、加えて河川と人とのかかわり方の追求にも役すると位置付けられよう。

5.2 災害文化の地域性

 洪水に関する災害文化の追求にあたって、洪水時の水防活動を伝承する目的で実施されている水防演習に注目することは有効であろう。そこで、平成2年度および3年度に開催された全国水防演習(18箇所、表5.1参照)を例に、災害文化の地域性を論及してみる。

5.2.1 北海道の災害文化

 北海道の河川は、明治新政府の拓殖事業から河川改修が実施され、しかも、第2次大戦後に集中的な事業展開が行なわれた。 その中で、他の地域とは明瞭に区別できる地域性が認められる。すなわち、開発あるいは防災に関することは行政主導型である。他の地域でも、近年の防災に関する意識は行政主導型であるが、むしろ近年の時代的な特徴である。北海道の場合は、「入植」による初期の段階から付与されたもので、近年その方向が強化されたにすぎない。この地域性を災害文化の観点からみると、特異な形態を示し、継承している。 水防演習への参加をみると、北海道開発局からの指示による「演習の為の演習」の意識が強く、水防技術についての興味もほとんど示さない。こうした行政主導型の場合、日常の地元での生活でも、行政依存感が強固で、行政と住民とが隔絶してしまうのが一般的である。ところが、地元での自主防災意識は、他の地域に比して低下しているわけではなく、むしろ他の地域より卓越した内容と伝承が認められる。・常呂川下流常呂町の高徳寺境内には、治水記念碑がある。常呂川下流は、海岸に第3紀の古砂丘があり、その内陸側は低湿な原野で、氾濫水位が2〜5mに達し、湛水時間も長期におよぶ。明治16年に常呂村外6ヶ村と町役場が設置され、漁場として開拓の緒についた常呂川下流は、大正8年の北海道拓殖計画改訂拡張により改修計画が着工されることとなった。治水記念碑は、このときの常呂川治水工事を記念したものである。治水記念碑は常呂川治水期成同盟会により維持管理され、6月15日に相撲大会を中心に祭りを実施し続けている。この行事は、常呂川下流氾濫区域の自主的組織として挙行されつづけ、北海道開発局はもとより、常呂町役場との関連もない。この行事を中心として、治水記念碑の主旨は、「常呂川治水(高堤防の築造)を下賜」されたことへの感謝であり、水防活動(洪水時の対応と異常現象の把握手法)の伝承である。・石狩川は江別市で左支川の千歳川を合流し、さらにその上流で同じく左支川夕張川を入れる。この千歳川と夕張川を連絡する形で、旧夕張川が蛇行して流れている。石狩川、千歳川、夕張川、旧夕張川の四川に囲まれて穀倉地南幌町がある。夕張川に架かる清幌橋のたもとに神社があり、義経神社という。日高山脈の西麓に位置する沙流郡手取町の源義経を祀る平取神社を分祀したものである。 立派な社殿があるわけではないが、広場と小さな祀と銅像が、林に囲まれているだけのこの神社は、南幌町にとっては他の寺社とは異なる意味を持った存在になっている。その理由は、義経神社は町民の洪水との闘いの跡を秘めた治水にかかわる神社であるためである。南幌町の義経神社が質素な境内ではあるが、町民とのふれあいが強い。町の条例により、祭礼の行なわれる7月1日は、役場も学校も農協も、町の公共機関のすべてが公休日となって、町主催の治水感謝祭が行なわれる。祭礼はまず神式により治水への感謝の祈りが、次いで仏式により殉職者の慰霊祭が施行されてから、行楽としての祭りとなる。 南幌町の治水感謝祭は、旧夕張川を新たに切替えた河川工事を機に制定された。かつて夕張川は、現在の旧夕張川を流れて千歳川に合流し、それから石狩川に注いでいた。そのため、夕張川の洪水はもとより、千歳川の洪水、さらに石狩川の洪水に影響を受け、たびたび襲う水魔に泣かされてきた。そこで、義経神社の東から、新たに夕張川の河道を造り、江別の上流で直接石狩川に合流させる「夕張川切替え工事」が採択され、昭和10年に完成した。 この工事の担当者が保原元二である。南幌町では切替え工事が完成すると、感謝の意をこめて保原元二の銅像を造り、その地に義経神社を建立した。以来48年間、7月1日を公休日と定めて保原元二に感謝を表し、夕張川切替の功を子々孫々に伝えようとしてきた。感謝祭は、週休5日制の影響を受けて公休日の条例が解かれたが、なお継承されている。 義経神社の祭りは、単なる保原への感謝や記念にとどまっていない。南幌町は旧夕張川の洪水と闘い続けてきた経緯から、新しい夕張川が完成したからといって、洪水との闘いを忘れることはできない地形にあることも、記念行事を続けている理由の一つである。 また、南幌町の義経神社の事例は、保原元二と地元民との対人関係だけの話を越えている。義経神社が保原元二に謝意を表現すると同時に、南幌町の宿命的な立地条件を考え、決して河川、洪水に対する心構えを忘れさせないという、当初の地元を支えてきた人たちの意志が強く示されたものである。7月1日の治水祭は、夕張川切り替えの効果をかみしめるとともに、洪水から地元を守る自主防災への決意の表現でもある。その決意を反映した具体的事例として、アキカンをつかった異常降雨の発見など独自の認識手法を日常生活の中で確立している。また、その危険予知にもとづいて河川水位の観測への配置・段取りが迅速に行なえるようセットされており、それらの情報を基に独自のデーターを作り、対処を行なっている。そのため、気象情報や河川水位の情報が北海道開発局から伝達される時には、すでに南幌町の行動は整い、進行中となっている。 旧夕張川を挟んで南幌町の対岸に長沼町がある。同じように夕張川切り替えの恩恵に浴した町であり、長沼神社に保原元二をたたえる石碑を建て、公休日ではないが、7月2日を治水記念日としている。南幌町同様、長沼町の治水の日は、いずれも町民に強い水防意識を伝承させ、水害に強い町をつくり出すことに役立っている。 南幌町と長沼町の堤防は対峙した形となっているが、これを「万歳堤防」と呼んでいる。対岸が破堤したさいに万歳をさけぶためである。

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表-5.1 全国水防演習実施概況 (イ)平成3年度実施概要
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表-5.1 全国水防演習実施概況 (ロ)平成4年度水防演習実施
5.2.2 東北の河川

 東北地方の河川は、水田を中心とした土地利用とのかかわりが強い。とりわけ、昭和36年の農業基本法による選択的拡大の農業政策を背景に、活発な土地改良事業が行われてきた。土地生産性の高まりは、近年他の地域が水共同体意識を低下させているのに対して、河川・水への関心が強く、水共同体意識は良く保全されている。そのため河川の氾濫記憶が伝承されており、水防技術に対する自己評価が積極的である。 水防演習では、参加者が過去の洪水への記憶を話し合う光景が多い。演習想定では警戒水位や計画洪水量をつかわず、昭和22年洪水、昭和30年洪水、昭和47年洪水、昭和55年洪水、平成2年洪水などの洪水規模をもとに、アナウンスされると、参加者や観客席からどよめきがおきるなど、他の地域とは大差が認められた。演習会場には、地元の小・中・高・大学の参加もあって、年少者から年長者まで多数が集まり、活気ある風景を呈していた。 しかし、演習内容には、地区ごとの社会的条件も強く反映しており、東北地方の災害文化の特性といっても良いだろう。すなわち、水防技術のレベルは、地区ごとに差異がある。牛枠や築廻しなどの高度なものはもとより、比較的容易な木流しや土俵積みでさえ、地区によってはほとんど無理解で、形だけ整えてきた。一方で、互いに競い合い、誇らしげに評価し合う地区も多かった。水防技術が低下していた地区の共通事項は、農地の水田転作が多いことである。昭和48年に水田の休耕補償時代が終わり、転作補償が始まると、作付面積に応じた補償のために荒いづくりが多い2種兼業農家が目立つようになってきた(農家調査の実施を行ったのではなく、踏査によるヒヤリングだけの推論である)。また、転作補償の実施にともなう排水改良を目的とした土地改良事業が、従来20ha以上の団体営、県営事業から個別農家でも対象となり、水田と畑とが混在型になっている。洪水氾濫に対しては、水田と畑が区別されていることが、有利である。この型は、東北地方顕著に整っていたが、近年では混在型が進んでいる。水田→畑の場合に、災害文化の面で不利な条件が追記される。農村地帯での洪水氾濫への重要な対応手段は、農業共済制度である。いわば、農業の保険であるが、農業共済は水田を対象にすることが一般的である。東北地方の水防演習(馬淵川・米代川)で、転作補償対象者18名のヒヤリングでは、全員畑作部分の農業共済加入はなかった。農業共済制度は水田ー洪水氾濫地の関係を背景としており、安定した水田経営を維持する目的が強い。九州地方の川内川を代表例とした水田の分散所有による被害の軽減手法を含めて、氾濫地帯の自主防災の1つである。一般に、不安定な農業経営となる畑作では、農業共済への依存は少ない。安定した水田稲作経営をもとに成立していた東北地方の氾濫対象地の災害文化も、実質的な変転をみせている農業基本法の影響により、少なからぬ変化をみせているといえるだろう。

第6章 災害文化の定量的評価 ——津波来襲時の音響—— 首藤伸夫

6.1 序

 津波襲来に際し大音響が前駆現象としてあったという報告や言伝えが、数多く存在している。青森県北部の三沢市などでは、「地震海鳴りほら津波」と記した記念碑が立てられ、現存している。もし、その発生の原因と条件が確かめられるならば、来襲直前の現地に於ける津波警報として利用できるであろう。

6.2 音響に関する過去の認識

6.2.1 昭和三陸大津波の提案

 昭和8年三陸大津波の後、二つの提案があった。その一つは、森嘉兵衛(1933)のものである。それによれば、「第一に津波襲来余地の教訓としてはイ。津波は周期的に来襲する事、少なくとも四十年に一回襲来する事ロ。津波を伴う大地震の起る前年は常に平常より大漁である事ハ。津波襲来は大地震後二十分乃至三十分位の時間差がある事ニ。津波襲来にはその十数分前に日常の干満に無関係な大引潮がある事ホ。津波来襲数分前は大砲を発射した様な大音響の伴う事」となっており、音響を津波予報に使うことを推奨しているのである。 第二は、震災予防評議会(1934)のまとめた「津浪災害予防に関する注意書」の中にある。例えば、宮城県昭和震嘯誌に記載されたものを引用すると、次の通りである。 「第三章浪災予防法津浪警戒 津浪余地の困難なるは地震予知の困難なるに等し。然れども津浪の波及は緩慢にして其の発生より海岸に到達するまでに三陸東沿岸に於いては通例少なくとも二十分間の余裕あるを以て、器械或は体験によりて其の副現象を観測し、之に依りて津浪襲来の接近を察知し得べし。津浪の副現象は左の如し。 (一)津浪の原因たる海底変動によりて大規模の地震を伴う場合多し。地震動は之に緩急種々の区別あるも概して大きく揺れ且つ長く継続す。 (二)地震と津浪とは同時に発生するものなれども伝播速度に差あり。其の発生より海岸に到達するまでに地震は三十秒程度を要するに過ぎざれども津浪は二十分乃至四十分を要すべし。 (三)遠雷或は大砲の如き音を一回或は二回聞くことあり。地震後五六分乃至十数分目に来るを通例とす。 (四)津浪は三陸沿岸に於いては引潮を以て始まるを通常とすれども然らざる場合あり。爾後海水は一進一退を繰り返すこと多次なるべく、多くは第一波が最大なれども、第二波或は第三波が最大なることもあり。潮の進退は其の速やかなるときは毎秒十米に達することあり。 津浪は概して以上の如き順序によりて起るを以て、単に体験のみに依りても警戒の手段あり。若し之に加うるに地震計測、各部落を連ぬる電話網、団体組織等を以てせば一層有効なる警戒をなすを得べし。」 ここでも、現地での判断の一助として以上音響に注意することを奨めている。

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写真 写真-6.1 青森県階上町榊の昭和三陸大津波の記念碑。「地震海鳴りほら津波」。
6.2.2 外国での判断基準

 音響を伴うことは、外国でも認識されている。Ambraseys(1962)は、津波強度の定義の中に取り上げている。即ち、修正ジーベルグ津波強度IAは、I(verylight)、II(light)、III(ratherstrong),IV(strong),V(verystrong),VI(disastrous)の6段階からなるが、その中の強度Vの内容は次の様に定義されている。 「V.Verystrong.Generalfloodeingoftheshoretosomedepth.Quayーwallsandsolid structuresneartheseadamaged.Lightstructuresdestroyed.Severescouringofcultivated landandlitteringofthecoastwithfloatingitemsandseaanimals.Withtheexceptionofbig shipsallothertypeofvesselscarriedinlandorouttosea.Bigboresinestuaryrivers. Harbourworksdamaged.Peopledrowned.Waveaccompaniedbystrongroar.」 すなわち、大音響の発生の有無が津波強度決定の一因子として取り上げられている。 これがどの位の波高に相当するかを、推定してみよう。KajiuraandShuto(1990)は、IAと次式で表わされるSokovievの強度ISとの関連を考え、 IS=log2(21/2H)(6.1) IA=3及びIA=6はそれぞれ、IS=0ー0.5(H=0.7ー1m)、IS=3ー3.5(H=5.7ー8m)の程度であろうとしている。この間にあるIA=5に対応する津波高を推定すると、3mから5mの程度となる。

第7章 災害常襲地帯における災害文化の継承——三陸地方を中心として—— 北原糸子

7.1 歴史学における「災害文化」の領域

 「災害文化」という語は比較的新しい用語であって、この語が示す領域について必ずしも明確な一般的了解が成り立っているわけではない。そこで先ず歴史学の立場からこの用語をどの様な意味において使うのかを明らかにしておかねばならない。 「災害文化」が災害研究の領域で使用され始めたのは、1960年代の初頭のアメリカの社会学界においてであるようである。その初発の論文である」AndtheWindsBlew「(H.E.Moore.1964)においては、災害を受けた地域では、人々の災害への反応に災害を受けなかった地域とは異なるものが観察されるという点を分析の出発点とし、災害襲来直後の災害症候群(「disastersyndrome」)と呼ばれる災害の衝撃から人々が立ち直るまでの機関の人間行動に、一定の特有な傾向が見られるとし、それを「災害文化」と規定した。災害文化はその特質として社会的普遍的に見られるというより、むしろ災害を受けた地域の人々に特有のものである点で、当該社会全体に貫徹する支配的文化に対して下位文化(「subculture」)と位置付けられた。その後、アメリカにおいてWengerらによって、災害文化論は更に発展され、道具的(instrumental)と表現的(expressive)文化に分別する概念規定が示された(Wenger&Weller,1973)。 わが国の災害研究に於て災害社会学の立場から、広井脩が1982年起きた浦河地震の災害分析にこの災害文化概念を適用した(広井脩、1982)。ここで、広井はWenger等の災害文化概念を紹介しつつ、道具的災害文化を災害に対する対応態勢、表現的災害文化を当該地方の住民の災害觀と言い換えて、実際の分析概念としての有効性を実証し、併せて、個別の災害体験の蓄積による災害文化の社会的継承には有効性と同時に限界があることに留意を促した。 以上にみられるように、ここにおいての主たる分析対象は災害襲来直後の人々の反応であり、社会学が従来手掛けてきた人間行動に関する分析手法が活用される領域でもあったわけである。しかし、歴史学は現に行動する人間を直接分析対象とすることは稀であり、分析対象のほとんどは時間的には既に過去となった事態を対象する。したがって、主に資料的痕跡を通して過去を再現する手法を取る。たとえ、対象とする歴史事態に直接関わる人々が現存しているとしても、その人々にとっても既に過去の事態であり、記憶の中にあることを言語や記録で再現するということに限られる。歴史学は現に行動する人間を目の当たりにしての客観的分析の手法は持たないと一般的にはいいうる。とすれば、社会学の分野で提起された「災害文化」の分析領域をそのまま歴史学の分野で踏襲することは困難であるということになる。 では、歴史学において「災害文化」という研究領域は存立しうるかをということになる。 ところで、先ず問題の範囲を限定して置かねばならないのは、ここでの災害は自然的外力によって引き起こされた自然的、あるいは社会的事象に限定するということである。昨今、自然災害と人為的あるいは社会的災害との境界線は明確には線引きしがたくなる傾向にある。しかし、ひとまずここでは自然災害に限定しようという了解の元に共同研究が進められてきた。本研究会では自然科学者が災害を自然災害によるものであることを自明のこととして出発したのに対し、社会科学を専攻する研究者の側からこの点について疑問が呈されたのも故無しとしない。歴史学の一分野として、歴史を通して観察しうる地域社会の変容や人口の増減、社会組織の変容を分析の対象としうるとすれば、そうした歴史現象は必ずしも自然災害によるものとは限らず、あらゆる社会で起こる変化である。しかし、ここでは自然災害に限定したことで自ずと「災害文化」の領域も明らかになった。すなわち、過去に自然災害によって打撃を受けた地域がその歴史的痕跡を景観的、あるいは構造的変容として現在に至るまで残存させているならば、そうした変容が歴史的に定着した過程を明らかにし、地域社会や個人は積極的にせよ消極的にせよ、そうした変容にどの様に荷担したかを明らかにしていくことは可能だということである。もちろん、社会学の分野で提唱された「災害文化」は、既に述べたように災害時に於ける人間行動を規定する要因を客観的に分析した結果、「災害文化」として繰ることが出来るとするものであるから、災害の衝撃による神経症などをも取り込み、災害時の人間行動をトータルにみていこうとするものであり、必ずしも価値的に高く評価されるものだけを対象としているわけではない。しかし、歴史学が対象とする領域においては歴史的時間というフイルターにかけられ、災害時の人間行動が生のまま分析できるということは期待できない。その結果、歴史的事件としての自然災害について語り継がれ、書き継がれてできた歴史的痕跡は既に一定の価値的取捨選択が行われていることを前提としなければならない。また、災害の衝撃から当該社会が立ち直り、ある程度の日常性を取り戻すようになるまでの比較的短時間を分析対象とする社会学に比べ、歴史学が取り扱う対象は観察可能な一定の歴史的結果の蓄積が必要となり、そのため比較的長時間を対象とするといえる。 このように考えると、歴史学における「災害文化」の領域は、災害と社会の対応関係の歴史を検証するということになる。当然ここで使用する社会という語の持つ範囲も限定しておくことが必要である。国家、地域社会、個人は、それぞれ社会を構成する要素であり、災害が発生すると、それを乗り越える努力は上記の構成要素のそれぞれの次元でなされる。本論では、視座を最も低く採り、先ず個人のレベルから出発することにする。 本論が分析の主軸にすえようとするのは、明治三陸津波及び昭和三陸津波の被災地での災害に対する社会の対応の歴史である。知られているように、明治三陸津波によって一家全員死亡した家は岩手県のみの統計によっても罹災戸数6,854戸のうち728戸といわれている(岩手県災害関係行政資料I、1984)。また、幼い子供独りを残し、一家が死に絶えた家もめずらしくはない。この時人々はどの様な工夫をして、家族を形成させ、今にいたる「家」を維持させようとしたのか、それはなぜなのかを問うことは歴史学に置ける「災害文化」の領域にふさわしいものであろう。そこで、本論の課題として災害に対して「家」あるいは家族はどの様に対応したのかを考察の中心にすえた。しかし、「家」の問題は決して超歴史的に存在したのではない。社会においてあるいは個人において、庶民が「家」を問題とし始めるのは歴史の古いことではなく、自家の財産と歴史を自らが創り出さねばならないという自覚が国民一般に生まれたのは、近代に至ってからだといえる。この点で近代に入って発生した二つの津波による大災害は、三陸地方という限定性はあるにせよ、庶民が災害を契機に自覚的に「家」に対峙した最初の経験だったといえよう。 なお、家族と「家」について前稿で論じた(北原、1992)。本稿でも、被災者集計のような家族に関する計量的概念を問題にする場合と個々の家族をその個別の事情に応じて分析する場合とに応じてそれぞれ家族、「家」を適宜使い分けた。

7.2 災害と家族の研究史の素描

 災害と家族との関係史についてはかつて民俗学の立場から宮田登が、天明3年(1783)の浅間山噴火で埋没した鎌原村で生き残った93人の村人をそれぞれ新たに結び併せ家族とさせ村再興を図ったことに言及して、災害後の新しい人間関係の結合にそれまでの日常と異なる一種の災害ユートピアが出現したのではないかとした(宮田登、1987)。しかし、この事例について家族維持の基礎となる耕地配分の実態を踏まえた渡辺尚志の研究では、土地配分と人的配分が領主や有力農民の采配で行われ、当初均等分配であった耕地も能力や条件で経済的格差が生じ、それが家格差へ固定化したとした(渡辺尚志、1987)。つまり、災害ユートピアと呼べる状況などなかったということである。三陸津波と家の再興については名著「津波と村」を著した山口弥一郎によって言及された(山口弥一郎、1943)。山口はいうまでもなく湾口形態と津波襲来の相関関係を指摘し、地理学的見地から三陸津波の解明に尽力した。しかし、山口の関心は広く、災害で失われた家族がどの様に再構成されていくのかについて、実例から多くのタイプを抽出した。しかし、個人の情報に関わることとして抽象化された記述に留まる点があり、人々の記憶も薄らいで行く今日、出来る限り具体的な記録を残すことは急務であるように思われる。そこで、大船渡市赤崎町合足部落で調査を行い、明治三陸津波を中心に災害と家族についてまとめた(北原、1992)。ここでの主要な関心は災害からの復興はどの様に行われるのかということであった。基本的には個人の努力に負うものであっても個人そのものがむき出しに歴史の全面に現れることは稀である。そこで、村落の場合であれば、生活共同体としてのまとまりを持つ村あるいは部落、また、社会的基礎単位としての「家」の復興という領域で集団が担う「文化」を対象とし得るのではないか。個々の人々の苦闘を通して一定の方向性を持つ社会的行為や行動を文化と呼び得るとすれば、まさにここに災害文化を問うことが出来るのではないかと予測したからである。 合足部落は、明治津波被災前13戸129人の部落であったが、このうち76人が津波で死亡した。1戸当り平均6人の犠牲者を出したことになる。部落毎の被災率としては極めて高い方に属する。一家でそれぞれ13人、10人、9人の死亡例がこの小さい部落で起きたため、部落全体の死亡率を一挙に高めた。しかし、これほどの人的被害を受けながら、この部落は間もなく江戸時代以来の13戸の戸数を復帰させ、昭和津波の時には15戸と戸数を増やしたが、人口は昭和5年時104人と以前として明治29年津波被災前の水準には回復していない。そこに再び昭和津波で20人の命を奪われた。この村が受けた打撃の深さを物語ってあまりある(後出表ー7.1参照)。 「家」の成員たる家族を大半失うという困難に直面して合足部落で採られた方法から次のパターンを析出した。 A:直系家成員による家の相続が可能な場合 B:傍系親族(甥など)による相続の場合 C:再婚・養子による家成員の再編成の場合 D:二家系の合家の場合 E:絶家ー再興 F:転出 G:絶家 なお、F,Gのパターンは合足部落には見られず、部落を構成する家数が長い歴史を通じて一定に保たれた点にこの部落の特徴が認められる。また、だからこそAーEの努力が成されたのだともいえる。 前稿では、家屋移転は事実として調査はしたが、災害文化との関連で考察をしていない。 ここでは、上記の問題設定がどこまで普遍化し得るか、また、災害からの復興過程に見られる問題として他にどの様な視点を持たねばならないかを今回の研究課題とした。そこで、以下では具体的事例に基づき、検討を進めることにする。

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表-7.1 赤崎村被害明治・昭和比較
7.3 災害と家族——事例研究

 以下では、前回調査できなかった岩手県大船渡市赤崎町の宿・生形部落と上・下蛸浦部落を素材に、津波常襲地帯の家屋移転及び家の維持を主に考察する。この地域は近代以降、明治、昭和の三陸津波およびチリ地震津波の三度にわたる甚大な津波による被害を受けた。当面対象としたのはチリ地震津波を除く前二者である。ここで言及する部落の被害概要を表ー7.1に示した。 被災直前の村落全体の戸口から推して、この両津波災害の間に戸数にして約2倍(589/307)弱、人口にして約1.5培(3,820/2,490)の戸口増加があった。 岩手県全体のこの間に戸口増加は明治29年696,747人109,183戸(1戸当り6,38人)、昭和8年1,020,000人、164,024戸(1戸当り6.22人)であるから(岩手県統計書、1897,1934)、19世紀後半から20世紀の3分の1を経過して人口にして1.5培(1,020,000/696,747)、戸数にして1.5培(1,020,000/696,747)の増加が認められる時期であったとすることが出来る。なお、「岩手県統計書」明治30年には付録として津波による被害と明治29年7月の大洪水による被害統計が附けられている。それによれば、津波被害を受けた太平洋沿岸の気仙、南閉伊、東閉伊、北閉伊、南九戸、北九戸の各郡の被害は死者18,158人6,036戸としている。この結果、岩手県全体の戸口も当該年のみ前年より8,349人310戸の減小をみるが、災害翌年の統計によればほぼ災害罹災前のレベルに復している。この時期を経て、昭和8年と比較した上記の数値から次の様なことがいい得よう。総じて、この時期は衛生状態の向上、近代産業の発展により都市、農村を問わず出生率が上昇し、死亡率が低下することで人口の自然増加が堅調になる。いわゆる人口転換が成し遂げられた時期と見なすことが出来る。

7.3.1 大船渡市赤崎町宿・生形

 さて、図ー7.1に大船渡湾調査対象地域を含む地形図、図ー7.2に山奈宗真の調査図を挙げた。現大船渡市赤崎町、当時は赤崎村である。赤崎村の各部落は表ー7.1に示したほか、山口、永浜、清水、長崎があるが、調査対象と出来なかったので表には示していない。 *明治三陸津波 宿・生形部落は図ー7.2に示すように後ノ入川の扇状地に広がる川を挟む両側の部落である。この部落は昭和8年の津波後集団的家屋移転が両部落に跨って行われ、人々の交流も両部落に跨るので、それぞれ分割しては実際の人々の動きが把握できないと考え、一体として扱った。 明治三陸津波での被災戸は流失・倒壊家屋94戸であるが、被災戸数は93戸犠牲者は109人である。明治津波で被災した家93戸のうち聞き取り調査によって41戸の家の所在地が判明した(図ー.7.3参照)。 図ー7.3中の番号は表ー7.2の番号、戸主に対応する。生形地区においては、昭和35年のチリ津波後の大規模な宅地嵩上げ、県道補修工事などで様相が一変しており、現在の地図上に必ずしも正確な地点が示し得る条件にない。しかし、昭和津波被災時の家の所在地点を復元し得たことから、一定の信頼性はあると期待している。 山奈宗真の調査によれば、明治津波では、宿・生形の打ち上げ浪20尺(6m)、浪走り260間(約500m)(山奈宗真、1896)ということである。図ー7.3に聞き取りによる当時の推定海岸線を点線で示した。No26の三浦元助家は船二艘を流失させたが、家での犠牲者、家屋流失は免れた。No25の金野源蔵家では1名の犠牲者を出したが、この家で犠牲者が出たのか否か記録による確証は得られなかった。後に述べるように、津波来襲当日が節句に当たるため、婚家から実家に戻り、そこで津波に襲われたという事例も少なくない。したがって、この地点まで波が遡り家、人を襲ったとすることについては留保が必要である。家屋流失の記録と犠牲者の出たことが記録上確かめられるのはNo21の三浦藤右衛門家である。後ノ入川を波が遡り、川岸近い同家は被害が出たと考えられる。表ー7.2の41戸のうち31戸の家から71人の犠牲者が出た。被災地点の不明な犠牲者はこの両地区でほかに38人存在したことになるが、No21のライン以南では地盤の高い地点の家を除き、後ノ入川扇状地の比較的低いほとんどの家家で犠牲者が出たと推定されよう。 *昭和三陸津波と家屋移転 昭和三陸津波の場合は宿での波高は2.78mということである。被害の程度は明治に比べ少なく、犠牲者も3名に留まった。図ー7.4は昭和津波で家屋が流失・倒潰した61戸のうち津波被災地点の判明したものおよびその後の家屋移転の有無を地形図に落としたものである。表ー7.3の番号は、図ー7.4のNoに対応し、当時の戸主名、被害の内容などを摘記した。表ー7.3で顕著な家屋の流失数は、一家で本屋のほか納屋、廐、便所などが算入されているからである。このうち、本屋を流失した36戸のみに*印を附けた。図ー.7.4と表ー7.3の流失家屋欄とを照合させることによって、No52端巳之作家の流失を除くと現在の県道より南側で家屋のうち本屋まで流失した例が大部分であるといえる。 表ー7.3の目的の一つは、被災戸の位置・被災内容を確認することのほか、二度の津波を経て、家屋移転がどの様に進展したかを示す目的も兼ねている。宿・生形地区は昭和津波後宅地造成のための大蔵省預金部低利資金の受給対象地となり、20戸分の宅地造成が可能となった。また、同時に、国および県からの災害土木費をもって県道の復旧・拡幅工事がおこなわれた。現在の、部落を縦断する県道はこの時新設されたもので、それ以前はより海岸寄りのNo.29ーNo.7ーNo.8ーNo.11ーNo.19ーNo.30ーNo.35ーNo.34の各戸に沿う道路が村のメイン・ストリートだったということである。宅地造成地は2ヶ所作られた。1ヶ所は八坂神社下の崖を崩し、No.11,No.20などが移転した箇所である。崖を崩した土は道路、宅地の嵩上げに使われた。もう1ヶ所はNo.11,No.13,No.4,No.18などが移転した新県道沿いである。上記2ヶ所の造成地以外への家屋移転は、基本的には自助すなわち自分持ちの耕地、本家からの分与、あるいは買得地などへの移転であったという。その他この部落においては、セメント工場拡張のための土地買収がほぼ時期を同じくして始まり、津波被災後買収に応じた家の移転も重なった。表ー7.3にみるようにこの地句の職業構成は次に検討する蛸浦地区より多種多様であり、それだけ人間の流動性も認められる地域である。表ー7.1によっても明治・昭和間の人口増加は1.2(869/744)であるのに対し、戸数増加が1.6(147/93)と三地域の中では最も高く、この地域については人口の自然増加以外の要因も予想される地域である。したがって、家屋移転や転出を簡単に津波災害の結果とのみ判断するわけには行かない。従来の生活の大幅な変化を強いられる家屋移転を行う動機付けは何によるのかを考える手がかりを得るため、表ー7.3には明治津波での被災の有無を判る限り挙げた。明治津波の場合は被災後直ちに家屋移転を行った例はきわめて少ないという。この点は宿・生形地区に限らない。とすれば、ここにおいては、二度にわたる津波被害を受け、国や県の財政補助を受け、県道敷設と平行した計画的宅地造成がなされたからこそ、家屋移転が一部実現したものといえそうである。従来の生活改変を強いられる住宅移転は、就労機会のある都市でならばいざ知らず、当時の農村においては生活の経済的基盤を失ってまで行うということは現実には有り得ない。たとえ、生命の危機に関わる事柄であっても生活維持への長期展望が立たなければ、家屋の移転は容易には行われないだろう。明治の場合、昭和津波とは比べものにならない甚大な被害を受けながらも従来の居住地点を離れる例がきわめて少なかったのは、こうした社会条件の言い換えれば、社会資本の投資が行われる段階に達していなかったということが出来る。

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地図 図-7.1 大船渡湾地形図
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図-7.2 宿・生形部落被害図 山奈宗真「大海嘯取調書」『東北大学工学部津波防災実験所研究報告』第5号(1988)所収
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地図 図-7.3 明治津波被害図 図中番号は表-7.2の家番号(No.)に対応
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表-7.2 明治津波被害 宿・生形部落
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地図 図-7.4 昭和津波被害 宿・生形部落
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表-7.3 昭和津波被害 宿・生形部落

第8章 比較災害論による災害文化の現代的意義 河田恵昭・泉拓良

8.1 序

 自然災害研究の目的は、自然災害がどれくらいの規模でいつ、どこで起こるのかを予知し、できることなら未然に防ぎ、不幸にして起こればできるだけ被害を少なくすることである。歴史が明らかにしているように、ある特定の地域に特定の自然災害が繰り返し起こる性質をもっている。したがって、災害が起こってからそのメカニズムを調べたり、何故被害が大きくなったかを明らかにすることも非常に大切である。それが明らかになればきっと将来役に立つという確信であり、それと類似の災害環境の地域でも適用できるという望みが出てくる。 ところで、類似とはどういうことであろうか。これについて少し考えてみよう。自然災害の最大の特徴は地域性であろう。この地域性を構成するのは図ー8.1に示すように自然の外力と被災要因である。地域性が際だつような特異な災害が発生したとすれば、その災害構造の解析のためにはケーススタディがもっとも有効であろう。しかし、過去の災害の歴史を振り返ってみれば、そのような例は被災要因が余程特殊でない限り、例外的な存在であると考えてよいことに気がつく。私達が災害の地域性と言うとき、それは図ー8.2に示すように、グローバルな普遍性と地域の特異性で構成されている。ただ、気をつけなければいけないのは、災害の進化といわれるような現象では、普遍性が言葉本来の意味を失い時間的・場所的に変わるということである。これについては、比較災害論の限界のところで詳しく触れることにしたい。ここでは、普遍性と特異性の分け方はあくまでも相対的なものであることを指摘しておくことにとどめたい。 さて、わが国では1970年代に都市化の波が押し寄せ、それが過密と過疎という両極端をこの狭い国土に定着させてしまった。そして、いま都市災害と田園災害のいずれが起こってもおかしくない災害環境にある。その違いは、異常外力がどの地域で発生するか、どこを通過するかということに依存している。大きな人的・物的被害が発生するのは、わが国の場合には都市災害に限定してよいであろうが、広義の都市災害はその成熟の過程で、都市化災害、都市型災害、そして都市災害へと変貌することが明らかにされている(河田、1991)。 そして、都市災害の対策を立てようとするとき、防災構造物などのハードウエアによる方法が、土地取得上、財政上、技術上などの理由からすでに限界に近い。とすれば、ソフトウエアの充実に大きな期待がかけられるのは必定であろう。そこでは、とくに近年、災害の減少や都市化に伴う新住民の流入、都市のライフスタイルの変化などのため、昔から受け継がれてきた水防の知恵などが廃れつつある。すなわち、災害文化が衰退しつつあり、すでに消失した地域もある。そこで、本章では、解析の方法として比較災害論の手法を紹介したあと、津波を主たる対象として、常襲地帯におけるアンケート調査から災害文化の特性とそれを強化する方法を提案することにしたい。

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図-8.1 災害の地域性の構成
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図-8.2 災害の地域性における2つの特性

8.2 都市化による「おまかせ防災」と「見えない被災過程」

 現代の都市災害の重要なキーワードを示せと言われれば、このような2つが挙げられる。まず、「見えない被災過程」とは、災害の原因と結果が容易に結びつかない。つまり原因と結果の因果関係が災害が起こるまでわかりにくいことを言っているのであり、現代の都市災害の最大の特徴である。これは、複合災害や2次災害となり、災害の拡大や長期化に結びつく。わが国の地方都市で地震や台風で、ガスや電力などのライフラインが被災すると、それがいかにも都市災害の典型のようにマスコミのみならず一部の研究者も飛びつくが、それらは正確に言えば都市型災害であって、都市災害ではない。わが国は過去約30年間、気象学的にも地質学的にも平穏な時代を享受してきたことは疑いなく(その証拠に大型台風の直撃や巨大直下型、あるいは海洋性地震が大都市の近辺では発生していない)、比較的小さな外力、あるいは大きな外力から距離が離れているために小さくなってしまう外力の起こす災害が、あたかもわが国の今後の災害の特徴であるかのような錯覚があるようである。 また、「おまかせ防災」とは、行政任せの防災対策の風潮を表したものである。私たちの生活の多くの基準が経済的なものでほぼ決まるというような風潮は、1960年代から始まった高度経済成長からつい先日のバブル経済の破綻まで、根強く着実にはびこってきた。何でも金で解決できるという考え方は、本来住民の知恵と行政の努力によって進めなければならない防災という事業を、後者のみの責任に帰する流れとして確実に存在している。この期間の水害訴訟の激増もこれとは無関係ではあるまい。 私が生まれ育った大阪市城東区の京阪電鉄の「野江」駅の近くでは、城東運河を越えると生駒山脈まで、1950年代には視界を遮るものはほとんどなかった。晴れた日には生駒山脈の麓までくっきり見えていた。この東大阪と呼ばれる地域には江戸時代の1700年頃まで淀川と大和川が一緒に流れ込み、古くは大きな池が2つ、そしてそれが干上がって沼地がここかしこに点在する低湿地であった。今でも門真市や寝屋川市にれんこん畑(実態は池)が存在しているのはこの名残である。この地域で歴史的に発達した町はほとんどが河川の自然堤防(洪水のときに運ばれた土砂がたまった微高地)上に位置している。日本最古の河川堤防である茨田堤(「まんだのつつみ」と言われているが地元の地名「まった」が現在残っている)もここに作られている。 この地域はもともと淀川と大和川の遊水地であった。だから、高度成長時代に都市化がはじまって、はす池や低湿地を埋め立てて宅地として売り出してもこの特性は変わるわけでなく、現在もそうである。新しい住民の多くは、交通の便や教育環境、それに当然地価を考慮に入れてこの地を選択されたのであろうが、どのような災害がこれまでこの地で起こってきたかを調べた上で判断された人はいるだろうか。しかも、昭和年代に入って地下水の過剰汲み上げによる地盤沈下の発生と、都市化に伴うアスファルトやコンクリート舗装などによる雨水の浸透阻害が重なって、ますます洪水を取り巻く環境が悪化しているのである。JR片町線の鴻池新田あたりの車窓から見られるコンクリートの溝の中に封じ込められている寝屋川の姿は、この間の洪水と私たちの社会との苦闘を物語っている。 このようなことを書くとすぐに、それは行政の怠慢だという人がいる。それは行政における十分な予算と人材、そして地域住民の協力があって、なおかつそういう内水氾濫災害が起こればそう言われても仕方があるまい。しかし、現実はまさにその逆なのである。今、両者が手を携える環境をいかに作るかがこれからの洪水災害の防止の鍵を握っているといえる。昔ながらの水防の知恵、もっと言えば災害文化を復活させ強化させていかなければ、都市の防災は絵に描いた「もち」になってしまうであろう。

8.3 比較災害論展開の視座

 比較災害論研究の目的は、どのような災害がどれくらいの規模でいつごろ起こるかを予測する手法を確立することである。とくに、人的・物的被害が激甚となる巨大災害が主たる対象となろう。この場合、自然外力の発生・伝播・拡大のメカニズムはそれぞれの災害ごとに自然科学の分野から研究され多大の成果を挙げてきた。それに比べて、それが人的被害の発生にどのように結びつくかについては、外力の特性ばかりでなく、社会構造や人間行動に関係するだけに複雑であって、この方面の研究を進めなければならない。それは単に想定被害を求めることに意義があるばかりでなく、それに至る過程で必要な被害発生のシナリオを明らかにすることが必要である(河田、1991a)。なぜなら、災害対策の有効性は、被害の発現過程をどれくらい精度よく予測しているかに依存しているからである。ここでは、比較災害論研究を行ううえで基本となる方法を示す。

8.3.1 比較災害論研究の構成(河田、1991b)

 比較災害論研究の目的は、災害の地域性の中で普遍性があればそれを抽出してその法則性を見いだすことであって、一般的には普遍性は少ないと判断されている傾向にある。実は、バイアスのかかった普遍性を見いだすために、比較災害論の解析方法は有効と考えられる。なぜなら、普遍性という判断も相対的であるから、どこかの地域でそれが単純な形で大いに露呈している可能性がある。そのことを異種の外力、たとえば津波氾濫と洪水氾濫の比較に用いれば、外力特性の相違が思わぬところで住民の生活や考え方に反映されている可能性がある。 そこで、防災・減災に貢献すると考えられる同種あるいは異種の外力による比較災害論研究の構成を述べる。 本研究の構成は、つぎの3つから成立すると考えられる。 1)災害の実態 (a)復元(外力の規模の推定、被害の定量化)  (b)発生特性(周期性、極値構造の解明)  (c)社会への影響(災害觀、自然観の形成と変質の説明)  2)災害の地域性 (a)自然の外力の地域性(わが国のみならず世界各地域で存在)  (b)被災要因の地域性(土着の要因、被災様相の空間的、時間的相違、社会構造の変化)  3)災害の法則性 (a)防災ポテンシャルと災害ポテンシャル(災害発生確率の定量的表現)  (b)社会環境変化(綜合指標の選定)  (c)災害発生モデル(協同現象としての現象の記述)  (d)自然災害方程式(基本解の特性把握)  これら3つは独立に存在するのではなく、相互に関係している。しかもこれらはいずれも災害予測のマクロモデルの構築につながるものであって、その成果をある時代のある地域へと適用するには、ミクロモデルへの変換機構を明らかにしなければならない。

第9章 結語 首藤伸夫

 様々な立場から、地滑り、地震、洪水、津波など諸種の災害毎に、行動文化としての災害文化の様々な側面を記述してきた。最後に、各章を関連させながら若干の考察を試みよう。


 災害文化としての伝承・伝説を、現実の場に復活させ得る一つの方法が、第1章、第2章、第3章から浮かび上がって来る。 元来、自然の影響の強い所とは、それなりに見返りの期待できる所である。人々は、利点を最大限に生かし、危険はなるべく回避するようにと、自然現象に受動的に対応する生活様式を生み出してきた。そのためには、万一の場合の「安全な聖地」、立ち入ってはならない「危険な聖地」とを分類し、その中間に日常生活の場を展開してきたのである。 「安全な聖地」の形成過程の一例が、鹿島神社と地震信仰の結びつきである。1042年に関東地方を襲った地震を契機に、鹿島神宮は地震に強い神と認められ、地方にも分祠されて行く。行く先々で地震や津波の洗礼を受け、評価が決まり、淘汰された。霊験あらたかなる代表例に、和歌山県南部町の鹿島神社がある。安政南海地震では、その両隣の集落が被害を受けたのに、此処だけ無事で 「地震ゆれど高波よせぬこの里はかしまの神のませばなりけり」と称えられた。その逆に効験なく、信仰対象からはずれたものもある。土佐清水の鹿島神社で、宝永地震津波(1707年)で社殿流失、南海地震(1946年)で被害を受けている。こうした淘汰を経て地震信仰が出来上がったと見るべきで、単なる非科学的な迷信や習慣と一蹴する事の出来ない背景を持っている。 「危険な聖地」の形成や、その再認識の例が、地滑り災害に見られる。中部地方では、地滑りは「蛇抜け」と表現され、伝説や記念碑、寺・石地蔵などの形を取り、地域共同体によって維持され受け継がれてきた。単なる伝説でないことが、時々痛切に体験され、反省される。 「『一度あることは二度ある』とか『殷鑑遠からず』という諺のあるように、過去にあったことを、戒めとすることが大切に思われます。その実例が、昭和五十八年の大水害です。中波田の部落を水浸しにし、波田堰に至りました。昔の『蛇ぬけ』が、また起ったのです。昔の人の伝説にすぎない、などと思っていると、大変なことになりそうです。」という感慨に端的に表わされている。 こうした伝説や信仰に残る「聖地」を生かしていく方法の一つが、地震地質学でのVI指数(VeryImportant)、NG指数(NoGood)との結合であろう。地域住民が大変重要だと考えており、VI指数の極めて高い所として天然記念物、神社・仏閣が当てられて居るが、これと「安全な聖地」との対応は良い。社会生活上の重要さだけでなく、災害に強いという特殊性をも含ませうるのである。 一方、NG指数は、本来は対象地域の地盤条件の良否を表わし、自然の力の大きさを表現するもので、地盤地質学では客観的に表示できるものである。しかしながら、いますぐには客観的評価が出来ないにしても、蛇抜け伝説の場所はこれに相当すると見なせようから、「危険な聖地」をNG指数の高い場所として採用することは、不適当ではあるまい。


 災害文化の地域性・限界性を、洪水災害、津波災害への対応の比較において考えてみよう。共に水の氾濫に起因する災害ではあるが、水利用の違い、発生頻度の違いにより、異なる対応となる。第4章、第5章、第8章から、違いと共通点、今後の課題とをまとめてみよう。 水田稲作を主な生産基盤とする地域では、洪水氾濫は必ずしも忌避すべきものではなかった。それを自然条件として許容し、水害問題を当初から内包した形で、地域の生活は成立していたのである。洪水は頻度の高い繰り返し現象であるから、土地利用変化に対する応答を、世代交代を待つ事なく経験できる。経験によって自然的要素への知識と智恵の集積が行なわれ、その集積の下に社会的要素が決定される。洪水への対応と水利用は、お互いに関連しながら進化してきた。災害文化の高度化は利水の進展につながり、利水の進展は災害文化の高度化を要請した。洪水現象だけを区分するのでなく、地域の生産・生活に関わる河川全体を理解する中で、災害文化が成立し、変化し、受け継がれ、効果を発揮してきたのである。 津波災害は、漁業を主とする人々が沿岸に居住すると言う条件下に発生していた。被災はごく稀で、大津波は一世代に一回有るか否かの程度であり、そのインパクトは大きいものの、経験集積の速度はきわめて遅い。津波に対する災害文化は、時間的空間的に強い制限を受けた経験の上に成立しており、地域社会の変化進展とは関係が薄かった。一つの津波に対して得られた経験則は、次の津波に簡単に否定される。数多くの中から精選していく過程が無いからである。経験則の中でも「地震が有れば津波、したがって避難」という図式は、比較的長く信奉されたものであったが、チリ津波の来襲のよって破れ、古老の言に対する信頼感が減少することとなった。これは「大自然と世間の掟の差」と受けとめられた。洪水ほど頻繁に現われる現象なら、この差を埋める情報は比較的速く入手でき、修正や追加が容易であったであろう。 洪水災害と津波災害の知識を直接比較した結果からも、災害頻度の大きい方が、一般に情報量が多く、したがって冷静な災害觀に通ずることが確認された。それにしても被災体験は、被災後8年位は日常的に重要な事項として認識されているが、時間の経過とともに知識・関心共に薄れて行き、再現期間100年ともなると、殆ど関心を引かなくなるという。 修正・追加が比較的頻繁に行なわれて来た筈の洪水災害文化においても、「大自然と世間の掟の差」が顕在化する状況が現れ始めている。洪水災害では、自然環境の変化や各時代の自然与件に対応した洪水経験が得られさえすれば、伝統的な災害文化が基底となり、新たな文化が構築されたのであった。しかし、社会・経済条件の強い影響の下で、水から離れた生活が日常化すると、修正や追加による新たな災害文化の構築は困難となる。水と密着した、かっての住民生活はなくなり、普遍性を基盤とする行政の主導が強く求められ、災害文化の地域性が薄められるからである。住民の危険度認識の変化は、行政のいう計画対象外力についての正確な知識によって起るのではなく、浸水被害の頻度が直接の要因なのである。被災頻度の変化が、社会条件の変化によってもたらされており、災害文化形成能力が低下しつつある。 津波の場合には、自然現象それ自体が稀にしか起らず、災害の発生頻度が小さいため、住民の高い関心の維持、正確な知識の構築が共に困難であった。洪水の場合には、被災頻度の低下が、社会・経済的な要請に答えるという。人為的な行為によってもたらされ、同様の結果を生ずる事となった。 こうした事態を改善するには、どの様な水との関わり方を住民が選択するかを確認しながら、災害文化の項目や内容について、現実行動への適用を常に念頭において、その有効性や限界を検討し、「大自然と世間の掟の差」を埋める努力がなされなくてはならない。それには、科学性による保証、あるいは時間・空間を超えた適用性を保証する尺度の発見が必要となる。科学的根拠を整える1例が、第6章に示されている。時空間を超えた適用性を見いだす努力の1例が第8章にあり、そのための基準尺度として人口密度が提案されている。


 災害文化が地域性を保ちながら継承されていくことは、今後難しくなるのではないかとの危機感が、どの章においても触れられている。文化継承の手段として有効であった信仰は衰退し、継承組織としての地域共同体の結束力は変化し弱まり、その基本的構成としての家の観念は人口流出入の自由度が増すにつれて変化している(第7章)。大地に足を下ろした個人や地域共同体としての対応から、行政への寄りかかりへの移行が、災害文化への関心の低下を加速している。災害文化の科学的根拠を明らかにして「大自然と世間の掟の差」を埋める努力に加え、現実への効果的適用を保証する手法を検討すべき時点に来ていると言わなくてはならない。