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昭和八年三月三日三陸沖に起つた強震に伴つて起つた津浪は三陸の海岸に非常なる慘害を釀した、本臺於ては直ちに調査員を派して之を取調べ其結果の概要は既に「三陸沖強震及津浪概報」とし之を刊行し大方の劉覧に供した、而して詳細なる調査研究は引續き施行しつつあつたが此程漸く成就し成績の報告も脱稿したので茲に之を印刷して再び之を參照することと爲した、尚ほ今後此地震と津波に關する學術的研究の結果は他の機關によつて續々報告することになつてゐる。
昭和八年八月
中央氣象臺長岡田武松

三陸津浪區域圖

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地図 昭和八年三月三日 三陸津浪區域圖 (其二 宮城縣中部)
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地図 昭和八年三月三日 三陸津浪區域圖 (其三 宮城縣北部及岩手縣)
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地図 昭和八年三月三日 三陸津浪區域圖 (其四 岩手縣)
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地図 昭和八年三月三日 三陸津浪區域圖 (其五 岩手縣)
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地図 昭和八年三月三日 三陸津浪區域圖 (其六 岩手縣北部及青森縣)

三陸津浪被害寫眞

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写真 一、宮城縣大原町大谷川 堤防の決壊を示す(全景) (鷺坂)
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写真 ニ、大原町大谷川 堤防の決壊(×印堤防の跡) (鷺坂)
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写真 三、大原村谷川 流失家屋の跡  (鷺坂)
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写真 四、大原村谷川 周圍の家が全部流失し只一戸殘る(右側の二戸は新築バラツク) (鷺坂)
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写真 五、大原村鮫ノ浦 灣口は五十間程であつて流失家屋の跡は右方の山際である (鷺坂)
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写真 六、大原村小網倉 小川の河口にかかる石橋の破損を示す (鷺坂)
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写真 七、宮城縣十五濱村雄勝海岸通り (國富・竹花)
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写真 八、十五濱村雄勝 (國富・竹花)
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写真 九、十五濱村雄勝小學校庭 (國富・竹花)
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写真 十、十五濱村雄勝 (國富・竹花)
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写真 十一、十五濱村雄勝 (國富・竹花)
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写真 十二、十五濱村雄勝海岸を臨む手前は家屋流失の跡 (國富・竹花)
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写真 十三、十五濱村船越 中央部と向つて右方の部分とに流失家屋あり (鷺坂)
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写真 十四、宮城縣十三濱村大指 中央の空地は納屋の流失した跡である (鷺坂)
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写真 十五、十三濱村相川 左方は家屋流失の跡 (鷺坂)
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写真 十六、宮城縣志津川町 堅牢な乃コンクリート堤防を示す (國富・竹花)
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写真 十七、志津川町 堤防の石垣決壞し埋立地の上に飛散す (國富・竹花)
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写真 十八、宮城縣大島村横沼 津浪は厩迄昇るも被害なし (石川)
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写真 十九、宮城縣唐桑村只越 (國富・竹花)
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写真 二十、唐桑村只越 (國富・竹花)
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写真 二十一、唐桑村只越 (國富・竹花)
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写真 二十二、唐桑村只越 (國富・竹花)
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写真 二十三、唐桑村只越 (國富・竹花)
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写真 二十四、唐桑村只越 (國富・竹花)
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写真 二十五、唐桑村只越 (國富・竹花)
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写真 二十六、唐桑村只越海岸を臨む (國富・竹花)
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写真 二十七、唐桑村大澤 海岸全景 (國富・竹花)
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写真 二十八、唐桑村大澤 小川に沿つて押し上げられし跡 (國富・竹花)
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写真 二十九、唐桑村鮪立 (石川)
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写真 三十、唐桑村大澤コンクリートの漁類溜三十米移動 (石川)
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写真 三十一、岩手縣氣仙村長部港 (國富・竹花)
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写真 三十二、氣仙村長部港 (國富・竹花)
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写真 三十三、氣仙村長部港 (國富・竹花)
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写真 三十四、氣仙村長部港 港ロにある防波堤の破壞 (石川)
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写真 三十五、岩手縣綾里港 コンクリート橋柱の傾斜 (石川)
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写真 三十六、綾里村自濱、海岸の松樹は浪のために打ち切られたるを示す。 (石川)
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写真 三十七、岩手縣赤崎村合足全村殘るは僅か二戸 (石川)
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写真 三十八、岩手縣越喜來村 (石川)
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写真 三十九、越喜來村 (本多)
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写真 四十、越喜來村 (本多)
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写真 四十一、岩手縣吉濱村 海岸近くの山腹に於ける津浪襲來の跡 (本多)
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写真 四十二、岩手縣唐丹村小白濱 (本多)
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写真 四十三、唐丹村小白濱 (本多)
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写真 四十四、唐丹村本郷 (本多)
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写真 四十五、唐丹村本郷 (本多)
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写真 四十六、唐丹村本郷 (本多)
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写真 四十七、岩手縣釜石町 (本多・田島)
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写真 四十八、釜石町港内 (本多・田島)
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写真 四十九、釜石町 (本多・田島)
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写真 五十、釜石町 (本多・田島)
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写真 五十一、釜石町 (本多・田島)
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写真 五十二、釜石町 (本多・田島)
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写真 五十三、釜石町 (本多・田島)
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写真 五十四、釜石町 (本多・田島)
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写真 五十五、釜石町 (本多・田島)
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写真 五十六、釜石町 (本多・田島)
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写真 五十七、岩手縣山田町 (本多・田島)
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写真 五十八、山田町 (本多・田島)
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写真 五十九、山田町 (本多・田島)
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写真 六十、山田町 (本多・田島)
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写真 六十一、岩手縣宮古町 (本多・田島)
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写真 六十二、宮古町 津浪に押し上げられた船のために破損した宮古橋 (本多・田島)
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写真 六十三、宮古町 (本多・田島)
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写真 六十四、宮古町 (本多・田島)
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写真 六十五、宮古町 (本多・田島)
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写真 六十六、岩手縣田老村 全村流失の跡 (本多・田島)
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写真 六十七、田老村 全村流失の跡 (本多・田島)
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写真 六十八、田老村海岸より三丁餘距つた山麓に印された津浪の跡 (本多・田島)
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写真 六十九、田老村 (本多・田島)
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写真 七十、田老村 (本多・田島)
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写真 七十一、田老村 (本多・田島)
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写真 七十二、田老村 (本多・田島)
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写真 七十三、宮城縣唐桑村只越 (宮城縣氣仙沼町石川寫眞館撮影)
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写真 七十四、唐桑村小鯖 (石川寫眞館撮影)
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写真 七十五、宮城縣十三濱村相川 (石川寫眞館撮影)
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写真 七十六、宮城縣唐桑村字瀧濱に打上げられた大石 (石川寫眞館撮影)
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写真 七十七、岩手縣廣田村只出 (盛岡測候所報告附圖)
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写真 七十八、廣田村泊 (盛岡測候所報告附圖)
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写真 七十九、岩手縣大槌町 (盛岡測候所報告附圖)
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写真 八十、蝦手縣宮古町鍬崎 (盛岡測候所報告附圖)
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写真 八十一、宮古測候所附近倉庫の流失 (盛岡測候所報告附圖)
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写真 八十二、宮古町宮古橋 (盛岡測候所報告附圖)
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写真 八十三、岩手縣田老町 (盛岡測候所報告附圖)
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写真 八十四、田老町 (盛岡測候所報告附圖)
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写真 八十五、岩手縣種市村八木に於ける鐵道線路の破損 (盛岡測候所報告附圖)
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写真 八十六、種市村八木 (盛岡測候所報告附圖)
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写真 八十七、青森縣階上村小舟渡 (青森測候所報告附圖)
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写真 八十八、階上村階上 (青森測候所報告附圖)
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写真 八十九、階上村階上 (青森測候所報告附圖)
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写真 九十、階上村追越 (青森測候所報告附圖)
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写真 九十一、階上村階上大長岬の北岸 (青森測候所報告附圖)
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写真 九十二、階上村大蛇 (青森測候所報告附圖)
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写真 九十三、階上村階上 (青森測候所報告附圖)
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写真 九十四、青森縣下長苗代村北沼附近 (青森測候所報告附圖)
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写真 九十五、青森縣百石町二川目 (青森測候所報告附圖)
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写真 九十六、北海道鹿野村死者十名、流失家屋二十五棟 (浦河測候所北田報告附圖)
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写真 九十七、北海道鹿野村の倒壞家屋の跡 (浦河測候所北田報告附圖)
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写真 九十八、北海道幌泉船入澗 (浦河測候所北田報告附圖)

三陸沖強震地震計記象

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三陸沖強震記象 (其ノー)  銚子測候所 強震計記象
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三陸沖強震記象  (其ノニ)  秋田測候所 中央氣象臺 強震計記象
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三陸沖強震記象 (其ノ三)  岐阜測候所 ヴイーへル卜地震計記象
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三陸沖強震記象 (其ノ四)  父島測候所 ヴイーへル卜地震計記象
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三陸沖強震記象 (其ノ五)  福岡測候所 ヴイーへル卜地震計記象
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三陸沖強震記象 (其ノ六)  宮崎測候所 ヴイーへル卜地震計記象
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三陸沖強震記象 (其ノ七) 石垣島測候所 ヴイーへル卜地震計記象

(關ロ・中野報文附圖) 三陸津浪驗潮儀記象

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(其の一) 根室 (根室築港事務所觀測)
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(其の二) 釧路 (釧路築港察務所觀測)
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(其の三) 函館 (函館築港事務所觀測)
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(其の四) 蕪島 (青森縣蕪島驗潮所觀測)
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(其の五) 北上川支流追波川河ロ月濱 (内務省土木出張所附屬 月濱驗潮所觀測)
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(其の六) 宮城縣北上川河口 (内務省土木出張所附屬 北上川河口驗潮所觀測)
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(其の七) 鮎川 (宮城縣鮎川驗潮所觀測)
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(其の八) 宮城縣花淵 (内務省鹽釜港修築事務所花淵驗潮所觀測) (大體圖)
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(其の九) 氣仙沼灣小々汐 (氣仙沼港小々汐修築事務所觀測)
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(其の十) 鹽釜港尾島 (内務省鹽釜港修築事務所尾島驗潮所觀測)
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(其の十一) 那珂川河口祝町 (茨城縣祝町驗潮所觀測)
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(其の十二) 那珂川小川 (茨城縣小川驗潮所觀測)
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(其の十三) 銚子 (千葉縣銚子測候所觀測)
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(其の十四) 横濱 (横濱市港灣部神奈川工營所觀測)
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(其の十五) 富崎(布良) (中央氣象臺附屬富崎測候所觀測)
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(其の十六) 和歌山縣勝浦 (和歌山測候所附屬 勝浦驗潮所觀測)
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(其の十七) 小笠原父島 (中央氣象臺附屬父島測候所觀測)
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(其の十八) 静岡縣清水 (内務省土木出張所清水驗潮所觀測)
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(其の十九) 鳥羽 (三重縣鳥羽驗潮所觀測)
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(其の二十) 串本 (潮岬測候所附屬串本驗潮所觀測)
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(其の二十一) 高知縣清水 (高知縣清水測候所觀測)
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第一圖 三陸津浪驗潮儀記象 (野口報文附圖)
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第二圖 三陸津浪驗潮儀記象 (野口報文附圖)
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第三圖 鹽釜町尾島檢潮所自記紙 (野口報文附圖)
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第四圖 石巻町港檢潮所自記紙 (野口報文附圖)
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第五圖 桃生郡月濱檢潮所自記紙 (野口報文附圖)
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第六圖 津浪等到達時線作圖 (野口報文附圖)

論文

三陸沖強震及津浪に就て 國富田信一

緒言

昭和八年三月三日午前二時三十二分頃北は千島、北海道、東北地方、關東地方の全般、本州中部地方の大半より近畿地方に亘り人身感覺があつた程の大規模な地震があつた。其の震度分布は本報告「三陸沖強震驗測結果」中に圖示してある如く頗る廣範圍に亘り、去る大正十二年九月一日の關東大地震に比し規模の廣大なる事優れりとも劣らぬ程度であつた。而して中央氣象臺地震掛にて驗測した結果は左の如くである。
發震時 午前二時三十二分十四秒
初期微動繼續時間 六十秒
最大振幅 十七粍七
震度 弱震
性質 緩
總震動時間 約一時間


扨強震發現後直ちに全國各地方測候所及觀測所より電信によつて報告せられた材料から此の地震の震源を求めて見た處釜石東方遙かなる海底に當り、震源の深さ極めて淺く數粁と概算された。從つて三陸沿岸には津浪襲來の虞ありと思ひ其の旨を各地方測候所長へ打電すると共に中央氣象臺長よりは岩手、宮城福島、茨城等各縣地方長官宛此の旨を打電した。
斯くして東北地方の各測候所からは相次で沿岸各地の津浪を報じ來ると共に内務省警保局よりも釜石町始め各地の被害状況を本臺に報告され、一方本臺よりも侍從職を始め總理大臣外各國務大臣、各省、警保局、警覗廳、社會局、諸官廳、各高官宛強震及津浪報告を遂次發送すると共に各新聞社へも發表した。
かくて盛岡及石巻測候所等よりの報告は一報毎に津浪による縣下の被害状況漸々甚しき事を報するので、中央氣象臺長は命を發して著者及竹花技手を第一班として宮城縣下ヘ、本多技師及田島技手を第二班として岩手縣下へ出張調査せしむる事となつた。依つて各調査班は即日出發災害地ヘ向ひ、石巻及盛岡兩測候所と協力の上直ちに調査を開始し一週間に亘る調査後歸京した。次で此の強震吸被害を各地へ報告する目的を以て三月十四日三陸沖強震及津浪概報を發刊するに至つた。
更に詳細なる調査は此の概報發刊後より始められ、各地方測候所の協力と相挨ち遂次強震の驗測、津浪の調査に着手したが一先づ其の概括的調査を終へたので之れを第一報告として印刷することとなつた。勿論個々の現象に關する立入つた調査は目下尚進められつつある故、之等に關しては他日再び發表することとする。而して此の報告中には各調査員の踏査報告を悉く載せてあるが強震直後に著者及本多技師が、調査した分は何分にも早急の事ではあり交通の便も極めて悪く且概報發行も急いで居たため尚見殘した點も頗る多かつた。故に其の足らざるを補ふ目的にて三月下旬更に鷺坂技手を宮城縣へ、石川技手を岩手縣へ出張せしめて詳細な調査をなさしめた。
之等鷺坂、石川兩氏の報告及石巻、盛岡、福島、青森、浦河等各測候所の報告、更に著者等の報告を總括して、今回の強震及津浪に關する種々な現象を處理して見たのが本文である。以下種々な現象を各項目に分ち一々調査した結果を記して見た。

三陸沿岸の地形

北は膏森縣八戸市の東なる鮫岬から南は宮城縣牡鹿半島に至る海岸は本邦に於ても最も凸凹の激しい海岸である。即ち北上褶曲山脈の尾根が太平洋に沒する所が此の海岸となつて居り所謂リアス式海岸を構成して居る、此の海岸は北上山脈が多くの枝谷を海岸へ向けて居る所へ、地盤の沈降が起つて水準を高め其の結果として海水は深く之等枝谷の谷間へ浸入して複雜な海岸形を形成するに至つたものである。一般に斯かる海岸にある灣にあつては灣口の水深は極めて深いが灣内へ入るに從つて急に淺くなつてゐるのが常である。然も北上山脈の如く枝谷が多い樣な所にあつては小灣が極めて多い。
而して三陸のリアス式海岸ではV字形をなして太平洋に向ひ開口せる小灣が灣口から内部に入るに從ひ水深が急に淺くなるため津浪を釀生し易い。即ち三陸海岸にあつては大小の江灣極めて多く其の主なものでも三十近くある、先づ南方から見ても牡鹿半島西岸には荻濱灣、大原灣、十八成灣、鮎川灣、東岸に鮫の浦灣、女川灣、雄勝灣があり、更に北へ向つて追波灣、志津川灣、小泉灣、氣仙沼西灣、同東灣、廣田灣があり、岩手縣に入つては、大野灣、門之灣、大船渡灣、綾里灣、越喜來灣、吉濱灣、唐丹灣、釜石灣、兩石灣、大槌灣、船越灣、山田灣、宮古灣、久慈灣等がある。
之等江灣の多くは東方に開口してゐるため、三陸海岸に沿ふて沖合を略南−北に走る外側地震帶上に起る地震中規模大にして且震源淺く、海底面に地變を生ずる如き地震にあつては津浪を伴ふものである。又北東或は南東に開口してゐる灣では多く袋の如く陸地深く灣入して居るため、灣奥にては著しく浪高を増して、津浪を生じて居る。斯樣に三陵海岸は外側地震帶上即ち三陸沖合に起つた地震によつて古來多くの津浪を蒙つて居るが又他の個所でも大なる海底地震によつては餘波を蒙り津浪を生じて居る。今歴史に徴しても三陸沖に起つた津浪は次の如く其の數極めて多く慶長以來約三百二十年間に十八回即十八年間に一回の割合で津浪を蒙つてゐる。

三陸沿岸に於ける津浪の歴史

(一)貞觀十一年五月二十六日(八六九年七月一三日)
陸奥國大地震家屋倒潰、震死潜多ぐ且津浪襲來して溺死者千余に及ぶ(三代實録)
(二)天正十三年五月十四日(一五八六)海嘯ありたり。本吉郡戸倉村口碑。(天正十三年十一月二十九日、幾内、東海、東山、北陸大地震後津浪あり溺死者數多しとあり。(二)の津浪は之れと同一のものなるか)
(三)慶長十六年十月二十八日(一六一一年十二月二日)陸奥國地震後大津浪あり。伊達領内にて溺死者千七百八十三人。
(3)慶長十六年十一月三十日大地賞三度後津浪あり、伊逹領内溺死者五千人(駿右政事録)。或は此の津浪は(三)と同一のものなるやも知れず。
(四)元和二年七月二十八日(一六一六年九月九日)三陸地方強震後大津浪あり。
(五)慶安四年(一六五一年)宮城縣亘理郡迄津浪襲來す(口碑)
(六)延寳四年(一六七六年)十月常陸國、陸奥國、磐城海邊津浪あり人畜溺死、屋舍流亡(弘賢筆記泰平年表)
(七)延寳五年三月十二日(一六七七年四月十三日)陸中國南部領に數十回の地震あり、被害なきも津浪あつて宮古、鍬ケ崎、大槌浦等に家屋流失あり。
(八)貞享四年(一六八七年)九月十七日、鹽釜を始め宮城沿岸に津浪あり。(蓋し地震による津浪か暴風による津浪か判然せぬ)肯山公綱村治家記録目録。
(九)元録二年(一六八九年)陸中國に津浪あη(古老口碑)
(十)元録九年(扁六九六年)十一月一日石巻河口に高浪襲來船三百隻を流し、溺死者多し。)(肯山公綱村治家記録)
(十一)享保年間海嘯あり田畑を害せしが民家人畜に被害なし(宮城縣本吉郡階上村波路上古老小野寺彌平太氏所藏小割帳による)(蓋し享保十六年九月七日岩代國強震あり。夫れに該當するものか)
(十二)寳暦元年四月二十六目(一七五一年五月二十一日)高田大地震の余波として陸中國に津浪あり。
(十三)天明年間に海嘯あり。
(十四)仁孝天皇六年六月仙臺地大に震ひ城壘壞れ津浪あり、塊家数百を破り、溺死者算なし。(十三朝紀聞)(蓋し天保七年七月二十五日の仙臺強震か)
(十五)安政三年七月二十三日(一八五六年八月二十三日)午後一時頃北海道南東部に強震あり。震後一時問にて津浪襲來、北海道南部、特に箱館にて被害あり。三陸地方にも津浪來りしが被害尠し。
(十六)明治元年六月(一八六七年)宮城縣本吉郡地方津浪あり。
(十七)明治二十七年(一八九四年)三月二十二日午後八時二十分頃岩手縣沿岸に小津浪あり。同日午後七時二十四分根室南々東約百二十粁の沖合に起りたる海底地震によるものなり。
(十八)明治二十九年(一八九六年)六月十五日午後七時三十三分頃に發せる海底地震によるものにて死者二萬千九百五十三人、傷者四千三百九十八人。流失家屋一萬三百七十棟。
(十九)大正四年(一九一五年)十一月一日三陸沖地震によるものにて宮城縣志津川灣に小津浪あり。
(二○)昭和八年(一九三三年)三月三日午前二時三十一分頃に發せる三陸沖強震によるものにて死者三千八人、傷者千百五十二人、流失及倒潰家屋七千二百六十三戸を生じた。

三陸地方の地質及震度

三陸地方には其の中央に脊髓として北上の褶曲山脈がある。
此の山脈は東は太干洋に面し、西は北上川及馬淵川により中央山脈と境し、略紡錘状をなして南北に走つて居る、而して此の山脈は主として古生層、中生層の砂岩及粘板岩より形成されて居るが所々に石灰岩、礫岩、凝次岩等存在し且古期に迸出した花崗岩をも含んで居る。但し南方牡鹿半島は第三紀層によつて形成されて居る叉北上川及阿武隈川に涵養せらるる宮城野平野は仙臺灣に臨み、第四紀層より成つて居るが、第三紀層の丘陵が所女に介在してゐる。
斯樣にして三陸地方の海岸は堅牢な地盤であるが爲め地震動に對しても震度が比較的小である。故に今回の樣な大規模な地震にあつても、海岸の沖積層地では強震を感じ壁に龜裂を生じた樣な處もあつたが、古生層或は中生層の土地では強震(弱き方)或は弱震程度であつて地震による被害は殆んと見る事が出來なかつた程である、但し沿岸地方で崖崩れ或は石垣、堤防の決潰、地面の小龜裂等もあつたが夫等は凡て震後に襲來した津浪によるものであつた。
即ち各測候所或ば管内觀測所の報告による震度分布を見ても宮古、石巻、仙臺は強震であるが他は凡て強震(弱き方)であり、却つて福島縣下に入つて強震を感じた所がある。尚青森縣の下北半島では弱震の個所が多い。斯樣に今回の強震は震域頗る廣汎に亙り且つ規模極めて大であるにも係らず、震度が小さかつたのは震央が遠いと云ふばかりで無く、三陸地方を構成する地盤が、中生層及古生層であつて、地震動に封して極めて堅牢なるによるものである。

津浪の高さ

一概に津浪の高さと稱しても之れは解釋の仕方によつて一定したものでは無い。即ち夫れを測る方法により先づ三種のものが考へられる。其の第一種として考へられるのは驗潮儀の自記記象から測つたものである。之れは驗潮儀の種類、構造によつても異るが大體海面の高さを與へるものであつて岸に打寄せた高浪とは異なるものである。故に同一場所で津浪の高さを測つても目測で見た高浪と驗潮儀の記録に出たものとは大に異なり一般に後者は小さい。
第二種の浪高は岸に打寄せた大浪の高さであつて之れは實際津浪が押寄せた際に測れば大差ないものを得られるが、其後の調査では海岸の地物に殘された痕跡から見る外は無い。併し平坦な海岸で、津浪の痕跡を止める樣な地物が無い樣な場所では當時の目撃者の談を綜合して之れを定めねばならぬが、之れには大なる誤差を許容せねばならぬ恨がある。例へば津浪が寄せて來た常時の有樣を或る部落の人々につき尋ねて見ると或る人は山の樣な大浪が四、五十尺も盛上つて來たと云ひ、又或る人は二十尺位の浪だつたと云ふ、何しろ生命財産に對し非常な脅威を感じた際の事であるから此の位の目測の差があつても致し方が無い。
又海岸の地物に印された痕跡して見ても夫れが絶對的な浪の高さを與へるものとは思はれない。即ち斯樣な場合に津浪の押し寄せ方を考慮せねば果して海岸の地物に印された痕跡が眞の津浪の高さであるか何うかは判定出來ない。先づ津浪の寄せ方を所々で聽いて見るとそれは江灣の形、深さ、地貌によつて大に異る事を知る。即ち或る灣では「ウネリ」の形く寄せて來た所もあるし、又或る處では暴風津浪の如く極めて徐々と押寄せた處もあり、又或る處では單濁波として單一の高い波が押寄せ海岸へ來るに從ひ高度を増し、波打際で碎けて一部落を一呑に した處もある。
前二者の場合は海岸の地物に印された痕跡から見て津浪の最大な高さを知る事が出來るとしても後者に於ては波の碎けた場所と地物の位置との距離も考へねばならず、嚴密な意味に於て種々疑念を挾む事が出來る。一方に於て、海岸に存在する地物にしても樹木の樣なものでもあれば津浪の高さを定めるのに可なり適して居るが、崖の樣なものであると又其處に疑點を生ずる。即ち兩側が懸崖に圍まれた江灣であると此の懸崖に刻された痕跡は果して正面の海岸に打寄せた浪の高さと等しいものであるか何うかと云ふ疑點がある。一般に斯樣な江灣では兩側の懸崖に印された痕跡の高さは正面の海岸に打寄せた浪の高さより高い樣である。
次に第三種の浪高と云ふのは津浪が打上げられた最も遠い地點の海面からの高さである。之れを津浪の高さと定義する人もあるが著者は之れを「浸水地域の最高度」とでも稱し度いと思ふ斯樣な高さは海岸の地形によつて大に異り海岸に河口を有する樣な處では津浪は此の川に逆流して可なり奥深い流域迄浸水地域を生ずる。斯かる際に浸水地域の最高を測れば思ひがけぬ高さとなるものである。實例としては宮城縣追波灣に注ぐ追波川の流域などが夫れである。
又海岸が遠く迄平坦である樣な土地と背面に山を負ふ樣な地形の所とでも亦浸水地域の高さは大に趣きが異つて來る、前者では津浪が可なり奥の方迄進み、夫れによる被害も亦著しいが後者では山に遮られ被害も比較的尠い。更に外洋に面した懸崖の海岸などでは夫れに打當つた津浪は可なり高所迄も上ることがある。斯樣な揚合に懸崖に刻せられた水痕などから測定した津浪の高さは實際の浪の高さとは可なり異つたものを示すと考へられる。
斯樣にして實際の津浪の高さと云ふものは嚴密に云へば到底測り得るものでは無い。只其の定義と測り方によつては或る基準となる可き浪の高さと云ふものを與へることが出來る、併して斯樣な考へのもとに浪の高さを測定し其の相對的の値を個々の灣につき比較して見るのは決して無意義な事では無いと思ふ斯くして著者は海岸に打寄せた際の津浪の高さ即ち前の定義で第二種のものを浪高として其の高さを取ることとした。
而して此の高さは各調査員によつて測定されたものであるが主として海岸の地物に印せられた痕跡より測ることとした。又時には海岸に適常な地物等が無い場合、止むを得ず住民諸氏の觀察による目測に從つたものもある。併し此の場合には成る可く多くの人々から聞き最も確からしきもの或は平均値を以て浪高とした。
第一表は斯くして測定された各地に於けて浪高であつて宮城縣は石巻測候所野日所長外所員諸氏、本臺鷺坂技手竹花技手及著者の調査により岩手縣は盛岡測候所員及宮古測候所員諸氏、本臺本多技師、石川技手、田島技手、青森縣は青森測候所猪狩所長外所員諸氏、福島縣は福島測候所員、北海道は浦河測候所北田所長等の調査結果を綜合したものである。尚調査員によりては浪高を尺單位にて測定された向もあるが便宜上之れを凡て米に換算した、又同表に明治二十九年六月十五日の三陸大津浪の際の浪高を米に換算して並記し、今回のと比較してあるが其の數値は伊木常識博士、及宮城縣土木課の調査によるものである。


此の表で見る如く今回の津浪の高さは宮城縣下に於ては並均三米一五、岩手縣下に於ては五米九であつで岩手縣沿岸の方が平均として一・九倍となつて居る。試に明治二十九年の大津浪の高さを伊木常誠博士及宮城縣土木課で調査したものにつき調べて見るに、宮城縣下に於ける平均浪高は四米四七であり岩手縣下に於ては十米三であつて矢張岩手縣下の方が高く其の比は二、三であつた。
今明治二十九年の際の津浪の高さと今回の浪高との比をとつて見ると宮城縣下では一・四となり、岩手縣下では一・七となる。
即ち明治二十九年の時でも、今回のでも何れも岩手縣の方が宮城縣下より高い浪を蒙つたが、宮城縣下では今回の津浪が比較的高いと云ふ事になる。此の原因に就ては先づ考ヘられる事實は今回の地震の震央が前回のに比して稍南方へ偏し宮城縣の方に近くなつて居ると云ふ事である。併し不幸にして明治二十九年の際には地震觀測の設備が不完全であつたため推定された震央位置は極めて誤差大きく、今回のと比較し得られぬ程度であるため此の事實を立證し得られぬのが遺憾である。
次に主なる灣及沿岸に於ける平均の浪高を求め之を明治二十九年のものと比較して見ると第二表の如くになる。勿論或る灣に就て見ると一般に灣奥では浪高が高く、灣口附近では低い故に夫等の平均を求めると其の灣に於ける最大浪高よりは餘程低いものとなる。又綾里灣の如きは灣奥一個所の値しかない故表中飛抜けて大なる浪高を示してゐるが之れは材料の寡少なためで仕方が無い、然し他の灣では相當多くの材料がある故其の灣の平均浪高として先づ適當なものと考へられる。


扨津浪の高さと云ふものは震央距離、水深、灣の形及び灣の向き等の函數である。一般に灣が震央方向に向いて居れば其の灣に於ける津浪は高い事が考へられる。此の事實を確めるため灣の主軸の向きと灣口からの震央の方位との差を求め之れと其の灣に於ける平均浪高との關係を調べて見た先づ灣奥から灣口の中心へ引いた線を灣の主軸として其の方位角φを測つた。此の場合女川灣の如く灣奥から更にY字形をなし北西と南西へ技灣が出て居る處では技灣の主軸の交點から灣口の中心へ引いた線を灣の主軸とした。
更に灣口に於て震央の方位角θを測定した。而してφとθとの差を求めた。第三表に與へたものは之れである。併し浪高はφ-θのみの函數では無く前述した樣に震央距離及水深灣形なども考察せねばならない。此の内震央距離は可なりの影響を平均浪高に與へるものであるから、之れと浪高との關係を見るために灣口から震央迄の距離を測定した。表中の△が之れである。
又φ-θは假に正負を附して置いた。之れは灣口から震央への方位角に對し灣の主軸が南方に偏してゐる場合之れを負とし北に偏して居る場合之れを正とした。叉φもθも共に北から東の方へ測つた。角度を以て表はす事にした。
同樣なことを明治二十九年六月十五日の津浪についても行つて見た。但し此の場合の浪高は伊木博士の測定値及宮城縣土木課の測定値即ち第一表に掲げたものを用ひ、之れも各灣につき平均したものを以て其の灣の平均浪高としたのである。但し明治二十九年の津浪を起した地震の震央は前述した如く、確かなものでなく、或は今回のより稍北に偏して居るかも知れないが假りに震央は今回の強震のと同一場所であるとして見た。
第三表は斯くして求めたφ、θ、φ-θ及震央距離△平均高等を表示したものである。


扨φ-θ及△と浪高との關係を見るために直交坐標軸上縦軸に浪高をとり横軸にφ-θをとつて前表の値を書き入れて見た。
此の際其の灣に相當する震央距離を書入れた點の傍に記すこととする。而して前表に見る如く震央距離二百四十粁及び二百八十粁内外に相當する灣が大部分を占めて居る故夫等に相當する點を結ぶ樣な曲線を描いて見ると第一圖の實線の如くになる。
尚此の外に明治二十九年六月十五日の津浪に就ても同樣各灣の平均浪高とφ-θとを圖中に書入れて見て震央距離二百四十粁及び二百八十粁に相當する曲線を畫いて見ると圖中波線の如きものが得られる。
此の圖で判明する如く震央距離が小なる程、津浪の高さは高く、φ-θが小なる程浪高は大となる傾向がある。而してφ-θと浪高との關係は材料が寡ない故確かとは云ひ難いが對數的關係を有し、φ-θが小くなる程津浪の高さは急激に増すと云ふ傾向がある。
此の關係は極めて重大なものの如く明治二十九年の津浪に於ける釜石、吉濱、今回の津浪に於ける釜石、田老等が特に著しい被害を蒙つたのも此の關係から明かになると思ふ。
又明治二十九年の津浪と今回の津浪との浪高を比較して見るに圖に於て明かな如く明治二十九年の津浪の高さは明かに今回のよりも大である。即ち之れによつて見るに明治二十九年の津浪の勢力は今回のものよりも大きかつた事を斷言し得ると思ふ。

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第一表 津浪の高さ(宮城縣下)(1)
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第一表 津浪の高さ(宮城縣下)
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第一表 津浪の高さ(岩手縣下)(一)
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第一表 津浪の高さ(岩手縣下)(二)
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第一表 津浪の高さ(福島、青森、北海道)(三)
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第二表 津浪の高さ
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第二表 津浪の高さ
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第三表 津浪の高さ
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第一圖 津浪の高さと震動距離の関係

人體感覺による地震の繼續時間

今回の強震を人體に感じて居た時間は何分位であつたかと云ふ事を調べて見た。始め調査の途次部落の人々に尋ね歩いて見たが同一の部落でも人によつて大に異り一般に非常に長い地震だと云つても、時間を聞くと二分位と云ふ人もあるし十分以上と云ふ人もある。何しろ平常時間と云ふ觀念から遠ざかつて居る人々の談であるから、極めて大なる誤差を豫期せねばならない、夫れ故止むを得ず各測候所附屬の管内觀測所の觀測結果による事にした。此の方は常に氣象及地震の觀測をして居る關係上時間も可なりの程度迄正確に測り得るし又其の結果も信頼し得ると思つたからである。
斯くして各測候所から報告された管内觀測所の有感覺時間を平均して見た。而して其の平均値は各測候所の管内毎にとつて見たが結果は左の如くである。


此の表中の有感覺震動時間を圖に記入して、其の値の等しい所を結ぶ線を畫いて見ると第二圖の如くになる、圖に於て便宜上震動時間は分位及其の十分數を以て表はし當該測候所の位置に記入してあるが併し等震動時間線を描く時は管内面積を考慮に入れて引いた。
此の如き震動時間は一見粗雜なものの如く考ヘらるるが夫れを多數とつて統計して見ると其の間に或る關係を見出すにば充分な正確さを有する事が判る。例へば圖に於て判る如く震央から遠ざかるに從つて有感覺震動時間も次第に減じて行く。又關東地方に於て特に異常的に震動時間が長い事も判る。此の事實は關東地方に於て深發地震或は襟裳岬沖、三陸沖に起つた地震により異常震域を呈する事と照合して興味ある現象である。
即ち關東地方は他の地方に比して常に地震の震動時間が長い而も地震計記象を驗測すると異常震域を呈した際には常に初めに短週期の波がP相或はS相を蔽つて居る。而も第ニ圖に見る如く震動時間は他地方に比して長いのであるから地震の勢力は、異常震域内に於ては特に箸しく大なる事を知る。之れは著者が度々云ふ如く異常震域なる現象は其の地域内に於て別に勢力を供給されるために起るものであると云ふ假定に新らしき證明を與ふるものと思はれる。
尚關東地方に反し静岡縣東部、或は襟裳岬等に於ては震動時間が比較的に短かくなつて居る。之れに反し關東地方の如く著しくはないが震動時間が比較的長い地方は山梨縣下、新潟縣東部長野縣中部、静岡縣西部、京都府及北海道中部であつて、之れが如何なる事實を暗示するか只茲には事實のみを記して後の参考とする。
又一方から考へて見ると關東地方、北海道中部等に於て特に地震の震動時間が長いのは、此の地方を構成して居る地盤が散逸性(dispersive nature)を多分に持つて居るとも考へられる併し之れは單なる假想であつて、此の地方に於ける地震計記象から見て震波の週期が他の地方に比し短かいと云ふ事實と牴觸する故尚詳細に記象紙を吟味した上でなければ判然たる事は斷定し難い。


扨前表に記した有感覺震動時間を縱軸に各測候所の震央距離を横軸にとつて直交坐標軸圖中に記入して見ると第三圖が得られる。而して震央距離として其の管内地域の中心迄の震央距離をとらねばならぬが茲では近似的に測候所の震央距離をとつた斯くして圖表中に記入した點を連ぬる曲線を畫いて見ると二本のものが得られる。圖中A及Eが夫れである。
曲線Aは普通のものであつて有感覺震動時間が震央距離と共に如何に減少するかを示して居る。又Bは異常震域に當る地域に於ける關係を示すもので關東地方新潟、長野南部、静岡西部京都、北海道中部等が之れに屬する。然もAB兩曲線が略平行し且判然と分離せる事は異常震域なる現象に對し興味ある事實を示すものである。
扨有感覺震動時間が三陸地方に於ては何の位であつたかと云ふ事は後に述ぶる津浪の到達時間を定むる上に必要である故青森、岩手、宮城、福島四縣下の管内につき特に詳しく調べて見る即ち之等四縣下の管内觀測所で測定した有感覺震動時間を表示すると左の如くである。


今第五表中の總震動時間の平均を各縣下に就て求めて見ると岩手縣下では四分五十六秒、宮城縣下では五分三十五秒、青森縣下では四分十三秒、福島縣下では四分三十二秒であつて平均四分四十九秒となる。故に三陸地方に於て地震による震動を感じて居た時間は五分間と見れば宜しい。勿論局部的には地質の相違等により震動時間も可なり違ふが之れは目下考へぬ事として平均をとつた譯である。

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第四表 (各測候所管内に於ける有感覺震動時間)
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地図 第二圖 全国地図
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第三圖 第四表を基にした直交坐標軸圖
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第五表 有感覺震動時間 岩手縣 宮城縣 青森縣 福島縣

津浪の來た時刻

津浪の來た時刻を踏査の際地方住民につき一々尋ねて見たが之れも平常時間の概念があまり無い人々から聞いたのであるから可なりの誤差を許容せねばならない。一方驗潮儀で記録したものから讀取つたものは中野氏の報文中にあるし、著者自身でも一々驗潮儀記録から讀取つて見た。然し之れも可なりの時刻差があり、震央に近い個所で地震による地動を記録した處では其の時刻から補正出來るが然らざる所では矢張り大なる誤差を認める。
又各部落の人々から聽取した津來襲來の時刻は大低地震後何分位と云ふ。此の地震後何分と云ふのは地震がすんでから何分と云ふ意味であるから、前項に於て地震の繼續時間を算出して見たのである。而して有感覺繼續時間は前述した如く三陸弛方では約五分であるから之れを考へに入れて、各地に於ける津浪襲來の時刻を算出して見る。材料は本報告中に記載してある各調査員の調査結果による。


以上は各調査員が個々の部落の住民諸氏から聽取した津浪襲來の時刻であるが、之れを地圖上に記入して等時線を畫いて見ると三陸沿岸中青森縣鮫港から南は金華山に至る迄、沿岸では殆んど三時十分津浪襲來をうけた事になつて仕舞ふ。つまり地方民諸氏から聽取した時刻は地震後三十分位に浪が來たと云ふのが最も多いと云ふ事で結局時刻の正確な測定は一般の人には難かしいと云ふ事を裏書する事になつて仕舞つた、如何となれば此の結果を三陸地方沿海の水深を考慮して津浪襲來の時刻を算出した精確な結果と比較して見ても善き一致を見ない。故に此の結果は只参考として茲に載せる事とした。只之れから津浪が大體地震後三十分乃至四十分で三陸沿岸に到達したと云ふ事實だけは云ひ得ると思ふ。

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第六表 津浪襲來の時刻

津浪襲來の状況

(一)津浪前の退潮
津浪が襲來した時の状況を調べて見る。之れは三陸沿岸各地の驗潮儀記録で見ても判る如く、始め僅かな上潮で始まつて居る。然し地方住民で此の上潮を見た人は極めて少ない。只僅かに岩手縣大野灣の灣奥に當る所で見て居た人が「津浪の前に潮が二、三尺寄せそれから五分にて退いて行つた」と云つて居たのと宮古及細浦で「地震後三十二分滿潮面より三尺増水した」と云つて居ただけである。要するに驗潮儀に現はれた初潮の上潮はあまり小さく且徐々に寄せて來たらしいので之れを見た人はなかつたと思はれる。
津浪の前に潮が退いた事は非常に多くの場所で觀察して居る其の状況を次に列記して見る。


宮城縣
大原 午前三時頃潮が三尺位退いて居た。
鮎川 津浪の前に潮退く。二間程の長さの棧橋の橋脚が悉く見え、捕
鯨船の赤腹も見えた。
女川 津浪の直前ザハザハと音を立てて潮が退く。
小泊 津浪の直前海岸から五十間位潮が退いた。
名足 津浪の前五十米迄潮が退く。
大谷 波路上、前濱,尾崎、片濱、七半澤、臺の澤。津浪の前一時干潮となり十分後に大浪來る。
小々汐 地震後三十五分位經つて潮引き後十分して大浪が來る。
岩井崎 地震後十五分潮退く。
鶴ケ浦 地震後三十五分して潮が引き其後五分して浪が來る。
梶の浦 地震後三十分して潮が退く。
小鯖 地震後二十分位して十尺位潮が退く。
只越 三時頃潮が退いて居た。
欠濱 海水殆んと灣口迄退いた。


岩手縣
長部 地震後三十五分海水灣口迄退いた。
根崎 地震後二十五分潮退く。
綾里 地震後三十分約一粁の灣口迄潮が退く。
小白濱 地震後二十四分で潮が退いた。
釜石町 地震後十分底力ある音が聞え、其後数分で延長賀六十間の殘橋の先端迄潮が退いた。
鵜住居 地震後十分音響聞え間もなく潮退く。
千鶏 二時五十五分十二間位潮が退いた。
傳作鼻 地震後約二十分海水退いた。
音部 津浪の前五分、海水七、八間退いた。
白濱 三時十時頃潮が退いた。
赤前 三時十五分頃海水急に退いた。
宮古 津浪の前水深七八尺退いた。
磯鶏 津浪の前五十間程潮が退いた。


青森縣
鮫 三時十二分一米六位潮退く。
二川目 津浪の前二川河水三糎程減水した。
小舟渡 地震後三十分ゴロゴロと音を立てて平常の干潮面より三倍半も潮が退いた。
易國間 津浪前潮が退いたのを見た人がある。
下手 節句の大潮以上に潮が退いた。


福島縣
福島縣 久の濱 二時五十分港内の海水防波堤迄退き一面干潟となる。


北海道
小越 津浪の前三米六位潮が退いた。
樣似 津浪前の浪高さ二米位潮が退いた。
以上記載したのは各調査員の報告全部であるが、津浪の前に潮が引いた事は驗潮儀の示すが如く確實であつて、此の現象は三陸沿岸から北海道迄も觀察されて居る。而して退潮の減少も非常に顯著であつたらしい。そうして津浪が押寄せたのは潮が退いてから平均五分位後となつて居る。併し此の間隔は灣の形や水深によつて異なり一定してゐない。


(二)津浪の寄せ方
津浪の寄せ方は海岸の地形、江灣の水深、形によつて異るし叉震央距離、灣口の向きによつても異る。其の押し寄せ方は徐々と來たのもあるし、突如大浪が殺到したのもある。先づ徐々と押寄せた所を舉げると左の如くである。


宮城縣下
荻濱 押寄せる時は徐々と靜かであつたが引潮は強い。
小網倉 津浪は強くなく、大潮が押せて來る樣であつた。
飯子濱 寄せ方も退き方も極めて徐々であつた。
出島 徐々に水が増して來る樣であつた。
船越 比較的靜かでザワザワと寄せて來た。
名振 同前。
岩井崎 徐々に押寄せて來た。
浦の濱 田尻勢極めて弱い。
磯草 勢極めて弱い。
岩手縣
白濱 水深深いため緩漫な波來る。


青森縣
榊 水位のみ高まり波浪はなかつた。
以上であつて津浪が徐々と來たのは牡鹿牟島西岸の如く廻り込んで來た所とか、水深の深い所とか距離の遠い所である。仲には金華山、山烏の渡、鯔崎の如く外洋では注意して見て居ても津浪と氣付かなかつた所もある。之れは恐らく水深が深いため浪高小であつて気付かぬ程度であつたためであらう。
叉突如として大浪が押寄せて來たにしても其の押寄せ方は灣形、水深、灣の方位等によつて可なりに異つて居る。即ち各地に於ける押寄せ方は次の如くである。


宮城縣
磯 海面白光を呈し見る間に來る。
小淵 泥を交へ波の先が切立つた屏風の如く、速度大にして汽車より
速い。
谷川 押上つた樣になつて來る。
立濱 静かに來たが防波堤の所で急に高くなる。
白濱 コンモリと高く盛上つて來る。
小室 波頭が碎けて重なり合つた樣に寄せて來る。
伊里前 浪が幕を張つた樣になつて來る。
名足 器内の水が溢れ出る樣になつて來る。
石濱 泥色の水が泡立つて來る。
大谷 眞黒な波が盛上つて來る。
鶴ヶ浦 黒い潮が大なる速度で來て岸へ來るに從ひ青白く光る。
欠濱 黒い潮が高まつて來て岩に碎けると青白く光る。


岩手縣
根崎 黒い潮が盛上りながら迫つて來る。
泊港 下から押上げる樣に來た。
下船渡 黒い潮が盛上つて來る。


青森縣
三川目 薪を横に並べた如く重なり合つて來る。
四川目 眞黒な波空へ届く樣に盛上つて來る。
五川目 ヂヤヂャと云ふ音を立てて來る。
淋代 黒墨を載せた如き浪が來る。
砂森 眞黒になつて盛上つて來る。
津浪の押寄せ方は以上の如くであるが、大體之れを三樣に分ち得ると思ふ、(1)は波面が屏風を立てた如くなつて來たもの、(2)山の樣に盛上つて來たもの、(3)海岸へ打寄せた浪の如く泡立って來るか重なり合ふ樣に來たものの三種である。
(1)は水深が大なる場所で觀測されたものが多く、(2)は灘口から急に水深が淺くなつた所で觀測され、(3)は淺い所即ち遠淺の場所で多く觀測されて居る。即ち浪の押し寄せ方は色々な地形其他條件によつて異なるが水深が最も大なる影響を與へる樣に思はれる。


(三)津浪の囘數
地震によつて震央附近に生じた波は理論上からは單獨波であらうが實際灣内や沿岸に押寄せる津波は一囘でなく数囘に亘つてゐる。中には十數囘も反復して押寄せた所もある。又事實震央に生じた波も振動性のものとして數囘の波が引續いて起り、之れが沿岸へ波及するとも考へられる、併して理論上から之等波群は第一のものから次第に高さを減じてゆく可きである。然るに沿岸各地で經驗した津浪の中には第一の波より。第二或は第三の波の方が高かつた所もある。今沿岸各地に襲來した最高な波は第何囘目のものであつたかを各調査員の報告によって記して見る。


第一囘の波が最高であつた場所
(宮城)荻濱、谷川、大谷川、鮫浦、寄磯、尾浦、雄勝、立濱、荒屋敷、大指、伊里前、欠濱、高石濱(北海道)小越、樣似
即ち宮城縣の南部と外洋に面した所及北海道だけは第一囘の浪が最も高く且大きかつたと稱してゐる。


第二囘の波が最高であつた場所
(宮城)出島、寺間、船越、名振、白濱、相川、小室、鶴ケ浦、梶の浦、小鯖、鮪立、石濱
(岩手)長部、兩替、泊港、大船渡、吉濱、小白濱、釜石、千鶏、傳作, 鼻、白濱、堀内、赤前、磯鶏、田老、八木
(青森)大畑
即ち岩手縣は殆んど全部第二囘の浪が最高であつたと云ふ結果になつて居る。又宮城縣の方でも北部では二囘目の波が最高となつて居る所もある。


第三囘目の波が最高であつた場所
(宮城)大原、鮎川、網地、大濱、桑澤、小々潮、岩井崎
(青森)榊、二川目、小舟渡、大蛇、六川目
即ち第三囘目の波が最高となつてゐるのは宮城縣南部と青森縣であつて共に遠距離の地に當つてゐる。


第四囘の波が最高であつた場所
(宮城)小積、小淵
共に牡鹿半島西岸であつて半島を廻つて來た波によつて生じた所である。
斯樣にして岩手懸下の各江灣及沿岸でに第二囘の浪が最大であり、宮城縣下の南部牡鹿半島東岸では大體第一囘の波が最大であり、青森縣及宮城縣北部では第三囘の浪が最高となつてゐる、斯く何囘目の浪が大であつたかと云ふ事は其の江灣の形状水深及び震央迄の距離によつて異るものであらう。而して此の問題の徹底的調査は驗潮儀の紀録を精査し、江灣の形状、水深等と比較せねばならぬ、又一方其の江灣の静振とも關係するものであらうと思ふ故立入つた調査は他日に讓り茲には只事實を記するに止める。


(四)津浪の囘數と週期
今囘の津浪を體驗した人々の談によれば津浪は單獨波で無く數囘に亘り大浪が手寄せたと云ふ。其の囘數も各江灣によつて異なるが之れも江灣の形状水深等が主な要素となつて其の囘數が決定されるらしい。
今各調査員の踏査報告につき、各江灣ヘ押寄せた津浪の囘數を測つて見ると左の如くである。


宮城縣
荻濱 三、四囘寄せて來た。
小積 二、三分の週期で二、三囘の津浪があつた。
小網倉 五、六囘繰返す。
大原 十分位の週期で六囘。
小淵 十五分位の週期で大きいもの四囘。
十八成 十分位の週期で數囘。
大谷川 強いものが三囘あつた。
寄磯 七囘位來たが週期は始めて七分位次第に長くなる。
女川 午前八時頃返に十四、五囘も押寄せた。
出島 十分乃至十五分位の週期で來た。
尾浦 大なるもの三囘、三十分位の週期。
御前 大なるもの三囘。
雄勝 強いもの三囘。
大濱 強いもの三囘、五分位の週期で來る。
立濱 大なるもの三囘、五分乃至十分位の週期。
桑濱 大なるもの三囘
船越 強いもの三囘、五分位の週期で來る。
名振 強いもの三囘、五分位の週期。
相川 強いもの三囘。
小室 強いもの三囘、十五分乃至二十分の週期。
伊里前 大きいもの二囘來る。
岩井崎 大きい浪四囘來る。
鶴ケ浦 大きい浪四囘。
宿 大きいもの二囘來る。
鮪立 五囘寄せたと云ふものあり、六時迄小津浪多し。
御前 三、四分の間隔を置いて三囘。
石濱 約四分の間隔にて三囘。
高石濱 大きい浪四囘來る。
欠濱 大きい浪四囘來る。


岩手縣
高田 大きい三囘來り、五時半頃常態に歸す。
長部 五囘程來る。第一囘と第二囘との間隔五分。
兩替 前後六囘來る。
泊港 二囘大浪來る。其の間隔三分位。
綾里 五囘も押寄す。
越喜來 十五分間隔にて三、四囘。
下甫嶺 二、三囘繰返す。
小白濱 數囘の浪來る。
鵜住居 大浪二囘、其の間隔十分位。
千鶏 大浪三囘、週期十分位。
傳作鼻 十分間隔にて三囘。
重茂 大浪三囘、夫々五分及十分の週期。
音部 大浪三囘、夫々五分及十分の間隔。
白濱 大きい浪二囘來る。
赤前 十分の關隔にて三囘。
宮古 三時十二分、同二十三分、同三十五分、同四十五分と前後三囘。
磯鶏 十分間隔にて三囘來る。
田老 大浪三囘。夫々二十分及十五分の間隔。
八木 三囘來る。間隔十五分。


青森縣
榊 十五分間隔にて三囘。
鮫 大浪三囘、夫々九分及十五分間隔。
川口 大浪三囘、夫々十五分及五、六分間隔。
小舟渡 大浪三囘、十五乃至二十分間隔。
大蛇 大浪三囘、十分乃至二十分間隔。
二枚橋 五時半から六時迄に四囘來る。


北海道
廣尾 三、四囘大浪が來た。
小越 大浪三囘、約三十分間の間陥にて來る。
樣似 大きい浪三囘來る。
即ち以上の津浪の押寄せた囘數を調査した個所三十六個所中大浪が三囘押寄せたと稱する所は三十個所であり、二囘と稱する所が五個所、四囘と云ふ所六囘、五囘、六囘、七囘と稱する所が夫々三囘、二囘、一囘と云ふ割合になつてゐる。此の外二三囘と云ふ所二個所、三、四囘と云ふ所三個所、五、六囘と云ふ所一個所、數囘と云ふ所一個所と云ふ割合である。
即ち多くの所で高い浪は三囘來たと云ふ結果になつてゐる。
而して大浪が來た數囘を判然と觀測した個所四十八囘につき各囘數の百分率をとつて見ると二囘十二、三囘六十二、四囘十三五囘六、六囘四、七囘二、八囘○、であつて三囘と云ふのが最も多い第四圖は此の關係を圖示したものである。


此の圖の如く津浪の囘數は三囘と云ふのが最も多いが、之等三囘の大浪を受けた處二十一個所に就き第何番目の波が最も高かつたかを調べて見ると、第一囘の波が最高であつた所は六個所第二囘目の波が最高であつた所は十一個所、第三囘目の浪が最高であつた所は四個所となつてゐて、第二囘目の浪が最高であつた所が特に多い。併し同じく三囘の高浪を受けた所でも最高波が、斯樣に異るのは、灣の形状水深等が異るためであらうが之れも興味ある間題として後日の精査を俟たねばならない。
曾て佐野長谷川兩氏は一樣な深さの海底面にて圓筒形の部分が突然陷沒した結果として生じた汲動が、遠く距つた沿岸に達して起す津波の状態を理論的に求めて居るそれによると矢張り第二囘目の浪が最高となる結果に到達し茲に述べた結果と一致して居るのも興昧ある問題である。
次に津浪の週期、即ち第一囘目の波と次々に來た浪との間隔であるが驗潮儀を精査した所では之れは其の灣の静振と密接な關係がある。各地の驗潮儀記象から著者及本臺地震掛竹田建二氏が讀取つた津浪各波の平均週期は左の如くである。而して此の週期は驗潮儀に現はれた數十囘の振動の平均週期である。


曾て本多、寺田兩先生其他は本邦の各江灣につき静振を測定され、其の週期の理論上から算出したものと比較して居られる不幸にして兩先生方の測定された。江灣は前掲表には尠いが、宮城縣鮎川東京府父島など、兩者の週期を比較して見ると、鮎川では静振週期六分八乃至八分九に對し、同所に於ける津浪の週期は平均七分八となつて居り丁度平均の静振週期と一致して居る。又父島に於ても静振週期十六分乃至二十分に對し津浪の週期は一九分四であつて之れも善く一致して居る。
即ち驗潮儀によつて測定した津浪の週期は其の江灣に於ける静振週期と一致するものである。從つて此の週期は江灣の形及水深が主要なものとなつて決定せられる可きである。
更に今囘の津浪にて各踏査員が調査した津浪中の大浪の間の週期を調べて見ると次の如き結果となつて居る。即ち各週期を以て津浪が現はれた場所の數を現はし、其の百分率を以て示すこととする。統計に利用し得た場所は全部で四十四個所である。


扨之等扨之等津浪週期の頻度を圖に表はして見ると第五圖の如くになる。圖は縦軸に週期の頻度をとり横軸に各週期をとつたものである。此の圖に依つて判明する如く津浪の週期は十分内外のものが最も多い。即ち第一、第二等の高浪は約十分位の間隔で來たと見られる。尚五分位の週期も可なりの頻度を示してゐるが之れは各部落の住民諸氏から聽
取したものの統計であるから其處迄正確であるや否やは保證し難い。而して此の週期は特に大きな浪の週期であるから驗潮儀から讀取つた浪の週期と一致するものか何うかは判明しない。
然し若し之れが驗潮儀から讀取つた各波の週期と一致するならば各江灣に於ける固有振動静振の週期と一致すべきである。然るに本多、寺田兩先生其他が實測された三陸沿岸の各江灣即ち、宮古、大槌、兩石、釜石、小白濱、吉濱、越喜來、綾里、大船渡等に於ける静振の週期は十八分乃至四十五分即平均二十八分となつてゐる、故に津浪の際の高浪の間隔十分余とは異つた値が出てゐる。
之れによつて見ると津浪の際に數囘に亘つて押寄せた異常な高浪は浪の静振とは殆んど無關係に約十分内外の間隔にて次々に襲來したと見ることが出來る。而して此の波は震央に於て次々に發生したものと見ることが出來やう。尚之等異常な高浪の外に現はれた小振動は、之等高浪が浪に強制振動を與へた結果とした静振の一種とも考へられる。此の點に就ても尚詳細な調査を要するものであつて茲には事實に就き一推理を與ヘたに過ぎない。

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第四圖 大浪の回数の特徴
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第六表 津浪各波の平均週期
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第七表 津浪中の大浪の間の週期
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第五圖 扨之等津浪週期の頻度

音響と海鳴

強震後各地に於て異常な音響を聞いた所が多い。此の音響は大砲を打つた樣な響と云ふのが多く而も多くは海岸で聞かれてゐる。其の爲め或は津浪が海岸の斷崖に打當つた時の響では無いかとも考へられる。今此の音響が如何なる原因によるものかを明かにするために各調査員の報告及三陸地方の各管内觀測所の報告によつて調査して見やうと思ふ。


岩手縣(五十三個所中三〇)
盛岡(震前地鳴、震後二十七分東方に鳴動)、猿澤(震前地鳴)、大原(震後東方に鳴動)、若柳(震後東方に砲聲の如き音三囘)、岩谷堂(震後鳴動)、永岡(震後鳴動二囘)。湯田(震後砲聲の如き音)、澤内(震後遠雷の如窒音南東へ三囘)、岩根橋(震前に地鳴、震後三十分南東に砲聲の如き音ニ囘)、附馬牛(震後五分砲聲の如き音三囘)、西山(震後北東へ砲聲の如き音二囘)、大志田(震前遠雷の如き音二囘)、雫石(震後遠雷の如き音)、松尾(地鳴あり)、御堂(震後遠雷の如き音)、葛巻(震後地鳴)、淨法寺(震前地鳴)、田山(震後三十分南東方に地鳴)荒澤(震後大砲の如き音)、一戸(震後三十分砲聲の如き音)、福岡(震後地鳴) 金田一(震後三十分砲聲の如き音)種市(震後地鳴)、久慈(震前地鳴宇部(震後三十五分砲聲の如き音)山形(震後地鳴)、山田(震後十分鳴動)、釜石(震後砲聲の如き音)田子(震後砲聲の如き音)盛(震後三十分南東に砲聲の加き音を聽く)


宮城縣(十三個所中七)
氣仙沼(震後五分音響)若柳(二時三十四分、同五十分、弱音ニ囘、ニ時五十分砲聲の如き音)、登米(砲聲の如き音)、吉岡(東方に雷鳴の如き音三囘)、大河原(音響らしき音)、(松倉二時五十四分、同五十六分南東に爆音)、湯原(暴風の如き音)


青森縣(二十個所中八)
三厩(震後四十六秒雷鳴の如き音響)、蟹田(發震直後地鳴)。金木(發震後三十秒風聲の如き地鳴)、泊(地震終る頃午砲の如き音響)、黒石(發震直後風聲の加き地鳴)、七戸(震後直に雷鳴の如き音響)休屋(震後雷鳴の如き音響)、三戸(東方に大砲の如き音響三囘)


福島縣(二十三個所中六)
安積(地震前車橋上を走る如き音響)、三阪(音響甚多)田島(音響激し)、川俣(遠雷の如き音響)、上遠野(聲響あり)棚倉(發震数秒内聲響あり)


秋田縣(十五個所中九)
毛馬内(震後爆發樣音響)花輪(二時五十分ドドンと音す)、大館(震前南西より風聲の如き響あり、地震直後遠雷の如き音)鷹の巣(聲響あり)、船川(地鳴あり)角館(弱き地鳴)、大曲(二時五十八分に一囘、三時に連續ニ囘、東北東方向に大砲の如き音)本荘(聲響を伴ふ)、矢島(音響あり),


北海道(五十七個所中十一)
静内(震後聲響)、土武佐(東西方向に地鳴)、納沙布(地鳴西より東へ)西別(弱き地鳴)舌辛(音響を伴ふ)標茶(風聲の如き音響)大津(震前二秒、強風の如き地鳴)夕張(地鳴あり南西方)、森(車橋上を走る如き聲響)石狩燈臺(弱き地鳴)、惠山岬(地陰の如き弱き地鳴)


茨城縣(十七個所中五)
大子(地鳴あり)、直壁、結城、水海道、守谷、(何れも地鳴あり)


千葉縣(四十個所中一)
多古(震前車橋上を通る如き地鳴)


栃木縣(九個所中二)
佐野、矢板(何れも地鳴あり)


埼玉縣(二十五個所中三)
岩槻(自動車走る如き音響)、槻川(發震十五秒前東方に風聲の如き音) 本庄(両北西より遠く地鳴)


紳奈川縣(十四個所中一)
姥子(ゴーゴーと云ふ地鳴を聞いたものあり)


群馬縣(二十二個所中一)
萬場(地震と同時に風聲の如き地鳴)


山梨縣(二十三箇所中一)
山中(僅かに地鳴を聞く)


長野縣(二十二個所中二)
境(鳴響あり)、上田(地震前風聲の如き響)


岐阜縣(八個所中一)
高鷲(地鳴あり)


以上報告を總括して見るに砲聲の如き鳴響を聞いた所は岩手、宮城、青森、秋田の四縣下に限られ、然も凡て地震後に聞いて居る更に斯樣な音を聽取した所で聽取時刻を測り得た七囘につき平均時刻を求めて見ると大體發震後三十分乃至三十五分となつてゐる。叉以上四縣下で地震前に地鳴を聞いた所は六個所で其の音は單に鳴響或は風聲の如く聞えた樣なものであつた。之れは恐らく主要動の前に聽いたものであらう。
更に遠距離の地方でも地鳴を聽いた所もあるが之等は遠雷の樣な音或は風聾の樣な音が最も多く砲聾の如き音と云ふ所はない又砲聲の樣な音を聞いた所を調べて見ると其の中最も遠距離な所は秋田縣の大曲、花輪等であつて太平洋海岸から最短百三十粁も距つて居る。若し此の砲聾或は爆音の如き音が海岸の斷崖へ巨浪が打當つた音と假定しても、夫れが百三十粁の遠距離迄聞える位大きかつたと云ふ事は極めて疑はしい。
又秋田縣下で此の音を聞いた時刻は二時五十分乃至三時であつて。丁度津浪が三陸沿岸へ襲來したのは同時刻或は夫れより少しく前である。然も音響は三陸沿岸から秋田縣下迄十分位の走時を要するから、之れから見ても各地で聽取した砲聾或は、爆音の如き音は波浪が斷崖に激突した時に生じた音とは考へられぬ點である。
次に各踏査班が調査した三陸沿岸各地に於ける音響聽取状態を調べて見る。


宮城縣
小積 砲聲樣の音三囘。
小網倉 砲聲樣の音二囘、津浪の少し前に聽く。
大原 津浪の少し前砲聲様の音更に十五分後微聲一囘。
小淵 震後東方に砲聲樣の音三囘。
十八成 磯後三十分東方に砲聲樣の音二囘。
鮎川 震後三十分東方に砲聲樣の音。
大谷川 震後二十五分砲聲樣の音。更に十五分後微聲。
女川 震後東方に汽車の如き大音響。更に北方に銃砲樣の音二囘。
雄勝 三時十分東方にゴlと云ふ大音響二囘。
立濱 地震と津浪との間にゴーと云ふ音。
荒屋敷 地震直後東方にゴーと云ふ音。
小泊 津浪の五分前沖の方で砲聲樣の音二囘。
大指 津浪直前砲聲樣の音沖に聞ゆ。
小指 同前。
志津川 地震直後砲聲あり。
小泉大澤 地震後東方へ音を聞く。
前濱 震後二、三十分大音響あり。之れから五分後微音あり。
尾崎 片濱、七半澤、臺ノ澤、浪板、氣仙沼、同前。
小々汐 震後音響聞ゆ。
岩井崎 津浪直前ダイナマイト爆音の如き音東方に聞ゆ。
鶴ケ浦 津浪直前爆音あり。更に五分後微音。
梶の浦 震後二十分音響。
宿 震後二十分爆音。
小鯖 三吋頃ドンと爆聲。
安波山燈標 二吋三十六分頃音響。
只越 津浪前引汐と共に爆音二囘あり。後のもの稍小。
唐桑大澤 震後二十分音響。
缺濱 震後八分東北東に砲聲樣の音を聞く。後五分稍小なる音。更に二十五分後稍大なる音あり。


岩手縣
長部 震後二十五分音響。
高田 震後二十分南々東から底力あるドンと云ふ音二囘。
根崎 震後二十分東方に爆聲あり更に八分後微音。
兩替 震後二十分ダイナマイトの如き爆音。
泊港 震後二十五分東方にハッパの如き爆音。
唯出 震後二十分砲聲の如き音二囘。
碁石 震後十分乃至二十五分爆音二囘。
泊里 同前。
細浦 震後二十五分四方に音響。
大船渡 震後三十分東方に大きくないが強い音を聞く。
綾里 震後二十分東方にハッパの如き音。
砂子濱 震後二十分砲聲の如き音東方に二、三囘。
吉濱 震後十五分沖合に砲聲の如き音。
釜石 震後十分東方に底力ある遠雷の如き音三囘。
鵜住居 震後十分沖介に遠雷の如き音。
傳作鼻 震後十分砲聲の如き音一囘。
湊 震後三十分遠雷の如き音。


青森縣
鮫 震後二十五分南東方に異状音を聞く。
三川目 震後十分北方に砲聲樣の音。
四川目 地震中砲聲の如き音。
五川目 震後十分乃至二十分地響ある砲聲の如き音。
淋代 震後間もなぐ砲聲の如き音。
六川目 砲聲を聽く。
織笠 震後ドーンと云ふ音地中より響き來る如し。
鹽釜 震後間もなく雷の如き音。
天ケ森 震後ドーンと云ふ音聞ゆ。
尾鮫 震後十五分砲聲の如き音。
平沼ケ濱 震後雷鳴の如き音ニ囘。
平沼 震後十五分ドンドンと音聞ゆ。
木野部 三時半頃砲聲樣の音聞ゆ。餘韻あり。


以上調査した結果を總合して見るに音響は殆んど全部砲聾或は爆音の如きものを聴取して居り其の時刻は凡ての個所にて津浪襲來前、即ち海水が退いた前後にドーンと云ふ音が聞えたと云ふのが多い。そうして聽取時刻は最も遲い所で三時十分、速い所で二時三十五分であり。全五十二個所の平均は二時五十二分となつてゐる。而して之等各地の震央距離の平均は二百七十四粁であるから、之れから算出すると音波速度は秒速度約二百三十米となつてグーテンベルヒの走時表中最も遲いものとは。一致するが、通常のものの三分の二強にしか當らない。然し之れは平均の値であるし、又材料が不正確の嫌ひがある故之れから音波速度を論ずるのは、無理である。
又音を聽取した状態を見ても二囘或は三囘も聞いた處がある而して二囘目或は三囘目の音は微かなものであつたと云ふのが多い。之れから見ると二囘目或は三囘目の音は反射音であらうかとも考へられる。
要するに地震と津浪との間に於て聽取した砲聾或は爆音の如き音響は地鳴であつて、斷崖へ巨浪が激突したために生じたものでは無いらしい。此の音の走時曲線も、各地の震央距離を測定して畫いて見たが何しろ材料が住民諸氏の談話を綜合したものであるため正鵠を缺き、適當なものが得られなかつた。
次に海鳴或は潮音であるが、津浪が押寄せる頃には沿岸各地で多く海鳴或は潮音を聽いて居る。其の樣な音を聽取した状況は左の如くである。


宮城縣
坂元 震後三十分乃至一時間海鳴強し。
荒濱 震後十分、三十分に海鳴あり、四時頃甚強し。
網地島 第一囘の津浪來る時、金華山方面にザアーと云ふ昔を聞く。
伊里前 津浪が來る時ゴーツと云ふ音聞ゆ。
名足 潮が引いた後ゴーと云ふ音が聞ゆ。


岩手縣
唯出 震後三十分乃至四十分海鳴二囘聞ゆ。
千鶏 三時ゴーゴーたる音聞えて津浪來る。
重茂 三時ゴーゴーたる波音聞ゆ。
赤前 三時八分遠方にゴーゴーたる音聞え次第に高くなる。
宮古 三時二分強風吹荒む如き音聞ゆ。
野田 震後三十分強風の如き鳴動と共に津浪來る。
八木 雷鳴の如き音と共に津浪來る。


青森縣
小舟渡 震後三十分ゴロゴロと石を轉ばす如き音と共に汐退く。
細谷 震後三十分ゴーゴーたる音聞ゆ。
要するに海鳴と思はるる現象は津浪襲來の際の浪音であつて巨浪の押寄せる前に遠く沖合で聞えた音或は海水が退いた時の波音であつたと思はれる。從つて氣象學上で云ふ如き海鳴の現象は觀察されて居ない。

津浪の前兆

津浪の前兆とも見らる可き異状現象が所々に於て觀察されて居る。其の樣な現象としては魚類の棲息状態の變化、土地の沈降及び井水位の變化である。今各調査員の實地踏査による之等諸現象は左の如くである。


宮城縣
大谷川 汐が退いた後井戸の中は空になつて居た。併し地震の最中には尚水があつた。
名足 津浪により魚類、章魚、鮑迄も打揚げられて居た。鮑が打ち上げられたと云ふ例は今迄なかつた樣である。
氣仙沼 改修事務所では二日前より潮位低下し、工事渉つた由。同所潮位は平常四・○乃至三・○米である可きが○・七米であつた由。
大島 二月中旬から井水減少、海苔製造に故障を生じた。今迄井水は期節降水量によつても減少する事はなかつたが、今囘始めてにて特に要害で著しかつた。
西海岸沈降しつつあるものの如く、海岸に沿ふ村道は十年間に三囘陸地の方へ改修した。八十年前と現在の村道の商低差は二米に及ぶ。
缺濱 四季を通じ今迄減水した事もない井戸が二月中旬から目立つて減水した。


岩手縣
越喜來 小學校長小原氏の調査によれば、本村高所にある井戸にて直接津浪による被害其他無き六個所の井戸は凡て異常を呈した。即ち何れも渇水混濁したが其の期日は一定してゐない。二十日前よりのもの一、四五日前よりのもの一、三日前よりのもの二三四日前よりのもの一、二月中旬から一週間に亘つたもの一等であつた。
釜石 地震後井戸著しく減少し、殆んど渇水状態となつたが四日常態に歸る。
船越 數日前から井水減少し津浪後渇水した。
織笠 地震後井水半減した。
大澤 井水減少したと稱するものがあつた。
千鶏 昨昭和七年四月上旬から中旬に亘り鞭藻類群集浮流した。
重茂 昨年二月頃から厄水(フノリを溶した樣なもの)流れ來り昨年五、六月頃最も著しく八月頃に止んだ。
鵜鶏鰈、アブラメ、スイ等が打揚られた。
赤前 赤貝等多数打揚られた。
金濱鱗、ドンコの類が打揚られた。
田老 冬期鰯の大漁があつた。


青森縣
川口 強震二日前から潮位一米下る。井戸渇水した。
以上の如くであつて前兆と見做さる可き現象としては
(一)二月頃から井水の水位減少した。
(二)二日前から潮位が著しく低下した。
(三)十年來陸地の沈降が起りつつあつた。
(四)咋春鞭藻類が群集浮流した。
(五)咋冬から今春にかけ鰯の大漁があつた。此の現象は三陸沿岸至る所で觀察された現象である。
右の中井水位の減少所々で觀測されて居るが、之れは明治二十九年の大津浪の際にも現はれた現象であるため特に注意して觀測されたものである、併し宮城縣大原、十八成では震後直ちに井水を檢査したが水位の變化は認められなかつた由である。
兎に角所によつて井水位に變化を來した事は何によるものか判らぬが注意すぺき現象である。それと共に潮位の變化が又關聯して居るとも見られる。
即ち潮位變化は二、三日前から起つたと稱する所もあり、氣仙沼の如きは驗潮儀にも現はれて居るから先づ確かなものと見られる、之れは相對的現象であつて海水の減退によるものか陸地の隆起によるものか判明しない。然るに一方宮城縣大島村村長の談によれぱ大島沿岸の陸地は十年來次第に隆起しつつあつた由である。此の兩者の減少は全く反對なものであるが今迄長年月に亘り徐々に隆起しつつあつた陸地が發震直前急激な沈降に移つたとも考へられる。
陸地沈降の現象は又本臺鷺坂清信氏が宮城縣南部に於いて津浪が打上げた高さを調査し、之れを明治二十九年の際のものと比較した結果から立證してゐる果して地震前に於て陸地の隆起沈降等の現象が起つたか何うか之れも興味ある現象として尚今後の精査に俟たねばならない。
昨冬から今春にかけて鰯の大漁があつたと云ふ現象は明治二十九年の大津浪前にも同樣觀測された事である。此の現象から鰯が地震を豫知して移動したと稱する向もあるが、著者は夫れよりも一月來頻々として、發現して局發性前震のために、鰯が移動したと考へる方が合理的では無いかと思つてゐる。尚鞭藻の浮流に就てはそれが約十ヶ月も以前に起つた現象であるから何とも云ひ難い點がある。
以上今囘の強震の前兆とも見做さる可き現象には數種あつて何れも前囘、明治二十九年の大津浪の際にも觀察された現象と一致して居るのは興味ある事で、何れの現象も今後更に注意して觀測する事を要すべき事柄と考へられる。

發光現象

武者金吉氏によつて特に注意された此の現象に就ても著者は各踏査員に依頼して現象の現不現を確める事とした、各調査員の踏査結果は左の如くである。


宮城縣
亘理、荒濱、角田、閖上、川崎、鳴子、鎌先、荻濱 認めず。
小積 無し。但し海面キラキラと光つてゐた。
小網倉 認めず。
小淵 地震と津浪との間に於て北東方に二、三囘稲妻樣の光を見る。
鮎川 一般に認めず。但し山火事の如き光り物を北西方の空に見たものあり。
渡波 南四方の空に南から北へ亘り稻妻樣の薄蒼き光を見た者あり。
金華山 燈臺看守震後徹宵して觀測したが發光現象なし。
川渡 東北東の空に蒼光あり、二、三度漏電の如き怪光あり。
前網 寄磯、飯子濱、光認めず。
女川 特別な光なし、津浪の波頭碎けて淡く光る。
出島、尾浦、御前、立濱、桑濱、小泊 小室、光を認めず。
雄勝 東方に稻妻樣の光を見たと云ふものあり。
第一回爆音と津浪との間に沖の方薄明るくなる。
志津川 發震直後光あり。最初青光にて間もなく赤色に變じ尾を引いて消ゆ。
長崎 認めず。
安波山燈標 震後南二度東の空に薄い膏白色の光あり。
只越 浪が岩に碎ける時青白く光り放電光の如し。
欠濱 光を認めず。


岩手縣
碁石、門之灣奥、泊里 光を認めず。
大船渡 震後青光を見る。
生形 震後東南東に明るい青光を数囘見る。
下甫嶺、泊、浦濱、鯔崎燈臺 光を認めず。
川代 震後西空に青色光象を見たものあり。
千鶏 強震後一囘ピカツと青白色眼前に光る。
重茂 強震後發光現象三囘あり。


青森縣
二川目 地震と共に南方に電光の如き光を兄たものあり。直ちに停電す。
三川目 震後南方に放射状光映る。
四川目 南方空薄明るくなる。津浪の波頭光る。
五川目 砲聲の如き音の後窓にチラリと稻妻樣の光が映るのを見る。
織笠 光りを見る。
天ケ森 電光の如き光あり。
尾鮫 稻妻樣の光を見たと云ふものあり。
平作ケ濱 電光樣の光を見たものあり。


神奈川縣
姥子 地震と共に稻妻樣の閃光東方の空だけに見ゆ。電氣のスパークの如く青白くピカツピカツと頻りに斷續す。
箱根町 東方の空にピヵッと光つた樣に見ゆ。


茨城縣
筑波東山 震動中東南東にパツパツと二囘光る。
筑波ケーブルカー宮脇停車場 震動中南方へ雲あり、其の後でパツパツ三囘光る。色薄青し。


右の外測候所及管内觀測所で發光現象を認めて之れを觀測した處は僅かに左の三個所であつた。
秋田測候所 二時三十五分即ち發震後三分、構内にて北方に當り青白き電光の如きもの二條を見る。
同所管内大曲 二時三十五分東南東の空に青白き電光の如きものを見る。
盛岡測候所 本震最中南方に發光現象あり。
此の外個人にて發光現象を觀測報告せられた分は左の二件である。

窪田瀬吉氏報告(東京市大森區新井宿四丁目、本臺宛)

本震にて家族一同戸外に飛出しましたが最大振幅を感ずると同時に北西(寧ろ北よりに)の空より電光一閃致しました。普通はピカピカと瞬きますが昨夜のはピカツと一閃したのみの樣でした。先年箱根地方大地震の時は四南方の空にピカピカ致したのを見ました。

中井友三氏報告(茨城縣平磯町電氣試驗所、藤原技師宛)

發光現象發見當時の經緯 地震を感ずると同時に起床、暫し樣子を伺ひ居り候ひしも繼續時間長くして終熄の樣子も見えざる故に萬一の場合逃出しの準備として雨戸(南向き)を一枚開け暫し外を見て居る内に南方の空に發光を認め候。


發光の時刻及光の繼續時間 大體の見當で最初に地震を人體に感じ始めてから約三、四分後、光は殆んど瞬間的。
方向及光度、南方、暗夜のこととて對照物無きため精確のこと不明なれど大體の見當で距離約十米の廣場を隔てて存在する平家の屋根の少し上位、比較的低き空間に發見。


形及色
 形は一つの線よりなる。色はアークの色に近い樣な淡青緑色恰も虹状で只色が單色であると云ふ點が虹と違ふ圓弧の半徑は大體の見當で普通の虹の半徑と同等か。線の幅は虹の七色の線全體の幅よりも細い樣に感じた線は相當はつきりした。線光度は弱い方當夜は晴天にて星光を諸所に認めた。
前述の如くにして此の光が電力線、電燈線の切斷等により生ずる火花或はアークに依るものに非ざることは光の形よりして容易に想像し得らるることにして又當地は水戸に候へ共其の光を認めた方向には斯かる電力線電燈線は無之候(但し當家より南へ數町先迄は電燈線有之候、以上は小生の佳家水戸市上市備前町)に於ての記事に候。同日平磯の役所にて此の話を致し候處平磯でも同時刻頃に南方に光を認めたと云ふ者一名有之候、但し平磯に於ける光はサーチライト状の光だつたと申 候但し平磯の方の話は確信を以て御紹介出來申候 以上。
扨前述した報告中各調査員が踏査した個所合計二百六十六個所中發光現象と認めたと云ふ個所は僅かに十九個所であつたが其の光は電光樣のものと云ふのに一致して居る樣である。又金華山燈臺の如く徹宵注意して見て居たが光象を認めなかつたと云ふ樣な處もあり、斯樣な所さヘ二十二個所もある。更に以上發光現象を觀測したものにつき大體其の性質を見るに。



 判然と色を指摘した所十一個所中青白色と云ふのが七、青色が三、青緑色が一であつて大體青味がかつた色である事に一致してゐる。其の外電光樣と稱するのが多いから先づ凡てが青味勝ちの色と思はれる。



 形を指摘した十六個所中稻妻状と云ふのが六、電光状と云ふのが六、山火事の如き、放射状の如き、尾を引いた如き、弧状の如きと云ふのが各一であつた。稻妻状と電光状と云ふものの差は何うであるか判らぬが先づ電光状と云ふのに一致してゐると見る可きであらう。青森縣二川日の如き電光樣發光現象後に停電したと云ふ所もある。


方向
 方向は全く一致せず、あらゆる方向に認めて居る。宮城縣南部では北東、北西、南西、東北東各一であり、岩手縣で
は東南東、西、北各一で更に眼前に光つたと云ふものあり、青森縣では南方三、茨城縣では南方二、東南東一、東京市では北西、神奈川縣でば東方二、となつてゐる。即ち震央の方向とは殆んど一致せず寧ろ震央とは反對の方向に見たものが多い。
斯樣にして見ると發光現象と云ふものは少くとも今囘の三陸強震では電光樣のものが多く高壓線のシヨートによると見られる場合が多い樣である。併し尚此の現象の本性に就ては今後の調査によらねばらない。
尚津浪の際沖合の方の海が青白く光つたとか波頭が青白く光つたと云ふ樣な觀測をした向も多いが之れは海面に浮游するプランクトンの如き微生物による光であらう。

被害状況

沿岸各地に於ける被害状況は本報告中に各地被害表を掲げてあるし又各調査員の踏査報告によつて明かであるから茲には記さない事とする只或る部落にて特に著しい被害を蒙つたのは何故であるかとか死傷者が何うして災厄を蒙つたかと云ふ點は今後の用意として是非知らねばならぬ事である。併し此の點に就ては尚充分資料が集まつて居らぬ故今は其の概略を記すに止める事とする。先づ死者が如何なる原因、經路をとつて災厄を蒙つたかを各調査員の報告から調べて見る。


宮城縣
雄勝 明治二十九年の津浪の時地震は長かつたが小さかつた。然るに今囘のは遙かに強かつた強震には津浪なしと思ひて波に浚はる。
鮫の浦及船越 寒い時には津浪なしと思ひ厄に遭ふ。
谷川 漁のため疲勞してゐて災厄に遭ふ。
荒屋敷 強震には津浪を伴はずと思ひ厄に遭ふ。
名振 明治二十九年の時は三十分以内に津浪が來たが今囘のは三十分を經ても來ぬ故安心して再ぴ就寢厄に遭ふ。


岩手縣
泊港 津浪襲來の警告に耳を借さずして死す。
越喜來 地震の強さを明治二十九年のと比較し津浪來らずと思ひ波に浚はれし人あり。


以上の如く死者の中には明治二十九年の強震と比較して津浪がないと信じて災厄に遭ふた人がある。又之れと反對に矢張り明治二十九年の際の強震と比較して殆んど同じ樣な状態であるからと思つて警戒して助かつた人も尠くない。庭で強震後津浪の來る事を豫想し得た爲めに助かつた人々は何によつて津浪を豫期したかを調べて見ると大體
一、地震の強さによつて豫期したもの
二、異常な退潮によつで豫期したもの
三、海鳴によつて豫期す。
四、直接沖に見えた高浪を見てから逃げたもの
等にて第二の異常な退潮によつて津浪を豫期して逃げたものが最も多い。
又被害を蒙つた地域を見ると平地の所が最も多く、背後に山を背負つた土地は少い。
防波堤を作つても其の位置が適當でなかつたり又は粗悪なものであつたため被害を蒙つたものがある。
川の流域に沿ふては可なり遠距離迄浸水家屋を生じたが巨浪に呑まれた所は殆んど無かつた。
部落三方崖に園まれ避難する事が出來ず災厄に遭ふた所及び町内の道路が複雜で逃げ道を失ふて厄に遭つたものも尠くない。
明治二十九年後高所へ家を移す申合せをしたが不便なため次第に低所ヘ移つて來て再び災厄に遭ふ。
灣内遠淺であり干潮時には二三町干潟となる樣な灣であるため浪高大にして厄に遭ふ。
更に被害が極めて僅少であつたり又全く被害がなかつた土地を見ると。
高い断崖の上に建てられて居る爲津浪を知らず。
堅牢な防波堤を作つてあるため被害なし。
防波林海岸にあつたため被害殆んどなし。
遠淺の灣を埋立てたため被害尠し。
高所に住家を移したため被害なし。
平常より津浪の時の注意をなし、舟等は必ず繋留せるため被害なし。
等であつて要するに平常から津浪と云ふ事を念頭に置き萬一を豫期して用意を怠らなかつた處は大した被害を見ずに濟んだ樣である、又灣の形状、水深等が津浪に對し最悪の條件にある處でも堅牢な防波堤等を建設したため殆んど被害のなかつた例もある。故に津浪なる現象は三陸沿岸の如く沖合に年々夥多の地震を頻發する外測地震帶を控ふる所では今後も再來を豫期せざる可らざる状態にある。加ふるに三陸沿岸の地勢は津浪に對して最悪な條件を具備するに於ては、今囘の災厄に鑑みて今後各江灣に適當な設備を施し、此の禍を再び反覆せざる樣努めねばならない。依つて以上調査の結論として今後再び津浪が來る事を豫期して、夫れが對策を如何にせば宜しきや、些か私見を述べて見やうと思ふ。

結尾

三陸沖合は所謂外側地震帶に屬して居て其の上に發する地震は大小合せて年々五百囘乃至千囘を算してゐる。今昭和二年以來、北は襟裳岬、尻屋崎沖合から南は金華山、鹽屋崎沖合に至る間に發現した顯著地震(有感覺震域の半徑三百粁を越ゆるもの)及稍顯著地震(有感覺震域の半徑ニ百粁乃至三百粁に及ぶもの)の囘数を本台竹花峰夫氏が調査した所によると
昭和二年 昭和三年 昭和四年 昭和五年 昭和六年 昭和七年 昭和八年二月迄
 十五囘   十囘   六囘   六囘   八囘   十囘   七囘
即ち六年二個月に合計六十二囘の顯薯並びに稍額著地震を發して居る。
斯くの如き夥多の地震を發する三陸沖に於て稀には地震源極めて淺き地震を發することもある故津浪發生は三陸沿岸にては到底避け得可からざる事實である。然も度々云ふ如く三陸の沿岸の地形が又津浪を蒙り易き形となつて居る、故今後と雖も何時再び今囘の災厄の如きを反覆するか計られない。故に此の沿岸に對しては特に津浪による災害を防止或は輕減せしむる樣な設備を施す事は目下の急務と考へられる。然らば如何なる手段によつて津浪による災害を防止、軽減すべきかと云ふ間題は輕々には論ぜられぬが著者の私見を左に掲げて大方の御示教を仰ぐ次第である。


(一)防波堤 灣口に防波堤を設くる事は誰しも考へ得べき事であるが灣の形状、水深を考慮して建設す可き位置を決定せねばならない、宮城縣雄勝の如き防波堤を作つたため今囘は明治二十九年よりも大なる波を蒙つたと稱せらるる所さヘある。又防波堤も充分堅牢なる事を要する。何にもせよ津浪が灣口に達した時は速度尚大なるために相當なる運動量を有する故、灣口に設けられた防波堤でも基底から堀抜かれたものさへあつた程である。但し海岸ヘ設けられた防波堤は頗る効果があり、志津川町始め數個所に於て其の効力を發輝して居るのを見る。


(二)防波林 海岸に相當廣き地域を有する所では防波林を波打際に植ゆるも一策であり、又今囘の津浪の際にも斯かる林或は立樹が波を防いで被害を尠なからしめた實例も尠くない。


(三)望潮樓 今囘の津浪の際沿岸各地にて異常な退潮或は灣口に來襲した津浪の波頭を見てから避難して全村完きを得た個所も紗くない。故に海岸に望潮樓を設けて地震後尠くとも一時間は此の樓内で沖合及灣口を注意して居り、若し海水に異變があらば警鐘等によつて急を報じて住民を避難せしむるも一法と思はれる實際灣内に於ける津浪の傳播速度は秒速十米位故、灣口に來た巨浪を見てから避難するも充分である。又斯樣にして人命を失はなかつた實例も今囘の津浪にて尠くない。


(四)地盤を高める事 明治二十九年の津浪によつて以來盛土をして地盤を高めたため今囘被害を輕減し得た處も尠くない故此の方法も考へる餘地がある。


(五)避難道路 本台岡田臺長の私案であつて各部落内に於て道路が不完全のため逃げ場を失ひ厄に遭つた例がある故之れを避くるために考案されたものである。部落内に完全な道路を作り非常時に際し直ちに附近の丘上へ逃れ得る樣な道路を作る事である。而して丘上は神社境内或は小學校庭として廣場を設け避難民を充分收容し得る樣にするも一法である。
以上の外住家を小高き所に移すなどの方法もあるが夫れは職業によつては不便な點もある。又江灣も改修して遠淺の灣は埋立るなども一法であるが江灣の改修に就ては尚今後充分なる研究をなし萬全を期する策を取る事が肝要である。(昭和八年七月於中央氣象臺)

三陸津浪に關する二三の考察 本多弘吉

今囘の津浪の傳播の状況及び其の發生の機構等に關し二三の考察を加へる。

津浪の傳播

 今囘の津浪は地震の震央(東經百四十四度七、北緯三十九度一)地域に發生したとして其の傳播状況を調べて見やう。よく知られてゐる樣に重力の加速度を g 、海の深さをhとすると津浪の傳播速度vはv = √ghで表はされる。
海の深さは水路部發行の海圖によつて求め、津浪傳播の波面を作圖で求めると第一圖の如くになる。圖に點線は海の等深線を示し、實線は原點を出發してから二分毎の波面を二十分のもの迄示してある。
更に作圖を進めて假に宮城縣十三濱村月濱に達するに要する時間を計算して見ると五十分となる。然るに月濱に於ける檢潮儀の記象上津浪の始まりは三時十八分であり、震央に於ける發震時は二時三十一分であるから實際は四十七分を要した事になり、計算値と實測値は兩者略一致してゐる。
又宮古測候所附近に達するには計算からは三十八分を要する事となるが、實際同地に第一囘の津浪が襲來したのは三時十二分で震央から四十一分を要してゐる。津浪の山の前に数分の低い谷があるとして兩者は大體一致してゐると考へられる。即始めから豫想される樣に津浪が震央地域に發生したとしてよいやうである。
宮城縣下に於ける傳播状況の詳細に就ては別項の野口石巻測候所長の御調査がある。又更に廣範圍に亙る傳播状況に關する調査は次の機會に讓ることとする。

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地図 第一圖 三陸津浪の傳播

津浪發生の機構に關する考察 今囘の津浪に關する種々の報告を綜合すると大體に於て
一、最初に海水が干退したこと
二、大きな浪は三囘乃至四囘位
襲來してゐるが第二囘の浪 が最も高かつた等の事柄は一般に認められるやうである。
津浪獲生の或る一つの場合に就ては大分前に(2)佐野、長谷川兩氏のなされた研究がある。簡單の爲に今海底を限りなく擴つた平面とし海の深さをhとする。
海底の圓形の地域が突然陷落したとし其の陷落の體積をαとする。陷落が起つてからの時間をt、陷落地域の中心から水平距離rの地點に於ける海面の平常の位置からの高まりをη0とするとη0は(*数式で表はされる。此處にgは矢張り重力の加速度である。
r=150粁 h=2100米 の場合に就て、負號も入れて積分の價を兩氏が計算された値を第二圖に示す、其の點に於ける浪の高さは時と共に此の圖に比例して變化する譯である。之から斯樣な場合には津浪の最初に水位が下る、二番目の山が最も高い、其の後は振幅が段々減衰して行くと云ふ結果が得られてゐる。
又(3)G.Greenは切り口が矩形で而かも幅Bと深さHとが少しづつ變化してゐる小さな直水道を浪が進むと、浪の高さηは其處の幅の平方根に逆比例し、深さの四乗根に逆比例する、即ちAを常數とすると(*数式)であつて、水道が淺くなれぱなる程浪は高くなり、幅が狭くなれば浪は又づつと高くなる。其の後(4)長岡博士は切り口が矩形でない時にはHは切り口の平均の深さを用ゐてよい事を示され、(5)高谷氏は幅や深さの變化がそんなに小さくない場合を研究されてゐる。
さて今囘の地震の震央は岩手縣釜石灣、吉濱灣等の附近海岸の東方約二百四十粁の沖合に當り、震源の深さは極めて淺いとされてゐる。而して其邊の海深は七千米前後である。
今極簡單に津浪は海底の震源に於ける地殻變動に依つて生じたとする。又海の深さも平均を取つて假に二千八百米の一樣な深さとし、海底の震源地域で半徑四十粁の地域が突然三・八米丈(或は之と等しい丈の體積)陷落したとする。前記佐野、長谷川兩氏の計算の結果を應用すると震源から二百粁の所では海面は最高三十一糎位上昇する事になる。所で之には海岸に近づくにつれ海が淺くなる爲の影響を考へに入れてない。此の補正は困難であるから此處では假に浪の高さは海の深さの四乗根に逆比例すると假定すると前記海岸近くの水深百米の外洋では浪の高さは約七十二糎となる。
次に之が灣に入つて如何になるかを考へて見やう。丁度震央の向にV字形に開口してゐる吉濱灣を例に取つて考へる。第三圖に示す樣に吉濱灣は灣口附近の水深が丁度百米位となつてゐて其の幅は約八粁である。溝の奥部で水深が平均十米の邊の幅を一・五粁とし随分亂暴ではあるがGreenの理論が用ひられるとすると灣奥部の十米位の海深の所では浪の高さ約三・○米となる。實地踏査に依ると灣の奥部の山腹には七・五米乃至九米位の高さ迄浪の痕が淺つてゐるので、溝の奥部の上に述べた地點附近で三・○米と云ふのと少くともそんなに桁違のものではない。
即極大ざつぱに云へば震源で半徑四十粁の圓形地域ならば約四米、半徑二十粁なら十六米位、半徑六十粁ならぱ二米近く突然陷落したとすると或は今囘位の程度の津浪の襲來するのを説明出來るかも知れない。
今假りに半徑四十粁の圓形地域が四米餘も陷落したとすると大變な地殻變動で一寸想像出來ないと考ヘられるか知れないから參考迄に大正十二年の關東大地震の場合と比較して見やう。
關東大地震前後の水準測量から考へると隆起又は陷落の地域は關東地方南半の殆んど全部に亘つてゐる。隆起した地域丈見ても房總半島の大部分から神奈川縣の全般に亙り、数十糎から二米近く上昇してゐる。假に海底も陸地と同樣であるとすると其の地域の半径は見方によつては五六十粁にもなる、之に其以外の陷落地域をも加へると土地の總變動量は莫大なもので、上に今囘の津浪の發生地域に於て想像した量と同じ桁位のものである樣である、しかも今囘の地震の規模は關東大地震より大きいか少くとも同程度のものである事は確かである樣であるから、關東大地震の際と同じ或は其の數倍位の地殻變動が今囘の震源地域で起つたとしても全く無理のことではない樣である。
即だうやら今囘の地震の震源地域の海底で、上に述べた位の陷落が起つたとすると或は今囘位の津浪の起るのも説明出來さうである。但し始めから屡々斷つてある樣に随分複雜な問題を極めて粗雜な方法で取扱つており、第一海底に果して陷落が起つたかどうかさへよくは分らない以上、上に述べたのは所謂かうも云ヘると云つた類のほんの一つの試みに過ぎないものである。其の眞の機構は將來種々の方面からの研究の結果始めて明かにされることである。
(1)本多 測候時報 第四巻第九號
(2)佐野、長谷川 中央氣象臺歐文報告第二巻第三號
(3)G.Green Mathematical Papers
(4)長岡 數物記事第一巻一二六頁
(5)高谷 中央氣象臺歐文彙報第六巻三十四七頁

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陷落地域の中心から水平距離rの地點に於ける海面の平常の位置からの高まりを示す数式
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第二圖 積分の價を兩氏が計算された値
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浪の高さηを示す数式
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地図 第三圖 吉濱灣

牡鹿半島は沈降しつつありや 鷺坂清信

昭和八年三月三日の地震に伴ふ大津浪の跡を踏査する際、各所に於いて其の地の老人は自家の浸水の高さよりして、今囘の津浪が明治二十九年のものに比して高きことを證言せり。然るに著者の測定した浪の高さを明治二十九年の津浪に就き伊木常誠氏の測定した値に比較するに殆んど同一なる場合が多い、然れば以上三者の測定値が正確なりとすれば家屋の浸水の差は土地の沈降に依るものと考へざるを得ない。又本吉郡十三濱村大指の遠藤氏の語る處に依れば「先代の屋敷地は此處であつたが斯くの如く波打ちぎわとなつて居るのは正に此の敷地の岩石が沈降したので昔日はもつと高かつたのだと老人達は言つて居る」との事である。
次に著者は此の沈降の傾向を示すに先だちて此の半島に關し地質學上の論を聞くこととする。即ち東北日本外帶山脈の北半をなせる北上山脈は南は牡鹿半島に終るが、元來此の山脈は南なる阿武隅山脈と蓮なり、外帶山派をなし居たるものなりしも仙臺灣の陷沒によりて其の交渉を斷たれたるものなりといふ。
而して北上山脈の南端の山脊は此の沈降により水準面を高め、海水は深く谷に浸入し、此の際山嶽の支脈多きため多くの灣を形成せり之牡鹿半島の成因にして今日尚其の沈降が繼續しつつありや否やが間題である。
今囘著者の測定せる津浪の高さ、明治二十九年の津浪につき伊木常誠氏の測定せるもの、夫れ等の差及び各地に於ける家屋の浸水の高さの差等を表示すれば次の如くである。


前表の「差」の欄の符號は今囘の津浪が明治二十九年のものに比して高かつた場合之をプラスとしたものである。此のプラスのみの合計は二十六となり、マイナスのみの合計は二十四となる此の代數的和のプラス二を觀測囘數二十六で割れば「十○・○八」となり約○・一尺だけ平均に於いて今囘の津浪が高かつた事になる。實際之は勿論誤差の範圍である。故に今囘の津浪は前囘のものと平均に於いて全く同じ高さである、(但し岩手縣の沿岸では今囘の津浪の高さは明治二十九年のものに比較すれば甚だ小さく約三分の一の高さであるといふ)。
然るに實地踏査の際、著者は各所に於いて、今囘の津浪が前囘のものに比して高きことを聞いた、之は其の土地に永住する老人が自家の床上幾尺か浸水した高さの差を以つて論明するもので相當信用が置けるものであると思ふ。前表の「家屋の浸水の差」とあるは此の聽取した値である、此の平均は「十一・九尺」である。プラスは今囘の浸水の高きことを示す。
次に土地の沈降を考察すに、例へば荻濱では今囘の津浪は前囘に比して一尺低い、然るに家屋浸水から見れば二尺高い、故に土地の沈降は三尺といふ事になる。前表の「土地の沈降」の欄は斯くの如くして得た値であつて、負號は沈降を示す。
結尾、以上の材料では土地の沈降を確證する譯には行かない然れども著者の津浪の高さの測定値と明治二十九年の際、伊木常誠氏の測定したるものと大體同一なるに、家屋の浸水が今囘の方が高いといふ事を各所で聞いた、而して今囘の方が低いといふ箇所は極めて稀である。然れば此の結果は少なくとも牡鹿半島の沈降説を支持する一資料となるであらう。
尚石川氏の踏査報告中「陸地沈降現象」の欄に次の事が掲げてある「宮城縣本吉郡大島村西海岸は次第に沈降し、此の海岸の村道は現今迄八十年間に既に三囘陸地の方に改修してゐる、
而して以前の道路は枕降のため交通不能となり、現在の道路との高さの差は約二米である。
尚此の間題の解決は今後の精密なる測量の結果に依らねぱならない事は勿論である。

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津浪の高さの表(尺)

三陸沖強震の習性 石川高見

一、本邦附近の地震發生の頻度

に就てみれば比較的静謐な地方と之に反して平素頻繁に活動する地方とがある。而して地震が平素に發する地方、所謂地震帶が或る時期には著しく活動を續け又ある時には然らざる場合とがある。
斯かる地震活動に就ての此後の消長や週期如何は未だ理解し難きところである。
最近の研究によれば地震の震源運動の機巧が同一地方に於ては常に大體相等しい模樣でなさるる樣である、隨つてある地方へ地震を發起せしむる或る力は何時も同樣な向き或は状況であらうとは想像し得られる、それ故に地理又は地形と地震帶とが何等かの相關がある可きで古來其に就ての多くの研究がなされた。
さて三陸沖は地理的にも地震を發する地方であると謂はれてゐる叉事實タスカロラ海溝附近からは屡々著大の地震を發し本邦大地震帶の一つである。
而して此海溝附近より發する地震は時に津浪を伴ふの特性をも有し加ふるに數多き三陸沿岸の諸港灣では津浪波高を増大する、爲に三陸沿岸にては津浪の災害を被ること一再でなく、有史以來數囘に達してゐる。
其等の津浪による災害の状態が古も今も殆んどいつも同樣な轍を踏んでゐる樣である。この事は前述の理由からも注目す可き事實であり、實際問題として此後又も若し同じ災害をば幾度も繰返すことありとすれば眞に文明人の恥とす可きであらう。
今史上に記載され又は口碑に傳ヘられたる三陸津浪の發生頻度に關し次に記載する。


年代
*(1)貞觀十一年五月二十六日(西暦八六九年七月十三日)
陸奥地方大に震い海嘯を生ず溺死千名許
(2)天正十三年十一月二十九日(一五八六年一月十八日)
震央は三陸沖に非ざるも陸中地方にまで津浪あり
*(3)慶長十六年十月二十八日(一六一一年十二月二日)
伊逹政宗領溺死千七百八十三人南部津輕領人馬三百餘死す
*(4)元和二年七月二十八日(一六一六年九月九日)陸中大津浪
*(5)慶安四年(一六五一年)陸中亘理郡海嘯襲來す
*(6)延寳五年三月十二日(一六七七年四月十三日)
陸中南部領地震津浪あり宮古、鍬ケ崎、大土浦家屋流失す
(7)貞享四年九月十七日(一六八七年)(或は貞享三年八月の遠州地方の地震か)陸前亘理郡に海嘯襲來す
(8)元祿二年(一六八九年)陸中海岸に津浪襲來す
*(9)元祿九年十一月朔日(一六九六年)
牡鹿郡にて船三百隻流失溺死多し
(10)元祿十六年十一月二十三日(一七○三年十二月三十一日)
陸中海岸津浪、武藏、相模、安房、上總地方地震
(11)享保十六年九月七日(一七三一年十月七日)
岩代桑折領地震、小津浪は陸中海岸を襲ふも民家人畜被害なし
(12)寳暦元年四月二十六日(一七五一年五月二十一日)
越後國地震 小津浪は陸中海岸に製來す
(13)安政三年七月二十三日(一八五六年八月二十三日)
震源は北海道南東方沖、陸中地方小津浪襲來す
(14)明治元年六月(一八六七年)本吉郡地方小津浪
*(15)明治二十九年(一八九六年)六月十五日
三陸沿岸大津浪、死者二萬千九百五十三人
負傷者四千三百九十八人流失家屋一萬三百七十棟
(16)明治三十年(一八九七年)二月二十日
仙臺地方地震、氣仙沼沿岸海水三尺上昇
(17)大正四年(一九一五年)十一月一日
三陸沖地震、志津川灣に小津浪波高三尺程
*(18)(昭)和八年(一九三三一牛)三月三日
三陸沿岸及び北海道の一部
死者三千○八人傷者千百五十二人


以上の如く有史以來現今まで約千七十年間に實に十八囘の津浪に襲はれてゐる、斯の内には被害全くなき小津浪も含まれて居る。而して是等津浪の發生間隔年數を求めてみると次の通り、になる。
二十六年、五年、三十五年、二十六年、十年、二年、七年、二十七年
二十年、百〇五年、十一年、二十九年、八ケ月、十九年、十七年
是れによれば長き間隔年數は百五年、短き發生間隔は二年更に短かきは八ヶ月にて續きて發現する場合もある。
次に三陸地方に被害大であつた大津浪を前表より求むれば八囘程となり其發現間隔を假に求めてみれば
五年、三十五年、二十六年、二十年、二百年、三十七年
となる。
隨て今後も同樣の發生週期であるとすれば三陸沿岸は右の樣な年限にて再び大津浪が來るかも知れないとの假定勘定となる。

二、近年に於ける三陸沖地震

 前述の樣に三陸沖は平素に地震發生頻度の大なる處である、今最近の發生囘數を掲げて見ると次の通りとなる(顯著及び稍顯著地震の囘数)
大正元年十八囘 大正二年九囘 大正三年十二囘
大正四年二十八囘 大正五年二十一囘 大正六年十二囘
大正七年八囘 大正八年十一囘 大正九年七囘
大正十年七囘 大正十一年十一囘 大正十二年九囘
大正十三年二囘 大正十四年五囘 昭和元年四囘
昭利二年九囘 昭和三年六囘 昭和四年四囘
昭和五年三囘 昭和六年五囘 昭和七年十囘
以上によれば二十一ヶ年間に二百一囘の顯著又は稍顯著地震を發してゐる、是れにより單に其年平均を算ふれば九・六囘、月平均は○・八囘の勘定となる。
右の内大正四年十一月一日午後四時五十分の地震は震央東徑一四二度七、北緯三八度六にあり、宮城縣志津川灣に小津浪を伴ひ波高三尺程に達してゐる、下圖に是等年々の地震囘数を模圖にて示してみる。
以上の樣に三陸沖に發した稍顯著、顯著地震の發生囘數は年平均九・六となつてゐる、然るに今囘の強震の直前昭和八年一月に於て三陸沖には顯著地震一囘稍顯著地震五囘となり、加ふるに小區域地震は六囘を發生した。又一月中にて東北乃至三陸沖方面にて有感覺地震合計十六囘、無感覺地震合計百四十一囘の多数に達した。
而して特に此の多數の無感覺地震の震央は殆んど大部が今囘の強震々央附近にあるを見れば如何に多くの前驅的地震が頻發したかを知るに充分である。
又二月中にては稍顯著一囘、小區域二囘、有感覺地震合計七囘無感覺三十二囘を發現してゐる。

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是等年々の地震囘数

三、習性

著大の地震發生に際して夫れ夫れ其習性がある、
(一)著しき前震を伴ふもの
(二)前驅的地震なきもの
との二種存在する。
(二)の場合は通常であるが(一)の部分に屬する最近の地震には次のものがある。
1.三陸沖地震 {(明治二十九年の津浪地震)(明治四十五年六月八日強震)(大正四年十一月一日強震)(昭和八年三月三日強震)}等總で著しき前震あり
2.明治二十九年八月三十一日陸羽大地震
數日前より微震弱震程度の前震あり
3.昭和五年十一月二十六日北伊豆烈震
伊東附近にては無数の無覺地震及有感地震を生ず
前震を伴ふものと然らざるものとが、何故に存在するや其理由を盡すことは困難であるが兎も角夫れ夫れの地震に各習性の存在があらう。
而して三陸沖より發し大津浪を伴ふ樣な大地震に際しては著しき前驅的活動を伴ふの習性あるは確實らしい。明治二十九年の大津浪に於ても其數日前から沖合にて地鳴又は有感覺地震が日々數囘宛あつた、此事實は三陸沿岸地方の老人が一般に今日尚記憶の明かなことである。當時今日の樣な地震觀測設備があつたなら多くの前驅的地震を驗測した事勿論であらう。
明治四十五年六月八日三陸沿岸に多少の被害を生じ又沿岸灣内には微小津浪を生じたる陸中沖強震に際しても多くの前震があつた。
更に大正四年十一月一日、宮城縣志津川灣に小津浪を生じた三陸沖地震に際しても多くの前震を伴ふてゐる。即ち同年十月中には顯著地震五囘、稍顯著地震五囘、小區域地震五囘を發現してゐる。
果して三陸沖の大震が前述の樣に常に前驅的地震を伴ふの習性ありとすれば、此後沿岸地方に於て平常と異る地震囘数を驗測する場合は警戒を要す可きの結論に達する。
而して三陸沿岸に津浪を生じ又は地震被害を生ずる程度の三陸沖地震が前震がなしに生じた事は未だ一つもない。又三陸沖に地震頻發して後強震が全く發しなかつたと云ふ例は今日迄な
かつた。

三陸沖強震に依る地震縱波の速度に就て 竹花峰夫

本邦に於ける地震波速度に就ては既に北伊豆地震北丹後地震或は小國地震等に就て本多鷺坂兩氏が計算されてゐる。今囘の三陸沖強震も種々な調査から推定して震源は極めて淺いと考ヘて差支へない、由つて著者は之の地震の走時曲線から特に縱波の速度を算出することにする。
本地震の走時曲線は觀測結果の報文に示す如くであつて之から讀み取つたP波の毎百粁の震央距離(△)に對する走時をTpで表はす。S波の走時はTsで表はす一般に本地震の地震計記象紙に現れたS相は極めて不明瞭で從つてS或はSPの走時曲線も相當の不精確を免れない由つて本文ではP波の速度にのみ就て論することにする。
斯くの如く震源の深さが零で且つ地震波の速度が深さと共に連續的に増加すると假定した場合のべートマンウイーヘルトヘルグロツ等によつて誘導された、震央距離と其處に達する震波の最深點との關係式は
(* (1)式 )
(1)式を計算に便利な樣に書きかへると
(* (2)式 )
第一圖に於てOは地球の中心、EMBは地表面、震源Eから觀測所B迄の震央距離を△rとして之に對する震波
の軌道をEDBとし其の最深點と地球の中心との距離をrmすると(2) 式に於けるqは
(* (3)式 )
で求められる。(*数式)はB點(射出點)に於ける値であつて(*数式)は任意の震央距離に對する値である。


走時曲線から讀取つた(*数式)の値は第一表に表示する如くである(3)式からqの値が求められるからプラニメーターに依つて面積積分をすることによつて(*数式)の値を求めることが出來る。
但しこの値を算出する際に本地震の走時は震央が海中にある爲に二百粁以内の走時曲線が求められない、從つて鷺坂氏が小國地震から求めたP波の走時を借用して算出したものである。かくて(*数式)の値から最深點の深さ(*数式)は容易に求められる。
震波線の最深點に於ける震波速度Vmと其の震波線の射出點に於ける見掛の速度(*数式)との關係は
(* (4)式 )
から求められる。如くして求めたP波の速度を圖示すると第二圖Aの如くであつてA曲線は横軸に最深點の深さを取り縱軸に速度を取つたもので即ち深さに對する速度の變化を表はすものであつて、波線で畫いた曲線は和逹・沖兩氏が種々の地震を平均して求められた速度であつて比較のため圖示した、尚本多技師が北伊豆地震から求められた位とも割合に一致してゐることが認められた。第二圖Bの曲線は縱軸に最深點の深さを取り横
軸に震央距離を取つたものである。
之の圖から讀み取つた各深さに對するP波の速度分布を表示すると第二表の如くなる。


文献
一、本多弘吉 驗震時報 第五巻第一號
一、鷺坂清信 同 第六巻第一號
一、和達清夫・沖住雄 氣象集誌(昭和八年一月)

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(1)震央距離と其處に達する震波の最深點との關係式
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(2)(1)式を計算に便利な樣に書きかへた式
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第一圖 地球の中心、地表面、震源から觀測所迄の震央距離
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(3)(2)式に於けるqの式
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第一表(*印は小國地震に依る)
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(4)式
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第二圖 縱軸に最深點の深さを取り横軸に震央距離を取つたもの
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第二表 各深さに於ける縱波速度

三陸沖強震の余震 本多弘吉 竹花峰夫

三月三日二時三十一分頃の三陸沖強震は震源の深さ極めて淺く、其の規模は大正十二年の關東大地震を凌ぐ程であつたので之に從つて起つた餘震囘數は實に多く三月中の合計は千二百七十囘、四月中にも二百四十八囘に達してゐる。今三・四兩月中に於ける日別餘震囘數を表示すると左表の如くである。又三月中に於ける無感覺餘震の日別囘数を圖示すると第一圖の如くであつて、之等から餘震囘数は大體として順當に減衰して行つて
ゐる事が窺へる。
三.四兩月中に於ける小區域地震以上の餘震の規模、震央位置及ひ各測候所管内觀測所に於ける震度を表示すると左の如くである。


次に多數の餘震のうち、特に規模の大きい地震である顯著地震及び稍顯著地震に就て、稍詳細に其の發震機構等を調査しやう。此の爲に之等地震の宮古、福島、仙臺、盛岡等に於ける初動驗測結果を表示すると左の如くである。


之等地震の震央位置を地圖上に示すと左圖の如く三陸東方沖合可なり廣範圍に及んでゐる。震央位置の傍に記入した數字は上表中の地震番號である。
試みに盛岡に於ける初動が密波即震央と逆に向いてゐる時には+、疎波即震央に向いてゐる時には−とすると未詳のもの數箇及び二三の例外を除いて他はすべて本震と同じく+印となつてゐる。
更に之等四測候所に於ける初動を初動のヴクトルの端の點で示すと左下及次頁の圖の如く、初動の驗測のあるものは二三の例外を除き他はすべて本震と同じく密波となつてゐる。即ち餘震の大多數は本震と同じ機構で起つてゐると云へるのであつて、之は(1)本震と餘震の發震機構は同じである、又は同一範圍の地域に起る地震の機構は大體同一であると云ふ事を示す有力な一證左、となつてゐる。
又餘震の著しいものに就て束京に於ける記象は相互に殆んど同一の記象型を示しており、之又此等地震の發震機構の同一である事を示すものである。
(1)本多、驗震時報 第五巻第二號 第六巻第一號

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三・四兩月中に於ける日別餘震囘數
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第一圖 三月中に於ける無感覺餘震の日別囘数
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三・四兩月中に於ける小區域地震以上の餘震の規模、震央位置及ひ各測候所管内觀測所に於ける震度
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地震の宮古、福島、仙臺、盛岡等に於ける初動驗測結果
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地図 第二圖 本震及餘震(三,四月中)震央圖
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第三圖ノ一 四測候所に於ける初動を初動のヴクトルの端の點で示す
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第三圖ノ二 四測候所に於ける初動を初動のヴクトルの端の點で示す

驗潮儀に依る三陸津浪の調査報告 關口鯉吉 中野猿人

本年三月三日午前二時三十二分頃、三陸沖の深海底に發した強震に際し釧路、鮎川、銚子、富崎(布良)、横濱、清水(静岡縣)等の各地に於ては驗潮記象に津浪の現象を現はした。又潮岬、鳥羽、清水(高知縣)、油津等の各地の驗潮記象にも多少津浪の現象を現はして居るが、灣の副振動に蔽はれて、其の初動の時刻並びに方向等を正しく判斷する事が困難である。
今各測候所の勞を煩はして蒐集した資料により、各地に到達した津浪波動の起時、週期、振幅等に就いて要點を述ぶれば次の如くである。(此處では單に現象の記述に止め此れに關する論議は次の機會にし度いと思ふ。尚ほ時計の進み後れの爲め、所に依つては起時に数分の誤差が有るかも知れぬが、資料を重んじて、此處には其の儘を掲示することにした。)

釧路

 發震の約二十八分後、、三時○分頃十糎内外の緩昇を見たが、三時十五分第一極高に達するや、俄然急降し、三時三十分第一極低に達した。斯くて正午に到る迄百糎内外の全振幅を以て激しい振動を行つたが、夫れより後は五十糎内外の全振幅を以て振動し、翌四日午前八時頃に到る迄明かに津浪の餘波を觀取することが出來た。昇降曲線は不規則であるが、初め約十五分の週期と約二十分の週期の波動が夥しく現はれ、三日正午以後には約三十分の週期のものが數多く現はれた、尚ほ別圖は其の驗潮記象の一部を示すものである。

北上月濱

 發震の約四十六分後、三時十八分頃十五糎内外の上昇を見たが、三時二十三分第一極高に達するや、俄然急降を始め、三時三十分第一極低に達した。斯くて同日午前九時に到る迄百−八十糎の全振幅を以て激しい昇降を行つたが、其れより後は五十糎内外の全振幅を以て振動を續け、正午に到るも尚ほ顯著な津浪の現象を示した。昇降曲線は概して不規則であるが約十分の週期と約二十分の週期の振動が數多く現はれた。別圖は其の験潮記象の一部を示すものである。


北上川河口 發震後約四十三分、三時十五分頃十糎内外の媛昇を見たが、三時四十八分第一極高に達するや、急激な下降を始め、三時五十九分第一極低に達した。其の後週期約十分全振幅二十−四十糎の比較的小さな振動を六−七囘續けたが、五時○分再び八十糎の急降を行ひ、五時十二分第二の大極低(別表中VIII)に達した、斯くて午前八時頃に到る迄百糎内外の全振幅を以て激しい振動を行ひ、正午近くに到るも尚ほ全振幅五十糎内外の顯著な昇降を見た。昇降曲線は概して不規則であるが、週期約十分のものと約十五分のものとが数多く現はれた。尚ほ此の外に約六十−七十分の週期にて、振幅を交互に増減し「稔り」の如き現象を呈した。別圖は其の驗潮記象の一部を示すものである。

鮎川

 發震の約三十三分後、三時五分頃五糎内外の緩昇を見たが、三時十二分第一極高に達するや、急激な下降を始め、三時十七分第一極低に達した。斯くて午前八時頃に到る迄屡々全振幅五十−百糎の激しい振動を行つて居たが、其の後五十糎内外の全振幅を以て昇降を續け、翌四日午前五時頃に到るも尚ほ顯著な津浪の現象を呈した。昇降曲線は矢張り不規則であるが、週期は緬七−八分のものと約十四−十五分のものとが多數現はれた。尚ほ其の驗潮記象の一部を示せば別圖の如くである。

鹽釜港尾島

 發震後約六十分、三時四十分頃十糎内外の比較的顯著な上昇を行ひ、四時五分頃第一極高に達し、續いて十五糎内外の急降を行つて第一極低に達した。其の後週期約二十五−四十分全振幅三十糎内外の比較的規則正しい振動を十數囘續けたが、午後三時頃より振動は多少不規則となり、四日午前零時頃りよは振幅も次第に減少して行つた。併し津浪の餘波は四日の夜半に到る迄も多少觀取することが出來る。週期は三十分内外のものが數多く現はれた。別圖は其の檢潮記象の一部を示したものである。

鹽釜港花淵

 験潮記象寫しから推せば發震後約六十分、三時三十分頃十糎内外の緩昇を行つたが續いて百五十糎内外の急降を行ひ三時五十分頃第一極低に達すると共に二百八十糎内外の急昇を行ひ四時頃著しき大極高(別表中II)に達した。續いて二百糎内外の急降を行ひ四時二十分頃第二極低に達した。斯くて午後二時頃に到る迄全振幅百糎内外、週期三十−四十分位の振動が行はれたが、其れより幾分振幅を減小し、且つ昇降も幾分不規則となり全振幅は七十八十糎となつたが、更に午後五時頃からは全振幅三十糎内外に減小した。然るに午後六時三十分頃より再び増幅し全振幅五十糎内外週期約三十分の可也規則正しい振動を行ひ午後十一時頃より、次第に減糎すると共に週期が多少長くなり、且つ昇降が幾分不規則となり四日午前八時頃からは急に減衰して行つた樣である。尚ほ檢潮記象の一部を示せば別圖の如くである(註)。

氣仙沼灣小々汐

 發震後約六十分、三時三十分頃二十糎内外の比較的急激な上昇を行ひ三時四十分頃第一極高に達するや俄然百二十糎内外の急降を行ひ、三時五十分頃第一極低に達した。
斯くて百五十−二百糎の全振幅を以て數囘の昇降を行ひ四時二十分頃一旦減幅して全振幅五十糎内外となつたが五時三十分頃から再び急に増幅し百糎以上の全振幅に達し、六時二十分頃百八十糎内外の急降と共に不幸にして器械は破損してしまつた。
昇降曲線は不規則であるが週期は約十分内外のものが多く現はれて居る樣である。尚ほ記象の一部を示せば別圖の如くである。

函館

 初動の時刻並びに初相は餘り明かではないが、發震後約八十分、三時五十分頃十八糎内外の下降を行ひ四時五分頃第一極低(別表中I)に達し續いて五十糎内外の急昇を行ひ四時二十分頃顯著な極高(別表中II)に達した。斯くて午前六時頃に到る迄全振幅五十糎内外週期約二十−三十分の振動を數囘續けたが其れより振幅を幾分増加し最大全振幅八十糎近くに達した。午前九時頃より一且振幅を減じたが同十一時頃より再び増幅して全振幅五十糎内外の振動を二三囘行ひ、午後零時三十分より後は全振幅二十−三十糎の振動を永く繼續した。津浪の餘波は同日夜半に到るも尚ほ觀取する事が出來る。尚ほ檢潮記象の一部を示せば別圖の如くである。

那珂川河口祝町

 發震當時も五糎内外の副振動が起つて居り津浪の初動の時刻並びに初相は餘り鮮明ではないが、發震の約
三十分後午前三時頃三糎内外の緩昇を行つた後約二十糎の急降を行ひ三時十七分頃第一極低に達した。續いて約三十糎の急昇を行ひ三時二十分頃著しい極高(別表中II)に達した。斯くて午前九時頃に到る迄屡々全振幅四十糎以上に達し最大全振幅は五十糎以上に達して居る。其れより後は次第に振幅を減小して行つたが津浪の餘波は翌朝三時頃に到る迄も認められる樣である。週期は約十分位のものが多數現はれて居る。尚ほ驗潮記象の一部を示せば別圖の通りである。

那珂川小川

 河口の祝町と同樣初動の時刻並に初相は餘り鮮明ではないが發震後約七十分、三時四十分頃五糎内外の緩昇を行ひ同五十分第一極高に達し續いて二十糎内外の急降を行ひ四時三分頃第一極低に達した。續いて三十糎内外の急昇を行ひ、四時十分頃第二極高に達して居る。斯くて午前十時頃に到る迄は屡々三十糎内外の全振幅を以て振動を行つたが、其れより次第に減衰して行つた。然し全振幅十糎内外の振動は午後十時頃に到るも尚ほ屡々現はれて居る。而して津浪の餘波は翌朝四時頃迄も認められる樣である。週期は矢張り十分内外のものが多數現はれて居る。尚ほ驗潮記象の一部を示せば別圖の如くである。

窒蘭

 發震後約九十分、午前四時頃十糎内外の可也目立つた下降をなし約五分の後第一極低(別表中I')に達し、續いて十糎内外の上昇を行つて四時十五分頃極高(別表中II)に達した。
斯くて次第に振幅を増加し、午前七時頃には屡々全振幅三十糎近くに達した。全振幅十糎内外の昇降は正午近くに到る迄屡々現はれて居る。昇降曲線は不規則であるが十−二十分位の週期の振動が多數現はれて居る。

根室

 津浪初動の時刻並びに初相は餘り明かではないが發震後約六十分、三時三十分頃五糎内外の緩昇の後約十糎の下降を行ひ三時四十分頃極低に達し、續いて約十糎の上昇を行ひ三時五十分頃極高(別表中II)に達した。斯くて次第に振幅を増加し、午前六時−十時頃には屡々全振幅三十糎近くに達したが午後四時頃より次第に消滅して行つた。週期は十分内外のものが多數現はれて居る。尚ほ驗潮記象の一部を示せば別圖の如くである。

蕪島(青森縣)

 發震後約三十五分、三時七分頃約二十糎の可なり急激な上昇を行つたが、約五分の後三時十二分頃に至り俄
然百五十糎内外の急降を行ひ約十分の後顯著な第一極低に達した。續いて百七十糎内外の急昇を行ひ、約三分の後三時二十五分頃顯著な第二極高に達した。斯くて正午近くに到る迄屡々全振幅二百糎迄達する激しき振動を行ひ、最大全振幅は實に三百糎以上に達した。其れより後は漸次振幅を減小して行つたが、翌四日午前に到るも尚ほ顯著な津浪の餘波を觀取する事が出來る。昇降線曲線は不規則であるが週期十分内外のもの及び二十分内外のものが多數現はれて居る。尚ほ驗潮記象の一部を示せば別圖の如くである。

小名濱

 小名濱に於ては舊臘の暴風雨のため驗潮儀流失し今囘の津浪襲來に際しては驗潮記象を得ることが出來なかつたが、量水標に依る毎時觀測の結果は次表の如くである(尚ほ從來同所の最高潮位記録は一、七一米、最低潮位記録は負○、四○米である)。

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小名濱 量水標に依る毎時觀測の結果

銚子

發震後約三十七分、三時九分頃五糎内外の緩昇を見たが、三時二十二分急降し三時二十九分第一極低に達した。斯くて午前九時頃に到る迄全振幅二十糎内外の昇降を行つた。昇降曲線は複雑であるが、約十分の週期のもの及び二十分の週期のものが多數現はれた。尚ほ驗潮記象の一部を示せば別圖の如く
である。

富崎(布良)

 發震後約五十二分、三時二十四分碩十五糎内外の緩昇を見たが、三時三十六分第一極高に達するや急降を行ひ三時四十六分顯著な第一極低に達した。斯くて十時近くに到る迄全振幅三十−五十糎の昇降を續けて居たが、九時五十二分頃より再び振幅を増大し、屡々全振幅百糎内外の昇降を行ひ顯著な津浪の現象を現はした 昇降曲線は可なり複雜で、初めは約五分の週期を有する小振動の外に約二十−二十五分の週期で顯著な昇降を行つたが、六時頃より約五分の週期の振動が漸次卓越した。尚ほ驗潮記象の一部を示ぜば別圖の如くである。

横濱

 發震より約百十三分の後、四時二十五分頃二糎内外の僅かな緩降を見たが、約五分の後十糎内外の顯著な上昇を見、五時十三分頃第一極高に達し、續いて十五糎内外の急降を行ひ五時三十五分頃顯著な第一極低に達した。昇降曲線は規則正しく週期は約五十−六十分である。斯くて五−六囘の昇降の後九時頃より次第に消滅したが、振幅二−三糎の小振動(週期約五十分)は五日朝に到るも尚ほ行はれた。驗潮記象の一部を示せば別圖の如くである。

内浦

 初動の時刻並びに方向は正確に判斷する事が困難であるが、四時十分頃一−二糎の僅かの緩昇の後十糎内外の顯著な下降を以て始まつて居る樣である。斯くて四時二十分頃第一極低に達し、更に十五糎内外の急昇を行ひ四時三十五分頃顯著な極高に達した。初めは昇降が不規則で約二十分内外の週期の振動が多く現はれたが、正午頃からは昇降が漸次規則正しくなると共に振幅も著しく増大し全振幅三十糎以上に達した。又約二十分内外の週期の外に約十分内外の週期が夥しく現はれた。此の顯著な振動は三日午後十一時三十分頃迄續いたが其れより振動は漸次衰へて行つた。

清水(静岡縣)

 發震後約八十八分、四時○分頃三−四糎の僅かな緩降を見たが、約五分の後十五糎内外の顯著な上昇を見、四時二十五分第一極高に達した。續いて十五糎内外の急降を行ひ四時五十分顯著な第一極低(別表中I')に達した。斯くて正午頃に到る迄は週期五十分内外最大全振幅十五糎内外の比較的規則正しい昇降が行はれたが、正午頃より次第に不規則となり、且つ振幅も減少したが、翌四日午前零時頃より週期約十分最大全振幅十糎内外の比較的規則正しい昇降が再び現はれ同曉五時頃次第に消滅した。驗潮記象の一部を示せば別圖の如くであ
る。

父島

 父島に於ても驗潮記象に顯著な津浪の現象を現はした。發震後約百三分、四時十五分頃十二糎内外の比較的急激な下降を行ひ、四時二十三分頃第一極低に達するや六十五糎内外の急激な上昇を行ひ、四時三十二分頃著しい極高(別表中I)に達した。續いて百十糎内外の急降を行ひ、四時四十分頃第二極低に達した。斯くて午前六時頃に至る迄週期約二十分、全振幅約百−六十糎の比較的規則正しい振動を續けたが、其れより六−七分の週期の小振動が起ると共に全振幅は三十−四十糎位に減じた。然し午前十時頃より全振幅は再び五十−六十糎位に増加し、十一時頃より全振幅三十−四十糎にとなり、午後一時三十分頃より又全振幅五十−六十糎位に増加した。斯くて昇降曲線は一種の「捻り」の如き振動を示して居るが、午後三時頃からは全振幅二十−三十糎位に減じ三日夜半に到る迄全振幅二十糎内外の振動が續いた。週期は二十−二十五分のものと五分内外のものとが多數現はれて居る。尚ほ驗潮記象の一部を示せば別圖の如くである。

鳥羽

 鳥羽にても多少津浪の現象を現はしたが左程著しくは認められない。初動の時刻も不鮮明であるが、發震後約百十八分、四時三十分頃六−七糎の稍々目立つた上昇を以て始まつて居る樣である。最大波動は七時三十分頃に起つた全振幅十五糎内外の波で、週期は約二十分位のものと約十分位のものとが數多く現はれて居る。尚ほ驗潮記象の一部を示せば別圖の如くである。

勝浦(和歌山縣)

 發震當時も全振幅五糎内外の副振動があり、津浪の初動の時刻並びに方向は正確に判斷する事は困難であるが、發震の約百十三分の後、四時二十五分頃十三糎内外の可なり顯著な上昇を以て始まつて居る樣である。斯くて四時三十五分頃第一極高に達し、十五糎内外の下降を行つて四時四十七分頃第一極低に達した。此の全振幅十五糎内外の振動は其の後數囘の昇降と共に、漸次其の振幅を減じ行き、午前八時頃には全振幅五糎内外となつたが、九時頃より再び漸次振動は激しくなり、正午近くには全振幅二十糎近くに達した。此の振動も午後一時三十分頃は消滅して全振幅五糎足らずとなつたが、午後二時頃より全振幅約六−七糎となり、午後八時頃迄殆んど振幅を増減する事なく續いた。昇降曲線は非常に規則正しく週期は約二十−二十五分のものが數多く現はれて居る外、五時間内外の週期で其の振幅を交互に増減し一種の「稔り」の如き現象を呈して居る。尚ほ驗潮記象の一部を示せば別圖の如くである。

串本

 發震當時も全振幅十糎内外の副振動が行はれて居るため正確な初動の時刻は判斷し難いが、發震後約百十八分、四時三十分頃三十糎内外の稍々目立つ急昇を見、四時四十分頃第一極高に達し、續いて三十糎内外の急降を行ひ四時五十六分頃極低(別表中I')に達した。斯くて一種の「捻り」の如き振動を行ひつつ正午頃に到るも尚ほ顯著な昇降を見、全振幅は屡々四十糎以上に達した。昇降曲線は概して規則正しく週期は十分内外のものと二十−二十五分のものとが多數現はれた、尚ほ驗驗記象の一部を示せば別圖の如くである。

清水(高知縣)

 副振動が常に著しく發震當時も全振幅十糎内外の振動を行つて居るため、初動の時刻を正確に判斷することは困難であるが、發震後約百四十八分、五時○分頃二十糎内外の稍々目立つた急昇を見、五時十一分第一極高に達し、續いて二十五糎内外の急降を行ひ、五時二十五分頃極低(別表中I')に達した。斯くて八時頃に到る迄は週期約二十−二十五分全振幅二十糎内外の比較的規則正しい振動を行つて居たが、其れより週期約四−五分の小振動が多數現はれて不規則となり、全振幅も十五糎内外に減じたが、十時頃より再び週期二十−二十五分の波動が卓越すると共に振動は規則正しくなり、且つ振幅も著しく増大し、午後二時頃に至る迄屡々全振幅五十糎近くに達した。斯くて翌朝五時頃に到るも尚ほ顯著な津浪の餘波を認める事が出來た。尚ほ驗潮記象の一部を示せば別圖の如くである。

油津

 油津にても多少津浪の現象を現はして居るが左程著しくは認められない。初相並びに初動の時刻等は不明である。最大波動は三日十二時十分頃起つた全振幅三十五糎内外のもので、週期は十五分内外のものが數多く現はれて居る。尚ほ次に各驗潮記象の要點を表示すれば次表の如くである。
(註)
鹽釜港花淵の記象紙寫しは極大略を示したものであるから、精確な事は保留に附せらる可きである。

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各驗潮記象の要點

津浪の到達時刻に就いて 石巻測候所長 野口篤美

津浪の到達した時刻に就いては、同一部落で聽取したものでも人に依つて可なりの喰ひ違ひがあり、勿論正確と云ふわけには行かない、幸ひ本縣下には海洋氣象臺の鮎川檢潮所(第一圖)を始め、内務省鹽釜港修築事務所の花淵(第二圖)及び尾島檢潮所、(第三圖)北上川改修事務所の石巻(第四圖)及び十三濱村月濱檢潮所(第五圖)があり是等の記録は幸ひ全部完全に記象されてゐるから、これで測定した時間は勿論正確なわけである。只色々の原因に依つて自記紙にも時間に相當の喰ひ違ひはあるが、これも幸ひな事には各記象紙共大地震の跡を淺してゐるので、筆者はこの地震の痕跡を、二時三十二分と見做して時間測定の基礎とした。
そこで先づ長波速度の一般公式、v = √gh(但しvは傳播の速度、gは重力の加速度、hは海の深さ)を採用し、水路部發行の海圖その他の地圖に依つて海の深さを第一表の如く取り各深さの所に於けるの津浪傳播速度を計算して見た。
勿論震央に於ける浪の擾亂は、地震と同時に起つたものと假定した。而してハイゲンスの法則に從つて、震央(東經百四十四度七、北緯三十九度一) から一分置きの浪の等到達線作圖を試みた。即ち第六圖がその作圖で、×印は震央を示し、實線は浪の等到達線(數字は分を示す)、破線は海の深さ(數字は米を示す)を表はしたものである。第七圖は雄勝灣内第八圖は鮎川附近の津浪到達状況を作圖したもので、大體の模樣はこれで充分窺はれる事と思ふ。
潮流の状況は水路部發行の水路要報に依つて、日本近海の海流三月分全部と二月分の一部を圖示したもので潮の方向(圖上矢で示す)速度(矢の上の數字で單位○・○一粁/分)等をそれぞれ考慮して見たが、作圖上殆んど誤差の範圍内程度のものであつたから、本問題からはこれを省略した。


津浪の傳播速度は、勿論海の淺い所に來れば著しく減じて來るもので、灣内各部落の近海では、大抵は深さ十米内外のものであるから速度も平均秒速十米位のものとなつて來る。そこで津浪が灣口から海岸まで達するには大抵四、五分乃至十分を要し、而も地形上多くはすぐその後面に小丘を控えてゐるので部落民は灣口に津浪の襲來を見てからでも充分逃げあふせる事が出來る。例へば大谷部落では出漁準備中の漁夫が津浪を見てから村民に急報避難せしめたものであつて、同部落では一名の死者も出さなかつた。
偖て此の作圖の結果得たる津浪の到達所要時間と各檢潮自記紙から得た値とを比較して見ると、第二表の如くなり、この間僅少の喰ひ違ひはあるが、此の程度の相違ならば先づ一致したものと看做して差支ヘはあるまい。即ち言葉を換ヘて云へば、津浪の起つた場所は地震の起つた場所である事を立證するものである。假りに然らずして、一部の説の如く津浪の發現場所を東經百四十三度、北緯三十八度三分の地點なりとすれば、同樣な
作圖法の結果は同表で示す如く、平均約十一分餘の誤差を生じて來る。


更に此の作圖法に依つて得たる各地の津浪襲來時刻を北から順次列學して見ると第三表の如くなる。


即ち津浪が震央から海岸に達するまでの経過時間は金華山から此の本縣東海岸では地震後平均三十七分弱となる。而して之等の地方の住民から聽取した平均経過時間は二十九分弱であるが、聽取した方の時間が多少少なくなつて來るのは蓋し當然な事である。第二囘目の津浪の強かつた所が相當多い樣であるが何分夜分の事で輕微な初波は見逃し易く、而も東海岸に於ける津浪の最初の週期が十二、三分程度のものとするならば、八分内外の相違は見方に依つては寧ろ適當と看做す事が出來やう。
偖て以上の作圖から得らるる大體の結果を茲に要約して見ると


一、此の作圖に依つても、長波速度の一般公式(*数式)は實際に適用され得る事が立證出來る。
二、津浪の起つた場所は地震の起つた場所である。
三、金華山から北の本縣東岸部に於ては津浪襲來までの所要時間は、平均約三十七分弱であるから、今囘の津浪の速度は平均秒速百二十米乃至百三十米程度のものである。
四、津浪の傳播状況は内陸に近づくに從つて次第に海岸線と平行になり、灣内に於ては殆んど海深線の型に近くなる。
五、潮流の速度は津浪の速度に比して極めて小さく(一〇〇〇米の所でその二百分の一程度)殆んど作圖上誤差の範圍内程度のものである、灣内に於ける干滿潮流に就きても同樣である。
六、更に津浪の影の現象について一言述べるならば、勿論同程度の障害物に對しては、暴風雨時の激浪の如き波長の短い場合は影を生じ易いが、津浪の如き長波長の場合は影を生じ難いもので、例へば本吉郡波傳谷は、外洋に對してその前方海上に椿島を控へ、暴風雨時の安全地帶をなして漁船に對しての避難繋留場であるが今囘の津浪に對しては殆んどその效なく繋留漁船は全部流失最近敷設せられた高さ一丈二、三尺餘の縣道に依りて、辛うじて住家の被害を免れたる状況にして島は殆んど效果はない。而し極めて海岸に接近した津浪は波長が短かくなつて來るので多少有效の場合もある。


尚前記各檢潮自記紙に依れば今囘の津浪は、全部大津浪襲來前に數分程度の可なり顯著な上げ潮が表はれて居り。各部落に就いても注意深き人でこれを認めた所が所々ある樣である。此の點特に注意に値する所であらう。
擱筆に際して此の津浪の調査資料たる檢潮自記紙を貸與下されたる海洋氣象臺、鹽釜修築事務所及び北上川改修事務所の御好意に深厚なる謝意を表すると共に、調査に關して種々有益なる御助言を與えられたる國富先生及び鷺坂、石川氏に對して併せて衷心より感謝の意を表する次第である。

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地図 第七圖 雄勝灣内津浪等到達線圖
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地図 第八圖 鮎川附近津浪到達線圖
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第一表 津浪の傳播速度
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第二表 津浪の到達所要時間と各檢潮自記 紙から得た値
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第三表 各地の津浪襲來時刻

報告

三陸沖強震驗測結果 本多弘吉 竹花峰夫

三月三日二時三十一分頃の三陸沖強震及餘震に就き各測候所及び管内觀測所よりの報告に基いて行つた調査の結果の概要を報告する。尚詳細に亙る調査は追つて續報に掲載される豫定である。

一、震度分布

 各測候所及び管内觀測所等よりの報告に依り各地の震度を震度順に表示すると左の如くである。


震度


強震
 宮古、石巻、仙臺、福島、會津、柿岡(盛岡管内)猿澤、鯔崎(石巻管内)氣仙沼・志津川・松島・亘理・若柳・登米・吉岡・大河原・松倉・鬼首・作並・湯原(青森管内)大間・脇野澤・蟹田・泊・野邊地・碇ケ關(秋田管内)毛馬内、大曲(福島管内)中村・三春・田島・川俣・須賀川・喜多方・二本松・若松・上遠野・富岡・長沼・西方・高川・館岩(札幌管内)浦臼・古平(釧路管内)足寄・舌辛・標茶(羽幌管内)留萠(水戸管内)笠間・大子・松原・麻生・江戸崎・眞鍋・佐賀・眞壁・水海道・境・守谷(銚子管内)阿蘇・浦安・八街・鶴舞・木更津・富勢(前橋管内)花輪・太田・館林・澁川・鼻毛石・中之條・大前・新羽・五料(横濱管内)鎌倉・湯本・初聲 都田(沼津管内)曲金・下田(長野管内)中野・飯山・(松木管内)福島


強震(弱き方)
 盛岡・浦河・青森・釧路・小名濱・函館・水戸・筑波山熊谷・前橋・横濱・甲府・白河森林・平館燈臺・計羅武威崎燈臺・惠山岬燈臺(盛岡管内)一關劇千厩・嚴美・大原・若柳・岩谷堂・米里 永岡・岩崎・無澤尻・湯田・湯口・岩根橋・上郷・花巻・日詰・大迫・西山・澁民・大志田・門馬・藪川・零石・平館・松尾・御堂・小鳥谷・葛巻 浄法寺・田山・荒澤・一戸・福岡・金田一・附馬牛・種市・夏井・久慈 宇部・山根・山形・山田・大槌・釜石・甲子・吉澤・廣出・盛(石巻管内)古川(青森管内)三厩・小泊・田名部・金木・木造・五所河原・板柳・七戸・小澤口・休屋・湊・三戸・田子・弘前・(秋田管内) 花輪・大館・鷹巣・能代・船川・土崎・岩見三内、湯澤・本荘・矢島(福島管内)福良・石川・高田・郡山三阪・桑折・白河・棚倉(札幌管内) 千歳・夕張・美唄(室蘭管内)早來・苦小牧・登別・伊達・徳舜別 (函館管内)長萬部・八雲(帶廣管内)清水・大津・廣尾・士幌(浦河管内)門別(根室管内)土武佐・別海・標津・中標津・西別・計根別 (綱走管内)斜里・小清水・上涌別(水戸管内)小里・谷田部・下妻 (宇都宮管内)太田原・三好・矢板・眞岡・(銚子管内)茂原・片貝・三島・一宮・和田・松戸・都・多古・館山・中・東金・成東・勝山・風早・佐原・千倉(前橋管内)大津・伊勢崎・安中・沼田・萬揚・草津・谷地・東小川・四萬(熊谷管内)吉川・菖蒲・栗橋・所澤・飯能・小川・梅園・若泉・玉井・羽生・本庄・名栗・小鹿野(横濱管内)溝口・(沼津管内)宇久須(甲府管内)市川大門・宮本・谷村・中野・上九一色・石和・龍王・増富・五開・大原・菅原・山中・福地・上野原


弱震
 山形・秋田・根室・帶廣・室蘭・銚子・札幌・宇都宮・旭川・新潟・ 東京・追分・御殿揚・船津・伊東・三島・沼津・八丈島・父島・沙那・箱根山・大宮・綱走・壽都・横須賀・角館森林・沼尻森林・尻屋崎燈臺・安渡移矢岬燈臺・石狩燈臺・落石崎燈臺・納沙布崎燈臺・自神岬燈臺・室蘭燈臺・伊香保森林・大島燈臺・勝浦燈臺・清水燈臺・木祖森林(盛岡管内)澤内・重茂(青森管内)黒石(秋田管内)阿仁合・川添皆瀬(山形管内)貫見・鶴岡・上野・及位・上畑・米澤・高湯・田麥俣・下屋地、肝煎、志茂、立木、楯岡、新庄、袖崎、上山、谷地、升田・寒河江・山寺・加茂・長井・飛島・鼠ケ關(札幌管内)濱益・長沼(室蘭管内)洞爺(函館管内)臼尻、森・江差・(旭川管内)苫別・深川・富良野・山部・四達布・(浦河管内)静内・右左府(根室管内)落石・納沙布・(綱走管内)津別・雄武(壽都管内)岩内・利別・留壽都・南尻別(水戸管内)龍ケ崎・下館・結城(宇都宮管内)板室・佐野・足利・日光中宮祠・日光入湯元(銚子管内)佐倉・姉崎・清澄・勝浦.鴨川.野田・吉尾・小御門・旭 八日市場・大和田・千葉・久留里・布佐・遠山・湊(前橋管内)富岡・桐生・藤岡・下仁田(熊谷管内)浦和・岩槻.豊岡・川越・松山・槻川・浦山・三峰・秩父・大椚・中津川.野上・(横濱管内)吉野・深見・橋本・中野・鳥屋・葉山・厚木・姥子・箱根山(岐阜管内)中津・土岐津・御嵩・鷲村・岩林・養老(甲府管内)神金・三
富・丹波山・韭崎・笹子・日影・日下部・睦合・西山(長野管内)豊郷・ 戸隱・榮・屋代・上田 春日・岩村田・輕井澤・北牧・南牧(飯田管内) 北山・上諏訪・玉川・伊那・上村(松本管内)開田・坂井・豊科・平(新潟管内)畑野・西津・芦ケ崎・柏崎・小千谷・赤谷・津川・新飯田・長岡・小出・十日町・六日町・淺貝・中興・相川・羽茂・姫崎・大川谷・鍵取・水原・新發田・管名・玉泉・森・栃尾又・新谷・村上・栗島・巻(高田管内)直江津・安塚・天水越(京都管内)伏見・舞鶴(津管内)木ノ本


弱震(弱き方)
 富崎・長野・輪島・松本・飯田・濱松(銚子管内)平郡 (濱松管内)徳山・西益津・島田・三ケ日・金指・袋井・大川(岐阜管内)太田・北方(伏木管内)魚津・上市


微震
 高田・富山・伏木・岐阜・名古屋・彦根・津・大阪・日和山燈臺・勝山森林(函館管内)稻穗岬(旭川管内)愛別(壽都管内)月越(名古屋管内)大野・常滑・鍋田・老津・豊濱・國府・津島・瀬戸・稻澤・富岡・舉母・島村・新城・高里・西尾・堀切・野田・犬山・坂下・三輪・豊根・稻橋(岐阜管内)美濃(松本誓内)奈川(伏木管内)石動(福井管内)勝山(彦根管内)虎姫・愛知川・堅田・下坂本・八幡・石山・政所 (和歌山管内)上太田・應其・粉河・那智(濱田管内)松江・匹見上


其の大體の樣子を圖示すれば上圖の如くである。即有感覺區域は北海道の殆んど全部から東北、關束、中部、北陸の各地方の全般から近畿地方の一部に迄達し、更に父島で弱震、濱田管内松江及び匹見上で微震を感じてゐる。而かも北海道及び東北地方の太平洋岸寄りの二三の地域及び關東地方の一部は強震地域となつてゐる。後に述べる樣に此の地震の震央は東經百四十四度七、北緯三十九度一、岩手縣釜石の東方約百四十粁の沖合に
當るのであつて、有感覺區域は随分廣範圍に亙つてゐる。
次に最近我が國に起つた二三の著しい破壞的地震と其の規模の大小を比較して見やう。大正十二年九月一日の關東大地震、昭和二年三月七日の北丹後烈震、昭和五年十一月二十六日の北伊豆烈震及び今囘の三陸沖の地震は何れも震源の深さが極めて淺いと考へらるれから、震度分布の状況から大體其の規模の大小を論ずることが出來る。第二圖は横軸には震央距離、縱軸には毎百粁内にある有感覺測候所の震度の平均を示す。
此の圖から之等四つの地震のうち、北伊豆烈震は最も規模が小さく、北丹後烈震が之に次いで大きく、更に今囘の地震は關東大地震よりもづつと大きい。假に大正十二年頃と現在とでは震度の取り方に多少相違があるとしても、少くとも關東大地震に比べて小さくはないことは確と考へられる。即震央が遠く海底にあつた爲に、地震動に依る直接の被害こそなかつたけれども地震其のものは實に大規模なものであつた事が分る。

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地図 第一圖 三陸沖強震震度分布図
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第二圖 横軸には震央距離、縱軸には毎百粁内にある有感覺測候所の震度の平均

一、地鳴及び音響

 今囘の地震に際し、地鳴及び異常なる音響を聽取した所が多い、之に關する各測候所よりの報告を表示すると左の如くである。


之から普通の地鳴の他に東北地方では明らかに地鳴とは異なる異常な音響を聞いてゐる。今地鳴及び音響聽取箇所を地圖上に記入して示すと左圖の如くであつて、地鳴は北海道の南部、東北地方、關東地方の大半及び中部地方の内陸方面で聽取されており、其の聽取地域は大體所謂異常震域とよく似てゐるのは注目に價する。
又音響は岩手縣の大部分から青森秋田宮城の諸縣下に於ても聽取されてゐる。
さて此の音響は果して何であるかと云ふに種々の報告を綜合すると、
一、三陸東海岸地方では音響は地震と津浪襲來との中間の時刻に聞へ、内陸地方では地震後二十分乃至四十分位の間に聞へてゐる。
二、音は恰も大砲の音の如くで所に依つては二囘又は三囘も聞へてゐる。
等の事が云ヘる樣で、之から此の音は或は震源から發した音が空氣中を傳播して所謂異常傳播の現象を起してゐるのではないかとも考へられる。試みに何時何分に音響が聞へたとの報告のある盛岡、秋田、大曲、花輪、松倉、花柳、宇部等の諸地點を撰び、横軸に其の震央距離、縱軸に音の聞ヘた時刻をとると第四圖の如くになる。震源に於ける發震時を二時三十一分とし、昭和五年六月十一日淺間山の爆發及び千九百二十八年十二月十九日Juterbog に於ける火藥爆發に依る音響傳播の状況も併せ示してある。之に依ると音は震源附近に起つたとして説明される點もあるが秋田などは餘りにおくれ過ぎる樣である。
音が震源附近に生じたのでないとすると、或は津浪が海岸の絶壁に衝突して生じたとも考へられない事はないが、之では
一、海岸地方でも音響は左程大きくないのに海岸から百數十粁の地點迄聞へてゐる。
二、海岸で生ずる音ならば音響は長く繼續して聞ヘると考ヘられるのに實際は大砲の樣な音が二囘、又は三囘聞へてゐる。
三、海岸で生じたとすると音の聞ヘた時刻が早過ぎる地點が多い。
等の種々の難點があり、何分肝心の時刻の精確さが充分でないから、もつと多くの材料に就て調査した上でなければ今の所何れとも決し難い。

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地鳴及び異常なる音響
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地図 第三圖 地鳴及び音響聽取箇所
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第四圖 音響の傳播

一、驗測結果

 各地測候所に於ける微動計に依る驗測結果を表示すると左の如くである。但し初期微動時間の欄に括弧を附けて表はしたものは、測候所より御送附を仰いだ地震記象紙より驗測したものである。

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各地測候所に於ける微動計に依る驗測結果

一、等發震時線及び震央

 前節に掲げた觀測値に依り二時三十一分○秒を基にし、發震時を秒を以て示したものを地圖上の各測候所の位置に記入し、等發震時線を描くと第五圖の如くになる。何分震央が遙か沖合の海底にあり、最も近い觀測所の宮古から二百數十粁も距り、其の上觀測所が震央の一方側にしかない爲に極めて精確とは云い難いが、震央として東經百四十四度七、北緯三十九度一、岩手縣釜石の東方約二百四十粁の地點をとることが出來る。

一、走時曲線

 前節に求め得た震央と觀測値から走時曲線を作ると第六圖の如くになる。震央附近の觀測がない爲に精密な事は分り難いが、此處に得られた震央距離三百粁から三千粁に及ぶ走時曲線を、震源の深さが極めて淺いと考へられる北伊豆地震の走時曲線又は和達氏の得られた平均走時曲線と比較すると極めてよく一致することが分る。此の事から此の地震の震源の深さは極めて淺いと考へることが出來る。地震に伴つて大津浪の生じた事も海底地殼の表面迄大變動の起つた事の證左と見る事も出來やう。斯くすると震央に於ける發震時は二時三十分五十一秒と求められる。
地震の規模が大きく、一般にS相が驗測し難い爲初期微動時間は發震時程精確ではないが、参考の爲に初期微動時間と震央距離との關係も同圖に併せ示してある。之等の走時曲線から讀み取つた走時の値、及び之から計算出來る地震波速度等に就ては別項竹花技手の調査を參照され度い。

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地図 第五圖 等發震時線
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第六圖 走時曲線

一、初動分布

 各地測候所より御送附を仰いだ地震記象紙より驗測した顯著な初動方向を地圖上に示すと第七圖の如くになり、本州以東では總で密波となつてゐる、何分一般に初動が小さくて驗測し難いものが多いために曩に驗測表に掲げたものとは多少の相違はあるが詳細は次の機會に報告する豫定である。

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地図 第七圖 地震記象紙より驗測した顯著な初動方向

三陸津浪に依る被害調査 中央氣象臺地震掛編

一、各測候所の報告

 各測候所の報告に依る各縣下の被害は次の如くである。但表中括弧を附したものは内務省警保局の調査に依るものである。


尚明治二十九年六月十五日の三陸大津浪の際の被害を参考の爲め表示すると次の如くである。但し次表は震災豫防調査會報告第十一號に依るものである。


尚各縣別の詳細な被害表は以下に表示する如くである。

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今囘の津浪に依る被害
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明治二十九年六月十五日の三陸津浪に依る被害

二、福島縣

相馬郡{
福浦村 漁船一隻輕微なる損害
磯部村 海岸の漁船五十隻浮流せるも多くは取り戻し破損せるもの僅か四隻、但し船具の流失は多い。
双葉郡{
龍田村 大字井出にて漁船三隻流失・見積損害百五十圓
久之濱 傳馬舶の陸上げ中のもの五隻は第二・三囘の津浪にて流出顛覆し一隻は大破・損害約五十圓
石城郡江名町 中ノ作にて海濱に乾燥中の魚肥及魚市揚に貯藏の生魚流失損害約三百圓・同町豊間にて護岸堤防三十間餘
流失損害約三百圓・同町四ツ倉にて撃留中の小型發動
機船大破二隻・小破二隻
(福島測候所報告)

三、宮城縣

三月十日正午現在の宮城縣保安課調査に依る。

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宮城縣保安課調査 被害表

四、岩手縣

盛岡測候所報告に依る本縣下の被害は次の如くである。

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岩手縣盛岡測候所報告 被害表

五、青森縣

 警保局發表及び青森測候所報告に依る本縣下の被害は次の如くである。

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青森縣警保局發表及び青森測候所報告 被害表

六、山形縣

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山形縣 被害表

七、北海道

 各測候所の報告に依る管内の被害表は次の如くである。
(1)函館測候所管内
(2)帶廣測候所管内
廣尾郡廣尾村家屋一戸羽目板約三坪破損し鹽三十俵鱈二十束流失し此の價格百二十圓位
十勝郡大津村 住家床下浸水三戸、床上浸水二戸亦漁船の繋留せるもの波のため氷に打たれて破損せるもの三艘にして被害價格三百圓位なり、 (帶廣測候所報告)
(3)浦河測候所管内

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北海道函館測候所管内 被害表
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北海道浦河測候所管内 被害表

昭和八年三月三日前後の天候状態 中央氣象臺豫報掛

二月二十八日夜半より三月一日晝にかけ、低氣壓が北海道を通過してオホツク海に入り、又本州の南方洋上を二個の低氣壓が相踵で東に通過した後、熱河方面に七七一粍の高氣壓が現れ一日夕刻の等壓線の走行は、臺灣より琉球内地に沿ふて北東に走り奥羽より北西に曲つて黒龍江方面に向つて居た。此の傾向は二日より三日早朝まで持續し、只低氣壓の離隔に伴つて、氣壓傾度が漸次緩かになつたに過ぎぬ。
三月二日午後六時には、高氣壓の中心は依然として遼河流域にあつて七七三粍を示し、カムチヤツカ南端には七五○粍内外の低氣壓、があつて東進中であつた。房總沖と北陸沿岸には小不連續線があり、鹿島灘と若狭灣沿岸で小雨が降り、秋田青森は小雪が降つて居た。その他の各地は一般に晴曇相半して居た等温線の走向は略々西より東に向ひ、八丈島で十度、福島で一度、宮古で氷點下二度、浦河で氷點下五度、大泊で氷點下十度であつた。
三月三日午前六時には、高氣壓の中心は稍々東に移動して鮮滿國境にあり、低氣壓はカムチヤツカ方面に一つと、支那東海に新に發生したものがあるのみであつた。天氣は一般に曇であつたが、北陸道から北海道西部にかけては小雪が降り、關東地方北部より北海道東部に至る表日本だけが晴れて居た。等温線は内陸の放冷による部分を除けばやはり略々束西に走つて居た。
地震前後の震源地附近に於る氣壓傾度、三月二日午後六時三月三日午前六時の各地の氣壓、氣温表及び天氣圖を左に掲載する。氣壓壓傾度は宮古、盛岡、石巻の氣壓より算出したものである。

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地図 昭和八年三月二日十八時 天氣圖
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氣壓傾度の表
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三月 氣壓、氣温表
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地図 昭和八年三月三日六時 天氣圖

宮城縣下踏査報告 氣象臺技師 國富信一 技手 竹花峰夫

地震後即日小官等は中央氣象臺長の命に依り出張し野口石巻測候所長等と同行、主として宮城縣下の状況を約一週間に互り調査した。今茲に其の概要を記述する。

本吉郡志津川町

 志津川町は志津川灣奥部の海岸の低地に位置する人口約三千を有する町である。海岸は極めて遠淺であつて、明治二十九年六月十五日の三陸大津波の際は殆ど致命的な大被害を受けた所である。其後海岸に高さ四米の石垣を築きその後ろに盛土をして堅固な防波堤を造つたために今囘は十八尺の高浪が來たにもかかわらず浪は僅かに之れを越して民家の床下に浸水したのみであつた。一方町の北側には小川があるが津浪は之れに逆流し其の流域に當る處にのみ床上浸水五十戸床下浸水百戸を出したのみで被害は割合に寡かつた。志津川灣北岸では細浦清水共に著しい被害を被つた。

本吉郡歌津村

 外洋に直面した川ノ浦、石濱、名足、馬場、中山等では被害特に著しい。特に馬場中山では全戸數七十六戸中三十九戸被害を受け死傷行衛不明合せて三十三名を出し、石濱では四十二戸中十四戸被害を受け、死傷行衛不明十六名、田ノ浦では七十戸中四十九戸被害を受け、死者二十五名、行衛不明四名、負傷者三名を出してゐる。湊、伊里前、泊等は被害比較的少い。之等外洋に面した中山、名足、石濱、湊等では浪の高さは何れも四十尺と推定されてゐる。

同郡小泉村二十一濱

 約二十八尺の浪襲來し流失五十三戸、倒潰七戸を出し、死者九名、行衛不明六名、負傷者七名を出した。

同郡御獄村大澤

 倒潰家屋一戸を出したのみで被害は殆どない。

同郡大谷村大谷

 十七尺の浪が襲來し南端の數戸が全潰して數町も上手へ流されたが出漁準備中の漁夫が灣口に押寄せた津浪を見て警報を發したので死者は出さなかつた。

同郡楷上村杉ノ下

 十二尺の浪襲來し死傷各一名、倒潰七戸床上浸水四戸を出した。

同郡松岩村松崎

 小數の船舶が破損したのみで他の被害はない。

同郡氣仙沼町

 氣仙沼灣の最奥部に位する爲津浪は平常の高潮程度で全く被害がなかつた。

氣仙郡氣仙村長部(岩手縣)

 十五尺の浪襲來し總戸數六十二戸中流失四十九戸、半壞六戸、床上浸水七戸、死者三十二名負傷十八名を出し殆ど全部潰滅した觀がある。

本吉郡唐桑村大澤

 海岸から來た浪と南部の南濱から小丘を越えて來た浪とを受け浪の高さは約十尺と推定される總戸數百十一戸中倒潰四十五戸、床上浸水十五戸を生じ、死者五名、負傷者十名を生じた。

只越

 地震後三十分位で一度海水が引いた後約二十五尺の浪襲來し數分の間隔を置いて數囘襲來し百餘戸を有する全部落殆ど流失或は倒潰し海岸に臨んだ部分は家屋の土臺石を殘すのみで一物をも止めず、特に部落中央の小川に沿つた一二丁上方迄大型の發動機船が打上げられてゐた。死者は十名、行衛不明十四名、負傷者十名を出した。本縣下中被害の最も多い部落である。尚南部の唐桑半島及大島方面は石川技手の報告があり、之を参照されたい。

同郡戸倉村

 志津川灣に臨んだ寺濱、長清水、藤濱、波傳谷等では何れも八尺の浪襲來し相當の被害を受けてゐる。死者は藤濱で一名、負傷者は之等部落を通じて十名を出したにすぎない。

桃生郡十五濱村雄勝

 雄勝灣の最奥部に位する部落て雄勝灣に於ては立濱は全く被害なく、分濱、水濱、明神何れも床下に浸水したが被害なく、只明神では對岸唐桑へ向つて造られた突堤が二十間程缺潰したのみであるが、雄勝だけは特に被害著しい明治二十九年の大津浪以來五六尺盛土したにも係らず全戸四百戸中海岸筋の數軒を殘すのみで殆んど流失或は倒潰し死者七名行衞不明二人、負傷三名を生じた。山の手の小學校は僅かに難を免かれたが校庭には大型の發動機船が打上げられ如何に浪の勢が強かつたかを物語つてゐた。尚此處の浪の高さは十五尺と推定されてゐる。大濱では床上浸水程度である。

 外洋に面するために被害特に著しく死者二十四名、行衛不明三十五名、負傷者三十八名を出してゐる。同部落では地震後一度外へ飛び出したが、地震が強けれぱ津浪はないものと誤認してかかる多數の死傷者を出した由である。浪の高さは極めて高く約三十尺である。
以上は大體の踏査地域の状況であるが、南部の壮鹿半島方面は鷺坂技手の報告を参照されたい。

岩手縣下踏査報告 氣象臺技師 本多弘吉 技手 田島節夫

昭和八年三月三日午前二時三十一分頃三陸東方沖合に起つた強震は地震に依る直接の被害は殆んど生じなかつたけれども之に伴つた津浪に依り、青森、岩手、宮城等の諸縣下に甚大な被害を生じた由報ぜられた。該地方は明治二十九年六月十五日の所謂三陸大津浪に依り、二萬有餘の生靈が犠牲となつた所である。地震後直ちに中央氣象臺長の命に依り出張、主として岩手縣東海岸地方を踏査した。次に其の見聞の概要を報告することとする。


踏査日程
三月三日 上野發−一關
四日 一關−花巻(釜石迄盛岡測候所辻技手と同行)−釜石
五日 釜石−(船)−大槌(船)−山田−宮古
六日 宮古−(船〉−田老−宮古
七日 宮古(盛岡迄、盛岡測候所二宮技手と同行)−磯鷄−宮古−盛岡
八日 盛岡(田島技手歸京、以後盛岡測候所久保技手と同行)−一關−高田−盛
九日 盛−越喜來−吉濱−大石−(船)−小白濱−本郷−(船)−釜石
十日 釜石−花巻−
十一日 早朝歸京

釜石町

 停車場附近及び釜石鑛山等は平常通り從業してゐる人が多い。海岸から千米餘も上流の大渡橋をくぐり、更に二百米位上流の砂上迄發動機船、小船等が押し上げられたまま破損してゐる。水は大渡橋は越えず、此の邊は二・五米の増水であつたらしく、此の邊は浪は二囘襲來した由である。
釜石港附近の海岸一帶の倉庫住宅等は流失又は破壞され、港内の發動機船は殆んど全部が大破、沈没又は町の中に押し上げられた。住宅、倉庫等は船又は木材等が衝突した爲に大破したものが多い。郵便局、尾崎神社の邊は津浪が退いた後火災を起し、焼失した家屋が大分ある。
港の舊棧橋は破懷、其の近くにあるベンゾールタンクには海面上平均約五米半位の所まで海水に浸された痕が殘つてゐる。
町の人々の談話に依ると
一、地震の振動時間が長く不安を感じた、明治二十九年の津浪の經驗ある此の地方の人々のうち、若干名は海岸に出て海水の模樣に注意してゐた所急に海水が干き始めたので驚いて逃げた。
二、同町役場某氏の談に依ると地震後十分餘に大砲の樣な音が聞へ、其の三四分後に電話で大槌が津浪との報に接し、警鐘を亂打し、多數の人々は高處に避難することが出來た。
三、地震後約十分の頃音響が三囘位聞へた(菊地氏談)。
四、第一囘の津浪の襲來したのは地震後十五分、二十分或は三十分等と云ひ、人に依つて異り一定しない。
五、川端氏の談に依ると、地震後二十分にして急に海水が干き始めた。丁度其の時出漁しようとしてゐた發動機船三隻は驚いて全速力で沖合に避難しやうとしたが及ばず、干上つた海底に殘され、暫くして沖合から襲來した浪の爲岩壁に打上げられ破損した由である。
六、岩壁にゐた船は大破したが少し沖合に碇を投じてゐた船は大抵助かつた。
七、釜石町は電燈消へず、津浪の來る時迄點燈してゐたので避難に都合がよかつた。
八、海岸の低地(スカ)に住居してゐた人々のうち、特に他國から來た人は津浪の經驗がなかつた爲逃げおくれた人が多い。
九、釜石港外の沖合に出漁してゐた發動機船は丁度其の時刻頃暫くの間潮流が早く船の進みの悪いのを感じた位のもので午後歸港し始めて津浪の襲來を知つた。
十、海岸の松川氏は二階から津浪が四囘襲來するのを見た。

大槌町

 棧橋附近の家屋に浸水の痕跡あり、海面上約四米。

山田町

 棧橋附近の住宅多數破壞、飯岡方面は特に被害が甚しい。棧橋附近の家屋には海面上四米半の所迄浸水の跡がある。此處では海水は先づ後退し、津浪が最初に襲來したのは地震後約三十分で、二囘目のが最大であつた由。

宮古町

 漁船、漁具等の被害は大きいが建築物等の損傷は割合に少い。
宮古測候所佐々木氏の談に依ると第一囘の津浪來襲の約五分前にゴーと大きな音響が聞ヘた由、同所金澤氏が同測候所下で觀測された所に依ると
第一囘の津浪は三時十二分に北東より襲來、高さ約八尺(二・四米)
第二囘……三時二十三分東より……十二尺(三・六米)
第三囘……三時三十五分東より……十尺(三・○米)
第四囘……三時四十五分東より……七−八尺(二・一−二・四米)
三時五十分頃から小波となり、四時十分頃には殆んど静止した由。
鮹の濱では海岸の岩石に約六−七米の高さ迄海水の痕があつたとの事である。又宮古灣口に於ける状況を見ようと淨土濱の突端迄行つたが、浪は襲來の余勢で屹立せる岩礁に奔騰し、十二・三米の高さの岩もほんの上部丈位しか見ヘなかつた由である。
宮古から山田方面に至る街道に當る宮古橋は河口から八百米余も上流であるのに、發動機船數隻が津浪に押し上げられ、激突した爲に橋の二ケ所切り取られ、交通及び救濟事業の遂行に大支障を來した。

宮古灣奥部

 磯鷄村役場の裏手海岸には海面上約二・四米の所迄浸水の痕跡があり、二囘目の浪が最も高かつた。高濱では海岸寄りの低地の民家が破壞又は流失し死者四名を生じた。高濱の海岸の山腹に二・四乃至二・九米の邊まで浸水の爲草が變色してゐる所がある。此の邊では津浪は四囘位襲來し、灘の最奥部の津輕石方面から反射して來たものもあると云はれる。
地震の當夜對岸の白濱にゐた人の談に依ると同地では殆んど被害なく浪の高さ約二・四米、又堀内でも被害なく浪の高さも同樣に二・四米位であつた由。

田老村

 此の部落の被害は最も慘憺たるもので五百餘戸のうち、高所にある小學校、寺院、役場及び十數戸の住家を殘した丈で、他は殆んど全部流失し、一面の砂原と化し、人口三千餘中死者及び行方不明者約一千餘名を生じ、六日にも尚發掘中であつた。
村の北寄りの灣岸の岩山には海面上約七米半の高所に衣服の片、木片等がひつかかつており、其の邊迄樹木が損傷を受けてゐる。海岸より約五百米奥の小學校の南方山腹の草は地上四米の所迄浸水の結果變色してゐる。土地の人々の談に依ると地震後三十分餘經つてから再び微弱な地震を感じ、其から十分位してからゴーと低い音響が二三囘聞ヘ、數分の後津浪が襲來した。此處では最初の浪が最も高かつたと云ふ人が多い。村が低地にあり且つ津浪の勢力の猛烈であつたのは勿論であるが其の他に、地震後暫くは警戒したが何も異常がないやうなので再び就寝した人が多い、津浪襲來の前にあつた音が低く平素の波の音と紛らはしかつた、村から山迄可なり離れてをり且つ避難に適當な通路が少かつた等の事も多數の犠牲者を生じた原因である樣である。

女遊戸

 灣の奥部海岸で山腹の草が七−八米の高さ迄變色してゐるのが認められた。

高田町

 殆んど被害なし。

細浦

 海岸の低地にある爲被害甚し。

大船渡町

 海岸寄りの民家に倒壞又は浸水したものが多い。
大船渡の民家の壁が約三米の高さ迄濡れてゐた。

盛町

 明治二十九年の津浪の際には本町にも被害があつた由であるが今囘は浸水家屋は全然なかつた。

越喜來村

 海岸寄りの低地には海岸から三四百米の所迄浸水し、相當多數家屋が流失又は破壞され、相當多數の死者も生じたが、灣日が狭い所爲か浪の高さは比較的低く、學校の所で二米餘、郵便局の邊で二、三米位の高さまで海水に浸された痕があり、土地の人は明治二十九年の際の大體三分の一位と稱してゐる。
同村長の御談話に依れば津浪は三囘襲來し、其のうち二囘目が最大で浪の高さは割合に低かつたが勢は強く大型金庫が百米以上も押し流されたとのことである。

吉濱村

 吉濱.吉濱灣は漏斗型に外洋に向つて開口し、灣の形状から云ヘば最も津浪の害を受け易い形となつてゐる。明治二十九年の津浪の際には全村殆んど全滅の慘害を蒙つたのであるが、其の後復興に際し村は山腹の高地に移轉した爲今囘は本村の人家には殆んど破害がない。唯都合上臨時に海岸の納屋に居住してゐた人のうち、死者四名、行方不明者十四名を生じた。
以前村のあつた海岸の低地は耕地整理をした許りであるのに津浪に依り一面砂石におほはれ、荒涼たる樣を呈してゐる。浪の高さは矢張り非常に高く、海岸の山腹には大體七−八米、最高九米位の高さ迄浸水で草の色が變つたり木材の破片等が打ち上げられたりしてゐた。
吉濱小學校長の御話に依ると、強震後弱い餘震あり、それから三四分して沖合に大砲の樣な音が聞へ、それから十五六分位してから津浪が襲來した。沖に出漁してゐる人で其の頃火の樣なものが垂直又斜に上るのを見たと云ふ事である。
吉濱灣口に於ける津浪の状況を調べようと根白、千才等を訪ねた。此の邊では海岸は絶壁となり、人家は高地にある爲、海濱にあつた漁船、漁具等が流失した他には余り被害がない。一般に灣口近くでは波の速度が大きい爲か海岸に打ち當つた波は隋分高く迄上昇する樣であつて、余りはつきりした事は分り難い。千才で聞く所に依ると、地震後約二十分余して「ザアザア」と大風の樣な音がしてそれから五分余經つてから最初の津浪襲
來大きな浪は都合三囘來り、そのうち二囘目のが最大であつたと云ふ。

唐丹村

 大石、比較的灣口に近く、且幾らか灣口に對して影になる樣な位置にある爲か、浪の高さは約三米半、人家も稍高地にあり、殆んど被害なく、朝迄津浪を知らなかつた人が多い。
小白濱、被害戸數百余 海岸の山腹には七米半位の所迄海水の痕跡がある。浪が斯樣に高かつたのにかかはらず、被害が比較的少ないのは土地が海岸から急に高くなつてゐて、村の大部分は高處にある爲被害を受けず、又避難するにも便利であつた爲ではあるまいか。

本郷

 三方山で圍まれた稍廣い低地にあつた本部落は、僅かに一戸を余す他は全部流失、人口六百二十余のうち死者及び行方不明者合計二百二十七名を生じ凄慘を極めてゐる。地震と同時に津浪を豫想して早速高處に避難した人は勿論助かつたが、津浪に襲はれた人々は適當な避難路が少く遂に多數の人々が犠牲になつた樣である。

後記

 今囘の津浪地域踏査に依り得た主汝事項を二三列記すれば次の如くである。


津浪
 地震に依る直接の被害はない。地震と津浪襲來との間に大砲の樣な音響を聞いだ所が多い、最初に海水は著しく後退、其の後三囘或は四囘に亙つて來襲し、大抵の所では第二囘目のが最高、第一周の津浪の來たのは地震後三十分乃至四十分位してからである。岩手縣下では津浪の最高は九米位で一般に明治二十九年の際の三分の一位であるらしい。


被害
 津浪に依る被害は勿論其の土地の地形、灣の形状、深さ、津浪襲來の方向、其の他に支配されるものであるが概して云ヘば灣の奥部では被害甚しく、人命、家屋等の莫大な損傷の他に海岸造營物、發動機船、漁船、漁具等の流失又は破損は實に甚大である。又家屋、橋梁等の破損は津浪に依つて打ち上げられた船、木材等の衝突に依つて生じたものが多い。災害豫防に就ては平素より地震及び潮汐の觀測設備を完備し不慮の災に備へるべきは勿論である。此の地方の主な生業である漁業上の能率から云へば困つたことではあるが、明治二十九年の津浪では全減の憂目を見た吉濱が、復興の際に高地に全部落を移轉した爲村落には殆んど被害を受けなかつたのは充分考慮に値する實例である。其の他高地への避難路を準備しておく、津浪襲來を急報する手段を講じておく、防波林、防波堤を作る、橋梁の兩側とか海灣に面した建築物等は竪固な木柵等で保護し、船や木材等が直接衝突するのを防ぐ、船はしつかりつないで置く等數多の恒久的及び應急的の豫防方法があるであらう。何れにせよ此の際實際を斟酌して適當なる災害豫防の方法を講ぜられん事を切望する次第である。
終りに臨み、今囘の踏査に際し多大の御好意と便宜を御與へ下さつた各位、特に福井盛岡測候所長、同所及び宮古測候所員諸氏並びに小安岩手縣水産試驗場長に厚く御禮申上げる次第である。

牡鹿半島沿岸踏査報告 氣象臺技手 鷺坂清信

昭和八年三月三日の三陸津浪に關し牡鹿半島沿岸の踏査結果を左に陳述するに先だち其の調査の要項を列擧すれば次の如くである。
一、津浪の高さ、二、津浪の襲來時刻、三、津浪襲來の状況、五、音響、六、發光現象、七、津浪の前兆と避難状況八、明治二十九年の津浪との比較、九、今後の津浪對策、其の他。
此の中津浪の高さはハンドレベルに依つて尺を單位として測定し、平均海面より比較的海岸に近い家の浸水迄の高さ等を以つて津浪の高さとした。明治二十九年との比較は各地の老人につき家屋の浸水の程度を基として聞いたものであつて、前の記録と比較したものではない。尚今後の對策は現在被害地で行はれやうとレて居る事を記すに止める。

(一 牡鹿半島西部沿岸

一、桃の浦 浪の高さは四尺(一・二米)位で殆んど被害はない


一、侍濱 荻濱村長(侍濱現住)杉浦留太郎氏の談によれば侍濱も桃の浦と同程度即ち四尺(一・二米)位の波の高さで其の週期は約二十分ならんと。


一、荻濱灣 此の灣は圖に見るが如く、奥深く灣入し、其の深さは一般に淺く灣口に於いて僅に十米を越へて居るのみである。灣の最も奥にある小積の附近は極めて遠淺で其の緩傾斜は陸上の谷に引續き、津浪は防波堤の石垣を所々破壞し、之を越へて遠く二丁も浸入した次に此の沿岸の村落に於ける津浪の情況を列擧する。


(1)荻濱燈臺 此の燈臺は圖に兄るが如く荻濱灣口にある。
燈臺守、藤原氏の談によれば津浪の襲來は知らなかつたが、海岸の低い所(滿潮面より一尺か二尺(○・六米)位の高さ)に置いた薪が流失しない所を見れば津浪は極めて低いものと推察されるとの事である。然れば精々三尺位の高さと推測される。


(2)竹の濱、牧の濱 此の二つ濱は燈臺と反對側の灣口にある。此の土地の人の話によると殆んど津浪は知らなかつたが沖ぶくれがしたやうであつたとの事であるといふ。


(3)荻濱 津浪の高さは六尺(一・八米)位で午前五時二十分頃襲來した、而して津浪は寄せる時には割合に徐々で眼前に押し寄せる波を見てから逃げられた位であるが、引く時に強かつた。叉川に沿ふて特に高く昇つた水が溢れたため同じ高さにある家については、河口の附近の家が最も浸水した。津浪は三四囘程強いのが來たが、最初のが最大であつた。尚此の土地の老人渡邊氏の談によれば明治二十九年の時は床へつかなかつたが今度は數戸の床上浸水があつた、之から見て今囘の方が約二尺程高い、尚地震と同時に逃げた故死傷者はなかつた。音響は聞いたといふ者もあるが發光現象は認めなかつたとの事である。


(4)小積 此處は荻濱灣の最奥に在る村落で、津浪の高さは此の灣内で最も高く九尺(二・七米)位であつた。床上四五尺も浸水した家が數戸あつたが死傷者等はなく、家屋の破損も浸水の割合には少なかつた。津浪の來た時刻は四時半頃であると云ふ。特殊の光は認めなかつたが水面がきらきらしてゐた。音は地震後十五分頃大砲の音のやうなのを三囘程聞いた。津浪の大きさは明治二十九年の時より家の浸水から見て三尺程も高い。
特に強勢のは唯一囘で第三囘目の如きは道路ヘ上らぬ位(約五尺減)であつた、又此の大きいのの前に二三囘小さい津浪があつたといふ者もあつた。津浪の週期は二分か三分位であつたといふ(?)


一、小淵 地震後一時間位で津浪は來た、六七囘大きなものがあつた中、第四囘目が最も高く八尺(二・四米)位であつた(木村氏宅では床上三尺五寸)。此の最大の浪の來る頃東が白んだ、 而して其の直前には四丁も沖まで汐が引けた。尚此の浪について河部氏は次の如く語つた「波先は截斷つたやうになつて襲來し、四五丁も先に波を見てから逃げるのがやうやうであつた、其の速さを感じから譬ヘれぱ汽車より速いと思はれた、又引いて行くのも速い」。
次に津浪の週期は十五分位である、音は大砲を遠方で聞くやうなものを地震後十五分程經て二三囘聞いた、光は地震と津浪との間に東北方の山上に二三囘稻妻の如きものを見たといふものが二三人居つた、明治二十九年の時に比して今囘の方が四尺も高いと云ふ。
灣口に近い所は灣の奥に比して遙かに低い、それは灣口の海岸に置いた薪等の流失してゐない事から推量されるといふ。


一、小網倉 最も強い津浪の高さは一○尺(三・○米)位で夜明けに來たが多分地震後三十分乃至一時間位であらう、然しそれ以前に三四囘も上下したとの事である。此の浪の勢カが如何に強かつたかは口繪寫眞第六圖に示す如く大きな石橋が押し動かされて居る事から解る。
次に特異の光は認めなかつたが大砲のやうな音は二囘程聞いた、此の土地の老人大壁氏の話によると明治二十九年の時より三尺程高かつたとの事である。


一、大原 津浪は地震後三十分位で來た、三囘目のものが最も大きく其の高さは約七尺(二・一米)である。


一、十八成 津浪は地震後三十分程經てから來た、高さは六尺(一・八米)位で數囘大きなものがあつて週期は約十分位である、大砲のやうな音を地震後二囘程聞いたといふ。


一、鮎川 津浪の高さは八尺(二・四米)で地震後四十五分乃至一時間で來た。三囘程強いのがあつた中、最初のものが最大である。次に特異な光を認めた者はなかつたが、音は地震と津浪との間に聞いたといふ者もある。

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地図 津浪の高さ(尺)

(二 牡鹿半島東部沿岸(外洋の側)

一、鮫の浦灣 此の灣は地圖に見るやうに灣口と灣奥との幅が大差なき極めて單調な灣で、女川灣等に比して一般に深く、四十米の等深線を深く灣入してゐる。以下此の灣の沿岸踏査の結果を列擧する。


(1)谷川 津浪の高さは一丈六尺(四・八米)もあつて、死者二十三名も出した、第一囘の浪が最も強烈で之によつて流されたのである。津浪は地震後三十分程經て來たのであるが、斯く多くの死者を出した一つの原因は津浪前一ヶ月にも亙り鰯の大漁で夜遅く迄働き、體が非常に疲勞して居つた爲、地震後來るかも知れぬ津浪に對し注意を缺いた故であると村民で語つてゐる者もあつた。
此處の堤防は長さ四五丁、幅二三間、高さ一間半位のもので海に面した側に石垣があつたが大半は決壞した。渥美氏の家は周圍の家全部が流された中に只一戸殘されたものである、同息子義男君の語る所によれば「津浪だ!!と氣付いた時には、もう水は臺處まで來て居た、それから二階へ逃げ昇つたのであるが一分か二分で二階の床迄浸水した、氣がついて見ると周圍の家は押し流されてゐた。二度目の浪は下の床位迄しか上らなかつた」との事である。(口繪第三圖第四圖參照)


(2)寄磯 此の地に現住する鈴木氏から聞いた事を記せば次の如くである、可なり強い長い地震があつた後三十分を經過したが津浪は來なかつた故、明治二十九年の經驗から最早津浪は來ぬものとして寝についた所、間もなく襲來した。大きいのは一囘で高さは五六尺(一・六米)位であつて小舟が流された位で殆んど被害はなかつた。又地震後津浪に用心して誰もが外に注意してゐたが、光や音は見聞しなかつたとの事である。尚前網も同樣であつたといふ。


(3)泊 祝ノ濱 等に於いても差したる被害はないとの事である。


(4)大谷川 津浪の高さは一丈七尺(五・二米)で堤防の中央部は根底より決壞し、海水は澤に沿ふて突入した。然し此の方面には幸にも家屋がなかつた。津浪の來た時刻は地震後四十分位であるが、其の前に何とも例へやうのない物凄い音が二三囘した。特異な光等は認めなかつた、強勢の津浪は三囘位で最初のものが最も強く、引いたかと思ふと間もなく次の浪が來て其の間は二三分位であつたといふ(?)。口繪寫眞第一圖及び第二圖は堤防決壞の有樣を示すものである。


(5)鮫の浦 鮫の浦の口幅は僅かに五十間程(口繪寫眞第五圖参照)であつて津浪は澤に沿ふて五丁も奥へ突進した、而して寫眞に向つて右側の山麓の住家十一戸を流出し、死者三十六名を出した。津浪の高さは一丈六尺(四・八米)で、來た時刻は地震後四十二分であつて、最初が最も強く、次は五尺さがり、更に三尺さがりと漸次其の高さを減じ七八囘程襲來した。
地震では被害はなかつたが之に依つて津浪の襲來を用心して居つた者は子供迄も助かつたが、寒い時には津浪は來ないと考へ油斷して居つた者が多く流されたと村の方々は語つて居た。
津浪の週期は最初は七分位で後はもう少し大きかつた。又音は聞かない者が普通で、地震と津浪との間に二囘程聞いたといふものもあつた。然し發光現象は誰も認めなかつた。
明治二十九年の時と比較すれば家の浸水から見れば五尺位高い、此の時は最大が床上五尺で人畜には被害はなかつたと村の人は語つて居た。尚今後の津浪對策としては人家は今度の津浪を標準として高所に建築し、製造場は低い所ヘ建てるやうな意向である、或は浦の口を塞いではどうかといふ案もあるとの事である。


一、女川灣 圖に依つて見るが如く此の灣の深さは他の灣に比して著しく淺い。又灣口の幅に比して灣奥が擴がつて居る之等の事は此の灣の津浪が他の灣に比して、低く且つ緩な所以ではあるまいか、以下踏査の結果を記述する。


(1)飯子濱 津浪は地震後四十分程で來て、其の高さは六尺(一・八米)位である、寄せ方も引き方も極めて徐々である、特異な光や音は見聞しない。


(2)野々濱 津浪の來た時刻は地震後約三十分、其の襲來状況は割合に急激で、浪の高さは八尺(二・四米)であつた。津浪の週期は不明であるが四囘程大きのが來たとの事である。


(3)女川 津浪は地震後四十分で來たが、其の直前ザワザワといふ非常な音を立てて埋立地の石の間を水が引いたので津浪の來る事に注意した。其の高さは八尺(二・四米)位で三囘程強いのが來た。其の後十囘程幾分大きいものが續き最後に六時頃來たものは可也の高さであつた。週期は初めは八分位で三囘目以後は十分乃至十五分位であるといふ。特別な光は認めなかつたが波の頂點が所々碎けて淡く光つて見ヘたといふ。又北の方で銃聲らしい音を二囘程聞いたといふ者も全々聞かなかつたといふ者もある。
明治二十九年の時の津浪の高さと大體同じ程度であらうが今囘の被害の少なかつたのは埋立地のためであらうと當地のものは語つてゐた。


(4)石濱 此處も女川と同程度の津浪の襲來で二戸倒潰した


(5)寺間 津浪により浸水した家は五六戸で浪の高さは約七尺(二・一米)地震後約三十分で襲來し、第二囘目が最大であつた、明治二十九年の時より遙かに小さかつたといふ。


一、雄勝灣 此の灣は著しく灣入して、灣の狭小な割合に水は深い、以下沿岸の村落に於ける踏査の結果を列擧する並びに此の支灣たる御前灣及び尾浦等の状況をも記す。


(1)出島 津浪が來たのは地震後三十分位で、大きなものが三囘あつた中、最大のものは第二囘目で高さは約七尺(二・一米)である。尚阿部氏の家では「第一囘の波は臺處迄で第二囘は床上一尺五寸に達したが其の間に夜具を取りかたづけて濡らさずにすんだ」といふ。津浪の週期は約十分か十五分位であつた。
又特別な光や音は見聞しなかつたといふ。津浪の襲來の有樣は
「波を打つて來るのではなく、徐々に水が増して來るのである」
と土地の者は語つて居た。


(2)尾浦 津浪の高さは約九尺(二・七米)で地震後三十分乃至一時間を經て來た、大きいものは三囘で大體同一程度であるが第一囘が最も強く次第に幾分高さを減じた。夜が明けてから可なり大きいのが一つあつた。津浪の週期は三十分位であつたといふ。特異な光や音は見聞しなかつたといふ。尚明治二十九年の津浪よりも家の浸水から見て三尺程高いとの事である。


(3)御前 地震後三十分を經て高さ八尺(二・四米)の津浪が押し寄せて來た斯樣な強勢のものは三囘で後はずつと小さくなつた。


(4)浪板 分濱、水濱 等は津浪の高さは五尺(○・五米)位で知らずに居つたものが多い。


(5)明神 小島、唐桑 等の津浪の高さは約六尺(一・八米)である。


(6)雄勝 津浪の高さは灣の奥の方面(小學校附近)では一丈五尺(四・五米)であるが街の中央部(役場附近)では一丈二尺位である。その來た時刻は地震後三十五分乃至四十秀位で強勢のものは三囘であつたが、其の最初のものが最大だといふものも二番目が最大だといふものもある。
音は二囘程聞いたといふものも全々聞かなかつたといふものもあつた。發光現象としては東方に稻妻のやうなものを認たといふものもあつた。
次に此處の小學校は明治二十九年の時の津浪を標準にして建築したものであつて、今後津浪があつても校庭迄は上らないだらうとの見込であつたが、今囘は校庭の上へ四尺も昇つて二三十噸もある船が押し上げられた。
此の村落では地震によつて津浪を豫測し高所に避難して居つたため多數の流失家屋があつたのに反して僅かに九人の死者を出したのみである。此處に注意すべき一つの話しがある、即ち某家では明治二十九年の津浪の時に逃げたため、其の際小供を浪に奪はれた、其處で今度は逃げない事にして家に居つた處が家ごと流された、其の家に居つた人達の中、泳ぎの出來る二人の男は助かる事が出來、又泳ぎの出來ない一人の支那人は屋根を破つて救助を求めて居つたが遂に助けられた、他のものは皆死んで仕舞つた。雄勝での死者は殆んど全部が此の家に居つた者であるといふ。
尚此處に注目すべき一つの事は雄勝の街の道路の海岸側の家が多く流失し、山側の家は殆んど流失して居らない事である。
土地の高さは大差はないのに斯くの如く相違を來たしたのは、前側の家に依つて波の勢力を弱められたといふよりも、山側の家は其の脊後に進入する水の容量が小さい事のためであらうと思はれる。最後に今後の津浪の對策は目下協議中であつて確定せざる由なれども地形上甚だ困難のやうに承る。


(7)船戸 此處も雄勝と同程度の津浪を受けたが押し奇せる時よりも引く時に於て強勢であつたといふ、即ち澤に沿ふて小學校の方迄も押し上げた津浪が引く時船戸の側により多く強勢であつたとの事である。


(8)桑濱 津浪の高きは五尺(一・五米)位で地震後四十分位で來た、三囘程強いのがあつた中、第三番目が最も大きく、週期は五分位であつたといふ。津浪襲來の情況は「津浪の水は海の底からモクモクと増して來るのである」と説明して呉れた方があつた。津浪の襲來は船が浮かされたので知つたが光や音は見聞しなかつたといふ。尚地震の際屋上の石等は落下したものはなかつた。


(9)立濱 津浪は地震後三十五分位で來た、三四囘強いのがあつた中、最初が最大で高さは六尺(一・八米)位、次は一尺位低く、更に第三囘は一尺位低いと思はれた、又其の週期は五分乃至十分である。光は見なかつたが、地震と津浪との間にゴーといふ音を聞いたといふ者もある。襲來の模樣は津浪は静かに寄せて來て防波堤の所へ來て高くなつたといふ。此の邊は明治二十九年の時より二尺程低いとの事である。


(10)大濱 地震後三十分程を經て津浪は襲來し、其の高さは六尺(一・八米)で、三囘強勢のがあつた中、第三番目が最も大きかつた。その週期は五分餘りで、見てゐた人の話しによると静かにもり上つて來たとの事である。


一、追波灣 此の灣は大體から見てV字形をなして居り、其の深さも地圖に示したやうに灣口は深く灣奥へ行くに從つて淺くなつて居り所謂リアス式海岸の特性を備へてゐる。然れば此の灣奥の月濱等は可なりの波の高さになるであらうと想像した。
然るに月濱の浪の高さは僅かに七尺である(驗潮儀では五尺足らず)。又長面湖の側も橋が破損した位で大した事はなかつたとの事である。以下此の沿岸の踏査の結果を列擧する。


(1)船越 津浪は地震後三十五分に襲來し其の高さは一丈五尺(四・五米)で明治二十九年の時より三尺程高い、その週期は五分位だといつて居る人が多い、又三囘程強勢のがあつたが第二囘目が最大だといふものも、第三囘だといふものもあつて一定しない。
地震では建築物には少しの被害もなく棚のものさへ落ちなかつたが、只餘りに長く震動してゐたから或は津浪の前兆かと一度は多くの者が高所へ逃げたのであるが中々津浪は來ない、又塞い時には津浪は來ないといふ考へをもつて居るものがあつて逃げたものの中三分の一位家へかへつて仕舞つた、間もなく津浪が襲來し、其の人達は水にぬれて、第一の波の引けるのを待つて逃げる事が出來た。(口繪寫眞第十三圖參照)
津浪の寄せて來る有樣は比較的静かなざわざわと音を立てて海が高まつて來るのであるといふ。
此處は浪の高い割合に流失家屋は少なく僅かに四五戸であつて、死者は無かつた。流失家屋の跡へは今後納屋(仕事場兼倉庫)を建て、住家はなるベく高所ヘ移す意向である。


(2)荒屋敷 此處は津浪の高さ實に三丈(一〇・○米)に達し悲惨事を極めた所であるが此處は踏査しなかつた故、此の村落に就いては石巻測候所の村上氏の報告を參照せられたい。


(3)名振 津浪の來たのは地震後四十分で、其の高さは一丈四尺(四・二米)である、明治二十九年の時より三四尺も高いとの事である。三囘程強いのがあつて第二囘目が最大だといふものも、第三囘が最大だといふ者もあつて定まらないとの事であるが、然し筆者の直接聞いた津浪の體驗者の永沼氏及び阿部氏等の談によれば最初知つた津浪が最大であつたといふ。
津浪の週期は五分位であらうとの事である、その寄せて來る樣は船越と同樣比較的静かにザワザワと高まつて來るといふ。
光や音は筆者が直接聞いた三四人のものは認めないとの事であるが此の村落にも幾人かは光を見、音を聞いたといふ者もあるといふ。地震で津浪に注意はしたが此の前のとき(明治二十九年の津浪)は地震後三十分で來たのであるが今度は來ぬからといつて皆寝た所を襲來した。
永沼氏の談によれば明治二十九年の時よりは同氏の家では二尺七寸ばかり高い事になつて居り床上三尺まで浸水した。庭迄來た水が約三十秒位で床上三尺となり家の水全部が引き去るに約五分間かかつたといふ、其の浸水の際丈夫に張つてあつた床板が音を立てて衝き上げて來たといふ。尚津浪對策について同氏(元十五濱村村長)に問ヘば海岸へ現在の家の敷地より三尺程高い道路兼防波堤を造りたいが費用の點が間題で實現の程は解らないと云つて居られた。


(4)追波 津浪の高さは七尺(二・一米)である。此の値は津浪前に少しく雪が降つてゐたので、それが津浪によつて解けた跡によつて津浪が何の邊迄高まつたかに注意せる人に依つて知る事が出來た。


(5)月濱 此處は追波川河口に位し、津浪の高さは七尺(二・一米)で、地震後四十分位に來た。此處は明治二十九年の時より家の浸つた高さは三四尺も低い、之は多分埋立地を造つたためであらうと其の土地のものは云つてゐた。


(6)立神 津浪の高さは八尺(二・四米)で海岸の二階家が一戸倒れた、而して其の一階は流失し二階だけが形を存してゐた。


(7)長鹽谷 津浪の高さは八尺(二・四米)位である。


(8)白濱 津浪の高さは七尺(二・一米)で、地震三十分を經てから來た、三囘強いのがあつた中、第二の波が最大で第一が之につぐ大きさであつた。週期は五分位であらうといふ。而して「モンモリ」と高くなつて寄せて來たと襲來の樣を形容してゐた。


(9)小室 津浪の來た時刻は地震後三十五分で、其の高さは一丈(三・○米)であつた。三度強勢のが來た中、第二の波が最も高かつた。那須野氏の語る所に寄れば同氏の家では一番波では床がぬれなかつたが、之が引くのを待つて、山へ馳け上つて二番波の來るのを見てゐると浪先は碎けずに、後から後からと水が追ひかけて、重なり合つて來るやうに見へた、而して同氏の家の床上三四尺位になつたといふ。津浪の週期は十五分乃至二十分位で寄せるよりも引きが強勢である。尚音や光には氣づかなかつたといふ。


(10)大室 此處は殆んど被害といふ程の事はなかつたが津浪の高さは小室と同程度である。


(11)相川 津浪高さは一丈六尺(四・八米)であつて明治二十九年の時より高いといふ者も低いといふ者もあつて一定しないが大體に於いて同一程度であらう。津浪の襲來時刻は地震後約三十分で、三囘強勢のものがあつた中、第二囘が最も大きかつた。一般に津浪の來る事は地震によつて豫期せられた故、四十戸の流失家屋に對して僅かに一人の死者を出したのみである。
然しながら此處に特記すべき殊勲者がある、河部倉松氏は「斯の樣な地震の際は津浪來るかも知れないから海岸へ行つて見て居る、若し俺が大聲を立てたら津浪の知らせだから逃げろ」と家のものに注意して海邊へ行つた。所が潮が四、五十間も引いて、やがて津浪が押し寄せて來るのが見へた、其處で大聲を發したため、豫め注意して居た人々は急いで逃げて、難を免かれたものも可なりあつたとの事である。
今後の津浪對策は堤防及び盛土等をたすべく協議中なれども未だ意見の一致を見ずとのよしである(口繪寫眞第十五圖參照)


(12)小指 津浪の高さは一丈六尺(四・八米)で、地震後約三十分に襲來した、而して其の直前に一囘音を聞いた。家屋四戸流失し、死者十一名を出した。


(13)大指 津浪の高さは一丈六尺(四・八米)で、地震後四十分程經て襲來した。雷光のやうな光りと共に大砲の響のやうな音を津浪の直前に聞いたといふ、又津浪の週期は約十分位である。尚津浪の高さは明治二十九年の時より四五尺低いといふ者も同じ程度だよふ者もあつた。次に遠藤政高氏の語る所を記す「地震が強かつたから津浪の襲來を案じてゐた折から、非常に烈しい音がしたから海邊へ行つて見ると、其の音は水が引けるため船と船とが衝突し合ふためであつた、そして海水は海邊から六七十尺(沿道の深さで言へば一丈乃至一丈五尺)も引いて仕舞つた。之は津浪の前兆と察し、家へかへり子供を起して上の道路まで連れて上るや否や、背後で何とも例へやうのない物凄い音がした、見れば巳に長さ十四間もある納屋其の他數棟が押し流されてゐるのであつた。其の間僅かに五分であつた」と云ふ。又それが最初の津浪で最強のものであつて、後から二囘程強いのが來たが勢力は次第に減少してゐた。尚又夜明(六時半頃)一囘幾分大きいものがあつたといふ(口繪寫眞第十四圖参照)

昭和八年 三月三日 三陸沖強震及津浪踏査報告 氣象臺技手 石川高見

實地踏査の命を被け昭和八年三月三十日東京を發し四月七日歸京した、今其野外に於ける觀察及び災害に罹りたる現地公私の人々に就て調査した梗概を録して復命する。

調査要項

(一)調査區域 宮城縣本吉郡氣仙沼灣以北岩手縣氣仙郡越喜來灣に至る沿岸一帶である。
(二)津浪の波高 沿岸に來襲した波高は樹木、建造物、岩礁其他に保たれた痕跡をハンドレベルにて測量した、更に現地の人に就て得たるものも參照した。尚、波高の他實際の浸水最高度も同樣にして求めた。
(三)灣の津浪來襲の方向、津浪の強さ、陸上浸水の流れの方向等は船舶、流標物、被害建造物等から觀測した。
(四)津浪襲來前後の模樣 音響時刻、状況。發光現象等は現地にて可及的多くの聴取からである、而して是等は元等恐怖偬々の際に於けるものであるから取捨を要するものもある、さらば是等に關する限り主として比較的安全な境遇にあつた人の觀察談及び多數の人が同樣な經驗をした事實等に重きを置いて記載した。
(五)前兆的事實 津浪前後に於ける井戸水源水の變化、海岸汀線の變遷、漁撈に關する件等に就き調査した。
(六)明治二十九年の三陸津浪及地震との比較

總括

後記する數日の踏査に由りて得たるものを茲に一括する。三陸地方が此後再度今囘の轍を繰り返さざるが爲めの對策の一資ともならば幸である。


(1)津浪波高及び勢力は一般に灣口に比し灣奥にて大である、而して内灣の沿岸よりも外洋に直接に而した沿岸の方強大である更に外洋に面し灣口が擴大で其型が複雜でない灣奥にては極めて著大となつてゐる、例ば綾里灣白濱に於けるが如き場合である。


(2)同一灣内に於ても後背が直に丘陵等の高地に接する部は浪勢弱く隨つて斯る場所の建造物は被害少である、之に反し後面が直に平濶となつてゐる場所では浪勢強大で建造物に被害を與へて居る。
要するに灣内の水深小なる處にては津浪は一つの流れとなり其等の水流は豫想外に大きな勢カの集合となつてゐる。


(3)小川等に沿ふて浪勢強く上流に逆流し、沿岸の損害は附近に比し大となる。


(4)灣奥海岸際に施設してある防波堤、堤防の抵抗力は今囘の津浪襲來に際し現在の程度では眞に鎧袖一觸の感がある、(例へば或るものは、堤防の基礎を二米迄深く掘浚されしもある)
而して是等築造物の石材等は陸地の方向へ押流されて居る、是れを見れば皆押し寄せる津浪によつて破壞されしを知るものである。
然れども海際を距てて陸上に築れたる弱き石垣の類が潮の流れを防ぐに案外多大の効果をなしてゐる。其適例各地に多い。


(5)今囘の津浪の初相は上げ潮であることは各地の檢潮儀で明かである、又極めて注意深き海岸の人々は先づ平均滿潮面から二、三尺の増潮を觀察し次で大なる干潮を視て居る、而して一般には此干潮を最もよく觀察されてゐる。


(6)建造物の損害は津浪、直接の作用で生じた事は勿論であるが更に破壞された家屋の破片、船舶等の衝突若くは其和互に撃突し合へるの結果も極めて大である特に海岸の材木會社に貯藏せる多量の木材が斯る慘體を演じたる事實もある。
然らば住家の周圍の防波林或は防風林の施植は斯る場合を防ぐに結構な事であらう。


(7)灣内に於ての津浪の速度は深さにも關係するであらう。
然し長波速度の公式(*数式)が深さ十米以内の樣な淺き灣内又は陸上浸水の場合に果して一致出來るか判然としない。
而して茲に踏査した灣内では津浪の速さが大體一秒に十米内外であつた樣に想はれる、さらば津浪が灣口に寄せて來るを見てから避れても猶餘があつた。まして大なる干潮があつた事は避難の用意を充分に與ヘてゐる。然るに踏査した町村の多くでは高處に通ずる道路が狭悪であつたり又は不便な部分に築られてあつたりしてゐた爲に多數の避難の人々が一時に押し合い混雜して遂に不幸に終つた向もある。
將來斯る非常時の施設として平素に避難道路の改修を了して置くは必要事であらう。


(8)三陸津浪にあれ、他の地方の地震にあれ、同一場所で發起する其等がいつでも相等しき特性又機巧にて發起する傾向存在する、特に三陸津浪は今囘も明治二十九年の場合も其前後の状態が極めてよく相似してゐる。
殊に二者何れも其前驅的地震が著しく多かつた、是れは斯地の地震の一つの大なる特性であらう。
而して今度の罹災者中には唯漫然たる嚮の津浪の經驗による老人の言を玉條として、爲に避れ遲れし人々も多く存在する。
正確な數的標準の伴はぬ所謂常識や經驗は効果が少ない。茲に於て正確な器械的觀測(地震計觀測、檢潮儀觀測等)が欠く可らざるものとなる。


(9)光り物の現象 一般に津浪が岸や海中に突出てゐる岩に打附かる際に薄く青白い色を認めてゐる、然し其處で特別なある種の光源が發したか否やは明確でない。又沖合の方で確に發光を認めたと云ふ確信のある人は極て稀である。


(10)前兆的事實 宮城縣大島村、岩手縣越喜來村等では津浪前三旬頃から井水の減少混濁の現象があり、然かも其等は極めて顯著である。
又沿岸一般の漁撈家は鰯が稀有の大漁であつたと云ふてゐた


(11)陸地沈降隆起等の現象 宮城縣大島村にては數十年の經過から附近の海岸が次第に沈降の著しき事を示してゐる、例ば同村海岸の道路が八十年間に三度陸地に向けて改修されてゐる。
又氣仙沼灣改修事務所では津浪の數日前異常な低潮位を觀測してゐる。以上

踏査記事

一、宮城縣本吉郡氣仙沼灣


(1)氣仙沼灣西側沿岸 灣奥の氣仙沼町乃至松岩村宇前濱にのる至る沿岸では津浪の勢は強くない、隨つて被害の如きも家屋に浸水したる程度である、押し波でも引き波にも家屋を倒潰或は流失すると云ふ事は全々なかつた。
波の高さを浸水等の跡印しから測ると次の通りとなる。
前濱(神由川河口附近)○・六 片濱 二・四乃至二・八(片濱は入江で灣形を戊してゐる)尾澤 一・五 同川囗二・六 臺澤一・六七半澤 一・七(單位米)
臺澤−七半澤の沿岸は築造されてゐた堤防(高さ平均滿潮面から二・四)で大體津浪を防ぎ得たる樣である。
然し片濱から北方氣仙沼町沿岸は平坦な地續であつた爲に浸水區域は稍や増大してゐるのを認められた。此の沿岸でも津浪の來る前に一時干潮となり後十分内外で第一浪が押し迫せて來た模樣である。
音響に就ては地震後二三十分で一度大きな音がし次で五分後に前より稍や小さい音があつたと云ふ。三囘に聞た人もある。
前兆的事項 氣仙沼漁港改修事務所では津浪の前二日から潮位が平常よりも著しく低く爲に工事が豫想外に進行し夜を徹して工事をなしてゐた、所員も不思議に思はれた由である、同所員の話では平常としては潮位が(+)四・○乃至三・○でなければならぬのに(+)○・七附近であつた由。


(2)波路上村以南 七半ケ澤以南に至るに隨つて漸次外洋の影響を被けて津浪の波勢強大となつてゐる。
字波路上は氣仙沼灣西側の突崎をなした處で、地圖で明瞭な通り一つの頸れた半島である。
此の頸れた部分は舊來の鹽田で、淺き沼を型ずくり海水と延長約百二十米の堤防で界してゐる。
津浪は此の堤防(高さ二・六米幅上端二・五米)の中央を約十米程破壞して浸入した。
堤防破壞の跡を視れば總て押し波で破られてゐる、堤防の積石が無數に内側陸の方へ押し流されてゐた、大きい石は徑○・八あり、それが舊位置から二米に、小さいものは○・二で十五米も押し流されてゐる、それ等は扇形をなして散在してゐた流された距離は大體石の大さに逆比例してゐた、又個々の石について其形と向きとには別に規則が認められない、押し流された石が引き浪の際に再び流し返された樣な形跡は無い樣である。
津浪高 堤防附近で二・八米、半島の南側では三・五(此場所は明治二十九年の津浪では非常な災害を生じて當時の住家八十餘戸が殆ど全滅した、後住家は高所に建てた、其後漁撈等の不便の爲に海沿に再び移つた家もあり其爲に今囘も字杉の下で三戸の流失家屋を出した)


(3)字岩井崎縣立燈標長の談話 岩井崎は波路上半島の突崎で燈標は海抜一五〇米の高地にある、以下津浪を實際に觀みたる語。
地震が餘り大きいので震れ出してから三分で起き出た(地震は八分間も感じた)以前からの經驗で津浪が來はしまいかと沖の方を見ていた、すると地震後十五分頃から潮が引いた、それと殆んど同時にダイナマイトの破裂の樣な音響が東の方から聞へて來た、間もなく(三分後)沖には白いウネリが一面に出た、近所の人も集まつて不安にかられた、ウネリは夜の爲め青白い光に見へたが決して特別な光ではないウネリの光である(此間に近所の人と共に家根に昇つた、ここは高所だから大丈夫だと思つたが、不安を感じたから)尚海を見てゐると津浪は沖の方から黒い潮が静かに徐々と押し寄せてくる、當時は積雪が沖の岩にもあつたので白い沖の岩が次第次第に浪で消へ行つた、是れは大きい津浪だと思つて近所の人を全部起しに家人をやつた。
津浪は四囘來た其週期は七分乃至十分であつた。波は三囘目が一番高い波であつた、津浪に青白い色があつたが、それはウネリの時に見へる光で特別な發光現象の樣なものは見へなかつた云々。


(4)大谷村 大谷の灣奥で津波浸水區域高度は五米以上で、波高は三米内外である、ここは灣奥よりも灣の口の明神岬の西部、又は御伊勢崎の北部の方が波勢が強い樣に認められた。


(5)津谷村大澤(灣内) 此附近の地勢は海岸が急傾斜をなしてゐる隨つて波が打昇つて浸水區域の高度は大となつてゐる。
津浪の實際の高さは三・五米程である。


(6)津谷村大澤 波高三米、地震後の音響は當村では東の方(山の方で)に聞いたと云ふ。


二、氣仙沼灣東側沿岸−大島村−鹿折村


(7)鹿折村字小々汐 波高一・三米津浪の勢力は大ならず家屋を破壞する程ではない、(地勢の關係もある即ち後に直に山丘を負つてゐる)。
地震後音響が有つたので皆な注意して海を視て居つたが津浪の來る樣子もないので人々安じて居ると(地震から約三十五分程も經て)急に潮が引いていつた船の人が津浪津浪と呼ぶので人々は裏の山手に避れた、山手で津浪を視たる人は潮が引いてから十分程で津浪が來た、三番日のものが一番大きな波であつた、其から小さい波が長く續いて一時間も經てから前よりも大きな波が三囘來た、其後は小さい津波が五、六囘續いた。
檢潮儀 小々潮には氣仙沼漁港事務所施設の檢潮所がある。その記象によれば地震後四十五分程で○・六上昇の初相で初まる、次で二・六の急下降を示し爾後三囘に亙つて週期約十一分程で振動し其中の最大全振幅は三・○米である、其後約五十分間は一・○米内外の振動で數囘振動して再び振幅を増大し遂に下降の浪で器械は流失した、上に此の記象寫しを掲げる、檢潮儀は後に氣仙沼港で發見せられた。


(8)梶ノ浦 波高一・一米此處でも地震後約二十五分程で音響を聞いた、暫くすると潮が引いたので皆山手の方に避れた、波は五囘迫つて來たが二番目の波が最大であつた。


(9)鶴ケ浦 灣の入口の西側では波高一・二東側で一・三灣奥で四・○米、相當な被害を生じてゐる、灣奥では地震後三十五分程で潮が引いて、五分位を經て津浪が押し寄せて來た、波は四囘來た、二囘目の波が一番大きかつた。
津浪は黒い潮で灣の口の方から早い速さで迫つて來た、それか岸に打ちつかると青白く見へた。
音響は地震後で津浪の直前であつて最初のものはダイナマイトの樣な音である、それから五分も經て次の小さい音がした。


(10)大島村 大島村では西側沿岸と東側沿岸とか津浪波勢が格段に相違してゐる、即ち外洋に直面した東側は遙かに西側に比し強大である。
字外濱波高約一・五住家が三戸大破されてゐる、外濱の灣の西側では家屋を破る程度でないにも不關東側では波勢が家を破壞する程度に達してゐた。


(11)字磯草 波高一・○米浦濱一・三米田尻一・五米以上は波勤強大ならず家屋を破壞する迄には達しない。
西側沿岸にても南に行くに從つて波勢次第に強く波の高さも増してゐる即ち次の通となる。


(12)西ノ鼻 波高四・○、要害二・七米、横沼五・○米となる、横沼は既に島の南端で直接に外洋よりの影響を被けて津浪の勢力が強くなつてゐる、例へば此海岸では長さ一・七徑07×0.5の大きな石が打ち昇げられてゐる、此石は水平距離約一一○米海深一〇米の所に存在したものである、此他に小さい石は數多打ち上げられてゐた、海岸に在存した三戸の住家が破壞されてゐた。


(13)字安波山縣設燈標 海抜八十米大島南端である、地震が大いので戸外に出た、其時に二時三十三分頃であつた、海を見ると南二度東の方で簿い青白い色があつた樣だ、丁度探海燈の光の簿い樣な色であつた、音を聞いたのは二時三十六介頃で汽車が通る樣な音であつた、二時四十五分頃に海岸の人が津浪津浪と呼んだのを聞いた、


(14)字長崎 大島東側沿岸である爲に波勢が強い、波高四・○海岸の小松林は津浪を覆つて全部枯死してゐた。


(15)廻館 波高三・六、海岸にあつた只一戸の家は大破してゐる。


井戸水の現象 大島にては二月中旬頃より一般に井戸水の顯著なる減少を認め、海苔の製造に故障をした。殊に宇要害附近では著しかつた、是等の井戸水は期節又は降水量に關せす嘗て減水した事がなかつた由で人々は奇妙に感じてゐた。


津浪當時遠洋に漁撈して居つた人の話 大島村村上龜次郎氏は五十噸の發動機船で津浪當時に釜石港の南五十度東百二十二粁の沖合で漁撈を成してゐた、乗組員は三十五名であつた、漁網を配して一同海上を見張つていた、すると午前二時三十一分頃海震を三分間感じた、海震があつたので一同は皆注意して海上を見守つたが別段に波も變りはないし、海上にも發光現象の樣なものも音響も無い、後刻歸航してくると家の破片やら木材が流れて來て陸に近くに隨つて次第にそれが多くなつたので始めて津浪があつたことを知つた。


陸地沈降の現象 大島村長の話に據れば大島西海岸は次第に沈降する樣に想はれる、即ち同村西海岸沿の村道は現今まで八十年間に既に三囘陸地の方に改修してゐる、以前の道路は海の方に次第に沈むので交通不能となつた由。(八十年以前の道路と現在のものとは約二米の差あり、眞なりとすれば一年間に平均沈降趙2/80=25mmとなる)


三、唐桑半島沿岸 唐桑村舞根 灣奥の部落で低地の爲に被害が多い、浸水區域も擴い、波高三・○米。


(16)字宿 波高二・四米、地震後二十五分で音があつた丁度ハツパ(土木用ダイナマイト)破裂の樣な音であつた、そして二十分で波が來た、波の來る前に灣の潮が減水すること約五十米(水平距離)に達した由、宿の灣内の被害の状態を視るに、直ぐ後方に山丘や岡等の高地が存在すると斯る場所では著しく波勢が弱められる、之れに反し後所に何物もない平坦に開けたる處では波の勢力は強大で隨つて破壞力が大である故、家屋等の建造物は凡て被害を生じてゐる、例へぱ附圖A點に在る某家では浸水が床上八尺に達したが波の勢としては其家の庭の石(長さ○・四厚さ○・二五幅○・二)を陸地の方向へ一米移動した程度である更に此家は明治二十九年の大津浪には今囘よりも夏に二米多く浸水したが家は破壞せずに現存してゐる。
然るに圖中のB點の樣な後面が平坦な處の家屋は破壞されて災害が甚大となつてゐる(然して若し外洋に直面して波勢が強大の處では譬へ後面に丘岡等の障害物が存在して居つても波の勢は著しくは弱まらない、其等の例は後記する通りである)。


(17)字鮪立 波高三・三、地震後二十分位で音響が一度鳴りそれから十二分位で次の稍や小さい音響が聞へた、津浪は一番目の音響後五分程で來た、波は五囘迫して來たが一番目の波が大きかつた、灣内の漁船は潮が引いたので灣外に避け樣と努力する中に波が寄せて來て避れるに非常に困難であつた、大多數の船は避るる事を得ず破損したのが多かつた。
部落の人達は山手に避難した、山道が狭小なのに避難の人々が多數なので大變な混雜をした。
字小鯖 波高三・八(灣口で一・○乃至一・四)灣奥が二つの低地を成して居り兩方へ浸水七て住家を破壞し、漁船を押し上げて居た、灣内に碇泊中の漁船が多くの損害を被けてゐた。
字御崎 半島の突端で波勢も強く高さも約四・八米となつてゐる。


四、唐桑半島の東側沿岸 東海岸は直接外洋に面して居るので津浪の勢は大である、この海岸へは海中から大きな石が至る所に打ち上げられてゐる。


(18)字笹濱 波高一二・六、浪は勢が強く寄してきて海中から打ち上げられた石が散在してゐる、其中の大なるものは一・五巾一・五厚一・○で、斯の石は元の位置から水平距離二十一米移動してゐた。或は長さ四・五巾一・五厚一・○の石が約二十五米移動Lてゐる。


(19)字缺濱 波高一二・六、地震は上下動の樣に急で長く續いたので人々は家から飛び出た由、地震後八分程でドーンと云ふ音響が綾里の方(東北東方)から聞へた。又五分程で稍や小さい音があり尚二十分位を經て稍や大きな音が聞ヘた、最後の音と殆んど同時位に津浪が寄して來た、浪が寄して來る前に海の水は殆んど灘口位まで引いた、浪は四同程押して來たが一番目のものが最大で後のものは皆小さかつた。


缺濱 では三戸流出してゐる。(海岸には家が三戸のみである)。當時沖合は晴れてゐたので浪が迫つてくるのが見へた。浪は黒く高まつて來たが別に發光現象はなかつた、唯浪が岸の岩礁にて打ち碎ける時には青白い泡沫となつて丁度光の樣にも見へた。


井戸水の異變 欠濱では四季に嘗て減水した事がない井戸が一月中旬から目立つて減水した、老人達は何等かの天變の來る前兆かと恐れてゐた由。
(明治二十九年大津浪では此附近の浪高は今囘よりも更に約三米高い、老人の談によれば其際は沖の方で四五日前から音響が毎日毎日四、五囘もあり地震も七、八囘も毎日あつた、今囘の波浪では地震は大きかつたが前日から音や地震はなかつた)


(20)字石濱 波高五・六米、津浪が來る前に潮は海深三十尺の沖まで引いていつた、音響はハツパ(土木用ダイナマイト)の樣な音が二囘聞ヘた、後のものは稍小であつた。


(21)字下石濱(高石濱) 波高七・○米、小川の海ヘの流入口で海岸の家は破壞されてゐる、押し寄せた浪の勢力を示すものとして次の事があつた。
海岸に在つた高さ五米程の岩(頁岩)の頂部(長さ一・二巾○・七厚さ○・四)が浪の爲に缺けて陸地の方へ水平距離七十五米押し流されてゐる、或は徑○・四二の杉の木が根本から打ち切られたもの二本があつた。
此處では地震が強くて長いので直に戸外に出て海をみた、潮が引いたので大聲で津浪津浪と呼んだ、山手で見てゐると浪は四囘程寄ぜて來た、初めの浪が大きく此波で家は破壞された。
浪が押し寄せて來て岸の岩に打附ける繁吹は青白くなり恐怖の際だから放電の光の樣にも見へた、然し沖の方では格別發光現象らしいものは認めなかつた。


(22)只越 波高七・○米、被害は甚大な部落の一つである、此處でも津浪を避る爲に人々山道を走つたが道は狭く避難の人は多數で中々避るのに困難した由。


(23)字小原木 波高三・五米、海中に突出した小半島の頸部にある村落である、地震後二十分程で音響が一度あり尚五分で海の水が引いた、津浪は此頸部へ南側の海と北側の海とから寄して來た、然し兩方からの浪は同時ではない、先づ北方から來た津浪が引いてゆくと殆んど同時刻に南方からの浪が寄して來た小原木の海岸に埋てあつた漁類溜(コンクリート製、長さ二米幅一・一深一・一米厚さ○・二)は三十米陸上に押し流されてゐた。(寫眞第三十參照)


五、岩手縣氣仙郡廣田灣沿岸


(24)字福伏 波高三・二米、此處でも津浪の來る十分程前に潮が引いた。


(25)長部港波高三・二米、被害大である、港口のコンクリート防波堤は破壞されてゐた、或は又灣口海中に築造中の突堤は其基礎の海底を深さ二米餘も浪に渫はれ陸地の方へ押し流され破壞された。
此處では地震後約二十五分で音響を聞いた、潮に注意してゐると約十分程を經て灣口位まで潮は引いた。引いてから約十分を經て第一囘目の津浪が來た、次で五分位で第二囘目の大きな浪が寄せて來た、次で五分位で第二囘目の最大な浪が寄せて來た、浪は五囘程押し寄せた。


(26)字脇澤 波高三・二米。


(27)字兩替 波高三・○米。
此地方では地震後約二十分でダイナマイト破裂の樣な音響を聞いた、海面に注意すると、約八分位の後に潮が引いていつた後五分か十分位後に津浪が來た、二番目の波が最大であつた。 津浪は六囘寄して來た。


(28)泊港 波高四・八米、地震後二十五分程で東の方からハツパ(土木用ダイナマイト)に似た音響があり間もなく潮が引いてゆつた。


(29)根崎波高一一・二米、被害が大きい。津浪の浸水區域の高度は二〇米に達してゐた。
此處では地震後二十分程で東の方に當つて「パーン」と云ふ音響を聞いた、間もなく潮が引いて港内の船は海底に附いて覆たものもあつた、潮が引いてから八分程經て前のものより稍や小さい音響があつた、それと殆ど同時位に津浪が押し寄せて來た、山手で見てゐた人によれば黒い潮が高まつて迫つて來た由である。


六、大野灣


(30)灣奥で波高四・○米、六ケ浦で波高三・五米、唯出三・四米。
音響は此附近では一般に二囘聞いた、音の調子はドンよりもパンで皆土木用ダイナマイト破裂の樣であると云ふて居る、時刻は地震後二十分位である、津浪の前に潮が引いたと一般には云ふ、中には津浪の前に一度二、三尺増潮して後五分位で引いたと云ふ者もある。


七、門之濱灣


(31)灣奥では波高三・五米、泊里では波高四・五乃至五・七米
碁石では波高七・二。
碁石では波勢が強大で浸水區域の高度は九米以上に達してゐた。
音響は一囘或は二囘に聽取して居り時刻は地震後十分乃至二十五分である。
沖合に於ける發光現象は認たものが無い。
八、大船渡灣
灣の奥では浪勢は寧ろ多少弱勢となつに居り、波高も灣口に於て高い。


(32)細浦 波高三・一米、浸水區域の高度は四・五米に達し波高の割合に被害甚大である、低地に港が存在せし爲であらう。
細浦で注意して居つた人の談話
地震後二十五分程で音響が西の方(山手の方)に聞ヘた、後凡そ七分位で海水が平均の滿潮面から三尺増水した、(津浪の際は潮が引くと云ふ事なのに増水するので變だと思つたが)尚注視して居ると、十分位經て灣口で黒い潮が高まつて來るのを見た大津浪と思つて大聲で津浪々々と呼び走つて避難した、云々。


(33)字丸森 波高四・二米、浸水區城の高度は五・五米に達す


(34)字下船渡 波高三・○米、浸水區域の高度は三・八米に達してゐる。
海岸に打ち込んであつた杭は津浪の爲にN30°Eの向きに傾いて居た。


(35)大船渡 波高二・四米、波勢は家屋を倒すに至らない、海岸のコンクリートの防波堤も數箇所に龜裂又は小破を成した程度である、(大船渡部落南部の造船所の附近は建物の破損せしものがある、此の附近は海中に少しく突出した處である、此處の家屋の倒れし方向S50°Wである)。
灣奥 盛川は津浪逆流して沿岸一・五粁上流まで浸水區域となつた、浪は灣奥の海岸に築造されてゐた堤防(高さ九尺上端六尺)の中央を打ち破つてゐる。


(36)字生形 波高二・八米、永濱で波高三・三米、此附近の波勢は大船渡に比し稍や強大で破壞家屋を出して居る。


(37)蛸ノ浦 波高四・三米、波勢稍や強勢となり破壞家屋多く其等の多數はN35°Wの方向に倒れてゐる。


(38)字長崎 突端に位置し波勢強くなつてゐる、波高四・三米に達し浸水域の最高度五・六米に及んでゐる。


九、綾里港


(39)綾里港 細長い灣の奥に位置して被害甚大である、波高四・五米、浸水區域は川に沿ふて上流約一・五粁に達してゐる。
波勢も強大である、例ば海岸に存在した漁業組合事務所門柱(鐵筋コンクリート長さ一・五米○・四米角)は陸地の方へ百三十五米押し流されてゐる。或は海岸から○・四粁附近に在る鐡筋コングリートの橋柱は上流に向て傾倒してゐる。(寫眞第三五參照)
此處で潮を注視してゐた人の談話に依れば、地震が止んでから二十分で平均滿潮面から三尺程増水した其時に東の方でハツパの時の樣な音響が聞へた、十分位を經て潮が早い勢で引いた潮は恐らく灣口位(灣奥から約一粁)まで減水した、其後十五分程で燈火ある船が早い速さで灣口から進んで來るのが見へた。岬の方からは黒い潮が五、六尺も高まつて寄してきた樣に見へた山手の人は津浪は五囘寄し迫せて第一番目の浪が最大であつたと云ひ、第一番目の浪で建物は破壞され、次々に來る浪では家屋の破片、材木船等で港が一面に充滿し其等が互に打合ふ昔は恐怖を感ぜずには居られなかつた云々。


(40)字合足 波勢強大で被害甚大、部落は殆んど全滅してゐた、波高七・三米浸水域の最高度一〇・三米に達してゐた。


(41)字白濱 波高一九・乃至二三米浸水城の最高度二七米、此濱は波勢は甚大であつて、海岸には大きな石が多數に打ち上げられてゐる。海岸の傾斜地の松の木が多數に根本から打ち切られてゐる其の太きものは徑○・四米もある。一○、越喜來灣 波高は灣口では小で灣奥では大となつて居る。


(42)砂子濱 波高二・三米、住家は高地に在るので被害は少、只海岸の家が三戸流失しゐた。
此處では地震後二十分程で大砲の樣な音を二度東方から聞へた由、中には三囘に聞たものもある。


(43)小石濱 波高三・八米、下甫嶺波高四・二米、泊波高四・○是等の濱の波高や波の勢力は大體等しい。
音響 一般に地震後二十分乃至三十分で聞へ、二度或は三度に沖合の方から聞へた由。
津浪の前の干潮の現象は一般に認めた、沖合其他に於ける光物等は認めてゐない。


(44)浦濱(灣奥の部落)波高、小學校附近で三・二米、懸道の橋の附近(川添では)七・○米、此濱は低地にあり災害が著しかつた、波勢も相當に強く例へば海岸に在つた花崗岩の記念碑(長さ三米幅一・五厚○・四米)が陸地の方へ六十三米押し流されてゐた(移動方向はNNWである。)又同樣に長さ二・五米幅一・○厚○・八米のものはNNWに百二十米押し流されてゐた、或は同樣に石碑が(長さ一・八米幅○・六厚さ○・五米)百四十五米移動してゐた。
電柱の如きも根本から打ち切られたものもあり傾斜したものもある。
津浪は川に添ふて勢力強く寄して來た模樣である、川の兩側に植へられた櫻樹が川口では根本から打ち切られ、上流の樹は傾斜してゐる、然して其等の櫻樹の傾斜の模樣を視るに上流にては漸次傾斜角度小となつてゐる。
井戸水の變化 越喜來村では津浪前後に於て井戸水の變化が著しかつた、同村立小學校長小原氏の調査によれば次の通りである。


(一)龍昌寺内の井戸 字甫嶺にあり、井戸の深さ地上から水面まで約三米、水深一米餘。
津浪前凡そ二十日より渇水、津浪後舊に復した、同寺に泉水があり、又同樣な變化をなした。
此の井戸は明治二十九年の津浪の際も渇水したと云ふ。
(二)平田王男氏宅の井戸 字小泊にあり、井戸の深さ地上より水面まで約五米、水深二米。
津浪前三日より井水混濁、津浪後も少しく混濁を見た。
(三)村社新山神社々務所の井戸 地上より深さ十一米、津浪前四、五日より混濁渇水した、津浪後五、六日で舊に復したこの井戸は如何に降雨等があつても未だ甞て混濁を見たことのないものであると云ふ。
(四)及川義雄氏の井戸 字杉下にあり、地上よりの深さ六米津浪後三、四日混濁渇水した。
(五)熊谷與左術門氏の井戸 字杉下にあり、地上よりの深さ四米。
津浪前三日より混濁渇水し津浪後二日にて舊に復した。
(六)正源寺内の井戸 字仲崎濱にあり、井戸の深さ地上より二米、降雨もないのに二月半頃から一週間程混濁したと云ふ。
以上の井戸は皆高地にあつて今囘の津浪には直接に影響なきものである。

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氣仙沼漁港修築事務所檢潮儀記象
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地図 (岩手縣南部及 宮城縣北部の浪の高さ及び海深を米にて示す)

三陸沖強震に伴ふ津浪調査報告 盛岡測候所調査

三月三日午前二時三十一分三十八秒九の強震の震源地は當所地震計の記象驗測に依れば既報の如く震央地は當所より南七十七度東二百六十二粁の地點即ち釜石町眞東二百粁の海底殆んど表面に出現したるものなり。此の邊は所謂日本海溝内にして水深約五千五百米なるを以て津浪を誘發し、數十分後には三陸沿岸一帶に亘り激甚なる被害を釀せり、左に津浪實地調査の概要を報告す。

一、津浪襲來の時刻

宮古測候所員の觀測に依れば強震後數囘海水に注意したるも何等異状無かりしに午前三時二分風吹き荒むが如き沖鳴りしたるを以て直ちに灣内を見れば棧橋に繋留したる發動機船の傾斜せるを認めたり。依つて減水し始めたるは午前三時以前と推定す。減水は約六尺なりとす。午前三時八分に至り烈風吹き荒むが如き物凄き音を發しつつ灣中央部を殆んど直線に暗夜にも波頭白く津浪襲來するを認めたり。而して午前三時十二分藤原須
賀に達せり。即ち強震後四十一分なり。
各港灣に就いての時刻は目撃者の談區々にして詳細知るを得ざるも大體に於て廣田灣より唐丹灣に至る沿岸南部にては強震後二十分乃至三十四分にして平均二十九分を要し釜山灣より宮古灣に至る沿岸中部に於ては強震後二十八分乃至四十五分にして、平均三十三分を要し宮古灣以北種市海岸に至る沿岸北部にては強震後二十九分乃至四十分にして平均三十五分を要せり。
而して沿岸全部の平均は三十二分強なり。

一、津浪襲來の前兆

別項報告の如く沿岸各地に於て砲聲或は遠雷の如き音響を聞き其後間も無く海水著しく減退したるを認めたる所多し。廣田、越喜來、唐丹、釜石、大槌、山田、宮古等にして時刻は詳かならざるも強震後十分乃至二十分なり。其の爲め津浪襲來を豫察して高所に避難したるを以て、明治二十九年の津浪當時に比較し割合に死者の少なかりしは不幸中の幸なり。

一、津浪の經過

宮古測候所員の觀測に依れば宮古灣に於ける津浪第二囘目の襲來は午前三時二十三分にして第一囘目より十一分後第三囘目は午前三時三十五分に襲來して第二囘目より十二分後なり。又第四囘目は午前三時四十五分にして第三囘目後十分なり。同三時五十分に至り小波となり、午前四時十分灣内沈静せり。即ち十分乃至十二分の週期を以て波浪襲來せり、各港灣に就いて概述すれば廣田灣、大船渡灣は津浪第一波より約五分後第二波襲來し、其後も五分間置き位に第三波第四波と襲來したるものの如く其の週期著しく短く、午前六時頃灣内沈静せり。
綾里灣、越喜來灣、吉濱灣、唐丹灣は十五、六分置きの週期を以て第二、第三波襲來し、午前五時乃至六時に至り灣内静止し釜石灣、大槌灣、山田灣は約十分の週期を以て激浪を繰り返し船越灣は週期短く五分乃至十分を以つて繰り返したり、閉伊半島重茂村沿岸にては第一波と第二波間は五分乃至七分を要し第二波と第三波間は十分を要せり。其他外洋に面したる沿岸北部にては概して週期長く第一波、第二波間は平均十六分を要し、第二、第三波間は平均十八分を要せり。津浪の最高は流失を免れたる海岸建築物又は岩壁等に殘れる浸水痕跡に依り所員の調査したるものにして各地共第二囘目の波浪最も高く其後は三囘四囘となるに從ひ漸次衰へたる如し。廣田灣、大船渡灣は十尺、乃至十五尺、綾里灣は平均十五尺にして最高四十尺に達したる所あり。越喜來灣十尺、吉濱灣三十尺、唐丹灣二十尺、釜石灣十八尺、大槌灣十二尺、乃至十五尺、船越灣十八尺乃至二十尺、山田灣八尺乃至十五尺、宮古灣測候所下にて十二尺、磯鷄村にて十五尺、田老灣二十八尺なりとす。閉伊半島重茂村千鷄及石濱に於ては四十尺、小本村、田野畑村羅賀、普代村大田名部にては孰れも四十三尺、宇部村、小袖二十七尺、久慈灣十八尺、侍濱村三十五尺、小本村、種市村に於ては共に二十尺なり。各地の津浪の高さ並に襲來時刻を列記すれば左の如し。

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津浪の高さ並に襲來時刻調査表

一、強震津浪に伴ふ管内地鳴報告

管内觀測所並に町村役場等の報告を綜合すれば強震後大砲或は遠雷の如き音響を聞きたる所多し。其の時刻は強震直後と報告する所もあり、詳かならざるも大略廣田灣より山田灣迄は強震後平均十六分にして聞き沿岸北部にては平均二十三分後に聞きたり。又内陸地方に於ては二十七分乃至三十分を要したる所多し。其の聞きたる方向は地形等に依り相違あるは勿論なるべきも大體東寄りの所多く稀れには南東或は北東の方向に聞きたる所あり。盛岡測候所所員の觀測したるものを摘記すれば左の如し。
午前二時五十八分(即ち強震後二十七分)屋外にてドンドンと云ふが如き音響を續けて二囘聞きたり。方向は東の空稍高く(地平と約三十度の角度)して餘韻全く無くアツと思ふ間瞬時にして止みたり。底力のある音響なりしも割合に弱し。
尚管内觀測所並に町村役場等の報告を列記すれば左の如し。
氣仙郡
小友村役場報告 津浪二十分前大爆音を聞く。
吉濱村役場報告 強震後十五分大砲の如き音響を聞きたり。
小友村只出、戸羽太郎氏報告 強震後大砲の如き音響を聞き其の後十五分乃至二十分にして津浪襲來す。
盛農學校長小山幸右衛門氏報告 強震後三十分南東に當りどんと云ふ音響を聞く。
未崎村役場報告 強震後非常に高い短い雷鳴の如き音響あり。
越喜來村役場報告 強震後約十分遠雷の如き音響二囘聞く。
上閉伊郡
釜石町役場報告 強震後十分午前二時四十分頃遙るか沖合に當りどんどんと底力のある遠雷の如き音響三囘聞きたり、其後海水減退せり。
大槌町役場報告 強震後十分沖合に遠雷の如き音響を聞く其後海水減退せり。
甲子村大橋鑛山報告 強震後砲聲の如き音響あり。
下閉伊郡
船越村役場報告 トラツク數臺疾走し來たるが如き音響を聞きたり。
山田町役場報告 強震後十分どんと云ふ大砲の如き音響を聞く、其れより十分後海水減退し其の後十五分津浪襲來す。
(備考)宮古測候所並に鯔ケ崎燈臺事務所附近にては音饗を聞かず。
九戸郡
種市村役場報告 強震後大音響を聞く、海岸にては汽車の走るが如き音あり。
宇部村小袖漁業組合報告 強震後(午前三時五分頃)砲聲の如き音響二囘聞きたり。
野田村役場報告(久喜) 南東に二囘ハツパの如き音響を聞きたり。
山根村役場報告 強震後十分地鳴あり。
葛巻村役場報告 強震前後地鳴あり。
二戸郡
淨法寺村關直治氏報告 強震前後に地鳴あり。
田山村小學校報告 強震後三十分南東に地鳴を聞く。
荒澤村役場報告強震後大砲の如き音響あり。
一戸高等女學校報告 強震後(午前三時頃砲聲の如き音響を聞く。
福岡町役場報告 強震後鳴動あり。
金田一村釜澤事業區事務所報告 強震後(午前三時頃)砲聲の如き音響二三囘聞く。
岩手郡
四山村葛根田川發電所報告 強震後北東に二囘砲聲の如き音響を聞く。
淺岸村大志田事業區事務所報告 強震後遠雷の如き地鳴あり。
雫石村役場報告強震後遠雷の如き音響あり。
松尾村松尾鑛業所報告 地鳴あり。
御堂村亮演氏報告 強震後遠雷の如き音響を聞く。
和賀郡
湯田村役場報告 強震後大砲の如き音響を聞く。
江刺郡
岩谷堂町役場報告 強震後鳴動を聞く。
米里村役場報告 強震後大砲の如き音響三囘聞く。
膽澤郡
永岡村役場報告 強震後二囘鳴動を聞く。
東磐井郡
大原町小學校報告 強震後東方に鳴動を聞く。
藤澤町役場報告 強震後約三十分ドンと云ふ音響を聞く。
西磐井郡
若柳村小幡徳四朗氏報告強震後南東に大砲の如き音響を聞く。

一、強震津浪に伴ふ發光現象報告

午前二時三十一分の強震未だ歇まざるに當所より遙るか南方花巻方面に當り發光現象を認めたり。時刻は午前二時三十三分にして地平より上空に向つてポカツボカツと幕電の如く可成りの幅を以て光りたり。色は淡青白にして光度弱き方なり。因に此の發光現象の約一分前に停電消燈し四圍暗黒となりしを以て良く觀測するを得たり。尚管内盛町氣仙町、湯口村、淨法寺村に於ても認めたる旨報告あり。時刻は孰れも強震最中にして方
向は内陸地方は南寄り沿岸地方は東寄りなり。
各地の報告を列記すれば左の如し。
氣仙郡盛農學校長小山幸右衛門氏報告 強震最中戸外にて東南東の方面に當り明るい青光數囘認めたり。
氣仙郡氣仙町役場報告 津浪前東方に發光現象を認めたり。
二戸郡淨法寺村關貞治氏報告 強震最中南東の空に一時發光現象を認めたり。
稗貫郡湯口村中根子阿部竹氏報告 強震避難の爲め玄關の戸口迄出暫く立ち止つてゐる間に南方の空に當つて突然ピカツと青白い閃光を見たり。其の爲め一瞬間地上を青白く照らしたるも忽ち消ヘ星より稍々大きく見へたり。間も無く二度目の發光が同じ方向に同一の光を發したり。

一、強震津浪に伴ふ井戸水變化報告

今囘の強震津浪に伴ひ沿岸地方に於て井戸水に變化を來したる旨報告する所あり。多くは強震津浪直後より著しく減水したるものらしく所によつて殆んど渇水状態となりたるものあり。
越喜來村並釜石町より磯鷄村に至る沿岸中部に多く沿岸北部に於ては侍濱村役場より減水したる旨報告ありたり。
上閉伊郡釜石町役場報告 津浪當時より井水著しく減水し又は殆ど渇水したる所もあり四日午後より漸く常態に復したり。
氣仙郡越喜來村役場報告 井戸水一週間前より渇水又は混濁す。
下閉伊郡船越村役場報告 津浪數日前より井戸水減じ津浪後は殆んど渇水状懇となりたるものあり。
同 郡織笠村役場報告 堀抜井戸水湧出量半量以下となる。
同 郡磯鷄村役場報告 津浪前日より井水減少したるものあり。
九戸郡侍濱村役場報告 強震後井戸水減少す。

一、強震津浪に伴ふ海底岩石の移動報告

今囘の津浪に依り沿岸全部に亘り土砂礫陸上に運積せられ耕地等多大の被害を蒙りたる所多く(別項被害報告參照)殊に宮古測候所員の踏査するところに依れば下閉伊郡及び九戸の兩郡下に於て相當大なる海底岩石の移動したるもの多く左に報告す。
岩石の大きさ及び移動間數は目測なりとす。
下閉伊郡
田野畑村平井賀海岸 海底四尋の所にありし岩石一間半位の大きさのもの西へ約三十間移動す。
普代村大田名部海岸 海底四尋の所にありし岩石南西へ約百間移動す。
九戸郡
野田村海岸 海底四尋の所にありし岩石約二間半位の大きさのもの北ヘ約三十間移動す。
宇部村小袖海岸 海底岩石約一間位の大きさのもの西ヘ約六十間移動す
長内村 海底四尋の所にありし岩石約五尺の大きさのもの海岸に打ち上げられたり。

三陸沖強震津浪踏査報告(氣仙郡) 岩手縣測候技手 古舘金藏

三月三日

氣仙郡沿岸の災害地に出張を命ぜられ、直ちに列車にて一關乗換大船渡線にて高田町に向ふ。車中同車の人より聞いた事であるが東磐井郡藤澤町で地震後約三十分頃ドーンと言ふ音響を二囘も聞いた由である。
高田町着後先づ高田町警部補派出所を訪ね署長警部補佐々木健吉氏に面會し地震當時よりの模樣を尋ねた所同氏の談によれば「時計は二時四十三分で止つて居つた(勿論時計の正碓は信じられぬ)地震と同時に飛び起きたが歩行は自由に出來地震としては餘り強くなく、只餘り震動時間は長かつたので何んとなく不安に感じ床に入らずに起きて居つた。此の附近では大部分の時計が止まり、棚の物は餘程座りの悪い物の外は落ちた物少
く、最も強く震動して居つた時間は約四分間位であつた(震度は四位と思はれる。)
其後約五分位と十五分位後とに餘震があつたが本震後約二十分位後南より少し東に偏つた方より餘り大きくない底力のある樣なドーンと言ふ物凄い音響を二囘も聞いた。又外に同町の人で同時刻頃に同じ樣な音響を聞いた人が澤山あつたさうである。此の音響を聞いてから約十分位後「五尺位の波がやつて來た」と言ふ知らせがあつた。(高田町で警鐘を打つたのも餘程後れ町民が津浪の襲來を知つたのも其後餘程の時間が経過してからの事で甚しいのは翌朝まで津浪のあつた事を知らなんで居つた人も可成りあつたらしい。)
高田町では被害はないが高田松原附近は津浪の襲來があつた。此の附近に襲來した波浪は第一囘目は約五尺位にして續いて第二囘目の襲來がありこれが一番大きく二階まで達したさうであるから一丈餘と思はれる。浸水距離は百間位もあつた。此處の松原に二戸の家があつたが一戸は家の周圍に何んの樹木もなく他の家の方には海岸に面した方に樹木が少しあつた爲此の兩者の破壞程度を比較して見るに後者の方は幾分輕い樣である。第一囘目の津浪襲來前の潮の減退した事はよくは解らないが第一囘の波浪襲來の後一時一寸潮が引き續いて第二囘目の大きな波浪が襲ふて來たさうである。又續いて第三囘の波浪がやつて來たさうであるが前の波の約二分の一位の高さであつたさうである。夜明け五時半頃までには全く平常に復して居つたが午前七時頃再び潮が増して來たさうである。(此の七時頃の増潮は其の日の午前の滿潮の影響ではないかと思はれる當時の午前の滿潮時刻は六時二十分頃である)。

三月四日

高田町は地震の被害は勿論津浪の被害もなく火災などは勿論全くない。朝八時警察署員と共に廣田村に向つた。自動車は處々不通ではあるが途中まで自動車を飛ばす。
津浪に依る慘状を認めたのは沼田附近からで此の邊では約五百米の距離まで浸水し道路や田畑に家の壞はれた木切や舟の破損せるもの等散亂しその爲自動車も徐行しつつ漸くにして進む。脇澤附近の沿岸の家屋は殆んど全滅の状態で僅かに高處にある家屋のみ取殘されて居る。大體附近の有樣より推定して約十尺位の波浪の襲來と見られ切り立ちたる崖に當つた處では十五尺以上にも達した形跡は明らかに殘つて居る。小友村の濱砂、兩替、三日市の各部落では其の沿岸の家屋は殆んど全部約三尺から四尺位まで浸水し倒潰されたる家屋も相當あつたが他に比較し割合に少なかつた。又家屋全體の移動、轉換、腰板等の破損又戸障子などの破損等は勿論のこと其の外家財道具の破損、損傷等甚しく只柱に屋根があるばかりである。併し此處は全般に比較すれば被害の程度は少い方である。此の邊は廣田灣の奥にある小入江三日市浦の沿岸にある小部落であるから灣の主軸に沿ふて襲來した波浪は高田松原附近沿岸に當り、その餘波は三日市浦を襲ふた爲めその勢力も稍々衰へその爲倒潰流失家屋が少ないものと思はれる。此の對岸の長部々落では反對にその被害甚大の由である。途中谷地館附近の縣道の分岐點より警察官の一行と別れ廣田村に向ふ。途中只出部落の慘状を見たが實に悲慘なものであつた。當所は三方小山に圍まれたる凹地でその爲め全くの全滅で小部落にかかはらず拾八名の死者を出して居る。當部落の戸羽太郎氏について當時の模樣の大要を聞くに「地震は實に強く且長く五分−八分間位も震動して居つたが地震直後大砲でも打つた時の樣な大きな音が聞こえ、それより約十五分か二十分位後何んとも言はれない物凄い音を立てて第一囘の波浪がやつて來たが、波の高さは割合に少さく其の次にやつて來た波は大きく約十尺以上もあつたそうである、第一囘の波の來る前に平常より約十六尺−二十尺位の距離まで退潮しその爲め大低の人々は津浪の襲來を豫知して警戒して居つたさうである」此處の浸水距離は三百米以上もあり高處にある家屋の外全部倒潰流失された。(寫眞參照)それより急ぎ廣田村役場に行き(村長は實地調査の爲不在)吏員につき當時の模樣を聞く。
「地震後約五分位にして約五丁程の潮の減退を見それより約二十五分位後第一囘の波浪の襲來があつた。更に又二三分位後第二囘の波浪の襲來があつた。此の波浪の爲に家屋の倒潰漁船の破損流失等は一瞬の間の出來事である。其邊の大部分の人々は地震後の潮の減退を見て津浪の襲來を豫察し高處に避難したさうである。又廣田崎の集部落では一瞬にして家屋は倒潰され大小の漁船は元より何一つ殘らず波浪の爲に持ちさられたさうである。夜が明けたから沖の方に流船の浮んでるのが見えたがそれを取りに行くに船一隻もなく只だ見て居つたそうであるが何時のまにか其の姿も見えなくなつたとの事である。此の部落の大部分の人々は辛うじて裏手の山に登つて死を逃れたとの事である」尚此の附近の小部落の被害程度を聞くに、(表)


泊港附近の實地踏査の目的を以て廣田村々役場を辭し切り割りの小路を進む。泊港部落は海邊近くにある稍大さな部落である家屋も殆んど海岸近くに建てられて居る。その爲その邊の家屋は殆んど全部流失され、その跡は流はれた樣に綺麗になつて居つた。只大きな据へ釜か瓶の樣なものばかり殘つて居つた。
家屋の破壞されたものや、漁船等皆んなごつちやになつて一本道路に打ち上げられたる樣實に慘憺たるものであつた。海邊近くに建築されて居つた大きな家はすつかり倒潰され家根のみ二百米も山手の田の中に押し流され小舟などと一緒に取り殘された居つた。此處の漁業組合事務所は一部破壞されたが辛うじて流失を免かれた爲臨時役場の出張所及び配給所に當てられて居た(寫眞參照)。此處で二三人より聞いた當時の模樣を綜合して見るに第一囘の地震(此處でも時計が止つた程度で棚の物も殆んど落ちたものがなかつたさうである。只一軒棚の瓶が倒れたとの話があつただけである。震度としては矢張り此の邊も四程度で緩慢な長震動であつたろうと思はれる。)があつてから約十五分後第二囘目の余震を感じたさうだ。その時海面に注意して居つた人の話に依ると地震後約十分位にして潮の減退があつたさうである。その爲過ぎし明治二十九年の津浪の經驗者は津浪の襲來を豫言して警告をしたため大部分の人々は早く避難する事が出來たさうである、第一囘の波浪の襲來は地震後約三十分位で其の後續いて第二第三の波浪(第二囘の波は一番高く約十五尺位)の襲來がありその爲大部分の家屋は第二囘目の波浪に依つて倒潰され綺麗に流失されて居る。此の部落の人々は地震の爲一時戸外に跳出したさうであるが其後何れも大した事はなかつた爲再び家に入り床に就いた人が多かつた樣である。
津浪襲來の警告を聞いても起きないで遂にそのまま死んだ人が三名もあるとの事であつた 此邊では昨年頃より津浪が來ると言ふ事が頻りに言ひ傳ヘられて居つたので地震ある毎に警戒をして居つたさうであるが中には何時もの事の樣に思つて油斷して居つたものも少なくなかつた樣である。此の部落は約三百米位迄で浸水して居つた。此慘状を起した時間は僅かに第一の波浪襲來後二十分位の短時間の出來事で波の平常に復したのははつきりした時刻は解つて居らないが約二時間位後であつたそうである。土地の年長者に聞くに地震としては明治二十九年の時より遙かに強く併し地震囘數は少かつたさうである。明治二十九年の時は大した強いと言ふ地震ではなかつたらしいが非常に地震囘數が多く前日より頻りに前震があつたとの事である。又その時の津浪の上の方より覆ひかぶさるが如き相當大なる速度で襲來して家屋等を倒潰し有らゆる物を綺麗に持ち去つたさうであるが、今度の津浪は比較的穩かに下の方より押上がる樣な形で襲來し引き去る時は倒潰破損物やその他の物は全部置き去りにして、減退したさうだ。此時の第一波の襲來と第二波との間の時間は約三分間位であつたと話して居つた。時間の都合上集部落には廻らず泊港より前に來た道を引返して大船渡灣の細浦に着く。此處は大船渡灣中第一の慘状と見られ從つて被害程度も甚大であつた。此の部落は大船渡灣の入口にある一寸した入江に面する比較的底地にある爲海岸近くにある家屋は殆ど全部倒潰され漁船は三方の陸地に押し上げられ大きな發動機船等は民家に突入して破損して居るものなど多く見られた。此の部落の火災を報じられたのは大分大型の龍神丸と言ふ發動機漁船の火災らしい。此の船の發動機室邊よりの發火らしく半焼の船體を道路上に横たへて居るなど實に慘状の極みであつた。此の部落の慘害の爲め交通は遮斷されその爲大船渡盛町方面の聯絡自動車は不通となり翌四日の午後よりようやく開通された。此處の入江の入口附近では波の高さ約九尺位と推定され被害程度も少なく、只家屋に二三尺位の浸水を見たばかりである。併し奥の方は被害も甚大にして殆んど全滅の状態である。波浪の高さも一丈は越へたものと推定される。奥の方は緩傾斜地であるから三百米以上の距離まで浸水したらしくその跡歴然として居り小舟なども横たわつて居つた。尚海岸沿に進むと石濱船河原附近は約十五尺位の増潮と見られたが人家少く被害と認むるもの割合に少なかつた。又下船渡の海岸通りにある大部分の家屋は三四尺位浸水して居つたが倒潰家屋割合に少なく只町の中央部にのみ數軒半倒潰したものが見られたのみである。被害は此の部落中此の邊は一番ひどく大型の漁船など舳先を揃へて道路に押上げられ道路を越して人家に突入して居つた。此等の船を取除く爲に鋸で大きな船體を三つ位に切り多勢の消防夫達が太いロープで取除いて居つた。永澤附近の沿岸も約十三尺位の津浪の襲來がありその爲相當の被害もあつたが細浦に比較すれば余程輕い方で大部分の家屋は浸水した程度である。此の灣奥にある大船渡町は案外被害なく殆んど三四尺位の浸水程度で波浪の高さも約十二尺位と推定される。町の一番奥まつた處は被害程度も大きく倒潰されたものや半潰の家屋も數軒あつた。又家屋がそのまま道路上に押出されたものも數軒あつた。又そのままになつて居つたものもあつた。當時其の爲に交通も一時不通となつたとの事である。此大船渡灣の奥まつた處に河口を有する盛川と今泉街道との間の水田は六百米以上の距難まで浸水したらしくその跡も明らかに殘つて居つた。又小船等も五百米位まで押上げられ其のまま田の中に横たはつて居るものなど見受けられた。
大船渡灣にはもう軍艦二隻も入港し各水兵達は警備や其他各任務に就いて働らいて居つた。軍艦の派遣は非常に早かつた爲罹災者達も大變心強く感じられたさうである。又陸軍の救護班などの派遣もあつたので各災害地では軍隊の有難味を染々と感じて居つた。
此の大船渡に着いた時分は夕方の五時頃だつたと思ふ。其處で校長小山幸右衛門氏に面會し次の事柄を聞く。「地震は午前二時三十一分頃で約十分問位も震動して居つたが非常に緩慢であつた。直ぐに外に出て色々注意して居つたが、間もなく東南東に當り非常に明るい青光を數囘見た。後に聞いた事であるが同時刻頃に大船渡町の某氏も同じ樣な發光現象(?)を發見したさうだ。尚此發光現象を發見した當時まだ弱い地震を感じて居つた。(此の時の地震は十分位後の餘震と思はれる。)又本震後三十分位にして南東の方にドーンと言ふ餘り大きくない強い音響を聞いた。盛町で津浪の襲來のあつた事を知つたのは餘程の後の事で其爲警鐘なども餘程後れて亂打したが何んの爲に警鐘を打つたか暫く解らんで居つた人が多かつた。大船渡邊に襲來した津浪は第一囘目は静かであつたが第二囘目は非常に強く第三囘目は弱かつたさうである。又襲來の速度なども明治二十九年に較べて餘程遲かつたさうである。此處を辭した時はもう大分暗くなつて居た。それより直ぐに盛警察署と町役場を訪間した。警察に居つた時の事であるが同じ氣仙郡の廣田村泊港部落よりの被害報告の電報は盛警察署長宛に四日午後七時頃盛警察署に着いた。此の電報の受付時刻は前日の午前八時である。此の間の距離は僅かに四里半位なものであるから歩いても四時間か五時間で行ける處であるが一番速いとする電報で此の時は三十五時間も要して居る。こんな非常時には全く電報などは役に立たないものとつくづく感じられた。

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三月四日 小部落の被害程度

三月五日

早朝より怪しい空模樣であつたが七時頃よりポツリポツリと少雨が降つて來た。遠野へ向ふ途中沿岸の災害地では雨の降る中に多勢出て色々整理して居る。自動車は處々で除行する。倒潰した家屋の茅など焼き拂つて居る煙はその邊一面に立ち込めて息苦しい感がする。實際氣の毒と言はふか哀はれと言ふか何んとも名状し難い光景である。約五時間の中雪の中を疾驅して午後一時遠野驛に着く、此處より輕鐵にゆられ約三時間にして東北本線花巻驛に出て盛岡へ歸る。

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地図 三月五日 大船■附近津波被害略図

三陸沖強震津浪氣仙郡沿岸踏査概況 岩手縣測候技手 久保田謙

昭和八年三月三日午前二時半三陸沖合に震央を有する當地方稀有の強震は津浪を伴ひ本縣沿岸地方に甚大なる被害を與ヘたり。小職本縣氣仙郡沿岸地方の諸状況を踏査すべく命を受け折から釜石以北田老方面を視察の上當所に御立寄の中央氣象臺本多技師に同行八日朝氣仙郡盛町に向ひ同町一泊の後同郡越喜來吉濱を經唐丹に至り諸状況調査を了ヘ釜石一泊翌日歸所せり。
以下其概況を略記す、本文中津浪襲來の時刻或は地震後津浪に至る迄の時間、音響等を聞きし時刻等は津浪襲來に依り狼狽其極に達したる罹災者の區々たる言を綜合し其概略を定め浪高、及浸水區域被害状況等は本多技師と共に實測せるものなり。先づ、越喜來に至れば同灣は灣口稍狭し灣の中央部稍擴がり奥は狭し。踏査せるは村役場所在地本村のみにして同所は防波堤又は護岸等の設備全く無く海邊より次第に高く山際に至る斜面上に在り。極く自然の儘に在る漁港なり。本村は海邊より約四○○米位の範圍内は浸水し一般住居の大半は例壞又は流失せり。浪高は山麓及流失を免れたる家屋にある痕跡を見るに約八尺乃至十尺位にして海岸より約二五○米の地點に在る小學校に約七尺浸水し居り。當時の状況を同村助役に聞くに強震後三十五分位にして第一囘目の津浪襲來し爾後約十五分位の間隔をおきて三四囘襲ひ内第二囘目に來りしもの最も勢力強大にして此第二囘目波浪引上の際殆ど流失或は例壞せりと云ふ。尚同氏の語るところに依れぱ郵便局に在りし一號金庫約一町山手に押上られ又同灣は今囘の津浪後灣形慥に廣くなりたりと云ふ同村被害の大要は死亡八十六名負傷十五名流失家屋百十戸全壞(半壞を含む)三十五戸他漁船漁具及田畑海産物製品等甚大なる被害あり。吉濱村に至り灣形を一瞥するに同灣は灣口廣く灣奥に入るに隨ひ次第に狭くV字形の津浪に對し最も不利の灣形なり。然れ共同村は去る明治二十九年六月の大津浪に於ける大慘害に鑑み一般住居を海邊より五六百米を隔る縣道を狭みし稍々高所に移し當時居住せる跡は耕地整理を施したる水田なり。爲めに同村の一般住居は比較的被害少く水田、畑地等は荒涼たる石河原と化し居たり。他漁船漁具製品等の被害ありと雖同村死亡者は海岸工場に住居せる少數者僅々十六名なりしは不幸中の幸と云ふベきなり。當時の状況を同村小學校長小松善重郎氏に聞くに始め強震後十五分にして遙か沖合に大砲の如き音を聞き後約十五分にして第一囘目の津浪襲來し越喜來にて聞きしと同樣三、四囘の襲來あり。内第二囘目の津浪最も勢カ強大にしてこの第二囘津浪の引上の際に『ゴーウゴーウ』と物凄き音響を發したりと云ふ浪高には同灣奥南方の山腹約三十尺の所に浪の打上げし跡を見る、尚小職の踏査せる罹災地にして平常通り授業し居たるは同村小學校のみにして實に同村は沿岸漁村の津浪災害に對する對策の好範例を示すものと思ひたり。同村部落根白、千歳は縣道に沿ひ海画上約三十尺乃至四十尺の高所に在りし爲め家屋人命等には全く被害なく漁船漁具のみ流失せりと云ふ。尚千歳は同灣北岸の殆ど外洋に面し稍々突腐したる所にして同所岸壁約二十尺の高所に浪の打上げし痕跡あり。同部村住人松川龜吉老人の云ふ所に依れば今囘の津浪は二十九年の津浪の約三分の二の勢力なりしとは云ひたれ共種々の状態を綜合し三分の一も有らんかと推測せり。
唐丹灣は吉濱灣と同じく灣口廣く灣奥に至りて次第に狭し。
然して同灣内には二三の入江あり南岸中部の入江は大石部落灣奥は本村小白濱北岸入江に本郷・花露邊の部落あり。大石部落は海面上約二十尺の岩壁上に在り、浪高も意外に低く約三十尺前後して漁船漁具等に多少の被害あれども人畜には全く無く同部落大半の居住者は翌朝に至るまで津浪の來りしを知らざりし程なり。灣奥小白濱を訪へば其甚大なる被害に一驚を喫せり。
即ち本村の大半は流失或は例壞し和高所の縣道に沿ひたる家屋のみ辛うじて流失を免れたるを見る然れ共同所に死亡者の比較的少きは強震後約二十數分にして海水の減じたるを津浪襲來の前兆なりとし早くも高所に避難せし爲と聞く、同所浪高は二十尺前後と思はれる、浸水範圍は三○○米内外の所なり、同灣に於ても同樣強震後二十四五分減水し始め後十五分にして第一囘目の浪襲來し以後數囘に亘り襲來内第二囘のものが最も強大なりしと言ふ、浪高は第一囘十二、三尺第二囘二十尺前後かくして次第に遞減せりと。本郷は唐丹灣北岸に在り南東に面したる入江にして同部落に入るや其の被害の甚大なる事氣仙郡下第一位なり。同部落は總戸數九十八戸一六四棟内僅か山手に在る一二棟を殘すのみにして殆ど流失倒壞原形を止めず、慘状其の極に達す、人命被害も全人口六二○名内半數三六○名の多きに達す同所浪高約十五尺より二十四、五尺の推定にして格別の高浪には非ざれ共被害の甚大なるは其の理論的根據は暫くおき同部落を一見し感じたる事は左の理由に據る事も亦多かる可し、即ち同部落一體に海面上六、七尺の磯に在り三方山に圍まれ殊に入江正面に屹立せる山あり加ふるに同入江は南東向にして浪の來る方に向き此等條件に依りかく甚大なる被害を齎らせるものと思はれたり尚同部落は本縣田老村に次ぐ罹災地なり。隣部落花露邊は船上より望見したるものなれ共其大半は流失或は倒壞せるものの如し。以上記したる踏査記は各地罹災地に於て倉惶のうちに求め得たるもの隨て調査洩れ等の事無きを期せずと雖も之に依り今囘の強震津浪の如何に甚大なる被害を齎らせるか其推測の一端とはなる可き事を信ずるものなり。

三陸沖強震津浪踏査報告 岩手縣測候技手 辻芳彦

昭和八年三月三日午前二時三十分三十八秒九の強震に伴ひ三陸沿岸一帶に亘り大海嘯起る。盛岡測候所長の命に依り上閉伊郡釜石町より下閉伊郡宮古町に至る沿岸を踏査し其の調査概要を報告す。四日午前五時半盛岡驛出發、花巻驛で岩手輕鐡線に乗り替ヘの際中央氣象臺より本縣沿岸御調査の爲め出張せられたる本多技師田島技手の御一行に會ひ釜石町迄同行す。終點仙人峠驛で下車、難所仙人峠を越して釜石鑛山鐡道にて最初の調査地たる釜石町に到着す。直ちに災害地を視察し、又町役場警察署を訪問して當時の状況を聞く。五目本多技師御一行は船で氣仙郡吉濱方面調査に向はるるとの事に御別れして、次の調査地大槌灣に向ふ。急阪絶壁の鳥ケ澤峠を越して兩石灣に出づ。
兩石灣の慘状を車上より見、戀の峠を越して大槌灣にのぞむ鵜住居村室の濱部落を通過午前十時頃大槌町の手前二粁位の所で下車す。此處より先きは海岸道路破壞落橋の爲め徒歩なり。大槌町の災害を調査し、町役場巡査部長派出所を訪ね、状況を聞き正午次ぎの調査地なる船越灣に向ふ。自動車不通なる爲め徒歩なり。朝來の小雨次弟に雪に變り海岸絶壁の山路積雪約十糎に及ぶ。罹災者の苦難一方ならざるべし、、安渡、赤濱、吉里吉里、浪板の各部落を視察し午後四時船越村着直ちに村役場を訪ね當時の状況を聞き慘害を蒙りたる田ノ濱部落を視察直ちに引返して山田町に向ふ、午後六時着。此處にて今朝吉濱灣に向はれた筈の本多技師御一行に再會す、聞けば吉濱行きの囘航船は津浪の爲め運轉系統亂れ仲々來らず、依つて便船の都合にて海路參られしと云ふ。其れより自動車にて暗夜の山路六里餘を突破し九時宮古町着、直ぐ測候所に行き佐々木技手より當時の状況を詳細聞くを得たり。翌六日自動車にて出發、山田線經由歸所す。
左に各港灣に區別して調査したる大要を述ぶ。

釜石灣

釜石灣は大體東向きにして灣口稍々廣く灣奥に至り次第に狭く、其の北岸に釜石町南岸に嬉石部落あり。(第一圖參照)
地震の状況を釜石警察署員に聞きたるに、發震時は午前二時半頃にて、感じ方は普通の地震とは全く違ひ、非常に大きく揺れ而してかたかたと小刻みに上下に動き且つ非常に長く四五分間續き振子時計は止つたものもあり。又棚の上の据りの悪るい器物は落下したものもある。斯く繼續時間あまり長きため人々は大抵戸外へ飛び出した由。勿論地震に依つて倒れた家な無どは全くなし。又古老は明治二十九年の三陸津浪の地震よりは強く感じたと云ふ。余も良く注意して町中壁の龜裂でも無きかと調べたが一つも見當らず。殊に海岸漁村に良く見かける屋上にごろごろ置いた石なども朽ちかけた屋上でさへ落ちた形跡もい。地震の強さは強震の弱き方(階級四)と推定す。
町民中に前津浪に經驗ある者あり。強震後若しや又津浪が來るのではないかとの懸念を抱き三々伍々海濱に集まり、引き潮無きやに注意したりと云ふ。強震後約三十分即ち午前二時四十分頃遙か東方沖合に當りどんどんどんと底力のある遠雷の如き音響を三囘聞きたりと云ふ。(余も盛岡に居つて強震後測候所に馳せ付ける途中やはり遠雷の如きどんどんと云ふ音響を東の空稍高く(地平と約三十度の角度)聞き、不審に思ひ先着の所員に尋ねたるに同じく路上にて同方向に聞きたる者あり、其の音響たるや餘韻全く無くあつと思ふ間、瞬時にして止みたり。時刻は午前二時五十八分頃なり)。普通の海鳴りとは異りたるを以て不安に思ひ居たるところ數分後にして海水の急速に減退するを認めたと云ふ。目撃者の談に依ると減水程度は棧橋の始んど先端迄(百六十間)減水したりと云ふ。水深二米内外のものと推定す。すわ!!津浪襲來!!警鐘を亂打して町績き後方の裏山へ着のみ着の儘我先きと避難したりと云ふ。逃げおくれたる者乃至は一旦避難して再度我家へ引き返し者又は最初より輕視して逃げなかつた者が災厄にかかつて居る。津浪の第一波は午前三時五分頃(釜石鑛山郵便局長吉田四郎氏の談)即ち強震後約三十五分灣口沖合より突風吹き荒む如きごーごーたる物凄い音を發して沿岸に接近するに從つて次第に波高を増して襲來せりと云ふ。其の後約十分を經過して第二囘目の津浪襲來す。第二囘目が最も高く倒壞浸水は此の時多しと云ふ。其の後も約十分位間隔を置き第三囘、第四囘と襲來せり、津浪の最高は本多技師が埠頭場にある石油タンクに殘れる痕跡に依り調査せられしものに依れば十八尺以上(四日午後四時觀測の儘、潮位差を施さず)なり。釜石町に於て井戸水は津浪當時より著しく減水又は, 殆んど渇水し四日午後より漸く常態に復したり。津浪の灣内進行速度は非常に遅く明治二十九年の津浪より遅かつたと云ふ。
當時の天候は釜石町菊地清太郎氏の談に依れば前日二日は天氣良く日中非常に暖かなりしも夜に入り寒氣加はり津浪襲來當時は滿天曇り空で、殊に寒氣が嚴しかつた由釜石より外洋沖合出漁中の發動機船は急潮に會ひ難航したるも津浪なる事氣付かず歸港後に知りたる由、又其の當時將に出漁ぜんとして準備中なりし發動機船三艘は引き潮に依り津浪なる事を豫察し沖へ逃がれんとして運轉を開始したるも間に合ず港底に横倒れとなり其の儘第一囘の激浪にて陸上へ持ち運ばれ船員は命からがら避難したと云ふ。
釜石町被害區域は第二圖に示す如く須賀海岸通りにては釜石灣港修築公營事務所、水産倉庫を始め、住家等約百五十棟は第一囘目の激浪にて一呑に海底に渫はれ、礎石砂に埋まり、柱數片海濱に散亂するのみ。綺麗な砂濱となり此庭に住宅があつのかと疑はれる位なり。而して多くは他縣人なりし爲め津浪の經驗なく避難せざりし爲め多數の死亡者を出せりと云ふ。棧橋は先端の方は大した破損なきも岸壁に近づくに從ひ破損程度大なるは、次第に破壞力の増大するものと考へらる。因に此の棧橋の長さは約二百間位なり。次ぎは町の中央部、即ち場所前、只越及び大渡り通りの一部で倒壞又は流失の慘に加へて第四囘目の津浪襲來し未だ海水の減退せざるに場所前外二ヶ所より發火し誰も消火に行く者無く燃ゆるが儘に委せ目抜の通りを一舐めとし津浪の憂が無くなりてより消火に務めしが時已に遲く百九十六戸焼失、午前八時半頃鎭火したる由、勿論發火場所及原因は現場に誰も居合せた者無く遠く裏山より望見したのみにて不明なる由。現場を視察したるに倒壞家屋の大部分は船舶の激突に依るものにて其の潰家は又次ぎの家屋を倒すと云ふ具合に至る所發動機船、小舟等が家屋の屋根などに押しかかつてゐるのを見受く。船舶の繋留を嚴重になすべきなり。特に目に付きたるは倒壞家屋の中にコンクリート建の某銀行支店及夜警番小屋のみ原形其の儘殘れる事なり。又津浪の餘勢は町と釜石鑛山との中を海に注ぐ大渡川を逆流して大渡橋即ち河口より約一三○○米附近迄及ぼしたるものらしく家屋家具の破片が散亂し、發動機船が河原に横倒れとなれるを見る、又今囘災害を蒙りたる地域は明治二十九年の場合と殆んど同一地域なるを以つて、適切なる設備を施さざる限りは再度慘害を繰り返すものと覺悟せざるべからず。尚路上に持ち運ばれたる堆積物は砂とどす黒い土との半々に混じたものなりき。最後に釜石灣に於ける津浪襲來經路を按ずるに灣口眞東より進入したる潮は大部分は釜石町須賀に激突して二波に分れ一波は沿岸傳ひに北方釜石町中央部を襲ひ一波は南方嬉石部落を襲ひたるものなるべし。尚釜石町に於ける被害は死者二十五名行方不明四名負傷者二百名で家屋の流失は二百三十四戸、倒壞二百四十五戸焼失は百九十六戸なり。死者の割合に僅少なりしは豫め避難したる爲めで不幸中の幸なりとす。

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地図 第一圖 釜石灣
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地図 第二圖 釜石町被害區域

兩石灣

兩石灣口は始んど東向きにして廣く灣奥に入るに從つて峡くV字型を構成し最奥の低地に兩石部落あり。日程の都合上自動車を以つて通過したるに依り詳からざるも、車上より見た所では全部落一軒も殘らず倒壞若しくは流失の慘状なり。流材を拾ひ集めて急造した粗末なバラツク三個ばかれ山際に見受けらる。遭難した娘達が軍隊より給與された黄色の外套一板を着込んで波打際に寄せられたる家屋をかき集むる姿に車中より同情の聲起る。明治二十九年の津浪にて災害地には絶對住家を建てない事に協定したが漁師が能率低下を恐れて何時の間にか海濱に家を造り再度慘害を蒙りたる由。

大槌灣

大槌灣口は幾分東より北向き即ち東北東向きとなり、灣口廣く灣奥は二つの小灣と分れて峡く北の小灣には大槌町、安渡赤濱の部落あり、南の小灣には鵜住居村あり。(第一圖參照)
地震の強さは大槌町役場員の談に依れば午前二時半頃ぐらぐらと大きく揺れ出し仲々歇まず約五分間位續き上下動は感ぜざる由。人々は大抵戸外に飛び出したるも、棚上の器物の落下は稀なり。振子時計止る程度、勿論地震に依る被害は何等認められず。依つて地震は強震の弱き方(階級四)程度と推定す。
駐在巡査部長の談に依れば地震後約十分頃沖合に遠雷の如き音響を聞きたりと云ふ間もなく海水は沖の方に吸はれる樣に急に減水したらしく町民は津浪襲來を豫察して避難したりと云ふ。此の時大槌町郵便局交換手は釜石、大船渡等の隣接局へ津浪襲來を急報したる由。其の爲め大槌灣には釜石、山田等の各灣よりも早く津浪襲來したる樣傳へらるものなるべし。其れより暫く間を置き午前三時頃(大槌郵便局長鈴木虎太郎氏の手記)
第一囘の津浪襲來せり。十分第二囘目の怒濤押し寄せ多數の倒壞流失家屋を生ず。浪高は浸水家屋の痕跡に依り十三尺と推定す。其後約三十分第三囘の津浪襲來せり。其後も四囘五囘迄ありたる由。津浪の灣内進行速度は明治二十九年當時より遲かつた由。
大槌町の被害は第三圖に示す如く小槌川及大槌川に面する低地一帶にして就中大須賀は激甚にして住宅約百三十戸全部流失せり。特に注日せられたるは全部流失したる大須賀區域中にあつて六尺ばかりの盛土の上に小さい祠が其の儘破損もせず殘つて居る事で其の周圍には直徑四寸位の樹木が植へ付けられ其の枝高く家屋船舶等の破片が引つかかつてゐる。即ち此の樹木が防波林の役目を果して激突を防ぎたる好例なり。又小槌川、大槌川に架したる橋も發動機船の激突に依つて其の突き當られたる部分のみ、缺損し、交通は渡し船に依るか又は上流に假橋を設けて通ずるのみ。大槌町の南一粁を隔てたる岸壁にある三陸氣船事務所は堅固な洋館なりし爲め、津浪の襲來を受けたるも硝子窓若しくは建物の角々に多少の損傷を見らるるのみ。床上四尺位の浸水なり。又大槌川筋に於て七、八百米上流に目下土木工事中の庭あり。此處に働く人夫は附近山際に沿つてバラツクを造り居住し居りたるも今囘の津浪にて全部流失し十數名一人も殘らず死亡せり。目撃者の談に依れば地震の際一度起きたるらしく燈火見へたるも町より叫びたる津浪襲來の聲は大槌川に遮られて聞ヘず再び寝に就きたる間に浚はれたりと。鵜住居村の本村は以前の災害に懲りて高所に移りたる爲め被害なく鵜住居川口の住家は大概倒壞又は流失せり。
浪高約十五尺なり。大槌町の東安渡部落は波高約十三尺にして殆んど全部倒壞流失せり。其の東、赤濱部落は浸水したるものにて倒壞又は流失家屋は見受けず。波高十二尺位なり。此の赤濱部落の波害少なかりしは蓬莱島が灣中央に向つて連なり防波堤の役目をなし潮勢を弱らしめし爲なるべし。尚大槌灣の津浪襲來の經路は灣口より押し寄せたる潮流は雀島附近より二波に分れ一波は南岸を洗ひ空の濱、鵜住居を襲ひ一波は北進して大槌町、安渡部落を襲ひしものならん。大槌町の被害は死亡四十八名行方行明五十四名負傷三十九名にして家屋の被害は流失二百七十八戸倒壞百七十七戸浸水二百八十三戸なり。

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地図 第三圖 大槌町の被害

船越灣

船越灣は東南東向きにして灣口廣く灣奥は絶壁の直線沿岸をなし僅か南の小灣に吉里吉里、浪板の部落あり。北の小灣に船越村田の濱部落あり。(第一圖參照)
地震は船越村に於て聞きたるに午前二時半頃可成り強き水平動を五分間以上感じ大抵の人々は戸外に飛び出し振子時計止りたりと云ふ。震度は強震の弱き方(階級四)と推定す。
強震數分前より井戸水減じ津浪後は殆んど渇水状態となりたりと云ふ。船越郵便局長の談に依れば津浪の第一波は午前三時〇五分頃トラツク數臺遠方より疾走して來たれる如き音響を聞き其の音響聞きてより、二三分後なりと云ふ。其の後約五、六分間置き位に高潮押し寄せ、其の第二囘目が最高なりき、岩壁の痕跡により約二十尺と推定す。船越村の本村は明治二十九年の津浪にて當時の災害に鑑み、高所に移轉したる爲め何等被害なきも、其沿岸續きなる田の濱部落の慘状は田老村に次ぐものにて二百三十戸中僅か三十戸足らずを殘して全滅的に倒壞流失したり。然し津浪襲來の直前千二百名の部落民は裏山へ避難したる爲め僅か三名の死者を出したるのみ。最高潮は二十尺と推定す。吉里吉里並に浪板の部落は殆んど倒壞し、一部は流失し倒壞家屋通路を埋め、其の上に漁船折り重り混亂名状し難し。最高波高二十尺位なり。浪打ち際には多數の貝類魚類等海底棲息のもの打ち上げられたる由。津浪襲來の終路は灣奥の岸壁に突き當りて二波に分れ南進したるものは浪板、吉里吉里の部落を襲ひ北進したるものは船越田の濱を襲ひ余勢は約八尺の高さを以つて船越半島に通ずる低地を突進して山田灣に注ぎたりと云ふ。爲めに全く減水する迄約一時間船越田の濱間の交通は杜絶したりと云ふ。其の低地を視察したるに泥田の如くなり草類は全部山田灣方面に靡きたり。浪の越したる幅は百米乃至二百米なり。明治二十九年の津浪の際にも激浪は此の低地を越して山田灣に突入したる由なり。船越村に於ける被害は死者四名負傷者なし、行方不明一名家屋の流失二百一戸倒壞二十戸なり。

結尾

今囘踏査結果を一括すれば左の如し。
(イ)地震の強さは釜石、船越間沿岸にては強震の弱き方にして水平動を感じたるも釜石町に於てのみ上下動を感じたる事各地とも地震の被害は認め得ず。
(ロ)強震後約十分遠雷の如き音響を聞きたる所多し、海水急速に減退したる事。
(ハ)強震後三十分内外に津浪襲來し其の後約十分間位の間隔にて第二囘第三囘と襲來したる事第二囘目は最高なりし事。
(ニ)各灣とも明治二十九年の津浪より波高低かりしも大槌灣は一、二尺高かりし事。
(ホ)死者の割合に少なかりしは豫め避難したる爲めにして不幸中の幸なり。
(へ)災害地は前囘の津浪と全く同一地域なるを以つて適當の設備を施さざる限りは絶對に現地を避くべき事。
(ト)家屋の倒壞若しくは橋梁の破損は船舶の激突に依るもの多ければ撃留點考慮を要す。
(チ)コンクリート建若しくは堅固なる洋館造りは良く激突に堪へ得る事。
(リ)住宅の周圍には防波林若しくは堅固なる木柵を設くる事。
(ヌ)避難道路、避難場所を平常より考へ置く事。
(ル)毎年三月三日を期し何等かの方法にて地震、津浪の災害輕減の心得を徹底せしむるも無益ならざるべし。

山田町田老村方面災害地踏査報告 岩手縣測候技手 二宮三郎

命に依り三月三日強震並津浪直後の下閉伊郡山田町方面及被害最も激甚と稱さるる田老村方面の災害地實況を踏査すべく、五日早曉出發、陸行宮古測候所に立寄り踏査打合せの上、山田町に至り翌六日折返し田老村を踏査七日歸所即ち其概況を報告す。

山田町

約一粁の極めて狭い灣口を而かも北東に開口し外洋とは船越半島を以て殆ど完全と言つて良い位遮斷されてゐる巾著型の山田灣沿岸の各町村にあつては其波浪の勢力や被害程度はV状に開口せる本縣の他の港灣に比し一般に尠い模樣で、只この灣では前囘明治二十九年の三陸大津浪の際と同樣今囘も明かに山田灣に南位せる船越灣々奥に突き當りたる外海よりの直接波浪が右廻りして狭長且っ低濕なる船越地峡を溢流し、山田灣に入り同灣々口より來れる波浪と相前後して其反射經路に當る海岸町村に暴威を逞うしたるものと推さるるものがある。
山田町役場にて津浪當夜、發震前後山田町南方傳作鼻と稱する附近海岸にて作業中の佐々木福松及清川源太郎の兩君に就き其語る所を綜合するに、地震後約十分にて一囘「ドーン」と言ふ砲聲に似たる音響を聞き其後約十分時にして海水の引退を目撃し異常なるを直感しゐたるに、其後再び十二三分を經て津浪第一囘の波浪が波頭を光らしつつ(深夜に拘らす波壟明かに認め得たりと言ふ)北東より(大澤部落方面に當る)押寄せ來りたりと言ふ。而て第二第三の波浪の襲來は其後約十分の間隔をおきたるものの如く、第二囘目の波浪の高さが最大なるものの如し。即六日朝小職の山田町棧橋附近の波浪の痕跡に依り實測せる十五尺を最高波高と推し得べし。
地震の強さに就きても異口同音に緩漫にして且極めて長時間水平に震動し時計止りたると稱し、中には棚上のもの落下せる所あり、而して地震に依る被害は全く無きものの如く、震度は強震(弱き方)と推して可なるものあり。
津浪による山田町の被害を見るに其北半に於て流失及び倒壞家屋極めて尠く殆ど海岸通の一部に限られるに反し其南半飯岡方面に甚しき分布状態を示し飯岡の如きは倒壞家屋算を亂し、流失の跡慘たるものあり、西方七八百米山麓方面迄濁潮を押上げたり、以て斯る被害分布を速斷せんには尚充分の考究を要するも灣北大澤海岸よりの反射波を受く衝路に位する外山田町北半の護岸工事の施行しあるに反し南半飯岡の然らざるに依る事多かるべく、護岸工事の有力なるを如實に示せるものと推す、山田町役場當局の言ふが如く町民の統一訓練の宜しきを得てか流失家屋二六六戸倒壞家屋五九戸に比し人命の損失少なく僅かに死者七名行衛不明一名を出したるは不幸中の幸と稱すベきなり。

織笠村

山田町より南行約二粁にして織笠村に至る、この村落は護岸工事の殆どなき海岸に面せる戸數約三九○の小漁村なるが、極めて地形的に惠まれたる部落にて左方て傳作鼻右方に浪板崎を突き出し防波堤の如く且つ前面には大島小島女郎島の三島嶼を控へ防浪には屈竟たる地形にして、之が爲には織笠本村にて最高浪高八尺にして僅かに侵水家屋四一戸を出せしのみにて一の倒壞流失家屋なかりき。只織笠川河口近くに架しある橋梁が破壞され其上流二百米邊迄發動機船十數隻打上げられたる被害を顯著なりとす。尚里人に依れば地震後井戸水の半減せるものありと言ふ。

大澤村

山田町より大澤村に向ふ途中縣道附近汀線より三百米邊に大型の發動機船の横はれるを數個所車上より見る、大澤村は山田灣の北岸に位し船越地峡を奔流し來る波浪と山田灣口より入り來りたる波浪との合流の衝にあるものと想像され得る地點と考へらるべく、流失破片の大半北西方に押上げられあるを見る、村民の談を種々綜合するに波勢も山田織笠の比にあらず恐らく二十尺内外と推され戸數二一七の小漁村ながら五八戸の流失と五十戸の倒壞三四戸の浸水家屋を出し一名の死者さへ出せり、其他漁具海産物の被害も相當に上るべく村内の慘状は如上の事實を物語れり。織笠大澤兩村共地震程度は略山田と相似たるものあり、尚強震直後西方上空に青色の光象を認めしものと、地震後井水の減少を唱ふるものあり。

崎山村字女遊戸

田老村に向ふ陸路をとり途中崎山村字中の濱部落及女遊戸部落を通過す。
漏斗状の小入江の奥にある戸數二十四の小部落なるも汀線より約七百米を距てたるため僅かに數戸の浸水を見たるのみにて被害としては漁具其他の流失あり、附近中の濱部落にある土橋の流失より推算するに浪高二十五尺を求めたり。

田老村

明治二十九年の三陸大津浪に際し釜石以北の最激被害地たりし田老村は今囘も亦沿岸に於て其慘状右に出るものなく一世の視聽を集めたり。即ち戸數五六○戸中山手にありし小學校役場及び寺院と少數の民家を殘し流失家屋實に五○○餘を算し人口二七七三中死者五八四、死亡と推定さるる不明者三二七、負傷者一二二を出す等其慘鼻の限りを盡せり。小職踏査中(六日)猶續々死體の發掘あり實に鬼氣迫るものありき。
先づ田老本村に至る大平部落を見るにここは海岸より遠く地盤も高き爲家屋の流失を免れるも全部倒壞飛散しあり、此處より田老本村を望見するに五百余戸を蓮ね近く町制施行に村民の意氣揚りし本村は一望何等倒壞流失せる家屋の破片すち無く荒涼たる砂原と化し黒く一條在りし日の道路の走るあり、山手近く流失を免れたる全壞家屋の殘骸の整理に默々として從事せる村民の心情を憶ふ時悲愴の氣に打たれたり。
村長關口松太郎氏に來意を述べ其れより種々當時の状況を見聞し、其結果を纒めるに、地震感覺は各地と同樣緩漫にして極めて長き水平震動を續け僅かに坐り悪しき物棚上より落下する程度にて、被害全くなく震度階級強震(弱き方)と推されたり、而して第一囘の津浪は本震後約三十分に來り續いて第二囘目のもの二十分後、第三囘目は第二囘後約十五分に來り第二囘目のもの勢力強大なりしとは山田灣に於けるものと相似たるものあり。田老灣ば灣と稱するも外洋に面する一小入江の如き觀ある故其波浪の襲來し來る方向を視たる人々につき種々聽取せしも眞夜且つ波聲の特に異状ならざりしためにて明かならざるものあり、只灣内北部にて斷崕上紫草に印せし痕跡に依り宮古測候所金澤技手の實測に依れば灣奥北部附近に於て最高波高十一米五を示せりと且つ全村の浸水區域の北西方に擴大面積大なる等に依り僅かに波浪の南東寄りより襲來せるを想像し得たり。尚小職の實測に依れば田老本村入口平坦なる畑地より急隆せる山麓にある(汀線よ砂約八百米)杉林の樹幹に印せし濁潮の痕跡より之を推定するに約二十八尺を算せり。斯くの如き一瞬の激浪にして能く五百余戸の流失家屋と千に近き人命を損せし慘害の跡を考ふる時其原因種々あらんも地形的不利大なるものありと推意す、即ち田老村は東方海に面し三方山岳地帶を以て圍繞され、中に極めて平坦且稍廣濶なる地域を抱き海岸に平行小砂丘あり殆んど海面に近き田老村を僅かに波浪より防げるを以て一朝海水の氾濫あらんか瞬時にして怒濤の全村を呑むべき地形にありとす。且つ非常時に際し避難すべき山地の遠き事、其山路の險悪にして登行に容易ならざる事本村よひ山手ヘの道路少なく不便多き事尚當夜は激震と同時に電燈消えしも暫くして再び點燈せしに依り之が爲人心に幾分の安意を興へ再び就寝せしも今囘の慘害を大ならしめたる所以にあらざるやと推意す。
次に這般の津浪に關し其前兆と覺しき曉のを種々聽取せしに村民等しく言ふ所に依れば例年冬季に入るに先ち不漁となる鰯漁が昨秋以來引續き大漁なりし事等唱へゐたり。

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地図 田老村被害見取図

三陸沖強震津浪踏査報告 岩手縣測候技手 關正二

昭和八年三月三日午前二時三十一分發震の三陸強震に伴ふ沿岸津浪並に被害状況視察の爲め當管内九戸郡種市村久慈町野田村方面に出張を被命六日午前五時盛岡驛發の列車にて目的地に出發す。
途中車内にて乗客間の該地震に對する種々の感想中二戸郡小鳥谷地方に於て地震後三十分位後に大砲の發射せるが如き音響を聞きたる由當所の辻技手も亦發震後二十七分にして同樣な音響を聽取せるを聞き居たるを想起して此の話の過誤なきを確め得た斯くて九八線に乗換へた筆者は種市村八木驛附近は比較的被害甚大と聞き本絡的に調査すベく沿岸傳ひに走る車窓より津浪と被害の程度に注意しつつ先づ八太驛に下車せり圖は八木驛所在地及八木港に於ける津浪襲來の方向及陸地被害の程度を示すものにして以下八木港附近に就いて述べんとす。
調査の材料は總て羅災者の説明より得て居る。本部落に於ける地震の震度は強震程度にして性質緩慢なるも非常に長時間に亙る震動であつたと聞く而して津浪は地震後約三十五分にして雷聲の如き音響と共に最初の津浪襲來す十五分其の後略同一の間隔を以て第二囘第三囘の津浪あり其の中第一囘及三囘目の浪は一丈五尺位の高さにて襲來せるも波頭は碎けて水泡を交ヘ比較的勢力弱き方にして第二囘目の浪は高さ約二丈位あり波長大にして勢力強きものなり漁師間にては前者を白波後者を黒波と稱し居れり。
八木港は岩手縣に於て日下築港工事中にて防波堤は南東方に約二百米突完成し居たるも津浪の爲め約二十米突位つつ二ケ所飲潰せられたり思ふに此の防波堤は津浪を眞正面より受けたる爲め渦の形にて其の反動波を八木部落に及し殊更に被害を大ならしめたる如く推測せらる而して被害の程度は同部落五十戸中海岸に近き約三十戸は死者行先不明九十九名の慘害を蒙れりこれより見るも沿岸地方は津浪襲來豫防對策を深く考慮するの要あるを痛感せり。これより久慈町に向へり。同地町役場及警察署を訪間當時の模樣被害の程度を聽取す。翌朝九戸郡夏井村字港部落を踏査す本部落民の談に依れば地震後約三十分にして遠雷の如き音響起り間もなく最初の津浪襲來す其の後十三分にして第二囘又略同間隔を置きて第三囘と襲ひたりと言ふ高さは種市村八木部落と同程度にして一丈五尺と推定さる此の地は久慈町より約一里北東方久慈灣内にあり戸數約五十戸ありて灣に面して居るも津浪の襲來方向は圖に示す如く主勢力は久慈灣の北側に襲來したる爲被害も極小部分即ち北側に面したる磯邊に止まり流失家屋二死者一名を出したるに過ぎず是れ全く地形的に恵まれたるものと推察せらる。
同地の調査終了後直ちに野田村に向ひ村役場を訪間せるに村長宮澤氏の當時の模樣を想起して語るところに依れば三月三日午前二時三十分頃突如地震起り其の性質は緩慢なりしも強震程度にして而も震動時間の非常に長かりしは近年に見ざる異なる現象であつたと言ふ津浪襲來の状況は各地に於て調査せると大同小異にして即ち發震後約三十分にして強風に似たる鳴動と共に第一囘以後十二分間位の間隔を置きて二囘三囘の津浪襲來し波の高さも約一丈八尺もありたると言ふ此の地は圖に示す如く本部落は港灣の地形を有せざるも海抜約一丈住家も海岸を隔たる約三百米突の虚にありたる爲沿岸を襲ひたる津浪の猛威に對する被害も比較的輕少にして只海岸に近き約十戸を流失又は倒壞せるに止まり人畜の被害に至らざるは襲來せる津浪方向不變に依るものと推察さる。
筆者の視察任務も大體終了せるを以て歸途に就き途中當所依託觀測所を視察すべく種市驛下車種市小學校同村役場を訪ね地震並に津浪襲來の模樣を尋ねたる曉格別なる資料を得ず從つて本部落は被害と覺しきものを認めずして調査を打切り同地に一泊翌日午前八時八戸新間社を訪ぬべく出發す同社にて八戸市附近の被害の状況を參考の爲問合せるも漁穫用網類の流失を見たるのみにして人畜家屋には全く被害なき由なりしため同地午前十時發にて一路歸途に就けり。

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地図 津浪の襲來方向

三陸津浪踏査報告 岩手縣測候書記 金澤孫次郎

小職儀三月三日宮古灣内に於ける津浪襲來の觀測を擔任し並に灣内災害地踏査候に付左記及報告す。
三月三日午前二時三十一分三十五秒強震あり。振子時計止り棚の物落下す、小職非番にて自宅に在り、強震に因り直ちに出勤す。途中、川口附近にて海水を注目せしが何等異常はなし。
地震計を觀れば尚震動止まず。時々灣内を諸所見廻はしたりしも異常を認めず。午前三時二分風吹荒む如き沖鳴が聞へたり、直ちに灣内を見れば鍬ヶ崎前棧橋に繋留せる發動機船の傾斜せるを認めたり。側候所下の海岸にて約二十間海水干退し水深は約七、八尺減退せり。三時八分烈風吹荒むが如き轟々と云ふ凄じき音と共に地圖のABに至る直線に波頭碎け白波を立てつつ津浪襲來せり。三時十二分藤原須賀に達す。此の波浪の高さは約二米五(八尺)是より灣内は騷擾しき波音絶へず、ABに至る直線より藤原須賀に達するまで四分を要せり。此の距離五〇〇米にして即ち波音ありしより一分間に一二五米の速度なり。此の第一囘の波浪により測候所下、河口附近の住宅の戸、障子を浚ひ取られたり。地圖のABに至る直線の中、中央部は最も強烈にして磯鷄須賀の突端にて分岐し一方は高濱方面に進行し、
一方は此處より右に廻り磯鷄須賀、藤原須賀を洗ひつつ閉伊川の河口に向ひて進行す。其の勢殊に激烈にして第二囘、三時二十三分の波浪と合しつつ増々勢を逞しうし川口側の家屋を粉端微塵に折碎き其の物凄き慘状は眼前に見て居られぬ程なりき。
波の高さは三米六(十二尺)に及ベり。此の河口附近を襲撃せし波浪は強烈なるものは漸次灣内に進み、第三囘の波浪を合しつつ鍬ケ崎海岸を襲ヘり。一方閉伊川筋を遡るものは其の勢烈しからざるも中央部は河岸の通路より高く山成りをなして川筋に繋留せる發動機船八隻宮古橋上方まで押し運び宮古橋に二ケ所大なる毀損を生ぜり。河口附近より二號金庫を上流に向け約七百米持運びたり。河岸一帶の家屋は大なる被害なく浸水せしのみなり。鍬ヶ崎海岸を襲ふものは殊に甚しく三時三十五分第三囘の波浪と合し漸次右廻をなし海岸の家屋は殆んど玄關部は破壞され全潰したる家も數戸あり。發動機船の道路に打揚がれるあり。枕木の道路を埋め、通行不能となる所夥し、此の波の高さは三米(十尺)の高さで右廻りをし、日立濱よの角力濱まで達せり、此處に至るも波浪の勢は衰へず波高三米を降らず。第四囘の波浪は三時四十五分約二米(七、八尺)の高さで襲來せり。
是より灣内は尚騒擾しき波音は絶ヘず、午前四時十分に至りて灣内は全く静穩に復せり。此の津浪の襲來したる時の潮位に就ては三月一日午前三時十分一七五糎同二日は一七三糎なれば三日の午前三時十分の潮位は一七一糎と概算せり。宮古灣に於ける平均潮位は一六八糎なれば即ち津浪襲來時には平均潮位時なり。三口午前五時日立濱に据付けたる驗潮所に至り檢分せしが驗潮所は跡形もなく流失し僅か波打際に器械の大破せるものを拾得せり。肝腎の記象紙は取外れ正確なる海水の于退の模樣や波浪の高さを算高する事能はざりしは呉々も遺憾とする所なり驗潮儀を据付けた建物は角力濱龍神崎宮古築港事務事作業現場内に漂着せり。築港事務所にも應援し各所にて記象紙捜索せしも全然行方不明なり。三月午前六時半測候所下の白然岩の側面にて、波浪の通過せる濡跡より水面まで三米三と測り、潮差○米三を加へ最高波浪三米六(十二尺)と算せり。三日午後二時外海に面せる蛸の濱に於て側面岩壁の波浪の通過せる濡跡より水面まで七米二と測り潮差○米六を減じ最高波浪六米六(二十二尺)と算せり。宮古に於ける被害概況は死者二名、負傷者五名家屋の流失十五戸、半潰十四戸、床上浸水七十四戸棧橋の流失二十四船舶の流失發動機船十一隻小舟四十一隻あり。磯鷄村に於ける踏査の結果は磯鷄に於て強震は時計止る程度、津浪襲來前海水の干退せしは海岸より約五十間にて間もなく三時十五分第一囘の波浪襲來し、磯鷄須賀の南端「カツサゲダチ」(地方名)の出崎より右に廻り閉伊川河口に向ふ此の波は陸地に被害を及ぼさす。約十分後に襲來せし第二囘の波浪は強烈にして須賀近くに在る家屋四戸流失し、五戸半潰十九戸浸水せり。負傷者三名を出し、小舟十隻流失す。波浪の高さ十五尺第三囘の波浪は第二囘後十分にして襲來せり、何れも須賀傳ひに北に向つて突進す。高濱には磯鷄須賀突端より分岐せる波浪の漸次突入せるものなり、部落の前方に當つて廣大なる砂丘(突出せる半島にて造船所、鰯粕製造納屋等の建物あり)附近に居りたる男女四名津浪襲來に因り部落地に避難する際遂に波浪に浚はれ三名溺死せり、此の砂丘の陸地に接したる部分約五十間波浪の爲切抜かれ、發動機船の航行出來得る深さとなり、先端部の淺れるは今囘の大なる痕跡なり。部落地に浸入したる波浪の高さは七尺程度にて襲へり、家屋の流失二戸、半潰二十四戸、浸水二十四戸負傷者三名、傳馬船二十隻流失し發動機艇五隻破損を蒙れり。
金濱には約五六尺の波浪襲來す。非住家一棟流失半潰家屋四戸浸水四戸、傳馬船十隻流失す。人畜に被害なし。此の浸水地一帶に蝶ドンコ等の魚類打揚げられたり。
津輕石村の内法の脇には五尺程度の波浪襲來し、床上に浸水したる家屋四戸、床下浸水五戸あり。大字赤前に於ける津浪襲來の模樣は午前三時八分宮古地方にて始めて波浪の音せし時は遠方に幽かに轟々と云ふ音を聞きたりと云ふ。此の音次第に高くなり、(高濱、金濱に襲來せし時なるべし)三時十五分頃より海水急激に干退す、此處の海岸は遠淺なる爲め干退せしは七、八十間に及べりと云ふ。三時二十二分第一囘の波浪襲來す。此處に襲來せし波浪は磯鷄村を襲撃せるものとは別個にして堀内沖にて始めて波浪顯はれ押し寄せしものなり。此の部落の東側釜ヶ澤より右廻りして津輕石川に向つて進行す。海岸の保安林松木多數南西方に向ひて打倒されたるあり。第二囘の波浪は最大にして第一囘より十分後襲來し海岸より五百米以上も浸入せしが家屋は大抵高地に在る爲め大なる被害を免れたり。平地に在る家屋二戸流失、一戸全潰浸水家屋六戸、鰯粕製造納屋七棟流失、傳馬船十隻、小舟十五隻流失せり。釜ケ澤海岸の里道の石垣五十間崩壞す、人畜には被害なし。第三囘の波浪は第二囘より約十分後にして勢弱く押寄せたり。尚海面は騒擾しく、四時頃静止せり。海岸又は部落地の流失したる間の所々に柱を土中に打挿して建てたる鰯粕製造納屋の淺存せるは特に注意を要する所なり。浸水地に打揚げられたる魚族は蝶、鰻等あり。蝶は殊に夥しく部落民は籠にて幾十となく笈運べりと云ふ。貝類はアカガヒ多數打揚げられたり。堀内は海岸急斜にして第二囘の最大なるもの五、六尺の高さにて緩漫なる波浪襲來し、鰯粕製造納屋一棟全潰し小舟數隻流失せるのみ家屋の被害なし。

踏査報告 岩手縣測候書記 金澤孫次郎

十九日午前五時出發磯鷄村神林より渡船にて白濱に渡り九時重茂に着、日程の都合により先づ鯔ヶ崎燈臺に向け出發することにせり。途中種刺の海岸(長さ約六十間の須賀)一帯に流失物(家材の破壞せるもの家具衣類其他)の小山の如く山積せるあり、海流の關係が斯く夥しく打寄せたるは珍らしき現象にて他に認めず、此の海岸にて木材搬出の人夫三十三名小屋に居り津浪の爲め浚はれ死者二名十六名の行方不明傷者數名を出せりと言ふ。十一時半燈臺に着く、看守長外廰員の方に面會津浪當時の模樣に就き伺ひたるに強震は可なりの振動であつたが何等被害なく廰員一同無線電信室に徹宵したが津浪に就ては更に知る所なく音響發光現象も何等認めず。
三日午前十時頃村落に津浪が襲來したとの報に接し、廰員を派したる次第であるとのことなり。燈臺は岩壁上二十九米直下の水潔は四十尋にして津浪に因る増水はせし模樣なるも波の音は全然聞えざりし由、是より山道を越え姉吉に至る、此處は重茂部落中最も悲慘を極め、部落十四戸全部流失外に根瀧建網の漁具置納屋ありて漁具の流失は多大の損害を蒙れり。住民百二十名の内辛うじて三名のみ生存九十九名の行方不明者と十八名の死者とあり。部落地は全く荒野と化し、石河原となり、唯一の屋敷跡と認むるコンクリー面に餅搗臼と電燈變壓器あるのみ、踏査中一人の人影も無く、實に静寂其ものなりき。
此の部落は海岸廣く奥地狭く波浪の奥地に襲來するに隨ひ益々浪高を増し、四十尺の高地に在る家屋も流失せり殊に兩側の山は斷崖を成し避難すべき術もなし、海岸の北側山の中腹に目通り五寸乃至八寸の松木數本沖の方に向ひて根扱ぎ或は途中折れとなれるあり、此處より海面まで十二米三(四十一尺)と測定せり、海岸より七百五十米の奥地まで浸水せり。
此の部落地の奥地より海岸方面を眺むるに宛然二枚屏風を立てたる如く部落は其の狭き部分に位す、是等が全滅の原因なるべし。是より千鷄に至り踏査す。此の部落は海面上四十尺の高地に在り、波浪は北側より此の高地に乗越し、海岸に近き家屋一戸、長屋一棟を流失す、死者二名、傷者三名あり。
千鷄分教場訓導昆傳次郎氏の談に依れば強震は可なりの動揺なりしも地盤堅牢なる爲か時計の止りたるは稀にて棚の物落下したるは無く地震に因る被害はない。強震後一度ピカツと青白く光りたるを認めたり、方向は何れなりしか唯眼前に閃きたりと言ふ、音響は聞かざりし由、二時五十分頃平常の波音絶えたる爲め海面を觀れば海水約十二間干退し、間もなく三時轟々と言ふ音と倶に東南東より津浪襲來す。
校舎の硝子戸非常に振動せりと言ふ、此の波浪は部落地に達せず約七分にして第二囘の最大なる波浪襲來し、部落地に乗越へ家屋を流失す、約十分にして第三囘の波浪襲來せるも部落地に達せず海岸は騒擾しき波音絶えず四時頃平常に復せりと言ふ。波の高さは北側に於て四十五尺、南側に於て二十尺程度なり、此の地にて川口附近に在りし供養塔長さ一八○糎幅上部五五糎下部八○糎厚さ五○糎のものは上流に向ひ二十五米押運ばれ同下臺石の縦一六○糎横一二五糎厚さ五○糎のものは上流に向ひ五十米に處に押運ばれ在り。
昆訓導の記録せる所に依れば七年四月上旬より中旬まで鞭藻類(クラゲの如きもの)の群集浮流し根瀧建網に取群り爲に網起し不能となり終に約十日網揚げ(漁獲中止)の止むなきに至れりと云ふ、此の鞭藻類を學名にて「アンフイデニユム」「オペカラテーム」又「スピロデニユウム」「クラツサム」等稱す、此の異常なる現象に就ては或は海流等に變化のありたるや目下專門的の研究中なりと言ふ。
是より石濱に至る、此の部落は北側は海面より三十餘尺の高地に在る家屋二戸流失餘程引上がりたる家屋一戸半潰せり、南側十尺餘の高地に在る家屋一戸倒潰せり、死傷者二名を出す、波浪は北側に向ひて襲ひ波の高さ北側に於て四十尺南側に於て十五尺と推定せり。
川代は前方は山田灣の小根ヶ崎突出して居る爲か波浪比較的溺く最大十五尺程度の波浪襲來し、家屋一戸流失鮮人土工の死傷者數名あり小船十數隻流失せり。
二十日重茂(里)にて踏査を行ふ。重茂の役場學校附近の部落は可なりの高地に在るが里は海岸より五百米乃至七五○米引上りの平地に在りて南方と北方より山地突出し袋の如く成れる處に部落あり。戸數五十餘戸あり、強震は震動殊に烈しく上下動あり、時計は止り棚の物落下し障子の破れたる所あり、強震後發光現象を認めたる由、三度閃きたりと言ふ。明治二十九年の大海嘯の際は殆ど全減したる所なり、部落民は大震後全部戸外に出て火を焚き警戒したる由。
三時海岸に轟々と波音聞えたり、津浪襲來せりとて全部高地役場方面へ避難し牛馬も皆引揚げ爲に人畜には被害なきも家屋は二十四戸流失し岸漁用小舟は全部流失せり。半潰家屋二戸浸水家屋三戸あり北側の山林内に避難し津浪襲來の模樣を目撃したる人の談に依れば第一囘の波浪は勢弱く田地附近まで襲來したが約五分後凄じき浪音と共に部落地に襲來し、鳥瞰圖の如く南側山地の出鼻より分岐して一方は川筋傳ひに進行し、一方は山岸傳ひに部落に突入す、中央部の浪頭高く兩側に低くゴツゴツゴツゴツと言ふ浪音と共に襲來する状態は宛然龍の頭を立て手を擴げて襲ふに似たりと言ふ。
浪の高さ十尺餘此の最高部分を中心として岸より右方に廻り始め家屋を押流しつつ一周して海岸に向ひ進行せりと言ふ。石垣にて組立てたる高さ四尺の里道の南側に在りし長さ七尺にして一尺四方角の石材十四個を全部北側に持運びたり、石垣を崩壞せざるは奇異とす、約十分後第三囘の波浪襲來したる模樣なるも海岸附近に押寄せ部落地に浸入せず、三時五十分海面平常に復せり、海岸にて最大波浪の高さ岩壁上の痕跡より海面まで十米九(三十六尺)と測定せり。
役場に立寄り挨拶を述べ種々參考となるべき事を聽取せり、昨年二月頃より此の地方の沿岸に厄水流れ來り(丁度フノリを湯にて溶かした如き濁水)五六月甚だしく八月頃迄繼續す、爲に多くの海藻數は枯死し海藻採集は全く不能と成れり、石芥草密生す、但し重茂村は根瀧以北が著しかりし由、是等の異常現象は沿岸地方にては稀有にして濁流の原因等に就ては今囘の前兆としても深き研究を要すべく沿岸漁民の痛く宿望する所なりと言ふ、全村に於ける被害概況は死者四十一名負傷者九名行方不明者は一三三名、流失家屋五十戸浸水家屋六戸あり。
是より音部に至り踏査す、此部落は平地に在る部分は里と相似て強震は振動烈しく振子時計止り棚の物落下す、海岸高く家屋は岸の小高い所又は奥部に在る爲め被害少し、波浪の高さは海岸にて痕跡まで二十五尺と推定せり、部落地に五六尺の波浪南側より北側に廻りて襲來し家屋一戸流失漁具置納屋四戸倒潰し、小舟十數隻流失せり、人畜には被害なし、津浪襲來前五分頃海水約七八間干退し間もなく三時に轟々と言ふ音と同時に東南東方より第一囘の波浪襲來し海岸にのみ押寄せたり、約五分にして第二囘の最大なる波浪襲來し部落地に浸入す、十分にして第三囘の波浪襲來せるも部落地に達せず、三時五十分海上平常に復せり。
鵜磯は海岸狭く且部落は高地に在り海岸近くに在る家屋一戸流失須賀に建てたる漁具置納屋四棟流失し、小船十隻流失せり人畜には被害なし、波浪の高さは海岸にて十五尺部落に打上げたる所は二十尺余まで達せり。全部落の浸水地一帶に蝶、アブラメ、スイ等の魚類打揚れり。
二十一日歸途宮古灣に面せる磯鷄村の内白濱にて調査す、此
處の海岸より急に深くなり、爲に津浪に極めて緩漫なる波浪襲來し、何等被害を與へず津浪襲來前五分頃海水が、三四間干退し、三時十五分第一囘の波浪襲來約十分にして次囘の波浪稍々大にして高さ五六尺海玲近き家屋五戸床下に浸水せり、小舟二十隻流失せるも直ちに捜索し是を拾得したりと言ふ。

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地図 被害略図
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津波被害
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地図 海岸部の被害及び部落の被害

三陸津浪岩手縣下被害報告 盛岡測候所

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(其の一)(人及家屋の被害)
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(其の二)(舶船及漁具類の被害)
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(其の三)(家畜、耕地、道路等の被害)

宮城縣下津浪踏査概要報告 石巻測候所

緒言

昭和八年三月三日午前二時三十二分に發震せし今囘の強震は岩手縣釜石の東方約二百三十粁沖合の極めて淺き海底に發せしものなり依つて本縣沿岸一帶は津浪の虞れあるにより本所に於ては直ちに應急手配をなせしが地震直後通信機關は全く不通となり復舊後の故障及輻輳交通機關の杜絶等によりて之を徹底せしむることを得ざりしは甚だ遺憾なりき、依つて直ちに本所員及仙臺出張所員に命じ第一班佐藤技手を鮎川、金華山方面に、第二班村上技手を女川雄勝方面に、第三班今川技手を歌津志津川方面に第四班星澤助手を氣仙沼、唐桑方面に稍遅れて第五班阿部技手を閖上、荒濱、坂元方面に派し、以て詳細なる海嘯調査をなさしめて將來に對する對策を講ずると共に、兼て、罹災地に於ける流言蜚語の取締に努めしめたり。第六班は中央氣象臺國富技師、竹花技手の來縣を待ちて、野口技師及長南技手を同道せしめて、之が總括的調査を爲さしむると同時に、出張所員川添技手を本所へ引き揚げしめ、齋藤高橋兩助手と共に本所の擔當事務に萬遺漏なきを期せしめたり、以下取敢えず踏査報告を取纏めて簡單概要報告となし調査の完了を俟ちて改めて地震海嘯報告を作製す。(尚閖上、荒濱、坂元方面の踏査報告は追て速報す。)

金華山鮎川方面踏査報告

第一班は牡鹿半島兩岸の實地踏査を命ぜられ即日出發し、途中地震津浪の跡を踏査し歸所左の如く復命す。牡鹿半島は北上山脈遠く南に延びて海中に突出し、西に仙臺灣を抱き地質は中生層に屬し、概ね粘板岩より成り所々に花崗岩及砂岩の噴出を見る。山谷直ちに海に逼り山はそのまま岬角となり谷は水を入れて灣を形造る故に海岸の屈曲多く殊に東岸に比して西岸は甚し、灣の中央は少しく砂濱となり數十の漁家聚りて一村落をなす、實地踏査せる結果その西部に於ては鮎川、小淵、小網倉等の如く南乃至南西に灣口を有する地方は海水の襲來甚だしく浸水及小舟の流失多く、十八成、大原、小積等の如く部落の北西乃至西に面せる地方は損害比較的に輕微なりし事と網地島の東岸及南東岸のみ五六尺の浪襲來せるも北乃至北西岸にては平常に異らざりし事及南方より北するに從ひ其の損害の輕微なりし事(渡波等にてはその浪、土用浪位の高さに及ばざりしこと)等より推考するに半島西岸は津浪南東方より北西方に襲來せるものの如し。東岸に於ては鮫浦灣のみ唯一の灣にして東に開口し、その津浪は東より襲來す。
津浪の最初に於て海水減退せしか押寄せしかに就ては夜陰の事とて注視し居れる者極めて稀にして往々にして押し上げられしと云ふ者あれども船を艤し居たりし人々は口々に三四丁も引き退きしを明言せり。
半島の東西兩岸を通じて地震の後三十分乃至四十分頃東方に大砲の如き音響を聞き井水は注意深き人なかりし爲か地震に駭きしものか鮫浦にて唯一人のみ津浪の直前井水皆無になりし事實を語れり。
地震は震度比較的に本所より弱く、強震(弱き方)或は弱震程度なり。東岸に比し西岸の損害輕微なりしは浪の高さに於て東岸より低かりし爲と、護岸工事の堅牢なりし爲と堤防の東岸よしり高き爲と考へらる。
又半島一帶に亙り地盤の隆起及陷沒は認められず龜裂等は發見せず。


金華山 金華山に於ては強震(弱き方)程度水銀が溢出し燈臺の明暗廻轉装置に故障を生じ一時廻轉不可能となつた。當夜燈臺にては所員二名徹宵その見張に當り警戒し觀測せるも音響も聞えず且光りも見當らなかつた。此の島の元船場にて小舎を建て「ふのり」採集に從事せし男六人の中津浪に浚ははれて一人老人死亡。


山鳥の渡 此の地及其の東岸は斷崖が直ちに海に逼つてゐるので人家はその三四丈の崖にあり且南風強く波の高い日には船は崖の上の樹木に縛り置く習慣なればこの日も波浪高き見込みにて船を縛つて置いた爲船の流失はなく從つて津浪により被害もなく津浪の襲來さヘも知らずに居つた。


網地島 此處に於ては金華山に面した東岸及南東岸では西及北西岸は平常と少しも變らないにもかかはらず、五、六尺の大浪押寄せた樣な形跡あり、その部落の人に聽けば第三囘目の時の浪最も大きくその時に退いた潮は大潮の時よりも大きかつた。
地震後三十分位で南方より第一囘目の浪押寄せこの津浪の寄せる前金華山方面で「ザアーツ」と云ふ音を聞きし人あり。又地震の前一時間位の頃にも略之と同じ音を同じ方向に聞いた人があつた。尚網地島は周圍盡く崖である關係上被害は少しもなし。


鮎川濱 地震後四十分を經て津浪が襲來しその寄せる前は潮が退いて長さ二十間許りの棧橋の橋脚が明かに見えたし其處に碇泊して居た、捕鯨船の赤い船腹が明瞭に見えた。間もなく第一の浪がやつて來た浪は南方から押寄せ夜明迄八囘も反復襲來したが護岸工事が丈夫であつた爲に浪は港川に逆流して其の岸に沿ふた家屋の床上一尺位に浸水し其の他も浸水と云ふた程度。港川の川口に架した「トロ」の鐡橋墜落し東洋捕鯨會社の工場は屋根と柱は殘つて立つてはゐるが中は奇麗に浚はれた、丁度これが灣の眞南に面してゐる。鮎川檢潮所も石垣の上一尺程浸水し死者なく倒壞家屋一、浸水十六、小舟の流失二、井戸水は此の一帶に水道が敷設してある爲に特に井戸を調べた人はなく從つて不明である。
地震の三十分位後南東方に「ドン」と大砲の樣な音を一囘聞いた。津浪は三陸海嘯後これで三度目であるが地震ば今度のが一番強く長く、津浪は今度よりも明治三十二年の方が大きかつた。


十八成 十八成の部落は北西を向いてゐる爲か被害極めて少なく、唯小川へ潮が逆流して其の附近が浸水したに止まり海岸には大浪の寄せた氣配すら見えず藻屑等が打上げられて居た浪は八、九尺位の堤防を越え得ず井戸水は變化なく地震の後三十分頃東方で大砲の樣な音を聞いた。


小淵 小淵は十八成の灣を扼する北側の岬の突端にあり。細く南より灣入してゐる入江の北端に位し地震後浪は南方より浸入し泥を混へた波は八尺乃至十尺の高さで侵入し住家全郡を浸し小舟の流失相當あり岸から一丁半位隔つて田圃の中に舟が三隻打ち上つてゐた、浸水家屋五十戸、地震後東に大砲の如き「ドン」と云ふ音を聞く。


大原濱 三時頃濱に出て見たらその時は汐が退いてゐた雲が降つた後ですぐその具八日がわかつたが石垣の所で三尺位は退いたらしいその後家に戻つたら大砲の樣な音が東で聞えて間もなく南西の方から潮が上つて來て寄せては引き引いては寄せ一時間位の内に六囘繰り返へした。音響は第一の音から又十五分位の時に微に聞へた。井戸は格別の故障なし。浪の高さは堤防の高さ十尺ありそれを越さない所から見て七、八尺と思はれる。


小網倉 ここも地震後二十分位で南から潮が押寄せて浸水した、地震後津浪の一寸前に大砲の如き音を聞いた。波は強くなく押寄せる樣な具合で五、六囘繰返して退いて行つた。浸水二十四戸、倒壞一戸。


小積 小積は浸水した家なく所々小川の岸が崩れてゐる位の損害で船が二丁位奥の田圃の中に流れ込んでゐた、崖の崩れ目に現れてゐた赤土に殘つた浪の高さの線は十五尺であつた。


鮫の浦灣 鮫の浦灣は深く東から西へ灣入して北に寄磯の岬突出して女川灣を畫し灣の西端中央に大谷川の部落と其の南隅に谷川と北隅に鮫の浦の兩部落が位置してゐる、そしてその灣口は直ちに外洋に開いてゐる此の方面では最も被害の甚大な部分である。
谷川は戸數約六十七戸の一漁村部落である又鮫の浦とても之に半する小漁村部落である。鮫の浦と同樣谷川も此の地震で一度起き上つた、人々が再び寢てしまつたこれが殆んど全滅程度の此の悲慘を招いた第一の原因であつたことは衆人皆之を認めてゐる。寝て間もなく第一囘目の津浪が襲來し、この瞬間谷川も鮫の浦も一朝にして殆んど全滅してしまつたが誰一人としてこの部落の人は其の後の津浪の模樣を知る者がない。話を聞いても皆始めから押し上つて來た浪に呑まれてしまつたと考へてゐる。
谷川と鮫の浦の中間の大谷川の人でその有樣を親しく目撃した人の話によれば地震は十分位揺れて止み揺り返し(餘震)が來てそれが止み其の後十五分位の時に東方に當つて「ドドウン」と云ふ大砲を打つた時の樣な音が聞えた間もなく海水が一時に沖の方へ引き姶めたので井戸を覗いて見たら井戸の中は空になつてゐたその引いた距離は約三町位もあつたらうか明治丸と云ふその人の持船が錨を入れて流れない樣にして置いたので砂の上でごろごろしてゐた、間もなく大浪が東から少し南に寄つた方(東南東位)から一時に襲來し、一度に此の部落は其の中に呑まれてしまつたが自分の居た所も水に浸つたのでその方に氣がとられて後の事は知らないと云ふ。區長の人も起きた時はもうすつかり水になつて居たが地震の最中は井戸の水があつたと云ふてゐる。
此處を襲つた浪は崖の崩れた所の赤土に印された波の線から測ると約一丈八尺位になり濱邊の住家は皆西方の山の裾に流されてゐる鮫の浦も略之と同樣の襲撃を受け上下動の強い衝撃後三十分位を經て「ドン」と云ふ音を東方に聞き東の方から津浪が押寄せ最初の音から十五分位後に同じ方向に微かな音を聞いた此處にても後の詳細を知る人更になし。
との中間に位する大谷川はその灣の中間に位する大谷川はその灣の正面に在りながら、地盤が高い爲に水は殆んど一丈位押上げて來たけれども浸水した所は殆んどなく被害もない。
谷川も鮫の浦も西岸に比べて波は可成り高かつたけれどもその海面にあまりに近くに家があつた爲と堤防が海面上四、五尺位の所に砂をもつて築いた弱いものであつた爲に堤防の役に立たず且家が貧弱であつた爲に尚更其の被害が大きかつたと云つてゐる現に谷川に於てすぐ海面近くにある或大きな家は床の下が全部浚はれ軒の上まで水に浸されながら流失せずに殘つてゐたのを見ても、この話は肯かれる此處に於ては明治二十九年の三陸大津浪の時はこれよりずつと浪が低く死者も一人しかなかつたが今度は谷川に於て完全な家十戸他は半壞と流失で、死者二十二名、鮫の浦で住家流失十一戸、死者三十四名に達してゐる。其の東方に當る方面は人家もなく斷崖が續いてゐる爲に浪の高さを測ること不能で且又唯一の交通機關である舟の便も此の地方が全滅したので休止の状態となり踏査不能となつたが寄磯は被害少しもないと聞く。


尚最後に此の地震の發生せし頃岩出山に在りし某は東の空に稻妻の如き色の光りを見たりと云ひ、網地島の人も地震の直前に北西方に山火事の如き光りを見たりと云ひ、渡波にても地震の最中南西方に南より北に亘り稻妻の如き色の淡蒼き光りを見たる者あり。此處に附記して置く次第である。(測候技手佐藤彦郎)

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浪の方向
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浪の方向2

女川雄勝方面踏査報告

昭和八年三月三日正午女川着、附近の津浪襲來後の慘状損害状況を調査の目的を以て女川駐在所を訪れたるも不在に付直ちに役場町長及農會長に面會せるに時今多忙にて被害調査未完なるを以て唯津浪襲來模樣を聽取し直ちに現状調査を行ひたり被害状況左の如し。


女川町 鮫の浦の北隣にして金華山島の北方約七浬半にあり早崎と出島とを以て灣口とし幅約二浬奥行約四浬余にして灣内二港に分れ北西にあるを女川港と稱し南西にあるを野々濱港と稱す、女川港は灣の北西隅に位握し能く風浪を障屏す、然れども錨地狭隘なり港口の殆ど中央に甑根と稱する險礁あり、干出三尺乃至四尺にして高潮に沒し現今は之れに標燈を設置せり。
満首に女川村外數村あれども皆寒村にして供給品に乏し。地震發現時後沖合即ち女川東方に當り丁度汽車の音に似たる大音響あり午前三時二十分より午前八時頃迄前後十四、五囘の津浪襲來せり、浸水區域は熊野神社石垣上部の高さのもの小學校前町役場附近迄達し浸水床上四尺より二尺程度と認む。魚市場より民家に至る堤防最近工事終了日尚淺きため波浪の激に依りて地上の所々に龜甲状の淺き凸凹あり其の長さ二間程にして幅三、四分程度の地割あり。被害は住家毀損四十棟無害浸水五十七棟非往家毀損二棟、非住家浸水五棟漁船流失動力を有せざるもの十五隻、發動機船五隻魚粕千五百二十俵莚千五百枚の損害あり。


竹の浦 女川灣口の北側に位したる港首にあり尚地盤高きを以て床下に浸水せるも損害微少なり。


出島 女川灣口の北側にあり南北に長き多樹の島にして外觀暗黒を呈し島の周圍には數多の島嶼岩礁あり此の島の西側出島濱村の前面に一小灣あり水深八尋乃至十二尋にして北に鮹島を控へ居り。出島と陸岸との間なる出島水道は最も狭き處幅約一町半位にして其の中央の水深十八尋なり。床下浸水程度の損害なり。


尾浦 浸水の物置小舎梗所各一戸の倒潰。
雄勝灣は女川灣の北隣にして出島の北端と桃生郡十五濱村半島の白銀崎との間にあり灣口の幅一浬半、北西方ヘ灣入すること約四浬にして雄勝濱あり、灣の南部に尾浦御前の二浦を有し北部に水濱大濱の二浦を有せり女川より雄勝に至る内地の山嶽は大抵童禿なる高嶺にして高さ一、三二一尺より一、六八四尺に至る。


立濱 此所の岸に打上げられた家屋、木材、家具、器物の流失は十五濱村雄勝濱よりの漂流物なり、雄勝よりの距離約五十町此處には被害なし。


大濱 海岸附近の物置小舎に浸水程度の損害なり。


分濱、水濱 床下浸水程度。


明神濱 地形の關係にて浸水せる程度の損害なり最近完成せる雄勝、明神間の堤防約二十間許り缺潰し居れり。


雄勝 海岸筋の四、五軒と役場より郵便局、駐在所附近の高臺を除きては殆んど流失倒潰の有樣にて、慘状言語に盡せず村役場に至り村長に面會せるに全住家四百戸、倒潰家屋大約百二十八戸、全潰七十二戸流失十一戸死者三十九人、行衛不明三十五人にして漸く殘りたる家も戸障子は殆んど無き程度なり、尚罹災者救助及炊出し等に追はれ未だ取調に着手不能の由明治二十九年の三陸大津浪の當時被害甚大なりしを以て五六尺の高所に家屋を建築したるも前囘の三陸大津浪より更に激しかりし爲か遂に流失となりたり、駐在所より南四、山手の小學校方面へ約一丁離れたる所の人家の浸水高さ地上より九尺四寸海面より約一丈五尺、三日午前三時十分頃北東の方向に當つて「ゴl」と云ふ。大音響を聞き直ちに戸外に出でたるに一度海水は引き第一囘の浪にて此の災に會ふ。


荒屋敷 白銀崎より北方大須崎を經て荒屋敷に至る海岸は露出暗礁沿布し其の一、二は岸を離る二鏈半の處に位し、其外側直ちに徒界となる。爲め常に浪荒く部落民の日常必要品は海上輸送は不可能にして船越より大濱峠を經る山なり前囘の三陸津浪當時は浪の高さ十九尺五寸、その附近より約十尺以上も高き所に家を建てたるに其の石垣の根本迄浸水す推して考ふるに、今囘の浪の高さ三十尺以上に達すると、明治二十九年の三陸津浪の翌年も亦前年より強き地震あり良く記憶に新になるを以て又津浪襲來かと部落民は戸外に出でしに何等津浪襲來なき故、地震強ければ津浪は伴はぬものと早合點して、今囘の如き悲慘を見たり、今度の地震は高橋梅吉老の記憶にては一番強く且つ長かりし由、地震直後「ゴー」と云う大音響東の方より聞え後三十分許りして津浪襲來第一囘目にて大半沖合ヘ流失されたるものの如し、尚明治二十九年の三陸津浪の時の被害は全部落十六戸中流失八戸、死者二十八名に對し、今囘は流失二十一戸、行衛不明六十名、死者十九名重傷者六名なり。


船越 全家屋百三十戸中浸水家屋八十戸にして流失家屋二棟四戸納屋六七戸流失。


名振 浸水家屋八十戸、破潰三戸、半潰七戸、納屋流失五戸 (測候所技手村上勇)

志津川町及歌津村方面踏査報告

志津川町
被害、流失家屋 二戸、倒壞家屋二戸、浸水家屋床上 五十三戸、 床下 百十六戸、人畜被害 馬一頭、船舶被害 モーター 四隻、發動機船 二隻、石油タンク船 一隻、小船 四十隻、木材流失 四十石、橋流失 一
状況、地震直後光を認む、最初青光を帶び間もなく赤色に變じ尾を引きて消ゆる直前大砲の如き音を立てて消ゆ。津浪襲來時刻は地震後約三十分、町内を流るる小川に沿ひ出水し兩岸の民家床下可なり浸水せしも被害なく當町の最水所の水位五尺五寸なるも町役揚附近は約七八尺増水し小川の兩岸約二十来迄約五寸位浸水の跡を殘して夜明け近く減水す。同町にては津浪襲來を怖れて町民二千人は小學授に避難せし爲被害なし。なほ沖合よりタンス(一棹)流れ來り、志津川町にて拾ひしも多分小泉村の物らしいとの話なり。


歌津方面


歌津村字伊里前。
被害、浸水家屋 七軒、橋流失 一、堤防破壞 二ケ所、電柱損害 數本、小船二十三隻(田の中にて見受く)
状況、津浪襲來直前及直後の模樣。二時半頃地震ありしが當部落民は地震のみと思ひ間もなく寝につきしが約三十分位して沖の方でゴーゴーと言ふ音聞き部落民は堤防に上つて(幅二間餘)沖を見たるに島附近に幕を張りし如くにして津浪襲來を見直ちに取るものも取り敢へず丘の學校に避難せし爲人命に損傷なし。津浪の襲來は沖の方に見へし時から割合時間をおき極めて悠つくり來た樣で浪は二囘位來て、一囘目の時は非常に強く典の一囘目の引波の時幅二間餘のコンクリートの堤防二ケ所(一ケ所は二間半一ヶ所は一間)毀さる堤防の高さ水面上約一丈二三尺で堤防の後にありし人家は床上約二尺程度の浸水にて此處は割合被害少なく此れは伊里前川が流れ居る爲で其川に沿ふて水が出、川の兩岸にありし小船は田の中に(川より約百米)流され電柱數本倒れ川に架しし橋引波の時流され約十米海邊に流さる、出水は川に沿ひ約二百米、浪の高さは約一丈五六尺。


歌津村字中山。
被害少く伊里前より山に沿ひ中山に來りしが途巾道路なく濱連ひに調査せしが途中の通路の邊り迄出水し海邊より約百米、波の高さ岸の印を見るに約二丈。山と山の間の田の中に電柱數本倒れ、被害は海邊より約十米位の所にありし土藏立の精米所一軒、浸水家屋六軒倒壞家屋一軒と言ふ僅少で濟む。


歌津村字名足。
中山より山連ひに海を右手に見て名足に向ふ。此の邊は山亦山で山一つへだてて他部落となつて居り途中醫者に間違へられて名足に着く。此の部落も被害僅少にて浸水家屋三脚流失家屋一軒行方不明一名出水當時の模樣を部落民に聞くに此の邊も地震後三十分位津浪襲來前約百米あまり減水し問もなくゴーゴーと言ふ一音を立てて水があふれ出る樣になり出水し波の高さ一丈五六尺で道路に沿ひて約百来の所に小舟二隻打上げらる。尚魚類タコ、アワビと言ふ樣に近海にありし物は打ち上げられ今迄水にごりて魚類等打ち上げられし事あれど「アワビ」は打上げられた事はなかつたから今度の津浪はどんなに底の方がひどくやられた事かなんて部落民が驚いて居る。


歌津村字石濱。
道路を間違へ山中を歩き波の音を右手に聞き知らぬ間に石濱に入る。此の濱は割合被害多き地なり。
被害、流失家屋六軒、溺死二名行方不明十四名、小舟二十八隻、倒壞 家屋一軒。
状況、地震後十分位で津浪襲來、出水前約五十来位減水す。水の色は此處も泥色に濁リ泡を立てて押寄せて來た。明治二十九年の津浪の時築きし長さ二十来の濱石の石堤及びこれ以前に築きたる高さ五尺の石垣も共に破壞された。流失家屋六軒は海邊より約十間の所にあり逃げ遅れし十六人が家と共に持ち去られ其中二名溺死、後十四人は行方不明、海より約百二十米位にありし納屋流失、屋根のみ殘る。水のすつかリ元に復せし時刻は四日正午頃なりしとの事なり。井戸水は此處も灰色に濁る。浪の高さ二丈五尺出水の長さ約二百米。

氣仙沼方面踏査報告

(一)唐桑村只越。
午前三時頃ドンと言ふ物凄い音が聞えた時は水は非常に引いて居たが直に二十尺乃至二十五尺位の高さの津浪が襲來した、約四分の間隔を置いて襲來する事前後三囘全戸數の九割通りの五十餘戸が倒壞或は流失した。此處は砂地で海岸から十數間位の處に丁字型の道路を中心に人家があつたが、殘りし物はわずかに土臺の一部のみでその外は何物も認められない。
而して倒壞流失せし材木屋根其他漁船等は主に南方に押流され打上げられて居た。(A)七八噸位の漁船が部落を通り過ぎて海岸より一町半程離れた丘に打上げられて居た。(B)部落の中間より幾分南方に幅約二間位の川があつたが、これより多く浸水せる爲川に沿つて倒壞せるものあり。倒壞せし材木がこの川を押上げられしものと見えて、上流一町半程の處に重なり合つて居た。
只越の南方一二町にの處は二三十噸の發動機船が顛覆しており、五噸程の發動機船が道路を横ぎり海面上高さ二十五尺以上の傾斜せし畠の中に打上げられて居た。これを見ても如何に津浪が高かつたと言ふ事が知られる。尚本部落は本吉郡中最も大なる被害を被りし所である。


(二)鹿折村字鶴ケ濱浦。
灣の兩側の家屋浸水せしも流失せず正面は倒壞又は流失し一家四名行方不明にして津浪の高さ海面より十一尺位なり。


(三)唐桑村字宿。
午前三時頃突然海面より十四五尺の津浪襲來し續いて前後二囘の津浪が襲來した。部落の中心より稍々南側を通る幅一間半程の小川あり川の南側は北側より一二尺高きも可成の浸水あり河岸の納屋はヒサシまで(八尺)浸水あるも倒壞流失家屋なく北側は大部分倒壞し發動船の乗上げたるものあり海岸より二町餘り浸水し一町程の人家にても床上一尺程の浸水あり。


(四)唐桑村字鮪立。
午前三時頃ドンと言ふ異樣な音がしたが約三四分にして十尺位の津波が襲來した。續いて約二十分の間を置いて第二囘目の大津浪が押寄せた(或人は三囘押寄せたと言ふ)この二囘目の津浪が最も強かつた。其後小さいのが幾囘も、あつたが午前六時頃に至つて平常に復した。
人家は全部三尺位の浸水があつたが、むしろわらの外は灣内に見えなかつた。死傷は無かつた明治二十九年に三陸地方に津浪があつたが、此の時は東風で可成りの荒天であつた爲被害が非常に多かつたが、此處は北西の風の爲割合に被害がなかつたと言ふ。明治二十九年の苦い經驗によつて人家を高い所に建築したと言ふ事を聞いたが、之れが被害を割合少からしめた原因ではないかと思つた。明治二十九年の時は或高臺に在つた人家のヒサシ(目測八尺)迄浸水したとの事であるが此度のものは玄關より一尺位までしか浸水しなかつた。それから見ると明治二十九年の時よりも十尺位低い事になる。又明治二十九年の時浮流し山の中腹に打上げられし家を其儘修理して住家としたのが今度は全然浸水しなかつた。


(五)唐桑村字小鯖。
午前二時三十二分頃地震があつたが約二十分許り經つと海水が急に二十尺以上も引いた(A點附近迄であつたと言ふ。)午前三時頃ドンと爆發した樣な物凄い音がしたそれから四五分すると高さ約十二尺位の波が見る見る中に六尺位の土堤上にある民家に押寄せて來た。波は三四分の間を置いて前後三囘に渉り押奇せた。最も高かつた波は第二囘目に押寄せた津浪だつた。此の三囘の津浪によつて人家は殆んど倒壞又は流失した。
これでも明治二十九年の時より津浪の高さは半分だつたと言ふ。小さい漁船が數隻約百間程ある谷間の方ヘ押流されたものが多かつた、又五十噸詐りの發動機船は岸に打上げられて居た。
家屋或は船舶材木等倒壞顛覆したもので灣は充滿して居た。明治二十九年の時は東風で引波が強く家屋は大半流失せしと言ふ。納屋は高さ六尺の水線を殘し下半分は壁が水の爲落ちて居た。


(六)唐桑村字砂子濱
津浪の高さを調査するに絶好の場所であつた。海岸は砂濱にて波が折れて居たのと岩石が所々に隆起して居るので相當淺い所であると思つた。ここは堀の南側は赤土の崖にて北側は畠地であるそして赤土面には、はつきりと津浪の跡を語る水線が殘つて居る。津浪の高さは海面より約二十五尺乃至三十尺、浸水せし幅約一町浸入せし長さ約一町半位であつたが浸水せし場所は畠であつた爲人家一戸流失せるのみ。


(七)唐桑村字石濱。
午前三時頃一度津浪が押寄せたが之は小さかつたが一二分後第二囘の大津浪が襲來し三戸倒壞一戸流失し一家七名行方不明となつた、三日中は流失家屋が沖に浮んで見えたが四日に至つて不明となつた。勿論引き上げる船は無かつたと言ふ。海岸砂濱より數十間離れたる所に高さ十一尺位の盛上げたる道路あり。而て道路の高さは海面上より見ると三十尺内外になつて居る。津浪は之を越して浸入し道路内側にありし家屋を倒壞す。これより見ると津浪の高さは優に二十五尺前後ありしものと思はれる。それでも明治二十九年の時よりも五尺前後低かりしと言ふ。砂濱と道路との中間を走る電柱數本流失せるも復舊工事中なり。 (測候助手星澤政治)

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地図 唐桑村字只越略図

坂元荒濱閖上方面踏査報告 石巻測候所

一、坂元村

坂元村字磯部落は總戸數七六戸の小部落にして渚より約二町位の位置にある防潮松林(此林は石巻、長濱海岸にあるものの如きにして中濱、荒濱等此邊一帶にあり汀よりの距離に遠近あり)の終端にて主に防潮林と同位置に家屋あり。全潰及倒壞せる家屋はいづれも防潮林外三四間汀より最も近きは二三十間第一砂丘といはるる處(續いて間もなく防潮林あり高さ同じ位)に建てられたるものにして全潰せるものの、瓦茸家屋は元位置にて松林の方に倒壞せり此磯部落附近の防潮林内には海水來りたるものの如く某被害漁夫の談に依れば地震にて目を覺まし何等の異變なきを以て再び寝に付き(其時海鳴あるも常と同じ)なるが約三、四十分か一時間後と思はれる時海鳴強く(其内次第に海鳴ものすごく地震後一時間半四時頃と思はるる)海嘯あるものと同感起き上れば海水土間に來りあるを以て直ちに海岸汗より十間の處に積み置きたる石積(高き九尺)の上に昇りて海水を望めば海一面白光を呈し見る間に自分の足もと石積上踵を沒する海水來りたるを以て後方に逃れたる由此時刻四時半頃と考へらるる。夜の明くるを待ちて我家に來れば家は元の位置より約三間後方の林に打ちつけられ松林の方に倒れ居りたる由なり。
尚二十九年の時より津浪は弱く昨七年十一月十五日の暴風の時も海ぶくれ有海水十五尺位高く今囘の被害家屋は全部浸水せりと又此磯の海は前囘沖合三里程迄の根あり此ために何時も被害を受くると云ふ。隣濱釣濱は何等の破害なき由附近津浪の高さ確然たる目標なきを以て南方砂濱傳ひに行けば海面汀より五、六間の處に小山の一端切割りしたる如き崖となり居る處あり之にて海面より、津浪の高さを測れば十尺以上十五尺位の處にある松の根洗はれ居るを以て海に直面せる處は襲來せる海水の高さ十五尺位あるものの如く推測さる。次に中濱部落にいたれば防潮林内三町内側にあるを以て被害始んどなく只此部落にも防潮林間外側近くに建てられたる家屋の壁二尺位海水に濡らされたるを見る此處にては漁船砂丘より防潮林迄打ち運ばれあり。
津浪の高さ十二、三尺位の樣子なり此處にても漁夫の談前同樣。
坂元村被害、負傷者 七名 流失家屋 一戸
全潰 十六戸 半潰 二十四戸
床上浸水、十三戸 床下浸水 四十二戸
小舟流失、六十四隻

二、荒濱

次に荒濱に至る同村役場を訪ね被害及當時の模樣を糺し阿武隈川口方面砂濱を踏査せしも川口入海などにて確然たる痕跡を認め得ざるも村長の談によれば砂濱にては五六尺位川に入りては三尺位の高さに來りたる由にて地震後十分及び三十分後も同樣の海鳴ありたるが、四時頃になり海鳴甚だしく翌朝附近を見れば普通の潮時位まで水の來りたる跡ありし由なり。尚昨七年十一月十五日の東南の暴風雨の時は滿潮時より四尺位高くなりしが其の時より弱く明冶二十九年よりは地震は強いが津浪は弱く海岸線の變化あるを以て確然たるものにはあらざるも明治二十九年の半分位なりし由、川口も島の海も入口の砂丘を越さず。

三、閖上町

閖上町にては浸水家屋二十戸内床上浸水三戸にして海面より八尺位滿潮時より三尺位の高さに迄來りたる由にて砂濱を越したる跡なく同村長の談にて地震後約一時間乃至一時間半にして來り明治二十九年の時より少き由。尚荒濱閖上いづれも金華山の御蔭にて大したことなき由なり。
被害 床上浸水 三戸 床下浸水 一七戸
(測候技手阿部二郎)

昭和八年三月三日地震津浪調査報告(其ノ一) 青森測候所

地震報告

三月三日午前二時三十一分東徑百四十五度三北緯三十九度七附近に發現したる地震の概況左の通り報告候也。

發震時 三月三日午前二時三十一分四十七秒五
初期微動繼續時間 五十三秒九
人身感覺時間 約十分
最大振幅 不明
震央距離 四百粁
震度 強震(弱き方)
性質 緩縵
尚本震後余震續發したるも本所五十倍の地震計に徴ずるも其後余震囘數を減じ其勢力も漸次衰退に傾きつつありて震度次第に終息に向ひつつあるを推知するに足る而して津浪の誘發は第一囘のみの現象にて三月八日更に潮流異變の徴を報ぜられたるものは沿海に於ける潮汐の干滿期の定常變化と考ふるべく爾後の觀測位相が既に順調なる經過に移行せるものの如し。今左に其調査概要を示せば、三月三日二時三十一分以降の地震囘數

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三月三日二時三十一分以降の地震囘數

三月三日午前二時三十一分地震後の津浪に就て

八戸市
一、八戸は瀬戸物屋一軒五十圓程度の小被害あり、不安定なる棚上の物落つる程度に過ぎず。
一、新井田川附近鮫、白銀方面は人々避難す。
一、蕪島鮫町に架しある八戸築港エ事用橋梁は流失す。
一、八戸港碇泊中の汽船二隻の中一隻岸壁に衝突し損傷あり。
一、新井田川湊川口。午前四時十分又は二十分毎に大浪湊川に押寄せ碇泊中の發動機船、小舟、艀等を河上に押流せる爲河堤又は漁船相互に衝突し別表の通り損害を生じたるも、河堤に沿ふ道路面には氾溢せざりき、八戸市中家屋としての被害著しきは白銀海岸の三島湧水を基點とし小川に添ふ地點にて土地の比較的低きと地形百二十度以上外に開きたる奥に位置する爲汀に迫る波浪は相重疊して破壞力を増したる程度なり。ウネリの如き波状をなして襲來するに先だち海水一時引智然して鳴動しつつ寄する波高は平素の風波に倍し、水産學校北寄の汀の崖上にある建物に殘せる波浪の跡(別紙寫眞參照)は海面より。四米を計測せり湊より鮫に到る海岸は隨所に難破船散見す。
一、湊(柳町在住某氏談)地震直前に北東方士り地嶋あり、地震後三十分位にて水が河へ逆流し一囘目二囘目は十分位の間隔にて第三囘の波の襲來は増水四、五尺一般風浪と異なり、水勢速強なる爲船舶の被害甚し、明治二十九年の海嘯より水嵩低く浸水地域狭小なるも海嘯としては以前より強き樣思ふ由古老の談あり。この符號せざる點は河川改修工事等の施行せられし爲か不明なり。
一、湊觀測所にては最高波浪の起時は午前四時二十四分にて底鳴りドロドロと聽取せられ八、九尺水引きたる後に現れたり。
一、埋立地コンクリート岸壁の海岸に直交せる所鮫漁業組合事務所ありて岸壁に激突せる余勢の爲め大破せり。


被害調。
湊濱須賀。住家浸水二三戸。磯舟流失九。非住家浸水二四戸。同破損二三。發動機船破損二七。〆粕流失四七、○○俵。
鮫。發動機船流失一。住家破損七。納屋破損四。磯舟流失四。非住家 破損一二。棧橋破損三。築港機械二萬圓程度
市川村。濱市川(二十尺)床上浸水二戸。床下浸水三戸。非住家屋倒壞
四戸。人畜被害なし。
百石町、
一川目。浸水家屋十戸。破損家屋八戸。漁船破損一〇戸。
川口。死亡(小兒一名)倒潰家屋一戸。
二川目。住家破損一。住家浸水三。非住家屋流失二。同破損三。非住家浸水三。人畜被害なし。
三澤村。
四川目。死亡六名。家屋流失十戸、行方不明三名。家屋破損三戸。
重傷者七名。非住家屋流失八戸。輕傷者七名。非住家破損六戸。
三川目。戸數約百十戸入口七十五名。流失家屋十六戸。死亡二十名
重輕傷者三十一名。


四川目明治二十九年の海嘯。
地震前二三日前に大砲の如き音響があり。舊端午の宵節句午後八時頃地震あり。今次のものより弱く(弱震程度)感じたるも震動時間長く一時間後に海嘯あり。見あげる樣な波頭が明く光つて汀より百間と覺しき邊に折れ返り言語に絶する大音を發せり其波勢猛烈にして汀より六十間乃至百六十間にある部落の人家に殺到し柱のポキポキ折れるを目撃せり。第一波後十五分位にてより大なる第二波來り十分後位にて第三最強波襲來せり(地震後一時間位)尚流失物の小川を逆上し汀より十四丁位の字下堀玉泉寺より二町位下手迄漂着したるも今囘はその半に及びたるに過ぎず然れ共こは前囘の六月なるに比し氷雪固く河筋を閉し居れば直ちに強弱を速斷し得ざるも今次の海嘯は弱かりし如く想像せりと言ふ、尚この海嘯に先たち湧水井水の著しく減少せるを認めたる由なり。前海嘯の際は漁類の漂着夥しきものありたるも今次の海嘯には皆無なりしと言ふ。


四川目。地震々動中大砲の如き音響ありこの音は古間木方面にまで聞え又南方の空に映りたる光を見たるが深夜なる爲川添ひの家にて僅に河水のジブジブする騒音を氣付たる程度にて地震後一時間位にて北方より地鳴の音と同時に空にとどく樣な眞黒きもの進んで來る樣に見え急に白く光つて間近く押し寄せたるが海嘯の方向は東南東の如く思はれ水勢は二十九年より可成弱かりき。


四川目三浦勝司郎氏談。
ジヤージヤーと雪面を流るる水音を家内が見覺め呼び起されて窓外を見たるにあたりは既に海水に圍まれ間近二十五尺位の大浪近づくを見夜明けかと思はせん程に波頭の飛沫物凄く光りて殺到するに驚き子供を抱いて屋外に出でんとせしも時既に遅く浪と流舟の爲め潰れ直ちに家屋浮き上りたるがその際木羽葺の家根に穴あきたるを幸ひ屋上に逃れ漂流中救助せられたり(同氏宅は汀より七○間位に所在せり)三川目に於ける二十九年の海嘯古老談(圓子定吉氏談)鈎り下げし石油ランプが上下に長く揺れて三十分間位後に堀へ海水の流入するを見海嘯あることを知れりこれより十分後に第二囘目の波ありて邸内へ鰯の〆粕海水と共に流れ込みたり、これより約二十五分後見上ぐる如き大浪押寄せ波頭の飛沫物凄く躍りて光り映えこの日霧深く暗き夜なりしが陸ヘ逃げ上るに足もとの見える位にあたりを明るく照したるが一大音響と共に波が折れ約三分後と思ふ頃部落の家屋其の他の破壞さるるを聞きたり。水勢は甚だ激烈にして鰯〆粕製造用の燗キ(砂中四尺の深さ迄埋め抜けざる樣十文字に棧を打ちつけたるもの)が流れたるに徴し想像し得べく又波の引去りも極めて迅速なりき圓子氏宅は汀より約二百間なるが浸水床上約四尺三寸屋内床上四五尺の浸水にして床の壁面に殘る二十九年の海嘯による修繕の跡より一尺以上高きを認めたり。三月三日の海嘯地震後南方に放斜状の光映を認め又地震後十分位にて北方に大砲の如き音を聞けり。波音一時凪ぎ北方より早手が來たかと思ふ海鳴が聞え五分間位にて薪を浮べたる海水迸入し海嘯なることを知りたり。時に地震後一時間位と思はる。


二川目。(松尾石造氏談)地震々動中南方の空に映光ありて西ヘ靡きたる樣見受けられたり、又南方にあたりて遠方の爆發する如き音響を五六囘聞きたるが警戒のため川に下りて見るに二尺位増水せる跡雪上にあり第一囘の波跡と思惟したるが時刻は地震後三十分位にて後「ジヤージヤー」第二囘の波が前よりも少しく高く來り十五分後に第三囘目の最大波來り二十九年に浪の爲柱の折れし被害家屋(木村吉三郎氏宅)に三尺浸水ありたるのみなり。海嘯は波高は約十尺と推定せり。河水は七八尺の増水ありたり。尚河水を警戒中二囘目の浪の襲來を認め半鐘を打ちて部落を警戒し濱邊に下ることを禁じた爲め人畜の被害皆無となれり。


階上村大字道佛字大蛇二一七中田寅吉氏談。地震後三十分海嘯あり十五分後に第二囘目再び十五分を經て第三囘の大浪襲來せり海嘯は三囘目が強きと間き海岸に立ちて沖を警戒中午前四時頃暗夜なる爲展望狭く突如空を見あぐる如き(波高三十尺位か)津浪北東方よりののめきて鳴動襲來汀より凡百間の距離に到り波頭に閃光を發すると同時に百雷に勝る大音響を伴つて波は急に崩れたるも雷鳴と異なり寧ろ折れ反る如き樣にて破裂すと言はば至當ならんと思はる。部落の汀線は北々東−東南東に交はり被害はこの交點附近及少しく北偏せる所の丘を打越えて傾斜地を陸へ向つて流下せし所に大なり。
右の目撃者は東南東の汀線に立ちて警戒中の實語なるが前記交點附近に立ちて警戒せる者に依れば小祠ありて前海嘯には異常なかりしが今次の海嘯にては丘は殆んど水に掩はれ丘に避難せしものは僅かに大地に立ちたる柱に木登りて免れ小禍は流失して影を止めざりき。又海水殺到急激なるに比し退水遅かりしと言ヘり。之を要するに二十九年の海嘯より大なるものと思惟せらる


榊部落民の談。榊部落は北東に開けたる山間にあり地震後三十分にして海嘯あり約十五分置きに三四囘(三囘目最高)襲來あり海の底鳴と共に水位のみ高まりて波浪なかりき。


階上村。
追越。家屋流失一。同破損三。非住家流失七。同破損二。小舟流失三〇。殘り四隻。死傷なし。
榊。非住家屋流失九。小舟流失三〇 非住家屋破損三。同倒
潰九。發動機船流失一。捲網船流失二、人畜死傷なし。
小舟渡、流失納屋十一。倒壞納屋六。發動機船流失五。小舟 流失約四○。人畜死傷なし。
下長苗代、市川、百石、三津の各町村は明治二十九年の海嘯により砂濱より幾分高き地點を選び移動したるものなるが淋代鹿中五川目細谷織笠鹽釜等二町乃至三町部落の中心移動せり。然るに四川目三川目の流失家屋は以前海嘯の流失區域にありしもののみなり。以前の海嘯にて邸内に海水浸入したるも五尺盛土せる爲全く被害を免れたる者四川目にありたるが海岸より百三十間位に所在せり。一般に深夜なる爲海嘯に關する供述不明なるも各濱を通じ前海嘯の浸入せる所迄來らざりし如く推測せられ流速も前囘に比し進退共に遅かりしものと認めらるることは積雪ある爲ならんとの意見もあれど是非は速斷し得ざるものあり。尤も階上村大蛇は地勢上積雪の影響殆んど無視し得る所なる前囘に比し確かに海嘯の大なりしを確認し得るものなれ共各海嘯の特徴發現點の方向變化による被害地の相異等を考慮すれば小數の強かりし被害地を以て遽に斷定し得ざるものあり。


寫眞説明 三月三日海嘯被害實況(口繪寫眞自八十七圖至第九十五圖)
(1)三戸郡階上村大字小舟渡。
同部落東南東方岬の北西側にして中央人物の足元の雪面が微かに灰色を呈する線を見る之の線が津浪が押し上りて白雪を汚せしものにして海面上約五米。
(2)同郡同村同部落。
中央人物の後方の家を押し流す尚人物の(向つて)右側白雲に汚線あり之津浪の跡なり。
(3)同郡同村同部落。
正面人物の足元迄の津浪なり。明治二十九年津浪の際は正面納屋より高き波浪ありしと言ふ。
(4)同郡同村大字追越。
正面住家の硝子戸腰板の高さ迄の津浪あり之を海面上より簡單測量をなすに三米餘なり尚此の波浪は戸障子を破り住家裏の崖(屋根の後に白雪を見る)に押し寄せり。此の點の高さ約七米なり。
(5)同郡同村部落大長岬の北岸。
前面舟置場迄波浪押し上りたるも流失に至らず同岬北岸は制合に潮高は低かりし由。
(6)同郡同村大字大蛇。
本縣被害部落中三澤村三川目及四川目と共に最も被警多き所にして海面上三米餘の住家を倒壞せしめし所後方白雪ある崖上は家崖附近より五米位の高所にして老幼婦女子は凡て此の崖上に避難せり。
(7)同郡同村同部落。
前面に版片を横へるは道路(海面よりの高さ二来半)にして其の上段は家屋跡にして此の附近滿足なるものなし前面電柱は根元より「ポツキリ」と切斷せらる津浪の押し寄する力推して知るべし。向つて右方電柱の上方白雪の消へし個所迄押し寄せたり。
(8)三戸郡下長苗代村北沼附近。
向つて右方白雪のある砂洲(スカ)は海面より二米内外高く八太郎沼東方より海岸線に沿ふて北上せり。砂洲は海岸より三百米乃至四百米あり砂洲迄一帶に押し寄せたるも寫眞左方の如く砂洲なき所は著しく陸方深く押し入り海岸より五百米押込みたり。左前面の沼に張り詰めたる氷は苦もなく破壞せられて四散せり。此の氷の厚さは三月八日に至るも二十糎餘あり當時の厚さは恐らく三十糎以上と思惟す。
(9)上北郡百石町大字二川目。
申央標木は明治二十九年當時部落の中心地にして殆んど全滅に遭ひ其の後官有地の交附を受けて高地に移轉し今囘の被害極めて僅少なり、左方砂洲は海面よりの高さ三米に及ばざるも之を越す波浪はなかりし模樣なり。(標木は前囘津浪の遭難念紀碑なり)

昭和八年三月三日地震津浪調査報告(其ノ二) 青森測候所

階上村

小舟渡。地震後三十分餘にして「ゴロゴロ」と石を轉ばすが如き音響を立てつつ退水し平常の三倍の干潮となり四五分後第一囘の高潮となり十五分乃至二十分を隔てて襲來し第三囘最も高く潮高目側十五尺に達せり。退水の際の音響は海岸より遠ざかる程良く聞へ二三里奥地に於ては遠雷又は砲聲の如しと言ふ。明治二十九年に於ては今囘より潮高も高く二十尺と稱せられ被害多かりしも其後家屋は高所に移轉したる爲殆ど人畜に被害なく舟と家の流失あり舟の流失は四十隻に及ぶと言ふ。津浪の襲來方向は北東方より來り震央は北東なりと思ひたる由にて地震の性質は水平動餘り感ぜず床下に於て浸水したるが如く「ムクムク」と持ち上げられたる如く感じ平常の地震と餘程異なり二十九年の津浪の際の地震と其の性質似たるを以て津浪の豫感を持ちたる由なり(以上小舟渡小學校長談)。


追越。本部落中田清助氏宅前は最も津浪の根跡を止めあるを以て海面より簡單測量をなすに最大潮高は同家前道路を○、五米位乗り越へ家屋を突き破りたるを以て此の潮筒は六米餘海水の押し込みし所迄は實に七米四の高所に及べり。當部落は南東方に大長岬あるを以て幾分津浪の勢力を減じたりと言ふも津浪は汀線に直角に向ひ押寄せ大長岬の北岸を洗ひ東方に引きたるを以て納屋の流失するものありと言ふ(以上中田清助氏談)。


大蛇。追越大蛇兩部落中間丘上にある小學校より見るに最高潮は校庭下の道路(海面より約二米五)上を○・五米位を以て越へ其の餘勢は斜面に沿ふて海面上約七米近く押し上りたる根跡を見るも最高潮の高さは三米餘と思はれ大蛇に比して低潮なりしは沿岸正面に雄島雌島がありて防勢したる爲ならんかと言ふ(以上大蛇小學校長談)


階上村附近に於て最も被害多きは實に本部落にして明治二十九年の津浪より遙かに大にして人命の損失家屋の倒壞流失漁船の流失破壞多く殆んど全滅の有樣なり。當時の模樣を聞くに上下動地震後第一囘の高潮三時半頃かと思はるるも大なる被害なく引續き十分乃至二十分に第二囘の波浪來り宅地前方(北東方)道路(海面上約四米)附近に來りたるを以て婦女子老幼等は南西方高地に避難せしめ若者は家屋漁舟等の管守保護に努めつつありしとき俄然高浪に押付けられ、或者は負傷し或は沖合に押し流され家屋は潰滅又は流失したるものにして大浪に呑まれたるも辛じて助かりたる中田訓導の談に依れば波浪の高さは七米以上九米位と認めたる由なるも波浪の押し上げたる最高所は道路面より約二米なるを以て波浪の最高は六米以上と認めらる。
本部落は地勢別圖の如く北東方に約七百米開口せる三角型入江にして其頂點に流込む小川あり此の小川の南側に家屋連なり居りたるを以て前面より押し寄せし波浪は兩側の狭まるに連れて漸次潮高が高まり他の地方に比して非常の高潮となりたるものの如く小川に沿ふて上流へ約二百五十米地點迄五間船二隻三間船五隻押上げたり。
以上述べたる階上村の被害額を見るに次の如し。

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地図 昭和八年三月三日午前二時三十一分頃、地震ニ於ケル青森県管内観測所 有感分布図
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地図 八戸市附近 浸水区域図
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地図 階上村大字道佛字大蛇 浸水区域之図
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階上村被害

八戸市鮫町

(イ)地震後二十五分位にして南東方に異常音響を間きたるも暗夜と遠方の爲海面の異状を認め得ざりしと言ふ(水産試驗場無線電信所中島氏談)。


(ロ)地震後湊河口に碇泊中の船員は間もなく(此のところ時間不明)異常干潮を認め夫々船を繋き替ヘて上陸し各家庭に歸り二十五分位を經て増潮を見たり第三囘の高潮は四時頃と稱し居る由。第三囘の高潮直前鮫にて乗船したる漁夫は間もなく大潮に乗り上げたるが、其の潮高は約二米半位なりと言ふ。津浪の最も察知したるは山付の高臺に住居する人々にして之等は汀邊に住む人々より早く異常音響を聞きて沿岸居住者に津浪來襲を知らせたりと言ふ。(水産學校宮崎氏談)。


(ハ)八戸港修築事務所自記檢潮儀の記録するところに依れば三日午前二時三十一分強震後四十分を經て午前三時十二分突如當時水面より一米六(平均干潮面より○米五)減潮となり之より九分を經て第一副高潮尚ほ九分を經て第二副高潮夫れより十五分を經て第三副高潮を見何れも平均干潮面より。一米乃至一米五の増潮を見たり。第三副高潮より過ぐること九分なる午前三時四十八分は平均干潮面より二米五増潮し直に一米四を減じ四分後再び二米六に増潮せり此の後午前四時十八分には二米六、四時五十二分には二米九の増潮を見之れが今囘の津浪中の最高潮位なり。
此の後約五十分に三囘二米乃至二米七の高潮を尚ほ其後一時間を經て二米二の増潮を見たるも漸次恢復に向ひたりと雖も三日中は二十分乃至三十分の週期を有し○米三乃至一米餘の潮高低差を持續し四日午前に至り漸く○米三程度の潮高低差を見るも尚地震前日の午前干滿潮高平均に比して約○米六を示し波浪の襲來方向は北東方より來りたるものらしく棧橋は南西方の埋立地上へ押し上げられたり。蕪島西方は比較的波浪低かりしが如く最高潮と雖も四米内外のものの如く前述の自記檢潮儀の所在地なり。此の方面に於ける津浪襲來の方向も亦北東南西の如く北防波堤内碇泊の汽船にて減潮の際防波堤蕪島間の間隙を北東方に引き寄せられて沖に出て直に増潮の際此の間隙を通つて南四方に押し込められ元の碇泊所に歸りたる由なり。北防波堤は海面より約一米内外なるも津浪の力を防禦したること大にして八戸港の被害の割合に僅少なりしは之れに依るものなるべしとの説あり。八戸市に於ける被害状況は前出張者に於て既に報告せるところなれば此處に是れを省略すべし。

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地図 明治二十九年六月十五日午后八時頃ノ青森縣太平洋沿岸海嘯被害地略圖

下長苗代村

本村に於ては海岸より約一粁以上離れ居り殊に海岸通りは海面より三百米位に砂洲(スカ)ありて之れに小松林あるを以て殆ど被害なく八太郎沼南東方水田へ土砂を流入し多少被害を見るものあるのみなり、本村にては明治二十九年津浪には八太郎沼迄海水押し寄せ相當被害ありたる由なれば當地附近に於ては今囘のものは前囘のものに比して全く小規模のものの如し。

市川村

本村中被害を蒙りしは橋向と稱する五戸川南岸低地に存在する家屋納屋等にして被害者(佐藤福太郎氏)の談に依れば二時三十分床下にて「ムクムク」するが如き強震ありたるを以て明治二十九年津浪の時の地震と略ぼ同じ感じをしたるが故に津浪の來襲を豫感し直に老婦幼兒を小丘に避難せしめ自分は海面を監視し居りたるに三十分後異常音響を伴ひて北東方より津浪襲來し最高潮なるは約一時間後にして津浪の襲來する尖端白色となりて海面は可なり明るくなり「シヤシヤシヤ」と音を發し物凄き由なり。尚本人は第三囘最高潮を見届けて避難したるも波足早く辛うじて助かりし位にして、此の時の潮高は三丈ありと言ふも之れは全く驚愕の餘り過大に見積りたるものにして砂洲(スカ)の冠水より目測するに三米内外のものと認めらる此部落は二十九年には海岸より五百米位海水押し上り浸水戸數多大なりしも今日は前者に比すれば著しく劣勢なりしものの如し。

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市川村被害

百石町

(イ)川口。本部落は奥入瀬川口附近修築工事現場に於ては地震前二日より潮位一米餘下り附近の井戸渇水となりたる處俄然三日午前二時三十分地震あり此の地震は常時の地震と異なり床下に於てのみ揺れたるが如き感あり前囘の津浪の時の地震と相似せるを以て津浪を豫感し海上を注視したるところ一度海浪の音歇み南方に異常音響を聞き引續き押し寄するを見たり。時に地震後三十分其れより十五分を經て第二囘の高潮を見尚五六分後に第三囘高潮を見漸時低潮となれり。潮高は海岸の砂洲(スカ)(海面上一米位を乗り越へ奥入瀬川より一米余の高地迄達したれば之れより察するに二米半乃至三米以内と認められ前囘の津浪に比し稍々劣れり尚津浪後一日中異常干潮なりしも其後復舊せりと言ふ(區長工藤由太郎及代理木村松五郎淡)。本部落北西方横道部落は奥入瀬川口附近低地なりしを以て海水汎濫し被害家屋を多く見る此の部落より北上し深澤部落は東方一帶に砂洲(スカ)ありて松樹植林ある爲め此れにより被害なし。深澤より一川目迄は海水三百米程汎濫したるも人家田畑等なく被害は皆無なり。


一川目。平常地震と異なり床上は余り動かず床下のみ多く動きたる感ありたる爲め前囘の津浪の經驗により直に津浪の襲來を豫感し海面に注意せるに地震後一時間位にして潮音一時中絶し全く静穏となれり其の後南東南方に異状音響を聞き間もなく押し寄せたるも潮高は餘り高からず前囘に比して非常に劣勢なり此の附近は海岸に小砂洲(スカ)多數あつて海面よりの高さ概ね一米五乃至二米以内にして此の砂洲(スカ)の頂上を越へたる波浪なしと言ふより見れば最高潮と言ふも二米以内のものなるべし。之れを以て見れば砂洲(スカ)は或る程度迄津浪を防止し得べく人工的に砂洲(スカ)作り得るは向後非常に便利なるべし(立花直吉氏談)。


二川目。此度の地震は上下動を感じ床上の震動は少く床下のみ烈しく宛ら床上へ浸水し「ムクムク」するが如き感ありたれば局長夫人は前囘津浪の時の地震と同じく思ひ直に津浪を豫知し局長に依頼し二川橋上に於て海面を監視し重要書類の整理貴重家財の運搬等避難準備をなし隣人をも促し夫々避難準備をすすめたり。一方局長は井戸内を視たるも暗夜の爲め其變化を認めず、二川河水は三糎餘減水を見尚ほ引瀬と共に北方より異常音を聞く(尚地震と共に南より西の方の陸地方に電光の如き光を見たりと言ふも之れは其後直に停電したるより見て「シヨウト」したる時の火花ならんと思はる。
第一囘高潮は地震後約三十分位第二囘は時刻不明(第三囘は地震後約一時間)位にして潮高は約四米位と思はれ物凄き何とも形容出來ざる、音響を伴ひ津浪の尖端は白光となつて折れ返り二川川筋に沿ふて北東方より來襲す、前囘津浪の潮高に比して今囘のものは約一米半低し本部落に於ては第二囘津浪襲來前警鐘を剛打し既に避難したるを以て人畜に些少の被害を見ず。 (區長木村吉三郎氏郵便取扱局長松尾石藏氏及同夫人談)


尚當地古老吉村サキ氏(現時八十七歳)の談に依れば安政三年舊七月二十三日正午頃歩行困難なる大地震あり其れより一時本町に於ける被害は左の如し。
間後沖より白色を呈したる津波ありたるも今囘のものより遙かに弱勢なりし由なり之の津浪後正に四十年後の明治二十九年舊五月節句に大津浪あり夫より三十八年目の本年三月節句に津浪あり約四十年の週期を持ちて來襲するものの如し。

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百石町被害

三澤村

五川目。(梅津安五郎氏談)午前二時半頃可成強き地震あり家内一同起き出し屋外に避難せるも五六分にして静まりたれば一同再び就寝し揺れ返しの來ることならん等思ひ津浪襲來は思はずに居たりしが地震後十分か二十分たちしかと思はるる頃地響のする大砲の如き音ありて共餘音可成續きて間もなく光りのチラツと窓に映りたるを見それより一時間もたたざる内に前隣の宮古徳松氏宅より津浪だ津浪だと言ふ騒ぎたてる聲に飛出し海の方を凝視せしにはや近く迄押寄せ居る「ヂヤヂヤ」と言ふ非常に騒しき波の音を聞きたるのみにて潮の高さ等判然せず、宮古氏宅に津浪の達したるは最高潮の時なるべく床下四寸位の浸水あり其時宮古氏椽側前に汀にありし漁船(長さ六間)一隻押流され來り又鷹架石太郎宅より海の方向即ち東方六十間程の所にある宮津氏所有の網小屋(間口四間奥行五間)は陸の方ヘ五間位押流され宮古氏宅前を流るる小川に押寄せたる津浪は里道に架しある橋迄(汀より約五丁)襲來せりとのことにて當時汀近く迄二尺餘りの積雪ありこの爲餘程難を避け得たりと話し居れり。
鷹架石太郎氏(六十七歳)の談に依れば餘りに地震に強く少時起床したるも寒氣嚴しきため地震の止む共に就寢寝せしに二三十分後大砲の如き音響を聞き稻妻と思はるる光を見たるも津浪の襲來する等は氣付かざりしが「ジヤジヤ」と言ふ波の音に初めて津浪ならむと思ひ飛び出したる時は就に潮は家の前迄押寄せたるも屋内には浸水せざる程度にて共後は弱き潮のみにて家屋に達するに至らずして止みたり。
明治二十九年の地震は今囘の地震に比して弱かりしも海嘯は今囘と同程度ならんとのことなり。
五川目被害。小屋大破(一)漁船大破(三)漁船小破(三)
損害見積價格五二〇圓
明治二十九年に於ける被害。住家流失(一八)小屋流失(八)住家
大破(二)死亡男(六)死亡女(一〇)重輕傷者男(二)重輕傷者女 (一)


淋代。地震止みて間もなく雷の如き音ありて三四十分の後急に「ジヤジヤ」と言ふ浪の音不思議に高まりたれば家を出て海岸の方を見たるに黒色の雲を上部に載せたる如き津浪の襲來するを見たりとのことにて浪の最も大なりしは四囘目に襲來せし浪にて高さ一丈以上ありしと言へり。此の部落に於ける浸水家屋は二軒にして高橋由藏氏の家は床下三寸餘浸水せり、今囘の津浪は汀より、百五十間内外なるも明治二十九年の際は里道を越し道の側迄漁船の打上げられし由にて今囘の被害少かりしは當時より家屋の西方高き所に移轉せるためとのことなり。


被害。住家小破(一)漁船大破(七)漁船小破(二)損害見積價格 八八○圓
明治二十九年に於ける被害。仕家流失(二)小屋流失(五)住家大破(一〇)


細谷。(中村哲三氏母堂五十九歳の談)三月三日午前二時二十分頃地震ありて家屋の震動大なりしも五分間位にて止みたりこの蔀落にて地震來ると共に屋外に飛び出して避難せしは五六軒位にて地震後三十分たちしかと思はるる頃ゴウゴウと言ふ地響して唸る音を聞きしも其の儘眠りに就き朝に至りては海嘯を知れりとのことにて漁船四双破損ありしのみにて他に被害なく明治二十九年六月の津浪は今囘の海嘯に比して弱く中村熊吉氏宅は明治二十九年の位置に其儘あるも前囘の海嘯は同氏屋敷迄に達せさりしも今囘屋敷間際迄押來りしとのことなり。明治二十九年當時は本部落は大半海邊近くにありしも風の運び來る砂の爲家屋次第に埋れて岡の方へ移轉せりと言ひ居れり。津浪の襲來せるは百八十間乃至三十間位迄なり。被害。漁船大破(四)明治二十九年に於ける被害。住家大破(二)住家小破(一)六川目、三月三日午前二時二十分頃起りし地震は近年になく強く屋外に避難せんと考へて居る内に次第に弱くなりたるも再び揺り返し來るべしと思ひ下駄等を揃へ何時にても飛び出し得る樣用意せり前囘の經驗より津浪のことも思ひ出し息子の妻に南方家の側を流るる小川を見て來る樣命じたるに何等異常なしとのことにて就床せしに半時もたたざるうちヂヤヂヤと言ふ波の音を聞き直に津浪の襲來を直感し寝床の中にて津浪だと大聲に叫び避難せんとせし時は既に津浪は住家に浸水し來り息子の妻直先に戸押開かんとせしも津浪にて押寄せられたるスガ(氷)等の爲に開き得ず窓も積雪の爲開き得ず狼狽するうち次に來る津浪の爲横の戸獨りにはづれたるを幸一同遜難するを得たりとのことにて其の時の浸水は二尺乃至三尺なりしも三日目か四囘目を襲來せるもの最も強く高さ一丈五尺以上にて山の如くなりて襲ひ來れり、避難の際はスガ木片等のため足を所々疵つけられしとのことにて熊野氏も矢張大砲の如き音を聞き光を見たる由なり。尚親族にあたる熊野氏住家より南方二丁近くの所にある熊野留次朗氏仕家も津浪の襲來を受け浸水四尺以上に達し家中スガを打込まれ漸く避難するを得たりとのことなり。襲來せる津浪は汀より二百二三十間乃至百七十間位なり。


被害。浸水家屋(二)漁船大破(五)漁船小破(二)損害見積價格。七五〇圓。
明治二十九年に於ける被害。住家流失(三)住家大破(一)住家小破(二)。


織笠。地震と共に家屋の動揺烈しく屋外に避難し地震静まりて家に入りしに「ドーン」と言ふ雷の如く又地の底からも響いて來る如き音響の聞えて一時間以上を經ちしかと思はるる頃ジヤジヤと言ふ波の音が聞えて來ると同時に人聲の騒がしく裏戸を開けて見て津浪と言ふ聾を聞いて初めて津浪の襲來せるを知りし由にて其時は既に大浪襲來せる後にて稍々津浪の襲來せるは汀線より百七八十間位なり。


被害。沖漁船大破(五)損害見積價格七九○圓。
明治二十九年に於ける被害。住家流失(一二)小屋流失(六)住家大破(一三)小屋大破(一)住家小破(五)浸水家屋(五)死亡男(一五)死亡女(八)重輕傷者(三)


鹽釜。近年になき強き地震にて屋外に飛び出したるも五六分にして止みたれば再び就寝するや大砲の如き音ありたり、子供地震後尚床に就かず屋外に出しなどして居りしに地震後三四十分後と思はるる頃子供の津浪だと言ふを聞き提灯を持ちて海邊の方へ出掛けたるに西館要助氏横の道に泥の押寄せられて道を塞ぎ居り危険と思はれたれば其儘歸れり岡より見れば潮は良く判明せざるも凄じく浪の音聞えたり、當部落にて浸水せる家は川村末松氏澤藤市太郎氏田中由太郎氏宅にて船小屋四軒破損せられたり西館要助氏宅より汀迄は凡そ二百間なり、川中由太郎氏宅にては何囘目に襲來せる津浪なるが不明なるも忽ち浸水し逃げ惑つて居る處へ再び襲來せる津浪が座敷側に漁船を打着け來り其の船を渡りて家内一同避難するを得たりとのことなり。


被害。小屋大破(四)佳家小破(三)浸水家屋(一)漁船大破(二) 漁船小破(一)。
損害見積價格。一一七〇圓
明治二十九年に於ける被害 住家流失(四六)小鷹流失(一九) 住家大破(一〇)小屋大破(一)住家小破(一)死亡男(一二)死亡女 (一一)重輕傷者(二二)。


砂森。地震の強きに驚きたるを五分位にて止み然して止みたる直後一囘雷の如き音と光あり其より三十分位にして海嘯の襲來あり、父より津浪と言ふものは夜は無きものと聞かされ居りし故今囘の地震が津浪を伴ふ等は考へられず。打寄する浪の音によりて津浪を知れり。潮の高さは判明せざるも眞黒となりて盛上り波の前に砂をまくり立てて來れりとのことにて最も大なる浪は汀より四丁位押寄せたり明治二十九年の津浪に比し同じ程度ならんとのことにて僅少なるも五住家に浸水し、船小屋一軒破損せりこの海岸には明治二十九年迄は汀近く迄草茂れるも海嘯後枯死せりとのことなり(立花徳次郎氏五十三歳談)。被害。漁船大破(一)被害見積價格。一二〇圓。朋治二十九年に於ける被害 住家流失(一八)小屋流失(三)死亡男(一二)死亡女(一〇)重輕傷者(八)。


天ヶ森。地震は比較的緩かに思はれたるも非常に大きく揺れ人々は大分屋外に飛出したり。地震止むや間もなくドーンと言ふ大砲の如き音を聞きたるも其儘就寝して翌朝津浪のありしを知れり。部落の人のうちには津浪を見たる者あり其の話に依れば地震後一時間余過ぎたる頃家の近くに浪の音起りたるに驚き起出して見しに屋敷近く迄浸水し來れるも一時間は浪の音は變らざるも津浪は次第に弱くなれりと言ひ居れりとのことなり。
襲來せる津浪は汀より二百三四十間迄なり。


被害。小屋大破、(一)
明治二十九年に於ける被害。住家流失(一)住家大破(一)

六ケ所村

尾駮。村長高村氏談に依れば此の地方とtては近年になく強く感じたる地震にて屋外に飛び出しし人も可成あり地震止みて十五分位後大砲の如き音響を一囘聞きたり。村人の内には稻妻を見たりと言ふ人もあれども氣付かざりき。地震後一時間位たちしかと思はるる頃より波の音稍々暫く異常に聞え翌朝になり津浪の襲來せるを知れり。海岸にはスガ(氷塊)の打上げられたる處所々にあり、津浪の打寄せたるは海邊より、百二三十間位迄にして當部落としては被害なかりしも泊は當村に於ける最も被害多き所なりしとのことなり。
尾駮、被害なし。
泊、負傷者一名(幸徳丸乗組員の重傷)
船舶の大破一(大蛇に碇泊中の幸徳丸)
船舶の小破四。


新納屋。強き地震あり寝床より起き出したるも間もなく地震止みたれば再び就床せしに二十分位過ぎたる頃大砲の如き音響を聞きたり。翌朝海岸を見て咋夜津浪ありたるを知りたる由にて此の部落にては屋外に出て地震を避けんとせし者少きとのことなり。新納屋は丘陵にありて急坂をなして海岸に連り船小屋〆粕製造小屋等は汀よひ百間内外の所にあり津浪は此處迄打寄せ來り小屋に浸水せしも〆粕を濡せしのみにて他に被害なかり
き。


平沼ケ濱、(橋本岩太郎氏談)地震に驚き跳起きたるも六分位にて地震も止みたれば其儘床に就きしに雷鳴續けざまに二囘程あり電光らしきものを見たる山にて翌朝迄海嘯のありしを知らずスガ(氷塊)の沿岸に一間以上も所々に高く打上げられ三四十間潮の陸に押寄せたる跡を見て初めて津浪のありたるに氣付きたり。小川原沼へは河口より五丁位津浪押寄せたる如く沿岸には大なる氷塊至る所に打上げられ所に依りては氷塊は相重なりて六尺余りに達し居れり平沼ヶ濱は被害皆無なりき。


平沼。二時二十分頃地震ありて戸障子鳴動し家屋激しく動揺し不安を感じたれば屋外に飛び出し地震の止むを待ちて家に入り床に就きしに十五分もたちしかと思はるる頃「ドンドン」と物を打つ時の如き音を聞き三十分位にして海の方向に「ジヤジヤ」と騒しき音を稍々久しく耳にせり。津浪による波の音とも知らずに居りしとのことなり。
被害なし。
津輕海峡に臨む下北沿岸中、田名部町關根、川代、烏澤は被害全く無く津浪に關し注意され居らず。大畑、風間浦兩村の部落は午前三時半頃津浪の來襲あり、夜明けと共に視野廣くなりて午前五時半頃より午前六時過ぎ迄數囘著しき退潮ありて津浪あり。之等は北海道及海峡對岸相互に反射せられたるものと想像さる。然して平館海峡に臨む大奥村の内大間奥戸並に佐井村は夜明後の津浪のみを知り午前三時半頃のものは認めたる者殆どなかりき。奥戸及佐井村は波高○・六米大奥村大間以東は○・九米乃至一、二米の津浪ありたるものの如し。二十九年の津浪より一般に弱きものと稱せられ殊に此地方に於ける各漁村は汀線に接し高さ一米五以上の柵に石塊を充填し以て使用地域となせる所多く或は又汀線より十五米乃至十八米高さ一米乃至十八米高さ一米乃至一米五の砂丘又は傾斜地に漁舟を引揚げ置く地方なるが著しき被害なかりし程度に過ぎず。

田名部町

關根、川代、烏澤各部落は被害なく汀線より二十米高さ一米位の砂丘にありし小舟も流失するに至らず關根にては津浪の浪高一米と稱せらら井戸川は雪面の波痕により按ずるに一米六に達したるものの如し。

大畑村

正津川。川口一米増水あり爲めに漁舟押流さる。小舟大破二、小破五、計七隻。損害見積高一七三圓。


大畑。午前三時頃海鳴ありたる後津浪來襲、大畑河口を北々東に向へるが増水一米四あり。碇泊中の發動機船相互衝突の爲小破す。午前六時頃水急激に引き去りて凡そ五分後前囘より稍々高き浪襲來す、尚當日は午後六時迄平常と異なる波の去來あるを認めたり、尚古老の談によれば二十九年の津浪には川筋二米四の増水ありたる由今次の津浪は弱きものと信ぜらる。發動機船小破二隻。損害見積二〇〇圓。


湊。地震後十五分頃轟々海鳴あり、北々東の方向より津浪襲來汀線より二十五米高さ一米五内外の砂丘上に押寄たる有樣より想像するに波高一米ならんと言へり。小舟大破四隻。損害見積 高五二圓。


上野。小舟大破二隻。損害見積高四〇圓。


二枚橋。午前三時半頃東方に遠く大砲の音に似たる長く餘韻を引ける海鳴を聞きたる後津浪の來襲あり、波高一米程度にて舟の南方に流れ寄りし、點を考ふるに津浪の方向は北方より來りしものと思はる。尚五時半頃より。六時半迄四囘著しき引き潮ありて其都度津浪ありたる二十九年の津浪の際は川底の石塊瓦落々々と流るる音を聞きたる程激しく川に逆流せるが、今囘はさることなきにより弱きものと言ふ。小舟大破五隻。損害見積 高一〇九圓。


木野部。午前三時半頃津浪ありて小舟流れ出し水嵩一米八に及ぶ。磯岩に積る雪の消え殘れる程度により波高一米五ありたる如し、尚午前四時半頃より、同六時頃迄陰暦節句の大潮程度に退潮ありて數囘の津浪を認めたり。古老の談に二十九年の海嘯には小舟一隻大破、一隻流失に比するに今次の津浪は強しと言へり。小舟大破八、小破八、計十六隻、損害見積高四六五圓。


赤川。小舟小破一隻。損害見積高一六圓。

風間浦村

下風呂。(戸數二八○戸 一、四〇〇人)地震の爲部落民起出で警戒中津浪襲來し小舟流失せるを總出にて收容に努めたるが海岸の柵に殘る波痕を計るに一米八に及びたりと。古老の談に二十九年の津浪より弱しと言ふ。小舟大破四、小破二計六隻。損害見積高二七〇圓。


易國間。退潮を認めたるものありたる由なり。小舟大破一、小破一計二隻、損害見積高四五圓。


蛇浦。地震の爲部落民津浪を警戒せるが午前四時頃襲來部落中央の川に架したる橋附近は縣道々路面に海水溢れたり。道路は高さ一米二位にて汀線より十米の距離に過ぎず。六時頃退潮ありて再び襲來せるも波高は低く○・六米程度なり。小舟大破一 小破一計二隻。損害見積高 四五圓。

大奥村

下手。小舟小破十隻、損害見積高五八圓。


大間。午前五時半頃夜明けと共に陰暦節句の大潮以上に海水引き去りて後津浪あり。方向は北々東にて漸次水嵩を増し浪高凡そ一米三に達せり。大間川は逆流の爲十二糎以上の氷裂け橋脚に小舟衝突せるも被害なく流出せる小舟は全部收容せられ唯かへり波の爲に發動機船一隻。岩礁に衝突破損せるのみなり發動機船小破一隻、損害見積高七五圓。二十九年の津浪には退潮區域大にして生魚ピチピチ躍るを捉へんとする者あるを止めし程なりと言ひ被害は無かりしも今次の津浪に比し大なりしと。


奥戸。午前五時半頃浪潮を認め浪高○・六米位の津浪ありたるも被害なし。

佐井村

佐井。○・六米程度の津浪ありたり。被害皆無。

昭和八年三月三日三陸沖強震並に津浪の北海道 襟裳岬附近に於ける情況 浦河測候所長 北田道男

一、緒言

昭和八年三月三日午前二時三十二分頃、浦河測候所並に其附近に於て、性質稍緩やかなるも震幅の極めて大なる地震を約三分間の長きに亘つて感じた。熟睡中の人々皆眼を覺まし、避難の準備をなし、中には夜着の儘氷點下十度の戸外へ飛び出した者もあつた。
測候所の地震計(中央氣象臺型簡單微動計)の記録に從へば
發震時 午前二時三一分四五、二秒。
初動 北へ五、三ミクロン 西へ一、三ミクロン。
總震動時間 約一時間三十分。
人身感覺時間 約三分間。
性質 緩。(極めて緩ならず)
震度 強震(弱き方)。
記事 發震後二〇秒にして、震動の振幅は地震計の可測の範圍を越えたるを以て、初期微動繼續時間最大動等は驗測し得ず。家屋激しく動揺し、安置せる器物移動し、机上の物體顛落す。柱時計止り、液體溢出す。地鳴を聞かず。
地震直後、不取敢、中央氣象臺並に北海道廰宛、強震ありたる旨の略電を發した處、中央氣象臺より震央並に各地の震度を報じた電信を接受した。
偖、地震の振幅が大きかつたが加速度が割合に緩かつた爲、輕微な被害で濟み、又顯著な餘震も伴はず、一般の人々が安心して一先づ寝静つた、三時半頃、幌泉那笛舞村(浦河から海岸傳ひに東南東ヘ約三十四粁距てた地點)から測候所ヘ電話がかかり、潮流異常にして、磯舟が岸に横向きとなり、左右に動揺しつつある旨通報があつた。是、測候所に入りし津浪の第一報である。
直に警察へ通知すると共に、小職並に所員堺技手は海岸に至り海面の昇降を注視した。海水は暫く異常がなかつたが、間もなく、小波が岸に押し寄せ一波毎に海面が昇り、忽ちにして八尺餘増水した。(この時及び其後の状況の詳細は後記す)
其後。次第に判明する處に依れば、襟裳岬附近、特に其東側に於て、被害甚だしく、死者十三名、流失家屋二十八棟、其他多くの損害があつた由である。
小職は、取敢ず襟裳岬附近に出張し、實地踏査に赴いた。

二、襟裳岬附近の地勢

襟裳岬は、『略菱形をなす北海道本島』の南の頂角に當り、本島の脊梁をなす、日高山脈の南下して太平洋に沒入する處である。岬附近の海岸線は一般に單調であつて處々に短小な鈍角岬を見るだけである、海岸平野は極めて狭小で特に指定する程の河川も流れてゐない。要するに、三陸附近のリアス式海岸とは著しく地勢を異にしてゐる。然し、海岸線自身が非リアス式であつても、襟裳岬のやうに大規模な、而も著しく鋭角的な岬の兩側の海岸は、云はば『海洋にV状に開いた灣』の片側に當る譯であるから、津浪が來襲すれば、岬の兩側にエナージーが蓄積して異状に増水する事が考ヘられる。今囘の地震の震央は襟裳岬から南々東の方向に當つてゐるから、岬の東側に、浪がより高まる事も考ヘられる。

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地図 襟裳岬

三、地震の情況

震央が稍遠かつた爲か(浦河より三四〇粁襟裳岬附近の各地に於ける地震の模樣は、浦河と大差はなかつた。即ち性質緩かなるも震幅の大なる地震を三分乃至四分間感じ、何れも眼を覺した。震度は強度の弱或は弱震と推定される。地震後地鳴を聞いたと云ふ者もあるが、恐らくは津浪に依る海鳴の事ならんと思はれる。地震に依る被害は殆んどなかつたやうである。

四、津浪の情況

津浪の最初に來た時刻は、目撃者も少く、又目撃した者も恐怖の爲、時計を見る餘裕が無かつた爲、正確に知り得ない、併し、小越(圖參照、以下同じ)築港事務所の中島技手は、地震後海岸に出で、親しく津浪を目撃した。氏に依れば、初に潮退き、海面は平均干潮面より約三米六○低下し、間もなく上昇し始め、三時十分頃最初の高極に達す。其後約三十分の週期を以て來襲し、三囘目(四時頃)最も高く、海岸に打ち上りたる高さは約七米二四に達す。四囘目より週期早くなると共に浪高も次第に低くなりたり、と。
從つて、海面の最初の低下は地震後約三十分、上昇は四十分後と見るべきであらう。他の人達の語る處も略一致する。
津浪の高さは、中島技手の談の如く、各地共三囘目のものが最も著しかつた由である。數量的に觀測したのは、同氏の外に樣似築港事務所の吉川技手がある。吉田氏は、地震後、津浪來襲の報知を得て、海岸に出で、棧橋の桁を目標にして海面の昇降を注視した處、最初潮の退いた時は、平均干潮面より約二米低下し、(この最初の低下は、實見者の語る處より推算したる由) 一囘目の最高は二米七〇、(地震後四十分)其後約二十五分を週期として上下し、三囘目最も高く、三米六〇に達した。砂濱に沿つて浪の打ち上つた高さは、約五米二〇に及んださうである。
小職が各地に於て、人の語る處に依り、或は岩の濡れ跡、或は積雪の溶けた下際等を便りに、自己の身長を基準として目測した津浪の最高の高さ(平均海面より)は左の如くである。
庶野村約八・○米 鹿野村約一○・○米
〃〃一四・二米(北海道に於ける最高記録)
小越村〃七・○米 油駒村約八・○米
歌露村〃五・○米 歌別村〃六・○米
歌別村〃四・五米 幌泉村〃四・五米
冬島村〃三・五米 冬島村〃二・四米
樣似村〃四・○米 浦河町〃二・七米
猿留村〃九・○米(郵便局長の報告に依る)
以上の如く、各地共相當に高く、殊に庶野村に於て著しく十四米二に達してゐて、三陸地方に比して浪高に於ては決して劣らない。併し其割合に被害の少なかつたのは、襟裳岬附近は、第一に海岸平野の狭小な事、第二に交通の不便な事に依つて人家が稠密でない事に依るものであらう。
浦河町に於て、小職並に堺技手が、漁業組合のコンクリートの魚揚場を口標として海面の昇隆を觀測した結果は左の通りである。


最高起時 高さ
四時頃 二・七米(推測)
四時四十三分 二・四米
二四一
二四二
五時十分 一・五米
五時二十五分 二・○米


其後次第に週期早くなり、昇降の程度も減少し、數量的の觀測は不可能となつた。併し當日午前中は、目測に依つても潮流の異状を瞭然と認められた。
海鳴は、各地共等しく聞いた、その音の形容は例外なく、風が急に吹き出した時のやうであつたさうである。測候所に於ても聞き得た、餘り著しくはなかつたが、閉じた室内に於ても聞えた程度である。

五、津浪の被害

今囘の津浪に依る北海道の被害は左の如くである。


猿留村
鋤壞家屋 非住宅 三棟 被害額 九〇〇圓
半壞家屋 住宅 二棟 〃 一、○○○圓
流失家屋 非住宅 四棟 〃 一、三〇〇圓
持符船 流失 一五隻 〃 二、一〇〇圓
家具什器類 〃六四○圓
水産製造物 〃 六一〇圓
計 六、九五〇圓


庶野村
死者 一〇名 内男五 女五(男二は三月四日死亡)
負傷者 五○名 内男一○ 女三○
馬溺死 一頭 被害額 二〇〇圓
倒壞家屋 住宅 一八棟 〃 六、三〇〇圓
非住宅 六棟 〃 二、〇○〇圓
半壞家屋 住宅 二六棟 〃 五、三五〇圓
非住宅 二一棟 〃 三、六九〇圓
浸水家屋 住宅 五七棟 〃 三、二一〇圓
非住宅 九三棟 〃 一、五四〇圓
流失家屋 住宅 一八棟 〃 一〇、二〇〇圓
非住宅 七棟 〃 六、八二〇圓
持符船 流失 九八隻 〃 八、九八○圓
破損 一二隻 〃 一、○二〇圓
發動機船 流失 二隻 〃 三、〇〇○圓.
破損 五隻 〃 一、九〇〇圓
其他の漁船 流失 五隻 〃 二、七五〇圓
破損 一隻 〃 二〇〇圓
家具什器類 〃 二一、七八○圓
水産製造物 〃 三六、二一六圓
米味噌類 〃 八、六八〇圓
漁貝類 四二、四一一圓
水産製造具 〃 一一、二〇〇圓
其他 〃 一〇、○八○圓
計 一八七、五三七圓


小越村
死者 三名 男二 女一
負傷者 六名 男四 女二
馬溺死 一頭 被害額 二〇〇圓
倒壌家屋 非佳宅 二棟 〃 一、二〇〇圓
半壞家屋 住宅 三棟 〃 二、四〇〇圓
非住宅 八棟 〃 二、四〇〇圓
浸水家屋 住宅 六棟 〃 六○○圓
非佳宅 二棟 〃 一五〇圓
流失家屋 住宅 一棟 〃 四〇〇圓
非住宅 二棟 〃 六〇〇圓
持符船 流失 二四隻 〃 三、六〇〇圓
破狽 二三隻 〃 二、三〇〇圓
發動機船 破損 二隻 〃 二〇〇圓
其他の漁船 流失 一隻 〃 三○○圓
破損 一隻 〃 一○○圓
家具什具類 〃 一、九〇〇圓
水産製造物 〃 七四六圓
漁貝類 〃 四、七八○圓
其他の被害 〃 二二○圓
計 二二、〇九六圓


油駒村
浸水家屋 非住宅 五棟 被害額 二五〇圓
持符船 流失 六隻 〃 四〇〇圓
破損 一五隻 〃 四〇〇圓
其他の漁船 流失 一隻 〃 二五〇圓
水産製造物 〃 二六〇圓
漁貝類 〃 二四〇圓
其他の被害 〃 五〇圓
計 一、八五〇圓


歌露村
符持船 破損 六隻 被害額 二一〇圓
其他の漁船 破損 一隻 〃 六五圓
水産製造物 〃 一六五圓
其他の被害 〃 六〇圓
計 五〇〇圓


歌別村
浸水家屋 非佳宅 二棟 被害額 −
持符船 流失 五隻 〃 三〇〇圓
破損 八隻 〃 三五〇圓
其他の漁船 破損 二隻 〃 五〇圓
水産製造物 〃 二、四五○圓
漁具類 〃 一○○圓
其他の被害 〃 三〇〇圓
計 三、五五〇圓


幌泉村
半壞家屋 非住宅 一棟 被害額 一五圓
浸水家屋 〃 一棟 一〇圓
持符船 破損 一三隻 被害額 六〇五圓
發動機船 流失 一隻 〃 一、一○○圓
破損 四隻 〃 七七一圓
其他の漁船 破損 五隻 〃 六五○圓
水産製造物 〃 一、一六三圓
漁貝類 〃 二五〇圓
其他の被害 〃 一八九圓
計 四、七五三圓


笛舞村
漁船流失 一隻 被害額 二〇圓
水産製造物 〃 五四二圓
漁貝類 〃 三〇圓
、其他の被害 〃 九二圓
計 六八四圓


近呼村
漁船破損 四隻 被害額三二〇圓
水産製造 〃 一九○圓
計 五一〇圓


樣似村(漾似郡一圓)
浸水家屋 住宅 一棟 被害額 −
非住宅 九棟 〃 −
發動機船 流失 四隻 〃 二二五圓
漁船 流失 一五隻 } 被害額 一、三六○圓
破損 三十一隻 }
水産製造物 〃 一、五八○圓
漁貝類、水産製造貝類 〃 四、〇七四圓
其他の被害 〃 一、二八五圓
幌滿橋破損 〃 六○○圓
計 九、一二〇圓
總被害額 二十三萬七千五百五十圓


この他海藻類の被害約 四五、〇一八圓と見積らる。
以上の如く、庶野村に於て被害最も甚だしく、死者十名、負傷者五〇名、家屋流失二五棟を出し、總被害額は十八萬七千餘圓に達してゐる。

六、雜報

(イ)浦河町木谷氏所有の發動機船は、當時幌滿の沖合を進行中であつたが襟裳燈臺が突然眼界から去つたのが奇異に思はれた外地震並に津浪は全然知らず、翌朝襟裳岬沖に至り、流失渡船を認め奇異な感じがしたさうである。


(ロ)六日頃、庶野村から約二十五浬沖合に流失家屋、漁船其他が相集つて浮遊し、恰も小島のやうに見えたさうである。


(ハ)浦河町立實踐女學校教諭奥山氏は地震中、北西方の山頂附近に星光に似た光の發するのを認めたさうである。

雜報

茨城縣下に於ける津浪の調査 水戸測候所

一、本縣土木課にて行はるる那珂川河口に近き視町下の川岸に於ける自記檢潮儀記象に依る。
三日三時八分頃○米二程減水したる後○米三六の浪一囘あり四時五分より五時十分の間に著しきもの三囘あり、六時頃より再び著しくなり七時三十五分に最高○米七五を現はし以後十時五十分より漸次弱まりたりしが二十時前後約三時間に亙り稍著しきものありたり。
著しきもの十囘の平均 高さ○米四二
週期十六分五
最高 時刻七時三十五分
高さ○米七五
週期十分〇


二、同上稍上流なる字小川にあるものに依る(時間は正しからざるものの如し。)
三日三時四十分より水位稍上昇したる後○米一八程減水し四時十分に○米三の浪一囘あり其後五時前後に亙り著しきもの三囘あり、又六時より十時迄著しきもの十三囘あり漸次弱まりたりしが再び十九時より二十一時三十分迄稍著し。
著しき浪十六囘の平均 高さ○米二四
週期十四分○
最高 時刻七時五十七分
高さ○米三四
週期十二分


三、多賀郡大津町役場よりの報告 地震及津浪の被害なし。


四、多賀郡平潟町役場よりの報告 地震の被害なし、津浪と稱する程度のものに非ざるも午前六時三十分に汐六尺強引きて後大潮となる被害なし。
尚本縣沿岸には被害なきものの如し。

發光現象報告 筑波山測候所

三月三日二時三十二分の地震に見たる光。
一、見た場所 筑波町大字筑波東山
見た人 石井富次耶(筑波山測候所小使)
見た時 震動中(最大動直後)
見た方向 東南東と思ふ
光の形 不明(パツパッと光り、電光より速い)
光の色 不明
光つた囘數二囘
備考 此の人は地震に驚いて直ちに起きて居たが、其内グラグラと大きく來たので驚いて表へ飛び出したが其の瞬間に前記の光りを見た、形や色は明瞭に見る間がなかつた方向は戸口の位置や駈け出して立ち止つたと云ふ場所から考へても東南東であると思ふ。


二、見た場所 筑波町ケーブルカー宮脇停車場
見た人 小池武男(宮脇驛助役)
見た時 震動中
見た方向 南(東京方面)
光の形 電光の樣に明瞭ではない、そこに雲があつたらし
く、其の後ろでパツパツパツと三囘光つた。
光の色 淡青色
光つた囘數 三囘
備考 地震に驚いて直ちに表へ飛び出したが、關東大震災の事を思ひ出し、先づ東京方面を見た東京の電燈の光りは平常の如く見へて居た、其の時層積雲の後ろで前記の樣に光つたのだと思ふ。(高
山四郎)

神奈川縣下地震被害報告 神奈川縣測候所

昭和八年三月三日の三陸沖強震により横濱市中區大岡川に架せる吉田橋(伊勢佐木町と尾上町との連絡橋)橋脚及橋欄は添附せる寫眞ABの如き損傷を受けたり。
Bは橋欄の損傷最大なる箇所(C圖b)の寫眞にて石枠の前方にのめり出でたり。全體としての同橋損傷の程度はC圖の如し即ち大體として同橋は北二十度東の方向に震害を被り、其の 方向は大略震源に向ふ同橋は「かねの橋」とも呼ばれ明治二年十一月竣工せる本邦最初の鐡橋にて大正十二年の大震災にて大破せしを修繕を加へたるものなり。
因に本所にての最大振幅は三四粍五なり。附近の諸橋梁は檢せしに、羽衣、豊國、蓬莱港の四橋は阿元に小損を被りたり。
道埋設管破裂し溢水せり指示の點は噴水箇所に街燈の根元にあり寫眞右下の白斑は溢水の流れ居る有樣はり即ち羽衣橋は北東部の護岸接續箇所に小龜裂を生ず。豊國橋は北西、南西、南東の阿元各々約一寸開口す。蓬莱橋は南東の阿元三尺程三角形の龜裂を生じ損傷程度は吉田橋に亜ぐ。港橋は市役所寄りの阿元に小龜裂を生ず。即ち吉田橋は被害最も大にして五百米を隔りたる港橋を界として夫れ以南は損害なく、吉田橋の北側にある諸橋は異常を認めず。
吉川橋の北東約百五十米馬車道の相生町寄りの所(右圖中×印の所)にある街燈下の水道埋設管破裂し溢水歩道を洗ひたり。(寫眞E參照)右の外異常を認めず。

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写真 (A)吉田橋々脚の被害(北西より望む)
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写真 (B)吉田橋欄々の被害北西側の欄前へのめる
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(C)吉田橋破損箇所見取圖
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写真 (E)馬車道相生町よりのところにある水
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大岡塀附近略図

稻妻樣の光に就ての報告 神奈川縣測候所

姥子 三月三日午前二時三十二分地震と同時に戸外を見れば東方の空(當地姥子温泉場より)に當り頻に光る稻妻の如き閃光を認む、直に戸外に出で四方を見廻したるも光は東の空丈けであつた。北伊豆烈震當時現れたるものは赤味掛りたる光にて光度の變化頻りなるも最後迄全く消ゆる事無かりしに、今見たる光は電氣のスパークの如く青白くピカリピカリと頻りに斷續し恰も稻妻の如し。尚北伊豆地震當時現れたるものと、共通點は光度の強弱に從ひ地震の震動に變化を及ぼしたる事なり。即ち強く光りて約四、五秒の後震動は強くなり、光り方弱くなれば震動は弱くなる、(北伊豆地震當地は約一、二捗後に震動の攣化を見たり。)二時二十四分殊に強く光り、續いて直ちに一、二囘弱く、マタタイて消ゆ。地震後に強く成り次に弱くなりて止む。


箱根町 地震に付東の方向にピカツと見えました。

もんてびでお丸よりの海震報告 大阪商船株式會社

洋上に於て地震餘波を感じたる件
本船は昭和八年二月十四日北米ロスアンゼルス港を出帆して横濱に向ふ航海の途中同年三月三日午前三時四十分(當時本船時計は東經百五十四度四十五分に於ける眞時を使用し居たり) 推測位置北緯四十度三十五分東經百五十一度二十七分に於て突然強激なる推進機のracingの如き震動を約四分間繼續して感じたり。當時の氣象及び海上の状態は左の如し。
船體は稍從動し居たりしも震動を感ぜし直前當時の波浪と明らかに區別し得らるる階級四なる「ウネリ」を西方より受けたり。依つて直に無線電信を以て銚子無線電信局に照會したる所關東地方に於ては約三分間強烈なる地震を感じたる報知あり後報によりて東北地方の震災を知れり。以上御參考までに御報告申上候也。

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氣象及び海上の状態

本吉郡唐桑村瀧濱に打ち上げられたる巨石 唐桑村小學校中井分校

本吉郡唐桑村中井瀧濱は東海に面した荒濱だが其處に打ち上げられた巨岩は高さ四尺經六尺もある巨石である。重さ一千貫以上もあると思はれ表面は白色にして海底の深所に生えた海草が附着してゐる。茲に餘り人に知れない流失家屋が二ヶ所あり前後に並んだ家の高さは海面から二丈位の上である一戸は魚粕等を製する製造場もあり其の後に三尺位高く一戸あつた。共に一物も止めず唯製造場の井戸のコンクリートが殘つて居り上の家は後の小高い便所が殘されてある。
津浪の夜逃げ殘つた前の家(千葉大吉氏、家族十二人)は浪に追ひつかれつつ上の山に逃るに膝まで水にひたりながら逃げたのださうだ。後の小山徳右衛門氏(家族七名)の家では徳右衛門氏が川漁して留守なので女ばかりと子供が早く逃げたので命は助かつた。
此の附近には未だ其の岩の樣な岩が打ち上げられてゐるが如何に自然の暴力の大きかつたかが知られると共に、海岸の人の心すべきことである。(口繪寫眞第七十六圖參照尚同寫眞及本原稿は本吉郡氣仙沼町石川寫眞館主の厚意に依り國富技師宛撮影送附されたものである。)

海震に關する報告 平安丸船長 金子文左衛門氏報告

本船今復航晩香坡發横濱向航行中昭和八年三月三日午前二時三十一分より同三十六分(日本中央標準時)に至る約五分間左の地點に於て激甚なる海震を感知せり。
位置 北緯四十一度五十分、東經百四十九度三十分
状況 當初恰も機關全速後退せし時の如き震動をせしが瞬時にして上下動甚しく羅針儀爲めに躍出せざるやと思はしめ就眠中の船内一同寝床を蹴つて窒外に飛び出だせし程度なりき。
天候 曇 風向 西 風力 四 氣壓 二九、九四
氣温 零下三度 水温 一度
直ちに機關廻轉數、塗水、操舵機を點檢せしも何等異状を認めず依つて海震と斷じ、海岸局銚子を經て氣象臺に通告せり。

發光現象に關する報告

一、大森區新井宿四丁目一二六四窪田瀬吉氏より本臺宛書簡に依れば次の如し。
昨夜の地震に私家族一同戸外に飛出しましたが最大震幅を感ずると同時に北西(寧ろ北よりに)の空より電光一閃致しました御參考迄御知らせ致します、普通はピカピカと瞬きますが昨夜のはピカツと一光りしたのみのやうでした先も先年函根地方大地震(北伊豆烈震)の時は西南方の空にピカピカと致したのを見ました。


二、茨城縣平磯町電氣試驗所平磯出張所中井友三氏より本臺藤原技師宛に寄せられた書簡によれば次の如し。
今囘の三陸の地震に於て發光現象を相認め申候間御報告申上候。
一、發光現象發見當時の經緯地震を感ずると同時に起床暫し樣子を伺ひ居り候ひしも繼續時間長くして終息の樣子も見えざる故に萬一の場合の逃出しの準備として雨戸(南向き)を一枚開けて暫し外を見て居る内に南方の空に發光を認め候。
一、發光の時刻及光の繼續時間 大體の見當で最初に地震の身體に感じ初めてから約三、四分の時刻。光は始んど瞬間的。
一、方向及高度 南方、暗夜のこととて對照物無き爲精確のこと不明なれども大體の見當で距離約十米の廣場を隔てて存在する平家の屋根の少し上位の此較的低き空間に發見。
一、形及色 形は一つの線より成る圓弧。色はアークの色に近い樣な淡青緑色、恰も虹状で、唯色が單色であると云ふ點が虹と違ふ、圓弧の半徑は大體の見當で普通の虹の半徑と同等か。線の幅は虹の七色の線全體の幅よりも細い樣に感じた線は相當はつきりした線。光度は弱い方。尚當夜は晴天、星光を諸所に認めた。
前述の通りにして此の光が電力線電燈線の切斷等に依り生ずる火花、或はアークに依るものに非ざることは光の形よりして容易に想像し得られることにして、又當地は水戸に候へ共其の光を認めた方向には斯かる電力線電燈線は無之候(但し當家より南へ數丁先迄は電燈線有之候)以上は小生の住家(水戸市上市備前町)に於ての記事に候同日平磯の役所に出勤しまして此の話を致し申候處平磯でも同時刻頃南方に光を認めたと云ふ者一名有之候但し此の平磯に於ける光はサーチライト状の光だつたと申候但し此の平磯の方の話は確信を以て御紹介出來不申候。

海嘯前後に於ける井水の變化 岩手縣氣仙沼郡越喜來村 尋常高等小學校長 小原栄太郎氏報告

岩手縣越喜來村に於ける井水の變化
(1)龍昌寺内の井戸
本村字甫嶺にあり、井戸の深さ地上より水面まで約三米、水深一米餘
海嘯前凡そ二十日より渇水、海嘯後舊に復せり。
同寺内に泉水あり、この泉水も同樣の變化を見たり。
此の井戸は明治二十九年の海嘯の際も渇水したりといふ。
(2)平田玉男氏宅の井戸
本村字小泊にあり、井戸の深さ地上より水面まで約五米、水深二米。
海嘯前三日より井水混濁、海嘯後も少しく混濁を見たり。
(3)村社、新山神社々務所の井戸
地上よりの深さ十一米、
海嘯前四、五日より混濁渇水せり、海嘯後五、六日にして舊に復す。
この井戸は如何に降雨等ありても未だ甞て混濁を見たることなきものなりと云ふ。
(4)及川義雄氏宅の井戸
字杉下にあり、地上よりの深さ六米。
海嘯後三、四日混濁渇水を見たり。
(5)熊谷與左衛門氏宅の井戸
字杉下にあり、地上よりの深さ四米。
海嘯前三日より混濁渇水し海嘯後二日にして舊に復せり。
(6)正源寺内の井戸
字仲崎濱にあり、井の深さ地上より二米。
降雨もなかりしに二月半ば頃より一週間程混濁したりと云ふ。
以上の井戸は高地にありて今囘の海嘯には直接被害なきものなり。

海震に關するウルツブ丸よりの報告 農林省

農林省所管ウルツブ丸よりの無電報告によれぱ「三日午前二時三十分鯔崎より眞方位三十六度、二十浬にして約一分間強き震動を感ぜり」といふ。

附録

明治二十九年六月十五日海嘯概況報告 岩手縣宮古測候所

明治二十九年六月十五日午後八時頃の海嘯は近代未聞の一大津浪にして北は北海道及青森縣の一部より南は福島縣に波及して殆んど數百里に亙れり。
就中被害の首なる地方は本縣沿海一帶及宮城縣北部沿海にして其の殘酷なる瞬間に許多の生命財産を盪盡せり。然り而して本縣沿岸各町村の慘害は實に名状すべからす。本所所在地近傍に於ても亦慘毒を蒙らざる所なく其の甚しきは全村流亡せし所あり。
其他被害の状況を一々記すれば枚擧に遑あらず。又其の悽愴たる有樣は殆んど形容に辭なく唯酸鼻と云ふ外なきなり。而して斯の如き慘状を呈せし首なる地方に於ても被害の度に輕重ありて本所々在地の如きは割合に少き方にて此等は他に一、二の理由あれども概ね港灣の地形に關するものの如し。
古來より太平洋沿岸地方は海嘯の害は免れざるものの如し。
而して未だ舊記を調査するの暇なきを以て當地方のものに於ては未だ明瞭ならずと雖も去今二百八十年前元和二年(月日不明)に大海嘯ありしと。又四十年前安政三年七月二十三日(陰暦) 正午頃に起りしものは所に依り(青森八戸地方は甚しかりし由) 被害を蒙りしも這囘の海嘯に及ばざること遙かに遠く尤も地震は強く且つ頻繁なりしと云へり。
今這般の海嘯に就き本所に於て觀測調査せし要領は左の如し。

海嘯の現象及其原因

今般の大海嘯の起始は(海水の始めて退減し始めし時刻)夜間のことゆへ精測し能はざれども凡そ午後七時五十分頃にして最初の地震後約十八分を経たるなるべし。其後十分時間を過ぎ午後八時頃増水し霎時にして稍々退減し同八時七分に至り最大劇烈なるもの轟々遠雷の如き響をなして襲來し爾後八時十五分、八時三十二分、八時四十八分、八時五十九分、九時十六分及九時五十分の六囘著しき増水ありしも勢力は漸次減殺せり。
而して一大慘状を呈せしは第二囘目の激浪にして、忽諸の間に幾多の生命財産を一掃し去れり。爾後翌十六日正午頃までは慥に海水の増減ありしも頗る輕少にして精密の觀測をなさざれば知るべからず。
又其著明なる増減は往復八囘其の往復振動期は約十分内外にして最大波浪は灣内に於て約一丈五六尺なりし。
元來津浪を起す原因に二種あり、暴風及地震是なり。
而して海嘯當時の氣象を通觀するに連日高氣壓は大平洋に低氣壓は日本海方面に擴張且つ其差は僅少にして暴風の兆候なく、又當時の地震に依り觀察するも其原因は暴風にあらずして全く地震津浪なりしことは明瞭なり。
抑震源の海中若くは海岸にありて強き震動を發起するときは海水に激動を與へ水震(所謂津浪)を起し時としては沿海に非常の災害を及すことありて即ち這囘の如き現象を發生するものなれば海中大震ありしは疑ひなきものの如し。

海嘯前後の地震及震原

當地方は平常地震多き方にあらず、本所創業以來の觀測に據れば平均一年間に十五囘なれども二十七年及二十八年は平年より二倍餘の多震にして即ち二ヶ年とも三十二囘を觀測せり。
而して斯く震數の増加せしは二十七年三月二十二円根室地方に於ける大震の餘波を蒙り所謂餘震俗に揺り返しと名づくるもの)に關係するやも圖られざれども亦這囘の災害を起す原因なりしやも知るべからず。
尚ほ本年一月以來概ね平均以上の多震にして就中四月に至り十六囘なる非常の震數を示せり。
是或は今囘の前兆にあらざるか兎に角異例の現象を呈せり。
爾後は別に異状なかりしが六月十五日午後七時三十二分三十秒に至つて稍々弱震し殆んど東西の方向を以て五分間水平に震動し頗る緩慢なりし。次で同七時五十三分三十秒に微震し爾後頗繁續震し八時より九時の間に四囘、九時より十時の間に四囘、十時より十一時の間に一囘、十一時より夜半までに二囘の微震ありて計十三囘を觀測し、翌十六日は十三囘、十七日十二囘、十八日は六囘、十九日は二囘、二十日は四囘、二十一日は一囘、二十二日は三囘、二十三、四日は各一囘、二十五日は三囘の微弱震ありしも就中微震最も多く又上下動は甚だ稀なり。
上來述ぶる所に依て觀るも這般の災變ば地震津浪なること明瞭なり、然り而して震原は何處なるやは未だ十分材料を得ざれば推算し能はざれども、概ね海岸を去る三十里乃至三十五里邊にありしものの如く、即ち本所に於て觀測せし結果並に一昨年根室大震の際本所に影響せし地震津浪等の成績に依て概算を施すときは、本所より東南東に方り大凡東經百四十五度、北緯三十九度邊に震央ありしものの如く尚地震の性質及タスカロラ海溝の關係等より觀察を下すときは根室大震の時の如く地辷なりしやも知るべからず。

海嘯前後の氣象

氣候と地震と相關係するとは往昔より人の唱ふる所なれども是等の關係をして明瞭ならしむるは容易のことにあらず。然れども今試みに本所に於て從來觀測せし結果に依り調査せし大要を叙し參考に供せん。
氣壓は昨二十八年に於ては多少の高低こそあれ粗ぼ平年に均しき曲線を示せしが一月より四月までは租々不規則の昇降をなせり。而して本年一月に至り非常に低壓、(七百五十四粍にして平年より低きこと三粍六)を示し、二月は急昇して七百六十一粍三の最高を示し平年より二粍四高く爾後は一粍乃至二粍の高壓なりし。
温度は昨年及本年とも概ね高温の方にして二十八年は一月、三月、六月、七月、八月、及十一月は稍々低温なりしも其他の各月は高温なりし、本年は三月に低温にして其他は高温なりし。
濕度は二十八年に於て三月及八月は僅に多濕に七月は平年に等しく其他の各月は多少の差こそあれ孰れも乾燥なりし。而して本年は二月の多濕を除き孰れも乾燥の儘なりし。
雨量は二十八年一月は少量に二月は多量にして三月以後再び少量なりしが七月に至り二百五十粍以上の多量なりし、爾後一多一少にして不規則なりしも概ね上半年は少量に下半年は多量なりし、而して本年は二月に於て殆んど二百粍近き多量の降雨ありしのみにて其他は敦れも平年よりも少量なりし。
更に本月十五日前後十日間の氣象を調査するに氣壓に於ては八日及十日は殆んど平年に均しく九日は平年以下にあり、爾後十八日までは孰れも高壓なり、而して變災後三日目即ち十七日より急降し十九日は平年以下の度を示し二十一日最低七百四十六粍七(十九日午前六時低部位朝鮮海峡を占領し海上不穏の虞ありしが此低氣壓漸次北東方に進行して二十一日頃は本州北部を占領せしを以て斯の如く低下せしならん)に達し夫より上昇して二十三日に至り平年以上に昇れり。
温度は五日及六日に殆んど同度なりしが爾後多少の差あれども高温にして二十一日に至り漸く平年に近似せり。濕度は五、六の兩日は多濕なりしが七日より十度以上の乾燥にして十五、十六の兩日は再び多濕となり爾後は甚しき差異なかりし。
雨量は五日より十三日までは寡雨にして十四日及十五日は平年より多く十六日に至り寡少となりしも二十一日の多雨を除きては格別の差異なかりし。
之れを要するに氣壓氣温は共に高位を占め且つ乾燥乏雨の候なりし、殊に變災前は變化著しくして爾後は稍々平常に復せしの感あり、然れども前に述べあるが如く此等の關係をして明瞭ならしむるは緻密の調査をなさざれば俄かに言明し能はず、暫く茲に大要を記するのみ。

彙報

管内各郡役所よりの地震報告中未達の筒所あれども敦れも當時各所に數囘の微震ありて過半南東、北西若くは東、西の水平動なり、而して膽澤郡水澤町に於ては大砲の如き音響三囘ありしと、又二戸郡福岡町に於ては震動後十分を經て戸外通車のきしるが如き聲響を聞きしが夫より六分を過ぎて忽然頭上迅雷の轟くを遠きに聞くが如き響あり、前後共其方位にありしが如しと報ぜり。翌十六日も引續き各所に微弱震數囘あり稀には強震を報ぜり、今本所に達せし臨時報告を摘記すれば左の如し。


海嘯臨時報告
二十九年六月十六日午後
八時四十五分發本所宛
南北九戸郡役所
(電報)昨夜午後九時門前、野田村、中野字小子内原子内は九分通り、侍濱、種市、夏井、長内の一部流失死傷多し。


同 上六月十八日午前
十一時三十五分發本所宛
氣仙郡役所
(電報)十五日午後九時津浪木郡内流失凡一千四百戸死亡凡七千人慘状極りなし盛町無事。


同 上六月二十日付
本所宛
西南閉伊郡役所
(摘要)本月十五日午後八時三十分前後地震あり爲あに海水激騰大海嘯を起し其高さ五丈餘沿岸を襲來するの音響恰も雷鳴の如し、忽ち沿岸の家屋を浸するもの數里に亙り人命財産を蕩盡すること無算云々。


同 上六月二十三日附
本所宛
氣仙郡役所
(摘要)本月十五日午後四時驟雨後ち細雨となり同九時に垂とし南東方に発砲の如き音引續き三度あり(盛市街中には心付かざりしもの多し)、沿海魚村に於ては皆軍艦の發砲とのみ思ひしに暫時にして猛烈なる海嘯襲來、時既に午後九時過暗夜咫尺を辨ぜず概ね避難に遑なく家屋と共に掃盪せられ其内水練に達し或は僥倖にも波に打揚げられたる等九死に一生を得たるものも岩石木竹に觸れ多少の疵を被らざるなく海嘯の稍々鎭静するに至るまでの間は凡そ一時間、天明被害の状況を一見すれば港灣の位置地勢の廣狭により一樣ならざれども概ね洋中に突出し且つ大洋に面せる部分に被害多く波浪の最高は凡そ水面より百尺の高處に達し最低と雖も三十尺に下らず、大樹を拔き山を崩し家屋倉庫粉碎して留どめしもの少なく木材家具等海濱に散亂し或は洋中に漂流せるもの多く、又陸上各所に散見する所の死屍は腦を破り骨を碎き皮膚を傷り腸を露し其慘怛たる景況は克く言語の盡す所にあらず云云。


同 上六月二十七日付
本所宛
南北九戸郡役所
(摘要)去十五日午後七時頃より微震數囘濃霧濠朧同七時三十分頃に至り幽に鳴動する二三囘、同八時二十分頃砲聾の如きもの二三囘を聞くと共に百雷一時に轟くが如き凄き音響と共に數丈の波浪襲來し忽ち人畜家屋を捲き去り沿海は何れも高所なる山麓を浸襲破壞せり、而して全く退潮せしは同八時三十分内外ならん云云。


山形測候所員よりの通信に據れば當日同所にも地震あり、且遠雷の如き響を聞き或は近縣に大地震にてもあらざりしやを疑へりと。又根室測候所員よりも微震且つ小津浪ありしを通報せり。
當時海上にありし當地方の漁者の説には別段異状なかりしと云へるもの多し、尤も稀には潮流急なりしを唱ふるものもありし、其他井水の減量水温の昇降等種々の説を唱ふるものあれども未だ俄かに信憑し難きを以て省略しぬ。但し被害の一班を知らしめん爲め本縣管内に於ける被害の概表を附す。
明治二十九年六月 岩手縣 宮古測候所


明治二十九年六月十五日宮古の氣象
備考 六月十五日午後七時三十二分二十三秒弱震起り(緩慢なる東西動)
約五分間震動し次で同七時五十三分三十秒に微震し爾後頻繁に續震し八時より九時の間に四囘、九時より十時の間に四囘、十時より十一時の間に一囘十一時より夜半までに二囘の微震ありて計十三囘を觀測せり。翌十六日は十三囘、十七日は十二囘、十八日は六囘、十九日は二囘、二十日は四囘、二十一口は一囘、二十二日は、三囘、二十三、二十四日は一囘、二十五日は三囘の微震ありしも就中微震最も多く又上下動ほ甚だ稀なりし。

織笠村住民會建立從三位伯爵南部利恭題字

明治二十九年六月十五日自朝冥濛山岳盡韜形及夜地震而以其揺
不劇且此日當陰歴五々陶醉端午之酒人多不警無幾海上鳴動忽濁
浪起干前崩山拔樹到屋潰夬蕩夷黎元無孑遺如此者北從陸奥白銀
濱南至陸前志津川溺死者三萬死屍累々拾收踰月事達上聞上
震悼即派侍從撫恤災民内外志士爭脱衣贈金弔慰莫不至有司亦日
夜奔走致力于救助災餘之民頼以免流離之難矣我織笠村瀬昂丈餘
及坊主山下溺死七十二流屋五十六船舶五十六牛馬倉庫數十橋梁
二水田十六町陸田六町宅地六町悉屬荒廢嗟人世之無常變災之不
可測如此豈可不恐而警哉今茲當三週年建石以勒焉明治三十一年
六月

海嘯記念碑

恰當端午佳節家々醉視酒之日突如而來忽現出阿鼻叫喚修羅巷明
治二十九年六月十五日之海嘯豈夫不無殘乎今概記光景此日陰雲
暗憺時々雨至於薄暮感弱震數囘後遥聞如殷々遠雷異響人皆恠之
偶數丈洪濤宛如疾風激來逮兩囘破碎家屋斃人畜頗極慘矣本村其
害最甚者爲高濱金濱二區及磯鶏區内石崎飛鳥方白濱四所流失家
屋百二十一戸死者九十六名海嘯區域南自陸前石巻北至陸奥北郡奪
生靈殆三萬可謂極悲慘矣今茲丁七年忌爲紀念磯鷄區民一同及愛
友團員相謀建碑以傳後昆云爾

磯鶏區

明治三十五年五月 横死者 男二十七人 女三十一人
流失家屋 五十三戸 半潰十戸


明治二十九年六月十五日當陰暦端午此日自朝濃霧濛々覆山海間隔
不別皀白及黄昏地震再囘面其揺水平動稍緩慢不敢警無幾海上遙
聞如炮聲異響人皆恠之忽數丈洪濤如疾風襲來續逮三囘二次最激
甚破碎家屋斃人畜頗慘劇如此者北從陸奥泊南至陸前志津川溺死
者殆三萬流失家屋擧不可數我鍬ケ崎町死者 流屋 船舶
洵可謂極悲滲本轡於學校有幻燈會児童及父兄等參槻者多
數僥倖免難矣嗟呼人世之無常變災之不可測夫如此豈不可恐而警
哉今茲當十三年忌建碑勒焉以傳後昆云爾

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本縣管内海嘯被害概數取調一覧表
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明治二十九年六月十五日宮古の氣象