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1. 始めに

 我が国に於ける津波対策の歴史は,三期に区分することが出来よう。
 第一期と第二期の境は,1960年のチリ津波辺りである。第一期の津波対策は,過去の経験や実績に墓づいて行われていた。この第一期の終わり頃,或いは第二期の初め頃と云っても良いが,このころに津波予報が開始された。
 1960年のチリ津波以降,過去の実績に加え,科学技術が駆使されるようになってくる。この時期の主な対策手法は防災構造物であった。
 第三期は,1987年に建設省・農水省水産庁とで合意を見た総合対策指針の採択に始まる。1997年には,関連7省庁で改めて,一つの対策指針が合意された。これ以来,ハードな対策のみでなく,ソフトな対策が考えられるようになってきている。
 この小文では,時期毎に特徴的な話題を選びながら,津波対策の歴史を概説する。もっとも,数値計算の進歩のような科学技術については,必要最小限にとどめ,応用面での語題を追って行く。

2.明治三陸大津波以前─名望家による対策─

 明治29年(1896年)以前の津波対策は,その土地々々の有力者によって先導されたと云えよう。主な対策は,高地移転や記念碑建立であった。
 今村明恒(1933)は古い時代の伝説を採話している。「役の行者が,一日,陸中は船越の浦に現れ,里人を集めて数々の不思議を示し,後戒めて云うには,卿等の村は向こうの丘の上に建てよ,決して此海浜に建ててはならない。もし此戒を守らなかったら,災害立どころに至るであろうと。行者の奇跡に魅せられた村人は能く莫教を守り,爾来千二百年間敢えて之に叛く様な事をしなかった。」世界で最も津波危険の大きい岩手県山田町山ノ内の事であるとされている。
 避難所として作られた人工丘が平葉県鴨川にある。ここは,避難に適した自然の高地が海津近くにない。1605年慶長の津波の経験から,日枝神社の近くに地盤上の商さ4m,直径30mの人工丘が築かれた。頂は海面上10メートルほどである。1703年の元禄津波の高さは6.1mで,此の丘より低く役に立っ た(羽鳥;1976,伊藤;1983)。もっとも羽鳥によれば,慶長9年の津波の際,此の砂山は押し流された。現在の日枝神社の高台は,このあと津波の避難所として築かれたものだという。
 津波防潮堤の建設されたところは限られている。その一つが和歌山県広である。広は安政南海津波で被害を受けた。醤油醸造業浜口家七代目儀兵衛,浜口梧陵は33才の時,此の津波を経験する。日没後の激震の後襲ってきた津波から危うく逃れた彼は,避難の道しるべにと稲叢に火を付けて,多数の人を救った。此の話が小泉八雲によってA Living Godと云う話にまとめられる。小泉八雲は明治三陸大津波の被害を聞いて,かつて女中から聞いた此の浜口梧陵の挿話を小説にしたという。更に,中井常蔵は此の話を書き直し,「稲むらの火」と題して昭和9年の国定教科書募集時に応募し,採択された。昭和12年より約10年間教科書に掲載された(桜井,1987)。ちなみに,その書き出しに,「今の地震は,べつにはげしいというほどのものではなかった。しかし,ながいゆったりとしたゆれかたと,うなるような地鳴りとは,老いた五兵衛に,いままでけいけんしたことのないぶきみなものであった。」と表現されており,これは小泉八雲の原文でも「it was not strong enough to anybody ; but Hamaguchi, who had hundreds of shocks in his time, thought it was queer, ─a long, s1ow, spongy motion.」(小泉;1971)と書かれているが,この揺れ方は,明治三陸大津波の特徴であり,浜口梧陵が体験した安政南海地震の特徴ではない。
 浜口梧陵は私費を投じて図-1の如き断面を持つ延長625メートルの堤防を築いた(和歌山県,1993)。彼は次の二つの効果を期待したという。一つは勿論津波対策であるが,被災後の住民の収入の道を開く事の方が緊急の目的であった(杉村,1937)。
 1946年に広は再び津波に襲われた。南海道地震津波である。この時,浜口梧陵の堤防は効果を発揮した(羽鳥;1977)。

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図-1 安政津波後に浜口梧陵の作った防潮堤断面模式図.

3.明治三陸大津波─高地移転の失敗─

 昭和8年(1933年)に内務大臣官房都市計画課の行った調査によると「明治29年津波被害に対する復興事業に関しては,国庫の助成を受けたるもの殆どなく,営々自力を以て安住地の造成をなせるもの,又は其の他の防浪対策を講ぜるもの数例を挙げ得るに過ぎず。」という状態であった。
 同調査は,住民によって為された対策例を10例挙げている。防潮堤建設と高地移転として岩手県吉浜村本郷,避難道路建設として宮城県唐桑村只越,街区改正として岩手県越喜来村崎浜,地盤嵩上げとして宮城県十五浜村雄勝,高地移転として宮城県唐桑村大沢,大谷村大谷,岩手県鵜住居村箱崎,船越村船越,唐丹村小白浜,崎山村女遊戸である。高地移転七例のうち,一例はその後原地に戻り昭和三陸大津波で又被災したのであった。
 もっと詳細な調査が,山口弥一郎(1952年)によって行われている。出口は昭和三陸大津波後に三陸各地を訪ね明治以降の高地移転の成否の条件を調べた。車を移動手段として利用しないと云う条件下のものと考えて良いであろう。
 その主な結果を要約すると次の通りとなる。
 明治三陸大津波後に高地へ移転したのは43集落であった。殆ど,土地の有カ者の指導の下に行われたものであって,県などの指導によるものは例外的である。
 もし,漁業集落が原位置よりも15m以上高く,或いは浜から400m以上離れた場所へ移転すると,元の位置に帰ってくるものが多い。原地復帰のきっかけは,大漁による好景気,大火,納屋の定住,集落の発達,などである。その他,影響する因子として,移転先の飲み水,先祖来々の土地や墓に対する愛着といった民俗心理が挙げられている。

4.1933年昭和三陸大津波─総合対策の初めての提案─

4.1 震災予防評議会の提案

 昭和8年3月3日の早朝,激震の後,大津波が襲来し,三陸地方で3千人もの命が犠牲となった。ここは明治29年6月15日(旧暦5月5日)夜,微震の後に襲来した大津波で2万2千人を越える犠牲を出した所であった。此の二つの津波のため,三陸地方は津波常襲地帯として有名となった。
 昭和三陸大津波の後で,震災予防評議会が「津浪災害予防に関する注意書」をまとめた。
 まず,「高地への移転 浪災予防法として最も推奨すべきは高地への移転なりとす。尤も漁業或いは海運業の為めに納屋事務所等を海浜より遠ざけ難き場含あらんも,然れども住宅,学校,役場等は必ず高地に設くべきものとす。三陸沿岸の町村部落は概して山岳丘陵を以て囲繞せらるるを以て多少の工事を施すに於ては適当なる住宅地を得るに甚だしき困難を感せず,但し漁業者にして往々高地住居の不便を唱ふるものあれども,業務上の施設を共同にし且つ適当なる道路を敷設するに於ては其の不便を除くを得べし,実に船越村山の内の如きは古来此の方法を実行し千数百年来未だ曾て津渡の害を被りたること之れなしと称せり。」
 その他の方法として,防波堤,防潮林,護岸,防浪地区,緩衝地区,避難道路,津浪警戒,津浪避難,記念事業を拳げている。
 また,岩手県田老など6箇所について,応用例を示したのであった。

4.2 宮城県による建築取り締まり

 昭和三陸大津波後,宮城県は県令33号によって建築禁止区域を設定した。其の主な内容は次の通りである。
「海嘯罹災地建築取締規則
第一条 昭和8年3月3日ノ海嘯罹災地域竝海嘯罹災ノ虞アル地域内ニ於テハ知事ノ認可ヲ受クルニ非サレハ住居ノ用ニ供スル建物(建物ノ一部ヲ住居ノ用ニ供スルモノヲ含ム以下同シ)ヲ建築スルコトヲ得ス
前項ノ地域ハ知事之ヲ指定ス
建物ノ用途ヲ新ニ定メ又ハ変更ノ上住居ノ用ニ供スルトキハ住居ノ用ニ供スル建物ヲ建築スルモノト看做ス
・・・・・・・・・・
第六条 第一条第一頂第四条第一項及第五条第一項ノ規定ニ違反シタル者ハ拘留又ハ科料ニ処ス」
 此の県令は宮城県下、26箇所に適用された(内務大臣官房都市計画課,1934)。なお,図-2が住居非住居を区別する識票である(宮城県,1935)。

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図-2 昭和三陸大津波後に宮城県令33号で指定された,住居非住居の区別票.

4.3 内務省の復興計画(内務大臣官房都市計画課,1934)

 内務大臣官房都市計画課では,まず航空写真を撮影し,これを使って復興計画を検討した。その対策方針は次の通りである。
 「三陸沿岸地方に於ては,人口3万を有する都市より戸数10に足らざる小聚落に至る迄数百を以て算し,其の大部分は津浪の災害を被りたりと雖も,被害の軽微なるもの,又は部落の極めて小なるものに於ては自カを以て適当の復興をなし,殊に小部落に在りては,災害部落地を捨て,付近の大部落に併合移往するものあるを以て,以下報告せんとするものは,主として,部落の比較的大にして災害の大なりしもの,国庫補助,又は利子補給,低利資金の融通に依りて復興事業を遂行したるもの等を主体として記述す。
 計画方針
都滞らしき形態を備ふる大聚落と漁業農業を生活中心とする小聚落との間には,其の防浪対策又は都落移転計画等につき自ら相異なる方針を採るべきである。」とした上で,釜石,山田,大槌,大船渡のような沿岸地方に於ける交通,経済,教育など社会生活の中枢をなす地方的中心市街地を全部安全地帯に移転するのは不可能であるから,「都市的聚落地はその原敷地に復興するを本則とし,その敷地内に就き土地の利用を工夫し,海辺に直接するを絶対的用件とする運送業,倉庫,そ の他の建築物を除き,住宅は後方安全なる高地に敷地を造成し移転せしむ」ものとした。更に,日常活動の為の道路,避難道路の建設整備に触れた後,防浪施設として地盤嵩上げ,耐震耐浪建築の導入,防波堤の建設を挙げている。
 漁業主体で農業が副次的である沿岸集落については,まず,全村高地移転することを奨める。移転地と作業場である海岸をつなぐ道路の新設整備,災害後の救援を考えて重要道路は津波被害を受けない高地に整備する,鉄道も高地を利用するなどとしたのち,どうしても移転不可能である場所については,防浪堤,護岸の築造,防潮林の植栽,避難道路の新設などを行うこととしている。

4.4 津波防潮林

 三陸津波後,海嘯災害予防調査費として昭和8年度に成立した2万円の内,1万9百十円を使って,青森県上北郡六ヶ所村から宮城県亘理郡坂元村まで調査が行われた。
林学博士本多静六,理学博士今村明恒の指導の下,4チームが編成され,津浪災害の調査と,防潮林造成計画が立案された。ここでは,150地点での造成計画が提案されている(農林省山林局,1934)。現在我々が三陸沿岸で見る見事な防潮林は,この時造成されたものが極めて多い。
 所で,防潮林の津波に対する効果については賛否両論がある。効果ありとする論拠は,1) 流木など漂流物を阻止する,2) 流速を減殺し,浸水深を減少せしめる,3) 津浪にさらわれた人のすがりつく対象となる,4) 飛砂を止め,その結果砂丘が高くなり,自然の防潮堤となる,などである。効果なしとする意見は,巨大津波に対しては到底無力で,悪くすると,津波で切断された樹木が破壊力に変わる,とするものである。
 こうした意見に対する定量的解答は,我が国での45例の解析から一応与えられている(首藤,1985)。

4.5 津波予報装置

 釜石港には写真1の如き装置が設けられた。震浪災害土木誌(岩手県土木課,1936)には次のように記述されている。
 「三陸沿津に於ては津浪の来る前兆として潮位に著しき影響あることが過去に於ける数回の津浪により立証されたるを以て昭和八年の津浪直後に於て岩手県土木課長上野節夫氏は右の現象を利用して津浪予報装置を考案せられたり。
 右装置は海面の水位と共に上下する浮標の上下によりて潮位が或限度の異常水位に低下した場合又は上昇した場合は電気装置によりて自動的に電流が通ずるやうにし,此処より人家ある市街又は部落までの配線により其処に電気警笛を鳴らしやがて恐るべき津浪の襲来を十数分直前に報ずるものなり。
 口絵写真は釜石港防波堤内に設置せられたる本邦唯一の津浪予報装置塔の築造費2,900円警報器728円配電装置費655円雑費24円合計3,500円を要せり。
 本装置は三陸沿岸の枢要地に設備するの必要あるも経費の関係上釜石港に只一箇所のみ設備せられたるを遺憾とす。将来適当の機会に於て少なくとも数箇所に之を設置し相互配線によりて之を連絡するときは電気其の他の故障を予防し得ると共に其の効果極めて大なるものと認む。」

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写真 写真-1 昭和8年三陸大津波後に釜石港に作られら津波予報装置塔.

5. 1960年チリ津波─防災構造物の構築─

5.1 主要な対策

 日本時間にして1960年5月23日午前4時11分,チリ沖でMs8.5,Mw9.5の巨大地震が起こり,これにより大津波が発生した。一度太平洋に広がった津波は,約22.5時間後,日本へと集中して来襲した。この津波は,発生直後には山を先頭に日本へ向かったのだが,途中で入れ替わり,日本では顕箸な引きで始まった。何故そうなったかは今村他が解明した(今村他,1990)。
 北海道から沖縄までの太平洋沿岸で被害が発生した。三陸では津波高5.6m,他の沿岸では3,4mであった。
 岩手県チリ地震津波災害復興誌(1969年)には,次の様な経過が記載されている。
 「…昭和35年5月24日早朝日本の太平洋岸に来襲したものである。特に被害を蒙った地域は,北海道,三陸全域,常磐,四国南部の海岸で,死者119名,行方不明20名,家屋全壊1,571戸,流失1,259戸に達し,このほか耕地,船舶等に相当の被害を蒙ったのである。
 県においては,その被害の激甚なることを重くみて,ただちにチリ地震津波災害対策本部を設置し,その復旧に努カする一方,県議会においても,第7回県議会臨時会(昭和35年5月30日)において,災害復旧対策について,速急に万全の措置を講ぜられるよう内閣総理大臣および関係各大臣ならびに衆,参両議院議長に対し,強く要望した。
 政府も,チリ地震津波による被害の甚大なることにかんがみ,国立保金と民政安定の見地から津波による再度の災害を防止するために必要な河川または海岸に関する施設の新設,改良および災害復旧事業につき,抜本的な政策を樹立し,計画的にこれを実施するため,直ちに第34国会に『昭和35年5月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法」を提出し,昭和35年6月27日,昭和35年度法律第107号をもって公布され,続いて8月18日に同法の施行令が政令第240号として制定された。」
 この法律に基づいて設立された「チリ地震津波対策審議会」に於て,チリ地震津波対策事業計画が検討され,昭和6年11月に決定を見た。その主な内容は,津波対策事業計画の策定基準,津波対策事業計画の事業量,津波防波堤計画である。
 数多く作られたのは,防潮堤である。その天端高はチリ津波による津波高が基準とされ,それに背後地の重要度や過去の津波の大きさを考えに入れながら,さらに0-2.2mの余裕高を加えた高さとされた。又,昭和34年に来襲した伊勢湾台風への対策と足並みを揃え,いわゆる三面張り(前法,天端,裏法をコンクリートで被覆する)構造の防潮堤とすることが決められた(図-3参照)。
 緊急対策は全て昭和41年度をもって終了する。

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図-3 三面張り構造の海津堤防.田老町で昭和40年代に建設した防潮堤の標準断面図.

5.2 津波防波堤

 世界で最初の津波防波堤は大船渡湾の湾口,水深38mの位置に作られることとなった。その位置と断面翻を図-4,5に示す。
 津波防波堤の効果は数値計算で確かめられた。とはいうものの,コンピューター能カの限られていた時代であったから,かなり大胆な仮定の下に計算された。即ち,湾口から流入した水は,一瞬にして湾内に一様に広がるとする。湾内での津波伝播の遅れや場所的な水位差,湾内での振動などは無視した計算である。また入カ波も連続する正弦波であって,現実の津波のような遷移波ではない。まず,事前に津波防波堤で津波振幅を2mに減衰できること,防波堤入り口で最大流速を毎秒6mに出来ることを確かめた後,設計津波として波高6mで周期は15分と40分の二つの正弦波群,設計波浪としては波高4m,周期9秒が使われている。
 この津波防波堤の効果は,昭和43年5月16日の十勝沖地震津波の際に確かめられる事となった。堀川・西村(1970)は,図-4に示されている湾内外の2点における観測結果を解析して,周波数成分毎の増幅率Mを図-6のように求めた。点線が津波防波堤が存在する場合,実線が津波防波堤がない場合の,湾奥での増幅率である。この湾は細長い
ため,固有振動周期が長いが,そうした成分はかなり減衰していることが読みとれる。
 津波防波堤は,湾口に作られなくては効果がない。そこは水深が深く構造物としては経費がかさむ。したがって,多くの場所で作るというわけには行かない。大船渡の他には現在建設中或いは計画中のものとして,釜石,久慈,須崎,下田等の地点がある。釜石の計画では水理実験による効果判定が行われた。しかし,その後は水理実験と数値実験の両方か,または数値実験が使われているようである。

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図-4 大船渡津波防波堤位置図.これは世界最初の津波防波堤である.
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図-5 大船渡津波防波堤正面図.設置水深は38mと深い.

6.1964年新潟地震-津波,石油そして火事-

6.1過去における津波時の火事

 1700年1月27日の夜,三陸地方の宮古は地震もないのに津波に襲われた。火事が発生し,21軒の家屋が焼失した。これが津波による火事の古文書での初出である。この津波は遠地津波であり,北米西津カスカデイア沈み込み帯で発生したものであった(佐竹;1997,都司ほか,;1998)。
 1854年12月24日夜,安政南海地震津波により,田辺で火事が発生している(山下,1931)。
 「安政元年十一月四日,地大に震す。翌五日申下刻午後五時又々震動す,夜に入りて溢甚し,巳にして津浪起り沖の方にて大音響ありて大砲の如し忽ち津浪押し来りて,大手通の土橋今の小学校北を壊る,本町横丁にて水の深さ五尺に至る,其夕,三栖口,橘慶嘉兵衛,岡屋源助の宅の間倒潰せる下より,火を発して忽ち四方に拡がる,此時は人心胸々たる際とて誰も消防に従事する者なし。」その後この火は燃え広がり,家屋約355,倉庫266,寺院3が焼ける結果となった。一方,津波で流失した家屋は1,辻番所2,死者9であったという。
 昭和の三隆大津波時には,3件の火箏が報告されている。
 大船渡細浦では道路上に置き去られた大型船龍神丸の発動機室辺から発火し,そのため交通が遮断された(古館,1933)。
 田老では「小林に突きあてて崩れた横波が,町,川内方面の家屋を荒谷の沢に集め,そこから発火して四十数名の焼死者を出した。水と火による地獄の責め苦にあう者,赤
沼山の麓に悲しくも「凍死」となって果てた者もあった。」という(田老町教育委員会,1971)。
 釜石では第4波が来ている最中,2箇所から出火した。原因は不明であるが漏電などが疑われている。津波のため誰も消火活動が出来ず,火事は5時間続き,196軒が焼けた(辻,1933)。

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図-6 1968年十勝沖地震津波に対する大船渡津波防波堤の減衰効果.縦軸は増幅率,横軸は成分波周期.

6.2 新潟の場合(消防庁,1965)

 1964年6月16日13時01分40秒に,日本海の新潟県粟島付近を震源とする地震があり,れにより津波も発生した。この時の被害の特徴は,1)流砂現象による被害,2)低地浸水による被害,3)石油タンク火災による被害,とされている。
 何個所か石油に関連する火事があったが,大事に至ったのは昭和石油KKの石油タンクがわったものである。まず,第2回目の地震の大揺れの際,新潟製油所(新工揚)から出火し,そこにあった5基のタンク群が延焼し,地震で壊された防油堤からもれた原油を伝わった火が付近にまで影響した。この火災で全焼した建物は20棟,半焼1棟であった。
この火事には津波は関係していない。
 同製油所の低地に存在した旧工場では,ガソリン入りタンクNo.33の取り付けパイプに地震で亀裂が入り、ここからガソリンが漏出した。この周辺は地震で絞り出された地下水と,津波で運び込まれた海水とが溜まっており,この上を油が広がっていった。地震から約5時間後,突然爆発昔とともに火炎が上昇した。この火は水上の油に燃え移って広がり,他のタンクも誘爆し,更に被害が広がって行った。この火災のため全焼した建物は347棟,半焼6棟,被災347世帯,罹災者1407人となった。
 この同じ1964年には,アラスカ大地震の際,地震,津波,石減とが関連した火災が発生している。アラスカのSward, Whittier, Valdezの三つの町が津波で運ばれた燃える石油のため大被害を受けた。更に波源から遠く離れたカリフォルニアのクレセント・シティでも津波が原因の石油タンク火災が生じている(Committee on the Alaska Earthquake, 1972)。
 海水上を広がった石油による延焼区域の面積は,貯蔵されている可燃物の総量とその物性とで決まり,推定する事が出来る(首藤,1988)。また,津波によって運ばれながら石油の広;がる模様を数値計算する事も出来るようになっている(後藤,1885)。

7. 東海地震─想定津波に対する対策─

 フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に潜り込んでいる場所は,東海沖紀伊半島沖,四国沖と違なり,南海トラフと呼ばれている。ここでは巨大地震が繰り返し発生 している事で知られている。南海トラフ上に西側で発生すると南海地震,東側で発生すると東海地震と呼ばれる。地震発生周期は,およそ80年から150年と云われる。図-7は, 安藤(1999)による,過去3,000年の地震発生年代を示している。
 こうしたデータによると,ある種の法則性が認められる。まず東海地震が発生して後,南海地震が生ずるのである。M=8を越える歴史地震で見ると,東海地震は1096年,1498年,1707年,1854年に発生し,南海地震は684年,887年,1099年。1361年,1605年,1707年,1854年に発生している。
 最近では,1944年に東南海地震が,それに引き続いて1946年に南海地震というように対をなして大地震が起こったのであるが,この際図-7で明らかなように,東端部の駿河湾では断層運動が起こらないままに残されたのであった。
 昭和51年8月の地震予報連絡会において
「東海地域では,マグニチュード8クラスの巨大地震が明日起こっても不思議ではない」と発表された。当時は,中国において地震予知に成功した例もあったため,陸域直下を震源域とする東海地震は予知可能とする考えがあった。そのため,東海地域における観測網の充実と,予知が出来た場合の社会的混乱を防ぐための制度の創設が求められた。
 昭和53年には議員立法で「大規模地震対策特別措置法」が制定された。
 静岡県は「地震防災対策強化地域」に指定され,地震対策を推進してきている(静岡県防災局,1999)。津波対策に当たっては,まず安政東海地震による津波の実績を調査してその浸水域図を作って公表する事から始まった。その後,東海地震断層の石橋モデルによって津波を数値計算し,これによる氾濫区域を対象として津波対策を進めている。それまでの津波実績を対象とする対策と異なり,計算上の津波を対象とした対策を初めて取り上げたものである。また,構造物といったハード対策のみでなく,避難などソフト対策をも採用している。

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図-7 過去3,000年間の南海トラフでの巨大地震発生位置と発生間隔.古文書,乱泥流堆積物,津波堆積物,考古遺跡などによる.

8. 日本海中部地震津波─潮位計の欠陥─

 1983年5月26日正午に発生した津波は日本海各地を襲った。次々と津波の高さやそれによる被害が報道されたが,その結果は耳を疑うものであった。伝えられる津波の大きさに此べ,被害が大きすぎるのであった。
 たとえば,地震発生後僅か7分で津波が到達した深浦では,気象庁の潮位計では55cmとされているにもかかわらず,大被害となったのである。2人が死亡,2人が負傷,11軒が全壊,428軒が半壊,89隻が流失,214隻が損傷,田畑77haが浸水し,総被害額64億円と見積もられるほどの被害であったのである。現実に深浦で観測された津波高は4mであった。
 後に発見された最高の打ち上げ高は,秋田県能代市の北の砂丘上で15mに近いものであった。リアス武海岸のような,津波を増幅し易い地形ではなく,55kmも滑らかな海岸線の続く地帯の中ほどで,このように大きい最大打ち上げ高が生じたのであった。
 潮位計記録と現実の津波高の間に違いの出た原因は,潮位計の水理的特性によるものであった。潮位計の主たる目的は,周期12時間25分が基本の,潮汐を記録する事である。
 所が,周期が35秒以下の風浪やうねりが入ってくると記録線の幅が太くなり,潮位を読み取る事が出来なくなる。したがって,短周期の変動を捉えてないようにと,験潮井戸と外界とを結ぶ導水管の長さを長く,その径を小さくしてある。この事が周期5分から20分くらいの津波にも影響したのであった。
 佐竹ほか(1988)は40個所の潮位観測所について,その特性を丹念に調査し,津波に影響を与える構造を簡単に判断する基準を得た。すなわち,小さなポンプで井戸内に水を入れ或いは取り除いて50cmの水位変化を作り,これが旧に復帰する時間が5分以上もかかると津波の計測に重大な影響があるのである。

9. 北海道南西沖地震津波─嵩上げ地盤上に復興した町─

 1993年7月12日の夜,北海道南西沖で地震が発生し,これによる津波が奥尻島を中心として被害をもたらした。
 被害の大きかったのは奥尻島南部の青苗地区である。青苗地区は7区からなる。1区から4区までは東側海岸にあり,その西側は高さが20m近い丘となっている。青苗5区は奥尻島商端の,高さ3m内外の砂州の上にあった。6区,7区は丘の上の地区である。
 地震から4,5分後,西側から襲ってきた津波第一波は,砂州上の青苗5区を一掃してしまった。ここは天端高4.5mの防潮壁で囲まれていたが,これを5mも越える津波には一たまりもなかった。防潮壁自体は無傷に近い状態で残ったが,青苗5区の建物は完全に流失してしまった。
 この時,丘の東側にある1区から4区までの地域は,無事であった。それから約10分後と云われるが,第2波がこれらの地区を、今度は東から襲ってきた。図-8に,これらの地区での津波の打ち上げた範囲を実線で示す。また星印の地点で測られた津波高を二重線の長方形で囲って示す。この津波によって,図中の炎印の地点から発火し,燃え広がって行った。斜線を施した場所が焼失した所である。
 青苗地区の復興に際しては,何処に住居を再建するかが問題となった。第一波で壊滅した青苗5区は,全戸高地へ移転する事で合意が得られた。しかし,他の4区については意見が分かれた。原位置は丘により冬季の激しい北西風から守られて住み易い事,漁業者は海辺を好む事,それに津波でやられたのはなく火事が主因であった事,などのため高地移転を好まない声が多かった。緒果として,地盤嵩上げした元位置に復興する事となった。更に,防潮堤が建設される事も,津波に対する安全性を増すものと受け止められたようである。
 こうした経過を経て,原位置に地区が復興したのであるが、この際住民がどう考えたかを調査した結果がある(南,1996)。
 まず,家屋の構造は,木造92.3%,鉄筋コンクリート造2.1%,鉄骨造1.0%である。
 次に,住宅新築上考慮した点については,「間取り等の使い勝手の良さ」「日照などを考慮した配置計画」が同率の53.1%,「工事全体の価格」が21.9%,「災害に対する安全性」が20.8%,「建物の構造強度」が17.7%,「高齢化への対応」が16.7%,「建物の耐久性向上」が15.5%の順であった。
 津波に対する安全性については,「大変安心」「まあ安心」が同率で30.6%,「どちらともいえない」が17.0%,「少々不安」が8.2%,「わからない」が2.7%であった。防潮堤や防波堤の嵩上げ,地盤の盛土などが実施された事で安心感が得られている模様である。
 不安に感ずる人の理由は,「仕事場又は住宅が海に近く不安」「適切な惰報伝達がなされるか不安」が同率の46.2%,「防潮堤・防波堤の高さに不安」が30.7%,「道路幅が狭く,避難時に不安」「避難場所が少なく不安」「避難揚所までの距離が長く不安」が23.1%,で あった。

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図-8 1993年北海道南西沖地震津波による奥尻町青苗地区の被害.二重枠内の数字は星印地点での津波痕跡高,括弧内の数字は構造物天端高,実線は津波が浸水した地域,斜線を付けた地域は火災による焼失地域.

10 .津波の規模と強度

10.1今村・飯田スケールの津波マグニチュードm

 日本での津波カタログ体成するに当って,今村(1949)は,津波高と影響を受けた海岸線延長とを考慮に入れた津波規模のスケールmを設定した。0から4までの5段階からなるが,昭和三陸大津波がm=3,明治三陸大津波を㎜=4とした。
 飯田(1958)は,これにm=-1を加えた。
 今村・飯田スケールは,次のような内容を 持つ。
 m=-1 波高50cm以下。無被害。
 m=0 波高1m前後で,ごくわずかな被害がある。
 m=1 波高2m前後で,海岸の家屋を損傷し,船艇をさらう程度。
 m=2 波高4〜6mで,家屋や人命の損失がある。
 m=3 波高10〜20mで,400km以上の海岸線に顕著な被害がある。
 m=4 最大波高30m以上で,500km以上の海岸線に顕著な被害がある。
ここでいう波高とは,津波の打ち上げた高さで,通常の定義とは異なっている事に注意が必要である。
 後に飯田(1963)は,mがおおよそ次のように表わされるとした。
 m=log^2Hmax
ここで,Hmaxは津波波源の近くで得られた最大波高(メートル)である。こうする事でmを決める事が容易になったが,反面元々のスケールに含まれていた,被害の及んだ範囲と
云う概念は除外された。そのため,津波規模というより津波強度と云うべき量になった。
 この点の改良を計ったのがSoloviev(1970)である。Hmaxの代わりに2^1/2(Hは平均波高)の採用したが,平均波高の定義が明確でなかった。ただ,Solovievは,これを頼りにして,今村・飯田スケールとAmbrasseys(1962)のスケールとの対応をつけている。

10.2 羽鳥の津波規模スケールmH

 元々の今村・飯田スケールに含まれていた,被害を受けた地域の広がりをも含め,しかも数式で表現できる津波規模スケールmHを,次式のように提案したのは,羽鳥(1979,
1986)であった。
 mH=2.71logH+2.7logD?4.3
ここで,Hは波源に近い沿岸の津波打ち上げ高と検潮器で得られた津波データ(最大波の全振幅)(単位はメートル),Dは震央から観測点までの海洋上の最短駆離(㎞)。であり,D=20〜2,000kmの範囲で適用できる。
 これにより,津波の規模階級は0.5の間隔で区分できる。規模スケールは,1階級上がるとエネルギーで5倍,波高にして2.24倍の間隔で変わり,エネルギーと対応する。
 図-9は,北海道南西沖地震津波に対して適用された例である(羽鳥,1994)。小さな黒丸は打ち上げ高,大きな黒丸は検潮器による最大全振幅である。これにより津波規模mHは3と決定された。図中の白丸は1983年日本海中部地震津波に対するもので参考として示されている。

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図-9 1993年北海道南西沖地震津波の場合の,津波高,波源よりの距離,と津波の規模mHとの関係.

10.3 阿部の津波マグニチュードMt

 大きな歴史地震の規模を津波データから決定しようとして,阿部(1979)は津波マグニチュードを次のように導入した。
 Mt=logH+B
ここで,Hは遠地の検潮所で記録された津波の最大全心振幅(メートル)である。ここで,MtとMwとが等しくなるように,定数Bを定めると,Bの平均値は9.1でパラツキは±0.3であった。
 この関係を近地津波に拡張すると(Abe,1981),太平洋側では定数Bは距雛D〈km)の関数となる。但し距離は観測点までの最短海上距雛であって,D<100kmに適用される。
 B=logD+5.80
 又,日本海側では
 B=logD+5.35
と若干修正して適用される(阿部,1986)。

10.4 津波強度

 津波による被害は,その場所の津波の大きさと密接な関係がある。首藤(1992,1993)は津波強度を次のように定義した。
 i=log2H
 ここで,H(m)は津波高である。過去の資料を使用する便宜上,海浜近くにあっては津波来襲当時の平均海面上の最大津波痕跡高,海浜から離れた陸地にあっては地盤から測った津波痕跡高を,津波高としている。
 図-10が,津波強度と被害の程度などの関係である。この図のうち、津波の形態,津波による音響の発生については,周期5分から10分穣度の近地津波に対してのみ,適用可能である。

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図-10 津波強度と津波の特性や津波による被害の関係.

11.津波予報─経験則から数値計算の応用へ─

11.1 初期の津波予報(Uchiike and hosono;1993,国土庁ほか;1997A)

 昭和16年に三陸沿岸を対象として津波警報組織が作られた。この時,仙台測侯所で使用されていた予報図が図-11である。この頃は,まだ予報中枢がなく,各測候所毎に,その管轄区域に対して予報が行われていた。住民へは,ラジオ及び警察署への電話連絡によって,発震後10〜20分以内に予報が伝達されていた。
 昭和21年にアリューシャンで津波が発生し,ハワイに大被害がもたらされた。これを契機として,米国では太平洋に対する津波警報組織をつくろうとの気運が高まった。当時,日本でも,気象庁の前身である中央気象台で津波予報組織をつくろうとの動きがあったが,実現には至らなかった。
 昭和24年10月3日付で,「津波警報機構を60日以内に組織し,それより30日以内に警報機構の実施テストを完了する」旨,連合国総司令官名の覚え書きが出された。これを受けて,政府は同年12月2日に,「津波予報伝達総合計画」を閣議了承し,12月20日に第1回総合テストが実施された。
 この津波予報伝達総合計画は,若干の修正後,昭和27年6月に制定された気象業務法の体系に取り込まれた。正式決定の直前,昭和27年3月4日に十勝沖地震津波が発生したが,この予報システムは成功を収めた。
 この頃の津波予報作業は次のようなものであった。地震が発生すると,各観測所の担当者は,それぞれの官署に設置されている地震計の記録から,マニュアルで観測データを読み取り,これを有線又は無線通信により津波予報を行う気象官署(津波予報中枢)に通報する。
 津波予報中枢では,通報されたデータや自官署での観測値に基づき,作図により,震源位置とマグニチュードを求め,この二つにより津波予報図から津波発生の有無等を判断していた。
 昭和27年から使用された津波予報図は図-12の通りである。その後,縦軸を対数目盛とした図表も使われた。津波に対する判断は,4つに分類されていた。大津波[高い所で約3メートルを越え,その他でも1メートルぐらい],津波[高い所で約2メートルに達し,その他で数十センチメートル程度],津波注意[津波があるかもしれない。高い所でも数十センチメートル程度],津波なし,とである。
 データの読み取り,データの通信,震源決定の作業等を人手を介して行うため,津波予報中枢で津波予報を行うまでの時間は,約17分を必要とした。沿岸住民への伝達は,それから始まるため、情報が現場に到達するまでには,かなりの時間を要していたのであった。

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図-11 1941年仙台管区気象台によって導入された津波予報図.
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図-12 1952年から1999年まで使用された津波予報図.縦軸を対数目盛とした図もある.

11.2 自動化─L-ADESSからEPOSを経てETOSへ─(国土庁ほか;1997A,Hamada;1989,Uchiike and Hosono;1995)

 予報時間を短縮するために,昭和55年度から昭和61年度にかけて,気象資料電送網(L-ADESS)導入された。これにより,地震計の観測データが専用回線によって,常時津波予報中枢に送られるようになった。ディジタイザーにに貼り付けた地震計記録紙上でデータが読み取られ,電子計算機への入カが一括して行われるようになった。読み取りと入カには人手が使われたが,入カ後は,電子計算機が震源計算を行った。L-ADESS導入当初は約14分で津波予報が完了し,その後処理ソフトウエアが改良されて,10分程度に短縮されたのであった。
 ところが,昭和58年5月の日本海中部地震津波では,早い所で発震後約7分で津波が到達しており,これを契機に津波予報の一層の迅速化が要望された。気象庁では,地震検知から震源計算までを完全にに電子計算機による自動処理で行うシステムを導入する事とした。まず,気象庁本庁に昭和62年度までに設置された地震活動総合監視システム(EPOS)が,これである。その他の津波予報中枢については,平成元年度から5年度にかけて,地震津波監視システム(ETOS)として整備された。これによって,津波予報時間は約7分に短縮された。
 しかしながら,平成5年7月に発生した北海道南西沖地震では,津波到達は更に早く,発震後3〜5分しかなかった場所も現れた。更に津波予報時間を短縮するため,気象庁はそれまでのS波利用から,P波を利用へと切り替えた。現在では,全国に津波地震早期験知網と呼ばれる新しい地震観測網が整備された事もあって,津波予報に要する時間は,3〜5分程度に短縮されている。

11.3 津波数値計算の導入(Tatehata,1997)

 津波予報図(図-12)を用いた予報は,平成11年3月まで行われていた。日本全体を18の津波予報海域に区分し,それぞれの海域区に対して予報していたのである。
 この方武は,約40年間使用されてきたが,二つの点で改良が求められる事が多くなった。一つは,予報対象海域の長さである。例えば,4区には青森から福島までが含まれるが,青森で大津波であっても福島では注意報程度の津波に収まるなど,同一区内での差が大きい事である。二つ目は,昭和35年以来の津波対策の進捗により,高さ5,6mの海岸堤防のない所は珍しいくらいになったため,「大津波(高い所で約3mを越える)」という予報よりも,もっと詳細な予報が望まれるようになったからである。
 この点の改良のため,気象庁では,従来使用してきた津波予報図に変えて,津波数値計算結果を使用する事とした。10万回以上の詳細な数値計算を前もって行い,その結果をデータベースとして保存しておく。震源と地震のマグニチュードが決まれば,瞬時に計算結果を引き出して予報できるようになった。
 全国の海岸を,長さ100kmから200km程度の66の海域に分割して,それぞれの海域における津波高を予報する。これは,ほぼ各県の海岸毎といって良い長さである。ただし,青森県のように,太平洋側,日本海側,陸奥湾内などと,地形や津波波源位置との関係で細かく分割されている所もある。
 予報される津波高の種類は,これまでどおりであるが,その中身は「大津波」で3m,4m,6m,8m,10m以上の5段階,「津波」で1m,2mの2段階,「津波注意」で0.5mの1段階となる。なお20cmより小さい場合は津波注意報も出されない。平常時の港湾振動でも,振幅20cm程度の振動は容易に発生するからである。高さに加え,津波到達予想時間も発表される。
 このように詳細に予報されるようになったのだが,ここでもまだ問題は残る。予報区の長さが各県あたり程度と短くなったとしても,予報値は予報区あたりの平均値であるから,当該予報区内での来襲津波高は,これより大きな所も小さな所もある。一つの湾でも,湾口と湾奥とでは,津波高に相当な違いが出るのが現実の津波である。こうした差を明確に出すには,気象庁予報値に対応する対象海岸毎の値にするため,もっと詳細な検討が必要である。気象庁予報の基となった数値計算とつながる詳細計算を行い,その結果を気象庁予報津波高に対応する浸水予測図としてまとめておく事が推奨されている(国土庁,1998)。
 津波予報が出された時の漁民の対応として,漁船を救おうとする行動がある。特に,津波高や津波到達時間が発表されるようになると,それを基に漁船沖出しへと港に走る事となろう。状況によっては,湾口付近で引き波に出会って座礁し,次の押し波で転覆させられるという,最悪の時間帯に遭遇する可能性がある。これを判断するには,やはり気象庁予報値とつながる形の数値計算結果を基にするのが良い(日本水路協会,1997,1998,1999)。この手法では,最小水深,最強流速なども求められるようになっている。

11.4 津波予報の伝達(国土庁ほか,1997A)

 津波予報は,気象業務法に墓づき,警察庁又は都道府県警察,海上保安庁,日本電信電話株式会社及び日本放送協会へ伝達されるほか,地域防災計画などに基づき、都道府県やその他の防災関係機関,報道機関にも伝達される。


 予報伝達の主な手段には3つのものがある。
 1.予警報一斉伝達装置
 予警報一斉伝達装置は,気象庁が発表する防災情報を,防災関係機関や報道機関にFaxにより一斉伝達するシステムで,金国の管区気象台,地方気象台に整備されており,ほとんどの機関には,これで津波予報が伝達される。


 2 気象資料自動編集中継装置(ADESS)
 ADESSは,各地方気象台等で観測された気象・地震などのデータを管区気象台等が収集したり,逆に管区気象台などが解析又は発表した情報を地方気象台等へ配信するためのシステムである。各管区気象台(沖縄気象台を含む)毎にL-ADESSが整備されており,これは気象庁本庁のC-ADESSに接続されている。
 国土庁,消防庁などの一部防災行政機関や一部の都道府県の防災情報システムは,このADESSとオンライン接続されており,これを通じて津波予報が伝達される。


 3 緊急情報衛星同報システム
 緊急情報衛星同報システムは,津波予報や地震情報等の緊急情報を気象衛星「ひまわり」を利用して伝達するもので,平成6年に導入された。専用の受信装置を設置すれば,誰でも気象庁から直接且つ迅速に津波予報を入手できる。

12.総合的津波対策─地域防災計画における津波対策強化の手引き─(国土庁ほか,1978)

 5章に前述したように,チリ津波を対象とした緊急対策は昭和41年度に終了した。この時の主な対策は構造物建設であった。この緊急対策完成後は、岩手県を除いては顕著な津波対策は行われていない。岩手県は世界最悪の津波危険度を有する県だけに,緊急対策完了後も,着々と構造物の嵩上げ強化を図ってきていた。
 東海地震対策が進行しつつあった昭和55年度から,津波常襲地帯での今後の対策をどうするかが話題となった。建設省,水産庁が共同で調査研究を実施し,その結果は昭和58年3月に,津波常襲地域総合防災対策指針(案)として公表された。ここでは,ハード対策としての防災構造物,沿岸地域を津波に強い体質に作って行く地域計画,そしてソフト対策としての防災体質の3つを,土地々々れた。また,防災構造物は計画対象津波が乗り越える事を許す場合もありうる事を明記したのであった。
 この指針(案)は,その後少し模様替えをされ,「地域防災計画における津波対策強化の手引き」として,国土庁,農水省構造改善局,農水省水産庁,運輸省,気象庁,建設省,消防庁の7省庁により合意された(国土庁ほか,1997)。
 その特徴は二つある。
 まず,計画対象津波の選定であるが,これは次の二つのうち,大きい方とする。一つは,津波情報を此較的精度良く,しかも数多く入手し得る時代以降の津波の中の,既往最大の津波である。もう一つは,地震地体構造論等の理論的考察により想定される最大地震で発生するであろう津波である。この両者のうち,大きいものを計画対象津波とする。
 この計画対象津波を,構造物で完全に防ぐ必要はないとするのが,第二の特徴である。防災構造物,津波に強いまちづくり,防災体制の三つを土地の状況に応じて組み合わせる事とする。表-1に,「強化の手引き」の内容一覧を示す。

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表-1「地域防災計画における津波対策強化の手引き」の内容項目

13.終わりに

 我が国は津波対策では世界の先端を走ってはいるものの,最近の沿岸地域の急速な発展のため,新たに津波危険度が増加;している所が少なくない。沿岸開発のその時々に,防災を振り返ってみる事をしないからである。開発が災害の増大につながらないような,社会約仕組みが必要である,さもないと,またつ波災害と対策の歴史に、悔いのこもった1頁を付け加える事となろう。

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