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はじめに

 昭和19年12月7日に発生した「東南海地震」は尾鷲市で65名の死者を出すと言う大きな被害を出しました。
 なかでも地震直後に発生した大きな津波によって多数の尊い人命が失われ地震津波の恐ろしさを再認識させる結果となった。
 尾鷲市では、それより90年前の1854年(安政)元年にマグニチュード8.0と言う大きな地震があり17O名にのぼる死者をだしている。
 昭和19年から50年を過ぎて当時の体験者も少なくなっており、当時の貴重な体験を後世に伝えるために、数少ない体験者の方から聞き取りや、記述をして頂きましたもの及び同年12月7日の体験発表をまとめました。
 資料は市史年表から使用してあります。
懇談会には、19名の方が出席されて、貴重な体験発表を聞くことができました。
 最後にこの調査にご協力を頂いた多くの方々に深甚からお礼を申し上げます。

東南海地震の概要

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東南海地震の概要

避難した主な場所

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避難した主な場所
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南海道地震とチリ沖地震津波による被害状況

講演会 体験談 懇談

東南海地震から50年

 昭和19年(1944年)12月7日午後1時36分頃、紀伊半島東方に発生した大地震と津波により、尾鷲でも大きな被害をうけました。
 それから今年で50年になります。この教訓を孫末代まで継承するには、家庭での防災会議が必要です。
 今般中央公民館では、当時の関係資料を郷土室に展示すると共に、市民に当時の被害の状況をお知らせしていきます。
 公民館では、12月7日午後7時から尾鷲測候所長の窪田武利さんの地震と津波と題して講演会を開催して、その後体験談の紹介と懇談を計画しています。
講演会 とき 12月7日午後7時
ところ 中央公民館1階視聴覚室
演題 地震と津波


懇談会 とき 12月7日午後8時
ところ 中央公民館1階視聴覚室
懇談 体験談をもとに地震津波について懇談


展示 とき 12月7日より
ところ 中央公民館郷土室
テーマ 東南海地震の記録


体験談の募集
昭和19年の地震津波に遭遇した方の体験談を募集します。
内容はどのようなものでも結構です。
原稿用紙1枚程度ですが、制限はありません。
期限 平成6年11月30日まで
応募の方法 郵送、持参、公民館で話をして頂いても絡構です。

東南海地震の体験発表と地震と津波講演

とき 平成6年12月7日午後7時から9時まで
ところ 尾鷲市中央公民館1階視聴覚室
講演 尾鷲測候所長窪田武利
体験発表 湯浅長雄 武藤郁子
関係者 東義人 榎本晋平
    吉択寿朗 竹平專作
参加者 別紙
講演 地震と津波 窪田武利
体験発表 湯浅長雄
東南海地震の体験と今後の防災対応
武藤郁子
東南海地震の恐怖の体験
懇談と質疑

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1994(平成6年) ◎12月7日(中央公民館、視聴覚室)7:00〜  東南海地震体験談講座参加名簿
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1994(平成6年) ◎12月7日(中央公民館、視聴覚室)7:00〜  東南海地震体験談講座参加名簿(続き)

東南海地震の体験談と講演

日時平成6年12月7伺午後7時
中央公民館1階視聴覚室
地震と津波 講師 窪田武利
お語をされた方 湯浅長雄
        武藤郁子
参加者 別紙 名簿のとおり
関係者 東義人、榎本晋平、吉沢寿朗、竹平專作


 司会 竹平
 おはこびいただきまして、有難うございます。定刻になりましたので、始めたいと思います。今日は東南海地震から50年というテーマに基づきまして、尾驚測候所長さんの窪田さんをお招きして、地震についてのお話と、東南海地震の体験者の体験談を折り混ぜた懇談を予定しています。
 津波は一生の内に1回は体験するかもしれないものだからだと、私も子どもの時にですね、親に体験談として津波は、2回3回にもわたって来るものだから、すぐには、戻ってはいけないと教えられたものですけれど、私は昭和42年生まれですので、幸いにもまだ津波を経験していませんが、何時起こるか予測はできない事ですし、次の世代の者が、体験するかも知れません。その時に、少しでも危険を避けられるように親から子どもへ伝えていかなければいけない大切なことだと思います。
 今日の講座は、大変意義のあるものだと思います。
 それでは、講演に先立ちまして、中央公民館館長東義人より一言ご挨拶を申しあげまます。
 挨拶 東義人
 皆さん今晩は、今日は昼問は強い風でしたが、ここに来る途中なま暖かい風だと言いながら、公民館へ来ましたが、丁度50年前もなま暖かい日がつづいたのを覚えています。天候とは関係ないものですが、そんな思いをしています。
 当時の現在の様子を思い出しますと、尾鷲でしたら、宮之上小学校や尾鷲小学校へ避難されて、炊き出しのおにぎりとか、たくわん1切をもらって、後から続く余震を心配しながら、眠れぬ夜を迎えたのではと、50年前を想像しています。
 この貴重な体験を、自分たちから、次の世代の皆さんへ、伝えていきたい気持ちで、色々計画したのですが、新たに体験談をみなさんにお願いしましたところ、11名の方から、お寄せいだだきましたのでまとめさせてもらいました。
 今日はこの後窪田所長さんのお話、体験をされた方が直にその当時のままの事を、お話し頂くわけであります。こん夜の懇談の様子を、親戚、若い方々に伝えて頂きたいとおもっています。よろしくお願いします。
 司会 竹平
 それでは、窪田測候所長さんより、地震と津波について、お話して頂きます。よろし
くお願いします。

尾鷲測候所長講演

窪田測候所長


 みなさん今晩は、測候所の窪田です。今日12月7日は、この地方の人々にとりまして、あまりお目でたくもない記念日で御座います。丁度50年前の今日、午後1時35分に、この近く熊野灘を震源とした大地震による津波で、大きな災害を受けた、所謂『東南海地震」の起きた日で御座います。今日は、その貴重な休験をされた方のお話を聞き、津波の恐ろしさを振り返ると共に、防災意識を高めよう、との結構な催しであります。その前に私の方から『地震と津波について』何か話すように、と云う事でご招待頂きましたが、はたして、ご満足頂けるようなお話ができますか、『自信』が御座いませんが、よろしくお願いします。何せ、当時は大東亜戦争の真最中でもありました事から、この地震に関して十分な調査もなく、有っても『軍事秘密』と成っていた程で御座いまして、測候所の方にも、あまり資料が残っておりません。
 50年も経ちますと、その津波の恐さを伝える人も少なくなり、また、このところ北海道の津波災害のニュースが目立ちまして、この地方には『他人事』の様に感じさえしますが、けっして油断出来ません。
 何と申しましても、この地方には数々の津波災害の歴史的記録が残されておりまして、中には、この『東南海地震』より大きな災害を受けた『宝永の地震』とか『安政の地震』があります。
 それにしましても昨年の『北海道南西沖地震』、今年の『北海道東方沖地震』での津波のニュースを新聞・テレビ等でまざまざと見せつけられ、津波の恐ろしさ、破壊力の強さを改めて感じておる次第です。
 それでは本日は、その滅多にはあるものでは無いのですが、又、あっても困ります『地震と津波』について、私ども気象庁の仕事を交え、お話させて頂きます。
 測候所の仕事も、最近では台風、大雨などの気象に関しましては、気象衛星、レーダーの展開によりまして、ある程度予測も付きますし、天気予報もずいぶん当たる様になってきましたが、残念ながら地震の方は、現在の技術ではどうしようもないものです。
 昔から『地震・雷・火事・親父』と『地震』は恐いもののトップにランクされ、一番恐いものとされています。余談になりますが、日本ではなぜか、鯰と地震が結びつけられています。今日ではナマズは地震のシンボルとされ、更に地震に敏感な魚として地震予知に役立たせる試みもしばしばなされているようです。一体いつ頃から言われ、何故なのか知りませんが、日本列島の地下に一匹の大ナマズが居て、これが暴れると地震が起こると信じられていた様です。この大ナマズの暴れるのを治めるため、とでも申しますか、ナマズの頭を押さえている『要石』が祭られる神社があちこちにあるようです。中でも茨城県鹿島神筥の『要石』は有名で、江戸時代に水戸黄門が一度掘ってみようということで、掘らせましたが7日7晩掘り続けても底までたどり着かなかったというほど、大きな物のようです。また、当地三重県でも青山町『大村神杜』の要石も霊験あらたかで、東南海地震を始め、歴史に残る安政、関東等の大地震でも、この神社を祭っている阿保地区には全く
 被害がなかったそうで御座います。
 余談は、さて置きまして、本論に入らせて頂きます。地震と言う言葉は随分古くからあるようで御座いまして、古文書の『日本書紀』に『大和の国:地震』と、これは416年の事ですが、歴史に現れた我が国、最初の地震の記録とされています。
 それでは地震とは何か、確かに読んで字の如く『地が震える』ことですが、何故、急に地面が揺れ出すか、これを説明するのは中々難しいものです。
 『無常』という言葉が教えますように、この世の全ては時の流れと共に徐々に移り変
わり、また、ある時は突然に破壊され『永久不変』のものは存在しません。
 このことは、私たちが住んでいる地球の岩石も例外ではありません。長い年月にわたって周囲から加えられた力によって岩石が歪み、その歪みに岩石が耐え切れなくなると、やがては崩れる。この破壊したときの衝撃が四方八方に伝わり、地表を揺り動かし、地上にいる我々を驚かせたり、時には、災害をもたらせたりします。これが地震です。
 崩れ方は地下深い所で、岩盤の両側が互いに反対向きにズレルように起こり、その面を境に食い違いが生じ、これを断層といいます。断層は場合によって地表に出来ることもあります。これで有名なのが明治時代の『濃尾地震』で出来た、岐阜県の『根尾谷断層』でして、現在も1000m程の長さで田圃に高い所で6m位の段差が残っています。
 地震を起こす力は何処から来るのか考えてみましょう。それには、我々が住んでいる地球の構成を知る必要があります。
 (資料)地球の表面は何枚かの皮をつなぎ合わせた、丁度、バレーボールやサッカーボールのように、何枚ものプレートによって覆われております。プレートは10kmないし100km厚さの岩盤でして、このプレートより内部深く行くほど、高温で高圧の柔らかい物質になっております。地球は鶏の卵にも例えられます。
 地球内部の物質は深部に行くほど高温であるため、非常に長い時間的な物差しでみると、大規模な対流現象(マントル対流)を起こしていると考えられています。
 地震の説明で、必ず、この図が出てきますが(資料)地球内部の高温の物質が、太平洋で言いますとハワイの東の海嶺部分で地球表面に沸きだしておりまして、丁度つきたての餅が冷えて表面が固まるように、そこで冷えて固まり厚さ数10kmないし100kmのプレートとなる。プレートはマントル対流にのって、片方はアメリカ大陸へ、一方は日本列島の方にと分かれて行きます。その速度は1年に1〜2cm、その証拠として日本とハワイの距離が1年に1〜2cm程・短くなっているという測量緒果からも言えます。
 そう言う事になりますと、やがては、日本とハワイが地続きと成るかも知れませんネ?
 日本は地震が多いという訳は、世界の地震分布図(資料)からも、蟻の巣の様に成っているのがお解りかと存じます。また、地球上のプレート図(資料)からも日本は幾つものプレートがぶつかり合っている所である事。正に日本は地震の巣の上にあるとも言えます。
 ま、そういうことで、地震の説明は昔はナマズ、現代ではこの『岩盤変動論(プレート・テクトニクス)』と言う学説によりまして地震の説明をするように成ったので御座います。
 日本付近の巨大地震発生メカニズムを示したのが(資料の図)です。これによりますと、海のプレートが陸のプレートの下にもぐり込む・陸のプレートが引きずり込まれて、やがて、我慢ができなくなって跳ね上がる。このため、地震や津波が発生するという、この図は地震の説明によく使われるものです。
  次に、地震の話になりますと、必ず震度とかマグニチュー一ドと言う言葉を耳にされる事でしょうが、これについて、説明させて頂きます。
 震度は、ある場所での揺れの強弱の程度を表す値であります。揺れ具合を機械で計るのはなかなか難しいことです。アメリカでも何処でも、震度は機械でなく体感で観測しているものですが、それを我が国は平成2年より世界に先駆け機械化に踏切り、尾鷲測候所にも計測震度計を設置して観測するようになりました。震度O〜7階級の説明(資料)。
 マグニチュードは、その地震の大小を表す尺度とでも申しますか地震の規模を表すものです。(資料)東南海地震はマグニチュード8でしたが、震度8ではありません。マグニチュードが1大きくなるとエネルギーは約30倍になるとされます。広島、長崎に落ちた原爆はマグニチュード6に相当します。マグニチュード8の東南海地震は20メガトンの水爆が爆発したと同じ威力がある。しかし、原爆や水爆を地下で爆発させると大部分のエネルギーは熟やその他に変えられ、地震波となるのは一部分だけです。ですから、実際に東南海地震に相当する振動を起こすためには100個以上の水爆が必要と言われます。
 資料でも説明しておきました様に震度とマグニチュードの関係を電球の大きさと明るさとに例えますと、電球の大きさ(ワット)とマグニチュード、明るさと震度にしますと理解し易いかとも存じます。
 大きな地震に見舞われる度に、例とか、前もって知る事が出来ないかと叫ばれておるのですが、、、地震の予知には、時間(いつ)と場所(どこで)と大きさ(どのくらい)を明らかにする必要があります。このため『何日に地震が起きる』と言うのは、デマです。
 現在の科学技術では、後ほど説明します『大規模地震』についての直前予知を除いては一般の地震の発生を年月日まで予測することは出来ません。また余談になりますが、地震雲は気象庁では認めておりません。何故ならぱ、雲は水蒸気を含んだ空気が上昇し出来た、大気現象と、地下深いところで発生する地震現象とは全く関係無いからです。
 しかし、日本付近の巨大地震に限りますと起きる場所は殆ど決まります。千島から東北地方北部、関東沖から南海道など、そのうち、東海から南海地域の巨大地震については古くから資料があります。(資料図表)資料からみましても、同じ場所で100〜150年間隔で起きているのが解ります。これによりますと駿河湾付近には安政地震以来140年程地震がなく、エネルギーが十分蓄積していると考えられます。地震は大体同じ場所に繰り返し起きると言う事を前提にすると、その地域で、近いうちに地震が起きるのではないかと言うのが、所謂、駿河湾地震説(東海地震)の根拠です。
 この説を17、8年前に東京大学の石橋先生が学会で発表して以来、これを重視した政府は、『大規模地震対策特別措置法』という法律まで作った訳けであります。
 この法律によりまして、東海地方には世界に例を見ない観測体制(資料図)を引きまして、気象庁本庁の方で常時、異常の有無を観ている訳であります。(資料)勿論・尾鷲のデータも入っております。それらの観測結果からも、御前崎の地盤の沈下や駿河湾を挟む御前崎と石廊崎の距離が縮まっていることで、この説を裏づけられと言えます。
 気象庁は24時間体制で監視し、異常が現れますと『判定会』が招集されます。これは、日本の地震の権威者7名が集まりまして地震が起こるか、どうかを判定する訳です。起きるとなれば、気象庁長官は内閣総理大臣に地震予知情報として報告し、総理大臣は警戒宣言を発表し、各県市は防災強化に対する対策を取る事になるわけであります。
  そういうことで、現在地震を予知出来るとすれば、この『東海地震に限ってでありまして、この情報は今から2〜3日以内と言うことで流れるはずです。まだ、1度も出ておりませんが、気象庁としては空振りしても、見逃さないを合い言葉に頑張っています。それでは、この地震が予想通りマグニチュード8クラスで起きた場合、当地尾鷲がどの位の影響があるか、、、計算上は震度1、場所によって3、と揺れは心配ないのですが、問題は津波です。津波は3〜4m位と計算されています。また、津波の到着時間は駿河湾からですと尾鷲33分であろう、、、これは、あくまで計算上のお話です。
 次に津波というのは、何が原因で起こるかと申しますと(資料)90%が海の中で起きた地震ですが、他には海底火山の爆発、大規模な山崩れなどがあります。火山噴火が原因で津波が起きた有名な例があります。それは今も雲仙岳が噴火活動してますが、200年前の雲仙普賢岳の際、大量の溶岩が有明海に流れ込み、そのために大津波が発生しまして、15000人の死者が出たといわれています。島原は地震で大変だが、対岸の肥後(熊本)が迷惑したという。所謂『島原大変、肥後迷惑』です。
 海に囲まれた日本は昔から津波の災害を受けて来た事で有名なのでしょうか、ハワイにあります国際津波情報センターのマークにまで、日本の画家、葛飾北斎の波の絵が用いられている程です。また、津波は、そのまま外国でもツナミ(TSU NA MI)で通用する、万国共通語になっております。津波の津は、港とか船着き場の意味で『港の波』が語源とでも申しましょうか、資料のマンガにもしておきましたように、沖合では波が静かで船に乗っている人は全く津波を感じなくても、港に着いて津波の披害に驚くことがあるようです。
 津波の性質(資料)は海岸・湾の地形によって津波のエネルギーを大きくしたり、小さくしたりする性質がありますので、弱い津波でも場合によっては注意が必要です。
 V字型の湾は、広い外洋から津波が押し寄せてきたとき、そのエネルギーが狭い角度に集中して、波を高くします。一方、奥行きの広い袋型の湾では、津波のエネルギーが湾内で分散されますので、破害が比較的少なくてすむ事もあります。
 次に、津波予報の説明をさせて頂きます。まず、地震が発生し、その観測結果が、海の地震で、また津波発生の恐れが有るとなりますと津波予報を発表します。津波予報には警報と注意報がありまして、ランクの一番上は大津波警報で、3m以上の津波が起こる恐れがあるとき(資料)、これは、あくまでも海岸での高さで御座いまして、波がはい上がって来る事ともあります。これを遡上高といいます。奥尻島の津波をテレビなどでご覧になって、ご存じでしょうが、津波3mといいましても、被害を受けるのは、それ以上の高い所で起きていますので、注意が必要です。
 注意報の中で、津波の恐れのない場合、ツナミナシの注意報が有ります。これに対して意見もあるようですが、海の方で地震が起きた場合でも、津波の恐れがない場合、それを早く知らせる必要もあるのです。ともあれ、これら警報などの情報を、的確に速く一般の市民に流すかという事で、気象庁は努力しているわけであります。
 昨年7月の北海道南西沖地震の際、札幌管区気象台は地震発生から5分で津波警報を発表しました。これは当時としては限界に近い速さでした。しかし、北海適の奥尻島には地震発生後わずか3〜5分で津波が到着し、多くの方々の命が失われてしまいました。これを改善するために気象庁では、今年4月から津波警報などの迅速化に向けて、『津波地震
 早期検知網』の運用を開始しました。
 これは地震計を全国に50〜60km、間隔ぞ均等に配置しまして、これまでの観測点と合わせることにより地震観測の強化をした訳で御座います。所謂、地震版のアメダスです。なお、三重県内にも伊勢市と紀伊長島町に新設されました。
 これによりまして、日本全国で発生した地震のデータを北は札幌から仙台、東京(本庁)、大阪、福岡、沖縄の6ヵ所の気象台で津波の有無を判断し、2〜3分で警報などを発表することになったので御座います。
 それと同時に気象衛星(ひまわり)を利用した『緊急情報衛星同報システム』(資料)を整備しまして、受信施設さえあれば、地震発生後2〜3分で、一般の人でも警報などを受けることが出来る様にもしました。ただし、県内では現在、この施設を持った市町村は1ヵ所もありませんが、津波警報は今までより速く伝わることになりました。
 (資料図)正規の伝達ルートですと、津の気象台から県へ、県から尾鷲市へ、市から一般市民へと伝わる訳です。なお、一般市民はNHK等の報道機関からも聞くことができます。
 何れにしましても、地震の発生場所によって、津波の到着時間が違いますが、地震発生
後すぐ津波が来る事もあります。『地震イコール津波、即避難』という考え方を徹底させ
たいものです。
 最後に『津波に対する心得』ですが、県など防災機関からと同じ(資料)でして、ここで、改めてお話するまでもありませんが、海岸で震度4程度以上の地震を感じたら、直ちに海から離れる事です。しかし、チリ津波の時のように、海辺で地震を感じなくても、外国での地震による津波が、海を渡って押し寄せる事もありますので油断できません。この様なことは、今では昔と違って、情報もありますので、外国からの津波が突然襲ってくると言うこともありませんが、気象庁から注意報・警報が発表されている時は、解除されるまで注意が必要です。
 なお、余談ながら、岸壁などから海を覗き込んでいる人を、津波報道のテレビ等で見ることがありますが、、あれはどうでしょうか、、?
 参考までに三重県の最近の地震津波災害を上げておきました。(資料)数値など資料により違うこともありますが、私は県と気象庁の資料から引用しました。
 それでは、この辺で終わらせて頂きます。有難う御座いました。
 竹平司会 有難う御座いました。地震と津波を学ぶ機会というのは、あまりないように思います。そんな中地震はどうして起こるのか、ということから始まり、本当に判り易い説明で大変参考になったものと思いますが、こんな機会です。何か聞いておきたいこととか、ありましたらどうぞ。


 男性の方 東海地震の予知は相当進んでいるようですが、南海の方はどこまで進んでいるのですか。


 所長 先程も説明しましたとおり、観測機は三重県は2箇所増やしましたし、50kmから60km間隔ぐらいで、観測網ははりめぐらしてします。


 男性の方 それは、陸にですか。


 所長 もちろんそうです。海の中ではありません。海のなかでは、海底地震計を駿河湾の沖に伸びているのと、房総半島のとこに海底に入れてあるだけで、海底の地震計はこの当たりだけです。熊野灘にはいれてありません。

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地震と津波の話

体験談の発表

 竹平司会 それでは、時間も迫ってまいりましたので、第2部に移りたいと思います。ここでは、実際に津波を体験された方から、体験談を聞かせて頂いて、その後懇談に入ってもらいますが、その前に体験談を寄稿して頂いたものをサッシにし皆様のお手元にお配りしてあります。それを2〜3朗読いたしますので、よろしくお腰いします。

 榎本晋平 ただ今ご説明のありましたとおり、沢山の方が寄稿してくれましたが、その中から3点ほどご紹介させて頂きます。

朗読 榎本晋平 東南海地震の思い出 賀田町 庄司早百合
朗読 別紙体験談より
津市 片田志袋町 井谷すなを
朗読 別紙体験談より
あのひから50年 南陽町 安部一美
朗読 別紙体験談より

体験者 武藤郁子

 司会 竹平  続いて今度は実際に体験した方からお話を頂戴きたいと思います
 先ず最初に武藤郁子様よろしくお願いします。


 こんばんは、私は、武藤郁子と申します。
 出身地は現在の尾鷲市須賀利町であります。その当時の民家は、300軒たらずだったと思います。以下体験談のとおり、それを朗読しています。
 以下抜粋、津波は引き潮の時に家をとられるということが、はっきりとわかりました。須賀利の海岸べりがほとんどが家のがわばかり残って、本当に悲惨なものでした。
 余談ですが私の家は、お寺ですので10日以上たくさんの方が寝泊りしていました。
 それで、電気もないし、真っ暗な中で、家には便所もあまりないので、境内へするので朝起ると糞尿の始末に困った苦い経験があります。以上です。

体験者 湯浅通雄

 司会 竹平
 有難う御座いました。津波の後の世話の方も大変だったということで、つづきまして湯浅さんお願いします。


 みなさん今晩は、私は丁度東南海地震の時19才でした。青年団の副団長をしていました。住は、川原町でした。善屋といって網元をしていました。体験談の中に書いてあるので、此をみたらよくわかります。(主なものは、体験談のとおりとして、省略します)地震の時北町の端にある(まるご)という魚屋さんの2階に友達3人といました。
恐くなって浜へ出たんです。今の伊藤石油のあたりが、魚ほし場やった。そこで、じい一一一と耐えておった。地面が割れてくるんですね。実はあそこは、昭和10年ごろに埋立た土地なんですは、埋立てるのにサンドポンプで堤防の中の海水と砂を同時に汲み上げてあそこの土地を造ったのです。ずう一と見ていると地面の割れたところから、潮が吹き出てくるのですは、これは、土管かなんか割れたのかなあと思いましたら、流砂現象といいますか、そのようなことがありました。
 それから、北町の端の岸壁へ行ったのです。そこには、登一丸とか引本や須賀利へ行く桟橋があって、そこには、5〜6人の人がいて、浦の方を見ているわけです、佐波留と寺島の間の海面が何時もよりぐ一んと盛り上っているんですわ、津波やないんかというんで、岸壁の下を見ると先程まで1mからあった隙間が50cmまで上ってきているのですは、大変やということで、家へ帰りまして、母方のお婆さんのところへ行って、津波が来るぞと報せておいて、それから僕は自分の所へ行って、洋服を2〜3着を小脇に抱えて外に出たら、母方のお婆さんと丁度出会ったので。お婆さんを背負って、上へ上へ逃げたのです。昔の大盛座まで逃げたのです。そこで後を見ると津波の潮が止まっているので、ああこれで、助かったと思いお婆さんを背中より下ろして、ここから親戚の家へ逃げつて、逃がしておいて、すぐ僕は引き返したのですは、知古町の五平屋という旅館があって、そこまで行くと壊れた家の瓦礫の山になっておりまして、今の大倉自転車屋のところから瓦礫の山に登って川原町の方を見ると家がないんですは、そこで引き返して、中井をとおて北浦の方へ進だんです。川原町の入口で今酉薬局があって、そこから戸板を梯子代りにして、屋根に登ったのです。すぐそこに自分の家があったのです。その時第2波が来たのです。その時には八幡神社の前の橋は崩れている、その上のの大島橋というのも崩れている。北浦の橋で瓦礫が詰って、それが堤防になっているわけで、その高さは5m以上ありまして、第2波がそれにぶつかるとそれを乗越えるんですは、その当時海軍がおりまして、駒橋が国市の松原へ第1波で押上げられて、第2波でまた流された。
 尾鷲湾の堤防の外は水深7m,内側は平均4.5mしかない。浅くなっているので、もりあがるのです。川原町には、101軒ありまして、101軒全部流れました。
 死んだ人が全部で38名で川原町で7名死にました。新川原町は120軒ぐらいあると思ったのですが、そこで1軒だけ残りました。
 これから注意しなければならんことは、今は当時と比べると地形が変ってしもとるわけです。(図面で説明)国市の部分が埋立られているので、その時と同じ津波がきたら水の逃げ遺がないわけであるから、それがどこへ行くかということになる。
 その分だけ尾鷲港へ入るのではないかと、私はおもとるんですは。今後の注意として現在の岸壁は埋立地で砂と土です。そこには、ガソリンスタンドが4箇所ある。そこには、砂のなかに埋めてあるものですから、揺すられたらドカンと動く危険性がある。
 東邦石油のあるところは、デルタ地帯で、砂で出来た土地で、砂の上にタンクを埋めてあるのではと思います。それが浮き上がる心配がある。海岸通りがありますが、そこ
には、いくつもの橋があります。橋は大丈夫ですが、橋の付根が沈没すると思います。
 この海岸道路は自動車はとおれんのやないかなと。紀望通などへ入るところに、水門を造ってくれてあるんです。それを誰が閉めるのか、何時しめるのか、市のほうに聞きたいとおもとる。川原町で説明会があった時水門に梯子段を取り付けてくれとたのんだ覚えがある。閉められたら、子ども等はようあがらんですは、これは、尾鷲だけが被害を受けるのではなしに、三重県、愛知県全部受けると思います。鉄道がやられる、国道の川のつけ根がやられる等一時的に交通マヒが起ると思う。あと頼るのは、船とヘリコプター位ではないか。第1に食料の確保、第2にやられた家の仮設住宅をつくらんなん、その仮設をどこへ造るのか、これも、確保してくれているだろうかとそう言う心配もあります。
 川原町の避難場所は、尾驚小学校になっているので、自分とこから、ゆっくり歩いて1番安全な道をとおて、小学校へ着くまでに、12分かかります。老人を仮定して若い者は駅まで5分で行きます。昭和19年の時に、測候所で津波の語を聞きましたが、そのとき、津波の速さは100mを12秒と言う速さです。荷物やなにや、かや、なしに人間の命が大切だから、何ももたんと、逃げること、津波の速さは、13秒以下ということはないです。海岸通に防波堤を造ってありますが、大変役にたつと思います。
 以上で私の話を終わります。

感想

司会 竹平
 津波を経験したことのない私たちの世代にとっては、大変貴重なお話で、今後又津波が来たら、このような危険がると言うことも話して頂きまして、誠に有難う御座います
 最初に窪田さんのお語を頂きまして、それから、お二方からのお話を頂きましたが、今までについて、総まとめとしまして、何か感想とか、ご意見がありましたら、この場でおしゃっていただきたいと、思います。


 山口さん
 湯浅さんにお聞きしたいのですが、地震を感じてからですね、津波が来るまで、大体どれぐらいの時間がありましたか。


 湯浅さん
 僕の調べたのうでは、16分尾鷲の場合は、第1波から第2波まで14分、8回ぐらい来て、第2波、第3波が1番大きかったのではないかと思う。


 山口さん
 私は小学校6年生で宮之上小学校の、新道へ逃げるだけが、精一杯で、町の様子は全然解なかったので。


 湯浅さん
 私も川原町の方しかわからんのさ。


 司会 竹平
 僕の方から1つその時中村山に登っていた方、もしいらしゃいましたら、海の様子がどうであったかということを、お聞きしたいのですが、僕も親から聞いたのですが、


湯浅さん
 ぼくの見たのうでは、港内では、水深1mぐらいまで下がりました。港内で、水深が、下ったと言っても、雀島の方で上るかというとそうでもなく、向うでは、上下の差はあまりみられない。


 男性
 折角の機会ですので、もうすこし詳しく聞きたいのですけれど、所長さんに聞きたいのですけど、一番気になるのは、地震が揺ってから、津波が来るまでの時間なんですけど、今も16分とか、おっしゃたのですけど。大抵言れているのは、所謂東海地震の場合で、大体30分ぐるいで津波が来るように言れていますが、だけどもこの前の北海道の場合は、予報は5分だけれども、津波が来たのは3分だったと言うような、実績があるのですが、この東海沖に地震が揺った場合に、所謂30分とか、16分で来るとは限らないとおもうのですが、例えば、昭和20年の1月に三河に直下地震があったと言ったのですけれど、その時2000人の死亡者と聞いたのですけれど、そういう直下型の地震もあり得ると思うのですけれど、地震が揺ってから津波が来る時間と言うのは、一概に断定できないと思うのですけれど。だから、すぐ早く、逃げるしかないと、僕は理解しておるのですが。どうでしょうか。


 所長さん
 それで、私どもとしては、無責任な言い方ですが、地震が起たら直ちに逃げろと言う回答ですが、奥尻島のような場合ですと、直ぐ近くですから5分も切るような地震がありましたけれど、此方の方の海岸の深さ、今までの資料なんかを見ると、やはり、今後の予想される東海地震ですと30分位、東南海地震ですと、ここでしたから震源が近くなりますので、20分位で来たといいますけど、津波は引いてから来るとは限らない、地面の壊れ方によります。押しから来る場合と、引きから来る場合とあります。東南海地震の時は、皆海岸が見えたと言う程引きから来たと聞いています。地震の時の状況により第2波が大きときもあります。間隔もいろいろです。昔の人は地震から津波が来るまで、ご飯を炊く間があると言いますけどそうとは限りません。
 近くですと、波の伝わり方が皆違いますので、海底の深さが違いますので、一概に言えません。深ければ速い、浅けれぱ遅くなるが、波は高くなる。2〜3分で気象庁では予報を出すようになっています。震源が近ければ早い、20分。5分を切る地震は歴史的にもなかったように思います。
 こちらでは、震源域からみても、5分でくるのは今まではなかったようです。30分以上かかると言う保証はありませんが、日本海のように早くくることはないと思う。


 司会 竹平
 どうも有難うございました。他にご質問ありますか、なければ、時間も追ってきましたので、公民館館長の東から、まとめの挨拶をいたします。


 東
 測候所長さんのお話、体験された方のお話、体験談の中からまとめさせていただきたいと思います。記録上では、津波の高さは、天満であります。知古町では、仏壇の上に魚がのっていたという話もあります。宮前橋では、80cmの記録がありますが、実際
にその橋のたもとで胸まで浸ったと書う語を聞いています。
 このように、町によって、波の到達したところが、かなり違っております。栄、中井あたりでは、大鷲館の前、大盛座の前、林では、大倉自転車店の前、吉沢理髪店の裏、寺町では、念仏寺の北の道路などです。
 このように、波の到達した場所を知ることは、今後の参考になるのではと思います。現在中央公民館では、郷土室で、これまでの展示方法とは、いくぶん変えた形の展示をしています。今いいましたような、方法で、今の町で、どこまで波が来たかを写真に図示しています。
 また、現在尾鷲市民文化会館で三重県の主催の東南海地震の当時の被害状況を撮影した写真展が開かれています。機会があれぱ見て頂きたいと思います。
 最後になるのですが、私は当時錦町に、父の仕事の関係でその年の4月に転校したばかりで、小学校3年生でした。その時は12月と言うのに暖い日がつづいてその日も大変朝から暖く、低学年は午後休みで、高学年(4年生以上)は、午後かやの穂を採りに行くようになっておりました。高等科は午後校内研修会で父は、それに出ていました。
 私は、ご飯を食べて友達の家で本読んでいたとき、グラグラと揺れて、お尻を下から突き上げるように感じました。それで、逃げようと、立とうと思い何回も試みましたがその都度一転げてしまい、這って玄関まで行き外にでました。
 丁度そのとき屋根瓦が私の傍に落ちてきて、出るところがずれていたら、瓦が頭に当って、大怪我をしていただろうと思います。その教訓として、地震の最中に飛ぴ出さないこと。近所の大人の人たちは、今の地震は大きかったな、等と語している時に表の道を、津波が来るぞと叫びながら、走っていく声を聞き、すぐ家に帰り、布でできたリックサックをだして、切干を干してあるとこへ取りにいきました。切干は地震のため散乱してをり、それを拾って詰めていると、父が帰ってきて、何をしておる早くにげんかと、どなられて、それにみかんを入れて1人で、小学校へ逃げた。小学校の前は川が流れていましたが、橋のたもとまでくると、すでに波が押し寄せてきていましたので怖くなったのを覚えています。そして、きた道をふりかえると家々が波の上に盛り上がり、電柱に掴っている人共に流されて行くのをみて、学校へ駆け込みました。
 その晩は焼きおにぎりとたくわんをもらって、眠れぬ夜を過したことを、昨日のように思います。
 ここに皆さんが発表された、又体験されたことを郷土室の方に保存して、ことあるごとに若い人たちに伝承していきたいと考えています。
 今晩は長い間ご清聴いただきまして有難う御座います。これをもちまして、こんやの会を終了させていただきます。

「命しらずのごう欲」
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金もおしい、命もおしい 強欲者を風刺した 亙版「命しらずのごう欲」

体験談 文章、面談収録

体験談と体験記

あの日から50年

 あの日(昭和十九年十二月七日)は太平洋戦争が日増に激化し、米軍は、本土上陸攻撃に転じB29が頻繁に飛来し、米潜水艦は熊野灘に出没し航行する船舶が、次からつぎと魚雷攻撃を受けその犠牲となっていた。この時期わたしは、海軍熊野灘部隊の電信士官として第十昭和丸に乗船、日夜米潜水艦の哨戒と航行する船団の護衛任務に明け暮れていた。
 あの日も船団を護衛し丁度尾鷲湾付近の沖に差しかった午後1時半頃突如として電信室の下部にある機関室がゴトゴトと突き上げるような衝撃と騒音を発したので、これは、只ごとではないと思い、上甲板から「エンジンでも故障したのか」と大声で叫ぷと「別に異常なし」の返事が帰ってきた。
 ふと尾鷲湾より山々に目をやると赤土色の煙を上げて崩壊した土砂等が、雪なだれのように流れ落ちているのが見えた。この時はじめて地震があったことが分かったのである。
 早速司令部へ保安緊急電報を打電し、船団の護衛を続行した。任務終了後洋上で仮泊し一夜明けて、驚いたのは陸上から流れ出た家屋、家具、貯油タンク各種のゴミ等で海面が理まっていた。夕方尾鷲へ帰港したが二日前出発した時と港一帯は、一変して、メチャメチャになっており津波の恐怖と悲惨さを物話っていた。また小久兵衛谷川には津波で押し上げられた漁船が三隻程狭い川に折り重なるようにして無惨な姿をさらけだしてあった。
 山国(長野県)で育った私は津波は生まれて初めての体験であり自然のエネルギーの強力さと恐怖と悲惨さをまざまざと見せつけられたあの日でした。当時は一にも二にも戦争に勝まではの歌い文句でしたから私達は米軍の方に神経を集中しており地震津波を感知できなかったかもしれませんが、船が外洋を航行中には地震津波があっても陸上のように敏感に察知でさないように思いました。
 津波は百年毎に起ると言われています。最近地震が各地で頻発しています何はともあれあのような悲惨を生じるものはきて欲しくないものです。また無益な戦争も二度と繰り返してはいけません。東南海地震から五十年終戦から四十九年両者とも私の脳裡からは終生消え去ることはないでしょう。終りに犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

体験談

 昭和十九年十二月七日の地震と津波について体験をしたものです。当時19才で、八幡神杜の西に中部配電尾鷲電業所(中電)がありました。
 一事務員として勤めていた者です。私の記憶を何かのお役に立てればと思いまして一筆取らせていただきました。
 中電事務所は木造でした。お昼休みも過ぎ仕事にかかろうとしたとき、棚の書類は落ち段々震度が強くなり外へ出たが立っておれずに地面に座り込んでしまいました。
 少し震度がおさまり書類を棚に上げたり、非常袋に入れたりしていると、上司が津波が来るから女子は早く逃げるよう、大声でいわれた、節の川原(北川)を見ると海水が逆流し大波が堤防を越えて来るのが見えた。
 裏の変電所を通り抜けて裏山の道なき道をかけのぼって(友達と2人)山上に出て下を見れば、すでに事務所は流され見えなくなっていました。
 土煙を上げて次々倒れ全て沖へ沖へと流されて、助けを求める人の声、山々は白く煙を吐いているように見えた(石がごろごろ転がる様子)大きな船が北浦の町の中へ軽々と入って来たり、まるで夢を見ているように、思えた。
 波が引いたあと、倒れた家の屋根伝いに北浦の橋まで来るのに時間がかかり、途中で女の人が家の下敷になったり、牛が上半身をつぶされていたりするのを見て、大変驚きました。
 尾鷲神社の大きな水溜まりができて、沢山の魚が泳いでいました、(海水がここまできたとか)。
 やっと家に着いたのは、夕方近くになってしまいました。その夜は、妹弟と共に宮之上小学校へ避難しました。夜空は光り余震が小さくつづき、眠れぬ一夜を過ごしました。学校には、海軍の軍人が沢山来たようです。
 五十年もたち一老人となって、私には一生忘れる事のできない思い出です。
 資料の展示など見せていただきたいと思います。

東南海地震のとき

 大東亜戦争も次第に熾烈化してきた。昭和19年当時、県立尾鷲高等女学校の3年生だった。私たちは、その年の8月1日から、動員学徒として、三重食品株式会杜尾鷲缶詰工場に勤務する事になった。
 必勝を祈願しながら戦地に送る缶詰(魚類、みかん、竹の子、豆、昆布などの防衛食品)の生産に励む毎日であった。
 その年の12月7日初冬とはいえおだやかなに晴れた朝いつものように、工場に出勤した。朝礼をすまし各部署につくと、私たち副生部の学徒五名に「今日は船で矢口浦へみかんを積みに行ってもらう」と係長から命令があった。私達は工場外での仕事、それに船に乗って行けることに心ははづませ、防空頭巾を肩に掛けべ弁当を持ち、嬉々として船に乗り込んだ。その日は、船酔いの心配もいらないくらい波もなく静かな海であった。ポンポン船は、小1時間かかって矢口浦に着いた。みかん荷主の人達は、私たちを待ち構えており、休む間もなく積込み作業にかかった。ところが、尾鷲の静かな海上と一変してその日の矢口は物凄く強い風が吹きまくっていた。この小父さん達は、「矢口は何時もは静かで暖かい所なんだ。こんなに風の吹くのは珍しいえらい風や、それにしても、貴方たちの履いてるモンペ、(当時の服装)は、こんな風の時は裾が乱れる事もなくよいのう一」と、感心しながら云った。
 みかんの積込みも一段落したところで、昼食をとることになった私達は、浜辺に腰を下ろしてお弁当を食べ、雑談していると突然「ゴオ一」と湧き出るようなすさまじい音がしてきた。「恐いよ一」と思ったとたん、グラグラと、激しく大地が揺れて来た。皆「地震!」と叫び右往左往している時、船から「こんな時は船に乗れ、船の方が安全だ、早く早く」という叫び声がした。
 私以外の人はすばやく船に乗り込んだが、のろまで人一倍恐がりの私は船にも乗れず、「どうする、どうする」とただうろたえるばかりであった。一人浜辺にとり残されたまま何分たっただろうか、とても長い時間のように思えた。
 一応地震も鎮まり、逃れた人達を乗せた船が再び浜辺に近かづいて来たとき、船長さんが「海水の色が変って来た、これは、ただ事ではない、津波が来るかもしれないから、早く逃げろ!」と大声で叫んだ
 私達は、自分の持ち物を抱えて、無我夢中で山の方向へどんどん走った。後を振返って海の様子等見る余裕は全くない。土地の人達は、「そんなに登ると白浦へ行ってしまうぞ」と言うところまで逃げた。
 やっと我にかえり海岸の方を見ると、小さな湾内は津波で流されたそのままの家、半壊の家、家財道具、材水等で埋まっていた。さら
 に陸地の方は、津波の引いた後の残骸で、ごったがえしており、筆舌に尽しがたい悲惨な情景だった。
 私達は、ただ呆然とするばかりであった。その時、近くで飼われていた豚の群れが、ブウブウーーと、私達についてきた。「恐い恐いとさわいでいると。そこに層合わせた小父さんに、「何でこんなもの恐いんだ、みんな家を流されたというのに、静かにしろ」と一喝された 私達は黙り込んでしまったが、そんな中でも絶えず余震がくる。最初の地震から二時間もたっただろうか、私達の責任者と、地元の人たちが数人集って、これから私達をどうするかについて相談が始った。
 「一刻も早くこの子達を学校の先生に引き渡しをしなければ、学校の方も心配しているだろう。けど電話も通じず連絡のしようもない。歩いて帰らせようか」などと話合っていた。
 その時相賀方面から、演習帰りの島勝の在郷軍人の人達がとおりかかり「道は寸断されており、歩いては帰れない」と言う。その軍人さんの中にたまたま、私達の仲間の世古さんのお兄さんがした。世古さんはお兄さんに、「一緒に家へ連れてって」と泣きながらすがりついた。しかし、私達の責任者は、「この子達は学校の先生から預かってきているので、責任上、先生に渡さなければならない」と断り、泣く泣くお兄さんと別れる一幕もあった。
 結局、私達は、来るときと同じように船で帰ることになった。日は既に大分西に傾いていた。数時間前荒れ狂って大災害を起こした魔の海へ再ぴ漕ぎだして行く船に乗るのは、身の縮む思いだった。不気味に黒ずんだ海面には、数えきれないほどの、材木、炭俵、家財道具等夥しい浮遊物で船は進めないそんな中で、何人かの人が船を漕ぎながら、流れている「タンス」の引き出しを開けたりしていた。多分衣料品でも拾っていたに違いない。そんな異様な光景の中を尾鷲へと急ぐ船はエンジンを一杯かけつづけているが、一向に進まない、三重県庁神島丸が流れ物を棹で排除しながら、私達の前の船の航路を拡げて、走らせている。それを幸いに私達の船もその後について走る どの位い時間が経ったか確かな記億がないが、夕暮の中に佐波留、雀島が見えてきた時には、私達の顔もほころび尾鷲に帰ることができたと安堵の胸をなでおろした。
 防波堤の近くまで来たとき当時讐備船として碇泊していた軍艦駒橋が船腹に大きな穴をあけて傾いていたのには驚いた。
 やっとの思いで尾鷲港に着いた時には、冬の日はとっぷり暮れており暗い港には、私達の安否を気遣って、工場関係者や学校の先生方が待っていてくれた。しかし岸壁が崩れていて船を着けれないので、工場の若い男の人が海に飛込み船のロープをとって、やっとの思いで岸に引き寄せた。
 私達は急いで船を降り、それぞれに引率者に連れられて、わが家へと帰っていった。私は天満益雄工場長の知人の谷東治さん宅へ連れられて行った。私の家は明慶町(今の港町)にあったので、一階の押入の中段まで、水につかり、家族は全員小学校の講堂に避難していたよ
 うである。暗い海岸から高町(現在の朝日町)へでると、建築業芝山さんの前には、津波で流されてきた物が、うず高く二階の窓のところまできており、その上を登り下りして、南町へ出た。家々の灯は消えて重苦しい暗黒街であった。街角には縄張りをして警防団の人達は見張りをしていた。それからは、どの道をとおって野地新町(今の栄町)谷さん宅へ行ったのか今でも定かでない。
 夕食をご馳走になり、私の家族が避難している尾鷲小学校の講堂へ行ったそこには大勢の人が避難していた。
 ここでやっと家族に会うことができた。しかし興奮と喜びのあまりどんな思いだったのか、何をはなしたのか全く思い出せない。
 矢口での大地震、大津波の恐怖は50年たった今も強烈に私の脳裡をはなれることはない。

体験談

 忘れもしない昭和十九年十二月七日1時30分頃突如地震が起り近所の4,5人で文平さん宅の畑でただ震え、肩を組んで、どうしよう,どうしようと,言っているばかりでした。
 揺れが静まり津波が来るのではないかと思いつつ、一つの物でももって逃げようとして、奥地すみれさん宅(今のありよしや)へ走っていったとたんに2m以上の波にのまれて流されて気絶したのだった。
 引潮になり、鴨居に挟まれていたところ、2人息を取り戻して、這い上り家の屋根に上がって助けを求めていたところ、流されて、ようやく医者屋のせこに近づき出馬先生(お医者さん)にひっぱり上げてもらって、助けられた。
 しかしこのまま奥の方に流されていれば、お陀仏でした。農協に努めていた勝乃さんは、母から何時も地震があった時は上の方に逃げよと教えられていたので、勝乃さんが家に帰り母と位牌を上の家に逃がして、上の道へ来たときは、現在の郵便局あたりは、一面海になっており、向い側の山の麓まで一面海水に覆われていたということです。
 地震の後、津波なんかくるものかといっていた人が、2名なくなった。
 昔のひとは、いろいろな言い伝をしていますが、それを守ることも大切だと思いました。
 近所のみつるさんは病気の母と赤ちゃん2人を背負い上に逃げた。その後3回目家に行ったときは、地面からぶつぶつ海水が吹き出ていて、大変驚きました。徳一伯父さんは九鬼に行き地震に合い、山を越えて峠に着き賀田方面を眺めたときは、無残な姿にびっくりして、腰を抜かし
 て既に母を亡くしてしまったと思い、煙草を一服すって心を落ち着かせて家に帰りましたが、自分自身あのようなときには、馬鹿力が出るものだということを感じたそうです。
 家に帰ると勝美さんが母を連れて来てくれたので、嬉し涙を流し互いに抱きあって、喜びあったそうです。
 私は思います。強い地震が起きた時にはすぐ上(高台)の方へ行くことです。私自身二度と下(低地)には行かないことを肝に命じている。
 現在は昔と違い車だけでも数多く外にも色々障害物がありますから、地震の大きさが、東南海地震ほでもなくても、津波は、もっと上まで浸かるのではないかと思います。
 東南海地震の津波は現在の公民館の裏の石垣の上すれすれまで来ていました。
 現在の建物は、公民館のように津波等に強いと思いますが、家には、窓があり、ガラスもサッシも同じだと思いますので心配です。波だけ来るのと違い東の方の家は、木材橋まで流されているのですから、人間には想像もできない事です。
 昔は賀田町の東端の十兵ヱ衛屋のところまで潮が引いていましたが、今は古江町の西端の造船所まで潮が引いているのを見てハットしました
 土砂で埋まってしまっているのでしょう。避難は、一旦集まりそれか避難するのではなく、私の経験では、学校などのような高台の広場に逃げるというようにしておいた方が良いのではないかと思います。

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避難場所を 家族防災会議で 決めておこう

東南海地震の思い出

 あの日、今から50年前昭和十九年十二月七日、当時わたしは、27才でした。
 今のわたしにとっては、生涯忘れる事のできない思い出の日となりました。
 その日は空はよく晴れて、12月としては、暖かく、水仙の花がきれいに咲いておりました。
 昼にはこの平和な村も一瞬地獄に変わるとは、誰が予想したでしょうか。
 丁度1年前の昭和18年のその日の午後1時半は、私は戦争で主人を亡くして、百五銀行へ努めることになりましたので、去年の今頃はと時計を見ていたその時です。ドドと揺れだしたのです。いつもでしたら、すぐ止んでしまう地震が、どうしても止まず段々とひどくなり机の足を持つ手が震えておりましたが、一向に止むことなく段々とひどくなってきますので、たまらなくなって、裸足で外へ飛び出しました。その時の外の様子は、何も覚えていません。そのまま自分の家へ走っていきましたが途中今の公民館そのときの青年倶楽部の前を通るときは、揺れるので、走ることが出来なかったように思われます。
 私の所には、前日名古屋から伯母が病気療養のためきていて、寝ていました。母は子どもと、伯母を連れてきた従兄と主人の墓参りに行き家は留守で、伯母が1人で寝ていましたので伯母を起こし逃げる用意するように言って、一旦銀行へ引き返しまた家へ帰ってくる頃には、地震は止んでいました。そのころ既に家の前の川へ物凄い勢いで波が、押し寄せて来ていました。
 これは、きっと津波だと思い、伯母を引きずるようにして、裏から逃げました。
 途中波は私たちを追うように後から追って来ましたが、どこまでも、波が追って来るように思って、上へ上へと逃げました。
 途中ふと、下の方を見ると凄い波で沢山の家が流されていました。これがこの世の出来事かと一瞬目を疑いました。
 伯母を途中において、引返し、自分の家の最後を見ることができました
 その後で家内皆の者が出会うことが出来、手に手をとって、無事を喜びました。地震で、幾人もの犠牲者の出た事は、本当に残念です。革めて皆様方のご冥福をお祈り致します。

東南海地震の記録

 忘れもしない今から50年前の昭和十九年十二月七日。当時は戦争中で日本の敗戦がこい時期でもあった。
 私は、学校卒業後(14才)近くの軍需工場である三井造船引本青年学校、(現在の海山町長浜)に入学の傍ら午後から造船技術養成工として勤務する事になった話です。
 当時は須賀利に住んでおりましたので、毎日峠を越えて対岸から三井造船に通っていたのです。
 当日は12月だというのに朝からどんよりと曇っており、生暖い気持ちの悪い日であったと記憶しています。
 大人の方7人が通っていたと思いますが、午前中の青年学校が終わり昼食をとって仕事場に戻り何程も時間がたっていなかったと思いますが、突然足元が、強く突き上げらる感じがしました。
 誰かの地震だという叫び声で、驚き、丸太の上を跳びながら、逃げました。確か、上下に激しく揺れたと思います。どうにか広場まできた時海山町引本町の旧魚市場隣のにしき楼という料理屋だったと思いますが、凄い音と共に白煙を上げて海中に沈んでいくのが見えました
 これは、たいへんなことだと思いながら、地震が収まるのをまち、家へ帰るべく船着場迄行き船に乗ったとたん、さざ波を立てながら潮が急に満ちてくる感じで陸地がだんだん遠くなっていきました。
 これが津波かな一と思う位静かな感じでした。むろん当時はエンジンではなく、手漕ぎ船でした。
 丁度真ん中あたり迄きたとき、銚子川の河口である引本湾に向かって、5,6軒の住宅が流れて来るのが見えました。
 海上はむろん対岸に到着して舟を降りる時もさほど危険を感じませんでした。急いで峠を越え、須賀利に着いた時には、驚きました。
 海岸の家は屋根しか見えず、一面が海、海、海です。ただし家が流れた様子はありませんでした。津波は9波か10波位、来たと思いますが、最初より、2波、3波、4波位までは、大きく、5,6mの波だったと思います。
 地震がきてから、津波がくるまで10分位でしょうか、須賀利のように山に向かって段々に家が建っていると所では、早く高台に避難することができますが、海岸から遠い所では変だと思います。
 唯、浸水するだけでは、家は流れるものではありませんが、材木とか舟が打ち上げられ、引き潮と同時にそれらが、住宅等に当たり押しながしてしまいます。幸い須賀利では、そう云った事もなく、流失家屋も御座いませんでした。後日わかった事ですが、例えば板に水を流
 した場合、突き当たったところは、高くなりますが、津波もそれと同じで、湾の奥ほど波が数倍も高く被害も甚大でした。
 海山町の小山では、津波も少しで湾奥の矢口が大変な被害を受けたように記憶しております。
 私の務めていました長浜は、湾の側面に当たるところで津波に関しては、それ程恐怖感が御座いませんでした。

体験談

 私は、当時県の嘱託で、県民修練所というのがありまして若い子供を一応健康体に戻すということで、その世話をしておりました。
 その施設は、金剛寺をかりてやっておりました。それで、50名ぐらいの生徒がいたと思います。昼、私は生徒の方は、みなさんに任せて家に帰っておりました。地震は、1時近かったと思います。当時は食料事情は悪かったので、里芋を主食にしていたので、その皮を剥こうとしていたときです。その時地震が揺れてきたので、外に出ようとしてガラス戸を開けようとしても、開かない、ひどい上下動で、こんな地震があるのかというぐらいひどかったです。地震が一応おさまって、どれぐらいか経過して、気も動転しておったのでよく覚えていませんが、すぐ心配するのは、金剛寺の生徒です。
 生徒の所へいく前に、津波がくるのではないかと思い、私の家の前をとおる人は、津波がくるかもしれん、といいながら逃げていくので、私は、浜へ見に行こうと思い、丁度北町の所に石橋がありまして、そこまで行ったら、缶詰工場の女工さんが、津波やということで、沢山の人が、知古町を海岸方面からあがってきますので、私も海岸まで、いけないと言うことですぐにとって返して、母親と家内と私の3人が、金剛寺へ行くべき、そのとき川を渡ることを意識していなかった。川は恐いということを知らなかった。上川原町を通って行きまして、丁度コロナさんの前を通って、宮前橋へ向かいましたが、橋の所まで来たとき、第1波の波に会った。それまで全然津波らしい傾向がなかったのです。
 そこのところで波が胸の高さまで来ました。家内が腰を抜かして、声だけで激励しながら宮前橋にたどりついたのですが、幸い橋が鉄筋でしたので、流れなんだんです。あの上で濁流を見たときに、物凄い勢いでしたので、橋が流れると思いました。
 橋をわたって、宮さんの横の細い道を通り、寺山へ登りましたが、その時は、北浦の方面は海水に一面浸っており、上野魚店が建築して間もない家でしたが、ふわ〜と浮いて流れていってしまいました。
 流れていくだけでなしに、北川へ機帆船が5〜6隻が遡上してきて、
 機帆船に家がなぜられた。寺山から見ていると機帆船が家を壊していくのが劇的でした。波の数を数えていませんでしたが、川を遡上する波の勢いは、すさまじいものでした。波がおさまったので金剛寺へおりていって生徒の状況を見て、無事を確認しました。
 お寺や、神社の境内は、鯛や、色々な魚が、ぴちぴち跳ねておりました。一旦家に帰りましが、家には波が押し寄せてきており、唐紙の三分の一ぐ位まできておりました。仏さんの中に魚が上がっており、びっくりしました。
 町の辻つじには、ごみが山のように積み上がっており、歩ける状況ではなく、家の中にも入れない状況ですので、その日は金剛寺で、生徒と一緒に泊めてもらいました。あくる日に余震もありますし、また津波が来るという流言飛語が飛びますし、あくる日も何もしなかった。
 ところが讐察から生徒を動員して、新町あたりの死骸の片付けに来てくれという要請がありまして、検討したところ、新町、北町にはまだ死体があり、行方不明の人もありましたので、倒壊した家を片付けもて、死体を探すことにしました。
 家屋の倒れているところを消防署の人たちと協力して、死体の片付け等をしました。丁度私とこの前でもゴミの小山の中から、新川原町の人の死体が発見された。北けいさん(北村無線の前身)というのが北町におりまして、この人が高利貸しをしておりまして、その時金庫にお金が入っておったのでしょう、金庫を流されるのが、いややというて、しが
みついて離れないものですから、消防署の達中が決死隊を創って、北けいさんを金庫から手を離なさせて救出した。死亡したのは、一旦水が引いたので、物を出しに行ってその悲劇に会ったというのが北町の状況です。
 それと川を渡ってはいけないということです。私もあんな水の勢いと言うのは、表現できない程の凄さで泥水が物凄い勢で川からぶくぶくと湧き出てきてあの時家内が腰を抜かしたのも無理もないことです。
 海防艦(駒橋)は戦時下で尾鷲湾に停泊していたが津波のために押し出されて、錨をきちんと打ってあったが、錨を引きずって、北川の川口まで押しながされてきて、座礁した。船は波できりきり回っていた。
 向井の人から聞いたのですが、潮は堤防の基礎石まで引いたそうです。
 海岸線のコンクリートが30cmから60cmぐらい沈下したようです。
 国市の海水浴場の入口のところに岩礁がありましたが、地震以後満潮になると体が埋まっていくぐらい、干潮でも体が見えない状況であまして、堤防は補充して今の堤防の形になりましたが。
 逃げるのであれば、山の手へ逃げる川を越えてはいけないこと、川はいくら高く嵩上してあっても、川には一番先に潮が押し寄せてくる。
 潮は赤玉のところまで来ており、大鷲館まではこなかった。今回の津波は先頭はごみを押してやってくる。高波が、かぶってくるようなことでなかった。私が一番強いと思ったのは4回から8回までぐらいと思います。流されたのはそのへんで流されたと思う。
 高町は町の名前のように被害はなかった。反対に新町は小川が流れて
 おり、それに沿って潮が来たので被害が大きかった。私はみなに言うのですが、地震が揺れたら何をおいても、山の手へ逃げなさいといっています。地震が起ってから、津波がくるまで昔からご飯を炊く暇があると言れていましたが、今回も20分ばかりあったように思います。
 私の下にキロク屋という店があり、そこのお婆さんが、地震のあと井戸を見ていたそうですが、井戸がからからに水が引いてしまったので、津波が来ると、ふれまわったので、それやったら一度、浜を見てくると言うことで、見にいくところで、逃げる人と会った。井戸なんかに現象が現れるのですね。現在は、各自避難場所を決めておくことが大切です。それと何もとらんと逃げることです。

体験談

 昭和十九年十二月七日其の日は12月とは思えぬ程暖い小春日和でした。私は、昼食を済ませ小用のため曽根の役場に参りました。書類の出来るのを待っている僅かな時です「グラグラ」と大きな揺れが始まりました。さあ大変、地震だということで役場の人達も皆外に飛び出し、私、も生垣の木に掴まりましたが、其の木が抜けんばかり、おお揺れに揺れて、揺れのおさまるのを待ち、帰りの途につきました。
 神社のところまで来ると、両脇に立っている獅子の像は落ちて、石畳が大きく割れて、地震の大きさを知りました。
 それから、100m程歩いた頃、「ゴー」と言う、まるでトラックが何台もが、近寄ってくるような音を聞き、又近くの人の「津波が来るぞ」という声を耳にして、さあ大変、高い所へ逃げなければと思い、早速近くの畑から山に上がり、其の時、私の他にも4,5人が居たように思います。
 海を見ると、海底が見える程潮は引き「ゴー」という音は、海水が海底に引き込まれる時の音だったかな、と思いました。
 すると間もなく、山のような大きな波が、重なるようにして入江に向かって押し寄せて行き、その波が引くようになると、何軒かの家の屋根だけ見せて、材木や其の他色々の物がどんどこと、沖へ沖へと流されて行くのが見えました。
 其れを見ながら賀田へ帰るべく道上の田圃に出たところで、私を案じて迎えに来た母と出会い生きていた事を喜び合いました。
 母が此処にたどりつく迄に出会った人に「はよ逃げないと津波が来るよう」と言ったのに、家に荷物を取りに戻って流され、とうとう死体は、あがりませんでした。
 母と出会ってから賀田に帰るのに、山道をかき分け歩き出して、丁度庚申塚(今の駅)あたりに来たときです、ひっよと下を見ると、顔だけ見せて殆ど砂に埋もれた老人の顔が見えてきました。
 一緒にいた1人が「これは家のじいちゃんや」と言うてそこに泣き伏し
 ましたが、そのときは、どうすることもできませんでした。
 辺りは、流れてきた衣類や色々な物が散乱して、目を覆いたくなる惨状でした。やむなく又山を歩き、大垣(今の中奥)にでました。
 漁船が何漕が打ち上げられていました。潮の引いた川を渡って家に着いたのが午後4時半だったか、薄暗くなっていたのを記憶しています。

東南海地震の恐怖の体験

 私は、現在の尾鷲市須賀利町の出身です。その当時は民家は300軒足らずだったと思います。学校を出たときは紀元二千六百年昭和15年の春でした。
 女学校在学中東京の文化服装学院に入学させてもらうのに、頑固な父を涙ながらにくどきおとして、やっと許るしを受けました。大の仲良しだった友達と喜び合いました。そして学院へ入学金五円を納めました。
 その時の五円は女学校の月謝の1ヶ月と同じだった事を覚えています。
 その束の間戦争が激しくなり、文化服装学院は一時閉鎖になり兵舎になるためということを風の便りで聞きました。くやしくてくやしくてたまらなかったが、入学は断念しなければならなかった。
 くやしくて、くやしくて、たまらなかったが、時の流れには勝てませんでした。わたしの夢は、はかなくやぶれてしまいました。小学校から教員の依頼をうけていたので、須賀利小学校に努めました。丁度努めて5年の冬昭和十九年十二月七日の出来事でした。1年生31人を受け持っておりました。その頃は食料事情が悪い時代だったので、毎日児童に大根3分の1、さつまいも半個とかを持ってきてもらい、栄養補給のため味噌汁を飲ませておりました。
 味噌汁を飲み終えたのでそろそろ帰り支度をしていたところ、午後1時40分ころ、突如地震が起りました。児童をすばやく机の下に潜り込みました。
 がたがた、ごとごと、と物凄いゆれで居ても立ってもおれないものすごさで5,6分は揺れが続きましたが、私にはもっと長い時間揺れたように思いました。
 ふと運動場に目をやると大きな地割が出来て運動場の3分の1は破壊されていました。埋立だったためです。
 やっと地震が終わった時は「津波がくるぞ一、津波がくるぞ一」と村の人が叫んで来ました。私はとっさに、裏山へ児童を促しながら全員避
 難させました。山の上から見ていると、海底が見える位い潮が引いてきて、やがて津波が押し寄せてきました。私は津波が高くなって押し寄せて来るものとばかり、思っていたところがどうでしょう、静かに静かに、ぶくぶくと、どんどん満ちて来るのです。8回位潮が満ちてきたり引いて行ったりの繰り返しで、大きな波は確か4回押し寄せてきたように思います。津波の引き潮の偉大な力によって家が流されたり、壊されたりするのが、はっきりとわかりました。
 夕方になりお母さん達が「太郎や一い、花子や一い」と子供に気遺いながら探しに見え、全員無事で一人の怪我人もなく、親元にお返しした時は、ほっと安堵の胸を撫で下ろしました。今思い起しますと万一地震が起てから子ども達を、帰宅させていたらおそらく波に呑込まれていたかも知れんと、思い出しても身の毛がよだちます。
 村の海岸べりの家はほとんどが家のがわばかり、残り全てのものを海に流されてしまわれ見るも無残あ有様でした。たしか2,3軒は家を流されたと記憶しています。早速わたしは上司の若葉治校長のところへ駆けつけましたところ、石油が流出していたので、何もかも油だらけで、家一切が全て海に流されてしまわれ全くお気の毒で言葉もでませんでした。不気味な余震が一週間位続きました。あの時の地震の恐怖は今でも昨日のような出来事のようで私の脳裏にやきついて離れません。
 50年前の昔の記憶をたどりつつ話させていただきました。

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地震が揺ったら 高台へ逃げよ

尾鷲市中央町

 昭和十九年十二月七日の昼下がり尾鷲地方を大地震が襲った。安政大地震・津波から90年目。尾鷲の人々は地震や津波の恐ろしさを忘れかけていたころである。
 この時は「震度6」の烈震で、家屋が倒壊して、山崩れや地割れが起こり、多くの人は立っていることのできない状態と、ものの本に書かれている。
 当時は完全戦時体制下で、米軍機の空襲による焼夷弾攻撃から身を守ため各家の前には、防火用水として、四斗樽に水を張って備えており2階建ての家は1階のひさしの上などに置いていた。
 ところが、地震でこれが転がり落ちて、辺りが水びたしになってしまった。
 北町では、隣どうしの屋根がぶっつかりあうというひどいゆれ方であった。尾鷲中がこの地震で騒然となり、人々はあわてふためいた。
 家が崩れたので壁が落ち、その壁土がもうもうとした土煙となって、立ちのぼり海岸埋立て地(現在伊藤石油ビル)の近くで、地割れができ水を噴き上げていた。
 この大地震の直撃で尾鷲町内の多くの民家が痛めつけられた。地震に驚いた人達は、「津波の襲来」を心配して浜へ出てみると、遥か沖合いの海面が大きく盛り上っているのがのぞめた。
 いつも見慣れた海面が、今日は異常に盛り上っている。それは、それは海底の地殻の変動により潮位が上昇して海面を伝わり、水深の浅いV字形の尾鷲湾奥の住宅部へ、突入しようとしている恐ろしい光景であった。
 津波の波高は、外洋では水深がふかいので、たいした高さにならないが、水深の浅い尾鷲湾のようなV字形の湾奥は、進むにつれていちじるしく波高が高くなり、スピードを増す。
 津波が襲来することが決定的となった以上、大急ぎで避難しなければならない。
 祖母たねは、一足早く逃げており、もう1人の祖母(母の生母)かよを背負って、少しでも高いところを目ざした。
 かよの身をかばいながら大盛座前(今の赤玉パチンコ)までたどりついてひと安心した。しかし、この時間は津波第一波が海岸を襲い猛威をふるっていた。避難が先で現場を見るのは、小康を得てからだが、被災地は目も当てられない惨状を呈していた。
 わが家が気にかかり川原町へ向ったところ、途中の大倉自転車店前の道路は、全壊家屋や(壊れた木類)がガレキとともに、道を塞き止め通るに通れない。やむなく中井町側を大回りしたが、この時は既に川原町(101軒)は全滅、新川原町も大方流失してしまっていた。
 新町の流失物は、海流に運ばれて引本へ流れついたという。今まで
 何事もなかったのに、突然のこの大惨事を眼のあたりにして、津波の恐ろしさを実感した。
 2階建て家屋は無惨にも上と下バラバラに離れてしまい、下はほとんど崩れ、上は波に押し流され、わが家の2階も、50mかみての吉長商店のそばまで打ち寄せられていた。
 辛うじて形だけは残っているものの、これでは住宅として使用できる状態ではない。ついさきほどまで家族が住まっていた建物が、一瞬のうちに「焚物」同然となってしまった。
 その上どうにか流されずに残った家財道具や食料は、水につかってしまったので干して使えるものばかりでなく、物資がもっとも乏しかった時代ではあったが、使用できないものは捨てざるを得なかった。
 尾鷲湾の入り口で大きく盛り上った海面は、津波となって何もかも呑み込む猛烈な勢いで住宅地へ進入してきた。障害物が何もない北川を逆流するときは、港につながれていた大小の船舶はもちろん、駐留していた海軍の警備艇までも船団を組んだように運んできた。
 北浦で大暴れしたのはこのときの船で、船さえはいってこなかったら浸水の被害だけですんだのに、津波がつれてきた漁船にぶっつかられて北浦はダブルパンチのひどい目にあった。
 地震が来てから津波までの時間はいままでの言い伝えでは「45分間ぐらいあり、ご飯が炊ける」といわれてきた。これは、津波はすぐには来ない。すこしも慌てる必要ないと言ったものであるが、今度の津波に関してはそんなに待ってくれず、地震の15,6分あとに襲来するという予想外の早さで、ゆっくりしておれなかった。震央(震源)が近いと地震のあとすぐ津波が来ることを当時の人は知らなかったのであろうか。このため地震が来ていち早く高所へ避難した人たちは無事であったが、なまじまだ余裕があると思って家財道具を持ち出そうとして戻った人は、意外に早く押し寄せた波に巻き込まれた。
 また、一般には「寄せ浪」よりも「引き浪」がこわいといわれるが、「寄せ浪」も安心できない。今度の津波は「寄せ浪」の打撃が大きく、これで粉砕して「引き浪」で運び去ったといえる。しかも、1波2波の間に10分間しかなかったから、何を取りに戻ることもできなかった。へたに引返したら、うしろから来る波に追いつかれてしまう。
 安全地帯でじっとして、もう津波は絶対こないといわれるまで動かないことである。
 地震のあとすぐ津波が来ると思ってもよい。ご飯を炊くひまなどなく,何をさておいても避難することである。上陸した津波のスピードは100m12秒と非常に速いからうろうろすると波に巻き込まれる。
 とくに、川原町・新川原町は北川の河川敷であったから土地が低く 波のくるのはどこよりも早い。避難するときも、川筋を通ことは避けなければならない。そして、1mでも高い場所を選ぶこと。
 このためにも、ふだんから津波が来たらどこへ逃げたらよいか、十分考えておくことである。
 あまり家財道具を気にすると、どうしても逃げる速度が鈍る。品物
 と人命がどちらが尊いか、よく知らなければならない。とくに、女や年寄り、子どもは背負うか手を引くかして、絶対に眼を離さないことである。何も持ち出さなくとも、家族が全員無事なら、それだけで不幸中のさいわいといえるのである。
 津波のあと、当分の間は川原町で居住できず、やむなく今町にいた親威の「宮本亮吉氏宅」でお世話になったが、ここへはほかの親威も転がりこんで、一時27人もの大家族となった。
 地震と津波は不意打ちに来るが、それでも当時は本土空襲下の戦時体制で、敵の爆撃を想定して「隣組」の組織があり、命令系統がはっきりしており、非常時ということで、自然災害に対しても少しは備えがあった。空襲を覚悟していたので、災害へのこころがまえがあった。
 しばらくして、尾鷲湾の入り口から市街地をながめると、尾鷲の南部がこころもち沈下したように見えた。
 矢浜の海岸部は、白砂青松の国市の松原が広がり、土井本家の製材所や材木置場(木場)があったが、この部分は地震以前にくらべるといくぶん低くなったようである。
 瀬木山のすそに当たるところに、磯づたいに国市の浜へ向う小道があったが、地震後、ここが水に洗われるようになった。これは、地盤沈下を証明するものではないだろうか。
 海岸線が地震のために変形したようである。津波のまえとあとをくらべると、旧尾鷲町内の各地区の中では、ここが最も大きく変わった。
 又「海抜ゼロメートル地帯」ともいうべき川原町・新川原町地区は津波のあと約60cmぐらい土を入れ「嵩上」がなされた。
 大津波の去ったあと、おりから冬場に向い、まもなく昭和20年の新春を迎えた。しかしお正月どころではなかった。米英との戦争を戦いながら、津波からの復興に立ち上らなければならなかった。
 太平洋戦争はますますわが国に不利となり、昭和20年は、もっとも多くの苦難が日本人の上にのしかかった。食べるものが極度に不足してきたのに、為政者は本土決戦、を叫んだ。戦争遂行と津波復興と2大目標に力をいれなければならなかった。
 尾鷲町民の地震と津波によるショックは大きかった。自分の眼の前で家が流され、人が亡くなるのを見た異状な体験は長い間忘れられずその後は小地震が来ても緊張することがあった。津波に対する恐怖心は、10年以上歳月が経過しても消えなかった。
 昭和16年12月に始まった太平洋戦争で、若い男子はみな兵隊にとられ、故郷尾鷲が津波の大被害をうけたことを知らず戦後復員してはじめて災害を知った人もある。
 衛生状態も悪く、井戸が津波に汚染されたために、一部に伝染病が流行した。昭和21年3月ごろまで北浦菊山の隔離病舎に収容されていた人もある。
 戦時中はすべての事件が厳重に報道管制のもとに置かれていた。このために、地震や津波の被害を知らせると戦意によくない影響を及ぼすという理由で新聞発表はごく控えめに「損害軽減」などと報道され
 たので、国内でも大被害があったことを知らない人が多かった。
 しかし、この時の打撃は尾鷲だけでなっかった。地震で名古屋の軍需工場もやられた。中島航空機熱田制作所も地震でつぶれた。ここで軍用機を作っていたが、工場が壊減し、「天山」「彩雲」という海軍機の生産が不可能となった。
 東南海地震は、わが国の空軍力に対しても大きなダメージを与えた。
 8月6日の広島原爆投下、15日の天皇の終戦宣言の8ヶ月前に当
たり、日本人は疲れ切っていた。
 昭和58年(1983)10月現在、旧新町の一部にまだ津波のときの応急仮設住宅に住まっている人がいるほか、あの時の爪あとはどこにも残っていない。
 海岸通りにも立派な建物がたくさん建ち、50年まえに大津波が寄せた事実は忘れ去られようとしている。
 記憶はたとえ薄らいでしまっても、大切なことは、津波の体験を生かし、万一この次津波が来ても最低限度の被害に食い止めことである。「東海大地震」が予告されているが、津波は必ず来ることを覚悟して心の準備だけはしておきたい。

 (この湯浅さんの体験の文章は湯浅さんがお作りになった大激震 東南海津波昭和19年(1944)から大部分を引用させてもらったものです。)

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津波の波先は大鷲館 (現在主婦の店栄町店) の前あたり

東南海地震の回顧

 当時、私達は、天満浦長浜海岸の裏通りに住んでいた。昭和十九年十二月七日午後1時30分、東南海地方を巨大な地震が襲った。そのとき私は、3才になる長女を昼寝させて、その側らで編物をいていた。[ガタガタ、ガタッ]と言う音と共に2階が激しく揺れ出した。[地震!]と思うと、さっと子供の身体に手を掛けた。揺れは止まず、突然[ギーシ、ギーシ]という無気味な音を立てて柱と鴨居が20cmも離れたり閉じたりしているのを見た。
 [只事ではないっ]心臓が早鐘のように鳴り出した。子供を横抱きに階段の踊り場まで出たが降りられず、やっと小止みになり、転げるように裸足のまま戸外に飛び出した。
 あちこちに人の騒ぐ声がして、[エライ地震やったナー]と息をはづませながら1箇所に集った。[こりゃ津波が来るかもしれんでぇ、津浪つうのは地震のあと15分から20分で寄せて来るって聞いとるよって皆気い付けえよう]と年寄り方が言いながら行った。でも地震の被害が口づてに聞こえて来ると、それを見たさに海岸の亀裂や壁の錬瓦や屋根瓦の落ちて砕け積むさまに驚いたりしていると、[津浪が来るどう、早よう逃げなあかんどう。]と藤本と言う漁師のおじさんがおめきながら走って来た。[
スワ!]と子供を姑にあづけ家に駆け込むとねんねこ袢天と負い紐をを引っつかんで飛び出した。子供をしっかりと背に括り付けると、姑を先立てて上へ上へと登っていった。海岸のまちは背山を削って人家が建ち段々になっている。振り返ると、あちらの路地から、こちらの路地から人が駆けて来る子供が1人いないと、泣き声で叫ぷ声が聞こえたりして、更に不安をかき立てる。
 背の子も異常な雰囲気に怯え、しっかりしがみついて離れようとはしな
 かった。やっと頂の平地にたどりつき、眼下を見下ろした時、凄い勢いで海水が沖に引いてゆくところだった。怒りに狂った波頭が赤茶けた地底を削り、物凄い濁流となってゆくそのさまは、まるで巨大な巻物をくるくると巻いてゆくように見えた。
 私達は只茫然とこの天変地異を凝視していた。あっという間に海はふくれ上り、第1波が押し寄せた。見る見る海岸沿いの家並みが2階や平屋の棟だけを残し水没した。充分に満ちると水は引き始め、また、元の家並みが現れた。[今降りたらあかんどう。津波の恐ろしさは2回目じゃどう]と漁師のおじさんが、声を涸らして叫んで回った。早やもう第2波が襲って来た。嵩高い水位に盛り上った水は、今度は、平屋の棟も呑みこみ、一面海原化した。
 その家の上を小船が漕ぎ出されていくのには、驚いた。突然、[あれ家じゃないんかな、あれは前の浜、市場あたりだったろうか [ポカポカ]と横になり俯き、右に左に揺れながら数知れない物体が流されてゆく。最初大きなダンボールかと思った。目を疑った。家であった。あの時、あの瞬間、当地方では、801戸もの人家、65人もの尊い生命が奪われて行ったのだという事を後になって知り、断腸の思いで合掌した。
 冬の日は暮れるのに早い [もうよし]との許可が出てやっと地獄を見た丘から家に戻った。屋内は、全くの修羅場だった。汚水に引っかき回された屋内は、足の踏み場もなく建具、緒道具等には異臭が漂い、家宝でもあった金ピカの大仏壇もぐっと体を傾け、容赦なく汚物にまみれていた。涙が出た。只、庭に置いてあったごみとりが、天井近くの棚の上にチョコンと乗っかっていたのが妙に心に残った。
 翌日からは、くらしの立直しの復興が始まり、私達女どもが、共同井戸の回りで濁水を汲み上げては衣類や家具等の潮だし1こ精をだした。休む暇なくつるべが上げ下げされ、1日中続けられた。
 来る日も来る日もよい日が続いた。澄みきった青空をB29の大編隊が轟々と北を指して渡ってゆく。何にも考えなかった。只陽にきらめく銀翼が[きれいだなあ]といつまでも見上げていたのを覚えている。

体験談

 当時は家の門(かど)に立っていた。地震で家の前に置いてある防火用水(60x50)の水が溢れでていた。地震のあと津波の予感をしたので子どもを連れに、知古町へ走った。津波は地震後17分〜18分で来たように思う。新町の方から津波やぞとおめいてきたので、裏から妻と子どもを本家(土井)の牛まやへ逃がして自分は、分団長をしていたので、役場へ走った。津波は、ほそやから噴き出してきた。小島たばこ店まできた。
 大鷲舘まで波がきていた。4分団は新町、高町、自分の家の前の家の裏まで波がきていた。缶詰工場の品物が裏まで来て居た。庭で5寸これは、暗渠を通ってきた。高町被害なし、念仏寺の北門にてんま船が打ち上げられていた。50隻ばかりの船が陸、打ち上げられた。早田のいなり丸が冷蔵庫へのしあげた。くらがり屋には缶詰がたくさんあってそれが北川へ流れて、それを拾いにいった。

体験談

 私は、当時5才で家族で古江へ行くために、巡航船に乗り込んで出港を待っていた。急に大きな揺れと音がしたので、エンジン音だと思ってそのまま船に乗っていました。津波やということで、大人たちが騒いでいましたが、どうすることも出来ず、そのまま船に乗っていました。しかし、いつの間にか機関長が乗客をほったらかしにして自分だけ逃げてしまっていた。1回目あ津波では、つないであったロープは切れなかったのでそのまま船に乗っていたが、2回目の波で船は陸へ押し上げられて、現在の第3銀行のあたりまで流された。2回目の引き潮のとき竹が道路をせがえていたので、船はそれにひっかかり船が流れなかったので、運よく助かった。
 家が野地町にあったので、大鷲舘の横を通って大盛座の前から家に帰った。

体験談

 小学校の校長室で会議中突如の地震に遭い直ちに窓を開け、家路に急ぎ子どもを抱いて中村山へ避難した。15分すぎた頃津波が発生。
 尾鷲神社前の橋の上に大型船が乗り上がっていた。新町、川原町、新川原町等はみんな流された。死者も多し。夜になってB29の空襲があるとの噂が広がり、尾鷲の人々は皆尾鷲隧道や北山道路へと避難した。12月8日、避難民は尾鷲小学校の雨天体操場で寝食をとることになった。
 私は、その当時尾鷲連合町内会会長として婦人会等を指揮し炊出し等をして避難民を救った。早い人で1週間、長い人で2ヵ月間尾鷲小学校の雨天体操場で生活をしていた。当時は食糧営団の米を積んだトラックが海に落ちた為、その浸水米をもらって、連合町内会で炊出しに使ったことを覚えています。

体験談

 地震前の気象状況は例えば無風でどんより曇っていたとか、又些細なことでこんな変ったことに気づいたとかの、記憶はありませんが、地震振動中職員室から教室まで速足でコンクリートの渡り廊下を走ったが、足が地につかず走れなかったことから、揺れ止むまで一時身をひそめて、揺れがおさまってから避難すべきだと思った。
 古老の話では、地震後津波が来襲するまでご飯を炊く位の暇があると聞いていたが、それが15分も経たない内(児童にそんな話をしていた)に町民が津波だと避難して来たのには唖然とした。
 学校にいたので地震、津波の前兆は何一つ感ずかなかったが、後日井戸
 水が引いたとか、海面に異常を認めたとか聞かされました。
 津波の恐ろしさと強力な破壊力を初めて体験した。その後チリ、津波も体験したが、その引き潮の強いのには驚きました。
 稲束を燃やし、津波の来襲を村人に知らせた故事を想いだして、震源地によって意外に早く津波が来ることを知った。

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車での避難はやめましょう 大地震のあと津波に注意 2階や3階にいても階下に降りないこと一般に上の方が揺れは大きいけど安全

体験談

  当日、食事を済ませて工場で機械の運転していたが急に大きな音をたててやってきたので、戦時中のことなので爆撃やと思って避難して、地面に伏せた。しかし事務所や工場がガタガタ揺れるし、事務所の壁が落るしこれは爆撃やなしに地震だということに気がついた。
 地震がおさまって、矢浜の方を見たら屋根の棟が崩れている家が4〜5軒あったので、自分の家がどうなったか心配になり、そのまま皆家に帰った。家に帰る途中、後のほうから、津波やと言う声で、ふりむくと国市の方には大きな津波がきており、足場丸太がどんどん流れ込んでいた。そのとき既に中川橋の下まで波が、きておりたくさんの丸太が流れていた。家に着いた時には、家内は、逃げており家の中は空になっていた。地震がきたとき津波がくるとは思わなかった。そのまま仕事をしていたら死んでいたと思う。工場の人は皆助かった。

体験談

 空襲がだんだん激しくなってきましたので、当時私は四日市にいましたが、仕事を休んで尾鷲へ帰って、2〜3日した時だったと思います。
 地震の当夜は余震が次から次へと起りましたので、服を着たまま、すぐ飛び出せるようにして休みました。
 翌日から町内会の手伝いとして海岸地区へ約1ヶ月出て後片付けをやりました。北浦の現在の橋のある所から海岸まで、まるで堤防を築いたように家の残骸が重り合って、ひどいものでした。

体験談

1 地震の前微など何も記憶していません。
2 地震はうなりのような、響きを伴ったと思う。そんな長い地震の時大抵津波がくると言っていたのが如実にかっきりした
3 地震の後津波がくるまで相当余裕がありました。
4 前の浜と国市の浜が物凄い海水の襲来で水没し押し込まれ、引いていくとき家も物も急激にさらわれた。
5 海岸の船は皆押し上げられたり、流されたりした。
6 校庭からまともに見えたので初体験でもよく判った。
7 防波堤など湾の全面のものは一たまりもないだろうと思いましたが、側面のものは防禦力があると思いました。
8 家には、向井→真砂→ガンガラキ→樋の口→黒淵→家の経路で徒歩で帰った
9 津波の引いていくときの物凄さ 長いうなりのような地震でした 国市の松が梢のとこだけ見えていた

体験談

 農繁期は休暇が貰えたので、家に帰っていた。田で麦かりをしていたところ地震がきて立っておれなかった。そばにいた母が孫2人を脇に抱えて畦道に伏せた。樋に溜まっていた雨水がチャポチャポとこぼれ落ちるのが見えた。その後は宮の上小学校の小使室で炊き出しの責任者となって、指揮をした覚えがある。

体験談

 昭和19年の大地震、津波は戦時中の災害であったにもかかわらず、いざという時の事前準備例えぱ非常袋の用意などが出来ていなっかた。体一つで逃げただけだったが幸い私達の区域には被害が無かったので事無きを得たが平素の心構え、いわゆる「常に備えよ」という事が大事だと思った
 当時は風を引いて寝ていました。突然家が揺れるので外に飛び出し、津波が来るのではと思い、服に着替えておると、間もなく高町の方から津波だと大声をたてて大勢の人達が走ってきたので、私も一緒に尾鷲小学校の校庭へ避難しました。津波は、土井周平さんの家の北側の溝のところまで来たように思います。避難場所で、川原町の方で大火災だというデマが飛んで恐怖を感じました。妻は学校勤務、母は家にいましたので、避難を促し尾鷲小学校校庭まで逃げた後、タ方近く家に帰りましたが皆無事でした。
 地震の直後、近所の主婦連中が町中で集まって雑談して「津波が来るぞ」という声にも全然耳をかさず「わいわいがやがや」、そのうち青くなって避難しました。非常時にはつきもののデマが広がって当時の町民に相当の不安と恐怖心を与えたことは事実である。当時は情報施設も活動も不備だったので、止むおえなかったと思うが、今後もし災害が起ったときは的確なる情報を流して市民に不安と動揺を与えないよう希望します。
 当時は車がなかったので、避難するのにかえって都合がよかったと思いますが今後あのような事態が起ったとしたら車の通行は被害に一層の拍車をかけるのではないかと大いに気になります。

体験談

 子どものころ、母から昔話の1つとして、地震のあとには津波がくるまで、ご飯を炊くひまがあるから、そのうち逃げれぱいいと聞いてました。
 そのくらいのことは、だれでも知ってたと思います。にもかかわらず何10人ものひとが逃げ遅れて死に私の幼友達も何人か死にました。生まれて始めて体験する大きな地震なのに、そのとき、私は津波がくることなど少しも考えませんでした。そのとき一緒にいた大人達も同じ考えで楽観的でした。ところが何だか外が騒がしく、津波がくるから逃げたほうがいいと言うことで、2階からおりて玄関まで出たら水がどんどん入ってきて腰まで水につかり、外の溝に足を突っ込み倒れそうになりました。その時水際で大きな声で、逃げろ、逃げろ、と佳民に声をかけている海軍さんが私をみて、水の中に入ってきて私を引っ張り上げてくれました。水から出た時、腰が抜けるとは、こんなことでしょうか、膝ががくがく座り込んでしまいそうでした。気を取り直し、必至で走り続けました。尾鷲小学校の前まで行っても、まだ水がきているようで、後を振り向くこともできませんでした。知人から母が尾鷲駅にいることを聞き、行ったら風呂敷包等かかえて、脅えきった顔で震えているたくさんの人がいて、やっと母に会うことが出来て無事を喜び合いました。
 母から「家はもう全部流れてしまったよ」と聞いた時始めて涙がどっと溢れてきました。家を失った人達は、その夜尾鷲小学校に寝ました。タ食に玄米のおにぎり2コとお新香2片いただいて食べた味が忘れられません
 今グラッときたらすぐ火元へ飛びます。次に出口をあける。そしてあわてず状態を見て行動します。テレビ、ラジオの情報をしっかり聞いて判断して、逃げ遅れないことです。最後に小学校にいた私共の家族を引取って離れ座敷においてくれた知人の親切が忘れられない1つです。これだけの親切を、今にできるのであろうか。幸な現在何1つでも社会の為にお返ししたいと努めています。

体験談

 私は、地震当時熊野市井戸小学校で勤務中で電信電話、唯一の交通機関の巡航船も欠航のため連絡の方法も、つかなかったが、村役場から南牟支所に村内の各小学校から各小学校の被害の状況を使いの者が、当時の海岸道路を徒歩で連絡に来た。その都度各港の被害の様子がだんだんは判ってきた。
 私のにも、親類の方が2人連絡にきてくれて、私の家に被害のあったことを知った。
 津波の翌翌日郷里に帰った(海岸道路をを通って〉
 1昨年賀田地区で地震、津波の想定して市の防災訓練があったが、物資輸送は海上よりされたが現実とは遠くかけはなれていた。
 アンケート調査は係を各地区に派遣して津波の経験者から意見を聞いて全市的にまとめるべきである。

体験談

 津波に浸ったわが家の家屋は、昭和16年に隣近所に住みたいという母の要望で新築したもの。(昭和14年母は父と死別、自分ら長男家族は昭和16年から京都に住んでいたし、弟妹もそれぞれ中学校、女学校なので母が高台にある母屋のひとり住居は大変だろうといことで、下の屋敷に建てた。)我が部落は九鬼湾の西、字名占として10世帯ぐらいの小部落だった。V字型の奥だったので津波の被害が大きかったようだ。そのころは現在の九鬼駅は遠浅だった。
 その年の12月1日に実弟の戦死公報がはいり、急ぎ京都より帰郷。いよいよ明8日に京都へ帰ることにして、帰郷の準備にとりかかろうという矢先に地震
 母は婚前四日市で幼いころから地震の怖さを味っているとかで、いち
 はやく外に飛び出していった。大地の揺れる間もじっとしておらず蜜柑畑をあちこちするので、そのそばにぎっちり付添わざるろえなかった。
 大揺れが落着いてどれほど時間がたったか定かではないが、山仕事をしていた人が、山裾から津波だと大声で叫びながら通っていつた。見ると、湾の入口の岬さまのところに、しぶきがあがっているのがみえた。
 急いで家に帰り、戸をしめて、という母の声に雨戸をしめ、裏口からまず母を避難させた。そのとき既に足元に潮が来始めていたが。京都への土産ともろぶたに入っていた魚のあぷりを手渡すのが精一杯だったろうか、みるみる潮がさしてくる。すぐでればよかったのだろうが、一瞬そこから出るのをためらった。そして反対側から出ようとして硝子戸に手をかけたがびくとも動かない。潮はどんどん増えてくる。部屋の中で1呼吸、2呼吸そのとき幸いにも、硝子戸が一枚ふわりと開いた。そこから潮に乗って泳いだ。自分が来ないので、案じてくれていた人々の顔。若者が差し出してくれた棹をもち高台にかけあがった。
 着替えのために母屋の納屋まで行く、その途中の上の家の連絡橋(木の橋)は既になく川の石づたいに行った。着替え終って納屋から見た光景─3波、4波ごとに下の家は棟近くまで潮がくる。ひき潮の海は現駅前の埋立地のもっと先まで干しあがって、海底まで見える。海沿いにあった数戸の建物はすっかり流出してしまった。
 田海道の1住人が辛じて屋根上に逃げられたのであろう。親子3人(子どもは、2才だっただろうか)しっかりよりそい、湾内を波のまにまに漂い助けを求めていた声はいまなお忘れられない。船のない部落からは、どうすることもできなかった。やがて町からの救助船に無事助けられた時の安堵。
 余震の続く第1夜、高台の無事の家で被災者たちが、まんじりともぜず夜をあかした。
 その後幾日か、その家と自分の家の母屋とで分宿して、共同生活をした
 もともとまだ電灯のついていない部落だったので停電にはさして痛痒は感じなかった。

体験談

 今の新見世のところに検目舎というのがあって、そこで、事務員が28人ぐらい働いていた。地震がやってきたので、そら地震やと言うので、皆外へ出しておいて、自分は部屋の中にいたら、部屋の壁がザアーと落ちて来たので、これはいかんと言うので、私も外へ飛び出した。事務所の前は十字路になっていたので、皆そこに固まっておった。地震がえらいので、事務員を皆、家に帰してから、自分の家も見ておかな、あかんと思い、自動車で帰って、再度事務所に戻ろうとしたが、津波がやってきて戻れなかった。
 津波で矢ノ川の水と中川の水が矢浜のところで、うっちゃいして丸しめの足場丸太が、矢浜の入り口にうちゃがって、道路はピシャと、止められた。10分ぐらいか、しばらくしてから、山本朝吉さんに会ったら、おれええのばばは流された、と言うのでわしゃあ一消防団やったもんで、団員を呼ぶのに半鐘へ登って、下をみたら、そのばあ〜やんは、トコトコやってきた。なんどれ、ばあ〜やん おまえは、流れておらんと言うので、おれは、半鐘を打ちに上がったんやがいて言うようなことさ、しっかりした90才ぐらいの人やった。安政の津波は、そのばあ〜やんの自分の生家で止まっていたと聞いているので、そこで、じいといていたと言うことだった。
 津波は今の公民館の前で、矢ノ川(こ)と中川(ご)の波が打ち合いした。そして、公民館まで波が来た。公民館の前の橋は汐受橋と言うが、わしらこどものとき、秋の大潮の時大水がでると、うぐいが俎上して、釣ったことがある。
 たばこやからお寺にかけて、名古というが、名古は湾の行き詰まるところで、そこまで、波が来ておったんやろ。港町の山西のおやじが、夫婦で流されたと言うので。それは、ほっとけれんと言うの
 で、捜しに言った。北浦にあった地方事務所のとこは、行けいで、山の方を回って行った。津波は、矢ノ川では樋の口まで入り、今度目あれだけの津波がきたら、ガンガラキのずう〜と奥までいくやろなあ。国市で、ベカに角材を積んでいた人が流されて沖の方に行ったり、ガンガラキの方まで行ったりしているの見た。
 波は、2回目は一番大きいように思った。半鐘の上から見ていたら、しゃもを抱えて飛んで行くのや、牛を追ってくるのがいた。今のニュー三紀のところは、牛で一杯になって、牛をそそうにすると7代たたると言うので、牛を大事にしたものだ。
 大地震のあと余震は恐ろしかった。夜は大曾根の上から向井の上の峠が火の帯になる。桧と桧の葉が地震の時こすりあって、火がでると聞いた。食糧はなくて困った。昭和16年ころだんだんえろなって、会杜へ行くのに弁当はみなサツマイモやった。米を持っているのは、おれだけやった。町では、津波は、花屋の前まで、新見世の前はドラムカンで一杯やった。矢浜の下地の墓は津波は来なかった

体験談

 あしら、中学校の寄宿舎がたき物が、たらんと言んでたき物を作るのに、下谷へなぜ切りに行っておった。午後1時頃やったんかいなあ、時計をふてたったんさ、時計をみようとしたら、ないいんさ 時計をふてたったげ〜え、と言ったら、拾ろたら、しまわしてくれるかいと、金やんが書うので、それやったら、しまわしてやると言って、10分ぐらいしたら、時計を拾ろたと言うことで、しまいにして、山を下へ降りて来て、めしを食べる所を茶か場と言うが、そこまで来た時、地震が揺ってきた。えらいもんやなあ、おるとこないいんや、場所の良い所には、茶か場があるんやけど、石が動いて弁
 当を肩にかけたなり、木にしがみついて、地震の止むのをまったがなかなか長かった。地震が止むまでの間に大きな石が1個まくれてきて、今でも、そこにある。そこへ、でにを持ってやって来た人はその石を見て驚いていたが、わしらの所へとんできた。また同じ仕事をしている他の連中(作業はめいめいでおこなう)の様子もわからんし、帰る支度をしておったら、中学生が薪をとりにやってきた しかし、学校がどうなっているかわからんし、すぐに帰して、私はしばらくの間そこで、人夫の帰るのを待っておった。それから、川を渡って新道まで出たら、向井の連中は自転車で、ビューと走って行ったが、100メートルもいかんうちに引き返してきた。
 何かあったのかとたずねたら、津波ってあんなんかい、樋の口まで波で一杯やがい、と言うので、わしも走った。
 野田の田まで走ったら、そしたら、そこに牛がどっさりおるんさ 津波を見たら、腰を抜かしたと言うのか、走れないようになってしもて、そんなり家に帰ったら家には誰もおらなんだ。自分の家は被害はなっかた。津波の後、流された藁のといあいが始まった。これでは、どうにもならんと言うので、警防団が出て、藁の分配をした
 翌日、高二さんと2人で残りの藁を、集めて、皆にくじをひかして、分けた。そのようなことをしていると、国市から流された死体の検視をせよと言う命令があり、2人で行った。住所は新町で、国市におって、やられた。造船所で炭を焼いていた人でした。

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避難するときは身軽に。 津波は何回も繰り返す。 となり近所の地図も 覚えておく。

体験談

 昼食を終えてしばらくしたら、地震が揺ってきて、長いこと待とたんやけどな、やまんもんで、これはあかんということで、あもてにでたら、用水桶の水が、流れてしまって、空になっておりました。
 八幡神社のとこの、福西製材所の空き地へ逃げた。地震の止むまで待って、おさまったので家に帰ってきいよって、あの八幡橋は昔は土橋やった。その橋の真中にひびが入っておった。
 大きな地震が揺ると津波が来ると言う話しなどしておった。今晩は大変なことになるどなと、言うお婆さんの話しを聞いて、何か準備せにゃならんと思い、していたところ、浜の方から津波やと呼ぼてきた。そんなり一番先に新道へ真っすぐ逃げた。
 波は底から、温泉のように涌いて来る。その恐ろしさは、目について何日も寝れなかった。家は皆流された。逃げる途中、中井の橋を渡ったが橋と海水の間は1mぐらいの間隔しかなく、泥水になってぼこぼこと涌くようにして、ふえてきており、津波はザーア、ザ一アと流れるようではなかった。逃げるのが遅れた人は、膝まで水に浸った人がたくさんいた。昔から地震が起てから津波がくるまで時間があるので、ご飯を炊いて逃げたらよいと聞いていたが、早かった。昔の津波は遅く来たかしれんが、そんなひまはなかった。
 避難してから、子どもを学校へ探しに行った。学校で会った。その後の生活は親戚の家に世話になった。その後、北浦の中岡病院の借家を借て入った。4月に仮設住宅ができて、入居した。被災地は12月30日には既に整理されて、きれいになっていた。余震がえらかったので、浜の方の人達は夜になると津波が来るかわらんというので、布団を持って逃げる日が続いた。あの当時は何も無かった時代で、食べるものに困った。配給は、うどんこをもろたり、そうめんをもろたりした。津波の来るのが早いか、遅いかは震源地が近いかによるやろ。昔は震源地は遠いとこでしたのでしょう。

体験談

 当日は、古戸町の妹の家から米を出すのに、足袋をこしらえてくれんかなと、たのまれたので二階でミシンがけをしておった。地震が揺れてきたので、下におりなあかんと言うので、階段をかけおりた。子どもたちには、なにか、むしがしらせたのか、遊びに行ったらあかんと言うて、表にむしろをひいてそこで遊んでいたので、そのまま子どもを連れて中村山へ避難した。
 家の前のお爺さんには、先に逃げると言っておいたら、お爺さんは、わしはもうちょつとしてから行くで、先に逃げておってくれと、いうので、先に逃げた。お爺さんは逃げると奉には、胸のあたりまで、水がきており隣の二階へ上がって、着替えて、屋根づたいに逃げたと言っておった。
 中村山から海軍の船とか、小型の船が波でグルグル、舞いよるのを見たけど、水を見ないで逃げた。地震のあと、まだ大きな地震がよってくるさかいに、広い場所へ出よとおめいてきた。他に津波がくると言うこともあって逃げた。前のおばさんは、浜でサイロ網があって、缶詰工陽のとこに船をつけておって、網から、サイロをはずしておって、地震が止り、地割れがしたので、網の上に乗ったと言うことをきいておる。
 津波の後自宅に帰ったが、家の中は、どうにもならんようになっていた。
 自宅の前には、借家が三軒あったが、それが、私の家の小屋根にかぶさっておって。東建材の庭をとおり家へ帰った。北町は私とこの前まで流れて、隣が残った。波は庭の入口の敷まできた。家の中にはリヤカーが入っているし、ドラムカンは幾つも入っているし、逃げる時に家を閉めんとけと、言うたもんでに、表も裏も開けっぱなして逃げた。
 家は流れなんだんやろなあ。津波のあと、古戸の小倉さんのところへ1週間ばかりおいてもらって、その後学校の前の義姉の家で過ごした。姉はこの津波で死んだ。そして、49日が済むまでの間そこで過ごした。
 姉は魚売をしていて、学校の前から当時浜へ、行なくても良いのに、市場のとこにいただき納屋があって、そこへ計器を忘れたので、それを取りにいって、私の家の玄関さきで、計器を持ったまま死んでおった。
 近所の人で死んだ人もあった。大きな荷物をおいてねて死んでいたが、1度逃げて、荷物をとりにもどって、逃げ遅れてれて死んだように思う。
 津波の翌日、家を見にきたら、家に入ったとたんに、地震がくるで、逃げ一一て、おめいてきたので、これであかん、と思い。非常に怖った。
 当時は、食物に困って、今の工業高校のところへさつまいもをもらいに行ったが、いもは、良い方で、つるや、葉を食べた。救援物資を貰っていたが、子どもは小いので、学生服の破れたものばかりでなにも使用できなんだ。大人の着る物の配給は、何とかまにあったが、子どもの着る物に困った。缶詰工場の前の海岸は地震でひび割れして、人は皆網の上に上ったと言っていた。
 地震から津波までの時間があると聞いていたが、流れた人の中には、時間があるというので、荷物をまとめていた人もあったようです。私の家には、海軍さんが2階に泊っていたが、2階のものが。津波に流されなかったが、津波のあと泥棒が入って、海軍さんのものが、皆盗まれていた。

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避難するときは火の元が消えているか、点検、停電していても器具のスイッチを切り ブレーカーをおとして窓や入口のドアを閉めます

体験談

 地震は、午後1時半ごろやったかいな。ちょうど休んでいて、揺ってきたもんで、ひどい地震で、道具の手入れをしておったので、それを納めてから逃げるのに下駄を履こうとしてが、その暇がなく、そんなり、足袋はだしで、走った。
 外に出て見ると、皆浜に出ていた。わたしは、なにげなしに、感じるものがあったので、家内に地震の後何が起るかわからんで、早く大事なものをリックサックに入れて、上にあげるように言って、わしと弟とで、海を見ておった。丁度潮が吹いてきいよる。堤防の口(当時は、天満よりのところが航路として、堤防がつながっていなかった)から漁師で言うなえばと言って、ごみの固まりが、ズーと入って来た。
 サアー津波やということで、町中をおめいて、走った。子どもを先に探して、すぐに裏山へ子どもを連れてあがれと、おめいて走った。
 今の景井さんのところから海を見ておった。1回目の波が引いたときに荷物をとりに下ると言う人がいたが、下るなと言って止めた。波は堤防の上を越えて来るときはナイヤガラ瀑布のようで、今度は潮が引いていくとき矢ノ川(やのこ)の方を見ると、大きな筏に4人乗って、流れていくのが速かった。津波が収まって、家まで下りてきたら、タンスもなにもかもひっくり反っており、わしとこは、裏屋で、潮が天井まできておった。
 神棚の下に、おがこがついておった。わしら、皆船を流してしまったので、船をさがしに、出掛けた。船は佐波留の沖から南(九鬼岬)の方向に流れておった。水の入らない船は浮いているので、三木崎灯台の方まで続いて、しかし、我が船は見つからないし、水谷と内山とわしとで、3人とで行った。三木崎の灯台を西にみるまで、いったが見つけられなかった。
 戦争中のことで、潜航艇に攻撃されたら、いけんと言うことで、早田口に入り、それから、九鬼口に上ってきたら、九鬼口の所に溜まっておって2隻みつけて、それを洩航して帰ったが、わしの船は、見つからなかった
 。そのまま港を入ってきたら、わしの船は岸壁につないでくれてあった。
 それはなんでかと書うと、矢の川から筏で流れてきた人がわしの船をみつけてそれに乗り換えて、津波が収まってから、船を新町のとこにつけてくれてあった。あくる日に礼にきくれていた。
 わしは、皆に言うのだが、地震の時逃げるときは、かならず、足の鞆をつけるな、つま先で跳べ、それやったら、走れる。
 それは、何故かと言うと、足袋を新調したのを履いており、汚すといけないので、つま先で、石の上をポンポンと走ったら、走れた。地震のあと津波がくることを、皆意識していなかった。何10年に1回のことやで。
 安政から92年やでな。わしえいのおじいさんらは、地震から津波まで御膳を食べる間があったさかいに、落ち着けと言われていた。
 地盤が強いので、地震で家屋が倒壊することは、なかった。大きな揺れではなく、小さい揺れがあった。家の上の平木が、ギッチギッチとなって、隙間ができたが、倒れるようなことはなかった。
 津波の引きの波で家が傾いたのがあった。体験から、新しい家であれば大丈夫ですが、古い家であれば、急いで家の外に出るようにしたらよい。
 長浜では死者は、なかったが天満では3人死亡した。死んだ人は避難するのにその方向を間違えたようです。それは、すぐに山に逃げないで海岸沿いに走ったのでしょう。逃げるのも遅かった。地震から15,6分あったと思うが。
 又一旦逃げておいて、2度目の波にのまれた。あれは、欲をだしたんやろな。物を捜しておって、家ごと奥へやられた。
 又、大鷲舘へ映画を見に行っておって、地震の後長浜向けて逃げたが、家まで到着せんうちに、波がきたので、北村タバコ店の前に桜の木が一本あって、それにしがみついて、助かった。
 1人は、海軍の集会所へ、行って大事なものをとってでようとして、波に押されて、第1波のときは、表の部屋で死んでいたが第2波では、そこ壁に穴があいており、流されて、死体は高町のほうで、上がった。

体験談

 遠足の予定日だったと不確かな記憶しています。前日が雨で、地面が濡れているからと遠足が中止にされ、早めに下校。早めに昼食を食べたと思う。その日は晴天で、母は近所の人達とわら草履など作る小屋のそばで日向ぼっこをしながら縫物をしていました。
 私は母の傍に遊びに近づいたときに、あの地震でした。「竹やぶへ逃げろ」の護かの声で走るに走れない揺れの為、はいつくばりながら、7〜8Om離れた竹やぶに逃げ込み竹にしがみついていました。
 隣のおじさんがこの揺れ方だと、津波があるかも知れない沖を見ようと言うので、海岸へでる。津波って何も知りませんでしたが、「津波だ一っ」と言う叫び声で、私も同調して、何度も何度も叫びながら、母のいるところへと走りました。
 天倉山の中腹まで逃げ、湾を見下して、うす暗くなるまでそこにいました。防波堤の内側の海底が見えたこと。湾内の警備艇が激しくぶっかり合ってけたたましい音をだしていたこと。自分の家が大きな船に体当りされもろく崩れていたこと。そして、地震の時逃げた竹やぶにつきささるように、私の家をくずした船が打ち上げられていたことなどをはっきり覚えています。
 母が日向にて縫物をしていたその場所に屋根石が落ちていたこと。川底から湧き上がる水の激しかったこと。母が妹を背負い頭におひつをのせて逃げたこと。

体験談

 納屋におって地震がきたので、5分ぐらいもせんうちに、子どもが曾根へ行っておたので、曾根へ迎えに走った。すでに、小浜橋へ来たら、沖はさざなみが立っておって、曾根に着く途中で、波がきおって田んぼへ、かき上った。高台から見ていたら、目の前で流れて行く家が、深みに沈んで行った。日が暮れるまで、そこにおって、その後津波が収まったので向いの山を通って、奥へ回って賀田へ帰って来た。地震が揺ってから津波がくるまでの時間は随分短いように思いました。
 地震が揺ってからすぐに、曾根に向けて走ったのですから、そのときすでに、津波が立っていたから、賀田の場合、津波が、くるのが早かったように思う。これまでに、地震から津波まで、やっと時間があると聞きますが、賀田の場合は、津波のきたのは、随分早いなあ。
 私とこの妹は、農協に勤めていまして、友達2人は流れて死ぬし、妹は自分の家に老人がいたので、大きな地震がきたら、津波があるぞと、聞いていたので、自分の受持の書類を持って逃げて、友達にも津波がくるから、逃げよらいと言ったのに、その人達は妹の言うことを信用せんで、2人共流されたが、妹は、老人の言うことを、信じて助かった。

体験談

 私の経験からすると、地震から、津波までの間は、かなり時間があったように思う。あの当時、常会があって、まなとか、ねぎを、どれぐらい作っているのか、聞いてくれないかというので、調べに行っておったら、そのとき地震が揺って、隣の道へ出たとき、家と家が引付くように見えた。
 それから、上の寺へ逃げたら、こえ(屎尿)を桶に入れたまま、置いて
 あったがそれが、ぱちゃん、ぱちゃんと溢れておった。それで、地震が収まってから、下へ降りて行って、子どもをおんで裏へ逃げていたら、大川幸次郎さんと言うひとが、津波やあ一と、おめいてきた。
 私の経験では、20分ぐらいあったのではないかと思う。それで寺へ逃げて見ていたら、引潮と満潮がぶっつかり、潮が高く盛り上がって、その潮の高さは、寺までとどくように思えた。

体験談

 当時私は、名古屋にいたのですが、母から聞いたのですが、今の保育園上の田んぼで、母が仕事をしていたところ、地震がよってきたので、これは大きいと言うので、跳んで家に帰った。
 井戸のポンプを押したら、スカスカで、水が上がってこないので、これはあかん、津波が来るというので、じっちゃんは、足が不自由だったのでじっちゃんを逃がさなあかん、と言うので、逃げたが、波はそんなに早くこなかったと、聞いている。
 名吉屋にいたときのことは、町内会で、各戸に防火用水が置いてあって各用水とも水を一杯に入れてあったが、地震のあと、外に出てみたら、道は川のように水びたしになっていて、防火用水の水が空っぽになっていた
 家の近所の寺の燈篭は倒れていて、それはひどいものであった。

体験談

 昼ご飯を食べて、畑に行っておったのですが、そしたら、地震が揺ってきたのです。石坂の段々畑やもので、その石が、地震でカチカチと音をた
 てていたが、その音が何とも言いようのない音やった。
 その石の音にびっくりして、すぐ家に帰った。しかし家はどうもしてないし、しばらくすると、津波やゾーオと、大きな声で叫んできたので、逃げて下を見ていたら、農協のところで、荷物を持って逃げようとしている人がいたが、波に流されていくのを見ていた。そのとき、手を出したらとどくような近くでしたがよう助けなかった。

体験談

 当日は、前夜から朝にかけて雨が降って寒かったように思う。天侯は、あまりよくはなかったが、高曇りで、地震の前兆と思われる事件は起こらなかったように思う。私は、地震の時三木里と古江の中間のところにおって、地震が起るなり賀田に向って走った。
 古江へ来たときは、大1波が終って、第2波がくるところであったが、家など壊されており、その間をぬって走ったが、途中海を見たが、ひき潮と押し潮が賀田湾のところで、波がぶつかって、波が大きくたちあがって、それは、滝のようになっていた。曾根に行っておった人は、賀田へ走って来たようですが、橋のところで、波にのまれて死んだようです。

体験談

当時は朝から寒かった。地震が揺ってから津波がくるまで、ある程度時間があったように思う。あわてず、何をおいても、逃げることである。
 昔の人からは、地震がよってから津波が来るまでの間、めしを炊いている時間があると聞いていたが、そんな時間はなかった。あの時、津波から
逃げるのに、津波を背にして、賀田奥の方向に逃げた人は、死亡しており途中で、高台に逃げた人は、助かっている。地震から津波までの時間は、l0分から20分ぐらいであったように思う。

体験談

 父から聞かされていたが、昭和19年の地震のあった3〜4年前から小さい地震がひんぱんにあったので、何かあるか、わからないから、注意をしておけと、書れていた。家にいたので、地震があったあと浜にでて、海水の状況を見に行ったが、何ら変化はなかった。そして、家に帰り避難の準備をしていたが、そうこうしている間に、津波がくるぞと、言う声がしたので高台に逃げた。第1波で皆逃げたようであるが、第2波が来る前に物を取りにもどって、死んだ人がようけおった。
 当時の波の高さは、賀田駅とか町内の電柱に記しをつけてある。波の先端は賀田奥の坂が上りかけたところまで来た。

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地震が起きたら津波を警戒

体験談

 地震のときは自宅におりました。昼をすませて、外に立っておった。そしたら、地震が揺ってきたので、外を見たら、用水桶から水が地震で溢れて、道路が水浸しになった。子供達が知古町へ遊びに行っていた。私は津波がくる予感がしたので、知古町へ行って津波がくるかわからんで、用意をしておけと行って家に帰ってきた。
 そしたら、地震から17〜18分で津波がきた。昔から地震のあと津波はくるのに、ご飯を炊く暇があると聞いていた。あのときは早かった。新町の方から、津波じゃ〜〜とおめいてきて、家内と姉の子と裏の畑をとおって、本家の牛まやまで逃げておけと言って、食糧と身の回りのものをもたして逃がした。私は、警防団第4分団の分団長をしておったので家にはおれないので、そのまま本部(役場)へ駆け付けた。当時は戦時下でしたので、いつもズポンの上には、ゲイトルをまいて、空襲に備えておった。
 それから、町をみまわれてというので、回ったら、何回目の津波かわからんのやけど、ちょうど、前は吉田さんとこと、もう1軒あって吉田さんと長谷川さん宅の間が1mの空き地があった。(細屋)から潮がぷ〜〜とふいてきた。隣に仲ときゑさんがおって、町を逃げたら危いさかい、本家をとおって、中村山へ逃げよと言ったおぼえがある。
 ここらは、今の小島たばこ店ぐらいまできたかいなあ。中井町は大鷲舘ぐらいまできておった。それから、各分団は位置につけと言うので4分団を受け持っていたので調べたら、家の裏まで潮が来ておりましたわ。林町10番1号は水浸しで、缶詰工場(中山冷蔵第2工場)の麦や醤油樽が流れて、ここまできていた。。この家の裏座敷がありそこに東さんが住んでいて、その家のタンスの引き出しの1段ぐらいまで海水がきておったそうです。ここらは道にのった
 程度であった。前から潮が入った訳ではないが、溝をとおって裏から入ったが5寸程度であった。今道路になっているところが病院でして、車庫がありそこまで、ドラム缶が流れ着いていた。新町は低いので、今の山崎米やさんの前に1丈ぐらいごみの山になって、道をふさいでいた。念仏寺のとこでは、北門の前にてんま船が1ぱい浮いていた。今の丸三のとこが、細い道で、そこにもドラム缶がごろごしておった。あとから調べたのですが、船が53隻陸へ上っていた。
 高町は奥保さんの倉庫になっているとこまで、船がきておった。尾鷲製氷(今の石川商工のあたり)に南丸(早田の船)が米を積んで打ち上げられていたが、その警備に行った。缶詰工場も相当痛んだ。警防団から夜警に出て各町の角に立った。津波の後片付けにも警防団が出てやった。一番困ったのはやはり食糧です。警防団が出動するとご飯を食べささんなんし、町役場には何もないしほとんど手弁当のような形で出た。
 川原町、新川原町が一番えらかった。くらがり屋は新川原町におりまして、当時は缶詰を仕入れていたようで、それが流れて北浦の橋のところに積み重なっていて、それをあっちの分団の人が拾いに行ったと言うことでした。畦地増三さんは昔町会議員をしたことのあるひとで、浜の方に住んでいたのですが、波に涜されて、屋根に乗って、北浦の橋の所まで川をのぼった。当時の死者は川原町、新川原町でだいぶ出たと思う。警防団の消防車で焼きに行くのに、今の電源の方へ行った。一旦寺に納めて、寺から焼くのに運んだ覚えがあります。わしらは、内を出てから1っ月ぐらい帰えらんと、夜警をせんなんもんで町町の入り口に警防団を配備して、物資のどろぼうが、頻繁に出没するので、団員を2名づつ付けて、夜警に当った。今同じような津波が来たら、相当海水につかるのではないかと思う。地盤も沈下しているように思う。3尺ぐらいは、沈下している地震後国市へ行ったが、1メートルは沈下しとるんでは。

体験談

 当時は戦争の末期で、食糧事情は一番大変なころで、そのころから学校給食が始まったように思う。それは現在のようなものでなく、せめて子どもには、ご飯を食べさせようと言うことで、1椀1汁であった。米はなく、昼食は、米ぬかをまるめて、小判のようにして網焼するのが主食であった。私は小学校5年生で、昼過ぎて家に帰りつくなり、地震が揺ってきた。家にはたばこの陳列棚がいくつも置いてあたが、それが倒れて来るので恐ろしかった。そこでなんとか揺れるのをしのいだ。母は大きな声で悲鳴をあげていた。弟等は幼稚園へ行っておったので、迎えに、高木たばこ店、清水眼科の所
を走って行ったら、今の幼稚園のところで、2人に出会った。それで、2人をつれて今の郵便局(旧町病院)の所まで来たとき石恒のおばさんが、ちとみを家に帰すのと出会った。それでちとみを預かり4人で、家に帰るべく今の内山病院の前まで来たとき、何人かのおばさんが、つくなっとるのに、出会った。おばさん達は壁にもたれてハーハー言っているので、僕はびっくりして、どしたんと聞いたら、自分達のことは言わずに、あんたらどこへいくん、と聞いてきた。家に帰ると言ったら、今帰ったらあかん、津波がくるんで、逃げなあかんと言われて、始めて津波のことを知った。
 そのとき僕は国語の教材に[稲村の火]と言うのがあって、それを思い出した。それでこれは、大変やと言うことで、今度は3人をつれて逃げることになったが、どこへ逃げて良いものかわからないので、どんど上へ逃げた。
 今の尾鷲高校の入口に竹薮があって、そこまで逃げたら、たくさんの人達が薮の中に座っていた。そこで、夕方まで過ごして、家族と連絡をとるため、家の方へ向かった。清水眼科の所まで来たとき
警防団の人が立っておって、浜の方へは、そこから入れてくれなんだ。尾鷲小学校の講堂へつれて行ってくれた。
 そこは、避難した人達でごったかえしており、母を捜すことが出来なかった。3人の子どもは寝てしまうし、座り込んでいたら、母もあっちこっち捜しておったのだと思うが、あんたら、どこへ行っとったん、と声をかけられた時は、恐怖心にかられ、母にしがみついて泣いた。暗い天井の低い講堂は足の踏み場もないくらいで、1晩過ごして、家に帰った。新町は米屋のあたりから、ごみが一杯で入れない状態で2階の高さまでごみが道路をふさいでいた。それを越えて、2階から家に入ることができた。家は流れていなかったが1階部分は30度ぐらい傾いてい、裏の借家は全部流された。
 波は1.30mの所まできていたが、2階は浸からなかった。翌日流木をあらけていたら、飛行機が白い線を引いて飛んでいるのを見て、敵機がやられて、今にも落ちると漁師の人が言っていたのを覚えている。
 その年は尾鷲湾で鰯の大漁があったのか、キンカラ箱の中に鰯の煮干が、一杯詰まっていた。岸壁は旧缶詰工場の前だけ残ったが、あとは、市場までの全滅した。
 それにうなぎが、わいて1日に6〜8匹ぐらいづつ釣れた。水産
試験所の前の岸壁は、石積であったが、崩れなかったが外のコンクリート造りの岸壁は皆崩れた。
 当時の中学校の月謝は、4円50銭、映画は、45銭で、大盛座東宝劇場があった。大鷲舘はなかった。タバコは、配給であったがマッチも1本づつの割り当であった。
 経験上から、当時は避難所も決められていなかったこともあって親との連絡もなかなかとれなかったが、今は避難所も決められているので、その心配はないが、各自が常日頃から、認識しておるかと言うことである。避難所を住民に徹底させるためには、一斉訓練を
やるのも一つの方法ではないか。例えぱ、今までの避難訓練は防災の日に浜から逃げてくるのであるが、子ども達は、ウイー一クデーの昼間であれば、学校におるので、子どもと親が確実に連絡とれる避難所を決めて、避難訓練を繰り返し繰り返しやれば、そのことを認識させることができるし、パニック状態をおさえる1方法でもある。
 学校としては、地震の際は学校に避難させて、地震が収まってから、状況を見て、集団下校、学校内解散をさせるが、親に渡すことは、考えていない。

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地震は長くても1分間 揺れが収まったら火の始末

体験談

 地震が揺ってきたので、外へ飛び出したが、屋根から落ちるものがあるから危いというので、広場のある浜へ逃げた。浜に日吉丸と言う屋号の家があって、そこの屋根の棟が2つに割れて、子供を産んだばかりの人がいた。3人が助けを求めておめいていたがなあ。
 屋根から土が落ちて来るし、地震が収まってから下に降りていたが、何か知んが、家中流されたようやがなあ〜。地震が収まってから家に帰ったが、神さんのものが落ちていて、私の親が、落ちた物を拾っていた。私の家の傍を流れている堀を見たら波がチョボチョボと音をたてて来た。私は、地震の後は津波がくると、本を読んで知っていたので、隣の人に言うてそんなり逃げた。弟を背中におんで、西へ走り、中井の橋を渡る時には橋の下には水が何もないのに波が地下から吹いてきて渦を巻いて、赤土になってもうてきた。
 それを見たら1ぺんに腰を抜かして、どんなにして山へ登ったかしらん。新道へ上らないで西の方へ逃げると良かったたけど、こっちの方が近いと思ったので、こっちへ逃げたが、橋を渡ったらあかん、と言うのはこのことやなあ。皆近い山へ逃げようとする。
 昔の津波は、地震から1時間余り間があるって聞いていたが、20分もなかったように思う。ご飯を炊く間なんて全然なかった。逃げるとき、近所のおばさんは、2階から外を見ていたので、津波がくるよってはよう逃げよいと言っておいたが、おばさんが逃げるときには津波は、腰まできていたということやった。
 新川原町は、中井町まで流されて、吉ちゃだけ残った。北浦の方も皆流された。逃げるときは何も持たずに、下駄をはいて逃げた。
 一旦宮の上小学校へ逃げて、宮さんの近くにこころやすい家があっ
たので、1週間ばかり世話になった。その後、今の主婦の店のところにおいてもらった。食べるものは、学校で、にぎりめしをくれたので、助かった。寺へ泊った人もあるし、いろいろあるなあ。この辺りだけでもよおけ死んだ。この裏の夫婦とか、八幡大橋を病人をおんで渡っていて流された。親子で流された人もあった。
 地震の後余震がひっきりなしに揺ったので、恐ろしかった。

体験談

 地震のときは、自宅におったが、広いとこへ逃げなあかんと言うことで、浜へ逃げた。地震が収まってから、家へ帰った。その時は昼食をすませて、さつまいもを買い出しに行くのに準備をしておった。昼の汽車に遅れて、夕食を準備していた。家に帰ると棚のものは落ちとるし、津波が来るかわからんので、米をかしておったら、津波が来たと言うので、そんなり子供を3人かかえて、新道へ逃げた。昔から地震のあと津波がくるまで、ご飯を炊く時間があると聞いていたが、そんな時間はなく、20分ぐらいで、津波がきたように思う。新道から浜の方を見ていたら、八幡神社のところにあった山本鉄工所の建物が大きく傾いて崩れていった。あれだけは、忘れられない。そうこうしているうちに、日が暮れてくるし、泣いていたら、浜の方の人は皆宮の上小学校へ避難していると言うので、学校へ行ってしばらくの間おった。その後、北浦のおじいさんの所で世話になった。学校におった時は炊き出しをしてくれたが、そんなに長くはなかった。にぎりめし3こ、コウコ3こもろた。波の大きいのは3〜4回ぐらいで、あの時は九州の別府温泉へいっとるように思った。ブクブクと潮が川底から涌いてきた。潮が押し寄せてくる前にブクブク涌いてきた。

体験談

 尾鷲漁業共同組合の大敷網へ勤めていて、ちょうど昼飯を食って国市は白砂青松というか、美しいところで、そこに、尾鷲造船所があり、そこで定置の船を建造しておったが、完成したので、それを下ろすのに、潮時もよいし私らは、若かったので、船の下にもぐって、下ろすよう支度をしていたら、グラグラとやってきた。立っておれんのやなあ〜、長い時間やったように思った。特に砂浜がえらかったのか、立っておれなんだ。しゃがんで、座って、みんな顔色はないし恐ろしかった。地震がやんでから、岡さんと言う人がおって、その人が地震のことを知っていて、これやったら津波が来るか
わからんで、逃げる準備をするように言われた。しかし皆津波ということをしらんもんやから、津波と言れてもぴんとこなんだ。
 中には、津波が来るものかと言う人もいて、皆でワイワイいいながら船を降ろすようにしていた。
 岡さんは、どうも騒いできたよって、逃げる勘弁せにゃあかんでと言うのでハッと沖を見たら、尾鷲湾全体が温泉の様に真黄色になって、向井の下から、大曾根の下にかけて、泥水になって、押し寄せて来た。サア津波と言うのは、これやぞと言うんで、そんなり造船場のとこの、倉庫(水産試験場の裏)へ逃げた。そのとき、岡さんから、津波のときは、横に逃げたらあかんぞ、必ず津波を後ろにおいて逃げなあかんと、教えられた。 津波は一度にきて、一度に引くもんではない。じわじわくるから、それを横切ったら足をとられて命を落す。背にして逃げたら、絶対に、いきなりかぶってくるものではないと聞かされた。
 船も何もほっとけと言うことで、逃げた。国市に土井本店の製材所があったが、そこで働いておる人達は、津波に気が付いていない様子であったので、大きな声で津波やぞ〜、津波やぞ〜といいなが
ら、津波とはどんなもんか知らないが、その恐ろしさに、逃げたように思う。水産試験場へ行くのに、中川の土手沿いに国市の浜から矢浜街道へ出て、それから林町に入り瀬木山の北側の細い道を通り倉庫までたどりついた時には、すでに、水は倉庫まで着ていた。
 それで、危険を感じて、荷物も持たずに、瀬木山へ避難した。瀬木山で津波の状況を見ていたが、林、新町、高町ではあまり死者はでやなんだようだけど、川原町のほうでは、かなりの死者がでたようです。波が押し寄せてくる、引いていく、一旦押し寄せた波は、船も家も何もかも、皆浮かして、ゴチャゴチャにしておいて、沖へ引いていく。波は10回もこなんだように思う、6〜7回かと思う
 3回目ぐらいの時見たら、北浦の地方事務所があったが、そのときは回りが流されたが残っておった。大きなだんべ船や運搬船も打ち上がっていた。
 北川の川沿いは皆なくて、新川原町、川原町はほとんど全滅した 浜通り、魚市場周辺は全滅した。前の堤防は低かったので、波が越えてきた。当時は尾鷲には海軍の基地があったので、艦船が配備されていた。その艦船が波に流されて堤防の、上を行ったり、来りしていたが、軍艦でも、どうしようもなかった。錨を降ろそうが、何をしようが、止まらなかった。軍艦の上で、兵隊等は船が沖へ行ったり、高へ行ったりする度に、船尾へ走り、船先へはしり、ワイワイガヤガヤしておった。よお転覆せなんだと思う。
 津波が収まり、夕方になって、尾鷲湾は家の破れたの〜やら、国市の木場から流された丸太、船の破れたのおやらで、尾鷲湾が一杯になって、船の航行ができなかった。堤防の内側は、空と言うことはなかった。行野のことは、あとで聞いたが、公民館のところで1尺ぐらいの浸水で、あまりたいしたことはなかった。私の家では、潮は便所に入った程度であった。地震の被害はなかった。

体験談

 私は、10月に4人目の子供を出産したばかりりで、昼ご飯を食べて、前の北村さん所が常会長をしていたので、そこで、タバコを分ける作業をしておった時地震が揺ってきた。
 北村さん家の前でおじいちゃんが、仕事をしていた。そのおじいちゃんが地震じゃじょ〜と、言うたが、子供を抱いたまま、外へもようでやんといた。おじいさんは入口のガラス戸を持っていた。
 地震がやんだもんで、家に帰り、辺りを見たら、でこを2基飾ってあったが、棚から落ちて、割れているし、それを拾っていたら、おとうさんが帰ってきた。当時長男は、幼稚園で、妹は3才、長女は8才、それに生まれたばかりの子供。
 地震が揺ったら津波が来るかわからんのやじょ、て言うんさ、津波らきやへんわい、といいよった。そのとき瀬木山に敵機が来たら半鐘を鳴らすとこがあって、何かあると、それを鳴らしておたので そのときも、カンカンと鳴って来たので、敵機がきたと思っていたら、外は、浜から逃げて来る人で、一杯になってきて、なんどなて聞いたら、津波やってゆうげ、と言うので、隣の人は米を持とらいと言うし、わしらは、しめし(おしめ)を持つのに手一杯で、米を持つどころではなかった。
 子供らがおらんよって、探さんなんよって、先にいくわいと言って、石や(郵便局の前)さんの方へ逃げた。姉の子はタバコを配給してもろたもんで、ここで分けて、新川原町のじいちゃんのとこへもたしてやっていた。新川原町では、津波がくるというので、皆逃げて人はおらんと言って帰ってきた。外の子供は、小学校へ遊びに行っていると言うので、石やへ行ったらだれもおらなんだ。
 学校へ皆逃げたと言うので、学校へ逃げたら、今度は中村山へ逃げなあかんと言う、中村山へ逃げたら、人はよおけおって、今どこ
どこは流れた、新町の方が流れたと言うのを聞くが、よう見なかった。新町の下に幸運丸と言うのがあって、そこまで潮がきて、あそこから下は皆流れた。
 しとかあ、ここにおったが、学校の運動場へ行けと言うので、学校へ行ったら運動場は人で一杯、どこの人は死んだ、と言う話が聞こえてくる。つらいこっちゃなあ〜と言って、タ食はどうするどなて言いよったら、にぎりめしをくれると言うことでした。
 私らは、津波が収まったので、石つねへ行った。そのあと家の様子を見に行ったが、警防団の人が街角に立っていて、家に入れてくれなんだ。道は段塚になっていて、屋根が道になっておった。はしごのようなもをもって来て、そこを越えて、家は崩れていなかったので、屋根から降りて、衣類を探した。その前に、こども等を捜すのに騒動した。こどもらはどこまで逃げたんやろと聞いたら、旧女学校の方の竹薮へ逃げたということであった。北村道生さんと子どもらは、新町の方へ帰って行く途中、高町の人達と出会い、今家に帰ったら危いと言われて、その人達と一緒に段々畑まで逃げたそうであった。
 私等がほんじ(石つね)に落ち着いて、一段落してから、子もどたちは、帰ってきた。あのときは、川原町が死者が多かった。波に乗って船が家の中まで入ってきて、大変だった。新町では、長屋のお婆さんが、一人死んで、お婆さんは、米を持つのに米を入れていて逃げ遅れたようだった。
 隣のおじいさんとお婆さんがおったが、米袋を背中においねたまま私の家の前で死んでいた。
 新町へは船が入ってこなかったが、いろいろな、ごみやドラム缶が流れて来て道をふさいだ。コールタンが家の中に流れてきて、家じゅう真っ黒になって手のつけようがなかった。潮は、ここでは、タンスの二段目まできていた。

体験談

 引本造船所に勤めていた。地震の起った時は、船と船の間におったので、船が揺するので、危険に思い浜へ逃げた。浜に逃げて砂浜に立っておったら、砂の中へ足がめり込んでいくように感じて、板の上に立っておった。引本を見ていたら、土煙が家が倒れるので、立ちのぼっていた。私は、その時空襲やと思って、又爆弾がどこかに落ちたように感じた。
 事務所から道具を片付けて家に帰りなさいという命令があったので、家に帰るのに長浜まで来たら、市場のとこから、津波が来たぞ一とおめいてきたんで、私ら津波がどこまで来るやら解らんし、初めての経験じゃもんで、長浜の家の間をとおって山の上にあがった
 そして、下を見ていたら、潮が段になって、ず一とくるんさね、あれが津波かいなと思った。岸につないである船が丸太を積でいたが、津波がくると持ち上がって、石堤防の上にのって、潮が引いたら船が倒れて、丸太が海の中に落ちた。それが何回も水が行ったり来たりして、津波が収ったので、家に帰ろうかと言うことで、山を越えて小浦へ下りて、渡利の橋のとこまできたら、警防団がおって危ないよって、早く行けという注意があり、走って帰った。
 旧道をとおったが、大きな石がまくれていて、それを避けながら約1時間で尾鷲にたどり着いた。その途中伊勢新聞の派遣の坂田さんに会ったが、鉄道も電話も通じないので、どこまで行くのか聞いたら本社まで歩いて連絡に行くと言っていた。
 北浦の橋のところまで来たら、ちょうど最後の波が引いたとこだったので、道の上に魚がいっぱいピチピチはねていた。皆怖いので誰
も拾う人もいなかった。家に到着したら、誰もいないし、道ばたには、ごみがいっぱい積み重なっていた。甘藷がごろごろしておった。
 家族の避難したとこが見当がついているので、そこへ行った。
 そこで1週間ぐらい泊めてもらった。他の人の話では、津波のくる前に潮が引いて堤防の内がでは、海の底がみえたそうです。
 うちのばあちゃんの話では、私達こどもの時、きかされたのは、地震が揺ってから津波が来るまでに、ご飯を炊いて食べて、それを弁当にもって、逃げるだけの時間があったと、言っていましたが、今度のは、15分から16分で津波がきたように思う。
 おばあさんは、こんな地震におうたことはないと言うし防火用水はたてこんぼう、うっとるし、隣のばあちゃんとモンペをはくやらして、騒動しいよったら、瀬木山の見張り台があってあそこから、半鐘がなり、おめきこみよるもんで、何やろと思って、こっちへ来たら、津波やっていいよるので、山口さんのところにうど屋があって、そこの家のとこにどいらい津波がきて、家がフワーと浮き上がって、倒れていくんで、恐ろしなって、姉が家にいたので、おひつを持って逃げるし、おばあさんが米を持ってきたら、私はおらんし、本家の中庭をとおって、おひつと米を持って、中村山へ逃げたそうです。みんなワーワーなきよるし、津波のあと家に帰ったら、海岸の方は、家も船もグチャグチャで、生きた気持ちをせんと言うて、あのときの事を思うと幾晩もねられんと言う話をしておった。
 あの時は、波より船が50数隻波と一緒に、町へ上がってきたそうです。それがグルグル回って、それで皆家がやられた。私の家の裏へでると海が見えた状況でした。店は水があがらなんだもんで、警防団がきて、おにぎりをここから配った。当時は何もないので、にぎりめしを分けあって、食べて乞食同然の生活でした。

体験談

 当時宮之上小学校で教員をしておった。その日は風邪をひいて休んでおった。2階で寝ておったが、なかなかひどい地震で、2階から降りるのに、ヨタヨタし〜いもて降りた。父はこんな大きな地震のときは、あと津波が怖いので、母に避難するときは、ご飯を一釜炊いておけと言って、海に気を配っていたが、ご飯を炊くひまなんかなかった。海がへんやから、逃げるように言って、父は兄夫婦の子どもを見に長浜へ行ったが、潮鼻まで行けたが、長浜までは、行けなかったそうです。そんなり小林さんの缶詰会杜の間を山へ逃げたそうです。私達も裏山へ勝手口から逃げて母親と二人夢中でした。
 私は学校を休んでいたので、津波のおわった後、一度学狡を見にいかなあかんと思い、学校へ行きました。八幡神杜から北浦にかけて通行できないので、山の裾の方をとおって行った。
 当時は毎日ではないが、給食をやっておってその係を私がしていた。家は海岸沿いにあったので、津波は2階で3尺浸った。家は流れずに残ったが、1階にあった家具は皆流されてしまった。1晩隣の家に泊めてもらったが、翌日から、自分の家で生活を始めた。2階の畳は、浮き上がって、また元の位置に沈んだ形であったので、そのまま乾燥して使用した。1階は建具や家具が全部流されたので、テントで周りを囲って、風を防ぎ生活した。
 地震のことにについて、教えられていたのは、身軽にして、逃げろと言うことでした。死んだ人は1度は逃げたが、大丈夫と言うことで、荷物を取りに行ってやられたと聞いている。
 津波のあと物を洗うのに、津波で井戸に潮が入り、半年ばかり使用できなかったので、古里の川まで行った。飲み水は山水を引いて
あったので、それを飲んでいた。今でしたら断水やなにやかやで、困るのではないかと思う。

体験談

 地震のときは捻挫して、学校をやすんでいた。北川沿いに菓子屋があり、その前に左官屋あり、そこで遊んでいた。大きな地震やったなあ。左官屋さんの家の中にいたので、地震の終るのを待ってすぐ自宅に帰ってみると、お婆さんが、干してあった麦がまかってしまったので、拾っていた。海が気になるので、浜へ行って見たら、すごかった。台風の波のように、ゴウーゴウーと鳴ってきて、それを見ていたら、他の人が津波やないかと言うので騒動になり、そんなり家に向って走った。そこで、家にいた妹をおんで、吉ちゃの方へ逃げた。そしたら、すでに北川の橋は、水に浸かってきていた。
 川は水が増えてきていた。私のおじさんらは、沖に出ていて、古里の前辺りで、地震にあい、前の石堤防に船を接岸して、おかにあがり話しをしている間に堤防が水に浸ってきたのでそんなり逃げたと言っていた。私は、北川の橋を渡って、新道を上って、寺山の上にでた。それから、津波を見ていたら、波は乳やの前の田圃へ上がり、小型の船は、ひん病院の下の所まできておった。その晩は坂場のおばさんの家で世話になり、その後は知入宅でいろいろ世話になった。津波の状況は天気の悪い時と同じで、波が白くなって、おりかぶさってきた。このへんの人は、家内中で逃げるので、道路は、ヤーヤみたいに、混雑した。逃げるときは、家族と別々であったが、避難所で、一緒になった。
 昔から、地震から津波までの間はご飯を炊くひまがあると、聞いていたが、そんなに時間がなかったように思う。当時のことで、思
い出すのは、シラミがわいたことである。風呂屋でうってくるのかそれはものすごかった。ランニングシャヅばシラミの卵でいっぱいやった。あくる日、流された船を捜しに行ったが、弁財のところで見つけた。

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 地震の時家にいたらその場で、頭をカバーして机の下等へもぐる。  地震の揺れが収まるまで、外にとびだすな、かえって外の方が危険である。

体験談

 当時尾鷲小の助教諭をしており、昼ご飯を食べて同僚と話しをしていたとき、突然地震が揺ってきた、先づ地震が揺ってきたら入口をあけんと、家が傾いて出られなくなると常々言われていたので、先づ職員室の入口をザーアアーと多いそぎで開けた。学校は硝子戸が多いので、その揺れる音が怖かった。そのあと運動場へ出て、逃げるのは、根の張った竹やぶが良いと言うことで、他の先生と手をつないで竹やぶへ逃げた。
 その時学校の前の2階建の家が崩れるように、ものすごく揺れていた。それでその家に近付かないようにして、道端を通って行った 竹やぶに人った時は、地震も収まっていて、中村山へ写生に行とった子供達5年生は、中村山が割れてきたと言って帰ってきた。その後職員室へ入って行ったら机の上は赤、青のインキでねっとて、それを片付けてから、便所へ行ったら、恐ろしさで、足がガタガタ震えて座れなかった。そのようにしている間に下の方(港の方)から津波やと言って、ようけ逃げてくるので、中村山へ登ってら、3回目の波がやって来るところで、堤防の下の石が見えるといいよったら、沖の方から真赤な赤土色した波がワア〜ワア〜ときてアッと言う間に堤防も見えなくなってしまって、そのときいた警備船は、堤防の上をブイを付けたまま、グルグルまいよって、又川原町を運搬船が艫を逆さまにして、尾鷲神社の方へ上って行くのを見た。
 山の上でも皆んなが、ワ〜ア家が流れていくと言う泣き声がすごかったので、私もつられて泣いた。津波も収まって中村山から下りてきたら、ゆりなおしと言うのが、ドンドンくるし、新川原町、川原町、知古町が皆やられた。
 五平山屋の裏にあった2階建の家は1階をやられて、2階がどん
と下り、その屋根を越えて通って行かなあかん状態であった。自宅は小久兵衛谷にあったので、町中はとおれないし、尾鷲神社の方へ坂場から入って、神社の裏を抜けて、西山田を通って墓の下に出て家に帰った。北浦の天理のところで、たくさんの人が死んでいると言うはなしで、通るのが怖かった。私とこの家は昔の製氷会杜の隣にあったが、自分の家の船が流れ着いて、こわれた形になっていたが、本家は残ったんやけど下はどろの海で勝手の戸棚が、わかやの隣の土井さんの角へ流れておって拾ってきた。
 隠居は新川原町の端にあったんで1番先に流されて、ズート押されていった形やもんで、1番上に乗っていた。尾鷲小学校でも児童が3〜4人死んだ。
 地震から津波までの時間はかなりあったように思う。巡航船も尾鷲港は、津波やと言うことで、沖で待機していたそうですが、沖は、たらいの水のように静かであったそうです。
 自宅は今の谷口牛乳屋の上の方にあったので、被害はなかったが下の方の人が逃げてきていたもんで、自分の家のものを出してお世話をしました。
 かわいそうやったのは、児童が、家と家に挟まれて死亡していた3年生の子供が父の位牌をカバンに入れてお母さんを捜す。お母さんは、子供を捜す。そのうちに、流されて、家の壁と壁に挟まれて死んでいた。
 高等科の子供もそうやった。その日は午後早引きしていった。帰るのにお一い、お一いと、手を振って行くので、どおしたんと聞いたら、早引きして行くんやと手を振って、なぜ早引きするんと聞いたら、用事があるんや一一と言っていた。
 ちょうど昼ご飯を食べていたんだそうで、お父さんがいないと言うので、お父さんを捜しに行って、又お父さんも子供を捜しておって2人とも津波に流されて死んだ。津波のあと、お母さんが子供がおらんと言って、学校へ捜しにきておったので、手を振って、帰っ
て行ったと話ししてやったら、寺へ逃げたんやろか、中村山やろか 八幡神社やろか、と捜していた。私は、互いに捜しあうことは、危険やと思う。やはり逃げるときは、別々に逃げて、あらかじめ、家族で、避難場所を決めておく必要があると思う。
 いまだに地震が揺ったらドアを開けろと親から教えられているのですぐに、入口へ走る。地震が揺ったたら、丈夫な物の下へ、そこに、空間ができて、助かることがある。外へ逃げるときは、竹やぶへと言うことが、頭の中に残っている。
 うちの隠居の隣の人なんか、地震が揺ってから、海へ見に行けと言って、海岸へ行ったら、潮がえらい引いていたんで、えらいこっちゃ、と言うので、家財道具をまとめて、お婆さんを連れて逃げていたら、波が腰まで浸ってきて、ヒョイト後ろを見たら、お婆さんはいなかったと言っていた。波に流されて死んだ人は、たいてい、1回目の津波のあと波が引いたので、これ忘れた、あれ忘れたと、物をとりに戻って、死んだように思う。
 物はだいじやと思うけど、命あっての物種というか、ものをとりに戻るようなことをせんほうが、良いなあと思う。落着く所を決めておいて、互いにそこに逃げるということ。欲をださない。常日ごろから、口酸っぱく親から言われた、その教えが私にとって良かったと思う。

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津波は1回だけでなく何回もくりかえしてやってくる。欲を出すな!

体験談

 地震当時は私は、尾鷲に松阪陸運というのがあって、そこの次長をしておりました。天気はよくて、国市の工場へ木材の輸送について行った。食事をすませて、一息ついた時に地震が揺ってきた。
 そのときの状況は、国市の事務所はダンスするように踊った。尾鷲の街の方を見たら土煙がドートあがっておった。地震が終ると同時に、自動車で一旦事務所まで来て、うちを見にきたんです。うちへ来たとこが、津波が来るという声が出たんです。これは大変と思い、子ども4人と家内と逃げました。上の子は幼稚園ぐらいの年令1背中におんぶして、子どもの肌着だけ持って逃げた。
 私の聞いている話しでは、津波は、地震が起こってから、ご飯を炊いて食べて、ゆっくりしてからくると言うのを聞いておった。
 今度のは地震が起きてから30分ぐらいやった。大正町の方へ逃げた。家の中は、津波は1階のタンスの引出し2段目ぐらいまで来ていた。その後事務所へ行き、津波の状況を見に折橋へ出て、見ていたら、海の水が中川を逆流してきたのが見えた。以前は、たんぼで低地だったので、全部冠水した。写真機でも持っていたらと思うが戦時中なのでそれも持てなかった。
 避難の後事務所が空いていたので、しばらくの間そこに泊まった。
 そのときの車庫が今の田岡商店のところあって、自動車が3台入っていたが、立ち上がっていた。その後へlOOトンぐらいの船が入っていた。電気はしばらくなく、街にはすめないので、方々へ疎開していた。ローソクで生活していた。水は、井戸を使用していたので津波のあとは、屎尿や潮が入り使用出来なかった。当分続いたように思う。食事はおにぎりを学校へもらいに行っていた。この町は浸水しただけで、流出した家はなかった。車庫の方は漬れていた。今の富士モータの前の人は逃げ遅れて死んだと聞いている。

地震の思出

 昭和19年12月7日午後1時半、午後の授業が始まると、間もなく、突然、ブラグラグラ学校がゆれた。地震だ。相当強く、そして長かった 私は来客中だったが、ガラス戸を開けて、先に飛び出し、つづいて、お客様に飛び出してもらった。
 私はすぐ運動場の真中へとびでて、叫んだ。当時は戦時下で、避難訓練が時々行れてたから、避難といっても、めづらしいことではなかった。
 然しわたしは、運動場の真中にとびだして、「出よ!」「早く出よ!」と大きな声で呼んだが、なかなか誰も出て来ない。
 校舎はおもちゃのように、ぐらぐら揺れておる。本当に漫画のようであった。しばらくすると、子どもらが、西から東から、どやどやと走ってきた 出かけたら案外早く運動場の中央に集った。ここで自分が自分にかえり胸を撫でた。
 子どもたちは、脚がすくんで、階段が下れないので、困ったと口々に叫んでいた。すぐ点呼をとらせ、先生に児童数の確認をしてもらい、異常なしと、わたってみんな、ようやく安堵した。
 そして次の指揮のあるまで、その場に休憩させて、職員との打合せをした。まづ教頭の西尾竹雄先生に御真影をあづけ、2〜3人の若い先生がついて新道の上の安全地で避難してもらうことにして、他の大勢の子ども達は重ねて訓練をしてあるとおり父兄に手渡しで渡すことにして、確実に父兄に教師の手から渡すことにした。
 そのうち、町の人達が、新道を宮の森の方から地震だ地震だといいながら新道を上っていくのが見えた。子ども達を家の人々に渡して、静かになったので、新道の西尾先生に連絡をとりに行った。そのとき遥かに築港内がよく見えたが、構内は木材が一杯流れて、歩いていけない状況でした。
 冬の日は短く、何度か余震が続いたが、どこからともなく、学校へ避難してくるようになり、皆が寄合い、囲みあって、校内は避難の方々で、一杯になってしまった。その夜何度か余震があり、その都度みんながどきどきして、校内で夜を明かしたのです。それにしても、給食室の大事な鍵を保管している仲先生(脇の浜在住)は風邪で休んでいるいたのに、地震後すぐ、八幡山、北浦、富の森と被害地を越えて持ってきてくれたのには、感謝しました。
 翌朝、職員、小使さんと相談して、避難の方々に給食用のみそ汁を接待するとうにした。小使室の前でお椀で立のみしてもらったが、寒い朝の思わぬ御馳走に、みんなの立飲み姿は今も忘れ得ぬ情景あった。


1 味噌 役場給食係より 入江遼平氏
2 魚 天満浦 高濱新次郎氏
3 みそ汁材料 冷凍庫経営 二郷重雄氏
3 燃料、米 北浦 山城愛之助氏


 以上はみな無量で提供されたものです。


 時は丁度戦時下で今振り返って見ても、みんなすぐ体制がとれる位に思える。夕方になってやっと、家族と連絡がとれて、私は自宅前の北川の川一杯まで潮がきて、ようやく助かったと連絡があったので宮前の橋まで視察して、はるかに北浦橋の様子を見て学校に帰った。翌日北浦や天満地区を見て、その悲惨さに驚き入った次第である。
 学校はその後1週間は避難所に使用されたが、2家族は1月も1教室に住んでおられた。

体験談

 40年近い昔のことなので記憶をと、いわれても、細かいことは、もう忘れました。逃げ遅れた老父を助けようとされた方を、みんなで引きとめられたこと。国防婦人会の会合に出席された東禅寺の奥さんが、津波来襲で帰途につかれが、その途中、大又官林の製材所までこられたとき、津波が寄せて来た。そのとき、男の方が、あわてふためいているのを、勇気づけて、折から引潮で流れてきた丸太にすがりついて、曾根の宮さんの前で救助されたこと。
 賀田は海岸すじで残ったのは大勝舘唯一軒でした。死者23名でした。
 私は小学校の主席訓導の喜田勉先生と話合い、まだ救助本部が設営されていなかったので私宅(医師の奥のよろずやの借家)に小学校のテントを2張を設営したが、それがそのまま救助本部となり、緊急に復旧した、ただ1つの電話が、私の宅に設置され、空襲警報の出される毎日、昼夜をたがわず警防団長に報告しました。こんな大きな被害に遭遇した場合、いかに立派な組織がつくられても、真価を発揮することは、難しいということです。配給米が、現在の中学校付近まで流されているのを、小、青、両校の生徒、児童で回収しました。(主として高等小学校の児童でした)。
 それを講堂で乾燥しましたが、3日目になると、その中に手をいれると暖かくなっており、米こうじができかけていました。その当時の小学校の児童や教員は、御苦労しました。
 波の引き下がる潮と押し寄せる潮の打ち会う地点は、どろ色のナイヤガラの滝そのものに感じられました。曾根─賀田のごとき地形のところは強震の場合、海の色に気をつけるべきだなあと痛感しました。

体験談

 わしら、ぶゆさんと、あかまはだの立木を国市へ運んでいた。その日は、ぬくたかった。おらあ、上着を脱いで、国市で立木をトラックから降ろしていたら、斜めになった。それで、梃をこねよと思って丸太へ乗って棒をつっこんだらガタンと落ちたんさ。これが地震の揺れやったんさ。これは危ないと言うことで、ぶゆさんはそんなり、家へ駆け込むし、おれは、池の端をとおて、家へ行くと家の棟はガサと落ちているし、家には、はいれなんだ。そのとき、庄七、忠七、まるしめのおやじさんが来てくれて、これはあかん、はいれんのうと言うて、津波がくるんじゃないかいと、おんじゃんに聞いたら、津波がくるときは、めしを炊いて、食べて、逃げられるぐらいの時間があると言うので、ゆっくりしておった。
 そうこうしているうちに、まるしめのおやじか、相賀さんのお父さんか忘れたが、津波やで〜とおめいてきた。それで第1回目の波が来たが、あまり大きくなかった。サラサラと来た。
 大和から送ってもらった正月のもち米1とう、と米2升を入れてあったブリキ缶をもとうとしたが、弁当箱を持っているし、検尺のこを持っているし、尺金を持っているので、持てなかった。
 あわてこんでいたので、子どもらに樋の口ヘ逃げろと言ったが、わしは、その後を追って、樋の口ヘ捜しに行ったら、子どもは中学校へ行ったと言うし、どこまで津波が来るかわからんし、津波の後家に帰ったら、家はガシャとなっておった。
 裏は鰻の池で、石垣がぐえて、波で家がやられていた。為やんは千石船で、2百石の板を積んで来て、港に入ってきておったが、波に船が回されて、梶がきかんもんで、そんなり、為やんは、船に乗って湾の外まで出て行った。2回目に入ってきて、松の木につかまって、潮がひいた時、下に降りたら、松の木は皆こかった。
津波で家が流されて、家の建っていた場所は、池の淵になっていた。津波の晩はやいちおじ宅に泊めてもらい、その後半年ばかり高二さん宅に泊めてもらった。
 家内は多いし、家を建てる大工さんがなかった。個人的に大工さんをたのんで、許可を取りにいったら、その大工さんを逆にとられてしもた。

体験談

 当日は矢ノ川(やのこ)の山へ行っておって、八っにお茶を沸かすのに、茶か場へ行ったら、6畳と15尺ぐらいの石がグラグラと揺れているので、これは、地震やがいと言いよる間に、川は泥水になってくるし、岩はゴロゴロ落ちてくるし、他の者は作業場からきやへんし、そのうち、亀田おやじさんが来て、おれは、立木の下にかくれておったと言っていた。
 今の米商のところまで、帰ってきたら、波によせられたゴミが、その下まできていた。自宅へ帰ったら、皆中学狡へ避難しておらんし、こんなことに対しての知識がないので、ようわからなんだ。
 山から自宅まで歩いて30分はかからと、思うが、中学校へ行ったときには、2回目の波がきていた。向井の神社のとこまで為やんらは流されたので、神社の屋根へ船から降りようとしたが、流れが速いのでどうにもならなんだそうです。
 1回目の波は土地の低い所などに水が溜まりながら来るので遅いが、2回目はそれがないので、波が速くなる。中川(なかご)はずーと奥まで波が来ていると思うが、矢ノ川は、岩神の奥まで来てい
るし、樋の口の下まで来ていた。
 岡崎の橋の下に大きな石油タンクが流されてきていた。2百石ぐらいの船が2隻上がっていた。たんぼの藁の中に魚のすすきが、たくさん入っておった。当時は地震や津波のことは皆しらなんだが、地震が揺ったあと、千代太おじは、津波がくるとおめいて、いたようや。矢浜の人は皆中学校や桂山、神社へ逃げた。安政の地震の時 津波が、矢浜で、遡上してきた所に石があって、その石を打止め石と言って、今でもおいてある。

体験談

 当時は、製材所の中で検目をやっておった。あれは、1時20分か30分頃やったと思う。八ッ時前で、女の人はお茶を沸していた
 丸しめ工場でも本台、小割とあってわしらは永谷為やんと2人で責任を持って、女の人は、5〜6人で小割の方におった。地震が揺ってきたので、永谷に地震やがいと言って永谷は前に飛び出すし、わしは、裏に梅の木があってそれにあしがみついた。ほじゃけど、これではあかんと言うことで、前に堀があったので、それに入り込んだ。グルグル回ってくるし、どうしようもなかった。今の田中製材の所に、あいちおじさんとせつおじさんとおって、津波はきやへんかいと聞いたら津波はきやへんやろと言うたが、わしは、そんなり母親を見に自宅へ行った。家には母親はいないので、津波はひっとしたらくるかわからんので、早く逃げなあかんとおもて、工場へ戻った。又せつおじさんに会ったので、もう一度津波がきやへんかいと尋ねたら、井戸を見ろと言うので、井戸を覗いたら、水があった。
 水があることを言うと、それやったら、きずかいないわって言うことだった。それで工場の中に入っていったら、津波じゃ〜とおめ
いてきたので、そんなり、自宅へ帰り、家族を連れて、中学校へ避難した。近くに山城忠兵衛さんの工場があったが、マッチ箱を畳んだようにつぶれて、波に流された。
 私の家は少し高いので、波は床下まできていた。工場の中敷は5尺ばかりあったがそれまできていた。しぱらくしてから、工場を見に行ったら、青年団の木場へ150トンの船がうちゃがっていた。
 小西製材の2階は1階が流されて、2階がそのまま道路に座って
いた。8日になって、新川原町の角に琴平丸が座っておって、外の消防団では、あかん、矢浜の消防団でなけりゃあかんと言うので行った。ロープが短かかったのでそれをとりに、北浦の郡役所へ行った。
 そのとき飛行機が飛んできたが、それがB29であった。飛行機
雲を見て漁師の人たちは、あれは落ちる。あれは落ちるとさけんでいた。

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いざというときに用意しておくもの。 1 緊急用の10円玉  (停電の時はカードは使用できない) 2 懐中電灯 3 ラジオ 4 ミネラルウオーター

アンケート

東南海地震アンケート票

避難した経路

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地図 避難した経路 岩崎桃枝さん
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地図 避難した経路 井土妙子さん
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地図 避難した経路 井谷すなを さん
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地図 避難した経路 宇利貞さん
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地図 避難した経路 大倉 さん
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地図 避難した経路 笠松栄さん
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地図 避難した経路 北村道生さん
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地図 避難した経路 桜木さとゑ さん
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地図 避難した経路 七見義一さん
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地図 避難した経路 塚原晃さん
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地図 避難した経路 南崎 東海士さん
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地図 避難した経路 浜地和さん
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地図 避難した経路 堀口清一さん
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地図 避難した経路 村山察道さん
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地図 避難した経路 湯浅長雄さん
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地図 避難した経路 山口みよゑさん

過去の地震発生域

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地図 過去の地震発生域(尾鷲市地域防災計画資料より)