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本県知事、本郡長警察署長及び町村長の影

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本県知事、本郡長警察署長及び町村長の影

惨況写真 釜石石応寺前 大槌町須賀医員一同の影

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写真 惨況写真
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写真 釜石石応寺前

満潮区域図解

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地図 満潮区域図解

例言

一、今も何時たりとも、永く心頭に印し、夢寝の間もわするること能わざるものは、客歳六月十五日の夜、我が東奥三県頻海の地に起こりたる。大海嘯がたちまちにして幾万の人畜、家屋、船舶、田園を破摧漂盪し、親は子を失い、夫は妻を亡い、姉妹昆弟、親戚朋友相救うこと遑あらず。肱を折り、足をくじき、肌を破り、骨を砕き、衣なく食なく、孤独途に迷い、老弱沙場に叫ぶ。悲哀凄惨の光景なり。そしてまた、これに伴い常に心胸に貫徹し、いよいよ忘るる能わざるものは、災後、主上の深く宸襟を悩ませられ、御救恤金下賜の事ありて、特に東園侍従を差遣あらせられ、かし畏き御沙汰をこうむるを始めとして、県郡町村吏及び警官の応急救済、赤十字本社支社員、第二師団軍医、被害地付近有志医の尽力、軍艦龍田の回航、諸新聞記者の斡旋、その他政府の国庫を開き、内外慈善者の義捐に頼り、幾何ならずして罹災諸民のその堵安んずるを得たるの一事これなり。ただただこの二つながらの事ども永々億万斯年の後までも、忘るること能わざるがため、この編を次する所以にして、編者の微意要なる所は、一はもって皇恩の洪大無辺なるはかの救済に盡瘁せられたる江湖義士仁人の美徳を表彰し、一はもって後の海嘯史を作為する者のために資することあり。
一、記事三県に渉らざる者、その探聞考索のあまねからざりしをもってなり。 この編は編者の自ら実地の踏査と目撃を了したる我が南閉伊郡二町村の事に止まるのみ。
一、草卒編次を為すがために、配列転倒錯置の失を免れざるのみならず、遺漏もまた多かるべし。よって編者は他日を期し、さらに増補する所あらんとす。読者幸いに諒焉せられよ。
 明治三十年三月上浣          編 者 識

被害之報告

◎本郡郡長一ノ倉貫一氏は六月二十七日をもって被害の状況を県庁に向かいて左の如く報告せり。       南閉伊郡沿海市町村海嘯罹災の状況

一、罹災の現況
明治二十九年六月十五日朝来、曇天にして午後より降雨ありたれども、海波静穏なりしが、午後第八時を過ぎ大雨となり、前後十二回の震動あるも、微弱にして知覚せざる者多きが如し。午後第八時二十分頃に至り、俄然、異様の音響あるや否、湾内怒涛を起こし、海水一時に暴漲し、その高さ約四十尺以上弐に達す。
即ち海嘯の第一次にしてこの時、過半の家屋を倒し瞬間にして再び激浪襲い来る。これ第二次なり。この第二の激浪をもつて現在の如き惨害を与え、海水の達せし部分はほとんど一掃し去り、さらに前形をとどめざるに至り。
暫時にして平水に復せり。この日はあたかも陰暦五月五日に当たり、いわゆる端午祝いと称し、戸々多少の酒餅を供え祝意を表するの習慣ありて、当時はなお燈火明灼たりしも、第二次の襲波によりて被害地全部はことごとく暗黒となり、わずかに命を保つもの、その破壊せられたる屋上に床下にあるいは海水中にありて悲声助命を呼ぶ。その悲惨なる実に名状すべからず。よって救助をなさんとするも、いかんせん、陸には破壊家屋の残材一面に横たわり、あるいは積もりて山をなし、加えるに泥土深く覆い、一歩も通すべからず。海に一の船なく、よしこれあるも、破砕の木材及び家具等一面に漂流し、船まったく進行する能わず。然れども、もとよりそのまま看過すべからざるが故に、あるいは焚き火をもって漂流者の目標に備え、その他為しうる限りの手段を尽くし、町村吏員及び非罹災者協力、かろうじて救命せしもの、はなはだ少なからず。災害後、雨晴れ、海波いよいよ常に復するがごとくなれども、時々震動あるをもつて再び災害の起こらんことを恐れ、人心恐々としてやまず。父子兄弟たがいにその所在を捜索するもの四方に彷徨し、絶叫の声、払暁に至るもなお絶えざりし。今、その被害の概況を挙ぐれば別表に掲ぐるがごとく、釜石町、大槌町、鵜住居村二町一村総戸数二千七百五十一戸、その人口一万六千七百九人のうち罹災戸数千六百五十一戸、死亡者五千七百一人にして、現存せるもの、戸数千百戸、人口一万千八人なり。なかんずく被害の最も甚だしきものは釜石町にして戸数千百戸人口六千五百二十九人のうち罹災戸数八百九十八戸、人口四千四十一人にして、現存せるものわずかに二百七戸、人口二千四百八十八人に過ぎず。また、鵜住居村大字両石のごときは、戸数百四十四戸人口九百五十八人を有するの部落なりしに、全部流亡に帰し、その余すところわずかに戸数三戸人口百三十四人のみをもってその惨状を推知するに足らん。


一、罹災後の状況
罹災者食料給与に関しては務めて敏速を要すといえども、被害町村は元来、米穀欠乏の地なりしが故、その供給の足らざらんことを慮りしに、幸い被害町村中、貯蔵穀の存するものあると、隣郡にその供給を需むる等の準備を為したるがため、給与上、毫も支障をきたさざりし。爾来、今二十五日まで十日間に炊き出し米を給与せし人員は六千八百二人にして、その穀数百八十三石九斗四升一合なり。そのうち有志者の寄贈にかかわるもの、二十八石六斗六升なり。今後、引継ぎ食料給与すべき人員は五千九百七十六人、その穀数二百三十九石四升なり。
負傷者救護については地方医をして施治せしめんとするも、従来、被害市町村は医師に乏しく、ことに釜石町のごときは一名を存するほか被害のため死亡せるをもって、他より医師を招聘し一時の急を救いしも十分ならざりしか。日本赤十字社岩手県委員部より救護医、以下の派遣あり。また、第二師団より特に軍医及び看護人等の出張ありしをもって、釜石町は臨時病院を尋常小学校内に設け、患者の種類により入院せしめ、その他、大槌町鵜住居村は地方医及び赤十字社岩手県委員部派遣の救護医に於いて巡回治療し、なお第二師団より出張の軍医の施治をもって救護中なり。
罹災後、死体を収集及び埋葬に関しては、西閉伊郡遠野町消防組百四人義挙来集せるを機とし、これが収集発掘に着手し、ついで付近の町村及び西閉伊郡各町村より人夫を募集し警察官と協力の上、各所に散在せる死体を収集し、これを埋葬せり。爾来、人夫を使用せる人員五千二十四人なり。しこうして本日まで死体を埋葬せしもの、千五百六十四人なりしも、死亡人に対し四分の一に過ぎず。過半の死骸は海中に埋没し去られたらん。

◎二町一村長より郡長に向かいて発したる報告、左のごとし。      南閉伊郡釜石町大海嘯被害の状況

明治二十九年六月十五日、大海嘯のため、当釜石町、災害をこうむりたる状況、おおむね左のごとし。
一、起災の時刻
午後八時二十分頃、降雨劇しかりしが、にわかに湾内、激浪怒涛を起こし、その海水、暴漲の高さおおよそ四十尺に達す。
為めに第一回の激波をもって市街中、海面に接したる家屋を倒し、瞬間にして再び大波襲い来たり、山岳に沿いたる少部分の家屋を除くほか全町流失に帰せしめ、暫時にして平水に復せり。


一、災害前の兆候
起災前、一、二回の震動ありたりというといえども、はなはだ微弱にして知覚せざるもの多きに居れり。


一、災害当時の所感
この日はあたかも陰暦五月五日に当たり、いわゆる端午祝いと称して家々、応分の酒肴餅菓を供え、しかも同時刻は飲食最中なるもの多かりしならん。故に避難を講ずるもの甚だ寡少なりしと思わる。


一、罹災の現況
初回の激浪に際しては、いまだ市街の灯下明灼たりしが、二回の怒波により全町暗黒となり、わずかに命を保ちたるものは屋上に床下にあるいは湾内にありてその声を発して助けを呼ぶ。その惨状譬うるに物なし。故に災害にかからざる字臺村、澤村の部分より人夫を集め、町役場吏員挙げて現場に出張し、悲鳴の声に従うて人夫を指揮し救護を尽くせり。この際、生命を救い出したるもの、おおむね六、七十名もありしならん。また、湾内にありて助けを呼ぶものありしも、破壊せられたる家屋の木材をもって海面を覆い助け、船を漕ぎ出すの余地なく、やむをえず一時、海岸に焚き火をなして遭難者の目的を導きたり。また、須叟にして船を漕ぎ出すの時ありしが故に、この時ただちに船を出して救護したるもの数十名、実に当時の惨況は枚挙に遑あらず。かつ、能く筆紙に尽くし難し。


一、災害後の情況
食料供与
雨晴れ波涛平常に復したる後、時々震動ありしをもってなお激浪の起こらんことを恐れ、人心恐々としてやまず。
時々、父母妻子兄弟の所在を捜索するもの四方に彷徨して誰よ゛こに居るかと絶叫する声、払暁に至るもなお絶えざるなり。しかれども、これを援助捜索の衣食供給に務め、三ヶ所に炊き出し場を設けて飢えを救いたり。翌十六日より救助米を分与し今日に至るも、飢餓を訴えるものなきは、畢竟米噌の運搬速やかなるに困れり。


負傷者の救護
軽重の負傷者は特別の事情あるもののほか、すべて尋常小学校校舎を仮病院となし、ここに収集して治療を施せり。


死骸の拾集
各所に散在せる死骸は五百有余名の人夫をもって石応寺境内に集め、その引取り人なきもののほか、同所公葬地へ合葬す。
右報告す。
 明治二十九年六月二十三日                  南閉伊郡釜石町長  服部 保受

   西南閉伊郡長  一ノ倉貫一殿(別表あれども、郡統計前にあるに付き略す)          海嘯被害報告

明治二十九年六月十五日午後四時より同八時までに小震二回中震一回、そしてその午後八時頃、一時に来たりし海嘯はその勢い劇甚を極め、その潮の高さ、本村両石海岸及び箱崎の南部およそ五十尺余、箱崎の北部及び鵜住居片岸およそ四十尺余、その来去の速やかなる、五分時間に過ぎざりし。この災害により本村の被害、別表の通り、死亡者千六十一人のうち死体発見埋葬せし者、昨十九日まで百十八人、負傷者二十八人、うち死亡十七人。被害未曾有の惨状、名状すべからず。両石部落の如きは、全部百四十四戸のうち、その被害を免れたる者わずかに三戸、余は皆、流失す。とりあえずこの段報告候なり。
 明治二十九年六月二十日                       鵜住居村長  真壁 喜六

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郡長報告附属表 明治二十九年六月十五日海嘯罹災取調表

西閉伊郡長  一ノ倉 貫一 殿

本日十五日午前八時二十分、突然、大海嘯起こり、本町内小鎚のうち字中須賀、大須賀、大槌のうち向川原、安渡、及び吉里吉里のうち吉里吉里、赤濱、浪板の七ヶ所に於いて人畜家屋、大半流亡いたし候につき調査候。別紙の通りにこれ有り候條、この段及び報告候なり。
 明治二十九年六月十九日                       大槌町長  後藤 直太郎

西南閉伊郡長  一ノ倉 貫一 殿   (別表は郡統計前にあるに付き略す)

◎六月十五日、宮古測候所概調報告、左の如し。

明治二十九年六月十五日午後八時頃の海嘯は、近代未聞一大津浪にして、北は北海道及び青森県の一部より南は福島県に波及してほとんど数百里にわたれり。なかんずく被害の首なる地方は本県沿海一帯及び宮城県北部沿海にして、その残酷なる瞬間に許多の生命財産を蕩盡せり。しかりしこうして本県沿海各町村の惨害は実に名状すべかなず。本所所在地近傍に於いてもまた、惨毒をこうむらざる所なく、その甚だしきは全村流亡せし所あり。その他被害の状況を一々記すれば枚挙に遑あらず。また、その凄愴たる有様はほとんど形容に辞なく、ただ酸鼻というほかなきなり。
しこうしてかくの如き惨状を呈せし首なる地方に於いても被害の度に軽重あり。本所所在地の如きは割合に少なき方にて、これらは他に一二の理由あれども、おおむね港湾の地形に関係するものの如し。
当地方のものに於いてはいまだ明瞭ならずといえども、今より去る二百八十年前、元和二年(月日不明)に大海嘯ありしと。また、四十年前、安政三年七月二十三日(陰暦)正午頃に起こりしものは、所により(青森県八戸地方は甚だしかりし由)被害をこうむりしも、這回の海嘯に及ばざること遥かに遠く、しかも地震は強くかつ頻繁なりしと言えり。
今這般の海嘯につき、本所に於いて観測調査せし要領は左の如し。

海嘯の現象及びその原因

今般の大海嘯の起始は(海水の始めて退減し始めし時刻)夜間の如きは観測し能わざれども、およそ午後六時五十分頃にして、最初の地震後約十八分を経たるなるべし。その後、十分時間を過ぎ、午後八時頃増水し、零時にしてやや退減し、同八時七分に至り最大激烈なるもの真に轟雷の如き響きをなして襲来し、その後、八時十五分、八時三十二分、八時四十八分、八時五十九分、九時十六分及び九時五十分の六回に著しき増水なりし。勢力は暫次減殺せり。しこうして一大惨状を呈せしは第二回目の激浪にして、忽緒の間に幾多の生命財産を一掃し去れり。爾後翌十六日正午頃まではたしかに海水の増減あれども、すこぶる軽少にして精密の観測をなさざれば知るべからず。また、その著名なる増減は往復八回、その往復震動期は約十分内外にして最大波浪は湾内に於いて約一丈五、六尺なりし。
元来、津浪を起こす原因に二種あり。暴風及び地震これなり。しこうして海嘯当時の気象は通観するに、連日、高気圧は太平洋に、低気圧は日本海方面に拡張し、かつその差は僅少にして暴風の兆候なり。また、当時の地震によりて捜索するも、その原因は暴風にあらずして全く地震津浪なりしこと明瞭なり。そもそも震源の海中もしくは海岸にありて強き震動発起するときは、海水に激動を与え水震(いわゆる津浪)を起こし、時としては沿海に非常に災害をなすことありて、即ち這回の如き現象を発見するものなれば、海中に大震ありしは疑いなきものの如し。

海嘯前後の地震及び震原

当地方は平常、地震多き方にあらず。本所創業以来の観測によれば、平均一年間に十五回なるも、二十七年及び二十八年は共に平年より一倍余の多震にして即ち二年とも三十二回を観測せり。しこうしてかく震数の増加せしは、二十七年三月二十二日、根室地方に於ける大震の余波をこうむり、いわゆる余震(俗に揺り返しと名づくるもの)に関係するも、図られざれどもまた這回の災害を起こす原因なりしも知るべからず。なお本年一月以来、おおむね平均以上の多震にしてなかんずく四月に至り十六回の非常の震数を示せり。これあるいは今回の前兆にあらざるか。とにかく、異例の現象を呈せり。爾後は別に異状なかりしか。六月十五日午後七時三十二分三十秒に至りてやや微弱し、ほとんど東、西の方面をもつて五分間、水平に震動し、すこぶる緩慢なりし。次いで同七時五十三分三十秒に微震し、爾後、頻繁続震し、八時より九時の間に四回、九時より十時の間に四回、十時より十一時の間に一回、十一時より夜半までに二回の微震ありて、計十三回を観測し、翌十六日は十三回、十七日は十二回、十八日は六回、十九日は二回、二十日は四回、二十一日は一回、二十二日は三回、二十三、二十四日は各一回、二十五日は三回の微弱震ありしも、なかんずく微震最も多く、また上下動は甚だ稀なりしは、上来述ぶる所によって観るも、這般の災変は地震津浪なること明瞭なり。しかりしこうして震原は何処なるやはいまだ十分の材料を得ざれば、推算し能わざれども、おおむね海岸を去る三十里ないし三十五里辺にありしものの如く、即ち本所に於いて観測せし結果、並びに一昨年、根室大震の際、本所に影響せし地震、津浪等の成績によりて概算を施すときは、本所より東南東にあたりおおよそ東経百四十五度、北緯三十九度辺に震災ありしものの如く、なお地震の性質及びトスカロラ海床の関係等より観察を下すとき、根室大震の時の如く、地滑りなりしも知るべからず。

海嘯前後の気象

気候と地震と相関係するとは、往昔より人の唱うる所なれども、これらの関係をして明瞭ならしむるは容易のことにあらず。しかれども、今試みに本所に於いて従来観測せし結果により調査せし大要を叙し、参考に供せん。
気圧は昨二十八年に於いては多少の高低こそあれ、ほぼ平年に均しき曲線を示せしが、一月より四月まではやや不規則の昇降をなせり。しこうして本年一月に至り非常に低圧(七百五十四ミリ七にして平年より低きこと三ミリ六)を示し、二月は急昇して七百六十一ミリ三の最高を示し、平年より二ミリ四高く、爾後は一ミリないし二ミリの高圧なりし。温度は、昨年及び本年ともおおむね高温のほうにして、二十八年は一月、三月、六月、七月、八月及び十一月はやや低度なりしも、その他の各月は高度なりし。しこうして本年は三月に低音にしてその他は高温なりし。
温度は二十八年に於いて、三月及び八月はわずかに多湿に、七月は平年に等しく、その他の各月は多少の差こそあれ、いずれも乾燥なりし。しこうして本年は二月の多湿を除き、いずれも乾燥の候なりし。
雨量は二十八年一月は少量に、二月は多量にして、三月以降再び少量なりしが、爾後、一多一少にして不規則なりしも、おおむね上半年は少量に、下半年は多量なりし。しこうして本年は二月に於いてほとんど二百ミリ近き多量の降雨ありしのみにて、その他はいずれも平年より少量なりし。
さらに本月十五日前後十日間の気象を調査するに、気圧に於いては八日及び十日はほとんど平年に等しく、九日は平年以下にあり。爾後十八日まではいずれも高圧なり。しこうして災変後三日目即ち十七日より急降し、十九日は平年以下の度を示し、二十一日最低七百四十六ミリ七(十九日午前六時、低部位、朝鮮海峡を占領し海上不穏のおそれありしが、この低気圧、暫次、北東方に進行して二十一日頃は本州北部を占領せしをもつてかくの如く低下せしならん)に達し、それより上昇して二十三日に至り平年以上に昇れり。
温度は五日より及び六日はほとんど同度なりしが、爾後、多少の差あれども高温にして二十一日に至り、ようやく平年に近似せり。湿度は五、六の両日は多湿なりしが、七日より七度以上の乾燥にして十五、十六の両日は再び多湿となり、爾後は甚だしき差異なかりし。
雨量は五日より十三日までは寡雨にして十四日及び十五日は平年より多く、十六日に至り寡少となりしも、二十一日の多雨を除きては格別の差異なかりし。これを要するに気圧、気温はともに高位を占め、かつ乾燥乏雨の候なりし。ことに変災前は変化著しくして爾後はやや平常に復せしの感あり。しかれども前にも述ぶるが如く、これらの関係をして明瞭せしむるは、精密の調査をなさざれば、にわかに明言し能わず。しばらくここに大要を記するのみ。

■ 報

管内各郡役所よりの地震報告中、未遂の箇所あれども、いずれも当時、各所に数回の微震ありて、過半、南西、北西もしくは東、西の水平動なりし。しこうして胆沢郡水沢町に於いては大砲の如き音響三回ありしと、また二戸郡福岡町に於いて震動後十分を経て戸外通車の軋るが如き声響を聞きしが、それより六分を過ぎて俄然、頭上迅雷の轟くを遠きに聞くが如き響きあり。前後ともその方位は東方にありしが如しと報ぜり。翌十六日も引き続き各所に微弱震数回あり。稀には強震を報ぜり。今、本所に達せし臨時報告を摘記すれば、左の如し。

海嘯臨時報告

二十九年六月十六日午後八時四十五分本所宛             南北九戸郡役所
(電報)昨夜午後九時門前、野田村、中野字小子内、原子内は九分通り、待濱、種市、夏井、長内の一部流失、死傷多し。


同上六月十八日午前十一時三十五分発本所宛             気仙郡役所
(電報)十五日午後九時、津浪本郡内流失およそ一千四百戸、死亡およそ七千人。惨状極まりなし。盛町無事。


同上六月二十日付本所宛                      西南閉伊郡役所   
(摘要)本月十五日午後八時三十分前後、地震あり。ために海水激騰、大海嘯を起こし、その高さ五丈余。沿岸を襲来するの音響あたかも雷鳴の如し。たちまち沿岸の家屋を浸すもの数里にわたり、人命財産を蕩盡すること無算云々。


同上六月二十三日本所宛                      気仙郡役所
(摘要)本月十五日午後四時、驟雨のち細雨となり、同九時になんなんとし南東に発砲の如き音、引き続き変動あり。(当市街中には心安からざりしもの多し)沿海漁村に於いては、みな軍艦の発砲とのみ思いしに、暫時にして猛烈なる海水襲来、時すでに午後九時過ぎ、暗夜咫尺を弁せず、おおむね避難に遑なく、家屋とともに蕩盡せられ、そのうち水練に達し、あるいは僥倖にも波に打ち上げられたる等、九死に一生を得たるものも岩石、木竹に触れ、多少の疵をこうむらざるなく、海吹のやや鎮静に至るまでの間はおよそ一時間、天明被害の状況を一見すれば、港湾の位置、地勢の広狭により一様ならざれども、おおむね洋中に突出し、かつ大洋に面せる部分に被
 害多く、波浪の最高はおよそ水面より百尺の高所に達し、最低といえども三十尺にくだるらず。大樹を抜き山を崩し家屋、倉庫粉砕して形を留めしものなく、材木、家具等散乱し、あるいは洋中に漂流せるもの多く、また、陸上各所に散見する所の死屍は脳を破り骨を砕き皮膚を傷つけ腸を露わし、その惨憺たる形状は、よく言語のつくす所にあらず云々。


同上六月二十七日付本所宛                      南北九戸郡役所
(摘要)去十五日午後七時頃より微震数回、濃霧朦朧。同七時三十分頃に至り、かすかに鳴動する二、三回。同八時二十分頃、砲声の如きもの二、三回を聞くとともに百雷の一時に轟くが如き凄まじき音響とともに数次の波浪襲来し、たちまち人畜家屋を捲き去り、沿海はいずれも高所なる山麓を侵襲破壊せり。しこうして全く退潮せしは同八時三十分内外ならん云々。
山形測候所員の通信によれば、当日同所にも地震あり、かつ遠雷の如き響きを聞き、あるいは近県に大地震にてもあらざりしかを疑えりと。また、根室測候所員よりも、微震かつ小津浪ありしを通報せり。
当時、海上にありし当地方の漁者の説には、別段異状なしと言えるもの多し。最も稀には潮流急なりしを唱うるものありし。その他、井水の減量、水温の昇降等種々の説を唱うるものあれども、いまだにわかに信憑し難きをもって省略しぬ。かつ被害の一斑を知らしめんため、本県管内に於ける被害の概表を付す。
      「気象表、地震回数模図及び被害表は略す」

往古の海嘯

◎左に列記するものは光徳の朝より東山に至るの間、諸国に起これる海嘯史一斑なり。読み来てうたた今昔の感に堪えざるものあり。すなわちここに抄録し参考の資とはなしぬ。

光徳天皇の御宇
 紀元一千三百五年、仁和三年五月二十九日、同七日、とも地震す。この日、五畿七道諸国の官舎多く損し、海潮陸にみなぎり溺死するもの挙げて数うべからず。摂津もっとも甚し。夜、東西声あり、雷の如し。


天武天皇の御宇       (天武紀)
 紀元一千三百四十四年、甲申十二月、地、大いに震う。諸国郡の官舎及び人民の倉庫、寺塔、神社、破壊し、人民及び畜類多く死傷す。時に伊予の温泉没して出でず。土佐の田苑五十余万町没して海となる。古老曰く、かく如く地の動くこといまだかつてあらずと。土佐の国言う。大潮高く上がりて海水飄蕩す。これによって調を運ぶ舟、多く没す。


孝謙天皇の御宇       (孝謙紀)
 紀元一千四百十三年癸巳、摂津国御津村、南風大いに吹き潮水暴れ溢れて盧舎一百十余区を壊損して、百姓五百六十人を漂没す。並びに賑恤を加う。よつて海浜の居民を追々、京中の空き地に遷し置く。また、摂津、津浪、地大いに震う。


称徳天皇の御宇
 紀元一千四百二十五年、天平神護二年六月五日、大隈神造新島震動息まず。海水溢れ、民みな亡ず。


弘仁天皇の御宇       (類聚国史)
紀元一千四百八十年、弘仁十一年庚子、和泉国飢う。使いを遣わしてこれを賑給せしむ。讃岐国旱す。これを賑給す。
 河内国滂あり。乏絶の戸に■貸す。翌年詔して曰く、陰晴候を失い坎徳災いをなし、河内国、被害もっとも甚だし。秋稼これをもって淹傷し、下民これに因りて昏蟄す。朕、今事に即してこの地を経歴し、目に触れて憂いを増す。兆庶何事ぞや、その害せられし諸郡は三年を給復し、もっとも貧下なるものには去年の貢租税の未納及び当年の租税を免除せん。それ山城、摂津の両国は地勢犬牙し、これと相接す。これを見て彼を知る害、必ず氾濫なることを濱水の百姓の資産を流失せるものは、今年の租税を出すことなかれ。並びに三国の被害の貧究は量りて賑給を加えよ。


清和天皇の御宇        (清和紀)
 紀元一千五百二十九年、貞観十一年巳丑、肥後国大いに風雨し、瓦を飛ばし樹を抜く。官舎、民屋顛倒するもの多し。人畜圧死すること、あげて数うべからず。潮水、漲溢して六郡を漂没す。水退きてのち、捜撫するに、官物、十に五、六を失えり。海より山に至り、その間の田園数百里陥りて海となれり。詔す聞く、陸奥国の境地震もっとも甚だし。
 あるいは海水暴れに溢れて患をなし、あるいは城宇頽圧して缺を致す。百姓、辜ありてか、この禍毒にかかる。恤然として愧懽し、責深く朕にあり。今、使いを遣わし、ついて恩照を布かしむ。使いと国司と民夷を論ぜず。つとめて自ら臨撫せよ。すでに死する者はことごとく収殯を加え、その在る者は詳らかに賑給を崇び、その害をこうむること大いに甚だしき者は租調を輸すことなからしめ、■寡孤独窮して自立すること能わざる者は、所在に斟量して厚く支済すべし。
 務めて衿恤の旨を尽くし、朕が親しく観るがごとくならしめよ。


後鳥羽天皇の御宇       (方丈記)
 紀元一千八百四十五年、文治元年乙巳七月、大いに地震し、山崩れて川を埋め、海かたふきて陸を侵せり。


村上天皇の御宇
 紀元一千九百九十九年、興国十六年六月十八日及び二十日、地震す。阿波■港は溢れ、居民廬舎千七百戸を流失す。同七月二十四日、大いに地震し難波浦は溢れ、死せる者数百人、阿波、鳴戸、潮涸れ、陸となり、巨皷あり、石上に見はる。


後陽成天皇の御宇        (孝亮記、梵舜日記)
紀元二千二百五十六年、慶長元年丙申七月五日、地大いに震う。城中死する者二百余人、山崩れ地裂け、 泥を吹き、海水泛溢し、民屋蟄陥し、人畜死傷、算なし。冬に至るまでなお止まず。
 紀元二千二百六十一年、慶長六年辛丑三月、坂東の諸国、疫病流行して人民多く死す。十二月、上総、安房、地大いに震い、山崩れ海埋まり、嶽を海上に成す。湖涸るること三十余丁。翌日、海大いに鳴り湖溢れ、人畜多く死す。

 
後水尾天皇の御宇          (和漢合運)
 紀元二千二百八十七年、寛永四年丁卯十月四日、東海道の諸国、大地震し、また海嘯のために命を失せしもの頗る多し。なかんずく、大坂は大破損に及び、死亡三万余人あり。八月、諸国洪水。


明正天皇の御宇          (弘賢覚書)
 紀元二千三百年、寛永(慶長の誤り)十七年庚辰六月、陸奥国並びに松前蝦夷の地、天暗くして咫尺を弁ぜず、松前を距る行程八日路宇知、浦火涛起こり山を壊し陸に騰る。十里の間の山岳より火を発し、炎焔空に飛び、人の死する者七百余、馬、牛、魚、鳥、傷亡する算なし。灰燼、地を埋むる一丈七尺許。秋に至りて鳴動やまず、焦土、海に入り一島を生ず。


霊元天皇の御宇          (和漢合運)     
紀元二千三百三十年、寛文十年庚戊八月、摂津国大風、土塊を降らす。同時に西海より洪涛たちまち起こり来たり、難波の堀及び近傍の郷里に■溢せり。余波牧方の郷に至る旅泊の船、ことごとく潮水のために顛倒し溺死するものその数を知らず。


同                (続王代一覧、泰平年表、弘賢雑記)
 紀元二千三十六年、延寶四年丙辰七月、大風雨、東海道洪水。十月、常陸国水戸、陸奥国磐城の海辺、逆浪、陸を壊し人畜死し、屋舎流亡す。この日、尾張の海も波を揚げ光を飛ばして漁船を傷つく。東国旱魃、米一石銀六十匁。


東山天皇の御宇          (十三朝紀聞)
 紀元二千三百六十一年、元禄十四年辛巳四月二十五日、秋田地震。六月二十日、海辺、高潮。六月、美濃国、雹降り人は傷なう。十二月、東国大いに飢う。江戸の市中、餓■路に横たわる。幕府本所の霊山寺に於いて場を設け、粥及び衣服を施し、これを賑わす。こめ一石銀十三匁。


同                (萬年記、翁草、泰平年表、十三朝紀聞)
 紀元二千三百六十七年、寛永四年丁亥十月四日、駿河国より西方の地、大いに震う。東海、東山、西海の神社仏閣、城郭、民家の転破するもの、その数を知らず。ことに伊勢、土佐両国は洪波のために人畜多く溺死す。その他、諸国潮溢れ、海辺の田園、これがために荒廃す。十一月二十三日、富士峯と足高山との間、素走口に火を発し、相模、武蔵両国へ土砂及び灰を雨らす。方数十里、砂土積もる。深きところは平地に数尺に及び、田畑みな埋まる。幕府、命を下して郡国に賦課し、窮民を賑給し、大いに役を興して灰砂を除き、最も深重除くべからざるは、その民を他処に移す。
 田園永く荒れ不毛の地となるもの、若干萬頃初め、火の起こるや、声ある雷の如し。天陰りて晦冥なる黄昏の如く。黒灰を雨らす。霰の如し。人いまだその所以を知らず。路を行く者、或るは傘を張り笠を戴き、婦女は恐怖して耳を覆い、目を閉じ居る。一、二日ややその所以を聞き知る時に、十四日は砂石自ら飛び、富士山東南に一堆の山を成す。号して寶永山という。米一石銀十七匁。


◎文久年間、大槌町の故人・菊池秀前(当時六十八才、俳名五大坊)がものせし梅荘見聞録六冊は今尚、菊池家の蔵書たり。過ぎつる海嘯の際、これを泥砂の間に得、中に左の記事あり。余試みに七、八十の古老につきて寛政の海嘯を参考に、果たして事実をこの記事と同じうし、明鏡相照らすが如し。すなわち載せてもってありし昔の当時を知らしむ。

地震津波の事

一、往古、元和二年辰年十一月二十八日、大地震にて津波押し来たり候ところ、当所は市日ゆえ在々浜々より市遣いの人々寄り集まり候につき、男女大勢流死のよし、当所より鵜住居までの間に数百人と申すほど死人これあり候よし、その後、久しく地震津波のこと諸書にも見え申さず候。その後、安永三午年五月三日に大地震これあり候えども、夏中ゆえか津浪はこれなく候趣、右は草木青葉の節には津波これなきことに古人も言い残し置きぬ。左候えども、地は割れて地中より泥を吹き上げ候ことこれあり候趣、その節、箱崎村にては端午の市日に売りに致し候磯もの、貝類、取り候に、女子供、崎々に出候ところ、山崩れ、岩崩れ、速死の者これあり候よしに言い伝え候なり。その後は寛政五丑年正月七日巳の刻、大地震二、三度これあり候ところ、大津波、珊瑚島の上を越し押し来たり、町内下側は裏通り垣根まで来たり候よし、上側には変なし。向川原板敷きの上まで塩水上がり、須賀通りは大変のよし。両石村にては家十六、七軒流れ候につき、流死の者も十二、三人もこれあり、潰れ家も数軒これあり、そのあとは川原の如くにあい成り候よし。地震は毎日毎夜、二度も三度もこれあり、塩水も七日ばかりのうちは押し来たり候ゆえ、南北とも海辺住居のものは山に引き移り、日夜七日ばかりの間、家へ参りおらず候よし。地震は三、四月頃までは大小の地震、毎日折々、これあり候趣、これまでは古廟山主翁記録よりこれを写し、委細は本家別記これあり候わば、ここに略し候なり。   


一、安政三辰年七月二十三日五ツ時、西風上々、四ツ過ぎに地震両度これあり、九ツ頃に大地震二度これあり。最も一度は長くこれあり候ところ、まもなく津波押し来たり候。兼ねて承り候えば、青葉の節は津波これなきものに聞き及び候ゆえ、油断致しおり候ところへ津波1一、二、三、四度押し来たり、右水の押し入るは須賀通りへ寛政五年正月七日の津波くらいに押しかかり候ゆえ、大須賀通りの納屋は保ちおり候ところ、五度目に大潮押し来たり、高田屋茂兵衛居宅、菊池屋長兵衛居宅、小枕松の居宅、中宿屋儀右衛門殿納屋残らず潮にとられ候。八日町下側は板敷きへ塩水上がり候所甲乙あり。四日町下側と八日町北側は畳に上がり候所もこれあり候。八日町裏岩間氏板敷きへ四尺ばかり上がり候。上須賀の甚兵衛殿宅へは二尺七、八寸ばかり上がり、須賀の藤屋借家並びに須賀小路へ八、九寸または一丈ほども上がり、多助納屋の内へは八尺ばかり上がり、東海社御宮前へは五尺四、五寸ばかり、石橋の角・吉里屋良助宅板敷きへ四、五寸ほど、風呂小路へは二尺五、六寸ほど、江岸寺門内へは二尺ばかり、門外往来へは三尺ばかり、二十三日昼頃より向川原は寺山墓所へ仮屋拵えおり、八日町の衆は薬師堂並びのうしろ山へ仮宅拵えおり、四日町の衆は大念寺並びに小鎚社等まで二十九日暮れ方まで山籠もり、日夜、本宅へは参らず、朝夕の飯も山にて炊き出し致し候いて、七日七夜暮らしおり候。二十九日暮、雷大雨つき、本宅へ下がり宿致し候。二十三日、五度目の潮、押し参り候ところへ歩いて行き、四日町大工の松之丞流死に合う。ようやく二十六日に死骸見つけ葬式致し候。二十四日、西風、上天気。日中に小地震五、六度、夜中にも四、五度、これあり候。同日、船越村の様子承り候ところ、前海より塩水押し上がり、浦之浜の方へ押しぬけ候につき、流れ家は二十七軒、潰れ家は十一、二軒これあり、流死は男女にて二十一人これあり。右のうち十一人死骸これあり。四人は見え申さず趣。二十五日に葬式いたし候よし。二十五日上天気。日中に地震四、五度これあり候えども、ぬれもの洗い、干し取り片付け致し候。夜中にも四、五度これあり候。二十六日上天気。
御役所より南北へ御見分御出立成られ候五ツ頃に大地震これあり、まれまれに下宿致し候衆も、またまた山へ上り仮小屋かけ、日夜居り候。藤善之、土蔵破れ候。日中に地震たびたびこれあり夜中も四、五度これあり候。明七ツにもこれあり候。二十七日、上天気。四ツ頃に中くらいの地震、昼も三、四度これあり。いずれも山より下り申さず。町内は中関へ厚板を敷き並べ家内には一人も居り申さず候。小鎚社にはご祈祷並びに湯立ちこれあり。山伏、神主、神子集まりこれ有るよし。夕方、小地震あり。夜はなし。二十八日、西風上々天気。明七ツ大地震これあり、四ツ頃に小地震あり、暮れ方にもあり。夜中にも両度あり。この日、江岸寺と笹勇より白米二斗あて須賀通借家の者へばかり手当てこれあり候。二十九日、西風、上々天気、朝、小地震二度、昼なし。暮れ方大雷大雨降り、山々より本宅へ下宿致し候。夜中に一度これあり候。


一、八月朔日、北風、曇り。四ツ頃に中地震一ツあり。夜も一ツあり。今日非番御代官神友衛様、御城下より御出張。
御忌二日、北風冷気、小雨夜通し降り、五ツ頃より変なし。夜もなし。雨晴れず。三日、北風冷気、小雨夜通し降り、五ツ頃わり雨晴れ曇り。今日、御官所より難渋の者へばかり御米一人につき二升五合当たりに御貸し付けなられ候。神友衛様下役・根守純平様、北通りへ御見分に御出立なられ候。日中、変なし。夜四ツ頃に地震一ツあり。四日、北風、小雨降り、須賀通り・藤屋借家住居の者へ中宿屋儀左衛門殿より一軒へ玄米三升あて福島屋五兵衛殿より籾五升あて手当てこれあり候。九ツ頃に地震一ツこれあり候。夜は変なし。御代官様下役、北方より今日帰館。五日、西風、天気。御代官様下役、南通りへ御見分に御出立なられ候。今日、須賀通り、水押し上がり、難渋の者どもへ両町より一人につき籾三升あて、人数により甲乙これあり手当てなられ候趣、七十七軒へ籾十石余のよし。暮れ方より夜中変なし。六日、西風天気日夜変なし。御代官様、南通りより御帰館なられ候よし。七日、曇天。今日、町内並びに惣村ともに津波につき流れ家、潰れ家、流死等並びに難儀の者どもへの手当て、御官所へ参上書き上げ申し候よし。日夜ともに変なし。九日、西風天気。昨夜、南通の松魚船、当浦へ相廻り、鰹一本百文くらい。日夜変なし。十日、北風、曇り。今日、御滞在の非番御代官様、昼立ちにて御出府なられ候よし。九ツ頃に小地震あり、夜四ツ頃にも一ツあり。十一日、辰巳風、曇り、日夜変なし。十二日、辰巳風、曇り。五ツ頃に小地震一ツあり。四ツ頃に西風、上々天気、昼八ツ頃に小地震一ツあり。夜中変なし。十五日、南風、朝、曇り。仲秋無月、雷雨。八幡社御祭事につき花角力これあり。暮れより雨の月。十六日、南風、明け方より雨、晴れ、曇り。
夕方、天気。花角力これあり候。十七日、南風。朝より雨降る。五ツ過ぎに雨晴れる。東梅社の流れ並びに向川原三、四ケ所の井戸、八日町、三、四ケ所の井戸、ともに地震この方、今に塩気これあり。如何の訳柄やら相分かり申さず候。寛政五年の地震とは大いに万事違い候事ばかりこれあり候。諸人、日夜、心配致し候。今日までも親類の近きものは、塩水押し入り候居宅へ引き移り申さず候。潮の干満も定日定月も昼も夜も勝手次第、大方は満潮ばかりにて干潮はこれ無く候。もつとも秋の初午とは申しながら刻限のきまりもこれ無く候。今日までは三ケ日は日夜、変なし。十八日、西風、上々天気、朝、夕方、地震一ツずつあり。
夜は変なし。十九日朝寒、上々天気。今日、御役屋、稲荷社御祭事につき花角力これあり。変なし。二十二日、辰巳風、曇り、九ツ頃に地震あり。八ツ頃にもこれあり。夕方、花角力これあり候。二十一日、辰巳風、曇り。日夜変なし。二十二日、北風、曇り。日夜変なし。二十三日、曇り。夜、五ツ時に小地震一ツあり。二十四日、北風、朝寒、曇り。夜五ツ前後、小地震三ツあり。夜九ツ頃、中地震一ツあり。明七ツ頃にまた一ツあり。二十五日、辰巳風、明け方より雨降り、夜四ツ過ぎより酢化雷、大風雨、変なし。二十六日西風、雨晴れ、嵐に相なり、今日、安渡の御祭事相済み申し候。八ツ過ぎに中地震一ツあり。二十七日、西風、上々天気。八ツ頃に小地震二度あり。安渡に花角力これあり候。二十八日、西北風、上天気、変なし。二十九日、西風、朝寒、上々天気、変なし。晦日、南風、朝寒、上々天気、変なし。これより九月一ヶ月は日記略す。相変わらず、地震は一ヶ月おき、または二ヶ月おきまたは毎日これあり候こともこれあり候。十月も十一月も右の通りに候えども、さしたる地震はこれなき候につき、文略し候。
前文にも書き入れ候通り、古人の言い伝えにて草木青葉これあり候時は地震ありとも、津波は来たらぬことに申し伝え候えども、まつたく左様にはこれ無く候と相考え候に、青葉これあり候節も夏の土用中まではよろしからずと見え候ため、立秋の頃なりとて、以来、無断、潮押し来るものに心得、覚悟致すべきこと、後の人に申し残しおきぬ。
 古寛政五年の津波は予が生まれぬ先の事ゆえ、古廟山主翁の日記よりこれを写し、安政三辰年の津波は予が六十歳の事ゆえ、ありのままの事、これに記す。

地震津波の事

一、寛政五丑年正月七日(大地震古廟山主翁日記より写す)、晴天、四ツ半時、地震致し、その次に大地震長く、山崩れ、騒動それより地震数度致し、然るに須賀より人叫び来たり、海の水、珊瑚島より引きたるよし。すわ一大事と皆々、諸道具等運ぶに、まもなく珊瑚島の上を浪打ち越し、推し来る波、恐ろしく須賀辺の家を打ち破り、船は町裏あるいは洞辺推し揚がり、須賀通り五、六尺の水、安渡も右の如く諸道具打ち捨て命を助からんと、皆々山へ登る。向川原は海になり、町は吉見楼殿家の内まで推し込み、昼のこと、怪我人なく、地震、夜中もやまず。然るに日中よりは少なし、七日の夜、薬師堂内、金崎明神新社、観音堂にて煮炊き致し、通、言語道断なり。船、多くは破れ、東海社の庵もすでに取られんとすれどつつがなし。良助家の畳の上へ一尺余上がる。本家障りなし。向川原の者、本家へ残らず引き取り、本家中町の者は山の下庵へ移る。山は地震は町とはユルク、潮は少しも恐れなし。アア、有り難き土地なり。皆、本尊及び中塔の尊霊の加護なり。須賀通りの人は生きたるまでにて残らず破れ流して食物一粒もなく、ただ立ちのままなり。七日には他の沙汰を聞くことなし。八日、晴天。地震折々なり。さてまた、両石村大変、前代未聞なり。家五十八軒取られ、皆、川原の如くになり、十二人余流死、馬二匹死す。余は本家別記に委しければ略す。


◎同大槌町の故人・小川孫兵衛なる者の記録に係る大槌孫八郎記に、延寶年間以降に至るまでの海嘯大略を挙げたり。左に列記す。


一、元和二年ひのえ辰十月二十八日、大津波、同年より寶永元年甲申年まで八十九年なり。十月二十八日は八日町市にて、町立ち盛り候えども、欲にはなれ候。皆助かり、大欲の者は老若男女ともに大半死す。明神の下まで川に添え波上がり候よし。
一、延寶五年三月夜子の刻より、大地震もなく、子の半時に大潮津波とも申すべきほどの潮さし入り、浦々、騒動。浜端の家々、よほど損じ、山々へ諸道具、穀物取り配り、その月中、騒動。家々、敷居まで水上がり候。


一、元禄む十七年十一月より江戸上方ことのほか地震。この地も十一月二十二日の暁四ツ過ぎ大地震大騒ぎ。江戸より小田原、箱根まで大津波にて人馬捨てたり。家々、だいぶ損じ、大山不動、江ノ島弁才天まで■り落ち候よし。


一、寶暦元年五月二日未の刻、浦々、大潮七度、小潮五度さし入り、浦々民家へは敷板まで上がり、田畑、水の下にあいなり、四日町、八日町、向川原裏通り、海近くなり。酉の刻、潮引き、人馬、怪我これなく、御目付、御勘定所へこれを訴う。

海嘯の学説 三陸地方地震津波に就き地質学上の考説                理学博士  巨知部 忠承 稿

余、この未曾有の事態後、およそ半閲月、病褥にあり、諸新聞その他の報告を見て、事ごとにその災害なるに驚き天を仰いで嘆息せずんばあらず。回顧すれば去々年十月、公命により、陸中宮古以北、陸奥八戸に至るの沿海を巡察し、余が小本村に宿泊したるの日は、まさに酒田地震発作の当夜にして行程東西四十里を隔て、日本海の沿岸地震は太平洋に沈める陸中の東西に於いても延びて、かなりの弱震を与えたり。当時、余は旅亭の階上にあり。石油燈火の最も危険なるを慮かり、強震の再来あらんには、これを提げて階下に降らんとして、階下に団欒し居たる家族及び宿人を顧みたるに恬として意に介せざるものの如し。これに於いて余は、この地方地質の構造上、地震稀なるの地たるをもつて震害に経験なきにより、かく人々の従容たるものなるべしと推考したりき。しこうして爾来二年を出て、さるに酒田に幾層々の惨禍をこの平穏の地方に発生するの不幸を見るに至れり。嚢時、地方人の言容、今なお藹然として余が耳目にあり、想うに幾多の知人は多少、罹災者の中に数えらるるなどとはなりしならん。   
百般の事、その事後に於いて喋々弁を弄するは識者の取らざる所なれども、学理上の事実はまた自ら研究の材料として他日に益なることなしとなさず。かつ地震の学説に至りては、なお極めて幼稚にして学者はその事実の多々ならんことを望み、もつて斯学専攻の資料に供せんと欲するものの如し。余やいまだ実地に臨みて事実の探究に従わずといえども地学者の一人として、また些しく地学上、三陸の地震に関して見る所なしとなさず。しこうして事変後二十有余日、なおいまだ這般学説の出でたるを聞かず。むしろ大早計に過ぎるの謗りを免れざるも、かく連日、病床にありて諸般の報告記事を読み推敲幾番、従って病熱とともに浮かび出でたるところの卑見あり。よって学説中の先登者として試みにこれを本紙にかりて江湖に紹介し、もって高識の教えを乞わんと欲す。大方の識者、幸いに高見を示すに吝ならざらんには、またもつて自己一身の研究にどまらず、広く世上に利益を頒たんことと、あに少々ならずとせんや。


     以下事実
一、発作の年月日時  明治二十九年六月十五日午後八時二十分


二、当日の気象  朝来、風無く陰鬱の天候にして雨霧交も至り、温度は八十度ないし九十度を昇降し、気圧もともに平日より昂騰す(宮古測候所談話)


三、地震の数  十三回


四、津波襲来の状況  六月十五日暮れ方、数回の地震あり。午後八時頃、東閉伊郡沖合いに於いて轟然、一発巨砲を放ちたる如き響音あり。その音響のやむや、いまだ数分時間ならざるに、海嘯にわかに至り狂瀾、天を衝き、怒涛、地を捲き、浩々として慕地に押し寄せ来たり、市街となく村落となくすべて汎濫の没せる所となり、沿海一帯七十余里、わずかに一瞬間にして平砂荒涼、死骸壊屋の累々たる満目惨憺たらざるなし。


五、地震の有無  各地とも地震ありて、しこうして後、津浪至る。函館、室蘭に於けるもまた同じ。


六、音響の有無  大砲の如き、または遠雷の如き響きを聞くも、各地みな然り。独り宮城県志津川に於いては、これを聞き得しものなしという。日本新聞二四三九号に曰く。(前略)しこうしてかの地の所にて、いずれも聞き取りしという大砲ようの奇響は独りこの志津川に於いて聞き得しもの一人だになかりき。これすこぶる奇談たり云々。


七、浪の高さ  田老村以北数里の間は被害の最も激甚なりし場所にして、浪の高さ十五丈余に達したりという。


八、光明の有無  無数のの怪火  野田駐在所の巡査・遊佐某は海嘯の当夜、所轄部内の宇部村を巡回し、午後八時二十分頃、駐在所を去る十町ばかりの所まで帰りしに、海上、異常の鳴動を聞き、怪しみながら野田に近づくや、海潮はかつて見しことなき高処まで侵入せり。まさかに津浪と思わざれば、しばしたたずみ考えるうちに、大きさ提灯ほどの怪火その数幾百となく、野田の民家のある所より背後の山にかけて高低に幻光を発したれば云々。
田老村字小港の山上にありしものの話に時ならぬ涛声を聞く一刹那、海水は三百間余、退干して全く海底を露わし、蒼白の異光、燦然たるを目撃したり云々。


九、前兆  いわゆる前兆なるもの数件あり。左にこれを列記す。
海嘯前に干潮となりし報告は少なからず。その一、二例を挙ぐれば、本吉郡御嶽村地方の海面は、海嘯の当日午後三時頃、稀有の大干潮にて、平時、十丈余の深さある辺までも干潮となりたれば、老人などは異変の前兆ならんとて憂慮し居たりという。
宮古に於ける海嘯襲来は前後六回にして、初度の襲来は午後八時なり。しこうしてこれに先立つ十分即ち同七時五十分、海潮は異常なる速力をもって退干し、同時に遠雷の如き洪響を聞きたりと。
白浜と称する所の一老女、災害の当日、井水の退きたるを見て、海嘯の前兆として、人々に逃げ去るよう告げたれども、誰一人信ずるものなかりしが、老婆のみは子供を負うて逃げ失せたるより、遂に一命を全うしたるも、他はみな死亡せり。
宮古町までは去る十四日より三十尋の深さの井ことごとく濁りしのみか、井によりその水白くもしくは赤く変色したるより、人々奇異の思いをなし居たれども、もとより、かかる大海嘯のあるべしとは、考え及ばざりしと。
志津川付近に於いては、去る十三日頃より、流潮騒乱して定流を変じ、十五日に至り老人もかつて覚えざるほどの
干潮となり、いまだかつて見たることなき海底の凸凹を見たり、しこうしてその夕八時頃より三回の鳴動、あるいは遠雷の如きもの起これり。海嘯の襲来は実に八時十分なりしなり。


十、三陸以外の津浪
函館 去る十五日、北海道函館の住吉、大森、若松、海岸各町の海浜にては、午後十時より海水、次第々々に増加し、十二時より翌十六日午前一時頃に至りては、平常の波打ち際より四十間ばかりも陸上に溢れ来たりければ、人々驚破や海嘯に寄せつらめ、前々夜より数回の地震はまさしくこの前兆なりしぞや。(中略)四時の頃より水は徐に滅し去り、ついに平常に復したり。
室蘭 海嘯の起こりしは、各地とも十五日の夜八時過ぎにして、その時は沖合いより陸地にかけ、甚だしき夕立あり。
暫時にして晴れたる後、劇した地震あると、まもなく沖合いに黒雲の如きもの起こりしかは、またもや夕立かと思ううちに、黒雲と思いしは海嘯なりしことを認めたる由にて、室蘭にては翌日午前四時頃、天気晴朗なるにもかかわらず、突然、高浪寄席せ来たり、桟橋と突堤とを洗い去れり。
茂寄 北海道庁の報告に、十勝国茂寄地方は十五日午後八時、海上沖合いに遠雷の轟くが如き響きを聞き、同時に微震あり。地響きほとんど十五分にわたる。同十一時退潮時に際し、俄然、退潮。平時より数十尺の差あり。たちまちにして潮勢奔激六十尺の陸地に襲来し、凄音を発し去来すると、四、五回。初回はもっとも激なりしという。


十一、津浪の波及 銚子港の増水 去る十五日午後四時頃、銚子港地方にては、微なる地震一回ありしが、以来、同港及び高神村海浜にては平日に比し、水量三尺を加え、一時は沖合いの波涛も高まりしという。陸地測量部にて備え付けある金華山近傍の験潮器は、およそ七、八尺の変動を受けたりという。
小笠原小海嘯 小笠原島島司よりその筋への報告によれば、客月十六日午前四時頃、同島父島二見港は潮水異状を呈し、同五時頃に至り、非常に水量を増し平時に比べれば三、四尺増加するのみならず、潮水の進退烈しく、全く常潮とその趣を異にしたるをもって、二見港に於いてはそれぞれ警戒をなし、港内宮の港の如きは、人民いまだ起床前にして、簗の■亀七頭とカノー船一隻を流失せり。釣浜界浦等も、同時同上の増潮を見たるも、人畜等に被害なし。
また、扇村洲崎東海岸初寝浦、北袋沢、小港、南袋沢海岸及び西海岸等に於いても、同時、著しく水層の増加を認め、また激浪のため海岸に休息中の漁夫にして漁具を流失したるものあり。あるいは潮水渓間に充溢ーするに至りたるも、これまた人畜に死傷なかりしと弟島に於いても、同時に、三、四尺の潮層を増加し、南北に面する方、強く東西に向かう方弱く、数回激浪奔蕩を見たるも、人畜に異状なし。
母島沖村及び北村港に於いては、同時、激潮襲来して沖村港の桟橋を破壊し、わずかに板割二、三枚を残し、余はことごとく流失せり。また、北村港は地盤最も低く、人家近傍まで潮水の浸入を見たるも、人畜に異状なし。


十二、旧記 慶長年間、宮城地方に大海嘯ありたる当時、仙台藩より幕府へ死者一万二千人と書き上げたる由。
貞観十一年五月二十六日(七月十三日)、陸奥国大震動。流光如昼、頃之人民叫呼、伏不能起、或屋仆圧死、或地裂埋母殪、馬牛駭奔、或相昇踏、城郭倉庫、門楼墻壁、頽落顛覆、不知其数、海日吼弁声似雷霆、驚湧潮、沂面漲長、忽至城下、去海数千百里、浩々不弁其涯■、原野道路総為滄■乗船不遑、登山難及、溺死者千許資産苗稼殆無孑遣、(本朝地震考)(大日本史)(三代実録)


十三、津浪の時間 被害地実地検査のため三陸地方へ出張中なりし池上内務技師の談話によれば、今日まで正常なる海嘯の時間は分明せざれども、まず正確なるところは、十五日午後八時二十五分なるべし。しこうして爾後、続発したる回数は大小合計数十回にして、その最も大なるものは第一、二、三回目ま゛とぞ。その間隙は各平均六分時間と推断し得たれば、二万の生霊を惨殺したる時間はわずかに十八分ないし二十分の間なり。


十四、海嘯の波幅 海嘯の波幅は正確の事いまだ分明せざれども、必ずや二、三千間の長さにわたしなるべし。されば、その傾斜著しき鈍角をなして海上にある船舶には少しの動揺を与えざりしものにて、海嘯の当時、沖合いに出漁せし者、無事なりしは全く波幅の広かりしゆえなり。


十五、池上技手海嘯談 この記事は実地調査の談話にかかわり最も有益なりと信ずるをもって、重複を顧みず全文を登載す。
三陸海嘯の変後、ただちに実況視察のため出張したる中央気象台技手・池上稲吉氏は、両三日前帰京し、これより収集し得たる材料によりて調査に着手する由なるか。今回の海嘯たる突然の出来事といい僻遠なる地方といい、精密に時間を取り調べるの便なかりしをもつて、海嘯の速度または地震と海嘯との時間の差、その他種々の関係を知ること難く、したがって精確なる調査をなすには多少の日時を要するによって、いまだ詳細を聞くを得ざるも浪幾度となく打ち寄せたるも、その後は漸次に弱く、被害は全く三回の海嘯にあり。然して被害の著しきは釜石なれども、これは戸数多きがゆえにして海嘯の強きを示すものにあらず。実際激烈なりしは、釜石より南数里なる唐丹及び吉浜にして、この浜辺あるいは海嘯の高さ七、八尺にも達したらんか。かの十丈の高さある丘陵または樹木に水痕を印し、あるいは漂着物を打ち寄せたるは、怒涛これに当たりて激昂したるものにて、波の高さ十丈には及ばざりしが如し。何よう、今回の海嘯は突然にして毫も前兆を知るに由なかりき。かの安政二年、江戸の大地震の際にも、海嘯を起こしたれども、当時は水勢の押し来たりし始めより逃避するまでに充分の余裕ありしも、今回の如きは潮勢一度に押し寄せ、人々、海嘯を呼ぶや、かの時早くこの時遅く、激浪すでに四面を蔽うて避けるに遑なし。あるは最初、雷鳴の如き音を聞きたりといい、または、大砲の如き響きを発したりといいて、地震の響きにてもありしが如く想像し、これを海嘯の前兆なりと一般に触れども、右は震響にもあらず、前兆にもあらず、多分、巨巌に激したるか、あるいは他の関係にて海嘯の押し寄せる途中の水勢にて、かかる音響を発したるものならん。現に船中にありし者は一人もその音を聞かずというをもっても知るべし。また船中にありし者が毫も海嘯あるに気づかざりしは、かかる大海嘯は、波状幾百間の大きさをなすがゆえに、たとえ波の高さ百尺以上ありとするも、その幅に比すれば、傾斜をなすこと極めて微なるがゆえに、さては動揺を成させざるものなり。ただし、沿岸に於いて傾斜の変動をなしたる区域はすこぶる広く、金華山に近き沿岸に備えある験潮器は、およそ七、八尺の変動を受け、また銚子の如きも、著しく感じ、北は根室、南は紀州の沿岸に於いても、同じく海嘯に変動を感じたりという。


     以下源因説
十六、潮流の衝突を、津浪の源因と勘定したる考説論者曰く、この沿岸を流るる寒潮と暖潮との変更期は、毎年春秋の彼岸にして秋より春までを寒潮の期節とし、春より秋までを暖潮の期節とす。毎年少しも異なることなし。
然るに、本年は彼岸を過ぎたる今日に至るも、なお依然として寒潮のために海岸を占領せられ、これがために■を漁せる者は暖潮を尋ねて例年よりも遠く沖合いに出て居れり。これによりて見れば、本年は潮流に変化あること疑うべからず。このたび海嘯の源因もこの潮流より起こりたるの変化にあらざるか。余の考えるところによれば、寒暖潮のこの近海に於いて相衝突したるより起こりたるものの如し。なんとなれば、海岸に打ち来たりし波涛の勢い、普通のものと全く異にして、上下に回転しつつ来たれり。遭難者は皆ひとたび海底に巻き込まれて再び波上に没し、この如きもの二、三回なりしという。これけだし、両潮の相衝突したる結果をもつてなり。また漁師のある者は、水柱の海中に立つを見たりという。これまた、海嘯の衝突を証する一理由なり。聞く、氷を含みたる低温度の寒潮と高度の熱を有する暖潮と相合する時は、氷の融解する際、この如き現象を呈することありと。


十七、源因を海底の陥落に帰すれば、その中心に近き海上の船舶は何ゆえに無事なりしや、この源因説は薄弱なりという考説 人あるいは今回の海嘯源因をもって八十マイル外の海底陥落に帰する者あり。もしこの説の如くは、その中心に近き海上の漁船は、第一にこの災いを受けざるべからざるに、実際、十里外の漁船はみな無事にして、その海岸のみ、害をこうむりたるをもって見れば、この説もすこぶる薄弱なるが如し云々と記して、理学者の一考を煩わす。


十八、海上の噴火作用、隆起に帰したる源因考説 
実地視察のため被害地跋渉中なる外客イーストレーキ氏が、海嘯の源因につき語る所というを聞くに、曰く、余の見る所はトスカロラ海床に起こりしにあらず、陸地より五百マイルないし一千マイルの太平洋中の海底に、噴火作用にて急激なる大隆起ありしならん。その理由(一)所によりては海嘯の後に地震ありたることなり。もし、トスカロラ海床の壊崩ならば地震の先にあるべきは論なきに、その後にありし所なるを見れば、その海嘯の起点は甚だ近からず水は流動し易きがゆえに、速やかに運動し、地層は動き易からざるがゆえに、おくれて運動したるなり。(二)九戸郡辺の海岸に打ち揚げられたる貝殻のうちに四百尋ないし五百尋の海底にあらざれば発生せざる所のものあるを見たり。これ海嘯がよほど遠距離の海底より起こされたるものにあらざれば能わざる所(三)海嘯の時刻によりて考えるに南の方、陸前よりも北の方、陸奥に至るまでねほとんど皆、同時刻なり。もし海岸より二十マイルないし六十マイルくらいの辺に起こりしものとせば、近き所は早くして、遠き所は遅きはずなるに、四、五百マイルの間、大概、同時刻に起こりしを見れば、数百マイルの遠方より起こりしものなりしと疑いなし。ただ、余の一つの憂慮する所は、海底の隆起はいかなる模様なるか、もし急激に隆起したるが如く急激に復旧することあらんには、前と同様、第二の海嘯を起こさんことにあり云々と。この説はわが小林特
派員の説と同じからざれども、小林特派員の説も大いに理由あれば、あるいはたがいに■を引きものにやあらんか。いずれも専門家の定説も出ずるならんが、ともかく一説として記し置く。


十九、地辷りを源因となしその中心を田老村沖合いと定めたる考説 
地辷りの中心点 読者よ、今回の大海嘯については、その道博士・学士が推測ありといえども、いまだ実地について明確に視察せしものあるを聞かず。予はこの中心点を得るに汲々とし、ついには宮古測候所長の説を記し、今また前数項に於いて、大いに注意すべき事実を示せり。この明示せる事実と以下に記せる事実とをもつて、予の断定せる中心点を示すべし。
  地辷りの中心点は田老村の海中二、三里の間にあり田老村を襲いたる海嘯は実に南北より奔馳し来たりし二個の大激潮なり。この大激潮中、南方の分は宮古湾頭の黒崎を掠めて田老沖に来たり、北方の分また田老沖に来たりて、両潮相激し、相激したるの大波涛は、田老の民家より一丈余の勢いをもって田老村を粉■し、もつて背後の山に殺倒するや、さらにその勢いを高めて十数丈の空に漲れりというこの一事実は、最も予が説ほ確かむるものにして、田老沖の海底地辷りをなしたるがため、その地辷りたる部分だけ海潮を低いからしめたれば、低所に合わせんとする南北の両大潮は、その辷りたる部分に向かって進み、ここに一大激潮を起こして、その勢いを猛烈ならしめしは、理の最も観易き所なるなるのみならず、田老付近の海底は、底を現すまで退潮せりといい、かつまた測候所長の当地と根室間に中心点ありて、当地に近しとの説に徴するも、中心点の田老沖にあることは争うべからず。いわんや、田老以北の海岸に於いて、松島はその南部傾斜して海中に没せりといい、小本川口はその底を深くせりといい、須賀の松並木は人畜家屋とともに陥落せりといい、一つとして予の説を確かめざるはなし。予、地文学に暗しといえども、事実は争うべからざるの理を示すをもって、特
に記してその道の人に質す。 


二十、火山の破裂を源因と認めたる考説
 評に曰く、この回の津浪によりて浮石多く海岸に打ち上げられたるところあるを見て、遠き沖合いの海底に火山の破裂あり、しこうしてその火山より噴出したる浮石か津浪によりて漂着したるものとし、さらに歩を進めて、津浪の根源をこの火山噴出に帰せる人あり。この説、果たして立証正確ならば、また一新説たるを得べしといえども、東北地方の往古を顧みれば、火山盛んに噴騰したる時紀ありて、その時、多量に噴出せし浮石も現今、八戸以北千島に至る間に配布しては、あるいは地層を構成し居れるか。この時、噴出されたる浮石の海中に沈積せるものもまた少なからざるべし。この浮石はこの回の洪浪のために海岸に打ち上げられたるものなるべしと考えるは、けだし、至当なるべし。故に浮石の漂着せしをもってただちに海中に火山噴出ありと断定するは、いまだもって信をおくに足らず。


二十一、急斜海底を地辷りとなせの考説
 原因は太平洋の最深所と聞こえしタスカローラと三陸に近き海底との傾斜面に一大地辷りを生じたるものならん。なぜなというに、一昨年の根室の地震と相類似し、断層もまた、その部類なればなり。


二十二、陸に遠き海底の大隆起もしくは地辷りを源因となす考説
 去る十五日午後八時前後に起これる福島、宮城、岩手、青森の東海岸即ち太平洋に面したる海辺、大海嘯くの惨況は別項にも記する所なるべか。今、中央気象台員の話によれば、今回海嘯に伴い起こりたる地震は、十五日の午後六時より十六日の午前までに、青森に三十三回、東京に二十六回、福島に十五回、甲府に十回、山形に七回、境に二回、彦根に二回、宇都宮に二回、函館、根室、新潟、銚子、石巻の各所に一回宛の震動あり。かく数回の多きにかかわらず、その震力、すこぶる微弱にして感動区域広大なりしより考えれば、けだし、陸上を去る甚だ遠き海中に於いて、大隆起(陸上なれば噴火の意味)もしくは大地辷りありて、その余波、遂に大海嘯となりしものならんといえり。(40p13l)
とりとめもなき臆想を羅列し来たりて、紛々盲議せるは、世人の大変事に対する所謂なり。しかるに、今や果然、著しき徴効、地方の発見せらるるこそ、不思議とも愉快とも申すべし。
只今打電せる如く、岩手県北閉伊郡宇利島というは、宇田の畑村の沖合いにありて、その陸地を距てる海上およそ三百四、五十間の所にある一小島なり。しかるに今回、海嘯の事変とともにこの一小島の方向は全く変じて、左方のものは右方に傾斜せるを発見したり。
この近辺に、長さおよそ八、九間もあるべき大盤石は、従来、水面下に潜りおること一尺前後のものなりしが、大事変と同時に、この大盤石は陸地に向かうこと七、八百間の箇所に顛覆して飛落せるを見たり。
田の畑村小字島の越村の汀に盥島と称する三間四方の大盤石の一角は陸上に向かいてね約二百間ばかり飛散せるを発見せり。その地タツゴウ島(小本川付近)の側に在る大盤石はおよそ五百間以上、陸上近く飛び来たりて、小本川の中央に屹立せり。
この近傍一体、地形全く変化して所々に従来見ざりし大石の続々現出せると、川底の全く浅くなりたるは、事実なり。しこうして当地海嘯惨毒の時限は、釜石、大槌、山田等に比して、かれこれ一時間も早く震動せるのみならず、当日(十五日)午後七時半頃と覚しき頃、一大震動を始め、いまだ海嘯を見ざるに、諸村の破壊人畜の死亡せるに徴しても、今回の中心点は、小本、田の畑、普代三ヶ所村中の遠からざる沖合いなるべしとの事なり。当日、海嘯潮勢の高まりしは、まさに五十尺以上なりと伝う。
以上列記する所の第十六項以下第二十三項に至る八様の源因説其中十九、二十三は、帰する所一なれば、都て七項中、余が大いに賛成を表するは二十一、二十二及び第十五項池上技手の海嘯談中の数節となす。しこうして地学上の見解に依りて源因の存する所を諭せんとするに、まず三陸地方及びその海底の地質構造いかんを知るにあらざれば、正鵠を得る能わず。よって左に地質の構造を略述せんとす。
地質調査の成績によって考定したる所によれば、北上山系即ち北上川以東に錘子形を画する山地は三陸の最古地盤をなす所にして、陸前・仙台近傍を中間に介して、南の方・阿武隈と同一の地方を画けり。阿武隈山系は常陸の久慈川・磐城・岩代の阿武隈をを界し、太平洋に連なり、また南北、蜿■たる山列の総称にして、その地質の構造もまた、南北の山系に同一の状態を現す。即ち以上二大川(北上川、阿武隈川)は実に新古質の分界を決流し、その沿路において一条の凹渓を刻み(これを地学上、縦渓という)、自ら地勢の趨向を標示し、川の東西に掘起する山容の異様なるが如く、其之を構成する所の地質もまたまったく殊別なるものにしては、新成にして火山質に富み、東は旧成にして火山質は稀に見るのみ。火成岩及び古代の水成層岩の間に起伏し、火成岩は中古代の結成にかかるものありとするも、北上山系の地盤が噴出性の溶岩のために刺衝せられて、多少の地変を生じたるは、西部の山地における火山活動の変異に於けるよりもはるかに前代にありしものにして、従って近来慣用の熟語となれるいわゆる噴火の作用には極めて縁遠き土地柄なり。けだし間接にはその余勢に感じたらんと彼の八甲田岩鷲駒ヶ嶽より蔵王に連なる噴火山脈のその西方に駢立せるに由り推察せらる。しこうして地球の
縮小する結果として、地殻自然の起伏屈曲の体勢は、火山岩、地方水成岩、地方の論なく平等にその勢力を逞ましくするが故に、故原田博士が北上山系の海岸は土地陥入の跡ありと論じたるも、即ちこの大勢に拠れる特証なりとす。今、参照として原田博士の高説を左に抄述せん。
 前略この屈曲甚だしき北上山系の東面は、如何なる固有の性質を帯ぶるものなるやの問い答えんとす。ここに種々の事情の考うべきものあり。第一、この山系を阿武隈山系と比較せば、第三紀層の絶無なるに心付くべし。第二、この海岸に於ては到るところ絶えて昔時汀線の著しき痕跡なし。第三、この険しき沿岸にある無数の湾奥
は一部分深く内地に切り込み、あたかも渓谷の状を為す。もし雄勝あるいは女川湾に航入せば、海水は昔時の谷間の下部を満たすものたるの感を起こすならん。この事実と海岸の状態、絶壁屹立の状を成すを見れば、この辺は一般に、汀線の隆昂(即ち土地陥入)の地にして云々。
是に依って之を観れば、北上山地は地学上、すでに歴然として土地の降下したる痕を止むるものにして、その降下したるは、地辷りの結果と見做す方が安当となすべし。何となれば、陥落地震の際に発作する地盤の降落は、その区域広濶ならざる火山地もしくは第三紀層の如き新成地層の地においてするものにして、土地降下の結果においては地辷りによれるものと、陥落地震によれるものと、均しく在来の位置より地面の降落したるには相違なきも、その源因においては、全くその起点を異にす。即ち、簡単にその殊別なることを次に摘示せん。
ここに地震と陥落との説明をなすに、読者をして容易にこれを了解せしめんがために、左に数個の図を掲ぐ。図中第一、第二は造山力によりて生じたる地体の異動にして、第一図は六個の劈裂線ありて地層を断裁し、その断面の傾斜は中央部より左右に背斜し、この背斜の方向に左右の両翼を成せる各個の切り離されたる地が辷り落ちたるものにして、第二図は八個の劈裂線あり、中央に向斜し、中心に楔子形の地を生じ、前者に反して中央部の各個の地体が左右の両翼を離れて辷り落ちたるを見るべし。これ断層一名地辷リの標式の一、二にして地震の源因をここに発作するものとす。
第三図以下の図は、凹陥沈せる土地の形勢を示すものにして、陥落の地震の中心ここに発動し、その震動の波及は中心より図線によりて周囲の地に威せらるることなお池中に水を投じ、その中心より震波の動揺すると同一の理に帰すと知るべし。故に此般の地震には中心点なるものあれども、地辷り地震は線路に沿い発動するものなれば、中心点なるものなし。下に述べる十和田湖の如きはじつに第六図に示せる標式に該当する凹没の痕を存すと、故原田博士は説かれたり。


地辷り  地辷りとは地皮に生じたる裂面において地体の転位するの謂いなり。そもそも地皮の収縮は地球体の造山力によりて自然に地層の湾曲敲起を生じ、その屈折するや多少の劈力に直角をなして地皮中に成生し、しこうしてこの収縮の地動力は恆常依然として無体の運動をなしつつあるをもって、かく裂線を生じたる地の殻中の脆弱なる部分はたちまちこれが厭排を支ゆう能わざるところにおいて、裂面の向かい方直立にして第二図の左方の如くなるものも、または方面に傾斜ありて楔子を上下より組み合わせたるが如き第一図、第二図に示すものも、あるいは押し上げられ、あるいは押し下げらるるなどありと知るべし。かくの如く襞裂を生じたる地の一部が各箇に地平線の上下に昇降するを地辷りとはいうなり。我が邦における大多震の多数は、この地辷りの余勢より発するものにして、濃尾大地震の源因は実にこの般地辷りに帰することを、小藤博士は詳かにこれを説明し、大いに秦西諸大家の称賛を得られたり。かくの如き地辷りは、これを英語にFaulもしくはDislocationと号せり。即ち、位置の変転する義にして、地学上これを断層と訳す。然るに先年、奈良、和歌山、徳島、兵庫の各地に大雨の後、山の一部辷り落ちてそこより多量の地水を吐き出し、谷谷に押し来たりて、村落を圧し、多数の生命財産を損したることあり。俗にこれを山■という。また東京付近の地において、府内道路用の砂利を採掘する場所あり。通例、砂利層は粘土砂等の間に介在するをもってこれを採掘するに充分の注意を為さざれば、往々、崕足を堀り穿つなど深きに達すれば、上部の地層は遂にその自重を支うる能わざるに到り、俄然として墜落することあり。又、河川洪水の際、決流のためにその堤防又は岸の下部を削り去らるるもまた、これと同様の現象を見ることあり。以上、山■以下三件は又、地辷りの一にして、造山力の結果より生ずるものとは大いに性質において異なりて、その区域もまた、一帯の地に連発するのほかは、大ならざるを常とす。這般の地変を英語にLand-Slipという。即ち、地辷りの義なり。
この地辷りは、小区域に発作するが故に、地震動をおこすの勢力なきものの如しといえども、実際においては、大地震を生ずることあり。彼のギリシャ国の南部コリンツ湾内において、しばしば発作したる水崕懸の崩潰落下するの場合の如きは、湾を囲繞する部落において、必ず大小の震災あり。この湾は弓形の狭小なる水域を有し、長さ三十マイル、幅二マイルないし三マイルにして、中央部の水深百尋以上五百尋を示し、湾底の傾斜に随って急峻なれば、懸崕の所多しと知らる。この崖足の一部、地水及び水の化学的作用により漸次融脱せられ、その上、盤水中に突き出し、後、遂に挫折して潰頽落下するに至る。この際、地上及び湾内に震動を生じ、一千八百八十八年九月の地震には数個の町村を破壊し、海水混濁し、海底電信線は転圧したる岩塊の下に埋められ、二百尋の海底において全く切断せられたることあり。この現象は同地にては数回の経験によりてその原因を究めたるものなりという。以上陳べたる如く、地辷りは一様の原因より発作するものにあらざれば、地震の原因を説くに、単に地辷りと称したりとも、なおこれを以ってその性質と状態を悉くしたるものと為すべからず。故に三陸地震の原因についても、容易にこれが断案を下す能わざるものと知るべし。


  次に、陥落地震なるものを説明せん。
地体の一部その周囲の連絡を断ちて、俄然として凹陥するに際し、その四周の地に地震を発すること、これを陥落地震という。しこうしてこの地変の発作するは、火山地方もしくは第三紀層の如き軽■の地層より成れる地方に多し。本邦に在りて土塊凹陥の例証中、火山地方に属するものの最も顕著なるは、陸中国鹿角郡十和田湖と為す。北海道なおこれに類するものあらん。また、軽■の地質を有する地方に在りては、遠州浜名湖の陥落、これなり。この二者、共にその発作の当時に在りては、地震を生じたらんとは論をまたず。これを英語にSubsidence of landという。土地陥落の義なり。
火山地方に在りて土地の陥落するは、その火山の活動しつつある当時もしくは爾後において生ずることあり。この陥落を為すの理解を如何と言うに、第一、火山はその火口より噴出したる物質を堆積して、宏大の嵩に達するときは、その舗地の地体はこれを蓋覆する所の重量を支持し得ざるに至り、その地の陥落するは当然ならん。第二、火山はその噴火孔によりて地中より山嶽を成生するに足る程の洪量物質を吐き出すを以って、地中自から大空隙を生ずべければ、地上の堆積物はその重量に耐えず、沈降するの理あり。試みに看よ、富士、鳥海、開聞の如き標準的噴火山にしてその側面の傾斜に美麗なる弧形を描き出せるもの、これその山体の陥下したる結果なる
ことを。
第三紀層の如き新成なる水成岩より構成せらるる地質の地にして、火山に関係なき地に発作する陥落地震は、欧米大陸においてその例多しという。元来この地層は、砂、粘土、砂利、石灰等の水底に沈殿堆積し、層累を布き列ねたる水底の地盤なり。かくの如き地盤は、造山力もしくは他の他動力のために隆起して、今、陸地を形成するとはいえども、それこれを掀揚したる他力の衰耗減退するか、あるいは同地温泉の沈下するに従いて及び自重に由って各分子の凝集緻密となるによりて、地層全体の収縮を醸し、これに襞裂の層を生じ、終に地盤陥落の起因を為す。
これまた、その地方に地震を発動す。即ち、火山に因縁なき陥落地震、これなり。
新聞紙上に現われたる三陸地方地震に関する原因説は、一にして止まずといえども、陸地地質の構造、陸地と海底との関係、海底の形勢、海底の地質(仮想的)震動区域、発震時、井水混濁による前兆、洪浪の襲来、洪波の大きさ、洪浪の波及等の如きこの地妖に伴い顕われ来たれるところの諸般の事実を参量するときは、その原因たるや、地震に在ること明瞭なるべし。しこうして地震の種類もまた、一にして足らざれば、何種の地震は能くこの現象を発生したる原因として適合するやを案定すること必要なり。火山力によりて生ずる海底の隆起もしくは陥落、即ち火山地震に起因するものとなさんか。克く三陸地方沿海七十里の長に亘り同時にかつ、ほぼ同様の震動力を波及せしめんには、その焼点たる地動の中心点は、この沿海を去る大約四百海里の外、太平洋中四千尋内外の深底を有するところにして、トスカローラ海底の東辺にあるべきものとなす。然るに著しき地震動を始めて感じたるは、午後七時三十二分三十秒にして、同七時五十三分三十秒において津波あり、その間実に二十一分にして、この洪浪は四百海里を走れる割合となる。安政の地震は、日本太洋を震撼せる大地震にして、当時、洪浪の太平洋を横ぎりて桑港に達したるは、一時間三百七十海里。また、これより一層の速度を以って布哇島に達したる一千八百六十八年、南亜米利加南岸の洪浪は、一時間四百五十四海里なりしという。この両者に比較すれば三陸の洪浪が襲来せる速度は、ほとんど三倍なり。然して他の強弱は如何と顧れば、もとより微震にして、安政大地震強烈の比にあらず。かつ単に噴火性に属する海床の変動のみにては、とうてい洪浪彼が如き絶大の地勢を
変動せしむりを得ず。これを為さんには、必ずや造山力、即ち大々的地体の変動、これと併発するにあらずんばあらず。これに加え、三陸罹災地方には、噴火山は八戸以北の地を除きては絶無の地にして、その東面の海洋中には従来の火山脈の存在することを知らざれば、火山活動をこの海底に揣摩するは、少しく索強の嫌いなき能わず。故に
三陸地質の原因を火山力に帰するは、その当を得たるものというべからず。かくの如く論じ来たれば、三陸地震の原因は自から余すところの地辷り地震即ち地体の大勢に変化を生ずる造山力の活動によりて発作する断層地震たるを知らる。地辷り地震の状勢は、すでにこれを説明したり。よってその活動の形勢を左に陳述して、以って本編
を結わんとす。
海底の地質構造を探らんことは、水路測量の洽ねから、さる地方においては容易の業にあらざれば、これに近接せる地質の構造と山脈の趨勢、海床の深浅及び水陸相互の関係を考量し、以ってこれを推察するにほかならず。前項において、阿武隈・北上両山系の地質の大要はこれを述べたり。即ち阿武隈山系に発達する所の地層中、最深の
片麻岩層は北上山系に露われずして、北上山地は地質年代より観察すれば、阿武隈山地よりは一段上位の地層準に在りて、その片麻岩層は、山足に延びて海中に入るに到りて露出するものの如し。しこうして本篇付図の深浅線及び甲乙、丙丁両断面図を以って示すが如く、三陸より北海道及び千島に到る陸地、東面の海床は、汀渚線より水深百尋に達するは、十里内外の遠きに及べども、百尋以下一千、二千、三千、四千の深淵に達するは極めて近辺にして、遂に地球上最深海床の一たるトスカローラ長溝の域に入れり。千島列島中、得撫島の東面海中の最深なる所は四千六百五十五尋(二万七千九百三十尺即ち二里五丁三十五間)あり。実に富士山の高さに二倍余の凹地が、我が東海において東北より西南に横わるを以って、日本海の東北に連なる地脈はその東面の海底に甚だ急峻の地勢を為すことと知るべし。
それ、かくの如き奇態の地勢を生じたるは、また地体の大々的変動によるや言を埃たず。これを反言すれば、地球縮収の結果より生じたる一大断層(大地辷り)のかつて発作したる証拠なり。現に亜米利加大陸におけるアッパラキヤン山脈中には、断層の大なるもの多く、その襞裂線は二十ないし八十哩の長きに到り、その垂直の転差二萬ないし四萬尺の大数を示すものあるによりても、これはこれ、素より準拠なき臆説にあらずと知るべし。断層によりてこの地勢を構成したるものならんには、当初、地体の圧迫せらるるや、数多の襞裂線を生じたるべきもまた理のまさに然るべき所にして、この破れ目の走向は、東北より西南にして自から陸地と併行したるなり。
即ち、前項第一回及び第二回に示せる結果を生ずべし。地体の弱点はかくの如くにして成り、この海床の痼疾となりぬ故に、一朝、地動力のその威力を逞しうするあらんには、この脆弱なる線路に沿い、地体に変動を惹起せしむるものなればすなわち今回の大惨状を三陸地方に演じたる洪浪の原因は、該地の東面急斜の海床に発動せる地
辷りに由りて生じたる地震なりと考定するを得たり。
篇末においてなお数言を費さんことを欲するものは、三陸地震につき中心点は何村の沖合いにあり、何村は被害の他に比して大なるにより中心点は近からん等の説を散見したり。前にも謂える如く、火山または陥落地震にありては、中心部より震波を四周の地に伝播するにより、震源に中心あるは勿論なれども、地辷り地震は襞開線によりて長形に活動し、その震波の伝播する方向は圏状を画して四周に及ぼすにあらず。その活動の方向に沿い、長距離に及び、この方角に直角の地には、短距離にして止むものと為す。即ち、長さに比して幅狭き地動を生ずるものと知るべし。これを以って中心点なるものあることなし。次に海底地震に伴う洪浪、これを沿海の陸地にしては津波と称するものの性質について一言せん。
地球全身において陸界と水界との率は一と三となれば、地震の水底に変動するもまた陸地におけるより多かるべき理にして、殊に水陸接界のところに近き海床にありて、然るを見る。すなわちこの場合においては、地震のほかに洪浪を惹起して現象の煩雑なるなり。
性質の何たるを問わず、海底において一種の大地震発作するとせんか、固形体の地盤は速かにこれを伝播して陸地に及ぼすべし。しこうして流動体の海水は地動に撼撹せられて動揺を始め、ここに洪浪を発楊し、さらに同様の波は踵を接して起こり、遂にこれが班列を形成するに到る。また、その波幅は数百海里に到り、波長の高さ、最初において
は五十尺ないし六十尺に達することあり。かくの如き宏大の津浪は、海洋中に在りて潮流を生ずるにもあらず。
また船員もかえって之これを認識し能わざるものなり。
然れども、進みて浅渚ある陸地に接近するや、水底の摩擦によりてその行路に障碍を生ずるを以って彼れが如く波幅の濶大なる山嶽大の水量は、海面より滔々として押し来たれる集積の勢力を以って、山の如く丘の如き五十尺ないし六十尺以上の洪浪と為りて、激怒狂奔、その道に当たる所の諸物を掃蕩し去るなり。これを津浪と称す。
しこうしてその体の絶大なるによりて、これが進行の速度もまた大なりとはいえども、地震波の速力より遥かに劣るものなれば、初め僅かに地震の災害を免がれたる高楼厦屋もこの第二の襲撃に遭うて敗滅に帰することあるを常とせり。
一千七百五十五年、葡萄牙国の都市リスボン府の大地震には震災より三十分時の後、府民の騒擾も漸く鎮静に帰したるに、洪浪続々として殺到し来たり、全府を蕩盡したり。この際、浪の高さは六十尺に達したるものありしという。三陸地方においても、洪浪は数回の襲来ありたり。これ、地震の続発したるによるなり。
ダルウィン博士の南米紀行に曰く。津浪の被害は遠浅の海岸における部落に劇甚にして、かえって深淵に沈める大海洋畔のワルパライゾ府の如きは、その地震を感じたるは一層頻多なりしにもかかわらず軽少なりしと。
故に三陸地方において洪浪の被害最も大なりしを見て、直ちにその地は震源に近しと言い、地震の中心沖合にありと断定するを得ざるなり。かつ海底の形勢はあたかも陸上におけると、一般山嶽あり、丘阜あり、渓谷あり、平地あり。故に洪浪は陸上に見ゆる海岸線の凹凸、即ち港湾の形勢によりてその殺倒する方向を紊すのみなら
ず、這般、地底の形状によりても、多少の変異を生ずるものなり。
本篇に付する地図はトスカローラ海床に連なる日本北部の海陸の位置を示すものにして、陸地の東面は如何なる傾斜を以ってこの深海に接するや、深海の区域及び方位は如何等を示し、また仮りに断面図二箇を付して大勢を窺うに便ならしめたり。

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聖恩優渥

◎三陸の大海嘯につきては、主上深く宸襟を悩ませられ、御救恤として金壱萬円を岩手県へ参千円、宮城県へ壱千円を、青森県へまた各宮御一同よりは岩手県へ壱千円、宮城県へ五百円、青森県へ弐百円を下賜せられたり。特に被害地視察の御沙汰には、侍従東園基愛氏に下りたるが、この被害はその地域も広く、その惨状も甚しければ、一層綿密に視察すべき御命をも戴き、同氏自身も成るべく人民の迷惑にならざるよう撲素を旨とし、草鞋がけにて視察せられ、被害各地及び病院に臨むや、丁寧に検査し、一々左の意味の挨拶を為す。
 この度の被害に就いて 天皇 皇后 両陛下に於かせられては、深く宸襟を悩ませられ、特に巡察せよとの御命であった皆の者も、其意を体し回復の途を講じ、負傷者折角養生して早く全快あらんことを祈る。
病者は勿論、被害者は皆合掌して皇恩の有り難きに咽ぶほかなく、傍らに侍するもの、皆感涙を止めあえざりしという。民を見る赤子の如しとは実に吾至仁至聖なる 主上陛下の大御心なるべし。

救護策

◎南閉伊郡は西閉伊郡を合して、その郡役所を西閉伊郡遠野町に置く。しこうして海に沿うものは南閉伊郡に属す。西閉伊郡より南閉伊郡沿海に至るの間は、皆、峻山険岳相聳えて道路甚だ悪しく、人馬の通行最も難し。故に今回の如き非常の時に際しては、不便言うべからず。今、その当時の事態を聞くに、大要左の如し。


◎海嘯の翌日、遠野警察署に釜石より凶変の報あり。また気仙郡よりもその筋へ向け、海嘯報告を電報せんことを依頼ありしかば、警察署長警部・山田知秀氏、公判用を帯びて遠野区裁判所に出頭し、まさに開廷せんとする場合なりしにもかかわらず、その開廷を延期せしめ、直ちに電信局に馳せけるに、同局にても同一の頼信ありと聞き一々、本県へ報告しけるに、郡役所はその急報に接せざるも、この急変を伝聞し、和井内淳といえる郡書記を馳せて警察署に至り、その事実を確めしめ、釜石または気仙郡にこの事変あらんには、南閉伊郡沿海また必ず災に罹りしならん。大い警戒せざるべからずと。よって郡長一ノ倉貫一氏は、吏員数名を従え、被害地出張の準備を整えんとす。即ち是れ、海嘯翌日六月十六日午前九時なりき。応急処分の概略は左に録す。
 一 県庁へ打電報告之件          二 米商と協議之件
 三 消防夫引率之件            四 吏員派遣之件
 五在在庁吏員執務之件
右の五件は出発に際しもっとも敏捷の働きなりしが、その一より五に至るまでの措置を記さん。


◎一に掲ぐる県庁への電文、左の如し。
 昨夜、釜石港に海嘯あり。非常の被害あり。電信通ぜず、本官取り敢えず出張、委細後より。
 大槌も心配に付き、吏員派遣せり。
付記す。この電報は、沿海より電信不通別に急使の来るに非ずして、一も正然、郡衙に申報を受けたるに非ずといえども、釜石より遠野警察署に急使ありしにより、疑うべくもあらざれば、断然、此報を発するに至りしと。また大槌よりもいまだ何等の申報なきも、沿海の地なりせば、この難を免れざるを慮り、直ちに実地視察として河野郡書記を大槌に、千田郡書記を鵜住居に派遣せりという。


◎その二郡長出発に際し、山口釜石警部よりも申し越しあり。また自らもすでに米穀の欠乏を慮りしかば、町内米商重立者三名を招き、送米方を委嘱し、毎日十石宛てを送付することと決定せり。右三商の姓名は高橋善次郎、菊池作兵衛、鶴野門蔵、以上取り極め、右送米に関する事務は、郡書記小原氏之に任す。然れども、この時すでに姦商より米買しめ方を重立ちたる米商に申し込み、一升に付き六厘を増せしとの説ありければ、毎日十石の買い入れ方、頗る困難なりしと。


◎その三郡長・一ノ倉貫一、警察署長・山田知秀の両氏は海嘯被害の度如何は、いまだこれを知るを得ざれば差し当たり人夫となさんとて、遠野町消防組より七十人を招集し、非常の用に充てんため引率せられたり。好くもかくまで行き届きたり。


◎その四郡長、初め郡役所吏員派遣に付いては、それぞれ担任の部署を定めんも、別項の如く実地を見ざれば、差し当たり一ノ倉郡長には郡書記吉田義雄(第三科長)、同和井内淳、雇中原政国を従え、釜石に向け出発、大槌には郡書記河野平太郎(第一科長)、同掛田久之助を、また鵜住居村へは郡書記千田文太郎を派遣す。また遠野警察署よりは、署長山田知秀氏巡査を率いて釜石に向かう。時まさに午前十一時なりしが、途中、上郷村にて釜石町役場の態夫書をもたらし来るに際し、物品の調度の用ありて、吉田郡書記帰庁し、これが購入を、庁内赤坂浅吉、武藤万六の両郡書記に担任任せしめ、釜石被害の甚しきを以って、吉田科長、郡書記四戸謹治、雇・青柳常哉は急行釜石に赴く。また警察署よりは署長山田知秀氏を初めとし、松原熊臓、一戸房忠、太田剛、及川幸太郎、是川誠一郎、伊藤祐之助、古館平蔵、宮野平八、小山忠平の諸氏出張せらる。出張吏員かくの如くなれば、庁内に在りて執務する者僅少、しこうして事務の頻繁、実に驚くべき程なりしも、各部署を定めて救護の事務を執れり。


◎前項の如く吏員出張、その惨状を見て応急の処置をなし、出張先よりはその状況を具し、次いで県庁に打電、救護の途を講じ、須■も怠りなかりしが、県庁、大い驚き、一意救済の法を講ぜんため、本県参事官村上幹當氏、視察として出張せられて、次いで県属木村守、同美松賢次郎の三氏来着、引続き釜石に向かう。


◎これより先、本県技手山本武之進氏は、海嘯当日、釜石町市街改修の用を了え、西閉伊郡上郷村に一泊せしが、翌十六日、海嘯との報を聞くや、直ちに帰庁を見合わせ、釜石町にかう。この時、あたかも好し、一ノ倉郡長山田警察署長の両氏は出張せられたれば、爾後、共に協力して救済の事に従う。


◎翌十七日に至れば、前記出張の諸氏、その筋へ報告を急ぐ。而巳ならず予想外の惨状にて、とうてい引率消防夫にては幾十日を経るも取り片付けの見込みなければ、西閉伊郡各町村を挙げて人夫に応ぜしめ、なお山本技手は県道改修のため使用せる人夫召集し、その他実況報告して帰庁せんと釜石を出発せしが、途次、村上幹當(本県参事官)の一行来たるに会し、事実を報告せしが、そは帰庁報告に及ばずとて、また同一行と釜石へ向かい出発したり。それより以降、県庁・郡衙・警察の差別なく、一意救済法の協議をなせり。その主なる者を挙ぐれば左の如し。
 一人夫召集之件
 一救助米購入費請求之件
 一救助米徴発之件
 一救護医師及看護人招集之件
 一警察官出張之件
右五ケ條は、出張先応急の救護として、その法、適宜に処断せしものとす。


◎右の結果として、電報または急使を以って郡衙及び遠野警察署へ宛て請求ありしかば、両所の混雑言うべからず。然れども、常時、農事繁忙と云い、または縁故あるところに出掛けたりとか、口を左右に托しこれに応ずるもの少なかりしが、工藤、小笠原、赤坂、大森の四郡書記及び遠野町長に応援人夫の召集に孜々たりしかば立ちどころに二百有余の人夫を得たり。また救助米購入費請求の件も、県庁へ打電し、直ちに下付相成りたり。その他救助米の如きも、軍隊の挑発令に等しきまでに強硬の談判を以って挑発せり。ほかに医師看護人及び警察官の不足なりしより、これが派遣の件を郡役所及遠野警察署に謀り、これまた直ちに派遣せしかば、救護の方法はその宜しきを得たりという。
之を応急処分の一班なりとす。


◎却説、郡長一ノ倉氏一行及警察署長の一行、ことごとく釜石に着するや、道路は死体及び破材を以って埋められければ、山伝いに町役場に到り、町長と協議し、米噌の有無を問うに、今明日までは兎や角支えんとも、その後の食料に困難なる旨を答えければ、居合わせたる人々も、何とか方策なきやと心をつくしける折り柄、町長答うるに、石応寺前に打ち上げたる帆船には、米または稗の積み込みあり。また、他船には芋の積み込みありと云うや、郡長・署長、異口同音、これを賛して曰く。好し我等、責を負うてこれを食せしめん。如かず義賊となりて災民を救はんにはと、議ここに一決し、まさに手を下さんとせしに、遠野において米穀の徴発宜しきを得て、発送迅速なりしかば、遂に手を下さずして事止みぬ。


◎また、釜石町においては、石応寺及び釜石学校を治療所に充て、負傷者の施治を切にし、また一方には、焚き出し方怠りなく、玄米のまま三日間給与し、餓を凌ぎたり。これ皆、当局者有志者の尽力に依らずんばあらず。


◎爾来、罹災者救護の件について、出張県属及び郡長・署長・町村役場等、一意専心、数日の間寝食を忘れて事に従う。それより医師も赤十字社及び地方医、続々来たり救うに至り、大いにその便の宜しきを得たりと。


◎大槌町鵜住居よりも、米及び医師の派遣を促すより、これまた同様、郡役所より発送せり。


◎医師看護夫は、第二師団及び赤十字社医員・地方医・大学医の一行来着。それぞれ方面を定めて分担す(その姓名は別項参看)。


◎六月十八日において開かれたる海嘯遭難者救済方法調査会に臨みたる人々には、南閉伊郡にて釜石町よりは有志者として佐野門平、大槌町よりは有志者として倉田保之助・県議員小西源兵衛の両氏なり。


◎海嘯当時現在の郡町村吏員の氏名は左の如し。
 西閉伊南伊郡役所
  郡長   一ノ倉 貫 一           郡書記   吉田  義 雄
  郡書記  小原  藤一郎           同     河野  平太郎
  同    工藤  右 一           同     大森  朝次郎
  同    小笠原 東 吾           同     掛田  久之助
  同    千田  文太郎           同     武藤  萬 六
  同    四戸  謹 冶           同     赤坂  浅 吉
  同    和井内   淳           雇     中原  政 国
  雇    青柳  常 哉      
 釜石町役場 
  町長   服部  保 受           助役    佐々木 由良蔵
  書記   岩間  喜十郎           書記    佐野  千代冶
  同    東野  政 治           同     佐野  小 平
  同    山本  鹿之助           
 鵜住居村役場 
  村長   真壁  喜 六           収入役   古川  久太郎
  書記   沼崎  忠四郎
 大槌町役場
  町長   後藤  直太郎           助役    高田  佐四郎
  収入役  里館  君 平           書記    金崎  藤兵衛
  書記   横濱  範次郎           同     金崎  弥兵衛
  同    後藤  富 弥           同     横濱  忠 造


◎県官・県議会議長・同常置委員及び被害地有志諸氏が海嘯罹災救助及び義捐金処分商議委員を被命嘱託せられ、それぞれ商議の末、左の如く配当規程を定められたり。
        海嘯罹災恩賜金及救助義捐金配当規程
第一條 恩賜金ハ左ノ各項ニ該当スルモノニ配布ス
 一 一家盡ク死亡シ相続人ナキモノ
 二 家宅流失若シクハ全潰シ老幼又ハ癈篤疾患ノミ生存シ自活ノ道ニ窮スルモノ
 三 家宅癈潰シ老幼若クハ癈篤疾者ノミ生存シ自活ノ道にニ窮スルモノ
 四 家宅流失若クハ全潰シ家族中半数以上ノ死亡者及癈篤疾者アリ自活ノ道ニ窮スルモノ
 五 家宅半潰シ家族中半数以上ノ死亡及癈篤疾者アリ自活ノ道ニ窮スルモノ
 六 家宅流失全潰若クハ半潰シ老幼若クハ癈篤疾者ノミ生存シタルモ自活ノ道ニ窮スルモノ
 七 家宅半潰シ家族中半死以内ノ死亡者及癈篤疾者アリ自活ノ道ニ窮スルモノ
 八 家宅流失全潰若クハ半潰シ老幼若クハ癈篤疾者ノミ生存シタルモ自活ノ道ニ窮セサルモノ
 九 家宅流失全潰若クハ半潰シ家族中死亡者若クハ癈篤疾者アリタルモ自活ノ道ニ窮セサルモノ
 十 家宅流失全潰若クハ半潰シ全戸死亡者ナクシテ自活ノ道ニ窮スルモノ
 十一 家宅流失全潰若クハ半潰シ全戸死亡者ナクシテ自活ノ道ニ窮スルモノ
 十二 床上ニ浸水セシモノ
 十三 他府県若クハ他郡市町村ノモノニシテ罹災死亡セシモノ
第二條 前條ノ各項ニ該当シタルモノニハ左ノ率ヲ以テ恩賜金ヲ配布ス
 一項、十二項及十三項ニ該当スルモノ                四
 二項ニ該当スルモノ                        四十           
 三項ニ該当スルモノ                        三十五
 四項ニ該当スルモノ                        三十二
 五項ニ該当スルモノ                        二十九
 六項ニ該当スルモノ                        二十五
 七項ニ該当スルモノ                        二十二
 八項ニ該当スルモノ                        二十
 九項ニ該当スルモノ                        十八
 十項ニ該当スルモノ                        十五
 十一項ニ該当スルモノ                       十
第三條 一家盡ク死亡シ相続人ヲ定メ届出済ノモノハ第二條第八項ノ率ニ準シ配付ス
第四條 第一條第一項ニ該当スルモノニ配当スヘキ金額ハ其親戚ニ親戚ナキモノハ町村長ニ交付シ町村長ハ之ヲ寺院ニ附托シ死者追吊ノ料ニ供スルモノトス
第五條 第一條第十三項ニ該当スルモノニ配付スヘキ金額ハ其原籍判明セシ分ハ原籍市町村長ニ送付シテ其家族ニ家族ナキモノハ親戚ニ交付セシメ原籍判明セサルモノハ被害地ノ町村長ニ交付シ第四條追吊ノ例ニ依ラシム
第六條 第一條ノ各項ニ該当スル罹災民ハ被害地ニ居住セシモノニ相違ナキコトヲ町村長ヨリ証明書ヲ徴シ恩賜金ヲ徴シ恩賜金ヲ配付スヘキモノトス
第七條 恩賜金ハ戸主幼中若ハ死亡シタルトキハ其家族ノ首長者ニ下付ス
第八條 恩賜金ハ各部落便宜ノ地ニ於テ郡長町村長立会ノ上県官各本人ニ下付ス
第九條 恩賜金下付ノ際ハ御沙汰ノ御主意ヲ演達セル書ヲ添付ス
第十條 下付ヲ終リタルトキハ名簿及状況ヲ具シテ宮内大臣ニ申報スルモノトス


        海嘯被害救恤義捐金品出納規程
第一 郡長ニ於テ県庁ヨリ送附ノ義捐金品ヲ受ケタル時ハ速ニ配付ノ手続ヲナスヘシ
第二 義捐金ハ可成銀行ニ預ケタル後切符ヲ以て引出スヘシ
第三 義捐金ノ受入払出ハ其都度出納簿ニ登録スヘシ
第四 郡長ニ仕払ヲ任セタル義捐金品ハ被害ノ多家寡ト生活ノ程度及其地ノ情況ヲ参酌シ公平ニ配付スヘシ
第五 前項義捐金品を配付スルトキハ被害各地権衡ヲ失ハサルト救恤ノ主旨ニ違ハサルトニ深ク注意スヘシ
第六 郡長ニ於テ土地ノ情況ニ依リ特ニ現品ノ支給ヲ必要ト認ムル時ハ仕払ヲ任セタル義捐金ノ内ヨリ之ヲ購入シ配付スルヲ得
第七 義捐金ノ内ヨリ物品ヲ購入シ配付スルヲ得ヘキ概目左ノ如シ
 一 食料品
 一 被服類
 一 家具類
 一 職業用器具類
 一 小屋掛ニ要スル雑品
 一 薪炭油類
第八 郡長ニ於テ義捐金品ヲ配付セントスルトキハ町村長に送付シ之ヲ伝送セシムヘシ但其正當領収証書ハ町村長ノ計算書ヲ添付シ差出サシムヘシ
第九 前項義捐金品ヲ送付スルトキハ配當ノ方法金額品目等ヲ記載シ且寄贈者を示スヘキ必要アルモノハ之ヲ記入スヘシ
第十 義捐金品出納簿ハ金品格別ニ調製シ受払残ノ口別ヲ為シ受払ニ関スル要項ヲ記載スヘシ
 但シ仕払ニ対シテハ町村別ノ口座ヲ設ケ各町村ノ配賦額ヲ明瞭ナラシムヘシ
第十一 前項出納簿ノ外ニ毎町村配附人名簿ヲ製シ金額品目等ヲ掲載シ置クヘシ
第十二 郡長ハ毎月義捐金品出納計算書ヲ製シ翌十日限リ証憑書類及ヒ明細書ヲ添付シ知事ヘ提出スヘシ
第十三 郡長ニ於テ寄贈者ヨリ直ニ領収シタル義捐金ノ出納モ本規定ニ準シ取扱フヘシ
第十四 前各項ニ掲クル外出納整理上必要ト認ムル事項ハ詳細ニ記載シ置キ後日出納調書ノ便に供スヘシ
第十五 義捐金品出納完結シタル時ハ決算書ヲ製シ之ニ明細表ヲ添付シ五日以内ニ知事ヘ提出スヘシ


        授産世話掛心得
第一 海嘯罹災民授産ノ方法ヲ講シ速ニ其実行ヲ期スルハ目下ノ急務ニ付授産世話掛ハ左の各項ノ趣旨ニ依リ 事スルコト
 一 特ニ授産金トシテ給与セラルヘキモノナキニ依リ救済金義捐金ハ妄リニ他ニ消費セシムルコトナク可成漁船具(漁業者ノ外ニ在テハ相当ノ職具以下同シ)等ヲ買入レシメ将来自活ノ途ニ就カシムル┐
 一 救済金義捐金ノ配当額ニテ独立漁船漁具等ヲ買入若クハ製造スルニ足ラサルモノハ其一町村一部落若クハ同種業者ヲシテ共同セシムルコト
 一 各部落ノ状況ニ応シ適当ノ漁船漁具ヲ選択スルコト
 一 漁船漁具等ノ買入製造ニ付テハ充分ノ便宜ヲ与ヘ就業セシムルノ計画ヲナスコト
第二 世話掛ハ郡長ト協議シ(県官出張シタルトキハ県官代)公平ニ着実ニ前項ノ事務ニ従フコト
第三 世話掛ハ授産施行上粉擾ヲ起サシメズ専ラ和融共同セシムルコトヲ努ムルコト
第四 世話掛ハ郡長ト協議シ受持区域ヲ定ムルコトヲ得、且世話掛ハ互ニ気脈ヲ通シ可成区々ノ取計ヲナサザルコト
第五 世話掛ハ受持区域内ノ町村長ヲ集合シ其意見ヲ聞キ或ハ各部落毎ニ重立者数名ヲ撰バシメ其重立者ニ商議スル等適宜ノ途ニ従フコト
第六 世話掛ハ時々其状況ヲ郡長及県庁ニ申報スルコト


◎授産世話掛人名左の如し
             県庁嘱託員      中村  秀俊
             釜石町        高橋  千蔵
             鵜住居村       沼崎  忠四郎
             大槌町        小西  源兵衛
             同吉里吉里町     芳賀  宗助


      大海嘯大惨害義捐金の募集
今回南、東、北閉伊、気仙、南北九戸各郡の大海嘯たる人命を害なうもの、殆んどニ萬二千有余、全町村覆没流難。
その形跡を留めざるものまた少からず。幸いにして万死の中、一生を得たるものも、或は傷痍に悩み、或は飢餓に迫られ、■寡孤独、その恃頼するところを失い居るに、家なく食うに食なく、着るに衣なく、悲惨の極酸鼻の至り。実に前代未聞の大事変に属す。いやしくも帝国臣民たり同胞たるものは、あに袖手傍観するの秋ならんや。況んや同一の治下にあり、同一の県民たるものをや、奮うて賑恤扶助の事実に、刻下焦眉の急務たり。本社自ら揣らず。率先以って義金募集の労を執り、いささか同胞相恤の微旨を徹底せんとす。仰ぎ願わくは、大方慈仁の諸氏、切にこの挙を賛成せられ、多少に拘らず、続々義捐あらんことを。即ち、義金募集の手続は左の如し。
 一 義捐金額は各自の随意たるべき事
 一 義捐金募集の期は来る七月十七日までとす
 一 義捐金は義捐者の姓名と其金額とを本紙に掲載して受領書に換る事
 一 義捐金は一括して本県庁に配付の取扱方を依頼する事
 明治廿九年六月十八日               岩手公報社

海嘯罹災者救恤義捐金募集広告

ああ、明治二十九年六月はいかなる凶日ぞや。本県全海岸挙げて海嘯に罹り、同胞の死傷すでにその報を得たるもの一万以上に達せり。その未詳に属するものを合わせば、また幾万ぞや。加うるに家屋の流失、財産の蕩盡等、惨状実に言うべからず。そのわずかに万死を免かれたるといえども、親子相分かれ妻子相失し、居るに家なく、食うに粟なく、飢餓旦夕に迫り、災後さらに幾層の悲惨を添う。おもうに本県人士の仁慈にして義侠に富める。先年、濃尾の震害、近県の水火災に対し、大いに奮うて義捐金を拠出せられたりき。今や本県内同胞のこの如き前古未曾有の罹災に対し、それいかに義侠心を発揮せらるべきかはまた、言うを要せざるを信ず。ただ不肖等本県人士の便宜に供せんがため、ここに左の手続きを定め、以って義捐金募集の労に服せんとす。幸いにこの挙を賛成し相当の義捐金あらんことを切望す。敬白。
 明治二十九年六月十八日
発起人総代
 服 部 一 三   松 橋 宗 之   太 田 時 敏
 鈴 木 愿 治   入間川 重 遠   板 垣 政 徳
 一ノ倉 貫 一   新渡戸 宗 助   浅 沼 介 郎
 津 田 寿 昇   清 岡 等     
一、義捐金額を多少を論ぜず各自の随意たるべ事。
一、義捐金は盛岡市役所内・大森尹、南北岩手紫波郡役所内・松橋宗之、稗貫東西和賀郡役所内・太田時敏、胆沢江刺郡役所内・鈴木愿治、西東磐井郡役所内・入間川重遠、気仙郡役所内・板垣政徳、西南閉伊郡役所内・一ノ倉貫一、東中北閉伊郡役所内・新渡戸宗助、南北九戸郡役所内・浅沼介郎、二戸郡役所内・津田寿昇において受領する事。
一、義捐金額及び氏名は岩手公報を以って広告する事。
一、義捐金は臨時県庁へ送付し、便宜、罹災者救恤の処置を請う事。

大海嘯大惨害教育救恤義捐金募集

滔潮一写転瞬の間、県下六十里の海岸を覆没し、三万の生霊を溺らし、七千の屋舎を漂わし、幾百万の財産を流失す。■提の父母を離るる者、頽老の少壮に別るる者、一族滅亡後、祀を絶つ者、骨を折る者、脳を砕く者、衣なき者、家なき者、飢餓に瀕する者、その悲惨の状、筆舌によく尽くすべきにあらず。我が教育会の被害の如き、また実に言
語に絶せる者あり。沿海幾十の或は流れ、或は壊れ、これが教師たる者、或るは死し或は傷つき、しこうして子弟の死傷また勝げて数うべからず。あに悲惨の極ならずや。これをもって残存万余の子弟、学ぶに師なく、習うに黌、依るに■恃なき者、いたるところ皆これなり。今にしてこれが救済に力を尽くすなくんば、東岸一帯の児童をして空しく無教育に終らしめ、永く惨況を回復するの期なからんとす。これあに、いやしくも身を教育事業に委する者の傍観するに忍ぶところならんや。依りて左の要領に基づき義金を募集し、挙げてこれを罹災地学校の修築及び遭難の教師子弟等、救恤の資に供し、以って沿海の教育事業をして停止するなからしめんことを期す。ねがわくば世の仁人義士奮うて応分の義金を投ぜられ、この憫むべきの子弟を無教育の境に済い、以ってこれを奨励して、今日東岸六十里の惨状を快復するの任に当たらしめよ。
 明治二十九年六月二十九日
発起者
  岩手県盛岡市教育会    岩手県岩手教育会    岩手県北岩手教育会
  同  紫波教育会     同稗貫東西和賀教育会  同  胆沢教育会
  同  江刺教育会     同  磐井教育会    同  東山教育会
  同  気仙教育会     同  西閉伊教育会   同  南閉伊教育会
  同東中北閉伊教育会    同  九戸教育会    同  二戸教育会
  岩手学事彙報発行所
賛助員
  服 部 一 三    浅 田 知 定    松 橋 宗 之
  須 田 辰次郎    多 田 宏 綱    清 岡 等
  青 山 正 夫    富 田 小一郎    三 輪 信一郎

義捐金募集要項

一、義捐金額は多少を論ぜず。
一、義捐金期限は来る八月十五日までとす。
一、義捐金額及び義捐者姓名を岩手学事彙報に掲載して受領の証となす。
一、他府県よりの義捐金に対しては別に受領証を差し出す。
一、義捐金の配布方は岩手県庁に委託す。
一、義捐金届所は岩手県盛岡市内丸三十一番戸・岩手学事彙報発行所とす。

釜石臨時病院救護員

 岩手県属事務員   江釣子 豊次郎    岩手県属事務員  澤田 定勝
 西南閉伊郡役所雇用  中原 政国     同釜石高等小学校校長訓導同 石井 直身
 同釜石尋常小学校校長 新田 斉助     同釜石町      佐野 門平 
西閉伊郡遠野町同   四戸 進      西閉伊郡遠野町同  畑山 茂治
 西南閉伊郡書記同   四戸 謹治     同釜石尋常小学校訓導同   多田忠次郎
 同釜石町同      佐々木若松     西南閉伊郡書記同  掛田 久之助
 遠野町医       四戸 琢磨     遠野町医      横川 佐
 同 同        江田 守雄     里川口町医     澤田 栄光
 赤十字社岩手委員部派遣医 兼平準一    同派遣員      三浦 泰
 遠野町救護員     菅木亮太郎     遠野町救護員    宮 熊雄
 同          今淵 宗忠     陸軍一等軍医    斎藤捨之助
 陸軍二等       牧野 康二     陸軍二等軍医    桜井 龍造
 —          岩堀 篤      同         松井 昌親
同          正木 春次郎 日本赤十字社派遣医  高橋 信夫
日本赤十字社派遣医  青柳 正辰     日詰町医       木村 政太郎
 陸軍三等看護長    青木 重之助    陸軍看病人     砂子 常助
 陸軍看病人      寺坂 柳治     同         只野 陽三郎
 同          安積 吉治     同         後藤 三四郎
 同          細川 清助     同         鈴木 繁治
 陸軍看病人      福田 泰助     陸軍看病人     木村 要三郎
 同          佐野 久兵衛    同         大内 久太郎
 同          山口 軍三郎    同         早坂 万之助
 同          斎藤 成安     同         大友 要五郎
 同          笠原 義夫     同         荒井 安知
 同          嶺岸 喜吉     同         小尾 泉
 同          岡村 庄助     同         遠藤 納治
 日本赤十字社派遣救護員 森実 品     日本赤十字社派遣救護員 桃井霓太郎
 同          若宮 卯之助    同         堀川 玄盛    
 同          前田 文二     同         小林 延太郎
 同          瀬利 銀次郎    同         沖 園吉
 同          原 乙義      看護人       及川 慶次郎
 看護人        廣野 茂平     同         千葉 マツヨ
 同          多田 ナカ     同         関 リツ
 同          高橋 サツ     同         高木 ムメ
 同          佐々木 サイ    同         菊池 サト
 同          伊藤 ツタヨ    同         佐野 キサ

大槌臨時病院及び鵜住居出張所救護員

 帝国大学医学士    宮本 淑      帝国大学医学士   石原 久 
学生         辰野 弘夫     学生        渋谷 安之進
 同          山田 保次郎    栃木県医      吉永 峯九郎
 大槌町医       浅石 貞吉     大槌町医      金浜 賢之助 
 救護員        煙山 新太郎    北高等学校訓導事務員 千葉 俊八
 看護人        佐々木喜三郎    同         横浜 ツタ
 同          佐々木 カヨ    大槌町医      石井 道生
 鵜住居村医      白木澤 孝     陸軍三等軍医    松井 昌親
 陸軍三等軍医     正木 春次郎    遠野町医      石川 清弓

                             釜 石 町
恩賜金        金 壱千七百壱円八拾参銭
第一回義捐金     金 弐万六千九百四拾七円七拾銭
第二回義捐金     金 弐万弐千八百壱円九拾銭
第一回教育義捐金   金 弐百八拾参円弐拾七銭
第二回教育義捐金   金 参百参円五拾弐銭五厘
指定義捐金      金 弐百四拾七円参拾銭九厘
  計        金 五万弐千弐百八拾五円五拾参銭四厘 
                             鵜 住 居 村         
恩賜金        金 五百七拾五円拾六銭
第一回義捐金     金 九千百四拾七円九拾銭
第二回義捐金     金 七千六百五拾四円九拾銭
第一回教育義捐金   金 百七拾八円七拾五銭
第二回教育義捐金   金 九拾参円七拾参銭五厘
指定義捐金      金 弐拾六円参拾八銭参厘
  計        金 壱万七千六百七拾六円八拾弐銭八厘
                             大 槌 町
恩賜金        金 九百拾参円八拾七銭
第一回義捐金     金 壱万四千四百七拾参円拾銭
第二回義捐金     金 壱万弐千弐百四拾六円参拾銭
第一回教育義捐金   金 参百五拾六円九拾銭
第二回教育義捐金   金 百五拾壱円弐拾九銭
指定義捐金      金 四拾壱円拾六銭七厘
  計        金 弐万八千百八拾弐円六拾弐銭七厘
 合 計    金 九万八千百四拾四円九拾八銭九厘
◎被害民へ救恤金として備荒儲蓄金より下付相成りたる金円及び支出の路、左の如し。
                           釜 石 町
焚 出 米 金 壱千弐百七拾壱円八拾七銭弐厘
食   料      金 壱千六百五拾八円弐拾参銭
小屋掛 料      金 八千百六拾円
雑   費      金 壱百参拾八円
  計        金 壱万壱千弐百弐拾八円拾銭参厘 
                           鵜住居村      
焚 出 米      金 参百八拾参円九拾参銭六厘
食   料      金 五百弐拾八円七厘
小屋掛 料      金 弐千五百四拾円
雑   費      金 壱百拾六円七拾五銭
  計        金 参千五百六拾八円六拾九銭参厘
                           大 槌 村
焚 出 米      金 千百参拾参円八拾八銭八厘
食   料      金 千四百四拾七円六拾五銭九厘
小屋掛 料      金 四千八百六拾円
雑   費      金 百拾参円
  計        金 七千五百五拾四円五拾四銭七厘
◎左に掲ぐるは国庫より下付相成りたり。
                           釜 石 町
食   料      金 参千百八拾七円弐拾銭
救 助 金      金 壱万六千五百九拾五円
被服家具料      金 壱万四千五百九拾七円五拾銭
死体埋葬費      金 弐千五百八拾九円参拾六銭一厘
潰屋取片付費     金 七千八百八拾四円八拾四銭
救 療 費      金 弐千百七拾五円九厘
  計        金 五万八千弐百五拾七円壱銭参厘
                           鵜住居村
食   料      金 八百五拾参円弐拾銭
救 助 金      金 五千弐百四拾九円
被服家具料      金 四千参百七拾七円
死体埋葬費      金 八百四拾九円六拾五銭六厘
潰屋取片付費     金 参千参百拾円七拾弐銭五厘
救 療 費      金 弐百八拾七円七銭参厘
  計        金 壱万八千四百九拾五円参拾四銭七厘
                           大 槌 町
食   料      金 弐千八百拾八円八拾銭
救 助 金      金 九千八百四拾八円
被服家具料      金 九千参百六拾円五拾銭
死体埋葬費      金 四百四拾五円弐拾参銭
救 療 費      金 六百六拾五円拾銭六厘
  計        金 参万六千五百参拾七円八拾六銭参厘

備考

一、備荒備蓄金下付の欄、雑費とは焚き出し米に要する人夫その他の諸費とす。
一、焚き出し米は、玄米一人一日四合の割合にて下付すべき規定なるも、白米をもつて(玄米の一割引き)給与せり。 その代金は一石につき金十一円なり。
一、食料は(七十才以上十三才未満)男は一人一日四合、(七十才以上十三才未満)女は一人一日三合の割合に給与す。その代金は一石につき、金十円三十銭七厘なり。
一、小屋掛料は家宅流失全潰半潰同居者を問わず、すべて一戸金十円給与せらる。
一、国庫下付食料は備荒備儲蓄金の給与を受けたるものに限り、老幼を問わず一人一日米四合代金四銭をもって積算給与せらる。
一、救助金は、家宅流失全潰もしくは半潰の窮民にし自活の道を失いたるものに対し、その災害の状況により等差を付し給与す。その等級は三等にて一は三十円、二は二十円、三は十七円なりとす。
一、被服家具料もまた然り。その等級、二等に分かつ。
一、死体埋葬費、潰屋取り片付け費、負傷者救護費は、実際支払いたる金額のみを掲ぐ。
一、恩賜金、普通義捐金は一より十三に至る等級を付し給与す。
一、教育義捐金第一回の分は、教育生徒等、各指定の通り給与せしも、第二回の分は町村教育費補助として寄付せしむ。
一、指定義捐金は南閉伊釜石町鰥寡孤独酒造業、薬師業の類に指定給与す。
この際、左の事項を領知し、伝染病を防ぎ、不測の災厄を招かざるよう篤く注意し、各自の健康を保持すべし。
 明治二十九年六月十九日         岩手県知事  服 部 一 三

水災衛生上の注意

海嘯後における疾病は土地・家屋・飲料水等より発生するものなれば、水の退くや、まず第一に家屋を洗浄して大気の流通を謀り、これを乾燥せしむべし。次いで街路・庭園等に存在せる種々動植性の廃棄物を取り集め、これを屋傍その他において焼棄し、土地の清潔を保つと同時に、居宅住地の乾燥をつとむべし。しこうして汚泥・塵介等の如き
は遠く、これを安全の地に棄つるか、もしくは海中に投ずる等、およそ伝染病毒を醸成し、またはその媒介となるべきの害因は速やかにこれを除去するに尽力すべし。以下、事項を分かちて、その要領を左に示す。
 一、屋傍の地面または溝渠等に残留する汚水は速やかに流通せしめ、まず第一にその沈殿したる汚泥塵介を掻き取るべし。
 一、飲料水は殊に不自由の感ずるものなれば、第一に井戸を浚渫すべし。その浚い方はまず近傍にある不潔の場所を掃除したる後、取り掛かるべし。
 一、飲料水は当分必ず煮沸かししてこれを飲料に供すべし。決して生水を飲むべからず。
 一、壁柱その他に浸されたる部分は、石炭酸水または石灰乳(生石灰一合を水二升の割合にて溶かしたるもの)を布に蒸して十分拭い、床下の汚泥はこれを掻き取りたる上、生石灰を散布すべし。 水に浸されたる部分といえども清水または湯をもつて洗浄すべし。殊に居間、庖厨及び日用の道具は丁寧に洗浄すべし。
 一、家の洗拭おわりたるときは窓戸を残らず開放し、もっぱら大気を流通せしめ、または火力を借りて乾燥することを務むべし。
 一、床板は一応、これを剥がして洗い、また消毒をなし、粗塗りの壁は塗り替えるを可とす。その床板を剥がしたるときは、麦藁・塵介等を集めて火に焼くべし。一面には家を乾燥し一面には他の塵介をも一時に焼尽するの便益あり。
 一、床下に溜まりたる水は、現に不潔物を認めざるも、すべて有害のものなれば必ず床板を剥がしてこれを取り出し、その後の泥土は、掻き取りたる上、生石灰を散布し、これを乾燥することを怠るべからず。 前項の清潔法、乾燥法等を行なうにあらざれば、水の退きたる後、直ちにその家屋に起臥すべからず。その再びこうむるところの災害は、一ヶ月または二ヶ月を経て、追々現れ来るものなれば、家屋敷の掃除も行き届き、湿気のまったく除きたるを俟ちて帰住すべし。
仮小屋に住する者は左の事項を守るべし。
一、仮小屋にあるときは、かなり多人数同宿すべからず。
一、敷物を厚くし湿気の身体に及ばざるようになすべし。
一、湿潤したる衣服・夜具は決して用うべからず。
一、伝染病発生したるときは、速やかにその病人を別所に移し、健康人と同宿せしむべからず。
  また、仮小屋に住むこと能わずして水の退きたる後、直ちにその住宅に帰住するときは左の数項に注意すべし。
一、各人の衛生に注意すること。流行病あるときの如く身体を温包し、温暖なる飲食を用うべし。
一、時に火を焚きて乾燥し、また窓戸を開放して大気を流通せしむべし。就寝の前においては別して必要とす。
一、箪笥、戸棚その他屋内の道具は壁際より一尺ばかりも離し置き、湿気の蒸散を防げざるようにすべし。ことに食物を貯うる器物は速やかに乾燥せしむべし。

訓号外

                          沿 海  各郡長 各警察署長
本県沿海地方においては大海嘯のため人畜の死亡したるもの万余に及び、その死屍の発見せるもの、また少なからず。右死屍の処置は最も緊要のことなるも、以って充分の措置を施すべきは勿論なりといえども、この際、もし衛生上の注意を欠くことあらんか。後害の恐るべき、その局部に止まらず延いて全般に及び、前者に譲らざる災厄を視るに至るやも計るべからず。よってその措置は、なるべく左の事項に従い悪疫の誘因を防止するよう、取り計らうべし。
右、訓令す。
 明治二十九年六月二十四日                            知  事
一、死屍は引受人の有無に拘らず可成火葬せしむる方針を探るべし。若し止むを得ざる事情あるものはこの限りにあらず。
 一、数人の死屍を一壙穴に埋むるを避くべし。若し止むを得ざる場合は墓地中、無害の場所を選定し、可成深く発掘し苟くも衛生上の後害を残さざるよう注意すべし。
 一、牛馬家畜の死屍、必ず焼棄すべし。


今回海嘯については諸事混雑を極め、追々秩序回復に相近き候えども、なおこの際、左記の各項に篤く注意すべし。
右、通達す。
 明治二十九年六月二十六日                           警 部 長
         沿海各警察署長宛


一、水火震災その他の変に乗じて窃盗を犯すものは、刑法上特に厳科に処す。然るに罹災の混雑に乗じしばしば財産の略奪を働くものこれ有り趣、警察の任務は固と一時の救護に止まらず、盗難その他の機外るにあたり、相当の保護を加うべきは当然なるをもって、いやしくも警備上、遺策なきよう注意すべし。
一、他府県より罹災地に陸続入り込むものあり。これらに混入しある兇徒悪漢は出没して不正の働きをなす趣、かかる多事の際は、警察官において一層精鋭敏活の注意をもって厳重の取り締まりをなすべし。
一、将来、流行病の素因となるおそれあるをもって左の注意を怠るべからず。
一、人畜の死屍は可相成は焼棄するを要す。その他の不潔物もまた同じ。
一、飲料水ぱおおむね混濁し甚だしきは泥水、塩水の混入あるをもって速やかに浚渫して使用せしむべし。
一、奸商は惨禍の機に乗じ米穀その他物品の価格騰昂を謀るの状況あり。この際、細民の困苦少なからざるをもってこれに説諭を加うるを要す。
一、今回の災害については、廃疾または無告の窮民を生じたるは、その数挙げて数うべからず。いわんや従来の■寡孤独廃疾の如き、いよいよその生活の道を失いたるや必せり。将来、相当の救恤なすの要あるをもって、この際、その住所氏名、年齢、職業及び自活の資なきや否を調査し、知事に具陳すべし。
一、今回の変災に応じ自己の危難を顧みず、人の生命財産を救護し、その他、罹災者のため奇特の働きをなしたるものは、詳細取調べをなし知事に具陳すべし。
一、罹災者は特に丁寧親切の保護を主とし、いやしくも胸底須臾くも、慈悲の念を去るべからず。
一、罹災者は家屋の修理、仮小屋の建築の必要、目前に迫り、いわんや梅雨の候雲集まり、しばしば雨降りあらんとす。罹災者は、雨露を凌ぐに汲々苦心の機に乗じ、無情なる大工・左官・日雇い稼ぎのもの、法外の賃金を貪らんとす。宜しく注意を加え、不幸罹災者の保護を全うすべし。


海嘯後、注意を要する事項につき本日二十六日付をもって通達に及び候ところ、なお左の事項にも篤く注意すべし。
 一、罹災者の慰留財産処分については将来、種々の異論を生ずべし。宜しく今日よりその措置を誤らざるよう、注意すべし。
 一、岐阜、名古屋震災の実例に徴するに、災害に罹りたる窮民を誘惑し些少の金品を与えて、もつて年少女子を芸娼妓に誘拐するものなしとせば、宜しく注意を加えて制止するの方針を取るべし。
 明治二十九年六月二十九日                       警 部 長
      沿海各警察署長文署長宛


今回海嘯事変に際し、神官・僧侶あるいは修験の輩、名を説教もしくは法談に藉り、または種々の名義の下に各地徘徊、被害遺民に対し、亡者出顕または家相宜しきを得ざるため、■今また海嘯あるいは噴火の恐れあり。かかる禍害を除くには、われわれ説くところにしたがい、神仏の加護を祈るに若かざるなど、いたずらに流言浮説をなして人を誹惑し、あるいはみだりに吉凶禍福を説き、または祈祷符呪等をなし、人を惑わして利を図るもの等、往々これ有りやに相聞こえ、誠に忌まわしき次第に候条、この際、充分視察の上、人民に対しては迷うわざるよう、篤く注意を加え、説者に対しては仮借なく相当の処分に及ぶべし。
右、通達に及び候也。
 明治二十九年七月十三日        警 部 長
        沿海各警察署長分署長宛

釜石臨時救恤事務所日誌

      六月十五日
一、午後八時二十五分、九時、東奥三陸大海嘯あり。被害ほとんど百里にわたる。南閉伊郡沿海の地にてその災に罹りたるもの二町一村。
       同十六日
一、郡長一ノ倉貫一、遠野警察署長山田知秀の両氏、救護のため部下を率いて釜石町に向かう。鵜住居村、大槌町には、河野、千田の両郡書記を派す。    
同十七日
一、和井内郡書記一ノ戸巡査は鵜住居村の実況を観察に四戸郡書記・青柳雇は平田、白浜両区に出張す。
一、日本赤十字社岩手県委員部より救護医員二名、江釣子県属と釜石に着く。
一、村上参事官、木村美松の二県属、午後、釜石に着し、被害地を視察す。
一、西閉伊郡遠野町の医師・江山、四戸、横川の三氏、赤十字社救護医として釜石へ、石川氏もまた鵜住居村に出張せり。
一、岩手公報記者・日戸勝郎氏、災害地目撃のため釜石に来たり、次いで各罹災地に向かう。
一、赤十字社救護医局を釜石尋常小学校に置く。
       同十九日
一、東京日日新聞記者・石塚剛毅及び萬朝報記者・小林慶二郎の両氏、被害実地実況視察として来る。
一、郡長、鵜住居村、大槌町へ実地視察として向かう。この日、南閉伊郡被害報告をなす。
一、警察本部詰め小崎警部ほか巡査九名、釜石町へ補助として来る。
一、時事新報社員・都鳥英喜、報知新聞社員・玉井留平の諸氏、実況視察として釜石に来る。
一、青森郵便電信書記・寺山安高、同松原秀男氏もまた視察として釜石に来る。
       同二十日
一、大槌町へ人夫を派す。
一、中央新聞記者・臼井喜代松氏、釜石に来る。
一、負傷者救護の目的にて第二師団より軍医二人、看護人一名、釜石に、その他鵜住居村、大槌町にも軍医一名あて
  向かえり。
一、東京新聞記者・石塚三五郎氏、視察として釜石に来る。
       同二十二日
一、午前十時、軍艦龍田号入港、大佐藤田幸右衛門、海軍大尉花田満之助の両氏ほか二名、罹災臨時事務所に来たり、釜石被害の実況を視察し山田港に向け抜錨せり。
一、岩手県会常置委員・高橋嘉太郎、鈴木文三郎の両氏、釜石被害の実況調査として来る。
一、中央新聞記者・久保田金僊、大阪毎日新聞記者・渡辺美濃太郎、毎日新聞記者・丸山古香の三氏、実況調査として釜石に来る。また横浜ガゼット記者、英国人ほか一名、前同断。
       同に十三日
一、大日本衛生会より後藤救臣氏、罹災患者慰問として釜石病院に来たり、ガーゼ包帯用木綿を寄付す。
一、北村県属、気仙郡より南閉伊郡被害巡視として来る。
一、米国人ミロルなる人、これまた前記同断。
       同二十四日
一、中央気象台より地上猪吉氏、来釜、取り調ぶるところあり。
一、朝日新聞記者・横川勇治氏、来る。
       同二十五日
一、栃木県医師・平松孚之、吉永峯九郎の両氏、救護医として県属・澤田定勝氏とともに釜石に来たり治療に従う。
一、県会常置委員・三田義正氏及び日日新聞記者某、来釜。
一、東園侍従及び侍従属・原田次平太、従者・小林某、樋脇警部長、一ノ戸、佐土原の両警部及び本県属・木村守、佐々木文之丞の一行、釜石より大槌町に至る沿海地被害の実況を巡視せらる。また、本県選出の衆議院議員平田箴氏もこの一行にしたがう。
一、長野県選出代議士・薬袋義一氏も釜石に来る。
       同二十六日
一、東園侍従一行は大槌町より山田町に向け出発、その途次、健全なる被災者を招集し、恩賜の御沙汰を一般に示さる。吉田郡役所科長、先導として郡界まで見送りたり。
一、都新聞記者・大谷誠夫及び郵便電信書記・田子四郎治氏等、釜石にありてそれぞれ職務す。
一、県会議員・山本喜兵衛、遊田研吉、高橋英吉、八重樫源太郎氏等、実況視察として来釜。
一、内務省県治局長・三崎亀之助の一行、釜石に入る。この一行五名。
一、帝国大学派出委員・宮本淑氏の一行、釜石に着く。
       同二十七日
一、帝国大学医の一行、大槌町に向け出発す。
一、日本新聞社員・浅水又次郎氏、釜石に入り被害の実況を目撃し、またその采社画工・込山英吉氏も災害の状況写取のため釜石に来る。
一、板垣内務大臣一行及び服部知事の一行、午後五時、和泉艦にて釜石に入港、直ちに上陸、市中の惨況を視察し、同艦に帰る。
一、龍田艦も前後相踵って入港、海軍将校等、上陸視察を遂げたり。
一、汽船・千歳丸、災害地に限り、運送物品の賃金五割引きの約整い、船長・牧田亀吉氏ほか一名、釜石に入港、直ちに大槌に向け出帆、大学医及び江釣子県属の一行、これに乗り込み大槌町に至る。
       同二十八日
一、内務大臣の一行及び知事の一行も共に和泉艦に乗り込み、八戸に向け出発せり。
一、郡長・一ノ倉氏も出県のため出発せり。山田警部も帰署す。
一、海嘯罹災調査有志会派出員・伊藤安二、菊地亮二郎の両氏、実況視察として釜石に来る。
一、長野県人・白石桃太郎氏、篤志者、看護者として大槌町に派す。
一、海軍主計総監・奈良真志氏、南部伯の代理として慰問のため釜石に入る。
一、文部参事官岡田氏、清川寛氏をしたがえ、釜石及び被害地学校の巡視として来る。
一、備荒儲蓄取り調べ事務のため、岩槻大蔵書記官の一行、釜石に入る。
        同三十日
一、曹洞宗南本山・追吊導師、特派員小原春琳、岩手県曹洞宗取締・松井知定氏の一行、慰問のため来釜。
        七月一日より三日に至る
一、鵜住居村仮病院を閉じ、その全癒に至らざるものは、大槌、釜石両病院に移す。
一、外国人ウェルデン、ベンテット、ゼー・シー・クリヴラントの三氏、被害実況視察として釜石に来る。
一、罹災後の経営を画せんため、釜石町会を開く。
一、栃木県警部・山田武士氏、慰問として釜石に来る。
一、人夫募集のため、吉田郡書記・山田警部、甲子村に出張。
一、日本貧民救助慈善会より人夫八名、南閉伊郡罹災地の労働を助けんとて臨時事務所に来る。よって直ちにこれを鵜住居に入らしむ。
一、被害地事項取り調べとして、内田県属、野坂収税属、出張。臨時事務所にて取り調べに従事す。
一、宮城県曹洞宗宗務支局より貝山宏賞氏、慰問として釜石に来たり、金円を南閉伊郡罹災者に贈る。
        同四日
一、宮城県師範学校員・小関直二、盛岡市助役・中河原寛、本県選出・下飯坂代議士、震災調査会理科大学生・伊木常誠、福島県代議士・愛沢寧堅の諸氏、視察として釜石臨時救護事務所を訪う。
        同五日
一、海嘯罹災調査有志会派出員・伊藤弥七、菊地寛二郎氏、慰問として臨時救恤事務所を訪う。
        同六日一、山本県属、被害地取り調べとして来る。
一、本県選出代議士・谷河尚忠氏及び宣教団派出員・兼子道仙、仙台各基督境界代表者・菅田勇太郎、東京日日新聞記者・佐伯安の諸氏、慰問として来釜。
        同七日
一、日本水産会員・中尾氏、罹災地水産取り調べの件にて来釜。
        同八日
一、本県収税署長・北村氏は戸田内収税属とともに仙台に赴き、警部・佐藤虎太郎氏は宮古を経て釜石に至る。
一、東京農科大学寄宿生・大楷賢之助氏ほか二名、災後、惨況撮影のため、来釜。
一、岩手師範学校長も被害実地踏査のため来る。
一、盛岡天主教宣教師デフレンス氏、函館天主堂ベリコス氏、臨時救恤事務所を訪い、ベリヨス氏よりは金五
  十円を救助費に義捐せり。
        同九日
一、天台宗中尊寺一山総代として円乗院住職佐々木玄長、慰問として釜石に来る。
一、大日本写真品評会特派員・宮内幸太郎氏ほか二名、事務員・病院諸員、尾前神社鳥居の押し上げられたる箇所及び死体火葬場等を撮影し、即日、遠野町に向かって出発せり。
一、警部保安課長・北田親氏氏、気仙より来たり、本日、大槌に向かう。
一、栗橋村役場助役・三浦市平、三浦平蔵、佐々木善太郎の三氏、慰問として来る。
一、午後四時、千年丸入港、同船に左記の人名乗り込み、罹災者への寄贈品を持参せり。
 東京市浅草区新吉原有志総代日本赤十字社員
  山 田 喜久次郎    松 本 菊次郎    小 林 弁 三
  小 林 貞 吉     上 村 亀 六    鈴 木 亀 吉
  京 極 政 一     野 本 鉉三郎    平 井 忠 蔵
  喜多川 辰之亮     山 田 安 吉    片 沼 虎 吉
  石 坂 廣 治     東   長 治    鴨志田 久四郎
  相 馬 道 吉 
一、遠野小林区署長、西村大林区署長、割田営林主事、小屋掛け用材の官林払い下げ協議として来釜。
         同十日
一、仙台各基督教育救済会慰問者・佐々木純一、東京浄土宗・森亮、閭仙台市浄土宗山本徹応、同仏教顕揚会代表者・佐々木教理の諸氏等、慰問として来る。
一、石応寺において弔い葬式を行ない、山田警部、服部町長及び郡長臨席、当日、一ノ倉郡長の弔詞、左の如し。
  維時明治二十九年七月十日、ここに大方の智識を会し大法会を修し、もって在天の諸霊を弔う吁、這般の惨害たる生類を滅し財物を破却し、紫■江塵の地、一瞬渺漠の荒野と化して草木風寒くして鬼火青く、啾々の声、今なお耳に存す。然りといえども、天災地殃は避けんと欲して避くべからず。余らの貴はすべからく涙痕を収めて爾後の画策に拮据し、もって諸氏の霊を安んずるにあり。今や天恩優渥、御救恤金下賜のことあり。政府また大いにその庫を開き、江湖挙げて救済義捐に汲々たり。遺族頼って以って流離の悲哀を免れ、補綴弥縫その墸に安んずる得べきや必せり。諸霊以って冥するところあれ。
   明治二十九年七月十日       西閉伊郡長  一ノ倉 貫一
         同 十一日 快晴
一、宮城県登米郡佐沼町百番地・半田又左衛門、罹災者慰問として来釜。
一、第二高等学校生徒、栗原基督被害地巡視として来る。
         同 十二日 快晴
一、真宗大谷派本願寺役僧・佐々木円慰ほか一名、罹災者慰問として来釜。
         同 十三日 快晴
一、陸軍軍医五名、看護人十二名、引き揚げの命により、当地出発するをもって、事務員一同、鉱山馬車停車場まで見送りたり。
 同 十四日 快晴
一、記事なし。
         同 十五日 快晴
一、本門八品護持協会代表者幹事・本蓮寺住職桃井日■ほか一名、罹災者慰問として気仙郡より来釜。
         同 十六日 快晴
一、日本基督教会牧師・三浦徹、外国人とともに来釜、負傷患者に対し、懇篤なる慰問と贈品を恵与せり。
         同 十七日 快晴
一、宗柏寺住職・皆川文明、東京長遠寺住職・貫名義英、被害復旧会委員・千葉忠太夫、罹災者慰問として来釜。
一、日本赤十字社より釜石病院へ左の一行来着。
          日本赤十字社救護員 勲六等  高橋 信夫
          同      委員      青柳 正辰
         同 十八日 快晴
一、斎城軍医、看護人五名引き揚げ帰団に付き、停車場まで見送りたり。
         同 十九日 晴
一、記事なし。
         同 二十日  暴風雨
一、記事なし。
         同 二十一日 大雨
一、記事なし。
同 二十二日 雨
一、農商務省技師・岸山謙吉及び本県技手・加藤重福、被害地巡視として宮古地方より来釜。
         同 二十三日 曇
一、東京三陸罹災救助会出張員・東京中央会技師・波多野伝四郎及び上毛孤児院主任・金子尚雄来釜、当事務所に出頭し孤児院養育上につき懇談あり。
         同 二十四日 雨
一、釜石町役場において香月格なる者を雇い入れ、海嘯事務に従事せしめたり。
一、日本赤十字社病院副院長・山上兼輔、気仙郡より来釜の趣につき、吉田郡書記、服部町長には同氏訪問のため鈴子旅館へ出かけたり。
         同 二十五日 快晴
一、佐賀県人・東虎■、被害地視察として来釜。
一、昨日通牒ありし本県雇・大澤弥吉、来任せり。
         同 二十六日 曇
一、記事なし。
         同 二十七日 晴
一、釜石町において寄贈物品の配当、本日より着手せり。但し東京新吉原寄贈の分より始む。
         同 二十八日 曇
一、記事なし。
         同 二十九日 快晴
一、左記の者、昨日、千年丸にて来釜。罹災者へ木綿寄贈せり。
           香港、上海、神戸居留外国人総代
           神戸海嘯救済会委員八名のうち
           出張委員英国人
            兵庫県居留地十八番館  エー・シー・シーム
                 通 弁    水 谷 英之進
一、中村秀俊、授産世話掛として来釜。
         同 三十日 曇
一、三河国幡豆郡衛門村・臨済宗華厳寺徒弟・三浦自覚、罹災者慰問として来釜。
一、英国人シーム氏より物品の寄贈並びに入院患者へ金百七拾参円贈与あり。
         同 三十一日 雨
一、シーム氏一行、平田白浜罹災民へ贈品配与のため出向く。役員は服部町長、武藤郡書記及び香月雇。 
一、山口二三太郎(岡山県備前国の人)、三陸海嘯被害地視察を兼ね、罹災者慰問として来釜。
         同 八月一日 快晴
一、内務省技手・柳下某、被害地視察として山田地方より巡回の途次、来釜。直ちに気仙郡に向かい発足せり。
一、宮城県宮城郡多賀城村・今村常貞なるもの、被害地実況視察として来釜。
         同   二日 曇
一、記事なし。
         同   三日 晴
一、シーム氏、罹災者に炊具(鍋、釜、飯櫃、火箸)配与せり。
         同   四日 快晴
一、シーム氏、物品贈与をなせり。
         同   六日 快晴
一、江釣子、澤田両県属及び救護員なる兼平、三浦、宮、及川の六名、帰還するをもつて馬車停車場まで見送りたり。
一、被害地道路・橋梁復築工事設計のため、山本技手、出張。
一、埼玉県寺院総代・星野仙梁、愛知仏教会特派使・早川見龍、十善復法会体太子講北海道本部副会長・田中朴山罹災者慰問として来釜。星野仙梁は郡内罹災民へ金弐拾円寄贈せり。
一、シーム氏、大工職業のものへ工具を恵贈せり。
一、シーム氏、寄贈品のうち鵜住居村へ釜石町、寄贈品残品を配当し、受領として沼崎書記、来釜せり。
         同   七日 晴 
一、シーム氏、釜石町孤児・寡婦へ金百十八円を恵与し、被害のたびに応じ十七人に配当せりという。
         同   八日 晴
一、孤児教育院主事・但木鵬、来釜。
一、日本水産会員・伊谷知二郎なるもの、被害地水産業に関し、将来授産の方法調査のため、気仙郡盛町より昨夕、来釜。
         同   九日 晴
一、孤児院主事・但木氏、当事務所に来たり、孤児引き取り上につき懇談し、午後より大槌に向け出発。
一、伊谷水産会員、当事務所に来たり、漁具、漁船調査につき談話あり。午後より大槌に向け発足するをもって、両石まで四戸郡書記、大槌まで中原雇、出張被命たり。
一、シーム氏、去る七日より本日までに三百九円を■寡、孤独及び貧窮者に恵与せり。       
         同   十日 快晴
一、救済金積み込み汽船・音龍丸、午後二時、香港同船に乗り込み、左の一行、上陸せり。
   村上 参事官    三輪 県属   北田 県属
   古津 県属     加藤 技手   元柴山技手
  而して同行は授産方法協議委員として、村上参事官、北田県属及び加藤技手は宮古へ、三輪、古津両県属は気仙へ出向くよし。
         同  十一日 快晴
一、村上参事官は青龍丸に搭し宮古に向かい抜錨、三輪、古津両県属は気仙郡に向かい出発せり。
一、シーム氏、青龍丸にて九戸地方に解覧するをもって吉田郡書記、山口警部及び服部町長には今日まで罹災者のために尽くされたる彼の厚意を謝せんがため訪問せり。その際、彼は罹災者救護方法等につき、外国人の意向を話されたる終りにいうよう、余は横浜居留の同僚と協議の上、再び救助品を携え来るがため、九戸より直ちに横浜へ向け出帆するか、あるいは陸路再び当地を通行するか、いまだ決定せず、云々と。
         同  十二日 快晴
一、山奈宗真は、海嘯罹災授産方法取調委員を嘱託せられ、県下被害地を巡回する趣なり。
         同  十三日 快晴
一、山奈嘱託員は鵜住居村に向かい出発せり。
         同  十四日 快晴
一、記事なし。
         同  十五日 快晴
一、久米内務参事官、被害地実況調査として気仙郡より巡視の通知あり。出迎えとして吉田郡書記、川村警部、服部町長、平田まで赴き、午後一時頃、その一行とともに来着。直ちに事務所に来たり取り調べ事項を示したり。
一、東京浄土宗有志総代・吉田了淳、罹災者慰問として来釜。即日、鵜住居村、大槌町に向かい発足せり。
         同  十六日 快晴
一、久米内務参事官ほか二名、当事務所に来たり、諸調物及び授産方法につき懇話あり。しこうして同参事官の閲覧に供したる書類は、罹災戸数、人口、職業、船舶流失修繕等に関するものにして、その他備荒儲蓄金、国庫金救助に係わる金員の支出取り調べなり。
         同  十七日 快晴
一、久米内務参事官一行は、遠野町を経て帰京の途に上らるるをもって一ノ倉郡長、吉田郡書記には、馬車停車場まで見送りたり。
         同  十八日 雨
         同  十九日 雨
         同  二十日 雨
         同 二十一日 雨
         同 二十二日 曇
 同 二十三日 晴
一、被害地巡視として岩手県盛岡尋常中学校長・多田教諭ほか二名、来釜。
         同 二十四日 晴
一、岩手県市尋常師範学校教諭・岩村春二郎、被害地巡視として来釜。
         同 二十五日 雨
一、本県技手・一条牧夫、馬籍取り調べとして来釜。
         同 二十六日 雨
         同 二十七日 雨
一、蝿田県属、備荒儲蓄救済費等に関する事務整理のため気仙郡より来釜。
一、一条技手、鵜住居村に向かい出発。
         同 二十八日 雨
         同 二十九日 晴
一、香川県人・安松弘二なるもの、被害地善後策につき当事者と協議のため来釜。
         同 三十日 晴
一、角掛県属には蝿田県属と交代、本日帰庁の途に就けり。
         同 三十一日 曇
一、午前八時頃、微震あり。
一、午後三時頃、弱震あり。約二分間。
一、午後五時頃、強震、約五分間。しこうして午後八時頃までにほとんど絶間なくおよそ二十六回の微震ありしため、ますます恐怖し、あるいは津浪再襲の前兆ならんと、人心穏やかならざるに、目下碇泊中の小戸浦丸船中の定時を報せる鐘の響きを津浪の襲来を喚わんがためとて、町内の数ケ所に設けられたる半鐘の音と聞き誤り、驚愕騒擾ひとかたならざりしも、ようやく鎮静して別に大事のなかりしかば、実に幸いなりし。かく民心安堵せざるより、町内の警戒、注意に注意を加えたり。
         九月  一日 快晴
一、釜石病院は昨日をもってひとまず閉鎖のはずなりしも、患者の都合その他の事情より、今後十日間延期することとなりたり。
          同  二日 快晴
一、釜石役場にて寄贈品配当せり。
一、釜石病院救護員・青木良太郎、医士・木村政太郎及び看護婦五名、帰郷せり。
          同  三日 半晴半雨
一、記事なし。
          同  四日 雨
一、曹洞宗南大本山代理・鈴木無三、岩手県曹洞宗宗務支局取締代理・諸谷源瑞(盛岡市三割・正覚寺住職)、罹災者慰問として来釜。かつ本山より本県罹災者へ金千五百円贈与せられ、その配当方は本県へ一任せりという。しかして同行は本日、釜石町において亡者のため追吊法会修行せんとて、石応寺に協議する所ありしも、都合により本日は
大槌町へ向け出発し、一泊の上、帰路、再び立ち寄り修業すべしとなり。
          同  五日 雨
一、記事なし。
          同  六日 曇
一、記事なし。
          同  七日 曇
一、福島県より雇い入れたる船大工、鵜住居村へ赴く。
一、これまで当町役場にて雇い入れたる香月格、本日より日給二十銭支給し、郡役所臨時雇いに採用、釜石町救済事務を取り扱わしめたり。
          同  九日 曇
一、明十日をもって当事務所を閉鎖すべく、しこうして事務員・吉田、和井内両郡書記及び青柳、中原雇、帰郷し、一ノ倉郡長・蝿田県属には恩賜金配与のため、滞釜することとなれり。

被害調査

◎南閉伊郡二町一村罹災前後の戸数、人口、流亡人口及び一家全滅、左の如し。

   釜 石 町
 一千百五戸                     罹災前戸数
 八百二十一戸                    罹災戸数
 六千九百八十六人(男三千四百二十一人、
          女三千五百六十五人)       罹災前人口
  三千七百六十五人(男一千七百七十人
         女一千九百九十五人)        罹災流亡人口
 六十七戸                      罹災一家全滅の戸数
   鵜住居村
 四百九十戸                     罹災前戸数
 二百七十二戸                    罹災戸数
 三千二百四十六人(男千六百十六人
          女千六百三十人)         罹災前人口
 千四十五人   (男四百八十九人
          女五百五十六人)         罹災流亡人口
 六十八戸                      罹災一家全滅の戸数
   大 槌 町 
 千百七十二戸                    罹災前戸数
 五百六十八戸                    罹災戸数
 七千二十七人(男三千六百十六人
        女三千四百十一人)          罹災前人口
 六百人   (男二百七十三人
        女三百二十七人)           罹災流亡人口
 八 戸                       罹災一家全滅の戸数

◎同上船舶の流失破壊、左の如し。

   釜 石 町
 沖漁船   百五艘                 罹災前漁船
  内    
       三  艘                破壊
       三十七艘                流失
 小漁船   二百六十六艘              罹災前漁船
  内 
       八  艘                破壊
       百九十六艘               流失  
    鵜住居村
 沖漁船   十四 艘                罹災前漁船
  内
       一  艘                破壊
       五  艘                流失
 小漁船   百二十八艘               罹災前漁船
  内
       九  艘                破壊
       八十五艘                流失
    大 槌 町
 沖漁船   四十四艘                罹災前漁船
  内
       四  艘                破壊
       四十 艘                流失
 小漁船   百八十艘                罹災前漁船
  内       六十 艘                破壊
       百二十艘                流失

◎同上公職に在る者死亡、左の如し。

    釜 石 町
 釜石警察署詰巡査  古川 小右衛門     釜石町収入役  金崎 祐蔵
 釜石区裁判所
 釜石出張所雇    川畑 文三郎      県会常置委員  小軽米 汪
 町会議員      磯田 勘助       町会議員    新沼 嘉藤治
 町会議員      佐野 政次郎      町会議員    佐野源次郎
 区会議員      山崎 清助       区長      山崎 善八
 区長        川畑 永松       区長      大坂忠兵衛
 区長代理者     藤元 金蔵       区長代理者   猪又 安蔵
 陸軍輜重諭卒    澤田 源八       陸軍歩兵一等卒 佐々木 重助
 海軍水兵      佐々木権三郎      海軍水兵勲八等 山崎 九蔵
 同機関兵勲八等   佐々木長次郎


     鵜住居村
 村会議員      久保 助次郎      村会議員    久保 安之丞
 同         富澤 寅次郎      同       金野喜平
 同         佐々木兵右衛門     区会議員    久保 長吉
 区会議員      今入 徳右衛門     同       中村 徳治
 同         坂本 庄右衛門     同       大山 春松
 区会議員      山崎 永助       箱崎尋常小学校授業雇 栃内泰吉
 鵜住居村助役    澤口 升吉       陸軍歩兵上等兵 澤口 儀助
 海軍水兵勲八等   澤口 善六       海軍水兵    美濃 直次郎
 陸軍輜重諭卒    久保 忠助       陸軍輜重諭卒  佐々木三右衛門


     大 槌 町
 町会議員      道又 徳太郎      町会議員    越田 市兵衛
 陸軍歩兵一等軍曹勲八等 佐々木留吉     海軍二等機関兵勲八等 中村由太郎


  一家全滅したる者
    釜 石 町
 中村 はるえ     中村 竹次郎     金森 盛次郎
 澤田 福蔵      村井 きく      澤田 周太
 菊池 小三郎     佐々木紋三郎     小軽米庄左衛門
 川畑 伊之助     岩間 彦松      山崎 傳助
 山崎 久蔵      佐野喜左衛門     芳賀 啓助
 友菊 小七郎     梯内 徳四郎     小軽米 汪
 金崎 祐蔵      大坂 直吉      菊池 與之助
 菊池 善五郎     山崎 りは      友菊 金次郎
 石田 留之助     佐々木 安蔵     菊池 清之丞
 川畑 庄七      笹山 安次郎     岩間 岩太郎
 佐野 つる      藤井 亀吉      菊池 久太郎
 楢山 松之助     藤田 善助      大和 とみ
 山崎 與之助     矢浦 長八      佐々木万之丞
 菊池庄左衛門     笹山 伊與吉     磯田 弥太郎
 平田 熊吉      平野 つる      菊池 吉之助
 大坂 忠兵衛     菊池 亀松      佐々木長太郎
 小軽米松兵衛     川畑 徳松      三浦 松助
 遠藤 長之助     木下 幸次郎     佐々木彦兵衛
 久保 門吉      佐々木権三郎     佐々木吉右衛門
 佐々木 倉吉     岩鼻 倉松      久保 才五郎
 佐々木留五郎     佐々木 大助     佐々木 重助
 佐々木 鶴松     笹山 福太郎


   独身となりたる者
 佐野 辰之助     大和田左衛門     山形 鉄太郎
 菊地 辰之助     岩間 熊太郎     岩間 嘉傳治
 笹山 種吉      東梅 文助      川畑 寅蔵
 前川 小四郎     川崎 六太郎     佐野 與次郎
 山崎 傳兵衛     林 長吉       山崎 千松
 白川 貞八      藤田善左衛門     矢浦 己之吉
 高橋 長之丞     平野 民二      川畑 伊勢松
 菊池 松之助     大坂 亀松      佐野 仙治
 楢山 孫八      中村 千代吉     港 松兵衛
 赤崎 門助      赤崎 幸吉      藤井 由蔵
 佐々木庄右衛門    岩間 彦吉      佐々木亀次郎
 佐々木 春治     岩間 熊太郎     佐々木 権蔵
 松崎 久松      川畑 己之松     平野 末手松
 細川 伊之松     佐藤 伊之松     川畑 春松
 川畑 百太郎     磯田 福太郎     佐々木 政吉
 岩間 源之助     川畑 丹治      大和田 金之助
 笹山 宇平治     磯田 勘左衛門    岩間 市助
 佐々木 新助     山崎 永吉      三浦 三之丞
 川畑 松助      岩間 庄兵衛     岩井他 永助
 菊池徳右衛門     三田 熊五郎     佐々木卯之助
 高沢徳右衛門     久保 千代吉     久保 金六
 蘭賀 健蔵      久保 久四郎     中村 若松
 中村 重兵衛     前川 林蔵      菊池 吉助
 佐々木松之助     佐藤 鉄之助     佐々木 義衛
 佐々木伊勢次郎    佐々木 鉄蔵     桑畑 庄兵衛
 佐々木 圓蔵     久保 保太郎


寡婦となりたる者
 藤原 せき      細川 しん      磯田 たけ
 小軽米 やえ     佐野 きさ      佐野 いそ
 金木 つる      山崎 さく      氏家 しき
 岩間 ふじ      佐野 なつ      菊池 しき
 野崎 よし      菊池 のく      菊池 まつ 
 内館 つま      細川 さん      野館 とめ
 刈谷 とよ      澤谷 ちよ      前川 つる
 磯崎 こふく     楢山 みん      梅本 まつ
 岩間 たつ      近江 ちよ      大坂 とら
 平野 しう      村井 しま      佐々木みわ
 川畑 ひで


  孤となりし者
 佐野 太郎      白川 茂一郎     板澤 貞蔵
 澤田 甚吉      田丸 栄次郎     岩間 與市
 山崎 松太郎     大和田 さよ     矢浦 寅蔵
 藤澤 寅蔵      楢山 丑松      西村孫右衛門
 高橋 いと      大坂 吉五郎     川畑 亀太郎
 太田 六兵衛     川畑 勝太郎     太田 はる
 大村 喜三郎     菊池 はな      佐々木 文助
 久保 とみ


  一家全滅したる者
   鵜住居村
 坂本 庄之助     千葉 いせ      久保 覚兵衛
 美濃 勘之助     澤下 留五郎     久保 長兵衛
 岩間 春吉      久保 松吉      山崎 庄八
 萬 卯之松      佐野 さい      今入 貞助
 大上 勘之助     久保安右衛門     鹿本 清次郎
 洞口 春助      松本 寅吉      松本 清次郎
 中村 忠次郎     今出 六助      小松 松之助
 佐々木 金松     山崎 権次郎     鈴木 鉄之助
 澤口 若松      鹿本 福次郎     澤口 圓之助
 洞口 種吉      洞口 長之助     久保 萬蔵
 澤口 徳松      鈴木 清蔵      久保 伊之助
 松崎 藤吉      竹洞 酉松      福田 長之助
 山崎 文四郎     久保 忠助      山下 傳十郎
 松本 深松      鈴木 長太郎     松崎 伊右衛門
 鈴木 甚八      山崎 三六      澤下 仁蔵
 澤口 金次郎     小島 清兵衛     澤下 深松
 小松 民蔵      小島 幸太郎     久保 亀之助
 坂本 久之助     瀬戸 八十吉     坂本 長命
 釜道 三次郎     山本 卯之松     花川 福松
 福浦 清助      釜道 萬治      山口 徳松
 沼内 久之助     木下 三之助     岩間 孫助
 西 留八       萬 丹蔵       小川 長次郎
 山根 文四郎     大上 春松


  独身となりたる者
 東 きく       中 とめ       久保 春助
 山崎 ちよの     山崎 ひさ      富澤 鯉三
 沼内 松吉      高橋 りやう     三浦 徳治

 大丸 喜六      澤口 徳之助     小林 勘兵衛
 新屋 徳松      山崎 よし      伊勢 はつ


  寡婦となりたる者
 佐々木 しん     坂下 まつ      澤口 とみ
 山崎 はな      洞口 いの      洞口 さき
 瀬戸 さく      澤口 きやう     中村 なか
 山下 もと      山本 さん      久保 まつ
 佐々木 たつ     澤口 さと      小嶋 ちま
 澤口 ゆう      小林 はる      洞  はる
 小川 ちよ    


  孤となりたる者
 今入 わき      幸崎 福三      吉田 いと
 洞口 きよ      洞口 寅蔵      萬 大次郎
 久保 ふく      今入 幸三      佐々木 金三
 佐々木辰左衛門    三浦 じん      佐々 岩蔵
 佐々 富助


  一家全滅したる者
   大 槌 町
 岡本 徳蔵     梅谷 勘之助      砂賀前 六松
 三浦 永吉     木下 徳次郎      東谷 半兵衛
 田中 駒吉     芳賀 富右衛門


  寡婦となりたる者
 岩間 きく     高橋 はる       高田 きち
 竹本 とミ     三浦 みね       川原 はん


  孤となりたる者       
吉見 運治     小国 しゅん      小国 とよ
 越田 兵衛     越田 雪郎       越田 賢吉
 小国 兼蔵     竹澤 きく       堀合 大次郎
 東谷 勘助     門崎 まさ       門崎 たい


  独身となりたる者 
 岩館 儀助     小川 文次郎      西村 みね
 菊池 佐惣太    佐藤 三四郎      吉田 富太郎
 岡谷 徳治     砂賀前 留之助     藤原 とめ
 岩間 元治     佐藤 清吉       阿部 梅之丞
 佐々木 三蔵    越田 源之丞      倉本 久之助
 平野 清五郎    岡谷 松右衛門     里館 與太郎 

◎南閉伊郡二町一村字二十一部における海嘯潮高、溢潮及び海面概調(山奈宗真氏の調査による)

  一、潮高三十五尺  一、溢潮二百三十間  一、海面五尺   釜石町 字 佐須
  一、同 五十五尺  一、同 百六十間   一、同 九尺   同   字 白浜
  一、同 三十五尺  一、同 百二十間   一、同 四尺   同   字 下平田
  一、同 二十尺   一、同 六十間    一、同 六尺   同   字 嬉石
  一、同 二十尺   一、同 六十間    一、同 三尺   同   字 松原
  一、同 五十尺   一、同 二百三十間  一、同 六尺   同   字 釜石
  一、同 二十五尺  一、同 百二十間   一、同 四尺   鵜住居村字 水海     
一、同 四十尺   一、同 三百間    一、同 四尺   同   字 両石
  一、同 二十尺   一、同 八十間    一、同 十尺   同   字 桑浜
  一、同 七十尺   一、同 五十間    一、同 四尺   同   字 白浜
  一、同 六十尺   一、同 四十間    一、同 三尺   同   字 仮宿
  一、同 三十五尺  一、同 自百六十間  一、同 九尺   同   字大仮宿
                至三百二十間
  一、同 二十尺   一、同 百七十間   一、同 五尺   同   字 箱崎
  一、同 二十尺   一、同 百八十間   一、同 六尺   同   字 根浜
 一、同 二十尺   一、同 自三百四十間 一、同 自三百  同   字 片岸
                至 四百間      至八尺
  一、同 十五尺   一、同 百 間    一、同 二 尺  同   字 室浜
  一、同 二十尺   一、同 二百三十間  一、同 自三尺  大槌町 字向川原
                           至五尺
  一、同 二十尺   一、同 百三十間   一、同 四 尺  同   字 安渡
  一、同 二十尺   一、同 七十間    一、同 五 尺  同   字 赤浜
  一、同 二十尺   一、同 三百二十間  一、同 七 尺  同   字吉里吉里
  一、同 十五尺   一、同 百二十間   一、同 二 尺  同   字 浪板

◎南閉伊郡二町一村海嘯被害のため荒蕪に属せし水田、陸田及び宅地等は左の如し。

    水 田
  一、七町三反一畝二十三歩                釜 石 町
  一、四町六反一畝二十七歩                鵜住居 村
  一、十一町九畝二十七歩                 大 槌 町
  計 二十三町三畝十七歩 


    畑 地
  一、十二町一反四畝十二歩                釜 石 町
  一、十九町七反三畝十五歩                鵜住居 村
  一、十六町四反六畝二十八歩               大 槌 町
  計 四十八町三反四畝二十五歩


    宅 地
  一、一町一畝十一歩                   釜 石 町
  一、四町四反三畝四歩                  鵜住居 村
  一、一町三反一畝二十六歩                大 槌 町
  計 六町七反六畝十一歩 
 合計 七十八町一反四畝二十三歩

惨況一班

釜石町の部 (白浜、平田、嬉石、佐須)

◎釜石町小軽米汪氏は県会常置委員としてまた敏腕家として、その名声近隣各地に喧伝せらる。氏は海嘯の当夜 山口警部、服部町長を一間の小奇麗なる座敷へ請じ、酒酌み交わして四方八方の談話に余念もなかりし折り柄、ふと遥か沖合いにあたりて轟然、雷吼の音を聞きしと均しく、市中非常に物騒がしければ、這は只事ならじと町長は真っ先に門外に駆け出して当夜の奇災を免れたり。警部も継いで雨戸押し開きて屋前に出ずるや、ついに潮水に押し流され、幸いに生命には別条なかりしも、重傷を負いたり。然るに小軽米一族は難を高所に避くるに遑もあらせず怒れる波は、見る見る壁を破り柱を離し、今や家も見も粉微塵とならんが有様に、小軽米氏は早くも表口より身を切り抜け、屋廡によじ上らんとせしが、屋廡は元来亜鉛板を敷きたるなどして心は頻りにあせれども、手スベリて思うに任せず。よじては離れ、よじては落ち、今は身体疲労し到底叶わずとや思いけん。天を仰き絶叫すらく。われ、多年辛抱し来る公共上の事業に対し未だ成功半ばならざるに、天、われに年を仮さず。ミスミスわれをこの傷において殺さんとするなるか。残念なりと言わせも果てず、狂瀾は用捨なく同氏を何処へか持ち去りぬ。小軽米氏の家は一昨年の新築に係れり表口七間、裏行八間の瓦屋にして、その結構美麗。けだし南閉伊群中第一と称す。故を以て人々海嘯と聞くよりも同家こそ屈強なる避難所なりと思い込み、我れも我もと駆け付け押し入りしが、前記の如き次第なれば、ことごとく奈落底裡の鬼と化し、翌朝に至り数十名一団となり非命の死を遂げ居たりとの由なるが、これぞ大槌町字安渡に於ける非命者の越田林兵衛宅を非難の場所と定め、心ひそかに金城鉄壁と頼みたる甲斐もなく、家屋諸共数十人惨死を遂げたる事蹟と同一轍なり。海嘯後、両三日を経て、小軽米氏の妻イツ子(四十才)の死体を発見したるが、イツ子は親戚の小児を抱きたるまま角材に太く圧せられ、角端は其頸部へ四寸余りメリ込み居り、流血淋凛たる有様、実に目も当てられぬ程なりしと言えり。又小軽米氏の死屍は十五、六日を経て発見したり。当時は、身体爛壊してその誰たるを弁ぜざりしが、左手に嵌めありし金環にて、始めて同氏たるを分明せりという。付記す。前記小軽米氏最後の嘆声を耳にせしものは、これも同じく同家の屋根に取りすがり辛うじて一命を助かり得たる菓子商佐々木茂助なりという。


◎同町町役場の書記佐野千代治氏は、当夜、宿直なりしかば、海嘯の引き去るを待ちて我が家に立ち帰りたるに、全く潰家となり居るにぞ、せめて家族の遺骸にても引き出さんと、屋根を剥がし雑具を片付け見れは、それ姉の首のみ。木材に挟まれて残れるほか、他の死体、一つもあらざりしと。


◎釜石警察署長山口良五郎氏は海嘯の当夜、小軽米汪の宅にて服部町長等と一酌を催しけるに、轟然たる響きと喧々たる人声を聞き、多分、火災ならんと思慮し、職業柄、火元を確めんと思いしに、小軽米の妻は異様の声にて、旦那さん旦那さんと呼びしに、小軽米は直ちに立ちければ、氏も次ぎて起ち、野外へ駆け出てけるに、山なす怒濤は、たちまち小軽米の家を倒し、氏の上をおおいければ、身の自由さえならず。何とかしてはい出てんものと、心を砕きし折柄、第二の波は来てその破材を浮かべしが、ここに初めて身の自由を得、これ幸いと、泳ぎて岸に達し、まさに山に馳せ上らんととせし時、足に取り付き救いを求むの婦人あり。またぞろ引き落とされんとせしを、ようやくに振り放し山に上るを得たるは、僥倖なりし。氏は面部及び頭部に傷を受け、流血淋凛加うるに両下肢に深き傷を負い、歩行困難なるに似もやらば、職務として救護の任を果さんと期し、そのまま山伝いに鈴子鉱山へ赴き、横山氏に面し状況を電話にてその筋へ報告せんことを依頼せしに、電話不通にてその意を得ず、殆ほとんど困り果てけるも詮術なれば、同処にて態夫を雇い、大橋駐在所巡査の許に馳せ、県庁への報告及び遠野警察の応援を要求せしめ、続いて郡衛へ医師の派遣及び米穀の請求をなし、また横山氏には焚出方を嘱託し、救護事務至らざるなし。
なお、氏はその夜、鈴木薫平なる医師の治療を受け直ちに帰宅し、爾後、杖に凭りて部下を指揮するなど、ごうも怠りなかりしという。後世、職に当たるもの、この覚悟なかるへからず。今、同氏より一ノ倉郡長へ宛てたる書面を得たれば、左に掲ぐ。
  釜石大海嘯にて、過半、人死す。生存者は明朝より餓死の有様なり。救助の手配ありたし。小生も五、六分間海中に沈み、万死に一生を得たり。
   七月十六日一時 鈴子にて                山口
          一ノ倉郡長殿
    編者曰く。山口署長の書簡日付七月とありしは、全く六月の誤りなり。けだし、大変に遭い草卒に際しこの誤謬を致せしなり。


◎釜石警察署詰巡査部長・浅野寅吉氏は、遭難者の一人にして、初めは行衛不明と伝へられしも、辛くして九死を出たるも、而も最愛の妻子は惨死し、氏また脚部に重傷を負いたり。即ちその梗慨を掲げんに、海嘯当日、氏は署内にありて、ある被告事件を取調べ、黄昏帰宅せしに、同日は旧端午の節句とて、妻子は■などを拵え、酒飯の用意して待ち合せ居りしかば、同氏も快く一酌し居るうち、小地震あり。その震動の工合、通常と違い、何んとなく家屋を掀翻するが如くに感ぜられしかば、これ定めし烈しき揺り返しの来るに相違なし、早く表裏の雨戸を開け置くべしと妻女に注意し置きたるも、別段の事もなかりしかば、さては案ずる程の事もなしと妻女は七歳の子供を抱きて臥床に入り自身も褥上にて書見を為しおる中、微醺を帯びおるなどとて、ウトウトと吾れ知らず眠りたるが、その際、夢現の中に八時を報せる時計の音を聞きたりと、暫らくして妻女の奇異なる驚声が鼓膜に入りしにぞ。自身もこれにて眠りを覚破し、何事ぞと起き上らんとするに、箇は如何にこの時すでに家屋の梁木は全身を圧伏すあり。ハッとばかりに身をモガクも、一寸なりとも動ければこそ、ただ左右の腕のみは動かし得らるるので、妻子の寝て居る辺に手を差し伸ばして探り見れど、さらに触るるものもなし。箇は■も何事ぞと夢に夢見る心地して居る中、ハヤ水入り来たりて全身を浸したり。益々驚き怪しみ、定めし激烈なる地震の揺り返しにて、家屋は土中に陥没したるものなるべし。アアすでに九死の窮境に臨めり。一生を得んこと到底難きことなりと観念しつつも、務めて水を呑まぬ様に口を閉じ居る中、水勢の為めに梁木に圧伏せられし身体は、この時初めて自由あることを得たれば、この機に乗ずべしと、力の限り何処を目当てとなく浮き出したるところ、屋根の如きもの頭上に蔽い来るにぞ、こは大変と一生懸命、頸部に触るる流材等を退き払い退き払い辛くして水面に首をもたげ出ずるを得て、ホツと大息を突き、その場に漂流しつつある木材に縋りつき、水面をすかし見るも、大雨濛々として咫尺を弁ずべからさる暗澹の間より五、六十人とも覚しき救いを呼ぶ叫喚の声、凄絶悲絶、今なお思い出しても毛骨の聳然たるを覚ゆる程なり。この時初めて大海嘯の襲来と知りたるが、折しも轟々の響きして再び押し寄せ来たる狂瀾激浪、さながら山の如くにて、この時無残や、また水中に巻き込まれ、せっかく縋りたる木材にも離れ、大小の石塊家具流木等にヒッシヒッシと身を打たれ、その苦痛、言語につくすべからず。然れどもなお屈せず、満身の勇を鼓して浮き廻る中、ようやく水面に首を擡げ出すことを得たる折りしも、箪笥の漂流しきたるを認め、これに取り付きたりして漂流し、ある箪笥に取り縋りたるものの、何分にも物体が波にあおられてゴロゴロ漂うその度ごとに、同氏も波の上になッたり下になッたりして居る中、初め五、六十ばかりの流民も、追い々何処ともなく押し流されて仕舞って、十人内外と減じ、その救いを呼ぶ声さえ、虫の鳴くが如くに細り行く体なるにぞ。同氏も最早や吾が運命もこれまでなりと、危急の場合にも妻子の身の上■■に案じやり、定めし吾れと同様の苦悩をして失せ果てたることなるべしと想えば、ただ何となく血涙の溢れ落つるのみ。折りしも、陸上と覚しき方に、微かに一条の火光を認めしかば、さては陸地も遠くにあらず、今一奮発して生死の界を定めんと、疲れ切ッたる手足を動かし、必死となって泳ぎ廻る中、アア無残なるかな、三度目の激浪ドッとばかりに押し寄せ来たり、またもや、これに巻き込まれ、この時も大小の石塊木材等に身体を打たれ、苦痛言うばかりなかりしも、この時、何やら足部に触るるものあり。これ幸いと、取り縋り見れば、岩なり。さては浅瀬に漂着せしかと、吾れ知らず岩上に哭きたたんとせしも、引き汐烈しく、足を引きさられたるもなお、岩に縋りつく中、しばらくにして汐も引き去り、その辺は一面の石川原なるにぞ。吾が運命もマダつきさりしよと、心も坐■に勇み立ち、またもや浪押し寄せ来たらぬ中、安処に逃がれんと思うものから、せっかく便りにせし火光も見えなくなりたり。されど、如何にもして高所に至らんと焦燥するも、如何にしけん一歩も辿る能はず。さても不思議と感ずる途端、足部に負傷したることを初めて知り、情けなや、せっかくこれまでにして、所もあろうに足部負傷とは不運この上なしと落胆一方ならざりしも、かくて止むべきにあらざれば、両手を突き突き近傍の山に這い上り、一条の蔦葛に縋りてなおも高処に登らんとするハヅミに、件の蔦は切れて、ヅルヅルと身は逆さまに谷合に陥り、頭部面部目口に至るまで皆、汚泥に塗れ、その苦痛、言語に絶え、吾れ知らず、神も仏もなき世かと絶叫したりとぞ。然るにこの時、幸いに足音あり。一人の男来たりて、誰かと問うにぞ、地獄に仏とはこの事なりと。我れは釜石警察署詰の浅野巡査なり、と答えたるに、その男はそのまま救わんともせず過ぎ行きたるにぞ、不人情なる人間なりと怨みたるが、イヤイヤ彼も定めしその家族を尋ね居りて、人どころではなき事なるべしと思い返ひしつ。ただ運を天に任せ居るころへ、また一人の男来たりたるにぞ。我れは浅野巡査だ、救いくれよと声懸けしぞ。幸いにその男は平田村巡査休憩所の主人にて、吾が名を聴くより大いに驚き、御承知の如く我が家は海岸より隔たりたる山手なれば、このの災難を免れました、まず我が家へ御引き取りなさいと、同氏の足部負傷の事を聞こえて甲斐々々しく背負いて自宅に伴い、火を焚き全身を暖め、衣類を出し粥を供するなと、残る隈なき親切に、初めて同氏も人心地となり、我れは御蔭にて助かりたるも、妻子は行方不明なり、所詮免れざりしならんと語れば、彼はいよいよ気の毒に思い、せつかく海岸筋を尋ね呉れしかども、遂に見当たらず、兎角する中、その夜も明けしかば、人を頼みて右の次第を釜石警察署へ報せんとせしも、折りからの事とて、生残の人々、皆半狂乱にて、行方不明の妻子眷属を捜索し居る事とて、応ずるものもあらばこそ、その翌十七日に至り、ようやく警察出張所へ右の次第を通知することを得たり云々。同氏、当時の苦痛、想いやるに余りあり。


◎遠野町より釜石に来りて使われし手代あり。当夜の海嘯に、火事だと見違えていきなり倉の屋根に登りしに、火よりも猛き勢いに海水一時に倉諸共に奪い去りぬ。同人は屋根の上に漂流せられしまま、引き去られて、沖合の山側に打付けられ、また引き返されて釜石町の上に来たりぬ。その時、前面に船流れ来りしかば、好き幸いと飛び乗りて漂いしに、また一の大なる帆前船、勢い鋭く遣り来たりぬ。これに打たれては大変なりと、前面に流れ居り屋根の上に復た飛ひ移りぬ然るに不思議にも帆前船は此屋根を押し送りて町の後なる山坂に寄せ付けしかば、天の与えと喜びて樹枝に撮まり助かりしと。
同じく一人の手代十三才ばかりながら、当夜、水を蹴って逃れ出でし時、後より女に手捕られぬ。振り離さんと「モガク」に女中より声掛けて吾を助けぬなら祟るぞ、と言いし。とにかく自分は逃れ出でしが、今に考えてもその声耳にありて、凄味忘れられずと。


◎同町にて北村収敗税属が路傍に老人と子供の負傷しつつあるを見ぬ。問えば、当地の質屋にて、随分の財産家なりしが、自分は逃れ出でしも、残りの者気に掛かり、引き返せしに、長女が水中より頭出して救いを呼ぶに、会いぬ。急いで手を取りしに、爺さん好く来てくれた、吾はこの二弟を助けたいばかりに、腕一ツ脚一ツを失いし。
自分はこれにて御暇申すべし。二弟は助かれば本望なりと言いしに、父はいずれも引き上げたり。二弟は皆気絶して在りしが、背を打ちて水吐かせしに、共に蘇生してけり。姉も暫時生きて居りしが、無残にも翌朝死亡せりと。また、その時、末弟を背負い来たりし時、石垣の間より何者とも知れず手を出して父の帯側掴みつつ、吾れは石の巻の某会社長とかなり。助け下さらば財産は望みに任すべしと言いて離さず。父は子供の手当てに力及びぬる事と謝はりしも、引き落とされて父子共に頭部なり脚部なり非常に負傷せしが、とにかく生き延びるを得たりと涙ながらに語りつつ、この後は如何にすべきと親子途方に暮れ、今に飯をも食わぬ有様故、北村氏は所持の丸飯を出し与えたりと。


◎只越にて磯田ちん(七十歳)といえる老人は、もと籍を遠野に置くも、家内折り合いよろしからざる為にその家を去り、出生地なる釜石に帰り、わずかにその日を送りけるに、海嘯の難に罹り、頭部に負傷し、久しく臨時病院に在りて治療を受け居たるが、慰問者の来るごとに、これに問うに、縁故の有無、保護者の有無を以ってすれば、老婆実を以って答え、かつ口説きけるは、身の薄命にかてて加えてこの災害に逢い、骨肉の看護だになし。さてもこの便りなき浮世に露の命を保たんより、いっそ死んだが増しなりと、前後もわかたず泣き伏しければ、聞く者、為にこれを憐み、金品等を恵まれしという。


◎同町にて人夫等此処彼処と発掘し居りしに、足の下より人の呼ぶ声あり。驚きて屋根材木等取り片付け見しに、箪笥と破材との間に一少女挟まれ居りて、二人の死屍を踏まえつつ、あ■人夫等は材木を切り放ちて救い上らんとせしに、少女は材木を切りては崩れ掛かるおそれあり、止めよ、また頭の上をあるかれては砂が目に入るから手拭を借せ、とて自ら眼をおおいしなど、なかなかの元気者なり。赤十字社員はここに臨み、水に薬を投じて呑ましめ、頓て引き出せり。この日は十八日の晩方なれば、さてはこの少女、三昼夜絶食して蟄伏せしなり。付記す。右少女は白浜の産なるか、海嘯前よりその親戚なる同町白河貞八方に手伝い居りしに、図らずもこの難に遭いたるなりと
ぞ。


◎同町にて福太郎と言える者の妻は、小軽米の土蔵の下に圧せられて死し居たるが、今同所の破材取り片付けの時出張せし遠野警察署長山田警部及び吉田郡役所科長の談によれば、同人は全身泥土の中に埋められ、ただ頭部少しばかりを顕わすのみ。多数の人夫等、手早く片付けんためか、死人を手に触るることを厭いしにや。鳶口にてこれを引き出さんとしけるを、山田警部は人夫等を叱り付け、丁寧に発掘せしめたるに、婦人は子供を背負いたるまま死し居たり。たまたま、その場に十二、三才の子供来合わせたるが、件の死体を一目見しより抱き付き、母様か、情けないこの有様。今一度物言うて下され、と生体もなく泣き悲しむにぞ。傍に見て居る人々も徐ろ哀れを催し、貰い泣きして涙に袖を絞りしとなん。因記す。同小軽米宅裏手の山端より塀土蔵等の下に圧殺せられたる。死体あげて数うべからず。またその惨状、到底、筆紙の及ぶ所にあらず。


◎同町仲町に吾妻孫太郎(三十才)といえる者の死状は尤も其惨を極めたり。巌角破材に打たれしものと見え、全身傷痍ならざるなく、頭部はほとんど形なき位にまで砕かれ、足はまた片肢を残すのみ。その凄しきこと言語に尽くし難し。またその側には、同人の妻も破材に圧せられ惨死を遂げ居たりと。


◎同町豪農・川端己之松は、その居宅只越に在りて、潮勢のもっとも激甚なる処なるが、同人は海嘯を火事なりと聞き誤り、まさに戸外に出でんとする一刹那、身も家族も波に捲き去られしが、自身はいまだ波の来たりて涛の中に包まれ居るに、心付かず。ただ身体何者にか挟まれ身動きもならず。不思議や夢かとばかり思う間に、早や十二神前に持ち行かれしを、川原波といえる処に住める佐々木孫七及び宮本門蔵の両人に助けられて一命を全うせしが、今宮本についてその当時のことを聞きしに、己之助を上陸せしめたる際、同人は五合入りの酒徳利と平膳一枚を携えつつ、ここは全体何処だ。うぬら狐め、巳れを証して苦しめようとしてもその手は喰わぬぞ、などと誣語同然のことを吐き、一向心気落ち衝かざりしが、宮本等が種々の慰言により、ほどなく本気に復せりという。因記す。同家族七人のうち五人を流亡し、一もその屍体を見ず。そのほか雇人四名また影だに留めずと。


◎同町に菊池徳松(廿五才)とて家族十人の暮らしなるが、弟種蔵と自身生き残れるのみ。さて同人常に人に語りけるは、余は世間一般に通じこの悲惨状態は見もし聞きもし、我が家よりも酷しきもの沢山あれば、今更詮方なしと諦めもつくへきなれど、せめての事に骨肉の死体一つなりとも見付かるこみとを得しならば、如何に嬉しからんと。同町にはこの種の類、枚挙に遑あらず。


◎同町にて五十集屋を業とする新沼澤右衛門は、商用にて遠野町へ行きしため危難は免れたるも、海嘯と聞くからに、故郷の妻子は如何ならんと取り敢えず釜石へ馳せ帰り見れば、家屋は勿論、家族一人もその行衛の知らざれば、東奔西走、捜索に従事したれど、遂にその甲斐なし。止むを得ず一七日を以てカラ葬式を営みしが、その後は澤右衛門、毎日の如く墓前に詣りて男泣きに泣きて、われ、今日はかくして暮らしたり、明日はかくして暮らすべしと、あたら生きたる人に物言う如く、特に恩賜金下附の時の如きは例の如く金子を恭しく、墓前に供しつつ、之れは是れ、この度有難くも、両陛下より頂戴せしものなり。余はこれにて汝等の位牌を調度すべし。必ず共に浮かんで給べ。あな懐かしの吾が妻や子、とワッと泣き出す有り様。哀れというも愚なり。


◎釜石警察署の罹災者を挙ぐれば、巡査古川小右衛門氏は溺死し、山口署長、浅野部長を除くのほか、小山勇助、後藤吉蔵、木村恆蔵の三氏は幸eに微傷uりしかば、翌日より救護事務を執ることを得たりと。前記木村恆蔵氏は、先年、征清軍に従い、花々しき功名を樹て凱旋したる。程ありて災後の立ち働きもまた中々目覚ましかりしと全町に称えられたり。


◎同町只越菊池久右衛門は、家諸共押し流されしが、家はグルグル廻り廻りて、そのまま大渡川の末なる鮭漁場の堤防に打ち揚げられ、九人の家族、一の負傷なく、翌朝、鈴子鉱山に出て次いで石応寺に帰れり。同人は災後、区長代理として罹災民救護事務を取り扱われ、これまた全町の好評を博せり。


◎盛岡四ツ谷町の宣教師佛国人某氏は、旅人宿・加藤治方に泊せしが、当夜、海嘯なりと聞きて、急ぎ逃げ出せし。その時、同教会の某といえる人も同じく逃げ出せしに、佛人は、入口にて靴を穿ち居る間に、自身は先へ出でたり。その時、波すでに追い掛け来たりし故、十歩を一歩に馳せつつ後ろ見しに、佛人は二間ばかり後れ来れり。間もなく波来たりて自分の腰及び脚部を甞められし故、一生懸命逃げおおせて、自分はようやく助かりしが、その時、佛人は浚い去られしと。


◎同町にて遊郭の災に罹かりたる戸敷四、曰く花月、曰く梅本、曰く幸、曰く金澤、今その罹災の概況を記さんに、梅本、幸の二楼は跡形もなく流出したるも、人命には別状なし。金澤楼に至りては、家屋の構造も頗る堅牢にして三階造なりしが、激浪いかに触せしにや、下層を浚いて二階三階を残し、抱えの娼妓及び家族の者も二階あるいは三階に上り、多少悪水は呑みしも、柱に取り付くやら欄干に縋るやらにて、まずは一同命を拾いたり。梅本楼は、嫖客夥多来たりて、呑めや歌えやの大騒ぎ中、町方にて津波だ津波だと呼ぶ声あり、その人声に同楼の長女は真っ先に裏口より山手に逃げ、辛くも助かり、楼主・佐野栄蔵夫妻及び次女は躊躇せしため家屋に圧迫せられ、加うるに他家の破材も頭上に蔽わり二進も三進も身動きならず、死を極め居りたるに、翌朝、人に助けられて皆無事なるを得たり。幸楼の如きは、一同早く高処に駈け付けたれば、別条なし。花月楼は、海面と隔離したる地に在りしため、皆逃げ延びて、またまた命に別状なし。


◎同町高橋庄蔵は、激浪のため、花月楼の二階の一間につき込れて一命を助かりしが、右の一間には四人分の御馳走箸も着けずにありしという。


◎同町々会議員・新沼嘉藤治氏の遭難状況を聞くに、当夜、家に在りて愛孫等を相手に昔ばなしをなし居たる折り柄、海嘯なりとの声を聞き、ただちに傍なる二人の孫を両脇に抱え出でんとせしが、怒濤はたちまちその屋を破壊して、孫と共にその下に圧せられたり。翌日、破材を取り片付け見るに、氏は二人の孫を抱きたるまま惨死し、その妻もまた三間を距るの処に横死し居たりと。因記す。同家々族八人のうち、死を免れしは、その長男徳次郎とその妻某ほか一人なり。


◎只越にて猪又亀佐は消防組頭取として、また任侠の人なり。海嘯に際し、己が妻子を助けんと、再び立ち戻りしがため、敢えなき惨死を遂げたり。また同人の兄猪又駒次郎の家は、湯屋渡世にて、当夜は例の如く番台に座し居りしが、怒れる涛に捲き去られ、破材に触れて重傷を負い、一時は人事不省となりしを、誰人かに援けられて、石応寺に連れ行かれ、また、その長男某(九才)も石応寺義善といえる和尚に助けられて、二人共に死を免れたるが、重傷なればとても助かるべくも見へざりしを、医師の巧みに治療せし甲斐ありて全癒したりとぞ。


◎仲町に住む佐野政次郎氏は、明治十五年より同廿五年に至るまで町役場書記となり、また助役となり後、該職を辞し町会議員となり、また寺総代を兼ね尽力家として町内に称えられたり。海嘯当夜は、氏、家に居りて押し流され、身に数ヶ所の重傷を負い、まさに死に瀕せんとせしを、ある人の為に援けられて石応寺に至りしが、苦悶の裡に二日を経過して落命せり。傷ましかりける次第なり。聞くところによれば、氏、助かりて上陸したる際、まず、人はどうした、寺はどうなったかと絶叫したりと。氏は平生、如何に人民と寺とに重きを置きたるかを推知するに足らん。されば災民常に氏を景慕して曰ふ。佐野政が生き居りしならば、今回の如き場合、一層の働きを為すべからんと。アア往事を追懐して及ばず。墓木すでに拱なり。悲しい哉。


◎白浜区の水戸ハル(四十才)は、水戸栄蔵の妻にて、其夫及び老母と娘(十一才)と四人暮らしなるが、逆巻く波に四人一同、家屋とともに押し流され、親を呼ぶも子を呼ぶも何の遑のあらばこそ、見る見る家屋は破壊してアワレ四人は■が下に圧せられつ。折りしも其夜は、咫尺を弁ぜぬ暗黒世界、いずれを何処と確めならねど、積み重なれる屋根や壁、木材等の隙間漏る声は、微かに哀れげに悲しく慄えて物淋し。然るに不思議や、ハルは翌朝人に援けられて上陸せし由なるが、両眼血を■き満面紫黒色を帯び、四肢腫れわたり音声さえうわ枯れてその物凄きことかの四ツ谷怪談のお岩もかくやとばかり思われて二タ目と見得られぬ姿なりしという。悲絶愴絶、付記す。同家族にて生存せし者はハルとその娘某と二名なりとぞ。


◎同区の川端ヒデ(五十四才)はその子酉蔵夫妻及び孫児二人を失い、独り生存すを得たるも、身に大傷を負い、浮世をはかなみ人ごとに語りて曰く。人生定まる五十の坂を越え余命を全ふせんよりは、壮年なる酉蔵夫妻及び孫児等を生かしたらんには、祖先を奉祀し一家の生計さえ立つべかりしを、神も佛もなさけなや、老衰の妾一人を残されしとは。さても如何なる宿世の業因ぞやと、恨み涙に掻き暮れしと。最とも哀れなる物語にこそ。


◎同区佐々木文助(十一才)といえる少年の一族は、その両親及び自身と兄と四人なるが、山なす怒濤は忽ちその家を毀ち、その双親及び兄とを殺したるも、文助の運や強かりけん、文助、裸体のままにて材木に打ち乗り、ここかしこと漂流すること徹夜に及びしも、幸いにもその翌十六日、蘭賀亀松、前川竹松、前川清之丞等、舟を出して屍体を捜索するに会し、遂にこの一行に救い揚げられたりとぞ。余は同文助に面接し、当時の状況を聞糾せしに、文助答えて言う様、海嘯の当夜、父は端午の祝日なればとて、一酌を催し居りし間に、児はすでに寝に就きたるに、何時如何して流されしか、それさえさだかならず。目を覚ませしに、木材の上に在りて浪に揺られしが、流れし者は我れのみと思いのほか、四方に声ありて救助を呼ぶもあり。または死して流るるもあり。凄く恐ろしき事言わん方なければ、児はただただ眼を閉じ耳を塞ぎ、運を天に任せ、流るるがまま身動きもせず、件の材木にヒシと取り縋り居たるに、前記三名に救い揚げられ一命を助かりしも、今や孤独の身とはなり果てたり。心細さの限りぞと悄然として物語りければ、余も思わず嗚咽涙に袖を湿したり。


◎同区佐々木ミワ(二十三才)はその両親及び弟妹四人の家族にして、一同家屋と共に激浪に捲き去られしが、同ミワは海中に漂いつつある木材に取り付き、辛じて九死の中に一生を得たり。然れども、両親及び弟妹四人都合六名を亡い、死体だに発見し得るざりしと可憐■々たる孤独。


◎同区川端勘治は、家族十一人なりしが、次男自身生存せしのみ。他はことごとく海底の藻屑と化し去りぬ。今、同人遭難当時の有様を実見せし者の談話を聞くに、勘治は海嘯翌日より、着るへき衣類とてもなければ、わずかに襤褸をまとい、縄を帯とし、血眼にて狂気の如く妻子の死体捜索に余念なかりしが、遂に一人をも見出さず。果ては疲れに疲れて憮然自失、ほとんど生色なかりしと、一瞬時にして妻子九人を失ふ身に取りては左もありなん左もそうず。


◎同区久保千代吉(五十歳)は、家族十三人のうち男五人女七人の多数を失い、家財はもとより骨肉の屍体をも見る能わず。かてて加えて、己れの身もまた、渦まく波に持ち行かれ、木材に打たれ岩石に触れ、右手に大負傷せしも、幸い助けられて釜石臨時病院に入院し治療を受けしが、常に身の薄命を喞ちけるは、アアわれかの多数の家族を殺し、加ふるに今も居るに家なく、食うに糧なきこの憂苦労、何楽しみにながらえん。思えば生きて甲斐なきわが命。いっそ死んだが勝しぞと嘆き悲しむこそ理り過ぎて道理なれ。


◎同区佐々木義衛といえるは、去年、修学のため盛岡へ出でたるの故を以て、死ぬべかりし命を助かりたるなり。義衛は凶報の盛岡に達するや、己れ心も心ならず。夜を日に継ぎて帰り見しに、這は■も如何に、あに図らんや、生まれし故郷は海嘯に蕩盡せられて残虚をも留めざる惨憺たる有様に、ただ茫然として呆れるばかり。我が住みし家は如何、我が父母は何処に逃げしや、弟妹は惨死を遂げしかと人に問うとも、誰あって知る者なければ、力なく力なく災民等とともに、日々、家族の死体捜索に心身を労せしが、家族八人の中ただ母一人の死体を発見せしのみ。他はことごとく無惨の死を遂げたるが上に、死屍さへ留めずという。因記す。義衛、以上の事を以って村人に向かって悲しみ訴えければ、村人、義衛を慰むるに、御身もしこの地に在りたらんには、この大惨害大悲境に逢うべきに。
去りとは命冥加の御身ぞと、左のみ悔みを述べる者さえなきは、畢竟、一同悲愴の域に沈淪すればなり。以って一般の惨状を想い見するに足るなり。


◎同区前川林蔵(二十五才)は、家族三人なりしが、皆逃るるに途なきより、家屋と共に打ち流され、妻と子はその場にあえなき惨死を遂げたるも、独り林蔵は屋根に取り縋り居り、海岸の近くを見、直ちにこれに泳ぎつきて万死に一生を得たりと。


◎同区佐々木福蔵は、男女四人の家族なるが、一家族ことごと惨死を遂げ、家屋家財全滅に帰せり。


◎同区前記佐々木義衛の如く、他県行きのため死を免れたる者あり。これを佐々木與七と■家族八人を有■大凶変と聞くや、家は如何、妻子は如何と気をいらだち、宮城県出稼ぎ先より飛ぶが如くに帰り来れば、這は■■如何に、家もなく妻子無ければ、東に馳せ西に奔り、せめて屍体なりともと捜索せしが、一も得やらで泣き暮らし居るとは憐むべし。


◎又前記同一様の惨話こそあれ、久保フク(二十二才)妹チウ(十四才)というは母及び姉妹三人のほかに兄一名及び二名の家族なりしが、皆、家屋と共に巻き去られ、無惨の死を遂げしが、前記姉妹は家に在らず。ために死を免れたり。因記す。同姉妹常に言えり。妾もし当時家に在りたらんには、家族の人々と共に海底の怨鬼たるべきを、さても僥倖なる身命かなと、多数の死者あるにも拘らず諦め居れり。惨極まってここに至る者か。


◎同区久保トミ(十三才)は、家族四名を失い、父は大負傷を為し三日間治療せしに、その効なく絶命し、トミは可憐孤独の身となれり。語るも聞くも涙の種ならざるなし。


◎同区蘭賀健蔵は、家族六名のうち母及び妻と子と四人、家屋と共に流亡せり。健蔵も海中に持ち行かれしが、破壊家屋の木材家具等に取り付き、何処ともなく漂流し居るうち、たちまち岸辺を認めしかば、一心不乱に泳ぎつきて幸にも危難を免れしとぞ。


◎同区水戸蔵之助といえるは、老母と妻子七人都合九人のうち、残るは自身一人と男子一人のみ。他は皆、木材に圧せられ、あるは激涙のために無惨の死を遂げたりと。


◎白濱区佐々木ミヨ(三十七才)は、家族十一人の暮らしなりしが、激浪家を捲くとともに、一同押し流され、わずかに六歳の子と自身のみ生存せり。今、その実状をミヨについてて聞くに、その夜は端午の当日なれはとて、酒餅を供して相祝いける折り柄、別に音もなく兆しもなく、俄然捲き取られて、最初のほどは父母妻子も互に声を懸け、水を呑むな、子供は如何、と言い合い居りしに、潰家は他の潰家と衝突し、沖合にて微塵に砕けしをば、ただその柱を便りに取り縋り居たるに、再度の濤は、破材諸具・妾を陸地に篏揚せしにや、我が子を抱きたるまま木材に圧せられ居たり。然るに、幸いにも佐々木万之助なる人、ここに来合わせ、救い上げられ助かりしが、夫も親も子供も、皆死に果て、行衛知らず、わずかに六才の子供を力に、細き命を繋ぎおわんこと、誠に心細き限りぞと涙ながらに語り出でぬ。


◎佐須区佐々木万之助氏は、有志家の一人なるが、家族七人のうちわずかに自身と老母を残すのみ。他は皆、魚腹に葬らる。その老母の話を聞くに、私はとても助かるべき的なければ、ただ念佛を唱えながら、浮きつ沈みつ、人心地なかりしが、いつしか陸上に嵌揚せられ、木材の下に圧せられしを、万之助に見つけられ、種々介抱を受け、ようゆく蘇生せり。また万之助は、海嘯と見るや、ただちに山に馳せ上りて、ここに母子共に全きを得たるは、不幸中の幸いなり。


◎同区にて見るも涙に胸塞がり、聞くも哀れを催す惨話こそあれ、同所佐々木大助の家は十二人の家内にて、平生他に羨まるるほど睦まじく暮らし居たるに、家も人も一塵を残さず海底の怨鬼と化し去るとは。


◎この一部小落中、全家滅亡せしもの三、曰く佐々木大助、曰く佐々木鶴松、曰く佐々木倉吉、その家族の数を聞くに、大助十二人、鶴松六人、倉吉もまた六人なり。


◎同区にて他出して難を免れしは二人にして、佐々木卯之助(二十九才)、佐々木圓蔵とぞ。一は北海道に出稼ぎに、一は宮城県に出稼ぎせしが、海嘯の凶報を聞くや否や、家や人は如何なりしかと、心も心ならず。帰り見れば、以前の形はさらになく、ただ空漠たる荒野と化し去り、ただただ呆然自失するのみ。


◎同佐須にて佐々木惣八は家族八人なるが、惣次郎(十五才)一人を残すのみ。惣次郎、天を仰ぎて嘆じて曰く。
昨日までは多数にて御飯を食べしが、今は飯さえ炊き得ぬ悲境に陥り、私一人となり、行く先どうしたらよかろうとしおれるも無理ならず。


◎白浜区佐々木鉄蔵は家族六名なりしが、母及び妻子三名を流亡し、自身またこの死亡者と同時に押し流され、しばし沖合に苦しみ居りしに、たまたま身辺近く漂流し来たる船あり、鉄蔵はかくと見るより勇を皷して泳ぎ着きしに、櫓もなく櫂もなきより、百方心を砕きし折り柄、竿の如き物流れ来たらば、これ幸いと拾い揚げて櫂に代え、辛うじ
て岸の一端に漕ぎ付け、九死の中に一生を得たりと。


◎平田区々長兼町会議員・久保亀太郎氏は、家族三人、ほかに数人の雇人をも使うほどの豪家にて、家宅の構造もしたがって巨大なりしが、水面に枕みたる場所なりしを以って、一回の波にたちまち捲き去られ、四百間余の沖合いに至りぬ。一同は苦悶の裡にも生を得んと、一生懸命柱に取付き居たるに、第二の波は家屋を粉末塵に砕き、ここに同氏の母及び妻及び老婢某とは死別となり、同氏はなお死にやらで、浮きつ沈みつするうちに、赤崎富右衛門の家流れ来るを以って、その屋根に打ち上がり、ホッと一息吐く間に、屋根下にて人声あり。同氏は屋根を剥ぎて見るに、富右衛門及び同人の母(七十余歳)娘(二十歳余)、三人屋梁に取り付き居たれば、ただちにこれを屋根に引き揚げ、たがいに声を掛け力を付けつつありしが、またも何処よりか流れ来たる久保市太郎(十一才)といへえ少年も泳ぎ着きて、屋根に上り、一同は岸辺に近くを待って泳ぎ出し、萬死に一生を得たりとぞ。附記す、久保氏は災後、己れ独身の悲しき境に陥りしにも拘はらず、同区災民救護の事に尽力せしかば、災民等は今に至り同氏を徳とし、常に敬事し居るとなん。


◎前記赤崎富右衛門母子三人が、久保氏のために屋上に引き揚げられし後、図らずも朦朧の中に岩辺を認めしかば、他の人々は皆水練の素あれば、たちまち彼岸に泳ぎ着きしも、富右衛門の親娘は素よりか弱き女の身とて到底泳ぎ得べくもあらず。今は富右衛門、全く恩愛の絆に縛せられつ。己れ一人生き延びんか、親と娘いかに、管なく思うらん。三人手を携えて相果てんか、夫も詮なし。如何はせんと千々に心を砕きし折りも折り、沖合いは鳴動益々激しく、今にも再び海嘯襲い来たらんずる有様に、富右衛門はたちまち意を決し、よし娘がことは是までなり、天、運に任すべしと、すなわち己れは老母を抱きて水に投じ、一心不乱に泳ぎけるに、天道もその孝を憐みてや、母子ともに全き
を得たり。なお後にて聞けば、残されし娘は久保等の手に救われ、親子三人、再会の喜びを祝しけるとぞ。因記す。
富右衛門の妻は、二人の女児を携え、逃げ出せしも、不幸にして溺死せりという。


◎同区久保保太郎は、家族七人のうち女四人男二人溺死、自身のみ生存せしが、大負傷して病院に入り治療中、その医員等に向かって、私はとても世に望みなき身となり果てましたから、いっそ殺して下さいと、かえって死せざるを嘆ずる有様なりし。


◎同区にて佐々木留之助(四十五才)の家族は、その妻(五十五才)のほか子供四名、ほかに姉の子一人、都合七人なるが、元来家貧しく、留之助の手一つにて朝夕の煙りさへ揚げかぬるほどなりしが、海嘯のため小供四人と姉の子とは惨死し、自身は重傷を負い、妻また軽傷を被り、日夜泣きの涙に掻き暮れし。当時の哀れさ、今なお恍然目に
在り。


◎同区佐々木留助家族四人のうち十二才を頭とし三才の小児を残して、自身のみ惨死を遂げたれば、近隣の人々にも圧し、親は置き去りし子供のために冥土にて迷ひつらんと憐憫を加へ居るとぞ。


◎同区木下小平は、家族三名なりしが、家屋も家族もその跡を留めず。また久保重吉(二十二才)は家族八人のうちその弟(十五才)を残すのみ。他はことごとく溺死。いずれも同じ惨の惨。


◎同区小学校教員・照山某は大酔して前後も知らずにグッスリ熟睡し居たる折り柄、海嘯の押し寄せ来たりしかは、妻が某を呼び起こし置き、己れまず外に逃げ出したり。然るに、某は一旦目を醒ませしも、酒に酔いし癖とて、そのまま又も眠りに就き、かかる危急の場合を夢にも知らずして、浸入し来たれる海水に、浮きつ沈みつ板の間に転々しありたる末、ようやく目が醒めて、それと心付き、宅外に飛び出せしが、最早やこの時は退水後の事とて、その身は別状無きを得たりしも、かえって早く逃げ出したる妻は、押し流されて溺死したりという。


◎同区に十四五才ばかりの一少年あり、凶変起こると見るや、周章して家を出でたるに、激浪滔々、前面を圧し来たり一歩も歩むべからず。たまたま一杉樹を認め、これぞ屈竟と猿の如くよじ上り、まず安心と思う間もなく、濤たちまちここに及ぶ。少年驚きてまた上ること一段、かくなること数回、身は樹梢の細枝に在りて、浪ようやく退くを待ち、樹を下り一命を全うするを得たりと。


◎同区区長にて剛直の聞こえ高き前川勘左衛門氏の居宅は、頗る堅牢にして高所にありしかど、家屋は一層の高地なる畑に持ち揚げられ、弟一人娘一人ほかに妹の子男女各一人を流亡し、残るはその半数四人にして、これを他に比すれば、やや災の軽き方なりしは不幸中の幸いとや言わん。附記す。同氏、爾来、寝食を忘れて災民救護に従事し、その夜より焚火の斡旋、負傷者の介抱、焚出、飯等の世話、おさおさ怠らざりしかば、区民一般は今に至るまで同氏の恩徳に感泣し居れり。


◎同区佐々木松之助は、両親を亡い妻を流し、娘一人男子一人を亡うて、残るは自身独りのみ。他は皆、海底万尋の藻屑となりしと、悲凄言語に絶す。


◎同区水戸孫太郎は、祖母及び叔父の家族六人、都合七人を亡い、残るは自身と叔父の娘一人のみ。また蘭賀亀松が家族八名のうち六名を失い、生存する者わずかに二人、また久保久四郎家族四名のうち残るは自身のみ。前川千代松は、妻及び娘二人を亡い、自身また負傷して万死に一生を獲たり。佐々木助松は、母と姉と自身のみ残り、川端吉次郎は、母子二人ほかに男子一人を流亡し、残るは幼年の子二人と自身。久保伊勢吉は、家族十三名のうち七名の多数を失い、生存する者六名。


◎中村重兵衛は、家族六人のうち残るは自身のみ。母も姉も妻も娘も弟も、皆惨死せり。重兵衛は辛うじて一命を拾いたるも、身に数ヶ所の傷を負いぬ。殊にその当時、貌相蒼黒色に変じ、その物凄きこと院本の小幡小平次もよろしくにて、人々、正視に堪えざりしとなん。


◎中村若松(五十余才)は、家族四人のうちその妻及び長男夫婦を失いしが、この老爺、余に語りて曰く、今ぞ浮世に頼みも綱も切れ果てし。身の因果、この後生き存えんこと望ましからねど、長男夫婦だけは助けたかったと、老いの繰り言繰り返されて、余思わずも涙?然たり。


◎佐々木千之助は、家族六人一塵をも留めず。皆不帰の鬼となり果てぬ。しかも就中、その死体の凄かりしは、千代助にて、頭部より顔一面にかけ皮剥げ肉顕われ、肘折れ骨砕け、全身傷ならざるなく、しこうしてその打撲せられたる部分は紫斑色なるあり。黒斑点を留むるあり。実に目も当てられぬ有様なりしと、翌朝、同死体を引き揚げたる人
の談、聞くも酸鼻の極みなりけり。


◎同区にて不思議にも助かりしは、佐々木保太郎(旧区長)の家族と佐々木松五郎の一家族なり。両家共に海面に近きところにて、保太郎の家族は付藉者共に六人なるが、家屋は微塵に砕かれたれど、各々思い思いにわずかの隙を見ては破材の間を潜り、匐い出て遂に一人の怪我さえなく、無事生命を全うせしは、実に幸福の又幸福なりと謂いつべし。また松五郎の家族六名は、海嘯の襲来第一に押し流され、屋根の上に在りて、たがいに力を付けつつ漂ひ居たるが、ややしばらくありて、屋根も激浪のために散々に離れんずる様に、一同は是までなりと念仏合掌、死を極め居たる折り柄、思いがけなく一艘の舟、傍近く流れ来れり。あな有難しと、一同はこれに飛び乗り、岸に達する
ことを得たりと、是また僥倖中の僥倖なるもの。


◎小袖若松は、家族八人のうち五人を失い、残るは幼き男女二人のみ。今、若松の死体を見し人の話説に、同人は頭部より耳下動脈にかけ、痛く打撲されたるものと見え、耳脇より甚しく出血しありたれば、傷を負うて間もなく絶命したるものならん。また長男夫妻は小宇石浜といえるところに漂白し、四日目に発見せしが、両人共に腹は海豚の如くに膨れ上り、その他の箇所も甚しく変相し、人間の化物かと思はるる程なりといえり。


◎同区小学校訓導佐野和男氏の遭難状況を聞くに、同氏は平常、校内に寄宿し居る■■■て,その夜は川崎酉蔵の悴、訪れ来たりて何事をか同氏に依頼せしかば、同氏も早速、承諾なし、したがって同倅も立ち帰りたる後、氏はまさに寝に衝かんとする時、地震に伴い来たる海中の鳴動に、不思議やと戸を排し出でんとする一瞬間、渦まく波は学校を押し倒して山路の方へ打ち揚げたるが、天幸いにも破材の一端は山路によりかかり、橋を架したる如くなり居たるより、氏は件の破材を伝って高所によじ上り、かがり火を目当てに同区の庵寺に駈け込みて、それぞれ僧侶等の介抱を受け、ここに一命は助かりたりとぞ。因記す。同学校は渺茫たる滄海に瞰み、いわゆる海を枕にすというの位
置に在れば、第二回の波にて一塵をも残さず呑却せられしという。

鵜住居の部 両石、根濱、箱崎、白濱、 片岸、水海、仮宿、室の濱

◎両石区坂本福松一族は、第一回の波に家屋もろとも漂盪せられしが、第二回の差汐に家屋は大壊して横水といえる白洲に打ち上げられたり。当時、福松は娘きく(十一才)を救はんとて、必死の力を出して屋根裏の梁に身を容るる程の穴を鑿ち、ようやく娘を屋根の上に押し上げしも、その際、自身は足部と助部を太く木材に喰い挟まれ到底這い出ずべくもあらず。ただ精神を焦つばかりなり。娘のきくは涙ながらに屋根の穴より父を窺きつつ「アツチャな(父の方言)早く出て助けて下さい」と呼べば、下なる父、苦悶の中にも娘に力を付け「アッチャは今助けてやるから待ていな」と答う。かくたがいに言葉掛け合うと、六、七回なりしが、今は父の身体も弱りけん。声は霜夜のこうろぎ同然、絶え絶えにて「アッチャはモーとても及ばないよ」の一言を残して事切れぬ。なん■う哀れなる話ならずや。附記す。娘きくは翌朝七時頃、村役場吏員に助けられ、その知辺のもとに身を寄せたりと云う。


◎同区にて先年、横須賀に水兵をも勤めたる小嶋菊松といえるは、海嘯当夜、その妹と共に日頃入念にせる今出喜左衛門方に行き、同家の娘マツ(二十才)と三人にて一間に入り、若き同士の掛構なき談話に笑い興じ居たる折りから、ふと海嘯と聞くより、菊松逸早く妹とマツの手を取り屋外に連れ出したるに、同家の主人喜左衛門、この場に駈け来たり、三人を見て言うよう、我が家は元来、両石中屈指の瓦屋なれば、海嘯位に押し流さるる気支えはなし。かえって逃げだして怪我せんよりは、我が家に引き返すべしとて、己れは先に立ち、彼の二女子をも伴い入ると均しく、激浪襲来して喜左衛門と該二女及び一家族家屋と共に押し流され、敢えなき最斯を遂げたりけり。然るに、ここに僥倖にも、脛さえ潮水に湿さずして生き延びたるは菊松なり。同人は前記の如く、喜左衛門が我が実家に避難せよと進めたる際、己れは我が家に立ち戻らんか、喜左衛門宅に入らんか、如何はせんと二の足を踏みつつ暫しためらう折りから、忽ち狂瀾の家を流すを見、驚きて山手の方へ駈け上り、かくは一命を助かりたるなりとぞ。


◎同区にて泉澤長之助の妻某は、当時、夫長之助が北海道出稼ぎ中にて、その留守を預り居るものなるが、海嘯と聞くより、己れ真っ先に家を飛び出し、高所を指して逃げ延びんとする途中、己が朋輩なる坂本シマに出遭いぬ。その時、シマは某に向かい、我々このまま逃げたりとて、一粒の米だに持たねど却て命の親に離るる同然。されば、これより再び家に帰り米など運び出さずやと進めに、某もその気になり、共々我が家に向かい行きたりしが、■地に来たる怒濤は用捨なく二人を海中遠く持ち去りぬ。また幸崎福太郎の母ヤス(六十余)は、海嘯と見しより、孫の福蔵を抱き家を駈け出したが、途中にして欲心を惹起し、家具の一草も運ばんと再び我が家へ取りて返すや否や、逆巻く波に孫もろとも押し流され、空しく海底の怨鬼となれり。また山崎林蔵といえるは、家内の人々の頻りに逃げよと勧めたるを耳にも入れず、家財道具を二階へと運ぶ途端、前記同様の最期を遂げぬ。恐るへきは欲なりけり。


◎同区にて澤口儀助の妻カン(十八才)は、容色の美、両石第一と称せらる。海嘯後二日を経て、その屍体を発見せり。屍は小丘に篏揚せられ、端しく横はりつつあり。しかも屍に一点の疵痕を留めず。また泥砂にも染まらず、宛然、生時の如くなりしといえり。


◎鵜住居村役場助役・澤口舛吉氏は、凶変当日は恰も当直の番に相当たりしことなるが、氏はかねがね同夜を以って両石村の友人高橋教員等と会合することに約し置きしかば、代直を収入役の沼崎忠四郎氏に委託し置き、自身はそれより鵜の住居を発し、点燈頃を以って両石に着し、まず兼ねて知り合う某家に打ち寄りて、高橋教員を招き相語らい居たるところへ、これも一友人たる同地医師白木澤孝方に雇われ居る薬局生・内藤某も来合わせ、三人一閣となりて酒肴など取り寄せ、盃を献じつ酬されつ、面白可笑しく飲み合いし折り柄、彼の大砲の如き響きとともに大海嘯は俄然として迫りたれば、三人は周章狼狽、散々になりて避難したり。即ち内藤は同家の二階に上り、澤口氏は鵜住居指して平地を一目散に走りしが、両人は遂に激浪の襲うところとなり、敢えなき惨死を遂げたりしも、独り高橋氏は山手へ駈け上りたるため無難なるを得たりと云う。


◎同区開業医白木澤孝氏について被害当日の景況を問えば、曰く、当夜患者の家に出診し、帰りて席に就くや否や、百の砲門を開きしかの如き響きして海の湧くを開きしかば、さてこそ海嘯かと呼びも敢えず細君の手を取る。この時遅く彼の時早く、数十丈の洪涛天を蔽ってきたり、今は我が一命危うければ、急ぎて屋根に飛び付きぬ。然るに、一
枚の板子剥落し来て、氏を助くる者の如く之に取り付きて波の間に間に海へ送り出され、翌日十時頃、初めて救助せられて一命を拾い得たり。然れども、全身殆ど傷ならざるなし。


◎箱崎四部落(箱崎白濱仮宿桑の濱)に在りて最も惨状を極めたるは、桑の濱とす。桑の濱は(潮高四丈)全部十一戸。一戸も残さず流滅し、人員七十名の内、ただ僅かに十二名生存するのみ。次に箱崎本部は、戸毎漁業のため、部内字大仮宿夏鮪網へ出稼ぎし、且つ、当時、捕介の業を手伝わせんとて、各妻女を携え行きたることとて、死亡者八十有余の多きに至れり。また仮宿の如きは(潮高六丈)流失ただ一戸なれども、溺死者九名あり。白濱(潮高八丈)は、流失五戸、半壌六戸に過きざるも、溺死者十三名、ほかに寄宿人三名を出せり。しこうして死体発見せしものは、白濱にて三分の一、仮宿にて二人、桑の濱にて同二人なりしという。


◎箱崎小学校訓導栃内泰吉氏は、同校奉職以来、人望いよいよ高く、良師としてその生徒父母に厚く尊敬せられしが、今回の凶変に家族八人のうち老母とその娘トキ子(十八)二人を残せしのみにて、他の六人はことごとく無惨の死を遂げたり。却説海嘯の翌(日)、箱崎区長前川徳蔵氏は、死体捜索のため磯辺を徘徊する折りから、たまたま栃内教員が御聖影を高く両手に捧げたるまま、半身は泥砂の中に埋没せられ、これに加え重傷を負い、気息喘々として垂死せんとするあり。斯々と見るや、区長は直ちに駈け寄りて同氏を扶起し、海水にて全身の汚泥を洗い去りたる上、自らこれを背負いて山手なる無難の家屋小川忠四郎方に至り、一室内に安臥せしめたるに、栃内氏はしばらくして苦しき息を継ぎ、区長に向かいて遭難当時の次第を語り出でけるは、余は昨夜、海嘯と聞くからに、家族等を警めてまず第一に母上をいたわり、共に早くこの家を逃げよと叫びながら、一同を門外に出したり。それより余は校内に安置したる御聖影を紐にて固く身にまといつ、今や戸外に出でしと思う間もなく、黒山の如く濁浪飛び掛かり、脆くも余はその間に没せられたるが、その後は、海中遠く押し流され、浮きつ沈みつ材木に撲たれ巌角に触れ、苦痛煩悶少時も措く能わざりしきか。身体の疲労と共に人事不肖となり、遂に礫砂の上に打ち揚げられんとは知らざりき。さはあれ、余は彼の際、戸外に出づるまでは六、七間隔たりたる間に、家族等の声にて、父上早く逃げ給えと頻りに呼ばわりしを耳にせしが、さてこそ彼等、余を助けんとて、かえって無惨無惨、横死を遂げしならん。いとおしさよと、悲嘆の血涙両頬を伝う。その折りからに、彼の生き残りし老母と娘、父存命せりと他所にて聞き伝え、急ぎて同家に駈け入りしが、今しも傷病に悩み居る栃内氏の左右に取り縋り、物をも言わず泣き出せしは他所の見る目も哀れなりし。かくて同氏の重傷死旦夕ベに迫りたる有様なれど、何を言うも僻地の悲しさ、医師を呼ぶの便なきに困じ、止むを得ず前川区長は一時の気付けにもとて、己が持ち合わせの熊の胆等服さしめ、種々介抱をつくせしかど、その甲斐もなく、遂に翌十七日の夕刻に至りて落命したりという。付記す。栃内氏捧持し奉りし御聖影は少しく泥砂に汚し奉りし箇所あるを以って、村内有志者協議の上、一時これを内務省に奉還することに決したる由。
 此事に関し国民之友と国民新聞は議して曰く 聖影素より尊むべし。然れども、人命は更に尊むべし。
 聖影は幾十枚を製り得べきも、生命は復た製るべからず。如かず、生命を全うして忠をくすに、是れ 聖旨にも適ひ奉るべきにと四方より論難の声頻りに起こる。必竟、民友社の説は 聖影を以って物質的一葉の写真を見しに過ぎざればこそ、かかる謬見も起こるなれ。蒼生が主上を敬虔愛慕するに当たり、あに生命との軽重を問う遑あらんや。菅公の恩賜の御衣に対し奉りし心情を推察すれば、思い半ばに過ぎんと小国民は反駁せり。


◎小林幸助は家族六人の内自身一名生存せしのみ。ほかは皆、全滅せし。但し、幸助は、凶変当夜、釜石町に在り、某青楼に登楼ありたるため、独り危難を免るるを得たり。


◎区長前川徳蔵氏の居宅は水面より一丈五尺余の高地に在り。故を以って浸水僅かに縁下一尺内外に及び、ために無事なるを得たり。然れども、同氏の養子両太郎及び同人妻は、大仮宿網に在りしため、夫妻共に溺死を遂げたり。


◎同区植田春松の長男伊勢蔵は、凶変当夜、釜石町なる佐須夏鮪網に在り、第一回の波に海中遠く打ち投げられしが、間もなく再び寄せ来たる波に身は磯辺へと■揚せられ、幸いに一命を助かりたり。然るに、その実弟勘三郎(十七才)という健気なる少年は、大仮宿の店主に在りたるが、これも第一回の波に三貫島沖合まで押し流され、その後は暗中潮裡に浮沈し、数多の苦楚を甞めける中、たまたま一艇の櫓漂流し来るを、ありがたや是ぞ弘誓の船と頼みつつ取縋りてホット一息、身体の疲労を休められより、片手に件の櫂を抱きかかえ片手を以って櫂の如くにあしらいながら漕き出せしが、遂にその翌十七日の朝、仮宿へ達したりとぞ。兄は苦もなく陸上に打ち上げられ、弟は海中に漂い、共に助命す。また一奇と謂う可し。


◎白濱なる東福松の一族は、悉く海底の藻屑と化し去りぬ。福松の次男福次郎は一旦小阜に馳け上がりて助かりたるも、父母弟妹を呼んで再び足を我が家に返したるにより、共に横死を遂げたるなりと。


◎白濱区長佐々木仁七郎氏は、凶変当夜、潮水のようやく退くを待って、船二艘を出し、鹿子六名を指揮して人命救護に尽力せしが、多くの漂流者すでに溺死を遂げじと、切れたる後にてありしにや、ただ木材等の頻りに流れ来るに遭うのみ。絶えて人声を聞かず。わずかに寅蔵なる者一名を救い上げて帰れり。これより先、同氏は第一回の海嘯襲来の際、その親籍なる佐々木善之助方の家族を助けんものと馳せ至りしに、この時早や同家は押し流されて十間余を隔つる沙上に在り。かくと見るより、同氏は勇を皷してここに駈け付け、潰れ家の内よりマツエといえる病婦を背負い出して高所に運び置き、またも引き返して駈け込む途中、第二の波は襲い来たり、瞬く間に同家を持ち去り、氏もまた遂に家族を救うに遑あらず、路傍の桑の木によじのぼり、辛うじて一生を得たり。然るにり、当夜は同氏の長女タツ(六才)が、かの善之助宅に遊びに行き、一室にスヤスヤと寝て居りしが、これも彼の家族等と共に無惨無惨横死を遂げたりしと言う。


◎同区なる佐々木千之助は、家屋もろとも押し流されしが、辛うじてようやく屋根の上によじ上り、ひたすら人の救助を待ち居たる折柄、傍より叔父さん助けて下さいと這い出でたる十二、三才の娘あり。千之助振り回り見れば、正しく我が姪のトラ(十三才)なり。千之助、声を揚げ、トラか今助けて遣るぞと、今や我が傍へと引き寄する一刹那、第二の波は来たって両人共に奪い去られしが、千之助は三回目の波に浅瀬に打ち揚げられ、足部に大負傷して喘ぎ居たるを、佐々木與七郎なる者、これを認めて同人を陸上に抱き上げ、遂に一命を維ぎ得たるも、さて憐むべきは姪のトラにて、横死を遂げたる上、今に死屍さえ見出さずと言う。


◎仮宿の財産家浦嶋與平治方にては、家族十一人のうち六名溺死し、これに加え殆んど一万円近き財産をも、一瞬時に滅却せられたり。然るに海嘯当日は、あたかも同家の苗植えにて、殊に繁忙を極め、家族は日暮れてようやく夕飯の膳に打ち向かい、今しも箸を取らんとする時、俄然、大海嘯に襲われ、一同は家屋と共に押し流されたるが、ここに與平治三番目の弟與助というは、客歳第二師団付きの兵士となり、征台の軍に従い、砲烟弾雨に馳駆し武勇を顕はせし功に依り、勲八等桐葉章を賜わり、芽出たく凱旋せらる軍人なるが、同人は当日朝来より感冒の心地とて独り二階に登り睡眠し居たる折りから、潮水の烈しく雨戸を蹴きて浸入せしかば、同人は床を跳ね起き、直ちに裏屋根を破りて這出でたり。かくて同人はようやく屋根に取り縋り居りしが、漸々潮水の退却するを見すかしモーこれで大丈夫と独言しつつ、しばらくして屋根伝いに下り来たりたるに、図らずも同人の妻及び実兄與平治下■のマツ及びヤス、食客の丑松等ここかしこより顕れ出でしかば、同人は一同をいたわり、一纏めとしてまたも潰れ屋の間を踏み越え踏み越え陸地を指して進む程に、忽ち藪武の間に当りて、同人の長子松右衛門の呼び声あり、駈け付け見れば松右衛門屋根と屋根との間にちいさくなって佇み居たるにぞ。早速、これをも抱き上げ共に上陸せしが、幸いに何れも負傷はせざりしとぞ。


◎室濱の佐々木春松の娘フヂ(三十才)は、人に助けられて首尾よく上陸したるも、大く濁水を呑みたるため満身はあたかも数日を経たる屍体の如く水腫となり、哀れや遂に翌日の午前十時頃、あの世の人とはなりたりとぞ。


◎片岸の佐々木元吉の遭難の顛末を聞くに、凶変当夜は、息子の庄八は外出して家にはただ己れと妻と娘三人中睦しく語ひ居たるに、忽ち海嘯の音を聞くや、元吉は先ず早く娘と妻を戸外に推し遣りたるのち、己れも身支度して今や縁先に出でんとせしに、この時遅くかの時早く、濁浪は戸障子を破って浸入したるが、元吉忽ち水に押されて後へ倒るる途端、端しなくも、爐上につるせし釣鍵に手の触りければ、これ幸いとこれにタグリ上りて一生懸命救助を呼ばわりぬ。然るに、この際、息子の庄八何処より如何にして推し流されしか、我が家の裏の杉樹に挟まれありしが、庄八、父の悲鳴を聞くより、件の杉樹を伝うて屋根に這い上り、しばらくして、ここぞと覚しき箇所に穴を開け、下なる父を引き出し、退潮を待って両人共屋根を下り山に馳せて、危うき命を拾いしとぞ。

大槌町乃部 安渡、赤濱、吉里吉里、波板

◎大槌町は、大海嘯の当日は同町出身凱旋兵のために祝賀会を南端海岸の洲崎に開き、余興として多くの花火を製造し、昼は海中に船を浮かべて狼煙を天に漲らし、夜は会場付近においてこれを打ち揚げたり。されば全町の有志家は、朝来の雨を厭わず、子女を伴うて会場に参集し、名誉ある兵士を款待し一同興に入りて夜の八時頃となれり。而して花火は第四発目を打ち揚げ終りぬ折り柄、沖合いに当たりて百雷の一時に落つるが如きを聞き人々奇異の思いを為すうち、地震を感ずると、同様に第二回の海上鳴動を聞きぬ。此度は第一回に比して響きの高きこと幾層倍、もしや海嘯には非ずやと疑う間に、浜辺に在りし人の叫びとして海嘯海嘯と声を限りに呼び立ちぬ。果然、大海嘯は大山の崩れ来る如く、極めて速かなる勢いを以って襲い来たれり。アレヨと驚き逃げる一刹那、狂瀾は洲崎の祝賀会場を一蹴して市街の東南端なる大須賀を衝き、直ちに本町通りの八日町に出でんとす。アワヤ大槌市街は、釜石同様、至大の惨状に陥らんとせしに、八日町の隅に海産物の豪商古舘武兵衛氏の大土蔵と其居宅の厳然これを支うるありしかば、狂瀾これがためにその勢いを殺がれ、一は市街の南方裏手を払うて西端の四日町に出で、一は市街の北方を走りて大須賀の全部を破壊せり。大須賀には四戸の妓楼ありて四戸共に破壊したれども、娼妓等は二階に居りしため辛くも一命を助かりたり。また州崎には五箇の水産物製造所ありしかど、跡なく破却せられて一物を留めず。したがって当日の名誉員なる近衛一等軍曹佐々木留吉(白色梧葉章勲八等)海軍兵中村芳太郎(勲八等)の二人は、共に碑姻雨を冒して目出たく錦を故郷に着け空しく海嘯のために、あに酸鼻の極ならずや。


◎同町医師石井道生氏の息子満月(十一才)といへるは当夜烟火見物に行きたる矢先、激浪に押されて白山崖下に持ち行かれしが、端しなくも小柴の手に触るるありて、これにシカと取り付き居て、僥倖にも二つなき命を繋ぎ留めたり。同人について遭難当時の模様を問いしに、彼の小柴に取り付きたる際、引き汐は勢いを籠めて余を引き凌わんとし、余は凌われじと悶きし其時は実に身の細り行く心地して、今に思い出す毎に、慄然毛骨を立たしむと言えり。


◎同町にて馬喰を業とする宇助といえるは、凶変の当日、激浪の中に漂わされ、辛うじて樹梢に取り付きながら一生懸命助けを呼び、頼まぬ神もなかりしが、第二の波はまさに寄せ来たらんとす。ただ見れば樹下一匹の馬あり、方向を失いうろうろせるを、宇助はいち早く樹上を飛び下り、件の馬に乗び跨り山手の方へ駈け延びしかば遂に馬も人も無事なりし。


◎同町大槌大砂賀賃座敷佐々木末吉は、海嘯の当日、安渡にて與行したる軍人凱旋祝宴会先より太く酩酊してその家に帰り、下座敷に臥し居たる折り柄、海邊の方鳴轟々響く物音にスハ海嘯よと、家内の者ども周章狼狽酔倒したる末吉を揺り起こす間もあらせず、見る見る激浪は怒号しつつ戸障を破りて浸入しければ、這は及ばずと、家内一同、二階へと馳せ上るに、またもや増水して水は二階より二尺余も高く浸入し、箪笥、畳の類、ポカポカ浮き出す有様に、一家十三人(このうち抱娼妓六名あり)は、二階の欄干にしかと縋り付き、ひたすら神仏の加護を祈念するうち、家はあたら廻り舞台の如くグルリグルリと廻りつつ何処ともなく推し流されつ。この時、同大砂賀の漁師松助といえる者、その母を背負うて我が家を逃げ出したるが、途中にて怒濤のために母を引き奪われ、一身辛うじて末吉方二階の廡に取りつきたるところへ、続いてまた同松助の妻ソノは、二歳許りの乳呑児を背負うて流れ来たり、これも同じく廡に取り付き、今や二階欄干によじ上らんと■す一刹那、背中の子供は逆巻く波に引き取られ、ヒーと一声啼音を残して忽ち見えなくなりたり。末吉はかくと見るより、件の夫婦二名を二階に引き入れ、それぞれ介抱し疲労を慰め呉れたるは、誠に感賞するに堪えたり。末吉に一男二女あり、男の児を一三(十五才)と呼び、姉をサキ(十七歳)、妹をツチ(六歳)という。一三は海嘯の起こりたる一時間前、近隣に遊びに行きたるまま帰宅せざれば、姉のおサキは最期の際には弟を案じ言うよう、一三はとても命は助かるまい、私はモー死ぬと覚悟は極めているから善いけれど、一三だけは助けたい助けたい、とワット泣き出せば、末吉の背中に居る頑是なきッ子の児も、そんなら兄さんは死んだのかい、オイラは死にたくないなァ、これからワルサをしませんから、親父さん助けて下され、親父さん、とシクシク泣き出す声聞く。末吉の胸は如何ならん、思い遣るだに哀れなり。かくするうち、浪はいよいよ怒りて家はミリミリと破壊し始めたれば、一同は死を極め念仏合掌せし。折りしも図らず八日町裏手なる笹勇方の倉十間程先に見えたるにぞ。(軒提灯を掲げたる儘流れたる故、この光りを以って認めたるなり)一同は始めて陸地に引き上けられしことと分かり、ここぞ一命の助かるべき好機会ぞと、なおも一生懸命声を放って救助を呼ぶ程に、幸いなるかな、ここに来合わせたるは四日町の赤崎又助及び釜石町の東海忠五郎の二人にて、二人はかくと認むるより引き汐を窺ってこれに駈け付け一同を救助したりとぞ。而してまた既に死したりと思いたる末吉の小供一三は、前記の如く近所に遊び居たるが、海嘯と聞くよりも直ちに山手の方へ駈け上がりて一命を助かり居て、かえって我が家の人々流亡せしならんと憂慮し居りしに、不思議にも父子存命、再会を得しは誠に目出たき限りなるも、ここに哀れをとどめたたるは、末吉一族を救助したるかの東海忠五郎の身の上にて、即ち同人は大凶変ありし翌日、その故郷釜石町へ往き見れば、全家流失、家族は一人も残らず無惨の最期を遂げ居たりと。


◎同町の窪地榮太郎(十七才)といえるは、三年前より山田町の米穀商平塚又八方へ行き、手代奉公を勤め居るものなるが、かねがね榮太郎は夜遊びをする癖あれば、海嘯の起こる一時間前の夕刻、主人又八は榮太郎に向かって、今夜は用向きもあるなれば、決して夜遊びをすることならぬぞと固く言いつけ置きたるに、榮太郎はその時ばかりはヘイヘイといえど、例の遊び刻限か来て見れば、独り家にジッとして居ること叶わず、その夜、遂に隙を窺って主家を飛び出し、近所近辺を遊び回るうち、思い掛けなき海嘯の襲来に主家の家族残らず流亡せしに引き替え、榮太郎のみは夜遊びが幸いとなり、山手の方へ逃げ延びて一命を拾えり。また古館武兵衛方の奉公人澤館徳助というは、平生忠実なる性にて、能く主人の命を用い勤めるより忠義徳助とまで称えられたる者なるが、海嘯の当日、主人の命をうけて小枕といえる所まで使われて行きたる途中、はしなくも激浪怒濤のために二ッなき命を奪われぬ。この日は旧端午のこととて、町内一般業を休んで相祝う日なる故、他の者ならんには事に托して主命を拒み行かざりしものを、徳助の死は正直に主命を遵奉したるより起因したる不幸というべし。次に安渡の其は思慮人に勝りて経験さえ積みたる人物なるが、海嘯の来たりしとて人々騒ぎ立つ中に、己れは落着き払い悠然と煙草をくゆらしつつ、海嘯というものは大地震のありし後にあらざれば決して来るものにあらず、海中響きの音は海の荒れたるものならん、心配するに及ばず、と家内を制しなだめ居りしに、だしぬけに潮水家に被り、果てなき最期を遂げたりしは、今より四十年以前の海嘯に徴しての言わば経験上の過失なり。また西閉伊郡遠野町(無海の土地)の荻野清蔵といえるは、数年間、安渡に家族を引き移し、酒屋を商売となし居たるが、同人はかつて海嘯というものは火災より恐ろしきものと聞き居るものから、それというより少しも躊躇せず一家族を追い立て引き連れて二渡リ神社(平地より二丈余の高阜)へ逃げ延び、一同危難を免れしは、これぞ海馴れぬ不経験の結果ともいうべきか。そのほか、当町八日町(無難の土地)の道又新助は、山田町の実兄病気のため見舞に行き居りたる矢先き、海嘯の難に遭い、生くべき命を失ない、また釜石町(罹災の町)場所東梅忠五郎は大槌町へ用達しに来て、死すべき命を生き延びたり。この種の事項、実に枚挙するに遑あらず。


◎同大砂賀飲食店兼菓子小売商・三浦ナカ(四十四才)は、その母と子供二人都合四人暮らしなるが、海嘯と聞くより、なかは早くも幼児を背負い左右の手には老母と一番目の子の手を堅く握り、戸口を逃げ去りてようやく二間程も馳せ来たりし頃、山なす波に追い立てられ、アハヤという間もなく背中の児は怒れる波に抜き取られ、左右の老母も子供も手を離され、四人は三山になって推し流されたるが、そのうち九死の中より一生を得たるは、おナカのみにて、他の三名の死体は、翌日に至り、泥砂の中より発掘したり。さておナカ、当時の辛酸難苦を極めたる顛末を聞くに、同人は三人の母子と引き別れてより、二三十丁程も沖へ押し流され、浮きつ沈みつ苦しみ居る中、木材の流れ来るに取り縋り、しばし息を継ぎ居る間もなく、急激なる引き汐に遭うて、身は木材と共に蓬莱島(俗に珊瑚島という)の岸頭に打ち投げられ、太く肋部を撲たれ撲たれども物ともせず身を起こして島に這い上らんとせしに、またもや立ち汐のために足をさらわれ、いずこともなく打ち流されたるが、偶々身辺にハンギリ(大盥)の浮漂せるを見つけ、これ幸いとこれに取り付き、打ち乗らんとしたれども、ハンギリ、幾回か転回し転回するごとに、潮水を呑み今や身体も疲労し気息奄々たる折り柄、立ち潮のために小枕といえる岸辺に打ち揚げられしかば、翌朝に至り鵜住居村字室濱佐々木與兵衛、舟に救い揚げられ、遂に辛うじて一命を助かりしという。(佐々木與兵衛舟乗組員は佐々寅松佐々木平二郎、同冶助、佐々乙松、同十之丞、同友吉、同松兵衛の七名なり)。因みに記す。同おナカは体躯大に肥満し、平生歩行さえ自由ならざるその上に妊娠すでに六ヶ月を経過しつつあるにもかかわらず、かかる危難大苦に遭うて、なお生命を殞せざりしは、天幸とや言わんか、不思議とや言わんか。


◎同大砂賀菊池多助一家族は、全滅に帰しぬ。同家の別家に当たる菊池東助の二男・多蔵(十八才)の談によれば、凶変当夜、同多蔵も本家に行き居りし矢先き、海嘯と均しく、四隣、海嘯海嘯と騒ぎ立つる声に、元来性急の多蔵大いに狼狽し、傍らに遊び居たる多助の長男清(十才)を抱き門口に出でんとせしを、反対に急がぬ性の多助、多蔵を引き留めながら、海嘯とて左程急ぐには及ばぬもの。逃げる場合には各々家具の一草なりと背負うて家内一所に出るものぞ、と優然構い居るに、多蔵大いに気を焦燥ち、イヤ叔父さん、大変火事イヤ大海嘯ですから早くお遁げなさいと絶叫せしは、すでに目前に迫りたる時にして、この一刹那、大狂瀾は見る見る家を圧倒し、家族は忽ち押し流されつ。然るに多蔵独りは、運強くも向ヶ原裏手なる東梅社の杉の木に取り付き一命を全うすると得たるが、同人、件の樹梢に取り付きたる際は、大槌町の人畜家屋は悉く奈落底裡に帰し、我のみ一人助かりて人跡稀なる深山の木に登り居るものと思いつつありしが、ややありて彼方に火影見え、次いで人声さえ聞こえしかば、始めて我が町内にありしと知りたりという。因みに記す。多助は小金貸を為し、相応に不動産をも所有するものなるが、すでに全家滅亡せし上は、何人かこれを襲ぎしかというに、その別家東助一家は幸いに厄難を免れたれば、財産は挙げてこの東助に帰せりという。


◎同町大砂賀五十集商・高田茂平次(二十才)家族三人のうち茂平治一人生存、他は溺死せり。茂平次、珊瑚島近く押し流されしかば、多くの難苦を経、辛うじて一破船に打ち乗り救助を呼び居る中、幸いに小枕の舟、三浦友蔵のここに来合わせ遂に救われて上陸せりと。然るに、茂平次、上陸の後、人に語りて曰う。余は漂流三四十分に亘りたれど遂に一摘潮水を呑まざりき。そは吾が亡祖父常々漁師等に向かいて、もし汝等、海上覆没の難に罹かりし時は速かに手拭なり、また前垂なり、口に含みて鼻より空気を呼吸する如くにせば、半日又は一日位、波濤の中に在りても決して潮水を呑まぬものなり、と教ひられしを、幼な心に覚えたるより、余はかの際、これを実地に試みしに、果たして好結果を得たり云々。付記す。茂平次が宅は、代々大須賀町のつくるところ海邊のもっとも低き地に建設しあり、これを以ってその昔、明和、寛政、安政等の海嘯にも真っ先に潮水を被り、また毎に流失の難に罹れり。而して今回の海嘯に流されたる家屋は、安政の海嘯後、即ち茂平次の祖父清七の代に至りて建設したるものなるが、その際、清七は将来の海嘯を憂慮し、流失の難を免れんとて、家の柱に伝えてコウガヒを土盤深く埋め置きたるが、これ皆、引き凌われてあと方もなかりしとぞ。


◎安渡区の小国留助は海嘯前、両石村の義兄富澤虎次郎がもとに在りて、養蚕に従事し居りしが、折りしも六月十五日は故郷安渡において、軍人凱旋祝賀会を催し、余興として煙火打ち揚ぐるはずにて、同地の有志者は之がすべての会計掛を留助に依託せんと、十二日、両石に急使を走らせたるに、同人も直ちに承託し、いよいよ翌十三日を以って両石を出発することとなりたるが、同氏はこの善きついでに虎次郎の長男鯉三(十一才)と次男英吉(七才)を伴い行き、煙火を見物させんと、虎次郎にも照会し、やがて両児を携えて安渡へ着しぬ。さて十五日の夜となりけるに、兼ねて待ち設けたる煙火は、白州において打ち上がり、老幼男女、海岸に立ち並びて物珍らしく見物し居たり。留助も後れじと前記英吉を肩にし、手に鯉三を携えて見物に行きしが、間もなく外洋に当たりてゴーゴーと凄まじき音せしにぞ。留助、早くも海嘯なりと察し、直ちに件の両児を二渡りといえる高阜へ連れ行き、己れはなおも我が家に引き返して、長病に苦悩し居る実兄貞之助と老母とを扶けて同二渡りに移し、又も再び家に帰りて米櫃を担ぎ出さんとせし時は、早や海嘯は目前に通りたれば、這は及ばずとそのまま米櫃を棄てて二渡りへと駈け付け、遂に一命は拾い得たり。然るに、ここに哀れにもまた悲しむべきは、両石なる彼の両児が一族にて留助、翌日、両石に至り見れば、全家すでに滅亡し、双影を留めざりしと。されば留助も両児を憫然に思い、爾来、我が家に引き取りて親切に養育し居れり。


◎同安渡の船頭倉吉というは、その子某(十五才)と共に押し流され、湾内を漂う中、父子二回まて遭難したれど、ただ、そのたびごとに声掛け合うばかりにて、相助くるに由なかりしが、子の運や強かりけん、子は遂に岸辺に打ち上げられて生き、父は溺死したり。


◎同安渡竹本松之助は、その父(六十以上)と手に手を取りて押し流されたるまま海中に漂う事、ほとんど一時間に亘りしにぞ。親は老衰の上に、限りなき苦楚を甞め、今や絶命せんが有様にて、松之助に向かい、モーこの親の命はこれまでなり、この手を離してそなたは暫しなりとも苦げんを免れよ、と言うに、松之助も血気盛りの壮者なる
も、父を救わんため身心甚しく疲労を来たし、先刻より幾回か父の手を引き離さんとせしほどなれど、少しも父に弱身を見せず、親父さん今暫らく辛抱なされよと力を付けつつ、一生懸命、父の手を握り詰め、何処ともなく漂いける中、天恩か仏恵か、ハモ釣船黒澤治助の来たるに会し、幸いに救い上げられたるが、船に乗り移りし際は父すでに絶命し居れりという。付記す。黒澤治助が、当夜、人命を救助したるは、松之助父子のみならず、吉里吉里村の区会議員前川善左右衛門氏(是は安渡道又区長宅に居て流さる)及び二名をも救い上げたる由。


◎同安渡回漕店越田茂一郎の家宅は頗る堅牢なる構造なりしかば、人々、釜石の小軽米宅の轍を踏み、同家にこそ駈け入りなば危難は免れんものと、凡そ三十五名程の人数推し入りしに無情の海嘯は何の用捨もあらあらしくかぶり付き、家族九人と件の三十五名は家屋と共に海中に持行かれ惨死を遂げたるが、この中にて不思議にも一命を拾い得たるは茂一郎の一子、今ここに八歳になれる賢吉と十二才になれる小国春松との両児なり。この両児、いかにして生存するを得たりというに、その当時、二人共二階に在りしが、激浪に打たれ家屋の傾倒するハヅミにやありけん、身はポンと屋根に打ち上げられしまま海上を揺られ居る中、幸いにもここに「ハモ」釣船団之助の一行(安渡の漁師)来合わせ、難なく両児とも救い上げられしが、その際、賢吉は小供の頑是なくも春吉の膝を枕とし「タアイ」なく熟睡し居たりとぞ。また同家の親戚越田徳四郎方に畜養せる熊犬(黒犬)も、当時、春吉等と同じく屋根に上り居りしが、海水ようやく平かなる時、白濱山を指して泳ぎ行きしと思いしに、海嘯後二十一日目に、熊犬は健全にて徳四郎方に立ち帰りしかば、同人も大いに再会を喜び、今なお海嘯熊と称して愛撫し居れり。またなお一奇というべきは、同家の店頭に掲げありし回漕店と認めたる標札は海嘯後四日目に宮城県宮城郡松ヶ濱に漂着せしを、同地の星八百蔵といえる船頭、これを拾い上げたり。この八百蔵は船頭にて、年々歳々、安渡に回航し、越田方を定宿として共に相知る間柄なれば、八百蔵も今、茂一郎と認めたる標札を手に入るからに甚だ奇異の思いをなしつつ、やがて件の標札こそ友人の記念なれと、朝夕これに拝跪し香花を手向けて厚く吊せられしと。奇特のことにこそ。


◎同区医師煙山新太郎の姉某は海嘯と聞くよりまず、その子の四歳になれる男の児と六歳になれる女の児を二階に上げ置き、己れはまた下座敷に引き返して家具を二階に運ばんとせし一瞬時、激浪は同人を引っ凌って惨死せしめたり。然るに二階に在りし子供二人は、不思議にも二階の戸袋の中に在りて余念なく眠り居たることを翌朝発見したるが、爾来、煙山氏両児を我が家に引き取り、憐みを加え手厚く養育し居れり。


◎町会議員里館忠五郎氏の宅は、罹災の焼点に当たり、納屋数棟及び漁具、皆流れ出し、居階宅は裏二の一小部分を残し、今やその二階は己が居宅となる。家族は十三人のうち孫幸七(九才)と親籍の仁平(五才)とを亡う。同氏は余に向かって四十二年前の海嘯を語れり。曰く、安政の海嘯には白昼といい、潮勢緩慢にして漸次に加わり、今回の如く数丈の濤激甚に攻め来たるに非ず。故に皆、津浪なりとの声を聞き、山に逃げ高所に避くるの猶豫あり。
余の如きも津浪なりと聞くや、戸を開き逃げんとせし時、早や水は床上に達せしが、二階に上りしに、海嘯は漸次に追い来るより、その軒に出でたるに、幸い船板の自宅も軒より向い側の軒に橋を架したる如く伝わりしを見、後れ来る長男某とこれに縁りて向側に渡り、直ちに山に登りて難を免るるを得たり。これ天佑ならんも、今回の如きは去る遑のあらばこそ、津波と叫ぶや否や、■濤激浪一時に来たり、家屋を倒し人畜を捲き去り、瞬間に無数の生命財産を剥奪せし。当時を追懐せば、慄然、毛骨を立たしむる想いありと。


◎町会議員道又徳太郎氏は、名声を釜石の小軽米氏と斎うせるものなり。悪むべき彼の海魔は同氏夫婦と厳夫と愛孫二人を奪い去りて、残るはただその息子と妻子のみ。
前記道又氏の息子繁太郎氏は、今現に大槌高等小学校々長の職に在り、同氏の談に海嘯の音聞くより妻子下女と共に二階に上りしが、このの時は早や、家のすでに流出せし時にて、氏は黒暗なれど屋根裏に取り付き、母妻子等にはシカと梁に取り付かしめて漂流しつつありしが、イツカ父の声も聞えずなりしのみならず、屋根も次第に建物を離れんとするより、己れまず屋根を突き破りて上に上り、母妻子等をもその穴より登らしめんとするうち、山際に打ち寄せられしを幸いに、その山へ飛び上り、手を伸ばして母妻子等を救わんとする瞬間に、またも襲来たる波濤のために、家は忽ち母妻子諸共持ち去られぬ。然るに不思議にも、その妻女は崖下に打上げられて辛くも一命を繋ぎ留め、ここに夫妻両人とも別状なきを得たりしも、両親と愛子はいずれも無惨の最後を遂げしとなり。


◎前記道又繁太郎氏は、わずかに身を以って免かれ、山路を伝えて二渡りへ(村社)辿り行きしに、友人の荻野清蔵なる人に出い遭たり。同人はその家屋は流出したるも、家族の人命に至りては挙げて無事なることを得たれば、道又氏に対しては、衣装の着換えやら焚火などして甲斐甲斐しく介抱せしかば、同氏も為めに漸々人心付きしに随い、父母妻子のこと思い出で、少時も措く能はず、せめて死骸なりとも捜索せんものと、それより提灯を調度し、荻野と共に腰切りに達する泥砂の中を、踏み越え踏み越え、車佛といえる辺まで至り、全力をつくして索めしに遂に一の死体だに見当たらざりしかば、止むなく翌朝、再び出で来んとて帰途に就きし折からに、路傍破材の下にて「お母さんヤイヤイ」と小児の泣き声あり。両人はかくと見るより進み寄り、破材を取り片付けんとせしが、力叶わず、善き智恵も出でず、困じ居たるところへ及川市太郎及長五郎の二人来掛かりしを幸い、相指揮して四人共々木材に手を掛けんとする時、山手の方にて「海が鳴り出して来たから早く山へ登れ、登れ」と呼び声ありければ、市太郎はあわてふためき山路へ駈け登らんとせしを、道又氏のために励まされ、なおも四人一生懸命となり、ようやく破材を取り退けしに、中よりは十二歳ばかりの少女這い出でしとぞ(少女の名は聞洩らしぬ)。因記す。長五郎というは綽号を鬼長五と呼びて筋骨たくましく義に勇む男なり。当夜、人命を救助せしこと四、五人にして足らずという。


◎赤濱村の古館武兵衛氏は、支店を大槌町に設け、同町内にても第二等の富を占むる豪商なり。同家の妻女某(吉里吉里芳賀山)は五月十二日出産し、気分優れずとて、親類旧故相集まりて看護しつつありしが、三日目、即ち海嘯当日の如きは頗る快気を催し、夫にも安渡に催す軍人凱旋祝賀会に臨まれたしなどと勧むる位にて、夫も為に安心し同会に臨みたるが、帰宅間もなく海嘯の音起こりしにぞ。産婦にも、二階に上り潮水避くべしと勧むる者もありしかと。斯程に烈しかるとは露知らず、ここならば大丈夫ならんと油断する間に一時に寄せ来る怒濤は戸を破り障子を倒し、加うるに木材を打ち混ぜて押し入りしかば、何かは以って堪えるべき皆々相携えて一片の水煙と消え失せぬ。
同家族にて死亡せし者六名、他より来たりて産婦を看護し居たる者共に九名、しかも吉里吉里区長芳賀氏の母もこの中に在り惨死を遂げたる由。
同家の四女貞(十一歳)辛うじて死を免れたり同女の談に、一時は裏手の田に持ち行かれ、退潮の時、納屋の潰れたるため材木に挟まれて身動きもならず、ただ悲鳴し居たるに、人々、これを聞き付け、ようやく救出され、重傷は負いしも、臨時病院にて治療を加えたる故、不具者とならず今は最と健全にて、何不自由を覚えずといえり。
同家にて三日の経過なる嬰児は、不思議にもイツコ(小児を入るる器)に入りしまま流されて、数間の距離に在りしが、抱き上げ見るに、目はキョロキョロし居れば、とかくして育てんものと、種々介抱をつくしたれど、定業にや、遂に三日を最期として終りぬ。また聞くところによれば、同家の損害高は実に二万円を下らざるべしとえり。
同家に寓居■る小学校教員北愛規氏■当日端午の節句なりとて諸家に招かれ馳走を受けたるが尚も最終に同家に帰りて独酌をなし、酩酊して一室に臥し居りしが、あまり騒々しき物音に驚き起き上り見れば、早や波は直ちに同氏をさらって岸に打ち上げたり。氏は造化巧妙と衣を脱し裸体のまま逃げ去り、一死を免れたり。
古舘氏も己れが流れし当時の話をなして曰く。余は浪に浚われて後、起きんとなれど起つ能わず。漸々に地面に従ひ匍匐せしが、始終、潮水の変動ありて、あたかも湯に入りし心地するかと思えば、また少しの間に冷水身に逼るの思いあり。常に一定の温度にはあらざりしと。
同家召使の女(廿二才)は隣家の小児を背負いながら、同古舘宅の裏手に植え付けたる桜木に取り縋り、退潮に際し、去て高所に駈け延びたり。また岩間富五郎も舟の流失を恐れ、繋ぎ止めんとて家を出てたるに、海嘯襲来たってアハヤ捲き去られんとせしを、件の桜樹に取り付き無難なるを得たり。前後三名共にこの桜樹に頼って命を助かる。されば同宅にてはこれを人助け桜と号し、今に保存し置くという。


◎同区にて昨年帰休の兵士阿部菊松といえるは、これまた船繋ぎに出でて海嘯に罹かり、とうてい逃げ得べからざるを知り、船に飛び込み、波のまにまに打ち任せたるために、終に命に別状なし。


◎同区黒澤久五郎も船を繋ぎ止めんとして海嘯に罹かり、退潮の際、残墟の間に圧せられ、出るにも出られず、ただ運を天を任せ居るうち、幸い、岩間元冶ほか数名のカガ炬火を携え、家族を捜索するに会し、これら人々の救護に依り死は免れたり。


◎同区岩間元治といえるは、代々古舘武兵衛方に使われ、忠僕なりとて常に賞められ居る者なるが、海嘯当夜は、我が家族を索めんともせず、専ら主家の家族捜索に奔走し、二日目に我が家に立ち帰り見れば、すでに我が最愛なる妻子残らず無惨の死を遂げ居たりと。


◎前記元冶の家に使わるる下■某は破壊家屋に圧せられしが、その間に杉の葉ありしため、多少、圧力の緩なるを得て、生命を全うせり。また同下■の傍らに、出産後五十日程を経過したりと覚しき赤子も圧せられ居たるが、人の手に助けられ二十日間生存して死せり。


◎岡本勘之助は森惣右衛門の二女キヨ(十九歳)が材木の下に在りて垂死し、わずかに虫の声をのみ残しつつあるを聞き付け、早速重なれる材木を片付け救ひ上げしかば、ようやく蘇生するを得、キヨは今なお惣右衛門を視ること生みの親の如く、夏涼冬温、その誠をつくし居るという。


◎同区の名家なる岡谷喜左右衛門氏の養母(八十七歳)とほか六十二歳の老人は、共に蚊帳裡に在りて押し流されたるが、他の壮者数名溺死したるにもかかわらず、この老人二名は向う岸なる堤防の上に打ち揚げられ、一命を全うせしは、抑もまた一奇。


◎安渡越田徳四郎は法華信者なるが、海嘯のため徳四郎一人を除くのほか家内八人悉く海底の怨鬼となれり。徳四郎家族の屍体を捜索せんものと浜辺を徘徊する折り柄、たまたま我が家に安置せし日蓮の木像漂流し来たれり。かくと見るや、徳四郎は血相変え木像取って足に踏まえ、汝、多年我が一家を惑しながら遂に一度の加護を与えず。むしかも無惨無惨、八人を殺すとは何事ぞ、一家の怨敵思い知れと口を極めて罵りながら、木像に大石を括り付け海底深く沈めしとなん。


◎吉里吉里の名家として兼ねては町区会議員たる前川善左衛門氏は、海嘯当日、安渡の軍人凱旋祝賀会に臨みたる帰途、安渡区長道又徳太郎氏の家宅に立ち寄り、同家にて一酌を催したる末、酔うて手枕にしばし仮寝の夢を結び居る折り柄、俄然、大海嘯に襲われ、身は何処ともなく押し流されしが、幸いに一破船を認めてこれに打ち乗りしに、またも続いて白銀鉄之助なる者、同破船に乗り上りしが、鉄之助大負傷して居たるより、前川氏は種々鉄之助を介抱しつつ、これより何程流さるるとも外様まではよも行くまじ、兎も角も夜の明けたらんには助かる詮もあらん、などと言いて慰めける中、鱧釣船黒澤治助の一行この場に来掛かり、両人を本船に乗び移らせ、上陸したるが、鉄之助は重傷のこととて、遂に数日を経て落命したる由。


◎吉里吉里村にて何処の者とも知れぬ婦人三名、破船に乗りて絶息し居れりと。いかに辛酸を甞めたる結果なりしを想像するに足れり。


◎吉里吉里の名望家(区長兼町会議員)芳賀宗助氏の居宅は、郷社と相並んて高燥の地に在り。故を以って同氏及び在宅の人々は、危難を免れたるも、ここに哀れを留めしは、前項記するが如く、同氏の母は海嘯前より又濱村の親籍古館武兵衛方に産婦あり、見舞いに行き、続いて滞在中、大海嘯に遭い、果てなき最期を遂けたるこそ傷ましけれ。


◎波板なる中村喜助の子某(十一才)は、いったん流されて一里半を隔離する東閉伊郡船越湾まで至りしが、第二の差汐に又再び元の波板へと引き返され、磯辺に上りて助かりしと強運の小児かな。


◎大槌町阿部勘五郎の一族は波に捲かれながらも、辛うじて山手に駈け上り各一命を全うせしは、僥倖中の僥倖なり。そして勘五郎は退潮を窺い、親戚縁者を索めんとて白山下まで歩み来たる時、五十前後の婦人、負傷したるまま古松の枝に懸かり、糸より細き虫の音にて救いを呼び居たり。勘五郎は婦人の負傷し居ることとは知らず、樹下より双手を延ばして吾れはここより御身を抱き留むる程に、早くそこより飛下りよ、と声掛けたるに、婦人は樹上にて、私しは大変に怪我して居るから飛び下りることは叶わぬ、何ぞ別に善き工夫はござりませぬかと言う。よつて勘五郎は、早速心付きて四方の残墟を拾い集め、階子に代え、件の婦人を抱き卸し、なおもこれを背負いて己れが実家なる阿部熊吉(無難の地)に至り、種々■り介抱せしが、この婦人は遠野町の産にて菓子製造に雇われ来槌したる矢先、図らずもこの危難に罹かりしに由。


◎同町役場雇・横濱忠蔵氏は、当夜、(砂賀町)家に在りしが海嘯の音聞くと均しく、まず老幼を四日町(無難の地)に避難せしと、己れも今や戸口を出でんとする時、忽ち潮水は戸を蹴りて浸入しければ、氏は壁を突き破り隣家の屋根に這い出でしに、この時、橋本治兵衛の祖母(八十才)は激浪のために我が居りし傍らの屋根に打ち揚げられ、命脈も絶え絶えにて虫の音をのみ残し居たるを、同氏は手早くこの老嫗を背負いて屋根伝いに道又マツエ方の表廡まで至り、それより電信柱より伝い下りて両人とも二つなき命を助かりぬ。


◎大砂賀町の桶屋職内金崎徳之助は、これも前記同様、家族を真っ先に出し、己れまさに逃げ出でんとせし時は、早や潮水胸部に達したれば、爐上の釣り鍵にタグリ付き、次いで裏屋根を破りて屋上に這い出で、まずは危き命を繋ぎ留めたり。


◎同町小林鹿之助は、その親と己れと親子三人、一材木に取り縋りて海中遠く漂はされたるが、両親は材木の両端に取り付き、鹿之助はその真ん中に在りたるため、材木は兎角三人が体量の重さに堪えず沈没して潮水を呑むことしばしばならば、これではならぬと鹿之助は一策を案じ、自身の腰に巻きたる細帯を解き、これを件の材木に結び付けて重量を減じ、充分浮き出る如くにして自身は其帯を片手に取りて泅きけるうち、両親は早や身体も弱り果て、叶わぬ叶わぬと叫びしを、鹿之助、力を付け、今少しの御辛棒でござります、決してこの材木を離れてはなりませぬぞと頻りに励まし居たる甲斐も情けなや、その父は何時しかすでに材木を離れ溺死を遂げたるこそ是非なけれ。然るに鹿之助母子はその後間もなく、救助船のその場に来合わせ、救い揚げられしは、不幸中の幸いなりける。

雑記

◎大槌町にて海嘯後、魚類払底して影だに留めず、町内の五十集屋連、反対に無海地の遠野辺より枯魚を買い入れ切り売りするほどの心細き有様なりしが、七月十二日、赤浜村の残り船、始めて五鮫一尾を漁獲せしかば、人々争うて五十集屋の店頭に集い、一片の2九購い得て養生喰いをなせり。


◎相知り合う被災者と被災者たまたま道にて相逢う時は、まずたがいに家族溺死者の数を問うなり。そしてその十人位の家族にして、そのうち九人八人もしくは六、七人の死亡者ありと聞けば、始めて弔詞を用いるに至るも、二人や三人位の死亡数にてはとうてい遭難者の部類だにも加えず、その位なら誠に幸運の至り、軽くて目出度いなどと祝う
ほどなり。


◎阿鼻叫喚とは九死一生の場合において発する悲惨なる音声なりとはかつて聞きおりたれど、余は海嘯の際において始めて阿鼻叫喚という音声を実際に聞き得たり。それは一人の婦人、屋根の上にいて遠く海中へ押し流されし時の実況にして、その声を限りに「助けてケロウ」(助けてくれえというを方言・助けてケロウという)と叫ぶ音は哀れ悲しく淋しく、殊に身体は潮水を受けヅブ濡れになり居ること故、その間に慄え声まじりて、その凄まじきこと実に得も言われず、越路などは善く泣く真似して人を泣かすれど、もし人をして平生にありてふと、この実際の阿鼻叫喚を聴かしめなば、人まさに凄死するならん。


◎大槌区安渡にて災厄に遭い、辛うじて助かりたる男女五、六人、二渡(高阜)に駆け込む。みな赤条々となりて満身泥に塗れて熊の如し。無難者の某々等は、この一団のために焚き火をなしてこれを取り囲ませたり。すでにして一団は身にようやく暖を覚えし頃、始めて互いに褌と湯巻取り外し居るに心付き、相顧みて恥らうもおかし。


◎海嘯の翌朝、大槌八日町を六十前後の老婆、湯巻一点にてぶるぶる慄えながらビショ濡れになりたる十二歳ばかりの孫の手を引き来るに、此方よりもまた面部、衣類、泥に染み、足は少しく負傷せしと見え、蹣跚として来五十前後の婆とハタト出遭い、両人たがいにアヤよく生きていましたなと言いつつ、手離しに泣き出したり。孫を連れたる老婆、涙拭き敢えば、やがてその場とその物語り、彼の時、海嘯の来たる音は雷様のように聞こえたから、私は驚いて一番末の孫を嫁に負わせてこの孫(手を取りたる孫を指す)と一緒になって永らく病気で寝ている息子を呼び起こし、外に連れ出そうとすると、山のように波がかぶさってきて、嫁は孫ぐるみ流され、息子とこの孫とも影形少しも見えなくなり、それより私もどことなく流されて行ったと。ところが、幸いある屋根に引っかかりようやく命を助かったれど、家内の者どもを無残無残亡くしたのを嘆き、屋根の上でただ泣いてばかりいるうち、すぐ脇の屋根に子供の声で、お婆さんお婆さんと呼ぶ者があるから、近寄って見ると、この孫そこへ幸い、湯屋の繁さん(金崎繁蔵)が来たって救ってくれ、二人とも不思議に命が助かりましたと言えば、此方の婆も泥水に染みたる袖引き絞りながら、私の家は直き海の傍なれば水は早く乗込んで逃げるに逃げらずも家内七人残らず死果て私しばかり一人助かることは助かったが(ここで言葉しばらく途切れてただ泣き音のみ)、せめて孫子の死骸一目なりとも見たいものと所々を捜して歩いたところ、じきに彼処に(と指さし)、孫と嫁が手と手を握り合うて死んでいました。しかも私は孫に、昨日、頭を芥子坊主に剃つてくれたのが、泥も付かずそのままでいる可愛さ不憫さよと、またも両人ワッと泣き出す有様はなかなか筆紙につくされたものにあらず。


◎凶変に遭遇し苦楚を嘗め、九死に一生を得たる者、当分の間こそ戦場の軍人同様、気を張り詰めて立ち働けど、次第に日を経るにしたがい、手足の関節あるいは全身に痛苦を感じ、あるいは種々の病症を発生する患者、日々増加するを見る。


◎大海嘯後、人心恟々たる折り柄、風声鶴■もことごとくこれ海嘯の襲来かと疑わしむ。六月二十一日午前十一時五十分、たまたま向山にて樹木の倒るる反響を聞き、スワまた海嘯よと、町内の老弱男女悲鳴号泣、上を下へと騒ぎ立てたるが、そのうち漸々虚説なること分明し、アタラ肝を冷やせしのみにて事やみぬ。さてこの騒ぎにつきて恐怖のあまり腰を抜かしたる老人もあれば、また負傷したる壮者もあり。現に大須賀の漁師何の某の子供(八歳)は、これがためその場に卒倒即死せり。なお、同日の騒ぎに逃げ走る群集の中を、推しのけ推しのけ真っ先に山手の方へと逃げ出したる巡公を見受けたり。非常の場合は保護の官もこんなものかや。


◎一両日間を経たる死体の形相を見るに、大人のごときは枯痩し、あるいは水腫紫斑を見るはせど、ニ、三才より五、六才の小児に至っては、痩せもせず腫れもせず、宛然、生時のごとし。こは大人のごとく藻掻き苦しんで潮水を呑むこと少なく、水をかぶると同時に窒息すればなり。しこうしてまた、四、五日ないし一週目を経過したる死体は眼球突飛全身潰爛して容易にその誰たるを弁護すべからず。ただわずかに衣類もしくは所持品等にて判別するなり。また、溺死者に限り、死後■に顎鬚延長すと言えり。その実例を挙ぐれば、凶変後六日目のことなりしが、上田某の死体を発見し、これを遺族者に一見せしめたるに、遺族者一瞥して、こは人相やや某に似たれど、某は海嘯の起こる四時間前、顎鬚を剃落したるに、かくのごとく鬚の発生し居るこそ怪しけれと、あえて死体を引き取るようすもなかりしが、すでにして事の然るべき理合を聞き、始めて某たるを知ると、均しくワッと泣き出せりという。また、海嘯の翌日、累々として夥多ある死体の中にももっとも凄絶を極めたるものは、一婦人の小児を背負いたるまま仰向けにたおれ、そが上に角材の横たわりて咽喉を約するあり。婦人は虚空をつかんで白眼天を睨むる状、二目と見得るられず、四苦八苦悶え苦しみし当時の有様思いやられて哀れなり。


◎凶変後、罹災者となく遭難者となく、いずれも日々、死体の捜索、残虚の収集、泥砂取り浚いの余暇、他国の友人知己より到来の見舞い状に対し、回答の葉書郵便二、三枚書くや書かぬやの間に、早や睡気駸々として催しきたる。その疲労さ加減、大繁忙の場合なるにもかかわらず、中には貴家御一同無難の趣、ついては御地惨害の実況、詳細至急御報知下されたく等と、呑気極まる書状もありしと。さりとは心なき次第、遠方の諸君チトこの場合、御推文字可下されたく候というのほかなし。


◎大槌向川原の裏手なる東梅寺境内の古松(目通り高さ一丈五尺)は激浪のために斧にて折りしがごとく根本よりプツリと折られ、転輾して三、四町隔てし向河原・三浦喜助宅の空き地に至る。また海嘯後二、三十日間は、向河原の井水、塩分甚だしきをもつて、とうてい飲料に供する能わざるより、各家江岸寺境内の飲料水を汲み取れ
り。(この水は寺山より湧き出す)


◎大槌町海嘯ーの音は同町以北三里ほどの山村・金沢村に響き渡り、柱時計の揺錘を停むるに至れりと、同村長・ 金澤福次郎氏の談。


◎大槌湾内に屹立せる一島嶼あり。これを蓬莱といい、また珊瑚島とも呼べり。されば各地より視察として来られたる新聞記者、これを記するに当たって、その名称の真偽いずれにあるやを疑う者ありき。然るに今、同島名称の由来を古書・大槌孫八郎記について得たれば、左に掲げて参考に充つ。
  明和寅七年十一月大槌浦珊瑚島往古由緒御尋被遊処肝煎申上候は何の申伝へも無之候旨御答候先年天量院様当地へ御出被遊候節も御尋被遊候由其節も右之通り御答申上候得共御舟より御覧被遊已来は蓬莱島と相手唱候様被仰其後蓬莱島と相唱候


◎同町四日町にて駄賃付を業とする庄之助というは、海嘯当夜、馬に荷物を付け波板の海岸を通行の際、図らずも路傍の電信線、ピーンとばかり音せしにぞ。馬は驚きて彼方の小山に駆け出したり。庄之助は遣らし゜と手綱に取り付き引き戻さんとせしかど、力及ばず手綱に取り付きたるまま、馬に引かれて山手の方十間ほども行きしと思う間に、海嘯は今来し海岸の路上に八、九尺の高さをもって襲い来たりぬ。アア危機一髪、馬の逸する今少し遅かりしならば、庄之助の命は馬もろとも無かりしなり。因記す。電信線の響きしは、海嘯のため釜石の電信、切断せし際の反響ならずやという者あり。


◎各町村にては、罹災倉卒の際とて、好案良策を施すの遑なく、その救護事務所をば、これを単に災害を被らざる家宅内へと仮設したることなるが、その多くは被害地に遠ざかり、もしくは奥まりたる場所にありしため不尠不便を感じたり。されば今にして思うに、かかる場合、事務所は小屋掛けにても苦しからざれば、なるべく被害地に接近せしめ、被害の実況を一目瞭然に見渡し得べき高所を選んで設けなば、救護上は勿論、諸般の監督上、一層の便利を与うべかりしに、当時、余がこの点に心付かざりしは、くれぐれ遺憾とするところなりと、吉田郡書記がある人に向かって語りき。


◎鵜住居村字両石なる久保次郎の祖父某は、今より四十三年前の海嘯に懲り、その本宅より一丈五尺ほど高き岩石を鑿開して、ここに物置場を建設し、海嘯の襲来したらんには、一家ここに避難すべしと教え置きたるを、今回の凶変に、次郎はその遺命のごとく一家族を追いたて物置場に逃げ延び、心ひそかに金城鉄壁と頼みいたる甲斐もなさけなや、激浪は物置の家根を越え、建物ぐるみ家族十八人たちまち一掃せられて、跡形もなみだの種をぞ残しける。


◎大槌町の金満家・道又勇助氏は、海嘯の翌真っ先に倉廩を開きて、大須賀と向川原にあるおよそ三百戸余の被害人民へ白米三升に稗一升あて寄贈し、また安渡へは一戸につき籾一斗あて、吉里吉里へも同様なりと。但し、安渡は百六十一戸、吉里吉里は二百四戸なり。


◎大槌江岸寺住職・吉峯祖栄氏は凶変当夜、その方丈の間にあり、折りから町方にて物騒がしく聞こゆる物音にただことならずと跳ね起きて、東向きなる車庫の障子を引き明け見るに、早くも第一の激浪、勢い込んで根板四尺以上を浸すと均しく、向川原の各家ミリミリバリバリと凄まじき音して境内近く漂流し来たる有様。ここかしこに老弱男女声を放って悲鳴号泣、助けほ求めて急なり。同氏はそれといいざま、まず小僧の耕雲といえるを呼び、大蝋燭を寺内東北の縁側に五、六十挺ほど鴨居焦るるばかりに点火させて遭難者の目当てなるべき灯台に代え、己れはただちに赤裸となりて、勝手覚えし畑道に出で胸切りなる潮水を打ち越え行きて、潰れ家の中にはさまれて身動きもならず居たる老人、さては太く悪水を呑みて、わずかに片廡に取り付き、気息喘々たる婦人小児等を一人ごとに背負い来ては、入れ入れては出で出でては入れ、瞬く間に十五人余を救い上げ、なおも己れは寺の北裏手へと取って返し、その周囲の垣根に懸かりいたる子供四人、公葬地山岸に疲労してノタクリ居たる男女六、七人及び秋森坊といえる按摩が、子供を高く肩の上に背負い、その傍らには妻のみわ(これも盲目なり)、背に乳飲み児を負い、右の手に十二才ばかりの子供を携え、方角知らす手のみ掻きさぐりて悲鳴し、居たるをも救い上げて、やがて一同を引きまとめて寺へ引き入れんとせしが、石塔道に横たわりて危険なれば、雁繋ぎに一人あて後ろに並べ、己れは提灯を高く掲げて先導をなし、寺内に入りて焚き火をなして一同の身体を温め、あるいは衣類を貸してこれに着さしめ、手厚く介抱なしたるとぞ。なお、同師は凶変の翌日より寺門に運び来る死骸に対し、いちいち引導を施し七日目には供養塔を建てて餓鬼を供養せり。奇特なることにこそ。
また、聞くところによれば、同師、海嘯の際、罹災者のために草鞋の必要を感じたれば、潮水退却の間合いをうかがい、師は自ら草鞋数十足を持して、破壊家屋または材木の間を踏み越え踏み越え、所在に素足にて彷徨する罹災者に向かって右草鞋を恵与せられたりと。臨機の働き、天晴れなりというべし。また、その際、三匹の馬、流れ来るあり。ただ、潮水の間より耳と鼻とを顕すのみ。これにおいて師は一策を案じ、軒端にたたずみながら左手に灯を携え、右手に太き糸縄を持ち、馬の眼前へ件の糸縄を投げやりたるに、無知の畜生なれども人間の力を頼み得て、軒端近く泳ぎ来たり、遂に皆、無事なるを得たりと。
同寺境内、浸水の深さ、本堂柱石より三尺二寸、同前庭敷石通り三尺三、四寸、門前斗形通り五尺余、衆寮柱石より一尺余、庫裏柱石より四尺余、同知庫寮より七尺去りて菜園地あり。同所、水の深さ七尺余、土蔵塗り三尺余、砂泥に汚さる。また、第一回の激浪に同寺所有にかかる二間半三間の物置小屋、流壊せり。海嘯当夜、同寺に止宿
したる遭難者は四十八戸二百二十九名、ほかに無届の止宿者百五十人。
九月五日、同寺において、海嘯溺死者のために追弔会あり。導師は曹洞宗両本山代理・鈴木無三師にて、法要随喜の僧侶は寺院徒弟各信三千人。大卒塔婆銘に曰く。
  三陸衆生遇斯縁為修深々法解脱自性円
  三陸海嘯罹災横死者諸精霊等
また曰く、
  性海波起大槌辺  迷雲朦朧喪心田
  威神願力須回転  廣度無明木橋船
同九月五日、同寺において挙行されたる大法会の概況を記さんに、該日、近国各地より来会せる僧侶は、寺院徒弟ども三十名にして、参拝者は町長、区長、町会議員一同、罹災者遺族等およそ八百余名■本堂の前面には丈六の供養塔三本を建て、また三間の施餓鬼棚を設けて、その正面に位牌を安置し、その傍らには湯茶菓の供物、山の如くに積み
重ね、しこうして檀の左右には小塔婆二百五十余を並列し、これをめぐらするに五色の旗をもってしつ。式、最も荘厳を極めたり。やがて正午に至り、両本山代理追弔師・鈴木無三、各僧とともに正服にて威儀端然として、徐々式場に進み入ると均しく、朗々たる読経の声は起これり。この時、さしもに広い寺内も立錐の地なく詰め寄せたる八百余の参詣人、寂として声なく、ただ随喜の涙、ありがた涙に咽ぶのみ。午後三時、読経終るや、遺族の焼香あり。しばらくありて鈴木大導師、登壇して一時間余の談義法談あり。談延いて、目下、衛生上の注意方に及ぼし、聴衆をして大いに開発せしむるところあり。右了りて参拝者に菓子、団子等の施与あり。かくて一同無事退散せしは午後五時頃なりし。
なお、前項の僧侶一行は翌七日をもって彼の未だ死体の発見せざる遺族者のために二艘の舟に打ち乗りて大槌湾内を漕ぎ回りつつ、溺死者、精霊に対し、懇切に回向供養せられしかば、遺族者ここに大いに安心満足し、感涙をすすぎて一行に拝謝せりという。
曹洞宗両本山にては、前記追弔導師・鈴木無三氏をもつて江岸寺住職に慰問金五円に賞状及び賞与品安陀会一肩を伝達下付せらる。賞状に曰く、
岩手県江岸寺住職  吉峰 祖栄
  其地海嘯ノ際、諸堂宇ノ浸潮スルヲモ顧慮セズ自ラ狂浪ニ投ジ怒涛ニ埋溺セラレタル男女ヲ救助シ
  其生命ヲ全フセシメタルコト十五名ノ多キニ及ビ、尚ホ其他ノ罹災者等ヘ■シク衣服飲食ヲ供給シ
  且ツ非命者ノ弔葬ニ懇到怠ラザルノ條、其行為■ニ嘉ス可シ。依テ茲ニ安陀会一肩ヲ賞与ス
       明治二十九年八月二十七日
                     大本山永平寺貫首  勅賜 性海舟 禅師
                     大本山総持寺貫首  勅賜 法雲普蓋禅師


◎小野餘慶太、宇武方虎治、館坂民次郎の三氏は、大槌町駐在所詰の巡査なり。海嘯の翌十六日は惨害の最も甚だしき釜石の警察署において部内各駐在所詰巡査の定期招集日に属すれば、右三氏もこれに応じて凶変当日の午後に出発すべきのところ、当日は町内において凱旋兵士歓迎会にて、士女の雑踏ひとかたならざれば、取り締まり上、同日は遂に釜石町に赴くを得ば、翌早朝に出発することに協議を定め、さて同夜に入りては大槌町内にありてもっとも多く惨害を蒙利子安渡、大須賀方面へ取り締まりとしてイザ出張せんとする矢先、たまたま町民より何らかの告訴事件を提出する者あり。その被告人の召喚等にてかれこれ一時間ばかり手間取るうちに俄然、彼が如きの大凶変となりしも、駐在所は事なきを得たり。もし三氏にして釜石に赴きたらんには免るべくもあらじ。また一時間の猶予だになくぞ、三氏はまさしく安渡大須賀にありて危険に遭遇せしや必せり。かれこれ共に機を失せしはたまたまもって三氏の高運なりというを得べし。しこうしてなお、ここに特筆大書すべきは、海嘯後、同三氏の精励なる労働を人夫等と共にし、三、四十日間、寝食の暇なく、ことに三氏、必死の尽力をもって人命を救助したる美談、一にして足らずとなり。


◎七月七日は海嘯の日より起算して、あたかも三七の日に相当すればとて、溺死者の遺族、朝来より墓参し、心ばかりの香花を手向けるもあれば、あるいは死体を捜し得ず、やむなく同日をもってカラ葬式を行なうもあり。ために寺々の混雑せること、あたら盂蘭盆会の当日に異ならざるなし。


◎大槌四日町及び八日町に住居する者は、多くは半商半農をもって生活し居るものとなるが、今回の凶変にその家屋・生命にはあえて別条なきも、田畑荒廃に属し、物品またハケ所なきに、ちなみに両石、吉里吉里、安渡等の各村部落に対する数年来の金銭取り引き、まったく滅尽に帰したるもの多し。


◎鵜住居村・沼崎忠四郎氏は、村役場収入役として、かねてはまた授産世話掛たり。氏は海嘯後もっぱら惨害の甚だしき両石方面における事務を分担し、日夜、救済に尽悴せられたるが、なかんずく氏が被災民に対する好所措きたる一例を挙ぐれば、海嘯後、両石の遺民はとかく悚然として海嘯の震■すべきを知り、本地に住居することを厭いて多くは他国に移住せんとしつつあり。氏はこのことを聞くや、大いにこれを慨し、すなわち有志者・白木沢孝、高橋萬次郎の二氏と相謀り、遺民一同を呼び出して、懇々移住の不可なるを諭し、かつ人名簿を為りて従来の如く本地に移住せる者はこれに調印せよ、他に移住せんとする者は直ちにこの地を立ち退くべしと、果断の処置をもって命令を下せしかば、遺民等はここに始めてその理を会得し、遂に移住のことを思い止まるに至り、方今、人家いよいよ立ち揃い、今より数年を経ざる間に、十分の回復を期しつつあるもの、実に同氏等抜群の尽力に因らずんばならず。
また、同氏自ら人夫を督して死体発掘に従事せり。その際、人夫等の無分別なる妄りに死体を土足に掛けあるは、死者を辱かしむるのところ往々にしてありしをば、氏は見当たり次第、梁等悪行者をとらえて拳固を喰わせながら怒鳴りけるは、わが一村の死体はみな、わが親戚の死体なり、わが親戚の死体をして再び辱かしむる者あらば、用捨なく警官に訴うべく懲役に遣るぞとて、痛くその非行を責めければ、爾後、人夫等、その理に服し前非を悔やみ、死体の取り扱いはもちろん、百般の立ち働き対し、一層の丁寧を加えたりとなん。ああ、同氏の如きは非常の場合に際し、臨機応変もってこれを処し、しかも遂にその正鵠をあやまたざるものというべし。


◎龍田艦は大槌湾内碇泊中、士官四名、水兵二十名を室浜に派し、もつてかの遭難者・佐々木與兵衛、山崎久右衛門等が、海嘯のため海底に打ち沈められたる漁具引き揚げ方に尽力せられし結果、遂に鮭網十間切五十枚、鰯網五十間、錨二個を得たりという。


◎大槌町に菊池左惣太という者あり。その祖先に兄弟の学者あり。兄を慈泉といい、本家を相続し、しばしば大宰府に行きしことあり。金剛石を古廟山に埋め、天明のころに死せり。この金剛石、今珍しき訴訟となれり。弟を祖晴という。仏に志し、また菅公を信じ、一回大宰府に行き、菅公の遺物を齎し帰り、社を作りてこれを納む。その名を東梅社と称し、宝庫に菅公の円座片飛梅の枝などあり。境内すこぶる広く、花卉泉水の結構、見るべきものありしも、維新後、子孫零落して廃退せるを、当地の有志者、回復せんとしつつありしに、今回の海嘯に荒らされ、宝庫崩れ水泉埋まり、見る陰もなし。


◎釜石鈴子製鉄所長の話に、当夜、海嘯の起こる前、震動の声甚だしく、尋ねて処々泣号の声聞きしかば、走って堤上に至るに、電信柱に取り付き助けをもとめむるもあり。その中に船舶、木材等、追々流れ来たりし故、もはや猶予ならずと、帰って職工をして所々に火を焚かしめ、また釜石の方にも火を焚くべしとて、数ケ所にかがり火挙げしに、これを見て助かるを得しもの八、九十人もあり。そりよりまた、馬の飼料造る大釜にて粥を煮て所々に配布したり。また、製鉄所の備蓄米百石ばかり流され、そのほか流されたる材木、鉄鉱もおびただしく、この騒ぎにて本製鉄所の損失は四万ニ千円むなりしという。


◎釜石部内平田区区長・久保亀太郎氏は、僥倖にも死を免れしかば、海嘯後三十分を経て、同区内の久保重吉、 久保市松、前川勘五郎、猪又平助、佐藤長太郎、その他二、三の人々を指揮して湾内に舟を漕ぎ出し、漂流者七名を救助せり。その救助せられたる人名、左の如し。
  久保のえ(六十余) 久保六松(九才) 久保徳三郎夫婦・子供二人・ほか一人(姓名不詳)
同区長の談に、海嘯後一両日の間は、罹災民に対し流れ残りの米または稗等を集めて、一時、飢えを凌がせたるが、その後、救護米の挙ありて、大いに心を安らけり云々。また、同区にて災後、常に尽力せられし人々には高沢亀松、赤崎富右衛門、久保亀太郎の三氏なりとぞ。


◎安渡にては、負傷者はみな、大槌臨時病院に入れ、生存者は同村小学校もしくは村社に蒐集し、救急のため備荒倉を開きて一時の餓を凌ぎたり。また、この地は無難者をもつて人夫に充てたるため、他地方の如く悪徳悖徳者の跋扈するあるを見ず。


◎吉里吉里村に天照太神を祭る神明社と称する祠あり。昨年来、郷党相謀りて祠前に石鳥居を建立す。高さ一丈余、周囲三尺五寸なりしが、激浪に押され、二十間の距離に転じ、また鳥居の前に石橋あり。人をして担がしめば、十四、五人の力を要すべし。この石橋、これまた三十間の距離に持ち行かる。また、釜石町なる尾崎神社遥拝所の石鳥居は、周囲五尺余、高さ一丈四、五尺の物、中ほどより二つに折れ、その上部は百五、六十間も西方に打ち流さる。もっていかに激浪の激甚なりしやを窺がうに足るなり。


◎石応寺は北方高地にありしため、海嘯の難を免れたれば、発見したる死体はことごとく同寺に運搬せり。伏死累々いずれも水腫れに腫れ、膨らみ色変じ肉裂け皮膚爛れ、あるいは腕の折れたるあり。あるいは骨の砕けたるあり。あるいは首のなき小児の遺骸あり。一として創痍を負わざるなく、中には内股に膀胱のようなる水嚢の出来居るもあり。手足、腹部の腫れ上がり、回り三尺以上の者もありて、ほとんど人体の格好を失い、もし臭気なくんば下手の彫刻家の手に成れる人形かとも思われん。しこうして少なきは二、三ケ所、多きは七、八ケ所も黒紫色斑班として桑の実の熟したるが如きもの体中に呈われ居れり。これ、木材などに打ち当てられて黒血の寄りたるにやあらん。
見るからに毛髪堅立ちて、思わず念仏を唱えぬ。


◎同寺の門前にはここかしこより集め来りたる死骸を陳べて遺族の人々に示しけるは去十八日夫婦と覚しき翁媼の来りて陳へ置きたる若き婦人の側に寄りて、オオお前はここにいたかとて、死骸を抱き起こし、経帷子の代わりにとて、白木綿を着せつつ、涙を浮かべて生きたる人に物言う如く之れを持って行けよ此帯をしめて行けよなとと語りては時々其名を呼びて念仏を唱えけるが、語々切々、真情より出でざるなく、他の遺族の人々も我が身につまされて貰い泣きをなしたりとなん。


◎釜石町役場の金庫は無事に拾い上げられたるも、その鍵を預かり居れる収入役・金崎祐三氏の溺死したるため、金庫の金は急場の用をなさず、役員等は拱手唖然。


◎同町にて先年、一等卒として日清戦争に加わり、抜群の功を奏せし大坂亀松といえるは、多数の家族を失いしにもかかわらず、海嘯翌日より人夫等と伍し、死体蒐集、破材取り片付けに従事せしが、人夫等中、往々死体の惨状を見て躊躇し、または爛壊したる死体の臭気に辟易する者さえあり。然るに氏は、戦場にて死体を見慣れしためにや、肝太くも、率先して死体を背負い、あるいは引き出し、同胞も啻ならず手厚く取り扱われければ、一ノ倉郡長、これを見て、奇特の人なりとて称嘆し、酒代金五百円を恵与せられたりという。


◎釜石石応寺前なる田んぼの中に破船の打ち揚げられたるを取り除け、見しに、数十の死体、累々地をなせり。そが中にてもっとも酸鼻を極めたるは、臀より以上は泥砂に埋められて両足のみ顕し、一見、人足の植物かと訝る掘り出し見れば、泥砂深く九■にヘシ込み、その惨いかなる土耳古の極刑ともかかる酷烈には達せざるべし
と思われたり。


◎鵜住居村にては、海嘯のため溺死したる者八百余名の多きに達したることなるが、その際、同村の寺院・常楽寺の住職某はたまたま出京不在中なりしかば、隣村なる栗橋村林宗寺住職・菊池徹門氏は、同宗の誼を重んじ、凶変の翌日をもって常楽寺に来たり、溺死者に対し一々引導を渡し、また遺族に対して八百余名の血脈と法名を書し与え、しこうして布施読経料は一切謝絶して一銭も身に着けずという。奇特のことにこそ。
釜石沢村において、十人ほども崩れし木材の間に挟まれつつしきりに声をあげて助けを呼びしも、何分激浪怒涛の中にあるのみならず、人手少なくして力及ばず、わずかに三人を救助せるのみにて、その余はみすみす激浪中に捲き去られたりと。


◎釜石役場の吏員は、横浜居留外人代表者たるベンチット氏の寄贈にかかる布団五十組を独身の者、貧困者または生計の目途立たざる老人・磯田ちん、岩間たつ、井筒えん、細川しん、川端とめ、川端のこ等に下し渡すや、皆々、地獄に仏と嬉し泣きして合掌閉目せるの光景、今なお耳に残り、眼に存す。
また、香港、上海、神戸三居留外人代表者の寄贈品配与の際、■寡孤独となりし者十二、三を頭とし、五、六才の子供ら紅葉の如き手を揉み、涙を浮かべ、私のところでは父と母と姉と死にました、と言うも、あれは阿爺と祖父さんと母さまと兄さんと皆、仏様になりましたと、片言まじりに言うもあり。外人代表者は通弁によりて事情を詳らかににし為に涙横流、ハンカチーフを絞りしとぞ。


◎大槌駐在所巡査・館坂民次郎氏は海嘯当夜、人命を救助せんと山なす残墟の間を踏み越え踏み越え、海岸近く進み行きけるを、大須賀の某は倉皇同氏を引き止めつつ、いまだ海中の鳴動止まざれば、海嘯再び寄せ来るやも測り難し危うし危うし思い止まり給えと言えば氏はイッカナ承知せずイヤ假令海嘯来たりて我が身を奪い去らるるも、彼ら被災者の悲鳴を聞き、みすみす見殺しにするは職業柄にも背き、また我が良心に問うて忍びざることなり。離して行かしてと言えば、某また遣らじと強情を張る、ああ遣らぬ心、ともにエラシ。


◎釜石にて海嘯の退きたる跡で、そこここの水溜りに魚類溌剌として飛び、水なきところには魚介類夥多散在し居むたるより、餓民は争うてこれを食いたりと。大槌の災民は救助米のあらざる当時は生麦を食いし由、聞き及びぬ。


◎吉里吉里・吉祥寺住職・西舘拙堂師は、海嘯当夜、数人の命を助け、かつ多くの被災者のため炊き出しを為し、あるいは衣類等を給与し、一方ならず尽力せられたる由、功徳無量。


◎大槌町の有志家・倉田保之助氏及び金崎繁蔵の両氏は、海嘯当夜、皷勇率先し人々を指揮して人命救護に尽瘁したることはかくれなき事実なりとは、今、同倉田氏が当夜、調査したる被害人救助者の姓名を得たれば、左に列記して永くその美徳を顕わさん。
  被害人 栢崎吉家内二名、ただし同人の宅において
  救助人 伊藤仁右衛門、伊藤仁平


  被害人 菊池傳蔵家内四人、ただし同人宅において
  救助人 金崎直蔵


  被害人 岩間きく、山崎藤太郎、ただし七間町反圃において
  救助人 小松徳松、三浦大次郎


  被害人 及川エイ父一名、同人宅において
  救助人 岩間熊右衛門、伊藤仁平


  被害人 赤崎徳蔵の妻子二名
  救助人 伊藤仁平


  被害人 赤崎エイ、及川庄五郎二名
  救助人 伊藤仁平


  被害人 阿部カル子子供ヒサ一名
  救助人 金崎直蔵


  被害人 越田長助、ただし同人宅において
  救助人 越田留五郎、伊藤仁平、岩間熊右衛門


  被害人 大工吉五郎の子供一名
  救助人 金崎直蔵
  被害人 伊藤大吉
  救助人 中村金四郎、伊藤仁右衛門


  被害人 金野傳蔵子供一名
  救助人 金崎徳三郎


  被害人 岩間喜三郎母、岩間永蔵子供
  救助人 山口徳右衛門、金崎直蔵


  被害人 後藤富弥
  救助人 釜石町・末田豊吉ほか一名


  被害人 橋本酉蔵
  救助人 小川清作、金崎徳三郎、内金崎徳蔵
  被害人 おわき夫福松
  救助人 道又長太郎


被害人 数名、右は道又マツエ、太田傳平両家の屋根に長杭を渡して助く
  救助人 内金崎徳蔵、小川清作、金崎徳三郎


  被害人 男女数名
  救助人 伊藤聡、大井某、金崎繁蔵、倉田保之助


◎田中長兵衛氏の所有にかかる鈴子製鉄所は、何らの損害なかりしも、鈴子より海辺に通ずる軽便鉄路一マイルばかりは、海嘯のため大損害をこうむり、ことに海中に突出せし一百間の桟橋は、当夜、流失してわずかに乱杭の類を止むるに過ぎず。かつ、回遭部に在りし役員二大五頭一倉庫一役員夫、長屋三棟と八十余名の人夫とは遂に頭だも見ずとなり。


◎浜辺へ逍遥すれば銀簪の石■の間に挟まられて、残りあるを見るお椀の二ツ三ツ、彼方こなたに散乱しあるを見る。ああ、銀簪の主は果たして誰なりしぞ。海嘯の当夜、かのお椀もて夕食を済せし人は運命よくその身を保つ得たりしなり。災後数日の後、当夜の惨況を無言に告ぐるもの、比々として然らざるはなし。頑是なき小児の身に襤褸をまとい、悄然として海面を望観し、泣かんとしていまだ泣かず。何やら独りごとすること数度、遂に堪えずやありけん。眼をおおうて砂上に倒るるにいたりては、これを見るもの、あに一掬涙なからんや。


◎釜石町・村井辰五郎氏の家は世々、海産米穀酒造の業を営み、慈悲の聞こえ高くして、氏の父、慶応二年の飢饉に際し、大いに倉廩を開き窮民をにぎわせし等のこと少なからざりしが、氏、その後、学校の建築、役場の造営等、独力これを為し、その筋の恩賞両三回にして足らずという。然るに、今回の災厄にて多くの損害を受けたるにもかかわ
らず、玄米三十石を救恤米として釜石町役場に差し出し、また二十六日には石巻より米二百石を取り寄せ、これを時価の三割安に売りさばきたり。されば、東園侍従が六月二十五日、釜石鈴子館に宿泊の折りも、氏を召し、種々、慰問の弁ありし由なり。


◎釜石電信局局長・村井儀蔵氏は辰五郎氏の舎弟なり。自身もまさに溺死せんとしてわずかに九死中に一生を得たるが、氏は職務に殉ずるはかかる時にあり。電信の不通は目下第一の不便なればとて、流失残りの古機械をさがし出し、数日の後には同地より発電するを得たりと義憤というべし。


◎郡吏・吉田氏の談に遠野郵便局長・菊池松雄氏は釜石郵便局流亡の変を聞くや、それぞれ報告を了し、監督局長に稟中の上、十六日午前第九時、遠野を発し、同日午後四時、釜石に着するや否や、同局長に打ち合わせ、局務を挙げて担任することとし、まず流亡の局舎を捜索して予備機械を発掘し、ただちに鈴子なる田中製鉄所に談し一室を借り受けて事務所にあて、かつ同所備え付けの電話用電池を使用し、急速電池の発作を為し、その他仮局の準備に従事したり。したがって翌十七日に至り、未明より局用諸品の捜索に手を尽くしたるも、破材積み重なり、容易に発掘するを得ず。よって持ち合わせの手帳を引き裂き、用紙となし、また微々たる音響に頼りて受信をなし、すなわち午前十時をもって電信開始することとはなりぬ。郵便物は切手及び日付印その他流亡せしため、便宜の方法をとり、引き受けの分は正貨を添えて甲子局に交付し、また到達郵便物は警官等に打ち合わせ、できるだけ配達せり。この日は旅装のまま寝食を廃し、役員とともに服務し、発着電報百四、五十通余を取り扱われたりという。応急機敏の処置、義憤のあるところ、村井氏と。兄たり難く、弟たり難し。


◎吉里吉里は従来、法華信者の多き所にて、海嘯の当夜、信者の一人・芳賀某は難を山路に避けんともせず、ここぞ古来例しのある妙法の功力を顕わしたまえと、団扇太鼓を叩きつつ、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と叫びしが、もとより然ることのあるべきはずなければ、遠く海中へ押し流され、遂に惨死せりという。


◎ある家にては、海嘯の夜、端午の祝宴を開き、大勢打ち寄りて、同地に行なわるる擂木舞(すりこぎまい)をなしいたるに、無残や残らず惨殺され、日を経てその居宅の跡より擂木及び三味線の撥を手にせる男女数多の死骸を発見せし由。
酸鼻の極というべし。


◎海嘯の翌日、泥砂の中より乳児を背負いたるまま死したる婦人の死骸を発見したりとの届け出に、係官はただちに出張してこれを検ずるに、不思議や乳児は存命し居り、しかも少しの負傷だにせず、最も健全にてありしと顧うに、これ引き潮の際、母は流れくる材木等に胸部を打撲せられ、ためにか弱き乳児に先だって無残の死を遂げたるものなるべし。


◎小学校長・海野某の談に十五日夕刻、まさに点灯の頃、一回の地震あり。この時、たまたま来客ありて縁側において談話を為し居りしに、地震よりおよそ五分間も過ぎたりと思う頃、どことなく轟々と鳴り響く音あり。初めは石臼の音と思いたれど、追々この音響は近接するが如き故、少しく不審を起こし、しばしば縁側より首を延べて戸外を望みたれども、海上はガスのために遠く見る能わず。別に戸外に異状を認めず、ただ細雨の霏々として窓を打つあるのみ。しこうして轟々の音、止まずしてますます接近するものの如し。遂に戸外を望むこと三回目のとき、海上激浪を湧かして白色銀彩をあるを見、思わず「海嘯なり」と絶叫せしは、すでに目前に迫りたる時にして、この一刹那海岸にありし家屋は一斉に倒壊して百雷の轟くが如し。尋常小学校は階段なれども、少しく高地なれば幸いに潮水浸入せざりし故、ただちに勅語を身にまとい、それより数個の提灯をともし、薪を持ちて庭前にかがり火を燃やし、これら種々の動作をなしたる後、第二回目の激浪押し寄せたれば、この間まったく十分以上の猶予ありしを疑わず、しこう
して最も先に轟々の音響ありしは、疑いもなく激浪の湾外の岩石に撞突せし音なり云々。


◎大槌町は、釜石、両石及び船越に比し、海嘯の勢い幾分か減ずるものの如し。これ襲来の潮水、御箱崎と野島崎とのために支えられ、多少、その勢力を殺がれたるをもつて、全力を両及び船越に移されたるに由るならんと言えり。
また、釜石湾は尾崎の両岬に斗出し、湾形あたかも゜嚢のごとしくなりしをもって、幾分か潮水の浸入をさえぎり、潮高やや寛なるを得たりといえども、両石湾は漏斗状を為し、ただちに外洋に面するをもって、ことに潮勢激烈なりしならん。屋材を劈き喬樹を摧きたるの光景は、一目瞭然、人をして暗涙に咽ばしむ。
水海は鳥谷坂の一小村にして、戸数十六人、人口およそ一百あり。毎戸多くは農を業とし、かたわら製塩の業を営み居ることなるが、海嘯は全村を壊滅し、わずかに八男一女を存するに過ぎず。しかも、みな、負傷せざるはなし。当時、潮の高さ三時丈に達し、怒涛岸を掠めて大木を抜き、家屋を微塵にしたるの跡、なお班々として見はる。


◎田中製鉄所の所有にかかる伊勢丸(三百トン)は、当日、洗鉄を搭載し、まさに抜錨せんとせしも、雲霧のため果たさずして両石湾に在りしに、端なくも凶変に遭遇し、恋峠の麓に簸揚せられ、船体まつたく粉砕せしため、船長以下乗組員一同、哀れなる犠牲を遂げ、十四歳の一炊夫のみ辛うじて一縷の命脈を維くを得たりとぞ。


◎根浜は一村挙げて製塩をもつて業となす。流失家屋八、全壊一、溺死一、製塩所四また滅却せり。


◎炊き出し米一人一日分の料は各村部落それぞれ小異あれど、大須賀罹災民へは十三才未満三合、十三才以上四合、七十才以上三合、女はすべて同三合ずつ、味噌は一人に付き大小ともに三十匆あての割合にて配当せり。


◎海嘯後、七、八日を経たる頃、白浜区長・前川勘右衛門氏、人夫数人をしたがいて舟に乗じ、湾内の死体を捜索中、ただ見れば、彼方二十間ばかりを隔てし波間に、小舟の覆りしともおぼしき物、隠れ見、出没せるを、船中の多くはみな曰く、彼はさだめし牛か馬の死骸なれば、舟を行くるの要なし、いざこれより舟を岸に回すべしというを、区長の前川氏独り肯んぜず否とよ。彼はまさしく人屍に相違なし。早く早く舟を彼方に漕ぎ寄せよと、一行を指揮してその場に近寄り見るに、果たせるかな、そは七、八月を経たる妊婦・闌賀某の死体にて、全身はなはだしく膨張して面部、腹部大いに負傷し、ために四面の海水、血潮を湛えて地獄の池もかくやあらんと、人々戦慄してしばしは手を下す能わざりしという。ああ、惨また惨虐また虐。


◎海嘯後の物価概調
 一、白米 一石に付き  金二円五十銭   一、味噌 一貫目に付き 金十四銭五厘
 一、木炭 一貫目に付き 金四銭五厘    一、鶏卵 一個に付き  金 三銭
 一、鶏  一羽に付き  金四十五銭    一、魚類 一尾に付き(小魚アブラメの類)金八銭
 一、人夫 一人に付き金四十銭ないし五十銭 一、板 一坪に付き 金四十銭ないし五十銭
   その他たいてい三割増


◎大槌町にて海嘯の翌日とりあえず金品を義捐したる人々は左の如し。
 一、金十円    小西 源兵衛     一、大麦五石    昆  政次郎
 一、金三円 陸軍三等軍医 松井昌親   一、味噌五十貫目  松崎村
 一、金十円    平沢村        一、籾五石     道又 勇助
 一、金十五円   栗橋村        一、籾五石     後藤直太郎


◎大槌安渡なる漁師・佐藤徳之助、黒澤梅吉、同治吉、佐々木已之丞の数名が、海嘯当夜、鱧釣りのため外洋四、五里の地に出漁せしが、いずれも禍難を免れ、帰航の後、始めてこの大災あるを知り、上陸し見れば、家屋も妻子も流亡して影だに留めざる者多しと。ああ。


◎釜石高等小学校訓導たりし石井直身氏の談話に、余は海嘯当夜、人命を救助すること数知れず。爾後、常に災民救済に従事せしが、その見聞中、情に迫り暗涙を催す者多きが中に、小軽米汪の宅地にて母子の死体を見たるが、それは誰人の妻子なるかは確かならねど、母体は泥砂の中に埋められ、ただ顕わるるは、双手のみこれを距ること、わずか二、三尺のところに二、三才ともおぼしき小児の眠るがごとく死し居たり。これ思うに、その母子に濁水を呑ましめじと、両手に高くさし上げつつありしに、前記の如く、身は泥砂に埋められ、ついに力叶わず、その手を放したるものならんと言えり。


◎釜石町役場助役・佐々木由良蔵氏は、海嘯当夜引潮をうかがい、暗夜を侵し、死体泥砂残墟の間を打ち越し、崎■艱難して鈴子製鉄所に至りて炊き出し米を促し、もっとも機敏に応急の処置を為したるが、役場に帰り見れば、我が着せし白地の浴衣はことごとく泥と血に塗れいて、名状すべからざる凄みありしと。


◎大槌町の倉田保之助氏は海嘯の起こる四日以前、夢に大海嘯襲来し家族散り々々になりて山に駆け登りたるより、己れは家族等の行方を尋ねる便にもと、手から一の旗を目印となして一所に寄り集まりしにぞ、ヤレ嬉しやと愁の眉を開くと思えばたちまち夢覚めたり。氏はあまりの奇夢に翌朝、友人等に向かいて夢物語を為しけるに、皆々、痴人の夢と嘲り笑いに付したりしが、果然信然、間もなく今回の大海嘯の起こりしは実に一奇と言わざるを得ず。


◎鵜住居にてその姓名は聞き漏らしたれどね四十前後の婦人は桑の木に蔦葛の如く■と取りすがりたるままこと切れおりたるを、海嘯の翌日、発見せり。なお、誰人の子とも知らぬ二、三才の小児、同婦人の足を枕とし、愛らしき顔して死し居たり。哀れ、無常の極なるかな。


◎釜石区内にて人命救護者のその最たるものを挙ぐれば、すなわち嬉石の漁師・藤原六蔵なり。六蔵は第一回の海嘯に家屋もろとも捲き去られしが、自身は家族を救うに遑あらず、裏屋根を破りて屋上に在りしに、たまたま舟の漂流し来たるに会し、これに飛び乗りたるが、同人つくづく思うよう、吾、我が家族四人が溺死をその場に認めつつ、遂に力及ばず救い得ざりしこと、いかにふがいなき身と嘆き怨まん。不憫なことしてけりと悲嘆の涙に掻き暮れしが、ややありて気を取り直し、ああ吾ながら詮なきことに泣き悔やまんことすでにおそし。しかず吾はこの舟を得たるを幸い、海中に漂う数多の人命を救護し、その功徳によりて家族亡霊等の冥福を祈り奉らんにはと、奮然、意を決し、それより湾内ここかしこと舟を漕ぎ回しつつ、幾多の辛酸を経て、遂に左記の人命を救助し、翌朝に至り、ようやく上陸したるはまことに目覚ましかりける次第なり。
    高畑 利七   藤田 金蔵   同 まつえ
  右はいずれも嬉石村弁天岩近傍において漂流中を救助す。
    藤田 こきく  同 竹蔵    同 ことえ
  右はエラコ島近傍において救助す(弁天島の沖にある島)
    山内 春松   同 ちとせ   同 ふく
  右は州賀桟橋近傍において同断。
    野館 はつ
  右は越口と称するところにおいて
    松崎 富助
  右は弁天岩近傍において
       平次郎
  右は釜石字尾崎前において救助す。
       吉助(仙台出生の菓子商)
  右は弁天岩において
       留十郎(気仙小白浜出生、姓不詳)
  右は釜石町佐々木某の妻、離縁につき親戚として引き請けのため来釜中、平田沖に漂流せる救助す。
西川 鶴助   平野 丑二郎
  右は字尾崎前において救助す。


◎釜石場所尾崎神社遥拝所の由来を略記せんに、同遥拝所は元和年間、社地とも海嘯のため流亡せし後はただ流亡跡の海中に鳥居のみ残りありしを、ここにて来たりたるに、元文三年午年十一月、釜石港の諸漁船及び信徒等相謀りて社地築地社を造立し、爾来、万民崇敬し尾崎大明神に正一位の勅宣をも賜り、年々九月二十八日、平田青出なる本社郷社尾崎神社祭神・日本武命の神璽を海上御召船にて引船遥拝所へ鎮璽、翌二十九日、釜石市中、神輿渡御の祭典執行、翌三十日、御還社の仕り来たりなるを、明治二十九年十五日、またも海嘯のため社殿幣殿長床、石の鳥居、灯篭までことごとく皆流亡したり。然れども、重なる宝物及び神輿祭具は現存せり。青出本社には異状なし。
遥拝所境内無格社・綿津見神社は祭神・豊玉比古神、豊玉比売神を文化十癸酉五月、同町佐野長門勧請以来、これを虔敬崇拝し、年々、六月十五日夕をもって市中神輿渡御の祭典あるを、明治二十九年六月十五日、海嘯のため社殿拝殿神輿までことごとく流亡し、ただ神璽のみ残せり云々。


◎釜石町にて海嘯の翌日、十三才を頭として五、六才ばかりの子供三人は、一人の男の袖にすがり悲鳴し居たり。近き見れば、一人の男は三児の叔父にて今その三児が父母の死骸を入棺するところにてありし。(棺は夫妻とも二個石油箱にて造れり)件の叔父は母なる死骸を棺に収めね今や蓋せんとせしに、三人の子供はその棺に取り付き、オッカサン、オッカサンと泣き叫んで容易に手を下さしめず。よって叔父はさらに父の棺に手を掛くれば、またも小児等は、父の棺にすがりてオトッチャン、オトッチャンと泣き悲しむにぞ。叔父も果ては手余して、その身もその場にドウと泣き伏しぬ。


◎両石にては、海嘯後十余日間は、もとより雨露を覆うの家もなければ、布団も莚もなし。されば夜間は十数人一団となり、焚火を取り囲みつつ、木の根を枕として地上に寝伏したる有様はあたら牛の野宿に似て、今思い出だすさえゾッと身慄いするほどなり。


◎釜石石応寺は町の西端隅に在りしをもって、幸いに災厄を免れたれば、罹災民等はみな、同寺に駆け込み、宿泊することを得たり。しかるに、ここに同寺の住職・菊池智賢師が海嘯当時の苦心難行を極めたるその一、二を記せんに、当夜、海嘯の音を聞くよりも、師はまずその長老・義善を指揮してかがり火を数ケ所に点じて罹災者数千人の迷路を開き、次いで罹災者に対し飲食衣服を給し、なおその翌日よりは溺死者のために読経弔葬のことに従い、その余暇をもって死体の処置、負傷者の看護、あるいは孤児を収めて福田会に養育方を嘱託するなど、大いに警官及び町役場の手数を省きしところありしかば、今日に至るまで官民共に師が徳を称揚して措かざるところたり。
同寺において海嘯溺死者三十五日忌追弔法会を修す。この日来会せる各地の僧侶四十七名、寺主・菊池智賢師の法語に曰く。
  幽魂■々去何之   可耐人間永訣離
  直説無生欲相慰   肝膓如鉄涙先垂
  山門本月此日設無遮会因請各寺尊宿以追吊海嘯遭難者各霊位者也
      抑
  人生世也   死難不免
  天変地異   因難数奇
  各霊応供之消息以何為験
      ■
  雨耶非雨精霊之涕涙
  雲耶非雲遺族之鬱情
また、同寺において四十九日忌追吊法会を執行す。会せし寺院三十八、岩谷堂光明寺主・梅渓月潭師の法語に曰く。
  桑海変更不可知   誰思白浪捲家時
  親呼子叫終無跡   今日香莚涙独垂
      (後語省略)
海嘯溺死者のため追吊読経を為し、かつ慰問として同寺に来られたる僧侶姓名、左の如し。
    岩手県曹洞宗務支局              松井  智定
    宮城県曹洞宗務支局代表者           貝山  宏賁
    兵庫県河邊郡中山寺住職            鷹尾  亮範
    江刺郡岩谷堂光明寺王             梅渓  月澤
    埼玉県下寺院惣代曹洞宗            星野  仙梁
    真宗大谷派本願寺役僧             佐々木 団慰
    愛知仏教会特派使               早川  見龍
    真宗大谷派崇徳会特派員            安藤  嶺丸
    山形県西田川郡西郷村善賓寺代         成澤  孝巖
    北海道札幌区太子講副会長           田中  朴山
    仙台仏教顕揚会代表              佐々木 教潤
    曹洞宗務局特派員               阿部  大環
    曹洞宗両大本山代理              鈴木  無三
                        外八名
頃者田中製鉄所の職員等、海嘯溺死者のために四百金を醸し、以て同寺境内に一大石碑(長九尺横四尺座石共一丈四五尺)を建てんとし、すでに之を石匠に委せりと。碑文左の如し。
  三陸大海嘯溺死者吊祭之碑(篆額)
  変之大莫過於渺然死之惨莫甚於罹水火刀材震雷之災焉況其屍累々以萬数可謂惨中之惨至此極矣三
  陸之地東方皆海一望渺然無知涯際明治二十九年六月十五日初夜暗雲掩海俄然怒浪滔天洶湧翻倒恰
  如萬雷一時轟劈山裂石援樹稚船兇勢所及南数十百里青森、岩手、宮城三県之地尤蒙其毒千戸万家
  一■漂蕩父子兄弟無遑相済夫婦朋友或同葬魚腹或顕幽異途死者無吊祭生者無屋宅衣食老幼病弱悲
  泣痛哭却恨其免万死得一生傷心惨目何事如之岩手県釜石町亦罹害極甚町有田中製鉄所職員工夫及
  其家眷等為之溺死者一百三名同僚存者痛悼之情不能禁興東京田中本店及大坂田中支店諸員胥謀欲
  建碑石於石應寺境域以為招魂之処歳時追弔而祈冥福寺主智賢長老来請余文余固悲被惨死切也乃打
  一偈以専■一百三名併回向諸溺死者云偈曰
  溺没三万 乾坤沈淪 天子宸痛 下詔賜金 老幼得活 億兆懐仁 唯其死者 噫奈識神
  法之檀度 庶幾帰真 頏石説法 刹々塵々 無遮大会 無主無賓 正偏宛転 同乗願輪
   勅特賜性海慈船禅師永平悟由撰
  明治三十年                 藹々居士大内青■書
同寺主菊池智賢氏に対し曹洞宗両大本山よりの賞詞左の如し
                 岩手県 石應寺住職 菊池 智賢
  其地海嘲ノ際臨機幾多ノ篝火ヲ点シテ罹災者ヲ救助シ及衣服飲食ヲ供給シ且ツ非命者ノ弔葬等懇
  到努力其行為洵ニ嘉スヘシ依テ茲ニ安陀会一肩ヲ賞與ス
  明治二十九年八月二十七日
    大本山永平寺貫首              勅賜性海慈船禅師 

大本山総持寺貫首                   勅賜法雲普蓋禅師
九月五日、曹洞宗両管長代理・鈴木無三師の臨時追吊法要あり。なお同師は宮古町より帰途を約して十五、十六、十七の三日ニ夜の大施門を開き、その間、慰問法話会をもなし。大いに遺族者を慰賑する所あり。同師香語に曰く。
    海嘯衝天三陸邊    群生数萬罹斯縁
    為修耳露法門刀    直証根源當體円
      ■
    風彩長留釜石港    必華開発薫大干
        (以下略之)


◎前記釜石石應寺住職が手記の日誌、海嘯翌日より四十九日に至るまでを得たれば、左に之を抄出す。
  十六日ヨリ廿一日迄ニ姓名ノ判然セシ死体ハ既設墓地又ハ新墓地ニ仮埋葬セリ 此日ハ変死者ノ一
  七日ナレハ忌斎ヲ設ケテ追悼法要ヲ経営セリ○廿ニ日ヨリ同廿八日迄ニ姓名不詳且ツ死体引受人
  ナキモノ只越新墓地ニ合葬セシ 人数六百数十人仲町合葬地ニ埋葬セシ 同姓命不詳者三百余 此日ハ
  二七日ニ相当スルヲ以テ法要ヲ営ムコト一七日ニ同シ 此日ヨリ遠野対泉院主外五ケ寺院ヲ講待シ
  テ難死者本葬式ヲ執行スルノ準備ニ助手ヲ得タリ 本葬式期日ハ三十五日忌ヲ期シ之ヲ挙行行スルノ
  目的ナリシヲ以テ非常ニ繁忙ヲ極メタリ○七月十七日ハ只越町ノ溺死者六百一人ノ為メニ吊葬式
  ヲ行フ 尚十八日ハ場所町ノ溺死者三百二十一人十九日ハ仲町澤村東前三ケ月合併 三百二十九人廿
  日ハ嬉石松原ニテ二百五人廿一日ハ平田、白濱、佐須ニテ三百九十八人各吊葬式ヲ行フ 此日ハ而カ
  モ三十五日忌ニ相当スルヲ以テ弔葬了ルヤ午後四時ヨリ追善法要ヲ営ム 総テ吊葬式施行中ハ僧衆
  廿人ヲ欠カズ 此法要中ニハ郡長及町長ノ臨席アリ 又代拝アリタリ○廿五日ニハ田中製鉄所諸員及
  工夫等溺死者百三人ノ吊葬式ヲ執行 施主横山久太郎ハ参詣人ニ丸餅二個ツツヲ接待セリ○三十一
  日ハ四十九日ニ相当スルヲ以テ予メ大法要随喜ヲ遠近ノ寺院ニ廣告シ遠方ノ寺院ニハ西磐井郡山
  ノ目龍澤寺主江刺郡岩谷堂光明寺主其他気仙郡東閉伊西南閉伊郡ノ本宗寺院四十余ケ寺ノ出席ア
  リ 最モ盛大ナル追吊会ヲ修セリ 當町ヨリハ参詣人ニ菓子ノ施與アリ 亦僧衆ヘモ多少ノ布施ヲ行シ
  當寺ハ施餅ヲ為ス


◎大槌町大砂賀なる柏崎長七一家族は、幸いに生命には別條なく、且つ家宅の流失をも免れたるが、同長七第一回の波寄せ来らんとするの際、奥の一間に老耄して臥し居たる九十に余る祖母を戸外に連れ出すの猶予なくして、そこへ逃げ延びしが、長七は退潮を待って我が家に立ち帰り見れば、祖母は寝所に臥したるまま半身潮水に浸りながら、長七の顔打ち眺め、コレ孫さん何時まで私をお湯の中へ入れて置くのだい。余り熱過ぎて上昇せるようだ。早く抱き上げて縁側の涼しい処へ連れ行かぬか、と言う。この言、老耄者の実相なりとはいえ、その當時に在りては、長七が身にとり、中々の思いなれど、今となりては結局、笑いの種子とこそはなりたれ。


◎同八日町道又新助方の裏手なる倉庫近邊には、破材破船、山の如く打ち揚げられしが、件の物体の上になり下になり、辛うじて漂着したる男女五名は、全身泥に塗れて熊を欺き息も絶え絶えにて倒れ居たるを、同家の家族総掛かりとなりてこれ等罹災者を我が家に担ぎ入れつつ爐上熾んに火を焚きて身体を温め、或は背を撫して悪水を吐かしめ、或は衣服を給し粥を与え、甲斐甲斐しく介抱に尽力せしかば、遂に一同は蘇生するを得たりぬ。実に同家こそ、一同が為めには命の親、再生の恩人なりとこそ謂うべけれ。


◎同町の素封家道又勇助方本宅の向裏畑地に植付ありし柳の下に、二、三の死骸横たわりつつあり。同家の手代等協議すらく。本来、柳に幽霊とは昔し床しくて最とも風流の沙汰なれど、柳に死骸とは語調もあしく寧ず縁喜にもならずとて、同柳樹をば主人に無断にて切り棄てたり。又、赤濱の豪家古舘武兵衛方の裏手の櫻には男女二人取り縋りて助命せしかば、爾来、これを人助け櫻と称し、今に培養保存し置きけり。一は切り一は保存す。共に是れ一対の好洒落。


◎海嘯後七八ケ月のその間は、諸興行物は言うも更なり。乞■の輩、流石に一人も被害地に足を入れず。大いに五月蠅きを省きたり。さる代り、著しく跋扈を極めしは土着の巫子にして、あられもなき妄言誕語を放ちて愚民を恐く蟲惑し、あまつさえ少日月の間に、一人にて百金あるいは二百金を攫取せしことは、独り南閉伊郡のみならず三県
通じての如く噂する者あり。「然るにその当時、諸国の売ト者にして被害地に入り込まざりしハ、彼等獲利的に於て甚だ■かりしなり。占者身の上を知らずとは誠にかかることをや言うならん」又、毎年例歳海岸地方を徘徊したる乞■等は、海嘯後一転して皆、無害地に向かう。中には被害地の罹災民なりと詐称し、ひたすら慈善者に対し憐憫の心を惹起せしめて、夥多の金品を貪りし者さえありしと。あるいは然らん。


◎大槌町に一茶人あり。帳簿の表紙に年号を書するに当たりて、すなわち筆太に題して曰く。海嘯元年何月何日と。これまた記念としての一興。


◎同町々役場にては、九月十二日を以って罹災者一同を集め、各地仁人の寄贈に係る物品を抽籤法以ってそれぞれ配与したるが、該物品は概して衣類、鍋、ザル、桶、食器等、日用必須の道具にして、その中にはかなり目星しき品掘り出し物もあり。数の前なれば又、その中には碌末なる物品も混入しあり。ただこれ等碌末なる物品の弱■に当りたる者こそ少く憾みなき能わざるものの如くに覚ゆれど、彼等罹災者はその当時、煮るに鍋なくして石油箱の上を抜き取り、それを鍋に替えて粥を煮、又、盛るに器なくして鮑具を拾うて椀に替えし。不自由に思い比ぶれば碌末ながらも、今の便利調法はあたら殿様の心地ぞならん。


◎同町にて恩賜金を拝受したる罹災民の或る一部にては、永く皇恩の恭きを忘れざらんため、紀念として目下差詰め欠乏せる須要の物品にて、かつは永遠末代に至るまで保存し得らるべき釜、鉄瓶の二種を購求することに申し合わせ、それぞれ製造者に向け注文せしとのことなるが、右物品の外面には恩賜の二字を刻する趣向なりしと。又、ある一部の罹災民に於ては、神棚を調度しこれに 陛下の御先祖天照大神を安置し奉り、又 陛下とも思うて朝夕拝跪、以って国土の安全家運の長久を祈り奉らんとの敬意に出づる紀念物を注文せしやに聞けり。


◎同町にて、海嘯の難に乗じ潰家散乱たる辺を徘徊し、或は舟を海上に浮かべて沖合より漂流し来る目星しき諸道具、衣類、金銭等を窃取する者あり。中には罪科の発露せんことを恐れ、その窃取したる金円を着服して北海道辺に移住し、その跡をくらましたる者さえありしと。事実、如何にや。


◎東閉伊郡山田地方の犬は、一度屍体の肉味をせしめてより、遂に猛狂して生ける人をも食わんとするに至れりと。噂とりどりなるより大槌町にてもそれぞれ警戒をなし、一時は子供の親々恐縮してその子供等の海岸若しくは埋葬地近辺へ出遊することを厳禁したる程なりしが、大槌町に於ては遂にかかる狂犬の出でしことを聞かざるは誠に幸いなりし。然るに、聞くところによれば、七月十二、三日の頃なりと、山田町の郵便脚夫某は郵便物を担ぎて大槌へ通行の途すがら、突然、三匹の狂犬顕われ、某が前後左右に薄りて喰い付かんとするを、某は逸早く傍らなる樹上に攀じ登りて、頻りに声を放って急を村人に訴うる中、たまたま狂犬撲殺の巡査ここに来合わせて危き難を免れしと。この他、狂犬は至るところに徘徊して農夫等の田園に昼寝を為し居るを目懸け襲わんとしつつある由。海嘯はなお執念くも犬を使嗾して人命を奪わんとするなるが、さても噫惨の惨。


◎焼けたあとの火の用心といえる声の如く、とにかく海嘯後は一微震ありといえども、又もや海嘯の襲来するならんかと惧るる。人心いずれの土地いずれの代にも免れ難し。同町にて八月三一日のことなりしが、該日は地震朝来より夕刻にわたりて微震劇震共に幾回なるを知らず。かかりしかば町民の周章狼狽譬うるに物なく、殊に同日は旧暦七月廿三日に相当し、即ち今より四十二年前の海嘯ありし当日と月も日も同じければ、いよいよ底気味悪しく、地震する毎に今にも海嘯の襲来するかと凝惧心満々たる町民はこけつ転ろびつ我が家を飛び出し山に寺に学校に高所を目指して掛け込むが、中に就てもっとも気の毒なるは老人にて、気のみ頻りにあせれども足の歩みのはかどらず、果ては推し来たる壮丁等の下に圧せられ、気息喘々わずかに一縷の命脈を維ぎつつ人去て漸く這い出す有様は、他所の見る目も哀れなり。又、中には海嘯罹災者にて、とにかく経営し始めたる仮小屋の中より転び出でながら、アアうたてやうたてや、吾々生中この世に生き延びてしばしばこの此苦労を見んは、却って先きつ頃海嘯の為めに一思ひに死を遂けたりし人々こそ羨ましけれなどと、思わず胸を打って■ちたる老嫗老爺もありしとがや。然れども、事ついに風声鶴涙に嘱し、大変を見るに至らざりしは、この上もなき幸なりし。附記す。同町の古記録を閲するに、中に元和年間の海嘯を略記せり。曰く、元和二年ひのへ辰十月廿八日、大津波あり。慾に離れたる者助かり、大慾の者は老弱男女共に大部死す云々と。想起すれば、這般、大海嘯の際、溺死せし者多くは今より四十二年前即ち安政三年七月三十一日に於ける潮勢緩慢なりし海嘯に遭いたる結果として、優々構えたる者、若しくは家具の一草を持ち出さんとして避難に躊躇せし者に係れり。これを元和の事蹟に照らし幾んと符を合へせたるが如し。あにに奇ならずや。しかるに、前記八月三一日に於ける海嘯騒きの有様を見るに、人々すでに過般の海嘯に懲りたるものの如く、しさいいうより、一物を手にせず、単身直ちに家を駈け出せしは、是れ全く海嘯に馴れたる結果なりと謂うを得べし。(同町に於る明治年間の出来事を想い起こせば、実に九の年に限りて天変災禍の多かり。すなわち明治九年の出火には、全町丸焼けの不幸を見、同十九年に至りて、虎病、町内を跋扈して幾多の人命を殞し、しかして又、当廿九年には語るも聞くもおぞまししき大海嘯に遭遇し、なおその後、引き続き前記の如き心胆を寒からしむることども夥多し。さては九の意の含めるものなるか)


◎各町村部落に於ては海嘯のため流失したるを機として、いずれも市街道路の取り広めと町並の改善を謀りたるあとなるが、就中、釜石町市街道路の如きは井然観るべきものあり。これぞ所詮、雨降りて地固まるの理ならんべし。


◎這般、大海嘯の惨状は、とうてい言語に絶え筆紙に尽くすべきにあらず。故人山東京傳が著わせし小説・優曇華物語の中に大洪水の惨状を形様したる一節あり。曰く、河水大いに溢れて村中につき入りしかば、後山にのがれ行くべきいとまもなく、手をひるがえす間に東西両村の人民居屋ことごとく流れ失せぬ。この災に遭う者、親の行衛もしらず、子をうしない家も雑具もしらずなどしておめきさけびあう声、五逆の亡者葬頭河に溺れ、十悪の罪人奈河津に苦しむにひとしく、叫喚大叫喚の光景、目の前にあるが如し。高波、大山のくづるるが如く寄せ来たって鳴りどよむ音、雷にひとしく天地もこの時にほろぶるかと魂きゆるばかりなり云々。余はこの一節の文句を仮りて今回海嘯の惨状、その千分一を評さんのみ。


◎大槌町にて、海嘯の翌日、一婦人血眼になりて東奔西走、その夫や子の死骸を索めしが、遂に得ず。果ては流失せし我が家宅の跡を空しく徘徊しつつ、身を投伏して悲鳴動哭し、さらに正体なし。婦人は悲鳴慟哭の間にかの悲痛の言を漏らしぬ。アア思へば海嘯の起こる三十分前、私しは近所に用達しに行かねばならぬ訳ありて門口を出でんとせしに、夫の膝に抱かれ居たる我が子は、私しを見るより涙ぐみつつ、乳下され、母さま、コレ坊も一所に連れて行んでと、あとを慕い来たりしを、私しは五月蝿き餓鬼めよと叱り付け、モギドウにも振り切り振り離して去り行きしが、程なく大海嘯は襲い来たりて、いとし可愛の我が夫や子は押し流されてなきがらさへも留め得ず。さてもその流さるる当時、如何に二人は悶え苦しみしぞ。最期の際にも、我が子はさぞやこの母を呼びしならん。この世からなる地獄の呵責、今目の前に見るようで、不憫ともいじらしとも譬えがたなき両人が因果、我が身の業と絶え入るばかり嘆きしかば、見る人々、為に濡らさぬ袂はなかりけり。




南閉伊郡海嘯見聞録 終