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前付

—1960—チリ地震津波—昭和35年5月24日—
日出 4.13
月出 3.27
満潮 1.48,15.01
日入 18.47
月入 17.10
干潮 9.02,21.00
月令 28.2


天気 雲量 3. 日照 7.6時 風力 0. 湿度 92%
気温 最高 18.8℃ 9時 16.7℃ 最低 9.4℃
地温 地表 18.3℃ 10cm 15.9℃ 50cm 14.9℃ 100cm 12.5℃


襲来時刻
(第一波)凡そ3時10分 宮古検潮儀では2時47分
(第二波)凡そ4時40分〜4時50分の間
(第三波以下)24日夕刻までに凡そ第八波までを数えているが,八戸検潮儀では6日後の5月29日夜まで30時間毎に5も増大した異常並み記録している。


[註]日出入,月出入......理科年表より盛町(+141°42′22″+39°5′)に推算。
満潮,干潮......宮古満干表より大船渡水産事務所にて換算。
天気,気温,地温......盛高等学校気象観測値。
襲来時刻......調査報告及聞取による。

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写真 詩1
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写真 詩2

第1編 総記

第1章 叙説

日本花綵列島を今までに襲うた津波の数は一体どの位であろうか。その中わがリヤス式海岸のものだけでも幾千百回,おそらくは想像に絶する数であろう。しかし明かに記録に残っているものは869年7月13日(貞観11年5月26日)のものである。その後700年程たった16世紀の末から文献にあらわれ,大体1世紀に5.6回程度が記録され乍ら今世紀に入った。災害が災害として記録せられるためには災害をうけるだけの人戸が密集し又災害を記録分析するだけの頭脳がなければならない。太古から三陸の岸を洗った津波は幾千回あってもそれだけでは海と陸との戯れに過ぎない。9世紀に津波が記録される程の人家集中を見たこの地域は21世紀,22世紀には大いに発展していてそれだけに更に強く津波の災害を意識するであろう。
1960年5月23日4時15分(日本時間)チリ中部海岸でmagnitude83/4と記録された地震は現在まで人類に記憶された最大のものである。この地震の初動は約20分で日本に到達し,地震に伴うて起った津波は16,600粁の距離を地球の裏側から表側へと約22時間で渡った。大船渡湾が津波を意織したのは実に5月24日2時50分のことであった。その被害は我々が大船渡湾附近で経験した最大のものである。津波そのものも大きかったが大船渡を中心とする気仙の海岸一帯が開発され,害を被るべき都市が発展した結果でもあった。
この経験は我々にとって痛烈なものである。しかし今後予想される津波に対して如何なる策を施すべきか,この事について多くの教訓を得たように思われる。第1に世界的地震津波警報系統を強化すべきことである。大船渡を襲うた津波はそれより半日も前にハワイを襲うている。カムチャッカ,アリューシヤンに起因する津波でもこの海岸を洗う前に他の地域で把握することが出来よう。地震津波警報の世界的総合系統が確立すればその害を避けることは寧ろ容易ではあるまいか。
第2に津波科学研究所の設置である。津波という物理現象は今後も止むことがないであろう。しかし我々の経営は津波に脅かされてもならないし又阻まれてもならない。その為には津波そのものと津波対策に関する徹底的研究が必要である。世界的に有名な津波常襲のこの地域に今津波科学研究所を設けることは正に時と処に叶ったものではあるまいか。第3に十分な地域計画を樹立することである。津波をうけ易いこの地域ではその来襲を恐れるばかりでなく日常不断の海岸線利用も考慮に入れ三陸海岸全体としての産業配置計画を樹立しなければならない。この事については我々は早速着手する必要がある。
今回の津波から得た教訓はそればかりではない。被災後にとられた施策はそれが応急策であると,恒久策であるとを問わず果して適切なものであったか,余りに器機的でなかったか,各種の産業はよく守られたか,河川堤防防浪堤防潮林永久建築物などの構造と配置は適切であったか,こうしたことについての多くの反省すべき資料も得た。
以上の教訓はこれを直に実行に移せば大いなる成果を挙げるであろうし,又その方向に向って我々は努力しなければならない。しかし津波はいわば一瞬の現象である。この被害は常に忘れ易い。是を忘れない為に,津波の被害をより大きくしない為に,そして我々の住む地域を最も楽しい最も活動的な場所にする為に我々は昭和35年の最もにがい経験を克明に記録して置く必要があるのである。
三陸津波誌は3編より成るが科学的分折,実際的経験.歴史的探求をあげて余すところがない。この書は単なる好事家机上の装飾では無くわが地域発展の為の指針となり糧■となるべきものである。


昭和36年5月24日 津波記念日に 岩手大学教授理学博士 小川博二

津波はまだ災害である

津波はまだ災害である。冷害もまだ災害である。台風もまだ災害である。モンスーン地帯であると云うことは災害地帯であると云うことはまだ克服されていない。それなのに科学は月の世界ばかり考えているように見える。
大火が起ると異口同音に建物はすべて鉄筋コンクリートにすべきであると主張する。そしてその焼跡には木造のバラックを建てている。台風が来るともっと堅牢な高い堤防を作るべきだと主張し,アイデアを唱へるが,その脇から土俵の堤防を応急処置としてやっている。台風一過すれば,人々は天上の星を眺めている。
それが人間生活の順序だろうか,災害は忘れた頃にやってくる内はまだ恕すべき所があるかもしれないが,まだ災害は忘れない内にやって来ることを忘れているのではないか。
三陸東海岸の津波は歴史に明記されているものだけでも慶長16年10月28日(2611)延宝5年3月12日(1677)宝歴元年5月2日(1751)寛政5年正月7日(1759)安政3年7月23日(1856)明治29年6月15日(1896)昭和8年3月3日(1933)昭和35年5月24日(1960)の八回を教えている。大体44年に一回の割で起っている。
その発生に一定の周期があるのだろうか。その原因,その襲来の形状に一定の物理的理論があるのだろうか,三陸東海岸の漁民はこの津波のために多くの人命を失い,伝来の生業を破られ,文化財を失なった。災害の直後はその再来を恐れて高地に移動する。しかしそれは生活に不便である。何時の間にか又海辺に下って来る。そこに生活の本拠をすえ,設備を整え,ようやく利潤を得るようになると津波がやって来てこれを破壊する。人々は又高地の神社に集まる。高地に集まると生産的にも生活的にも利益が少ない。貧困に堪えなければならない。高地から海辺を眺めては「下へおりると便利なのだがなあ」,人々は又おそるおそる下に降って行く,神社だけは高地にあって,「降りると危険だぞ」といっているのだが,……
この歴史を人々はよく知っている。しかしこの恐る恐る降りる危険をどうして克服出来ないのだろうか。近代人は,近代政治はもっと足元を固める必要があるのではないか。
本書は三陸東海岸のこの歴史的宿命を明らかにするとともに,近代人の為政の欠陥を指摘して,反省をうながし,世の注意をうながしている,注目すべき良著であり,広く世人の一読をお奨めしたい。


昭和36年6月1日 岩手大学教授 経済学博士 森嘉兵衛

三陸津波誌の刊行に序す

気仙海浜の遺跡は,目本古代史研究には,極めて貴重なところである。古代社会のころ,此の地奥州の北端に,狩猟生活を送っていた人々は,中央分水山脈に,雪が掩うようになって,林間や原野での生活が困難を感ずると,越冬の必要から気仙の海浜に移動したものらしい。縄紋期貝塚と内陸部の同期遺物との関連は,両者の間の密なる交流なしでは考えられぬことである。農耕以前の生活群は,移動は極めて容易であるがら,積雪や凄まじい吹雪を予知して,気仙の海浜に,冬を越すため移動したことが考えられる。
夥しい貝塚群の成立は,多くの古代社会人が,その地に居住した証跡であり,その層の成長は永い間の集積である。内陸部の到るところにも縄紋期の遺跡があり,北上川水系の台地や丘阜にその例が沢山算えることができる。それ等内地の生活群も,日常生活に於ては,塩分は絶対に必要であった筈である。
東部海岸と内陸部の交通は,中間に北上山系の山々はあったとしても,さして困難でなかった。徒歩で少しの荷物を担ったとしても,二泊三目の日程なら,容易に連絡されたであろう。則ち内陸部使用の塩類は,東部海岸から供給されていたに違いない。農耕以前の古代社会人が,気仙の貝塚成立の例にみるように永い年月に亘って生活して来ている。その年代は数千年,或は万年近いかも知れぬ。
それ程遠い昔から,幾度かの震災,幾度かの津浪に遭っているに違いない。にもかかわらず古い時代の災害は,全く湮滅してそれを覗い知ることはできないのである。日本に文字が渡来し,奥州に文教が伝ってから十世紀を経過していよう。然るに震災や津浪を誌した文献といえば,僅々三百年や四百年この方である。震災史や津浪史の編纂が,いかに至難であり,史料不備であるかは想像される。その意味において三陸津波誌の編纂刊行は,資料頒布としても賞讃さるべきものである。
稗貫郡内川目の早池岸神社に伝蔵された慶長十七年(1612)の棟札の記事中に,「一慶長16季9月28日,大ナイユリ海辺人民皆死スル也」とあって,慰霊供養をやったことが記されている。この時は大地震のあとに襲来した大津浪であり,世に南部津軽の海浜の死者3000余人と称せられる大惨害の発生があった。本県津浪襲来史料中,確認できる最古史料であろう。
その後,350年間の津浪発生は「岩手県災異年表」で知られる通りであり,この間の高波襲来には対岸の南米地震に由来するものもあろう。元和2年・寛文2年・延宝5年・元禄2年・元禄12年・宝暦元年・寛政5年・安政3年には,それぞれ津浪の襲来があり,明治29年6月15日の強震と津浪は18150余人の生命をうばい,昭和8年3月3目の強震に伴う津浪では2650余人の死者を出している。
往古なら全く予知できなかった津浪でも,今日では予測の法方も考えられている。たとえば大平洋対岸のチリ地震の起した波は,日本列島の東海岸に及ぼすものであることを被害地は勿論,全世界で知った。次にはもっと早く予測して,被害を少くすべきことを痛く訓えられた。
農村では,村々の端に餓死供養塔があり,漁村の海浜には津波記念碑がある。ともにありし日の惨害を無音で語っている。これ等石塔は何を訓え,何を需め,何を語っているのか,今一応冥目して考えてみる必要があろう。
三陸津波誌は独り災害地だけのものであってはならない。東北人は以って鑑とすると共に,日本列島一億の人々は後世に備えて,その対策の資料とすべきであろう。


昭和36年5月吉日 田中喜多見

「天災は忘れたころにやってくる」とは,故寺田寅彦博士の名言でありますが,昭和35年5月24日未明におそった今回のチリ地震津波は,従来の三陸津波と異って,地震感のない無警告津波であったために,その被害は甚大であり,瞬時にして多数の尊い生命と漠大なる資材を失なってしまいました。
この大災害に遭遇した三陸沿岸の人々は,全面泥土と化した惨憺たる被災地の上にたって,ただ茫然として,なすところを知らない有様でした。
然しその後被災地住民の立上りは意外に早く,加えて県内外あげての救助と,遠く海外までも及ぶ救護の手は,驚く程厚く,そのおかげで復興は急速度で進み,約一年を経る今日では,従来にもまして立派な都市形態が形作られつつあるを見るとき,全く驚異という外はなく,関係者各位に対し深甚なる感謝の意を表さないではいられません。
そこで私共はこの際,この恐るべき津波についてつよく反省し,今後人力の及ぶ限り,これが被害から免かれ,後世に致るまで,犠牲を最少限に食いとめ,「禍を転じて福となすよう」に努力しなければならないという切なる念願から,ここに津波調査委員会を作りました。この調査委員会は,地震と津波について凡ゆる角度から,調査研究し,これを系統づけて具体的に説述して,編集し,これを一般被災地の住民に配って,津波に対しての理解と防衛の参考にしたいという事が目的であります。
調査研究の資金は,大船渡市,陸前高田市,三陸村の教育委員会と岩教組気仙支部の四者から,30万円載き,これを土台として委員会の活動に充てたのであります。又調査については,関係学校の職員がそれぞれ分担し,児童生徒は勿論,地域住宅の援助協力と,更に盛,高田,広田の三高等学校職員の御指導を得て,広く各方面の資料を得ることにつとめました。
調査の狙いとしては,チリ地震津波の被害の実態をそのまま記述することとし,ことに従来の三陸津波の資料をも取り上げて比較研究しようとしたのであります。従ってこれが内容は,地震と津波に関する理解と認識を深めさせ,津波の常襲地帯といわれるこの地域住民に対する被害を最少限に止めさせなければならないという教育的意図にもとずいたものであります。
尚細部の整理分担については,大体の区分として陸前高田地区は千葉蘭児氏,大船渡地区,三陸地区は金野菊三郎氏があたりましたし,その全体的な構想と編集については,金野菊三郎氏が当りました。殊に金野菊三郎氏は,天文学,地学に造詣深いので,この仕事を担当するや,東奔西走,自ら実地に踏査して資料を集め,文献を整理し,又それぞれ研究調査機関や学者の意見を求める等,非常な苦心をされたのであります。
ここに直接調査研究を分担された委員,資料の提供に特別なる御協力をされた住民の方々,尚又最後までこれが編集の全責任を負うて長い期間献身的な努力をなされた金野菊三郎氏に深甚なる感謝の意を表します。


昭和36年5月24日 チリ地震津波調査委員会 委員長 大和田肇

われわれは,明治29年や昭和8年の経験から,津波には何かの前ぶれがあるものと思い込んでいた。しかし,このたびは地震,音響,発光などの前兆的現象は何一つなく,海水が急に沖へ引いたとみる間にどす黒い高潮のうずが沿岸から250m〜400mの間を流動し,5m〜6m程の壁面をみせながらうねり,逆巻き,寄せてきたのである。しかも,それは,物すごい破壊力で一時に襲いかかるという様相のものではなく,未明から夕刻までいくたびとなく寄せてはかえした高潮に浸り,浮き,押し流されている間に大損害を受けたもので,陸前高田市の小友海岸,隣市の大船渡町など内湾の奥部ほど被害が甚しく,陸前高田市だけでも被害総額8億2千万円,1,413世帯の罹災数を算するに至った。
破壊流失した惨禍はただに建造物や農耕地にとどまらず,船舶,漁具,養殖施設,道路,橋梁,護岸,堤防,港湾,鉄道通信施設等多方面にわたり,名勝高田松原も白砂は三か所で溺れ谷を伝わって分断され,松も黒松だけを残して樹齢すぐれた赤松がことごとく倒伏,流失,枯損の憂目をみるなど,公共的災害の激甚さが特徴的であった。全く,恐しいことである。われわれの今日的常識からは,その予測はもちろん,浜の古老たちが「浦津波」と呼んでいるこの種の津波の襲来する事実さえも知っていなかったといえよう。
被災者の救援や施設の災害対策等については,地元はもとより,広く全国の人々,国・県の関係機関等があげて全力を傾注し,人間愛と近代的英知の相乗による復旧が行われている。しかし,津波の襲来時において実際にわれわれの対処できたことは,ただ高所を求めて逃避することであった。人類の宇宙旅行が可能であるという例証が次々にあげられている程に科学の研究が進歩している今日において,津波対策として現にあるものは,効果的な予知予報や防災施設ではなく,ただ「逃げろ,逃げろ」という消防団員の絶叫と警鐘だけでは,全く,暗然たるをえない。
そこで,われわれとしては,今回の経険から,特に,チリ地震津波の科学的研究,災害状況の調査,一般市民の体験談の蒐集,津波の歴史的考察等を通じて今次津波の特質を明らかにし,自然現象による災害の生々しい爪跡を記録するとともに,教育的資料として利用していただくことを思いたち,大船渡市教育委員会,三陸村教育委員会,岩手県教員組合気仙支部と提携して本書の編集をしたものである。大方のご利用をいただければ幸である。なお,資料の蒐集,調査研究,編集の仕事に当った各位は,本務の傍,それぞれの担当分野において献身的努力を払った結果として,当初に計画した以上に内容の充実した資料として集大成するを得たことについては,深甚なる敬意と感謝を捧げるものである。


1961年5月 陸前高田市教育委員会 教育長 斉藤栄

小学生の頃五月の節句が来る度明治29年の津波について話をきいたものでしたがその頃は何か怪奇談を聞く様な気持であつた事を思いだすのであります。
XX
しかし40年間のうちに二度も津波の恐ろしさを体験し一瞬にして変貌する様相に驚異を感じたのであります。しかも二度の津波の類型は全く違ったものであり,ますます大自然の力に驚異を感じたのであります。津波と云えば外洋に直面したV字湾の集落ときまっていたものがチリ地震津波に於いては深入した湾に面する奥地が甚大な被害を受けているということで全く虚をつかれたという形で唖然たる状況でした。学問的に探究すれば人知によって解明出来ることであっても突如襲来する災害に対する知能を動員してこの対策が確立されない限り災害から尊い人命と貴重な財産を守ることは出来ないのでありましよう。
災害を受けた当時は二度と再びこの様な惨酷な苦しみを誰人にも経験させたくないみんなで力を合せて何とかしなければならないと考え乍ら日がたつにつれてその決心もその記憶もうすらぎ恐怖も去っていつか念頭から忘れ去られて了う結果になります。
XX
「忘れた頃に災難が来る」とはよく云われておるところですが,生々しい体験が後々まで受けつがれ後世の戒めとなるように悲惨な体験の中で得た貴重な資料と綿密な調査が残され津波に対する恐怖を教えるとともに先人の経験を生かして災害防除対策が樹立されることを期さなければならないと考えます。
此度悲惨の体験の中からにじみ出た資料と調査によって貴重なる記録が発刊されることになりました。禍を転じて福となります様に後世に伝えられすべての人の協力によつて発刊の目的が生かされることを期待いたします。
チリ地震津波によって尊い生命を奮われた犠牲者の御霊に心から衰悼の意を表すると共に甚大なる災害を被った数多くの方々の再起を心からお祈りして発刊におくる挨拶といたします。


昭和36年5月 岩手県教育員組合 気仙支部長 千葉虎彦

昭和8年3月の三陸津波に実際罹災の経験を得た私は,一瞬にして生命と財産を奪う津波のおそろしさを想起し,今回の昭和35年5月24日早朝,チリ海岸に起った地震に基づく大規模な津波の襲来を目撃し又災害を見た時,再度その暴威に震感し,周期的に繰返されるこの地方の因縁をはかなく思ったのであります。
然し今度の津波は朝明るくなってから襲って来たのですから昭和8年のように真夜中に襲ったのでないから被害は少くてすみました。それでも被害は,死者107人(大船渡市だけで53名),行方不明15人,負傷791人,家屋流失破壊等31,128戸などの被害を受けたのです。もしこれが真夜中であったら被害の程度は想像以上に及んだのではないかと思われます。
津波の襲来は三陸沿岸一体に及んでおるのですが,波高が3メートルから5メートルで,外湾では2〜3メートル,湾奥で4メートルに達したといわれています。したがって被害の多い所は湾奥一湾内深く入り込んだところ一で,リアス式海岸の外部にあたるところ一荒浜といわれるところは被害は極めて少なかったようであります。この点昭和8年の津波と反対になっております。
この繰返される津波災害に対し恒久的な対策を樹立すべきは当然で,地殻気象の変動の調査研究,情報伝達の方法の研究,防潮防災施設の完備等将来幾多の問題がとり残されていると思われます。気仙地区沿岸部教育委員会,学校等相はかり明治29年,昭和8年の津波も含めて,津波の情況,被害の程度,将来の対策等調査研究し,之を将来の教育の資料とすべきことにして津波災害調査委員会を設け,科学的な研究調査がなされたのであります。そして委員会各位の御努力はここに津波記念誌の編集となって完成され,教育の為洵に喜びに堪えないところでございます。
この任務を果された学校委員,専問委員,推進委員の方々に対し深甚な謝意を表します。


昭和36年5月 教育長 三陸村教育委員会 柏陽三

津波常襲地三陸,その中央部に大きく太平洋を抱えている気仙は,先祖代々,明らかに記録のあるもののみでも,千数百年の間に凡そ30回の大小の津波を経験している。
そしてこの度,昭和35年5月24日,午前4時,誰もが始めて経験する無警告津波に襲われて,大船渡市を中心とする気仙は,またもや被災地中最大の被害を受けた。何たる因果!何たる運命の地であろうか。
天災は自然の力,人力の如何とも抗し得べからざるもの,などとあきらめ切っていたのでは,あまりにも知恵のない話である。何とかしてこの悲惨極わまる不幸と惨禍を永久に子孫から護ってやりたい,これが津波常襲地気仙人の悲願であろう。この悲願こそは,気仙に生れ,気仙に死んだ先祖代々の悲願でもあった筈である。まして過去の津波禍に犠牲となられた精霊が,歯を食いしばってこの事を念じ続けているにちがいないのである。
ここに大船渡市,陸前高田市,三陸村の各教育委員会,並に教員組合気仙支部の四者協同で,津波記念誌の編集の機を,チリ地震津波に求め,委員会を設けて資料収集に活動を始めたのが,被害惨澹として人心の動揺いまだおさまらぬ最中であった。そしてその資料収集の完成した10月,編集の総仕上げが私の手にまわって来た。
私はもとより図書編集についてはずぶの素人である。然しながら気仙人代々の悲願でもあるこの尊い仕事にも感激し,且つ目のあたり見る惨害にも憤激に似たものを覚えて,身の微力を顧みるいとまがなかった。今稿を脱するに当ってまことに笑止千万の至りである。編集事務中大方の諸先輩,殊に全く未知の学者先生方から色々の御注告や御指導を賜った事,及び多数の参考図書及び貴重なる写真を御恵贈にあずかった方々に対し深甚なる感謝を捧げる次第である。その芳名及図書名についてはくわしく編集後記に御紹介申し上げるつもりである。.
編集は目録に見られる通り,三編とし,第一編に,主として東北大学の先生方その他の先生方の調査報告を採録させていただき,第二編に,現地体験者の生の声を配した。これは収集委員の先生方のアンケート記録で,先輩諸氏,学者先生方の「生の声をそのまま採録せよ,へたに編者の勝手な整理整頓や体裁などをつけてはいけない」。という御注告を忠実に守った。したがって調査委員の先生方の記録をそのまま採ることに努力した。写真は記録の分類に従って,状況,被害,救援,に分類し,なるべくその記事の先頭に配した。
第三編は,三陸津波史とし,貞観の津波から昭和の津波まで20数度の記録を収集し,その状況を出来る限り明らかにし,その上写真絵画等も探すのに努力したが,勿論古いものは及ばなかった。なお,気仙地方に建つ記念碑及その碑文書写もつとめて遺漏なきよう努力したが,万全を期し得なかったうらみをのこした。
これを要するに,第1編と第3編は,津波を科学的に研究することに留意し,津波史の部に於いても,地震震央分布図及地震年表を採録挿入して,古記録との照合によって,遠地地震津波と近地地震津波の判別が出来るような配慮をもしてある。これによって南米及中米から押し寄せた津波が過去に於いて少なくとも9回に及んでいるのではないかという推定もなし得たのであるが,いよいよ発刊の期日が近づくに従って編者の内心はおだやかならぬものがある。願わくば大方諸彦の立派な御研究の小さな礎石になるよう祈ってやまない次第である。


昭和36年5月 編者

第2章 チリ地震津波について 研究・学説・報告

第1節 天変地異・続出のチリ

外電の伝える大地震詳報(昭和35年6月12日号週刊朝日所報)
5月24日未明,北海道,三陸地方を中心とする太平洋岸全域に襲いかかって,一瞬のうちに同胞百数十人の命を奪いさった大津波———これをまき起こしたチリ地震の惨状が,通信の回復につれ,ようやく明らかになってきた。
あいつぐ烈震,鳴動する火山,沈みゆく島々,押し寄せる丈余の高潮と,10日間にわたってチリ南半の住民200万人を恐怖のどん底にたたきこみ,地形を一変した天変地異は,まず21日未明,首都サンチャゴ南方約400キロのチラン・コンセプシオン地方を震源地として始まった。
コンセプシオン市の被害は特にひどかった。「まるで大海原に浮く小舟にいるようだった。揺れているなと思ったら,ぐらぐらっときた。駐車してあった乗用車,トラックが数メートルもすべっていった。大きいぞと直感した。午前6時5分だった。」(米地質学者セイントアマンド氏)
「恐ろしい震動に,夢中で飛び出した。だれもが着のみ着のままで,狂気のように広場へ,畑へ,森へと駆け出した。道という道が荒海のように大きくうねっている。しかも冷い雨のどしゃぶりだった。真暗な中を,古い建物が頭の上にくずれ落ちてきた。」(ある被災者)あちこちで火事が起った。どうしようもない。全壊200戸,電気,ガス,水道,通信の断絶,死者数百———これが晩秋の冷雨にたたかれ,抱きあって不安な一夜を戸外で明かしたコンセプシオン市民の被害だった。
付近の鉱山町コロネルでは全戸の半数が倒壊,ほかに周辺の10カ町村が大きな損害を受けた。電信電話が通じない上に豪雨のため被災地から連絡の飛行機も飛べないので,死者,行くえ不明は125人とひとまず内輪発表されたが,連絡のつくのにつれて犠牲数はみるみるふえていった。たが,翌22日には,より大きな不幸が待ちかまえていた。それはこの暗い日曜日の午前6時15分と,午後3時15分の2回にわたって,チリ南半全域をゆるがした裂震である。前日の強震にからくも残ったコンセプシオン市の建物はこれではとんど全滅し,付近一帯いたるところで家屋倒壊,火事,死傷など惨をつくし,レブ等の海岸地方では突如わきあがった津波に,無数の建物が根こそぎさらわれていった。


空前の被害
しかし,この日の最大の被災地はサンチャゴから約1000キロの,プエルトモント,アンクード両市を中心とする南部一帯だった。チロエ島の州都アンクードでは激震のあと,急に5,600メートルほど潮が引いた。と,みるより早く10メートルを越える大津波が海岸ぎわに襲いかかり,ありとあらゆる建物を粉砕し去った。
これが三回くりかえされた後,同市の大半が深さ5メートルの海水につかり,死者行くえ不明100人,家屋倒壊全戸の60%の惨害をうけていた。
津波による死者行くえ不明は,主なもので,ケウレン村の住民800人中630人,アレタ村100人,カレランプ村に至っては全人口850人がすべて死ぬというひどさである。
一方,プエルトモントのある被災者は地震のすさまじさをこう語っている。
「あんなに忍うしい目にあったことはなかった。全市が恐怖におおわれた。道路はふくれ上がり,建物はがらがらとくずれ落ちた。通りへ駆け出したが,とても立っていられないほどだった。石や瓦がふりそそいでくる中を,揺れる舗道で踊っているようなものだった。親類も友達もたくさん死んだ。私だけでも少なくとも35の死体を見た。全市は廃虚となってしまった。」
25日には,チロエ島にふたたび強震があり,アンクートは全滅にちかい打撃をうけた。21日未明以来4回にわたる激震———いずれも関東大震災と同じくらいのエネルギーの烈震によって,チリ南部は壊滅的打撃をうけた。
「コンセプシオン,アンクード,プエルトモントのように被害甚大な市町村は,復興というより,全部新しく建設した方がいいだろう」という外務次官の言明によっても,想像を絶する災害の一端がうかがわれよう。
当初4日間の損害は推定3億5千万ドル(約1千3百億円),26日現在の死者,行くえ不明は推定6千人,被害者は50万人とみつもられている。しかも余震はまだやまず,29日にも相当の激震があったと外電は伝えてる。


「地獄編」さながら
いまだに交通の途絶している辺地からの難民の話によると,飢えに狂った野ネズミの大群が,放りっぱなしの人間の死体を食いつくし,黒山のかたまりとなって食糧庫に襲いかかったという。各地でチフス,天然痘,コレラ等発生の危険もある。政府筋は否定しているが,すでに20人くらいの火事ドロボウや,地霞ドロボウが射殺されたという。
激震,しかも広範長期という点で,地震観測史上空前といわれるチリ大地震の被害は,まだまだ大きくなるかもしれない。
チリ大地震には,旧約聖書やダンテの神曲「地獄編」にみられるような,数々の変異がともなった。津波があった。南アンデス火山系の全火山が活動しだした。25日,首都サンチャゴで急に温度が下がったかと思うと,空は紅紫色にかわり,濃い霧が立ちこめるという不思議な現象が起こった。
サンチャゴ以南の地形は一変した。西南岸に点々と連なる1万5千余の小島の多くは水浸し,新たに無数の小島が浮び出してきた。そのため新しい海図ができるまで,マゼラン海峡への航行は危険になったといわれている。湖の水位が不気味に上昇し,いたるところに地すべりが突発した。
ブイエウエ火山が突然爆発,7千メートルの沖天に巨大な火柱を噴き上げた。オソルノ火山も地軸をゆるがして鳴動,何千何万トンの土砂をふらし,溶岩は山腹をのたうち流れた。このためにもまた死傷者が出た。両火山の中間地帯の全住民がいそいで避難した。一ダース近い新火山が生れた。
ある目撃者は新火山創生記「の一節を次のように語っている。24日正午だった。バルジバ北方のリニウエ川沿いの広大な地面が動き始めた。空は急に暗くなった。万雷のような恐ろしい地鳴りとともに,地面が物すごく熱くなってもり上り,ついで,がくんと落ちた。あたりの木という木はみんなめらめらと燃えあがり,数分のうちに灰になってしまった。その時,長さ45キロ,幅5キロはあろう深淵がぽっかり口をあけた。とみると,奈落の底から溶岩と火山弾と煙と火の巨大な柱が,8千メートルの高空に噴き上がった。70キロ以内の一帯は,火山灰におおわれた。新火山が生まれたのだ。


(編者註)
河北新報社地球縦断隊が,北米アラスカから国産の自動車を馳って.南米チリのバルデビヤまで,殆んど地球を縦断するという大事業を企て,これに成功し,六月中旬遂にバルデビヤに河北新報社旗を飜えしたのであったが,その報告講演と映画の会を大船渡市役所会議室に開催した時,市に寄贈したのが上掲の写真である。たまたま5月24日には故国の奥羽大平洋岸が音無しの大津波に大被害を受けたその本家本元に乗り込んだ地球縦断隊が,その惨状に目を覆ったというのである。
上記の文中,大地震と大津波の二重の災害に家を跳び出したチリの人々は,晩秋の冷雨に打たれて一夜を明かした。とあるが,大船渡の5月24日は晩春の好天に早や青嵐かおる初夏を迎える時であった。地球の正反対にある日本とチリとではこうした大きな季節的ズレのあることを身近かに認識させられたのも津波と地震のお陰だと思うと何と皮肉なことであろう。
我が大船渡市は,北緯39.°5,チリのコンセプシヨン市は,南緯37.°8
また大船渡市は,東径141.。7チリのコンセシヨプ市は,西径73.。0とすると,赤道を中心として殆ど南北に対称の位置緯度にあり,また経度から見れば,地球のあちら側とこちら側の対称的な面に位置するから日本とチリ,殊に大船渡とコンセプシヨンとは全く正反対に地理的な位置をもつということになる。この正反対な両地,言い換えれば地球上で最も遠い位置にある両地を,事もあろうに津波の配達夫が最も近く結んでくれたのであるから,これもまた甚だしい皮肉な事であった。
盛岡地方気象台の加藤課長さんの概算によると,彼我の距離は,17,085km,津波の第一波の到達時刻を24日の2時47分とするとその所要時間は,22時37分で,これから,計算すると津波が直線的に進んだとして,その速度は秒速210mとなるということである。
コンセプション市は,1751年3月25日と,同年5月24日とニヵ月の中に二回の大津波にあい,遂に全市を高台に移転した町で,これもまた大船渡市に似た津波常襲地という有りがたくない代名詞で通る町であった。しかし全市移転後は,おそらくその後の津波は高見の見物という事で過したことであろうが,移転して丁度210年目の今回は上記の様に地震の惨害で潰滅したというのであるから,よくよく因果なところである。我々は自分の被害に放心していたのだが,チリ—各地の被害は,とてもとても,正反対側の被害どころではなかったらしい。いやな事で縁が結ばれた事になるが,チリー国と日本とは同病相憐んで,何とかこの惨事を子孫に及ぼしたくないものである。
上記チリ情報では,21日と22日の二日にわたって大地震があり,22日の大地震で急に5〜600mの引潮となりやがて大津波になったと書いてあるが,チリの21日は日本の22日で,チリの22日は,こちらの23日である。従ってチリの日付で日本の日付の2日前ということは,実は日本の日付では1日前ということになる。これも地球のあちら側とこちら側の正反対に位置する為の結果である。今日本の夏至の日について.日本とチリとを比較すると.


日本……昼の長さ 14時間35分 夜の長さ 9時間25分
チリ……昼の長さ 9時間25分 夜の侵さ 14時間35分


凡そ上記の様になっていて,これも亦正反対である。従って,日本の夏至は,チリの冬至,ということになる。
チリの震災一周年が過ぎて愈々6月にはいり,冬至を迎えようとしている。雪も降りだしたであろうが,復興は果してどの程度に進んだものであろうか。よそ事として平気ではいられないような近親感を覚えるのも津波がとりもつ縁というものであろう。

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地図 大きくうねる道
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写真 チリ国バルデビヤの震害(河北新報地球縦断隊提供)
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地図 世界大地震分布(1.900年から1.949年まで)

第2節 チリ地震津波速報(気象庁)

1 まえがき
昭和35年5月23日4時11分(日本標準時)南米のチリ沖に大地震が起った。この地震は松代地震観測所をはじめ全国各地の気象官署の地震計に23日4時30分ごろからやく3時聞半に亘って異常に大きく記録された。松代地震観測所で推定した結果は,この規模は8*3/4で,世界最大級の地震であり,近年わが国付近に起った最大の地震である昭和8年3月3日の三陸沖地震(規模8.5)と同程度あるいはそれ以上のものであった。
この地震がもしも海底で起っているならチリ付近では当然に津波が起っているはずであり,それは太平洋を横切って,約17.OOOkm距てた日本にも何らかの影響を及ぼすであろうことは推定に難くない。計算によればその到達時刻は,地震が起ってから約22時間ぐらい後,すなわち翌24日午前2時半ごろと推定さ乳た。然し過去においてチリにはしばしば大地震が起っておるけれども,地震の器械観測がはじまって以来わが国に被害を及ぼすような津波が日本に襲来した事例はなかった(第3表および第4表参照)。然し今回の場合には北海道から九列南部に至る全太平洋沿岸に大きな被害を及ぼすような波が襲来した。
今回の津波に関して,ハワイ地磁気観測所より,地震後,その情報並びに同地域に対する津波警報が出され気象庁にも通報された。このことが十分に活用されず予報のおくれたことは,関係者一同の知識の足りなかったことと,経験が足りなかったために津波強度を過小に推定したことによるもので誠に遺憾に堪えない。
ハワイの津波情報を活用し得なかった理由は,従来遠地地震によっては,ハワイに相当の津波があっても,日本への影響は小さいのが例であり,今回の情報のみでは日本にこれほどの強い津波の伝ぱすることが推定できず,したがって津波警報を発令することに踏み切れなかったことによる。
従来気象庁における津波予報の組織や設備は日本の近海に生じる大地震を目標として作られており,技術的にも専らこのような日本近海の地震に対する対策が研究されており,今回のような超遠距離の地震による津波に対しては経験がなかったため,その研究および対策が十分とられていなかった。
今回の貴重な経験に鑑み,今後は,このような非常に遠い所に生じた地震による津波についても,迅速適切な津波予報が出し得るよう,気象庁においては日頃の体制を整えるとともに,これに必要な国内および国外の観測資料の確実なる入手について努力する所存である。


2 チリ地震概報
昭和35年5月21日19時02分(日本時間)にチリにかなりの大地震があって以来,今日まで第1表に示すように多くの地震が起っている。このうち,津波による被害をわが国に及ぼしたものは,5月23日4時ll分(日本時間)に起きたものである(表中に本震と記してあるもの)。その震源地はチリ海岸ConcePcionの南西沖,南緯37°西径74〜75°の地点と推定され,震源の深さは浅いようである。松代地震観測所で暫定的に推定した規模は8*3/4であるが確実な規模の大きさの決定は今後の調査を要する。比較のために過去における,おもな地震の規模を第2表にかかげる。これによると津波は主として日本の太平洋沿岸の海底地震によって起っており,平均的にいえば津波は数年に1回の割合で起っている。
なお,過去にチリ,ペルー付近におきた大地震は第3表の通りで,また,過去に南米におきた地震で津波を伴ったものは第4表の通りである。


3 津波予報
チリ地震津波に関して,気象庁において担当区域に発表した津波予報の発令時刻,解除時刻,予報文は第5表の通りである。


予報文の解説
ツナミオソレ:津波が予想されますが,現在までの資料では津波の高さが予想できません。
ヨワイツナミ:小津波が予想されます。予想される津波の高さは,高い所で3〜4mに達する見込みですから,特に津波が大きくなりやすい所では警戒を要します。その他多くの所ではlm程度の見込みです。
備考:津波の高さとは,その津波によってその時の自然潮位が増水した高さで,1mの津波の高さとは,その時の潮位がその津波によってlmだけ高くなったことを意味します。津波の高さとして全振巾が報告されておりますが,これは,津波で海面が高くなったところを山とし,低くなったところを谷とすれば,この相隣れる山と谷,谷と山の水位差のことで,この全振巾のだいたい半分が津波の高さということになります。
津波訓練について:各管区気象台では,関係各機関,沿岸市町村と協力して,毎年1回,津波予報の発令、伝達、住民の避難等の訓練を行っている。今年は仙台管区気象
台では3月3日,札幌管区気象台は3月4日に行なった。


4 津波情報
気象庁においてチリ地震津波情報として24日以後に発表した津波情報は,次のとおりである。


津波情報第1報
昭和35年5月24日午前5時20分
気象庁観測部発表
23日午前4時ごろチリ中部海岸におきた地震により,日本の太平洋沿岸では弱い津波があります。なお,北海道および三陸沿岸では津波の勢力が集る関係で,相当な津波になるおそれがあります。


津波情報第2報
昭和35年5月24日午前7時00分
気象庁観測部発表
南米チリ付近の地震による津波は,目下日本の太平洋沿岸の各地に来襲中でありますが,この津波は,なお数時間つづくものと思われますので警戒して下さい。


津波情報第3報
昭和35年5月24日午前9時15分
気象庁観測部発表
昨23日午前4時ごろ,南米チリ中部の海岸におきた地震により,日本の太平洋沿岸に津波が襲来しておりますが,今後の見通しは,なお,多少の消長を繰り返えしながら,本日夕刻ごろまで継続する見込みであります。


津波情報第4報
昭和35年5月24日午後2時00分
気象庁観測部発表
今朝から始まっている津波は多少の消長を繰り返えしながら次第に減少していますが,まだ,相当勢力が残っておりますので,今日午後の満潮時には充分注意されますようお願いします。なお,今夕の満潮時は北海道,三陸海岸では午後3時半前後,東海道沿岸では午後4時から5時半頃,南海道から九州では午後6時前後になります。


津波情報第5報
昭和35年5月24日午後11時55分
気象庁観測部発表
チリ沖の大地震による津波は,その後次第におとろえており,九州,瀬戸内海沿岸では津波警報はすべて解除されましたが,四国から北海道に至る太平洋岸ではところにより,なお,1ないし2mの津波があり,引続き警報発令中です。


津波情報第6報
昭和35年5月25日午前3時30分.
気象庁観測部発表
チリにおきた地震により,24日未明から日本各地に襲来した津波は,三陸沖を除き最早危険状態を脱したと思われます。
なお,今後も海水の異常は続きますから注意して下さい。


津波情報第7報
昭和35年5月25日午後書時00分
気象庁観測部発表
きょう午前8時20分ごろ南アメリカチリ国に地震があった由報道されていますが,この地震の日本における記録にもとずき地震の規模をはかりますと,6程度でありますので,日本まで襲釆するような津波は起らないと思、われます。流言にまどわされぬようにして下さい。


津波情報第8報
昭和35年5月26日午前10時40分
気象庁観測部発表
25日午後S時30分チリでまたかなりの地震がありまし1た。これにより,あるいは海面異状があるかもしれませんが,前ほどのことはないものと思われます。もしあるとすれば,日本にくるのは,午後3時頃と推定されます。なお,ハワイからの報告によれば,東部太平洋上の島々では,すでに海面異状を観測しておりますが,いずれもわずかなものであります。すなわち,バルボアで15cm,ラホヤ変化なし,クリスマス島5cmでありまして,ハワイのホノルルでは,津波到着予定の8時頃までには何も異状を観測しておりません。ただし,気象庁では目下引つづき監視をしており,さらに情報入手次第逐次お知らせしますから,今後の情報に注意して下さい。


津波情報第9報
昭和35年5月26日午後0時40分
気象庁観測部発表
その後,ハワイからの入電によれば,現在のところ異常はなく,ハワイ島の津波警報は10時28分に解除された由です。
日本においても,同じく異常を認めず,目下のところ心配はない見込です。しかし,気象庁では海面の監視など,万全の注意を払っておりますから,今後の気象庁の津波情報発表に注意して下さい。


津波情報第10報
昭和35年5月26日午後3時00分
気象庁観測部発表
昨夕5時30分ころのチリ地震による津波の影響は,今後ないものと推定されます。なお,午後2時現在,近海の海面は,24日の大津波の余波が引続き残っており,この状態はしだいに衰えながら,なお数日続くものと思われます。したがって,ここ数日間は海岸での作業や潮干狩はなるべく避けた方がよいと思われます。


〔津波の名称の発表〕
昭和35年5月25日午後3時30分
気象庁観測部発表
24日未明から日本沿岸に襲来した津波を,チリ地震津波,と呼ぶことにします。


〔地震の規模6の解説〕
昭和35年5月25日午後3時45分
気象庁観測部発表


本日午後3時発表の津波情報で使いました地震の規模6とは,大体大正12年9月1日の関東大地震の100分の1程度で,この規模の地震が日本近海に起きたとしましても津波の発生がないほどのものであります。


5 各地における津波概況
全国の海岸に気象庁管轄の検潮所があり,検潮器を備えて毎日の潮の干満を自記せしめており,この自記紙を毎日1回取りはずして気象官署に持ち帰って読みとりを行っている。当日のこの自記紙を後になって読みとった結果を第6表に示す。検潮器記録を速報として調べた結果によれば,第6表に示すように,日本を襲った第1波は一般に弱く,もっとも早いところで大体2時30分前後と報告された(第1図)。
北海道から房総半島にいたる太平洋岸は,多少の時間差があるが,2時30分前後から3時15分までで,これより南の太平洋岸では,これより平均1〜2時間遅れて到着している。
第1波の初動は引きのところもあるが,大部分は押しのようである。
最大波の振幅およびその到達時間は,各検潮所のある場所付近の地形および海深の影響を受けるので,一様には述べられない。到達時間の最も早いところは大島2時50分,次いで浜松(3時25分),横浜(3時40分),宮古(3時44分)などであるが,だいたい北東日本では4時〜6時に現われ,南西日本では5時以降に現われている。
最大振幅(ただし全振幅)は石巻(雄勝)で600cm,八戸580cmその他三陸沿岸が大きく,次いで北海道の大平洋岸が大きいが,南西日本でも高知,潮岬,尾鷲などは大きく,いずれも300cm以上を観測している。したがって,実際にこの最大振幅の起った際に海面の昇った高さは,そのときの天体潮に,この最大振幅の約半分を加えた高さである。
今回の津波は日本海沿岸にもかなり影響を与えており,浜田および舞鶴ではいずれも最大全振幅30cmを記録している。
津波の到達してより減衰するまでの詳細の経過については後日の調査に待つこととするが,第3図はその一部を示すものである。第3図は全振幅とその到達時刻を画いたものであるが,24時間後でもかなりの振幅を記録していることが見られ,チリ地震における津波の規模がいかに大きかったか看取される。
従来の検潮器は主として毎日の潮の干満(天文潮)と気象異変例えば台風による高潮などに対する研究資料を得るために作られており,津波予報のための情報を入手するという目的では設計されていなかった。津波の恐れのあるときに海岸にある検潮所に出て行くことは著しく危険であり,実際には不可能であったからである。然し最近の電子工学の進歩はこれらの困難な問題を解決しうる見込みがあるので,将来は津波の情報が気象台,測候所において器械的に入手できるような方策を研究する必要がある。


6 過去における津波の表
1872年(明治5年)以来日本に襲来した津波(被害のない程度のものも含む)は第7表に示すとおり60回に達している。このほか,検潮器に微弱ながら記録された程度のものも相当数あるものと思われる。
これらの津波のうち,被害のとくに大きかったものを第8表に示す。
これによって,日本で被害を生ずる地震津波は,ほとんどが日本の近海の大地震によるものであり,次にカムチャッカ,アリューシャン方面海域によるものであって,それより遠い海域に起った大地震によるものはほとんどない。しかし,今回のチリ地震津波の勃発にかんがみ,今後は近地地震はもちろん,遠距離のものについても,津波の有無,強度等について,十分監視できるような体制を確立することが必要である。


7 被害概況
チリ地震津波による被害は北海道根室から鹿児島県奄美大島に至る本邦太平洋岸の1道16県にわたっている。5月25日6時現在警察庁がまとめた被害は第9表のとおり,死者100,行方不明85,負傷者855,全壊流失家屋2,944,床上浸水23,322,罹災者147,898,罹災世帯31,120となっている。その他,船舶の沈没,流失,破損,鉄道,通信施設,工業,漁業施設の被害,田畑の冠水,木材,真珠養殖いかだ等の流失なども相当の量に達している。
5月25日10時現在,災害救助法が適用された市町村は次のとおりである。


北海道:浜中村
青森県:八戸市
岩手県:大船渡市,陸前高田市,釜石市,官古
市,大槌町,山田町
宮城県:気仙沼市,石巻市,塩釜市,志津川町,
雄勝町,牡鹿町,女川町,唐桑町,七ケ
浜町
三重県:尾鷲市,南島町,海山町,紀勢町,長島
町,南勢町
和歌螺:田辺市,和歌山市,海南市,白浜町
徳島県:阿南市
高知県:須崎市
宮崎県:南郷町
鹿児島県:名瀬市,笠利村


〔地震用語の説明〕
地震の規模(マグニチュウド)と震度についで普通にいう「地震の大きさ」という言葉は2通りの意味に使われている。一つは地震そのものの大きさ,つまり地震が放出する全エネルギーに関係したもので,これを規模(マグニチュード)という。いま一つは,地震の時のある地点でのゆれ方の激しさで,これを震度という。したがって,一つ地震があれば,その地震による震度は震源地に近い程大きく,遠くなれば小さくなる。たとえば,チリ地震による東京の震度は0(つまり人体に感じなかった)であるが,チリでの震度はVII(日本の階級の激震)と推定される。


一方,われわれが東京で毎月数回くらい感じる地震がある。これは人体に感ずる以上,東京ではチリ地震よりも震度が大きいことになるが,地震そのものの大きさ(つまり規模)としてはチリ地震に比較にならないほど小さなものである。
規模はMで表わされ,万国共通の尺度で測られ,世界で最大級の地震はM=8.5〜9と考えられている。東京でときどき感じるような地震のMはふつうM=5前後のものでM=3以下になると震源地でも人体には感じられないが,地震計はもちろん更に小さなMの地震まで記録できる。Mが1少くなると地震のエネルギーはやく30分の1になる。
つまりM=8の地震はM=7の地震の約30倍のエネルギーを出す。今度のチリ地震のMを8.8とすると,そのエネルギーは10^25エルグ程度と考えられ20メガトンの水爆10個分に相当する。震度については外国では主としてメルカリ式を用い,日本は日本式を用いている。この両者は次のような関係にある。


震度と規模がときどき間違って報道されることがあるから注意しなければならない。

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第1表 チリ地震前の主なる前震および余震の表(5月28日24時までに日本で観測されたもの)
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第2表 おもな日本付近の地震の規模
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第3表 Chile,peru付近の大地震の表(1900年〜1959年)(M7,5以上または被害を伴った地震)
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条4表 南米における津波地震表
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第5表
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第6表 日本各地の津波第1波および最大波の観測値
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地図 津波第1波の到達時間(験潮器の自記記録から後日読みとつたもの。)
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第7表 日本における津波地震表(1872—1959)
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津波の階級についての説明
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第8表 過去の大津波地震の被害表〔1872(明治5)年以降〕
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第9表 チリ地震津波による被害発生状況(5月25日06時現在,警察庁調べ)
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第9表 つづき(5月26日06時現在,警察庁調べ)
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震度のメルカリ式と日本式との関係

第3節 チリ地震津波に関する研究,学説,報告

1.チリ地震津波について 加藤愛雄*

緒言
昭和35年5月23日4時15分頃(日本時間)にチリ国の中部西海岸でマグニチュードM=8*3/4という今まで世界で記録されたなかでは最大の地震が起った。(地震の震度を表すマグニチュードというのはある地震の震央から100kmの所で記録した特定の地震計の記録の振巾の常用対数をもって表はしている。)この地震は今まで世界で経験された最大の地震である。
この地震はこの5月23日以前数日前から可成り大きな前震があってこの日も4時15分頃の地震に引きつづいて15分位後にまた大きな地震が起っていて両方の振動が重なっている。津波を起した本震は後者の4時31分に起ったものである。
この地震の初動はチリと日本の間を約20分で到達している。
この地震に伴う津波は三陸沿岸には5月24日、2時50分頃到着した。従って日本とチリの距離約16,600kmの間を約22時間で到着したことになる。
地震に伴う津波は明らかに地震に伴って海底地形の変動によって起された所謂重力波であるのでその伝達速度vは√g.hで表される。ここにgは重力の加速度hは伝って来た途中の海の深さで平均h=4,000mとすると速度は秒速約200mでほぼ実際と一致する。三陸沿岸での波高は湾外で約2m位であうと推定されるのであるが湾奥では2〜3倍になっている。
今回のチリ地震津波の特徴はその周期が非常に長いのであって,昭和8年または明治29年の時の三陸沖地震に伴う津波ではもっと短周期の振動が含まれていたことに比べて今回の津波の著るしい特徴である。またチリに起った地震に伴う津波は決して今回が初めてではなく過去に3回も起っており,1868年8月13日(明治元年)及び1877年5月9日(明治ll年)に何れもチリ西海岸沖に起った地震によって,北海道及び三陸地方に津波が来襲した。前者の地震に伴った津波は8月15日函館にいた船長T,Blakistonが波高3mの津波を観測してその状況を地震学者のMilneに報告書を書いている。
後者の津波は釜石で同様波高3mの津波を観測した。このチリ地震に伴つた津波については,故東北大学教授本多光太郎博士が詳細な報告を既に1906年に震災予防調査会欧文報告に書かれている。従ってチリ地震によって北海道及び三陸沿岸に津波が来襲する事は当然考慮されねばならない事であったもので,今後の恒久対策を立てる上にも注意されねばならない。


過去における三陸津波の歴史
三陸沿岸が津波の常習地であることは改めていうまでもなく極めて常識的の事であるが,三陸津波に対して,その地震の震央の分布なら考えて次の様に分類する事が出来る。


〔I〕三陸沖地震に伴う津波,三陸地方で最も警戒すべきつなみであるがこの場合でも三陸沿岸に比較的近い所に震源を有するものと,百数十粁沖の日本海溝の西斜面に震源を有すうものとに分けられる。
A 百数十粁沖に震源を有するもの。明治29年,昭和8年の大津波はこの中に入るもので規模も非常に大きく大被害をもたらすものである。この場合震央の位置と湾の開口の方向によって被害の程度に差がある。
B 三陸沿岸の数十粁以内に震源を有するもので地震は大きくてもそれに伴う津波はそれ程ではなく震源に最も近い海岸で若干の被害のある程度である。
〔II〕十勝沖並びに千島沖地震に伴う津波これは三陸沿岸でも可成りの被害を受けることがある。少なくともカキイカダ等の被害はまぬかれない。
〔III〕カムチャッカ沖地震に伴う津波これも前者と同じ程度で三陸沿岸で可成りの被害が生ずる。
〔IV〕チリ西部海岸沖地震による津波長周期の津波で三陸沿岸で比較的大きな湾の湾奥での被害は著しく大きくなる。今回の津波はその典型的なものである。


過去の三陸地方の津波を上記の分類によってあげて見ると次の表に示す通りである。


〔I〕—A 869年7月13日 三陸沖,大津波
1611年7月2日 三陸沖,大津波
1677年4月13日 (陸中南部沖),中津波
1793年2月7日 陸中沖,中津波
1896年6月15日 三陸沖,大津波
1897年8月5日 三陸沖,小津波
1933年3月3日 三陸沖,大沖波
〔I〕—B 1616年9月9日 陸前沖,小津波
1861年10月31日 陸前,陸中沖,小津波
1938年ll月5日 磐城沖,小津波
〔II〕 1640年7月31日 北海道沖西部,小津波
1782年8月23日 エトロフ島沖,小津波
1843年4月25日 北海道沖東部,中津波
1856年8月23日 北海道沖西部,中津波
1893年6月4日 色丹島沖,小津波
1894年3月22日 釧路沖,小津波
1918年9月8日 エトロフ島沖,小津波
1918年ll月4日 エトロフ島沖,小津波
1952年3月4日 十勝沖,中津波
1958年ll月7日 エトロフ島沖,中津波
〔III〕 1952年ll月5日 カムチャッカ沖,中津波
〔IV〕 1868年8月13日 チリ西海岸沖,中津波
1877年5月9日 チリ西海岸沖,中津波
1906年8月17日 チリ西海岸沖,小津波
1960年5月24日 チリ西海岸沖,大津波


上記の表に示した様に三陸地方沿岸は単に三陸沖の地震による津波のみならず千島カムチャッカ沖の地震による津波,更に今回の如く遠くチリ国西部海岸沖の地震による津波によって甚大な被害を生じている。
この事は三陸地方が三陸沖の津波を起し易い地震の震源に近い事の他に今回のチリ津波による被害でも明らかなように三陸沿岸の海岸がリヤス式海岸である事のために宿命的にその湾奥では津波の波高が高くなって甚大な被害を受ける事になる。この事は三陸沿岸にとっては誠に宿命的の事であって沿岸住民にとって誠に気の毒に堪えない所であってそのためにも恒久的の対策が望まれるのである。


チリ津波の特性
今回のチリ津波と昭和8年の三陸津波とを比較するとその特性が堪だしく異なっているのに気がつく。
付図1は宮城県女川町にある東北大学地磁気観測所に於て記録した験潮儀の記録であるが途中でスケールアウトして全部の記録が取れなかったが最大波高は目視観測で得た値を記入してある。
記録で解るように周期が非常に長いことが特性であるが遠地地震による津波であるので短周期のものは減衰して長周期のもののみが伝播して来たものである。
付図2は,宮城県追波湾月浜において記録した験潮儀の記録について昭和8年の三陸津波と今回の津波についてその周期と振巾を取って比較したものである。
図に明らかなように昭和8年の場合10分程度の周期の波が可成り卓越しているに反して今回の津波は30分から40分の周期のものが卓越している。
付図3は,宮城県江の島に於て記録した東京大学地震研究所の津波計の記録と女川町における上記の記録から潮汐を取り除いた津波解けの波形との比較である。
江の島は女川湾の丁度湾外最先端にあるのでこの二つの記録は湾外と湾内の比較を示すいい材料である。
即ち女川と江の島までの距離を12.5kmとし平均の深さを40mとすると津波の速度はこの附近で秒速約20mとなり女川と江の島の間の伝播時間は約10分となり,付図に明らかなように観測とよく一致する。又女川湾の固有振動を出すために簡単に矩形とするとその周期は4l*√ghで表わされる。lは湾の奥行きである。lを女川の場合約9kmとすると固有周期は約30分となる。湾奥での波高を決める湾の振動は外から来た波による強制振動と湾の固有振動との合成でその振巾は前者の周期が後者の2倍の時は合成された振巾は計算によると2倍であり,且つその周期は外の波の周期に等しい。いいかえると湾奥では湾外の2倍の振巾になる。付図でも解るように女川湾の湾奥での波高は約4mで湾外の約2倍であり実測結果とほぼ一致する。
この事は宮古湾,広田湾,気仙沼湾,志津川湾,女川湾等に何れも共通した事であって,何れもその湾奥で波高が最大となっている。この事は昭和8年,明治29年の三陸津波と対照的であって,後者の場合,津波の湾外での周期に短周期のものが含まれている事のために比較的外洋に直接面している各々ののV字型の湾,例えば綾里湾或は田老湾等で最大の波高を有し且つ湾の開口の方向と震央の方向との角度即ちその湾で震央の方向に湾の開口、の方向が一致しているか或はそれからはずれているかの度合によって波高の振巾が著しく変っている。
昭和8年の震央が明治29年の震央に比較して南に下っている事だけでも宮城県北部沿岸で後者の津波の波高が高くなっている。
以上の事から三陸沿岸に来襲する津波として,昭和8年の三陸津波と今回のチリ津波とは対照的のものであって,この両者の津波に対して対策を立てるならば,三陸沿岸に対してはほぼ充分であうと思われる。
昭和8年或は明治29年の津波の経験によって田老町等に模範的の防波施設がほどこされたが,この両者の津波で比較的被害の少なかった大きな湾の湾奥で適切な対策がなされなかった場所に今回は大きな被害がもたらされた。従って今回のチリ津波における被害地の被害状況を解析して適切な処置をすると共に,たとい今回のチリ津波による被害の比較的少なかった直接外洋に向いている湾に於ても予想される三陸津波に対してこの上とも万全の対策を立てちれる事を希望して止まない。
尚,三陸沖日本海溝西斜面は地殻構造上全く不安定な構造を有している事は地球物理学上明らかな事であって,この不均衝の場所に将来も必ず三陸沖大地震が起り得る事は明らかな事でありしかもこの場所に大地震があれば必ず大津波を伴う事も明らかである。
この意味で三陸沿岸は宿命的に津波の経験を繰り返えさざるを得ないのであって,その対策を恒久的に速やかに完成される事を望んで止まない。


*東北大学理学部教授理博

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付図1
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付図2
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付図3
2.チリ地震津波の特異性と問題点 —特に三陸沿岸を中心として— 渡辺偉夫*

1 まえがき
昭和35年5月24日早朝,日本列島を襲ったチリ地震津波は太平洋沿岸一帯において死者,行方不明合せて140名前後を含む莫大な被害を与えた。中でも三陸沿岸では津波の波高において日本の太平洋沿岸で最も高く,場所によっては5m以上の大津波となって死者,行方不明も合計120名に達し,日本における被害の大半を占めるに至った。従来からも三陸沿岸は津波の常襲地帯としてよく知られているが,所謂三陸沖地震津波による場合に比べると今回はかなり異った様相を示したため,従来採用されてきた津波対策に色々の欠陥を生じた。そのため吾々は原因を明確にし,その実態を究明するため凡ゆる方法で資料の蒐集を行い,整理解析を現在実施中である。
勿論最終的にまとまっていないが,現在まで得られた資料からも津波発生直後疑問と思われたことが或程度明確になったが,一方その当時専門家と称せられる人達が発表された意見の中にもかなり疑問な点も生じてきた。
以上の点を中心に現在迄得られた資料の中からいくつかを使い,とりあえず若干の特異性と問題点をほりさげて考えてみることにする。おことわりしておきたいことは先に述べたように完全に資料がまとまっていないことや,時間的制約のため中間報告どいった形を取らざるを得なかったことである。最終結論を出すための本質的なつっこんだ議論や理論的な方面については充分時間をかけて考えてみたいと思っている。


2 三陸沿岸および函館に影響を与えた南米地震と津波の規模との関係
津波発生直後今回程度の津波の規模を予想し得たかどうかという議論がかなり行われたが,筆者の見るところいずれも客観性を欠く傾向にあり,決して本質的なものではない。そこでこの問題を明確にすることを含めて最初に取りあげてみた。
先ず過去において三陸沿岸および函館に影響を与えた南米地震津波を第1表に1覧表にした。これには出来る丈多くの資料や文献を照合し,最も確実であると推定されるもののみである。若しこれ以外に、あったとしても津波としてはかなり小さい規模のものであって,吾々が問題にしようとしている今回程度の津波があったかどうかという議論には影響はない。又南米地震津波の影響は決して三陸沿岸や函館に限るわけではなく,日本の全太平洋沿岸に何らかの影響があるわけであるが,資料の関係と前に述べたように両地域以上に他の地域では恐らく大きな影響はないだろうと考えられるので,議論の中心を両地域のみに限った。
第1図に第1表の地震の震央を記入した。但し1900年以前のものについて正確な資料はないので,地震の被害から推定した大体の位置である。
第1表と第1図から次のことが分る。


i)震央はNo.1とNo.7aを除いて殆んどチリーであるが,地震の規模(Magnitude:第1表のM)はNo.9を除いて8以上で,大体今回と同程度と考えられる。
ii)しかし津波による何らかの被害はNo.2からNo。6の5回に限られている。
iii)今回の場合と震央がかなり近いものはNo.3とNo.4であるが,津波現象の記事はNo.3が類似している。
いずれにしても津波の規模ははるかに小さい。
iv)No.6は函館においてかなり影響があったにもかかわらず,三陸沿岸で記録がないのはいささか奇異である。しかし今回に比較してもかなり小さい。


結局今回の如き大きな津波は吾々の得た資料からは見当らないといってよい。しかし地震の規模は決して今回より小さいということはいえない。特にNo.7aのMは8.6という数少い世界最大級の地震であるにもかかわらず,津波は検潮記録にとどめているにすぎないというのはどうしたことであろうか。
この外に問題になる重要な事実がある。チリ大学のC.Bobillierの論文には1562年より1932年で地元チリで破壊的地震により被害を伴った大津波として12回あげている。この中にNo.2,No.3,No.5,No.6およびNo.8は明確に指適しているが,No.7bとNo,9は除かれている。この外の7回は1562年,1570年,1575年,1604年,1657年,1819年,1835年であるが,吾々の知っている文献や資料からは津波の記録を見出すことは出来なかった。更にT.A.Jaggarの論文によるとNo.4はハワイで相当の被害を受けたといっているが,C.Bobillierの論文には見当らない。このような事実からチリで大津波が発生するような地震があっても必ずしも日本沿岸に大津波となって襲来するとは限らないし,又逆にチリで大した津波でなかったが,ハワイや日本沿岸ではかなりの津波となったということが出来る。チリ地震津波で問題になっていることは三陸沖地震津波の場合にも類似した事例がある。昭和8年(1933)と明治29年(1896)の場合とで地震の規模は津波の規模と全く逆に,後者が前者よりかなり小さく評価されている。ここで注意すべきことは単に大津波といっても,昭和8年の場合と明治29年の場合とでは同じ言葉でいわれているが,後者は前者よりはるかに大きい。従って厳密に論議する時は区別しなければならないだろう。昭和8年の場合日本からチリに到達した津波はチリのIquiqueの検潮器には全振巾30cmを記録したにすぎない。
このように考えると事実は極めて複雑で,地震の規模,から簡単に津波の規模を決めることは出来ない。しからばこのように複雑な原因は何であろうか。それには次の4つの要素が考えられる。


1)地震の震源の深さ。
2)津波の発生機構,特に海底の変動速度。
3)津波の方向性。
4)津波の伝播経路,収歛性など。


次に順をおって説明しよう。


1)地震の震源の深さが津波の深さにどのように影響するかということについては既に筆者が指摘したことがある。すなわち30〜40km震源が異ると高橋の決めた5階級の津波の規模でも1階級異ってくるし,筆者の決めたものでも同様である。ということは同じ地震の規模でも場合によっては所謂大津波になったり,小津波になったりすることは当然考えられるということである。一方震源の深さの精度は極めて悪く,近地地震においてさえ現在の観測網では±30kのρ誤差はまぬがれない。(現在気象庁で実施中の電磁地震計中心の地震観測網が完成すればその誤差は±5kmにおさえることが出来る)まして観測網の少い地域や遠地地震において±30km以上の誤差は当然考えなければならない現状である。時間をかけて調査した結果でもこのような状態であるから,地震直後の資料から直ちに判定した場合にはその誤差は更に大きくなり,震源の深さによる津波のきぼの補正を一義的に行うことは今の処難しい。
2)津波の発生機構については色々の説があるが,一般には地震が発生し,そのエネルギーの一部分が海底の変動に使用されて津波が発生するというのが最も常識的である。ここで問題になるのは海底の変動速度であって中村の研究によると次のようになる。時間的にも距離的にもexponentialの2乗で逆比例する速度で海底が隆起すると仮定すると,例えば瞬間的に海底が3m隆起すれば海面は3mそのまま隆起することになるが,2分間で海底が3mになったとすると海面は1.5mの半分しか隆起しない。つまり隆起速度の違いによって津波の規模もかなり異なってくることになる。一方この隆起速度の違いは恐らく地殼構造に関係するものと考えられるが,地震地帯の地殼構造はかなり複雑であって数10km離れただけでもかなり異ってくることがよく知られている。従ってチリ地震のような遠地地霞の震央では殆んど同じ場所と推定される震央でも,実際には違った地殼構造を持っていると考えられるので,上に述べた海底の変動速度の違いによる津波の規模の相違は当然考えなければならない。
3)津波の方向性については昔から問題にされていた。一方地震の方向性についてはかなりよく研究されているのであるから,津波についても当然考えなけれむならない。しかし完全な資料が得られなかったことなどもあって未解決になっている。これは浪源から同じように拡がって行くのではなく,方向によって押し引きを含む大いさが異ってくるということである。従って近距離よりも遠距離の方が高い波高を示すこともあり得る。
4)以上の3つは地震の震源および津波の浪源について問題にしたが,最後のものは浪源より伝播して陸地の到達点までのと伝播経路の問題である。これは特に屈折および反射波などによる収斂性の問題であるが,海底および海岸線の地形効果に大きく左右される。その他次の項で説明する湾の固有振動の影響があり,又外洋でも海堆や棚海の固有振動の影響がある。すなわち出発点でかなり小さくとも上に述べた色々の効果のため遠く離れた地点では増大して到達することはあり得る。


しかしながら具体的に今回の場合に適用して結論づけることは,特にチリ附近の資料の不足もあって今の処出来ないが,将来研究調査すべき価値のある重要な問題点である。


3 津波の最大波高,特に湾の固有振動との関係
吾々は津波発生後から7月中旬まで前後2回に亘り,殆んど東北地方太平洋沿岸全地域にわたって現地踏査を実施し,津波の最大波高を測定した。その結果を昭和8年の場合と比較してみると非常に対称的な現象を示していることが分った。
第2図は昭和8年の場合と最大波高の絶対値を比較してみたものである。但しこの比較は両方が同一地点を測定した場合に限ってある。これを見ると大体の傾向として津軽海峡および宮城県沿岸以南は今回が大きく,その他の地域は昭和8年の方が大きいこと,八戸,宮古,大船渡,広田,気仙沼の各湾は湾奥では今回が大きいが,湾口では逆であることなどが分る。又湾口或は外湾の絶対値から見ると,今同は青森,岩手両県境の一部を除いて大体2m前後で一定しているが,昭和8年の場合は岩手県中部一帯で10m以上であり,これから南北に行くに従って急激に減少し,宮城県南部沿岸以南および津軽海峡では2m以下となっている。
このように全く対象的な現象を示した大きな原因はいうまでもなく浪源の位置である。すなわち一方では極端に遠距離にあるため,大体南北の海岸線に平行な平面波となって襲来したが,一方では近距離であるため地域によっては屈折波となって襲来し,浪源との遠近の距離によってかなり大きな差異を生じた。湾口や外湾については以上で一応説明されるが、湾奥
については湾の固有振動が作用するため様相は異る。これは湾口に襲来した津波の周期により著しく左右される。すなわち今回の場合は60分以上の長い周期の波であったが,昭和8年の場合は10〜20分の比較的短いものであった。このような湾口から襲来した津波に対し,湾奥ではどのような変動をするかを具体的に調べるため次のような方法を取った。すなわち各湾の固有周期Tと湾奥における最大波高Hとの関係を図示したのが第3図である。ここでTはT=4l/√ghmを採用した。但しlは湾の長さ,hmは湾の平均の深さ,gは重力の加速度である。使用した湾は北は八戸から南は宮城県荻の浜の30ヵ所の湾で,利用出来るものは全部使用した。第3図を見ると今回の場合と昭和8年とでは逆の関係になっている。すなわち今回の場合湾の固有周期の大きいところでは波高が高く,昭和8年の場合は全く逆の関係になっている。
しかしここで問題になることがある。それは津波の周期が今回の場合60分以上であるから,少くとも60分まで直線的に増大しても問題はないが,10〜20分と推定される昭和8年の場合はいささかおかしい。そこで湾口或は外湾の最大波高をH。としH/H。とTとの関係を示したのが第4図である。勿論ここでもっと厳密にいうならば,湾口や外湾に襲来した津波の周期T。も各地によって異るとすればTの代りにT/T。を採用すべきであるが,T。の値は各地によって測定されていないし,又大した変動はないものと推定されるので,考えないことにした。この結果昭和8年の場合は10〜20分のところで急激に増大していることがはっきり出てきた。
以上の外に著るしい差異は昭和8年の場合,湾の固有周期と津波の周期が少しでもつれると急激に減衰しているが,今回の場合減衰は比較的ゆるやかである。これは襲来した津波の周期の長短のためである。
以上をまとめると三陸沿岸一帯には湾の固有周期が長短さまぎまあるため,三陸沖地震津波のような近距離津波で波高が増大する湾もあれば,今回のような遠距離津波ではこうが増大する湾もある。すなわち前者は羅賀,田老,吉浜および綾里の各湾,後鷺に八戸,宮古,大船渡,広田,志津川,荻の浜の各湾である。しかしながらこれ等が一般に逆相関に近い関係になっているため,全く安全と考えられる湾はないといってよい。従って被害もこれに平行して増大する傾向にあるので,津波対策に対して充分考慮しなければならないことを強調したい。


4 津波の減衰および反射
今回の場合検潮記録を見ると約1週間後まで津波の痕跡が見られた。すなわち津波の減衰がかなり小さかったことを示している。今八戸を例にとってみると,検潮記録の最大全振巾H。になった時間から出発して6時間毎に区切り,その時間内で最大の全振巾Hを読みとり,これと最大全振巾との比H/H。を6時間毎の時間t別に記入したのが第5図である。津波発生以前のH/H。は0.05であるからこれ以下は津波と見做されないので打ち切った。この図には昭和8年の外に昭和27年(1952)の十勝沖地震津波も記入してある。これを見ると近地地震津波の減衰はチリ地震津波より減衰が非常に早く,0.1になる時間は2分の1以下といった状態で,如何に今回の場合減衰が少なかったかが分る。
十勝沖の場合1回見られたが,今回の場合5回も時々増大した波高を示し,その間隔は30〜36時間毎になっている。これは恐らく太平洋沿岸の何処かで大きく反射してきた波であろうと推定される。反射波の研究については筆者も近距離の場合取り扱ったことがあるが,又遠距離の場合についてもいくつかの研究がある。チリからは片途22〜23時間の走時であるから,30〜36時間という北アメリカ沿岸か南洋諸島一帯からではないかと判断されるが,正確には走時と波の位相を一緒に考慮しながら決定すべきものである。この点についてもう少しつっこんだ研究が必要であるし,今回の場合のように2日目になってもまだ1〜2mの波が存在していることは津波対策上無視出来ないであろう。


5 あとがき
以上の外にもいくつかの間題がある。すなわち距離による減衰,津波を長波と見做して普通使用されている速度の式V=√gh(hは海の深さ,gは重力の加速度)は妥当なものであるかどうか,更に波長により速度が異るという分散性の問題などがある。これ等は特に遠距離津波の場合余り検討されていない。その他津波の周期により建築物に与える力の相異や,陸上を遡行した時の波の速さの問題も津波対策に等閉視出来ない問題であるがここでは単に問題を羅列するにとどめ,いずれも他の機会にゆずりたい。
最後にこの報告に使用した資料は管下気象管署の絶大な御協力によったものが多いことを附記して厚く感謝の意を表する。又仙台管区気象台内海技術部長には終始御支援を頂だいたが,ここに併せて感謝する次第である。


*仙台管区気象台

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第1図 三陸沿岸および函館に津波の影響を与えた南米地震の震央
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第1表 三陸沿岸および函館に影響をあたえた南米地震津波
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第2図 津波の最大波高の比較
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第3図 湾の固有の周期Tと湾奥の最大波高Hの関係
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第4図 湾の固有周期Tと湾奥に対する湾口の最大波高比H/H。の関係
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第5図 八戸港における6時間毎の津波の振巾の変化
3.チリ地震による三陸の津波 福井英夫*

東北地方の三陸海岸地帯は過玄に津波による大被害をしばしばうけて,いわゆる津波の常習地というありがたくないことでもその名を知られている。しかし被害をうけるような大津波は史実に残るかぎり。三陸沖と日本海溝付近に発する地震によるものと思われ。知覚できる地震の前兆を伴なっている。これは三陸沿岸地帯を歩くと,小部落でもところどころに「地震があれば津波と思え」という記念碑がみられることからも知られる。
三陸沿岸に津波のうちよせた記録によると明治27.29.30.34年,大正4.9年,昭和8.13.14年と明治以降だけでも9回あり,また昭和27年の十勝地震のごとき北海道東南岸を中心としたものを合するとすくなくも14回におよんでいる。もっとも検潮記録にとどめるような小津波はほとんど体感できる地震の度ごとにみられる。これらの中で三陸沿岸を中心に大被害をもたらしたものは明治29年および昭和8年の津波で,前者は2,193名の尊い人命の損失と,6,126戸の流失全壊家屋を出し,後者は侵水を含む被害家屋が9,884戸,死者および行方不明が3.644名に達する大波害をあたえた。これらはいずれも三陸沖に震源地をもつ地震によるが,南米チリーの大地震による津波も大正11年11月12日に到達した記録がある。もっともこの時は被害は記録されていない。
今年の5月24日早朝日本列島の東南岸を襲った津波は,南米チリー沖でその前日に起った大地震によるものでほぼ一昼夜かかって到達している。なんら知覚される地震の前ぶれもなく突如として日本を襲った津波は,当日その被害が刻々と報道されるにつれて,やはり三陸海岸に被害が集中していることが判明してきた。そこで東北大学理学部の地球物理・地質・地理等の関係教室から調査班をさっそく派遣することになった。これらの成果の概要についてはすでに6月28日の理・工学部総合発表会で報告された。以下においてのべる三陸沿岸のチリ地震津波の概要は主として地理班の調査した成果にもとずくものである。
われわれの調査地域は,北は田老町から南は塩釜市までの範囲で,これを4地域に分けて北から筆者・長谷川・渡辺・藤原の諸氏が分担し,他に大学院の小杉・中村・掘田の諸兄が協力した。調査期日は,津波のきた翌日の5月25日からほぼ5日間で,一部6月4・5日に補足調査した。調査が短期日であったのでまず最大波高の分布を求めることを主眼とし,おもな集落の被害状況をあわせ観察した。したがってここでは調査地域の全体的特徴を中心にのべることにしよう。


調査方法とデーター
津波被害の程度を左右する条件を考えてみると,まず直接的なものとして最大波高(周期や波長)・潮時・気象等があり,またこれをうける側では湾の方向や形態,海底地形,海岸地形,防潮堤,防潮林,集落の位置と構造,産業の種類と規模さらには経験の有無や退避訓練等の多くの条件が関与している。これらの条件をすべて調査したわけではないが,以下において最大波高の到達時刻,最大波高の分布,被害の性格の各項に分けてのべる。
最大波高の測定はハンドレベルによって海面から家屋や山腹等の変色した痕跡までの高さを測った。これをもよりの検潮儀の記録から東京湾中等潮位からの高さ(T.P.)に換算して用いた。しかし津波の余波が5日位残存しており,その影響による誤差を除くことができなかった。なお両石湾より広田湾までの測点では海面を基準とせず,岩壁でみられる黒褐色の変色帯の上限(ほぼ高潮面)から測定し,そのままの値を用いている。また女川市では3,000分1地形図上の水準点を基準とした。次にここで使用した検潮記録は宮古・鮎川(気象庁),釜石(海上保安庁),気仙沼・渡波・石巻・塩釜(宮城県),女川(東北大学)等である。参考のため昭和∴8年の波高記録を使用したが,これは東大地震研究所彙報別冊(1934)によった。


最大波高の到達時刻
調査地域の最大波高到達時刻の分布を検潮記録と現地で聴取した中での比較的正確と思われるものから求めたのが表1である(図1)。
ここでいう最大波高は(T.P.)からの高さであって,振巾の巾をいうのではない。したがって最大振巾の場合は潮時との関係から当然異なった時刻を示すことになる。そこで最も早く最大波高の到達したのは宮古で4時30分頃,最も遅いのが気仙沼や女川での7時20〜40分頃となって,その間に3時間以上の差がある。もし最大波高につぐ二次的な波高を示したものをとれば宮古の3時52分から気仙沼の12時50分まで実に9時間におよぶ差があった。その地域分布では宮古から釜石にかけて最も早く4時30〜50分であるが,釜石では5時15〜30分とほとんど区別がつかず,気仙沼から女川にかけては最も遅く7時20〜45分,鮎川から塩釜では6時15〜40分となり,田老も7時10分と遅くなっている。
これはたとえば宮古の4時30分の最大波高に相当する波が他地域にもきてはいるが,早くきた津波に最大波高を示した地域と,遅くきた津波に最大波高を示した地域があったためで,その原因の詳細はまだ確めていない。しかしこの地域の潮時差がわずか25分位であるからこのためではないかと思われる。
当日の満潮は宮古で2時,干潮が9時13分であるから,満潮時より宮古で2時30分,鮎川で4時40分それぞれ遅く,ほぼ干満の中間時に到達した事になる。もし当日の満潮時に到達すると宮古で20cm,鮎川で75cmそれぞれ波高を増し,干潮時ではそれぞれ80cmおよび40cm低下することになる。また当日は移動性高気圧下にあって波の静穏なよい天気にめぐまれていた。このためその日の潮位が15〜IOcm低下していたことになる。
今回の津波の来襲状況を罹災者達から聴取したところによると,昭和8年のごときくだけ波をともなった高い波が急速にうちよせたのとかなり趣を異にし,あたかも潮の満るごとくであったという。これは検潮記録にみられるごとく昭和8年に比較しかなり波長の長いかつ長周期の津波であったことによると思われる。


最大波高の分布
波高分布をみるために測点と波高を図2に示した。なお昭和8年の波高は今回の測点に近い地点のみをえらんで比較してある。これによると今回の最大波高はほとんどが2〜5mの範囲にあって,4〜5mでは高いほうに属し,最高は宮古湾頭の6.3mである。これを昭和8年の8〜20mにおよんだのに比較すると波高は一般に小さかったといえよう。しかしその分布をみると,かなり特異な現象がみられる。
田老から塩釜までの直接外洋に面した岬や,小轡入の地点ではほとんど2m前後の一様な分布を示しており,これらの地点に常に荒浪に洗われている所が多いので,大きな被害もなかった。また近地地震による津波と異なって湾の方向による波高の差異がほとんどみられなかった。たとえば北東に開けたコの字型の字型の湾である宮古湾と南東に開けた同様の湾型をもつ広田湾を比較してもその差がみられず,さらに牡鹿半島の北東岸と南西岸を比較しても同様な覧とがいえる。
次に湾内の波高分布をみると彎入の少ない湾では湾口と湾頭の波高差はかなり小さいが,彎入が深いと湾口より湾頭に波高が著しく増大している。たとえば宮古湾は2.0〜6.3m,山田湾で2.7(湾央)〜4.8m,大船渡湾で1.9〜5.7m,広田湾で2.0〜6.2m,志津川湾が2.7〜5.7m,女川湾で3.8〜5.4m等といずれも湾頭に2倍以上増大している。特に海岸線が単純で深いコの字型の彎入をもつ宮古・広田両湾のごときは3倍以上におよんでいる。このような湾内の波高分布の性格は昭和8年のそれとまったく趣を異にしており今回の津波の大きな特徴といえる。より正確にいうならば,昭和8年の場合は岬や湾口における波高が8m以上で非常に高く,かつ浅い彎入をもつV字型の湾(綾里湾等)では,その湾頭で20mにも増大したが,彎入の深い宮古湾や広田湾では急激に減少して,湾頭で2m前後にしかすぎなかった。これが今回は岬等で2m前後にすぎず,浅い湾でも波高の増大がめだっていない。しかし深い湾になると3倍以上にも増大するという結果を示した。このような波高分布の原因は,遠地地震による今回の津波の周期が,昭和8年に比較して著しく長く,40〜60分におよんだため,深い湾では十分湾個有の副振動を惹起せしめえた結果であると考えられている。
また湾内で非対称的な波高分布を示す例として,大船渡湾,気仙沼湾,志津川湾等がある。特に屈曲の多い気仙沼湾では,一様に湾頭へ波高を増大する傾向が明瞭でない。また湾口より湾頭へ波高の減ずる例として追波湾北岸がある。
次に湾内の海底地形との関係をみてみよう。津波は湾・内の谷やミオに沿って速度を増すので,その延長上に当る海岸では波高が特に高まり,破壊力も増大したと思われる例が各地にみられた。気仙沼湾の内湾にある屈曲部の海岸がちょうど海谷の延長に当って波高が高くなっている。さらにその波が南に転じて湾内の谷に沿って設置されたコンクリートの導流堤を破壊し,南岸に波高を増している。また大船渡湾頭の大船渡市赤崎地域等も湾の主谷に連続するミオの延長に当って,特に家屋の破壊等の大きな被害をうけている。これら流速をましたと思われる湾内の狭隘にあたる水深10m内外の谷底は,水路部の水深調査によっても3〜5mいずれも深く掘げ下られたことが確認されている(大船渡・気仙沼湾等)。また,石巻市の河口港も浚渫を要望されていた河の土砂が津波によって必要ないまで深まったといわれている。


被害の性格
日本列島東南岸地帯でもっとも被害をうけたのは,君手・宮城の両県で,中でも宮古から塩釜にかける調査地域が被害の中心をなしている。今両県の被害をみると死者および行方不明115名,全壊流失家崖21423戸,半壊家屋2.693戸,床上侵水家屋ll.051戸を数え,さらに堤防や道路の決壊,船舶の流失,田畑の冠水や耕地の埋没,かき棚の流失その他の損害を合すると,総額184億7千万円に達するという。調査地域の被害を示したのが表2である。これは昭和8年以来の大被害で,人命の損失こそ当時にくらべてかなり少なかったが,その後の人口増加や産業の発達によって海岸や内湾の利用が一層進んでおり,人命以外の被害はむしろ増大しているとみられる。特に今回の被害の性格として顕著な地域的差異が認められることである。表2によってみると,人命は大船渡・志津川・陸前高田の3市に集中している。また流失・全壊家屋も志津川・大船渡・女川に卓越し,ついで山田・宮古・雄勝・大槌等にも集中している。これらの特性は部落別の被害をみると一層明らかとなる。すなわち各部落ごとに今回の最大波高と部落に近い地点の昭和8年の最大波高から座標上にプロットし,その各部落の被害程度を大(流失・全壊を出したもの),中(半壊・床上浸水程度のもの),小(床下浸水以下のもの)に区別して示したのが図3である。これによってみると被害の大きいのは昭和8伍の波高が小で,今回の波高の大なる地域に集中していることがわかる。しかし両石・白浜・鮫浦等のごとく昭和8年に波高が高くて,今回の波高がそれほど大でないにもかかわらず,大きな被害をうけている地域がある。これは後述するごとく,昭和8年の大被害によって一度背後の高地に集落を移動したものの,その後再びなんらの対策をもたずに海岸に再移動したものや,昭和8年の津波を経験しなかった新開集落である。
次に浸水地域をみると,深い湾の湾頭にある低平な海岸平野は例外なく大きな浸水地域を出している。これは前述したように湾頭に波高が大となったためで,特に流入する河川を逆流してかなり内陸まで浸水した。またみるべき防潮堤がなく,海岸に形成される砂浜堤も低くて自然の防潮堤としての効果があまりなかった。湾口に近い小海岸平野では,波高も低くかったためもあるが,比較的高い砂浜堤によって浸水をまぬがれた例が多かった。
防潮林は各地に造成されていて,流木や漁船の漂流をくいとめる効果があったが,効果的な防潮堤を設置した事例はきわめて少ない。本格的防潮堤としては田老町の比高8mにおよぶものがあり,大きな効果を示したと一部に伝えられたが,今回の津波はその基部にも達せず実際の効果を示さなかった。比較的その効果を示したものとしては,大槌町の大槌川右岸と小槌川左岸を結んで,市街地を守るための約3,0(T.P.)mの防潮堤の場合である。これを約50cm位溢流して堤内の基部を1m位えぐり,水門部を幅数m破壊しているが,市街地の家屋の被害は全壊流失20戸,半壊28戸にとどまっている。これに対し対岸の安渡では防潮林や防潮堤でさえぎられた波が直接突当って,全壊・流失47戸,半壊145戸を数え,大槌町における被害の中心をなした。
また海岸線で最も多くみられる護岸程度の岩壁や,小防潮堤ないし防波堤では溢流した海本によってその堤内基部がえぐられ,排水時にその部分から破壊されて,コンクリートや石垣の残片が海岸のほうに流されているものが多い。さらに河川の流出口や排水口は海水が集中的に逆流するのでしばしば破壊されている。山田町にある防潮壁は市街地内に海岸に平行して作られ,各主要道路の所で数mずつ間隔をおいているが,その間隙の内側も1m近く道路をえぐり,家屋にも被害をおよぼしていた。
次に集落の被害について若干ふれておきたい。昭和8年の津波被害は湾口や浅い湾の湾頭に位置する比較的小集落に大きかった。したがって大被害をうけた甲老や吉浜のごとく本格的な防潮堤を設置したり,集落を背後の高地に移動したり等なんらかの対策をとった。しかし被害の少なかった深い湾の湾頭の集落では防潮林こそかなり普及したものの,今回の波高をふせぐような対策もなく,また退避訓練もほとんど実施さ為ていなかったことが,人命をはじめ多くの被害を出した第一の原因とみられる(大船渡・高田・志津川・女川等)。特に広い平野にある湾頭の集落は比較的大な河川の河口にあるため,波がその河口を急速に逆流してかなり内陸まで沿岸の家屋に被害をおよぼしている(志津川・女川その他多数)。そのよい事例として現在山田町に編入された織笠部落の場合をのべてみよう。織笠部落は山田町の南に隣接して,織笠川の河口の低い段丘上にあり,河谷の巾も数百m程度である。昭和8年には山田町が波高3mで大きな被害をうけたが,織笠は2mでほとんど被害をうけなかった。しかし今回の波高はそれぞれ4.8mおよび3.2mで,いずれも昭和8年より1.8〜1.2m高いが,被害は山田町が流失・全壊戸数29戸,半壊27戸で昭和8年よりかなり少ないにもかかわらず,小部落の織笠は流失・全壊89戸,半壊132戸という壊滅的な打撃をうけた。このように波高とは逆の被害の差異を生ぜしめた原因を考えてみると,まず山田町が海岸に対して比較的急な傾斜をもちかつ防潮壁もあったのに対し,織笠部落は狭い谷底の河道にそうて発達しているという条件の差がある。そして今回の津波は,昭和8年程波そのものの衝撃は強くなくても,長周期の津波であったため,河口の沖にある小島の効果も少なく,織笠では多量の海水が浸水した。したがってその退水時の破壊力もくわわって,織笠により大きな被害をもたらしたと思われる。同様の現象として海岸に直交する道路が人工の河道となって多数の流木等をおしあげて,道路に沿う家屋に被害の集中する例が,女川・志津川その他に多くみられた。
なお,宮古市街地はさいわい湾口近くにあって大被害をまぬがれたが,湾頭にある高浜・金浜・津軽石・赤前等の小部落が全市のほとんどを占める被害家屋を出す結果となった。また気仙沼市街地は屈曲する湾の湾頭にあって,波高が2〜3m程度にとどまり,破壊家屋も32戸で比較的少ない。しかし数年前の大火により商店の多くが地下倉庫を作っていたため,商品を持出しえずに多く.の損失をこうむったといわれる。前述したほかに家屋の密集地域における被害の特徴として,しばしばまびかれたような形で破壊家屋が分布していることである。これは単に基礎石に柱をのせたような建物や老朽家屋が破壊されたもので,公共の堅固な建物等が浸水程度にとどまっている結果とみられる。さらにほとんどの港に木材集積場があるが,その直径lm以上もあるラワン材等が簡単に流されて,多数の小型漁船とともに多くの家屋を破壊している事例が多かったことである。
各種産業におよぼした被害もかなり大きな額にのぼっているが,特に大船渡湾・気仙沼湾等をはじめ湾入の多い三陸沿岸で盛んなかき養殖業はほとんど全滅に近い被害をうけた。かき棚は海面の急激な昇降によって簡単に流され,ちょうど種付直後であったため損害を一層大きくした。また田畑の冠水も両県で2千ヘクタールにおよんでいるが,水田はちょうど田植期で,苗代や移植直後の苗が塩害をうけた。
その他海岸にそう鉄道や道路の決壊も多数あったが,特に災害地への緊急を要する援助物資の輸送に多くの支障をきたした。たとえば,牡鹿半島の基部にある万石浦にかかる万石橋は,牡鹿半島沿岸に通ずる唯一の主要道路であるが,その橋脚が波に洗われて沈み,一時交通不能となって牡鹿半島の災害地(石巻市の大半を占める)への輸送に数日間非常な不便をこうむった。
最後に人命の損失についてみると,三陸村以北では家屋等の被害を出しているが,人命は1名も失われていず,その全部が大船渡以南の地域に限られる。しかも死者・行方不明を出したのは,昭和8年の津波被害の軽微な湾頭の集落にかぎられているる。このような地域差を生じたのも津波の経験がなく,退避訓練も徹底しておこなわれていなかったからで,釜石以北では,津波対策が一般住民にもかなり普及している。しかし,過去に津波による大被害をうけながら,危険な海岸に集落を再移動して被害をうけた事例を先に示したが,零細な漁民にとって海岸から遠い背後の高地に住居をおくことは生産的に多大の不便があるからにほかならない。


*東北大学理学部地理学教室

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図1 5月24日の宮古(左)と鮎川(右)の検潮記録
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図2 浸水地域と波高 —田老・大槌地域—
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表2 チリ地震津波による三陸海岸地域の被害(昭和35年5月岩手・宮城両県調)
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図3 昭和35年と昭和8年の最大波高
4.チリ地震津波災害に関する調査研究 浪瀬信義 長崎明 徳永光一 小出進

筆者らは6月中旬に岩手県宮古市,山田町,田老町,6月下旬に岩手県大船渡市,陸前高田市,宮城県気仙沼市を訪れ津波の被害,復興対策について調査した。検討した点は今回の津波の性格,従来の津波,高潮との相違防潮林,防潮堤,防波堤等の施設及び構造物,耕地,産業施設,住家等の建物,警報の方法,津波の前兆、漁業等多方面に亘っているが,紙等の都合上耕地についてのみ述べ,他については後日発表する。
尚,この調査に当っては,岩手県庁耕地課,宮古建設事務所,大船渡建設事務所,宮古市,大船渡市,陸前高田市及びそれらの関係者の方々が色々と便誼を計って下さったが,ここに深く感謝の意を表します。


耕地
岩手県だけで水田約600ha,畑が約600haが冠水している。被災時の水田は一般に田植直前で早急に除塩を必要とする時期であった。なお水田土壌の許容塩分量は苗代及び田植時は0.1〜0.2%,本田期間は0.2〜0.3%が限度といわれている(農業土木ハンドブック)。


1.被災状況
a 木船渡市
木船渡市の耕地被害は表1の通りである。この約85ha史復旧したのは10ha内外にすぎず他はそのまま放置してあり,取りかたずけも済んでいない状態であった。(約49日後)工場に23ha程買収済であり,更に25ha位工場予定地にしようとしているのである。放置されている水田の大部分は工場誘致を予定された地区でそのため耕地復旧に費用を投入するよりもそのままで売渡してしまおうという考え方もあるように見える。なお当地ではサンドポンプによって工事中の河川堤防盛土が流れて田面に20〜30cm堆積した地帯がある。
b 陸前高田市
本市の被害は毒2の通りで全市の耕地の1/5に及んでいる。主として古川沼背後の水田である。ここ,は気仙川から充分取水ができたため比較的除塩作業は順調に進んでいる。ただし,古川沼付近には自衛隊が土俵を積んだにもかかわらず,俵のすき間から海水が侵入し作付けできない田がある。そのため,津波前にあった4台の排水ポンプを2〜3台増強しているが実効はあがっていなかった。また田の中に流入した泥土を運び出す場所がないのでそのままにしている箇所もあった。道路とか,けい畔をはさんで,水があるため青々としている田と水がなく赤くなっている田が隣り合わせている例があった。これは平常時の水利慣行をそのまま守っているためと解されるが,津波被災時には気仙川引水の絶対量を増し,もっと融通ある処置をとることが望ましい。


2.塩分濃度
津波約1ヵ月後に各地耕土の塩分濃度を測定した結果は表3の通りである。測定は採取土から吸引抽出した土壌水分について,真空ポンプによって,吸引し測定を行ったものである。
表4によれば0.2〜0.3%では稲が枯死し0.1%以下でどうやら稲が活着していることがわかる。大船渡市盛川流域は津波被災そのまま放置されているため塩分濃度が高い。畑の塩分はかんがいを行なわないため水田より一般に高い傾向があるので,農作業に注意する必要がある。


3.助成措置
チリ津波塩害地の助成対策はどのようにされているかについて言及しよう。助成の対象としては,(1)かんがい排水施設の設置または変更,(2)揚排水機による揚排水,(3)客土,(4)石灰等の施用,(5)以上の工事のための木材,土石等流入雑物の除去であり,県,市町村,土地改良区の行なう事業費の1/2を国が補助することとなっている。この補助の対象となるには,農地の表土の塩分濃度が0.1%以上であることが必要で,県農事試験場や農業改良普及員の証明があればよい。石灰は10a当り240kg投入するものとし,その5割が補助対象となり,他に10a当り1.5人の労力費が補助される。


4.まとめ
三陸沿岸は山が迫っており,200ha以上の集団耕地はほとんどない現状である。それだけに,沿岸農漁民には貴重な耕地となっている。機業共済保険金をめあてに枯れることがわかっていても植えているとの風評とは反対に,枯れれば2回も3回も植付けをし,枯れた株の補植をするという努力をしている。それでも残存塩分や土砂推積のため枯死したり,活着しても育ちが悪く減収を予想される所や植付けたくとも植付けられないで生計を心配している農民もいる。だから再び災害にあわないように,あるいは,あっても少しでも軽くなまように次の対筆が望まれる。


a 防潮林と防潮堤による集団農地の保全
市街地や漁村では防潮林を造成する土地が少ないが,集団農地の海岸沿いのように,用地を見出しやすい地域ではできるだけ防潮林,防潮堤によって農地を保全することが望ましい。但し陸前高田市の高田松原のように弱い所があるとそこから破壊されることを忘れてはならない。防潮林は津波だけでなく潮風から耕地を守り,また観光の効果もある。防潮堤は立派な物を作るのが理想的には違いないが費用の関係もあるので,土石,材木の流入防止を目的とした程度のものでも良いが,いかに小規模でも波が溢流する事も予想して裏側だけは充分補強する必要がある。また防潮堤が排水不良の原因とならないように,排水樋門などを設ける必要がある。
b 区画整理をして塩分除去を容易にすること
区画整理をしないと田越しかんがいのため,下流はせっかく除塩しても上流から塩分の溶けた水が流れてくるためその効果があがりにくいおそれがある。用水路が1枚1枚の田についていないと,除塩のための淡水を得るのが困難であるから,区画整理によって全部の田が真水を直接取入れ直接排水路に排水しうるようにしておくことが塩分除去に重要である。土砂を冠り原形が消滅した田は原形復旧をしないで区画整理をする方がより簡単であり合理的である。
c 平常から共同体制を整えておくこと
除塩のためには共同で作業する必要がある。区画整理をしていない田越かんがい地区では特に重要である。しかし津波被災直後は全員が整理に多忙な時であり共同が困難である。このような組織はあらかじめ作って準備しておかないと,いざという時にとてもできるものではない。捨て場所がないため,塩分を含んだ土砂をそのまますきこんで,塩分濃度を高めており,また木材,舟,石の片づけ場所に困っている。そのためのトラックの準備が必要である。被災を受けない地区からの応援あるいは市町村での常備(平常は別な用途に使用される)が望まれる。同様に揚排水ポンプも平常より多く要するため応援体制を予め決めておくか,予備するのが望ましい。なお自衛隊の出動に対しては,心から,隊員の苦労を謝するものであるが,技術的に見ると多くの問題があるように思われる。陸前高田市の高田松原や,気仙沼市その他の土地でも完全な締め切り作業はできていず海水の出入は自由である。これは自衛隊の出動が勤労奉仕的なところに問題がある。アメリカ陸軍のように災害出動を義務とすべきであろう。そうすれば災害復旧に対する機械器具も完備すべきであろうし,技術も上達するでろあう。また施工後の責任も伴なうことになる。天災の多い日本ではその必要がある。
気仙沼市には,工業用地にするとの見込みから,復旧に手をつけず海水に浸ったまま放置されている耕地がある。しかしこのような耕地でも復旧が技術的に困難でない限り,復旧費を投ずべきか,工場敷地に売却すべきかを充分検討することが望まれる。いやしくも復旧困難を理由として,不当に安く農民から買収することのないうよに注意する必要がある。特に農地の少ない所である海岸地帯では慎重を期すべきである。


II 住家の被害状況
今回の津波による住家の被害は岩手県全県で約26億円に達し,これは被害総額約98億円の4分の1を超えていて,津波における住家の被害がいかに凄まじいものであるかを表わしている表—5。
われわれが調査した中でも特に住家関係被害の甚しい大船渡・陸前高田両市について,その被災状況を報告し,今後海辺におけるこの種の住家のあり方に対し若干の考察を加えてみたい。


a.木船渡市
大船渡市における住家被害状況は表—6の通りである。
この中,特に集団的に被災した赤崎地区について調査した結果を報告する。この地区は昭和8年の津波によって壊滅的被害を受けたところで,その後この津波の最高水位以上の位置に宅地造成して,集団住宅地を構成したのであるが,今回の津波は昭和8年の水位を2m余も上廻って,再び全戸が殆んど全壊もしくは.流失に近い被害を受けてしまった。昭和8年後に再建された新建築であったにもかかわらず,本地区がこのような被害をうけた原因の中,最も大きなものは,新しい住家群が海岸線に平行する道路の両側に立ち並ぶことによって,あげ潮時住家の裏側に廻った海水が,さげ潮に際してその退路をふさがれた形となり,断面狭小な排水路に殺到したためと考えられる。更にこの排水路は暗渠によって道路下を通してあったので,海水は路面上を2mほども溢水し,相当な流速をもって住家を流し,かつ道路を洗掘したものであろう。
b.陸前高田市
陸前高田市における住家の被害状況は(表—7)の通りである。
同市の中,最も集中的に住家被害を受けたのは小友浦の東北海岸,すなわち三日市および新丁の両部落で,総数54世帯の中家屋を流失したもの46世帯に達し,残る8世帯も半壊5。床上浸水3という惨憺たる状況である。本地域は昭和8年にさしたる被害を受けなかったのであるが,今回は広田湾の最奥部に位置するため,かかる被害を招くに至ったと考えられる。住民の言によれば,広田湾口から押し寄せた津波は,米ケ崎岬で東・西に分かれ,東方に向った津波が小友浦に,西方に向ったものが高田松原および長部漁港に害を与えたもののようである。三日市および新丁の両部落は,小友浦に押し寄せた津波を真正面から受けると同時に,小友小学校付近にまで達したあげ潮が引に際し,その流路となり本部落付近で丁度渦を巻いたようである。このような状況の下にもかかわらず,流失を免がれた8世帯の住家に共通する事項は次の通りである。


(1) 住家全部もしくは一部にモルタル造部分があって浮遊物による衝撃を防ぎ得たこと。
(2) 僅かにしろ,敷地が高いこと。
(3) 土蔵・高台など遮蔽物の蔭になっているか,宅地林に囲まれていること。


次に高田松原付近の住家被害状況を見るに,ここでは基礎や土台が堅牢であるにもかかわらずその下部の地盤を洗掘されたため,倒壊したり傾いたりした例が多い。このような家屋は壁・建具などがすっかり破壊・流失していても,小屋組が殆んどそのまま残っているので,比較的復旧が早いようである。
長部漁港付近の住家は昭和8年の津波の経験により,その後海岸から約2mほど高く盛土して宅地造成の上,移転・集団化したので今回の津波では,この台地上の住家は全く被害がなかった。台地の下にあった加工施設(非住家)や構造不完全な住家の中には流失したものが多く,本地域の被害は殆んどこのようなものである。


c.取りまとめ
以上の被害調査の結果を取りまとめると,次のようである。


(1) 今回のように震源地が遠い地震による津波被害は湾口部よりも湾奥部が大きい。また河川をさか上ってかなり上流にまで到達している。これらの地域は近年全く津波災害を受けなかったので,一般に住家その他の諸施設が密集していることが多く,壊滅的被害の原因となっている。
(2) あげ潮よりもひき潮による被害が大きい。このことは浸水家屋の大部分が基礎地盤洗掘による被害を受けていること,あるいは土台から浮かび上ったために,そっくりそのまま運びさられた例が多いことなどから,かなり明瞭に認めることができる。
(3) 住家・諸施設の破壊力の原因となったのは,主として流木・船舶・他の住家等の浮遊物の衝突によるもので,波浪の直接的衝撃によるものは少ない。
(4) 海辺近くの低地にある住家は殆んど壊滅的被害を受けているのに対して,ほんの僅かでも高台にある住家はより軽微な被災に止まっている。
(5) 同じ標高にある住家でも高台もしくは堅牢な建物・施設の蔭になったものは,そうでないものにくらべ被害が少ない。
(6) コンクリート造建物は海水面下に没するほどの位置にあっても全く倒壊の害を受けていない。またモルタル造,あるいは土造建物は木造建物よりも倒壊・流失の害を受けることが少ない。
(7) 木造住家が密集しているところでは,1〜2戸堅牢な建物が点在していても,他の流失住家の部材の衝突によって破壊されることがある。


d.考察(今後の対策案)
今回の地震は体感地震を伴わないものであっただけに極めて唐突に来襲した感を受け,災害を大きくしてしまったのは不幸というより外はない。しかし今後はこの経験を生かし,どこにどのような地震がおこれば,いつどこに,どのような津波が押し寄せるかを研究し,二度と不慮の災害を受けなくてすむよう望みたい。
津波の性質も,明治29年や昭和8年のものにくらべ,今回のものはかなり特異な例に属するようであるが,それが住家被害の面にも現われていることは前述の通りである。従って恒久的な津波対策ということになれば,あまり今回の事例に捉われない方が良いのかも知れないが一応われわれの調査しえた範囲内で今後この種の海辺住家が注意すべき点を摘記して結びとしたい。


(1) 住家をできるだけ高台に移すこと。住家の背面に広場があるような位置はなるべく避けた方がよい。また今回のような津波は湾奥部や河口付近に特に大きな被害を及ぼすから注意すべきである。
このためには土地利用の総合的計画性が必要で,個人の力では現在の土地制度にはばまれて,どうしても個々バラバラなものになりやすく,生活に追われるものは危険を承知で海辺に住家を建てることになり,全体としての統一がやぶられる結果を招く。
(2) コンクリート造あるいはモルタル造にすること。木造の場合でも基礎をコンクリート布基礎とし,土台をアンカーボルトで締め付けておくこと。また部材をできるだけアングル,カスガイ,釘などによって締め,ホゾだけで止めるようなことをしない。
1〜2戸だけ立派な住家を建てても,その周囲に不完全な住家が密集していると,徒らに海水をせきとめ,流速をはやめ,浮遊物の衝撃力を強めるから有害無益なことである。あくまでも集団による安全保障を考慮しなければならない。
従って,津波のおそれがある海辺では,コンクリート造による集団住宅(1階を仕事場とし,2階以上を住居とする)を建てるのが理想的である。このような集団住宅に対して補助金あるいは特別融資の方途を講ずべきである。
(3) 土るい,コンクリート塀,宅地林などで宅地を囲み,例え僅かでも波浪あるい浮遊物のエネルギーを減殺すること。特に宅地林は有効と認められるが,周題はそのような敷地が海辺住宅地には乏しいことである。
(4) 船付場,貯木場など,津波に際して浮遊物源となるおそれのある施設は居住地域からできるだけ離し,また日常管理を厳重にするよう取りしまる必要がある。万一,浮遊により他の住家・諸施設に被害を与えたものは厳罰を科すべきである。
(5) 商・工業あるいは観光のための都市計画ばかりでなく,住民・農民・漁民などの生活圏をも考慮した広区域の土地利用計画がたてられれば,津波による災害をもっと小さくできるのではあるまいか。

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表1
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表2
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地図 大船渡市 津波被災地
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表3
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表4 気仙沼市内時期別塩分含有量(気仙沼市測定による)
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表—5 岩手県における被害額総括表
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表—6 大船渡市における住家被害状況(世帯数)
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表—7 陸前高田市における住家被害状況(戸数)
5.地震と防災 三浦武亜※

大昔から日本には記録に残る大地震が沢山あります。地図上の分布を見ると殆ど至るところ日本全体が昔からの大地震で蔽われてしまいます。おまけに火山の爆発や地震による津波に見舞われていてこの点だけでも貧乏国としては大変です。終戦後漸く全国的に組織された「つなみ警報業務」も,一応の体制が細々乍ら出来たと思ったとたんチリ地震津波で沢山の死者を出し残念でなりません。つつしんで犠牲となられた方々の冥福を祈る次第です。最近の外国の核爆発実験によると恐るべき津波も引き起される危険があるので,益々大変なことになりそうです。文化が進む程,人類の自然への挑戦は大きくなる。その成果も沢山ある反面では,大自然の威力が人力を絶する場合には,被害の1回毎の総額も莫大になって来る。これは必然とはいえ終には全文化を賭けた戦となる様にも見える。人類の英知が働いて防災的文化を進歩させたいものです。震災防止の立場からは東北研究会の特別報告(1960,No.4)に立派な意見が既に出ている通り津波の研究を進めること,警報の体制を強化すること及び官民の理解と協力を深めることが重要と思います。
ここに地震業務の現状やその他1・2のことをしるして御批判をこう次第であります。


地震業務の現状(気象庁)
明治5年(1872)浜田地震の年に,東京で地震計による観測が初められた。その後明治29年の三陸大津波地震,大正12年関東大地震や昭和8年三陸大震津地震という大災害をうけて,その都度地震観測が充実されて来ました。特に関東震災後にドイツから倍率約100のWiec−hert式地震計が輸入されてその後10数年を経て全国約55ヵ所に据えられて,最近に至るまで日本の地震計の主力となって大切な資料を提供して来ました。しかしこの間第2次世界大戦を経験して,あるいは,戦災を直接受け,技術者の戦争参加あるいは,部品補充難などのため狂瀾怒濤時代になった。終戦後社会事情の回復と共に,やっと施設,人員の復旧改善があり,津波警報の業務も開始するに至った。次に現在の業務で震災に関係の深い項目について説明しましょう。


(イ)地震電報 特に津波発生の恐れがある近距離大地震を感じた場合には「ツナミ」電報が,特定の測候所や気象台から気象専用線で札幌・仙台・東京・大阪・福岡などの予報中枢に打電されます。この電報資料を地図に記入して,震央を推定する。有効で正確な電報を年中昼夜を問わず確実迅速に作ることは,電文は短いものですが仲々困難です。大地震の際にこれを完遂することは地震計記録を測り慣らされた熟練者にも非常にむづかしい。「ツナミ」電報は発震後5分以内に打電することになっているが,実情では訂正電報も大変多くて津波予報作業を一層困難にしています。発震時刻を○○時○○分○○秒まで正確に測る必要があるが,まだ発震時の自動的な数字記録計が完成されていません。何しろ地震波の伝播速度はジェット機の数10倍程度ですから,数秒も誤差があると,直ぐに数10kmの誤差が生じ,震央き決める時には数ヵ所の発震時で決めるには更に大きく狂ってしまいます。また地震電報では上記の発震時のほか地震の震央の位置,深さ,規模などを決めるために大切な資料が簡単な符号化された電文で作業中枢の気象庁地震課や管区気象台に打電されます。
(ロ)震央の決定 上で説明した様に各地から集められた電報資料をもとにしてその地震の大切な性質を図や表で表わします。この作業により日本近海の地震に対しては発震後約20分位から40分位の中に大体の震央が推定されます。外国の地震の場合には日本の観測網だけで震央を決めることは遠い地震程困難になって来ます。つなみの危険度は勿論,日本近海のつなみ地震によるものが一番危険です——すなわち(イ)頻度が多く,(ロ)余裕時間が短かく,(ハ)更につなみの強さが大きい。しかし過去の例から見てカムリャッカ半島沖やアリューシャン列島沖のつなみ地震は上記日本近海のものについで危険です。余裕時間も北海道では2時間足らずという具合です。台湾沖の地震も同じく注意を要します。これ等に対しては地震の規模の推定は出来るにしても,問題となる震央の推定が日本国内の現在の資料では余り正確にできない。震央が海洋底か陸地かによって,つなみの大きさが大いに変化して来るので震央推定が大間題である訳です。これに対しては日本国内の観測精度を向上させることと,ハワイなどの地震観測資料,特にソ連・台湾などの地震観測資料の国際的な交換が望まれる次第です。最後に今回のチリ地震津波のようなものに対しては日本の資料だけで震央をハッキリ決めにくいのはカムチャッカ地震以上ですが,つなみが来るとしてもその余裕時間が大きい点があるので今後は努力して絶対に災害を繰り返さぬ決意を持っています。仍ち国内の体制強化と国際協力によって外国の地震観測電報やつなみ観測電報の外国資料によって国内の防災体制に寄与し得るでしょう。震央を更に正確に求めた正式の報告は上とは別に月報として印刷発行されています。
(ハ)部外情報 気象庁内部の業務組織や国外の地震つなみ(検潮所)観測などの機関から正式に通報されるものについては一応上に説明しました。これについても何分緊急時の電報には誤電が生じ易い。そのため平常から訓練をしておりますが,国内はもとよりハワイ津波警報センターとの間にも演習を毎月位やっています。ところで警報を扱う担当者にとって必要なものは,何といっても(イ)正確で,(ロ)有用で,(ハ)時を得た情報です。これに反するのは,(ニ)間違い,(ホ)無用の情報中枢の判断を妨害するもので,デマや誤電はこの代表であります。持に外電の場合に困るのは標準時が判然としない。これはグリニチ標準時の24時制が一番間違いがなく分り易い。(13時25分12秒Zという様にZで示すが,GMTとして表わすことが多い)又震度(各地で観測される震動の強さを人体感覚を規準に定めたもので国によって採用震度階が異っている。日本では0〜7の8階級,外国の多くは0〜12の13階級の改正メルカリ震度階を使っている。(これは数字で表わす場合にも整数であって,小数以下はない)と規模(リヒター博士が創めたもので,大地震程数が大きくなっているが小数1位までつけて表わされたりすることが多い)の混同された情報が多い。一つの地震については計算によって規模は一つだけ考えればよい(計算の仕方によって異った値が出るのは仕方ない)が震度は各地によって異るわけである。墜左融演2葺盗ゑ表わす術語がまだ学会や囲によって統一されていないので,波の山〜谷の高さ○○mという様に平明な表現が必悪です。とに角,緊急時に雑音を少なく,有用な情報を送り受ける様な努力が必要です。
(ニ)地震の規模(マグニチュード) 震源における地震の破壊力に相当するもので,又地震の総エネルギーとも考えられるものであり,地震の特質を示す大切な量であります。然しこれは緊急時は勿論平時でも相当手間を掛けても仲々資料不足で推定に困ることが多い。然し米国の有名な地震学者Richter博士の研究を元とする各国の学者の報告によれば,震央距離と地動の最大振巾の簡単な組み合わせから出した「地震の規模」は上の総エネルギーと簡単な関係があります。M=8.5の様に書くことがあり,世界最大級の地震はM≒8.5位でM=9の地震は未だ知られていません。海底でM=8.5位の地震が起れば大津波が生じ得るといわれています。昭和23年の福井地震はM=7.2で海底にこの位の地震があればごく弱い津波が生じ得る程度とされています。まづこれより小規模の地震では海底に起っても津波による被害は先づ無いものと考えられています。この様な訳で震央距離と最大振巾を各所のものについて1枚のグラフに記入して可成り信頼の出来る規模が推定されます。又陸地の場合であれば大約の規模から被害についての見方も多少つくことになる。従って通信線の障害があっても,震源地附近の震度について多少の見当がつくので災害対策,調査方針を立てるのにも,又は情報を発表してデマや人心不安を除去するのに役立つ次第であります。然し津波予報を出すにも色々な困難なことが沢山あり,将来の研究によらなければ不明のこともあります。例えば大きい地震が必ずしも大きい津波を生ずるとは限らず,又湾によっても大変異った波の高さになるのも充分には分っていない。又津波の伝播速度は深海では速く,浅い海程速度だ小さい(4000mの深さの海では毎秒200m,1000mの海では100m毎秒,40mの深さの海,20m毎秒)ですが海岸から余り遠くない所に起った地震による津波では,地震を身体に感じてから津波来襲までの余裕時間が短いので,この様な場合には現在程度の気象庁の津波予報では時間的に間に合わせることが出来かねる次第です。この様な場合には沿岸での自衛体制がどうしても必要なことになります。又日本近海以遠の地震の場合には,震央を決めるためには日本の地震電報だけでは困ることが多い。例えばカムチャッカ半島附近にも大津波を生ずる地震があるのですが,これには震央が陸地か半島沖であるかによって全然ちがって来る。この大事な区別をするためには上に申した様に外国の地震電報が欲しい訳です。
(ホ)地震の予知 ここ数年の間だけでも殆ど毎年の様に地震予知のデマが沢山飛びました。大小さまざまの影響を社会に与えています。曰く印度の占師,生命判断○○氏,等々これ等の照会に対しては「目下の所ではそれは科学的に出されたものではないでしょうから当方としては全然信じていません……」と答えています。又例え科学的な予知が発表されるとしてもその精度が必要な程度のものでなければなりません。社会的に判断してその功罪が相半ばするなちば,未だ発表の段階のものとはいえないでしょう。すなわち,時刻・場所・強さが有益な程度に可成りくわしく判ることが必要である。不安動揺を社会に与えるだけでは困る。すなわち科学的な予知では科学的に測られた資料に公式やグラフ等を使って上の三要素の時刻・場所・強さが実用になる程度の確かさで推定出来ることが必要条件であります。特定の個人の判断でなければ測定値の処理が出来ぬ様なものはまだ科学技術でないと申せましょう。これまでいくつかの前兆現象と思われるものがありました。三陸沖の大津波地震の前にはそれ迄取れなかった種類の魚が沢山取れたとか,鳥取地震(昭和18年)の直前に生野鉱山内の傾斜計に1日位前から急に傾斜の変化が表われました。この外にも地盤の隆起や井戸水の変化が地震の前に起ることもありました。しかしこれ等の現象を予知に利用出来るまでにするためには細かい観測網目である地域をカバーし,適当な数の地震資料が作れるまで根気よく測定を続ける必要があります。


技術者に勇気が必要な時あり
政治の問題はさて置いて論じても,警報を技術者が出すのにも叡智を働らかせて勇気を出す必要がある場合が必ずある様に思うがどうであろうか。津波警報を例に取って説明したい。


(イ) 津波警報の技術的限界 今回のチリ地震津波の大教訓を待つ迄もなく,私達の出そうとしている津波警報技術は完全なものではない。もともと技術・学問はそれ自体が過去の経験をもとにして出された統計であり,学説であり又理論である。過去に例のない現象に対しては類推の利く類似現象であることもあれば又,判断の出来かねるものもあり得る。すなわち初めての現象であるか又は解析の不充分なために判断が出来なかったかであろう。この様な場合に自然現象に対する理解判断が欠如した儘又は不充分な場合に警報を出すことは技術の限界外又は境界域において出すことである。この警報は技術者が出したものであっても技術的警報とはいえないであろう。技術的に無理でない警報だけを出して済まされる場合は,まづそれ自体では問題は起らないのが普通である。社会の要望を充たすためには,たとえ技術的に完全に出来上ってはいない方法でも,人命救助を主眼とする防災としての警報には上述の「技術者による技術的ならざる警報」というものが出来上って来る。たとえ技術者当人は出しにくいとか出したくないとか考えても,警報を出す羽目に追い込まれて来ることがある。しかもその担当者の手中に多くの生命の存在が完全によりかかった状態しかも切迫した瞬間がある。何という責任の大きい状態であろう!しかも技術的な資料が不充分であるとは!因果というべきか?これに反して素人であろうとも科学的判断を下せるべき資料がある場合には,上とは逆に素人による科学的警報と申せるものが出来る。安政の大地震で村入の急を救った「生ける神」浜口儀兵衛や北海道有殊山の明治43年の爆発の際に村民を避難させた駐在所のお巡りさん飯田誠一氏の例は後者でありましょう。
(ロ) 技街の限界近くでは勇気を必要とする 話がこれまで来れば筆者の意味する所は明らかでありましょう。しかも猛勇では困る。社会全般への色々の影響を平常からよく研究して調べて置き,いざという場合には時期を失せず立派な判断を下せる勇気が必要と思う。決断の出来る社会人としても立派な人間であることは必須の要件である。技術を持たぬ警報担当者は問題外として,勇気を持たぬ社会に無関心で社会を理解出来ぬ警報担当の技術者というものは,いざという場合に役に立たぬものと考えて置いた方が安全と思う。


ハワイにセンターを持つ太平洋津浪警報組織
1946年(昭和21年)4月1日のアリューシャン地震による津波は日本には殆ど影響はなかったが,ハワイで大被害を受けた。これがキッカケとなって太平洋周辺に要所々々から地震の電報がハワイ地磁気観測所宛に打電される。これによって地震の震央・規模・時刻が分る。津波の報告も太平洋各地から自記検潮器の警報装置付きのものが置いてある所から打電されて来る様になっている。又津波発生後の状況もハワイからの問合わせなどによって刻々にその模様が集められる。この様に,地震電報で調べた結果からと津波電報の両者を使って,ハワイの津波警報業務をやっている。何しろ地震波はつなみの伝播よりづっと速いので遠い地震であれば,尚更,待機余裕時間が長い。ハワイにカムチャッカ附近から津波が来るまでは約6時間の余裕がある。
チリ地震つなみの場合には地震波は約20分間で日本各地に到達したが,つなみは約22時間もかかって日本に来た。又過去の例をしらべて見ると日本につなみが来襲した様な原因となる地震の震央は大体は決っている。地震の起る場所も大体は地震帯にあり,その中でつなみを起すつなみ地震の分布はその一部である。とに角ハワイではつなみで大被害を度々被っているが,その余裕時間は数時間はあるのが普通である。ところで上の警報組織が出来てから直接のつなみでは効果があった。然し警報が必ずしも適中するとは限らず,警報が出たのに被害のない事が何回かあった。その中には実際にも大津波が来て大被害を受けたことも起った。すなわち住民の被害は警報に対する信頼度にもより「狼と少年」に似たことも起りかねない。警報が未だまだ完全ではない以上は,この様なことがハワイのみならず当分は日本にも起るものと考えざるを得ない。残念ながら努力によって災害の軽減につとめるより方法がなさそうです。
日本近海の明治5年以来の主なつなみ地震の分布図を下に示しましょう。小津波のものは略しました。


防災連絡会を名地で作ること
防災業務が担当官庁だけの努力で効果を期待することの無理であることは明瞭であります。警報と防災に対する理解によって避難・救護等成果は大いに異り全般の非常体制が立派に活動するか否か違って来る。又一般住民の心掛けが非常時の事を平常時に無視している様では全然効果が上る筈がない。つなみに限らず近代生活では小供も大人も昔からよくいわれる,地震・雷・火事・おやじに対するものと同列に衛生・つなみ・暴風などに対して絶えず覚悟を決めていざという時にまごつかぬ様にしたいものです。それには各地に官民一体となって話し合いを不断からやること。適当な防災専門家を中心に防災知識を広め,防災体制をあらかじめ相談して置くこと。起りそうな災害を想定して演習を行うことなど……。あるいは危険地区をあらかじめ想定して注意を怠らぬこと。まあこの様なことを色々話し合い研究して行く様な会を作ることは大変良いことであろうと思います。


※気象庁地震課

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地図 日本近海の1872-1960 主なつなみ地震
6.津波あれこれ 武久義彦*

はしがき
5月24日朝,わが国の太平洋岸一帯は,チリ沖から1日がかりでやってきた津波に襲われ,かなりの被害を出したことはまだ記憶に新しい。安政の大津波,三陸大津波とか,近くは南海道沖地震,十勝沖地震に伴った津波など,津波の恐しさは十分に知らされている。しかしこれらの大津波はみなわが国沿岸で発生したものであり,太洋をひとまたぎして伝わってきたものではなかった。今回のものとはおおいに趣を異にしていたのである。やれ気象庁の黒星であるの,教科書にも書いてないことであるのとひとさわぎあったのは御存知のとおりである。和製の津波のみならず,舶来の津波にまで襲われるとなると,海辺に住んでいる人びとはおちおち寝てもいられない。さすがにTsunamiといえば世界中で通用するわが国だけの事はあるなどと感心してばかりいるわけにはいかない。
それでは津波とはどうして発生し,どのように伝わってくるものであろうか。事例をはさみながら話を進めよう。


津波の原因と機構
発生
「地震もなかったのに不意にやってきた」と5月の津波の被災地の人びとがいうのは,裏をかえせば,今まで襲われた津波では地震があって,その後何十分か経って津波がきた。すなわち,地震と津波の発生とは密接に関係しているということである。今,世界的にみても,大きな津波を起した地点はほぼ地震帯の上にある。けれども,海底で地震が起ってもそれだけで目に見えるほどの波を起すことはごく稀であって,海底地震が海底地辷りをひきおこしたり,断層崖の生成をみたり,海底の陥没,あるいは隆起等海底が急激に変形した時に生ずる。また,海底火山の爆発,さらには火山泥流が海中に流入した場合とか,氷河から氷塊が分離して氷山を生ずる場合にも発生することがある。噴火に関連して発生した津波をいくつかひろってみると,1883年,かのクラカトアの爆発によって,ジャワ・スマトラの沿岸は20〜30mの津波に襲われ,3万2千人の死者を出し,その余波は鹿児島湾や相模湾をも襲っている。1868年,ハワイのマウナロワでは火山泥流が海中に突入して津波を起しているし,日本では安政年間に2度にわたり桜島付近の海底噴火によって津波が起きている。寛政4年に有明海に起った津波は,山崩れによる特殊な例として記しておく価値がある。島原の前山(眉山)が崩壊,有明海に突入して津波を起し,島原・肥後・天草各地で計1万5千人以上の死者を出す惨事があった。いずれにせよ津波は重力長波とよばれるものであって,海面から海底までの水柱がほぼ一様に動く性質を有し,海底で地形変化がおこるとその地域の海面は数回から数10回の上下振動をくりかえし長波は四方に伝播していくのである。
伝播
津波がくる前には海水がひくといわれている。実際そういう場合が多いが,必ずそうなるというものではない。昭和15年,北海道積丹半島沖で発生した津波は,利尻島沓形に2m程度の波を送ったのが最大という程のものであったが,どこの検潮記録をみても最初の波は上向きであった。また,明治29年の三陸津波での記録によれば,鮎川では最初ひいているのに対して北海道花咲での波は最初上向きである。津波はその性質上,それが伝わる間に波の形はあまり著しくは変らず,海底が隆起した場合には最初に海岸に到達するのはどこでも上げ波で,陥没した場合はひき波である。だから前述の場合,三陸方面へは陥没地帯からの波がまた花咲方面へは隆起地帯からの波がおのおの最初とどいたのだということができる。
津波が伝播するとき,反射の影響ということが考えられる。それで海堆がある場合には著しく勢力を失うとされ,三陸方面に発生した津波が東海道方面にはおよばず,また東海道方面のものが三陸方面では著しく弱まるのは七島—マリアナ弧のあるためとされている。しかし高橋竜太郎氏によれば,海堆の傾斜面が津波を反射する率はきわめて小さく,海底が階段のようになっていないかぎりほとんど無視しうるものとされ,前記の事実は房総半島において海岸線の向きが南北方向,東西方向に急変していることから,廻折現象によって陰にまわってくる弱い津波しかおのおの到達しないからだということである。
津波の伝播速度はかv=√gh(gは重力の加速度,hは海の深さ)であたえられる。たとえば海深1,000mの所で秒速100mに近い。津波の速さは深さだけできまる。だからチリ沖で発生した津波が太平洋を1日たらずで伝わってきたことから,逆に太平洋の平均の深さは4,000m位という答がでてくることになる。また,前式から津波は浅いほうえ浅いほうえと方向転換することも理解されるであろう。
波高
一つの津波がきて次の津波がくるまでの時間は普通10分以下のことはない。前式から深さ4,000mの太洋上では津波の伝播速度は毎秒198mであるから,10分の周期としても波と波の間は120キロに近い。まして周期が30分もあれば356キロという数字が出てくる。これだけの波長をもっていれば,太洋上での津波の高さは数mを出ないから(キューネンの記述によれば1〜2フィートとある)としても波などと感ぜられるはずがない。このような津波も海岸近くに到達すると,海が浅くなるために波長が短くなると同時に波高を増大し,海岸地帯に著しい損害を与えることになる。なにも知らずに沖からもどってきた漁師が,部落の惨状に忙然としたというような話はよく知られている。
明治29年,昭和8年の三陸津波において,湾の主軸(湾の口の中央と湾奥を結ぶ線)の方位と,湾の口の中央から浪源への方位との差が小なる程,つまり湾が浪源に向って真直に開いている程高い波がおしよせている事が知られている。しかもそれは対数的関係をもち,方位の差が小さい程波高が急激に増大している。今度の津波でも,湾の向ぎでかなりの差が出ているのが三陸沿岸で認められる。
海底地形や海岸地形は波高に著しい影響を与える。波の勢力が集中しやすい海岸では波は極端に高くなることがある.しかし,よくいおれているように湾奥で波高が大きくなるとばかりはいえない。昭和8年の三陸津波の時でも,湾奥が大の所もあれば,そうでない所もある。また,その時湾奥のほうが大であったものが,今回はその逆に奥程低い,ということもある。つまり,ある地点での津波の高さは,発生した津波の勢力,発生地点からの距離,湾の向き,湾の形状,海岸地形,海底地形等々多くの因子に関係する。また津波の波長の大小も関係してくる。これについては副振動の項をみていただきたい。
津波の型
一口に津波といっても,岸に打ち寄せるようすはいろいろある。一般的にいえば,津波が岸に近づいてくると,波の山の部分と谷の所では水深に大きな違いが出てくる。当然山の部分のほうが早く伝わるようになり,波は前にのめった形となって,著しい場合には磯波のように砕けてくることになる。遠浅の海岸に波高の大きな津波がくると,あたかも水の壁がおしよせてくるようであるという。これに対して波高があまり高くないと,岸深の海岸では,およそ津波ということばから受けるニユアンスとはうらはらに,じわじわと海面が一面にあがってきて,またひいていくといった形をとる。函館の人びとが今回体験されたのなどまさにこのタイプのものである。
副振動
海湾の水面は潮汐による昇降の他に,その湾固有の定期的な振動をおこなっている。この副振動は通常は非常に小さいものであるが,暴風雨,津波等の場合に著しい大きさに達することがある。特に外部からきた津波の周期とその湾固有の副振動の周期が一致すると,水位の変動は著しくなる。チリ地震津波で大きな被害を出した釧路国霧多布は,陸繋砂州の上にある集落である。その砂州は2〜3mの海抜高をもって浜中,琵琶瀬両湾を境している。浜中,琵琶瀬両湾はそれぞれ固有の副振動の周期をもっているはずである。はるばる太平洋を渡り,両湾に同時に進入してきた津波によって,両湾とも普断とは桁はずれの副振動による波が起ったにちがいない。両湾のそれは周期が違うから,霧多布でみれば,片方で水位の上った時,反対側では却って引いているということも当然出丁くる。そのような時地盤高を越える波がくれば,海水な反対側の水位を高めるべく急流となって砂州を抜けることになる。このようにして,霧多布は前後12波にわたり浜中湾より8回,琵琶瀬湾より4回津波に襲われた。土地の人の言葉をを借りれば「往復ピンタをくらった」のである。


日本の津波
手元にある資料をたよりに,日本沿岸に起った津波の分布を図に入れてみた。実は,古く大森博士の描かれた同様の図があったのを知らずに作業したのであるが,ほぼ同様の結果を得,日本国中津波に襲われたことのない海岸はないといった盛況である。中でも三陸,土佐,紀伊方面に著しいが,分布図を描く課程では,はじめ関西方面にばかり現われ,三陸沖はリードを許していたが,中途からじりじりとおいあげ,ついに分布のトップにたってしまった。けれども,地域ごとに時代別の頻度を考察するのに,この古い記録から云々するのは早計である。津波の伝播よりも文化のそれを考えたまうがよいと思われる。ただ,時代的にみると,地震活動の著しい時に津波の発生も著しいことはよく現われてくる。また,地域別に最近の発生状態をみると,三陸・北海道方面や日本海方面は大体平均して発生しているのに対して,東海道,南海道方面は安政元年の2度の大津波からとんで昭和19,21年の南海道沖というように,またつずけて発生するという気まぐれ型である。
津波が海岸に寄せた時,その波高はいろいろな因子によって変化するから,ある地点では壊滅的な打撃を受けたのに,すぐ隣の浜では大事にいたらなかったということが起るのは当然ともいえる。気仙沼湾は,湾の形が複雑で摩擦が多いため津波の勢力は著しく弱まるとされている。また,大阪湾は古来津波に襲われることが多く,東京湾ではあまり聞かないのも,後者ではその形状や副振動の周期などが,津波にとって不利であるらしい。
規模は小さかったけれども,関東大地震の際相模湾に生じた津波は,発生初期の状態を観察し得た点で興味深い。地震に際し,相模湾の海底では200m前後の隆起,沈下がみとめられた。中村博士によると,土地の隆起した相模湾沿岸から三浦半島までは,地震後急に水がひき,その水は湾東南部の沈下地帯に向けて流れていった。また,熱海方面に向った波があり,それは伊豆半島と大島の中間で,外洋から沈下地帯に流入する水とぶつかり,いっしょになって小田原付近から東進,鎌倉を襲い,南転して房総をかすめて外洋に出ていったという。今までもたどりついたことはあっても,舶来の津波でわが国沿岸がかくも大規模に被害を受けたことは,今度のチリ地震津波がはじめてである。舶来の物をありがたがる人でも,このような舶来品ばかりは願い下げにしてもらいたくなるであろうが,また中には,やはり舶来品はどこか違うねと感心する人もある。たしかに違うのであって,だいたい国産の津波ではある地方の海岸は20mを越える波高を示すような状態でも(たとえば昭和8年三.陸沖津波では岩手県綾里湾で23m),三陸津波とか,あるいは南海道津波と呼べるように,被害の出る程の津波は大体ある地方の沿岸に限られていて,今回のように程度の差こそあれ,北は北海道から南は九州まで被害が出たという全太平洋岸的規模とでも称すべきものは見当らない。ひとくちに津波といっても,その波の型はいろいろあることは述べたけれども,舶来の津波は一般におとなしい,じわじわと海面がもりあがる型を示すらしい。もともと地形的にそのタイプを示しやすい所があるのではあるが,三陸沿岸を踏査された大矢雅彦氏のお話では,大体どこでもそのようなタイプであったとのことで,山なす怒濤のうちよせた過去の国産品とは違うどいう。北海道各地でもそのような話が一番多く聞かれたが,厚岸湾では鎌首をもち上げた蛇のようにがばっがばっと海水が折りかさなってもち上がり,かつよせてきたという,霧多布では山をなしてきたという人もあったが,それも何回かのうちの特殊なもののように感じられた。ほとんどが海面がもちあがるようにしてついに砂州を越えたのである。日本でのことではないが,舶来品でもシェパードがハワイで観察した1946年の津波は,写真でみるとそうおだやかなタイプではない。もっともこの津波は大洋を横切る舶来津波ではあっても今回のものとはちょっと性質が異なるものであって,それについてはまた後節でふれることにする。


世界の津波
クラカトア爆発の余波を受け,安政大津波や三陸大津波が北米で観測されたりしたことから,津波が太平洋をひとまたぎに伝わることは知られていた。このような大洋をわたる大津波にも,一様に伝播する型と指向性の強い型の二通りがあるらしい。1952年,カムチャッカ南端で起った津波は,太平洋にまんべんなくひろがったが,なんとチリ南部で最高の波高を示している(三好寿氏による)。伝播の途中のハワイ諸島ではかえって低いのであって,今回の津波に似た性状を示している。1946年,アリューシャン列島のウニマク島沖に生じた津波は,第二の型にはいるものであって,南北方向にのみ強烈な津波を送った。この特殊な津波について,すこし述べることにしよう。ハワイ諸島は最大の被害を出したが,波高はアリューシャン列島付近で最大を示し,アラスカのダッチ岬では海抜33mにあった灯台が破壊された。チリ沿岸のほうが,カナダやアラスカ沿岸より高い津波に襲われているのも興味深い。この津波は,ウニマク島沖の東西にのびる海底谷での陥没によって発生し,東西から流入し衝突した海水が,南北方向に強大な津波を送った`ものと考えられる。ハワイはちょうどその向きに当っていた。だがハワイ諸島沿岸での波高を調べると著しくふぞろいである。常識的に考えられるように,島の北側から南側に回るにつれて低下しているが,カウアイ島のように円型の島ではさほどでもなく,モロカイ島のような東西にとがった角型の島では低下が著しい。波高の相違の原因には海底地形も関係しているらしいのが,この大まかな図からも感じられると思う。もっとも,ハワイでは珊瑚礁の有無もきわめて大きな因子であった。珊瑚礁が広く,ことに潟をいだく海岸では波高の低下が著しい。オアフ島北岸はその発達がよく,他の島々の北岸はほとんど無視し得る程度のものであって,この事実に対応した関係も図から読みとられる。


津波による被害
大きな津波による海岸侵蝕は,津波と津波の間の数10年間に普断の風波が示すそれよりはるかに強力であり,また特殊な型を示す。津波による激浪は,通常の風波のとてもおよばぬ所に波蝕をおよぼすが,またおだやかに昇降する型の津波によっても,潮泣があがっている時に風波がその上に重なり,同様の結果を示すことがある。1946年に襲われたハワイ,カウアイ島北岸では,植被のある砂質の海岸に,およそ3mの比高をもつ波蝕崖が生じてしまった。また多くの溝状の刻みが残された所があり,これらはひき波の強い所に生じたらしい。1933年の三陸津波の際も,居住地が浜と化し,背後には崖の出現した所が多々あり,チリ地震津波でも,霧多布では多くの溝状の刻み目が残された。幅1〜2mから30m程度まで,深さ50cmから2m位のものであった。最大のものは砂州を切断し,「霧多布島」が生じてしまった。崖を生ずるまでいかなくても,砂浜が全般に低下し,海岸線の後退することが多い。狭小な浜をコンブ干場等に利用している漁民にとっては一大事である。
また海上,海底における被害もある。今回の津波にしても,真珠やカキの筏が流されたり(志摩,気仙沼),北海道厚岸湖のカキ礁のカキが澪筋に流されてしまったりしたのはこれである。
家屋に対する破壊力は,海水の流速に大いに関係し,浮力もまたこれに関与する。さらにおそろしいものは船,木材等の漂流物の衝突である。地形的には,背後に低い所があると盛りあがってきた津波はその空間をみたすべく多量の海水が急流となって流れこみ,家屋の倒壊,流出の多い所となる。浜堤の内側にある家屋など,それを越す程の津波にあえばきわめて危険である。津波の内陸への進入は川筋をとることが多く,川筋は危険度の高い所である。


*国土地理院地理課

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図1 大津波の震源
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図2 日本の津波の分布
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図3ハワイ諸島の1946年4月1日の津波の最高水位(Submarine Geology より)
7.地震の規模について(magnitude:M)(チリ地震調査報告より)

普通にいう「地震の大きさ」という言葉は二通りの意味に使用されている。一つは地震そのものの大きさ,つまり地震が放出する全エネルギーに関係したもので,これを規模(magnitude:M)という。もう一つは地震が起こったある地点におけるゆれ方の激しさで,これを震度といっている。したがって一つの地震があれば多くの地点で計算した規模はだいたい一定しているが,震度は震源地から近い程大きく,遠くなれば小さくなる。
震度階級は各国まちまちであるのに反し,規模の方は各国共通の尺度が使われている。これはアメリカの地震学者リヒター(C.F.Richter)が1935年に提案し,グーテンベルグ(Gutenberg)およびリヒターが発展させたもので,その定義はつぎのとおりである。
「震央から100kmのところにある標準地震計(ウッド・アンダーソン地震計と呼ばれる基本倍率2.800固有周期0.8秒,減衰定数0.8のねじれ地震計)の記録上の最大振幅(ミクロン(μ)単位)の常用対難の値をその地震の規模とする」。
たとえば100kmのところで標準地震計の最大記録が1cmのときは1cm=10000であ
るから,この地震の規模Mは,M=log10,000=4となる。実際には震央からちょう
ど100kmのところに地震計が置いてあると限らないので,任意の距離deltaにおける
最大記録振幅Aをあたえた時,ただちにMが求められるような換算方法が決めら
れている。たとえば日本付近に起こった浅い地震については1954年提出された
坪井式M=logA+1.73log delta - 0.83がよく用いられる。このほか震度を使った河角の式がある。
規模MとエネルギーEとの関係は学者によってかなり異なった換算式が発表されているが,次の表の中のEが1956年にグーテンベルグが出したLogE=11.8+1.5Mを用いたものである。又Mの値の解説は次の通りである。


Mの値の解説
M9 以上の地震は地震観測所が始まって以来起ったことがない。
M81/2〜9 の地震は最大級の地震で全世界を通じて10年に1度しか起らない。
M8 以七の地震は第1級の大地震で内陸に起れば大被害,海底に起れば大津波を生ずる。
M7〜8 の地震はかなりの大地震で内陸に起ると大被害を生ずることがある。海底に起れば津波を伴う。
M6〜7 の地震は内陸に起ると(とに震源が浅いとき)被害を生ずることがある。
M4〜6 程度の地震では被害を生ずることはほとんどない。われわれが時々感ずる地震は大部分この程度のものである。
M3〜4 程度の地震は震源地の近くで人体に感じることがある。
M2 以下の地震は高倍率の地震計によってのみ観測される。


最大級の地震M=8*1/2のエネルギーは4×10^24ergであるが,これは水爆4個分に相当する。しかしこの比較では両者のエネルギーをそのまま比較したわけであるが,実際にそれだけの火薬を地下に埋めて爆発させた時,そのエネルギーに相当する規模の地震が起るわけではない。火薬爆発の時地震波のエネルギーになるのは1/100以下といわれている(あとは熱エネルギーなどになる)ので,水爆では400個以上を要することになる。

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規模MとエネルギーEとの関係

第2編 チリ地震津波の状況

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写真 港マーケット附近の惨状、破壊された家、線路の上の残がい(大船渡町)
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写真 水におおわれた赤沢、地の森附近、左手前が電報電話局(大船渡町)
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写真 津波後の沼田地区(陸前高田市)
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写真 空から見た津波後高田町長砂附近(陸前高田市)
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写真 はかいされた川口僑
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写真 真洋丸船上より盛方面をのぞむ
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写真 セメント構内におしよせた激浪(大船渡市赤崎町)
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写真 最も被害の大きかった大船渡赤沢部落,ポツンと建っているのは電報電話局(大船渡町赤沢)
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写真 真洋丸船上より盛方面をのぞむ,流されてゆく民家(大船渡市赤崎田)
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写真 真洋丸船上よりセメント工場をのぞむ
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写真 1万トン岸壁より落下する泥水(大船渡1万トン岸壁)
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写真 何かに祈るより外にない気仙川の恐怖
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写真 気仙川をかけ上る津波の先瑞(陸前高田市気仙川姉歯橋上流)
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写真 橋げたを洗う第二波(陸前高田市気仙川姉歯橋)
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写真 恐怖の極、三日市浦(米ケ崎より三日市浦を望む)
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写真 一帯の海と化した気仙川上流々域(陸前高田市、気仙川上流の漂流物)
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写真 松も石堤も流され外洋とつながった古川沼附近(高田松原)
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写真 三陸村綾里港の異常干潮
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写真 気仙川上流隘れ始める
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写真 海水の調子を見まもり不安の綾里港
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写真 津波を突っ切って役場に向う自動車(三陸村越喜来)
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写真 二波、三波に不安の越喜来浦浜(三陸村)
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写真 川を押し上る津波(三陸村綾里)
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写真 差引を繰返す越喜来川(三陸村)
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写真 見たことのない海底の無気味さ(三陸村甫嶺,鬼沢)

第1章 私はチリ地震津波を体験した

TSUNAMI STURZFLUT
Tatsachenbericht aus Ofunato


In tiefen Schlaf versunken liegt die Hafenstadt Ofunato an der stillen und sicheren Bucht des Pazifischen Ozeans. Traume gleiten uber die Gesichter der Schlafer, die sich fur das bald wieder anhebende Tagewerk starken. Niemand weiss etwas von dem schaurigen Erdbeben in Chile, niemand hat etwas gehort von den starken Sturzfluten in Hawai, niemand ahnt auch nur bischen, dass diese riesigen Wogen die ganze Nacht hindurch mit 600 km Stundengeschwindigkeit uber den Ozean hinwegeilten und sich nun bereits vor den Gestaden Japans zu einem letzten ungeheuren Anprall rusten.
Plotzlich ertont die Alarmsirene der Zementfabrik. Kurze warnende
Stosse. Ich jage aus dem Schlaf und schaue auf die Uhr. Es ist 04.30
Uhr. Was ist los? Brennt es irgendwo? Ich trete ans Fenster und schaue
nach einem Feuerschein. Aber es ist schon heller Tag und nichts ist zu
sehen. Die Sirene verstummt. Es wird nicht so gefahrlich sein. Ich
begebe mich nochmals zu Bett, aber nur fur einen Augenblick! Denn in
diesem Moment ertont das scharfe Rauschen und Zischen sich schnell
bewegender Wasser. Ich sturze wieder ans Fenster, und da sehe ich sie,
die machtige Flutwelle, die mit unglaublicher Geschwin-digkeit wie
eine machtige Todeshand uber die kilometerbreite Ebene
hineingreift. Vorn die weisse Gischtwand, von der abertausend Zungen
vorsturzen, dahinter die schwere graue Salz- und Sandflut. Schon
sturzt sich die Wasserwoge an den Felsen, auf dem die Kirche
steht. Ich hore das Brechen und Poltern, wie wenn eine stahlerne Faust
an den Felsen schlagen wurde. In wenigen Sekunden bin ich draussen auf
dem Absatz des Felsens, wo die Muttergotteskirche 「Maria Meeresstern」
steht. Die Kirchenangestellten eilen herzu. Den Hugel herauf rennt die Nachbarsfamilie und zieht sich wahrend des Laufens die Kleider an. Ich gehe den Weg hinunter, aber er ist schon blockiert. Die Garage, in der mein Roller und das Velo stehen, ist schon mehr als ein Meter unter Wasser. Von der Stadt her tont ein gewaltiges Bersten und Brechen heruber. Hauser versinken in den Fluten und sturzen zusammen wie Zundholzschachteln; Dacher werden hergeschwemmt, Hausrat treibt in der, schmutzigen Bruhe, Balken und Bretter werden hin- und hergeworfen in dem Strudel und Gewoge. Das grosse Reisfeld vor der Kirche ist mit all diesen Trummern uberdeckt.
Zwischen dem Bersten und Krache ntonen die Hilferufe der Menschen, die sich auf die Dacher gefluchtet haben, auf den schwimmenden Trummern sich krampfhaft festhalten oder noch in den dahintreibenden und zusammensturzenden Hausern sind. Die Kochin ruft mit Tranen, ich solle doch etwas unternehmen. Die Kindergartnerinnen schreien nach den Kindern.... Aber alles umsonst! Ich gehe unruhig auf und ab. Aber niemand kann sich ohne Sicherung in diesen Strudel hineinwagen, in dem alles durcheinanderstosst, denn mit einem Mal muss die Flut wieder zuruckgehen, erst langsam, dann immer schneller und schneller und in ihrem Sog alles mit sich spulend, was nicht fest auf dem Boden verankert ist.
Viel Wasser bleibt zuruck. Aber einige Leute dort druben konnen sich schon daranmachen, jenen auf den Dachern zu Hilfe zu kommen. Zwei Manner arbeiten mit einem Seil. Hilferufe sind immer noch zu horen von den Menchen, die auf Dachern und Trummern Zuflucht gesucht hatten. Wir mussen immer noch machtlos zusehen, denn das Wasser vor uns ist tief, und kein Seil und kein Schiffchen ist aufzutreiben.
Und schon walzt sich das Wasser wieder heran, erst druben auf dem Fluss, in dem das Wasser rasend rasch ruckwarts treibt, dann uber die ganze Ebene hin. Wieder werden die Trummer erfasst, neue Dacher kommen angeschwommen, die Bahnschienen, die neben dem Kirchenhugel vorbeigehen, werden mitsamt den Schwellen herausgespult und prallen gegen das Haus des Nachbars, zerschmettern ihm die Hausecke und bleiben in den Wanden drin stecken. Im nahen Reisfeld bei der Kirche, wo kein einziges Haus gestanden hatte, liegen jetzt etwa zwolf Dacher.
Immer noch stehen vereinzelte Personen auf den halbzerborstenen Firsten und werden auf ihnen noch weiter ins Land hineingetrieben.
Die Flut zieht wieder ab. Vieles wird mitgespult ; aber das meiste bleibt nun liegen inmitten des schmutzigen, stinkenden Schlammes. Niemand schreit mehr. Vereinzelt werden noch Gefluchtete aus ihrer gefahrlichen Lage befreit und gerettet. Das Wasser zieht ab und die Wege werden frei. Ich eile mit dem Katechet sofort in die Stadt, um nach den Christen zu schauen. Sind sie wohl alle davongekommen, oder hat sie die furchtbare Schnelle der Flut uberracht? Da wird ein Toter herausgetragen, dort einige Leute, die an einem kraftigen Mann Wiederbelebungsversuche machen. Die ganze Stadt ist ein riesiger Trummerhaufen. Wir klettern uber die zerstorten Hauser, uber den Hausrat, der uberall herumliegt, waten durch die grossen Wasserlachen. Von den Christen sind hier in diesem Quartier nur drei Familien getroffen worden. Niemand ist mehr im Hause, aber die Bewoh-ner konnten sich, wie ich spater vernahm, alle retten. Die beiden Hauser, in denen die drei Familien wohnten, sind sogar noch erhalten, nur die Fundamente sind gehoben und arg verspult. Das Wasser hat das ganze Parterre gefullt, und darum ist fast aller Hausrat dahin, weil die japanischen Hauser durchweg niedrig gehalten sind. Aber ringsum welche Verwustung! Nichts als Trummer und Trummer! Ueberall suchen Menschen nach ihren Angehorigen: da und dort weinen Frauen oder sitzen fassungslos auf den Resten der zerschlagenen und zerstreuten Habe. Aber niemand schreit laut und wild, niemand ver-zweifelt. So schnell ergeben sie sich ins Schicksal! Naturkatastrophe! Da ist halt nichts zu machen....
Kurz vor sechs Uhr bin ich wieder in der Kirche, und es geht nicht
lange, ertont der Schrei: 「Noch eine Welle!」 Tatsachlich, wieder das schaurige Beispiel wie vorher: die rasenden Wasser uber die Ebene him, der Anprall an die Hauser, die machtige, schwarz-graue Flut, aber langsamer und ruhiger als das erste Mal. Die Wasser bleiben diesmal lange liegen. Ueberall stehen die Leute auf erhohten Platzen und schauen stumm dem Schicksal zu. Ja, vorlaufig ist nichts zu machen.
Wir gehen in die Kapelle. Heute ziehe ich zum hl. Opfer die schwarzen Paramente an, und mein Herz schreit blutend zum Herrn. Warum nur, warum nur hast Du Dein Volk so geschlagen? Erbarme Dich aller, die von der kalten Hand des Todes so plotzlich hinweg-gerafft wurden! Erbarme Dich aller, die ihrer Lieben beraubt wurden! Erbarme Dich aller, denen ihre Hoffnung zerschlagen wurde! Gib, dass Herzen und Hauser sich wieder aufrich-ten! Mach, dass der Schlag allen zur Besinnung und zum Heile gereiche!
Im Verlauf des Tages wird langsam das Ausmass des Schreckens bekannt. Ueber funfzig Tote. Zum Gluck kam die Sturzflut nicht in dunkler Nacht, sonst ware die Zahl der Opferein Vielfaches. Mehr als 200 sind verwundet. 1200 Hauser sind ganz oder teilweise eingesturzt und verschwemmt. Hunderte und Hunderte von Familien sind obdachlos, alle Verbindungen unterbrochen: kein Telefon, kein Elektrisch und an vielen Orten-oh Ironie des Schicksals! kein Wasser! Unsere Kirche hat, da sie auf einem erhohten Platz steht, keinen nennens-werten Schaden erlitten; nur die Wasseranlage ist zerstort.
Nun sollten wir helfen je schneller, desto besser! Hoffentlich erbarmen sich viele Menschen, die von dem schweren Schicksalschlag horen, unserer Lage. Bis alle wieder Nahrung, Kleidung und Obdach haben, wird viel eingesetzt werden mussen. Wust und leer liegt die Stadt nun da. Aber tatkraftige Bruderliebe wird aus dem Chaos neues Leben wecken.


P. Alois Wolfisberg, Ofunato

1.つなみ(スイス国ベツレヘム誌1960.5.9所載)

津波(大船渡の実情)
太平洋の入海の一つ,静かで安全な湾に望む大船渡という港町は深い眠りの中に静まりかえっていた。やがて間もなく新たに始まるべき明日一日の仕事にそなえて,人人は十分の睡眠をとっているのだ。その寝顔の上には希望に満ちた夢が祝福のうたげを繰り拡げているのであろうか。しかし……此の時すでに恐るべきチリ地震津波がハワイを席巻し,更に刻々と,ここ大船渡の町に襲いかかりつつあることは知る由もなかったのである。
突然セメント工場の警報のサイレンが鳴り響く。短かい吹鳴の警告の響!私は飛び起きて時計を見る。午前4時30分だ。何でしょう?火事でしようか?窓際にかけ寄って火の手を探し求める。しかしも早や明るくなった空には何も見えない。サイレンは吹鳴をやめてしまった。大いしたことはないらしい。私は再びベットに戻る。そして布団にもぐる。その瞬間!荒狂う水の音が物凄い勢いで私の耳を打つ,
またもや窓際に飛びかかるように私は馳け寄る。……おお!!私は驚きの目を見張った。何と恐ろしくも巨大な津波よ!!それは呪いの巨手を大きく拡げてその魔の手の中に広い平野を握りつぶそうとするではないか。白い波頭の下に,悪魔の舌とも思われるグレーの波が炎のように押込んで来る後からは,塩と砂と泥のドス黒い不気味な波が押寄せる。
早くも波は教会の建つ丘の岩に襲いかかる,鋼鉄の拳が岩をなぐりつけるような音が聞える。私は光のような速さで,海の星なる聖母マリヤの像にかけ寄る。教会の人もみんな走って来る。下の隣家の家族もあわてて着物を着ながら馳け上って来る。私は下りて行こうとするが,道はすでに水で一パイだ。スクーターや自転車の置場はもはや水深1メートルの水の中に没している。
町の方からは家のこわれる音,木材の折れる不気味な音が,ひっきりなしに聞えて来る。家は波の中に沈み,マッチ箱のように崩れ潰れる。屋根が流れ,家具は泥水と共に漂流し,丸太と板は渦と激流の中にもまれる。教会の下の田畝はそれらの漂流物で一パイになる。
屋根に逃れ,流木にしがみつき,潰れた家の中にもがく人人の助けを呼ぶあわれにも淋しい声が,これらの呪われた地獄の響の中に交錯する。
私のコックさんは泣きながら,何とかして下さいと私に叫ぶ。幼稚園の先生は子供達の事を案じて口ばしりながらふるえている。
………………………………………
しかし全部が無駄だ。私はあわてて右往左往する。誰だって無事に此の大事件を処理し得るものはないであろう。
やがて波が引き初める。初めはゆるやかに,そして忽ち激流となって引いて行く,地上の凡ての物はこの引潮の力に引ずられて,どんどん沖に出て行く。
引いた後には沼のように水が残り,屋根の上に逃げている人人は今の中に助けてもらわなければならない。二人の男はロープを使って助けようとしているが,これで果してどれ程の人を助けることが出来るだろうか?屋根の上の人と潰れた家の下に居る人人は相変らず助けを呼んでいる。しかし私達はまだ何も出来ない。それは教会の下の水はまだまだ深く,ロープも船もないからである。
再び水が押寄せて来る。盛川は激流となって逆さた流れ,それがたちまち平野に溢れて満面海となる。またも漂流物は水におどりながら舞いもどり,幾つもの屋根が押上って来る。教会の涯下を通るレールは枕木と共に持ち揚げられ側の家を突き抜いて横たわる。下の田畝には一軒も無かった筈の家が,今は12〜3戸も屋根が並んでいる。数人の人が屋根に乗ったまま流れて来るのもある。
波はまた引いて行く。悪臭を発する泥の中はおびただしい漂流物である。もう誰も助けを呼ぶものがなくなった。屋根の上に逃れた人人は辛くも救われる。道路もようやく歩ける様になったので,伝道師と共に信者の家を訪ねるため町へ走って行く。「皆救われたろうか?それとも恐ろしい波に捲き込まれてしまっただろうか?」ここでは死体が運ばれているし,あそこでは盛んに人工呼吸をやっている。町全体は全く廃墟である。崩れてしまった家,四散した家具を越えて水たまりを渉って行く。浸水した三人の信者の家を訪れたが家には誰もいない。ほかの人から聞くと御家族はみんな御無事で外に避難しているのだそうだ。日本の家は土台が低いから家具は全部流されてしまった。どこへ行っても破壊ばかりだ。人人はいたるところで家族を探している。女の人人は,シクシク泣いたり,また,呆然自失の有様で荷物の上などに坐っているが,誰も大きな声で叫けぶような人はない。これは日本人の伝統的な心の強さであろう。また運命としてあきらめと覚悟とが早いのであろう。「自然の災難だ」仕方がない………………。
6時少し前にまた教会に戻ったが,また津波だという声がきこえる。本当だ!前と同じような場面が見える。平野を疾走する恐ろしい水!!家とぶっつかる水!!しかしそれは最初に比べると稍静かだ。水はかなり長く残る。人人は高台から運命の赴くところを見まもっているようだ。今のところどうしようもないのである。
礼拝堂にはいって行く。今日は礼拝のために黒い祭服を着け,私の心は血を流して主に叫ぶ。どうして!!どうして!!この民をこんなに打ったのか。死の冷い手に突然捕われた人人を憐んで下さい。家族の人を失った人人を憐んで下さい。希望を失った人人をあわれんで下さい。心も家も立ち直るように!!この災難はみんなにとって却って反省と救のもとになるように!!
その日のうちに段々津波の被害が知らされて来る,50人以上の死者が出たが,しかし夜でなくてよかった。もし夜だったら大変な死者が出たであろう。200人以上の負傷者,1200戸の家が全潰,半潰,浸水の被害を受けた。何百戸の家族は泊るところがない。凡ての連絡は切断されて,電話もなく,汽車もなく,道路もない。呑み水さえもない。教会は高台に建っているので自家水道のポンプが動かなくなっただけで殆んど被害はない。
これから私達は,出来るだけ早く救援しなければならない。この大災害の報道を受けた人人の中から,たくさん救援に起ち上る人人のあることを待望して止まない。みんなに食料と衣類と屋根とを与えるためには大きな救援運動が必要である。今大船渡の町は荒廃の極に達した有様だが,人人の人類愛と兄弟愛とは,この荒廃の中から新しい命を呼び起すことであろう。


オオフナトにて,
ウオルフィシベルグ・アロイジオ

2.チリ地震津波を見て 赤崎 金野徹

夢破られたサイレンの音
けたたましいサイレンの音に目を覚ましたのは確か午前四時十分だったと思う。てっきり火事だろうと思い,むっくり起きて寝巻のまま,例によって裏の雨戸をあけ・任地猪川町の学校の方の空を見る。(サイレンが鳴るたびこうしないではいられない気持はみなさんおわかりの事でしょう)何の徴候もないので今度は多分大船渡町の方だろうと思い(よく大船渡町に火事があるので)前庭に出て大船渡地区を眺めたが,火事の気配は何処にもない。


消防自動車マイクで警報
そのうち下の方の人々が(私の家は海抜50米の高台にある)海岸の方に走って行くので,何か海岸に事件でも起ったのかと思っていると,消防自動車がマイクで「津波が来るぞ,物すごく潮が引けている。津波が来るぞ高い所に逃げろ」と叫んで来る。


海は動かず
なに津波,津波とはおかしい。地震もないのに津波など来るものかと思い海をみると,海も一向水の動くような様子もなく,全く平穏そのものである。後で人から聞くと,引き潮は文字通り物すごく余程遠くまで海の底が見えたのだそうだが,私の家からは通称館という高台と,観音様の森と,磯崎という岬,人家の屋根にさえぎられて海の岸は見えず,よその屋根越しに遠く大船渡湾の中央部が見えるだけなので,海は何の変りもなく穏やかに見えたわけである。


やがて大潮来たる
かりに津波でも大した事はあるまい。(地震がないのだから)何れ大潮の類だろう位に考えて眺めていた。そのうちにも消防自動車は繰り返し繰り返し津波警報よばわり,高所に逃げろ逃げうと往ったり来たりする。何を騒ぐのだろう,と口に出かかるような気持ちでみていると,やがて,なる程海の水が高くなって来たようだ。それでもなお,ははあやっぱりこれは大潮だ。(津波ではない)と思っていると,向うの親戚の家が段々水の中に沈んで来る。おや,これはかなり大きな大潮だぞと思ったが,未だ津波だとは考えなかった。サイレンはひっきりなしに鳴っている。


やつばり津波かと思う
そのうちこんどは県道を越えて,私の家に後側になっている赤崎小学校の庭に,大川のように海の水がはいりはじめた。かき養殖用の浮き樽や,板片や,海岸のごみ等が流されていっしょにつっぱしって来る。この時はじめて,これは物すごい津波だと思った。そして地震がなくても津波が来るものか,いやそういえぱ確か昨日地震があった筈だ,など突差の場合いろいろのことが頭をかすめた。


流れ出た大きな屋根
まもなく上げ潮は止み,こんどは水が引きはじめた。伺処からか異様な音が聞えて来る。しかし見える範囲の山口部落には,流された家も,つぶされた家もなかったので,やっぱり大潮かなと思っているうちに,湾の中程に,奥の方から流れ出たらしい大きな家の屋根が見えて来た。この時はじめて,今度こそびっくりした。こうしてはいられないと思い,家の中に飛び込んで寝巻を服に着替えて表に出る。下の方から避難して来た人の話では生形や宿部落は全滅だという。私の家から赤崎小学校の二階建の建物が屏風のように立ちはだかっているので,そっちの方は全然見えない。宿部落には弟の家もある。心配だがおそろしくて行けない。が少し下の方に行ってみる。水はどんどん引いている。消防自動車はまたも「引き潮は大きいそ・また来るぞ」とマイクで言って廻る。


二度目の大潮に息をのむ
「また来たぞ」と大きく叫ぶ声がきこえる。あっちでも叫んでいる。こっちからも叫び声が起る。サイレンが鳴りひびく。急いで家の庭にかけ上る。また水が高くなって来た。向うの親戚の家が再び水の中に沈んで来る。学校の庭にも水が流れ込みはじめた。サイレンは鳴りづける。息づまるような思いだ。やがて上げ潮は止まる。前よりも高かったのではないかと思う。


山から瞰て唯呆然
また潮が引きはじめた。この時ひよっと,山にのぼってみる気になる。家の東側の山は相当高いので,生形も宿部落も一望に見える。山に上って一目瞰て唯呆然!!家は殆どない。弟の家も,影も形もない。人に間違いがなければよいがと願い,警報が出てから津波が来るまでには相当時間があったのだから,誰も死ぬようなことはなかったに違いない。と固く期待しながら瞰下す。


荒れ狂う潮の流れ
野島とこっちの岸の間の波が川のようになって引けている。家や,舟や,材木などが,もみくちゃにされながら流されている。荒狂う魔物でもみるようで,ぞっとする。湾内は一面に漂流物が浮いている。大きな汽船まで流されている。引き潮は止んだ。海はしばらく穏やかになる。やがてまた潮が上げて来る。「また来たぞ」という叫び声がそちこちから起る。サイレンが鳴り響く。野島と岸の間の海は逆流となって逆巻く。しかしこんどは余り高くは来なかったようだ。こうしてこの後何度も繰り返し,津波は段々少さくなったもののようである。そして私のみた第一波は4時40分頃であったと思われるし,第一波と第二波の問は4〜50分位はあったような気がする。


余りの被害にカメラを向けかねる
津波も余り大きくは来なくなった。そろそろ学校に行かなければならない。朝食もとらなければならないし,それに罹災者の人達に炊き出しもしなければならないと考え,家族を激励その準備をしようとしたが,水道が断水している。隣から貰い水して炊事する。学校におくれる心配があるので,隣から借りて一応電話しょうとしたが通じない。朝食をすまして学校に行こうと思ったがバスも不通。仕方なく長靴に身を固めて歩いて出かけたが本通りは家が倒れて道を塞いでいたり,路上に舟が横たわっていたりして沖も通れない。山の裾を廻り道してやっと学校にたどり着いたが,幸い学校は当直の先生の計いで臨時休業の措置がとられていたので,直ちに引き返して罹災者の見舞いに赴くことにする。途中盛町によってフィルムを求め,後で何かの資料にもと思い家に帰ってからカメラを持ち出して見舞いに廻ったが,余りに被害が大きくしかも生々しいので,気がひけて写す気になれない。しまいには手拭で包んでかくして持って歩いたが,後になって惜しいことをしたと思う。


赤崎地区の死者が少かったわけ
赤崎地区で家屋の流失,倒壊等かなり被害が大きい割に,死んだ人が少かったのはいろいろの理由があったに違いないが,何といっても第一に消防自動車のマイクによる警報伝達を挙げなければならないと思う。次は大ていの家から海が見えるので,逃げるのには都合がよかったことだと思う。今度の津波は津波といっても波としては目には見えず,段々水が増して水の面が高くなっただけである。形から言えば,大潮と同じである。しかし湾の周りからあふれて突走る水は,激流となって逆巻いたことになる。それが大きな災害をもたらしたわけである。しかしそれまでには大分間があったので,少し早くわかれば,逃げるのに困る程のことはなかったのである。赤崎の場合,消防自動車のマイクの手柄は迚も大きかったわけである。


昭和八年の津波の教訓?
大船渡地区の死者の多かったことはいたましい限りである。それにつけても昭和八年の津波記念碑の碑文は罪なことをしたことをしたものである。「地震があったら津波の用心,津波が来たら高い所へ」これは書き直す必要があるのではないか。地震がなくても津波は来たのである。いや,地震は確かに前の日にあった。とすると碑文に罪はないわけか?


対策の実現を切望する
とまれ,災害は忘れた頃に確かによく来る。しかもその中には,我々人間のふだんの努力で成る程度防げるものも少くない。本格的津波対築の実現を切に望む次第である。(猪川小校長)

3.出漁したまま津波にもまれた!! 陸前高田小友町 佐藤亀三郎

生活の為とは云いながら,引続く夜間の労働のため,身体の疲れから,今晩は何んとなく気も進まず,しかもスポーツの好きな私には是非聞き逃せないプロボクシングの世界選手権の実況が午後8時よりあるので出漁を見合せることにした。試合終了,判定負に敗れた日本選手を残念に思いながら,「さて,これからどうレようか」と海へ行って見た。
静かな海面には十数隻の白魚棒受け漁が盛んであり,そしてこの漁は,電気の明るさを必要とする故その電気の数でちょっとした町が急に海上に生まれた感じがする程であった。
今,考えれば津波の兆候はこの時から始っていたと云っても科学的に間違っていないのではないだろうか。何故ならこんなにまで浦に白魚が集り,そして各機械船はこれ程まで浦の中で棒受け操業を行ったのを昨年,今年と二伍間通じて始めてであり,そして「海の動物は海のアラシに対して非常に体感?が発達している」と一人の漁師が話す言葉を聞いたことがある。
百姓であり,漁師である私は他の舟の出漁中に,しかも今晩のようなおだやかな晩に休業と云うことは,生活の落伍者であるような感じがし,幸いに餌も買ってあったので急いで出漁することにした。
港の出港は,午後11時であった。申し遅れたが私の操業の目的はハモを取る漁である。日頃宮城県領域の海区を主として操業するのだがその現場までは動力舟で一時間も走らなくてはならないし,出舟の時間の遅れから浦の海で働くことに定め,三日市浦干拓区域内の而も尚岸で操業開始をした。約1500米の綱と60個のカゴを海中に投じ,これを舟へ上げる一回の操業は約2時間かかるのである。普通であれば午後7時半から翌朝3時半まで8時間中四回の操業が出来るのであるが,ラジオ聴取のため出漁時間の遅れから,三回の操業も危ぶまれる程に時間が経っていた。でも出漁した以上は「収獲の勝負」と云ったよな漁師に特有の変な意地が湧いて来たので無理に四回の操業をすることにし,時間表を臨時に組んだ。第一回操業を終了し,その収獲のハモの数は何んと82本,約6瓩位。時計は12時半である。第二回目のカゴを海に入れた。一回目の収獲に驚きながら第二回目の操業終了,午前1時半であった。魚の収量は,前回より多く123本,約10瓩位。多収量に喜びながら,そして益々仕事に精が出た。三回目の操業が,後10分位で終了すると云う頃,急に舟は沖の方向へ流れ始めた。普通の潮より少々早い感じがした。時計を見ると午前2時33分である。
私のような業種は,潮の干満は漁の多い少いに大きく関係するので,出漁間際に必らず新聞の潮の暦を見るのである。今朝の干潮は宮古湾で午前2時13分とあったので,この潮の流れは,干潮時刻である故,舟が沖へ流れ始めたのだと思った。それにしても潮の流れが早かった。この流れの早いのは奥行きの深い湾程干満時の潮が早いのだと考え,依然として少しも津波の兆候と感じないのである。勿論,地震もなく,ラジオからの予報事項もない。それでも綱が購入したばかりの新品なる故,切断する心配がないので潮に逆いながら,無理に舟に積み込んだ。時計はこの時2時42分でった。時間は夜明けま「で少々ある。三回目の収獲は148本,約13瓲はあると思った。これ程の収量は前日までなかった。およそこのハモ取りのカゴでの操業でこのような収獲は殆んどないのではないだろうか。収獲の余りにも多いのに気をよくし,四回目の操業のカゴを海へ投じた。午前2時55分に投げ終り舟の中を海水で洗った。少々時間が早いので,今晩の大漁をほくそえみながら,煙草に火をつけた。海水が人間のような動物であったなら,「欲の深い人間が,今津波が来るのも知らないで」とあざけり笑われたことであろう。
海上はぼんやりと明るさを増し,複野は50米位はあったろう。私と同業の舟は沖合いに二〜三目に入ってきた。5月24日の昼が開始されようとしている。カゴを上げる時間はなお5〜6分程早いので舟の中に夜露をしのぐため雨ガッパを着たまま,大の字に寝ころび煙草を大きく吸いこんだ。
と,舟のあたりがにわかにざわめき,ローリングを始めた。変だと思って起き上ってみたところ,今度は非常に早い入れ潮であった。漁師経験2年目の素人である私でさえ,平凡な干満の潮でないことが直感されたが,それでも津波とはみじんも感じなかった。水深2〜3尋位の海底からはコンブ,その他の海草や砂じんが湧き上がり,海水の移動の早さで海面は川の流れの様を呈した。最も信頼されるラジオから,何らの予報もなかったため不思議に思われたが,舟はイカリのため流れることが出来ず海中に没するのではないかと思った。気持が悪くなったので,予定より早くカゴを取り始めた。ところが今度は前より早い下げ潮である。7個程カゴを取り上げたころ,今度は入れ潮と変った。3万円程の経費のかかった資材だけは取り上げたいと懸命に頑張ったが船と共に引ずられた綱は海底の石に巻きついたと見え1ミリも上らない。潮に逆らう舟を支えるのに手に持っていた細い綱は手に食い入るようだ。いよいよ危険を感じたので舟の動作を機敏にするためエンジンだけはかけた。この間に舟に結んだ綱はイカリの役を果したため大きく舟は傾き海水が舟の中に入った。海面を見たら小型の定置網は2ケ統ばかり流れ始め,その外竹や棒切れ等も私の舟を取り巻いていた。立住生になっては大変だと思いハモ取りの資材は諦めることにし,沖に逃れることにした。海上は相当明るくなっていた。陸上の人人は始めて騒ぎ出した。出刃でもって綱を切り落し,スクリューのクラッチを入れた。勿論エンジンの破損を考えない全力速である。海面を見ると泡や浮游物の通り過ぎる速さから,舟は相当のスピードのようにみえた。この時なお入れ潮である。ふと陸上を眺めると舟は同じ場所を黒煙を吐きながら足踏みをしているではないか,動力舟とは云い,この時切実に小型舟の信頼を失った。スクリューが浅く取り付けてあるため水面だけを掻き回し,流れに逆う力がないためだろうと思った。だが今はそんなことはどうでもよい。夢中で舟の安全,つまり自身の安全を考えた。舟は少し押し流された感じがした。前進することにあせっていたからそう感じたのかも知れない。5分位も経過しただろうか,舟は容易に前進を始めた。海面を見ると浮游物も一緒なので舟はさ程早いとは思われなかった。後ほど,陸上の人々が云うには相当のスピードだったとか,下げ潮だったためであった。時間的観念は全然なくなっていたので時間は解らない。大事をとって雨ガッパ,長靴,上着をぬいだ。沖へ進行中,家屋の屋根も後から追いかけて来た。始めて津波を意識したのである。沖に出ると大きな波浪を予想し,水泳の準備をした。舟の道具は殆んど後へ運び舟の先を軽くした。あちこちにあわてて沖合いに逃れる動力の小舟,大型舟は無数である。
ふと200米程左前方に櫓をこいでいる二人乗りの小舟が流されているではないか,引張って走ることを直感し,だんだん接近して行くと体格の良い小さい時かちの漁師風の50才位の人とその子供と思われる娘であった。「溺れるものは藁をもつかむ」とか,私が近づくと目の色を変え緊張した顔で自分の舟の前方を見,私の方は見向きもせず「助けろ,助けろ」とどなっていた。恐しい形相であった。私のような動力舟でさえも入れ潮に変った現在前進し難いのに人力では到底困難であるし,また相当疲れただろうと思う時,その舟を引張りながら,可愛想であった。その舟を見ると私と同様,動力船であったが余りに急な出来事にあわてたためエンジンをかけ得なかったとみえた。
小友,広田の堺辺りの沖合いへ行くと大きな波浪が見受けられた。舟は波をたたいた。海水がまた舟へ入った。入れ潮に逆う私の舟は他の舟を引航し,なお大きなうねりの波をたたいた時舟は震動し,エンジンはストップするのではないかと思った。この小型エンジンは今三人の命を負う使命があると意識した如く無事,広田泊港沖合いまで働いてくれた。引航中にエンジンをみたのだろう後方の舟の機械が回転し出した。先程とはうって変って私に厚く礼を言い私の舟から離れて行った。大丈夫だと意識した現在始めて引張って良かったと思ったが,実を云うと引航中,綱を切って自分だけ走ろうとさえ思った程,危険を感じたことにも直面したのである。米崎漁民のカキ筏と小友漁民のカキ筏の流動物に取り巻かれその上入れ潮であり,スクリューに海草や縄がからみ,それに他の舟を引航するので,舟は進まず他の舟は沖へ沖へと全速力で通り抜けて行く時,本当に心細い限りであった。あの様な時に直面した心理は,ちょっと表現出来得ないような気がする。
沖合いに出てから各小舟は大型船一隻を中心に集団を組んだ。そして暁末明からの潮流異変や,魚の多収獲について大声で話し合った。驚きのためか,皆の言葉,声は上ずっていた。湾内からは浮游物は,海面一帯に見える。だんだん接近するにつれ,民家の屋根を多く発見し,相当の被害を意識した。海面は大きなうねりを伴いながら依然として,上下の潮は激しい。舟の中にはイカリもなく綱もない。あったとしてもこのような強流にはもたないだろう。エンジンは働き通しているが,クラッチは入れないので舟は漂流物の如く海上をただよう。下げ潮上げ潮のため,舟の押し流される行程距離は2〜3千米位はあったろう。時計は午前11時30分を過ぎた。昨夕8時頃の食後何も食べていない。そして食物も積んでいない。非常に空腹を覚える。また夜間労働のため一睡もしていないので強い眠気をもよおした。陸上の様子は全然解からず,私達沖の海上避難船は時間が経過するにつれて陸上を心配しつつも無為な一刻を過すことに変って来た。話し合いも飽きた。なお眠気が強いが眠るわけにはゆかない。エンジンはなお働き続けさせなければならない。ふと燃料タンクを検査すると何んと24程の燃料ではないか。予備は今晩に限り積んでいない。この避難は一体何時まで続くのだろうかと心配になって来た。そしてあらためて「油断大敵」の言をしみじみ覚える。近接の舟へ近寄ることは潮流や波が許さない。一昨日までの平穏無事な繰業と打って変り今日の姿は「離れ島の人々」に急変したのである。漁師は最近のような動力船に変った現在,このような持久戦に入ってはやはり燃料,食料飲料は,舟や身を守る海上での重要な要素であることを再確認させられた。一人の漁師が,津波以後曰く「食物は必らず持て,そして半分は食べ残しをせよ」と。漂流物は後から後から続き舟の単独航海も難かしい程であった。ヘリコプターは入り代り私達の頭上を低空飛行をして目覚し時計の働きをしてくれた。岸の下げ潮を遠くから眺めると,見たこともない岩が頭を出し恐しいようだ。この反動の潮が低い陸地に向ったならどれ程陸を洗うだろうと思った。思うまでもなく家屋やその他の漂流物は後を断たず,被害の大きさを教えてくれた。午後2時,陸の心配と空腹よりたまりかねて,上陸を企てた。矢の浦港まで困難な操従を重ね港の見えるところまで来た時,家屋やカキ筏その他の流れ物の大群に取り巻かれ,港に近寄れなかった。潮流はまだ荒狂っていた。約30分位も戦い,この大群より脱出し,再び沖へ逃れた。港では大勢の叫び声が私に向っていた。失敗したけれども,無事に居ることを家族に知らせただけでも成功したと思った。午後4時頃,再び上陸を決意した。湾内の潮流波浪の合い間をみて,一気に舟を引上げた時体力が急になくなり体がだるく感じた。30人ほどの人より種々様子を質問され英雄的存在にされた。
帰宅後腹いっぱい食べた。一時間程休もうと思った時,消防団より出動の通知を受け,休む間もなく家を出た。(漁師)

4.濁流に喘ぐ 大船渡 新沼悌二郎

津波体験記
昭和35年5月24日の夜明け,屋外の騒がしい声で目がさめた。「津波が来る」とか「海がカラだ!」とか喚いている。ハッとして飛び起きて,家族をおこし,外へとび出して,人々と一緒に海へ走った。岸壁の上に,人が大勢集って騒いでいる。私も,海を覗いてみて,あっと驚いてしまつた。岸壁の真下から対岸の赤崎まで,黒い海底が露出して,県営埋立地の一万トン岸壁が万里の長城のように高く見えた。岸壁に碇泊していた貨物船も,傾いたまま泥の上に坐っている。これはどうしたことか?これはただごとではないそ!・と思ったが津波襲来の実感はあまりなく,ただ驚きあきれるばかりであった。岸壁に並んでいる人々も,ただ驚異の目をみはるばかりで,みんな判断に迷っている。やがて津波が襲来するという人もあるし,いや津波にはなるまい,少し様子を見ようという人もあった。そういう甘い観測も,あの場合では,いかにもとうなずけた。というのは,第一に地震は全然ないし,警報,サィレン一つ鳴らず,天気は晴天爽快で,きわめておだやかである。それに沖の方からは海鳴りもきこえず,波もなかなか寄せて来そうもない。が,やがて30分もしてから,ふくれあがるような具合に海水が除々に増して来た。黒い海底は,見る見るうちにかき消されてゆく。海水の量と速度は刻々に増して来る。そして,またたく間に,濁った潮流が港にあふれてしまった。それを見た岸壁の上の人々は,口々に「津波だ」「逃げろ!」と絶叫しながら,クモの子を散らすように,街の方へ向って逃げ出した。私も,夢中になって,家へ逃げ帰った。帰ってみると,中央マーケットの人々は,すでに半分以上退避してしまっており,残りの人々が店の前で右往左往していた。その中に私の家族もまじっていた。そこで,みな駅へ向ってわれ先きへと走り出した。
私は中学三年の長男と二人で病身のおばあさんを後から守るようにして駅へ走った。妻や二男,三勇は私たちの数間先きを走っていた。
県南バス営業所の角をまわる時,海の方を見ると,波はもう岸壁を越えて,幅広い濁流となって,地をなめるようにして街の中へおし寄せて来ていた。私と長男は両側からおばあさんの手をひいて早く早くと急がせたが,病身で足のよわおいばあさんは思うように走れない。その間も波はおそいかかるように後へ迫ってくる。と,南部屋陶器店の前で,おばあさんは,ばったりのめってしまった。急いで抱きおこしたが立てない。そこでもたもたしているうちに濁流は早くも,私たちの足元まで来ていた。もう,私たちの後には誰も来ない。あせればあせるほど,おばあさんの体は思うようにならない。そのうち早くも第一波が,倒れているおばあさんの上におおいかぶさってしまった。とたんに,おばあさんは蒼白になって慄え出し,口もきけなくなった。私は長男と二人で,そういうおばあさんを引きずるようにして,濁流におわれて駅前の大通りを横切った。そのまま真直ぐに駅へ向かおうとしたのだが,思いがけないことに,別な物凄い濁流が赤崎方面からアスファルト道路づたいに押し寄せて来るのにぶっかってしまった。やっと道路を横切ったものの,横からおしよせてくるこの奔流のために,とても駅へ進めない。このままでは,そのまま須崎橋の方へ押し流されてしまいそうである。そうなったらもう完全に絶望で,どこまで流されるかわからない。私たちは,必死になって,菅野洋品店の一角にしがみついた。その時濁流はもう私の膝がかくれるくらいであった。深さは大したこともないが,流れが速くて足をさらわれ,とても立って,おられないくらいであった。おばあさんを抱きおこし,二人で両方から抱えたまま店の一角に取りすがって周囲を見廻すと,赤沢方面からおそって来た奔流と岩壁を越えて来た濁流とが駅前十字路で合流してごうごう,があがあと無気味な,ホウコウを揚げて渦巻き,おそいかかり,方々で,建物のつきくずされる音響が物凄い。あたりには人影もない。駅へ逃げた人々も,駅から更に線路をこえて台ケ丘の方へ行ってしまったらしい。生き物のように波頭を立てておそいかかっている水魔とたたかっているのは,私たち三人だけであった。——これは大へんなことになってしまった,と悔んだが,もうどうにもならない。おばあさんは,蒼白な顔をあげて,低い声で「わたしのことはかまわないで逃げてくれ」といった。それが最後であった。そしてぐったり死んだようになってしまった。髪はばらばらに乱れ,着物も下半身は波にめくられて横倒しになってしまった。そのうちに,私たちは増大してくる濁流に押されて,須崎橋の方へ流され始めた。このまま押し流されたのでは,とうてい助からない。観念しかけた。しかし,生きたかった。声をあげて泣きたいくらいさびしかった。高野屋の前まで流された時,高野屋と喜福支店の問の狭い小路をみつけて,やっとのことで,そこへおばあさんを引きずり入れた。そこにはまだ濁流があまり入りこんでいなかったので,ほっとした。長男がおばあさんを引きずって先に立ち,私がすぐ後からついて小路の奥へ進んだ。と,すぐ後から,この小路の中まで奔流がどっとおおいかぶさって来て,先に進んでいた長男の姿も見えなくなった。私は「知之!」と子供の名を呼んだが,私自身も頭から波をかぶってよろめいていた。私はとっさに,高野屋の中へ飛びこんだ。中は真っ暗で,しかもここは平屋なので「しまった」とおもったが,もうおそい。濁流は家の中まで押し込んで来た——。
気がついてみると,私は家の中にあった大きな木箱のようなものにつかまって室の中ほどのところに浮いていた。水はあとからあとからと増してくる。木箱につかまったままだんだん天井へ押し上げられて行く。真っ暗でどこにも逃げ口がない。こんどこそ駄目だ,おれはここで天井へ押しつけられて死ぬのか!と思って,死の寂莫をひしと感じた。その時,天井の近くに,ガラスニ枚はめた明り取りのランマ窓をみつけた。私は夢中でそっちの方へ泳ぎつき,ひじで必死になってガラスと窓の桟をつきやぶった。そしてそこからやっとの思いで,体を外へ乗り出した。そこに庇屋根がかかっていて,水はそこまで来ていた。私は助かった!と思って,急に元気が出て,その庇屋根を伝わって屋根へ這いあがった。そこで子供の名を叫んだ。すぐ子供の返事がした。長男は小路の奥の物置小屋の屋根から,私のいる本屋の屋根へ這いよって来ていた。
長男の話によると,小路で後から波をかぶった時,おばあさんの手を放し,自分も水に呑まれてしまったが,いったん浮きあがった時,物置小屋の庇につかまった,というのである。おばあさんは,この小路の奥のどこかの水底に沈んでしまっているのだ。私たち父子は茫然として屋根の上に立ちつづけた。屋根の上から方々を見廻わすと,駅も水につかっており,街は一面の水で,見えるのは屋根ばかりであった。もう,それ以上は増して来なかったが,すぐには引きそうもなかった。私は屋根の上に立って,水にのまれた故郷の街を見下ろしながら,無限大な大自然のエネルギーとその猛威と,それに飜弄された人間の文明の無力と生命のはかなさをしみじみ思いつづけた。(教員)

5.私の体験したチリ地震津波 大船渡 鳥沢雷治

ドン,ドン,ドン…………。
外のガラス戸が破れるように叩かれる。
目を覚した私は,何だッ!!
専務さん海に水がなくなりました。
伊藤工場長の声である。
それは津波だ!!直に全員を避難させろ。と叫び乍ら私は寝まきにひもをしめて室外に出る妻に母と進(妻の弟で両足切断した)を二階に上げうと叫び残して長靴をはいて岸壁に走った。時計をみると4時10分だ。潮は4米の護岸をすっかりひいて50センチも低くなっている。4米50!!これだけ水が寄せて来るなと勘定した。
魚市場の早出の者と太洋産業の幹部は海岸に近いものは全部出ている。
これは津波だ。寮生全員を起せ,社宅の女子供近所界隈の者に津波が来るから全員加茂社会の高台ににげろ,と叫び,滝田,高橋,大沢,御前はどこ,御前はどこと走る場所を指示する。
私は気違のように大声で怒鳴っているのに周囲の人々は一向にケソリとしている。
ああこれは困ったことだ,と私は思った。なぜこの人達はこの怖しい津波を何とも思わないのだろうと大きな憤りとこの無知に対して情なさを感じた。
私は夜警の菊地に,この潮はいつから引き初めているかと尋ねた。3時40分頃と思うという。それにこの潮はまだ引いている様子だ。これは一寸時間があるぞと思った。
私はこれは,原爆か水爆かの試験を太平洋の日本に近い所でやっだなと思った。たしかアメリカかソビエトに異いない,あの野郎共いつか目にあわせて呉れるぞ。ウヌ等覚えておれ歯を強くかみ合せた。
私は目をつぶって神に祈った。何卒この津波の被害を最少限に止まることの出来ますようあなたの全能の御力をもって御救い給わらんことを,と。
目を開いて海をみる。この日本の誰もがこのように潮のひいたのをみたことはあるまい。ああ吾の半生の努力,全大船渡,全沿岸の長年の蓄積はこの1時間か30分後にはメチャメチャになってしまうのだ。何たることそ!!私はひざがガクガクと鳴り胸の中の臓器を全部抜きとられた如き状態となった。アアアーと大きく息をはき出した泪がホホをつたわった。
なに津波がくるって!これは見逃せないと言いたげな表情で野次馬的にやって来る。この大馬鹿共ツ,ホホを思いきリブンなぐってやりたい衝動にかられた。私は市場のサイレンを鳴らせと指示する。サイレンは鳴った。そして私は急いで家に入って,寝まきを服に着替えた。洋服タンスには先日新調したイギリス生地の4万3千円というのがかかっている。これもなくなる,いたましいなあと思った。しかしこれよりいたましいものが全部やられるものをと,手にとらなかった。
二階に上って母と進を社員に背わせて鉄道線路の遙か上に行けと指示して避難させた。これでよい。妻には潮がきたら急いで逐げろと言捨てて私はまた岸壁に出た。
全社員が揃って机の引出しを抜いてバスに積み,書庫金庫のものはリックに入れて積んでいる。トラック2,バス2,三輪4と全部高台に向って運転手は始動せよと命じた。社員の中,気の利いたもの4〜5名を,御前達は潮をみておれ,潮が岸壁にのったら普通の速力をもって中学校の下まで走れと命ずる。
さてここに問題がある。それは潮をみて一斉にこの十字路に走る人と車が殺到する。これをうまく捌かなかったらここで大きな惨劇が生ずるぞと思った。私は一足先にこれを捌こうと思った。一台の三輪をもって先に走ることを考えた。
潮の見張りの者が「きた,きた,ああきた,きた」と叫ぶ。吾は車を自家の裏に停車して妻を乗せた。女中たちは私の一番先の声と共に避難させたという。これでよいと思った。潮で財宝のなくなることとはいたし方がない。しかし人の家に居残っている者はこの大船渡にはあるまい。私は車の上に立って岸壁をみる。
潮は道路にあがった。2尺程の高さで茶黒い水だ。上の方は白く波頭をたてている。全員よいか走れいッ,と指令した。十字路は思ったより人の出は少なかった。私の車を先にあと7台は一列に,バスは最後になった。これは会社の中堅社員が乗っている。私の車を加茂神社の石段の下で停めた。そして車の上から下の方をみた。水は大抵鉄道線路までかなあ,と思った。
私は全員に下車を命じて潮の状態をよくみよと指示して10米間隔で数台を海岸に向って配置した。私はまた思った。人は全部逃げたろう,誰も溺死ることはあるまいと,これだけはよかったなあと周囲の者に話した。
私は4時10分より4時37分迄の私の処置について,その行動を反省した。私は適切でない指揮を悔いられた。それは30分の時間を全く無為に過させてしまったことであった。私は起こされてから絶えず冷静に冷静にと自分に言いきかせた。それにこの30分の時があれば可なりの家具衣類調度商品を流さずに済んだものをと悔やまれた。
バリバリ,ギュウ,ギュウと家屋の壊れる音がする。広い私の今きた道に黒い屋根の家が浮いて潮に押されてくる。続いてまた一軒押されてきた。逓伝で潮が線路を超えたという。私は車を中学校下の坂道の中復まで進めと命じた。車をとめて偵察にやる。水は鉄道を2〜3尺の高さで超え,道を100米ばかり浸したという。その辺で4米50かなあと私は思った。
潮が引き始めた。時計は5時を過ぎた。次の潮は今よりもっと低く力も弱いものだと古老よりの語り伝えと昭和8年の津波の経験から,これで大体終ったようなものであると感じた。私は車を会社の柴田の家迄下げることを命じた。ここは柴田小児科医院である。机を玄関に出して太産仮事務所と書いて貼った。
それから全社員を集めた。先ず点呼をとり家族もちの者には家族の安否を尋ねた。全員私の指示をよくきいて最先に避難したということである。次に附近で逃げ遅れた者はないかときく。みどりやの夫人(元社員)は水に浸って逃げ柴田医院で保護をうけている。それを私の妻が看護しているが,その家族の中,主人と子供2人が見えないという。
私は何たることだと思った。あれだけ30分間もの大騒ぎであり私は声の出ない程叫びサイレンを鳴らしたではないか!それに寝ているとは何事かと思った。しかしこれは私の処置が悪かったと思い知らされた。なぜ自動車に社員を乗せて町中を起さなかったかと。ああここに私の最大の落度のあったことを思わざるを得なかった。
あとはないかと,それではみどりやの主人に会ったら妻子がここにいることを知らせよと往来する人達にもたのんだ。
さて,社員は4〜50名集ってきた。私は潮は従来3回来るという。3回目の潮が引いたらこれを追い乍ら工場に行き,先ず冷凍工場内に潮がどれ程入ったかを工場長は調査せよ,そして今後可なり長期間停電するからそれに対して冷房の準備をせよ。冷機械課長は課員と製氷課員をもってモーターを外して直にこれを乾して使用出来るようにせよ。次に庶務課は女子社員と共に食事の用意をし,社員およびその家族または会社の関係ある者また身よりのない者等に食事を供与せよ。さて3度潮がくるということになっているが或はそれ以上に来るかもわからない。製氷課長は自らあと潮がくるかこないかの見張をせよ。もし潮がくるならこれを全員に告げて早速に避難させ仮事務所にも報告せよ。と指令して3回目の潮を待った。
この中に盛方面,猪川,立根,日頃市という方面の人も見えるようになった。早いところでは鈴木八五平県議は5時30分頃みえてこれは大変なことになったと御見舞をうける。私はこの津波は水爆か原爆試験をやった余波だろうと考えたが地震がない津波ということは従来なかったときいているので,これがとても不可解でたまらないでいた。
また津波は昭和8年3月3日には,大船渡の吾等のいる処は1米も水がこない。その後可なり土盛りをやり護岸工事もやっているので大船渡側は津波には殆んど被害がないと安心をしていたし,他人にもこれを語っていたのである。それが4〜5米という潮の来襲である。その率で沖に面したところにきたのならどれ程の被害があろうかと考えた。それから大船渡も盛寄りの方は被害が少ないだろうと思っていた。ところが盛方面から駈けつけた人々の語るをきくと,須崎以上の大水で盛迄水が行ったという。またこれとは反対に赤崎,綾里,下船渡の方は全然という程被害はないという。これはどういうことであろうと考えた。
時は6時を過ぎた。潮見にやった者が駈けてきた。専務,4回目の潮が引いている。1回目より更に引き,どれ程引いてゆくかわからない,という。私はこれはいけない,全員作業やめて待避せよと伝えろ,というと,すでにその通りしていたという。私は柴田医院にいる母やみどりやの夫人をバスに乗れと高声に指示し,これを乗せると中学校の校庭に行けと指令した。
これは大変なことになったぞと思った。何とかこの津波の全般を知りたいが携帯ラジオはあまりよくはいらない。八戸工場の方はどうであろうと気にかかってきた。この工場は海岸からは100米も引上っているけれども八戸は平垣なところである。工場が2つやられては容易でない。また八戸の社員の安否を知りたいものである。ラジオのある車をみつけてこれに全神経を集中した。
ニュースでは各地の状況はよくわかるが,大船渡の状況は一向に不的確なことばかりである。しかしこれは各地は被害を報告する電報電話局が無事なためであり,大船渡は電報電話局が切られたため盛岡に世田米から連絡しているに違いないと考えた。その時は10時近かった。
私はその前に3人を1組として潮が何回よせたか,その時間,潮の高さ,水の引き具合,街はどのようになったか,道路はどのように廻れるかを調査にやった。この組には必ず時計を合せて帰る時間を指示した。兵隊で斥候に出される時を真似たのである。それ等の報告で実によくわかった。
正午全員を中学校に集めて報告をうけた時はすっかりわかった。潮は約10回よせたこと,午前3時半の岸壁に1尺程上ったのを1回とすれば,2回目の4時37分は一番高く4米〜5米,次は5回目でこれが2回目より一寸低いが力があった潮であるとこと,6回目からは可なり水量は少なくなり今lO回目は,もう大丈夫であるという。
私は5回目以後の状況を中学校の校庭で牡蠣イカダの流れ具合によって大体の潮の差引をみていた。正午頃は3分の1程度の動きとなったのでこれで後心配はないと心から安心した。
昼食後全員を集め,これから復旧の為諸君の最大の努力を要求する,と語り,復旧の順序を幹部と協議して私も工場に向って急いだ。
道路に家がつぶれたり,木材が重なったりしてなかなかよく通れない。街は思ったよりも壊されていない。これはよかった。一番先に道路の開通をしなくてはいけない。食料と飲料水を供給しなければいけない。復興の資金と次々と頭を働かす。
私は商工会議所に行った。ここは二階だから全く無被害である。政府資金を主として資金を導入して5年,今後5年をもって以前の大船渡より一段と内容のよきものにする,と決意をした。また商店街は山手の第2国道に全部移したいと考えた。住宅は鉄道の上に,また家屋は全部鉄筋造りにすべきであると,あの日から8ヵ月,あの時考えた通りに進むこともあり進まないこともある。津波は必ずまたやって来る。その時は今回よりもっと被害は少なくなろうが無被害ということは出来得まいと思う。53人の亡くなった御霊よ安らかなれ。(会社専務)

6.被災者の記 高田町 木内一夫

春の高野連地区予選は快晴の土,日曜に松原球場で優勝し今日は花檀,菜園の手
入れをすました。湯上り,夕空は明日の快晴を語る様で気分も良い。体の方も
食飼療法で順調,アザレヤの鉢を外に出し「地いき」と夜露をと花を前の美しい蕾をつけた鉢を並べる。良い空だ。
未明,すり半鐘(ばん)。家内が外に出たが,火の手が見えないと床に入る。暫くしてサイレン……長い,長い——今度は外に出たが何も見えない。寒い暁空だ。床に入る。がやがて何かピシピシ物のはねる様な音がする——案外近火では無いかと身支度にかかる。家内は庭先からは死角に当る方では無いかと寝巻のまま又外に出る。「大変だ,津波だって」と駈け込んでそこそこに身仕度をしただけで玄関に出る。
東南300m程の畑に泥水を巻いた波頭が見える。20m程離れた校庭との間の農道に出て振り返った。家から東南3〜40mの美しい穂波を揃えた麦畑の端にもう潮足がかかり,麦は濁流に巻かれよれよれに倒れる。急ぎ足で10m程北の一番高い体育館前まで来た時にはもう家の床下に潮が来て居る。20秒,30秒,50秒。見る内に1m近く上ってしまった。校庭も南半分に潮が来ている。近隣の人達はぞくぞく学校に避難してくる。高い所へ,高い所へと。
職員室から見た時には潮はもう引いていた。が,国道から南は見渡す限り一面の泥海だ,間も無く又警報。40分程して又大きなのが寄せて来た。裁縫室から松原を見る。「もがみど」の隣の家は軒が浸ってきり除けに届き僑向うのかもめ荘の階下は水に没し打ちつける波頭が棟の下高くしぶきを上げて居る。引き出した。早い。
引いた時に家に引き返した。今朝避難した時の花檀,菜園は雑然たる漂着物の山である。屋根が2つ,風呂場の際には箪笥が,畳が,家具が,畑一面は乱雑,何とも名状し難い姿だ。玄関には下駄箱や箱が倒れていて戸があかない。やっと椽側の雨戸を開けて入る。椽は泥深い。奇妙にも敷放しの寝床は余り汚れた様子もない。畳の上1尺程の所まで押入の襖がしみている。本箱の前の畳は泥だらけで下二段の本は全部泥まみれである。約300冊。後でわかったが大部分の畳は大掃除に敷き直した新聞紙の筏が水で持ち上げられ,減水と共に下ったので畳の表が汚れなかったのだ。
続いて出る警報で片付ける所か早速食物を持って引き上げる。
居合わせた先生方と学校の方は本日臨時休業とし連絡の手配をする。学区内の被害はひどい事とは思ったがその程度は全く不明である。
町の津波救援対策本部には教室一つを,高田町の被災の中心が松原地帯の分は学校に近い長砂なので,避難者の為に校舎を解放する。学校が本部であるだけに電話のある事務室は土足で消防,市町等の人々が出入りして居り,混乱を語る姿そのものである。
一日中殆んど警報に,怯え通したが,早朝のと次のが校門まで来たのの外は鉄道路線位の所までであった。その点大正12年の関東大震災に遭ったが,地震の時程のゆさおりを身体に受けないだけ恐怖不安の度は無かった。—が,自然のカ——手のつけられない瞬時の暴威,只見守るだけという不甲斐なさを二度,そして二度ともどうにも仕方のない事として受け取るだけだった。
測り得ない力に唖然としていたのが実状である。後からの話や感想は整然としたものであるが「さかしら」と云う語が当はまるもので,当座のそれは附焼刃で己れの力をてらう事で糊塗し得るものではない。だらしが無い様だが正直に云って本当にボーッとしてたと云う外は無い。


夕刻,校長外在校職員の会議の結果


1 被害状況調査
2 被害職員は家事整理に
3 臨時休業……交通機関杜絶のため。


跡始末。泥田の様な台所に鮒が一匹,どう入ったものか分らぬが…………。人々の親切に感謝し乍ら,2枚の畳の上で過した20日間——不自由な中にも段々と平常の生活に復した。畳の出来た6月24日,何とも云えない安居と思った。
漂着物の山を前にして居た時の事,家財を流失した人々の姿,貴重品を探索する姿,人の心の底をつくづく思った。 (高校教員)

7.水と闘って 大船渡町 金野公子

「津波だッ,早く起きてッ」先生の声と同時に飛び起きた私達は,夢中で窓を開けました。一瞬目に入ったのは,白くあわだった黒い潮が,どっと庭の中に入ったのでした。とっさに反対の窓に行き「早く!!」とさし出す先生の手にしがみつき窓から窓に飛びうつりました。その時庭にあった全身美容器が,黒い潮に巻かれ始めました。恐龍か何か襲って来るように,ひたひたと水かさを増し,みるみる床下を洗い畳を浮かして行きました。
「母ちゃんッ,母ちゃんッ」増して来る水の中で,母をかばいながらうろたえる息子,逃場をさがしながらうろたえる私達……。「母ちゃんッ便所からッ」と言う息子の声で先生の後に続き手洗いの中に入りました。……そうだ隣家の二階がすぐだ……助かるかも知れない。と思いながらただ息子の破る窓を見ているだけでした。その間2〜3秒たったでしょうか,水かさは増し自分の体の胸までぬれた時,こんな小さな所に入ってしまってどうしよう。こんな所で死にたくないとただそう思うだけでした。「あっ破けたッ」ふっと喜びを感じました。息子がそして先生が外に出ました。私はちょっと窓が高かったので窓わくに手をかけ飛び上った瞬間,私は激流に浮かされそのまま外にほうり出されました。が「それッ早く」という声が聞えました。私は隣家の人達に助けられていたのです。私の後に富ちゃんが出て来ました。富ちゃんは私より太って長身です。小さな窓から苦しそうに顔を出した富ちゃんを又,隣家の人達が助けてくれました。富ちゃんを引き上げた一瞬,小さな窓は濁流の中に消えてしまいました。
「助かった」と思った時,隣家の二階にも水が入って来ました。あわてた私達は,又次の隣家の屋根に逃げました。一間位問があったでしょうか,恐しさなど全く忘れてしまって飛び越えました。隣りのバーテンさん,次に息子,私と最後に先生が越える時手をさしのべたバーテンさんと先生は,はずみをくってあの濁流に落ち込みました。その瞬間先生は片手で私のセーターの袖口をぎっしりにぎっていました。ただ夢中で屋根の上に引っぱり上げようともがくだけでした。すさまじい水圧のため先生は屋根下に流されそうです。「だめだッ,瓦を取れ」息子の叫びで私は,やっと瓦を取り助け上げました。その間バーテンさんは黒潮の中で沈んだり浮いたりして私達の手をまちました。大人の男の人なので自分達が屋根から引きずり落されそうに何度かなりながら……隣家の二階からよびかわす悲痛な声もたちまち怒濤の中に消えうせて……。
「やっと助かった」と思ったのはつかの間二階には富ちゃんの顔しか見えません。「淑ちゃんと洋子ちゃんは」それだけ云うと怒濤めがけて一生懸命二人の名前を呼びました。「淑ちゃあーん,洋子ちゃーん」応えるのは荒れ狂う濁流の音だけでした。「洋子ちゃんも淑ちゃんも見えない,私だけが助かった。公子ちゃん!!私だけが生き残った。どうしたらいい……」屋根の上で半狂乱になってとりすがる先生。「きっと洋子ちゃんも淑ちゃんもどこかに逃げてくれたから……」と言って激ますことのできない私は又怒濤に向って叫けぶのでした。「淑ちゃ一ん,洋子ちゃ一ん」いくら呼んでも答えてくれません。先生はまたますますむせび泣くだけです。そんな時「洋子ちやんが助かったよー」と耳に入り,声の方を見ると,屋根の上から手を振っていました。「先生ッ,ほら洋子ちゃんが見つかった」私達は喜びあいました。けれど淑ちゃんはとうとう不帰の人となっていたのです。私達が手洗いからのがれ,二階を飛び越えあんなさわぎをしている時二人は手をつなぎ黒潮にもがいていたのです。別れ別れに何度かなりながらなおも頑張った二人,玄関近くまで来た時潮にその手を別れさせられたのです。天井につかえた水の中を洋子ちゃんは玄関にむかって泳ぎ,顔を出したのが隣りの玄関だったそうです。板にすがり電線にすがりして隣りの人に助けてもらった洋子ちゃん,ただ淑ちゃんだけが……「私が淑ちゃんの手さえ離さなかったら」とうっ伏して泣く洋子ちゃん。「私だけが生き残り両親になんておわびしたらいいか……」と泣く先生。私は何も考えることは出来ませんでした。一瞬のうちに助かった私達と,一瞬のうちに死んだ淑ちゃん。
津波は引く時に至って悪魔の本性を暴露して,あらゆる家をこわし,鉄路を流し,船を転覆させ,田や畑を流し去りました。今私はこの記憶を書きながらふと目を大船渡湾の水の上に落しました。海はあくまで静穏に小波をたてています。あの暴力を振った水が今この静かな海、の水と同じものでしょうか。 (美容師)

8.「私は一生忘れる事が出事ない」 陸前高田市 熊谷タケ子

遠くかすかに聞えるサイレンの音,眠いなあ!時計をちらっと見て頭から布団をかぶった。でも近所があまりにもそうそうしい。「火事だぞ一」。という人,すぐ服をきて二階に上った。「兄さん兄さんッ」いくら起こしてもますます布団をかぶってしまう。「火事だぞっ起ろってば」。「カンケイないよ」。その時誰かが「津波がくるぞ一」「兄さん津波だっつぞ」「関係ないよ」しょうがない兄さん。下に降りて祖父を起した。その祖父もいっこうに言う事を聞いてくれない。線路を越えてこないから大丈夫だの一点ばり。近所の人達がさわぐのでもう一度二階に上がり「海へ行って手伝って来たら?みんな船を上げに行ったとか,義兄さんの家でも行ったろうに」。「それもそうだな」兄さんはとび起きて松原の方に走って行った。
机の上をかたづけたり,本箱の上のかばんをかたづけ,床をあげようとして海を見たとたん,「あっ」とそのままたちすくんでしまった。身体中ふるえてどうしようもない。真黒い大きな波がぶきみな音を立ててもくもく走ってくる。祖父の手をひいて裏からにげ様としたら大丈夫だと手をはらいのけ,「誰がここまでくるもんか」。ぐずぐずしている内に波は線路を越えた。「そんなら死んでも知らないからにげろ!にげろ!ったらばー,おばんつあん,にげろよう」泣きながらむが夢中で裏の田んぼをまわって波の音がすぐ後できこえる中をころびそうになりながら皆んなのいる所まで来た。後を見たとたん,この世の中でこんな恐しい何んて表現したらあの時の恐しさを解ってもらえるだろう。あんな静かな海が,あの波のどこにあんな巨大な力がひそんでいたのだろう。屋根,木材,戸棚,夜具,そうしてとなりのじいさんもその隣りの小母さんも片手を上げ助けを求めながら流されて行く。その姿を目の前にしながら唯恐しさに身体ががくがくふるえ泣く事すら忘れていた。母さんあがれーあがってこうてぱー」。泣きながら叫ぶ娘!これ以上この姿を見ていられなかった。顔をおおいふらふらっとなってかきねによりかかった。
家の事,松原に行った兄の事,私さえ云わなかったら……。「兄さん」いくら呼べどもぶきみな水の音だけが——何度も押寄せてくるばかり。サイレンの音がはげしく鳴りひびく,祖父母はどうしているだろう。兄さんもみんな死んでしまったのだろうか,バリバリ何かのこわれる音,悲しそうな悲鳴!!私一人でにげてくるなんて,この水,この姿を目の前にしながら,夢であってくれればいい,うそであってくれればいい。消防の人が来た「兄さん見なかった」「知らないなあ」。ここまでこんなにすごい力で流れてくるんだもの。むこうから又消防がきた「知らないなあ」「兄さん!!」又その場に泣きくずれた。
数時間後水はだんだん引いて来た。その時水の中を杖をたよりに「おばんつあん」良かった,祖父も二階に上って助かったとか。義兄さんに聞いてみようそう思うと少し勇気が出て出た。義兄さんも松原からまだ帰らないのか,松原で誰か死んだとかのうわさ,兄さんでなければいい,姉の顔も真青だった。二人の兄さんが無事で帰って来てくれます様に「神様御願い兄さんをお守り下さい」
すっかり変りはてた部落,屋根で道路はふさがり流れてしまって広々とした屋敷,ついさっきまでちゃんと立っていたのにこんなにしてしまってあの静かな海が,みんな唯おろおろと行ったり来たりしているばかり。「兄さん」よく無事で……。我が家の前に立っているのは,服こそ変っていたけれど兄さんだった。死んだつもりで松の木にすがっていたとか松の木も一杯流れて来たのに。家では,人だけは無事だった。でもこれからどうしてこの家の中を泥だらけの畳,一冊もない本箱,タンスの中の衣類は泥だらけ。「母ちゃんまだ帰ってこないの?」こんなになってしまったの」。父が手術の為仙台病院に看護に行っての留守だった。兄と二人,年寄二人で何ができよう。父さえ丈夫でいてくれたらなあ。父母も病院でどんなに心配しているかしら。隣りのじいさんも死んでしまったとか,あの時流されて行ったっけ。可愛想に許して下さい。流されるのを見ながら,助ける事も出来なかったわ。ややもすれば泣いてしまう私に兄はおこったりなぐさめたり。アルバムも本もみんな流されて,たった一つ修道女の人形だけがよごれもせず部屋の中にころがっていた。
5月24日4時30分。私は見たこの眼で!!しっかりと津波というものを。家も精をこめて作った作物も立木も一瞬にして押し流して行った津波!!人が死に地形迄すっかり変えてしまった恐しい津波!!私にはこの日この時を一生忘れる事が出来ないであろう。

9.チリ地震津波日記 高田高校一年 村上宮子

恐ろしい津波を知ったのは5時頃でした。私は今までも自分の迂澗さと暢気さに愛想がつきる程ですが,階下の母が知らせるまでは,ほんとうに何も知らずに寝入っていたのです。あわてて坂を下るうちにも半鐘が鳴りつづけ私は右往左往する寝巻姿の人達とぶつかり合い乍ら海辺に走りました。しかし海辺まで出る必要はなくすぐ県道にも己にはや海水が押し寄せて溢れていたのです。津波なのです。恐ろしい津波は第一波でその典雅な松原の林の一角を崩してどっと堤を切り第二波で沼を亘り植えたばかりの稲田を覆い走り数百米の高田の東部を全滅させてしまったのです。
消防自動車が避難のマイクを軒なみに呼びかけ乍ら走りまわり泣き叫ぶ災害者の波に追われてくる声も聞えます。
市役所ではコンクリートの屋上にマイクを据えて一里四方に聞える位の声で沖からの津波の波状襲来を知らせています「また津波が来ます。堤防の見物人は危険ですから直ちに引揚げて下さい」
私は5回目に引いた津波のあとを追って鉄道線路まで来ましたがマイクに咎められました。線路はまくれ上り一回転して飴のように曲って,田圃の中にめりこんでいます。そうしている中にも不気味な音をたてて,波が厚い層をなして松原の決壊した岸から溢れてこちらに寄せてきました。私はこの恐ろしい光景を今以て忘れることは出来ません。
無言の大自然の脅威は朝日を受けて飴色に光り私は終世忘れられない恐怖を植えつけてしまいました。
津波は合計午後までに10回程おしよせその度に半鐘が鳴りました。午後になるまでは米崎へは交通は絶え,鉄道は2週間は不通とか聞きました。高田市では死者9名で長砂の被害は目を覆うものであり,当分停電のため市役所から各家庭にろうそく12本ずつ,醤油,味噌等配給があり,ごはんやたくあん等の供出がありました。松原の住宅は全滅で海岸に近い家は勿論軒上まで浸水し家財は流失,小友では家がそっくり気仙沼までもって行かれたそうです。中の簟笥の手紙で判明し家財はいくらか救われていつさ小友に戻ることでしょうと珍談と申すべきでしょう。
それから沼の魚族は勿論全滅。鮒は津波のへりの道路上であえぎ,子供達は茫然と気味悪そうにこの被害者をみつめるばかりでした。大きな鯉も田圃でパクパク苦しんでいるところを心ない男達が捕えてニコニコしながら帰って行くのは天災が天災だけに一寸どうかと首を傾けてしまいました。
気仙町の方では長部が浸水しました。姉歯橋も一時すれすれに水嵩が増えたと云えばその海嘯の凄しさがどの程度であったか思い半ばに過ぎましょう。
高等学校は勿論休校,避難民が3A教室,裁縫室に分宿するそうです。校庭の東北部は浸水し学校教員宿舎は三軒共罹災したことはほんとうにお気の毒です。明日これからが後かたづけに大変なことでしょう。大船渡,気仙沼は電話,電報共不通,何もかも恐ろしい一日でした。何でもこの津波は南米チリーの地震による大津波だそうで近年にない大災害に上ると云うラジオの放送です。
尚後報として死者9名,流失家屋102戸,全壊74戸,半壊149戸,床上浸水は201戸の多きに達したとあります。
大船渡市では被害は更に大きく死者50名を出したそうです。

10.チリ地震津波 高田小学校 6年2組 大和田明江

カーン,カーン,カーン,高い半鐘の音で目をさました。朝4時半ごろだった。おとうさんが急いで消防へ行く仕たくをした。私はすぐ服を着た。おばあちゃんが外へ出ていった。「どこが火事だべ」。と聞いたら「津波だもの」と答えたそうだ。地震もなかったのに,いきなり「津波だもの」,といわれたってすぐには,わからないのだろう。「はっ一?どごす」。と聞き返すと「こごいら全部が津波だってす。海の水がずうっと長部の方まで引いたんだってば」と言ったそうだ。外がだんだんさわがしくなってきて,「波が線路をこえてこっちの方さやってきた」。とだれかが言った。家の前をたくさんの人が通って行く。知らない人が「市役所のすぐ後まで水が来たぞう」。といいながらいそいで自転車のペタルをふんでいた。私は本当にこわくなってきた。むねがドキン,ドキンと鳴る,体がわくわくとふるえ,新しい不安が次々とうかんでくる。生きたそらがなかった。私たちがあまりさわぐので,おばあちゃんが「ほらの沢の大沢先生の家の前にひ難している」と言った。私たち兄弟3人は,手をぎっしりつないで夢中で走った。私はかあちゃん達が,ここへひ難してくるのをどれほど待ったかわからない。「かあちゃんたちは,大じょうぶだろうか,消防本部の所で地面がずいぶん高くなっているからいいけれど,足のわるいおばあちゃんはにげられるだろうか。長砂や松原の友達はどうしているだろう」心の中でいろいろ思いめぐらしながらずいぶん待った。7時ごろやっとおばあちゃんがむかえにきた。いままでに時間がこんなにも長く思われた事のないような長い長い2時間だった。家にかえってみたらガバンから何まで二階の鉄きんコンクリートのへやに入っていた。私はあんなにあわてたり,何も持たないで自分だけひ難した事を,すまなくはずかしく思った。私は市役所の所へ行って波がどこまできたのか自分の目で確かめてみようとした。行ってびっくりした。たたみが3枚も津田病院のすぐ後まで流されていた。おぜんや便所だる,小屋,材木などがどうまみれになって流されているのだ。水の力のおそろしさが本当にわかった。きたないどろ水に黄色いあぶくがうかんでいた。かあちゃんにたのまれて,けいたいラジオの電池を買ってきた。その後もたびたび「大きい波がやってくるでしょう」というニュースを聞いて,急いでタベのご飯の残りを食べ始めた。その間かあつあんは,いつたいたのか新しくご飯をにおわせて,おにぎりを作っていた。こんなにおちついたおかあさんをもって,私はしあわせだ。まだご飯を食べおわらないうちに,また半鐘が鳴り始めた。おとうさんが,家に帰ってきた「大船渡が心配だから,大船渡へいくから」と言ってご飯を食べ始めた。。「なにや,ポンプが長砂通るときみんなねてたどごだったもの,なにしろ地震がなかったもんだからな,わきの沢をさがぴながら上っていくど,ほりごめのどごまで水がきたから山まわって歩いできた」と言っておむすびをしょって家を出た。大船渡まで歩いていくつもりなのだ。まだ半鐘は鳴りやまない。こんども私たち三人だけでひ難した。津波の最中に米を買いに来る人がずいぶんあるからだ。大沢先生の家から松原がすっかり見える。全体はどす黒い波だが先の方だけがお日様をうつした鏡の様にギラギラ光る。一本の線になってこっちへ向って来るように見えるのだ。松の木が間もなく次々とたおれていく。近くから見たらどんなにすごいだろう。死にものぐるいでにげる人。ギラギラと光りかがやきながら,なにもかも丸のみにしてしまう波,そんな光景を想像してみる。むねがしめつけられるような気持だ。10時半ごろか,あちゃんがむかえにきた。3時から4時までが満潮時なので大津波の心配があるためみんなで昼寝した。心配された満潮時も無事に過ぎ私たちは急いでタ飯を食べた。夜中に又大きな津波が来るかもしれないと言うので,寝まきに着かえず,そのままふとんにもぐりこんだ。よく朝いつもの通り学校に集まった。先生たちの会議で,きのう,きょうあすと三日間りんじ休業と決めたのだ。配達がいそがしいので,となりのさっちゃんをたのんで配達をすけてもらっていた。私と,かあちゃんは,リヤカーにお見まいの炭を8俵とビスケット,食器,バケツ,手ぬぐいなどを大きなボールばこにいっぱいつめて長砂にむかった。私もかあちゃんのまねをして手ぬぐいをかぶり,かあちゃんにはあとおしをしてもらって私が車をひいた。長砂は見るもむざんなありさまだ。ポンプで家の中をそうじしていた。カベはやぶれ,戸やしょうじも家具もないガランとした家の中でごはんの準備をしている人。どろまみにれなった店のものを洗ってかわかしている所。それどころかすむ家さえもなくなってただそこらに転っている材木を拾っている人まで,部落全体にいやなにおいがただよっている。大屋という大きな,大きな家がころんだように曲がっている。みぶるいするような風景。自衛隊がきゅうえんにきた。学校にもはげましの手紙や,いもん品がきた。私は去年の伊勢湾台風の事を思い出して,おたがい助け合うと言う事がどんなにりっぱな事なのか,はっきりわかった。自衛隊のめざましい働き。みんなのあたたかい心。私たちの市や町をなおしてくださる方々へのお礼はいつできる事だろうか。

11.津波 小友小学校 4年1組 佐藤久仁子

5月24日,朝4時頃となりのおばさんが私の家に津波だと知らせに来ました。起きてみると,もう海の水が床の上にどんどんあがってきました。
母ちゃんは,おどろいて二階にねむっている姉ちゃんを起こしに行きました。私も大急ぎでパジャマの上にセーターを着,れい子ちゃんやまさのぶを起こし服をきせました。
それから母ちゃんは下にあるものを,どんどん二階に運びました。私も運びました。運びながら母ちゃんは,父ちゃんは海に魚とりに行ったんだと泣きながらかたりました。父ちゃんが死んだら母ちゃんも死んでしまうと言って泣きました。そうしているうちに,今度は大きいそ!,早くにげろ——と外から声がしました。母ちゃんは,私にカバンもってにげろと言ったのでカバンだけ持ってにげました。はだしでにげたので足がいたかったです。でも,その時はむちゅうでした。後から母ちゃんが私のズックをもってきました。
私の父ちゃんは,24日の朝(夜あけ前)3時頃いつもの通り沖の方へ魚とりに行ったのでした。まさか津波が来るとは思わなかったからです。私達は父ちゃんの事が心配でなりませんでした。
何回もくり返す津波,私の家も海の遠くへ流れていってしまいました。せっせと運んだ二階のにもつも家といっしょに海の方へ行ってしまいました。町の家はすっかり流されてしまいました。私はガタガタという体のふるえがとまりませんでした。
おひる頃心配しておった父ちゃんは海から帰ってきました。家は流されてなくなったけれど,父ちゃんが帰って来たので私はほっとしました。

12.おそろしい津波 大船渡小学校 6年2組 石川量一

「アッ火事だ」朝消防団のサイレンがなった。ぼくは弟をおこした。服をきて表へでて見た。津波だ!ぼくは弟が見えなかったので,ざしきへかけもどった。ぼくは「けんじ」「けんじ」とよんだ。へんじがなかった。もう一度表に出て見たら弟が,お父さんに「おぶってけろ」といったのが,けんじの最後の声だった。
水はぼくのひざかぶぐらい来た。お母さんは妹をおぶってにげた。ぼくはおかあさんの後をおっていこうとしたら,女中さんが「量ちゃん,量ちゃん」とよんだ。女中さんに呼ばれて,病院のまどにすがって後をみたら,お母さんがひろ子をおぶって,せんろの方へにげようとした。その時木下病院の間から大津波が来てお母さんの足をさらっていった。その時にぼくは「お母さんが死んだ」と思った。そのしゅんかん目から思わずなみだが出た。
病院のまどにしっかりすがってぼくの家の方を見ていた。少しずつ水がいっぱいになっていくその力で家をたおす。ぼくは津波を初めて見たので津波の力がわからなかった。ぼくは津波ってすごいんだなあと思った。だんだん水がいっぱいになった。首まで水が来た。もうだめかと思った。するとだんだん水がひいていって病院の薬のまざったにおいがまどからながれて来た。強いにおいだった。そのにおいで死ぬかと思った。だんだんにおいがとれた。
またも津波が来た。その津波は弱かった。すぐに水がひけた。そこへ消防団の人が来たのでおぶってもらって旅館の二階に上った。しばらくたって及川さんの知っている家に行くとちゅうに,おかあさんが柴田病院に行っていると聞いたので,すぐに柴田病院に行って,おかあさんにあった。そこで下着などとりかえて二階で休んだ。ひろこの死体を柴田病院へ持って来たと女中さんが言った。「アッ」と思った,でもその時は死体をみなかった。
しばらくたつと,「津波だ」「津波だ」とみんながさわいだのですぐ「大三」の車にのって中学校へにげた。
それから及川さんのしんせきの家で休んでいたら,おとうさんと,けんじの死体がみつかったと知らせてきた。すぐに西光寺に行こうと思ったら,永井さんのとうさんが呼びに来たので永井さんの家でおちついた。それから仙台のおんちゃんが二人で車できたのでその車にのって,西光寺へ行っておとうさん,けんじ,ひろこの死体を見たら,ぼくは思わずないた。おかあさんは,みんなにすがりすがりないた。ぼくはかなしくて,かなしくてわからなかった。ぼくがないていたら,あかあさんが「あとなくな」といった。それでもかなしくてわからなかった。みんなでおがみおわって,車で家えかえったら,おとうさんやおかあさんのしんせきの人が来て,ぼくたちをはげました。

13.つなみ 高田小学校 2年 ささきけいこ

つなみだというおかあさんのこえに,わたくしはとびおきて,うわっぱりとずぼんをもったまま,うらにあるこうとうがっこうへにげました。にかいにあがってのぞいたら,水がもうにわまできているのでした。わたくしはもうこわくて,むねがどきどきとなって,なんだかさむいようになりました。
まつばらのほうを見ると,木がたおれたり,なみのうえにうちがうかんでながれたり,見ているのもこわくてなりませんでした。
にわたは,ながすかの人たちが,われさきにとはしってきて,こうこうにひなんしました。中にはあたまからどろ水をかぶった人がふるえていました。するとまたサイレンがなり,もっとたかいのがくるというので,にいちゃんと山にひなんしました。でもきませんでした。そうしたらおかあさんが,ぬれたランドセルをもつて山にむかえにきて,先生やしんるいの人たちがもってきたおにぎりをたべました。なんだかのどがつまるようでした。
うちへも水がはいってしまったので,わたしはおかあさんたちとはなれて,はまだのしんるいのうちにいってがっこうにあるきました。うちの人たちはこうとうがっこうにとまりました。つぎの日うちをみたら,みんなどうだらけで,木やいたがいっぱいであるけないようでした。でもまちの人たちがまいにちてつだいにきたのでかたずきました。
このあいだにも,つなみがくるといわれたので,かばんをそばにおいてねました。こんなおそろしいつなみはほんとにいやだなァとおもいました。

14.津波 大船渡小学校 4年1組 平野美千代

サイレンがひっきりなしになっているので,私は目がさめました。火事かと思っていると,だれかが「津波らしいよ」と言ってげんかんにとびこんで来ました。お母さんはびっくりして「早く洋服をふろしきにつつみなさい」と言いました。おねいさんたちは,大急ぎで,いろいろな物をふろしきにつつみました。わたしも学校のどうぐをぜんぶランドセルに入れてせおいました。カナリヤを助けようとかごのまましつかりと持ちました。あまりあわてていたものですから,わたくしの,大事な大事な,バァイオリンのことは,すっかりわすれて,外へでようとしたら,もう水が来ていました。となりのユキちゃんのおばあさんはびっくりしてこしをぬかしてしまいました。お母さんが「うらから」と云つたので死にものぐるいでにげました。高い所,高い所とにげるうちに,だんだんと息が苦しくなりました。やっとセメントのしゃたくまで来てホットしました。パジャマを着て血だらけになった人が,こっちの方に歩いて来ました。わたしは,なんとも言えない気持でその人をじっと見つめました。津波のために死んだ人や,ケガをした人がたくさんあるにちがいないと思うと,ひとりで目になみだがたまってしまいました。
高い所から海を見下すと,大きな舟がゆらり,ゆらりと動いています。青い屋根の家やか車などが流されて行きます。海の底が見える程,水がどんどんひいて行くので,みんなは「又大きなのが来るぞー」とさけびました。少したつとほんとにいきよいよくやって来て,白っぽい水がうなっているようです。わたしは手足がガクガクして来ました。生まれてはじめて津波というものをしりました。みんな青い顔をしています。少したつとお母さんが「ちよっと行って来るからね」と云ってかけだしたので「波にさらわれたらどうするのさー」と云ったら「ヴァイオリンを取って来る」と云っておりて行ってしまいました。わたしは心配でたまりません。カナリヤがえさがほしいと言うように,鳴いたので,そばにあったハコベを取ってやろうとすると「また来たぞー」と云いながら向こうにかけて行きました。その時,お母さんが「はあはあ」息をはずませながら,ヴァイオリンをかかえて歩って来たのでほっとしました。
少しおちついて来たので家へ行って見てびっくりしました。まどもなくタンスはひっくり返り,まきはぎっしり中にはいって歩くこともできません。時計はななめになって,4時40分でとまっているので,このときに水がはいったのだなと思いました。銀行の人たちが来て手伝ってくれました。わたしたちのきれいな洋服も流されたり,どろんこになったり,みんなひどくやられていました。お母さんは青い顔をしてぼんやり立っていました。お父さんが,銀行へ行ったまま帰らないので,波にのまれたかと思って,ドキドキしました。でもぶじであることがわかり家の人が皆んながぶじなので,わたしは1人でにこにこしていました。
わたしたちは,死んだ人たちをはこんでいる,じごくのような道を,手も足もまっくろくしてどろだらけの荷物を運びました。私と遊んだむっちゃんが死んだと聞かされたときは,なんとも云えない気持でした。
今は何事もなかったようにしずまりかえっている海を見ると,にくらしくなります。わたしたちは,これからぜいたくをしないで,なんでも大事にしなければもとのような町にならないと思います。

15.津波 気仙中学校 3年 菅野智子

5月24日の朝,私はいつもなら母に起こされるまでは寝ているのですが,この朝に限って3時半ごろ目をさました。
あたりはまだすっかり静まりかえっていた。それから何分かたったと思う,朝の静けさを破ってサイレンが鳴り出した。魚市場のサイレンだ。同時に家の前の岩壁あたりで大勢の人の何やら叫んでいる声がした。私は不思議に思っていた。それでもふとんにはいったまま「とうさん,何かさわいでいるよ」と父に叫んだ。父は,すぐ起きたのか起きていたのか「津波だ。すぐ出ろ」と叫び返した。父の声があまりにも大きいので,私は飛び起きた。弟たちもすぐ飛び起きた。
ガラス窓からは,埋立地の宝福丸の事務所近くまで水が上がっているのが見えた。いつも避難場所は聞いているので,ただこわくなり,自分のカバンをだき,夢中で外に飛びだした。水はそれでもまだ家の道路には上がらなかったので後から来る弟たちを待って一緒に紅葉の木の下まで走り,家をふりかえると母は妹をおぶい,一番後から父が書類カバンだけ持って走って来た。
水はまた引いていつもの位になった,母は「家に行って来るから」といって私に妹をおぶせ,なお「修と滋と一緒の所にいろよ」と言って家に走りました。紅葉の木の下は港から避難して来る人たちでいっぱいになった。その間,20分位たったら,みるみるうちに海水が引いていき,港の中には水がすっかりなくなり,海底を歩いて灯台に行けるくらいになった。今度は防砂堤の向こうの方は,波が矢のように速く,松原の方へよそから流れて来た屋根などを運んでいく。さん橋につないであった船も沖へ流されていく。もうおそろしさでだれも,何も言わない,船は6隻ばかり大きな音をたてて流れていったが,港の中に残っていた3隻は,船どうしでぶつかりあいながら,水がふえるにつれて,だんだん岸によってきた。そのうちに音をたてて船に積んであった綱が落ちてしまい,いかりと綱に引っぱられてひっくりかえってしまった。あたりにいた金比羅丸の人たちは「明日,出船なのになあ」と足で土をけりながら,半分泣き泣き,くやしがっていた。渦巻きがなくなって静かになってきたが,水はだんだんふえてきた。たちまち港いっぱい水浸しにして埋立地に建てた家を次次,バリバリと音をたててこわしていく。「もうやめてくれればいいな,止まってくれ,止まってくれ」と心の中で神様を拝んだが,水はとうとう道路を越えて私の家にも流れ込んできた。私は見ていられなくなって手で眼をふさいだ。また眼をあけて見ると店のガラス戸は流され,店にならべてあった菓子箱,ケース,衣料品,バケツ類など次次に家の外に押し出されて,流れていった。
あたりには声をたてて泣く年よりや女の人,こどもがふえてゆく,私ももう胸いっぱい,もやもやした。そして泣きたい様になってきた。やがて,港の中いっぱいに屋根やタンスや戸,いろいろな物をうかべながら水がひいていった。そしてふだんの水位までもどった。「もう終った」とだれかが叫んだが,まだだれも動かない。
こわいこわい津波は去った。死んだ人はなかったろうか,流されていった人はなかったろうか。家をこわされ,そして商品をたくさん流してしまった父や母はどんな気持でいるのだろうか。せなかにおぶった妹のことも忘れて弟のかたに手をかけて,私もずっと海ばかりながめていた。

16.津波 気仙中学校1年 菅野修

魚市場のサイレンと海岸で何やら人の高声で目がさめた。魚市場のサイレンがはげしくはげしく鳴っていた。こんなに早く魚が来るはずがないのになあと思って,またふとんをかぶってねようとしたら,おとうさんが「津波だから早く起きるんだ」と大きな声をだしたので,ぼくはとび起きた。二階にねているので,起きあがるとすぐ海をみた。大変だ,埋立地に水が上っている,急いで服をきた。服をきる時も,カバンを持つ間も波のことを心配しながら,外へ出た。まだ水は道路にきていない。いつも地しんの時には,津波は高い所には上がらないから急ぐ時はすぐうらの山に,間のある時は紅葉の木の下にと,おとうさんから聞いているので,走って走って紅葉の木の下まで一気に走った。紅葉の木の下で海の方を見ると,埋立地の水はひいて,普通の時と同じ様になった。石段の所には大ぜいの人が集まって来た。そのうちにまた,水がひきはじめた。明日出船の金比羅丸が,岩ぺきの所をぐるぐる回り始めた。それで水でひいていったため,そのうち一しょにいた4そうの船と船がぐるぐると大きな水のうずまきにまきこまれて,大きな音をだして,しょうとつした。その中の一番大きな船のつんでいたあみが落ちて,船はかたむきながら今度は,岩ぺきにぶつかり,ひっくりかえってしまった。それを見ている人々が泣きはじめた。ぼくはおそろしくなってきた。「大変だ。大きなのがくるぞ」と,おとなたちがさけんでいる。「なぞになるのかな」と,思っていたら,水はどんどんふえてきた。白灯台の向こうをいろいろなものが松原の方にまるで早く流れていく。港の中にも流れて来た。水はどんどんふえてくる。埋立の家が大きな音をたててつぶされて流れはじめた。ぼくはますますこわくなって,石段をあがって来た。店の商品らしいものが流れていくのが見える。それから家の前まで船は上って来た。ぼくはこわくなって,また走っておばさんの家にいった。その日一日,次の日もこわくて,こわくて海ばかり見ていた。次の日,朝早くぼくは,海の近くへ行って,少しばかりの商品を見つけ出した。よその人が,大勢手伝いに来てまだ水にぬれたまま運び終えない品物をおばさんの家へ運んでいった。その日もまだ,海の水が白灯台近くまでひいて,また津波がくるぞとみんなが叫んでいる。いそいで2回山へ上ったが,前のような大きいのはこなかった。

17.津波 高田中学校 二年三組 松沢雅代

私は生まれて初めて津波というおそろしいものにあった。ふだん津波,津波と一口に言っていましたが,ほんとうにあってなんとおそろしいものだとつくづく思いました。23日の夜お風呂に入り気持よくねていましたが,その気持もうちやぶられ,24日朝早く「マサヨ」と呼びおこされました。「外がさわがしいから外に出て見てこい」と言われたのでびっくりして外に出て見ると,サイレンがなり,半鐘がなっているので「なにかしたのか」と聞くと「消防演習だ」といったのでほっとして父につたえ,ふとんにはいった。とたん「津波ダー」とさけび声がきこえたので弟を起し,私も服に着かえにげる用意した。服を着るなりカバンに勉強道具をつめ,次に母のいはいと写真を持った。父は「早くいけ」というのでみんなにまぎれこんでにげた。父と弟がこないので家の方を見ると,トラックでにげるところなので安心してにげた。新道路をすぎて土手にさしかかろうとした時は波と家のこわれたのがいっしょになって流れて来た。それを見たとたんに私の足はガクガクとなって前に進むのがおっくうになった。うしろをふりかえりながらにげたが,家がどんどん流れてくるではありませんか。「津波なんてなけりゃいいのに」と心の中で何度つぶやいたかしれません。川原橋が近くなったがそこまでくると波は私をおいこし川原のそばの田まで水が入っていた。川原橋の所は人でいっぱいだった。しばらく自分が来た道をみると,にげてくる人がいっぱいいた。見ている人の中で,人のことだと思っておもしろそうに半分はしゃいでいる人もいた。まったくにくらしかった。「自分もこんな目にあったらどんな気持になるのだろう」思えば思うほどカッとなった。橋の所でポカーンとしていると,トラックが来たのでひとまず小学校へ避難した。安全な場所ににげたが,家が心配で私はおろおろするばかりだった。小学校の屋上を見ると先生方が上っているので私も上らせてもらった。屋上からはすっかりみえた。新田の方を見ると新田に立っていた家はのこっているので安心した。「新田は少し高いからなあ」と話しているのを聞いたが少しの高さちがいで被害の差が大きいのにおどろいた。
波は広がり気仙町の田の方に入っていた。波にまじり黒いものが流れているのがきっと家だろう。屋上からおりてみんなの所に帰った。しばらくして波がおさまったというのでそのすきに松原の方に行って見たが,思っていたより被害が大きく,木の根やリンゴの木がごろごろしていた。道は道で水が30cmぐらいたまっていて穴だらけであった。そこから私には行けなかったが,もとのような平和だった町のかげは見えなく,まるで暗くじごくのようにさえ私には思えた。波が又くるというので私はいそいで学校にひきかえした。トラックの所にみんな集っているので私もそばにいった。目を赤くしながら「松原に立っていた家はみな流されてしまった」,「今までの苦労も水のあわだ」,「おらいなんか影も形もねえじゃ」となきながら話していた。私も目がしらがあつくなった。家からなにまでなくした人はこれからどうするのだろう。私はこれからのことを考えた。1月になくなった母の顔がうかんで「マサヨちゃん,こんなことでくじけてはダメよ,元気を出してがんばってね」とはげましてくれているようだった。午後になって私とチエちゃんと波がこないうちに家へ行って見ることにした。道路,畑と見わけがつかずどろでつるつるすべって思うようには,前へ進めなかった。やっとの事で家につき中に入ってみると,何から何までがひっくり返りどろだらけであった。せめてぬれなかった毛布とねまきだけでもと,いつ波がくるかとドキドキしながら出し,背にしょい,いそいで家を出た。チエちゃんは少しさきに行ったらしくいなかった。急に一人になったので心細くなった。水がある所もズボンも上げないでジャブジャブと入りいそいだ。土手の所で荷物を下し,川でズボンのどうをあらおうと入ったとたん左足をガラスかけできってしまった。キズは2〜3cmぐらいあり,後から後から血が出て来た。病院の先生がいないとの事で小学校で手あてをしてもらった。キズはづくづくいたみだしたので,本でも読みながらねているほかになかった。夕方になって高等学校の作法室に移された。その中で同級生もいたので力強くなった。ねる時になっても家にいた時とちがってなかなかねつかれなかった。又おそくカネがなってにげる用意をしたり,朝は朝で3時頃にカネがなったりして睡眠不足というところでした。昼になっても足をけがしているので家に行ってかたづけ方も出来ません。父は朝ごはんをたべるなり弟をつれて家にかたづけに行った。私はする事なく,よその赤ちゃんを見てやったり,まだやった事のないオシメをとりかえてやるぐらいのものでした。
松原の方を見ると海と沼がいっしょになり波が引いたり,たったりしてなんとなく私の心を暗くした。人の話によると,又大きた津波がくるとかこないとかで私の気持はおろおろするばかりだった。被害を受けなかった人々は,くわなど持って作業を開始していた。一日でも早く,もとのような明かるい町になってもらいたいとねがう気持でいっぱいでした。次の日,足も大分なおったようなので家へ行って手伝いをする事にした。行く途中は思っていたよりひどく線路はアメでもねじったようにぐにあんと曲っていた。家はどうだけはとれていたが,外のゴミは取っていなかったので,まずまわりのゴミを取る事にした。
空がくもって来たので外はやめて洗濯をはじめた。皆んな塩水につかり白い物や黒い物は見分けがつかなかった。衣類の中は母の物もまじっていた。母の着物のよごれをみていると,母の顔にどうをぬったような気持だった。よごれものがいっぱいあったので午後3時半頃までかかった。夕はんは,久しぶりに家で食べた。何もない夕はんではあったけれども,私にとっても,父,弟にとってもおいしかったにちがいありません。暗くならない内にと私と弟は高等学校に行く事にした。父だけは家の押し入れにねている。「高等学校にいっしょにあべ」と進めますが「大丈夫,近所の人達も家にねているのだから」といってだめだった。私と弟は不安な気持で家を出た。高等学校につくとみんなごはんを食べ終っていた。どこかのおじさんがラジオを持って来てかけた。私達は久しぶりにラジオを聞くので大喜びだった。久しぶりにラジオを聞いたのでおそくまでおきていたが,さすがの私達もねむくなったのでねる事にした。2〜3日経って私達は友達の家へとまる事になった。その家では,父さんが北海道へ行っているのでかえらてにぎやかになっていいとよろこんでむかえてくれた。その晩もおしゃべりばかりしてねむれなかった。津波のおそろしさを語ったり,どうしてにげたかと自分の思った事をかたりあった。友達の家にも長くはいられないので,たたみはすっかりかわいてはいないが,そのたたみをしいてねることにした。たたみをしいてはねるが朝おきると又外に出してかわかし,夜になると中に入れ,しいてねるといったぐあいである。今では東京,色々な方面からも衣類品なんかが送られて来たし,学校には,はげましの手紙や見舞品がとどいて来た。本当にありがたくてなんともいえない気持になった。日本中にむかって「ありがとう」とさけびたい気持にもなった。
きょうこの頃では皆さんの協力によって大分もとのような町になって来ました。平和な町になるのもそう遠くはないでしょう。この津波の一番不利だった点は,地震がなかったことといえるでしょう。なににせよ,こんな事でくじけずにがんばりたいと思います。

第2章 津波の状況

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地図 気仙沿岸における最大波高の分布

第1節 陸前高田市の状況

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地図 陸前高田市
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地図 大船渡市
1.襲来当時の状況とその特異性
(1)どんな前兆がありましたか

広田
今回のチリー津波は,地震も轟音も,全然なく音なしにやって来たものである。唯一般的特徴としては,津波の襲来直前,不気味な程潮が遠くまで引け,今迄見たこともない海底や岩床が見えた。
六ケ浦部落の漁師の話によると,朝3時頃,うにとりにいこうと思って船を下ろしたが潮があまり沖の方まで引けていくので,津波でないかと思ったが,地震もなかったので,津波だと信じられなかった。然し余りにも潮の引き方が甚だしかったので,津波だと直観して避難を始めた。
◎参考までに明治29年や,昭和8年のものについて記録する。
○明治29年の三陸の大海嘯の時は,3日も前日から,小雨と共に地震があったり,大砲でもうつ様な轟音が海の彼方で屡々聞えた。
○当時の人々は,海軍の演習でもあるのではないか,と思っていた。
昭和8年の時も,夜明前の3時半頃,時計がとまったり,棚から物が落ちる程度の激震があり,それから30分位後,物凄い轟音と,閃光があった。(この閃光は,浜の人達は,海底火山の爆発だと云うが果してどうか?)この轟音と閃光があってから約20分位して津波が襲来した。なお,津波直前の海は,非常に静かで月が照っていた。
(註)閃光について,閃光をまの当り見た。小学校の使丁,村上丑松氏(70才)は当時,さめ網の出漁に出かけようとして,船にのっており泊湾の内で見たが,直経1丈位の円形の光で沖の方に現われ,月の光に以たものだとの事である。


長部
○いわし魚のとれる時期が今年は例年より早かった。
○しらす,テンガンという式の漁の仕方では今まであまり網に入らなかった「いわし」が今年は多くとれた。
○「かれい」等が松原の岸近くで一晩にバンジヨで1つは確実にとれた。これは例年にはないことである。しかも以上の事が5月24日より15日ぐらい前からの傾向であった。
5月22日(津波の2日前)気仙松原の所で地引き網をまいたのだが,入潮が非常に強く舟でぐるりとまいて来終って,さて網を引き始めようとした時には網は殆んど岸により小さくたたまれてしまっていた。例年ならいくら入潮が強いといっても,まいた網がそのようにちぢめられてしまう事がない。そして普通なら網がそのようにちぢめられてしまったのだから魚が入らないのだが,その日は不思議とカレイがバンジヨで半分もとれた。とにかくあの晩は潮の流れが非常に早かった。
○1ケ月ぐらい前,赤燈台のあたりであるマガケで本場のニシンが多くとれた。これ等も例年ならほとんどとれず,とれてもわずか1・2匹程度であるのだが……。


気仙
○当日の朝,沖嶋りにめざめたので3時頃だった。亡くなった父から聞かされていたシケの前に起きる沖鳴りの様に思えるので網を揚げて舟を覚悟しなければならないと考えた。
○中学校の庭を横切って堤防を超える時に見えた異変は,松原の波うち際あたりに白あわが一面に寄せていたった。
○次に舟を出そうとして気づいたのは,魚がいっぱい集っていて,水面からとびあがったり,パクパクしたりしていた。
○旅舘に宿泊した人が,20日か21日に津波が来るらしいという事を話したが別に気にとめなかった。多分,短波放送か外国放送で聞いたのではないか。
○津波襲来2・3日前に例年よりアユが上流にのぼって来た。
○沖の方より潮鳴りが強く聞こえた。前夜気味の悪い程,海が静かだった。津波の前々夜あたり夜空に光るものを見た。
○朝2時半,ハイ縄漁業のため沖に出漁中潮がうずをまき始めたので,ただ事ならずと早く縄をまきはじめたが全部とらぬうちに波が来て取得ず,そのまま津波の治まるまで海上にて待避していた。陸上では地震の前ぶれなく,4時すぎ100mも潮が引き今迄見た事のない岩が露出した。
○5月24日午前1時頃,自分の工場で働いている工員が,日鋼工業の堤防で魚釣りをしていたところ,今迄になく沢山魚が釣れた上にタコと思われるような大きな獲物が3回釣にかかったが,水面近くでにげられた。その頃から大潮がひっきりなしに来るので気持が悪くなって帰宅した。
○津波が襲来する前に度々大潮が来ていた。又気仙川口のさし網に午前3時半頃,海の魚までかかった外,群をなして気仙川を遡上していった。
○津波の前日アユが,川が真黒になる程むちゃくちゃにのぼるのが見受けられた。


小友
只出部落
○津波の前日あまりなぎさでとれた事のない,いわしが大漁であった。23〜24日12時頃まで,ながし網等潮流の為操作やりにくかった。
○自然に潮の干満が大きくなっていった。
三日市浦部落
〇三日市浦は満潮時におけるシケの日は波は岸壁を越え,宅地庭や県道まで溢れる事が屡々であったので当日,2時半頃の大潮(高潮)は第1波,津波であったのだ。
遠く潮がひいた。
○当日朝まで3晩位,三日市浦岸近くでシラシの大漁があった。


高田
○当日早朝4時15分頃,家を出ていくと第1回の高潮が沼まで来ていた。海岸に出てみると潮が約40Om位,引いていた。
○例年にない小魚豊漁,犬猫の泣き声の激しかった事。季節にそわず,暑さのはげしかった事,雲に入った時の太陽がうす赤かった事。
○お茶の木の枯が目立って多かった。(昔からの言い伝いで,天災のあるときは茶の木が枯れると云われておったが,今年のお茶の木の枯れがそっちこっちにあった。
○午前3時頃非常に潮が引いた。(高田松原の海苔棚辺迄)

(2)津波襲来の時間,回数,高さ,強さ,早さ,方向等はどんな様子でしたか。

長部
時間
○3時30分頃水(海水)が引き,干潮には少し強く変だと思っているうちに……3時40分頃になると,市場の所の岩壁を越え30m位の所まで波がのんのんとあがってきた。それ津波だというのでさわぎ始めた。これが第1回目でないか。
2回目は,4時30分頃,3回目は5時頃,最も大きかった。
回数
○大きく来たのは,2〜3回目ではないか。それ以後も1日中警報がなり,波がひいたり,よせたりしているし,2日目(25日)になっても2〜3度警報が出,波のひき,よせがあった。もちろん岸からはあまりあがらなかったが,すれすれぐらいにはなった。
高さ
○昭和8年の津波で県からの命令で安全と思われる程度に住宅を建てた。それは海岸から150m位はなれた所に高さ3.3m位の石垣を一帯に作りその上に住宅を作ったのだが,それをさらに(3.3mの石垣)を越え床上1m以上もの浸水となった。市場のあたりでは屋根まで水をかぶる。
強さ
○川のそばの家等は,水をかぶるのと同時ぐらいに,メリメリ,バリンと言う音とともに土台よりすっぱり流され500mぐらいの地点まで家が運ばれてしまった。
○川のそばにあった製材所(中野製材所)も同様屋根は瓦がのったまま,すっぱりと400m位の地点まで運ばれている。
○鉄工場のスタチングボックス(75kgぐらい)が設置場所より上の方に50m位流される。シリンダー(約100kg)が置いた場所より30mぐらい上の方に流される。
○橋(コンクリート)のところで,家の屋根と橋とがぶつかり波のおし上げる力で,橋の手すりがぐんにゃりまげられ,屋根の方はこなごなにされ,橋の下をくぐり川上に上る。
○赤燈台の所のガローの道路にあるコンクリ(海面より高さ約3m,あつさ30cm位)が打ちこわされる。
早さ
○屋根等が流された場合ゆったりした川の流れにのって流れる様に上の方向に運ばれていく。
方向
○湾は東の方向に向いておる。人家は西の方にあると言った地形。
○漂流物のうちで松原の方にうち上げられた物も相当数あったし,米崎,小友地区に流れついているものもあった。
○強さにもなるの柁が100人もの人が幾度もかつぎ上げなければならない何百米もの,しかもその人数でなければ引き運べない様な網が,網納屋がこわれ,その建物の南の方向にある川づたいに,南西の方向の田に流されている。それから,早さとも関連するのだが,川の方が100mも波がのぼってよりそれぞれの岸にのぼり始めた。
○魚は勿論であるが,貝等(ホッキ)が多くうちあげられたと言う事は気仙川の方に先にのぼりぶつかつた波等もこちらに来たのではないか。


広田
(1)時間
始めて大きい波のあったのは,朝の4時15分頃であった。その前に3時半頃から潮の干満が激しく,海面は唯ならぬ様であった。
(2)回教
大きな波は,午後3時頃まで7〜8回も往来したが,小さい波に至っては翌朝までも続き,枚挙にいとまがない程である。
(3)高さ
広田における波の高さ。
1泊落部(3m) 2根崎部落3m 3六ケ浦部落(4m)
六ケ浦海岸から,450mはなれた田んぼまで浸水している。
こんなに浸水したのは,六ケ浦だけ,泊部落は,護岸1寸超えた程度で,市場だけ波に洗われた。
六ケ浦部落は稍々入江であるので,チリー津波の特徴(入江程被害大)が現われたものと思われる。六ケ浦部落は,明治29年にも,昭和8年にも被害甚大だった。
(4)強さ
広田町の被害のあったのは六ケ浦だけ,それも民家3軒,床上浸水3尺位のことで,戸障子もあまり流されない。浸水家屋は海岸から250m位離れている。
(5)早さ
大人が精一杯走っても追いこされる程度。
(6)方向
六ケ浦湾と続いている大野浜は,直接大海に面しているが,海岸から,70m離れている県道にも波が上らなかったが,六ケ浦の部落450mの田んぼまで浸水している。大野湾に押寄せた波も,入江になっている六ケ浦の方へ廻っていった様に思われる。


気仙
鉄砲町
○第1波と思われたのは,3時20分頃だったか,怪しい沖鳴りに驚き網を揚げようと思って,川岸に出て舟を嵐したら大潮と思われるように白あわを先に立てて水が押し寄せて来たった。
○第2波と思われたのは3時40分頃,下流の網は揚げ終り,その上流の網を揚げにかかっていたら,水かさがどんどん増してくるので網は半分で切りて捨て急いで岸に戻った。満潮時よりは70〜80cmも高かったが,堤防はまだ1m20〜3cmは残っていた。舟を着ける,網を揚げる。網は家まで運び込む等,妻に手伝われながらこれはやはり津波だと確認し,これ位でおさまればよいがと念じていた。
○大波は3回目の時だった。
網は揚げたが舟の覚悟もある。津波が来るぞと近所の人々に知らせながら舟を厳重にゆわえ付けたりしているうち見る見るふくれ上った水は堤防を越えはじめた。
ふと見た川口付近では,長沼正志氏の宅は波に浮かされたようだった。堤防を超えた水は,気仙中学の校庭になだれ落ちてくる。急いで自宅に戻り妻と子供達を裏山に避難させ,雨戸,入口,長屋,倉と戸締りをし終った時,堤防を超えた水は金野建設の作業場(4k×18k)を浮かせ約90°に向きをかえ(川から遠い方を軸として)中学校庭に押し流し,渦を巻いて水内氏の庭に押し寄せて来たのだった。
校庭よりは50cmは高い筈だった水内氏の入口でも,はや膝までの水である。その水をかきわけながら裏山に這い上った。避難して振り返った時,前記長沼氏の屋根が,気仙川をその他の漂流物に交ってひときわ目だちながら上流え押し上げられていった。(それは約800m上流の姉歯橋の欄干に当って壊われたそうだ)中学校にながれ込んだ水は校舎を取りまきその周辺の物を流しながら一つは県道を横ぎって住宅前の田に流れ込み山麓をめぐって再び道路を横ぎって,中学校西側水路をのぼって来た波と合流して龍泉寺前の田まで寄せていったのだ。
二日市
○第2回の時は棧橋の位置から2〜3尺のところまでの高さだった。次の時は前回の時のような寄せ方でなく,押し上げるような潮の寄せ方で,あっと言う間に岩壁をこえていた。
○長男の言葉をかりれば「車でとばすぐらい」の早さだったと言える。

○娘に知らされて海岸に出た時には,市場の事務所は高さ1mぐらいは水浸しになっていたろうか。大河の流れのように音なしに寄せている。岩壁から50m位の低地はみるみる海になってしまった。やがて間もなく引き潮になって来た。時計をみたらちょうど3時40分であった。どんどん引けて行く。岩壁での平時の水位よりは1m位もさがってしまったろう。
○第2回目が浸入して来た。確かに4時であったが前回とだいたい同じくらいの規模であったように思う。4時15分,手元付近(港の西北部に位する)から引きはじめたのだが港に向かって一様に引いて行ったわけではない。ある所では寄せるといった,いろいろ暴れ廻るように入り乱れて流れていく。港内にいた数隻の旋網漁船も,それぞれ避難の準備にかかっていたようであったが,あっちへいったりこっちへ来たり,ぼかぼかぶつかり合いながら流れていく。ついに港外に引き流されてしまった。その中の一隻はひっくり返されて流出していった。ほとんどの人達はこの漁船の動向にばかり注視し,気を取られていた。潮も,岩壁の突き出た桟橋から約100m灯台下の岩礁が現われる程で港内はほとんど干いてしまったようである。時に4時25分。この辺から津波の実相を読み取っていよいよ家財避難の用意を始めたようであった。が間に合うはずはなかった。1回目からでは優に7時間はあったはずだが第3回に押し寄せた潮は最大のものでどうにも手をつけようがなかった。さらに津波が引いて自宅に戻った時には7m以上も浸水し,店舗の商品も大部分を失ってしまったのである。これも地震を感じない津波をどう判断したらよいか皆目見当がつかなかったからである。
大通
○浸水度……床上27cm(浸水4時,8時の2回)
漂流物……松原の松が根をつけたまま流されて
来た。物品も松原のものだけ。
魚……フナ,ウナギ,コイ,ボラ,カレー,ス
ズキが丸枡の製材所の裏の田まで来た。
早さ……数秒で50m(襲来時4時,8時)
高さ……姉歯橋をひたす程度。
双六
〇最高潮位
T.P+4.O1m
D.L+4.66m
時刻5月24日, M.P.4.45
○最低潮位
T.P−4.05m
D.L−5.15m
時刻5月24日,M.P.4.20
○穴空島
最も潮が引いた時は穴空島へ歩いて行けた。
○最高時たは島の上の松だけが見えた。
古谷
○押して来る波より引いて行く波の方が早い。
○最高潮位
T.P+4.Olm
D.L+4.06m
時刻5月24日,M.P.4.45
○最低潮位
T.P−4.50m
D.L−5.15m
時刻5月24日,M.P.4.20
福伏浜の状況
○回数 約3回第1回3時半頃
第2回?
第3回4時半頃
○強さ
2回目の波は大きく浜は200m位海水がひけ,約30分してから大きな波がやって来た。
被害,納屋1棟全壊流失 小舟11隻全壊流失(内,行方不明23隻)
要谷
○津波の来た時間は,はっきりしないが4時すぎとの事,大きいものは4〜5回。高さは15m位,海の方向より押し寄せて来た。

○第1回目の津波は午前4時30分頃,第2回目の津波は午前7時頃で高さはよくわからないが籬島(まがきじま)の松の木が波で見えなくなった位であった。潮が引いてから約20分間位の余裕があったので或程度の家財道具は持出した。波の速度もおそかったので非常に助かった。
○午前7時頃より大潮は度々来た様である。第1回の大波は午前4時30分頃,午前7時頃にも大きいのが来ている。その他小さい波は20〜30分おきに1日中来襲している。波の高さは約6m位,強さは前回に比べて弱く,速度もおそいようで走っても逃げられる程度であった。最初の大波は網のガラス玉と共に,高田松原の方向へ直進し,少しおくれて湊に来ている。高田松原の松林に衝突して,その余勢が湊の方向に進んだため長部港はうずまきを起こし,舟も相当に被害を受けた。
○午前4時30分の津波で,魚市場で約6mもあったが,非常におとなしい速度のおそいものであった。漂流物は主として高田松原の砂浜その他米崎町,三日市,遠くは広田町,宮城県唐桑の辺にまで及んだ。
米崎
○時間
4時頃
○回数
16回
○強さ
沼田部落の海岸(岸辺)より約100m離れた地点にある鉄道レール曲がる。コンクリート堤防崩れる。
○高さ
5m40cm
○速さ
今までの津波より遅い。
○方向
高田松原にあった標木が三日市部落に漂流す。
高田松原の貸ボートが勝木田部落え漂流していた。
○力
1m浸水家屋の水槽(1.3m×1m×1m)が20m位運ばれていた。
小友
○時間 回数 高さ
4時30分 1回 3m
2回 3m50cm
3回 6m75cm
4回 4m50cm
5回 3m50cm
その後の波とあわせて40回位来た。25日夜あけ3時頃3m50cmの波が来た。
○速さ
時速4哩(6.4km)
15哩(3.4Km)
小友駅小友中学校の土手下まで来る。
○朝の平満の差が大きくなっていたので,はっきりしないが4時頃から顕著にあらわれるようになった。
○回数は大小合わせると午前4時頃から午後3時頃まで20数回。その間かくは大体30分位に1回押し寄せて来た。即ち見ている間に潮が数10m引き,引き終るとすぐに満ちてくるといった状態。
○高さについては自然に充満したといった様子である。勿論防波堤,大きな島等に当ると潮吹雪を多少ではあるが立てていた。
○強さは普通の台風の時の様な猛威はなく,むりむりと底力で物を打ち倒すといった秘めたる力を感じた。
○方向については,波が防波堤に打ち寄せる状態から考えて,南西ではなかったかと思う。
○三日市では波の進行方向は北であった。
○回数と時刻
第1回 午前4時
第2回 記録せず
第3回 午前4時45分
第4回 午前6時15分
第5回 午前7時25分
第6回 午前8時5分
第7回 午前8時55分
翌日も小波襲来した故30数回はあった。
○高さ
第3回目の4時45分の波は最高で,普通水位約9mの高さ,6回までは5m以上,第7回目は6m。
○強さ
第3回目は最大の強さであり,従ってこの時の波で三日市両替の家屋流失す。
○早さ
第3回目の波の速さは時速30km位。スクーターでやっとおいつかれたところを脱出した。午前9時頃までの波と,午後1時半の波は時速25〜30km位であった。


高田
長砂
○襲来時間は4時40分頃と思う。回数は大波3回高潮1回。高さは松原で8尺〜9尺,強さは高田網の納屋に水が約4尺位の高さになった時,全壊流失。
○方向は松原で見て居りますと沼田部落の方が早かった。次は沼田,高田の境の水,沖瀬の水いずれも北西に向う。
○時間は4時50分,高さは床上でlm30cm位,方向は北西。
○4時45分人々の叫声に家を出て松原に走った。第1波は沼及び松原グランドが潮水で一ぱい,浜に出ると干潮となり平水より約200m程引潮となっていった。大津波第1回は5時頃,波の早さは岸によせるまでは高潮程度で,大津波になるとは思われぬ程遅く,岸に近づくに従って全般に高くなり高波ではなく,河の水出のようであった。
松原に波が上がリゴーゴーと水なりをして後から後からよせる波は大河川の洪水の様でっあた。大波は24日鉄道線路を越えたもの4回,路線についたものは3日間続いた。
下宿
○時間は4時50分,高さは線路上2〜3尺位,水は小泉川をさかのぼり充満して家屋浸水,少しおくれて浜田川より水が入りややおそく線路を越える。流失物は多くは八坂神社の前の畠田の中にあった。
13区
○高さは松原の松の樹に登っていた人の話で13尺位。方向はまっすぐ来て西南の方へ流れた。
14区
○時間は4時50分頃,回数は大波後は1時閻半から2時間位時間をおいて来た様である。高さは松原地区,松原グランドかもめ荘との中間で約3m。強さ家が流失,家のマワリのりんごの木約50本全部流失(15年位の木),早さは大人が全速力で走るよりも早い。方向は松原から高田駅の方へ最も強く流れた。
曲松
○大波は1時問位の間合いで,其の間合いの中にも少い乍ら3回位の小波はあった。その中でも最高のものは平水面から3m位あった。

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津波の来襲状況
(3)波の引きぐあいはどうでしたか

長部
○岩壁から約200m近い白,赤灯台をむすぶ線までひき,その辺の岩のあたりで水がぴちゃぴちゃし,底の方まで見えた。
○双六浜の方では,満潮のときは,カッコ舟がその上(岩)を通るのだが,50mぐらいはなれたその岩の根が見えた。


広田
立ててくるのも早いが,引くのも非常に早く今まで見た事もない岩床や海底が現われて非常に無気味であった。六ケ浦は岬の中程まで海底が見えた。椿島の方では青松島まで徒歩で行ける程であった。泊部落は市場の前までひけ,今まで見た事もない岩床が現われ無気味であった。


気仙
鉄砲町
○第二波で網を切って帰る時,ふと見た長部湊の湾口のまがき島が,ふだんより高く見えており,その付近を一隻のサッパ船が沖え降りてゆき対比してまがき島がせり上っていくようであった。それにしては川の水位は気付くほど動いてはいなかった。岸に上ってから水はどんどん引いていった。しかし海が引けても川の水はそれ程引けなかった。

○第1回の引き潮(3時すぎ)平常水位の半分位だった。
○第2回は港の船が棧橋につく水路を除いて一面に引き去っていた。湾内に川ができたようだった。
○1回目は3時40分,2回目は4時15分に引き始めている。1回目は岸壁の平常水位よりは1m位は引いていた。しかし,2回目の方は港口の突堤まで引いてしまい,見た事のない灯台下の岩礁まで見えた。ひき去り様も常に同方向には流れないで入り乱れの状態であった。速度も2回目は1回目よりはだいぶ早いように見えた。
○籬島(まがきじま)の根まで見えた。第2回の時はやはり灯台近くまで潮がひいている。
二日市
○沖え100〜150位の所まで引いた。潮の引いた後はカレイ等の魚が一ぱいとびまわっている状態だった。
大通
○海水がずっと引いたために,気仙川の水が流れ出て,その為に海水と川水との境が平常の時より100mも沖に出た。
福伏
○岩礁並に厚み8寸の岸壁(コンクリート)若干崩壊,陸繋になっている岩礁上の神社の石作りの鳥居は根本10cm位の所から波によって折れている。
要谷
○波は要谷海岸より100mも引き岩が大分露出して見えた。


米崎
○米ケ崎の尖端の底が見えた。


小友
○りゅう神社のところまで引き,米ケ崎の岩根が見えた。


高田
○海苔棚の所まで引いた。
○海藻類が黒々と見えた。約200m位引いた。
○松原地区特にホウソウ岩附近の引具合は一般に大切突堤に向って強く,最上堂橋附近にはうずまきが起った。

(4)警報やしらせはどんなふうになされましたか

長郎
○3時30分の1回目の波ひきで発見したので,まず3時40分頃より30分ぐらい魚市場のサイレンがならされた。
○それより消防の方では海に行き様子を見て,市の方の指示をまたず4時半頃鐘をならし避難させた。
特に津波だという,警報の知らせはなかったが,朝早くうにとりの準備のため舟おろしに出た人々はあまりにも潮の引き方が激しかったので津波ではないかと直感した。サイレンや,消防自動車の警報がうなり出したのはその後であった。


気仙
○近所の人のさけび声で知った。
○朝3時頃,沖網へ出た人によって知り,又近くの人に知らせた。
○魚市場のサイレンをしょっちゅう聞かされている私どもにとっては,何の異様も感じませんでした。確かに床の中で聞いていた。既に起きていた娘が突然津波だといっておこしに来た。おかしいと思いながら海岸に出て見た時には市場の事務所は高さ1m位水浸しになっていたろうか。はるか岩壁を越え,同栄漁業組合事務所までおし寄せていた。潮がじゅわじゅわと静かな音を立てて押し寄せてくる。下から津波だといって連呼しながら走ってくる人の声も一段と切実になってくる。これではただの高潮ではないと思ってみても,だからといって地震のない津波ってこともあり得るものではない。これはいったい何なのか全くきつねにつままれたようでさっぱりわからなかった。
○24日午前4時大より川の様子が変だというので電話があり,川を見ると早い勢いで引いているので,49番に電話したが連絡とれず気仙町警察に連絡した。4時25分〜30分松原の人達を避難させる為出かけた。波が見えてから半鐘がなりおそすぎた。
○第1回目の津波の引き潮で渚の小舟が沖に流れていくのがあまりにはげしいので,津波ではないかと思い近所の避難の指導をした。
非常の時には,その筋あ警報をあてにするわけにはいかない。
○毎日のように朝早くモーター船で三日市浦の方ヘタナゴ漁に出かける人達がいち早く潮のひける事から津波の襲来を予測し,ただちにひきかえしてみんなに知らせた。部落の半鐘のなったみは4時半頃である。
○長部の半鐘,米崎のサイレンが聞こえて来た。私は大からの電話で津波来襲を知った。今泉では津波が来てから半鐘をたたいた。
○うぐいのさし網の人から川水に異常があるから共に見てくれと起され,近隣の家人を起して電話で「かねも」や今泉駐在所え知らせた。津波来襲の少し前にサイレンがなった。
○第二波の終りにまがき島付近を沖に出たサッパ船は広田のしらす取り船だった。しらすを湊市場に水揚げしようと湊に入った時,ちょうど潮異変に遭ったのでこれは大変と干あがった浜に降りた父は,息子には船を全速で沖に出させ自分は岸壁に走りよじのぼって市場のサイレンにスイッチを入れた。それが湊部落えの最初の警報だった。


米崎
○4時前にサイレンが鳴りひびいた。


小友
○1番波警報がなく,知らなかった。2番波からサイレン,半鐘により知り避難した。
○警報は半鐘でおこなわれましたが,高い所に住家のある人々はなんの為の警報であるか見当がつかなかった。その時刻は大体5時30分頃だった。別段予報もありませんでしたので海岸の人達が潮の異常に気づき舟の避難をしながら,命令系統を通さないで海岸に出ていた人達の討議で打鐘した。
○第2波襲来,市民は鉄道線路上に避難した後,小友町中央サイレンが鳴り出し,ほとんど警報の役には立たなかった。


高田
○長砂の大網の人達のドラム缶が激しくなった。米崎の半鐘がなり「高波だ」のさけび声で海を見た頃高田のサイレンが鳴った。
○高田網漁師の人達の知らせで避難した,漁師の人達以外に警報が無かった。
○4時20分すぎ頃,サイレンの連続音に火災と思ってとび起きた。その後の情報は消防車が巡回して報導した。尚ラジオを通じて情報を得た。
○警報は電話,ドラム罐たたき,高田網水夫で船頭に知らせると同時に松原地区を自転車で知らせた。

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警報受領後におけお措置状況(伝達方法等)
(5)避難はどのようになされましたか

長部
○避難命令とともに,数分の後には全員避難できた。それは昭和8年の津波を記念し,毎年避難訓練を行い,どの地区はどの場所に避難をすればよいかが決定されてあるので,子供達もまようことなしにわずか数分で全員無事に避難できた。又早朝でもありましたのでほとんどの人は着のみ着のまま避難し,様子をうかがいながら消防の監視のもとに1.2の重要所持品を持ち出した人もありました。
○所持品を春に津波さわぎがあり安全と思われる親戚の家にあずけ,そのままにしておき流されずたすかった人もなかにはある。
○避難者の大部分は親戚の家,知人の家,友人の家に宿泊し家校に宿泊したのはわずか3世帯ぐらいで,しかも3日ぐらいで皆友人,知人のところに行く。
○3〜4日電気が来なく,また警報が出されるので避難者の大部分は家に入らなかった。(宿泊しなかった)ただ本部となったところにはその日のうちに電話が通された。
○電話は10日以上も通じなかった。ただ公衆電話は一週間以内に通じるようにされた。
○5日目あたりから2階のある人は2階に宿泊するよようになり,ボツボツ自分の家(流されずにすんだ人)入り始めた。


広田
○六ケ浦部落では,第一回目の波が堤防を越して来たのでいち早く高所え逃げた。この時浸水家屋は3軒であった。泊部落では海水が遠くまでひけていったので,津波だと直感した。警報(サイレン)が鳴り出した。恐怖と焦燥の中に,老人や子供を高所に避難させ続いて大人が逃げた。大きい波が2〜3回襲来するに及んで津波の特徴が解ったのでゆとりをもって,日用品(衣類,夜具等)を高所に運んだが,1軒の浸水家屋もなかった。


気仙
○市場のサイレンがなったのは市場に第1回の水がのった時だった。
○隣の人が漁のため港へおりていたので,その人の連絡で津波だと知って,近所の人をおこしたり,連絡したりした。
○魚市場のサイレンはやや長く鳴っていたけれども常時使用されているので.異常には感じられなかった。たとえ津波がきても,昭和8年とは違って防波堤があるからある程度防げるだろうと考えていた。その上早朝でもある,本気にする人はいなかった。好奇心をもって眺めていたくらいで,ほんの身廻り品程度を持って避難している。国道下の海岸の家々は寝込みを襲われ,ひざまで水浸しになって避難している。
○女,子供は保育所,お寺に避難した。男の人達は橋の上に集り交通整理にあたった。
○またも津波のくる時期になっていると思って,子供たちには,常々避難場所をいっておいた。
○物を出すことなどは考えないで,まず逃げるように,家人にも話し,部落にもふれ歩いた。
○すぐ後が高台になっているので,避難しやすかったが,前の家の人の叫び声でとび起き,はだか同然で逃げた。
○事前に避難する杉の木を選定しておいたので,登ろうとその根元まで行った時は腰の深さに達していたが,娘と2人杉の木に登って助かることが出来た。自宅に帰って片付けをしていたら,消防の人が来てまた津波が来るから避難せよと云うので今泉の親戚へ約2ケ月程いた。
○気がついた時は畳の上に水が浸入していた。うろたえているうちに水が増し縁側の柱にすがっていた。津波は腰の辺まで洗ったが,九死に一生を得た。
姉歯橋を渡って今泉保育所へ。
○橋をわたるに遅れた人は,高田方面に避難したが,途中松原方面から来た波におそわれたため竹駒に通ずる気仙川堤防へ向った。


米崎
○消防団員の指示によった。
○早朝魚網をあげに行った人達によって避難行動が行われた。


小友
○舟を避難させることに主体を置き,海岸のごく近くの数軒だけが荷梱をして,いざという時に備えた程度である。勿論部落内の男子は海岸に出て,潮の状態を見張ると同時に手分けして被害地の救済に出向いた。
○第1波襲来を見た人はその異常に感づいたが,高潮程度と思いごく海辺の日頃危険と思われる家庭だけ,避難の準備を始めた。
○第2波襲来前は遙か遠くまで潮が引いたので,いくらか騒ぎ始め,沖の潮鳴りに驚き避難を開始した。大多分の家庭はこの時,潮に追われながら逃げた人が多かった。
○鉄道線路上に待避したが,逃げおくれた人は二階に上り,退潮後線路上に避難した。


高田
○避難は遅れた人達があるかどうか見てあるき全員避難させた。
○多くの人は線路上

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避難の状況
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事後の状況
(6)津波襲来による市民の心理状態は,どんなものでしたか。

長部
○津波当時は放心状態でなにも考えることができず,ただ命が助かった,家が無事だった,流されてしまったと感ずる様であった。
○来る寸前までは,地震もなにもないので本当に来ると思っていた人はほとんどなかった。
○一代のうちに3回も津波に会うのではと云うことで,どこか安全な場所に家を建てなければならないと考えた。しかしあまり海より離れたのでは仕事(加工など)が出来ず,また住宅地がないとか,とにかく出来るだけ安全な場所,そして仕事のしやすい場所とまず考えた。
○通常使用するもの以外は,あまり高価なものは持たない方がよいと言う考えになったとか。とにかくどうせ又大きい津波が来て,流されるかもしれないとも考えてみるらしいです。
○土台をがっちりした金具などでとめ家を組むと言ったこと,ブロックで塀をかこむとか,一階はブロックで作ってみるとか種々考えられている。
○国家などで種々研究し,津波を防ぐ方法はないものか。
○児童が一番大事にしたのは学校で使用する教科書その他の学習道具であった。(何を持たなくてもカバンだけをすっとかかえて逃げた)
○恐怖と焦燥そのものであった。潮が遠くまで引けてゆき今まで見えなかった海底や,黒々とした岩床が巨大な姿を露出した時は,不気味であった。第1回の波が襲来した時は4時15分,続いて2波,3波,いつ大波に襲われるも図り知れず,不安と焦燥は言語に絶するものであった。然し波が何回となく襲来するに及んでは,津波の実態も解ったので,今まで見た事もない干場に下りて,物珍らしさに貝等をあさった。


気仙
○大船渡のうらない師が言った「津波はまたくる」との言葉に大分しばらくは気持が落着かないようだった。3日間は町内(大通)の老人,子供達は今泉保育所その他に避難した。
○2日目に海上保安隊の船が警備に来て○日○時
○分頃,又も襲来するから避難せよと漁船に連絡して来た。ところが,それを受けた漁船が,陸上に向かってスピーカーで放送してしまったのである。それ以来ちょっとした波の動きにも敏感になって半鐘をたたいた。
○3日目には,宮城県大沢から来たトラックが上記のような情報を話していた。
○数度発生しているチリ地震から,津波の日本到着時間を計算してのデマであった。
○その後,毎日毎夜のようにデマがまことしやかに飛び,住民の不安は解消しなかった。こんなことがあって,最も苦労したのは消防団員で,住家の警備やら連日の復旧作業などで,全く休む時間のない程の奮闘であった。そこで警察に連絡の上,警察の命令系統以外の情報は一切出してはならぬと一般の協力を求めた。このようなわけで,1週間から10日ぐらいというもの自宅を放棄し,親戚にて夜を過ごす以外方法はなかった。
○午後3時前後の満潮時が1番不安であった。その日一日中は落着かなかったが,29日あたりまでは不安であまりねむれなかった。
○近隣の人達がはげまし,荷物なども出してくれ,衣食の世話をしてくれたので,無我夢中のうちにも有難い気持と,力強さを感じた。


米崎
○無我夢中なので,泣きながな津波の状況を見ていた。


小友
○当部落を見ると,いつもの高潮程度に考え特別の不安もなかったが,裏海岸の災害に対する同情の念は自分達の被災を想起し,一層深いものがあった。


『高台に住む一婦人の手記』
サイレンや半鐘がなり,それが波津だと知るまでには,波が見えない土地ではかなりの時間がかかった。今までの津波の常識ではあり得なかったことだし,想像もされなからたことだからである。津波だということを知った時には,すごくうろたえた。明治29年,昭和8年の被害を聞いていたし,その恐しさを知っていたからである。が,同時にまさかここまでという安心感もあった。
何はともあれ高い所にと避難の準備を始めた。何を出そうかと家族一同とまどった。考えればきりがないほど持ちたいし,さればとてそれも出来ず,では何が一番必要なのか突嗟の問には一向にうかんでこない。あれこれかけまわって手当り次第ふろしきにつつめこむ。往来は静かだ。やや落着いてから当座の避難生活に必要なものを考えだした。食糧,夜具などをまとめにかかる。
被害の様子や,罹災した人々の状態が次から次えと口伝えにきこえてきた。家にひっこんでいたのでは取り残こされる不安を感じ,聞きのがすまいと考え,往来へと人々は集まる。荷物を少しまとめては表へ出て様子をうかがい,こうしてはいられないと又ひっこむ。何かをまとめ何か仕事し,表へ出る。いっこう何をしたらいいのか手につかない。誰かと話をしていた方が安心感がある。
津波が来たのだからどこかでたぶん地震があったんだろうと云うより,なぜ,どこに,どんな原因があってこんなことがおきたんだろうと知りたい欲求にかられた。「誰もが信仰というものをおろそかにし,神仏を粗末にしたから罰があたってこんなことになったんだ」と往来でいきむ老人,それを真顔で聞き入っている不安そうな老婆,こんな一コマもみられた。時間がたつにつれて,口から口へと今度こそもっと大きな波が来るそうだと伝えられ,消防自動車もそれを伝えまわった。この知らせで,あわただしくあれもこれもと荷物をつつみなおした。高台へと上っていく人がふえてきた。この様子を見て,あんなことをしなくともここまでは大丈夫なんだという楽観派とたとえ無駄でも用心にこしたことはないと考える慎重派で,人々の心は色々のようである。
被害現場へ行って来た人や,何か新らしいニュースを持っている人は両隣では注目の的になり,その人の一言一句は細大もらさず,不安と驚怖で新らしいことを知りたいと願っている人々の心に吸収される。情報を提供する人々はなるべく被害を大きく話せば聞く人の感動も大きいことを知っているので,人に話すときは順々被害が大きく口伝されていくようだった。


高田
○災害の後始末をどのようにしたらよいかで気持がいっぱいでした。
○始めて津波に会い,家が破壊されているのをみて恐しさと不安でしばらく放心状態であった。
○僅か一瞬の間に比の惨状を見た時,津波の恐しさがわかりました。古人の「波が引いたら津波と思え」は全くその通り。今度の様に地震がなくても津波がきたのですから改めて鉄則だと思いました。
○不安と絶望により物欲などは無く,家族の生活を考えるだけになった。
○火事泥的な心理は如何なる場合にもあるらしく,人間性の修養が痛切に感じられました。

(7)特に変った経験はありませんでしたか

広田
今回の津波は当町では殆んど被害がなかったので,九死一生を得たという様なことはなかった。明治29年の大津波で一家7人死んで,唯一人奇績的に助かった老婆(六ケ浦部落,佐藤おとくさん70才)の話を掲載する。当時津波の経験を持った人は,古老と云えども一人もなく津波の恐ろしさ等というものは誰もわからなかった。陰暦5月5日(節句の夜)8時頃大地震の後に突如襲った大津波,津波の恐ろしさを,体験したことのない父や祖父達は厩から馬を出そうとしたり,母親達も持物を出そうとして部所についた。当時14才であったおとくさんは何をどうしたらよいか,とほうにくれていた頃,他村から宿泊に来ていた知り合いの男の人が,お父さん達は泳げるからいいが,お前は泳げないのだから逃げろとどなられたので暗い田んぼ道を一目散に走ったが,間もなく波に追いつかれた。その時の波はもくもくとした黒雲の様であった。波にもまれた瞬間人事不省に落ち入り,気がついた時にはどこかでかすかに,夢現と人の声が聞こえた。それは先程の一緒に逃げた知り合の人が此処が高いから此方へ来いとの声であったが,全身水に浸って倒れているのでどうする事も出来なかった。ひょっと腕を上げて見ると,手先が水際をつきぬけたので,大丈夫だと思った。夢中になって起き上り救を求めて助けられた。親類の家へつれていかれ,風呂に入れられたりしたが,泥と水を相当にのんでいたので身体具合が悪かった。この時に一家7人は全滅し,おとくさんだけ一人生き残った。


気仙
○延縄漁業に出漁中,磯に寄せる波のため岸につけず海上にてしばらく避難した。
○津波の水位が低くなっても,上方へ上方へと押し流れていった。
○家は割に基礎を吟味して建ててあったので,家をすてて避難したら途中で津波にさらわれて駄目だったろうが,そのまま家の柱にすがってあわてなかったことがよかったと思う。
○長部の親威に知らせに自転車で行ったが,田の浜で一番大きな津波の襲来に会い,最初は自転車を引きながら水の中を避難しようとしたが駄目なので,自転車は田の中にすてて波の中を泳いで山際の麦畑まで泳ぎついて助かった。高台で見ていた人の話しによると2回程波をかぶって見えなくなった時があったとのこと。


米崎
○当日未明,白魚とりの舟人が湾内操業中津波の襲来を受け,津波を沖で見ていた。津波が静まった頃(津波が終った頃)帰ってきた。


小友
○出漁時間前日の23時ハモ取り。
○当日午前2時33分,普通の朝より早い感じの引潮を感じた。見た所非常に早い入れ潮で平凡な干満の潮でない事が直感でわかった。水深2〜3ひろ位の海底からコンブ,その他の海草や砂じんが湧き上り,海水の移動の早さで海面は川の流れの様を呈した。
(佐藤亀三郎氏の当日船での経験)


高田
○第1回の波の引いた後,必ず第2回,第3回の余波があるから荷物はもう大丈夫と思った後に家に運び帰る事。(ラジオのニュースに注意する事が大切だと思った)
○初めての津波経験なので断定は出来ぬが,表面の水よりも地下を浸透してくる水の方が早いのではないだろうか?水田を見ていると湧き立つて地面に水が吹き出してから水が来る現象を何回も見ました。

(8)明治29年や昭和8年の津波と比べて,どんなことがちがっていましたか。

長部
○地震がなくてあれだけの大きな津波が来た。
○8年のは波がつぎつぎにおしよせて来る型だったのに対し,今度のはのんのんと水の量が下からもりあがって来る様な波で表面おとなしくみえた。
○8年には地震があり引いてくるまで30分ぐらいであったのが,今度のは引き方もゆっくりしており,引いて後おし寄せて来るまでの時間も長かった。それで要谷浜などでは潮が引き,水がないためピチピチしている魚などをつかまえて来た人もある。
おし寄せる波も8年の様な早さではなかった。ただ川のあたりでは来たと思った瞬問100mぐらいのところまでどんどん来た。
○水の量は8年よりも多く,岸よりも500mも遠くまで行った。8年の時にはそれより100m近く手前であった。
○8年の津波では波の先をこわされた家がとんであるくと言った感じであったが,今度は水の中に流される家と言った感じであった。
○8年の時は3月に津波があったのだが,秋頃より「いわし」が大漁で,加工者は加工しきれずまた加工したものをどの家でも納屋などいたるところにぎっしりと持っていた。
○今度の津波は1日も2日も警報が出,潮がひいたり寄せたりすると言った状態のやつでした。
○8年の津波には護岸工事に来ていた人夫を含めて50数名の死亡者を出し,馬なども平均10頭を死なしてしまい湊部落70戸ばかりのうち3戸残っただけで全部が流失,全壊であった。勿論加工場は全部流失であった。それが今度防波堤,石垣を作ったのでしたが,半壊も出る始末でした。ただ加工場は海岸近くにあったし,石垣の上につくられた住宅だけでもありませんでしたので被害は次の如くでした。
○住宅の流失32戸,全壊なし,半壊18戸,床上浸水39戸,床下浸水91戸。
○加工場の流失28戸,小壊2戸,水産倉庫8ケ。
○死傷者1名もなし。
明治29年の時は3日も前から,長い地震がしきりにあり海の沖の方が,大砲でもうつ様な底鳴をする事が屡々あった。人々は之を聞いて海軍の演習でもあるのかと思った。
昭和8年の時は3月3日の午前3時頃,強震があり,時計がとまったり,物が棚から落ちたりした。暫し(約30分位)間を置いて沖の方が大音響と共に一大閃光(直径1丈位の円い光)を発した。それから20分位して津波が襲来した。見た人の話によると,波は決して高く逆まいてはこなく,今回の様に,もくもく増水して押して寄せたという事である。今度のチリー津波は,地震も音響も閃光もなく,全く音なしの構であった。


気仙
○昭和8年の津波については記憶も薄れているが,地震でめざめた後しばらく経ってならい風(冬季の季節風)でも吹いて来た様なザワザワという音で戸外に飛び出した時は海から川に入った波が道路を超えただけだったし,家の庭にも上がらなかった。しかし道路際につないでおいた舟は三本松の田まで押し上げられていた。昭和9年の気仙川改修工事前は川口付近の地形は川幅が現在より広くなっていたので,狭い川口から入った波は急に川幅が広がるので勢が弱められたのではなかったか?そして今回のはせばめられた川幅をのぼる波が南岸にあふれ出して被害を及ぼしたようだった。
○地震が全く感じられなかった。
○海岸の石がひかないので,ガラガラという石のひける音がほとんどなかった。
○昭和8年の時よりは湾の入りの方に被害が大きく,波も4尺も高かった。
○波は非常に素直で,おだやかで,低いところへ向っておしよせたので岬は被害がなく,特に川口(川の両側)が被害がひどかった。
○大潮程度のものが1日中繰返していた。
○朝であったこと。速度が割合おそかったので,幾分荷物を持出すことができた。
○速度が遅かったので,波が高かった割合に被害が少なかった。
○早朝だっためで人には被害はなかった。
○波の状態を比べてみると,昭和8年の時はもくもくとまくれて遠くからでも白く見えた。チリ津波の時は斜にふくれてくずれないでそのまま来た。
○明治29年の津波には「ひきうす」を引くようにごろごろ音がしてから波が寄せてきたので,その音で気がついて逃げたという。
○今度の波はゆるやかだったが,押し寄せる波の回数は大変多かった。
○水位が次第に高くなりふくれて来た様な感じの津波だった。
○明治29年には床下浸水程度であったが,今度は鴨居の上20cm程浸水,床板ははがされ柱,戸障子もこわれ半壊の被害を受けた。


米崎
○今度の津波は地震を感じないのにあったこと,最も大きな津波であったこと,死傷者が一人もなかったことが特徴である。
○死傷者が出なかった理由としては,時間的気候的によかったこと,避難訓練が行われていたことによる。


小友
○前兆について
明治29年,昭和8年は気候不頂,大地震発生。今回は身近に感じられるものなし。
○明治29年,昭和8年を見ると前者はその年まぐろかつをの流し網をかけていたが前代未聞という程の大漁がつづいた。又昭和8年はいわしの巻網がおこなわれていたが,連日の大漁に海岸は活気を呈していた。今度の場合は多少建網が昨年同期より多少漁があった程度である。
○明治29年の場合は連日に亘って何度も地震があり,津波のある直前の地震などは,つるしてあった味噌玉が振子の様に振れたといわれている。又昭和8年の場合も津波のある2時間前に強度の地震が10数分つづき,地震のためとび起きたといった様子である。そしていずれの場合も地震がおさまった直後「ドン」という異様な爆発音があった。今度の場合は地震も異様な爆発音も全然感じられなかった。
○時間について
明治29年の場合は旧暦の端午の節句(老人の話によるもので新暦不明)で午後9時頃であろうと云っている。昭和8年の場合は3月3日午前3時頃であったろう。今度の場合は午前4時頃から始まった。
○波の引き具合及び押し寄せ具台
29年,8年の場合はざわざわという不気味な音をたてながら海水がひけていったといわれている。又押し寄せ方もわらわらといううなりを立て,白い波頭が折れ重なってやって来たといっている。今回は大きな波の襲来ではなく,川の増水時のような形態。
○明治29年は外海,浦の区別なく来たが,外海に面した所に大きく来た。昭和8年は外海に面した所のみ襲来し浦は高潮程度,昭和35年は,外海に面した所は高潮程度。浦に大きく襲来。
○被害の状況
明治29年の場合は,水が平地においては,1.5km。台地では1kmも浸水し特に平地の浸水は,裏海岸から来た水とぶつかり合わさりそうになったところもあったといわれている。昭和8年の場合は,平地においては0.5km,台地にあってはO.3km位浸水した様に記憶している。今度の場合は2〜30m位のものであった。
○明治29年の場合の被害は54世帯のうち4世帯がかろうじて残り,死者も200人以上出し,流失した家屋や材料は湾一ぱいになり,1km以上も水面が見えなかったといわれている。昭和8年の場合は流失した家屋は40世帯以上にのぼり,死者も70名以上出したといわれている。この時は流失した家屋,材木などは海に出たものより陸上にあったものが多かったとも云われている。今度の場合は家屋の浸水は一戸もなく流失したものといっては建網の資材位のものであった。


高田
○岬の被害は思ったより少なく,湾の奥の平地が大きかった。
○地震がなくて津波が来た。
○大津波の前に予波(高潮)があった。
○松原グランド,古川沼など水で満杯であった。
○津波襲来前の音がなかった。

(9)広田湾に襲来したチリー地震津波市立博物館 千葉先生の調査

昭和35年5月24日感知されるような地震も他の前兆もなく大津波が襲来した。最も大きな被害を与えた最高波の到達は午前4時30分から同50分の間で,それ前すでにハモ漁に出ていた2〜3の漁師達によって津波の襲来を知らされ,サイレンの警報がこれについで報知された。沿岸漁民は既に起床時刻でもあり,未明とはいえ4囲も明るく5月の温暖期で身体の活動も自由であったから死亡者も少なく搬出可能の物はよく運び出された。
筆者は両替—三日市の部落が共に観察に便なところに於て写真機,時計,ノートを用意し,メモをとった。津波直前の状況は,この地区に於て最も早く津波襲来を警告した岡田○○○氏や及川吉郎氏の陳述に基づき,又一生に三度三陸大海嘯を経験している千葉梅治氏や金野オチエ女史の体験をも合して記録した。


1.津波前夜の海の様相
5月23日夕刻からはおだやかな南風であった。南時化の前によくある情景だが潮は漲ぎって表面は油を流したような静かさだった。9時ごろからはなまぬるい風で空は暗く,海は漆を流したように黒く不気味さがただよっていた。漁火は常になく対岸の矢の浦に集り火影を長く海に映し操業していた。何だかあやしげな晩だと思いながら漁火にカメラを向けた。


2.津波の初期
ハモ漁に出ていた2—3の漁師が自宅前についたのは3時ちよつとすぎてからだ,
夜が白みかかるとハモは穴にかくれる仕度で籠にはいらなくなる。それに潮い
きが悪くて漁もないからやめて来た。家々で起きるには少し早い,浜迎えに起
すのも毎朝のことであるから家人が可愛想だと思って沖で海苔杭につながって
夜の明けるのを待っていた。舟が沖の方え流されて竹などではつなぎ止まらな
い。ずいぶん潮が早いなと思っていた。しばらくして今度は入潮だ。舟は岸の
方に流される,大潮だと思っていたがうす暗くてあたりの様子も明瞭でない。5—
6分して今度は前よりも速いさげ潮だ。竹がぱりぱり折れる,海は浅くなって舟
の底がつかえるようだ。「何だこれは津波がくるのではないか」と思ったが早まって人騒がせしてもおかしい,潮はどんどんさげる。舟は揖などではささえきれない。家人を起さねばならない。津波だ,津波だと叫びながら!舟も流したくない。沖に退避を急がねばあぶない。陸に聞えたのか,そのうち誰か家の後の塀に人影が動いたのがうす暗い中にちらついた。起きたらしい。流れ死なないだろうと安心して沖へ出てこの日の午後2時ごろまであっちこっちに流され漂っていたという。(岡中○○○氏の陳述から)
及川氏は入潮に乗って自宅前に接岸し家人を起して善処方を家人に告げ,大した津波にもなるまいと思って引潮にのって沖え出たという。これが一般に知られないが2波の襲来であったらしい。


3.3波襲来前の引潮
只ならぬ女の叫び声,何だ火事か,早朝の火事も変だと思ったが起きて写真機をさげ飛出した。高台に登ったが煙も見えない。間もなくサイレンの響き,4時15分だ,近火でもないらしい。その内「津波だとす」と家内の声,三日市浦を見ると,鼻の下(地名)の方まで水が揚り田は一面の海だ。カラーだから開放で1/30にして2枚写した。きびすをかえし,両替(地名)にかけつけたのは4時20分。2波の引潮ははじまっていて普通干潮程度であった。2波は県道に水がついていた。家は1軒も流れていない2—3道ゆく人もある。満潮線から1m20cm程の高潮だった。大したこともないなと思いながら近所の人や家人と海岸で話していた。この頃海岸では皆起きて衣類や家財道具など手当り次第に運び出し,小高い所に移していた。


4.津波襲来とその時刻
第1波及び第2波は時間的に正確でない。
人々の陳述と四囲の状況から判断したものである。第1波,第2波の名称も我々の認め得なかった波がこれ以前到達していたとも考えられるが,ここでは津波当日午前4時半ごろ襲来した最高位のものを第3波とし,計測した時刻と観察記録を記載しておく。


名称 時刻 備考
1 第1波 3時50分(両替地方で最高潮となった時刻)
2 第2波 4時15分(同 この波の最高位となった時刻)
3 第3波 4時35分(入潮のはじまり)
4時50分(最高位となる)
4 第4波 4時57分(入潮のはじまった時刻)
5時07分(不通満潮線に達した程度で引潮と変る)
5 第5波 5時17分
5時22分(第4波と稍同程度の潮位,干潮時の為か大波の間の小波が不明)
6 第6波 5時35分
5時42(第3波についで高潮,沼田方面では3波以上という)
7 第7波 5時47分
5時52分(龍神様の沖まで現わる)
8 第8波 6時05分(入潮干潮時の為か引いた割に高まらない)
7時15分
9 第9波 7時27分(潮位も潮速もおとろえてきたがまだ増減があり油断ならない)
7時32分
10 第10波 7時45分
7時50分


小友浦奥部では最も被害の多かった第3波の高まりが他の地区より多少遅れている。勝木田及び松原に於ける第3波の最高位に達した時刻は4時45分であったことは勝木田呉服店(金野新徳氏)の柱時計が流失をまぬがれ柱にかかったまま4時45分を指し潮の為に斜になり止っているのでも判る。これは広田湾の深所が中央部より稍東側に片寄り,矢ノ浦(地名)長部(地名)見通し間で幾分北方に曲り,米ケ崎沖で更に東の方向に伸びて小友浦に向っていること,米ケ崎が南々西の方向に突出し沖合からくる潮流がこれに当り一方は沼田の方向にそれ,一方は勝木田に廻り更に沿岸にそって小友の方向に進む為で,このことは津波の流れの動きや,これによって運ばれた流失物の動きによっても観察された。引潮は又これとは逆な経路をとり従って勝木田と両替,三日市部落とでは最高位到達時刻に5〜7分の差があり,この時間差が両地区間の潮の流動に要した時間と稍符合するといえる。これにも主流部と沿岸の突出海底の隆起等で流動に抵抗の多いところでは多少の差異のあることは首肯される。
各波別の入潮始り時刻から最高潮時までの所用時間に多少の差のあることは波の大きさ即ち入潮引潮の速度や移動した水量に差のあった事を示しているが,秩序正しいものではなかった。実際の観察結果では3波が引潮も潮位も最高でこれにつぐ4波,5波は,引潮も入潮も普通干満線より1米内外水位が上下した程度であり,第6波が引潮入潮共に3波に次ぐ大きな水位の変動が見られた。これによって考察するに,3波4波は水位の変化が他に比し少ないのに入潮,引潮に要した時間が稍他と等しいから潮の速度が遅かったとも見られる。
引潮により沿岸から海底の露出した点までの長さは,小友浦では300〜350mであるか遠浅な所,岸から急に海底が傾斜している所等で差異が生ずるのでこの露出した長さの大小のみでは比較にならない,小友浦では海岸から200〜350m沖で水深6m線に達する。これによって推察するに岸から水深6m線までの水量が移動したものといえる。従って津波の波の高まりは沿岸から水深6m線までの水量によって形成され,当日当時の海水位以上に高潮した水量もこれによって増大したことになる。このことから潮が多く引く程潮位も高まることになるが当時の干満との関係も影響することが考えられる。又動いた水量が一定なれば引潮に用する時間が長い程波長が大で,波高の小さな波形となり,入潮の速度も遅く,従って波浪の撃力による破壊力の少ない津波になることが考えられる。これは根本的には津波を起させたエネルギーの量と,力が水中を伝わる法則に支配されるわけで,力が一定なれば到達距離が遠い程力が弱まり速度も遅くなるので,波長が大で波高の小な波形の波が形成され,引潮も入潮も緩徐な波となるものと考えられる。


5.津波襲来の状況
今回の津波は直接外洋に面した地域では1〜2m程度の高潮に止まり,内湾の奥部で5〜6mの高潮位となり明治29年並昭和8年の津波と異なった潮位を示し,被害もこれにつれて被った。これは今回の津波の波長が極めて長く波高はこれに比し高くないものであったと思考される。この為入潮は緩徐で徒歩でも追いつかれない程度の速さであったから岬や直接外洋に面し後方に排水路のある地域では,潮位が高かまらず海水は内湾に流動し奥部で潮位が高まったと見られる。これに反し29年並昭和8年の津波は波長が短かく波高が高く急激に押よせて岸を打ったので外洋に面したV字状形の海をかかえた地域では20〜30m以上の破壊力の強い波となったといえる。気仙川下流では今回の津波でも波浪となって溯河したことが報ぜられ,写真にも写されているが,これは両岸の堤防で狭まれた水面上を大量の水量が一時に溯河した特殊な条件の下に起った現象と判断される。普通満潮時でも道慶碑前まで海水が溯上しているので,河水の上層を反対の方向に上行した為に外ならない。従って大した破壊力もなく潮の流動に接した堤防内岸にも別段の被害もなく河中の浅瀬に生えた水生植物が津波直後も残っていた。
米崎町沼田より気仙町川口に到る松原地帯は砂兵の形成とその高所に植え付けられた松によってその後方の湿田地帯より幾分高くなっており,沼田と浜田川口,古川沼沖側,気仙川口は松林がとぎれている。沼田,浜田川口,古川沼には夫々石堤や土堤が築かれてあったが津波はこれを突破し,堤防は崩壊し後方低地に冠水し耕地及家屋に多くの害を及ぼした。この他の松生地では沖から押寄せた波が海岸沿の高地を越え松生地後方の傾斡面にそって流下したためと,地盤が厚い砂地層であったため掘れによる被害も加わり家屋,耕地,立木,鉄道線路,橋梁等が流失破損した。
気仙町湊地区では広田湾口の方向から北進した潮が松原地帯に当り進路を西方にかえ頑強な護岸壁にあたり,後湊港に押し入ったことが観察されている。従って湊港内では北岸が先に高潮し,ついて南岸が高潮したので広田港全体では湾奥部から先に潮位が高まったと見られる。広田町及小友町只出部落等直接外洋に面した地域では1〜2mの高潮にとどまり被害も僅小であった。此の如く今回の津波は湾ロ—湾央—湾頭に進むにつれて潮位が高く,被害も潮位に比例して増大した。この現象は直接には移動した水量と潮流の速度によるものであるが波長の大きな波によって生じたものといえる。広田湾内ではこの他の条件による波高分布の変異は顕著でなかったが,小地区別にみると,佐五郎鼻,油崎附近の如く湾内の小突出の内側で入潮の過流による潮高の高まり差が認められた。


被害の分布
被害のあった地区はいつれも湾奥部に位置している。その中でも海岸から直に湿地帯に続く小友町浦中,米崎町沼田,高田—気仙町松原地区は冠水面積が広く,被害も多かった。これについで川の流域があげられるが湊,今泉,長砂,浜田川,勝木田,二日市,脇之沢等はこれに属し,又前述の条件をもかねた地域もあり被害も甚大であった。


被害の実態
海岸沿の低地に集落の形成されている地域に被害の多かつた事は当然であるが,同一小区内でも地形地勢,建造物の構造,材料の種類等により流失破損に程度の差が認められた。
基礎がコンクリートでボールトによつて土台を押えた建物や,腰囲がブロックで造られた家は流失しなかつたし,二階建の家や,柱が太く上材が重く屋根の大きな昔家は戸障子が流れ,壁が落ちても残つたものが多い。これに反し建合が低く軒に水のついた家,建材が弱く一角でも崩れた家は遂に流失破損した。同一地区でも一段と低地にあった建物,堅固な建物の間にあった建物も流されたり打抜かれたりした。これは堅固な建物にあたりはねかえる潮や,せばめられた間を流れる潮に勢がつく為らしい。
地形の上から見ると,後方に崖を負つた地形では建物が浮いて多少移動しても流失しないで崖地に押つけられた例が多い。川沿の建物,低地を側にひかえた地形では流失した家が多かった。
護岸堤,防波堤,河岸,鉄道線路等では基礎が砂質土で囲つてあったもの,礫が多く内部に水を透し易い構造のものは崩壤破損した。古川沼堤防はその好例で幅5m,長さ200m,水面からの高さ1mの花崗岩の割石で築き,上部はコンクリートで舗装してあったが全崩壤流失して岩石も見あたらなかつた。沼田—浜田川口間にあった海岸の排水口は根囲りの砂地が流されて崩壤,これに続く幅5m,高さ1.7m,長さ200mの砂堤の道は影もなく流失した。高田町長砂—沼田問約1kmのレールは3—10mも押流され,小区間では枕木がついたまま横立になった。枕木は殆どついたままであったから,これによつて浮力が生じ移動しなと見られる。1ビーム及フレートガーター橋は水に対し側面からの抵抗が多い為か殆ど移動流失した。
小友町(三日市—鼻ノ下)間の鉄路もレールは路線の山手に押し流され路線堤は入潮がこれを越え斜面にそって落下する海水の重力による掘れによつて崩れている。気仙川堤防の内法の崩壤も同様にして生じたもので外法には殆ど異状が認められなかつた。小友町三日市より塩谷に到る間の護岸は海の反対側が一段低く,溝から直に湿田帯に続いていたので入潮にも引潮にも落差が生じ堤防も崩壤流失し,田地も2〜4mの深さに掘り流された。
松原地区の松の殆どが根返しで潮によって折れたものは成木には一本もなかった。入潮が幹にあたり,生ずる渦流により掘り倒され横倒となって流動しこの為他物ににも害を及ぼした。
耕地,特に田地の冠水による被害は大きく別表の通りであるが,今後何年にして完全に塩害が消失するか計測できない。なお冠水地域では樹種により枯死したものも多く,松(赤)杉,檜,槻,桜,梅,柿,林檎等の類は塩に弱く,ツバキ,ヒサカキ,タブ,黒松等は強い。名勝高田松原の松は赤松の大部分が枯死する運命にあり,黒松に比し塩害に対する抵抗の弱いことが判る。
この他,麦,小麦は熟期直前で塩害により枯死し,収穫しても食用に不適であった。果樹はリンゴが主で花収り後幾日もたたず,早生種でも収穫不能であったし,葉が枯れ,その後の果実の肥大は見られなかった。葉の損傷,若枝の枯死等で樹幹も弱り又は枯死して数年は収穫が見込まれない。塩害による苗代の被害も多く殆ど移植に堪えなかつた。押込んだ流失物の山,土砂等で植付までの作業が不能となった面積も多いが津波後早天つづきで灌がい用水の不足なこの地では塩害を緩和する手段がなかった。石灰による中和も効果が少く植付を行った田も枯死し,発育経過は普通と見られたものも植付の遅れが塩害か収穫期に秋落が目だち不稔粒が多く,下の作柄となった。更に今後に残るものは田に押いった鉄屑,ガラス,陶磁器片で完全に除去することは難事であり,何年にして安全な耕地となるか見当もつかない。
市内8名の死者は真に不幸な犠牲であるが,いづれも不可避のものではなかつた。無謀又は油断によるものと言わざるを得ない。最も被害を与えた第3波は入潮から最高潮時まで15分の間があり,入潮の速度も極めて緩く平地でも500m以上の退避は何人にも可能であったと判断されるからである。
船舶の流失破損は小漁船よりも小中型機帆船に多く,現在の設備では津波にも流されない程の完全な繋引が出来ないこと,大型な為操作に不自由で退避がおくれた事,操縦者が上陸し不在だつた事等の理由があげられる。
定置漁業の資材の流失破損,保在納屋,養殖器材等の損害は金額としては建造物を上廻る額で水産業上大きな痛手である。湾内各所の建網は潮に流され全滅し魚網,綱は切断され又はもつれなどが甚しく沿岸の岩石,立木等にからまり又は土砂に埋れ使用不能となった。
其の他,交通通信,送電設備,車輌,衣服調度,屋内外装飾用品,食物,商品,現金等流失破損,使用不能となったものは枚挙にいとまもないが,多くは今後も求め得るもので大して目立たないが全体としては多額の損失である。
冠水地区にあった汚物,便所,牛馬豚の堆肥類の一さいが流れにのって住家,被服,食料品等水漬物の全部に附着汚染したので消毒等の措置がとられ,悪病は防がれたがこれによって捨去られた物品も多い。
交通通信機関の被害による損害も又見逃せない。市内の海岸を通る幹道の大部分は低地を縫って通っているのであるが道路地盤が堅固であり,入潮引潮共に急激なものでなかったから小友町三日市浦中地区を除いては直接決壊等による被害は少なかったが家屋,船舶,電柱,其の他の流失物が路上に重積し,津波後1週間は車馬の交通を不能にし道路の機能を失った。この為救援物資の運搬配布に大きな支障もあった。小友浦中道路は路体が砂質土で築かれ,更に湿田の中にあった為掘れによる崩壊が甚しく延1.000mが不通となり津波後10ケ月になる今日いまだ復旧されない。幹道両側に施設された電報電話線,配電線,柱等にも被害があり,市内の通話も送電も不通不能となった。


津波の今昔
三陸沿岸に於ける津波の記録は多いが被害の様相の明瞭なものは明治29年及び昭和8年の津波である。明治29年の津波の体験者は今も健在だが,米崎町勝木田伝岸坊の今野オチエさん(89才)の話,沖の方から大きなうねりが3つ続いて,波頭が立ち白く光つて寄せてくるのが夜目にもはっきり見えた。ザワザワと音をたてて岸に近づくに連れて波が崩れるようにして岸を打ったがあまり高くあがらなかった。床上浸水程度で(別段の)大して被害がなかったという。昭和8年のも同じ様な津波で家も流れなかったから今度も大したことにならないと思つていた。若い者(家人)達にも何も心配ない。出すこと(品物)もない,逃げなくても良いといっていた。ところが,のろのろ,のろのろ,とあがって来て軒下まで水がつき,家は戸障子が抜かれる,壁は落される。何もかにも家の中のものさっぱと流された。婆さんは自分がよけいなこと言わなければ何でも運ぶ暇があったのに申訳ないことをしたと,3日も寝たきりで避難先から家に降りてこなかった。婆さんの話では29年のも3ツ目の波が大きかったが,こんなではなかった。こんどの津波はおどなしい様でいたずらをしたという。29年の津波に三日市のオヨンという婆さんが流され,草屋根を抜いて上にあがり,助けろ,助けろと叫びながら沖に出たという。当時の三日市は満潮時には庭先に水がくる程低い海辺に家があったらしい。その流れ残りが大正年代まであったものだ,この時の津波は只出から越え,三日市浦と続いたと聞かされたものだ。何せ表浜では急激な高波20〜30mもはねあがった。逃げる暇もなかったらしい。5月節句を祝った後,夜でもあり多くの死者,負傷者を出したのである。
広田の泊や只出,細浦で沢山の人が死に水ぶくれやかすり傷で人相が変り,それに多くは着物も脱げ,どれが誰やら判らなかった。一家全滅の家もあれば,子供が一人残つた家もある。節句で実家に帰り嫁一人助かった家,実家に死に来たような娘,何日も菰をかけて海岸に屍を置いた。親類の者達が見ても判らない方が多い。その内に臭くなる。しまいには大きな穴を掘つて焼いたもんだ,と私は祖父母から聞かされたものだが当時は実感が出なかった。僕の少年時代,ミヲとオシンと呼ぶ2人の中年婦人がよく泊りにきた。1人は跋っこ,1人は足の小指と口元に負傷したあとがあった。29年の津波に細浦で流れ肉身を失い,引とられ成人していった気の毒な人達だった。いろいろの施設のなかった昔時はたしかに悲惨な状態だったにちがいない。
昭和8年3月3日の津波は29年の津波より規模は小さかったようだが海岸地帯に家屋が多く建ち,3月3日とはいえ小雪の降る冷い未明,起床前であり,津波前再三の地震もあり,何又かという油断もあったらしく多くの人命を失い家屋の流失も多かった。これによっても判るように今回の津波は前2度の津波と対蹠的な性格のものといえる。


三陸と津波
文献若しくは口碑に残る津波は,貞観11年5月以来17回の多きを数える。その間隔は長くて3〜40年,短いのは1年となっている,大きな津波の前にはいづれも地震があったと記されている。地震のない津波は発生しない。震源地が遠かった為津波発生前起った地震が消失し津波だけが到達したに外ならない,この為この地方では地震の前振のない津波が襲来したと思われているにすぎない。
津波だけが特に三陸沿岸を襲ったことにはいろいろの理由が存するに相違ないが,津波発生地との距離,方向,潮流,潮の満干と津波到達時刻,風向,津波の規模等に関係しこれ等に支配されることは考察に難くない。
太平洋を囲む,南米対,アジヤ州北部沿岸,北米対,フイリピン〜オーストラリヤ線の南北に長い大菱形の中で,日本は津波発生地チリーの対辺になっていて,球形の地球上に於ける実距離は大して遠くないと考えられること,三陸沿岸は,チリー沿岸の湾曲線から弾き出された波動を最もよく受けられる形に配されていること,赤道を越え,北赤道海流圏に入れば波動は潮流に乗り,抵抗が少くて直に三陸沿岸に達すること,チリー沿岸に突当った波動の返り波が合流して襲来したこと等が考えられ,更に三陸沖合は深海でエネルギーに損消なく到達し大陸柵の上をスムースに沿岸に寄せられること,津波前夜は穏かではあったが,南風であったから三陸沿岸では北上する潮流が優勢で,この為にも波動は抵抗が少く従って力が弱まらず到達したとも考えられる。
しかし幸なことに此の日の宮古湾に於ける満潮時は,午前2時3分であったから三陸沿岸ではすでに干潮に向っていたため30〜80cmの低潮となり,最高潮位を示した第3波の潮位が幾分でも低く,従って被害も少くて済んだと考えられる。
以上チリー地震津波の襲来の状況,これによって被った害の状況のあら筋を述べたが,更にスライドや写真等と合して津波の実態を把握し今後の対策の参考に資されたい。


まとめ
これによって思い出されるのは,「災害は忘れられたころやってくる」という寺田寅彦の言葉である。近くは昭和8年多くの犠牲者と家財を失った。此の地方ですら津波などは忘れかけていた。一寸の便,不便から海辺に一歩でも導く家を建て,漁具資材等も納めて置いた。
近代社会組織内にあっては自分が諦れば用が済む,自分の物は自分が好きなように処理すればよい,という考え方では済まされないと思う。為政者も市民と共になっで予想される災害から逃れられるような方策が講ぜられるべきである。
「津波は又来る」その時と大きさが予知されないのみだ,その他にも思わざる災難がある。避けられるものだけでも避けるような配慮が必要なことは論を俟たない。そのためには個人の財力や資力では充分でない。国家的な授助と地方民の協力が要望される所以である。
海面から10mも高所に住宅や建造物を引あげたら大がいの津波から逃れられる。こんな簡単なことが解決されないのは人間の喉元過れば式な根性か,流れても又何とかなるという安易な考え方が基になっているかに外ならない。海岸の汀に浮くものを並べて流れないのがむしろ不思議だ,どんなに堅固な護岸壁でも全海岸線にわたって築かない限りどこかに水が押込むこと必定だ。その巨費と労力があったら,もっと安全な所によい施設が作られるに相違ない。国家的損失というべきだ。一生に3度もこの愚をくり返す必要はあるまい。
いつの津波の折,誰が言い出したか知らない。「津波様,自分の代にいま1度,孫子の代には2度も3度も」というのがある。不謹慎ともいえるが,何か人間の本性を刳ったところもある。この外津波にちなんだ標語や句はあまり残っていない。昔の人は
○津波は川添にあがる。 といっている。
○それ津波欲すて,逃げろ
▲津波は引いた位あがる。
▲地震がなくても津波はよせる
後の二句を加えておく。

第2節 大船渡市の状況

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地図 「チリ津波合同調査班踏査速報」より
1.津波襲来当時の状況とその当時の特異性についての調べ
(1)どんな前兆がありましたか

末崎
○今まで見ないほどの「アワ」(気泡状のもの)が多かった。


蛸浦
○清水部落(床下浸水者)
前兆がない。唯,誰言うとなしに今年は時化か津浪が来ると言う流言があちこちにきかれた。湾内牡蛎筏に今までない位の一種の海草がついていた。
○長崎部落(無被害者)
前兆としてはない。ただ津波前,普通千潮時以上に潮がひいて,見たことのない岩や石が見えたりして磯草など取っていても不気味で帰宅した者もある程で,今年は津浪が来ると誰言うとなく言って居た。
○蛸浦部落(床上浸水者)
前兆がない。この時期に獲れるシラスとかタナゴなど例年より沢山とれたと思う。普通以上の千潮が屡々見られた。


大船渡
○昭和8年にも鰯が大漁であったが,ことしも津波当日まで大艇渡湾一面鰯の子がいた。(宮の前)
大船渡湾一面小いわしが多く津波直前の時間まで魚獲していたが,津波前日(23日10時頃)から湾内の潮の流水が早く不思議に思っていた。(浜町)
○津波襲来については全くの微震もなく,人間の感覚以上の動物感覚ですら知り得なかったものの如く犬猫も人間同様家の中にあって津波来襲後始めてツナを切って逃げた犬などがあり,猫にいたっては人間と同様屋根の上に避難していた。他の小動物についてはわからない。
○魚類については津波来襲は時間的に漁船の活動している時とずれているしその前日などにも特に目新しいものも見られなかった。従ってなにも前兆がなかったといえる。勿論来襲前に海水の引いたことは驚くほどであった。


赤崎
○佐野部落不明。跡浜,宿,生形,山口の各部落は全くなかった。

(2)津波襲来の時間,回数,高さ,強さ,早さ,方向などはどんな様子でしたか

末崎
○午前3時30分頃より,潮の引き方が,波打ぎわより約20〜25m引き,東北製塩海水揚がらず,機械に異常をきたした。3回〜4回目が最高潮。3回目は護岸まで来てその時の引き潮は50〜60m。


蛸浦
○清水部落(床下浸水者)
今度の津浪は昭和8年の津波より水量は上らないし緩かだった。回数も大きいのは6回位,その波動は渦巻になって6日も7日も海水は静止状態にならなかった。島々や岬々にぶつかって湾内が渦潮になり潮流が一定しないが,漂流物は次第次第に湾内に移動した。
○長崎部落(無被害者)
4時20分頃波は押寄せた。回数ははっきりしないが,覚えているのは3回で,3回目が一番大きいと思った。岸に近づくにつれ大波となり押寄せた。増水状況は,容器に水を注ぐ様なもので全く安心して見ているによかった。
▲蛸浦部落(床上浸水者)
被害を与えた大波は2回と思う。2度目の波の方が大きかつた。昭和8年の津波よりは水量,強さ,早さは小さかった。小波迄含めると7回か8回襲来したと思う。蛸浦の牡蛎筏は始め湾内の弁天山附近迄動力船の早さで移動した。津波後,徐々に湾外に流された。


大船渡
○毎朝3時半に海岸へ行くのですが,その朝は3時35分に家を出て海岸に行つたら波がどんどん入ってきた。津波だと言っても起きて来る人もなく心細かった。(下平)
1回目のよせ潮前の引き潮については不明,前者のものをみると,平野氏の1回目というのは2回目かもしれない。
○4時35分最高水面……海水面より6m40(南町平山旅館附近で)。
○よせ潮の早さは大体9ノット位に思われた。(宮の前)
○3時頃から海水がひき始まっていた。(宮の前)
……(下平)
○時間……地域,場所によって異るが,湾内に近い宮の前,平4時5分〜10分,中心部の須崎,茶屋前4時10分〜15分となる。
○回数……1日中寄せ返していたので確実ではないが6〜7回まで記録されている。第1回4時5分〜10分—最大,第3回9時10分〜20分次いで大きかった。
上の時間は宮の前附近の時間の調査であるが,須崎,茶屋前,赤沢方面では警報のあった4時30分から5分程度で最大のものが襲来しているので,時間的には相当のおくれがあることになる。
○高さ……家屋の密集しているところ,まばらなところ,或いは地形によって異るが,最高3.5m〜4.0m平均中心部で2.0m。
○強さ……1.300屯級の鉄船(小野田セメント所有)を1.5mの地上へ打ち上げ,ほかに30〜50屯級の木造漁船2隻を陸上550mから600mの地点まで運び上げ,湾内のカキ筏を300台以上も押し流して全滅させ,亀井商店のタンカーを繋留させる鉄筋棧橋を崩壊させた。また中心部では木造家屋は始んど全滅する程の強さであった。破壊力の大きさについては,海水そのものの移動によって生ずる力によることは勿論であるが,破壊された流出物が建物にあたって破壊し,それが次々と健全な建物を破壊したことが大きな原因である。そして水中の物の重量が,浮力によつて極めてこわれ易い状態になっていることにもよる。
○速さ……家財,養殖カキ筏等の流れ去るスピードよりして,寄せ波の速さより引波の速さが特に目立った。時速40K〜50Kと思われた。
○方向……波長が大きいため,明治29年,昭和8年のそれと比較してジグザグの針路は見られなかった。即ち一定の方向で湾口から奥の方へ一方的であったが,湾内では横N形(z)をなしていた。


赤崎
○佐野部落
襲来時刻4時20分頃。大波襲来回数3回。波の高さは,県道路面より約2mまで浸水した。波の強さは,倒壊家屋がなかったので弱かったものと思われる。方向は,石橋木工所の材木が鉄道沿いに北へ押し流された。
○跡浜部落
襲来時刻は,4時10分。回数3回。波の高さは停留所附近で路面より約1mの浸水。又波の強さ,速さ,方向はセメント工場の陰になつていたのでこれらについては殆んど不明である。
○宿部落
襲来時刻は,4時10分で回数は3回。波の高さは,停留所附近で路面より3m〜4mの浸水。強さは,さかまく波ではなかったので強くなかった。速さは,大抵引潮で家が倒された。方向は,野島の方へ漂流していった。
○生形部落
襲来時刻は,4時17分。回数に3回。波の高さは,路面より4〜5m。強さは,このあたりは最も強く建物の倒される音がすごかった。速さは,ものすごい勢いで奥へ押しよせ加速度をつけた。方向は,後入部落,大洞部落の方へ押し運んでいった。
○山口部落
襲来時刻は,4時30分。回数3回。波の高さは,中学校校庭に約1m30Cm〜2m。強さ,速さは不明で方向はセメント工場の方へ流れた。
○生形部落
家は海岸より約4〜50mの高さにある。午前4時前であったと思う。物騒ぎが下の海岸でするから,起きて戸を明けて見た。高潮の様であった。子供達を起してカキの処理場へ行って見たら潮が退きはじめた。その後30分位大事なものは海からあげてきた。家畜も豚2頭,緬羊3頭おじいさんに頼んで避難させた。
4時過ぎ下の畑(満潮の海面より2.5m位の高さ)まで襲来した。たしかこれは第3回目あたりと思われる。これは丁度昭和8年の時位な高さの波であった。又潮が退いて30分位もたって4時30分頃第4回目の波がやってきた。これは明治29年より2尺も高く,今回の最高で4m位あった。(29年の津波を漂準としてつくられた屋敷である。)第5回目からは,約30分おき位に海岸の道路に上る位の波が何回も来た。
波は南の方おら来て西側のセメント方面に向って流れて行った様に思う。別に強く押し寄せたのではないからその流れもはっきりとは見られなかったが流材のついたところからその様に考えられる。つまり深いところからやって来て次第に浅い方へ行つた様に思われる。

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津波の高さ よせ潮・引き潮・岩手銀行内部にて(岩手殖銀 平野氏記)
(3)波の引きぐあいはどうでしたか

末崎
○波打際から約120m沖に通称沖岩という岩礁があって普通は見えないけれども,それまで海水が引けたので全容を見た時には,魔物でも見る様な気がして怖しかった。
○細浦駅前にある淺橋附近まで約70m引いた。


蛸浦
○清水部落(床下浸水者)
35尺から40尺位引いたと思う。7尋(ひろ)から8尋の深さの御前島の中根が見えた。北上川の川の流れの様相を呈した。
○御前島とクイコ島との間の根がはっきり見えた。20m位潮が引いた。
○長崎部落(無被害者)
引き波は小川の水が流れる様に静かに引ける。潮の引けが止まって返し,波が来る迄25分から30分位の時間があった。深さ約4mから5m位潮が引いた。長崎前の小さな根の頭又は周囲の腰が殆んど見えた。
みたことのない岩礁がみえた。
○蛸浦部落(床上浸水者)
引き潮は静かに引いたが,浮上物の船,牡蛎筏の流れが非常に早かった。蛸浦湾内の岩礁の腰が殆んど表れ湾内が岩山状態になり気持が悪かった。35尺〜36尺の潮の引き具合であった。


大船渡
○魚市場前の岸壁のところで海底が露出した(—4m)。
○サンゴ島,下船渡間の中根の岩礁をはっきり見ることが出来たし,サンゴ島は2倍にも見えた。(宮の前)
○時間的にみて,3時20分から3時50分頃まで川状をなして波が引き,5分から10分間程度停滞した。その時の状態で観察するとサンゴ島中心になるならば,年間通しての最高千潮の3.5倍〜4倍(距離)の千潮であった。これを湾内全般に見ると平均水面より2.5mの水底まで露出し,その底の岩礁が見られた。海底床は一定ではないので具体的には表現出来ないが,はじめて見た海底にただ一驚するばかりであつた。


赤崎
○山口部落
三根岩礁が見えた。
○生形部落
引く音がガワガワと聞えたような気がする。野島がはっきりとみえた。
○宿部落
野島の根からセメント工場の包装棧橋の根が黒々と見えた。
○一回目の引き潮の時がもっとも多くひいた。
○跡浜部落
宿部落と同じ様に野島の根からセメント工場の包装淺橋の根が黒々と見えた。
○中赤崎
波の引きぐあいは,海岸より約100mの(〜4050間のこと)沖まで引いて行つたので,いつもは見ることの出来ないツツ根がはっきり見えた。

(4)警報や知らせはどんなふうになされましたか

末崎
○近所の人に津波だ津波だと叫ばれた。
○鐘の乱打による警報,各部落や消防所のサイレン。


蛸浦
○清水部落(床下浸水者)
電話が不通のため消防団員がオートバイで知らせた。
人々のさわぎでサイレンよりも早く知った。
○長崎部落(無被害者)
大声にて津波と叫びながらサイレンの設置場所迄駈けつけサイレンにより一般に知らせた。
○人々のさわぎでわかった。
○蛸浦部落(床上浸水者)
昭和8年の津波の経験もあり,前兆として地震はなかったが,出漁する人達が異状干潮を知り津波の来ることがその人達によって伝えられた。そのうちに警報もなった。
消防団が知らせてくれた。


大船渡
○午前3時35分より部落内の人達を呼びおこし,電話をかけ更に連呼した。
○魚市場,セメント工場,消防等のサイレン(4時24分)で知った人が大部分で,警報の遅かったことをあげている。
船員の叫びで津波を知った。(茶や前)
○なんらの前ぶれのない津波であったので,他の災害のように消防,警察等に定めてある警報はおくれて,津波来襲であった。仕事で早朝より起床していた人々,或いは一部中学生が学力試験の為,早朝起きて,知った者が多かったし,その後魚市場,セメント工場,消防車のサイレンで警報された時間は(4時30分頃)最も大きい波のくる5分前であった。
大船渡町にも下平方面のように沿岸魚業に従事している者や,海岸に住居して,今まで津波の経験のある者,或いは朝夕海の側で生活している人々は自信を持って,津波襲来を感知して,適切な処置をとったようであるが,茶や前,須崎地域のように海と直接関係のある仕事をしない人々や,津波の経験や,認識の不足な人々は,人々に知らせる方法や,知って行動することに適感の点が多かったように思われる。


赤崎
○山口部落
網起こしの人々が消防団に連絡した。
○生形部落
サイレンの後,海岸の方から叫び声でわかった。
○宿部落
警報は,逃げるにやっと間に合う位遅かった。
○跡浜部落
セメント工場のサイレンで始めて津波だとわかった。
○佐野部落
半鐘で始めは火事だと思った。

(5)避難はどのようになされましたか

末崎
○寝耳に津波と叫ばれたので,家族全部で飛び起き,取るも取りあえず全員高所に避難し,波の様子をみてわら,貴重品,布団等若干持運んだ程度である。
○丘の方へ,皆荷物をもって「ダマッテ」避難した。


蛸浦
○清水部落(床下浸水者)
昭和8年の津波で経験しているので,県道より高い所に集合した。家屋の中に居ないで外に居た。この辺ならば安泰であると思う所に居た。
○県道より10mも高い所へ登つた。家財を出した人もいる。
○蛸浦部落(床上浸水者)
朝,明るくなってから避難であり,県道より高い所に避難し,老人,子供は更に高い所へ避難した。潮の引き始めより潮が寄始めるまで25分から30分の時間があり,家財具は家人及び近隣の人たちの協力により相当量運搬した。二階に上げた家もある。
○大事なものを高い所へ運んでから避難した。時間は充分あった。
○長崎部落(無被害者)
一番先に危険地帯の人々を避難させ,老婦女子は,安全地帯(高い所)に強制避難させた。家財具の疎開も消防団員や一般の人々の協力により運搬させた。


大船渡
○地震がなかったことと,警報は高潮なのか津波なのかわからず,眼前に波がきてから驚いて高台に避難した。(地の森)
○湾口に近い大船渡,宮の前,平部落の住民は割合に早く,しかも長い間住みついているので古い経験より,いち早く津波襲来を察知して難なく避難したが,中心部の人々は未経験,或いは切実な恐怖感が伴わず,ようやく自身だけ避難した人々が多かった。何よりも体一つで逃げた人々は何とか逃げることが出来たが,少しでも家財を持参しようとしたり,老人,子供の世話で手間どった人の中には,海水に押し流されたり,流木につかまったりして,かろうじて助かった者が多く,又逃げおくれて安全と思われた2階などにいて家がつぶれ,押し流された人々に尊い犠牲者が多かった様に思われる。
○最初老人,子供を高台に避難させ,2回目との間に衣類家具など持出した。はじめは高潮程度に思っていた。
○避難がおくれ,流失家屋の屋根にのって流されたが,波のあい間に避難した。(台町)


赤崎
○山口部落
海から遠いのでほん気で逃げようとしなかった。
○生形部落
以前の経験もあってか避難が早かった。初めは附近の人も皆自分の庭に避難していたが,庭まで上ってきたので,後の丘の上に登った。別にあわてることはなかった。
○宿部落
着のみ着のままで山へ避難した。
○跡浜部落
起床して外へ出た時には,セメント工場構内にもう水が入っていた。裏山へと逃げた。
○佐野部落
荷物も持たずに全員起こして農道に避錐した。

(6)津波襲来による市民の心理状態はどんなものでしたか

末崎
○只恐怖の一語につきる(津波の大きさがわからなかったので)。
○被害は軽少ないので割合安定した心理状態だったと思う。
○ラジオで科学的なニュースを聞いているので,デマなどにまどわされなかった。
○ミコ(巫女)の予言による避難が少なからずあったときいている。


蛸浦
○清水部落(床下浸水者)
人心はすねて来て,家財や物質を流失して平気で地方や部落の仕事に奉仕すると言う人は少ない。また津波が来るというデマがあり,これは非常に悪い,せっかくの復興作業,救授作業を迷はす。民心を離散させ,気力を弱めたりする。
実際的な恐怖感はなかったもよう。
○長崎部落(無被害者)
明るい朝でもあり地震もなく,津波が来ると思っていた人は,ほんに少数でした。又襲来しても見通しの良い朝なので,人命に支障がないと思っているのか血相を変えている人も殆んどなかった。老人達にミコ(巫女)を信じている人があり,ミコの話からいろいろのデマが流れ人心を乱した。夜警も実施した。
実際的な恐怖感はなかったもよう。
○蛸浦部落(床上浸水者)
交通庶断により確実な情報がつかめず非常に惑った。五月一杯は,デマが飛んだりして落付がなかった。罹災者の一部の者は五月一杯高所の親類に避難し,その後もとの住居に移動した。まだ家財具を疏開させたまゝの家もある。
デマにより復旧の気力を弱めた。
実際的な恐怖感はなかったもよう。


大船渡
○被害の多い中心部の人々の打撃は想橡以上のものがあり,放心状態の人々が多かった。
○数多くの救授隊に力づけられ,復興意慾を持った者もあったが,ただ恐怖から醒めきれず,完全に津波の終ったあとでも,おろおろする人々が非常に多く,その後数日全く震源地の異る三陸沖の小さな地震にもノイローゼ気味で安心して眠れた人々はほとんどない。
○高潮程度と思って楽観していた人が大部分であったのに津波が大きく一時は呆然自失の状態であったが立ち上る気力大。(地の森)
○津波後のチリー地震のニュースなどはっきり知るすべがなく,流言にまどわされ落付がなかった。(津波後3日位)


赤崎
○山口部落
津波は,又大きなのが来る,というデマは26日頃まで続き,夜も消防団は寝ないで警戒にあたった。一般もそんなことでどうも落つきがなかった。
○生形部落
恐しさで精一杯,誰も朝夕のあいさつもしなかった。
○宿部落
津波とさわがれても地震がなかったからみんな油断していた。
○跡浜部落
始めての経験者が大部分で唯驚くばかりであった。
○佐野部落
まさかと思っていたので呆っ気にとられたようだった。


佐野
○朝,寝床で新聞を読んでいました。まだ苗代に行くには早い時間だしもう少しもう少しと読みふけって起きないでいたら,外での人声が平素とちがうような騒ぎでした。サイレンの鳴ったのも先程聞いたような気がするが,魚市場のサイレンに馴れているので余り気にもとめませんでした。しかし外の人声が気にかかるので帯もしめずに外に起き出て見た途端,普金街道方面から来る魔物のような恐ろしい水の襲来に,本当に腰が抜けたとはあの事でしょう。またたく間に家の前数十メートルに迫って来るドス黒い水の堤防に,私は夢中で家の中にかけ込み,寝せおいた孫を引っ攫って山の手の畑に逃げました。家内の者はどうなったかも考えるひまも心のゆとりもありません。私はそんなゆとりのない心の中で,こんな大津波が押し寄せるのに,海に近い人々の警報が不徹底で不親切なのに大いに憤慨しながら行動していたことを今になって思い起します。
第一波は私が孫を抱いて逃げた後の我家に直ぐに襲いかかりましたが,たちまち庭を泥海にして家の土台を浸し内庭まではいりました。道路をへだてた隣家が軒近くまで浸水するのを見て,もう自分の家もだめだ,と思いましたが,まもなく引きはじめました。水の引いた時を見計って急いで家にもどり寝巻姿を服に着換えましたが,その時,庭の玄関先に死体が一体転っていました。まもなく第二波がやって来ましたので何もかも考えるひまがありませんでした。第一波と第二波の間が何分位だつたかもはっきりしませんが,あの夢中だった私の頭の中では10分位だったように思います。
年寄りの方々には,もう少しのところで命がなくなったという危い方々が一人ならずありました。それは明治と昭和両度の津波の経験を過信したためです。ここまで来たためしがない。地震のない津波などあるものか。というのが年寄り方の信念で,逃げなくてもよい,と家内の者まで止める始末でした。
ゴマ餅のアンコのような泥水が南方の中空まで突っ立ち上がって襲いかかるあの形相は,今思い出してもゾッとします。(大畑伝十郎氏62才)

(7)特に変った経験がありませんでしたか

末崎
○特別の経験はないが,満潮時と干潮時の写真を撮った。
○漁船に乗って港に帰り(満潮状態)何も知らず洗面し,再び船に帰った時は,はなはだしい干潮なので自分の頭が変になったのではないかと思った。


蛸浦
○清水部落(床下浸水者)
小野田セメントへ勤めている青年の衣類箱を見付けて知らせたが,6日もとりに来なかった。一般に家財等を拾って届けても,感謝する気持を適切に表現する人はなかった。それ程精神的に混乱していた。
○長崎部落(無被害者)
延縄小船が数分間に何百米と潮に乗り潮の流れに従うより外はなく,流れの外に出るに非常に苦労して帰港した。
○蛸浦部落(床上浸水者)
九死に一生を得た様な事実はない。ただ心がすさんだ。
○自動車などのタイヤ漂流物を拾い上げて棧橋などに置くと,ことわりなしに持ち運ぶような人もあった。


大船渡
○津波で特に変った経験もありませんでしたが,津波発生後は殆んど明治29年,昭和8年のそれと変らないが,前ぶれなしの津波のあることを知らされた。
○波長の大きさによって回数の多少があり,昭和8年の場合の様に大波が一回あった後,一度は前回に近い程度のものがあるとされていたが,今後のは再参再四小津波程度のものがあったことで新しい知識といえる。

(8)明治29年,昭和8年の津波と比べてどんな事が違っていましたか

末崎
○明治29年,昭和8年の津波は地震があって怒濤が来たのだが,昭和35年の津波は地震がなく,ゆるやかな波だった。荒浜海岸に被害少なく,浦海に被害が甚しかった。予側ができないので危険千万であると思います。
イ.地震がないのに津波が来た。ロ.湾の奥ほど被害が大であった。昭和8年は崎ほど被害甚大であった。


蛸浦
○清水部落(床下浸水)
水量が少い。地震を伴はない。夜でなく明け方であった。
波の来るのも引くのも静かであった。回数が多い。人や動物の死体が少い,全々見かけない位であった。被害が少い事。波頭のない波であった事。
○長崎部落(無被害者)
地震がなかった。水量も少なく押寄せる波の力が弱かった。夜でなく明方にて大半の人は朝起きしていたので人,動物の被害は全然なかった。
○蛸浦部落(床上浸水者)
地震を伴はない。寄波引波共に弱かった。明るい明方に来襲した。水量が少ない。人畜無被害牡蛎筏が防波の復旧をした様に思う。地震がなかった事。


大船渡
○地震を感じないのに津波が来た事,昭和8年の津波の寄せ潮よりは,速度がおそく力もないようだった。製材所の材木が流れて破壊力を増したようだった。
昭和8年の時ひどい所は今度は軽度ですんだ。
○地震がないのに津波が来た事。明治29年昭和8年のものは寄せ波が強くしかも速度もあり,一段と高くなって岸に押し寄せた様に思っているが,今回のものは,寄せ波のスピードも,それ程早いとも思われず,ただ,もれもれと水位が上って,岸壁を越えて来たようである。したがつて,何の音響もなく静かで無気味だった。


赤崎
○山口部落
明治29年や昭和8年には,地震があってから津波がやって来た。然も急激で強かった様である。殊に昭和8年には物物しいあらしの様な高なりがひびいて来た。自分は下の家にねていたが,にげる暇もなく寝ていたところに海水が入って来たので大変あわてて逃げた。その時は海面から6尺位も高い波であった。今回の津波は音もなく,押しよせ方も静かで,自然と高くなり,勿論地震も感ぜられなかったのが特徴であった。
○生形部落
寄せた回数が多い事。
○宿部落
波の勢いがのろのろと高くなった事。
○跡浜部落
被害が大きかった事。
○佐野部落
地震がなかった事。
うねりの巾が小さい事。

第3節 三陸村の状況

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地図 三陸村 綾里湾「チリ津浪合同調査班踏査速報」より
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地図 三陸村 越喜耒湾
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地図 唐丹湾 吉浜湾
(1)三陸村チリ地震津波の状況

5月24日午前3時50分頃だった。
浦浜の刈谷菊一君(29)は網起しにに行こうとして浦浜埋立に来たところ,海水
はいつもより2m位いも増水して,埋立の防舷材スレスレのところまで潮が満ち
ていた。「大潮だ」ぐらいに思って沖に漕ぎ出して行った。
埋立から100mも沖に出た頃,急に潮が引きはじめ海底に櫂が突きあたるのを感じた。不思議に思ってあたりを見まわしたところ,つねに海底に隠れて見えない岩肌が見えた。岸壁附近はすっかり潮が引いて砂浜となり,繋留中の船は腹を見せて坐礁したかのように横に傾むいているのが見えた。
これを見た刈谷君は,異状の潮の引きかたから津波と直感,津波が来ると判断して陸に向って,「津波だ津波だ」と大声で呼びながら自分は沖へ沖へと夢中で舟を漕ぎ出した。
この呼び声を寝床の中で聞いた海岸近くの刈谷庄右工門さん(45)は,飛び起きて隣家中吋譲右工門(56)宅に駈け込み,役場へ連絡方を頼んだ。中村さんはすぐこの事を告げた。この連絡をうけた役場のサイレンは,まだ夜の明けやらぬ山にこだまして不気味に鳴り渡った。すでに第1波はすぎ去った後だった。
津波には大きな地震が伴のうものと覚えていた人々は何んの前ぶれもなしに,まさか津波が来るとは予想だにしなかった。サイレンで「火事だ」と思った人が大部分だった。津波と知るや危険地帯の人々は吾れ先にと避難するため一時は混乱を来した。
その後30分間隔で反復して大きく,小さく押し寄せたが,大した被害もなく夜の明けはなれると共に人々は恐怖から明るい表情をとりもどした。
今回の津波は昭和8年の2倍半の大規模と報ぜられたが,当三陸村では,綾里,越喜来,吉浜とも,8年に比べると遙かに小さく,従って被害も少く,勿論人畜は全く安全であったことは幸であった。
ただ,たまたま大船度にあって海浜に枕を並べて死を早やめられた,越喜来の佐川チヤウさん(58),綾里の泉京子さん(30),同多喜子さん(7),熊谷りつ子さん(24)の4人の霊に対してはまことにお気の毒であり,且つ心から御冥福をお祈りする。

(2)人々の心理状態

チリー地震津波の特に変った特微としては,直接外洋に大きく口を開けた湾は浸水波高共に極めて軽微だったということである。このことについては,第1編の諸研究,学説,報告等に詳しく述べられているが,三陸村もその一つで,明治や昭和の2回の大津波には激甚地区として人心を集めたいわゆる津波常襲地中の代表地であったのに,今度の津波では,ほんとに申わけのような水の動き方で,一時「またか!!」という恐怖と驚きに度を失いかけた人々もその様子の緩慢さにたちまち,明るい気分となり,却つて大船渡,高田市小友の情報に同情するという状況だった。
編者は写真その他の資料収集の為め数回この海岸を編歴したが,高田・大船渡のそれと比べ,比較にならぬ平静さに拍子抜けを感ずる程であった。そして聞取取材をすると,今度のチリ地震津波の事はそっちのけにして,明治29年や昭和8年の津波の話をされるので,編者のノートは全く混乱してしまう程だった。
しかし,一波二波と繰返し押し寄せる津波に,一番の財産である漁船の収拾作業をするに当っては,命がけの作業をされたことは写真や現実を見ても,決死的だったと思われる。野々前,吉浜本郷などはその代表的な地域であろう。
越喜来甫嶺,鬼沢では吉田甫嶺校長さんの撮った写真で貴重なものがあった。それは引潮の写真で,先祖代々見たことがないという海底が,無気味に岩肌を見せているのだが,この海底の写真はそちこちで撮れる筈であるのに,他には見当らない。満水の写真はよくあるのに,地獄の底のような海底を見せつけられては気が転倒してカメラ等思い出しもしないのかも知れない。その点で鬼沢の海底写真がまことに貴重である。

第3章 被害の状況

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写真 どうにも手のほどこしようがない、漁港にあった建築物の寄せ集め(高田市上長部の水田)
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写真 岸壁にあった建物はすべて第一波に洗われた(高田市長部港)
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写真 押し上げられた小型漁船(高田市松原)
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写真 折り重なって倒壊した民家(高田市米崎町)
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写真 厚い土塀も波の力にはかなわなかった(高田町長砂)
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写真 鉄銘もなんのその、アメの様に折りまげられた道床(高田市米崎町)
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写真 道路上に散乱した家財道具、からくも民家は倒壊をまぬがれる(高田市米崎町脇之沢駅前)
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写真 脇之沢の被害(高田市米崎町)
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写真 浜砂岸壁より米ケ崎方面を望む海面にうかんだ漂流物(高田市米ケ崎町)
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写真 あめのように曲った鉄道線路(高田市小友町)
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写真 おし流された鉄道、破壊された家、そして無数の木片(大船渡市大船渡町)
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写真 陸地におし上げられた真洋丸3,000トンと木材(大船渡市赤崎町)
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写真 波に洗われた鉄道(大船渡市大船渡町地ノ森)
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写真 水出に流れこんだ家、船、不斤、臨港線附近の惨状(大船渡市赤崎町佐野)
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写真 押しつぶしたのか、つぶれた後で乗り上けたのか(大船渡市大船渡町)
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写真 波が去った後,港マーケット附近(大船渡町川原)
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写真 大船渡町のメィンストリート、ここを通り抜けるのに命がけであった(大船渡町茶屋前)
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写真 引込線魚市場内の貨市(大船渡町市場附近)
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写真 大船渡町の一部(航空写真)
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写真 製材所の被害(三陸村越喜来)
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写真 被害のあった工場(三陸村綾里港)
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写真 流失をまぬがれた水産施設(三陸村越喜来)
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写真 荒された防潮林内(三陸村越喜来)
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写真 津波に洗われた製材所(三陸村綾里)

第1節 陸前高田市の被害

(1)人

死亡者8名
傷病者(軽度の外傷)92名
日赤救護班取扱1ケ班,医師その他5名で,患者203名。
NHK医療班扱1ケ班,医師その他6名で,患者95名。

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死亡者 チリ津波による犠牲者名簿
(2)住居

◎住居関係
◎市営住宅建設(災害対策)
災害救助法適用(全かい対象)
〔気仙町10 高田町17 米崎町6 蜘小友町12〕

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○住三家被害情況(35.5.27日,総務課調)
(3)商工
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工業関係の被害猶況 (陸前高田市総務課,統計係「チリ地震津波罹災者調査票」を資料とす)
(4)農地
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各農地の復旧見込額
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農業用施設
(5)漁港施設
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各漁港施設の復旧見込額
(6)土木施設
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各土木施設の復旧見込額
(7)船舶(漁船)被害
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船舶(漁船)の被害
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○被害直前の漁船数
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○漁船被害率
(8)通信関係

I 被害状況の調査

陸前高田市内の電話加人者500戸のうち,機械,設備の流出は,高田,米崎,長部で66戸,只出郵便局関係(三日市方面)で,5加入者のうち3戸の流出となっている。
なお,大船渡,高田での被害戸数は1,117戸でそれらの損害見積はおよそ2億5,000万円程度と推定される。
これら有線通信で,波浪などにより,電柱の倒れ,或は断線の被害を受けた個所は,陸前高田市,気仙町から長部の区間の500m,高田郵便局から脇ノ沢郵便局区間の50対ケープル線の切断によって市内の一部及び,市外通話は殆んど麻痺状態におちいった。

市外線の被害状況
市内通話の一部と,市外通話のすべてが麻痺状態となったが,この切断されたものの主なる場所は,16号から21号間の(高田町長砂の松野屋呉服店→米崎郵便局)1,000mの断線ある。そのケーブル線の中には,
(1) a大舶渡→気仙沼線が3回線
b気仙沼→釜石線が2回線
c仙台→釜石線が1回線(直通回線)
b仙台→大船渡線が1回線
(2)そっかい線
a高田→気仙沼線が2回線
b高田→広田線が2回線
c大船渡→広田線が2回線
d大船渡→細浦線が5回線
(3)以上のほかに警察専用回線(矢作線と共通)
1回線
以上が津浪の波浪による被害を受けた市外通話線である。

9.鉄道

※ 津波の被害に基づき復旧資材の見積書と計画をもとにして作業を進めた。
○津波被害に要した人的数は,仙台鉄道管理局から21人,その他盛岡,青森などから職員を応援していただいて,その復旧工事の整備にあたり,その他,地方人を雇入れて人的数はまかなわれた。
○仕事によっては,鉄道直営によって進めたもの(枕木及ひ線路関係のもの),と,鉄道関係の建設請負によって進めたもの(路盤,砂利など)の二種によって復旧作業が進められた。


{通信関係 400万円,電器関係 5万円}

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鉄道の被害
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津波災害工事決算状態調

第2節 大船渡市の被害

(1)人
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死亡者 チリ津波による犠牲者名簿
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行方不明
(2)総括
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被害総括
(3)人的及び家屋の被害総括
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人的被害総括
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住家の被害総括
(4)人的被害の内訳
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大船渡町
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赤崎町
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末崎町
(5)住家被害の内訳
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大船渡町
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赤崎町
(6)水産関係

養殖関係
養殖事業の被害は,かき2434台で83,911,600円,海苔45,470間で12,459,060円,わかめ190張で1,658,500円,種かき51,513連で4,697,320円,のり採苗47コで9,90O円この総額は102,736,380円となっている。以上は施設の被害であるが,そのほかにこれに伴う生産被害の見込額は,かき72,136タルで186,317,000円,わかめ800貫で960,000円で187,777,000円,施設の被害とあわせると実に290,513,380円の多額にのぼっている。
かき養殖事業は例年なれば早春生産出荷をしていたところであるが,本年は身入が悪く,その50%は秋の収穫にまわしていたため被害を大ならしめた。

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養殖関係の被害内訳
(7)漁船及び漁具関係
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漁船・漁具関係の被害内訳
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施設及び漁協関係
(8)商工関係
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商工関係被害内訳
(9)公共事業の被害
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大船渡市公共事業
(10)大船渡駅

35.5.24〜5.27 津波来襲と共に全職員駅に集合し警戒に当るとともに荷物,貨物の整理及び旅客荷主の応接案内,被害調査にあたり被災職員及びその家族は流出した家財のそうさく,濡損した物品類の洗たく片付方を行う一方親せき知人非罹災職員の家庭に引越分宿した。
5.28 陸前高田〜盛間代行輸送施行,旅客はバス,荷物はトラック,バスは一日14運行,トラックは随時運行。臨時乗降場は駅舎より250m程はなれた所で道路は津波のため悪路で旅客誘導に又罹災者の移転先不明など無いので見舞及び親せき等の安否を知るため来市した旅客の案内に苦労した。
5.31 荷物到着はこの間594こ,受人所在不明などがあり引渡し保管に苦労した。
6.1 バス1日6運行,トラックは随時運行なるも5日まで4運行〜7運行。
6.6〜6.8 臨時工事列車運行,2運行,10日まで。
6.11 臨工列車8運行。
6.13 13日準急6409列車試運転回送。
6.14 陸前高田〜大船渡間開通,旅客列車全面運行の外貨物列車2運行,臨時列車8運行折返し運転開始,除行運転多いため列車は所定時刻にて運転できず運行は乱れ,入換列車扱いに苦労した。
6.17 421列車より盛方面開通,臨工列車終了。


その他
保安設備復旧
18日 常置信号機,一の関本線下り2番下り,場内本線より2番出発。
19日 盛方本線上2番上り場内
25日 21号イ,ロ,双動転てつ器
18日 第3種踏切 須崎自動遮断器,第2台町。
25日 構内電話器 21号番舎のみ。
以上復旧まで代用手信号,踏切番守張付,21号単独(乗運動),キーボルト犬釘,鎖錠使用後の確認に助役が走り列車扱いした。

(11)日通大船渡支店

被害
日通の車輌荷役機械については,被害直後東北自動車盛岡支店より技術者の派遣を受け応急処置を講ずると共に現地工場に於て修理完了直ちに稼働したが塩水による腐蝕のため耐用年数に於て懸念される状況である。
鉄道関係に於ては高田〜小友間,大船渡〜盛間道床流失不通であったが,懸命の復旧作業により6月14日には高田〜大船渡間,18日には大船渡〜盛間が開通し平常に運行された。


○車扱保管貨物
石炭 276トン
コークス 1386トン
○小口保管貨物
発送 202個
到着 144〃

(12)大船渡郵便局

被害
○流失した家屋はその移転先を局の方に連絡してくれなかったので,郵便物の配達には全く困難をきわめた。これは通信特に郵便物に対する関心のうすさを物語ると思われる。
○鉄道の輸送は途絶したのでその間速達だけはヘリコプターを利用して仙台迄前後約10日位実施して通信の途絶を防止した。
○又橋や道路の破損は郵便物配達の大きな障害となるのでその修理復旧のために専用自動車を動かして復旧に協力した。
局区内にも毎日一輌配置して配達にあてた。
○臨時人夫も30人程増員した(一週間位)
○完全復旧は6月20日である。
○川口橋の破損は赤崎方面—の配達を全く困難にしたので1日2,000円で三輪車を雇うという状況だった。
○現金取扱いの方は被害者には通帳なしで非常払いとして取扱った。そのため平常の3倍の取扱いをした。

(13)五十鈴自動車(トラック)会社にて

○常用トラック7台所有の中,冠水2台とタイヤその他の備品流失で非常に営業に困った。
○仕事開始が6月10日頃。通常の業務は各種業者から依頼された輸送品主に鮮魚,木材,引越用具等をしている。現在は主に復旧工事用砂利を運んでいる。
○幸い災害が輸送の主たる業務の鮮魚運搬期(主にサンマ)を外れたのが不幸中の幸いであった。サンマ時期には若松,福島,山形には月10回程度,東京には月4〜5回運転する。従って今回の津波による輸送の被害の最たるものはなかったものと推察される。

(14)東北機帆船会社(港湾事務所を併設の形)にて

○イ,被害の状況(陸揚された船)
他にハシケが3雙(1雙が100tのもの)中1雙は廃棄処分。
○ロ,これ等の被害船を海上に降すために6月4日から8月5日まで毎日40名の人夫を要した一切を含めた被害総額は約600万円である。
○ハ,イに記載の各船舶は年間に於て。


小野田セメント大船渡工場のセメント約36,000t
湾内の各鉱業所の石灰石約12万t
小野田に入港の石炭約1万t
小野田に大槌,釜石から硅石約6万t


を輸送しているので輸送の主なるものはセメント輸送である。従って津波の被害は直接的にはセメントの立場に打撃を与えた事になる。即ち津波に依り小野田が約7,000t(約300万の運賃)のセメントを出荷し,尚各船舶共7月24日より完全に従来通り復業している。
岩手県南バス会社大船渡営業所にて(以下は凡て高田営業所を含む)……所長談話による。
「管内には所有のバス車輌が47台有り,その中20台が大船渡にあったので,若し津波でその殆んどが被害を受けたら客達の交通難は被害の復興を相当遅らしていたであろう。幸い赤崎町駐在員の早期連絡に依り浸水4台にくいとめたので,津波当日も盛,大船渡間を往復20回無料運転し奉仕に当ることが出来た。
翌日以後も鉄道不通の客達の運送に,盛〜高田間を30分おきに輸送することが出来,道路が殆んど痛まなかったので大いに助かった。当時の乗客数を統計表から拾うと,管内で5月は1日1万人,6月は1日1,149人となっており1日1,000人の差が出来ている。此の差は常より津波による救援,見舞客の如何に多いかを物語っている。此の外,平常も津波時もその後も気仙地区への新聞輸送,逓送(郵便局のもの)をやっている功績も人々に生活意欲の増強となって表われていよう」


所見
県南バス会社に於ては他の交通,通信,運輸関係に見られる様に直接被害はさして大ではなく,むしろ鉄道や他の交通途絶に代り,働きに貢献したことがうかがわれる。

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被害の状況(陸揚された船)
(15)大船渡電報電話局

チリ地震災害に伴う業務関係概況………(大船渡電報電話局の写し)
5月24日朝の津波による被害状況が全国に報通され,と被害の最も甚だしい三陸沿岸地帯に宛てた安否照会,見舞の電報が殺到し,岩手県の中心局である盛岡電報局では5月24日の午後1時には停滞電報約3,000通を数え,更に翌25日午前9時には約10,000通の電報が停滞するという有様であった。これがため盛岡より沿岸各局に送信する電報が捌き切れず,臨時回線の作成,使送,郵送の開始等凡ゆる手段を打つと共に通信局と連絡の上,県内各局より応援の外,山形,青森,秋田,宮城の各内陸部の各局及び東京中電よりの応援を求め,盛岡電報局及び被害地各局へ派遣し,電報の疎通と配達等につとめた。特に局舎そのものが大きく被害を受けた大船渡電報電話局については要員措置の外,物品類の調達,車輌の手配等全般について特別措置を行った。その結果大船渡を除いては5月29日には大体平常に復した。
電話関係についても大体電報同様の状態であった。大船渡局は二階に浸水しなかったので交換機部分には被害がなかったが,階下の電源,市内,市外線の全部が被災したので市内,市外交換は不可能となったが,その他の沿岸部の局,釜石,宮古,久慈及び中心局である盛岡電話局の市外通話が輻猿して来たので臨時市外線の作成と県内及び県外より応援を求め,各局へ派遣し市外通話の疎通につとめた。その結果,大船渡局を除き大体平常に復した。大船渡局については旧大船渡町及び赤崎町の加入者の全部が被災し,その復旧と市外回線及び電信回線の復旧に大体平常に近い作業が出来たのは電信関係,電話関係共に6月20日であつた。その間県内より電信委員及び交換委員の応援を行いサービスの維持につとめた。


損失について(局長談に依る)


電柱流失 197本
ケーブル流失 8.4km
水が入って使えないケーブル 0.9km
裸線 34k.23m
加入者の中電話不通数 1250戸
内訳 大船渡局関係1180戸,高田局関係66戸,只出局関係4戸
市外不通回線数 49回線


局舎の流失物品,損壊等に以上を含めた推定損額は1億8,000万円。


復旧の状況
災害当日,遠野,水沢,盛岡各局より応援隊到着,これらと合流してその晩盛高校で徹夜作業を行い,翌日水につからない加入者を(約30)を通じさせ,逐次何加入かづつ増し5月30日に盛高校仮局を徹収した。何よりの急務は国警盛岡の専用線開通の復旧であったが災害日の午后1時30分には開通させ治安対策に寄与した。
災害日から3日目には盛岡より印刷電信機を取りよせ受付,通信を行った。大船渡駅前に電報受以所を設け高校生のアルバイトを1日10〜20人位あて頼んで電報の配達に当らせた。
移動無線車も全限で7台ある中2台を大船渡に持って来,1台は大船渡小の津波対策本部,その後本部が農協,文化服装学院に移ると共に対外通信連絡に活躍した。外の1台は赤崎郵便局前に持って行き,普通電話やらラジオの聴取,照明用等に大いに利用した。


災害対策
イ,これからの電源設備は密閉型の畜電池を使用すること,普通のは硝子電畜の中に液が入っているので蒸発が多い。
ロ,こうした電池電力室の完全密閉。採光用の窓も開閉出来る様にすること。


今後の自動式完了予定工事
36年8月までに局舎,工事,機械共完成の定予,37年1月に切換,旧市町村の6k以内を合併するが細浦は25kなので第二次5ケ年計画(37年度)か第三次計画(38年度,8kを認められるので)までには切換になるだろう。

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津波時の電報停滞状況(大船渡電報電話局)
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岩手県内各局の合計〔盛岡電報局扱い〕 合計は東京,青森,釜石,一の関,大船渡,花巻,久慈,宮古,高田,大槌,小田のもの,時間は上のに夫々同じ(通数のみ)
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津波関係電話取扱い状況表(大船渡局)
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要員応援状況(大船渡局の計)
(16)配電関係
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配電関係被害内訳

第3節 三陸村の被害

(1)昭和35年5月24日 津波被害額調
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綾里地区
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吉浜地区
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越喜来地区
(2)既往並びに チリ地震津波被害調査表
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既往並びにチリ地震津波被害調査表
(3)昭和35年5月24日津波被害総括表
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昭和35年5月24日津波被害総括表
(4)チリー地震津波による災害復旧目論見書
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橋梁の部
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漁港の部

第4節 チリ地震津波による水産関係被害調査表(大船渡水産事務所)


1.のり養殖は,施設のみの被害で,生産被害はない。
2,のり養殖の施設被害は滅失のみである。(大破以降は該当なし)



1,わかめ養殖の施設被害は滅失のみである。(大破以降該当なし)


(注)
この調査は,個人会社毎に調査表を配布し,調査したものを集計したものである。

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総括表
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漁業協同組合別被害別一覧表
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共同施設
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共同施設(2)
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漁船(動力船)
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漁船(無動力船)
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定置漁具(大型定置)
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定置漁具(小型漁具)
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その他の漁具(その1)
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その他の漁具(その2)
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その他の漁具(その3)
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その他の漁具(その4)
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その他の漁具(その5)
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養殖業(のり)
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わかめ施設,その他生産被害
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養殖業(かき)
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その他
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1.製氷冷凍工場(個人,会社所有)
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2.魚市場
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3.罐詰会社

第4章 救援活動

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写真 気仙川堤防の補強作業 この堤防が切れたら気仙町の被害も大きかった(陸前高田市)
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写真 主のわからぬ漂流物にてんてこ舞の職員(陸前高田市,市役所裏)
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写真 活躍する自衛隊防えき班(陸前高田市)
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写真 古川沼堤防の潮止め作業に活躍する自衛隊(陸前高田市)
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写真 流され,つぶされて県道に折重なる民家(高田町長砂)
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写真 古川沼の潮止め完了のしゅんかん。万歳をさけぶ自衛隊員(陸前高田市)
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写真 災害状況視察の日赤社長(陸前高田市市役所)
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写真 空からの救援物資運搬(陸前高田市)
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写真 各地から届けられた救援苗(陸前高田市)
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写真 自衛隊解隊式(陸前高田市)
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写真 清掃作業に奉仕する婦人会員(陸前高田市)
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写真 救援物資の撰択に忙しい市役所職員(陸前高田市)
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写真 清掃作業に奉仕する中学生(陸前高田市)
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写真 清掃作業に奉仕する高田高校生(陸前高田市)
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写真 死体捜索(大船渡町地ノ森)
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写真 死体をたずねて消防団員の活躍(大船渡町地ノ森)
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写真
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写真 小箱を用意して幼児の死体収容(大船渡町)
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写真 つぶされた屋根や残がいの下に,数時間前迄呼吸していた人々の死体が静かに横わっていた(大船渡町)
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写真 作業中の警察官(大船渡町)
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写真 水道が断水又は汚水になった。命の水はかくして給水車によってくばられた(大船渡町)
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写真 作業中の電々公社の車,通信はこれによって漸く支えられた(大船渡町電話局前赤沢)
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写真 伝染病の流行は恐しい。注意してもしきれない様な文字の列(大船渡町)
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写真 自衛隊員が応援に来た。他町村の消防団員の活動,まず道路上の障害物を他の場所に(大船渡町)
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写真 自衛隊の作業中ウォーキングトーキーで話し中の警察(大船復町赤訳、自衛隊警察の活動)
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写真 自衛隊宿舎となった盛中学校
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写真 自衛隊宿舎となった盛中学校
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写真 救援隊の出動(三陸村越喜来)
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写真 苦浜根白沖に避難した漁船(三陸村苦浜)

第1節 陸前高田市の救援活動

(1)津波襲来直後の救授活動についての調べ
1.とりあえずどの様な救援がなされたか

広田
親戚,部落民が来て流れた品物等の,とり片付けに当ってくれた。


長部
○二回目の大きな波がひくと同時に炊出のにぎりを持って来た人達があった。
○米,食料品の支給が即時行われた。
○罹災者が知人,親戚,学校と即時収容された。


気仙
○今泉保育所,気仙小学校,市博物館,すわ神社,天神様で一夜を明かし,被災者は引きつづき市博物館,今泉保育所に収容された。
○当日の朝食〜長部の二日市,講中のたきだしをうけた。以後知人関係,近隣の人達により夜食の救援をうけた。市博物館に10日位宿泊した。
○寺であるので仏様の事が一番心配で仏様をおいて避難する等という事は,立場上どうしても出来なかったが,消防の人達がお移しする事に協力してくれた事はなんといっても有難かった。
○襲来直後の避難者に毛布一枚ずつかした。
○たいがい親類の救援にあたった。
○婦人会はたきだしにあたった。
○コウジ(部落のたすけあいの組織)によって皆救援に出た。
○部落民(被害のなかった)による炊出し。
○市役所(対策本部)より,食糧品(罐詰類,ソーセージ)衣料品(毛布)金を贈られた。
○炊出しは被災しない部落住民が中心となって,消防団や他町村の奉仕団体に,対策本部を通じて行ったようである。


米崎
○被害を受けなかった家では,早速むすびを作りくばった。


小友
○知人,親戚,婦人会よりたきだしが行われた。
○知人,親戚,婦人会より,衣服,日用品のおくりもの。
○災害地へ,近隣町村及び,住田町より,親類知人等の見舞,取片付の手伝い。
○怪我人及び病人は仮医療施設がなされ,救護の手がさしのべられた。
○市当局の消毒班の巡回があり,災害地の消毒がなされた。
○山手の方の人達から労力援助,マッチ,たきぎ,シチリン等日用必要品をうけた。


高田
○罹災者を高校に集め,市役所,消防団,婦人会の救助活動が始められた。
○被害生徒小泉部落よりお握りの援助を受けた。
○罹災5日目頃から赤十字の医療班,引続いてNHK,郵政省の医療班も巡回米の無料配給,薬剤散布。

2.消防団,婦人会,部落団体等による救援活動はどのようになされましたか

広田
○消防団が来て家の中を洗ったり,消毒してくれた。
○婦人会の人達の働きは何もなかった。全町僅か3軒だけの軽い浸水程度のひがいのためでもあろうか。
○部落の人達が来て取り片付に手伝った。


長部
消防団
○まず道路に上り積重なったざんがい片付け交通をしやすくした。
○食事についてのたきだし手配をお願いした。
○他町村の消防(矢作,住田,宮城県唐桑等より)団員が後仕末の救援に5日ばかり来,延人数400人となる。
婦人会
○本部に来,物資の配給,お茶出しの手伝い。
青年団
○保健課と協力し,消毒を行う。
○50人位ずつ2日ばかり後仕末に出る。
○10日ぐらいのち罹災住家等の全家消毒を行う。
○当日茶わん等を各戸より集め罹災者にくばる。
壮年会
○罹災者えの見舞品を届ける。(団体より出費して)


消防気仙分団
漁協のサイレンにより津波襲来の危険を知った分団長は,長部地区の住民に対し警鐘並びに連呼をもって避難するよう指示した。


消防米崎分団
第二部団員の警鐘乱打により出動し,住民に避難を連呼するとともに,海岸において警戒し,津波来襲とともに逃げおくれた者を収容しながら北方台地に避難した。


消防高田分団
第1波を発見した漁夫(団員)の通報によってサイレン,警鐘により住民を避難せしめる。団員は第2波来襲の際逃げ遅れた者を収容しながら高台に避難する。


消防竹駒分団,横田分団,矢作分団
本部よりの指令により直ちに被災地救援に出動し,矢作,竹駒分団は気仙川堤防決潰防止作業に従事する。


米崎
○消防団,婦人会,青年会の人達の救援活動は最も早く,最も骨身おしまず活動した。又各家庭では,自中的に行った。


小友
消防団
○津波罹災家庭の流失物件捜索並び運搬作業及び死体捜索。
○夜の警戒,後片付。
婦人会
○罹災に対して特に給食等,係の奉仕作業(各部落)
○にぎりめし配給。
部落団体
○防犯,青年団外,各部落各戸1人ずつ出動し,上記津波に依る流失物件(道路,田畑)に置去になった点の搬出並搬去作業。
○家屋流失の家族分宿手配。
其の外
津波直後,三日市,黄川田恭祐方に津波対策本部設置,罹災者に対し便宜を図った。


高田
消防団
○道路整理
○罹災地の流失物の取除き作業(道路,田畑)と実に良く強力な作業を連日してくれた。
○学校に待機,警戒の任に当る。
○床下のよごれを除去した。
○警報の伝達に避難におくれた人々の救援に活動された。
婦人会
○各家庭の清掃又家具,衣類の洗濯。
部落団体
○各家庭の流失物を集める事。

3.市消防団の活動状況

イ.警報発令前後の活動状況


消防本部
市役所当直員(消防団員,管野興一)は,米崎分団第二部団員鈴木正己より潮が異常に引いているとの連絡により,直に津波の来襲を予想し,住民に対し避難せしめるよう指示すると共に,自転車にて佐々木士長,伊東司令に連絡する。佐々木士長はジープ車により,海岸地帯に対して避難を伝達,伊東司令は直に本部において,沿岸各分団に対し,熊谷消防長の指示に従い津波警報を発し避難命令を出すとともに,山手分団に対しては応援出動命令を出した。気仙沼市役所を通じ県消防課へ津波により,被害甚大との連絡を依頼する。


消防小友分団
漁夫により潮の異常な引きの通報をうけた分団付部長は,各部に対し,住民の避難の連絡を行った。

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災害発生後の活動状況
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他市町村消防団の応援状況
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チリ地震津波出動団員数 総集計表
4.一般の協力,援助はどのようになされましたか。

広田
○親戚,知人,近隣の人達が来て慰問したり,後片付に手伝ってくれた。


長部
○部落ごと各戸たきだしを行い,5日位給付する。
○各戸1名ずつ後仕末に出,5日間ばかり出役する。
○罹災者に種々の物資をとどける者もあり。


気仙
○親戚や,隣組の人達から夜具,衣服類を援助してもらった。
○被災地外の部落や町村から数日間復旧作業の応援を得た。主に世田米,上有住,矢作,生出,竹駒,今泉である。
○各家1名ずつ出て後片付。


米崎
○各部落毎に災害対策本部を設けた。特に勝木田部落が一番速く設け,飲料水の指定,食糧援助等指図した。


小友
○日用品をもらう(バケツ,洗いバチ)等
○山手の家庭より,他町村から,労力,金銭,衣料の援助をうけた。
○当日は炊出しをして罹災者におにぎりを配ったり,又近所や親戚の家等を訪問したりした。
○近親者や近所の罹災者に対しては,室を貸して宿泊させるなどした。
○流失物をさがして上げたり,又流失物が見つかった通知を本部から受けたりした時取りに行ってやったりした。
○流失物を見つけて名前が書いてあれば,本人或は警察に連絡した。
○毎日のように出て津波の残がい整理や,鉄道線路の復旧,道路の復旧作業等の手伝い。
○衣類,学用品等を進んで拠出して罹災者に御見舞した。
○お米や,お金なども各戸から集めて,お見舞とした。


高田
○全壊の建物の片付方,よごれ物の洗い方,身内からの食物援助。
○市内,市外は遠く大東,花巻方面まで来て罹災地の整理,罹災者宅の作業等。
○台所の道具のバケツ食器類,衣類,見舞金等の援助。
○各家庭の洗濯,清掃の手伝い。


高田
○電信電話関係
市内の一部の通話と,市外のすべての通話が杜絶したため,当日などの被害の状況連絡は殆んど出来ず,復旧を急がねばならなかった。
次の様な順序で復旧にとりかかった。


1.警察電話
2,被害対策本部関係
3.病院関係
4.官公庁関係
5.一般家庭


これらの復旧作業或いは救援活動は,岩手電機通信部の指令に基づき,遠く山形,秋田,福島方面からの応援を得て,日夜その復旧作業に努め,基本復旧に延べ200人の労働力を要して,一応その復旧を終えた。

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後片付等の作業に奉仕した団体
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高田高校奉仕隊出役調書
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広田高校奉仕隊出役調書
5.市当局(対策本部)の救援はどのようになされましたか。

広田
○配給米の特配がなされた。
○金銭,物品,慰問品の交付があった。


長部
○即時本部を設け,当日より物資の配給を行う。
○消防と協力の上でスムースに調査が進められ,しかも敏速に行われた。
○本部を現地に設けた。
○手配,後仕末の計画を立て,とにかく苗等もとりよせ田植も行わせた。
○2日目あたりには山口県あたりの救援物資が届くと言った状態でした。


仙気
○町財産管理委員会からはだいたい次のような見舞金があった。
流失1万円 全壊7千円
半壊5千円 床上4千6百円
○市(対策本部)より食糧品(ソーセージ,罐詰,米)衣類(毛布)等を貰った。


米崎
○部落の対策本部を生かして大きくなっていった。


小友
○消毒班がくり出され消毒にあたった。
○公報車にて救援物資の配給の連絡をとった。
○仮住宅を建築し,罹災者を収容した。
○住宅資金の貸出しを開始した。
○見舞金,衣料,食糧の援助。


高田
○食料品,衣類の援助。
○救援物資の配給,実に早くしてくれた。
○避難者へ毛布配布,見舞金,炊出し等の援助。


罹災者避難所
高田町……高田高校,光照寺,八坂神社
気仙町……気仙旧役場,旧支所
米崎町……米崎中学校
小友町……小友小学校,正徳寺,両替公民館


救援物資の配給
5月25日〜7月5日
配給ルート
儀損金 日本赤十字岩手支部を通じて,品物 新聞社を通じて}入
各支部を通じて各町一各個人}出


義指金
(昭和35年8月17日現在)
市外受付分 10,570,678円
市内〃 47,065円
157,740円
4,204,805円


要保護家庭
申請制度によるため,新たに要保護を申請したものなし。学校に於いては,準保護児童がいくらか増した。

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災害援助法による配給 5月24日より
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現品
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衣料品
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履物類
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その他
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家庭用品
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学用品
6.その他警察,保健所,自衛隊などの救援活動はどのようになされましたか。

広田
○自衛隊が来て消毒してくれた。


長部
警察
○当日より5名位来,宿泊などし消防と連絡をとりながら防犯,交通整理にあたる。
保健所,市保健課
○保健所の指導が保健課に行われた。
防疫として
○当日クレゾール散布,消毒(各戸)。
○2日目石灰消毒。
○3日目自衛隊の協力でジープによる石灰散布。
○4日目,5日目B.H.Cの散布。
○作業員の消毒。
○広報カーでの防疫連絡。
○各戸の検病調査を5日目あたり行う。
○NHK,日赤岩手支部より来て,無料診料を行う。
自衛隊
○長部直接というのは石灰消毒だけで学校を宿舎にし,長部小学校に43名ばかり来,10日ぐらい宿泊す。


気仙
警察
○県内から5名ばかり派遣され,数日いてくれた。そして流失物のたまり場所等で,所有争いの相談にのってくれた。
保健所
○2日から来て,飲料水の注意をしたり,けが人の申し込みを受けた。
○消毒
自衛隊
○交通整理をしてくれた。
○消毒
○気仙小,気仙中に自衛隊が6月2日〜6月20日宿泊,救援作業に当る。


米崎
警察
○泥棒の取締り,交通整理に活動してくれた。
保健所
○防疫や無料診断(診察)にあたってくれた。
自衛隊
○防疫に活躍した。


小友
保健所
○消毒
自衛隊
○消毒。労力奉仕
赤十字
○病気,けがの手当


高田
警察
○消防団と共に夜警。
○交通整理。
○防犯。
保健所
○赤痢発生の予防。
○薬剤散布。
○病人の有無をたしかめて歩いた。
○室内外の消毒,一寸した傷の手当。
自衛隊
○家屋,床下にD.D.T散布。
○破壊された堤防の土俵つみ。
○防疫,潮止工事。
○外部との連絡。
○大がかりな消毒。
○道路の修理。


その中乳幼児15名,病者なし。
市上水道浄水を供給,その他避難者は自家用井戸を消毒し使用せり。便所の応急仮設なし。


保健
1,医療機関の活動(日赤救護班による診療状況) 35.6.1現在
5月24日
医師1 看護婦4 事務職員1
診療地域〜各避難所巡廻
診痛患者数〜外来13,主として外傷者,中裂傷1。
5月29日
外来37 巡回診療6 計43名
5月30日
外来62 巡回診療4 計66名
5月31日
計43名
6月1日
計38名
合計190名
費用額(診療に要した)22,400円(1人200円見当)


津波に対する陸前高田市医師救護状況(5月24日津波来襲当日)
A 各地区在住医師,災害地に赴き罹災者の救護に当ったが,当日は意外に傷者少なし。
小友町三日市,只出方面
佐藤哲郎,鳥羽義行先生
米崎町 方面
佐伯先生
高田町長砂己 方面
高田地区医師
気仙町長部 方面
気仙町,高田地区医師
B その後,罹災者には24〜28日迄の診療,窓口は無料診療とす。
患者数 190名
金額 36,164円
C 5月26日医師会にて伝染病予防に関するパンフレット印刷配布し,市保健課防疫班に協力し,罹災者の防疫に努む。


医師の罹災地区巡廻並びに救護状況(津田医院) 津田勇氏
5月24日
午前6時自宅出発
松原—長砂—高田高校救護所
午前7時自宅出発
沼田—脇の沢—勝木田—両替—三日市—小友小学校—只出—小友駅—死亡者,佐藤マサ殿等—勝木田
5月25日
松原
5月26日
今泉—湊—福伏—双六—今泉—松原
5月27日
大船渡地区
5月29日
長砂—松原
5月30日
大船渡—細浦
津田重通氏
5月24日
午前8時—今泉—みなと
10時—長砂—高田高校救護所(患者2名診療)
5月25日
今泉—みなと—双六—高田—長砂
5月26日
松原—長砂—沼田—脇の沢—長部,二日市に罹災者の往診。


岩手県済生会,NHK三者合同診療班による診療患者数
6月1日
気仙町みなと地区,診療患者数30名
6月2日
高田高校での 診療患者数65名


○急性腸災の中,検便を要するものはその都度保健所,災害対策本部に連絡した。
○消化不良の1名は山田病院に連絡入院させた。
○総じて津波後の後片付けによる身体酷使のため各種神経痛の発生,血圧の上昇,過労及び家屋不備も加味されて,感冒の発生が目立った。
○異常なしとは,血圧測定を希望するもの,軽度の頭痛を訴えるものの中,特に病名を附する程でないものを指す。
病気発生
発生月日5月26日
高田町に赤痢疑似症2名発生
18才の男 松田幸男 昭和17年生
80才の女 柴田ナツ 明治13年生
給水
特別な処置は構じなかったが,井戸水を2〜3回位くみ上げさらし粉2〜3回投入す,尚保健所の化学検査を受けしむ。
使用水及び給水班
上水道数ケ所破損せるも速時復旧供給せり,災害地区の井戸使用を禁止し,罹災者は避難先の水道及び自家用水を使用せり。
給水班—なし。


薬品の単価
クレゾール 105円×400=42,000円
ダイアジン乳剤 9,800円×10=98,000円
DDT粉剤 1,500円×75=112,500円
ミケゾール 3,300円×10=33,000円
消石灰 195円×250=48,750円
クロール石灰 330円x30=9,900円
(100g入)
消毒実施戸数 3,262戸
以上は5月24日から31日迄の8日間に使用せるもの


1〜第1班 気仙町 178戸
2〜第2班 高田町 207戸
3〜第3班 米崎,小友,広田 216戸
を対称とす。


金融関係
農林中金関係(災害五割以上対象)融資
高田町——140万円
小友町——150万
米崎町——150万
気仙,広田申込みなし
合計 新築56件——1,800万円
修築42件——366万円
98件——2,166万円

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避難状況(集団避難)
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無料診療取扱医師とその件数 5月24〜5月28日まで
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病名・気仙町みなと・高田高校・大船渡赤碕小学校
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防疫作業
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防疫作業
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防疫作業状況集計表
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器材,従事者の町内別分布
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住宅金融公庫関係(融資)
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国民金融公庫関係(融資)
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銀行関係
7.津波直後の救援活動についてどのように感じておりますか

広田
○唯有難いと心から感謝して居ります。
○救援活動は万全を期して行われたので,感謝の念で一杯である。


長部
○教員組合を始め,一般の人々の援助には本当に感謝する。それに比較し国家(政府)等は何も目にみえた事はしてくれていない。
○今は罹災に合っても皆んなで援助してくれるのでまず死ぬような事は絶対にないと思う。
○山口県あたりよりの救援物資が,3日目にはくばられると云うのにはおどろいた。とにかく救援の活動も敏速に行われるものである。


気仙
○食器類,なべ,かま,ちゃわん,はし,ほうちょう等が先だと思った。
○川口附近の被災家庭では,消防等の組織的な救援は,道路,堤防に焦点をおいたせいか親戚程度の手伝いに止まったのではないかと思われた。
○親戚,知人があったので,おかげでこまるという事がなかったが,他地方から来ている人でそういうもののない家庭は衣食住とも想像以上に苦労すると思う。
○流失物をかえすのは最初のうち,非常に事務的な扱い方であった。あの場合先着順にただ引渡すというやり方は適正をかいたものと思われる。
○消毒については何処よりえんの下を念入りに回数多く消毒してほしかった。
○飲料水と洗たく水の不足には最も困った。
○配給は公平にやって貰い度い。
○早く家を修理したので配給物が少なかった。
(理由→早く修理したので家の経済が良い様だからと云って)
○野菜類が不足であった。
○衣類に寸法の合わないものや,同種の物が多かった。


米崎
昔の津波直後と比較すると,今度の場合,いたれり,つくせりであった。又,稲の救援苗を各方面(和賀,稗貫,上閉伊,下閉伊,東磐井,西磐井の各郡)よりもらった事は大豊作を招いたので感謝している。勿論,農協,農業普及事務所,中高生徒の協力があった事にも感謝している。


小友
○津波直後罹災を受けなかった人達によって炊出しをうけた時本当に有難たかった。
○赤十字の,病気,怪我等の手当の仕方は町医者のやり方と違い,親切で,ていねいでありがたかった。
○罹災をうけなかった人達による,労力奉仕で男は流木などの後仕末,女の人の洗濯などありがたかった。
○救援物資配給方法で床上2mも,1.5mも大体同じように配給したのは当を得ない。
○国からの直接の援助が個人に少なかった°
○大工等で出かせぎしていて,帰って来た人にも配給がなされたとか,なかったとかもんちゃくがあった。
○教員組合としての援助が他と比べるとうすいように感じた。
○職場,組合関係を初め町内近隣各地からの精神的,物質的,労力奉仕的救援については被災者の一人として感謝の外はない。
○最も活動したのは自衛隊である。道路,水堤工事と実に懸命であった。
○警察はただ交通整理位のもので何ら実際的には役立たなかった。
○保健所の活動も実際的にはゼロ,ただマイクでなま水をのまない様よびかけるばかりでした。
以上三日市部落の意見。


高田
○津波直後の後仕末に困っていた時,救援隊の人々が来られた時には,力強く思われました。
○救援についてはただありがたく感謝の外ありません。今後どこかでこの様な災難のあった所がありましたら,この思いを忘れないで私達の出来るだけの救援をしようと思いました。
○1部には不平の声も聞きましたが私としては,良くやっていただいたと有難く思って居ります。
○各団体の方々は一生懸命御協力下さり誠に有がたかったのですが,にぶい一部の方々の愚痴まじりの不平を聞かされ,残念に思われました。例えば家財を流され,尚泥だらけの我家乍ら,我が住家なるが故に,捨てきれずに復旧に努力する我々の前で,くさくていやだ,泥だらけの重労働で土方と同じだとか聞くに堪えない言葉をきき,こんな方々には手伝って頂きたくないと共に,もう少し親切なヤジ馬的な好奇心でなしに協力頂きたかったと思いました。物質的な救援には不足はございません。
○想像以上の救援に只おどろき,今後の救援対策には積極的に協力する事を深く誓う。

第2節 大船渡市の救援活動について

1.津波襲来直後の救援活動についての調べ
1.とりあえずどのような救援がなされましたか。

末崎
○床上20cm位の浸水家屋が一戸だけだったので各種団体の救援活動は見られなかった。地方人は寧ろ大船渡町,赤崎町,陸前高田市に救援に出かけた。
○当日は被害のない人々による炊出し,被害家庭への手伝いなどがなされた。


蛸浦
○清水部落
部落民が一致して病人,負傷者を出さないよう努めた。
○個人で流失した物資を一箇所に集めた。
○各々の部落で特別変った事があった場合,早急に連絡をとった。
○長崎部落
地元には全然被害がなかったので,他の部落の救援作業に従事した。
○地元の危険地帯の人家の物資等の運搬,小船の引揚げ作業を行った。
○蛸浦部落
被害が少なかったので死者,負傷者なく,消防団,契約会の統制により漁業資材の拾集,罹災家庭えの応援,道路補修,取片付作業が行われ婦人会による炊出しもなされた。


大船渡
罹災者を知人,親戚に避難させ,身容のない人には小学校,中学校へ避連先を斡旋した。
○その日の朝食時から非災害地の部落,町の婦人会等が主体となって炊き出しをはじめ,学校,最寄の避先ににぎり飯を運んだ。
○救援に来た人々により,家族の行方不明者を捜索したり,流失物の集拾,家屋の取り壊し,片付作業,負傷者に対する手当を行った。
○衣料配給がなされた。


赤崎
○生形部落
食料,衣類の救援があったが,たいてい親類,縁故にたよった。
○宿部落
市の救援が割合遅かったが,罹災しない部落の人達の炊出しは非常に早くて感謝している。
○跡浜部落
当部落は被害が少なかったが炊出し,諸物資の配給があった。
○佐野部落
各家庭から救援カンパがなされた。隣組の跡片付を行った。
○特に被害の大きかった所へ気仙病院の救援隊が早速駈けつけて傷病者の手当をしてくれた。

2.消団防,婦人会,部落団体などによる救援活動はどのようになされましたか。

末崎
○消防団は情報伝達,漂流物引上げ,道路上の整理。婦人会及び部落員は炊出し,道路上の整理をした。
○消防団,婦人会の一部の人々は,炊出しと細浦地区の防疫,水田の排塩水作業をする。他の人々は大船渡町へ応援に出かけた。


蛸浦
清水部落
○消防団、青少年は外洋,湾内の流失物の収集,老人は陸へ上ったものの始末,婦人,女子青年は衛生,通信の仕事をしたが,働き手が少なく閉口した。
○長崎部落
消防団,部落会,婦人会,青年会と一体となり海上の流失物(主として牡蛎樽)の整理,又災害地中赤崎地区の復旧作業に7日間位応援した。
○蛸浦部落
消防団,契約会,青年会員は主として漁業資材の拾集,道路の取片付など,婦人会は炊出し,罹災家庭えの応援,女子青年は,薬剤撒布などをした。地元の作業が一段落してから中赤崎地区の復旧作業に2日間位応援した。


大船渡
消防団は道路整備,倒壊家屋の取片付,遺体の捜索,汚物処理にあたった。婦人会及び部落などでは衣類の洗濯,炊き出しなどが主であった。
○救援隊はその他近在近郷の人々(遠くは一の関市,江刺市,北上市,水沢市,遠野市,釜石市の消防団員)によって盛んに行われた。


赤崎
生形,宿部落
○消防団の復旧作業が特に目立った。
○学校からの跡片付作業もあった。
〇三陸,釜石の方からまで応援に来てもらったことに感謝している。
跡浜部落
○多角的は援助を受けた。
○学校からの跡片付作業もあった。
佐野部落
○消防団は10〜12日間も公共の仕事に奉仕した。
○婦人会も同様,よごれ物を洗ったり,あとかたずけが主であった。


厚生関係(保全)
○消防の出動
○自衞隊の活動
○各種団体の活動


消防団,自衛隊の活動状況


5月24日
4時37分 天神山サイレンにて急を告げ,団員の出勤を指令す(本部)現場急行の消防車引返し,情報により津波の予想外に大なることを認知す。人命救助に全力をもって当ることを指令。
5時20分 対策本部より指令。
○消防隊は災害救助作業に当るべし。
○現場本部は大船渡小学校とする。急行すべし。
本部位置
○大船渡小学校は作業隊の指揮連絡不便につき,米協前を消防隊本部とする。
○赤崎地区本部は赤崎漁協支所とする。
消防隊対策
○消防隊は人員機材の全力をあげ,災害地の救急作業並びに道路の開通に当る。
出勤人員
1.消防隊
本部職員-3名
団本部-10名
盛分団-103名
大船渡分団-200名
猪川分団-80名
立根分団-60名
日頃市分団-100名
末崎分団-150名
赤崎分団-168名
計-874名
2.応援消防団
住田町消防団-200名
3.一般作業員
女子青年(立根)-11名
盛高校生-10名
計-1,095名
作業区分及び作業内容
1.作業区分
(イ)小学校前ガードより下船渡方面(日頃市分団,末崎分団)
(ロ)ガードより中学校通(猪川分団)
(ハ)中学校より駅前
立根分団(午後より対本指令により赤崎へ
(住田町消防団)
(ニ)駅前より赤崎方面(盛分団)
(ホ)赤崎方面
(赤崎分団,午後より立根分団)
(ヘ)末崎方面(末崎分団)
2.作業内容
(1)人命救助,負傷者救護
(2)死体捜索,運搬
(3)主要道路の開さく
(4)炊出し運搬配合,糧料運搬(女子青年,盛高校生)
出動作業車輛 14輛
死体収容数 45体
18時00分 作業終了
19時00分 作業連絡会議(於大船渡小学校)
(イ)自衛隊280名の作業種別及び配置について
(ロ)消防隊作業区分について
(ハ)他市町村消防団の応援要請について
往田消防団-200名
三陸消防団-100名
(ニ)自衛隊構成
大隊長-小林2佐
副指揮官-片山3佐
付幹部-林1尉


5月25日
区間担当計画
本部中隊-酒井2尉-48名-3区-7輛
1中隊-酒井2尉-45名-3区-7輛
2中隊-佐藤2尉-46名-4区-4輛
3中隊-伴2尉-43名-2区-4輛
上記中隊誘導連絡
伴2尉——近江副分団長
佐藤2尉——金野副分団長
酒井2尉——千葉副分団長


5月25日
8時00分 本部位置を佐々木電気前とし,幕舎を設定,自衛隊指揮所も同所に設定。
8時10分 作業開始
出働人員
(1)消防隊-人員-配置
盛分団-70名-第2区
白頃市分団-133名-第3区
猪川兮団-83名-第4区
立根分団-70名-第3区
末崎分団-92名-第4区
赤崎分団-168名-第1区
大船渡分団-209名-第5区
本部-11名
計-827名
(2)応援消防団
三陸村消防団 210名
内訳 綾里-80名,越喜来-100名,吉浜-30名
内 30名-資材倉庫,60名-赤崎地区,80名-綾里,船取片付,その他-3区
住田町消防団 120名
内 30名-食糧倉庫,25名-電話局,その他-2区
江刺消防団 20名
計 350名
(3)一般作業品
日頃市町-289名-3区
立根町-80名-2区
猪川町-333名-4区
盛町
死体収容数 3体
17時00分 作業終了
18時00分 自衛隊,消防隊合同会議
(於大船渡小学校)
1.本日の経過報告
車輛通過完了地点
同未完了地点の確認
遺体収容状況 3体
同未発見 5体
2.本日特に問題となった事項
3.明日の作業区分
消防隊
自衛隊
応援団体
遺体捜索班の編成
自衛隊浴場設置個所について
建設中隊の参加
レッカー1輛索引車 M5,1輛配置
4.交通輻輳緩和策
一方交通考慮の要あり
作業場中心としては自衛隊警務
その他は警察


5月26日
8時00分 作業隊各担当地区に集合
8時10分 作業開始
出動人員
1.消防隊
本部 9名
盛分団 64名
猪川分団 70名
立根分団 50名
日頃市分団 49名
末崎分団 83名
大船渡分団 150名
赤崎分団 150名
計 635名
2.応援消防団
住田町消防団 128名
内 35名-食糧事務所,外-4区
三陸(吉浜)消防園団-26名-4区
三陸(綾里)消防団-40名-死体捜索
陸前高田(広田)消防団-15名-三陸冷蔵
計 209名
3.一般応援隊
釜石(唐丹)青年会 男10名-水道課作業,女10名
住田青年会-70名 23名-日通倉庫,47名-赤崎米の浦橋
盛高校(女)-10名-接待
広高校-15名-罹災者食配
日頃市町-68名
計 183名
17時00分 作業終了
18時00分 自衛隊,消防隊合同会議
於大船渡学校


5月27日
8時10分 作業隊集合
8時10分 作業開始
出動人員
1.消防隊
消防本部-2名
団本部-6名
盛分団-70名-(2区)
猪川分団-65名-(4区)
立根分団-35名-(4区)
日頃市分団-80名-(3区)
末崎分団-100名-地元作業
大船渡分団-100名-(2.3.4.5.区)
赤崎分団-150名-(1区)
計-608名
2.応援消防団
住田町消防団117名
内 27名-死体捜索(1班),50名-(1区),50名-(2区),50名-(4区)
釜石市(唐丹)消防団-21名-4区
三陸村(吉浜)-20名-死体捜索(2班)
三陸村(吉浜)消防団-28名-3区
計-246名
3.一般応接
唐丹青年会 男-21名-内10名-水道課作業,女-6名
吉浜青年会 男-12名-日通食糧倉庫,女-18名-午前 大船渡農協-午後 4区
広田高校 男-35名-午前2区 レッカー付-午後 4区,男-15名-食糧事務所
計-107名
合計-961名
立根婦人会-30名-洗濯
猪川婦人会-35名-5名農協,20名赤崎,10名経済連
総計-1,126名
作業従事者 自衛隊
区間配置 21台-指揮本部21台,レッカー索引車
消防作業隊区間配置-17台
計-40台
本日の作業状況
(1)幹線路面の拡張
(2)支線通路の開さく
(3)死体捜索
(4)防疫作業(自衛隊により本格的に開始)
尚,罹災者用浴場を笹崎及び茶屋前岸壁に設置。
作業資材
モッコ 100枚-作山より,18枚-佐々木喜一より,10枚-丸哲より
計-128枚
スコップ 15丁-本部より,120丁-自衛隊より,12丁-橋爪より
計-147丁
十字鍬 5丁-橋爪より
17時00分 作業終了
18時00分 自衛隊,消防隊合同会議
於大船渡小学校
自衛隊報告
特殊車 15回出勧


5月28日
11時00分 自衛隊,消防隊合同会議
於本部会議室
1.明日の人員配置 本日同様
2.明日の車輛要請 14輛
3.一般協力(男)要請 500名


5月29日
8時00分 作業隊集合
8時10分 作業開始
出動人員
1.消防隊
本部-7名
盛分団-52名-2区
猪川分団-30名-4区
立根分団-25名-死体捜索
日頃市分団-58名-3区
末崎分団-67名-4区
(内水道補修37名)
大船渡分団-30名-(2.3.4.5区)
赤崎分団-168名-1区
計-487名
2.応援消防団
3.一般応援団
盛町-18名-2区
猪川町-153名-4区
立根町-86名-4区
日頃市町-116名-3区
末崎町-30名-4区
綾里青年会-130名-4区
(27名-電話局)
猪川青年会-11名
計-706名
14時30分 雨天の為作業中止,水道補修工事は続行。
15時30分 自衞隊,消防隊合同会議
於大船渡小学校
○警察より本日まで交通事故皆無の旨報告あり。
○交通援和と作業能率を高めるために一方交通,方法について。
○自衛隊警務,警察,大船渡分団と協議。区間,方法を決定する。


5月30日
8時00分 作業隊集合
8時10分 作業開始
出動人員
1.消防隊
本部-7名
盛分団-27名-2区
猪川分団-30名-4区
立根分団-25名-死体捜索
日頃市分団-49名-3区
末崎分団-64名-4区
(内14名水道修理)
大船渡分団-30名-(2.3.4.5区)
赤崎分団-168名-1区
計-400名
2.応援消防団
3.一般応援隊
盛町-20名(女)-2区
猪川町-80名-4区
立根町-70名-4区
日頃市町-68名(男36名k,女32名)-3区
末崎町-35名-4区
下船渡婦人会-18名-電話局
明土,田中婦人会-13名-2区
猪川婦人会-11名-1部屯所清掃
地の森婦人会-5名-2区
末崎青年会-35名(男20名,女15名)-2区
赤崎町-348名-1区
計-703名
作業車輛数-15輛
17時00分 作業終了
17時30分 自衛隊,消防隊合同会議
自衞隊レッカー使用 32件
建設中隊 水道補修工事 作業完了
電話使用回数 470回(自衛隊架設)
赤崎地区への給水量 40屯(自衛隊)


5月31日
8時00分 作業隊集合
8時10分 作業開始
作業人員
1.消防隊
本部-8名
盛分団-47名-2区
猪川分団-25名-2区
立根分団-20名
(内18名 死体捜索)
日頃市分団-55名-3区
末崎分団-63名-4区(内 10名 水道課作業)
大船渡分団-13名-4区
赤崎分団-168名-1区
計-399名
2.一般応援
立根町-9名-4区
猪川町-25名-2区
猪川町-35名-臨時住宅地麦刈
立根町-22名-4区
立根町-26名-2区
日頃市町-6名-3区
浦浜青年会-15名-2区
末崎婦人会-95名-4区
下船渡婦人会-26名-(14名-電話局 12名-警察庁舎清掃)
宮の前婦人会-28名-4区
立根婦人会-27名-4区
越喜来分高(男)-24名-3区
越喜来分校(女)-50名-1区
越喜来婦人会-40名-1区
唐丹青年会-34名-2区
計-462名
作業車輛数-14輛
12時00分 自衛隊帰隊準備
レッカー,索引車,指揮所を残し帰隊準備の為午後盛へ。
盛分団,ポンプ3台にて車輛水洗作業。

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障害排除作業隊出動状況
3.一般の協力,援助はどのようになされましたか。

蛸浦
清水部落
○被害のない人々も10軒位も救援と復旧作業に従事してくれた。
長崎部落
○無被害部落のため,一戸より四人位出役した家もある。
○誰人も不満なく自発な協力であつたと思う。
蛸浦部落
不慮の火害であり,無被害者も被害者の気持になり救援,復旧作業に協力を惜まなかった。


大船渡
○罹災者に対して自宅を開放していろいろと世話をしてくれたり,炊出しやら,家屋,家財の整理に手伝っていただいた。
○早朝から農山村の人々が親類,縁故,知人等の片ずけ方を手伝った。
○バス不通のため,どんな車にでも人が頼めば便乗出来たことは大変よかった。
○全国各地からの救援物資は非常に多く,復興に立ち上る気持を湧かせてくれた。
○カトリック教会で全国,いな世界各国よりぞくぞく集められた救援物資,見舞金が莫大なものであったようだ。神父さんの愛情で罹災者住宅に共同浴場の建設が計画され,現在着手に当っていることを知って,罹災の中にうけたいろいろな活動の中でも心温まるものであり感激している。


赤崎
生形部落
○物質的援助が大きかった。
宿部落
○殆んど全滅に近かく手のほどこしようがない仕末で,一般の人々の労力奉仕は後になっていくらかなされた。
跡浜部落
○セメント会社の人達が手伝に来て下さった。
佐野部落
○罹災の範囲が広かったので,それぞれ親類先などで復旧,整理作業などを手伝った様である。

4.市当局(対策本部)の救助はどのようになされましたか。

末崎
○給水に来るも細浦としては飲料水に事欠かないので遠慮したので,翌日より来なかった。
○救援物資として衣類の救援あり。


蛸浦
清水部落
○浸水家屋の人々に応援のものを持って来たり,自動車で慰問があった。
○復旧に関する話があった。
長崎部落
○救援物資の配給があった。
○無被害地区であるので被害状況調べの事務作業をしたり,応援隊の要請や作業車の配置などがなされた。
蛸浦部落
○罹災家庭に対する見舞必需品の配布を行う。


大船渡
被災直後は炊出しの配給。その後は救援物資の配給,仮設住宅の建設,補修資材の斡旋などよくやったと思う。
○津波当日早速に援護の手がさしのべられるようだったらもっとよかったと思う。寝るのにも困った人があった。
○市の中心である大船渡町の食糧営団の倉庫が全然被害がなく,食糧の配給対策が順調に行われたことは良かった。


赤崎
生形部落
○食糧や飲料水の世話など計画的にやったと思う。
宿部落
○連絡の不十分なところ実によくやったと思う。
跡浜部落
○全般的によくなされた。
○市の対策本部は,被災者の調査,救援対策,後片付作業,その他の連絡等に当ったのであるが,何せ電話,バスが不通の上に電灯がつかなかったのでその活動は相当困難が伴った様である。

5.その他警察,保健所,自衛隊などの救助活動はどのようになされましたか。

末崎
保健所,自衛隊は地区の防疫に万全をつくした。


蛸浦
清水部落
○消毒作業を3回程してくれたのはありがたかった。
長崎部落
○消毒班の作業は大変よかったと思う。
蛸浦部落
○消毒作業とか,井戸水の汲替作業には感謝している。


大船渡
警察は人心の安全,犯罪の防止,交通整理などをしてくれた。
○保健所は伝染病の予防をした。
○自衛隊は道路上の倒壊家屋などの整理。
○流失物に対する警察の監視が充分であったとは言えない。
○罹災地の死体収容,その他の確認がすみやかに速報され,家族の生死安否が把握出来た。
○自衛隊の防疫班は街道は勿論,家の中まで薬剤撒布,飲料水の補給と,防疫にあたったことはありがたかった。
赤崎
警察,消防団は交通の整理,通達連絡をした。
○保健所を主体として防疫作業に従事した。
○陸上自衛隊は高校生,消防団等の応援を得て一般の消毒剤撒布に力をいれた。
○自衛隊は飲料水の配給を戸毎に行ってくれた。


大船渡
警察署のとった措置
○5月24日3時55分頃管下高田警部派出所に対し,部落民から電話で「甚しく潮が引いており,津波のおそれがある」との知らせをうけたが,同派出所から海岸までは約1,000m位距離があるので確認するいとまもなく本署に急報した。
○同時刻頃前記のとおり,隣接釜石警察署唐丹巡査駐在所からも同様の連絡をうけたので,所轄大船渡警察署長は2つの情報からして津波のおそれが十分あるものと判断し,同日4時5分パトロールカー大船渡移動を市内大船渡町港警部補派出所に急派し,避難警告広報を実施させるとともに,各沿岸受持に対し状況調査の上避難警告するよう指示した。
大船渡警察署の状況
前記のとおり5月24日4時5分パトロールカー大船渡移動を市内大船渡町港警部補派出所に急派するとともに,沿岸各受持に避難警告措置をとるよう指示したのであるが,管内の避難誘導活動の状況は次のとうりである。
1.市内大船渡町に急行したパトロールカー大船渡移動は,同日4時15分から同25分までパトロールカーの拡声器及びサイレンを吹鳴し,危険地域住民に対し大船渡警察署長名をもって避難警告を実施したが同日4時30分前後津波接近を認め退避しようとしたが避難民の雜踏のため意の如くならず,辛じて比較的高い大船渡駅に退避したが,海水がボンネット部位(約1m位)に達したため,同4時30分通信機能が障害となり通話不能となった。
2.同日4時15分頃から市内港警部補派出所佐藤巡査部長以下2名は所轄警察所長名をもって避難警告を発し,大船渡町須崎,茶屋前地区住民約450を人猪頭方面の高台に誘導したが,その際避難に遅れた茶屋前地区住民約100人位を港派出所2階及び附近民家の屋根に誘導。
3.同時刻頃港派出所第4区受持菅原巡査は,所轄警察署名で避難命令を発し,同町砂子前住民約200人を鉄道線路及び高台に誘導。
4.同時刻頃末崎町受特小岩巡査は,末崎消防団と連絡して避難命令を出し同団員と協力し,細浦地区住民約300人を山手方面に誘導。
5.同時刻頃市内赤崎町受持佐々木巡査は,同町消防団と協力し,同町生形,山口地区住民約300人を館の高台に誘導。
6.同時刻頃高田警部派出所長,矢崎警部以下3名は,最も危険な陸前高田市高田町松原地区電話架設者3名に津波警戒方を連絡し,引続き備付ジープのサイレンを吹鳴して避難命令を発し,長砂地区住民約800人位を八坂神社裏の高台に誘導したが,津波によって自動車の運行ができなかったので,その高台にジープを乗り捨てその後徒歩で危険地区住民を高田高校の裏山に誘導。
○長砂地区は警察官の避難命令による。
○松原地区は消防団と警察官の打合せにより避難命令を出した。
7.同時刻頃同市気仙町受持山崎巡査は,同町消防団と協力し,地区住民約350人を元役場後方高台に誘導。
8.同時刻頃同市米崎町受持土岐巡査は,同町脇の沢地区住民に避難命令を出し約350人を米崎駅裏高台に誘導。
9.同時刻頃広田町受持金野巡査は,同町消防団と協力し,泊地区住民約300人を田端神社の高台に誘導。
10.同時刻頃同市小友町受持鈴木巡査は,同町消防団と協力し,三日市地区住民約200人を鉄道線路に誘導。
11.気仙郡三陸村綾里受持門馬巡査は地元消防団と協力し,港下地区住民約300人を綾里中学校に誘導。
する等各地において津波襲来直前まで警察官独自の判断により,あるいは消防機関と協力の上,家族を省みるいとまもなく身を挺して住民に対する避難警告措置を積極的に講じた。
5月24日被害発生直後は自署員の全力をあげて警備活動に入ったが,県機動隊員等逐次応援部隊が到着し,同日の警備警官の数は,
所轄大船渡署員 57名
応援警察官等 119名
計 176名
となり,以来6月8日現在延2,121名の警察官等が不眠不休の活動を続けた。以下は主たる活動状況
1.警報,避難誘導活動
2.交通規則取締活動
3.行方不明者の捜索活動
4.広報活動
5.警備情報活動
6.捜査,鑑識活動
7.防犯活動
8.困りごと相談所の設置
9.被害者の財産保全活動(お手伝い活動)

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警察官出動状況
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刑法犯発生検挙状況
6.防疫活動一括表

伝染病発生内訳
大船渡町 7名
疑似症 4名
真症 3名
赤崎町 6名
保菌者 2名
疑似症 3名
真症 1名
計 13名
5月24〜6月6日


防疫活動
市町村力と動員態勢
1)市の機構は保健課に衛生係は3名,保健課員の応援15名出動。その他盛高等学校生,消防団員1日平均50名の応援を受けた。
2)自衛隊青森第9衛生中隊野毛三等陸尉以下30名及び東京三宿駐屯部隊第301予防衛生中隊安保一等陸尉以下20名。
大船渡保健課所員10名の応援を得た。
昆虫駆除の地域指定と代執行
災害後直ちに法16の2による浸水地域の昆虫駆除の指定を受け5月31日から6月3日まで実施。
防疫計画
1)検病調査班-5月25日〜6月4日-3ケ班
2)消毒班-5月25日〜5月27日-10ケ班,5月28日〜5月30日-3ケ班
第9衛生中隊-5月26日〜5月29日-4ケ班
第01予防衛生中隊-6月5日-3ケ班
3)昆虫駆除-5月31日〜6月3日-3ケ班
第9衛生中隊-5月30日〜5月31日
第301予防衛生中隊-6月4日-3ケ班


屎尿処理
清掃車屎尿処理状況
水沢市役所-1台-5月27日〜6月1日
2人-市職員-1人
水沢文化清掃社-1台-5月27日〜6月1日
2人-1人
一の関日清社-1台-5月28日〜5月31日
2人
盛岡文化衛生社-3台-5月29日〜6月1日午前
5人-1人
大船渡清掃社-2台-5月24日〜6月7日
4人-16人-3人
災害時屎尿汲取実績調査表
盛岡文化清掃社-5月29日〜6月1日(3日半日)
47台×30石=1,410石
水沢市役所-5月27日〜6月1日(6日問)
39台×10石=390石
水沢文化清掃社-5月27日〜6月1日(6日間)
49台×10石=490石
一の関日清社-5月28日〜31日(4日間)
26台×10石=260石
大船渡清掃社(新車)5月24日〜6月2日(8日間)
66台×10石=660石
大船渡清掃車(旧車)5月25日〜6月6日(8日間)
76台×10石=760石


応急仮所便所
5月26日 自衛隊その他災害整理団体により道路の運行可能となるや,作業員その他一般民のため応急仮所便所を設けたり,仮設には現設の便槽を利用し,災害倒壊残材を利用,設置費用は鎹引手等260円を要した。仮設建築には,県職業補導所 補導生 13名による応援を受けた。
設置場所 大船渡-港町-清水旅館前
熊谷 助作 便所利用
大船渡-須崎町-大協石油裏
熊谷長治郎工場 便所利用
大船渡-須崎町-港マーケット
平山勘之助 便所利用
大船渡-南町マーケット-中央マーケット
便所利用
大船渡-茶や前-大塚履物店
便所利用


予防衛生保安中隊防疫作業 6月4日〜5日まで
6月4日
隊長車-1台-2名
動力ジープ-2台-6名
連絡車-1台-1名
○石灰,ダイヤジノン撒布
6月5日
永浜
1班スプレー-3台-2名
ジープ-1台-1名
生形 2班 スプレー-5台-5名
ジープ-2台-2名
佐野 3班 スプレー-2台-2名
ジープ-1台-1名
連絡用ジープ-1台-1名
トレラー-1台-1名
○ミケゾール撒布


防疫活動
薬品及び器材


手入方法
1.石灰は市内農協より入手,その他の薬品類は市内の薬店より購入,不足分については盛岡,北上市及び気仙沼の薬局よりすみやかに入手輸送(自動車輸送)
2.撒布機については市内の農協より7台,各農協単位組含員より噴霧機20台を借用,新規購入は7台(撒布(粉)機1台ミストフアン3ケ,肩掛2ケ)


医療機関の活動(1)
津波災害救助従事者調


医療機関の活動(2)


給水
使用水及び給水班の状況
1日3回(3.6頃)自発的に気仙酒造会社2台,24〜31日大船渡,赤崎
1日2回(3頃)自発的に新沼新平1台,26〜31日大船渡,赤崎市役所トラック1台,6月2日 赤崎地区
以上時問給水
自衛隊-赤崎町生形-浄化槽-2機(井戸より)
トレラー2台-26日早朝-31日徴収
大船渡町田中-浄化槽-1機(須崎川より)
トレラー2台-28日早朝-31日徴収
大船渡市上水道の川口橋本管230米流出,又消化栓数ケ所破損のため応急修理す。
赤崎地区を除き貯水量不足のため時間給水により供給す,又給水車3台,自衛隊濾水器赤崎地区に2台,大船渡地区1台,浄水給水す,赤崎地区は川口橋本管流失のため,小野田セメント工業用水後の入川の流水を6月2日まで供給各戸にパイプライトを配布消毒し,飲料水として供給。
給水期日 5月24日〜6月2日まで
給水所要見込数 1日 16.8屯


人命


赤崎小学校を除き,各避難所は市の上水道水を供給。
赤崎小学校は給水車により6月20日まで供給,以後市の水道車を使用した。

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防疫作業状況
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災害時発生伝染病患者
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日別防疫実施計画表
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災害地検便実施一覧表
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災害時尿汲取固数調
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撒布器の備用及び購入数量調査
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災害薬品使用状況
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津波災害救助従事者調 県立気仙病院 救護班 (盛町開業医4名を含む)
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津波災害救助従事者調 日赤救護班
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津波災害救助従事者調 日本共産党医療班
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津波災害救助従事者調 N.H.K医療班
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自衛隊治療班
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井戸の消毒箇所教
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上水道施設
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集団避難所の状況
(7)救援状況

救援物資は各方面,各地域から毎日のように送られ,被害市町村当局ではこれが配分に大童の態であるが,県災害救助隊本部において応急的に配分した衣料,寝具及び生活必需品の配分状況は次のとおりである。


救援物資,義捐金
津波の罹災者に対しては,全国各地はもとより,海外の同胞から暖かい同情の手がさしのべられ,7月31日現在で実に17,751,489円にのぼる義捐金と衣類15,000簡の救援物資が寄せられた。救援物資はその都度罹災者に送りとどけられたが,義捐金はいったん市の会計課でプールしたのち,全壊,流失,半壊,床上浸水,床下浸水の各被害程度によって次のような基準で配分した。7,500名の罹災者はこれらの暖かい支援に力づけられ,一層復興に立ちあがることができた。

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衣料,寝具及び生活必需品の配分状況
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災害救助法被服日用品配分表
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義捐金の配分基準 注 第一回の配分では床下浸水に対しては世帯割は配分しない。
(8)金融関係

中高層耐火建築資金の借入希望状況
建築希望者 41名
坪数 4,266坪
建築費 241,029,000円
融資希望額 180,771,000円
上記のうち防火地帯内
建築希望者 16名
坪数約 2,600坪
建築費 241,029,000円
融資希望額 180,771,000円
上記のうち防火地帯内
建築希望者 16名
坪数約 2,600坪
建築費 146,900,000円

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災害復興住宅資金(住宅金融公庫)8月6日
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商工中金の申込と貸付状況(単位千円)
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1万円生業資金(大船渡信用組含)
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農林漁業関係融資状況
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中小企業金融公庫の申込と貸付状況(単位千円)
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国民金融公庫の申込と貸付状況(単位千円)
(9)津波直後の救援活動についてどのように感じておりますか。

末崎
○津波の被害軽微にすんだが各方面よりの応援,救援には感謝しています。


蛸浦
○救援を受けている人はないのでよく判らないが,衣類流失者でないのに救援物資を受けている人もあるとの話もきく,被害者は良心的であり,配分担当者は公平な考えを持つべきと思う。
○立派な救援活動であると思います。
○交通遮断によりいくらか救援活動にひびいたと思います。


大船渡
一般,各種団体の奉仕的な活動については申すまでもなく感謝の気持でいっぱいですし,更に遠隔の地よりの救援物資,心にしみて有難く思った。将来他地方のこのように罹災があった場合は卒先救援することが大事だと思った。
○もっとよく現場を調べるべきだ。損害の査定等に不公平な感じを持った。
○罹災者の生活維持の基盤であるところの住居,食糧の補給,衣料品の給与が切実に早急対策がなされなければならないものであったが罹災者の現場をしのぐだけの対策が早急になされたことは認められた。
○保健所の負傷者の処置手当,防疫対策も積極的であり一般団体の協力を得て十分であったが,伝染病患者の若干発生を見たことは残念であった。一層の対策強化がのぞまれる。
○消防団,婦人会の様に活動的な大きな機動力が特に必要な災害地では,常に市民の復興の原動力となった。
○僅か一週間で交通可能な状態にしてくれた自衛隊のすばらしい統率力と機動力には驚いた。市民一同改めて自衛隊の真の姿を見なおした。
○外部の種々の救援隊を受身するだけでなく心の底から個人個人が建設的な考えを持つことこそ大切であると思う。


赤崎
○災害のなかった人達は救援活動に無関心であるように感じられた。
○本当に困っている人とたいして被害を受けなかった人との区別をもう少しはっきりと調べてほしいと思う。
○大船渡よりも全て後まわしになされているように思われる。

第3節 チリ地震津波による災害対策に関する陳情

5月24日早朝本州太平洋沿岸を襲ったチリ地震津波により,本県三陸沿岸各地は,一瞬にして交通,通信ともに杜絶する惨状を呈したのであります。
このため,県下における被害は,土木施設,農林業施設及び漁業施設並びに家屋等に対し,総額9,803,187万円に達する損害を生じ,また人命においても死者55名,行方不明6名並びに重軽傷者307名,罹災世帯6,832世帯,罹災者総数35,279人を数えるに至りました。
今回の災害に際しては,県は直ちに陸上自衛隊の出動を要請し,又米軍三沢基地軍用機及び航空自衛隊機による食糧の投下を依頼する等,なし得る限りの対策を講じ応急復旧に全力を傾注しつつありますが県並びに市町村の力をもってしては,急速なる復旧は困難なる事情にありますので,政府並びに国会御当局の強力なる御施策御援助を仰ぐほか途なき次第であります。
つきましては,今次災害の惨状を御賢察の上,別記陳情事項に対し,適切なる御措置を賜わり一日も速かに復旧できますように御高配を賜わりたく,茲に資料相添え陳情申し上げる次第であります。


陳情事項
応急対策
I 立法措置を要する事項
(A)伊勢湾台風措置に準ずるもの
災害対策費に関する下記事項についての国庫負担金及び資金の融通措置を伊勢湾台風の特別措置に準じ特別措置法の制定を図られたい。


厚生関係
1.災害救助費,母子福祉資金の貸付費,社会福祉事業施設の災害復旧費
2.福祉年金の特別支給
3.災害地における公衆衛生の保持等の費用


農林水産関係
4.漁港共同利用及び養殖施設の復旧費
5.農地,農業施設の復旧事業
6.塩害除去費


通産関係
7.中小企業者の事業協同組含等の共同施設の復旧費
8.中小企業者に対する資金融通


建設関係
9.土木施設復旧事業
10.災害公営住宅建設事業


労働関係
11.災害地における失業対策事業及び失業保険


文部関係
12.学校教育,社会教育施設(実習船等の産業教育施設設備及び給食設備を含む。)の復旧費


その他
13.市町村職員共済組含員の見舞金


(B)その他の特別立法措置を要するもの
上記の伊勢湾台風の措置に準ずる特別措置法が制定されても,今次災害の実状にかんがみ,なお下記事項については充分の災害復旧対策が至難であるので特別法の制定を図られたい。


水産関係
1.水産施設中養殖資材,種苗,魚具,10トン未満の漁船及び小規模非共同利用施設の復旧費に対して,伊勢湾台風の特別措置による共同利用施設及び養殖施設の復旧費に対すると同様の国庫補助をせられたい。
2.上記以外の漁船及び非共同利用施設の復旧費に対しては,従前の例による天災法に基づく政令の限度額が寡少であるので,これを大巾に引上げる措置をとられたい。


通産関係
3.被災商工鉱業者に対し,「天災による被害農林漁業者等に対する資金の融通に関する暫定措置法」に凖ずる立法措置を講じ,速かなる復旧を図るよう措置せられたい。


その他
4.災害関連事業並びに小災害復旧事業費について国庫補助の範囲を拡大せられたい。


II 予算措置を要する事項
今次災害の激甚なるにかんがみ,下記事項に関する国庫補助の措置及び資金の融通措置を講ぜられたい。


厚生関係
1.保育所児童福祉施設の措置児童の徴収金を減免し措置費の国庫負担金の増額及び被災地域の臨時保育所の設計運営費に対する国庫補助並びに低所得階層に対する世帯厚生資金の国庫補助の増額
2.災害地域における清掃のための応急作業経費に対する国庫補助


農林水産関係
3.国有林野事業の繰上施行及び匡救土木事業の実施
4.再生産に必要な苗,肥料,薬剤,農機具,蚕種,家畜,家禽等の購入費,永年作物の樹勢快復,土壤改良に要する経費及びこれら資材等の輸送費に対する国庫補助
5.天災法による経営資金の融資
6.自作農維持創設資金の融資枠の拡大


通産関係
7.中小企業信用保険公庫の資金枠拡大による信用保証協会の保証能力の拡充と保証料の引下げ
8.被災中小企業者に対する中小企業振興資金につき,資金の増額による別枠の設定,貸付率二分の一を三分の二に引上げ,適用業種の条件縁和


建設関係
9.災害公営住宅の建設に当り木造のみならず中層耐火又は簡易耐火構造の住宅建築費に対する国庫補助
10.公営住宅の災害補修費に対する国庫補助


文部関係
11.罹災者の子弟に対し,育英資金の応急貸与及び給食費の国庫補助


税財政関係
12.国税の大巾減税
13.地方交付税の繰上交付並びに災害復旧費,災害応急費の増大に対する特別交付税の大巾考慮
14.災害復旧事業費及び応急工事費の地方負担額に対する全額起債の配分
15.借替債の許可
16.被害地の税○減収等に対する財源補てん


その他
17.港湾,道路,河川その他公共用地域内の沈船その他障害物除却費高率国庫補助


III 政府の方針決定を要する事項
被災地の速かなる復旧を期するため,下記事項について特別の措置を講ぜられたい。


厚生関係
1.生活保護法に基く被保護世帯に対する一時赴助費の増額
2.災害救助法に基く避難所の開設及び炊出し等救助期間の延長並びに応急救助の炊出し等の食品給与費単価の増額


農林関係
3.国有林より災害復旧用木材等の特別払下げ


金融関係
4.農林漁業資金の償還金支払期限の延長及び利子の減免
5.農林漁業金融公庫,国民金融公庫,中小企業金融公庫,商工組含中央金庫の被災者に対する資金枠の増大と貸付条件の緩和,貸付利率の引下げ
6.北海道,東北開発公庫資金を被災工場の復旧費に対し融通を図るとともに,既に融資を受けているものの償還金の支払期限の延長


恒久対策


海岸保全
1.海岸保全事業については,津波対策事業として本格的に且つ全面的に全額国庫負担で短期間に完壁な保全を図るよう配慮されたい。


建設関係
2.防災都市化の促進について
被災都市の防災建築帯補助及び住宅金融公庫の中高層,耐火建築物融資制度の活用により,防災都市化の促進を図られたい。


水産関係
3.沿岸漁業振興事業の拡充実施の強化について
貝藻類の被害が甚大であるにかんがみ,長期に亘って被災漁民の生活安定を図るため高率国庫補助による漁業振興事業を速かに実施できるよう措置を講ぜられたい。
4.漁港修築事業の促進について
漁港関係事業費国庫予算を大巾に増額し,漁船の保全策に万全を期することのできるよう漁港修築事業の促進を図られたい。
5.漁業共済制度の強化について
現在は漁業者の相互共済制度であるが,政府再保険制度を確立するとともに漁業共済掛金の低減と加入条件の緩和を図り急速に加入の普及徹底を促進できるよう措置を講ぜられたい。


市町村別内訳
1.一般被害
2.土木関係被害
3.耕地関係等被害
4.農作物関係被害
5.林業関係被害
6.水産関係等被害
7.畜産関係被害
8.商工鉱関係被害
9.教育関係被害
10.公用及び公共施設
11.公営企業等関係施設被害

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被害総額表
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(1)建物の被害
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(2)人の被害
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2.土木関係被害
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3.耕地関係等被害
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(1)主要農作物
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(2)主要得作物
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5.林業関係被害
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6.水産関係等被害
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7.畜産関係被害
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8.商工鉱関係被害
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9.教育関係被害
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10.公用及び公共施設
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11.公営企業等関係施設被害

第5章 今後の対策と問題点

第1節 陸前高田市

1.現在の救援対策や,災害対策についての調べ
(1)現在さらに救援対策としてどの様な事がなされていますか

広田
○今はなされていない。


気仙
○市から衣料品や食料品が多く配給されたが,家庭用品の現物支給が望ましかった。


小友
○住宅資金の貸付け等であまり床上浸水者には恩恵がない。
○食糧,衣類,夜具等わずかながら人数割によって配給された。
○市内財産区所有地区より,募金による見舞金が被害の程度により配布された。
○1世帯八畳のバラック12世帯分,建築,入居。
○住宅資金として,住宅金融公庫より貸付けされた。


高田
○日用品,食料品,医療品,衣類,夜具の配給。お金。
○津波を受けた家とか,母子家庭の人々を松原の清掃に使っています。
○罹災者急造住宅の建設。
○住宅木材の入手,漁船材料の入手。
○住宅建設資金と活動されている。
○現在尚見舞品,見舞金を預き,土地,家屋,家財,商品等の被害調査がされましたからやがて何等かの形で解答が来ると思う。所属団体或は金融機関からの貸付等。
○住宅資金の貸付。

(2)今後の救援対策や災害対策としてどんな事がなされようとしていますか

広田
○今のところ不明です。


長部
○漁業組合として
共同利用施設をつくり地区漁民の利用に供し早期復興を行いたい。
○災害復旧資金を貸付けるようにしたい。


気仙
○国や地方機関に推進している。
○いままでは堤防が海岸の一部にしかなかったが今後は,全海岸線に堤防がほしい。


小友
○公共的な仕事,工事は計画性を持ってなされようとしているが,個々の家庭の事はあまり考えられていない。


高田
○災害対策としては松原に永久的な防波堤の築工,救援対策としては果樹裁培に国家補償がないので市役所が主体となって県へ災害補償の陳情を行っている。


高田
○電信電話関係
基本的復旧は通信の即時性の要求から,一応通話に支障のない程度の復旧であってこれはあくまでも恒久的は復旧ではない。本格的な工事は郵政省直轄によるものではなく,日本電信電話公社(東京),東北電機通信局(仙台),岩手電機通信部(盛岡)以外の請負会社によって本格的な工事が行われる。
○復旧にあたって困難と思われたことは応急復旧にあたっての資材の不足という事である。しかし,今度の津波の場合一地区にとどまる被害ではなく,全国的な被害であった関係から,日本電信電話公社,東北電機通信部,岩手電機通信部いずれの在庫を出してもなお不足という現状であったことは確かであった様です。

(3)現在及で今後の救援対策や災害対策に望みたいことはどんな事ですか

広田
○今回は浸水で終ったが,現在の所に居住していたのではいう又襲われるか解らないので低利資金,住宅資金等の融資を得てなるべく安全な場所に家をたてたい。


長部
○国家として復旧のため全面的な補助を望む,しかし一般の救援の如く敏速に行われたい。
○各戸で所持品には印を付けるようにしてほしい。
○あやしいと思ったら警報を出せるようなしくみがほしい。
○一つでよいのだが即時通信出来る様にしていただきたい。


気仙
○堤防を80cm高くしておく。広田湾の形,気仙川の流れから見て,南岸はぜひとも必要である。
○堤防路面ならびに裏がわをコンクリートで固める。川を超えた水は裏がわを流れ落ちながらけずっていって欠壊される。
○防波堤を高くするのは,漁港対策としても一般人が望んでいる。
○高台に土地を世話してもらいたい。
○県知事など関係者は早急に災害地を巡視して適切な処置を構じてもらいたい。国,県でやることは手ぬるい。
○コンクリートの壁を作りたい。塀がたおれても家の中は被害が少なくすんだから。
○庭木を沢山植えたい。外から来る流木をくいとめてくれた。
○家の土台をぎんみしてほしい。ボルトでしめるなどいろいろ考えてみる。
○バラ線をはっておいたところが,それにひっかかって家の内の物が流されずにすんだ。
○庭の中にひばの大木(登りやすく,枝の出ているので倒れにくい)などがあると,登って助かることができる。現に助かった人があった。
○水でぬれて使用困難のとき,プロパンガスで大いに助かった。
○救援物資のなかに,ぜひ炭,マッチ,やかん,なべ,ちゃわん,はし,ほうらよう,バケツを入れてほしい。
○水の救援を大切にしてほしい。
○道路をぜひ高台にも作ってほしい。
○気仙川の川底をさらって深くする(堤防を高くするよりよいと思う)。台風による出水のことも考えて対策を考えるべきだ。
○川口の堤防を松原地内まで高くのばしておくことが必要と思う。
○戸をしめておった家の方があとがたずけが早く出来た。
○国費で無理ならば,向う10年間を,免税にすれば我々の力で堤防を築いてもよい。


米崎
○救援対策より,災害対策を望む。
○法が出ても,行動が出来ていないので行動を望む。
○農業関係の災害査定はあるが,漁業関係の災害査定がないので早急にしてもらいたい。
○一般家庭の罹災者は手続上の事がわからないので何処から融資したらよいかわからないので速急を要す。
○海岸地帯の住宅施設の安全地帯の設定をしてもらいたい。
○激震地の拡張陳情してもらいたい。
○果樹災害対策がないので至急災害対策をやってもらいたい。


小友
○護岸工事,住宅を災害を受けない所に移動してもらいたい。
○無条件で国家の万全な保障をしてもらいたい。
社会保障の完全な実施を希望する。


高田
○災害調査の確実なる調査,甚だ不均等であった。
○公平なる配給を望む,同じ被害者でも多くは無の配給であった。
○市当局の調査及び事務関係に誠実なる活動を願う。調査及び事務関係を早急に訂正する様。


高田
○配給物の時にはあまり時間のかからぬ様望みます。(津波直後には人手の無い所では直接に感じた)
○被害調査は不公平だった。もう少し調査をしっかりしてもらいたい。
○気仙川口,米崎町,沼田間2kmの防波堤,建設に早期実現する様。
○災害直後の対策について今回は各個人の意に依って流失物を集める手段に任せた感じであるが,対策本部は,今回のような放任主義は,徒に人心を悪化し悪道を教える様なものであってとるべき手段ではないと思う。即時人員を動員して一括集荷して,対策本部に於て各所有者に返還する様処置すべきであったと思う。
○消防団体並に部落団体等の救援についても対策本部の手中に置いて一括指揮し得る様な手段がなければ方策に手落が出来るのではないか。
○被害調査はもっと厳正に行はれ各人の真相を知って,罹災者の公正な認定を下すべきであって流失,全壊,半流失,半壊等の等級について,一通り見て廻って家屋の状態で決定した等は其の後の対策の支障をきたしたと思う。全壊というても,家財,家具,夜具等の大部分を所有して居った者もあり,半壊者の中にも,家具も夜具もないものもいる。その場合の救援物資は如何に配分されるべきかは明らかにして解るはずである。その調査の行われていないのは今回の対策の大欠陥であったと思う。そうした点のない様今後の対策について望みたい。
○新聞,その他で多くいわれた事ですが,警報は早く出してもらいたい。夜半にあんなことでは人命がもっと失はれる事と思う。当局にお願いしたい,

第2節 大船渡市

2.現在の救援対策や災害対策についての調べ
(1)現在さらに救援対策としてどのようなことがなされていますか

蛸浦
○漁業施設を復旧するのに即急に購入することの出来ない資材は互に同業者間で融通し合って同業者全員が利用する方法を講じている。
○被害が少なかったので全般的に言ってあまり救援対策がなされていない。


大船渡
金融機関の資金の融資(再生,生業,住宅,営業,一時貸付金等の資金)。
○衣,食については,全壊,流失,半壊の大部分は,親戚,知人からもらった者が多く,次は救援物資の恩恵をうけている。ただ床上浸水の罹災者の中には,浸水の物資を消毒したり洗ったりして間に合わせた者もあった。
○住については表のとうり
本調査は町内に現在居住する者の調査である
で災害後他町村に転居した戸数は含まない。


赤崎
○税金免除がなされている。
○山口部落に5坪の仮設住宅30戸が建てられている。
○復旧資材の斡施とか金融についての世話,或いは失業対策事業などがなされている


災害罹災者に対する住宅資金の貸付について
住宅金融公庫仙台支局
今回の災害で罹災された方に次の方法で住宅資金をお貸付いたします。借入申込は罹災市町村役場にお申出下さい。


1.災害復興住宅資金
補修の場合で,移転整地をあわせ行う場合でも,貸付金は五万円までです。
貸付る受けることの出来る方
1.損害をうけた建物の所有者,賃借人,又は居住者。(損害については県の災害認定をうけるととが必要です)
2.償還元利金月額(2,000円〜3,000円の6倍以上の月収のある方)
3.確実な連帯保証人のある方


2.災害特別貸付
一般個人住宅建設資金の貸付と同様の資格条件で次のとおりお貸付します。
貸付をうけることのできる方
1.災害をうけて自分の住む家を新築する方
2.住宅部分が約9坪以上約30坪未満の住宅
3.償還元利金月額の6倍以上の収入のある方
4.確実な連帯保証人のある方
5.公庫の設計審査に合格し,公庫の建設基準に適合する建物


建設工事費の割合
補助 3/4
市負担 1/4

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大船渡 住について
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1.災害復興住宅資金
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2.災害特別貸付
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国民金融公庫の申込と貸付状況(7月15日現在) 件数 金額(単位 千円)
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商工中金の申込と貸付状況(7月15日現在) (単位 千円
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中小企業金融公庫の申込と貸付状況(7月15日現在) (単位 千円)
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1万円生業資金(大船渡信用組合)
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農林漁業関係融資状況
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災害復興住宅資金(住宅金融公庫)の申込(8月6日現在)
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災害公営住宅
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中高層耐火建築資金の借入希望状況
(2)今後の救援対策や災害対策としてどんなことがなされようとしていますか

蛸浦
○災害復旧資金,住宅建設資金融資が出来ている。塩害農民,漁具を流した漁民に特別災害復旧立法が措置されているが,長い日時を要するのでそれ以前に市当局の早急な立上り資金が考慮されている。だがまだ筋の通った実策は出来ていない。
○ノリ,牡蛎の加工場,作業場とか棧橋の様な共同施設の復旧を先にしようとしている。


大船渡
家屋の建築,或いは補修に努力している。
○店舗,加工場等の補修と建築にいそんでいる。
○家屋の新策等の事情から新たに借地,借家についての契約上の問題が起ったので,その解決にせまられている。
○道路の補修,整備,街灯の整備等共通の問題は部落会,隣組で協議してそれぞれの経済的事情を考慮して,資金,労力等を提供している。
○都市計画
○防波堤の計画
今後海岸地帯より安全地帯に移転の目的で永浜地区より下船渡地区を移転地区として測量が行われている。


赤崎
○都市計画
○防潮対策が行われている。

(3)現在及び今後の救援対策や災害対策に望みたいことはどんなことですか

未崎
○永久的な対策として道路(主なる)はなるべく津波の影響のまったくない高台にすべきである。
○防波堤の建設


蛸浦
○これは愚人の考えかも知れないが,災害の多い日本国は国再建というところから見ても災害公債券を国民に発行して日本民族はお互に救済したりされたりする資金を平素に於て準備すべきである。政治的にも社会的にも一大政策を立ててほしいと思う。
○地震,津波の危険地帯に住む人達はお互にに救済しあう制度を作るべきだ。
○津波から人命を守る根本政策は何といっても防波堤,防潮堤の設定であると思う。
○住宅の高所への移転が考えられるが,土地問題が高所移転の隘路になっている。
○災害復旧資金の融資を早くしてもらいたい。
○計画によると防潮,道路計画には被害が軽微のためか,当部落は含まれていない。これには問題がある様に思う。


大船渡
○津波警報器の備え付け。
○耐火と津波を考えた恒久的な注宅が建設されるよう奨励すること。
○台町,赤沢地区は全体的に低いので土盛りをするとか一考を要する。
○津波だけでなく非常災害に備えて連絡網をつくっておくこと。
○種々の融資をもっと早く出来る様にしなければならない。
○中小企業者や労働者の中には資金難で思うような仕事の出来ないことを嘆いていた。又1万円の借り入れと復職後,免税をつよく希んでいた。
○資金は長期にわたり低利で融資してくれることを望んでいる。
○防潮堤の完備
○避難路,避難場所などを作っておく。
○生活面については住宅の確保,生活必需品の値下げ、土地の斡旋,道路照明灯の整備,防犯の対策の樹立を希む。
○残材の後片付,浸水田畑の整理,排水路の完備。養殖資材の流失などに対する救援対策をいずれも計画的に行い一日も早く,明るい生気に満ちた町の復興を念じている。


赤崎
○復旧資金の融通
○都市計画の実現
○防潮堤の完備
○非常時の際は警告(予告)をすばやくすること。
○都市計画実現の時は高所に民家を建て海岸には漁業等必要ある建物だけとし,又公の事務所とか役所は災害の危険のない安全なところに設置してもらいたい。

第3節 災害対策論文(問題点)

1.チリ津波と三陸海嘯(昭和35年6月29日 河北新報 科学欄) 『チリ地震津波の特性と防災』—山口弥一郎—
無警告津波への反省 1.災害の予知

警報の出遅れに対する気象庁への非難は現地の調査にでかけても,罹災者から深刻に聞いた。和達長官なども,幾項かに分けて弁明これつとめながらも,「全く意表をついたもので勉強不足というほかはない」とひらあやまりの体である。
私も当日朝5時のニュースに聞き耳をたててからは,ラジオの傍を離れないでいた。6時ちょっと過ぎたころ,突然河北の会津若松駐在記者の来訪をうけた。
「あなたは,今度の津波予報を1ヵ月前に出したとか、いう話ですが本社から電話で談話をとれというのでうかがいました」
というのであった。私も意表をつかれた思いで「冗談じゃないよ。だれが津波など予報できるものですか。あの記事をよく読んでみてくださいよ」
といって,4月27日付の「津波で移る村の話」ののっている河北新報を開いて見直してもらった。
地震の周期はもちろん予報も確立していないのに,それによって起こる津波が予知されるはずなどない。古くから地震津波年表を整理してみると,数字として平均値はでてくるというだけで,それも古い津波の程度は明確でないから資料の拾い方によっても異ってくる。ただ明治9年から昭和8年までは36年,昭和8年から今年まで27年,災害直後高地に移った人々も,いくらか戻り気味になり,旧り災地に住む人々も,あまり無防備なままになっている。恐らく災害体験者も,全人口の幾割にも達しなくなっているのであろうから,警戒は怠ってはならないと,時折警告してみるだけである。しかも今年のチリ地震津波は,三陸の津波の計算にははいっていないものであった。

2.無警告津波

無警告津波といっても,必ずしも無警告ではなかった。22〜3時間前のチリ地震を長野県の松代地震観測所だけはつかまえている。宮古観測所の検潮儀は当日2時47分,確実に35センチの押し波を記録していたし,石巻測侯所の清崎の検潮儀も3時37分,3〜40センチの上げ潮から4時5分の引き潮と明瞭に記録していた。ただこれが観測員の目にふれたのは仙台管区気象台が,5時6分に津波警報を出してからであった。ホノルル沿岸測地局からの情報は,半日も前の23日10時20分に「チリ地震で被害を伴う津波があるかも知れない」と,届いていたという。その後,海岸の異常な水引きをみて,気象台の警報よりも早く津波を察知して騒ぎ出し,退避していた幾つかの村のあったことも知れた。気象庁の専門家がハワイからの警報を黙殺したくらいであるから,地震後2〜30分で津波がくると体験もし,教えこまれている三陸の人々は,「津波だ」と叫ぶにも,迷いがあったことと,申し訳なく思っている。
しかもこれが,本当にわれわれの不勉強のためであったのは,宮古測候所の二宮三郎氏などが,改めて津波年表を検討してみて,宝暦元年(1751)5月2日(陽暦5月26日)の大槌地方未刻(午後2時)の津波は,東京天文台編の理科年表に出ている「1751年5月25日,チリ国コンセプション市,サンチャゴ市大地震津波あり,このためコンセプション市移転」と符合するといっている。「指入浦々民家へは敷板まで上り,田畑水の下に相成り,四日市,八日市,向川原裏道海の如く,西刻(午後6時)潮引く,人馬怪俄無之」(岩手県誌資料写本大槌記録抄)とあって,著しい被害はなかったようであるが,溢水の状態まで似ているように思われる。それを,「地球の裏側の地震が,これだけの被害を出したのは地球物理学史上にはない」と,たかをくくっておれるかどうか。どうやら季節や時刻まで符合するのは気味悪いほどである。果たして無警告津波として及扱ってよいかどうか。

3.三陸へのしわよせ

今度のチリ地震は8.75マグニチュドで,観測史上まれにみる大きなものであるらしい。しかしなにせ1万8千キロへだてた地球の裏側にあり,秒速200メートルで22〜3時間もかかってきている太平洋は広い。なにも選んで特に日本の三陸海岸にきて大きな災害を与えなくてもよかろうにと思われてならない。ところが,太平洋の津波は,かま首を低くして,広い海岸から三陸を捜し出すと,急に頭をもたげて襲いかかってくる。三陸沖のものはもちろん,大平洋の津波なら,受入れ態勢ができている,残念ながら津波災害なら,みな三陸海岸にしわよせされる観がある。これは宿命的なのこぎり歯状のリアス式海岸地形をなすためで,今度などは一度大平洋のまん中に広がった波が,日本近海に集中したのではないかとみている人もある。さらに三陸海岸に到達した時刻がちょうど満潮時であった。
無警告津波といって責めても仕方ない。自然現象では22〜3時間前にちゃんと予告したことになっている。検潮儀の記録は十分警戒退避する余裕をもたせて記録に止めている。
お役所仕事で予算がないといえばそれまでであるが,無線ロボットの検潮儀はすでにできているのに備え付けられていない。今度だけで200億にのぼる災害だろうというのに,災害以前の防災の調査研究,対策には容易にお金を出してくれない。

災害の特性 1.非訓練地域の被災

私は昭和8年の災害後,村を高地に移すことに関係し,その後も見守る仕事をつづけてきたので,まずそれが心配で,とり急ぎ要所要所を三陸全域に目を通す気になった。新聞紙上にも相当くわしく報じられているが,昭和8年のに比べて異様に感じた事は,災害分布に相当な食い違いが見られることである。これは波高と押し波の強さが関係しているので,この係数は精密に専門家の手によって集計されないと明らかでない。羅賀では8年に13メートルあったのに今度は1メートルにすぎない。平井賀もほとんど同じくらい。8年には8.2メートルもあった。(以下はカッコ内昭和8年の波高)田老3〜10.1),雨石3.7(6.4),これを今度出会った宮古赤前5(2,1),大船渡4-5(3-4),高田三日市5(1.0),志津川4.2(0.6)と比べると,いずれも8年には低く,志津川など災害地にもならないほどであった。
防災対策 特に村を移す仕事は容易でないので,多くは29年8月の再度の三陸沖津波を基準にして計画された。この成果も年月を経た現在では乱れがちで,まだ罹災地の現地に居すわったり,折角移った村の一部が,分家などに名をかりたりして戻っている。しかし,これらの人々は,いわば津波に対する訓練者である。村造り,家の建築,道路にも災害を十分考慮に入れているものであったし,さらに防潮林,防波堤で守られていた。
今度のは非訓練者の住む,三陸の津波ではほぼ心配がないとされていた地域に,しかも無警告で襲来したところに罹災度をいやが上にたかぶらせた観があり,みじめさが深刻にきているようである。

2.波長の大きな津波の特性

「今度の津波はイケエ波だ」という言葉を各所で聞いた。実に適語であると思ってノートしてきている。いけえる,いかえる。だぶだぶ水が満ちあふれてくる有様をいう方言であるが,かってのように,リアス式湾頭におおいかぶさるか,うちつけるように襲ってきた津波とは違って,海の底から砂をまきあげるようにして,湾の最奥の方の水位を高めてきたと語っている。
三陸沖の津波がリアス湾頭にまともに襲って来た時は,29年の最高といわれた吉浜では,湾口では7〜8メートルと測られているのに湾頭では25メートルにもなっている。8年の最高綾里でも,湾口ではほぼ吉浜と同じくらいなのに,湾頭の村に襲いかかった時は24メートルにも達していた。これは震央が約200キロ沖の三陸津波の波長の比較的短い場合で,今度の場合の波長は恐らく数10キロという長いもので,洪水がいけえてきたように下からもりあげた津波であったようにみえる。
これは災害の特異性になっても現われている。実際に8年の津波の体験者がおられるのであるから決して私の暴言ではないとおくみとり願いたいが,三陸沖大津波の際は,この程度の災害ではとどまっていない。この前田老や唐丹村,本郷,鵜住居村両石などにたどりついた時は,津波に洗われた跡などとは思えないほどの,きれいに掃き清められたような砂浜であった。津波の災害の状態を写真にとろうにも被害を物語る適当な資材が見当らないので困った。この田老で493戸が流失倒壊し,889人が死亡,行くえ不明になっていた。唐丹村本郷で101戸,これは倒壊も浸水もなく,全戸が流失で,死者,行くえ不明326人。今度のはいわゆるいけえ波であったため,町や村の細小路,空屋敷の間をはうように水が奥へ進み,薄い防潮林の間をすりぬけて,その背後の家庭に浸水している。廃墟のような災害地に立ってみると,屋根や二階だけの残ったつぶれ家,柱が折れ,壁のぬかれた店舗,実に惨たんたる,いわゆる津波のツメあとが生々しく残っている。これほどにも倒壊家屋の木材が多いかと思われるほどの材木,運び出された臭気のつく塵の山が,海岸にうず高くつまっていてその惨害度の甚だしいのに目をおおうほどである。ただこれを8年の三陸沖のものに比べてみると,遠い地球の裏側からすえつけられてきた津波の特異性を発揮して,いたずらにこれを沖へ持ち去ってはいかなかった。
予報訓練の制度までできているのに,もうちょっと気をきかして早く警報を発してくれたらと,現地罹災の人々の怒りはよくわかり,生命を失われた人々には申しわけない気持でいっぱいである。
しかし今回のは,三陸の津波としては,決して激甚な程度のものではなく,おびやかすわけではないが,私どもは,三陸沖津波の場合を恐れて,その防災を考えていることを,叱らないでいただきたい。

津波常襲地の安住対策 1.高地への集団移動

津波常襲地の防災のための村の移動の問題ととりくんで27年論考の一応完成された矢先に津波に襲われた。ちょうど老父の死に直面したが,これを田舎から、持ち運んで茶毘に付して三陸調査の旅に出かけたのも,私の気持としては,さまで無理ではない。
津波をともなう地震帯を前にして,リアス湾頭に住む限り,津波の災害は今後も絶無とはだれもいいきれない。ましてチリ地震津波にまで捜し当てられる宿命的な海岸地形の受け入れ態勢を整えているにおいておやである。この絶対的安住対策には,村を湾頭からちょっと側面にさけて高地に移すほかはない。
今度の津波では,被害地域が常習地でも少しずれているため,村の移動対策はあまり持ちあがっていないようである。私は8年の津波の後の長い調査の旅で,実は耳の痛くなるほど聞いた言葉がある。今度も何回か聞かされた。「浜で食っている者が,命が惜しいからって浜を離れられるもんか」まだ災害直後だから極言する人もなかったが,かっては「いつくるかわからない津波をこわがって,毎日食うに困って浜を離れられるか」とさえば倒されたことがある。
何も漁を手離して移った方がいいと説いているのではない。村の立地条件は決して一・二にとどまるものではない。祖先から住みついた位置,生活を共にしてきた経済的,社会的条件を十分考慮して,安全な高い適地に集団的に移ったらというのである。
今度の津波は高くとも4〜5メートルにとどまっている。8年後高地に移っている村では,次々に発せられた警報におびえさえしなかったようである。現地に居すわったり戻ったりした人々と,高地に移っている人々では,今度の暁の警報で,はっきり安住度が認識された観がある。罹災区域が津軽石川をさかのぼったり,大船渡,志津川の,奥を襲ったりして,津波の知らない人々に不意打ちをかけ,特異な災害の様相を呈したが,4〜5メートルのいけえ波は,全く三陸としては特異なもので,これで29年,8年の罹災地域が安全になったわけでもなんでもない。移動した村の人々が,今度の津波被害分布をみて,ほっとしたように現地に戻られてはたまるものでないことをこの際私は強く警告もし,お願いしておきたい。

2.防波堤の効果

29年,8年の津波に,それこそ全滅に近い災害をうけた田老が,今度の津波からは見事に守られたことを,高さ10メートル,長さ1,350メートルの防波堤のためであると,新聞紙などは大きく報道している。もちろんそれに違いないのであるが今度の波の押しよせ方に特異性があったほかに,波高は実は3メートル余にしか及んでいなかった。8年には10.1メートルにも及んでいた。これも三陸津波で防波堤がなかったら,湾頭では,とても3メートル程度には止まらなかったであろうから,今度は防波堤が真当の威力を発揮した実績とも見かねるが,相当な効果を示したことは確かである。
山田町のをかってトーチカ陣地と評してあった。移動できない町を守る試作のような防波堤の威力実験はどうなったかと心配になった。しかし,ここも今度は3.1メートルで,8年の5.5には及ばなかった。これも今回の波の特質にもよるが,防波堤を横ぎる道路の口からしのびやかに浸水していったし,防波堤を無視して外側に延びた居宅は被害があった。それにまして無防備の南につづく織笠は,河口から押し上げられた波で著しい被害を示した。
河口の護岸なら,毎年いくらかの増水,洪水があって,防護力の実験にもなろうし,破損の修理もする気になる。特に波打ちぎわから離した万一の大津波のみ目あてにした防波堤を20年も30年,あるいはそれ以上にも試みる機会のない場合の,人工構築の耐久度修理に対する熱意,これはたえず当局者は見回る必要があるように思う。

3.防潮林

標式的防潮林と思っていた高田の松原の惨状を見て回った。ちかごろ観光地にしていた大沼付近の様子はよく知らないが,ここだけ防潮林が切れていて,低い防波堤で間にあわせておいたようであった。河川のはんらんは定量があるから対岸の土堤がぬけると,こちらが安泰という場合もある。大洋に接する防波堤は破られても定量は見えなくて,水位で,低地へと押しよせてくる。津軽石川が逆流で破堤し,橋梁の逆流失した様相は,河川洪水の場合とはまるで違っている。
今度のいけえてきた津波には,薄い防潮林はしのびこまれた。高田の松原の一部は根こそぎ洗われて倒木している。しかし今度の津波で防潮林を軽視してはいけないと思う。特に三陸沖の津波の場合は大きな抵抗力を示した実績がある。
防浪建築の功罪もいろいろ示されている。波の高さ,強さ,押しよせ方,しかもこれ以上の思わぬ津波だとて来ないとは保証できないのであるから,ちょっと見ただけで概論などできないが,ブロック建ての案外もろかった実証などは,よく検討してみるとよい。
まだ調査資料の整理がとどいていないので,ほんの随筆程度で申しわけないが,半ヵ月ほど見て回った感想を率直に述べてみた。最後はせめて津波から人命を守るために,目前の救護と共に,長く安住できる対策を計画,後手にならないよう実行したければならたい。

2.学問上「つなみ」とはどんなものであるか。平凡社「地球天文事典」から聞いて見よう。
つなみ。津波。

日常の言葉でつなみというのは,海岸で,ふだん波の打ちあげてくるところよりも,はるかに高いところまで打ちあげてくる波のことである。しかし学問のほうでつなみというのは,もっと広い意味のものである。すなわち検潮儀という海面の上り下りを記す機械でふだんとちがう周期の長い(数分以上の周期)波が記された時には,たとえその高さが数cm程度の低いものであっても,つなみがあったという。
つなみ Tsunamiという言葉は,学問上では,ひろく外国でも用いられている。これは,日本でいちばんくわしく調べられているからであろう。

〔地震つなみ〕

もっと恐ろしいつなみは,海底の大地震にともなっておこるものである。たとえば,明治29年(1896年)6月15日,昭和8年(1933年)3月3日の三陸海岸の大つなみ,昭和19年(1944年)12月7日,昭和21年(1946年)12月21日の東海道,南海道の大つなみがそれである。これらの地方には,むかしから大つなみがあった記録がたくさんある。
日本海岸にもつなみの記録はあるが,太平洋岸のようなものすごいものはない。

〔つなみの打ちよせかた〕

たとえば,昭和8年の三陸大つなみでは,姉吉では,湾の奥で波の高さ21mにもなり,部落全部がおし流され,人口の92人中わずかに3人だけが負傷して生きのこった。
一般に外洋に直面して,V字型あるいは,U字型に開いた湾の奥では,たいへん高い波になるものである。このようなところでは,海水の横の流れの速さもはげしくなるから,たいていのものがおし流される。
これに反して,入口のせまい,奥行のふかい水浅い湾口では,つなみは大きくならない。たとえば気仙沼西湾などがこの例であり,波高3mに達したところはなく,被害もなかった。
このように,同じ時のつなみでも,湾の形,深さなどで,打ちよせかたはたいへんちがうものである。このばあいはるか外洋では,波高は3〜4m程度であったと思われる。それは沖にある小さい島でみればわかる。つなみの波長は100km〜200kmという長いものであるのにくらべて,波高はこのようにわずかなものであるから,きわめてたいらな波であり,外洋にいる船にはわからない。
つなみは一般に,おもな部分でも数回くりかえすものであり,小さい部分は数時間もくりかえす。

〔つなみの破壊作用〕

同じ時のつなみでも湾の性質によって打ちよせかたがたいへんちがうことは前にのべたが,それにしたがって破壊作用も大いにちがう。高い波になって陸に打ちあげて,水の横の流れのはげしくなるところでは被害はおもくなる。大きな船が陸に打ちあげられることもある。しずかに水面が昇降するようなところでは,波は少し高くても流されないですむことが多い。南海の地震つなみは,大阪に被害のあることが多いが,これはおもに川筋に波がおしあげる時にたくさんの船も一しょに動かされ,たがいに衝突したり,橋その他のものにぶつかったりするためである。

〔つなみのつたわりかた〕

つなみは一般にたいへん波長の長い波である。こんな波のつたわる速さは,重力加速度をg,水の深さをhとすると,(gh)^(1/2)になる,太平洋のような4,000mぐらいの深さの海とすると,その速さは毎秒200m,1時間720kmぐらいになる。したがって三陸のつなみは,7.5時間ぐらいでハワイに達し10時間半ぐらいでアメリカ西海岸のサンフランシスコに達する。
このような長い波になると,なかなかおとろえないので,三陸やアリュ一シャンでおこったつなみが,ハワイ島に被害をおこすことがよくある。しかし,おもしろいことには,三陸つなみは東海道や南海道ではきわめて小さくなるし,東海,南海のつなみは,三陸沿岸ではきわめて小さくなって,被害をおこすことはない。これは富士火山列島の浅瀬をこえたり,房総半島をまわったりする時に,小さくなるものと思われる。

〔地震つなみの起りかた〕

震央が海底にある大地震でしは,たいてい海底のかなり広い区域が隆起したり,沈降したりするものと思われる。その変化は数10秒以内の短い時間におこるし,それで海水もともに持ちあげられるところや,さがるところができるが,やがて流動しはじめて,波となって四方八方に伝わるものと思われる。
大地震の時の隆起,沈降の区域は,およそ100km四方にもおよぶ広いものなので,つなみの発生区域もその程度の広さのものとなり,波長も長いことになる。地盤の高さの変動が断層その他の経験から数mのものと推定されるので発生するつなみの高さも,そのぐらいのものと思われる。逆につなみの高さから,地盤の変動を計算することもできる。

〔海震〕

海底地震でおこるもので,つなみとちがうものに海震がある。これは震央の真上あたりを航行する船が,かくれ岩や浅瀬にのりあげた時のような,はげしい急な震動を感ずるものである。これは地震動が海水につたわり,その振動がゆり動かすもので,つなみとは性質のちがうものである。関東大地震や,三陸地震の時にもそのような例が報告されている。
ある時代には,このような海震がつなみになると考えられたこともあった。

〔海嘯〕

つなみのことが新聞などでよく海嘯(かいしょう)と書かれることがあるが,これは,元来つなみとは別なことである。これは中国の抗州湾の奥に銭塘江という川があって,その川口附近でおこるものである。すなわち潮がみちてくる時に川のほうが潮の進みがのろいので,後からおいつく水がかさなりあって,水の土堤のようになり,それがくずれながら笑うような音を立てて進む現象である。だからそこだけ見ていれば,つなみに似ている点もある。

〔暴風のつなみ〕

はげしい低気圧や台風が,海上からおそってくる時,地震つなみに似た現象があらわれることがある。これを暴風つなみ,風つなみ,あるいは高潮などともいう。

3.「明治から昭和までの三大津波から教えられるもの」 —編者—

津波の大小,範囲の広狭,来襲時刻の違いがあるけれども,それにしても明治29年,昭和8年,昭和35年と,だんだん人的被害が小さくなっていることは,記録の示す通りである。
災害で最も人心に打撃を与えるものは,家屋土地,財産もさることながら,何と言っても人命の損傷である。災害の性格はどういうものであるかを知らずに,いたずらに物欲のとりことなってあわてる中に,親族,妻子を失い,又自らも犠牲になってしまうような悲惨事は,何といってもあきらめきれぬ最大の不幸であり,此の事によってのみ世の中に災害の悲しみが絶えないのである。此の記念誌には余りにも悲惨悽愴の極みなので,死体に関する写真は遠慮したのであるが,二度とこの残酷悲惨な憂き目を子孫に見せたくないものである。
明治29年の津波で,気仙郡沿岸町村の犠牲者数は約5,600名であるが,午後8時の襲来とは言いながら,旧5月の節句でもあり,未だ床にはいった時間でもないのに,「驚くべき大量犠牲者を出している。今回で3回の大津波を身を以って体験した84才になる老母から明治の津波の思出を聞いて見ると,なぜこんなにたくさん死者が出たかその原因がわかる。この老母が17才の時の思出はこうである。
「あの時はどこの家でも,戸をしめろッて教えたもんだ。だから,津波だアと叫ぶ声がきこえると,早く戸をしめて家の中さはいれ,と言われたからみんな家の中で水をかぶって,それから逃げ出したものもあるし,又家の中でそのまま一緒に流されたものもあった。」
これは赤崎の話であるが,年寄の二・三に聞いて見てもやっぱり,戸をしめろと言われたもんだ,と言っている。安政3年の津波は余り大きいものではなかった様で,気仙村の記録では田畑家屋が浸水したが,人馬に損傷はないことを書いているからまず浸水程度ということだろうが,それから明治の津波まで40年,しかも当時の年寄の経験した安政3年の津波は上述の程度で,戸をしめておけば家の中の物品も流されない程度のものだったのだから,言い聞かせる事も,「津波が来たら戸をしめるものだ」と言う外には何等大がかりな対策もいらないものであったにちがいない。その先輩古老の日頃の言い聞かせが,あにはからんや明治29年という稀な(恐らく近世最大)大津波に応用されたのだから,たまったものではない,大量の死者続出という結果になったものである。
この事は,三陸地方のどの地域でも同様な行き方と結果になった様で,平凡社発行「日本残酷物語」にも,越喜来村浦浜の佐々木清一氏一家の二度の津波記を次のように載せてある。これも私がきいた84才の老母の話と全く同じで当時の津波というものの認識が如何にあいまいなものであったか,それがどんな大変な結果をもたらすかという事のよい例である。次に原文を抜書きする。


三陸地方の悲劇(日本残酷物語第四部より)
三陸地方はすでに慶長16年(1611)に大津波に見舞われている。記録によれば伊達領内だけで,男女1,738人の溺死者を出している。南部藩の記録はみつかっていないが,それをあわせると数千人に及んだことはたしかである。そののち今日に至る350年位の問に,22回ほどの津波が三陸地方をおそっている。15年間に1回のわりあいである。このように,この地方すなわち青森,岩手,宮城県の東海岸は津波襲来の常襲地といってよい。しかし最近の記憶にのこる惨害はまず明治29年(1896)6月15日におこり,ついで昭和8年(1933)3月3日の真夜中にあって世の耳目をそばだたせた。
いったい三陸沿岸は誰がみてもすぐ分るようにするどい鋸歯のような出入口をもって海につきだしている。河川に浸蝕されたV字形の谷が沈降してできた湾である。平らな海岸なら外洋からおしよせてきた津波は,そのままの高さでつきあたるわけであるが,湾口から急にV字形にせばめられ,海底も急に浅くなると,津波は急にその高度をまして湾奥ではIOm〜30mにも達することがある。ところが漁村はふつう湾頭の低地にあるのが便利なので,自然津波におそわれやすいところにあることになる。
こうして明治29年には,流失戸数は6,049戸,全壊537戸,半壊771戸,それに非住家屋の流失2,477棟,半壊297棟,その被害戸数の総計は10,131戸になり,死者21,953人,負傷者4,398人に及んでいる。
人口のまばらな三陸地方には致命的な災害であった。岩手県下閉伊郡姉吉などのように全部落流失して,1人も生存者のなかったものさえある。
それから37年を経た昭和8年のときは,死者,行方不明2,955人,負傷者1,008人を出し,家屋の流失,倒壊6,542戸,浸水4,933戸に達した。これを明治29年のものと比較すると,もちろん津波の大きさ,地域差にもよるが,家屋の流失倒壊のあまり大差がないのに,死者は10分の1近くに減じている。この原因の一つとしては,三陸海岸の人々が明治29年の津波に訓練されていたからではなかろうか。だから,そのときの災害でほとんど全滅し,津波の経験をもたない人たちが再興した村などでは,津波の実態がよくつかめないために,災害をいやが上にも大きくしているように見うけられる。
まず津波は地震があってから2〜30分しないと来襲してこないものだということがわかっていれば,あわてふためかないで部落の人たちは充分に退避できるのである。それには古老の経験にもとずく知恵が大きくものをいった。たとえば明治29年,昭和8年の再度全滅した姉吉部落(宮古市)と鵜住居村両石(釜石市)で比較して見ると,昭和8年の死者は両石では2〜3名にすぎないのに,姉吉では救われた人がわずか2〜3名であったのでもよくわかる。この生命の災害の差は,両石には明治29年の津波を経験した古老がなお数人いて,その退避指導にあたったこと,姉吉は,明治29年に全滅し,津波の体験者が皆無で,29年の津波当時の無知識ぶりを再び発揮しているのである。また被害を受けた低地の集落を高地に移住すれば,当然新しい災害を避けられる筈であったが,それを現実に実行するにははなはだしい困難をともない,したがって再度大きな被害をうけた場合が少くなかった。


無気味な海鳴り
明治29年の6月15日の午後7時33分ごろ,釜石東方沖約200キロに,海底地震が起り,津波はおよそ45分のちには三陸沿岸に達した。この日旧暦では5月節句の日に当っていた。越喜来(気仙郡三陸村)付近では天気はよく,暖かな日で,あまり強くない地震が夕方まで8回ぐらい感じたが,気にとめるほどのものでもなかった。佐々木清一氏が雨戸をしめ,厩にいって秣をやって1間ほど歩いてくると,沖の方で,ノーン,ノーンという音がする。家にはいると彼の父が,「清一,沖で何か鳴るではないか」といった。清一氏も「なんだか鳴るようだ」といって坐り,4〜5分たつと,ドドッとゆれてきた。汽車が通る時はこのようになるものだなどと語っていると,2分もたつたかと思う間もなく,ワーワーと物のこわれる音がした。父に大戸を閉めろといわれた。なんだか強い恐怖に襲われて、家内中おびえたようになったが,これでもまだ津波だとはわからなかった。これ程に津波に対する知識がなかった。行灯(あんどん)がひっくりかえるように震動した。清一氏が大戸を閉めようとかけつけると同時に,後に戸と共に倒された。地震のために埋められるのだなと直感した。彼が水にまかれて200間程川に沿うて流されているのは後で知った。
川がさらさらと流れて,大きな山が目の前に立ちふさがっているような気持になって息をふき返し,助け出されて始めて津波であることを知った。清一氏の父はこの津波で死んだが,恐らく津波だとは知らずそのままになったと思われる。この一瞬の津波で,浦浜だけで約200人が死んだ。
この時の災害で部落に生き残った人がなん人もいなかったので,家を再建するために,残ったひとり者は,年令を不問にして,くじを引いて,あたった者が夫婦になった。佐々木清一氏は,当時25才であったが,お母さんのような年の女があたった。それはふつうの社会の常識からすれば,あまり奇異な話であった。昭和8年3月3日の最夜中の津波は,この佐々木清一氏が62才で遭遇している。
地震は夜中の2時半ころで,上下動の激しいゆれであったから,村中みな起き,戸外にとび出た者も多かった。やんでからまた床にもぐった者もいる。清一氏は,津波が来るかと思って,ずっと下まで出てみたが,沖も暗く,寒いし,身体も少しぐあいが悪かったから,戻って家の中にはいった。2回目の地震がきた。これは余震というものであったろう。彼はそのとき,すでに29年の経験から津波がくるかも知れないと直観したので,家族の者に油断すべきでないから帯をして床にはいれと申渡した。朝5時に木材を積んだ汽船が入港し,その船に乗り込む客が宿泊していたので,茶の間で炭をおこして夜を明かそうと思ったのである。そのころノーン,ノーンと沖の方で音がすると,まもなく電気が薄暗くなって,スーと消えた。「津波だ」と清一氏が叫んだので,寝ていた彼の娘がまずとび起きた。一時興奮したのでよく覚えていないが,遠くで叫ぶ声や,異様なざわめきも聞えてきたように思った。29年と同様の津波がくるなと思い,家族の者には一刻も早く山の方へ逃げよと叫んで戸外に出した。家族の者がみな去ると,家の中には急に空虚な観がみなぎった。清一氏は足が不自由なので,29年のような津波がくるとすれば,とても逃げおうせることはできない。じぶんの父も先の津波で死んだ。みんな死ぬよりじぶん独りで死んだのがよいと観念して仏壇の前にきた。屍になつた時,袂にお金でも入れておいたら,後で僧侶にやるに都合がよいと思って,隣部屋にはいってお金に手をかけたら波でたおされた。布団の上にたおれたので,ふくふくと浮きながらもまれた。今度はなげしの5〜6寸下まで浸水し,家屋は倒壊を免れたので生命に別状はなかった。意識もつづいていた。第2回の波は,越喜来の浜では第1回より強く,第3回も第1回程度の波がきた。この間まったく海水が引き切らずつづいた。


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災害対策と言えば,防潮堤,防潮林,防浪壁,等人工的物理的なものが第一に考えられ勝ちで,これについては一般素人の及ばぬものがあって,学者技術者の部に属する事が大部分であり,又予算という厖大な金を要することでもある。よしそれが出来たとしても,実は,地震というものの実体がつかめて,どの程度のものが起り,どの程度の波が出来るものであるかがはっきり予見される科学的な決定的結論が出るようでなければ,相変らず住民の不安感というものが除かれる時はないのである。そして思わぬ時に,思わぬ所に欠陥があって,前にもまさる大被害を蒙むるという事も前例として多々あることである。
所詮我々は,我々自身を自然の暴力から護るためには,我々自身の心構えによるより外には他に道がないのではあるまいか,防潮林も防浪壁も或る一定の力を想定して,それに耐え得るものを科学的に計算して,凡そこれ程のものが必要だという事になるので,果していつ,どこに,どれ程のものが起るかについては皆目見当がつかないのが現状なのである。
そこで三陸の我々としてはまず何よりも心構えということになるが,そのためには先輩古老が,その経験を生かして後輩に正しく伝えると共に,後輩を訓練することが大事な務め,いや!怠ることの出来ない義務である。経験を伝えて教えるということは,大切だが迷信的信念的な事では却って悪い結果を来すおそれがある。それはどこまでも知識という経験なのであって,科学的経験を伝えることである。
今回のチリ地震津波では,明治29年と昭和8年二度の経験を有つ先輩が多数生存していたし,且つ日頃語り伝え,また訓練したその効果が現実にあらわれて,土地,建物その他の物的被害が前二回に劣らぬ惨害を呈しながら,しかも人命に於ては比較にならぬ少数ですませたことは,明らかに教育訓練,日頃の言い聞かせが大功を立てた結果といっても過言ではないであろう。
「年寄りの言う事と,ナスの花には無駄がない」という地方の諺がある。少くともこの津波の事については,無駄のない話しをする老人になりたいものである。
今回この言い聞かせや訓練で,特に美事な効果を挙げたのは,陸前高田市の気仙町長部地区であろう。前述した長部地区の中学生の作文にもある通り,津波と言ったらあの木の下,と平素の教育が徹底していたらしい。「津波は高い所には上らないから,急ぐ時はすぐ裏の山に,間のある時は紅葉の木の下に」といつも父さんから聞いているので,走って走って,紅葉の木の下まで一気に走った。」と書いている。何と美事なお父さんの教育だろうと全く感心の外はない。明治29年死亡42名,重傷8名,昭和8年死亡32名,重傷3名を一小部落から出した長部々落は,今回こそ美事に人命を保護し得たのである。しかも海岸の漁業施設の一部は損害を受けたが人の住宅は昭和8年以来9尺の土盛をして,今回の被害を最小限度にとどめ得たことはまことに先人の施策として称賛に価するものであろう。これでこそ,あそこに建つ記念碑が河野俊覚町長の名碑文と共に光り輝やくものなのである。
又これとは違って,赤崎町佐野部落には,まことに危険な事があった。前2回の津波は共にこの部落までは押寄せなかった。勿論被害など全然無かった部落である。今回は佐野にとっては有史以来の出来事だった。浸水軒をしのぐのであったが,この出来事に際して老人連中の観測は極めて楽観的で,「ここまで津波が来る筈がない」というのが信念だった。若い者が外を見ながら,大きな波が押し寄せて来たから逃げろ,と叫んでも,そんな馬鹿な事はない,地震が大きくあってさえ来ない津波が,地震がなくてここまで来るものか,というので,起きなくとも大丈夫,逃げなくとも大丈夫の一点張だったというのである。仕方なく引ずって避難させた人もあったとは,これも今後の大きな参考になる話であろう。かくして先人古老の心遣いが,いかに一朝災難の際に大きく影響するかは言を要しないが,今後,学校教育も社会教育も家庭教育も,新らしく災害教育という点に焦点を向ける必要が出来たことをつくづく考えさせられるのである。
チリ地震津波は,明治29年や昭和8年の津波にはなかった新しい色々の教訓を人々に与えた。それ等の教訓は細大もらさず後世に言い残さねばならない。
1.地震の前ぶれがなく襲来したこと。
2.地球の裏側から襲来したこと。
3.三陸沖津波では被害の少ない場所,又は無被害の場所が却って被害が大きく湾の奥々と大きな破壊作用をしたこと。
4.波頭を立てて折れ重なるような襲来の仕方でなく,むくむくと静かに水かさが増して来てあふれ出すというような浸水の仕方であったこと。
5.サイレンによる警報が多くの人々にはしばらくの間火事だと思われたこと。
6.赤崎大船渡間及び赤崎盛間は交通全くと絶したこと,自動車,モーターバイク,三輪車,オートバイの発達は却って一時の混乱を来したこと。
7.船舶や木材の漂流疾走による破壊作用が,津波の破壊力に一層の拍車をかけたこと。
8.市街の大通りにはいり込んだ海水は殆んど川の急流と同じで,渉ることが出来ないこと。
9.襲来する海水は真黒で墨汁の如く,ためにあたりが暗くなったように感ずること,この黒い毒水では鯉も鮒も殆んどの魚が死んでしまったこと,(昭和8年も明治29年も夜の襲来で,明るいところで津波の水を見たのが今度が始めてであろう。)庭木も果樹園もこの毒水で全滅したこと。
10.明るい昼間大船渡湾の底を相当沖の方まで見た人がたくさんあったこと,しかし落着いて観察したのではないから,ただ無気味さだけを感じた事であろう。
11.この程度の津波になると,鉄道も電報も用をなさなくなること,内陸との通信は世田米町まで行かねばならなかったこと,電灯線も断絶するからラジオも聞けなくなること。
又被災者の憶い出話にもたくさんの教訓になる貴重なものがある。
1.庭に大きな植木があったために命拾いをしたということ,家を建てたら必ず庭や背後に木を植えておくべきだということ。
2.若し家の中に残ってしまったら,あわてずに裏板を破って上り,また更に屋根裏をこわして屋根に出れば舟に乗ったと同様に助かること,一人流されることにあわてて飛び込んだり,泳ぐ気になってはあぶないこと。
3.思い出して途中で家に戻ってはならないこと。
4.津波は何回も来るから,おちついてその周期(何分位間をおくか)を観測すること。
5.子供を片手に抱いて,片手で流れて来た丸太(太いものだった)に取付いたが,その丸太がクルリ,クルリと回転して何回も子供もろ共水の中に沈んだ。その中に強い波に押されてとうとう子供をはなしてしまった。太い丸太にすがるものではない。そして後から考えると,そこは肩位の深さで背の立つ場所だった。しかしどうしても足が地に届かなかった。もっと落ちついて対処したら立てたったろうし,また立てなくとも丸太の木口にまわって取り付けばよかった。………これは生後7ヵ月たった一人の子供を犠牲にした岩城さんの経験談である。
6.ローソクやマッチは,電灯の便利さに馴れて準備しておかない人が多いが,これは常に家内が周知するようにして常備しておくこと。
7.炊事用のプロパン瓦斯は今度の津波では大変便利だったこと。
8.着のみ着のままで飛び出すので,食物,飲物(水)穿物,薬,チリ紙,手拭等は何よりも先に欲しいものであること,(山の手に住む人達が見物に行くのでなしに,馳けつけるなら此の事を考えて一品でも二品でも救助の実を挙げるために行く覚悟が必要であろう。)
9.流失物を探す段になると,人間の浅ましさが露骨になるのが世の中の常であるが,あくまでも立派な態度であるべきである。明治29年の津波でも,昭和8年の津波でも,今尚その悪評を言い伝えられている人があることは残念なことである。………ああ有難やお津波様よ,わたしの代にはもう一度,孫子の代には二度三度………という都々逸は,憎んでも余りある悪徳漢への憤りを笑いにまぎらした精一パイの軽べつなのである。
編者は今回のそうした悲しむべき事実を警察署で調査して見た。勿論名前はわからないが,数は次の通りである。
○横領3 内漂流物1,配給1,手伝1。
○窃盗5 内屋内1,屋外4。
以上は大船渡市内の津波関係であるが,一般窃盗は次の様に表に統計されていた。
全国を挙げて被災地救援に起ち上って連日金員物資が送り込まれているその陰にかくれて,こんな悪徳漢がうす気味悪くほくそえんでいることを思うべきである。いや国内だけではない。遠く外国からまで救援の手がのべられている。我が郷土は忽ちにして復興の姿に立ち返った。それは自分の生活をきりつめても気の毒な人々を援けようとした隣人の同胞愛,人類愛の賜物でなくて何であろう。忘れてならぬものはこの尊い人類愛の力である。
10.醜聞が長く言い伝えられ,語り継がれて,後々まで残る割合には,美談が間もなく忘れられてしまうものである。今回のチリ地震津波でも称讃に値する数々の善行美徳があった事であろう。しかし,余りそれが人の口の端に上る事が少なかったのではないかと思う。編者も縁古親族の被災に気を奪われていたので,聞きのがしてしまったのであるかも知れない。もっとも8に述べたような不徳漢以外の人々は凡て善行美談の対照者であり,あの大災難の真只中にあって,郷土の復興に驚くべき真剣さを発揮したのであるから,それがそのまま善行美談である筈である。そういう意味でこの記念誌には特に個人の善行美談というものは取扱わぬことにした。
11.災害が必ずしも政治の貧困から来るものばかりではないが,チリ地震津波当時の中央は,まことに騒然たる有様で,市当局,県当局が必死の活動をしたにも拘らず,思うような臨機応変の被災民を満足させるものに乏しかったようだ。日米安全保障条約,アイゼンハアー訪日,ハガチーの羽田事件,全学連デモ事件という一連の政治的不安国内情勢から,打倒岸政権の主として党利党略の混乱は,東北の零細漁民農民が親を失い子を失い,財を流失して住むに家なく,食うに糧のない,全くの修羅場に右往左往している真最中だったのである。これはあまりにも東北を無視した情勢だったと言っては間違いだろうか。少し虫がよすぎるかも知れないが,一切をストップして全力を津波被災地救援に向けたならば,どういうものであったろうか。これが政治というものではあるまいか。子々孫々に語りつぐべき重要項目として,あの中央情勢も見逃してはならぬ一項目であろう。

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大船渡市内 窃盗
4.音響現象,発光現象,前兆現象(昭和8年の津波に於ける) (昭和8年,中央気象台調査報告より)

強震後各地に於て異常な音響を聞いた所が多い。此の音響は大砲を打った様な響と云うのが多く,而も多くは海岸で聞かれている。其の為め或は津波が海岸断崖に打当った時の響では無いかとも考えられる。今此の音響が如何なる原因によるものかを明かにするために各調査員の報告及び三陸地方の各管内観測所の報告によって調査して見ようと思う。


岩手県(53個所中30)
盛岡(震前地鳴,震後27分東方に鳴動)猿沢(震前地鳴)大原(震後東方に鳴動)若柳(震後東方に砲声の如き音3回)岩谷堂(震後鳴動)永岡(震後鳴動2回)湯田(震後砲声の如き音)沢内(震後遠雷の如き音南東へ3回)岩根橋(震前に地鳴,震後30分南東に砲声の如き音2回)附馬牛(震後5分砲声の如き音3回)西山(震後北東へ砲声の如き音2回)大志田(震前遠雷の如き音2回)雫石(震後遠雷の如き音)松尾(地鳴あり)御堂(震後遠雷の如き音)葛巻(震後地嶋)浄法寺(震前地鳴)田山(震後30分南東方に地鳴)荒沢(震後大砲の如き音)一戸(震後30分砲声の如き音)福岡(震後地鳴)金田一(震後30分砲声の如き音)種市(震後地鳴)久慈(震前地鳴)宇部(震後35分砲声の如き音)山形(震後地鳴)山田(震後10分鳴動)釜石(震後砲声の如き音)田子(震後砲声の如き音)盛(震後30分南東に砲声の如き音聴く)


宮城県(13個所中7)
気仙沼(震後5分音響)若柳(2時34分,同50分,弱音2回,2時50分砲声の如き音)登米(砲声の如き音)吉岡(東方に雷鳴の如き音3回)大河原(音響らしき音)松倉(2時54分,同56分南東に爆音)湯原(暴風の如き音)


青森県(20個所中8)
三厩(震後46秒雷鳴の如き音響)蟹田(発震直後地鳴)金木(発震後30秒風声の如き地鳴)泊(地震終る頃午砲の如き音響)黒石(発震直後風声の如き地鳴)七戸(震後直に雷鳴の如き音響)休屋(震後雷嶋の如き音響)三戸(東方に大砲の如き音響3回)


福島県(23個所中6)
安積(地震前車橋上を走る如き音響)三阪(音響甚だ多)田島(音響激し)川俣(遠雷の如き音響)上遠野(声響あり)棚倉(発震数秒内声響あり)


秋田県(15個所中9)
毛馬内(震後爆発様音響)花輪(2時50分ドドンと音す)大館(震前南西より風声の如き響あり,地震直後遠雷の如き音)鷹の巣(声響あり)船川(地鳴あり)角館(弱き地鳴)大曲(2時58分に1回,3時に連続2回,東北東方向に大砲の如き音)本荘(声響を伴う)矢島(音響あり)


北海道(57個所中ll)
静内(震後声鳴)土武佐(東西方向に地鳴)納沙布(地鳴西より東へ)西別(弱き地響)舌辛(音響を伴ふ)標茶(風声の如き音響)大津(誤前2秒,強風の如き地嶋)夕張(地鳴あり南西方)森(車橋上を走る如き声響)石狩灯台(弱き地鳴)恵山岬(地捻の如き弱き地鳴)


茨城県(17個所中5)
大子(地鳴あり)直壁,結城,水海道,守谷(何れも地鳴あり)


千葉県(40個所中1)
多古(震前車橋上を通る如き地鳴)


栃木県(9個所中2)
佐野,矢板(何れも地鳴あり)


埼玉県(25個所中3)
岩槻(自動車走る如き音響)槻川(発震15秒前東方に風声の如き音)本庄(西北西より遠く地鳴)


神奈川県(14個所中1)
姥子(ゴーゴーと云う地鳴を聞いたものあり)


群馬県(22個所中1)
萬場(地震と同時に風声の如き地鳴)


山梨県(23個所中1)
山中(僅かに地鳴聞く)


長野県(22個所中2)
境(鳴響あり)上田(地震前風声の如き響)


岐阜県(8個所中1)
高鷲(地嶋あり)


以上報告を総括して見るに,砲声の如き鳴響を聞いた所は岩手,宮城,青森,秋田の4県下に限られ,然も凡て地震後に聞いて居る。更に斯様な音を聴取した所で聴取時刻を測り得た7回につき平均時刻を求めて見ると,大体発震後30分乃至35分となっている。又以上4県下で地震前に地鳴を聞いた所は6個所で其の音は単に鳴響或は風声の如く聞えた様なものであった。之れは恐らく主要動の前に聴いたものであろう。
更に遠距離の地方でも地鳴を聴いた所もあるが,之等は遠雷の様な音或は風声の様な音が最も多く,砲声の如き音と云う所はない。又砲声の様な音を聞いた所を調べて見ると其の中最も遠距離な所は秋田県の大曲,花輪等であって,太平洋海岸から最短130キロも距って居る。若し此の砲声或は爆音の如き音が海岸の断崖へ巨浪が打当った音と仮定しても,夫れが130キロの遠距離迄聞える位大きかったと云う事は極めて疑はしい。
又秋田県下で此の音を聞いた時刻は2時50分乃至3時であって,丁度津波が三陸沿岸へ襲来したのは同時刻或は夫れより少し前である。然も音響は三陸沿岸から秋田県下迄10分位の走時を要するから,之から見ても各地で聴取した砲声或は,爆音の如き音は波浪が断崖に激突した時に生じた音とは考えられぬはずである。


次に各踏査班が調査した三陸沿岸各地に於ける音響聴取状態を調べて見る。


宮城県
小積砲 声様の音3回。
小網倉 砲声様の音2回,津波の少し前に聴く。
大原 津波の少し前砲声様の音,更に15分後微■回。
小淵 震後東方に砲声様の音3回。
十入成 震後30分東方に砲声様の音2回。
鮎川 震後30分東方に砲声様の音。
大谷川 震後25分砲声様の音。
女川 震後東方に汽車の如き大音響。更に北方に銃砲様の音2回。
雄勝 3時10分東方にゴーと云う大音響2回。
立浜 地震と津波との間にゴーと云う音。
荒屋敷 地震直後東方にゴーと云う音。
小泊 津波の5分前沖の方で砲声様の音2回。
大指 津波直前砲声様の音沖に聞ゆ。
小指 同様。
志津川 地震直後砲声あり。
大泉大沢 地震後東方へ音を聞く。
前浜 震後2〜30分大音響あり。之れから5分後微音あり。
尾崎 片浜,七半沢,台ノ沢,浪板、気仙沼,同前。
小々汐 震後音響聞ゆ。
岩井崎 津波直前ダイナマイト爆音の如き音東方に聞ゆ。
鶴ケ浦 津波直前爆音あり,更に5分後微音。
梶の浦 震後20分音響。
宿 震後20分音響。
小鯖 3時頃ドンと爆声。
安波山灯標 2時30分頃音響。
只越 津波前引潮と共に爆音2回あり。後のもの稍小。
唐桑大沢 震後20分音響。
欠浜 震後8分東北東に砲声様の音を聞く,後5分稍小なる音。更に25分後稍大なる音あり。


岩手県
長部 震後25分音響。
高田 震後20分南々東から底力あるドンと云う音2回。
根崎 震後20分東方に爆声あり更に8分後微音。
両替 震後20分ダイナマイトの如き爆音。
泊港 震後25分東方にハッパの如き爆音。
唯出 震後20分砲声の如き音2回。
碁石 震後10分乃至25分爆音2回。
泊里 同前。
細浦 震後25分西方に音響。
大船渡 震後30分東方に大きくないが強い音を聞く。
綾里 震後20分東方にハッパの如き音。
砂子浜 震後20分砲声の如き音東方に2,3回。
吉浜 震後15分沖合に砲声の如き音。
釜石 震後15分東方に底力ある遠雷の如き音3回。
鵜住居 震後10分沖合に遠雷の如き音。
伝作鼻 震後10分砲声の如き声1回。
湊 震後30分遠雷の如き音。


青森県
鮫 震後25分南東方に異状音を聞く。
三川目 震後10分北方に砲声様の音。
四川目 地震中砲声の如き音。
五川目 震後10分乃至20分地響ある砲声の如き音。
淋代 震後間もなく砲声の如き音。
六川目 砲声を聴く。
織笠 震後ドーンと云う音地中より響き来る如し。
塩釜 震後聞もなく雷の如き音。
天ケ森 震後ドーンと云う音聞ゆ。
尾鮫 震後15分砲声の如き音。
平沼ケ浜 震後雷鳴の如き音2回。
平沼 震後15分ドンドンと云う音聞ゆ。
木野部 3時半頃砲声様の音聞ゆ。余韻あり。


以上調査した結果を総合して見るに,音響は殆んど全部砲声或は爆音の如きものを聴取して居り其の時刻は,凡ての個所にて津波襲来前,即ち海水が退いた前後にドーンと云う音が聞えたというのが多い,そうして聴取時刻は最も遅い所で3時10分,速い所で2時30分であり,全52個所の平均は2時52分となっている。而して之等各地の震央距離の平均は274キロであるから,之れから算出すると音波速度は秒速度約230mとなってグーテンベルヒの走時表中最も遅いものとは一致するが,通常のものの3分の2強にしか当らない。然し之れは平均の値であるし,又材料が不正確の嫌いがある故之れから音波速度を論ずるのは,無理である。
又音を聴取した状態を見ても2回或は3回も聞いた所がある。而して2回目或は3回目の音は微かなものであったと云うのが多い。之れから見ると2回目或は3回目め音は反射音であろうかとも考えられる。
要するに地震と津波との間に於て聴取した砲声或は爆音の如き音響は地鳴であって,断崖へ巨波が激突したために生じたものでは無いらしい。此の音の走時曲線も,各地の震央距離を測定して書いて見たが何しろ材料が住民諸氏の談話を総合したものであるため正鵠を欠き,適当なものが得られなかった。


次に海鳴或は潮音であるが,津波が押寄せる頃には沿岸各地で多く海鳴或は潮音を聴いている。其の様な音を聴取した状況は下の如くである。


宮城県
坂元 震後30分乃至1時間海鳴強し。
荒浜 震後10分,30分に海鳴あり,4時頃甚強し。
網地島 第1回の津波来る時,金華山方面にザアーと云う音を聞く。
伊里前 津波が来る時ゴーッと云う音聞ゆ。
名足 潮が引いた後ゴーと云う音が聞ゆ。


岩手県
唯出 震後30分乃至40分海鳴2回聞ゆ。
千鶏 3時ゴーゴーたる音聞えて津波来る。
重茂 3時ゴーゴーたる波音聞ゆ。
赤前 3時8分遠方にゴーゴーたる音聞え,次第に高くなる。
宮古 3時2分強風吹荒む如き音聞ゆ。
野田 震後30分強風の如き鳴動と共に津波来る。
八木 雷鳴の如き音と共に津波来る。


青森県
小舟渡 震後30分ゴロゴロと石を転ばす如き音と共に潮退く。
細谷 震後30分ゴーゴーたる音聞ゆ。


要するに海鳴と思わるる現象は津波襲来の際の波音であって巨波の寄押せる前に遠く沖合で聞えた音,或は海水が退いた時の波音であったと思われる。従って気象学上で云う如き海鳴の現象は観察されて居ない。


津波の前兆


津波の前兆とも見られる可き異状現象が所々に於て観察されている。其の様な現象としては魚類の棲息状態の変化,土地の沈降及び井水位の変化である。今各調査員の実地踏査による之等諸現象は下の如くである。


宮城県
大谷川 潮が退いた後井戸の中は空になって居た。併し地震の最中には尚水があった。
名足 津波により魚類,章魚,鮑迄も打揚げられていた。鮑が打ち上げられたと云う例は今迄なかっな様である。
気仙沼 改修事務所では、2日前より潮位低下し,工事渉った由。同所潮位は平常4.0乃至3.Omである可きが0.7mであった由。
大島 2月中旬から井水減少,海苔製造に故障を生じた。今迄井水は季節降水量によっても減少する事はなかったが,今回始めてにて,特に要害で著しかった。西海岸沈降しつつあるものの如く海岸に沿う村道は10年間に3回陸地の方へ改修した。80年前と現在の村道の高低差は2mに及ぶ。
欠浜 4季を通じ今迄減水した事もない井戸が2月中旬から目立って減水した。


岩手県
越喜来 小学校長小原氏の調査によれば,本村高所にある井戸にて直接津波による被害其の他無き6個所の井戸は凡て異常を呈した。即ち何れも渇水混濁したが其の期日は一定していない。20日前よりのもの1,4〜5日前よりのもめ1,3日前よりのもの2,3日前よりのもの1,2月中旬から1週間に亘ったもの等であった。
釜石 地震後井戸著しく減少し,殆んど渇水状態となったが4日常態に帰る。
船越 数日前から井戸水減少し津波後渇水した。
織笠 地震後井水半減した。
大沢 井水減少したと称するものがあった。
千■ 昨昭和7年4月上旬から中旬に亘り,鞭藻類群集浮流した。
重茂 昨年2月頃から厄水(フノリを溶した様なもの)流れ来り昨年5〜6月頃最も著しく8月頃に止んだ。
鵜■ 鰈,アプラメ,スイ等が打揚げられた。
赤前 赤貝等多数打揚られた。
金浜 鰈,ドンコの類が打揚られた。
田老 冬期鰯の大漁があった。


青森県
川口 強震2日前から潮位1m下る。井戸渇水した。


以上の如くであって前兆と見倣さる可き現象としては,
(1)2月頃から井水の水位減少した。
(2)2日前から潮位が著しく低下した。
(3)10年来陸地の沈降が起りつつあった。
(4)昨春鞭藻類が群集浮流した。
(5)咋冬から今春にかけ鰯の大漁があった。此の現象は三陸沿岸至る所で観察された現象である。
上の中井水位の減少所々で観測されて居るが,之れは明治29年の大津波の際にも現われた現象であるため特に注意して観測されたものである。併し宮城県大原,十八成では震後直ちに井水を検査したが水位の変化は認められなかった由である。兎に角所によって井水位に変化を来した事は何によるものか判らぬが注意すべき現象である。それと共に潮位の変化が又関連しているとも見られる。
即ち潮位変化は2〜3日前から起ったと称する所もあり,気仙沼の如きは験潮儀にも現われて居るから先ず確かなものと見られる。之れは相対的現象であって海水の減退によるものか陸地の隆起によるものか判明しない。然るに一方宮城県大島村長の談によれば大島沿岸の陸地は10年来次第に隆起しつつあった由である。此の両者の減少は全く反対なものであるが,今迄長年に亘り徐々に隆起しつつあった陸地が発震直前急激な沈降に移ったとも考えられる。
陸地沈降の現象はまた本台鷺坂清信氏が宮城県南部に於いて津波が打上げた高さを調査し,之れを明治29年の際のものと比較した結果から立証している。果して地震前に於いて陸地の隆起沈降等の現象が起ったか何うか之れは興味ある現象として尚今後の精査に俟たねばならない。
昨冬から今春にかけて鰯の大漁があったと云う現象は明治29年の大津波前にも同様観測された事である。此の現象から鰯が地震を予知して移動したと称する向もあるが,著者は夫よりも1月来頻々として発現した,局発性前震のため,鰯が移動したと考える方が合理的では無いかと思っている。尚鞭藻の浮流に就いてはそれが約10ヵ月も以前に起った現象であるから何とも云い難い点がある。
以上今回の強震の前兆とも見倣さる可き現象には数種あって何れも前回,明治29年の大津波の際にも観察された現象と一致して居るのは興味ある事で,何れの現象も今後更に注意して観測する事を要すべき事柄と考えられる。


発光現象
武者金吉氏によって特に注意された此の現象に就ても著者は各踏査員に依頼して現象の現不現を確める事とした。各調査員の踏査結果は下の如くである。


宮城県
亘理,荒浜,角由,閑上,川崎,鳴子,鎌先,荻浜,認めず。
小積 無し。但し海面キラキラと光っていた。
小網倉 認めず。
小淵 地震と津波との間に於て北東方に2.3回稲妻様の光を見る。
鮎川 一般に認めず,但し山火事の如き光物を北西方の空に見たものあり。
渡波 南西方の空に南から北へ亘り稲妻様の薄蒼き光を見たものあり。
金華山 灯台看守震後徹宵して観測したが,発光現象なし。
川渡 東北東の空に蒼光あり,2,3度漏電の如き怪光あり。
前網 寄網,飯子浜,光認めず。
女川 特別な光なし,津波の波頭砕けて淡く光る。
出島 尾浦,御前,立浜,桑浜,小泊,小室,光を認めず。
雄勝 東方に稲妻様の光を見たと云うものあり。第1回爆音と津波との間に沖の方薄明るくなる。
志津川 発震直後光あり。最初青光にて間もなく赤色に変じ尾を引いて消ゆ。
長崎 認めず。
安波山灯標 震後2度,南東の空に薄い青白色の光あり。
只越 波が岩に砕ける時青白く光り放電光の如し。
欠浜 光を認めず。


岩手県
碁石,門之浜湾奥,泊里,光を認めず。
大船渡 震後青光を見る。
生形 震後東南東に明るい青光を数回見る。
下甫嶺 泊,浦浜,■崎灯台,光を認めず。
川代 震後西空に青色光象を見たものあり。
千■ 強震後1回ピカッと青白色眼前光る。
重茂 強震後発光現象3回あり。


青森県
二川目 地震と共に南方に電光の如き光を見たものあり。直ちに停電す。
三川目 震後南方に放射状光映る。
四川目 南方空薄明るくなる。津波の波頭光る。
五川目 砲声の如き音の後,窓にチラリと稲妻様の光が映るのを見る。
織笠 光りを見る。
天ケ森 電光の如き光あり。
尾鮫 稲妻様の光を見たと云うものあり。
平作ケ浜 電光様の光を見たものあり。


神奈川県
姥子 地震と共に稲妻様の閃光東方の空だけに見ゆ。電気のスパークの如く青白くピカッピカッと頻りに断続す。
箱根町 東方の空にピカット光った様に見ゆ。


茨城県
筑波東山 震動中東南東にパッパッと2回光る。筑波ケーブルカー宮脇停車場,震動中南方へ雲あり,其の後でパッパッ3回光る。色薄青し。


上の外測候所及び管内観測所で発光現象を認めて之を観測した処は僅かに下の3個所であった。
秋田測候所 2時35分即ち発震後3分,構内にて北方に当り青白き電光の如きもの2条を見る。
同所管内大曲 2時35分東南東の空に青白き電光の如きものを見る。
盛岡測候所 本震最中南方に発光現象あり。


此の外個人にて発行現象を観測報告せられた分は左の2件である。
窪田瀬吉氏報告(東京市大森区新井宿四丁目本台宛)
本震にて家族一同戸外に飛出しましたが,最大振幅を感ずると同時に北西(寧ろ北よりに)の空より電光一閃致しました。普通はピカピカと瞬きますが昨夜のはピカッと一閃したのみの様でした。先年箱根地方大地震の時は,西南方の空にピカピカ致したのを見ました。


中井友三氏報告(茨城県平磯町電気試験所,藤原技師宛)
発光現象発見当時の経緯,地震を感ずると同時に起床,暫し様子を伺ひ居り候ひしも継続時間長くして終熄の様子も見えざる故に万一の場合逃出しの準備として雨戸(南向き)を一枚開け暫し外を見て居る内に南方の空に発光を認め候。
発光の時刻及び光の継続時間,大体の見当で最初に地震を人体に感じ始めてから約3,4分後,光は殆んど瞬間的。
方向及び光度,南方暗夜のこととて対照物無きため正確のこと不明なれど大体の見当で距離約10mの広場を隔てて存在する平家の屋根の少し上位,比較的低き空間に発見。
形及び色 形は一つの線よりなる。色はアークの色に近い様な淡青緑色恰も虹状で,只色が単色であると云う点が虹と違う円弧の半径は大体の見当で普通の虹の半径と同等か,線の幅は虹の7色の線全体の幅よりも細い様に感じた線は相当はっきりした。線光度は弱い方,当夜は晴天にて星光を諸所に認めた。
前述の如くにして此の光が電力線,電灯線の切断等により生ずる火花或はアークに依るものに非ざることは光の形よりして容易に相像し得らるることにして,又当地は水戸に候へ共其の光を認めた方向には斯かる電力線,電灯線は無之候(但し当家より南へ数町先迄は電灯線有之候,以上は小生の住家水戸市上市備前町)に於ての記事に候。同日平磯の役所にて此の話を致し候処,平磯でも同時刻頃に南方に光を認めたと云う者1名有之候,但し平磯に於ける光はサーチライト状の光だったと申候,但し平磯の方の話は確信を以て御紹介出来不申候以上。


扨て,前述した報告中各調査員が踏査した個所合計266個所中発光現象と認めたと云う個所は僅かに19個所であったが,其の光は電光様のものと云うのに一致して居る様である。又金華山灯台の如く徹夜注意して見て居たが光象を認めなかったと云う様な処もあり,斯様な所さえ22個所もある。更に以上発光現象を観測したものにつき大体其の性質を見るに。
色。判然と色を指摘した所ll個所中青白色と云うのが7,青色が3,青緑色が1であって大体青味がかった色である事に一致している。其の外電光様と称するのが多いから先ず凡てが青味勝ちの色と思われる。
形。形を指摘した16個中稲妻状と云うのが6,電光状と云うのが6,山火事の如き,放射状の如き,尾を引いた如き,弧状の如きと云うのが各一であった。稲妻状と電光状と云うものの差は何うであるか判らぬが,先づ電光状と云うのに一致していると見る可きであろう。青森県二川目の如き電光様発光現象後に停電したと云う所もある。
方向。方向は全く一致せず,あらゆる方向に認めている。宮城県南部では北東,北西,南西,東北東各一であり,岩手県では東南東,西,北各一で更に眼前に光ったと云うものあり,青森県では南方3,茨城県では南方2,東南東1,東京都では北西,神奈川県では東方2,となっている。即ち震央の方向とは殆んど一致せず寧ろ震央とは反対の方向に見たものが多い。
斯様にして見ると発光現象と云うものは,少くとも今回の三陸強震では電光様のものが多く高圧線のショートによると見られる場合が多い様である。併し尚此の現象の本性に就いては今後の調査によらねばならない。
尚津波の際沖合の方の海が青白く光ったとか,波頭が青白く光ったと云う様な観測をした向も多いが,之れは海面に浮游するプランクトンの如き微生物による光であろう。

5.津波対策は六ケ敷い —編者—

「地震があったら津波の用心」という警句は昭和8年の三陸津波以来,到るところの海岸に見られる津波記念碑文のきまり文句である。ところが,今度のチリ地震津波の無警告津波の経験から,従来の碑文は書換えなければならない,と大分評判が悪くなった。
しかし,それは早合点である。やっぱり,津波は九分九里まで地震が伴って来る災禍なのである。無警告津波といわれたチリ地震津波も,その名の示す通り地震がもたらした海水の暴力であって,無警告と思われたのは遠地地震のため,日本の人々に感じなかっただけの事で,実は海底震源の未曾有の大地震であって,地震計には間違いなくその振動の記録を印していたのである。その地震の規模は8と3/4(Magnitude)という有史以来最大のものであった。しかもそれに伴って日本を襲った津波は,全く従来のものとその様相を異にし,奥深く入り込んだ長い湾の奥程波高が大で,太洋に直接する湾頭は全く被害知らずという型のものであった。今まで度々の津波に被害がなかった地域が,今回は最も大きな被害を受けたという,津波概念を改めねばならないものであったのである。
そこで,今回の津波で,津波対策なるものは各地で大きく取上げられ,衆智を集めて論議された様であるが,それは簡単な問題ではなかった。甲案あり,乙案あり,素人案あり,専問家案あり,しかもどれが真に適確なものなのか,これまた簡単なものではなく,言うならば何れも,やらないりよは安心だ,という程度のものなのである。
これは,一体なぜであろうか,さすがの学者陣も,自信あり確信ある津波対策なしということは,結論的に言って,決定的な地震学なく,従って決定的な津波の学問がないという結果から来る結論なのである。残念ながら我国には(勿論外国にも)地震学なく,津波学なしというのが,真相なのである。
今,岩波新書80,坪井忠二先生著,「地震の話」によって,以上述べた世界に地震学なし,従って津波学なしということを,坪井先生自身の口から話してもらうこととする。この坪井先生の地震の話は,173頁の小冊子であるが,その最後に結論として次のように述べて居られるので,その結論を先に書いた方がよいと思う。それにはこう書いてある。


x x x
……………その破壊の一歩手前で,地表に於て何か特殊の現象が観察されてもよい筈であります。そうしてその現象こそ,永年の宿題たる地震の予知に光明を投ずるものでなければなりません。
地震の前に必ず起る現象と,地震の後に必ず起る現象とが捉えられたとしても,純粋に学問的の立場からいうならば,どちらが学問的により価値があるという事はありません。併し社会的にその直接の幸福からいうならば,地震の前に必ず起る現象を捉え得て,若し地震の予知の問題に貢献し得るなら,これも亦,研究者の本懐であるといわなければなりません。今日では末だ残念ながら有効適切な予知が可能なる域には達していませんが,2・3の注目すべき現象もわかりかけています。前に述べた地殼の変動などもその一例ですが,この他いつも地表に沿って流れている電流が,地震の前に向きや大きさを変ずる事もある様であります。その他,地下水の水位が変ったとか,大きな地震の前に,小さな地震が群発するという場合も皆無ではありませんが,これとても地震の前に必ず起る現象であるというのでもなく,又この様な現象が起っても大きい地震が必ずあるというのでもありませんから,事柄は簡単ではありません。
一口に地震の予知といいますが,それが起る場所と時と大きさとをかなり詳しく指定するのでなければ,一般の人の要求する所と合致するとはいえますまい。例えば「今後200年以内に東京に大地震がある。」といっても,一般の人は恐らく自分の生涯とは何の関係ない事として耳を傾ける事はないでしょう。又「今後10年以内に日本のどこかに大地震がある。」といっても,同様に無関心でいるでしょう。併しこの様な統計に立脚した警告でさえ,政府が国家100年の大計を立案する上には参考として有効であり,この点は是非とも考慮に入れてもらわなければならないと考らられます。
大きさを限定せず,「東京に今週中に地震がある。」といえば,これは人間に感じない小さい地震も入れれば常に殆んど本当であって,これも一般人にとって有効適切な予報であるとはいえないでしょう。一般人にとって有効適切なる予報とは,時からいっても,場所からいっても,大きさからいっても「某年某月,某県に破壊的地震あるべし」といった程度のものではないかと思われます。
感じるか感じないかという様な小さい地震が予報された所で,一般人にとっては恐らく何等の興味もありますまい。それは住宅なり工場なりが,そんな地震には充分耐え得る位強く出来ているからです。若しあらゆる住宅が,あらゆる工場が,あらゆる土木施設が,どんな大地震が来てもびくともしない様に丈夫に出来ているものならば,大地震とても恐るるには足りないかも知れません。地震の予知が要求されるということは,畢竟それだけの準備が出来ていないからだとも云えましょう。それだけの準備,それだけの施設がありさえすれば,地震が来ても,震災が起らない様にすることは,敢て不可能なことではありません。
地震の本性を明にしようと地震学者は常に勉強しています。前途なお遠き憾みはありますが,地震の本性が明かになった時こそ,それは有効適切な地震の予報の可能なる日でもありましょう。
併し,仮りに地震の予知が希望通りに出来たとしても,その発生を人為的に抑制する事が不可能である以上,震災を根絶せしむる唯一の途はあらゆる施設を完全に耐震的にする事以外にはありません。この解りきった事さえ中々実行されないのが実情であります。かくて,地震学者は,一方においては地震の本性の究明に精進し,引いては地震予知の問題に対しても一歩一歩前進を続け乍ら,又他方に於いては,あらゆる施設が耐震的になって,地震の予知さえ不必要とするに到る日が一日も速く来る事を望んでいるのです。


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地震の話で,坪井先生は以上の様な結論を述べて居られるのであるが,これはこの地震学の現段階を結論的に述べたものであるけれども,これを津波にあてはめて考えても同じ事である。津波は九分九里まで地震によって起るものであるし,又その起り方,その大きさ,その襲来状況等は,地震の予知が出来ないと同様,現在の地震学,津波学では,適確な予報は出来ないのである。地震に対しては結局耐震的施設を作ること以外に適確有効な対策がないのと同様に,津波に対しては,水の届かない高所に住宅を構える以外には絶対有効な対策はないのである。このわかりきった津波対策が実行されないところに,対策の問題点があるのではなかろうか。今から210年前,チリのコンセプション市は全市を高所に移転するという大事業をなし遂げ,昭和8年の三陸津波では,我が綾里村が殆んど全村を高所へ移転するという賢明な対策を実行した。この二つは学者間に於て高く評価されているものである。さて坪井先生の地震の話の結論を先に御紹介したのであるが,再び地震の話にもどって,地震の正体はどこまで把握されているものであるかをうかがって見ることにする。


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地震の起る時。(地震の話第29頁以降から抜書)さてこれから地震の事を調べてゆこうというのですが,何よりも先に先ず問題になるのは,地震の起る時に関することであります。地震は夏でも冬でも,又昼間でも夜でも,時を選ばずに起るのは我々が知っている通りですが,非常に沢山ある地震を統計的に調べたならば,1年の中に比較的起り易い季節があるのではないか,又1日の中にも起り易い時があるのではないかという事は誰しも考える事です。こういう統計的な調べは,日本の様に地震回数が多い場所の材料を使えば,かなり確実なるものが得られる筈であり,又実際前からよく調べられているのですが,それ等の結果をただここに羅列することは止めにして,ここでは近頃の材料を使ってもう一ぺん改めて考えて見ようと思います。
それで昔から日本に起った地震の中で,家をこわしたり,犠牲者を出したりした破壊的の地震,所謂大地震に就いて先づ調べる事として,その記録を「理科年表」から拾い出して見ますと,総計295回あります。何れも,もとは昔の文書に載っでいるものでありますが,それ等の昔の記録は旧暦で書いてありますから,これを先づ我々が現在使って居る様な太陽暦に直さなければなりません。これは可なり面倒な事ですが,「理科年表」には太陽暦に直した方の日付も書き並べてありますから,それをその儘借用する事にして,この295回の回数を月別に勘定して春,夏,秋,冬の四季に分けて見ると,次の通りになります。
この表を見るとすぐわかる通り,大地震は目立って夏に多く,冬に少く,多い順に夏,秋,春,冬となっています。冬の58回に較べて見ると,夏は殆んどその2倍に近い101回にも及んでいます。兎も角これは著しい事といわなければなりません。
さてこの様に地震は夏に多いということは,少くとも大地震については上の様に明瞭でありますが,これが大地震だけに限ることなのか,それとも小さい地震でも同じ様にそうなのかが早速次の問題になります。それを調べるには,色々な大きさの地震について,それが何年何月何日に起ったという確かな記録がなければなりません。前にも一寸述べた通り,日本には中央気象台発行の「気象要覧」という印刷物があって,その中には地震の大きさ,起った時刻,起った場所などが,ちゃんと記録されていますから,これによってこの調べをする事が出来ます。そこでその中から顕著地震,及び稍顕著地震と称せられているもの,つまりその規模が相当に大きいものだけを拾い出して見ますと,大正元年以来昭和14年迄の28年間に合計1709回に達しますが,これを前と同じ様に四季に分け月別の回数にして見ると次の表の通りになります。
この結果を見ますと,この程度の地震は夏に一番少く,冬に一番多い事になっていますから,前の大地震の場合と全くその傾向が反対です。つまり大地震は夏に多いが,中位の地震は却って夏に少いという事が解ったのであります。顕著地震,稍顕著地震といってもその大きさについて,あまり判然とした規準がある訳でもありませんが,回数から見ますと,大正元年から昭和14年迄の28年間に1709回起ったのですから,平均すると毎月5回余りの割合で日本のどこかに起っている位の程度のものです,前に数えた大地震は同じ28年間に25回起っています。
それならもっと小さい地震については,どうなって居るか,これは当然次に起る疑問です。これについても「気象要覧」を使う事とし,その中から所謂無感覚地震,つまり日本中で誰も身体に感じなかったが,地震計には記録されたという位の小さな地震まで全部拾って数えて見ますと,これは大正元年から昭和14年までの28年間に約13万という大変な数に上ります。これについても前と同じ様に四季に分けてその回数を数えて見ると次の様になります。この表から解る様に小さな地震まで全部採って見ますと,矢張り大地震とは傾向が反対で,夏に少ない事がわかります。
兎も角これで,大地震は夏に多く,小さい地震は却って夏に少いという事が解ったのでありますが,これだけで問題が解決してしまったのでは決してありません。第一に,季節による回数の変化が,大きい地震と小さい地震とで何故反対の傾向を示すのであろうか。第二に,以上に述べた様な事は日本だけの事なのか,それとも世界中何処でも一般にそうなのかどうか,第三に,地震の頻度が何故季節によるものだろうか,等々問題がいくらでも後から後から出て来ます。
そこで先づ世界一般の傾向はどうなっているかを調べて見ようとすうわけですが,これに対して役に立つ様な長年にわたる地震回数の記録が,ひろく世界一般についてすぐ手に入るわけには行きません。殊にここで気をつけなければならないのは,同じく春夏秋冬といっても,地球の北半球と南半球とでは季節が反対で,北半球で夏といっている6月7月8月は南半球では寒い冬であり,南半球の夏は逆に北半球の冬であるわけですから,世界中の地震を一様に月別にして取扱うわけには行かないという事です。季節に分けるといっても,それが北半球と南半球とで違うのですから,地震一つ一つに就いて,それがどちらの半球で起ったものであるか明かでなければ困ります。こういう次第ですから昔から世界中に起った地震について,その場所も時もこの調べに役に立つ様に正しく精しく記録してある資料が欲しいのですが,そんなものは,なかなかあるものではありません。尤も「理科年表」には昔から世界中に起った大地震の表が載せてあって,これには,その起った時と大体の場所とが書いてあることはあるのですが,非常に昔の地震となると,起った場所なども余り正確であるとは云えませんし,又昔の事ですから,この表に載って居ない大地震がどの位あったかも判らないと思います。それで正確な事になると,大きい信用をおけるのは,矢張り地震計による機械的の観測が世界一般にひろく行われる様になった最近数10年間の材料であるという事になって仕舞います。世界中の国々が協力して地震計で観測した結果をまとめて発表して居るものに「世界地震概報」というものがある事は前に述べた通りですが,これには一つ一つの地震が起った場所の経度と緯度と時日とがちゃんと書いてあります。併しこの表に載って居る地震は相当大きいものばかりで,大地震という程ではなくても,前に調べた日本の顕著地震,稍顕著地震というよりは多少大きいものだけしか入って居ません。
さてこの「世界地震概報」には,大正2年から昭和5年迄の18年間に世界中に起った合計6,737回の地震が載って居ますが,その中で北半球に起ったもの5,112回に就いて,日本の場合に行ったのと同じように季節に分け月別にして見るとその回数は次の表の通りになります。
夏の地震が1,500回に近いのに反して,冬は1,000回許りでありますから,その割合は2対3に近く,夏に地震が多いという傾向は実に著るしく見えます。日本の場合に就いて前に求めた結果と考え合わせて,少くとも北半球では大きい地震は夏に多く,小さい地震は冬に多いという事だけは先づ確からしく見えます。
併しよく考えて見ると,地震の回数が一年の中で変化するという事実は確かであるとしても,それが直接にしろ間接にしろ所謂季節の影響であって,北半球のすべての処が一定の季節に一斉に地震が多くなるのかどうかは未だ明かではなかったのです。これを明かにする為には次の調べをして見ればよいわけです。即ち,第一に北半球では日本でもヨーロッパでも北アメリカでも,どこでも同じ様に,大きい地震は確かに夏に多いのかどうか,第二に北半球とは季節が反対の南半球ではこの関係はどうなって居るかという問題です。北半球全体として見れば確かに大きい地震は夏に多かったのですが,これは必ずしも北半球ではどこでもそうであるという事を示しているわけではありますまい。というのは,日本の様に地震の回数が非常に多い処に偶々夏に地震が多いとすると,若し他の場所で仮りに冬に地震が多いとしても,その回数が少ければ,北半球の地震を全体合計して見ると,地震が多い処の傾向に圧倒されて仕舞って居るおそれが多分にあるからです。それですから世界をいくつかの地域にこまかく分けて,夫々の地域で地震がどの季節に多いかを詳しく調べなければならなくなって来た訳です。そうかと云ってあまりこまかい地域にわけたのでは,その区域の中に起る地震の数が少くなって仕舞いますから,それでも困るのです。経度と緯度とで30度づつ位に区分した地域を採るのがまず適当と思はれます。この位の大きさの地域に分けて夫々の地域の中で,どの季節に地震が一番多いかを調べて見ます。材料としては矢張り「世界地震概報」に出て居る6,737回の地震を使います。こうやってこれらの地震が一番沢山起った季節を色々な地域に就いて調べて見ると,北半球で東半球の処つまり北東の四半球では3.4.5月に最大のある地域が3つ,6.7.8月に最大のある地域が6つ,9.10.ll月に最大のある地域が2つ,12.1.2月に最大のある地域が1つという結果になります。同じ様な事を他の場所に就いて調べて見ると次の表のようになります。
この結果を見ると,北半球では夏に地震が多いという様な簡単な結論は早急には出て来ない事が解ります。現に冬に地震が多い地方もある位です。それから又,若し地震の多少が所謂季節の影響であって,北半球では先づ6.7.8月に地震の多い地域が多いとするならば,南半球では逆に12.1.2月の頃地震が多いであろうと考えられますが,実際は必ずしも,そうなってはいません。こういう事になって来ると,問題はますますこみ入って来ます。併し兎も角日本の例でも解った様に,一つの特定の場所をとって見ると,地震の回数に一年を週期としたかなり著しい消長がある事だけは事実であります。唯それが季節の影響で生ずるのであるなどと簡単に云い切る事が出来ない事が解ったのです。
処がこういう調べをやっている間に,次に述べる様な事柄が気付かれて来ました。それは地方によって,地震回数の1年の間の消長が明瞭な処と,そうでなくて地震が1年中殆んど1様に起る処とがあるという事です。言葉を変えていうならば,見かけ上,1年という週期を持った外界の何かの変化に感じ易い処と感じ難い処とがあるという事です。これは何か地殼の構造か性状かによって生ずる事でありましょうが,この理由は末だ明瞭ではありません。というのは,この1年の変化に感じ易いという場所,即ち地震回数の1年週期が明瞭な場所が必ずしも近接した地域にあるとも限らず,又地理的に近くであっても,一方は感じ易く,他は殆んど感じないという様な処があるからです。こういう処まで来ると問題は解決したのではなく,却って後から後から解らない事ばかり出て来たというより外はありません。要するに,或る一つの地域をとって見ると,そこで起る地震が季節によって消長があるというだけしかいえないのです。簡単そうに見えたこんな問題でも,なかなかはっきりしません。
それからここにもう一つ大切な事を反省して見なければなりません。それは地震の回数が季節によって消長があるという事を述べたのですが,一体それはほんとうかという事なのです。1年を週期とする消長があったという事は今調べた地震に関する限り,確かな事実には違いありませんが,それはそうある筈でそうだったのか,それとも偶然そうなったのかという問題なのです。この点をもう少し,はっきりさせる為に骰子の例をひいて説明してみましょう。骰子というものは,若しそれが一様に出来ているならば,これを何回も沢山振った時,「一」から「六」までのどの目も皆その全回数の六分の一づつ出る。つまりどれか特定の目,例えば「三」「三」の出た回数を全体の回数で割った答は,全体の回数を非常に沢山にすれば,六分の一にいくらでも近づく筈のものであります。処がこの非常に沢山というのは実は曲者なので,何百回ならいいとか,何千回ならいいとか,はっきりしたものではないのです。今実際に骰子を600回振って見て,出た目の回数を数えて見たらば次の通りの結果になりました。どの目も決して百回づつ出てはいません。「五」は121回で「三」の78回に較べ5割以上も沢山出て居ります。
〔一〕……………110回 〔四〕……………86回
〔二〕……………111回 〔五〕……………121回
〔三〕……………78回 〔六〕……………94回
そこでこの場合に問題になるのは,これだけの結果から,この骰子は出来が悪くて,「五」が出易く「三」が出難いのだと言い切ってよいか,それとも末だ600回しか振らないので回数が足りないから,偶然にこんな結果になったのかという事です。
前の地震の場合でもこれと同じ事なので,この場合は月が12あるわけですから,12迄の目のある骰子をふるのに相当します。前に述べた日本の顕著地震及び稍顕著地震では,全体の回数が1,709回で,12月が一番多く166回,2月が一番少くてll4回だったのですが,これは丁度目が12ある骰子を1,709回振って,「十二」の目が166回,「二」の目が114回出たという場合に相当します。この場合に12月に地震が起り易いと云い切って良いか悪いかという問題は,つまりこの骰子が出来が悪くて,「十二」の目が特に出易いのであると言い切ってよいか悪いかという問題と同じ事です。即ち偶然としても夫々の目の出方にどの位の違いがある事が期待されるか,それに比較して実際の目の出方がどうなって居るかという事を調べた上でなければ,実際の骰子の出来が悪いのかどうか,地震が12月に起り易いかどうかは実は判然としないのであります。
偶然といえば骰子をこの1,709回振った時,皆「一」が出るという機会さえ皆無ではないのです。つまり1,709回振るという事を一つの操作として,この操作を非常に沢山やる中には,全部「一」が出るという事もあるかも知れないというのです。しかしこれ等は非常に極端な例で,偶然としてはまあ殆んど起らないのと同じ事ですから,実際の骰子を振って,1,709回が全部「一」が出たのなら,これは偶然ではない,骰子の出来が余程どうかして居ると言い切っても,十中八・九処ではなく,先づ全く間違いがないといっても差支え無いのです。つまり実際の地震の各月の回数の違いが,偶然としてもどの位の割合で起り得るという確率を考えて見て,その確率が小さければ小さい程,地震が何月かに起り易いという事に理由があるという事が確からしくなって来るのです。それで日本の場合に,顕著地震及び稍顕著地震が冬に多い,夏と比べて2割程多いという事は,偶然としてもどの位の割で起り得る事であるかを勘定して見ますと,50回に1回位は起ってもいい事になります。ですからこの程度の地震は冬に多いという事には何か理由があると考えても,50の中で49位迄は先づ本当であろうという事になります。それで今参考の為に全く偶然に起ると思はれる事の例として,十二目のある骰子を,日本の顕著地震及び稍顕著地震が起ったのと同じ回数,即ち1,709回振って見たらば,「一」から「十二」までの目の出た回数は次の表の通りでした。これと実際の地震が起った月別の回数と比較して見て下さい。要するに,少くとも或る地域では,1年の中に地震の起り易い時と起り難い時とあるという事だけは大体確かですが,何故こうなるかはこれだけの調べでは解りません。それでこれはこれとしておいて,今度は1日の中で矢張り地震が起り易い時と起り難い時とがあるかどうかを次に調べて見ましょう。材料としては,前と同じく日本に起った顕著地震及び稍顕著地震の1,709回を採ります。そうしてそれが起った時刻を調べて時間別に回数を数えてみると次の表のようになります。
次の表を見て実に明かな事は,1日を6時間づつ四つに分けて見ると,地震は昼過ぎの6時間に目立って少く,夜に多いという事です。昼間は我々の大部分が活動している時ですから,小さい地震ですと,それに気が付かない為に,見かけ上地震の回数が少い様に見える事があるかも知れませんが,今ここで取扱ったのは相当大きい地震の起った時刻を地震計で読取ったのですから,そういう心配はありません。さてそれならばもっとずっと小さい地震はどうなっているかを考えて見ますに,これに就いても今述べた様な心配がありますから,矢張り地震計で記録された地震だけを採る事とし,昭和2年から昭和6年迄の5年間に関東地方に起った4,454回の地震に就いてその時間別の回数を調べて見ますと次の通りになります。この結果を見ると,前の顕著地震,稍顕著地震とは様子が違って,昼即ち,正午を中心とした数時間の間に数がかなり多くなって居ます。夜中に数回が多いのは前の場合と同じですが,それが時間と共に段々減って行って,朝午前7時頃になると一番少くなり,それから時間が経つと又多くなって,午後2時頃最大に達しています。その後は再び減って午後7時頃には著しく少くなり,午後2時の最大に較べるとその半分位になってしまいます。そうしてそれから夜遅くなるにつれて又段々多くなってゆくのです。つまり1日の中に夜中と午後の2時頃とに極大があり,朝の7時頃と夕方の7時頃とに極小があります。顕著地震,稍顕著地震の場合は,極大と極小とは1日に1回しか,なかったのですが,今度の小さい地震の場合にはそれが2回づつあるのです。地震回数が1日の中で変化する事に就いても,1年の場合に行ったのと同じ様に,偶然に起る変化と比較して,どの位真の意味があるのかを吟味する必要があるのですが,今の小さい地震の時間的の分布などは誠に著しいものであって,偶然としては100万回に1回位しか起らない程のものでありますから,まづ物理的に意味のある事と考えなければなりません。
さてここで問題になるのは小さい地震と,それよりは規模の大きい顕著地震,稍顕著地震とで,何故1日の中の時間による回数の分布の有様が違うのか,いやそれよりも尚一層根本的な事は,1日の中で地震の回数が何故こんなに変化するかという事であります。そこで1日の中で規則正しく変化して,地震の回数に何か影響を及ぼしそうなものがあるかどうかを考えて見ますと,先づ気圧があります。空気の温度,従って地面の温度も1日の週期で変化しますが,これは地震の回数に影響を及ぼすものとは一寸考えられません。何故かといえば,地下室などへ入って見れば解る通り,地面の表面の温度がかなり変っても,地下数米の処には殆んど利いて来ない位ですから,まして地震の様に地面の深い所で起る現象が,こんな表面の温度などで影響されるとは殆んど考えられないからであります。温度の変化なども同じ様な理由で問題になりません。この様に考えて最後に残るものは,矢張り気圧の影響でありましょう。
気圧の大きさは通常水銀柱何粍等といって表しますが,これは,地面に加はっている空気の圧力が,丁度それだけの水銀の厚さの層によって生ずる圧力と同じだという意味であります。通常の日の気圧は,大体760粍で,つまり水銀の760粍の層が地面に乗っているのと同じだけの圧力を空気が及ぼしているのです。所謂低気圧の時などは740粍とか720粍とかに下る。つまり地面に加はる空気の圧力が,平常と比較して,丁度水銀の20粍,或いは40粍の厚さに相当する分量だけ減るのであります。
さてこの気圧は,1日の中でも決して一定のものではなく,時間によって変ります。幾日もの観測の結果を平均して見ますと,気圧は1日の中で非常に規則正しく変化して居る事が解ります。そうして小さい地震の回数の時間による変化と同じ様に,その変化には,1日に2回の極大と2回の極小とがあります。例えば東京に於ける気圧は,午前9時頃と午後10時頃とに極大になります。地震の方は大体午後2時頃と真夜中とに極大がある事は前に解った通りですから,気圧の極大の時刻とは必ずしも一致して居ません。それ故気圧自体が直接に地震回数に影響を与えるのではないと考えられます。それでは次に気圧が時間的に変化する割合が関係して居るのではないかと考えて見て,その変化が大きくなる時刻を求めて見ますと,気圧の減り方が激しいのが丁度正午頃と真夜中とになっていますから,これは大体地震回数の極大の時刻に近くなります。従って,気圧が減る時,就中減り方の激しい時に地震が多く起るものらしく想像されるのでありますが,気圧の変化といっても僅かなもので,1日の中に於ける最高と最低とは比較して見ても,水銀の柱にして2粍,即ち重さにして2瓦半位の僅かなものであります。これだけの僅かな目方が地面にかかったりとれたりするだけで,地震が起り易くなったり,起り難くなったりするのも随分不思議な事といわなければなりません。尤もただ2瓦半といってもこれは1糎4方についての事でありますから,関東地方全体とか,日本全体とかいう事になりますと,矢張り莫大なものになる事は確かでありましょう。
果して若し気圧の変化が,少くとも統計上地震の回数に影響を及ぼしているものであるならば,例えば低気圧が来たら地震が起るだろうか,又場所的に見て一方が気圧が高く一方が低いという分布があった時,地震が起るだろうかという様な事が次の問題になって来ます。調べて見ると,これは統計的に見て両方ともそういう影響はあるのであります。尤も地震と低気圧との関係は非常に明瞭であるというわけにはゆきませんが,低気圧の中心から凡そ500粁位の処に地震が起る事が割合に多い様であります。これに反して,気圧が場所的に見て一方が高く一方が低く,つまり気圧に勾配がある時,地震の起り方がそれに影響されるという傾向はかなり著しいものです。例えば或る特定の場所に就いて気圧の勾配を見ると,東が高い時も,西が高い時も,北が高い時も南が高い時もあるのに,東が高い時だけにその場所の附近に特別多く地震が起るという場合があります。いつも東と限るわけではありませんが,一般に或る方向に沿って気圧の勾配が大きい時に地震が起り易いという事があります。尤も或る地方に於ける気圧の勾配が,東西南北一様に起るとは限りません。地形等の影響で,例えば東側が気圧が高くなる場合がとりわけ多いとしますと,仮令地震が時間的に一様に分布して居ても,見掛け上,気圧が東側に高い時だけに地震が多い様に見える事になりますが,そういう事によって生ずる影響は勿論考慮に入れて取除いた上で,確かに気圧勾配の影響が明かに認められるのであります。そうして,地震が一番多く起る時に対する気圧勾配の方向,つまりどちらが気圧が高いかと云う方向がその土地の地質学上の構造と密接なる関係にあるらしいという事まで解って居ます。兎も角気圧の様に僅かではあっても地面に力を及ぼして居るものによって地震の回数が影響されるのは事実であります。併し気圧の時間的の変化とか,場所的の勾配とかいうものは前にも述べた様に実に小さなものであって,それによって地震の起り方が影響されるというのは,考えて見れば,不思議な事であります。
地面に加はる表面的の力で,こんなに地震の回数が影響されるというなら,海の潮の干満でも相当な影響があるだろうという事は,当然思い付く事であります。場所によりますが満潮と干潮とでは海面の高さが1米位違うのは普通の事で,つまり1米の厚さの海水が目方として地面にかかったりとれたりして居るわけです。それによって地震の回数に影響があるかどうかを調べて見ますのに,例えば昭和2年に丹後に大地震がありましたが,その余震について見ますと,全体で千回余りありますが,附近の海の干満に関してその回数を数えて見ると,満潮の前後数時間と干潮の前後数時間とに起ったものが特別に多く,満潮を中心とした4時間に起ったものが383回,干潮を中心とした4時間に起ったのが349回あるもに対して,中間の4時間に起ったものは273回に過ぎませんから,多い時の四分の三位にしかなりません。又昭和5年に静岡県の伊東の近所で小さい地震が1日に何百回と起り出して,その活動が数十日も続いた事がありましたが,この時も干潮前後に特に密集して地震が起ったという事実があります。この様に地震の回数が,統計的にいって,潮の干満の影響を受けるという事,少くとも受ける場合があるという事については最早疑う余地はありません。
こういう風に,地震の回数は,統計上外界の色々な状況に影響されて居るのでありまして,それは上に述べた1年間の変化,1日中の気圧による変化,潮の干満による変化ばかりに限った事ではありません。例えば日本では5〜6年を週期として,南半分に地震が多くなったり北半分に地震が多くなったりする傾向がありますが,これなどは恐らく太陽の黒点の増減の週期ll年と関係があるものでありましょう。何故地震回数と太陽の黒点数との間に,こんな関係があるのか,実はよく解りませんが,多分黒点が気圧の配置に関係し,その気圧の配置が地震回数に関係しているのだろうと想像されます。地震回数の1年という変化も,こう考えれば矢張り気圧に関係して生ずるものでありましょう。
この様に地震の回数は外界の状況でかなり著しく影響を受けますが,併しそうかといって気圧の変化とか海の潮汐とかいうものが地震の主な原因であるとは考えられません。地震が発生する様な充分な情勢が地下に出来て,今にも地震が起ろうとしている時,その最後の瞬間を決定するものがこれらの外界からの刺戟なのでありましょう。地下に地震を発生せしめる主な原因が何であるかについては,今日の処はっきりした事は実はよく解っては居ませんが,兎も角,この主な原因によって地震が何時でも発生し得る状況になって居る時には,外界からの刺戟にも影響され易いであろうと考えられます。よく例にひかれるのでありますが,ピストルが発射される為には第一に弾丸がこめられて居て,そうして第二に引金が引かれなければなりません。丁度火薬が地震の主な原因に当り,外界の気象状態などが引金をひく役目に当るというので,こういう作用を英語でTrigger action(引金作用)などともいう位です。大変うまい言い表し方ではありますが,ピストルの場合と地震の場合と少し違う点もあります。ピストルの弾丸が発射される時には,その発射の一つ一つに対して引金を引くという事が一つ一つ明かに対応するのですが,地震の場合にはその対応が一つ一つの場合に必ずしも明瞭であるのではなく,統計的にそう見えるだけであります。何れにしても外界の状況はあくまで二次的の原因であって,如何に引金をひいても,弾丸がこめてないピストルが発射されるわけはありません。併し兎も角気圧とか潮汐とかの様に,地面に力を及ぼすものによって地震の回数が影響されるという事が,統計的にしろ少くとも事実であるならば,地震の主な原因というものが,やはりこの様な力に関係したものである事だけは確かであります。
病気を例にとって所謂肺病になるという様な事を考えて見ても,結核菌を持って居る人は非常に多いのに,その人達が全部肺病になるとも限りませんし,又温度や湿度や食餌等の変化が発病の二次的の原因になるという事が統計的事実であるとしても,湿度がいくらになれば必ず発病するというものでもありますまい。しかも肺病の主原因は結核菌であって,温度や湿度や食餌などではありません。地震の主原因と二次的の原因との関係もこれに似た所があります。
前にも述べた様に,気圧とか潮汐というのは地震の二次的の原因であって,所謂引金を引く役目をするものと考えられますが,主な原因によって兎も角地震が起り易い情況になって居なければ,いくら気圧が変動しても地震が起らない事は,宛も弾丸のこめてないピストルをいくら引いても発射しないのと同じであります。何時でも地震が起り易い状態になっているというのは,大地震後に如く時は恐らくありません。
或る所に大地震があると,その後暫らくの間はその近所に所謂余震と称する比較的小さい地震が無数といってもよい位発生するのはよく知られて居る通りであります。時がたっにつれて,その回数が漸次に減ってゆくのが普通でありますが,その減り方は驚くべき程規則正しいものであります。安政元年11月5日(太陰暦)に日本の西半分に大地震があった事は前にも一寸述べましたが,その時土佐の藩士細川盈進が,この余震の回数を克明に記録したものが「三災録」という書物に載って居るそうですが,その回数を月別に表にすると次の通りになります。
この数をグラフにして書いて見ると,多少の凹凸はありますけれども,全体として余震の数が実に規則正しく減って居る事がよく解ります。上には安政の地震の例をあげておいたのでありますが,関東大地震にしても丹後地震にしても大同小異で,余震の回数を数えるという位の事ならば,何も大げさな地震計などは要らないので,熱心と辛抱とがありさえすれば誰でも出来る事です。殊に大地震直後で,末だ地震の研究者がその土地へ到着しない間などには,若し余震の回数だけでも解っていると大変都合がよい事になるのです。それはその数を基にして,余震は今後どの位の年月の間にどの位の数だけ起るかという事を大体推定する事が出来るからであります。
前にも述べた通り余震の回数が時と共に減る割合は非常に規則正しいので,その間の関係を簡単な数式で表す事が出来ます。例えば(実際はそうではありませんが)若し時間に対して直線的に余震回数が減るという経験的な法則があるとしますと,或る大地震があって,第1日目に余震が何回,第2日に何回という事が解りますと,その2日間の材料だけからこの割合で進めば第3日以降の余震数がどの位になるかを推定する事が出来るわけです。又同じように第1月,第2月の余震数が解れば第3月以降の余震数を推定する事が出来る訳です。実際の場合はもう少し複雑で,多少込入っては来ますが,考えの方針は同じ事であります。前に述べた安政地震の余震についてこの推定をしてみますに,安政元年の12月,安政2年の1月の2ケ月だけの材料を使ってその趨勢から2月以降の回数を計算して見ますと,その結果は次の表の通りになって実際観測された値と,かなり近くなっています。
この様な例はいくらでも沢山あるのですが,次に濃尾地震の余震について,故大森房吉博士が計算されたものと実際に起ったものとを対照して示しておきました。これは僅か,地震後5日間の材料を基としたものに過ぎませんが,地震後数年に到る迄の計算値と観測値とは驚くべき程一致して居ます。これらの推定は,始めの期間の余震減少の形勢で以後の形勢を推定するという極めて平凡な考えに基いて居るのですが,自然に起る余震の回数がこんな簡単な考えでかなり精確に推定出来るという事は実に驚くべき事である様に考えられるのであります。
又話は少し変りますが,或る特定の場所の地震が,週期的に起るという様な事がいわれる場合があります。例えば,大地震中の大地震とも云うべきものが本州の東南海底に起ったのは,明応7年(紀元2158年),慶長9年(2265年),宝永4年(2367年),安政元年(2514年),等でありますから,その間隔は夫々I07年,102年,147年となり,平均週期が100年乃至150年位であるといえばいえるのでありましょう。併し何分にも回数が少ない事ですから,正しい意味で週期と称へるべきものであるかどうかは問題であります。
京都に起った大地震は「理科年表」』によりますと次の通りであります。
この年表をよく見ていると色々な事に気付きますが,第一,地震が数年以内に連続して起る事がしばしばあります。そういう一対を表には(印をつけてまとめておきました。そういうのを一つの地震と見做して,次々の地震の間の年数を数えて見ると次の様になります。
29 28 52 40 65 29 24 43 49
59 80 25 54 21 24 149 68 165
先づ極く大ざっぱにいって,30年乃至50年に一度づつある勘定になりますが,近頃になってからその間が目立って延びて150年程度となり,最近では天保元年以後既に100年来上を経過したのですが,その間に京都に大地震があったという記録はありません。
日本全般を通じて見ても,大地震が起り出すと方々で起る,それから又比較的静穏な時期が続くという様な傾向がある様であります。例えば紀元2150年頃,2350年頃,2550年頃を中心とした数十年間は他の時期に比較して割合に大地震が多かった様でありますから,先づ大体200年位で,大地震が消長して居る様に見えます。この様な事実が果して意味のある事なのか,それとも全く偶然に現れた見掛け上の事なのか,これも一応考えておかなければなりません。そこでそれに対して,全くでたらめに偶然に分布している事柄の次々の間隔は一体どんなものになるか考えて見る事とします。
例えば再び骰子の例に就いて考えて見ますと,仮りにこれを3,000回振ったとすると,「一」の目は平均して6遍に1度は出るでしょうから,先づ500回近く出る勘定になります。併しその中には「一」の目が続いて出る事もあるでしょうし,又10遍も20遍も骰子を振っても,「一」が1度も出ないという場合もあるでしょう。そういう色々な間隔を平均すると6遍に1度という事になるのです。さてこんな場合に「一」が出て次に「一」が出る迄の間隔は平均すると六である事だけは解っているのですが,実際は長いのも短いのもあるのですから,それ等は一体どんな割合で分布しているのでしょうか。そこで又実際に骰子を振って見ます。3,000回振って,その結果「一」が444回出ましたから,平均すると6〜7回に1遍づつ「一」が現われている事になりますが,しかしこれは平均であって6回目に再び「一」が出た回数が一番多いというのではありません。一番多かったのは「一」が2度続いて出た場合で72回,次に多かったのは一つおいて出た場合で45回という風になっていて,6回目に出たのは24回しかありません。一番長かったのは,40回目に始めて出たというので,その場合が1回あります。こんな風に骰子の様に,全く偶然が支配していると考えられるものについて実験して見ると,平均としては6回に1遍出るとしても,実際には「一」が接近して出る場合が一番多い事が解ります。こういう事をもう少し一般的に議論すると次の様な事になります。即ち矢張り或る事柄が続いて起る場合が一番多く,1回おいて再びその事柄が起るのは続いて出る場合の1/N,2回おいて起るのは,1回おいて起るのの1/Nという様に同じ1/Nという割合で順々にその回数が減って行く事になります。このNという数が例えば「一」なら「一」が出る平均の割合に関係しているのであって,度々おこる現象程Nが一に近くなります。
さてこういう事が解ったとなると,次々の地震の間隔を調べた上で,地震は全く偶然に起るのかどうか,1遍起ると続いておこり易いものであるかどうかを判定して見る事が出来ます。つまり地震が平均して6回に1遍起るものとすれば,丁度骰子を振った場合と比較する事が出来るわけです。そうして或る地震があって翌日にもあった場合の回数と,骰子の「一」が出て次にも「一」が出た回数とを比較する。或る地震があって翌々日にあった場合の回数と,骰子の「一」が出てから一つおいて2度目に「一」が出た回数とを比較するという様な事をして見れば,地震が偶然に発生するものか,それとも起り出すと続いて起り易いものか,或いは又1遍起ると却って起り難くなるものかという事を判断する事が出来ます。勿論実際の場合には一々骰子を振って見るのではなくて,適当な数学的の手続きで全く偶然の場合を計算するのではありますが,考えとしては同じ事であります。この様にして地震が偶発的のものであるかどうかを調べてゆく事が出来るのであります。
その一例として,東京で有感であった地震をとりますと,大正13年1月1日から,昭和10年9月末迄に752回起っていますが,この期間の日数は4.287日ですから,平均して5〜7日に1回づつ地震があった事になります。そこで相次ぐ2つの地震の間隔は平均5〜7日であるが,その各々の間隔は全く偶然に支配されているものであると仮定して,或る地震があってそれから1日以内に起るべき回数,2日目に起る可き回数等を順次に計算して,実際の場合と比較して見ますと,次の表の通りになります。この表を見ますと,或る地震が起って,それから24時間以内に再び地震の起る場合の数が,全く偶然であるとすれば127回であるに対して,実際はずっと多く170回にも達しています。即ち或る地震があると,24時間以内に次の地震が起る事が偶発の場合にくらべて比較的多い,即ち地震が1遍あると続いて起る傾向が著るしいという事になります。勿論これは或る地震があった時,それから24時間以内に再び地震が起る事の方が,起らない事より確からしいという意味ではありません。骰子の場合でも,「一」が出て次に「一」が出る迄の間隔だけに著目して考えると,「一」が続いて出るという場合が一番多いのですが,これは「一」からその次の「一」までの間隔を調べた時の話なので,その色々な間隔の中では次に出る事が一番多いという事なのです。1遍「一」が出て,さてその次に骰子を振ったら又「一」が出る場合が出ない場合より多いという事ではないのです。地震の場合はそれがもう少し複雑で,2つの地震の間の間隔を調べて見ると,その中では24時間以内に起る場合が一番多い,しかもその多さが,地震が全く偶然的に起ると考えて計算した場合に比べて,もっと多いという事なのです。
地震の起る時に就いて大分色々な事を述べて来たのですが,我々は色々の事を知りました。地震は統計上からいっても気圧とか潮汐とかの外界からの影響を受けるという事,大地震の余震というものは時間と共に実に規則正しく減るという事,それから或る地方の地震が或る年数毎に多くなる事,又地震は1遍起ると続いて起る傾向がある事等を知りました。しかし何れも統計的の事実であって,物を地上で放せば落ちるという様な,一義的な決定論的な議論ではなかったのであります。併しそれでも地震というものの性格は大分明かにはなって来ました。甚だ漠然としていますが,地震の発生する時に就いて考える限り,地殼の中に何か地震が発生し易い様な状況が醸されて来て,それに応じて地震か実際に発生するのでありましょうが,そのエネルギーが徐々に蓄積されては突発的な地震で不連続的に放出されるのでありましょう。そうしてこの地震の起る最後の瞬間が外界の色々な状態で,かなりの影響を蒙るのでありましょう。


x x x
地震の予知,ひいては津波の予知ということを,のどから手の出る程欲しがっている三陸沿岸住民のために,地震の学者であられる坪井先生の「地震の話」を長々と写し取って見た。しかし先に書いた結論に言われているように,予知も予報も,沿岸住民の満足するようなものは中々程遠いようである。地震や津波の研究の如何に六ケしいかを知らぬわれわれは,津波恐しさの余り,予知を予報をと要求するが,要求する方が無理なのかも知れない。しかし無理だろうか,
○いつ,○どこで,○どれほどの,地震が起り,○どれほどの,津波を伴う公算大なり。という予報が平気で出せるようになり,それが天気予報程度にでも信頼出来る時代が来たら,どんなに安心なものであろう。そうなった時代こそ,防潮堤も防浪壁も完全な対策が出来ることになるだろうし,高所移転や港湾の施設も自信を以ってやることが出来る事ではあるまいか。敵の正体のわからないうちはその対策もまことに六ケしい事である。
さて,坪井先生の地震の話はまだまだ続くのであるが,地震計と地震動,地震の起る場所,地震の起り方等を書写しすることは割愛して,研究特志家は図書館を利用されることをお奨めする。只一つ,地震の震源地について素人が凡その距離を見当つける方法について,次のような便利な方法が書いてあるので御紹介すると,地震の揺れ方は初めガタガタと来て次に大きくユサユサと揺れる。此のガタガタは自分のいる所と震源を結んだ線の方向に揺れ,ユサユサはその線に直角の方向に揺れている。ガタガタを初期微動と言い,ガタガタが始まって,ユサユサに移るまでの時間を初期微動継続時間という。この時間は秒で数えて(大抵は数秒〜数10秒)20秒ならば,8km×20=160kmとなって,震源は自分から約160kmの遠さにあると判断してよい。
この8kmは大事な数で,こんな簡単な便利な式も,使って見れば簡単だが,これが見つけられるまでは,ちょっとやそっとの苦労で見つかった式ではない。と坪井先生が語られている。8kmx(初期微動継続時間(秒))これは故大森房吉博士が始めて出した式で,大森公式として世界的に有名なものだというのである。

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四季別地震回数(日本,大地震)
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四季別地震回数(日本,顕著地震)
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四季別地震回数(日本,小地震)
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四季別地震回数(世界)
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四季別地震回数(半球別)
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骰子の出目の回数
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実際に地震の起こった回数(大地震)
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実際に地震の起こった回数(小地震)
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安政地震の回数(実測値)
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安政地震の回数(予測値)
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濃尾地震の回数
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京都の大地震の回数
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地震が連続で起きる回数

6.対策論文

(1)津波対策(岩手県教育委員会) (昭和26年3月3日 「三陸地方の津波対策」より)

(イ)施設
津波に対する施設として防浪堤性防波堤,護岸等及び防浪林,緩衝地区,退避道路等があります。これからは港湾の機能,聚落の占める位置,湾岸の地形等を考慮の上経費の許す限りに於いて造られていることと思います。此の中最も大がかりな築造堤である田老町の防浪堤等は相当程度の津波にも可成りの効果があるでしょうが,それでも昭和8年程度の津波を完全に防御出来る程のものではありません。ましてや防波堤や護岸等は単に浪勢をそぐ程度の目的としか見られないのであります。
其の他前記諸施設を併置して総合的に津波の勢力の回避,消減を計ったところもあります。又後退移動と広い防浪林地帯とを設けている所もあり,これらの中には防浪林の今後の育成に伴って将来は可成りの安定感を得られると思われるものもあります。然し放任しておいては成果は望めないと思います。
一方津波に対する警戒心の弛緩を戒めるため朝日新聞社の寄付等によって殆んど各部落に津波記念碑が建てられております。この記念碑は明治29年の後にも多数建てられましたが,明治,昭和の碑文を比較して見ますと,全般に明治の碑文は津波現象の異常な模様,惨害の様子等の記録であって,山口弥一郎氏等も指摘されておられる様に難かしい漢語が多く,現地一般の人々には可成りしたしめないものが多い。これに引き換え昭和8年の碑文は津波の科学が可成り明らかにされた後のものだけに文献的なものは余りなくその大部分は被害数と警文が簡潔で著しく対策的になって来ています。これは記念碑の性格に改革を来たしたものとでも言うべきでしょうか,兎に角津波災害軽減に対する計画的指導性が積極的に強く感じられます。


(ロ)高地移転
明治29年の後にも多少移動したものがありますが,大部分は昭和8年の後事情のゆるす限りに於いて部落の高地移転を行い,津波線よりの完全な後退又は津波線附近迄後退して被害の軽減と退避の容易を計りました。この高地移転は,災害軽減の上から最もよい方法でありますが,結局日々の生活の不便より津波の恐しさの方が勝っている時に於て保たれるものと思いますから,殊に原地居住者との経済的,感情的な刺戟をさける様努力を必要とする場合が多いことと思います。
以上の対策は当時官民こぞって慎慮の結果実行されたものであることを忘れずに,又天災に対する不断の闘いであることを思い充分守護して行かねばならないものと思います。


(ハ)経験と知識の生かし方
津波は湾内に入って異常な勢いで凡てのものを洗い渫い持ち去って了うものであると言う程度のことは明治29年の津波以前にも大低知られていたことと思われますが,明治29年直前と昭和8年直前の津波に対する沿岸民の知識と警戒心を比較して見ると格段の差があった様であります。この津波知識による警戒が防災に対していかに重大なものであったかの具体的な立証にもなろうかと思いますので,岩手県に於ける両度の流失家屋と死亡者数の関係を比較して見ましょう。
明治29年の場合は流失家屋6,156戸,死亡225,650名でありましたが,昭和8年に於いては流失家屋3,850戸,死亡2,658名でありました。これは流失家屋1戸につき夫々3.7名(明治)及び0.7名(昭和)の死亡者を出したことになり,後者は前者の5分の1以下に其の割合を減じております。このことは地震津波の大きさの相違と言うことにも多少よるかも知れないが,原因の大部分は矢張り知識と警戒の相違によるものと思われます。
しかしこの数字は平均でありまして,部落毎に見ますと可成りまちまちであります。即ち昭和8年の時にも略最大値と思われる明治の割合に近いものもあり,又一方可成りの流失実屋を出していながら殆んと犠牲者もなかった所もありました。
この経験,言い伝えによる知識は尊いものと言えるでしょうが,中には誤った指導をした所もあります。宮城県雄勝町屋敷の例ではこの部落は明治29年の時も多数の死亡者を出したので今度も又津波が来るかも知れないと思い,皆一度外に出て津波を警戒しました。しかし大部まっても津波が来ないので其の中「地震が強ければ津波が来ないものだ」と言う様なことを誰かが言い出したため結局家屋に帰った処を津波に襲われて死亡者97名にも達しました。又他所でも寒い時には津波は来ないものだと言って犠牲者を増しましたし,これらを考えて見ますと,普段の出来事で別に生命に障りのない事柄であったなら前回の経験を其のまま誤って常習と思い込んでも大したことはなくて済むかも知れませんが,生か死かと言う場合にはもっと慎重であらねば誰でも判断はつく筈なのでありましょうが,これも人間の弱さで自分の眼の前の都合のよい様に解釈したがる傾向から出たものと言えましょうか,当時夜明け近くの寒さは厳しかったことと思います。
これと多少違ったことでありますが,私が一昨年沿岸町村の津波普及の途中に次の様なことがありました。それは大地震(津波に伴う地震)の時は必ず雉が鳴かないと言うことを固く信じていた人があって,これによって津波地震かどうかを判定すればよいと言うことでありました。この真偽を確かめるには例え普段の地震には必ず鳴き,明治,昭和の両度の津波の地震に鳴かなかったにしても今後幾回かの津波地震に対しても鳴かないかどうかを実際に当って観察するより外にないでありましょう。勿論この様なことは悠長すぎることであるし,津波対策普及の立場であったので,大地震と雉との関係は今の所文献に乏しく不明であるとするより外ないが,そのことを大規模地震の際雉が鳴かなかったら一層津波に注意する様に利用することはよいことであるが,大規模地震であり乍ら雉が鳴いたら津波の心配はないと言う様なことは絶対に慎んで戴き度いと言うことでやっと了解してくれたことがありました。
他の一例をついでに述べますと赤崎村の長崎に立寄った際「津波は馬が不思議な嘶き方をして教えてくれる。明治,昭和と2度ともそうであったから」と言っておりました。私も余り時間がなかったため,そうではないかと言っただけで納得行く迄は話し合わずに了いましたが,其の足で隣村の綾里について話をしましたところ綾里では明治29年の時は嘶いた馬もあったが,昭和8年には嘶かなかったと言っておりました。何れにせよ前の津波の時起ったこの様な異常現象が後の津波の時にもまた其処に必ず繰り返えされるかと言うことになりますと,どうしても否定的にならざるを得ないのであります。
余談になりますが,雉と地震については,古くから色々言われておりまして中村(左)博士によりますと,大正12年の関東大地震の際には,宮城本丸内の雉は余震が続々と起るにつれて初めの中は一々鳴いていたが,暫く後には鳴かなくなった。其の後1,2週間になって地震が少くなると又鳴く様になったと言うことであります。又故大森博士によりますと雉は人間より微動に敏感であることや10倍の地震計より鈍感であること等が記載されてあります。幸い雉も方々に住んでいて地震も多数起るのでこの様な調査が出来るのでありましょう。
概して陸上の動物は地震動の加速度に比例して体感を増すものでありますが,一般に背の高いもの程長週期の振動に感じ易く,背の低いもの程短週期のものに感じやすい傾向にあると言われております。
大地震や津波其の他の天地異変に先立っていろいろの動物が異常を示すことはよく聞くものでありますが,資料が少ない上に見当がつきにくいと言うのが現状でありましょう。多分其等の中には充分理由があってそうなっているものも少くないと思われますが,災害対策上からは其の取扱乃至運用を誤らない様充分な注意が必要なものと思います。
以上は動物の異常の一端について述べましたが,其の他,大地震なので海岸の井戸を見たら減水していないので津波が来ないと思ったら来たとか,川の水は津波直前にカラカラに減水すると言われますが,これ等は来襲時の大退潮と土質とに関係あるものと思われますので寧ろ異常な退潮を直接見た方が勝っていることでありましょう。


(ニ)警戒すべき地震
以上によって得られる結論は大規模地震即ち地震の強弱に拘らず数分以上に亘ってゆれる地震には必ず警戒し退避すること及び其れに前記した様な異常現象を伴った場合は尚のこと抜かりのない様落ちついてしかも機敏に行動することであります。
本年(昭和25年)2月28日の夜可成り大きな地震がありましたが,此の地震は誰にも大規模な地震であると感じられたので,方々で津波の警戒をしました。此の地震はオホツク海南部の深所約400粁の地下に起った可成り大規模なもので勿論津波の心配はありませんでした。しかしあの地震によって退避されたことは正しいことだと言わねばなりません。と言うのはあの程度の地震が附近海底に起れば勿論津波の惧れがあるし,又あの程度の地震を数回経験する中には必ず津波を伴うことを覚悟しなければなりません。この様な地震は度々起るものではなく,数年或いは10年に一度程度のものでありますから,津波を警戒されなかった方は是非考え直して欲しいものであります。
また一方津波に必ず間に合うかどうかは現在の所保証の限りではありませんが,或る規定の大きさに達した地震に対しては,地震後20〜30分間内には津波予報(後述)が伝達及び放送されることになっておりますから三陸沿岸関係放送局のラジオにも御注意下さい。


(ホ)退避
実際の津波の場合以上の知識によって或いは体験を正しく生かして機敏に退避するのでありますが,前述の通り津波は来襲が急激でありますので,狼狽したり,持ち残したり,家族がちりぢりになったり,津波の通り筋の危険な方に走ったり,其の場になってから考えたのでは満足なことは出来ないものであります。殊に婦女子等は恐怖につかれ他に取りすがろうとばかりして肝心の足が言うことを聞かなかった等とはよくきくところであります。そこでいつ津波が来てもこうした段取りで逃げると言う手筈を整え,家中で皆知っておかねばなりません。実はそのため退避場をきめ退避道路を造りました。しかしこの天災は単に造っただけのことで全く解決出来るものではありません。是非津波を仮想して実際やって身につけておかねばならないものです。それには一度それもほんの1時間位の演習をして或る程度をきめ安んじて其の年を送ることが最もよいと思います。この年に1度のことでさえも仲々苦労でありましょうが,それは津波の恐ろしさを忘れたためであり,津波直後2〜3年やった記念演習より大儀に感じられる頃の方が却って必要であることは言を俟たないのであります。「天災は忘れた頃に来る」と言う寺田博士の有名な言葉は100読吟味すべきものでありましょう。


次に昨昭和24年に岩手県から出された退避心得の主なものを挙げて見ましょう。
(1)見易い場所に退避心得を貼っておくこと,貴重品の持出し割当て,非常袋,懐中電灯等の携帯。
(2)火気を始末し,利慾に惑うことなくよく落ちついて,老幼病弱者の早目退避。
(3)同伴を見失わない様に,もし波が接近して了ったなら真近の山地にかけ上ること,一度退避したなら一時間は待つこと,津波が来てからは海面が平静になる迄は決して帰宅しないこと。
其の他が挙げられておりますし,岩手県昭和震災誌等にも詳しく載っております。又出来れば見張人を立てられれば一層よいと思いますし,津波に安全な場所で津波予報の受領所に近い所や海面状況の判る所に半鐘があるかと言うことも重要なことだと思います。

(2)津波対策(東北開発研究会) (チリ地震津波調査の結論)

1.実現性のある対策
災害の対策を考える時いつでも2つの立場がある。1つは人命の安全と生活権の保証であり,これに対して今1つはその施策の経済効果如何である。前者は絶対条件である筈であるが,後者が伴わないと実現し難い。高い立場から将来を見透して,出来るだけ矛盾の少い方法で実現させなければならない。
津浪はこれをなくする訳には行かないとしても,津浪による災害はこれを避けるか又は,防ぐことは出来る。これが津浪対策の目標である。総ての津波を全ての所で完全に防ぐという訳には行かないが,対策を実現するには,
どんな津波をどんな方法で
どんな地域はどんな方法で
ということで経済効果の算定とつながることになる。
今迄考えられた事を大別にすると,
a 災害奪避ける方法として
1.高地への移転
2.警報組織
3.避難道路,避難場所を作る
4.津浪教育
b 災害を防ぐ方法として
5.防浪堤,防潮堤
6.防潮林
7.家の周囲に土塁,生垣を作る
8.舟溜を作る
等が挙げられた。これ等はことごとく重要な施策である事は今でも変らない。唯これを如何なる地域に如何なる規模で行うかが問題である。それには津浪の性格,地域の性格との関係を十分考慮しなければならない。


2.津波の大きさと頻度
大きい津波は少く,小さい津波は多い。過去87年間79回の日本の津波について考えると,
今回のように波高5〜6mの津波は30年に1回程度,昭和8年のように高い所は10〜20mに達するものは50〜60年に1回,明治29年のように30mに及ぶところがあるような津波は先ず100年に1回と考えてよい。人命の点から言えば如何なる大津波にも生命の安全は第一であるが,海をもとにした産業では50年に1回の被害はこれを防ごうとするよりも,その間に,十分な経済効果を上げる方途を講ずべきではなかろうか。勿論毎年のようにあるlm程度の津波は完全に防ぐ必要があるし,10年に1回の2m程度の波も,風浪や台風による高潮とも考え合せて防げる態勢を作りたい。30年に1回の4.5.6mの津波はこれを防ぐには相当の負担になる。積極的に防ぐか,退いてこれを避けるか地域によりそれぞれ十分な考慮が必要である。
風浪の平均波高は■崎で1.Om,宮古,釜石ではO.2,0.3mであるが,宮古でもlmを越える事は年2〜3回に及ぶ。北の海は荒いというが,宮古沖900kmの北方定点(39°N,153°E)では平均波高,2.7m,最も荒れる1月平均は4.2mであって,10mを越えるのも3年間の観測で3回に上っている。これが,このまま海岸を襲う訳ではないが,台風による高潮とともに各地の資料を整備する必要がある。


3.地域による津波の波高と対策
津波には遠地地震によるものと近地地震によるものとがあって,警報及び被害地域の大小に関係する。然し波高の分布は主としてその週期と各湾の形(平面形及び深さの分布)及び来襲方向によって左右される。同じ階級の津波であっても週期の短い波の場合は甲の湾が高く,週期の長い波では乙の湾が高い。今迄の少い経験で早急な結論を出す事は危険ではあるが,およそ次のように考える事が出来ようか。
a 外湾に向って開く,V字湾は三陸沖地震によって10mを越す波に襲われる事を覚悟しなければならない。これ等の湾は一般に,湾奥平野は広くない。従って漁港として発達する。I0mを越す波を防浪堤で完全に防ぐことは経済的に困難であるのみならず,一度これを越える波が来襲した場合は災害をかえって大きくするおそれもある。従って住家を高台に移し,必要ならば漁業及びその加工に必要な作業場を海浜に設ける。住家の位置が十分に高くなく浜につながっている時は防潮林をその前面に作り万一の場合の被害を軽減するようにする。
b 長大なU字湾は今回の津波で最高の波を受けた。この湾奥にはかなりの平野があり,或は耕地となり,又はかなりの市街が発達する。ここは週期の長い波が来た時湾奥が数mの波高となる。背後が広い耕地である場合,防浪堤で防ぐ事は経済的に大きな負担になるが,波高は数mを越える事は先ずあるまいとすれば不可能ではない。然し耕地の冠水が1年間だけの損害ですむならば,むしろ防潮林によって静かに海水を背後地に導く方法が被害を少くする方法と考えられる。この場合,防潮林は弱い点を生じない様に保守が肝要である。
湾頭に都市が発達した場合は防潮林を設ける余地はなく,またそれは臨海都市としてこの機能を損する事になる。大きな防浪堤を築くことも同様である。住宅は背後の高地に,港湾施設と工場は海に臨んで,両者の間に商店街が造られるであろう。浸水のおそれある地域は2階建として下を店,上を住居に当てる。コンクリートの集団建築とすれば防潮壁の役目をする。港湾施設は勿論コンクリート造りで十分波にたえると同時に波を防がなければならない。低地は出来るだけ高上をし,防潮堤を設ける。幹線通路および鉄道線路は将来立体交叉となる事が考えられるが,これを適当に配置すると防潮堤の役目を果す事が出来る。
漁港農村の発達した大集落では海に面する建物をコンクリート2階建とし,階下を作業場に当てる。共同建築とすれば,防潮壁と同様の効果がある。その背後は木造建築でもよいがボルト締めにする。船は外洋に漕ぎ出して難を避けるのが良いが,小舟は陸地に引き上げる。その暇のない時は十分に繋留して相互にぶつかり合わない事が必要である。放れた舟はその損失のみならず,流木等とともに破塁作用の弾丸の役目をするから,貯木場は流出しないように壁を設け,それがない時は十分に繋縛する事が必要である。
c 広いゆるやかな湾は三回の大津波で大差のない波を受けている。砂州や砂丘が発達しているから背後の農地は防潮林で守る。漁港として発達した集落は前項同様に考えられる。
d 総て河川の流入口が津波にねらわれる。低地となっているところに,水深が深い水路が波の進路となるからである。河川堤防は,十分に津波を考慮に入れて作らなければならない。これにかかる橋は舟や流木のために損害を受ける事が多い。


4.防浪工作物
a 防潮林は現在あるものは大切にして,弱点を補うことに努めたい。防波堤を作るにもその背後に作る事にすると波の勢力を減少し,小さい津波は完全に防ぐことが出来る。浸蝕を受ける海岸の場合は林の前に根を下した護岸を作るが,適当な位置に防砂堤を併置する。砂浜等余地のある所は出来るだけ植裁したい。
b 防波堤は全面の根固めを十分にするだけでなく,越流する場合の事を考えて,天端,裏法も補強し前後両側の洗掘を防がなければならない。防波堤に出入口,関門等を設ける場合はここからくずれる場合が多く。またこれを通過するため水勢が著しくなる事を考え,その直後の位置にあるもの,および引き潮時に堤の背面から出入口に向う流れが出来る事に注意しなければならぬ。出入口を開閉出来るようにすることは最も望ましい。
c 海に向って注ぐ河川堤防は,海岸堤防によく調和させなければならない。
d 堤防に波返しをつける事は,高潮の侵入を防ぐのに効果があるが,勢力をはね返す事によって自身は強い力を受けるから施工には十分の強度をもたせる必要がある。


5.警報と避難
時間がない時は先ず身をもって高地に逃れる事で,そのためには避難道路が出来ていなければならない。少し時間があれば波の高さを判断して重要な品物を2階に運んでから避難する事も出来よう。船は沖合に出るが良い。その為には燃料油を絶やしておく訳には行かない。三陸沖地震ならば,地震から20〜30分,警報が出てからでは単身逃難の他なかろう。遠地地震なら半日前には予報が出る筈であるから,浸水の恐れがあるところでは,全家財めぼしいものは運び上ることが出来る。波が来なかったら感謝こそすれ気象庁を非難する事はない。それは10年に1回とまで行かないであろうから,避難訓練としてむしろ必要だと考えよう。
それにも増して自警組織が必要である。地震があったらすぐラジオと警報網とにスイッチを入れよ,測候所はロボット検潮儀を備えて海面の動きを注視する。測候所のない所も自治体である程度やれる。潮汐以上何cmになったら警報で宿直員に知らせ,これが事故でない事を確かめ,測候所に問い合わせるなり海面を注視して「ツナミオソレ」程度の警告をする事は出来ないか。
警報の徹底の為には,サイレン,半鐘の信号を火事の場合と区別し,消防車に拡声機を備えつける事は他の場合にも役立つ。


6.教育と研究
大津波の場合に何が起ったか,これを認識する事が先ず第一である。然しこれはそのままで大津波の場合に何が起らなければならないかとはならない。大津波の前に起った全てを知っていて,その一つでも起ったら大津波が来るかも知れないと,覚悟すべきである。
津波から逃げるにはどうすべきか
津波につかまったらどうすべきか
それ等の教訓は全30年に1回あるかないかの大津波の経験によって得る以外にはない。それは教育と研究の組織を通して集められ,整理され,体系化されなければならない。それにはいろいろな雑音とも言うべきものが交る場合もある。それをふるい分ける事から,津波対策は始まらなければならない。手近かな事から言えば検潮儀の増設,ロボット化から,理想を言えば,三陸沿岸に津波研究所を置く必要がある。官庁セクショナリズムにわざわいされないで,じっくり津波に取り組む必要があるからである。

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津波の大きさと頻度
(3)チリ地震津波による土木災害の概況と津波対策について 岩崎敏夫(東北大学教授,工博)

土木災害の概況(抜萃)
写真—1.2は大船渡港1万トン岸壁の裏込土砂の流失状態を示す。ここでは,天端高 P.T. 1.65m,高極水位 T.P. 3.85mで冠水高2.20mであって約20分間冠水した。その直後の波では約0.70m冠水し,その後は岸壁天端高より低かった。ジートパイルはほぼllmの根入があったと思われるものが,引水の時の落下水の洗掘によって裏の土砂が抜け出たものと思われる。(最低水位時,海面は T.P.—2.35m以下で水深はlm以内となった。)
このような例は,富士鉄釜石製鋼所のシートパイル岸壁でも起り,この例では,パイルの倒壊に至った。根入はこの例では3m位しかなかった様である。
八戸工業港の鉄筋コンクリート矢板も,同様に裏込めの抜け出しを生じ,矢板相互のかみ合せが弱く,脆弱にくずれていた。
以上は越流が起った時の破壊例であるが,次に八戸小中野漁港物揚場護岸の例を示す。この場合には泊渠の中を津波が前後に往来し,護岸の前面が深掘れして倒壊した。同様な例が閖上港入口の護岸にも生じていた。この外志津川港,女川港及び釜石港で岸壁の天端沈下が生じていたが,裏込の吸出しによるもののようであった。


津波対策について
津波の対策としては,三陸津波で最も被害の多かった岩手,宮城両県に於て,昭和8年後,種々の施策が講じられていた。本格的な防波堤としては岩手県田老のそれがあり,これは図1に示すように,昭和8年の浸水高10.6mを天端とし,延長1,200mで,町を城壁のように囲み,その前面に巾330m程度の耕地及び船着場,倉庫地帯をへだてて海に面し,この仕事場地帯と町との出入には2コのマィターゲートを有する陸閘によっている。今回の津波においてはT.P. 2.84mであって津波は防波堤まで達しなかったけれども非常に安心感のあったことは疑いない。図2は吉浜の防波堤であるが,ここでは天端より2m下まで津波が来たので,これは,今回最も有効に津波を防いでくれた例となった。
これら2コの例によって見る時は,三陸海岸の湾奥部及び湾岸主要部は,防波堤を張りめぐらさねばならぬこととなる。しかし,現地を視察した時に感じることは漁業を生業とするこの地方にとって,生活圏と居住圏を防波堤で断ち切る点は果してどうであろうか。疑なきを得ない。さらに経済効果的にも許されないことであろう。
ここに一歩を退いて,山田町のほぼ中央に海に平行に設置せられている防波堤を見よう。この場合は,図3に示すように構造は大分簡単であり,かつ,壁は途中が切れていて,今回はこの壁の裏側迄津波は浸入した。しかし,その勢は非常に弱められ,また引潮のときには,水を貯溜し,漂流物を掩溜して被害を減少せしめた。
ここにわれわれは,現実の生活と,防波対策の融和点を見出すことが出来るのではあるまいか。さきに,のべた通り津波の冠水がlm程度であれば,被害は殆んど言うに足らぬものであり,これを実際の堤防高で考える場合,生活の利便を与える上に相当なものがありはすまいか。陸上に浸入した津波の掃流力を減殺する為には,浸水高の1/3〜1/5程度の阻柱を設けては如何。防潮林は巾100m以上で根っ子にbushを密生させねば効果がないといわれる。海岸第1線に防潮林を設けるのは高田松原の例もありかなり維持に困難であり,陸上にかなり引込めて勢が弱まった辺に,あちこちに設けるといった,高次の設置の仕方はどうであろうか。いわゆる水をだましだましして温和にすること,水に逆らわぬこと,といった考え方が望ましいのではなかろうか。チリ地震津波に関して波高は7m以下であり,大半は5m以下であったから,この考え方で行けるところが大部分であろう。ただ問題は三陸津波で水位10m以上を示した地点である。
そのような地点では高地移転が,やはり最上の策ではなかったろうか。ただ,東北の三陸沿岸は経済力に乏しく,漁業も小規模で自宅からごく近くの浜に船をおいて,常に荒天時その他の管理を行う必要があるといわれる。
ここになお研究を要すべき事情が伏在している。ただ従来の施策に一言批判めいた評をいわしてもらうならば高地移転は,敷地造成,住居制限のみでは実施され難い。住民の生活指導,津波に関する具体的な教育を不断につづけて,住民の自発的創意と工夫による協力を得る必要がある。それと同時に住民の福祉を増進し,富裕ならしめること,また,津波保険といった対策を強化することなど,行政的に打つべき手が相当あると思うのである。チリ地震津波について首題の問題を若干考察した。時日なお浅く,資料の検討も不十分で,かなり独断的で読みづらい点も多いことと思われるが,東北地方の発展と繁栄を願う一員として,意のあるところを汲んでいただければ幸いである。

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写真 写真—1 大船渡港1万トン岸壁裏込流失
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写真 写真—2 大船渡港1万トン岸壁裏込流失
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図l.田老防波堤
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図2.吉浜防波堤
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図3.山田町防波堤
(4)防潮林の効果に関する考察 武田進平(岩手大学農学部教授)

はしがき
今回のチリ地震津波の調査結果から防潮林の防災林としての検討やあり方を述べる。


研究の方法
去る5月24日三陸海岸を襲ったチリ地震津波被災地防潮林を見聞し得た資料と,昭和8年3月3日の三陸沖津波被災報告書文献を読み合せて海岸保全工学を研究し得た事項とを総合し考察を試みるが,測定は行なわなかった。


調査の結果
1.今回のチリ地震津波はおしなべて4〜5mの高さに来たので,波高からしては前回のように場所によっては20mにも達するということはなかった。即ち前回ではV字形の湾は奥になる程波高が高くなったというけれども今回はその様な現象は殆ど起らなかった。
2.津波の押し寄せて来る時よりも引き潮の時の方が速度が速く従って水圧力も強いと観察された。
3.河川が入っている所が侵入水の範囲が広くなり被害をも多く与えている。宮古,大槌,大船渡等に見られる。
4.防潮林は単に津波に対して防災的効果を発揮するばかりでなく平時海風によって送られる塩分を捕捉、して内陸へ送られる量を減じ,又その濃度をも減ずる所謂塩分阻止効果があるにも拘らず,漸次それが軽視されている様に見うけられる。又防風的効果があることは割合に軽視されぬ様である。
5.防潮林の根固め的護岸でも波返しをつける方がよい。それをつけると少くも約50cm位はoverしようとする高潮をはね返すことが出来るものと観察された。
6.岩手県の高田松原の防潮林などは,平時は名勝観光地となってその方面からの宣伝がきいて観光客の来ることが多くなりその人達は防災的考えは無く,下木を伐ったり一般に落葉や腐植値を無くしたりして下木は減じ,地味は瘠悪化の傾向にあったことが津波の侵入を容易にした。その他防潮林帯の内でも道路等のため切れ目が存在するとか,若木の部分とかの弱点と見られる部分が破られた。特に高田松原では300年生の林の大部分は海水が侵入し,その最前線にある林縁木は根こそぎ倒されたが林帯としてはよく津波のEnergyを減殺し波高をも低くめたのであるが,弱点たる40〜50年生の部分約100mの区間だけが破壊された。この様にこれからの防潮林の管理経営上考慮すべき事がある。


防災作用の検討
1.「防潮林は津波の波浪のエネルギーを分散し波高を低下させる」ことについて,
防潮堤或いは防波堤の方はその設計に当って波圧に対抗する様にしてあり,防潮林設計も之にならっている様であるけれども大体防潮林は完全に津波を防ぎとめるものではなく自らは多少犠牲になってもその後方内陸の耕地,建物等を保護するものであり,それは津波の波圧に対抗するものでなくてEnergyを減殺するものである。津波のEnergyは次式で表わされる。E=1/8ρgH^2L但しρは単位重量,gは重力加速度Hは波高,Lは波長波高の自乗と波長とに比例する。之によって分ることは前回も今回も波高は約5mと同じであるとしても前回は波長は240km位,今回のそれは約480kmで丁度倍になる。Eは前回は7,357t.km/sec^2,今回は14,715t.km/sec^2換言すれば前回は毎秒1億馬力,今回は約2億馬力の仕事をした勘定になる。この様な破壊力に対しては土木工作物は高さが高くなる程余程厚い壁体構造を要することとなり,莫大な工費を要することとなる。科学技術庁資源調査会報告によれば海岸沿いの巾40m内外ならばm当り1,500円位で造成されるが,防潮堤は4万乃至15万円,裏をコンクリート張にするとこの倍も要するといっている。これに比べると防潮林はこれを通過することによって速度を落し結局波長を遙かに感じてEnergyが減少することになる。果して何分の1に減少するかは末だ不明であるけれども数分の1乃至場合によっては何十分の1に減ずる程大きい作用をなすものと推定される。
この様にして減殺されたEnergyが当る時に工作物は可成り安全なものとなる。従って若し汀線に近い前線に防潮堤があって直接津波の破壊エネルギーを受ける時被害が大きく,先づ防潮林でエネルギーを減殺して後に防潮又は防波堤で受けるならば効果的であるということがいえる。またheadを低くめる程度如何というに,kirchmerによればh=1.73((t/b)^2)(v^2/2g)但しt=樹木の直径,b=立木の間隔,例えば樹木の直径30cm,立木問の間隔2mならば流速4m/secのきと0.03mであり,流速6m/secならばO.07mとなる。これは杭について実験した式であるが,防潮林に適用出来ると考える。


2.「防潮林の塩分阻止効果について」
今回防災的に検討すれば防潮林はそれ自体では平時海風中の塩分を捕捉する効果がある事は判明していたのであるが,更に林業試験場で宮城県北釜海岸及び青森県横浜海岸でクロマツの雛形防風林(高さ1.5m)と実際のクロマツ林(平均樹高12m)について海岸林帯が海風中の塩分の飛散をどの程度に阻止するかについて調査した報告があるので要旨をあげると,
a 実験方法は林帯の風上,風下及び林内に塩分捕捉器を設置し,それぞれの箇所の空中塩分を捕捉した。捕捉器はガーゼを枠に張り,その面に風が直角に当る様に設置した。
b 防風林の無い時は,塩素附着量,空中塩素濃度は海岸が最大で,内陸に進むに従って最初は急に減じ,その後は徐々に減ずる。
c 防風林が存在するときは,付着塩素箪は林内に入ると急激に減じ,風下林縁直後が最も少ない。林帯を風下に向って離れるに従って増加するが,樹高の25〜30倍附近で増加は止まる。この位置が林帯の塩分濾過効果範囲と考えられる。
b 林帯の空中塩分の捕捉器は,実際の防風林では0.88雛形防風林では0.72の結果を与えた。
e 林帯の風下に於ける空中塩分の減少は,林帯の塩分濾過効果と風速の減少による単位時間に通過する塩分を減少せしめることによる。両作用共林帯の厚い方が効果が大きい。風速の減少による効果は濾過効果より遙かに少ない。
f 林帯が海風を上昇撹乱せしめ,渦流拡散を大ならしめて,塩分濃度を減少せしめる効力がある。この影響は遙か後方まで及ぶものであるが。平時は効果微弱である。暴風時には大きな効果を表すものと考えられる。次に林帯が風速を減少する機能については,多数の測定や実験が行われているが,風速減退効果の範囲は大体風下では樹高の25倍,風上では6倍程度とされている。


3.「防潮林の強さについて」
非常時津波,高潮等の破壊力軽減機能について前述の通り津波の破壊力或は波圧が推定されるし,海水水頭を低下させる程度も算定出来るが林木が動水圧に耐えられることが望ましいのでその動水圧Pは単位長について,
P=kγa(v^2/2g)
Kは係数で円形断面積では1.0,aは杭の巾,γは水の単位容積重量,vは流速,gは重力加速度,で判明する。
樹木の被害は根倒れが多いが,根系の引張りに対する強さは根の張り方によって違うので,一定の動水圧に耐えられる樹高,直径は算定することはむづかしい。そして前線の樹木が水圧を受けて倒れても林帯の巾が相当あれば後方の樹群によって充分防潮作用を果し得るから,健全な森林を造成することに努めればよい。又高潮時暴風が起るので,風倒の危険を考えねばならぬが,伊勢湾台風の経験では,風上部に於て現在林帯の風倒率が多くも20〜30%であり,風下の部分は殆ど風倒が起らなかったと記されているのは参考とすべきである。


4.「引き潮の時防潮林のある方向へは流れが弱く,ない方向へ集中して流れる」「防潮林は流木,船舶等を林内に止め,背後地を守る」
これ等は自明の理で特に説明を要しないと思うが,今回は特に後者の事例を各地で見た。


5.防潮林の巾員何程を要するかについては,末だ十分研究されておらぬが,現在の研究過程では流速に最も関係をもつものと考え,流速5m位の時の100m位から流速15m位の時の200mはほしいものとなっているが,用地の得られない場合は止むを得ないものとして最小限度40〜50mと考えられる。
而してこの流速は海浜の傾斜によって異り,傾斜ある程緩となる。


むすび
防潮林の防災的効果の判定には末解決の事も多いが,それ等は将来の研究に俟つこととするが,今回の地震津波によって相当程度効果発揮せるものや,一般の被害状況が判明したから今後の恒久対策にこの経験を活かすべきである。

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津波のEnergy式
(5)天災を恐れよ (東北研究1960. VOL.10 No・5より)

「天災は忘れた頃にやって来る」というのは寺田博士が災害について残された有名な言葉である。然し今日では各種の災害が忘れる暇もないほど跡をついでやって来るのが実状である。それでは災害の頻度が著しく増したのであろうか。また増したとすれば,それは何のためであろうか。
天災という言葉の裏には,災害は天ケンであると言う意味が含まれていると思われる。すなわちなすべきをなさないでいるから災害を被るということで,古くシナには政治が悪いと天ケンがあるという思想があった。政治の責任者が天の命によって定められるとすれば当然のことであろう。そこには自然科学的な因果関係は必ずしも必要でなかった。然し防火設備をおこたったために大火災となり,堤防がこわれたままになっているために少々の雨で洪水となるというケースは,正に政治の貧困が災害を多くする結果となる訳である。これが或いは平安になれて世を挙げて奢侈に走り,なすべき注意を怠っている時に大災害が起ると,民心がそれによって目覚まされるということにもなる。
今日では新聞,ラジオ,テレビとマスコミの発達のため,遠隔の地での問題も身近かに感ぜられるようになった。これは災害の多くなった感をいだかせる一原因であろう。国内といわず,世界中一体の同胞であることを考えると勿論これが当然の事であって,自身に直接降りかからないからと災害を知らぬ顔で聞き流してしまってはならない。救援や復興に手を差し延べるは勿論,これを契機に将来に対する予防対策を皆して考えなければならない。
ここに災害は単なる天然現象でないことに注意しなければならない。地震や津波は自然現象である。台風や豪雨は自然現象である。然しこれらは人間生活と何等かのつながりをもつ処に起って初めて災害となる。従って生活地域が拡大すればする程災害は多くなる訳である。河や海に近く住み,そこで働くようになれば水の災害が起る。火を使うようになって火災が起る。(山に登らなければ,山の遭難というものは起らない。)家が建ち並ぶから火災も大きくなり,地震や洪水の規模が大きくなる。然しそれは防火壁や緑地帯を怠ったためであり,建築強度と構造が充分に研究されていなかったり,敷地の選定とその配置をあやまったためである。河川改修がかえってある地域の洪水を助長したり,ダムを作ったために被害が大きくなったと思われる場合もないでもない。それには研究の不足もあろうし,別の方面からの強い制約がわざわいをなす事もあろう。こうなると天災に関連してるとはいえ人為的災害といわなければなるまい。
今迄になかった害が新しく起るという事もある。鉱山の開発で鉱毒害を生じ,煙害を生じ,工場のために汚水害を生ずる。機械に巻き込まれて死傷するのは別としても,原子力の開発で放射能害が人類に尊い遺伝を塁積する事になったらどうであろう。自動車事故が増して病死を上まわり,ノイローゼが更にこれに拍車をかけるとしたら,文化とは一体何ぞやということになる。
我々は災害を誘発するような計画をやっているのではないか。それを充分防ぐ対策を講じているだろうか。天災に対して真におそれ,人災に対して真に反省する事がなければ,我々の築いたものは砂上の楼閣に過ぎなかった事になる。
産業はあらゆる可能性を追求してその経済効果を計算する。そしてプラスになるものは何物をも棄てておかない。その場合に一体計算に乗るものは何々であろう。一つでも見落されたものがあれば,実際のバランスはプラスからマイナスに転落する。材料の知識が不完全であり材料自身が不均一をまぬかれぬ時には,柱や桁を選ぶには安全率をかける。それが8倍にも10倍にも上ってはとても今日の競争には勝てない。そこで知識を深め,均質性を厳重にした安全率を下げる工夫をする。万一にもこれが外れる事があると,それは災難として扱われる。災難を保険という制度でカバーするのは経済効果的処理方法の一つである。それが現在の知識の限界をカバーするために利用される限り正しいが,行き過ぎると知識の処理をなおざりにしておいて保険によりかかる弊害を生じないでもない。故意にマイナスの面をかくしてツジツマを合わせたバランスシートを作る事さえ見られる。これは個人または局部的の経済的効果だけを尺度とする時当然起り得る事である。有利不利両方の,特に不利の面を充分に研究し計算に取り入れる事が経済効果を確実にする所以であり,災害を未然に防ぐ唯一の道である。
災害は人命に大きい関連をもっている点で重大である。これは経済効果では割り切れないだけに,絶対命題として別個に考えなければならない。然し我々の社会の経済力に限度力がある限り,人命の災害を絶無にする施策ということは不可能と思われる。然しまたそれ故に経済的圧迫が加わると,その比重におされて万一の災害が忘れられかねない。それは人間社会の法として残しておかなければならない。東北地方の津波災害に見てもこれは明らかである。異常の引潮で津波を予見し,平素の訓練に従って整然として退避した所には死傷がない。当然津波の来る所に止むを得ず居住を定め,その日その日に追われていた所には惨禍が繰り返えしている。その意味でやはり「災害は忘れた頃にやって来る」それは目先の利益のみを追求しようとする不逞な社会への(その個人へというより)天ケンでなくて何であろう。

第6章 学校災害の処置

第1節 陸前高田市

学校としで災害発生によりどんな処置や救援活動,協力活動及び対策が行われましたか。 1.小学校・中学校

広田
○校長先生や2.3の先生方の見舞,激励がありました。
○全町僅,3軒の浸水家屋,それも床上2.3尺程度,被害児童も僅か3名,教科書や衣類等も流されないで済んだので,学校独自の立場としては,金銭,物品,慰問品等の災害対策はやりません。但し,災害救済部からの見舞金の交付や市当局からなされた。学用品の配給は適格に致しました。


長部
○津波発生と同時に学校長,職員が学校に参集し対策を考えた。
○当日は臨時休業,明日より一週間2時間授業とする。
○すべて市教委と連絡を密にした。
○学童の罹災状況を早く知るため罹災部落を巡視した。
○児童の災害状況をすみやかに市教委に報告した。
○救援物資の配給。
○児童の健康管理を行う。


気仙
24日 中学校
○教育委員会に校舎浸水32cm〜85cmと報告。尚学区内の湊地区の被害甚大なる見込なので臨時休校の届けをして「本日臨時休校,明日は一応出校するよう」と非罹災地区の生徒をして知らせた。
○職員分担して生徒の罹災状況を調査する。尚警報発令中であり,数次にわたる波が川を押し寄せるので重要書類,校具は八木沢商店トラックの奉仕を頂き同店倉庫に避難,その他可能なかぎり二階の室に揚げた。終日待機する。
○夜玄関,非常口等扉流失しているので,消防団に警備方依頼し,宿直員を増員して警戒にあたった。
25日
○生徒は出席をとり一部をして,校長室,職員室の泥除き,流失物の蒐集,小修理等をやらせ殆どの生徒は罹災した親戚,友人宅への取片付の手伝をさせた。
○教育委員会へ罹災状況報告。
26日
○再び警報発令されたので臨時休校。
○職員による校舎内清掃。
○午後職員半数にて罹災職員宅(1名)に片付方手伝い。
27〜28日
○校舎内外(校庭にも金野建設の半壊作業場の残材をはじめ付近流失家屋の流失物が散在し,欠壊堤防の土砂が堆積してあった)の清掃復旧にあたり。
○午後は帰宅させて地域,親戚への手伝いさせる。
○尚27日午後は生徒会校内委員会を開催。罹災生徒への対策を協議
○非罹災生徒より拠出して見舞金を贈る。
○非罹災生徒より拠出して,学用品,衣料品を贈る。
○6月分より生徒会費を免除する。
30日
普通授業。
○高田松原の松の手入れ作業をした。6月7日同11日の2日間全校生徒出動して。えぐられた松の根の土盛り作業を実施した。
○6月4日より同20日まで災害地派遣の自衛隊に宿舎として5教室提供した。


米崎 中学校
○罹災家庭の生徒を調査し,学用品の不足を調査し地教委に報告。
○一週間の臨時休校をした。
○非災生徒を登校させ,生徒で出来得る。被災地の後片付をした。


小友
中学校
5月24日
○津波来襲のため,殆んど登校する生徒なく,高田方面より通勤の職員も午前中は学校までの徒歩交通も不可能な為,出校せず,わずか出勤した2〜3名の教師の協議によって取りあえず,被害生徒の家庭訪問を実施したが流失,半壊等の生徒の移転先不明の為,実態把握,不可能なので三日市附近の流失家屋の取片付に協力。
5月25日
○被害生徒(22名)を除き生徒全員出校,職員は4名休暇で出勤せず午前9時より正午まで生徒170名に依って(職員4名)三日市部落へ復旧の応援に出動,作業は全,半壊家屋の解体,材木の運搬等を対策本部の指示に依って行う。本部の人員配置適切を欠く為,作業の進行円滑に行われず。一方教師2名,被害の生徒の家庭訪問を実施。被害の程度,救急必需品,避難先等を調査,両替公民館に避難した生徒の一家族以外は殆んど親戚関係の家に避難し,救急品及び食糧等は本部より急をしのぐだけは配給になる。作業は12時半終了,調査は4時に一応終了。
5月26日
○被害生徒を除く生徒8時30分より,対策本部の指示により,被害家庭の復旧作業に出動,作業内容は前日に同じ三日市部落の23個所の家庭に手伝う。生徒の疲労甚だしい為午前中にて終る。教員2名,再び家庭訪問を行う。学用品の不足数量の調査を行う。消毒の為の薬品の不足を痛感す。
5月27日
○被害生徒の家庭調査を前日に引続き実施,学用品関係の調査まとまる。生徒は班編成にして被害生徒の家庭に直接出動し作業に協力する。作業内容は汚れ物の洗濯,衣類の洗濯等に重点をおく,作業時間は9時より午前中。被害生徒は衣類流朱の為,登校できない者,2,3名を除き出校,教科書の不足数を再調査。
5月28日
○生徒は疲労ひどく本日は生徒のみ休業,職員は分担して被害生徒の生活状況の調査に当たる。
5月30日
○普通授業に入る,教育委員会より第一回の救援物資到着。
小学校
5月24日
○午前6時災害発生を憂慮して駈付の職員と事態に対処すべく緊急協議し,学校は当分臨時休業とし,被害児童の実態調査慰問並に被災職員の救援に日直以外現地に出張学校に災害対策本部連絡所設置,被災職員管野喜一郎教諭の仮居所に応接室充当。交通通信杜絶の為非被災上級生児童を各部落に派して臨時休業伝達をなす,午前8時半被災激甚地区の三日市において緊急職員会議を開き,28日まで臨時休業を決定し救援協力対策を協議担任被災児童の実態把握,激励慰問終了後被災職員の流失家財家具の探索運搬に協力,女子職員は災害対策本部と協議し炊出配給に従事す。
5月25日
○全職員参加職員会議開催被災死亡者家庭の弔問,被災児童への見舞金贈与について協議各被災家庭の訪問をなす。終了後前日同様災害対策本部と協議の上協力。
5月29日
○以後1週間道路流失のため交通不能地域の児童は登校は父母側,下校は教師の引率による方法をなし安全通行の指導をなす。学校を通じての慰問金品の分配業務をなす。


高田
中学校
5月24日
○臨時休業
午前
○罹災地の巡視,生徒の家庭の被害状況調査(死傷生徒なし)
午後 職員会議
○児童生徒の調査。
○被害概況についての話しあい。
○災害対策について
○罹災地巡視,見舞
5月25日
○臨時休業
午前
○職員生徒登校後被害状況調査,家屋の状況,身体状況,教科書の状況等
○本日より3日間職員2名3年生及2年。1年の有誌30名で市内の交通整理に4個所で奉仕。
○自衛隊員70名作法室,工作室に宿泊
○小中合同職員会議
臨時休業について
PTA対策について
午後
○担任生徒の家庭訪問
○罹災同僚職員への御見舞と手伝い
5月26日
○職員 生徒の有志により罹災生徒の見舞と同僚職員への手伝い。
○教委と罹災生徒の教科書について協議,市内で
の交通整理前日と同じ,午後4時より職員会議
5月27日
○全校生徒出校,ホームルーム後放課,同級生の家庭へ奉仕。
○津波の被害調査
○支部幹事会に出席,組合の災害対策について協議。
5月28日
○2校時にて放課
罹災生徒の教科書調査
5月30.31日
○午前授業として家庭の奉仕作業
6月1.2.3.4日
4日間農繁休業
○農家では農事手伝い,非農家の生徒は罹災家廃に対する手伝い
6月7日
○全校生徒昼食携行で高松原の松の根の手入作業に出動
以上の外次の活動をした。
○部落巡回指導
○見舞品,見舞金の配給
○被害状況,整理状況調査
○片付け方の手伝い
○教科書の配給
○衣類及学用品の調査
救援活動について
○下記のような救援物資を受けとり配給する。
5月27日高田PTAより
ノート65冊
鉛筆 65本
5月30日市教委員会より
ノート60冊
鉛筆 120本
5月3日管勝商店より
手さげ鞄 5
ノート150冊
鉛筆 85本
5月31日浜横沢小学校佐藤隆彦先生より
ノート 30冊
高田中生徒会職員一同より
タオル
6月1日長坂中学校より
ノート 85冊
鉛筆 13本
衣類 28点
靴 1
災害救助法により
鉛筆 58本
6月8日吉田運動具店より
リフト6 上級革ヅック18
6月9日太田区谷貞子様より
衣類 16点
高田中生徒会より
衣類 22点
ノート 16冊
鉛筆 15本
辞書 3冊
6月10日市教委経由で
英和辞典 58冊
漢和辞典 11冊
ノート 54冊
鉛筆 125本
筆箱 5個
鞄 6
広田中生徒会より
ノート 45冊
クレパス 10個
分度器 45点
6月13日東磐井郡清田小学校より
ノート 21冊
辞典 4冊
衣類 53点
6月15日教委経由で
ノート 227冊
鉛筆 540本
衣類 21点
7月3日教委経由で
ノート 380冊
鉛筆 900本
7月12日学習研究社
ノート 50冊
救援資金について
5月30日 岩教組互助部より
全流失 1000円,半壊 500円,床上浸水 200円}づつ見舞金
6月13日岩教組より
見舞金
7月21日長野県西筑摩日義中生徒会より1,050円
7月21日東急観光伊藤■夫氏より 1,000円
山形県最上東中学校2年B組より 100円
7月21日気仙郡PTA連絡協議会より 6,650円
小学校
5月24日
午前
○罹災地の巡視,臨時休業
児童の主として人命調査(死傷児童なし)
○被害概況調査
○婦人会と協力して炊出し,おにぎりを運搬配給
学校の給食室利用
午後
○職員会議
児童の調査,被害概況についての話合。
災害対策について,調査や明日の日程等について
罹災地の巡視,見舞
5月25日
午前
○児童を登校させ実状の調査
家屋の状況
身体状況
教科書の状況
衣類はき物等
昨晩の生活状況
○小中合同職員会議
臨時休業について
PTA対策について
午後
○担任児童の家庭訪問
教科書,学用品の被害状況調査
○同僚並関係者の御見舞並手伝い
5月26日
臨時休業
午前職員会議
○災害児童の調査について教育委員会で協議
臨時休業
午前職員会議
○災害児童の調査について教育委員会と協議
○災害対策について
○午後罹災児童の家庭に対する見舞並奉仕,
×校庭を自衛隊ヘリコプター発着の為使用。
×自衛隊宿泊(44名)第2音楽室及講堂使用
5月27日
○学級作業2時間放課
○教科書調査
○支部幹事会を本校で開き,教委組合で災害対策について協議す。
5月28日
授業3時間
○昨年使用した古い教科書を寄贈してもらい教科書を持っていない児童に配布す。
5月30日より3日間午前授業として次のような活動をする。
○部落巡回指導
○見舞品,見舞金の配給
○被害状況,整理状況の調査
○片付け方の手伝い
○教科書の配給
○学用品の配給
○衣類及学用品の調査
○見舞品並見舞文に対する礼状の発送
救援活動について
○下記のような救援物資を受けとり配給する。
5月28日 岩手県教員組合より
ノート 算数 154冊
国語 144冊
鉛筆 272本
5月29日 高田小学校PTAより罹災児童1名に対して
ノート 2冊
鉛筆 2本
5月30日 菅勝商店より
ノート 300冊
カバン 7
学生帽 4
鉛筆 276本
6月7日 教育委員会(長坂中)
ノート 176冊
カバン 21
衣類 48点
鉛筆 14本
筆入れ 1個
クレパス 1個
6月3日 岩手県教員組合
ノート 1.049冊
(罹災児童1人当り8冊ずつ渡す)
6月3日 教育委員会(災害救助法による)より
ノート 24冊
筆入れ 132個
消ゴム 132個
画用紙 17枚ずつ24人分
クレパス 24個
ナイフ 132
下敷 132枚
6月11日 教育委員会より
明解漢和辞典 69冊
鉛筆 288本
ノート 116冊
リックカバン 8つ
ぞうり袋 5つ
画板 3枚
筆入 7個
その他 ll
6月4日 岩手銀行高田支店長より
衣類 16点
6月12日 高田町いとやさんより
男物 18点
女物 18点
6月14日 教育委員会より
ノート 277冊
筆入 21個
カパン 20
鉛筆 1.360本
衣類 多数
6月25日 菅勝書店より
鉛筆 4打
少年サンデー 50冊
時間割表 若平
6月29日 教育委員会より
4梱包
鉛筆,ノート,カパン,リックサック,クレオン等多数
7月ll日 米崎町本多熈氏より
ノート 170冊
鉛筆 360本
その他
○岩手県教員組合より見舞金
○高田小学校PTAより各戸に味噌1袋ずつ
○岩手県教員組合よりヅック靴1名に1足ずつ
○高田小学校より(児童会)見舞金

2.高等学校

岩手県高田高等学校
チリ地震津波被害後のメモ日誌
5月24日火曜日午前4時前後チリ地震津波,日本の太平洋岸を襲う本校々庭の半分まで来襲。
○直ちに高田町長砂方面避難者のため本校を開放1年D,3年D教室(裏山へ避難に便)に一般避難者を待機させる。寄宿舎に負傷者,病人を収容し応急救護所とする。3年B教室(校舎中央,事務室の隣)を対策本部に貸与,図工室に死者を安置。
○緊急職員会議
津波被害対策について(臨時休校,被害調査救援復旧作業など)
○生徒の被害状況調査(陸前高田市内,大船渡方面)
○被害者(長砂,松原方面の130名)宿泊のため裁縫室,3A教室を開放し,食器類,宿直用,衛生室用ふとんの一部その他を貸与。
○生徒の家庭に被害のあるもの多数にのぼることが判明,職員の被災者6〜7名あることが判明。
5月25日水曜日臨時休校
○県教委災害視察団来校
○生徒の被害状況調査,及び調査結果のまとめ今後の対策を検討
大船渡市一学校長以下職員8名
気仙町長部,小友町三日市,米崎町—残り職員。被災者宿泊。
5月26日木曜日臨時休校
○被害状況調査(大船渡,赤崎方面,陸前高田市内)
○生徒180名をもって作業隊を編成,防疫,清掃,取片付に従事。
防疫(長部,川口,大通り,松原,長砂方面に石灰粉散布)
清掃,取り片付け(松原,長砂,三日市方面)被害者宿泊。
5月27日金曜日臨時休校
○文部省調査官2名来校
生徒216名をもって作業隊を編成
防疫(長部方面,長砂,松原方面,米崎地区(沼田,脇の沢,浜砂,小友地区(三日市,両替)薬剤溶液散布。
清掃,取り片付け(長部,松原,長砂,三日市方面)
被災者宿泊。
5月28日土曜日臨時休校
○生徒200名出校,校舎内外の清掃,整備,消毒,被災者の一部,図工室,音楽室に移る。
○救援物資倉庫として,社会科資料室,地学標本室を貸与。
○国鉄バス,陸前高田〜盛を列車時刻に運行開始。
5月29日日曜日
○被災者宿泊,図工室,音楽室に全部移る。
○理科実験室に日赤救護班による診療所を開く。衛生室設備の一部を貸与
5月30日
○出校日,生徒10時登校,災害時の心構え,今後の対策について話す。
○被災状況調査,被災生徒160名前後であることが判明(死者なし)
○校内清掃,消毒。男生徒数名交通整理。被災者宿泊(図工室,音楽室)
5月31日火曜日
○出校日,生徒8時30分登校。
○校舎内外の大清掃,消毒。
○学校隣接地の取片付け。
6月1日水曜日
○授業再開
○校庭。陸上自衛隊ヘリコプター発着場となる。
○被災者宿泊。

第2節大船渡市

学校としては災害発生によりどんな処置や救援活動協力活動及び対策が行われましたか。 1.小学校,中学校

末崎
○末崎小学校
災害発生により児童は2日間臨時休校にし,職員は災害児童の調査救援に当った。救援として気仙教員組合から児童1名につき200円のお見舞と学用品の現物支給。
○市教委からズック靴,学用品の現物支給があった。
○末崎中学校
緊急職員会議を開いて対策を協議する。
○5月24日,5月25日の2日間臨時休業。
○5月26日
授業再開,生徒の家庭災害調査。午前授業。
罹災職員の見舞と災害地片付けのためおもむく。
○5月27日
正常授業に復す。
生徒災害家庭の見舞いと訪問調査。
罹災の状況について市教委に報告。
○救援活動協力活動
被害は予想外に少なかったので,特に学校としては行わない。市教委の救援活動に協力,救援物資の配給にあたる。


蛸浦
○蛸浦小学校
緊急措置在住職員協議の結果次の態度を決定す。
「状況安定するまで児童の登校を中止する。直ちに職員分担の上,各部落に徒歩及び自転車で伝達,午前7時伝達完了。
○職員分担して状況確認のため学区間を行動・被害状況の確認。
○学校長外1名は午前9時半出発して午後9時まで,赤崎大船渡地区の学校見舞。
○学区間被害状況は児童及び部落民の人的被害なし,人家流失なし,床上浸水程度及び床下浸水程度の状況を確認。
5月25日
児童召集
学校が高台にあり津波の危険が少なく児童が各家庭に分散して生活するよりも学校に召集する方が安全である。特に家の人々は被害の整理やら対策に集中し子供の管理が不充分となる恐れがあるので召集することに決定。
○午前8時から午前11時半まで緊急体制の中で授業
被害状況を調査すると共に次の事を児童に徹底
○伝染病の予防注意
○災害地に行く場合の注意
○家庭に協力する態度(特に経済面,手伝い)
その結果児童の被害状次の通り
(学年別は省略概数のみ)
床上浸水 27名
床下浸水 7名
明治29年昭和8年にくらべると被害皆無と考えられる状況。今回の津波の特異性をみる。
職員の被害状況
及川六助教諭
床上浸水3m位家財流失
鈴木史郎教諭
階下浸水,内部流失(但し借家)
○下校時は職員補導の下に児童を部落毎集団下校を施実。
○学校長,午後2時市内緊急校長会に出席。
5月26日
午前2時から4時まで津波警報発令。
1.午前6時半より7時まで職員有志協議
児童の召集を決定。
2.午前8時10分より8時40分まで職員協議。次の事を決定。
○授業3時限
○登校,下校の注意
○家庭における生活態度
○教科書の寄付
○他校児童の状況
○部落連絡責任者の決定
○今後の連絡及び情報は消防団及び災害対策本部ととりデマに惑わされぬ様指導する。
午前11時40分引率下校
3.午後3時警報発令,ハワイ方面津波,日本にも影響あるとの事,午後5時まで警戒。
4.午後教育委員会,教員組合より見舞及び調査のため来校。
5月27日
授業3時限
○救援活動及び協力活動
1.物質面救援は早急に出来かねるので精神面を主とする。
○被害児童に対して,全校で激励と協力。特に被害児童に対してはひがむことのない様特別の配慮をする。
○被害をうけた親族,近隣に対する応援。
○調査の結果にもとずきそれぞれの関係機関に,(市当局,教委,教組)救援の手続をすすめる。
○被害の多かった地域に対して自分達で出来得る応援をすること,例えば教科書,激励文避難疎開の受け入れ等
○津波のため他所から移って来た友達に対する配慮。
2.協力対策としては
○職員の応援隊(同僚の被害者及び関係者に対して)
○服装学院生徒の赤崎地区への応援派遣
○児童自体,応援はむずかしいので生活態度の指導によって家人に余計な心配をさせぬよう自分で安全な生活をする様指導。
3.救援物資の取扱い。
公平に行い不平,不満の起らない様職員全体で配慮しその結果は明確に記録する様注意した。又好意に対しては感謝の気持をもってこれをうけ礼をつくす様指導する。


大船渡
○大船渡小学校
5月24日
津波当日罹災職員以外の全職員出勤。
緊急職員会議
○当分の間臨時休業とする。状況を把握しつつ召集を考慮する。
○死亡児童確認
○罹災職員の状況把握と援助
○早急に児童の転居先を調査し尚罹災状況を調べる。
○授業開始は中学校と同時とする。
○罹災職員以外は毎日出勤する。
対策
○死亡児童確認
○災害対策本部への協力
○罹災概況把握
○罹災児童の調査
イ 概数調査
ロ 罹災保護者確認
ハ 保護者名簿より児童調査
罹災児童名簿作成
他学区学校の協力
ニ 救済金請求(共済部)
ホ 死亡児童弔慰金
○教科書学用品の調達
市教委を通じ他の各地教委管下小学校の協力を求める。
○教科書,学用品地教委と組合
○金品,衣類の救援物資について
学校宛送付のものはまとめて受領の上,記帳し地教委に報告する。
○死亡児童弔慰金
職員一同1名200円
学級一同 授業開始後処置する。
○罹災見舞金
調査後段階に応じて処置する。
○罹災家庭の整理手伝
25日職員朝会で協議する。
○その他
イ.PTA会費より支出。学級教材費の支出は一時停止とする。
ロ.宿直員は増員する。
ハ.葬儀に対する事項は後日協議する。
ニ.防疫対策
ホ.他学区移動児童調べ
へ.避難民の処置
○死亡児童確認の為各部落担当教師により全学区罹災地巡視。
○罹災職員の災害程度確認並見舞い。
○市の津波対策本部本校に設置さる。対策業務に全職員終日全面的に協力する。
炊出し弁当を各地区部落へ配達し,救援物資の運搬整理,病人収容,罹災者を講堂へ収容,その他
○死亡児童 6名
1年 3名
2年 1名
3年 1名
5年 1名
○罹災職員 5名
○宿直員当分5名とする。
5月25日
○津波対策本部市役所へ移転する。
○罹災職員並PTA役員宅へ整理手伝い。
○学校長,総務,罹災職員,PTA会長,副会長
校医,建設委員長宅見舞い。
○講堂,罹災家族収容所として開放。(病人2名収容世帯45)
○臨時校長会議 2.00〜本校にて
5月26日
○罹災職員宅へ分担して流失家財整理手伝い。
○学校長,赤崎地区罹災職員宅見舞い。
○避難所整理手伝い。
○当直室設置
○罹災地域巡視—児童の移転先調査,罹災概況調査
5月27日
○罹災職員宅へ整理手伝い。
○救援物資の運搬へ協力
○地教委召集校長会議10.00から本校に於。
○文部省係官来校
学校長より罹災状況説明
5月28日
○交通事情の許す限り定時出勤
○全職員校内大清掃と整備
校長室,職員室,放送室,衛生室,音楽室,理科室,家事室,テレビ室
○避難所との遮断
○午後職員会議
1.30日授業開始の準備をする。
児童召集連絡の方法。
2.引率登校,下校対策。
部落集合所の設定(実地見聞)
3.部落担当割当作成
4.その他
5月29日
全職員部落巡回
児童罹災状況調査
○自衛隊衛生班
校舎内外大消毒(職員協力)
5月30日
○引率登校
1.罹災状況調査(学級調査)
2.部落児童会
部落長,副部落長,班長,副班長決定,連絡方法確認
3.引率下校
4.合同調査(実施調査結果の報告)
5.学級,学年集計(学年会議)
6.全校集計(学年長会議)
○罹災概況把握
推定調査との比較—地教委への報告
5月31日
○津浪のはなし(学級取扱い)
資料津波の歴史,プリント配布
1.家庭調査
2.合同調査(低学年,高学年の照合)
3.配給計画立案
イ.各学年必要数集計
救援物資と照合
ロ.各学年配給数決定
4.配給
各学年—学級—児童
○校長会議 10.00〜
6月1日
○本日より正式授業として出欠席を記帳する。
欠席 102名
○午前
1.罹災状況調査再検討
調査後の変更事項
不明事項の鮮明と報告
2.下痢患者の調査報告
3.生活指導
「津波の復興に協力しよう」資料プリント配布。
4.教科書,学用品の配給係→学年長→学級→児童
5.清掃
○午後
1.学年打合せ会,
臨時時間割作成
1日3時間—重点,教科中心配列
2.授業開始計画
イ.学習内容,進度の打合せ,
ロ.プリント準備
3.配給台帳の記入整備
6月2日
○罹災状況調査
1.中学校と同家族調査
2.給食児童調査
3.教科書,学用品の配給
4.津波に関する作文
感想,生々しい記録,その他
〇小中合同罹災状況調査(被害段階の照合)
○衣料配給準備—配給表作成—物品整理配列区分
6月3日
○3時限授業欠席 60名
○罹災状況調査
イ.配給児童再検討
ロ.教科書学用品不足数調査
ハ.被服実態調査
○津波見舞金(罹災者)支給準備
○給食児童へ米配給準備
○被服配給準備
6月4日
3時限授業
引率下校本日より中止とする。
○6日より普通授業の予定
○作文は6日提出
1.給食用米配給
2.見舞金支給
A——1,000円 B——500円 C——20円
3.長靴配給
4.被服配給準備
6月6日
○1時問短縮授業
本日より引率登下校中止
各部落毎児童の自主性により集団登校。
1.生業被服調査票配布
(1世帯1枚回収)
2.給食人員調査
3.学用品配給
○津波に関する作文
1年〜6年まで各学級1点提出
6月7日
○普通授業
1.生業罹災調査票回収→集計→地教委へ報告
2.配給物支給について罹災家庭幼児調査
3.傘,雨合羽,長靴不足数調査
4.クレヨン,絵具,習字用具調査
5.不足用品調査
6月8日
○普通授業
1.被服配給
2.罹災状況調調査—(確実数)
3.被服未配給調査
6月9日
○1.罹災家庭調査
2.諸物品不足調査
6月11日
○罹災児童中特に生活困窮児童へ昼食用パン,牛乳給食開始
6月13日
○津波死亡者合同慰霊祭
学校長,教頭,職員,代表児童76名参列
10.00時全校児童1分間黙祷を捧げる。
6月23日
○学級費の集金状況調査
○学用品の配給計画立案
7月18日
○学用品配給—交付簿作成
7月20日
雨傘配給 634本 A.B.C
7月25日
ユニセフ給のズック靴配給
668足 A.B.C.D
大船渡中学校
5月24日
○5月24日は第一学期中間テストの第2日目であったが,勿論学校は臨時休業の措置をとったので無期延期することになった。
○数回に亘って,押し寄せた波も一応落着いたので出勤可能の校長以下若干の職員によって,臨時緊急の職員会を開き,とりあえず当分の問臨時休業のこと。被害地を巡視して職員生徒の罹災状況を調査することを決定したが電報,電話の通信が絶たれ,汽車,自動車の利用は勿論,被害地の歩行さえも困難な状態なので,くわしい現地の調査は出来なかった。ただ人から人と伝えられる情報によって判断したり,おおよその集計をまとめる程度で事実に基づく確認は出来なかった。行方不明の生徒,2年女熊谷綾乃さん3年男平山幸男君の死亡確認も24日午後おそくなってからであった。したがって生徒のその他の罹災の程度もやや正確に把握できたのはそれから数日経過してからであった。学校としてはそのつど日に数回,関係機関に調査の結果を報告し,特に教育委員会の指示によって諸種の調査と救援対策をねり,非常態勢確立に努力した。
○一方学校は災害当日から避難民の収容の為学校を開放することになり,炊事室は炊出し室となり階下4教室と講堂には10世帯50人を収容した為,宿日直員を増員して罹災者の救援,学校管理の万全を期した。
○臨時休業の連絡方法は次のようにして直接職員が部落に出むいて貼布した。

1.追って連絡あるまで当分の間休校にします。
2.津波後は赤痢の発生するおそれがありますから飲食物には十分注意して下さい。
3.津波による事故者がわかり次第学校に連絡して下さい。
昭和35年5月24日
大船渡中学校
大中生徒諸君
5月25日
○臨時休校第2日目
午前中罹災状況の調査のため現地視察。
〇午後職員会を開催して罹災の集計をする。第一回調査項目は死亡,行方不明,全壊,流失,半壊,床上浸水,床下浸水,その他について一応の数をまとめ,教育委員会に報告,教科書の流失数を調査する必要にせまられているが,生徒を登校させることが,現実として不可能なので,罹災者数を報告する。
○見舞者多数来校。各新聞社,自衛隊,郵政省等のヘリコプターが校庭に着陸するためその整備等を手伝う。
○津波の罹災をうけない部落の生徒はほとんど全員親戚知人宅の手伝いに徒事しているので,学校として,生徒を動員して整理作業に当ったのは余程日数がたってからであった。
5月26日
○見舞者多数来校
○盛中学校職員2名事務応援の為特別勤務
○市教委より救援物資届く
○岩教組気仙支部より罹災職員に見舞金
○大船渡小学校に於て,罹災校臨時校長会開催。
○午後2時臨時職員会。
5月30日
○生徒召集(第7日目)
各種調査の実施
5月31日
○津波8日目始めて正式に登校日として生徒を登校させる。当日は日数もたっており惨害も次第に整理され,罹災者は各々仮住居に落ちついて後始末に従事しているので生徒も心理的に安定してきたのか思いのほか元気であった。やはり生徒は学校に来ることによって心の支えを得,安心するようであった。
○この後は何の休業もせず平常通り授業が開始され,教科書もすべて新本が配布され,学用品の一切衣類等沢山の見舞品,見舞金が届けられ,全国の中学生諸君からは毎日数十通の激励文が届けられて生徒も日増しに明るさをとりもどし学業に精を出すようになった。ただ学校は津波の為の諸調査,救援,見舞品の処理で連日多忙な日が続いた。


赤崎
赤崎小学校 5月24日
○応急対策処置として3日間の臨時休業をとる。
○罹災生徒の実態調査
○被災家庭の見舞
5月25日
○生徒の家庭の被害状況実地調査及び手伝い。
5月26日
○校舎周辺の後片付け
○非罹災生徒を統導し罹災実庭の後片付け
5月27日
○全校生徒を以って校舎内外の清掃作業及び消毒
○救援物資の配給
5月28日
○授業開始
○被災害家庭の後片付け作業


2.盛高等学校
1.罹災生徒救援措置
イ.授業料減免者数
ロ.PTA会費 生徒会費減免者数
ハ.教科書無償配布(教委斡旋による)
ニ.災害特別奨学生
全日制 15名
定時制 4名
計 19名
ホ.救援資金拠出
PTA.職員クラブ,生徒会合計 71,850円
2.各方面からの慰問金品
イ.慰問金(本校PTAと生徒会の分を除く)
20口 128,783円
ロ.慰問品 32口 2,300点(ノートなど1冊1点として)
3.救援活動状況
イ.職員生徒の延出動人数 2.200人
ロ.罹災中学生に対する教科書供出 1,000冊

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イ.授業料減免者数
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ロ.PTA会費 生徒会費減免者数
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ハ.教科書無償配布(教委斡旋による)

第3節児童生徒の犠牲者

1.陸前高田市
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1.陸前高田市
2.大船渡市
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2.大船渡市

第4節 教員組合及びPTAの救援

岩手県教員組合,気仙支部,救援活動(物資の部)


見舞金の県P連配分基準
1.児童生徒の死亡者に対する弔慰金————1人————2,000円
2.父母を失ったものに対するお悔金————1人————2,500円
3.父母以外の家族を失った者にお悔金————1人————1,000円
4.被害程度(A)のものに対するお見舞金————1人————300円
5.被害程度(B)のものに対するお見舞金————1人————90円
6.被害程度(C)のものに対するお見舞金————1人————40円
気仙郡PTA連絡協議会に於ける上記見舞金の配分方法
県P連及び日本P協より送金された329,510円を下記の通り配分する。
1,児童生徒死亡に対するお悔金(1人 2,000円) 10人分————20,000円
2.父母死亡に対するお悔金(1人 2,500円) 9人分————22,500円
3.父母以外の家族死亡にお悔金(但し20人中13軒分)
(1軒 1,000円) 13軒分————13,000円
4.全壊流失に対する見舞金(1人 200円) 500人分————100,000円
5.半壊に対する見舞金(1人 200円) 453人分————90,600円
6.床上浸水,資材流失見舞金(1人 50円) 1,606人分————80,300円
7.諸経費分としての残額————3,110円
(備考)
被災程度(A)(B)(C)による調査が不充分であり,学校差を生じているし,資材流失程度の基準もなく二重に集計された部面もあるから県P連の査定により(A)503人(B)813人とされている。報告によると(A)629人(B)814人であり計127人の送金カットとなるから,(A)(B)(C)の段階別見舞金の配分は県P基準によることが出来ないので郡Pで配分方法を決めた。全壊,流失に対する見舞金を(A)なみにし300円(B)を半壊にあて90円配分するとすれば12,940円の不足を生ずるので,全壊,流失,半壊を同額200円としました。尚なるべく金を分配し易いよう100円未満をなくしようと色々計算しましが上記の通りが一番総額分配に近いようです。この点については金でなく何か物を買って支給するなど各単Pに一任したいと思います。

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救援物資受付
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岩手県教員組合気仙支部取扱い義損金
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昭和35年7月20日 チリー地震津波災児童生徒への県PTA見舞金配分表